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- 900年、朱全忠が河北で進撃、昭宗が廃位さる
【唐紀七十八】 起上章涒灘,盡重光作噩,凡二年。
昭宗聖穆景文孝皇帝中之中光化三年(庚申,公元九零零年)
900年春
春,正月,宣州將康儒攻睦州,錢鏐使其從弟銶拒之。
二月,庚申,以西川李度使王建兼中書令。 壬申,加威武節度使王審知同平章事。 壬午,以吏部尚書崔胤同平章事,充清海節度使。 李克用大發軍民治晉陽城塹,押牙劉延業諫曰:「大王聲振華、夷,宜揚兵以嚴四境,不宜近治城塹,損威望而啟寇心。」克用謝之,賞以金帛。光化3年(900) 春正月、宣州の將・康儒は、睦州を攻める。銭鏐は、従弟の銭銶にふせがせた。
2月庚申、西川李度使の王建が、中書令をかねる。
2月壬申、威武節度使の王審知に、同平章事をくわえる。
2月壬午、吏部尚書の崔胤は、同平章事、充清海節度使。?
中華書局版を実家から持ってこなければ。固有名詞に傍線があり、胡三省の注釈があれば、もっとちゃんと分かるのだろう。あとで修正と補足をする。李克用は、軍民をおおいに発して、晋陽の城塹を修治する。押牙の劉延業が、李克用をいさめる。「大王=李克用の声望は、華夷にふるう。兵をあげて四方を守るべきだ。城壁や塹壕をつくるな。威望がおとろえるから」と。李克用は、劉延業に金帛をあたえた。
900年夏、司空の崔胤が、宦官を殺す
夏,四月,加定難軍節度使李承慶同平章事。 硃全忠遣葛從周帥兗、鄆、滑、魏四鎮兵十萬擊劉仁恭,五月,庚寅,拔德州,斬刺史傅公和。己亥,圍劉守文於滄州。仁恭復遣使卑辭厚禮求救於河東,李克用遣周德威將五千騎出黃澤,攻邢、洺以救之。 邕州軍亂,逐節度使李鐬。鐬借兵鄰道討平之。六月,癸亥,加東川節度使王宗滌同平章事。
夏4月、定難軍節度使の李承慶に、同平章事をくわえる。
朱全忠は、葛從周をつかわし、兗、鄆、滑、魏の4鎮の兵10万をひきいさせ、劉仁恭を撃たせる。5月庚寅、葛從周が德州をぬき、徳州刺史の傅公和をきる。5月己亥、劉守文を滄州でかこむ。劉仁恭は、河東に救援をもとめた。李克用は、周德威をつかわして、劉仁恭を救援した。
邕州の軍がみだれた。節度使の李鐬を放逐した。李鐬は、隣道から兵を借りて、平定した。
ぼくは思う。いきなり『資治通鑑』をこの巻からはじめて、何も分かっていない。地方行政も、官僚組織も、わかっていない。ともあれ、黄巣の乱を鎮圧した、李克用と朱全忠が、双璧のライバルなのは分かる。各論は、まだいいや。6月癸亥、東川節度使の王宗滌に、同平章事をくわえる。
司空、門下侍郎、同平章事王摶,明達有度量,時稱良相。上素疾宦官樞密使硃道弼、景務修專橫,崔胤日與上謀去宦官,宦官知之。由是南、北司益相憎嫉,各結籓鎮為援以相傾奪。摶恐其致亂,從容言於上曰:「人君當務明大體,無所偏私。宦官擅權之弊,誰不知之!顧其勢未可猝除,宜俟多難漸平,以道消息。願陛下言勿輕洩以速奸變。」胤聞之,譖摶於上曰:「王摶奸邪,已為道弼輩外應。」上疑之。及胤罷相,意摶排己,愈恨之。及出鎮廣州,遺硃全忠書,具道摶語,令全忠表論之。全忠上言:「胤不可離輔弼之地,摶與敕使相表裡,同危社稷。」表連上不已。上雖察其情,迫於全忠,不得已,胤至湖南復召還。丁卯,以胤為司空、門下侍郎、同平章事,摶罷為工部侍郎。以道弼監荊南軍,務修監青州軍。戊辰,貶摶溪州刺史;己巳,又貶崖州司戶。道弼長流歡州,務修長流愛州。是日,皆賜自盡。摶死於藍田驛,道弼、務修死於霸橋驛。於是胤專制朝政,勢震中外,宦官皆側目,不勝其憤。司空、門下侍郎、同平章事の王摶は、すぐれた宰相である。昭宗は、宦官である樞密使の硃道弼、景務修が専横することをにくむ。崔胤は昭宗とともに、宦官を除去しようとした。宦官に知られた。
王摶は争乱をおそれて、昭宗にいった。「宦官の専横は、みなが知っている。昭宗は早まって動くな」と。崔胤は王摶をそしった。「王摶は宦官と通じているから、昭宗を止めるのだ」と。崔胤は宰相を罷免されたが、王摶のせいだと思って恨んだ。
崔胤は(中央から閉めだされ)広州に出鎮し、朱全忠に王摶をちくった。朱全忠はいう。「崔胤を中央から遠ざけるな。王摶は表裏があるから、社稷を危うくする」と。昭宗は、崔胤をよびもどす。
ぼくは思う。わかりやす過ぎる構図である。6月丁卯、崔胤を司空、門下侍郎、同平章事とした。王摶を罷免して、工部侍郎とした。宦官の朱道弼を監荊南軍とし、景務修を監青州軍とする。6月戊辰、王摶をおとしめて、溪州刺史とする。6月己巳、さらに王摶をおとしめ、崖州司戸とする。朱道弼は長流歡州、景務修は長流愛州。この日、王摶、朱道弼、景務修は、自死させられた。
ここにおいて、崔胤が専政した。宦官は目をそばだて、憤りにたえない。
900年秋、
劉仁恭將幽州兵五萬救滄州,營於乾寧軍。葛從周留張存敬、氏叔琮守滄州寨,自將精兵逆戰於老鴉堤,大破仁恭,斬首三萬級,仁恭走保瓦橋。秋,七月,李克用復遣都指揮使李嗣昭將兵五萬攻邢、洺以救仁恭,敗汴軍於內丘。鎔遣使和解幽、汴,會久雨,硃全忠召從周還。
庚戌,以昭義留後孟遷為節度使。
甲寅,以西川節度使王建兼東川、信武軍兩道都指揮制置等使。(李克用の将)劉仁恭は、幽州の兵5万をひきい、滄州をすくう。(朱全忠の将)葛從周は、劉仁恭をやぶり、3万級をきる。秋7月、李克用は、都指揮使の李嗣昭に、劉仁恭を救わせた。長雨なので、朱全忠は葛従周をよびもどす。
7月庚戌、昭義留後孟遷?は、節度使となる。7月甲寅、西川節度使の王建は、東川と信武軍兩道都指揮制置等使をかねる。
八月,李嗣昭又敗汴軍於沙門河,進攻洺州。乙丑,硃全忠引兵救之,未至,嗣昭拔洺州,擒刺史硃紹宗。全忠命葛從周將兵擊嗣昭。 宣州將康儒食盡,自清溪遁歸。
九月,葛從周自鄴縣渡漳水,營於黃龍鎮。硃全忠自將中軍三萬涉洺水置營。李嗣昭棄城走,從周設伏於青山口,邀擊,大破之。
8月(李克用の将)李嗣昭が洺州をぬいて、洺州刺史の硃紹宗をとらえる。朱全忠は、葛従周に李嗣昭をうたせる。宣州將・康儒は、食糧がつきたので、清溪からにげた。
