両晋- > 『資治通鑑』唐紀を抄訳 902-903年正月

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902年、鳳翔に籠もる昭宗を、朱全忠が囲む

【唐紀七十九】 起玄黓閹茂,盡昭陽大淵獻正月,凡一年有奇。
昭宗聖穆景文孝皇帝中之下天復二年(壬戌,公元九零二年)

902年春、李克用が朱全忠を押しもどす

春,正月,癸丑,硃全忠復屯三原,又移軍武功。河東將李嗣昭、周德威攻慈、隰,以分全忠兵勢。 丁卯,以給事中韋貽范為工部侍郎、同平章事。
丙子,以給事中嚴龜充岐、汴和協使,賜硃全忠姓李,與李茂貞為兄弟,全忠不從。時茂貞不出戰。全忠聞有河東兵,二月,戊寅朔,旋軍河中。

春正月、朱全忠は三原にもどり、武功にうつる。河東の将(李克用の将)李嗣昭と周德威は、慈と隰を攻めて、朱全忠の兵勢をわける。
硃全忠に李姓をたまう。李茂貞と兄弟にする。だが朱全忠は李姓をうけず。李茂貞は、出て戦わず。朱全忠は、河東に(李茂貞の)兵がいると聞いて、2月に河中に軍を旋回させた。

李嗣昭等攻慈、隰,下之,進逼晉、絳。己丑,全忠遣兄子友寧將兵會晉州刺史氏叔琮擊之。李嗣昭襲取絳州,汴將康懷英復取之。嗣昭等屯蒲縣。乙未,汴軍十萬營於蒲南,叔琮夜帥眾斷其歸路而攻其壘,破之,殺獲萬餘人。己亥,全忠自河中赴之,乙巳,至晉州。
盜發簡陵。西川兵至利州,昭武節度使李繼忠棄鎮奔鳳翔。王建以劍州刺史王宗偉為利州制置使。

(李克用の将)李嗣昭らは、慈と隰をくだす。晉と絳にせまる。朱全忠は、兄子の朱友寧に兵をつけ、晉州刺史の氏叔琮とあわせ、李嗣昭をうつ。李嗣昭は絳州をとり、その上から汴將の康懷英は絳州をとり返す。汴軍の10萬は蒲南にいる。氏叔琮は夜襲して、汴軍の1万余人を殺す。朱全忠は河中にゆき、晋州にゆく。
簡陵を盗掘した。
西川の兵が、利州にいたる。昭武節度使の李繼忠は、鎮所をすてて鳳翔にゆく。王建は、劍州刺史の王宗偉を、利州制置使とした。

三月,庚戌,上與李茂貞及宰相、學士、中尉、樞密宴,酒酣,茂貞及韓全誨亡去。上問韋貽范:「朕何以巡幸至此?」對曰:「臣在外不知。」固問之,不對。上曰:「卿何得於朕前妄語雲不知?」又曰:「卿既以非道取宰相,當於公事如法,若有不可,必准故事。」怒目視之,微言曰:「此賊兼須杖之二十。」顧謂韓偓曰:「此輩亦稱宰相!」貽范屢以大杯獻上,上不即持,貽范舉杯直及上頤。
戊午,氏叔琮、硃友寧進攻李嗣昭、周德威營。時汴軍橫陳十里,而河東軍不過數萬,深入敵境,眾心忷懼。德威出戰而敗,密令嗣昭以後軍先去,德威尋引騎兵亦退。叔琮、友寧長驅乘之,河東軍驚潰,禽克用子廷鸞,兵仗輜重委棄略盡。硃全忠令叔琮、友寧乘勝遂攻河東。

3月、昭宗と李茂貞、宰相、學士、中尉らは、酒宴をした。李茂貞と韓全誨は出席しない。昭宗は「なぜ私をここに巡幸させたか」と問う。韋貽范は「私は決定に関わっておらず、知らない」という。みな知らないという。昭宗「韋貽范は、私の前でとぼけるな。宰相のくせに皇帝に対して とぼけるなら、法に則って処罰する。杖20回だ」と。昭宗は韓偓をかえりみて「こいつも宰相を名乗っている」という。韋貽范は大杯を献上して、昭宗をつぶした。

ぼくは思う。大唐の滅亡を「なるほど」と納得させたい。唐末を記した史料は、滅びる大唐の昭宗も、滅ぼす後梁の朱全忠も(五代十国を招来するほど)天命がないとアピールする。昭宗が正気を失い、朱全忠に乱暴され、まったく救いがない。これは、魏晋革命を踏まえ、曹操を必ずしも単純な悪者にしない、両晋南朝が作る史料とは異なる。朱全忠は董卓に近いか。
ぎゃくに。朱全忠とほぼ同じ事績のある董卓は、皇帝を称さなかった。廃立をした点で、董卓は朱全忠より急進的だ(朱全忠は廃立には反対した側だった)。それどころか董卓は、蔡邕に掣肘されて、カサの色だかにも気をつかった。漢代には、董卓すらも抑止する、ナニカがあった。朱全忠との比較で、かえって浮き上がる。

(朱全忠の将)氏叔琮と硃友寧は、(李克用の将)李嗣昭と周德威の軍営に進攻した。朱全忠の軍が勝ち、李克用の子・李廷鸞をとらえた。勝ちに乗じて、河東にすすむ。

李克用聞嗣昭等敗,遣李存信以親兵逆之,至清源,遇汴軍,存信走還晉陽。汴軍取慈、隰、汾三州。辛酉,汴軍圍晉陽,營於晉祠,攻其西門。周德威、李嗣昭收餘眾依西山得還。城中兵未集,叔琮攻城甚急,每行圍,褒衣博帶,以示閒暇。克用晝夜乘城,不得寢食。召諸將議走保雲州,李嗣昭、李嗣源、周德威曰:「兒輩在此,必能固守。王勿為此謀搖人心!」李存信曰:「關東、河北皆受制於硃溫,我兵寡地蹙,守此孤城,彼築壘穿塹環之,以積久制我,我飛走無路,坐待困斃耳。今事勢已急,不若且入北虜,徐圖進取。」嗣昭力爭之,克用不能決。
劉夫人言於克用曰:「存信,北川牧羊兒耳,安知遠慮!王常笑王行瑜輕去其城,死於人手,今日反效之邪!且王昔居達靼,幾不自免。賴朝廷多事,乃得復歸。今一足出城,則禍變不測,塞外可得至邪!」克用乃止。居數日,潰兵復集,軍府浸安。克用弟克寧為忻州刺史,聞汴寇至,中塗復還晉陽,曰:「此城吾死所也,去將何之!」眾心乃定。

李克用は、朱全忠に敗れたので、対処が分からない。李嗣昭は防衛したいが、いっぽうで李存信は「関東と河北は、朱全忠が制圧した。わが軍は弱い」という。
劉夫人が李克用にいう。「(弱気の)李存信は、牧羊児である。戦略のことは分からない。李克用は朱全忠と決戦しなさい」と。李克用は、弟の李克寧を忻州刺史として、晋陽にもどる。「この城は、我らの死地だ」と。軍の士気は定まる。

壬戌,硃全忠還河中,遣硃友寧將兵西擊李茂貞,軍於興平、武功之間。李嗣昭、李嗣源數將敢死士夜入氏叔琮營,斬首捕虜,汴軍驚擾,備御不暇。會大疫,丁卯,叔琮引兵還。嗣昭與周德威將兵追之,及石會關,叔琮留數馬及旌旗於高岡之巔。嗣昭等以為有伏兵,乃引去,復取慈、隰、汾三州。自是克用不敢與全忠爭者累年。

朱全忠は河中にもどる。(朱全忠の将)朱友寧は、西して李茂貞をうつが、(李克用の将)李嗣昭と李嗣源に夜襲された。疫病なので(朱全忠の将)氏叔琮は兵をひく。李嗣昭が、慈、隰、汾の3州を、李克用のがわに奪回する。これより李克用は、あえて朱全忠とぶつからなくなった。

