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- 903年2月-、楊行密らが十国の基礎をつくる
【唐紀八十】 起昭陽大淵獻二月,盡閼逢困敦閏月,凡一年有奇。
昭宗聖穆景文孝皇帝下之上天復三年(癸亥,公元九零三年)
903年2月、
二月,壬申朔,詔:「比在鳳翔府所除官,一切停。」時宦官盡死,淮河東監軍張承業、幽州監軍張居翰、清海監軍程匡柔、西川監軍魚全禋及致仕嚴遵美,為李克用、劉仁恭、楊行密、王建所匿得全,斬他囚以應詔。
甲戌,門下侍郎、同平章事陸扆責授沂王傅、分司。車駕還京師,賜諸道詔書,獨鳳翔無之。扆曰:「茂貞罪雖大,然朝廷未與之絕,今獨無詔書,示人不廣。」崔胤怒,奏貶之。宮人宋柔等十一人皆韓全誨所獻,及僧、道士與宦官親厚者二十餘人,並送京兆杖殺。
上謂韓偓曰:「崔胤雖盡忠,然比卿頗用機數。」對曰:「凡為天下者,萬國皆屬之耳目,安可以機數欺之!莫若推誠直致,雖日計之不足,而歲計之有餘也。」2月ついたち、詔した。「鳳翔での任官は、すべて停止する」と。ときに宦官が全死したので、淮河東監軍の張承業、幽州監軍の張居翰、清海監軍の程匡柔、西川監軍の魚全禋、および退官した嚴遵美は、李克用、劉仁恭、楊行密、王建にかくまわれて、生き残った。その他を斬って、囚えて?詔に応じた。
2月甲戌、門下侍郎、同平章事の陸扆は、沂王の傅と分司を責授した。昭宗が京師にかえると、諸道に詔書をたまわる。鳳翔(の李茂貞)だけには、詔書をたまわらず。陸扆はいう。「李茂貞の罪は大きいが、朝廷が李茂貞に詔書を与えないと、朝廷の度量のせまさを示してしまう」と。崔胤は怒り、陸扆を降格せよという。宮人の宋柔ら11人は、みな韓全誨に推薦された者だ。僧と道士と宦官で(韓全誨に)親厚する20余人は、みな京兆に送られ、杖殺された。
昭宗は韓偓にいう。「崔胤は尽忠だが、韓偓より機数がおおい」と。韓偓はいう。「天下をなす者は、万国の耳目にさらされる。機數で欺くことはできない。まっすぐやるのが最良だ。日計は足りないが、歲計は余りある」と。
丙子,工部侍郎、同平章事蘇檢,吏部侍郎盧光啟,並賜自盡。丁丑,以中書侍郎、同平章事王溥為太子賓客、分司,皆崔胤所惡也。
戊寅,賜硃全忠號回天再造竭忠守正功臣,賜其僚佐敬翔等號迎鑾協贊功臣,諸將硃友寧等號迎鑾果毅功臣,都頭以下號四鎮靜難功臣。上議褒崇全忠,欲以皇子為諸道兵馬元帥,以全忠副之。
崔胤請以輝王祚為之,上曰:「濮王長。」胤承全忠密旨,利祚沖幼,固請之。己卯,以祚為諸道兵馬元帥。庚辰,加全忠守太尉,充副元帥,進爵梁王。以胤為司徒兼侍中。胤恃全忠之勢,專權自恣,天子動靜皆稟之。朝臣從上幸鳳翔者,凡貶逐三十餘人。刑賞系其愛憎,中外畏之,重足一跡。以敬翔守太府卿,硃友寧領寧遠節度使。全忠表苻道昭同平章事,充天雄節度使,遣兵援送之秦州,不得至而還。2月丙子、工部侍郎、同平章事の蘇検と、吏部侍郎の盧光啟は、自死をたまわる。2月丁丑、中書侍郎、同平章事の王溥を太子賓客として、分司させる。彼らは崔胤に悪まれた。
2月戊寅、朱全忠に「回天再造竭忠守正功臣」と号させ、朱全忠の僚佐の敬翔らに「迎鑾協贊功臣」と号させた。諸将の朱友寧らに「迎鑾果毅功臣」と号させた。都頭より以下には「四鎮靜難功臣」と号させる。昭宗は朱全忠をほめるため、皇子を諸道の兵馬元帥とし、朱全忠を皇子の副官とした。
崔胤は輝王の李祚を、兵馬元帥にしろという。昭宗は「濮王の李長がよい」という。崔胤は朱全忠の密旨をうけ(操縦しやすい)沖幼な李祚を勧めた。2月己卯、李祚を諸道の兵馬元帥とした。2月庚辰、朱全忠に守太尉をくわえ、充副元帥。梁王に進爵させる。崔胤は、司徒兼侍中となる。崔胤は朱全忠の勢力をたのみにし、昭宗は崔胤にしたがう。朝臣のうち、昭宗に従って鳳翔からきた者は、30余人が降格した。刑賞は、愛憎によって判定され、中外は畏れた。敬翔に守太府卿させ、朱友寧を領寧遠節度使とした。全忠は表して、苻道昭を同平章事,充天雄節度使とした。苻道昭に秦州へ援兵させたが、到達できずに帰還した。