9月、葛従周は鄴県から、漳水をわたる。黄龍鎮にいく。朱全忠は、みずから3万をひきいる。李嗣昭は城をすててにげ、破られた。
崔胤以太保、門下侍郎、同平章事徐彥若位在己上,惡之。彥若亦自求引去。時籓鎮皆為強臣所據,惟嗣薛王知柔在廣州,乃求代之。乙巳,以彥若同平章事,充清海節度使。初,荊南節度成汭以澧、朗本其巡屬,為雷滿所據,屢求割隸荊南。朝廷不許,汭頗怨望。及彥若過荊南,汭置酒,從容以為言。彥若曰:「令公位尊方面,自比桓、文,雷滿小盜不能取,乃怨朝廷乎?」汭甚慚。
丙午,中書侍郎兼吏部尚書、同平章事崔遠罷守本官,以刑部尚書裴贄為中書侍郎、同平章事。贄,坦之弟子也。升桂管為靜江軍,以經略使劉士政為節度使。崔胤は、徐彦若をにくむ。徐彦若は、太保、門下侍郎、同平章事であり、崔胤より上位だからだ。徐彦若は、中央からでて、広州にいきたい。
はじめ、荊南節度の成汭はいう。「澧と朗は、もとは荊南の管轄する範囲であった。いま雷満が割拠しているから、荊南から外れている。荊南に統合してほしい」と。朝廷が許さないので、成汭は朝廷をにくむ。徐彦若が荊南を通りかかると、成汭は徐彦若をもてなした。徐彦若はいう。「成汭は荊南において、桓公や文公なみに尊位にある。どうして雷満にこだわって、朝廷を怨むのか」と。成汭は恥じた。
8月丙午、中書侍郎兼吏部尚書、同平章事の崔遠が、罷免されて本官を守す。刑部尚書の裴贄を、中書侍郎、同平章事とする。裴贄は、裴坦之の弟の子である。升桂管が靜江軍となり、経略をもって劉士政を節度使にした。
900年冬、
硃全忠以王鎔與李克用交通,移兵伐之,下臨城,逾滹沱,攻鎮州南門,焚其關城。全忠自至元氏,鎔懼,遣判官周式詣全忠請和。全忠盛怒,謂式曰:「僕屢以書諭王公,竟不之聽!今兵已至此。期於無捨!」式曰:「鎮州密邇太原,困於侵暴,四鄰各自保,莫相救恤,王公與之連和,乃為百姓故也。今明公果能為人除害,則天下誰不聽命,豈惟鎮州!明公為唐桓、文,當崇禮義以成霸業。若但窮威武,則鎮州雖小,城堅食足,明公雖有十萬之眾,未易攻也!況王氏秉旄五代,時推忠孝,人人欲為之死,庸可冀乎!」全忠笑攬式袂,延之帳中,曰:「與公戲耳!」
乃遣客將開封劉捍入見鎔,鎔以其子節度副使昭祚及大將子弟為質,以文繒二十萬犒軍。全忠引還,以女妻昭祚。成德判官張澤言於王鎔曰:「河東,勍敵也,今雖有硃氏之援,譬如火發於家,安能俟遠水乎!彼幽、滄易定。猶附河東,不若說硃公乘勝兼服之,使河北諸鎮合而為一,則可以制河東矣。」鎔復遣周式往說全忠。全忠喜,遣張存敬會魏博兵擊劉仁恭,甲寅,拔瀛州;冬,十月,丙辰,拔景州,執刺史劉仁霸;辛酉,拔莫州。朱全忠は、王鎔が李克用と交通したので、王鎔を攻めた。王鎔は、判官の周式をおくって、朱全忠に請和した。朱全忠は怒って周式にいう。「書面で王鎔に(李克用と交通するなと)諭してきた。王鎔が従わないから兵をおこした。もうおそい」と。周式は朱全忠に反論した。「王鎔をゆるせば、朱全忠は支持をあつめ、覇業をなせるんだけど」と。朱全忠は笑って「(王鎔を許さないと言ったのは)あなたに戯れただけだ」といった。
朱全忠は、客將である開封の劉捍を、王鎔に会わせた。王鎔の子で節度副使である王昭祚は、朱全忠の人質になった。朱全忠は王鎔のもとから兵をひく。朱全忠の娘を、王昭祚にめあわせた。
成德判官の張澤は、王鎔にいう。「河東は勍敵である。いま朱全忠から支援を受けられるが、家が燃えているのに、遠くの水を待っているに等しい。朱全忠は、幽と滄をやさしく平定できるだろう。王鎔は朱全忠に、河東を併合せよと説くのがよい。朱全忠に河北の諸鎮を統一させれば、河東を制することができる」と。ふたたび王鎔は周式をおくり、朱全忠に河東の制圧をすすめた。朱全忠はよろこび、張存敬を魏博?とあわせ、劉仁恭を撃った。9月甲寅、朱全忠軍は瀛州をぬく。
冬10月丙辰、朱全忠軍は景州をぬく。景州刺史の劉仁霸をとらえる。10月辛酉、莫州をぬく。
900年冬10月、
靜江節度使劉士政聞馬殷悉平嶺北,大懼,遣副使陳可璠屯全義嶺以備之。殷遣使修好於士政,可璠拒之。殷遣其將秦彥暉、李瓊等將兵七千擊士政。湖南軍至全義,士政又遣指揮使王建武屯秦城。可璠掠縣民耕牛以犒軍,縣民怨之,請為湖南鄉異,曰:「此西南有小徑,距秦城才五十里,僅通單騎。」彥暉遣李瓊將騎六十、步兵三百襲秦城,中宵,逾垣而入,擒王建武,比明,復還,絲斥之以練,造可璠壁下示之,可璠猶未之信。斬其首,投壁中,桂人震恐。瓊因勒兵擊之,擒可璠,降其將士二千,皆殺之。引兵趣桂州,自秦城以南二十餘壁皆望風奔潰,遂圍桂州。數日,士政出降,桂、宜、巖、柳、象五州皆降於湖南。馬殷以李瓊為桂州刺史,未幾,表為靜江節度使。
靜江節度使の劉士政は、馬殷が嶺北をすべて平らげたと聞き、おおいに懼れた。副使の陳可璠をつかわし、全義嶺で備えさせた。
ぼくは思う。馬殷って誰だよと。この巻から読み始めたから、きちんと分かっていない。馬殷は劉士政に修好の使者をだすが、陳可璠にこばまれた。
馬殷は、将の秦彦暉、李瓊らをつかわし、劉士政をうつ。劉士政は桂州を囲まれ、降伏した。桂、宜、巖、柳、象の5州は、みな湖南に降った。馬殷は、李瓊を桂州刺史とした。すぐに李瓊を靜江節度使に表した。
ぼくは思う。劉士政の地位が、馬殷の将・李瓊に交代する話でした。
張存敬攻劉仁恭,下二十城,將自瓦橋趣幽州,道濘不能進,乃引兵西攻易定,辛巳,拔祁州,殺刺史楊約。
癸未,以保義留後硃友謙為節度使。