李克用が沙陀を使い、楊行密が呉王に

克用以使引咨幕府曰:「不貯軍食,何以聚眾?不置兵甲,何以克敵?不修城池,何以扞御?利害之間,請垂議度。」掌書記李襲吉獻議,略曰:「國富不在倉儲,兵強不由眾寡,人歸有德,神固害盈。聚斂寧有盜臣,苛政有如猛虎,所以鹿台將散,周武以興;齊庫既焚,晏嬰入賀。」又曰:「伏以變法不若養人,改作何如舊貫!韓建蓄財無數,首事硃溫;王珂變法如麻,一朝降賊;中山城非不峻,蔡上兵非不多;前事甚明,可以為戒。且霸國無貧主,強將無弱兵。伏願大王崇德愛人,去奢省役,設險固境,訓兵務農。定亂者選武臣,制理者選文吏,錢谷有句,刑法有律。誅賞由我,則下無威福之弊;近密多正,則人無譖謗之憂。順天時而絕欺誣,敬鬼神而禁淫祀;則不求富而國富,不求安而自安。外破元兇,內康疲俗,名高五霸,道冠八元。至於率閭閻,定間架,增曲薛,檢田疇,開國建邦,恐未為切。」

李克用は「軍食と兵甲をあつめ、修城をしないと、朱全忠と戦えない。政策を議論しろ」という。掌書記の李襲吉はいう。「物や兵や城よりも、徳が優先だ。韓建は蓄財したが、朱全忠に負けた。王珂は法律をいじって、一朝にして賊になった。德を崇び、人を愛するほうが優先だ」と。

克用親軍皆沙陀雜虜,喜侵暴良民,河東甚苦之。其子存勖以為言,克用曰:「此輩從吾攻戰數十年,比者帑藏空虛,諸軍賣馬以自給。今四方諸侯皆重賞以募士,我若急之,則彼皆散去矣,吾安與同保此乎!俟天下稍平,當更清治之耳。」存勖幼警敏,有勇略,克用為硃全忠所困,封疆日蹙,憂形於色。存勖進言曰:「物不極則不返,惡不極則不亡。硃氏恃其詐力,窮凶極暴,吞滅四鄰,人怨神怒。今又攻逼乘輿,窺覦神器,此其極也,殆將斃矣!吾家代襲忠貞,勢窮力屈,無所愧心。大人當遵養時晦以待其衰,奈何輕為沮喪,使群下失望乎!」克用悅,即命酒奏樂而罷。劉夫人無子,克用寵姬曹氏生存勖,劉夫人待曹氏加厚。克用以是益賢之,諸姬有子,輒命夫人母之。夫人教養,悉如所生。

李克用は、沙陀(トルコ系)の雑虜をつかう。

ぼくは思う。隋唐のあと、中原で五代の君主になるのは、漢族でなく、トルコ系の沙陀族。今日「トルコ共和国」という国民国家があるが、えらく遠い。あの地域を「小アジア」というように、ヘロドトス的な地中海世界から見た「東のほう全部」もトルコというらしい。「トルコ」は、意味をとりにくい地名、ナンバーワンだな。

沙陀は、良民を侵暴するから、河東が苦しむ。李克用は「沙陀がいないと、朱全忠に対抗できない」と、沙陀を甘やかす。李克用の子・李存勗は「朱全忠は乱暴なだけだ。自滅するはずだ。朱全忠に対抗するために、沙陀の侵暴を見逃すなと。李克用は、劉夫人とのあいだに、子がない。寵姫の曹氏が李存勗を生んだ。劉氏は曹氏を厚遇し、実子のように李存勗を養育した。

上以左金吾將軍李儼為江、淮宣諭使,書御衣賜楊行密,拜行密東面行營都統、中書令、吳王,以討硃全忠。以硃瑾為平盧節度使,馮弘鐸為武寧節度使,硃延壽為奉國節度使。加武安節度使馬殷同平章事。淮南、宣歙、湖南等道立功將士,聽用都統牒承製遷補,然後表聞。儼,張濬之子也,賜姓李。

昭宗は、左金吾將軍の李儼を、江淮宣諭使とした。楊行密を、東面行營都統、中書令、吳王として、朱全忠を討たせる。

ぼくは補う。これが十国の1つ「呉国」です。

硃瑾を平盧節度使として、馮弘鐸を武寧節度使として、硃延壽を奉國節度使とする。武安節度使の馬殷に、同平章事をくわえる。淮南、宣歙、湖南らの道教者は、功績をたて、都統牒承製遷補をつかうことを聴される。張儼は張濬の子で、李姓をたまわる。

902年夏、銭鏐が越王となる

夏,四月,丁酉,崔胤自華州詣河中,泣訴於硃全忠,恐李茂貞劫天子幸蜀,宜以時迎奉,勢不可緩。全忠與之宴,胤親執板,為全忠歌以侑酒。
辛丑,回鶻遣使入貢,請發兵赴難,上命翰林學士承旨韓偓答書許之。乙巳,偓上言:「戎狄獸心,不可倚信。彼見國家人物華靡,而城邑荒殘,甲兵雕弊,必有輕中國之心,啟其貪婪。且自會昌以來,回鶻為中國所破,恐其乘危復怨。所賜可汗書,宜諭以小小寇竊,不須赴難,虛愧其意,實沮其謀。」從之。

夏4月、崔胤は(昭宗のいる)華州から(朱全忠のいる)河中にき、朱全忠に泣訴した。「李茂貞は、昭宗を蜀地に連れていきそうだ」と。
4月、辛丑,回鶻が入貢した。上命翰林の學士は、韓偓の意旨をうけて答書した。あとで韓偓は上言した。「戎狄は信用できない。大唐が強ければなびき、大唐が弱ければ軽んじる。いま大唐が破綻したので、チャンスだと思ったのでしょう」と。

兵部侍郎參知機務盧光啟罷為太子太保。楊行密遣顧全武歸杭州以易秦裴,錢鏐大喜,遣裴還。
汴將康懷貞擊鳳翔將李繼昭於莫谷,大破之。繼昭,蔡州人也,本姓苻,名道昭。

楊行密は、顧全武をつかわし、杭州を帰順させ、杭州刺史を秦裴に易えた。錢鏐は大喜して、秦裴を還らせた。

五月,庚戌,溫州刺史硃褒卒,兄敖自稱刺史。
鳳翔人聞硃全忠且來,皆懼,癸丑,城外居民皆遷入城。己未,全忠將精兵五萬發河中,至東渭橋,遇霖雨,留旬日。
庚午,工部侍郎、同平章事韋貽范遭母喪,宦官薦翰林學士姚洎為相。洎謀於韓偓,偓曰:「若圖永久之利,則莫若未就為善;倘出上意,固無不可。且汴軍旦夕合圍,孤城難保,家族在東,可不慮乎!」洎乃移疾,上亦自不許。
鎮海、鎮東節度使彭城王錢鏐進爵越王。

5月、温州刺史の朱褒が卒して、兄の朱敖が刺史を自称した。
鳳翔の人は、朱全忠が来るときいて懼れた。城外の居住者も、鳳翔に入城した。朱全忠は河中を出発した。
鎮海、鎮東節度使する彭城王の錢鏐が、越王の爵位にすすむ。

902年6月、朱全忠が鳳翔を包囲する

六月,丙子,以中書舍人蘇檢為工部侍郎、同平章事。時韋貽范在草土,薦檢及姚洎於李茂貞。上既不用洎,茂貞及宦官恐上自用人,協力薦檢,遂用之。 丁丑,硃全忠軍於虢縣。
武寧節度使馮弘鐸介居宣、楊之間,常不自安,然自恃樓船之強,不事兩道。寧國節度使田頵欲圖之,募弘鐸工人造戰艦,工人曰:「馮公遠求堅木,故其船堪久用,今此無之。」頵曰:「第為之,吾止須一用耳。」弘鐸將馮暉、顏建說弘鐸先擊頵,弘鐸從之,帥眾南上,聲言攻洪州,實襲宣州也。楊行密使人止之,不從。辛巳,頵帥舟師逆擊於葛山,大破之。
甲申,李茂貞大出兵,自將之,與硃全忠戰於虢縣之北,大敗而還,死者萬餘人。丙戌,全忠遣其將孔勍出散關攻鳳州,拔之。丁亥,全忠進軍鳳翔城下。全忠朝服向城而泣,曰:「臣但欲迎車駕還宮耳,不與岐王角勝也。」遂為五寨環之。