初,翰林學士承旨韓偓之登進士第也,御史大夫趙崇知貢舉。上返自鳳翔,欲用偓為相,偓薦崇及兵部侍郎王贊自代。上欲從之,崔胤惡其分己權,使硃全忠入爭之。全忠見上曰:「趙崇輕薄之魁,王贊無才用,韓偓何得妄薦為相!」上見全忠怒甚,不得已,癸未,貶偓濮州司馬。上密與偓泣別,偓曰:「吻人非復前來之比,臣得遠貶及死乃幸耳,不忍見篡弒之辱!」
己丑,上令硃全忠與李茂貞書,取平原公主。茂貞不敢違,遽歸之。壬辰,以硃友裕為鎮國節度使。はじめ翰林學士は、韓偓の意志によって進士第に登った。御史大夫の趙崇が、貢舉を司った。昭宗は鳳翔からもどると、韓偓を宰相にしたい。韓偓は、趙崇および兵部侍郎の王贊に、自分の代わりに試験を司らせた。昭宗は認めた。崔胤は、自己の権限が分割されるのを悪み、朱全忠に異議を唱えさせた。朱全忠は昭宗にいう。「趙崇は、輕薄之魁である。王贊は才用がない。韓偓はなぜ、劣った人材を推薦して、宰相になるのか」と。昭宗は朱全忠がひどく怒るので、やむをえず韓偓を濮州司馬におとした。昭宗は、ひそかに韓偓と泣いて別れる。韓偓はいう。「私は遠ざけられて死ねるから幸せだ。簒奪と弑殺を見るには忍びない」と。
2月己丑、昭宗は朱全忠から李茂貞に文書を送らせ、平原公主をめとらせた。李茂貞は逆らわず、帰順した。
2月壬辰、朱友裕を鎮國節度使とした。
乙未,全忠奏留步騎萬人於故兩軍,以硃友倫為左軍宿衛都指揮使,又以汴將張廷范為宮苑使,王殷為皇城使,蔣玄暉充街使。於是全忠之黨布列遍於禁衛及京輔。戊戌,全忠辭歸鎮,留宴壽春殿,又餞之於延喜樓。上臨軒泣別,令於樓前上馬。上又賜全忠詩,全忠亦和進;又賜《楊柳枝辭》五首。百官班辭於長樂驛。崔胤獨送至霸橋,自置餞席,夜二鼓,胤始還入城。上復召對,問以全忠安否,置酒奏樂,至四鼓乃罷。
以清海節度使裴樞為門下侍郎、同平章事,硃全忠薦之矣。
李克用使者還晉陽,言崔胤之橫,克用曰:「胤為人臣,外倚賊勢,內脅其君,既執朝政,又握兵權。權重則怨多,勢侔則釁生,破家亡國,在眼中矣。」硃全忠將行,奏:「克用於臣,本無大嫌,乞厚加寵澤,遣大臣撫慰;俾知臣意。」進奏吏以白克用,克用笑曰:「賊欲有事淄青,畏吾掎其後耳!」2月乙未、朱全忠は、步騎萬人をもとの両軍にとどめろと奏した。硃友倫を左軍の宿衛都指揮使とし、汴將の張廷范を宮苑使とし、王殷を皇城使とし、蔣玄暉を充街使とした。ここにおいて朱全忠の党与が、禁衛と京輔を占めた。2月戊戌、朱全忠は鎮所に帰りたいとう。壽春殿で留宴して、延喜樓ではなむけする。昭宗は泣いて、朱全忠と別れ、詩『楊柳枝辭』5首をおくる。百官は長樂驛で別れたが、崔胤だけは霸橋まで朱全忠を送る。餞席をもうけ、夜二鼓になってから、崔胤は入城した。昭宗は朱全忠の安否を問い、置酒・奏樂した。四鼓になって罷めた。
ぼくは思う。朱全忠は地方に去って良いのか?清海節度使の裴樞を門下侍郎、同平章事とした。朱全忠の推薦による。
李克用は、使者を晉陽に還らせ、崔胤の専横をいう。李克用はいう。「崔胤は人臣だが、朱全忠をたより、昭宗をおびやかす。朝政と兵権をにぎる。大唐を滅ぼしそうだ」と。朱全忠は行きがけに、奏した。「私は李克用に、おおきな嫌疑はない。李克用を慰撫してほしい」と。李克用は笑った。「賊(朱全忠)は淄青に有事するとき?私に後方を抑えられるのを畏れたのだ」と。
903年3月、
三月,戊午,硃全忠至大梁。王師範弟師魯圍齊州,硃友寧引兵擊走之。師範遣兵益劉鄩軍,友寧擊取之。由是兗州援絕,葛從周引兵圍之。友寧進攻青州;戊辰,全忠引四鎮及魏博兵十萬繼之。
淮南將李神福圍鄂州,望城中積荻,謂監軍尹建峰曰:「今夕為公焚之。」建峰未之信。時杜洪求救於硃全忠,神福遣部將秦皋乘輕舟至灄口,舉火炬於樹杪。洪以為救兵至,果焚獲以應之。3月戊午、朱全忠は大梁にゆく。王師範の弟・王師魯が齊州をかこむ。
ぼくは補う。王師範は、朱全忠を除こうとする数少ない勢力。連携に失敗してる。朱友寧が王師魯をはしらす。王師範は、兵を劉鄩の軍にあわる。朱友寧はこれを撃つ。これにより兗州は援兵が絶えた。葛從周は兵をひき、兗州を囲む。朱友寧は青州にすすみ、かこむ。3月戊辰、朱全忠は四鎮と魏博の兵10万で、朱友寧に続かせる。
淮南將の李神福は、鄂州を囲む。城中に積荻するのを見て、李神福は監軍の尹建峰にいう。「今夕、あなたのためにあれを焼こう」と。尹建峰はこれを信じない。ときに杜洪は、朱全忠に救援をもとめる。李神福は、部將の秦皋をつかわし、輕舟で灄口にゆかせ、樹杪に放火した。杜洪の救兵がきて、はたして焚獲して応じた。