張存敬攻定州,義武節度使王郜遣後院都知兵馬使王處直將兵數萬拒之。處直請依城為柵,俟其師老而擊之。孔目官梁汶曰:「昔幽、鎮兵三十萬攻我,於時我軍不滿五千,一戰敗之。今存敬兵不過三萬,我軍十倍於昔,奈何示怯,欲依城自固乎!」郜乃遣處直逆戰於沙河,易定兵大敗,死者過半,餘眾擁處直奔還。甲申,王郜棄城奔晉陽,軍中推處直為留後。存敬進圍定州,丙申,硃全忠至城下,處直登城呼曰:「本道事朝廷盡忠,於公未嘗相犯,何為見攻?」全忠曰:「何故附河東?」對曰:「吾兄與晉王同時立勳,封疆密邇,且婚姻也,修好往來,乃常理耳,請從茲改圖。」全忠許之。乃歸罪於梁汶而族之,以謝全忠,以繒帛十萬犒師。全忠乃還,仍為處直表求節鉞。處直,處存之母弟也。劉仁恭遣其子守光將兵救定州,軍於易水之上。全忠遣張存敬襲之,殺六萬餘人。由是河北諸鎮皆服於全忠。(朱全忠の将)張存敬は、劉仁恭を攻めた。瓦橋から幽州にいく。10月辛巳、祁州をぬき、祁州刺史の楊約をころす。
ぼくは思う。王鎔が朱全忠に、戦略めいたものを進言した。『資治通鑑』はわざわざ収録した。朱全忠による河北の平定が、この時代のメインのテーマなんだろう。10月癸未、保義留後の硃友謙が節度使となる。
先是王郜告急於河東,李克用遣李嗣昭將步騎三萬下太行,攻懷州,拔之,進攻河陽。河陽留後侯言不意其至,狼狽失據,嗣昭壞其羊馬城。會佑國軍將閻寶引兵救之,力戰於壕外,河東兵乃退。寶,鄆州人也。
これより先、河東の李克用は、朱全忠の進撃に対抗して、李嗣昭に懐州をぬかせ、河陽にすすむ。守将がまもったので、河東の(李克用の)兵はひいた。
初,崔胤與上密謀盡誅宦官,及宋道弼、景務修死,宦官益懼。上自華州還,忽忽不樂,多縱酒,喜怒不常,左右尤自危。於是左軍中尉劉季述、右宮中尉王仲先、樞密使王彥范、薛齊偓等陰相與謀曰:「主上輕佻多變詐,難奉事;專聽任南司,吾輩終罹其禍。不若奉太子立之,尊主上為太上皇,引岐、華兵為援,控制諸籓,誰能害我哉!」はじめ崔胤と昭宗は、宦官を全殺しようとした。昭宗が落ちつかない様子なので、周囲の者はひそかにいう。「昭宗は軽率に、宦官を全殺する策謀をする。禍いを招きそうだ。太子に皇帝を代えよう」と。
900年11月、宦官が昭宗を廃位する
十一月,上獵苑中,因置酒,夜,醉歸,手殺黃門、侍女數人。明旦,日加辰巳,宮門不開。季述詣中書白崔胤曰:「宮中必有變,我內臣也,得以便宜從事,請入視之。」乃帥禁兵千人破門而入,訪問,具得其狀。出,謂胤曰:「主上所為如是,豈可理天下!廢昏立明,自古有之,為社稷大計,非不順也。」胤畏死,不敢違。庚寅,季述召百官,陳兵殿庭,作胤等連名狀,請太子監國,以示之,使署名。胤及百官不得已皆署之。上在乞巧樓,季述、仲先伏將士千人於門外,與宣武進奏官程巖等十餘人入請對。季述、仲先甫登殿,將士大呼,突入宣化門,至思政殿前,逢宮人,輒殺之。11月、昭宗は苑中で狩猟をする。置酒して、夜に酔って帰る。手ずから、黄門と侍女を数人ころす。
翌朝、宮門が開かない。劉季述は、中書にゆき、崔胤にいう。「宮中には必ず異変(昭宗による宦官の全殺)がある。私は内臣である。宮中を視察させてくれ」と。劉季述は、禁兵をひきいて宮門を突入した。出てきて、崔胤に報告した。「昭宗が宮門を閉ざした。天下にむけて、道理がたたない。暗愚を廃して、聡明を皇帝に立てるのは、社稷の大計である。従わないわけにはいかない」と。崔胤は死をおそれ、あえて廃立に反対しない。11月庚寅、李季述は兵をひきいて、廃立を決行した。
唐末の西暦900年、宦官が皇帝(昭宗)を廃立した。宰相(崔胤)は廃立に反対し、外部から兵力(朱全忠)を借りて宦官を全殺した。朱全忠は強制的に遷都して、王朝が滅びた。各地で群雄が起兵した。朱全忠は身内に殺され、群雄から皇帝が濫立した。ぼくは思う。秦漢と隋唐の終わり方は「書かれ方」が似てる。これは「起きたこと」が似ていることと、区別しないと。
上見兵入,驚墮床下,起,將走,季述、仲先掖之令坐。宮人走白皇后,後趨至,拜請曰:「軍容勿驚宅家,有事取軍容商量。」季述等乃出百官狀白上,曰:「陛下厭倦大寶,中外群情,願太子監國,請陛下保頤東宮。」上曰:「昨與卿曹樂飲,不覺太過,何至於是!」對曰:「此非臣等所為,皆南司眾情,不可遏也。願陛下且之東宮,待事小定,復迎歸大內耳。」後曰:「宅家趣依軍容語!」即取傳國寶以授季述,宦官扶上與後同輦,嬪御侍從者才十餘人,適少陽院。
季述以銀□畫地數上曰:「某時某事,汝不從我言,其罪一也。」如此數十不止。乃手鎖其門,熔鐵錮之,遣左軍副使李師虔將兵圍之,上動靜輒白季述,穴牆以通飲食,凡兵器針刀皆不得入,上求錢帛俱不得,求紙筆亦不與。時大寒,嬪御公主無衣衾,號哭聞於外。昭宗は、兵を見ておどろき、ベッドの下におちた。劉季述は昭宗に「太子に国を監させろ。陛下は東宮にゆけ」という。昭宗「昨日はきみらと楽しく酒を飲んだ。どうしてだ」と。劉季述「廃位は私が行うことではない。すべて南司衆の考えである」と。皇后は伝国宝を昭宗からうばい、劉季述にさずけた。
季述等矯詔令太子監國,迎太子入宮。辛卯,矯詔令太子嗣位,更名縝。以上為太上皇,皇后為太上皇后。甲午,太子即皇帝位,更名少陽院曰問安宮。季述加百官爵秩,與將士皆受優賞,欲以求媚於眾。殺睦王倚,凡宮人、左右、方士、僧、道為上所寵信者,皆榜殺之。每夜殺人,晝以十車載屍出,一車或止一兩屍,欲以立威。將殺司天監胡秀林,秀林曰:「軍容幽囚君父,更欲多殺無辜乎!」季述憚其言正而止。季述等欲殺崔胤,而憚硃全忠,但解其度支監督鐵轉運使而已。崔胤密緻書全忠,使興兵圖返正。劉季述は、11月辛卯に、詔令をためて、太子に皇帝を嗣げという。昭宗は太上皇となる。11月甲午、太子が皇帝に即位した。同調者を賞し、敵対者を殺した。夜ごとに、車10台の屍体が運ばれた。劉季述は、崔胤を殺したい。
だが劉季述は、朱全忠にはばかる。朱全忠から、度支監督・鐵轉運使を解任しただけ。崔胤は朱全忠に密書をおくり、昭宗の復位のために兵をおこせという。
左僕射致仕張濬在長水,見張全義於洛陽,勸之匡復,又與諸籓鎮書勸之。