6月丁丑、朱全忠は虢縣にくる。
武寧節度使の馮弘鐸は、宣と楊の間にいて、不安である。だが樓船の強さをたのみ、朱全忠になびかない。寧國節度使の田頵は、水軍をつかい、馮弘鐸を葛山で大破した。楊行密は馮弘鐸をとめていたが、馮弘鐸は進軍した。
6月甲申、李茂貞はみずから出陣し、虢県の北で朱全忠と戦うが、敗れた。6月丁亥、朱全忠は鳳翔の城下にきた。朱全忠は、朝服をきて、城に向かって泣いた。「私はただ昭宗を宮殿に戻したいだけ。岐王と争うつもりはない」と。ついに鳳翔を5重に包囲した。

馮弘鐸收餘眾沿江將入海,楊行密恐其為後患,遣使犒軍,且說之曰:「公徒眾猶盛,胡為自棄滄海之外!吾府雖小,足以容公之眾,使將吏各得其所,如何?」弘鐸左右皆慟哭聽命。弘鐸至東塘,行密自乘輕舟迎之,從者十餘人,常服,不持兵,升弘鐸舟,慰諭之,舉軍感悅。署弘鐸淮南節度副使,館給甚厚。初,弘鐸遣牙將丹徒尚公乃詣行密求潤州,行密不許。公乃大言曰:「公不見聽,但恐不敵樓船耳。」至是,行密謂公乃曰:「頗記求潤州時否?」公乃謝曰:「將吏各為其主,但恨無成耳。」行密笑曰:「爾事楊叟如馮公,無憂矣!」行密以李神福為升州刺史。

馮弘鐸は、田頵の余衆をあつめ、長江から海へ。楊行密は、馮弘鐸が後患になるのを恐れた。楊行密は馮弘鐸にいう。「馮弘鐸は強盛なのに、海に去ってしまうか。わが府は小さいが、馮弘鐸の兵を収容できる。譲ってほしい」という。左右の者が慟哭したが、馮弘鐸は、兵を楊行密にゆずった。楊行密は、馮弘鐸を淮南節度副使として、厚遇した。
はじめ馮弘鐸は、牙將丹徒の尚公をつかわし、潤州をくれと楊行密に求めた。楊行密は許さず。尚公は大言した。「潤州が潤州をくれないのは、楼船に敵わないことを恐れるからだな」と。ここにいたり(尚公の上官の馮弘鐸が、楊行密に帰順して)尚公は「あのときは、上官の馮弘鐸の意図に従って、発言したのだ」と謝った。楊行密は尚公を許した。

ぼくは思う。呉国の建国者だから、度量があるのだ。

楊行密は、李神福を升州刺史とした。

楊行密發兵討硃全忠,以副使李承嗣權知淮南軍府事。軍吏欲以巨艦運糧,都知兵馬使徐溫曰:「運路久不行,葭葦堙塞,請用小艇,庶幾易通。」軍至宿州,會久雨,重載不能進,士有饑色,而小艇先至,行密由是奇溫,始與議軍事。行密攻宿州,久不克,竟以糧運不繼引還。

楊行密は、兵を発して朱全忠を討ちたい。副使の李承嗣は、淮南軍府事を權知した。軍吏は、巨艦で運糧を運びたい。都知兵馬使の徐温はいう。「運河が長く使われていない。小舟にしろ」と。長雨だが、小舟で運べた。楊行密は、宿州を攻めたが勝てない。兵糧がつづかず、引還した。

902年7月、

秋,七月,孔勍取成、隴二州,士卒無斗者。至秦州,州人城守,乃自故關歸。
韋貽范之為相也,多受人賂,許以官。既而以母喪罷去,日為債家所噪。親吏劉延美,所負尤多,故汲汲於起復,日遣人詣兩中尉、樞密及李茂貞求之。甲戌,命韓偓草貽范起複製,偓曰:「吾腕可斷,此制不可草!」即上疏論貽范遭憂未數月,遽令起復,實駭物聽,傷國體。學士院二中使怒曰:「學士勿以死為戲!」偓以疏授之,解衣而寢,二使不得已奏之。上即命罷草,仍賜敕褒賞之。

秋7月、孔勍が、成と隴の2州をとる。士卒に闘う者はない。秦州に至り、守城されて戦闘が発生したので、故關から帰る。
韋貽范は宰相となり、おおく賄賂をうける。韋貽范が母喪で、官職を去ると、賄賂をわたした者が(韋貽范が賄賂を持ち逃げしたも同然なので)さわいだ。昭宗は韓偓に「韋貽范の復職を提案しろ」という。韓偓は「そんな文書をつくるなら、私は腕を切断する」という。昭宗は韓偓をほめた。

902年8月、

八月,乙亥朔,班定,無白麻可宣。宦官喧言韓侍郎不肯草麻,聞者大駭。茂貞入見上曰:「陛下命相而學士不肯草麻,與反何異!」上曰:「卿輩薦貽范,朕不之違,學士不草麻,朕亦不之違。況彼所陳,事理明白,若之何不從!」茂貞不悅而出,至中書,見蘇檢曰:「奸邪朋黨,宛然如舊。」扼腕者久之。貽范猶經營不已,茂貞語人曰:「我實不知書生禮數,為貽范所誤,會當於邠州安置。」貽范乃止。劉延美赴井死。

8月ついたち、白麻と草麻でモメた。

すみません。わかりません。なんか礼制でモメてる? 韋貽范の派閥が、前例と違うことをしたのか。

李茂貞が昭宗に「なぜ学士に草麻に肯んじるなと命じたか」と申し入れた。昭宗はいう。「白麻も草麻も、どちらも私は誤りではないと思う」と。李茂貞はいう。「奸邪な朋党が、旧来どおりいる。私は書生の礼教は知らないが、韋貽范の誤りは分かる」と。韋貽范は政治への介入をやめた。

保大節度使李茂勳將兵屯三原,救李茂貞。硃全忠遣其將康懷英、孔勍擊之,茂勳遁去。茂勳,茂貞之從弟也。

保大節度使の李茂勲は、三原に屯して李茂貞を救う。朱全忠は、康懷英と孔勍をつかわて撃つ。李茂勲はにげた。李茂勲は、李茂貞の従弟である。

◆銭鏐のこと

初,孫儒死,其士卒多奔浙西,錢鏐愛其驍悍,以為中軍,號武勇都。行軍司馬杜稜諫曰:「狼子野心,他日必為深患,請以土人代之。」不從。
鏐如衣錦軍,命武勇右都指揮使徐綰帥眾治溝洫;鎮海節度副使成及聞士卒怨言,白鏐請罷役,不從。丙戌,鏐臨饗諸將,綰謀殺鏐於座,不果,稱疾先出。鏐怪之,丁亥,命綰將所部先還杭州。及外城,縱兵焚掠。武勇左都指揮使許再思以迎侯兵與之合,進逼牙城。鏐子傳瑛與三城都指揮使馬綽等閉門拒之,牙將潘長擊綰,綰退屯龍興寺。鏐還,及龍泉,聞變,疾驅至城北,使成及建鏐旗喜與綰戰,鏐微服乘小舟夜抵牙城東北隅,逾城而入。直更卒憑鼓而寐,鏐親斬之,城中始知鏐至。武安都指揮使杜建徽自新城入援,徐綰聚木將焚北門,建徽悉焚之。建徽,稜之子也。湖州刺史高彥聞難,遣其子渭將兵入援,至靈隱山,綰伏兵擊殺之。初,鏐築杭州羅城,謂僚佐曰:「十步一樓,可以為固矣。」掌書記餘杭羅隱曰:「樓不若皆內向。」至是人以隱言為驗。