903年4月、
夏,四月,己卯,以硃全忠判元帥府事。 知溫州事丁章為木工李彥所殺,其將張惠據溫州。
王師範求救於淮南,乙未,楊行密遣其將王茂章以步騎七千救之,又遣別將將兵數萬攻宿州。全忠遣其將康懷英救宿州,淮南兵遁去。夏4月己卯、朱全忠に判元帥府事させる。 知温州事の丁章が、木工の李彦所に殺された。その將の張惠が温州に拠る。
王師範は、淮南に救援をもとめる。5月乙未、楊行密は、王茂章に步騎7千をつけ、王師範を救う。楊行密は、別軍の数万を宿州につかわす。朱全忠は、康懷英に宿州を救わせる。淮南の兵は遁げ去った。
楊行密遣使詣馬殷,言硃全忠跋扈,請殷絕之,約為兄弟。湖南大將許德勳曰:「全忠雖無道,然挾天子以令諸侯,明公素奉王室,不可輕絕也。」殷從之。 杜洪求救於硃全忠,全忠遣其將韓勍將萬人屯灄口,遣使語荊南節度使成汭、武安節度使馬殷、武貞節度使雷彥威,令出兵救洪。汭畏全忠之強,且欲侵江、淮之地以自廣,發舟師十萬,沿江東下。汭作巨艦,三年而成,制度如府署,謂之「和州載」,其餘謂之「齊山」、「截海」、「劈浪」之類甚眾。掌書記李珽諫曰:「今每艦載甲士千人,稻米倍之,緩急不可動也。吳兵剽輕,難與角逐;武陵、長沙,皆吾仇也;豈得不為反顧之慮乎!不若遣驍將屯巴陵,大軍與之對岸,堅壁勿戰,不過一月,吳兵食盡自遁,鄂圍解矣。」汭不聽。珽,□之五世孫也。楊行密は、ひそかに馬殷に使者をおくる。朱全忠を絶やすため、兄弟の関係をむすぶ。湖南大將の許德勳はいう。「朱全忠は無道だが、天子をもち諸侯に号令する。軽々しく朱全忠を絶やすな」と。馬殷は従う。
杜洪は、朱全忠に救援を求めた。朱全忠は、韓勍に1万をつけて灄口に屯させる。荊南節度使の成汭、武安節度使の馬殷、武貞節度使の雷彥威らに使者をだし、杜洪を救わせる。成汭は朱全忠の強さを畏れ、朱全忠が江淮之地の地に侵攻しそうなので、水軍10万で長江にそって東下する。成汭は巨艦を3年かけてつくる。制度(巨艦を動かす体制)は府署と同じで「和州載」という。その他を「齊山」「截海」「劈浪」という。
掌書記の李珽が成汭をいさめた。「巨艦ごとに、兵士が1千のる。稲米がおおく必要で、小回りがきかない。吳兵は剽輕であり、戦いづらい。武陵と長沙も、私たちの仇敵だ。どうして状況をかえりみないか。驍將を巴陵に屯させ、大軍を対岸におき、守って戦わないのが良い。1ヶ月もせず、吳兵は食糧が尽き、鄂州の包囲は解ける」と。李珽は、李[心+登]の五世孫である。
王建出兵攻秦、隴,乘李茂貞之弱也,遣判官韋莊入貢,亦修好於硃全忠。全忠遣押牙王殷報聘,建與之宴。殷言:「蜀甲兵誠多,但乏馬耳。」建作色曰:「當道江山險阻,騎兵無所施。然馬亦不乏,押牙少留,當共閱之。」乃集諸州馬,大閱於星宿山,官馬八千,私馬四千,部隊甚整。殷歎服。建本騎將,故得蜀之後,於文、黎、維、茂州市胡馬,十年之間,遂及茲數。王建は兵をだし、秦州と隴州を攻めた。李茂貞の弱さに乗じて、判官の韋莊を入貢させ、朱全忠に修好した。朱全忠は、押牙の王殷に報聘させ、王建と酒宴した。王殷はいう。「蜀の甲兵はおおいが、馬にとぼしい」と。王建は顔色をかえた。「川があり、山は險阻で、騎兵をつかえない。それに馬は乏しくない。見てほしい」と。王建は、諸州の馬をあつめ、星宿山で見せた。官馬が8千、私馬が4千で、部隊はとても整う。殷歎は服した。王建はもとより騎將である。蜀地を得てから、文、黎、維、茂州から胡馬を購入して、10年で増やしたのだ。
903年5月、
五月,丁未,李克用雲州都將王敬暉殺刺史劉再立,叛降劉仁恭。克用遣李嗣昭、李存審將兵討之。仁恭遣將以兵五萬救敬暉,嗣昭退保樂安,敬暉舉眾棄城而去。先是,振武將契苾讓逐戍將石善友,據城叛。嗣昭等進攻之,讓自燔死。復取振武城,殺吐谷渾叛者二千餘人。克用怒嗣昭、存審失王敬暉,皆杖之,削其官。
成汭行未至鄂州,馬殷遣大將許德勳將舟師萬餘人,雷彥威遣其將歐陽思將舟師三千餘人會於荊江口,乘虛襲江陵,庚戌,陷之,盡掠其人及貨財而去。將士亡其家,皆無鬥志。李神福聞其將至,自乘輕舟前覘之,謂諸將曰:「彼戰艦雖多而不相屬,易制也,當急擊之!」壬子,神福遣其將秦裴、楊戎將眾數千逆擊汭於君山,大破之,因風縱火,焚其艦,士卒皆潰,汭赴水死,獲其戰艦二百艘。韓勍聞之,亦引兵去。