進士無棣李愚客遊華州,上韓建書,略曰:「僕每讀書,見君臣父子之際,有傷教害義者,恨不得肆之市朝。明公居近關重鎮,君父幽辱月餘,坐視凶逆而忘勤王之舉,僕所未諭也。僕竊計中朝輔弼,雖有志而無權;外鎮諸侯,雖有權而無志。惟明公忠義,社稷是依。往年車輅播遷,號泣奉迎,累歲供饋,再復廟、朝,義感人心,至今歌詠。此時事勢,尤異前日,明公地處要衝,位兼將相。自宮闈變故,已涉旬時,若不號令率先以圖反正,遲疑未決,一朝山東侯伯唱義連衡,彭行而西,明公求欲自安,其可得乎!此必然之勢也。不如馳檄四方,諭以逆順,軍聲一振,則元兇破膽,旬浹之間,二豎之首傳於天下,計無便於此者。」建雖不能用,厚待之,愚堅辭而去。左僕射致仕の張濬は長水にいて、洛陽で張全義にあい、昭宗の復位を勧めた。藩鎮らとともに、昭宗の復位を勧めた。
進士無棣の李愚客は、華州にいて、韓建に書をたてまつる。「天下の藩鎮によびかけ、昭宗を復位させよう。廃立をした者を斬ろう」と。韓建は李愚客の意見をもちいない。李愚客は辞去した。
900年12月、朱全忠が廃立への反対を決める
硃全忠在定州行營,聞亂,丁未,南還。十二月,戊辰,至大梁。季述遣養子希度詣全忠,許以唐社稷輸之;又遣供奉官李奉本以太上皇誥示全忠。全忠猶豫未決,會僚佐議之,或曰:「朝廷大事,非籓鎮所宜預知。」天平節度副使李振獨曰:「王室有難,此霸者之資也。今公為唐桓、文,安危所屬。季述一宦豎耳,乃敢囚廢天子,公不能討,何以復令諸侯!且幼主位定,則天下之權盡歸宦官矣,是以太阿之柄授人也。」全忠大悟,即囚希度、奉本,遣振如京師詗事。即還,又遣親吏蔣玄暉如京師,與崔胤謀之;又召程巖赴大梁。朱全忠は、定州の行営にいる。廃立を聞いて、南下した。12月戊辰、朱全忠は大梁にくる。
ぼくは補う。梁は朱全忠の本拠地。国号を梁にする。劉季述は、養子の劉希度を朱全忠につかわす。朱全忠は、廃立を支持するか決められない。ある者がいう。「王室に困難があれば、覇者がたすける。いま朱全忠は、大唐における文公と桓公になれる。劉季述は、たかが1宦官である。専横する宦官を全殺すべきだ」と。
朱全忠は、劉希度をとらえ、京師にゆくことにした。崔胤をさそった。
清海節度使薛王知柔薨。是歲,加楊行密兼侍中。睦州刺史陳晟卒,弟詢自稱刺史。
太子即位累旬,籓鎮箋表多不至。王仲先性苛察,素知左、右軍多積弊,及為中尉,鉤校軍中錢谷,得隱沒為奸者,痛捶之,急征所負,將士頗不安。有鹽州雄毅軍使孫德昭為左神策指揮使,自劉季述等廢立,常憤惋不平。崔胤聞之,遣判官石戩與之遊。德昭每酒酣必泣,戩知其誠,乃密以胤意說之曰:「自上皇幽閉,中外大臣至於行間士卒,孰不切齒!今反者獨季述、仲先耳,公誠能誅此二人,迎上皇復位,則富貴窮一時,忠義流千古;苟狐疑不決,則功落他人之手矣!」德昭謝曰:「德昭小校,國家大事,安敢專之!苟相公有命,不敢愛死!」戩以白胤。胤割衣帶,手書以授之。德昭復結右軍清遠都將董彥弼、周承誨,謀以除夜伏兵安福門外以俟之。この歳、楊行密に兼侍中をくわえた。睦州刺史の陳晟が卒して、弟の陳詢が刺史を自称した。
太子が即位して、数十日たつが、藩鎮からの箋表は、あまり届かない。鹽州雄毅軍使の孫德昭は、左神策の指揮使である。劉季述が廃立してから、いつも不満である。崔胤はこれを聞き、孫徳昭を復位の計画にさそった。孫徳昭は、崔胤がさそってくれたことに感動した。孫徳昭は、除夜に安福門の外で兵を伏せ、廃立派の王仲先を待った。130731
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- 901年、朱全忠が長安に入り、華州に遷都する
昭宗聖穆景文孝皇帝中之中天復元年(辛酉,公元九零一年)
901年正月、
春,正月,乙酉朔,王仲先入朝,至安福門,孫德昭擒斬之,馳詣少陽院,叩門呼曰:「逆賊已誅,請陛下出勞將士。」何后不信,曰:「果爾,以其首來!」德昭獻其首,上乃與後毀扉而出。崔胤迎上御長樂門樓,帥百官稱賀。周承誨擒劉季述、王彥范繼至,方詰責,已為亂梃所斃。薛齊偓赴井死,出而斬之。滅四人之族,並誅其黨二十餘人。宦官奉太子匿於左軍,獻傳國寶。上曰:「裕幼弱,為凶豎所立,非其罪也。」命還東宮,黜為德王,復名裕。
丙戌,以孫德昭同平章事,充靜海節度使,賜姓名李繼昭。丁亥,崔胤進位司徒,胤固辭。上寵待胤益厚。春正月ついたち、王仲先は入朝するとき、安福門で孫徳昭に斬られた。孫徳昭は、王仲先を首級を献じて、昭宗を幽閉地から出した。崔胤は百官をひきいて祝賀した。劉季述をとらえた。昭宗は「太子は幼弱である。宦官に擁立されたが、太子に罪はない」という。
正月丙戌、孫徳昭は同平章事となり、充靜海節度使。孫徳昭は、李継昭という姓名をもらった。正月丁亥、崔胤を司徒に進めたが、崔胤は固辞した。
己丑,硃全忠聞劉季述等誅,折程巖足,械送京師,並劉希度、李奉本等皆斬於都市,由是益重李振。
庚寅,以周承誨為嶺南西道節度使,賜姓名李繼誨,董彥弼為寧遠節度,賜姓李,並同平章事;與李繼昭俱留宿衛,十日乃出還家,賞賜傾府庫,時人謂之「三使相」。癸巳,進硃全忠爵東平王。朱全忠は(劉季述の養子)劉希度を京師におくり、都市で斬った。復位に功績のあった者が、姓名と官職をもらい「三使相」とよばれた。正月癸巳、朱全忠は「東平王」の爵位をもらう。
丙午,敕:「近年宰臣延英奏事,樞密使侍側,爭論紛然。既出,又稱上旨未允,復有改易,橈權亂政。自今並依大中舊制,俟宰臣奏事畢,方得升殿承受公事。」賜兩軍副使李師虔、徐彥孫自盡,皆劉季述之黨也。
劉季述、王仲先既死,崔胤、陸扆上言:「禍亂之興,皆由中官典兵。乞令胤主左軍,扆主右軍,則諸侯不敢侵陵,王室尊矣。」上猶豫兩日未決。李茂貞聞之,怒曰:「崔胤奪軍權未得,已欲翦滅諸侯!」上召李繼昭、李繼誨、李彥弼謀之,皆曰:「臣等累世在軍中,未聞書生為軍主;若屬南司,必多所變更,不若歸之北司為便。」上乃謂胤、扆曰:「將士意不欲屬文臣,卿曹勿堅求。」於是以樞密使韓全誨、鳳翔監軍使張彥弘為左、右中尉。全誨亦前鳳翔監軍也。又征前樞密使致仕嚴遵美為兩軍中尉、觀軍容處置使。遵美曰:「一軍猶不可為,況兩軍乎!」固辭不起。以袁易簡、周敬容為樞密使。劉季述の党与であった、李師虔と徐彦孫が、自死をたまわる。
鳳翔、彰義節度使李茂貞來朝;加茂貞守尚書令,兼侍中,進爵岐王。