はじめ孫儒が死すると、士卒は浙西ににげた。錢鏐は(孫儒の)士卒の驍悍を愛して中軍とし「武勇都」と号した。行軍司馬の杜稜がいさめた。「狼子は野心があるから、他日に深患となる」と。銭鏐は従わず。
銭鏐は衣錦軍にゆく。武勇右都指揮使の徐綰に、兵をつかい溝洫(治水)させた。鎮海節度副使の成及は、士卒の怨言を聞いて、溝洫を罷めたいというが、銭鏐は従わず。8月丙戌、銭鏐が諸将を臨饗したとき、その座で、徐綰は銭鏐を謀殺しようとしたが、できずに徐綰はにげた。銭鏐はあやしむ。徐綰は龍興寺に退いて屯し、龍泉の城北で、銭鏐と戦った。徐綰は微服してにげた。徐綰は靈隠山にかくれ、伏兵をつかう。はじめ徐綰が杭州の羅城を築くとき、僚佐に「10歩ごとに1楼をつくれば、守備が固くなる」と言ったが、その効果があらわれた。

ぼくは思う。昭宗と朱全忠、李克用をのぞけば、『資治通鑑』の主人公としては、銭鏐がいる。銭鏐の戦績も、必ずしも一直線に成功するでない。


庚戌,李茂貞出兵夜襲奉天,虜汴將倪章、邵棠以歸。乙未,茂貞大出兵,與硃全忠戰,不勝,暮歸,汴兵追之,幾入西門。 己亥,再起復前戶部侍郎、同平章事韋貽范,使姚洎草制。貽范不讓,即表謝,明日,視事。

8月庚戌、李茂貞は奉天を夜襲した。汴將の倪章と邵棠を捕らえて帰った。8月乙未、李茂貞は朱全忠と戦ったが、勝てず。 8月己亥、さきの戶部侍郎、同平章事の韋貽范が復起して、姚洎に草制させた。韋貽范は譲らず、すぐに表謝し、翌日に視事した。?

◆王宗播と王建のこと

西川兵請假道於興元,山南西道節度使李繼密遣兵戍三泉以拒之。辛丑,西川前鋒將王宗播攻之,不克,退保山寨。親吏柳修業謂宗播曰:「公舉族歸人,不為之死戰,何以自保?」宗播令其眾曰:「吾與汝曹決戰取功名;不爾,死於此!」遂破金牛、黑水、西縣、褒城四寨。軍校秦承厚攻西縣,矢貫左目,達於右目,鏃不出。王建自舐其創,膿潰鏃出。王宗播攻馬盤寨,繼密戰敗,奔還漢中。西川軍乘勝至城下,王宗滌帥眾先登,遂克之,繼密請降,遷於成都。得兵三萬,騎五千,宗滌入屯漢中。王建曰:「繼密殘賊三輔,以其降,不忍殺。」復其姓名曰王萬弘,不時召見諸將陵易之。萬弘終日縱酒,俳優輩亦加戲誚。萬弘不勝憂憤,醉投池水而卒。

西川の兵は、道をかせと興元に請う。山南西道節度使の李継密は、三泉を守って西川の兵をこばむ。8月辛丑、西川前鋒將の王宗播が、李継密を攻めるが勝たず。親吏の柳修業は王宗播にいう。「王宗播は一族をあげて人に帰した。なぜ一族のために死戦をせず、守りに入るのか」と。王宗播は軍衆にいう。「私ときみらは決戦して功名を競うのだ。さもなくばここで死のう」と。金牛、黑水、西縣、褒城の4寨をやぶった。王宗播の軍校である秦承厚は、矢が左目を貫き、右目に達した。矢尻がでない。王建は傷をなめ、矢尻を押し出したと。

ぼくは思う。目玉ネタって多い。印象が強烈であり、なぜか致命傷にならないせいか。

王宗播は、馬盤寨を攻めた。李継密は敗れ、漢中にもどる。西川の軍は、城下にいたる。王宗滌が漢中の城壁をのぼり、李継密をくだす。李継密は降伏を請い、成都にうつる。王宗滌が漢中に入屯する。王建はいう。「李継密は三輔の残党である。降伏した。殺すに忍びず」と。李継密を王萬弘と改めさせ、酒を飲ませたが、王萬弘は憂憤して、入水自殺した。

詔以王宗滌為山南西道節度使。宗滌有勇略,得眾心,王建忌之。建作府門,繪以硃丹,蜀人謂之「畫紅樓」,建以宗滌姓名應之,王宗佶等疾其功,復構以飛語。建召宗滌至成都,詰責之,宗滌曰:「三蜀略平,大王聽讒,殺功臣可矣。」建命親隨馬軍都指揮使唐道襲夜飲之酒,縊殺之,成都為之罷市,連營涕泣,如喪親戚。建以指揮使王宗賀權興元留後。道襲,閬州人也,始以舞童事建,後浸預謀畫。

昭宗は詔して、王宗滌を山南西道節度使とした。王建は、王宗滌の勇略と人望を忌んだ。王建は王宗滌を成都によび、詰問した。王宗滌は「三蜀がほぼ平いだ後、大王が讒言を聞けば、功臣を殺しても良い」という。王建は、王宗滌をくびり殺した。成都の軍営たちは、親族が死んだかのように涕泣した。王建は、指揮使の王宗賀を(王宗滌の)後任にして、興元に留めた。

902年9月、朱全忠が鳳翔をくだし、十国が胎動

九月,乙巳,硃全忠以久雨,士卒病,召諸將議引兵歸河中,親從指揮使高季昌、左開道指揮使劉知俊曰:「天下英雄,窺此舉一歲矣。今茂貞已困,奈何捨之去!」全忠患李茂貞堅壁不出,季昌請以譎計誘致之。募有能入城為諜者,騎士馬景請行,曰:「此行必死,願大王錄其妻子。」全忠惻然止之,景不可。時全忠遣硃友倫發兵於大梁,明日將至,當出兵迓之。景請因此時給駿馬雜眾騎而出,全忠從之,命諸軍皆秣馬飽士。丁未旦,偃旗幟潛伏,無得妄出,營中寂如無人。景與眾騎皆出,忽躍馬西去,詐為逃亡,入城告茂貞曰:「全忠舉軍遁矣,獨留傷病者近萬人守營,今夕亦去矣,請速擊之!」於是茂貞開門,悉眾攻全忠營,全忠鼓於中軍,百營俱出,縱兵擊之,又遣數百騎據其城門,鳳翔軍進退失據,自蹈藉,殺傷殆盡。茂貞自是喪氣,始議與全忠連和,奉車駕還京,不復以詔書勒全忠還鎮矣。全忠表季昌為宋州團練使。季昌,硤石人,本硃友恭之僕夫也。

9月乙巳、朱全忠は、長雨で病気がひろがり、河中への撤退を考えた。親從指揮使の高季昌、左開道指揮使の劉知俊がいう。「天下の英雄が、この1年むきあう。いま李茂貞は困窮した。チャンスをなぜ捨てるか」と。李茂貞が出てこないので、高季昌が誘い出した。騎士の馬景が「作戦を実行すれば、私は必ず死ぬので、妻子を頼みます」という。朱全忠が止めるが、馬景は行くという。
ときに朱全忠は、朱友倫を大梁から出発させ、明日には到着する。馬景に、新たに到着した駿馬をあたえた。馬景が鳳翔から李茂貞を誘い出し、朱全忠は李茂貞をやぶる。李茂貞は士気を喪失して、はじめて朱全忠との連和を考えた。昭宗を京師にもどし、もう朱全忠に鎮所への帰還を命じないことにした。朱全忠が表して、高季昌を宋州の團練使とした。

戊申,武定節度使李思敬以洋州降王建。 辛亥,李茂貞盡出騎兵於鄰州就芻糧。壬子,硃全忠穿蚰蜒壕圍鳳翔,設大舖、鈴架以絕內外。 癸亥,以茂貞為鳳翔、靜難、武定、昭武四鎮節度使。