5月丁未、雲州都將の王敬暉が、雲州刺史の劉再立を殺して、劉仁恭に降った。李克用は、李嗣昭と李存審をつかわし、王敬暉を討った。劉仁恭は、兵5万をやって王敬暉をすくう。李継承はしりぞき、樂安をまもる。王敬暉は、城を棄てて去った。これより先、振武將の契苾讓は、守將の石善友を追いはらい、城に拠って叛した。李嗣昭らは進攻し、契苾讓はみずから燔死した。李継承は、振武城を取り返し、吐谷渾の叛者2千余人を殺した。李克用は、李嗣昭(による吐谷渾の殺害に)怒った。李存審は、王敬暉を失っている。李克用は、李嗣昭と李存審に杖刑をくわえ、官職をけずった。
成汭が、鄂州に到着する前のこと。馬殷は許德勳に水軍1万余人をつけ、雷彦威は歐陽思に水軍3千余人をつけ、両者は荊江口で合流した。虚に乗じて、陵を陥落させ、財貨を奪い去った。許德勳と歐陽思の將士は家を失い、闘志がない。李神福は、諸将にいう。「敵の戰艦はおおいが、連携がない。勝てる。撃て」と。5月壬子、李神福は、秦裴と楊戎に数千をつけ、成汭を君山で迎撃した。成汭を大破し、戦艦を焼いた。成汭は水死した。李神福は戦艦2百をえた。韓勍は成汭の敗北をきき、兵を引いて去った。
許德勳還過岳州,刺史鄧進忠開門具牛酒犒軍,德勳諭以禍福,進忠遂舉族遷於長沙。馬殷以德勳為岳州刺史,以進忠為衡州刺史。雷彥威狡獪殘忍,有父風,常泛舟焚掠鄰境,荊、鄂之間,殆至無人。
李茂貞畏硃全忠,自以官為尚書令,在全忠上,累表乞解去。詔復以茂貞為中書令。許徳勲は還り、岳州を過ぎる。岳州刺史の鄧進忠は、軍をねぎらう。許徳勲が禍福をさとし、鄧進忠は一族をあげて長沙にうつる。馬殷は、許徳勲を岳州刺史として、鄧進忠を衡州刺史とする。雷彦威は狡獪で殘忍なので、隣境をかすめる。荊州と鄂州のあいだは、ほとんど人がいなくなる。
李茂貞は朱全忠をおそれた。李茂貞は尚書令であり、朱全忠の上位なので、解任をねがう。昭宗は李茂貞を中書令とした。
崔胤奏:「左右龍武、羽林、神策等軍名存實亡,侍衛單寡;請每軍募步兵四將,每將二百五十人,騎兵一將百人,合六千六百人,選其壯健者,分番侍衛,」從之。令六軍諸衛副使、京兆尹鄭元規立格召募於市。
硃全忠表穎州刺史硃友恭為武寧李度使。崔胤は奏した。「左右の龍武、羽林、神策らの軍は、名はあるが実がない。侍衛が少ない。人をあつめ、侍衛させろ」と。六軍の諸衛副使、京兆尹の鄭元規は、市で兵をつのる。
硃全忠は穎州刺史の朱友恭を武寧李度使とする。
硃友寧攻博昌,月餘不拔。硃全忠怒,遣客將李捍往督之。捍至,友寧驅民丁十餘萬,負木石,牽牛驢,詣城南築土山,既成,並人畜木石排而築之,冤號聲聞數十里。俄而城陷,盡屠之。進拔臨淄,抵青州城下,遣別將攻登、萊。
淮南將王茂章會王師範弟萊州刺史師誨攻密州,拔之,斬其刺史劉康乂,以淮海都游奕使張訓為刺史。硃友寧は、博昌を攻める。月余しても抜けない。朱全忠は怒り、客將の李捍に督戦させた。李捍が到着すると、すぐに博昌を落城させた。臨淄をぬき、青州の城下にくる。別将に、登州と萊州を攻めさせる。
淮南將の王茂章は、王師範の弟である萊州刺史のとあわさり、密州をぬく。莱州刺史の劉康乂を斬る。淮海都游奕使の張訓が、莱州刺史となる。
903年6月、
六月,乙亥,汴兵拔登州。師範帥登、萊兵拒硃友寧於石樓,為兩柵。丙子,夜,友寧擊登州柵,柵中告急,師範趣茂章出戰,茂章案兵不動。友寧破登州柵,進攻萊州柵。比明,茂章度其兵力已疲,乃與師範合兵出戰,大破之。友寧旁自峻阜馳騎赴敵,馬僕,青州將張士梟斬之,傳首淮南。兩鎮兵逐北至米河,俘斬萬計,魏博之兵殆盡。
全忠聞友寧死,自將兵二十萬晝夜兼行赴之。6月乙亥、汴兵が登州をぬく。王師範は、登州と萊州の兵をひきい、硃友寧を石樓でふせぐ。2州では、それぞれ柵をつくる。6月丙子の夜、朱友寧は登州の柵を攻撃した。王師範は、王茂章に出て戦えというが、王茂章は動かない。朱友寧は、登州の柵をやぶり、萊州の柵にすすむ。明けがた、王茂章はすでに疲れているが、王師範とともに兵をあわせ、朱友寧と戦う。朱友寧は、馬僕で青州將の張士に斬られた。朱友寧の首級は、淮南に送られた。2鎮の兵は、北して米河まで朱友寧の軍をおう。1万を俘斬した。魏博の兵はほぼ尽きた。