李茂貞辭還鎮。崔胤以宦官典兵,終為肘腋之患,欲以外兵制之,諷茂貞留兵三千於京師,充宿衛,以茂貞假子繼筠將之。左諫議大夫萬年韓偓以為不可,胤曰:「兵自不肯去,非留之也。」偓曰:「始者何為召之邪?」胤無以應。偓曰:「留此兵則家國兩危,不留則家國兩安。」胤不從。鳳翔、彰義節度使の李茂貞が來朝した。守尚書令、兼侍中をくわえ、「岐王」に爵位をすすめる。
李茂貞は鎮所に還ろうとした。崔胤は、宦官が典兵するので、わずらわしく思っている。外兵で宦官をおさえたい。崔胤は李茂貞の兵を、京師に留めさせた。左諫議大夫萬年の韓偓は「李茂貞の兵が(宦官に対抗するためであっても)国家を危うくする」と反対した。崔胤は従わず。
900年正月、朱全忠が河東の制圧へ
硃全忠既服河北,欲先取河中以制河東。己亥,召諸將謂曰:「王珂駑材,恃太原自驕汰。吾今斷長蛇之腰,諸君為我以一繩縛之。」庚子,遣張存敬將兵三萬自汜水度河出捨山路以襲之,全忠以中軍繼其後。戊申,存敬至絳州。晉、絳不意其至,皆無守備,庚戌,絳州刺史陶建釗降之;壬子,晉州刺史張漢瑜降之。全忠遣其將侯言守晉州,何絪守絳州,屯兵二萬以扼河東援兵之路。朱全忠は、すでに河北を服させた。さきに河中をとり、河東を制したい。朱全忠は「太原にいる王珂をつかまえよう」という。朱全忠は、張存敬を絳州にゆかせる。晋州と絳州の刺史は、不意をつかれたので、朱全忠に従った。河東への道を提供した。
朝廷恐全忠西入關,急賜詔和解之;全忠不從。珂遣間使告急於李克用,道路相繼,克用以汴人先據晉、絳,兵不得進。珂妻遺克用書曰:「兒旦暮為俘虜,大人何忍不救!」克用報曰:「今賊兵塞晉、絳,眾寡不敵,進則與汝兩亡,不若與王郎舉族歸朝。」珂又遺李茂貞書,言:「天子新返正,詔籓鎮無得相攻,同獎王室。今諸公不顧詔命,首興兵相加,其心可見。河中若亡,則同華、邠、岐俱不自保。天子神器拱手授人,其勢必然矣。公宜亟帥關中諸鎮兵,固守潼關,赴救河中。僕自知不武,願於公西偏授一小鎮,此地請公有之。關中安危,國祚修短,系公此舉,願審思之!」茂貞素無遠圖,不報。朝廷は、朱全忠が西して、入関するのを恐れた。和解を詔するが、朱全忠は従わず。王珂は、李克用に救援を求めた。だが李克用は、晋州と絳州を朱全忠に取られたので、進めない。李克用は「朱全忠はつよい。王珂は中央に帰ったほうがよい」と返書した。
王珂は李茂貞にも文書を送った。「昭宗が復位したのに、藩鎮がさからう。朱全忠をうて」と。李茂貞には遠図がないから、王珂に返書しない。
901年2月、
二月,甲寅朔,河東將李嗣昭攻澤州,拔之。
乙卯,張存敬引兵發晉州;己未,至河中,遂圍之。王珂勢窮,將奔京師,而人心離貳,會浮梁壞,流澌塞河,舟行甚難,珂挈其族數百人欲夜登舟,親諭守城者,皆不應。牙將劉訓曰:「今人情擾擾,若夜出涉河,必爭舟紛亂,一夫作難,事不可知。不若且送款存敬,徐圖向背。」珂從之。壬戌,珂植白幡於城隅,遣使以牌印請降於存敬。存敬請開城,珂曰:「吾於硃公有家世事分,請公退捨,俟硃公至,吾自以城授之。」存敬從之,且使走白全忠。乙丑,全忠至洛陽,聞之喜,馳往赴之。戊辰,至虞鄉,先哭於重榮之墓,盡哀;河中人皆悅。珂欲面縛牽羊出迎,全忠遽使止之曰:「太師舅之恩何可忘!若郎君如此,使僕異日何以見舅於九泉!」乃以常禮出迎,握手歔欷,聯轡入城。
全忠表張存敬為護國軍留後,王珂舉族遷於大梁。其後全忠遣珂入朝,遣人殺之於華州。全忠聞張夫人疾亟,遽自河中東歸。李克用遣使以重幣請修好於全忠;全忠雖遣使報之,而忿其書辭蹇傲,決欲攻之。2月ついたち、河東の將・李嗣昭が、澤州をぬく。
2月(朱全忠の将)張存敬が河中をかこむ。河中の守将・王珂は、逃げるにも混乱が予想されるので、張存敬に降伏して開場した。
2月、朱全忠は洛陽にいる。王珂の降伏をよろこび、王珂に会いにゆく。王珂は面縛し、羊にひかれて、朱全忠を出迎えたい。朱全忠はそれを止めた。「太師舅の恩を、なぜ忘れようか。もし王珂に面縛の恥をかかせたら、死後に舅に顔むけできない」と。朱全忠は王珂を礼遇した。
朱全忠は表して、張存敬を護國軍留後とした。王珂は族をあげて、大梁に移住した。のちに朱全忠は、王珂を入朝させ(道中の)華州で王珂を殺した。
李克用は、たびたび朱全忠に修好を求めた。朱全忠は返書しつつも、李克用の文面がえらそうなので、李克用を攻めようと決めた。
以翰林學士、戶部侍郎王溥為中書侍郎、同平章事。以吏部侍郎裴樞為戶部侍郎、同平章事。溥,正雅之從孫也,常在崔胤幕府,故胤引之。 贈謚故睦王倚曰恭哀太子。加幽州節度使劉仁恭、魏博節度使羅紹威並兼侍中。幽州節度使の劉仁恭、魏博節度使の羅紹威に、どちらも兼侍中をくわえる。
901年3月、
三月,癸未朔,硃全忠至大梁。癸卯,遣氏叔琮等將兵五萬攻李克用,入自太行,魏博都將張文恭入自磁州新口,葛從周以兗、鄆兵會成德兵入自土門,洺州刺史張歸厚入自馬嶺,義武節度使王處直入自飛狐,權知晉州侯言以慈、隰、晉、絳兵入自陰地。叔琮入天井關,進軍昂車。辛亥,沁州刺史蔡訓以城降。河東都將蓋璋詣侯言降,即令權知沁州。壬子,叔琮拔澤州,刺史李存璋棄城走。叔琮進攻潞州,昭義節度使孟遷降之。河東屯將李審建、王周將步軍一萬、騎二千詣督琮降。叔琮進趣晉陽。夏,四月,乙卯,叔琮出石會關,營於洞渦驛。張歸厚引兵至遼州,丁巳,遼州刺史張鄂降。別將白奉國會成德兵自井陘入,己未,拔承天軍,與叔琮烽火相應3月、朱全忠は大梁にくる。氏叔琮に5万をひきいさせ、李克用を攻める。各州をくだし、氏叔琮は晋陽にすすむ。夏4月、氏叔琮は石会関をでる。
ぼくは思う。いろんな州を降してるが、土地勘がないので、はぶく。
901年夏、
甲戌,上謁太廟。丁丑,赦天下,改元。雪王涯等十七家。
初,楊復恭為中尉,借度支賣曲之利一年以贍兩軍,自是不肯復歸。至是,崔胤草赦,欲抑宦官,聽酤者自造曲,但月輸榷酤錢。兩軍先所造曲,趣令減價賣之,過七月無得復賣。
東川節度使王宗滌以疾求代,王建表馬步使王宗裕為留後。改元した。東川節度使の王宗滌は、病気なので後任をもとめた。王建が表して、馬步使の王宗裕を後任とした。