9月戊申、武定節度使の李思敬が、洋州ごと王建に降る。
9月辛亥、李茂貞は、騎兵を全て隣州にうつし、軍糧をもらう。9月壬子、朱全忠は鳳翔の蚰蜒壕をうがち、大舖を設ける。9月癸亥、李茂貞が、鳳翔、靜難、武定、昭武の4鎮の節度使となる。

或勸錢鏐渡江東保越州,以避徐、許之難。杜建微按劍叱之曰:「事或不濟,同死於此,豈可復東度乎!」鏐恐徐綰等據越州,遣大將顧全武將兵戍之。全武曰:「越州不足往,不若之廣陵。鏐曰:「何故?」對曰:「聞綰等謀詔田頵,田頵至,淮南助之,不可敵也。」建徽曰:「孫儒之難,王嘗有德於楊公,今往告之,宜有以相報。」鏐命全武告急於楊行密,全武曰:「徒往無益,請得王子為質。」鏐命其子傳鐐微服為全武僕,與偕之廣陵,且求婚於行密。過潤州,團練使安仁義愛傅鐐清麗,將以十僕易之。全武夜半賂閽者逃去。

或る者が銭鏐に「江東にわたり、越州に保せよ。徐と許の難を避けろ」という。杜建微は「避けちゃダメだろ」と叱った。銭鏐は、徐綰が越州に拠るのを恐れ、大將の顧全武に越州をまもらせた。顧全武はいう。「越州まで行く必要はなく、廣陵を守るのがよい」と。銭鏐「なぜだ」、顧全武「徐綰らは田頵とむすぶ。田頵がきて、淮南が田頵を助けたら、勝てなくなる」と。杜建徽はいう。「孫儒の難のとき、銭鏐は楊公に徳があった。いま楊公に告げれば、必ず返答があるはず」と。

ぼくは思う。固有名詞が重複して出てきたので、頭のなかでストーリーが組み上がりそうな予感がするが。もうちょい様子を見て、粛々と抄訳しよう。

銭鏐は顧全武に命じて、楊行密のもとに急がせた。顧全武はいう。「(楊行密から)利益を引き出すため、銭鏐の子を人質にしたい」と。銭鏐は、子の銭傳鐐に微服させて、顧全武についてゆかせ、広陵にゆく。楊行密に婚姻をもとめた。潤州を通過したとき、團練使の安仁義は、銭傳鐐の清麗ぶりを愛して、十僕を身代わりにしようとした。顧全武は、夜半に賂閽して逃げ去った。

綰等果召田頵,頵引兵赴之,先遣親吏何饒謂鏐曰:「請大王東如越州,空府廨以相待,無為殺士卒!」鏐報曰:「軍中叛亂,何方無之!公為節帥,乃助賊為逆。戰則亟戰,又何大言!」頵築壘絕往來之道。鏐患之,募能奪其地者賞以州。衢州制置使陳璋將卒三百出城奮擊,遂奪其地,鏐即以為衢州刺史。顧全武至廣陵,說楊行密曰:「使田頵得志,必為王患。王召頵還,錢王請以子傳□□為質,且求婚。」行密許之,以女妻傅鐐。

徐綰らは、田頵を召した。田頵は兵をひきいて赴く。田頵は、さきに親吏の何饒をやり、銭鏐にいう。「大王は東して、越州に行ってほしい。府廨をカラにして待っていろ。士卒に殺しあいをさせるな」と。銭鏐は返報した。「軍中の叛乱は、どうしてなくすことができよう。田頵は兵を連れてきたが、これは賊を助ける行為だ。戦うなら、さっさと戦おう」と。田頵は土塁をきずき、往来の道を絶やす。
銭鏐は、「田頵から州を奪った者に、その州を与える」と募った。衢州制置使の陳璋は、衢州をうばった。銭鏐は、陳璋を衢州刺史とした。顧全武は廣陵にいたり、楊行密に説いた。「田頵が志を得たら、必ず楊行密の患いとなる。田頵を召し還せ。銭鏐は、子を質として、楊行密と婚姻したがっている」と。楊行密は許し、楊行密の娘を銭傳鐐の妻とした。

ぼくは思う。十国が胎動している。どういう経緯で、十国が発生したのか。すべてが朱全忠の影響ばかりでなく、独立して動いている。大唐の後期、藩鎮に独立性が強かったというから、それが十国が残った背景だろう。


902年10月、

冬,十月,李儼至楊州,楊行密始建制敕院,每有封拜,輒以告儼,於紫極宮玄宗像前陳制書,再拜然後下。 王建攻拔興州,以軍使王宗浩為興州刺史。 戊寅夜,李茂貞假子彥詢帥三團步兵奔於汴軍。己卯,李彥韜繼之。

冬10月、李𠑊は楊州にいたる。楊行密は、はじめて敕院を建制する。封拜のたび、李𠑊につげた。紫極宮の玄宗像の前で、制書を陳べ、再拜してから下した。

ぼくは思う。意味を解釈したらおもしろそう。

王建は興州を攻めて抜く。軍使の王宗浩を、興州刺史とする。
10月戊寅夜、李茂貞の假子・李彦詢は、汴軍のもとににげた。10月己卯、李彦韜が、李彦詢の軍を継承した。

庚辰,硃全忠遣幕僚司馬鄴奉表入城。甲申,又遣使獻熊白,自是獻食物、繒帛相繼。上皆先以示李茂貞,使啟視之,茂貞亦不敢啟。丙戌,復遣使請與茂貞議連和,民出城樵采者皆不抄掠。丁亥,全忠表請修宮闕及迎車駕。己丑,遣國子司業薛昌祚、內使王延繢繼詔賜全忠。癸巳,茂貞復出兵擊汴軍城西寨,敗還。全忠以絳袍衣降者,使招呼城中人,鳳翔軍夜縋去,及因樵采去不返者甚眾。是後茂貞或遣兵出擊汴軍,多不為用,散還。茂貞疑上與全忠有密約,壬寅,更於御院北垣外增兵防衛。

10月庚辰、朱全忠は、幕僚の司馬鄴に奉表させ、鳳翔に入城させた。10月甲申、熊白らを献じた。昭宗は、先に李茂貞に献物を確認させたが、李茂貞は報告しない。10月丙戌、昭宗は朱全忠と李茂貞との連和を議させた。
10月丁亥、朱全忠が、宮闕を修繕して、昭宗の車駕を迎えたいと表した。10月己丑、國子司業の薛昌祚、内使の王延繢は、朱全忠に詔をあたえた。
10月癸巳、李茂貞は汴軍の城西寨を攻めたが、敗れた。鳳翔の城中からでた樵采で、夜も帰還しない者がおおい。李茂貞が汴軍を攻めても、戦闘にならず散ってしまう。李茂貞は、昭宗と朱全忠に密約があると疑った。10月壬寅、李茂貞は、御院の北垣の外で、兵を増やして防衛した。

902年11月、

十一月,癸卯朔,保大節度使李茂勳帥其眾萬餘人救鳳翔,屯於城北阪上,與城中舉烽相應。 甲辰,上使趙國夫人詗學士院二使皆不在,亟召韓偓、姚洎,竊見之於土門外,執手相泣。洎請上速還,恐為它人所見,上遽去。

11月ついたち、保大節度使の李茂勲が、1万余人で(朱全忠に対抗して)鳳翔を救いにくる。城北の阪上に屯して、城中と烽で呼応する。
11月甲辰、昭宗は、趙國夫人をつかわす。詗學士院の二使が、どちらもいない。いそいで韓偓と姚洎をめして、土門の外を見る。昭宗らは、手をとって相泣する。姚洎は「はやく戻ろう。誰かに見られる」という。昭宗は、ひっこむ。