朱全忠は、朱友寧が死んだと聞き、みずから20万をひきいて、昼夜むかう。
903年7月、
秋,七月,壬子,至臨朐,命諸將攻青州。王師範出戰,汴兵大破之。王茂章閉壘示怯,伺汴兵稍懈,毀柵而出,驅馳疾戰,戰酣退坐,召諸將飲酒,已而復戰。全忠登高望見之,問降者,知為茂章,歎曰:「使吾得此人為將,天下不足平也!」至晡,汴兵乃退。茂章度眾寡不敵,是夕,引軍還。
全忠遣曹州刺史楊師厚追之,及於輔唐。茂章命先鋒指揮使李虔裕將五百騎為殿,虔裕殊死戰,師厚擒而殺之。師厚,穎州人也。
張訓聞茂章去,謂諸將曰:「汴人將至,何以御之?」諸將請焚城大掠而歸。訓曰:「不可。」封府庫,植旗幟於城上,遣羸弱居前,自以精兵殿其後而去。全忠遣左踏白指揮使王檀攻密州,既至,望旗幟,數日乃敢入城。見府庫城邑皆完,遂不復追。訓全軍而還。全忠以檀為密州刺史。秋7月壬子、朱全忠は臨朐にきて、諸将に青州を攻めさせる。王師範は出て戦い、汴兵は王師範をおおいに破る。王茂章は土塁をとざして、怯えてみせた。汴兵が油断すると、いきなり攻めた。朱全忠は高みから戦闘を見て、降者から(奇襲を成功させた、有能な者が)王茂章だと知る。朱全忠は歎じた。「私が王茂章を使えば、天下の平定に足りる」と。晡(夕方)汴兵はひく。王茂章は、自軍の兵がすくないから、ひく。
朱全忠は、曹州刺史の楊師厚に王茂章を追わせ、輔唐で追いつく。王茂章は李虔裕に殿軍を任せるが、楊師厚に殺された。 楊師厚は、頴州の人である。
(密州の守将)張訓は、王茂章が去ったと聞き、諸将にいう。「汴人がくるが(味方の王茂章が敗れた状況で)どうやって防ごうか」と。諸将は、城を焼いて、掠せという。張訓は「だめだ」といい、府庫を封じて、旗幟を城上にたて、精兵を後ろにおいて去った。朱全忠は、左踏白指揮使の王檀に密州を攻めさせる。旗幟を見て、数日してから、あえて入城した。府庫と城邑が完全なので、張訓を追撃しない。張訓は全軍を還せた。朱全忠は、王檀を密州刺史とした。
丁卯,以山南西道留後王宗賀為節度使。
睦州刺史陳詢叛錢鏐,舉兵攻蘭溪,鏐遣指揮使方永珍擊之。武安都指揮使杜建徽與詢連姻,鏐疑之,建徽不言。會詢親吏來奔,得建徽與詢書,皆勸戒之辭,鏐乃悅。建徽從兄建思譖建徽私蓄兵仗,謀作亂。鏐使人索之,建徽方食,使者直入臥內,建徽不顧,鏐以是益親重之。
7月丁卯、山南西道の留後である王宗賀を、節度使とした。
睦州刺史の陳詢は、錢鏐にそむき、蘭溪を攻める。銭鏐は、指揮使の方永珍に陳詢を撃たせた。武安都指揮使の杜建徽は、陳詢と連姻している。銭鏐は杜建徽を疑うが、杜建徽は弁解しない。たまたま陳詢の親吏がにげてきて、杜建徽が陳詢におくった文書を得た。その内容は、すべて陳詢(が銭鏐に叛いたことを)を戒めるものだった。銭鏐は悦ぶ。杜建徽の從兄の杜建思は、杜建徽が兵をやしない、乱を謀るとふきこむ。銭鏐がさぐるが、杜建徽は平然と食事しており、疑いが解けた。
903年8月、
八月,戊辰朔,硃全忠留齊州刺史楊師厚攻青州,身歸大梁。
庚辰,加西川節度使西平王王建守司徒,進爵蜀王。前渝州刺史王宗本言於王建,請出兵取荊南。建從之,以宗本為開道都指揮使,將兵下峽。
8月戊辰ついたち、朱全忠は、齊州刺史の楊師厚をとどめ、青州をせめる。朱全忠はみずから大梁に帰る。
8月庚辰、西川節度使である西平王の王建は、守司徒となり、蜀王に進爵する。
ぼくは補う。いわゆる「前蜀」です。さきの渝州刺史の王宗本は、王建に「出兵して荊南をとりたい」という。王建は従う。王宗本は、開道都指揮使となり、峽水をくだる。
初,寧國節度使田頵破馮弘鐸,詣廣陵謝楊行密,因求池、歙為巡屬,行密不許。行密左右下及獄吏,皆救賂於頵,頵怒曰:「吏知吾將下獄邪!」及還,指廣陵南門曰:「吾不可復入此矣!」頵兵強財富,好攻取。行密既定淮南,欲保境息民,每抑止之,頵不從。及解釋錢鏐,頵尤恨之,陰有叛志。李神福言於行密曰:「頵必反,宜早圖之。」行密曰:「頵有大功,反狀未露,今殺之,諸將人人自危矣!」はじめ、寧國節度使の田頵は、馮弘鐸をやぶり、廣陵にゆき、楊行密に謝し、池州と歙州を巡属したいと求める。楊行密は田頵に許さず。楊行密の左右下および獄吏は、田頵に「賄賂をだせ」という。田頵は怒る。「楊行密の吏は、いまに私が(楊行密によって)下獄されると知っているのか」と。