氏叔琮等引兵抵晉陽城下,數挑戰,城中大恐。李克用登城備御,不遑飲食。時大雨積旬,城多頹壞,隨加完補。河東將李嗣昭、李嗣源鑿暗門,夜出攻汴壘,屢有殺獲。李存進敗汴軍於洞渦。時汴軍既眾,芻糧不給,久雨,士卒瘧利,全忠乃召兵還。五月,叔琮等自石會關歸,諸道軍亦退。河東將周德威、李嗣昭以精騎五千躡之,殺獲甚眾。先是,汾州刺史李瑭舉州附於汴軍,克用遣其將李存審攻之,三日而拔,執瑭,斬之。氏叔琮過上黨,孟遷挈族隨之南徙。硃全忠遣丁會代守潞州。
(朱全忠の将)氏叔琮は、晋陽の城下を攻めるが、河東の将にはばまれ、5月に長雨のために撤退した。
こまかい戦況は、まあいいや。硃全忠奏乞除河中節度使,而諷吏民請己為帥。癸卯,以全忠為宣武、宣義,天平、護國四鎮節度使。己酉,加鎮海、鎮東節度使錢鏐守侍中。
崔胤之罷兩軍賣麴也,並近鎮亦禁之。李茂貞惜其利,表乞入朝論奏,韓全誨請許之。茂貞至京師,全誨深與相結。崔胤始懼,陰厚硃全忠益甚,與茂貞為仇敵矣。
以佑國節度使張全義兼中書令。朱全忠は、河中節度使への叙任をのぞむ。5月癸卯、朱全忠は、宣武、宣義,天平、護國の4鎮の節度使となる。5月己酉、鎮海と鎮東の節度使である錢鏐は、守侍中となる。
崔胤は、朱全忠と李茂貞が対立するように仕向けた。
佑國節度使の張全義が、兼中書令となる。
六月,癸亥,硃全忠如河中。
上之返正也,中書舍人令狐渙、給事中韓偓皆預其謀,故擢為翰林學士,數召對,訪以機密。渙,綯之子也。時上悉以軍國事委崔胤,每奏事,上與之從容,或至然燭。宦官畏之側目,事無大小,皆咨胤而後行。胤志欲盡除之,韓偓屢諫曰:「事禁太甚。此輩亦不可全無,恐其黨迫切,更生他變。」胤不從。丁卯,上獨召偓,問曰:「敕使中為惡者如林,何以處之?」對曰:「東內之難,敕使誰非同惡,處之當在正旦,今已失其時矣。」上曰:「當是時,卿何不為崔胤言之?」對曰:「臣見陛下詔書雲,『自劉季述等四家之外,其餘一無所問。』夫人主所重,莫大於信,既下此詔,則守之宜堅。若復戮一人,則人人懼死矣。然後來所去者已為不少,此其所以忷忷不安也。陛下不若擇其尤無良者數人,明示其罪,置之於法,然後撫諭其餘曰:『吾恐爾曹謂吾心有所貯,自今可無疑矣。』乃擇其忠厚者使為之長。其徒有善則獎之,有罪則懲之,鹹自安矣。今此曹在公私者以萬數,豈可盡誅邪!夫帝王之道,當以重厚鎮之,公正御之,至於瑣細機巧,此機生則彼機應矣,終不能成大功,所謂理絲而棼之者也。況今朝廷之權,散在四方。苟能先收此權,則事無不可為者矣。?鄙仙鉅暈□滑曰:「此事終以屬卿。」6月、朱全忠は河中にゆく。
昭宗は復位してから、軍事と国事をすべて崔胤にゆだねる。宦官はおそれた。崔胤は宦官の全殺をやりたい。韓偓が「全殺は危険だ」というが、崔胤は従わない。
6月丁卯、昭宗は韓偓だけを召して質問した。「悪者がおおいが、どうしたら良いか。なぜ韓偓は、崔胤に反対するか」と。韓偓が答申した。
李克用遣其將李嗣昭、周德威將兵出陰地關,攻隰州,刺史唐禮降之。進攻慈州,刺史張瑰降之。
閏月,以河陽節度使丁會為昭義節度使,孟遷為河陽節度使,從硃全忠之請也。
道士杜從法以妖妄妄誘昌、普、合三州民作亂,王建遣行營兵馬使王宗黯將兵三萬會東川、武信兵討之。宗黯,即吉諫也。李克用は、李嗣昭と周德威を陰地關から出して、隰州を攻めた。隰州刺史の唐禮がくだる。慈州に進み、慈州刺史の張瑰をくだす
ぼくは思う。朱全忠と李克用が、陣取ゲームをしている。閏月、河陽節度使の丁會が、昭義節度使となる。孟遷が河陽節度使となる。朱全忠の要請に従った任命である。
道士の杜從法が、昌、普、合の3州の民をまどわした。王建は、行營兵馬使の王宗黯に平定させた。
901年秋、
崔胤請上盡誅宦官,但以宮人掌內諸司事。宦官屬耳,頗聞之,韓全誨等涕泣求哀於上,上乃令胤:「有事封疏以聞,勿口奏。」宦官求美女知書者數人,內之宮中,陰令詗察其事,盡得胤密謀,上不之覺也。全誨等大懼,每宴聚,流涕相訣別,日夜謀所以去胤之術。胤時領三司使,全誨等教禁軍對上喧噪,訴胤減損冬衣。上不得已,解胤鹽鐵使。時硃全忠、李茂貞各有挾天子令諸侯之意,全忠欲上幸東都,茂貞欲上幸鳳翔。胤知謀洩,事急,遺硃全忠書,稱被密詔,令全忠以兵迎車駕,且言:「昨者返正,皆令公良圖,而鳳翔先入朝抄取其功。今不速來,必成罪人,豈惟功為他人所有,且見征討矣!」全忠得書,秋,七月,甲寅,遽歸大梁發兵。崔胤は宦官の全殺を、昭宗に請上した。宦官はこれを聞いて、昭宗になきつく。昭宗は崔胤に「宦官に聞かれちゃダメじゃん」という。宦官は美女を献上して、昭宗の関心をそらした。崔胤の官職が減らされた。
ときに朱全忠と李茂貞は、天子を手にいれ、諸侯に号令したい。朱全忠は昭宗を東都によびたい。李茂貞は昭宗を鳳翔によびたい。崔胤は、宦官を全殺する計画がモレたので、朱全忠を中央によぶ。秋7月、朱全忠は大梁から兵を発した。
ぼくは思う。董卓さんをよんだ何進と同じである。
西川龍台鎮使王宗侃等討杜從法,平之。
八月,甲申,上問韓偓曰:「聞陸扆不樂吾返正,正旦易服,乘小馬出啟夏門,有諸?」對曰:「返正之謀,獨臣與崔胤輩數人知之,扆不知也。一旦忽聞宮中有變,人情能不驚駭!易服逃避,何妨有之!陛下責其為宰相無死難之志則可也,至於不樂返正,恐出於讒人之口,願陛下察之。」上乃止。韓全誨等懼誅,謀以兵制上,乃與李繼昭、李繼誨、李彥弼、李繼筠深相結,繼昭獨不肯從。它日,上問韓偓:「外間何所聞?」對曰:「惟聞敕使憂懼,與功臣及繼筠交結,將致不安,亦未知其果然不耳。」上曰:「是不虛矣。比日繼誨、彥弼輩語漸倔強,令人難耐。令狐渙欲令朕召崔胤及全誨等於內殿,置酒和解之,何如?」對曰:「如此則彼凶悖益甚。」上曰:「為之奈何?」對曰:「獨有顯罪數人,速加竄逐,餘者許其自新,庶幾可息。若一無所問,彼必知陛下心有所貯,益不自安,事終未了耳。」上曰:「善!」既而宦官自恃黨援已成,稍不遵敕旨;上或出之使監軍,或黜守諸陵,皆不行,上無如之何。8月、宦官は昭宗の指示を聞かなくなった。