硃全忠遣其將孔勍、李暉將兵乘虛襲鄜、坊。壬子,拔坊州。甲寅,大雪,汴軍冒之夕進,五鼓,抵庸阜州城下。鄜人不為備,汴軍入城,城中兵尚八千人,格鬥至午,鄜人始敗,擒留守李繼鐐。就撫存李茂勳及將士之家,按堵無擾,命李暉權知軍府事。茂勳聞之,引兵遁去。汴軍每夜鳴鼓角,城中地如動。攻城者詬城上人云「劫天子賊」,乘城者詬城下人云「奪天子賊」。是冬,大雪,城中食盡,凍餒死者不可勝計,或臥未死,肉已為人所C061。市中賣人肉斤直錢百,犬肉值五百。茂貞儲偫亦竭,以犬彘供御膳。上鬻御衣及小皇子衣於市以充用,削漬松梯以飼御馬。

朱全忠は、孔勍と李暉に、鄜と坊を襲わせる。11月壬子、坊州をぬく。11月甲寅、大雪である。鄜州は備えがなく、汴軍が入城した。鄜州を留守する李継鐐がとらわれた。孔勍は、李茂勲や将士の家族を撫して、騒ぎをふせいだ。李暉に權知軍府事させた。李茂勲はにげた。
攻城する者は、城上の者を「劫天子賊」とののしり、城上の者は、攻城する者を「奪天子賊」とののしる。
この冬は大雪で、鄜州で飢えて凍る者がおおい。犬肉ですら価格が高騰した。李茂貞は昭宗に、イヌやブタの肉を食わせた。

丙子,戶部侍郎、同平章事韋貽范薨。
癸亥,硃全忠遣人薙城外草以困城中。甲子,李茂貞增兵守宮門,諸宦官自度不免,互相尤怨。 蘇檢數為韓偓經營入相,言於茂貞及中尉、樞密,且遣親吏告偓,偓怒曰:「公與韋公自貶所召歸,旬月致位宰相,訖不能有所為。今朝夕不濟,乃欲以此相污邪!」

11月丙子、戶部侍郎、同平章事の韋貽范が薨じた。
11月癸亥、朱全忠は、城外の草を刈って、城中を困窮させた。11月甲子、李茂貞は兵を増やして、宮門を守る。宦官らは、状況がどうにもならず、たがいに怨みあう。
蘇検は、韓偓のもとで宰相となりたい。蘇検は、李茂貞と中尉や樞密に、韓偓への取りなしを頼む。韓偓は怒った。「蘇検は韋貽范とともに、みずから貶めて召帰した(買官した?)。旬月のうちに宰相となるが、職務をやりとげなかった。韋貽范が死んだばかりなのに、また職務を汚すのか」と。

田頵急攻杭州,仍具舟將自西陵渡江。錢鏐遣其將盛造、硃郁拒破之。

田頵は杭州を急攻した。西陵から渡江した。錢鏐は、盛造と硃郁をつかわし、田頵をふせぐ。

902年12月、

十二月,李茂勳遣使請降於硃全忠,更名周彝。於是茂貞山南州鎮皆入王建,關中州鎮皆入全忠,坐守孤城。乃密謀誅宦官以自贖,遺全忠書曰:「禍亂之興,皆由全誨。僕迎駕至此,以備他盜。公既志匡社稷,請公迎扈還宮,僕以弊甲雕兵,從公陳力。」全忠復書曰:「僕舉兵至此,正以乘輿播遷;公能協力,固所願也。」

12月、李茂勲は、降伏の使者を朱全忠におくり、周彝と改名した。ここにおいて山南の州鎮は、みな王建に入る。關中の州鎮は、みな朱全忠に入る。李茂貞は、孤立して城を守る。李茂貞は、ひそかに宦官を買収したい。李茂貞は朱全忠に文書をおくる。「朱全忠に従います」と。朱全忠は返書した。「私が戦ってきたのは、昭宗が京師から移動したから。李茂貞が協力してくれるなら、願ってもないことだ」と。

楊行密使人召田頵曰:「不還,吾且使人代鎮宣州。」庚辰,頵將還,征犒軍錢二十萬緡於錢鏐,且求鏐子為質,將妻以女。鏐謂諸子:「孰能為田氏婿者?」莫對。鏐欲遣幼子傳球,傳球不可。鏐怒,將殺之。次子傳瓘請行,吳夫人泣曰:「奈何置兒虎口!」傳鏐曰:「紓國家之難,安敢愛身!」再拜而出,鏐泣送之。傳瓘從數人縋北門而下。頵與徐綰、許再思同歸宣州。鏐奪傳球內牙兵印。
越州客軍指揮使張洪以徐綰之黨自疑,帥步兵三百奔衢州,刺史陳璋納之。溫州將丁章逐刺史硃敖,敖奔福州。章據溫州,田頵遣使招之,道出衢州。陳璋聽其往還,錢鏐由是恨璋。

楊行密は、人をやって田頵を召した。「田頵が(私のもとに)還らないなら、私はべつの人を宣州に朕させる」と。12月庚辰、田頵が還るとき、軍錢20万緡を銭鏐にあたえ、銭鏐の子を人質=婿にもとめた。銭鏐は諸子にいう。「だれが田氏の婿になるか」と。だれも答えない。銭鏐は幼子の銭傳球をえらぶが、銭傳球がいやがる。銭鏐は銭傳球を殺そうとした。次子の銭傳瓘がいくという。吳夫人が泣いた。「どうして子を虎口に置けようか」と。銭傳瓘はいう。「國家の難をゆるめるためだ。わが身を愛せようか」と。銭傳瓘は、数人を従えてゆく。田頵と徐綰、許再思は、おなじく宣州に帰した。銭鏐は、銭傳球の内牙兵印をうばった。
越州の客軍指揮使である張洪は、徐綰の党与であるが、自疑した。歩兵3百をひきい、衢州ににげた。衢州刺史の陳璋は、張洪を納れた。温州の將・丁章は、温州刺史の朱敖を追いはらう。朱敖は福州ににげる。陳璋は温州による。田頵は、使者をおくって陳璋を招く。使者は衢州をとおる。陳璋は、田頵の使者の往復をゆるす。これにより銭鏐は、陳璋をうらむ。

丁酉,上召李茂貞、蘇檢、李繼誨、李彥弼、李繼岌、李繼遠、李繼忠食,議與硃全忠和,上曰:「十六宅諸王以下,凍餒死者日有數人。在內諸王及公主、妃嬪,一日食粥,一日食湯餅,今亦竭矣。卿等意如何?」皆不對。上曰:「速當和解耳!」
鳳翔兵十餘人遮韓全誨於左銀台門,喧罵曰:「闔境塗炭,闔城餒死,正為軍容輩數人耳!」全誨叩頭訴於茂貞,茂貞曰:「卒輩何知!」命酌酒兩杯,對飲而罷。又訴於上,上亦諭解之。李繼昭謂全誨曰:「昔楊軍容破楊守亮一族,今軍容亦破繼昭一族邪!」慢罵之,遂出降於全忠,複姓苻,名道昭。

12月丁酉、昭宗は、李茂貞、蘇検、李継誨、李彦弼、李継岌、李継遠、李継忠食をめして、朱全忠との和親を議させた。昭宗はいう。「16宅の諸王より以下、凍って飢えて死ぬ者が、日に数人いる。在内の諸王、公主、妃嬪は、ある日は粥を、べつの日は湯餅を食べるだけ。どう思うか」と。みな(朱全忠との和親について)答えず。昭宗「はやく朱全忠と和解せねば」と。
鳳翔の兵10余人は、韓全誨を左銀台門でさえぎり、韓全誨を罵った。「塗炭をあじわい、餒死するのは、楊軍容の配下にいる数人のせいだ」と。韓全誨は叩頭して、李茂貞に訴えた。李茂貞はいう。「兵士になにが分かる」と。酒を2杯だけ酌し、向きあって飲んでから罷る。昭宗は、ふたたび朱全忠との和解を主張する。李継昭は韓全誨にいう。「むかし楊軍容は、楊守亮の一族を破った。いま楊軍容は、また李継昭の一族を破るのか」と。李継昭は朱全忠にくだった。李継昭は、またの姓名を苻道昭ともいう。