田頵は還り、廣陵の南門を指さした。「もう南門から広陵に入らないぞ」と。田頵は広陵を攻めとりたい。楊行密はすでに淮南を平定したので、国境を安定させて民を休ませたい。だが田頵は、楊行密に従わない。田頵は銭鏐と和解すると、楊行密をもっとも恨んだ。李神福は楊行密にいう。「田頵は必ず反する。早く殺せ」と。楊行密はいう。「田頵には大功があり、まだ反意が見えない。いま田頵を殺せば、諸将が自らを危ぶむ」と。
頵有良將曰康儒,與頵謀議多不合,行密知之,擢儒為廬州刺史。頵以儒為貳於己,族之。儒曰:「吾死,田公亡無日矣!」頵遂與潤州團練使安仁義同舉兵,仁義悉焚東塘戰艦。頵遣二使詐為商人,詣壽州約奉國節度使硃延壽,行密將尚公乃遇之,曰:「非商人也。」殺一人,得其書,以告行密。行密召李神福於鄂州,神福恐杜洪邀之,宣言奉命攻荊南,勒兵具舟楫。及暮,遂沿江東下,始告將士以討田頵。田頵には、康儒という良将がいる。康儒が田頵と意見があわない。楊行密は、康儒を廬州刺史にひきぬいた。田頵は、康儒に二心があると思い、族殺した。康儒は「私は死ぬが、田頵の滅亡もすぐだ」という。
田頵は、潤州團練使の安仁義とともに挙兵した。安仁義は、東塘の戰艦をすべて焼いた。田頵は、ある2名を商人に化けて壽州にゆかせ、奉國節度使の朱延寿と盟約した。楊行密の将・尚公乃は、朱延寿にあった。「(田頵の使者が)商人でない」と見ぬき、1人を殺して文書を得て、楊行密に(田頵が朱延寿を誘って、楊行密に叛こうとすると)告げた。楊行密は、李神福を鄂州に召した。李神福は、杜洪がこれをむかえる?ことを恐れ、奉命を宣言して荊南を攻める。暮れに長江に沿って東下し、はじめて将士に「田頵を討つ」と告げた。
己丑,安仁義襲常州,常州刺史李遇逆戰,極口罵仁義,仁義曰:「彼敢辱我,必有備。」乃引去。壬辰,行密以王茂章為潤州行營招討使,擊仁義,不克,使徐溫將兵會之。溫易其衣服旗幟,皆如茂章兵,仁義不知益兵,復出戰,溫奮擊,破之。
行密夫人,硃延壽之姊也。行密狎侮延壽,延壽怨怒,陰與田頵通謀。頵遣前進士杜荀鶴至壽州,與延壽相結,又遣至大梁告硃全忠,全忠大喜,遣兵屯宿州以應之。荀鶴,池州人也。8月己丑、安仁義は常州を襲う。常州刺史の李遇は迎撃して、安仁義を罵る。安仁義は「李遇が私を罵った。ゆえに李遇には(私の攻撃に対する)備えがあるだろう」と。安仁義はひく。8月壬辰、楊行密は、王茂章を潤州行營招討使として、安仁義を撃たせる。王茂章は安仁義に克たず。楊行密は、徐温を王茂章に合流させた。徐温は衣服と旗幟を変えて、王茂章の兵のふりをした。安仁義は、王茂章の兵が増えたと気づかず、徐温に破られた。
ぼくは思う。唐末は、きわめて機械的に戦闘ばかりしている。ここまで戦闘をしないと、大唐は滅びないのか。そして、『通鑑』の記述がおおいわりには、時間が全然たっていない。前の巻から、半年ぐらい。楊行密の夫人は、朱延寿の姉である。楊行密が朱延寿をあなどるので、朱延寿は田頵と通謀した。田頵は、前進士の杜荀鶴を壽州にゆかせ、朱延寿と相結した。田頵は杜荀鶴を大梁にゆき、朱全忠に味方するという。朱全忠は大喜して、兵を宿州におき、田頵に応じた。杜荀鶴は、池州の人である。
903年9月、楊行密が朱延寿を殺す
楊師厚屯臨朐,聲言將之密州,留輜重於臨朐。九月,癸卯,王師範出兵攻臨朐,師厚伏兵奮擊,大破之,殺萬餘人,獲師範弟師克。明日,萊州兵五千救青州。師厚邀擊之,殺獲殆盡,遂徙寨抵其城下。
硃延壽謀頗洩,楊行密詐為目疾,對延壽使者多錯亂所見,或觸柱仆地。謂夫人曰:「吾不幸失明,諸子皆幼,軍府事當悉以授三舅。」夫人屢以書報延壽,行密又自遣召之,陰令徐溫為之備。延壽至廣陵,行密迎及寢門,執而殺之。部兵驚擾,徐溫諭之,皆聽命,遂斬延壽兄弟,黜硃夫人。初,延壽赴召,其妻王氏謂曰:「君此行吉凶未可知,願日發一使以安我!」一日,使不至,王氏曰:「事可知矣!」部分僮僕,授兵闔門,捕騎至,乃集家人,聚寶貨,發百燎焚府捨,曰:「妾誓不以皎然之軀為仇人所辱。」赴火而死。延壽用法嚴,好以寡擊眾,嘗遣二百人與汴兵戰,有一人應留者,請行,延壽以違命,立斬之。楊師厚は臨朐に屯する。密州にゆくぞといい、輜重を臨朐にとどめる。9月癸卯、王師範は臨朐を攻める。楊師厚は伏兵で王師範をやぶる。王師範の弟の王師克をとらえる。翌日、萊州の兵5千が、青州をすくう。楊師厚は迎撃し、莱州の兵をほとんど殺す。兵塞をうつし、青州の城下にあたる。