或告楊行密雲,錢鏐為盜所殺。行密遣步軍都指揮使李神福等將兵取杭州,兩浙將顧全武等列八寨以拒之。ある者が楊行密に「銭鏐が盗賊に殺された」という。楊行密は、步軍都指揮使の李神福らに、杭州を取らせた。兩浙將顧の全武らは、8寨をならべて防いだ。
九月,癸丑,上急召韓偓,謂曰:「聞全忠欲來除君側之惡,大是盡忠,然須令與茂貞共其功。若兩帥交爭,則事危矣。卿為我語崔胤,速飛書兩鎮,使相與合謀,則善矣。?比尚絎上又謂偓曰:「繼誨、彥弼輩驕橫益甚,累日前與繼筠同入,輒於殿東令小兒歌以侑酒,令人驚駭。」對曰:「臣必知其然,茲事失之於初。當正旦立功之時,但應以官爵、田宅、金帛酬之,不應聽其恣出入禁中。此輩素無知識,數求入對,或妄論朝政,或僭易薦人,稍有不從,則生怨望。況惟知嗜利,為敕使以厚利雇之,令其如此耳。崔胤本留衛兵,欲以制敕使也,今敕使、衛兵相與為一,將若之何!汴兵若來,必與岐兵斗於闕下,臣竊寒心。」上但愀然憂沮而已。9月、昭宗は(崔胤を諫めてきた)韓偓をめした。「朱全忠は、君側の悪を除いてくれるという。李茂貞と協力させろ。もし朱全忠と李茂貞が争ったら危険である」と。昭宗は心配になった。
901年10月、朱全忠が長安に入る
冬,十月,戊戌,硃全忠大舉兵發大梁。
李神福與顧全武相拒久之,神福?窈擠蘗使出入臥內。神福謂諸將曰:「杭兵尚強,我師且當夜還。」杭俘走告全武,神福命勿追,暮遣羸兵先行,神福為殿,使行營都尉呂師造伏兵青山下。全武素輕神福,出兵追之。神福、師造夾擊,大破之,斬首五千級,生擒全武。錢鏐聞之,驚泣曰:「喪我良將!」神福進攻臨安,兩浙將秦昶帥眾三千降之。冬10月、朱全忠が大梁を出発した。
李神福と顧全武は、長らく抗争する。李神福が顧全武を生け捕った。銭鏐はこれを聞き、驚き泣いて「良将をうしなった」という。李神福は臨安を攻め、 兩浙將の秦昶をくだした。
韓全誨聞硃全忠將至,丁酉,令李繼誨、李彥弼等勒兵劫上,請幸鳳翔,宮禁諸門皆增兵防守,人及文書出入搜閱甚嚴。上遣人密賜崔胤御札,言皆淒愴,末云:「我為宗社大計,勢須西行,卿等但東行也。惆悵!惆悵!」戊戌,上遣趙國夫人出語韓偓:「朝來彥弼輩無禮極甚,欲召卿對,其勢未可。」且言:「上與皇后但涕泣相同。」自是,學士不復得對矣。癸卯,全誨等令上入閣召百官,迫寢正月丙午敕書,悉如鹹通以來近例。是日,開延英,全誨等即侍側,同議政事。丁未,神策都指揮使李繼筠遣部兵掠內庫寶貨、帷帳、法物,韓全誨遣人密送諸王、宮人先之鳳翔。戊申,硃全忠至河中,表請車駕幸東都,京城大駭,士民亡竄山谷。是日,百官皆不入朝,闕前寂無人。韓全誨は、朱全忠が中央にくるときき、「昭宗を鳳翔にうつせ。兵を増やして、朱全忠を防げ」という。ひそかに昭宗は、崔胤に「私は西にゆく。おまえらは東にゆけ。(かってに朱全忠をよび、混乱を招きやがって)嘆かわしい」と文書をおくる。
朱全忠は河中にきた。朱全忠は「昭宗を東都にうつせ」という。京城は大駭した。百官は入朝せず、闕前には人がいない。
韓全誨等以李繼昭不與之同,遏絕不令見上。時崔胤居第在開化坊,繼昭帥所部六十餘人及關東諸道兵在京師者共守衛之。百官及士民避亂者,皆往依之。庚戌,上遣供奉官張紹孫召百官,崔胤等皆表辭不至。壬子,韓全誨等陳兵殿前,言於上曰:「全忠以大兵逼京師,欲劫天子幸洛陽,求傳禪。臣等請奉陛下幸鳳翔,收兵拒之。」上不許,杖劍登乞巧樓。全誨等逼上下樓,上行才及壽春殿,李彥弼已於御院縱火。是日冬至,上獨坐思政殿,翹一足,一足蹋欄干,庭無群臣,旁無侍者。頃之,不得已,與皇后、妃嬪、諸王百餘人皆上馬,慟哭聲不絕,出門,回顧禁中,火已赫然。是夕,宿鄠縣。
硃全忠遣司馬鄴入華州,謂韓建曰:「公不早知過自歸,又煩此軍少留城下矣。」是日,全忠自故市引兵南渡渭,韓建遣節度副使李巨川請降,獻銀三萬兩助軍,全忠乃西南趣赤水。10月壬子、韓全誨は殿前に兵をならべて、昭宗にいう。「朱全忠は大兵で京師にせまり、昭宗を洛陽につれさり、禅譲を求めるつもりだ。昭宗には(李克用の勢力圏である)鳳翔にきてほしい」と。昭宗は許さず。この日は冬至である。昭宗は思政殿にいるが、朝廷には郡臣がない。そばに侍者もない。このころ、やむをえず、皇后や妃嬪、諸王ら1百余人は、乗馬して出門した。禁中を振りかえると、宮殿が燃えていた。鄠縣で宿した。
ぼくは思う。大唐に天命がないことと、朱全忠にも天命がないことが、よく現れている。取り残された昭宗と、その昭宗に乱暴をする朱全忠は、どちらも天命がないのだ。朱全忠は、司馬鄴を華州に入れた。韓建を降伏させ、朱全忠は赤水にゆく。
癸丑,李茂貞迎車駕於田家磑,上下馬慰接之。甲寅,車駕至盩厔;乙卯,留一日。
硃全忠至零口西,聞車駕西幸,與僚佐議,復引兵還赤水。左僕射至仕張濬說全忠曰:「韓建,茂貞之黨,不先取之,必為後患。?比□椅漚擫斜砣疤熳有曳鏘瓔乃引兵逼其城。建單騎迎謁,全忠責之,對曰:「建目不知書,凡表章書檄,皆李巨川所為。」全忠以巨川常為建畫策,斬之軍門。謂建曰:「公許人,可即往衣錦。」丁巳,以建為忠武節度使,理陳州,以兵援送之;以前商州刺史李存權知華州,徙忠武節度使趙珝為匡國節度使。車駕之在華州也,商賈輻湊,韓建重征之,二年,得錢九百萬緡。至是,全忠盡取之。李茂貞は、昭宗の車駕を田家磑でむかえた。朱全忠は、昭宗が西したと聞いて、赤水にもどった。
ぼくは思う。劉弁と劉協を得られなかったバージョンの董卓である。左僕射至仕の張濬が、朱全忠にいう。「韓建と李茂貞は、先に片づけないと、あとで患いになる」と。韓建は単騎で、朱全忠を責めにきた。責めの言葉を考えたのは、李巨川である。朱全忠は、李巨川を斬った。
朱全忠は、韓建を忠武節度使として、陳州を理めさせた。さきの商州刺史の李存權は、華州を統治したことがある。忠武節度使の趙珝を匡國節度使にした。昭宗の車駕は、華州にある。、
是時京師無天子,行在無宰相,崔胤使太子太師盧渥等二百餘人列狀請硃全忠西迎車駕,又使王溥至赤水見全忠計事。全忠復書曰:「進則懼脅君之謗,退則懷負國之慚,然不敢不勉。」戊午,全忠發赤水。
辛酉,以兵部侍郎盧光啟權句當中書事。車駕留岐山三日,壬戌,至鳳翔。