ぼくは思う。主語には注意しているつもりだが、人脈や展開がよくわからない。英会話のCDを聞きながら、これを抄訳しているからだろう。


是歲,虔州刺史盧光稠攻嶺南,陷韶州,使其子延昌守之,進圍潮州。清海留後劉隱發兵擊走之,乘勝進攻韶州。隱弟陟以為延昌右虔州之援,未可遽取。隱下從,逐圍韶州。會江漲,饋運不繼,光稠自虔州引兵救之。其將譚全播伏精兵萬人於山谷,以羸弱挑戰,大破隱於城南,隱奔還。全播悉以功讓諸將,光稠益賢之。
岳州刺史鄧進思卒,弟進忠自稱刺史。

この歳、虔州刺史の盧光稠は、嶺南を攻めて、韶州をおとす。子の廬延昌に韶州を守らせる。すすんで潮州をかこむ。清海留後の劉隠は、兵を発して盧光稠をはしらす。勝ちに乗じて、劉隠は韶州をかこむ。劉隠の弟・劉陟は、廬延昌が虔州を支援するから、韶州をとらない。劉隠は、韶州をかこむ。たまたま長江の水があふれ、軍糧の運送がつづかない。廬光稠は、虔州から兵をひき、韶州をすくう。盧光稠の将・譚全播は、精兵を山谷に伏せる。譚全播は、劉隠を城南でやぶる。譚全播は、功績を諸将にゆずる。盧光稠は、ますます譚全播を賢者と見なした。
岳州刺史の鄧進思が卒した。弟の鄧進忠は刺史を自称した。130801

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903年正月、昭宗が朱全忠に従い、宦官を全殺

昭宗聖穆景文孝皇帝中之下天復三年(癸亥,公元九零三年)

903年春、無力な王師範が、朱全忠を倒したい

春,正月,甲辰,遣殿中侍御史崔構、供奉官郭遵誨詣硃全忠營。丙午,李茂貞亦遣牙將郭啟期往議和解。
平盧節度使王師範,頗好學,以忠義自許,為治有聲跡。硃全忠圍鳳翔,韓全誨以詔書征籓鎮兵入援乘輿,師範見之,泣下沾衿,曰:「吾屬為帝室籓屏,豈得坐視天子困辱如此。各擁強兵,但自衛乎!」會張濬自長水亦遺之書,勸舉義兵。師範曰:「張公言正會吾意,夫復何疑!雖力不足,當死生以之。」

春正月甲辰、殿中侍御史の崔構、供奉官の郭遵誨は、朱全忠の軍営にゆく。正月丙午、李茂貞もまた、牙將の郭啓期を、朱全忠の軍営におくり、和解を申し入れる。
平盧節度使の王師範は、学問をこのみ、忠義を自任する。朱全忠が鳳翔を包囲すると、韓全誨は藩鎮の兵をめして、昭宗を支援させようとする。王師範は泣いた。「わたしは帝室の藩屏に属するが、天子が困窮するのを座視するだけ。みな藩鎮が強兵を擁するが、私は自衛するだけだ」と。このころ張濬は、長水から王師範に文書を送り、義兵を起こせと勧める。王師範はいう。「張濬の勧めは私の本意どおりだが、私は力が不足する」と。

時關東兵多從全忠在鳳翔,師範分遣諸將詐為貢獻及商販,包束兵仗,載以小車,入汴、徐、兗、鄆、齊、沂、河南、孟、滑、河中、陝、虢、華等州,期以同日俱發,討全忠。適諸州者多事洩被擒,獨行軍司馬劉鄩取兗州。時泰寧節度使葛從周悉將其屯邢州,鄩先遣人為販油者入城,詗其虛實及兵所從入。

ときに関東の兵は、おおく朱全忠に従い、鳳翔をかこむ。王師範は、諸将をつかわし、いつわって貢献と商販させる。汴、徐、兗、鄆、齊、沂、河南、孟、滑、河中、陝、虢、華らの州は、期日を決めて、同時に朱全忠を討つ兵を発する。だがこの計画は漏洩して、王師範の使者はとらわれた。行軍司馬の劉鄩だけが(王師範の計画どおり)兗州を取った。ときに泰寧節度使の葛從周は、邢州の兵をひきいる。劉鄩は先に人をやり、油売りを入城させた。邢州の様子をさぐった。

丙午,鄩將精兵五百夜自水竇入,比明,軍城悉定,市人皆不知。鄩據府捨,拜從周母,每旦省竭;待其妻子,甚有恩禮;子弟職掌、供億如故。
是日,青州牙將張居厚帥壯士二百將小車至華州東城,知州事婁敬思疑其有異,剖視之。其徒大呼,殺敬思,攻西城。崔胤在華州,帥眾拒之,不克,走至商州,追獲之。

正月丙午、劉鄩は、精兵5百をひきい、川から攻め入った。明け方、劉鄩は邢州を平定した。市人は、だれも平定に気づかない。劉鄩は府舎により、(敵将の)葛從周の母に拝して、葛從周の妻子を厚遇した。葛從周の子弟は、もとどおり職務をする。

ぼくは思う。劉鄩の電撃の作戦は、有名になるべき名勝負なのだろう。

この日、青州牙將の張居厚は、壯士2百をひきい、華州の東城にいる。知州事の婁敬思は、怪しんで兵を確認した。兵たちは、婁敬思を殺して、西城を攻めた。崔胤は華州にいて、帥衆は兵たちを防いだ。崔胤は勝てず、商州ににげる。追われて捕まった。

全忠留節度判官裴迪守大梁,師範遣走卒繼書至大梁,迪問以東方事,走卒色動。迪察其有變,屏人問之,走卒具以實告。迪不暇白全忠,亟請馬步都指揮使硃友寧將兵萬餘人東巡兗、鄆。友寧召葛從周於邢州,共攻師範。全忠聞變,亦分兵先歸,使友寧並將之。

朱全忠は、節度判官の裴迪に大梁を守らせる。王師範は、走卒に文書をパスさせ、大梁にとどける。裴迪は、東方のことを聞く。走卒は動揺した。裴迪は異変を察知した。走卒は事実を話す。裴迪はすぐに朱全忠に「馬步都指揮使の朱友寧に、東させ、兗州と鄆州をめぐらせろ」という。朱友寧は、葛從周を邢州から召して、ともに王師範を攻める。朱全忠は異変を聞き、兵をわけて先に大梁に帰らせ、朱友寧と兵をあわせる。

903年、昭宗が朱全忠と和し、長安に入る

戊申,李茂貞獨見上,中尉韓全誨、張彥弘、樞密使袁易簡、周敬容皆不得對。茂貞請誅全誨等,與硃全忠和解,奉車駕還京。上喜,即遣內養帥鳳翔卒四十人收全誨等,斬之。以御食使弟五可范為左軍中尉,宣徽南院使仇承坦為右軍中尉,王知古為上院樞密使,楊虔朗為下院樞密使。是夕,又斬李繼筠、李繼誨、李彥弼及內諸司使韋處廷等十六人。
己酉,遣韓偓及趙國夫人詣全忠營,又遣使囊全誨等二十餘人首以示全忠,曰:「曏來脅留車駕,懼罪離間,不欲協和,皆此曹也。今朕與茂貞決意誅之,卿可曉諭諸軍,以豁眾憤。」辛亥,全忠遣觀察判官李振奉表入謝。

正月戊申、李茂貞はひとりで昭宗にあう。中尉の韓全誨、張彦弘、樞密使の袁易簡、周敬容は、みな同席できない。李茂貞は「韓全誨らを誅して、朱全忠と和解せよ。昭宗は京師にかえれ」という。昭宗はよろこぶ。李継筠、李継誨、李彦弼および内諸司使の韋處廷ら、16人を斬った。

ぼくは思う。マジか!急展開!