朱延寿は、謀略がもれた。楊行密は眼病といつわり、朱延寿の使者の前で(わざと)ぶつかって転倒した。楊行密は夫人にいう。「私は失明した。諸子はみな幼い。軍府のことは、3舅に権限を授ける」と。夫人はしばしば朱延寿に文書をおくる。楊行密は朱延寿をよぶ。楊行密はひそかに徐温に(朱延寿を)備えさせた。
朱延寿は広陵にゆく。楊行密は朱延寿を迎える。寢門におよび、朱延寿を捕らえて殺した。朱延寿の部兵は驚擾したが、徐温が鎮めた。朱延寿の兄弟を殺し、朱夫人を黜した。
はじめ朱延寿が、楊行密の召しに応じるとき、妻の王氏がいう。「吉凶が分からない。日ごとに使者を出して(朱延寿の様子を伝えて)私を安心させてくれ」と。1日目で、使者が妻の王氏のもとにこない。王氏はいう。「事情がわかってしまった」と。王氏は家人をあつめ、宝貨をあつめ、府捨を焼いた。「私は仇敵に辱められない」と。焼身して自殺した。朱延寿が軍法を厳しく執行した。寡兵で敵をやぶるのを好み、かつて2百人で汴兵と戦ったことがあった。進撃せずに残る者を(命令の違反として)斬った。
ぼくは思う。いかにもなエピソードをもってきた。朱延寿は、これにて『通鑑』から退場するということが、よくわかる。
田頵襲升州,得李神福妻子,善遇之。神福自鄂州東下,頵遣使謂之曰:「公見機,與公分地而王;不然,妻子無遺!」神福曰:「吾以卒伍事吳王,今為上將,義不以妻子易其志。頵有老母,不顧而反,三綱且不知,烏足與言乎!」斬使者而進,士卒皆感勵。頵遣其將王檀、汪建將水軍逆戰。丁未,神福至吉陽磯,與壇、建遇。壇、建執其子承鼎示之,神福命左右射之。神福謂諸將曰:「彼眾我寡,當以奇取勝。」及暮,合戰,神福陽敗,引舟溯流而上。壇、建追之,神福復還,順流擊之。壇、建樓船大列火炬,神福令軍中曰:「望火炬則擊之。」壇、建軍皆滅火,旗幟交雜,神福因風縱火,焚其艦,壇、建大敗,士卒焚溺死者甚眾。戊申,又戰於皖口,壇、建僅以身免。獲徐綰,行密以檻車載之,遺錢鏐。鏐剖其心以祭高渭。
頵聞壇、建敗,自將水軍逆戰,神福曰:「賊棄城而來,此天亡也!」臨江堅壁不戰,遣行告行密,請發步兵斷其歸路。行密遣漣水制置使台濛將兵應之。王茂章攻潤州,久未下,行密命茂章引兵會濛擊頵。田頵は升州を襲い、李神福の妻子をとらえ、これを善遇した。李神福は鄂州から東下した。田頵は李神福に使者をおくっていう。「私と地を分けて王になろう。さもなくば妻子を返さない」と。李神福はいう。「私は卒伍として呉王につかえ、上将にしてもらった。妻子のことで、志を変わらない。田頵には老母がいるが、老母を放置する。そんな田頵と組めるかよ」と。
李神福は、田頵の使者を斬った。士卒はみな感勵した。田頵は、将の王檀と汪建をおくり、水軍で李神福を迎撃する。
9月丁未、李神福は吉陽磯にくる。王檀と汪建に遭遇した。王檀と汪建は、李神福の子の李承鼎をしめした。李神福は左右に命じ、李承鼎を射させた。李神福は諸将にいう。「敵軍はおおく、自軍はすくない。奇策で勝とう」と。日暮に、李神福はいつわって負けたふりをして、ぎゃくに王檀と汪建の戦艦を焼いた。9月戊申、皖口で戦い、王檀と汪建はかろうじて逃げた。徐綰をとらえた。楊行密は、とらえた徐幹を、檻車で銭鏐に送った。銭鏐は、徐幹の心臓を高渭に祭った。
田頵は、王檀と汪建が敗れたので、自ら水軍でくる。李神福はいう。「賊の田頵は、城を棄てて出てきた。これは天が田頵を滅亡させたのだ」と。長江を堅めて、李神福は田頵と戦わない。李神福は、楊行密に「田頵が出てきた」と告げ、田頵の退路を断たせた。楊行密は、漣水制置使の台濛に兵をひきいさせ、田頵の退路をふさぐ。王茂章は潤州を攻めるが、久しく陥ちない。楊行密は、王茂章に兵をひかせ、台濛に合流させ、田頵をうつ