硃全忠至長安,宰相帥百官班迎於長樂坡。明日行,復班辭於臨皋驛。全忠賞李繼昭之功,初令權知匡國留後,復留為兩街制置使,賜與甚厚,繼昭盡獻其兵八千人。全忠使判官李擇、裴鑄入奏事,稱:「奉密詔及得崔胤書,令臣將兵入朝。」韓全誨等矯詔答以:「朕避災至此,非宦官所劫,密詔皆崔胤詐為之,卿宜斂兵歸保土宇。」茂貞遣其將符道昭屯武功以拒全忠,癸亥,全忠將康懷貞擊破之。このとき京師には、天子がいない。天子のそばに宰相がいない。崔胤は、太子太師の盧渥ら2百余人から、朱全忠に「西にした昭宗を迎えてくれ」と請わせた。朱全忠は「進めば昭宗を驚かさぬよう撤退したが、ふたたび行こう」といい、赤水をたつ。
朱全忠は長安にいたる。朱全忠は「崔胤が私を入朝させてくれた」と上奏した。李茂貞の将・符道昭は、武功にいて朱全忠を拒んだが、撃破された。
丁卯,以盧光啟為右諫議大夫,參知機務。
戊辰,硃全忠至鳳翔,軍於城東。李茂貞登城謂曰:「天子避災,非臣下無禮,讒人誤公至此。」全忠報曰:「韓全誨劫遷天子,今來問罪,迎扈還宮。岐王苟不預謀,何煩陳諭!」上屢詔全忠還鎮,全忠乃拜表奉辭。辛未,移兵北趣邠州。
甲戌,制:守司空兼門下侍郎、同平章事崔胤責授工部尚書,戶部侍郎、同平章事裴樞罷守本官。朱全忠は鳳翔にゆき、城東にゆく。李茂貞は城に登っていう。李茂貞「昭宗が災難を避けたのは、臣下の無礼のためではない。讒言する者が、あなたを誤らせた(朱全忠の誤った情報をふきこんだ)のだ」と。朱全忠「韓全誨は、昭宗を劫遷したから、罪に問うた。岐王苟?は、この謀略に関与しないから、弁明する必要もない」と。
昭宗はしばしば、朱全忠に「鎮所に還れ」といった。朱全忠は邠州(を攻めるため)に兵をうつした。
乙亥,硃全忠攻邠州。丁丑,靜難節度使李繼徽請降,複姓名楊崇本。全忠質其妻於河中,令崇本仍鎮邠州。全忠之西入關也,韓全誨、李茂貞以詔命徵兵河東,茂貞仍以書求援於李克用。克用遣李嗣昭將五千騎自沁州趣晉州,與汴兵戰於平陽北,破之。乙亥,全忠發邠州。戊寅,次三原。朱全忠は邠州を攻めた。靜難節度使の李繼徽が、降伏を請うた。李繼徽は、もとは楊崇本という。朱全忠は妻を人質にして、そのまま楊崇本に邠州を鎮させた。 朱全忠が西して入関したとき、韓全誨と李茂貞は、河東の兵を詔で召した。李茂貞は、李克用に支援をもとめた。李克用は、李嗣昭を晋州にゆかせ、平陽の北で(朱全忠の将)汴兵をやぶった。
901年12月、朱全忠が華州に遷都する
十二月,癸未,崔胤至三原見全忠,趣之迎駕。乙丑,全忠遣硃友寧攻盩厔,不下。戊戌,全忠自往督戰,盩厔降,屠之。全忠令崔胤帥百官及京城居民悉遷於華州。詔以裴贄充大明宮留守。
清海節度使徐彥若薨,遺表薦行軍司馬劉隱權留後。
12月、崔胤は三原にきて、朱全忠と会った。朱全忠は、硃友寧に盩厔を攻めさせ、ほふった。朱全忠は、崔胤に百官と京城の居民をひきいさせ、すべて華州に移住させた。裴贄を大明宮の留守とした。
ついに遷都した!董卓さんをやった。地理的には、西から東で、ぎゃくだけど。朱全忠は、遷都する前後にも、李克用と競い合っている。清海節度使の徐彥若が薨じた。遺表にて、行軍司馬の劉隱權を後任に勧めた。
李神福知錢鏐定不死,而臨安城堅,久攻不拔,欲歸,恐為鏐所邀,乃遣人守衛鏐祖考丘壟,禁樵采,又使顧全武通家信。鏐遣使謝之。神福於要路多張旗幟為虛寨,鏐以為淮南兵大至,遂請和。神福受其犒賂而還。
李神福は、錢鏐が死んでおらず、臨安の守備が堅いので、ひきあげたい。だが銭鏐に追撃されるのを恐れ、銭鏐に請和した。李神福は、ぶじに帰れた。
硃全忠之入關也,戎昭節度使馮行襲遣副使魯崇矩聽命於全忠。韓全誨遣中使二十餘人分道征江、淮兵屯金州,以脅全忠,行襲盡殺中使,收其詔敕送全忠。又遣中使徵兵於王建,硃全忠亦遣使乞師於建。建外修好於全忠,罪狀李茂貞,而陰勸茂貞堅守,許之救援。以武信節度使王宗佶、前東川節度使王宗滌等為扈駕指揮使,將兵五萬,聲言迎軍駕,其實襲茂貞山南諸州。硃全忠が入關してから、戎昭節度使の馮行襲は、副使の魯崇矩をつかわし、朱全忠の命令をきいた。韓全誨は、中使20余人をつかわす。江淮の兵を金州に屯させ、朱全忠をおびやかした。馮行襲は、中使を全殺して、朱全忠に送った。(韓全誨からの)中使は、王建から兵を徵した。朱全忠もまた、王建から兵を乞うた。王建は、外では朱全忠に修好して、李茂貞の罪状をいう。だが王建は、ひそかに李茂貞に堅守をすすめ、李茂貞を救援した。
武信節度使の王宗佶と、さきの東川節度使の王宗滌らは、扈駕指揮使となり、5万をひきい、李茂貞の勢力圏である山南の諸州を襲った。
ぼくは思う。朱全忠とその対抗勢力が、単純につなひきをしている。約束どおり、朱全忠が大唐を滅ぼすのだから、整理が行き届いた(行き届き過ぎた)記述である。司馬光の主張が、たっぷり詰まった『資治通鑑』は。
江西節度使鍾傳將兵圍撫州刺史危全諷,天火燒其城,士民歡驚。諸將請急攻之,傳曰:「乘人之危,非仁也。」乃祝曰:「全諷之罪,無為害民。」火尋止。全諷聞之,謝罪聽命,以女妻傳子匡時。傳少時嘗獵,醉遇虎,與鬥,虎搏其肩,而傳亦持虎腰不置。旁人共殺虎,乃得免。既貴,悔之,常戒諸子曰:「士處世貴智謀,勿效吾暴虎也。」
武貞節度使雷滿薨,子彥威自稱留後。江西節度使の鍾傳は、撫州刺史の危全諷をかこむ。雷が撫州城をやく。鍾傳は「落雷の危難に乗じるのは、仁ではない」といって、攻撃しない。鍾傳は「全諷の罪は、民を害したことにない」という。危全諷は、鍾傳の命令にしたがい、娘を鍾傳の子にまわせた。鍾傳は若いときに狩猟をして、虎と格闘して負傷した。昇進してから、つねに諸子を戒めた。「士の処世は、智謀を重んじるべきだ。虎と格闘する乱暴さではいけない」と。
武貞節度使の雷滿が薨じて、子の雷彦威が後任を自称した。130731
ぼくは思う。はじめてやった唐代の『資治通鑑』。むずかしいけど、定型は守られていたりする。ゆえに理解しやすいというか、誤解しやすいというか。閉じる