正月己酉、昭宗は、韓偓および趙國夫人を、朱全忠の軍営にいかせる。韓全誨ら20人の首級をふくろに入れ、朱全忠に示した。「私(昭宗)をおどして、朱全忠に逆らわせていたのは、こいつらだ。私は李茂貞と、韓全誨らの誅殺を決意した。朱全忠の軍は怒りをおさめよ」と。
正月辛亥、朱全忠は、觀察判官の李振奉に上表させ、昭宗に謝した。

全誨等已誅,而全忠圍猶未解。茂貞疑崔胤教全忠欲必取鳳翔,白上急召胤,令帥百官赴行在。凡四降詔,三賜硃書御札,言甚切至,悉復故官爵,胤竟稱疾不至。茂貞懼,自致書於胤,辭甚卑遜。全忠亦以書召胤,且戲之曰:「吾未識天子,須公來辨其是非。」胤始來。
甲寅,鳳翔始啟城門。丙辰,全忠巡諸寨,至城北,有鳳翔兵自北山下,全忠疑其逼己,遣兵擊之,擒其將李繼欽。上遣趙國夫人、馮翊夫人詣全忠營詰其故,全忠遣親吏蔣玄暉奉表入奏。

韓全誨を誅したが、朱全忠はまだ和解しない。李茂貞は、崔胤が朱全忠に「必ず鳳翔を取れ」と仕向けているかと疑った。詔を4回くだし、崔胤の官爵をもどすといったが、崔胤は出てこない。朱全忠もまた崔胤に文書を送る。朱全忠は戯れて、「私は、まだ天子を知らない。崔胤は是非(だれを天子と見なすか)教えてくれ」という。崔胤は、はじめて出てきた。
正月甲寅、鳳翔は城門をひらく。正月丙辰、朱全忠は鳳翔の形勢をあやしみ、鳳翔の北山を守る李継欽をとらえた。昭宗は、趙國夫人、馮翊夫人をつかわし、朱全忠が李継欽を捕らえたことを詰問した。朱全忠は、親吏の蔣玄暉奉に入奏させた。

ぼくは思う。ひっぱるなあ。


李茂貞請以其子侃尚平原公主,又欲以蘇檢女為景王秘妃以自固。平原公主,何后之女也,后意難之。上曰:「且令我得出,何憂爾女!」後乃從之。壬戌,平原公主嫁宋侃。納景王妃蘇氏。時鳳翔所誅宦官已七十二人,硃全忠又密令京兆搜捕致仕不從行者,誅九十人。
甲子,車駕出鳳翔,幸全忠營,全忠素服待罪。命客省使宣旨釋罪,去三仗,止報平安,以公服入謝。全忠見上,頓首流涕。上命韓偓扶起之。上亦泣,曰:「宗廟社稷,賴卿再安;朕與宗族,賴卿再生。」親解玉帶以賜之。少休,即行。全忠單騎前導十許裡,上辭之。全忠乃令硃友倫將兵扈從,自留部分後隊,焚撤諸寨。友倫,存之子也。是夕,車駕宿岐山。丁卯,至興平,崔胤始帥百官迎謁,復以胤為司空、門下侍郎、同平章事,領三司如故。己巳,入長安。

李茂貞は、子の李子侃を、平原公主と婚姻させたい。また蘇検の娘は、景王である李秘の妃にして、立場を固めたい。平原公主とは、何后の娘であり、何后は李茂貞との婚姻をしぶる。昭宗はいう。「私が鳳翔を出るためなら、娘を惜しまない」と。何后は従った。正月壬戌、平原公主は、宋侃にとつぐ。景王は、蘇氏を妃とした。

この局面で、婚姻の作戦なのか。すごいな。

ときに鳳翔で、宦官72人が誅殺された。朱全忠は、ひそかに京兆に命じて、退職した宦官を捜索し、従わない者を90人殺した。

宦官、死にました。城外の朱全忠のご機嫌をとるために、昭宗が流亡している鳳翔の城内で、「自発的に」宦官を殺した。

正月甲子、昭宗の車駕は、鳳翔をでて、朱全忠の軍営にゆく。朱全忠は素服して、罪をまつ。昭宗は、韓偓に朱全忠をたすけ起こさせた。昭宗「宗廟と社稷は、朱全忠だのみだ。わが宗族も、朱全忠だのみだ」と。みずから玉帯をとき、朱全忠にたまう。

感動の解決。董卓はこのプロセスを省略したのだ。

少し休み、昭宗は帰る。朱全忠は単騎で10里を導く。昭宗と別れる。朱友倫が、兵をひきいて従い、後ろの部隊を留める。軍塞を焼きはらう。朱友倫とは、朱存之の子である。この日の夕方、昭宗は岐山に宿す。正月丁卯、興平にいたる。崔胤がはじめて百官をひきいて、昭宗を迎謁する。崔胤は、司空、門下侍郎、同平章事にもどり、領三司はもとのまま。正月己巳、長安に入る!

903年正月、朱全忠が宦官を全殺する

庚午,全忠、崔胤同對。胤奏:「國初承平之時,宦官不典兵預政。天寶以來,宦官浸盛。貞元之末,分羽林衛為左、右神策軍以便衛從,始令宦官主之,以二千人為定制。自是參掌機密,奪百司權,上下彌縫,共為不法,大則構扇籓鎮,傾危國家;小則賣官鬻獄,蠹害朝政。王室衰亂,職此之由,不翦其根,禍終不已。請悉罷內諸司使,其事務盡歸之省寺,諸道監軍俱召還闕下。」上從之。是日,全忠以兵驅宦官第五可范等數百人於內侍省,盡殺之,冤號之聲,徹於內外。出使外方者,詔所在收捕誅之,止留黃衣幼弱者三十人以備灑掃。又詔成德節度使王鎔選進五十人充敕使,取其土風深厚、人性謹樸也。上愍可范等或無罪,為文祭之。自是宣傳詔命,皆令宮人出入。其兩軍內外八鎮兵悉屬六軍,以崔胤兼判六軍十二衛事。

正月庚午、朱全忠と崔胤は、同時に昭宗に意見する。崔胤はいう。「唐初、宦官は典兵も政治もしなかった。天宝期より、宦官がつよまる。貞元期の末、宦官が強まった。宦官を罷免せよ」と。昭宗は合意した。
この日、朱全忠は宦官の第五可范ら、数百人を内侍省で全殺した。冤罪という声が、内外にとおる。外任の宦官も殺され、幼弱な宦官も殺された。成德節度使の王鎔に、50人を選ばせ(宦官が死んで欠員した)敕使に補充した。昭宗は、第五可范等らが無罪だと思ってあわれみ、文をつくって祭った。これより宣傳や詔命は(宦官を通過せず)みな宮人から出入した。両軍と内外の八鎮は、すべて六軍に属した。崔胤は、六軍の十二衛事を兼判した。

ここで司馬光が、後漢にくらべて、宦官の話をする。また今度。豊田市図書館で、『通鑑』のこの部分の翻訳を借りてこよう。


王師範遣使以起兵告李克用,克用貽書褒贊之。河東監軍張承業亦勸克用發兵救鳳翔,克用攻晉州,聞車駕東歸,乃罷。
楊行密承製加硃瑾東面諸道行營副都統、同平章事,以升州刺史李神福為淮南行軍司馬、鄂岳行營招討使,舒州團練使劉存副之,將兵擊杜洪。洪將駱殷戍永興,棄城走,縣民方詔據城降。神福曰:「永興大縣,饋運所仰,已得鄂之半矣!」

王師範は、使者を送り、李克用に起兵しろという。李克用は、文書をおくり、王師範をほめた。河東監軍の張承業もまた、李克用に「兵を発して(朱全忠から)鳳翔(の昭宗)を救え」という。李克用は晋州を攻めるが、昭宗が東帰したと聞いて、兵を罷めた。
楊行密は承制して、朱瑾に東面諸道行營副都統、同平章事をくわえた。升州刺史の李神福を、淮南行軍司馬、鄂岳行營招討使とした。舒州團練使の劉存を、李神福の副将とした。李神福と劉存に、杜洪を撃たせた。杜洪は、駱殷をひきいて、永興を守るが、城を棄ててにげた。縣民の方詔は、城に拠って降った。李神福はいう。「永興は大県である。物流の要所である。すでに鄂州の半分を得たようなものだ」と。130801

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