辛亥,汴將劉重霸拔棣州,執刺史邵播,殺之。
甲寅,硃全忠如洛陽,遇疾,復還大梁。
戊午,王師範遣副使李嗣業及弟師悅請降於楊師厚,曰:「師範非敢背德,韓全誨、李茂貞以硃書御札使之舉兵,師範不敢違。」仍請以其弟師魯為質。時硃全忠聞李茂貞、楊崇本將起兵逼京畿,恐其復劫天子西去,欲迎車駕都洛陽,乃受師範降,選諸將使守登、萊、淄、棣等州,即以師範權淄青留後。師範仍言先遣行軍司馬劉鄩將兵五千據兗州,非其自專,願釋其罪。亦遣使語鄩。
9月辛亥、汴將の劉重霸は棣州をぬく。棣州刺史の邵播をころす。
9月甲寅、朱全忠は洛陽にゆくが、病気になり大梁にもどる。
9月戊午、王師範は、副使の李嗣業と、弟の王師悦をつかわし、楊師厚に降りたいという。李嗣業はいう。「王師範は、あえて背徳をしたのでない。韓全誨、李茂貞に逆らえなかっただけ」と。王師範の弟・王師魯を、楊師厚のもとの人質にするという。ときに朱全忠は、李茂貞と楊崇本が起兵して、京畿にせまると聞く。李茂貞に昭宗を西へ連れ去られるのを恐れた。朱全忠は昭宗を洛陽におきたい。ゆえに朱全忠は、王師範の投降を受け入れ、諸将から選び、登、萊、淄、棣らの州を守らせた。朱全忠は王師範に、淄青留後を權させた。 王師範は「さきに行軍司馬の劉鄩に5千をつけて、兗州に拠らせたが、これは私が専決したのでない」といい、(劉鄩を兗州に置いた)罪を許せと朱全忠にいう。また王師範は、劉鄩に使者をだして、事情をつたえる。
903年冬10月、
田頵聞台濛將至,自將步騎逆戰,留其將郭行頵以精兵二萬及王壇、汪建水軍屯蕪湖,以拒李神福。覘者言:「濛營寨褊小,才容二千人。」頵易之,不召外兵。濛入頵境,番陳而進,軍中笑其怯,濛曰:「頵宿將多謀,不可不備。」冬,十月,戊辰,與頵遇於廣德。濛先以楊行密書遍賜頵將,皆下馬拜受。濛因其挫伏,縱兵擊之,頵兵遂敗。又戰於黃池,兵交,濛偽走,頵追之,遇伏,大敗,奔還宣州城守,濛引兵圍之。頵亟召蕪湖兵還,不得入。郭行悰、王壇、汪建及當塗、廣德諸戍皆帥其眾降。行密以台濛已破田悰,命王茂章復引兵攻潤州。田頵は、台濛がくるときき、みずから迎撃する。將の郭行頵に精兵2万をつけて留め、王壇と汪建に水軍で蕪湖に屯させ、李神福をふせがせる。覘者はいう。「台濛の営寨は小さい。2千人を収容するくらいか」と。田頵は台濛の兵が少ないと思い、外兵を召さない。台濛が田頵との境界に入るとき、台濛の軍中は、田頵の怯をわらった。台濛はいう。「田頵の宿將は謀がおおい。備えろ」と。
冬10月戊辰、台濛と田頵は、廣德で遭遇した。台濛は、さきに楊行密の文書を、すべての田頵の将におくる。みな下馬して、楊行密の文書を拜受した。台濛の根回しにより、田頵はやぶれた。黃池で戦い、台濛はいつわって逃げて伏兵をつかう。田頵は敗れて、宣州に逃げる。
ぼくは思う。正史『三国志』『後漢書』『晋書』で、伏兵の記述ってどれくらいあったっけ。記憶がない。『三国演義』では定番だけど。『資治通鑑』で唐末を読んでると、いつわって逃げ、伏兵により敵将を捕らえる、という話が頻出する。『三国演義』の空気に似てる。戦術が変遷したのか、記述の仕方が変遷したのか。田頵は宣州の城を守る。台濛がかこむ。田頵は蕪湖の兵をもどすが、宣州に入れられない。郭行悰、王壇、汪建および、當塗と廣德の諸戍は、みな台濛に投降した。楊行密は、台濛が田頵をやぶったので、王茂章に兵をもどさせ、王茂章に潤州を攻めさせる。
初,夔州刺史侯矩從成汭救鄂州,汭死,矩奔還。會王宗本兵至,甲戌,矩以州降之,宗本遂定夔、忠、萬、施四州。王建復以矩為夔州刺史,更其姓名曰王宗矩。宗矩,易州人也。蜀之議者,以瞿唐,蜀之險要,乃棄歸、峽,屯軍夔州。建以宗本為武泰留後。武泰軍舊治黔州,宗本以其地多瘴癘,清徙治涪 州,建許之。はじめ、夔州刺史の侯矩は、成汭に従って鄂州を救う。成汭が死ぬと、侯矩は夔州に奔げ還る。このとき王宗本の兵がきた。10月甲戌、侯矩は夔州をあげて、王宗本にくだる。王宗本は、夔、忠、萬、施の4州を降した。王建は、侯矩を夔州刺史に任命しなおし、姓名を王宗矩と改めさせる。王宗矩は易州の人。蜀の議者は、瞿唐蜀が險要なので、歸州と峽州をすてて、夔州にきた。
王建は、王宗本を武泰留後とした。武泰の軍のもとの治所は黔州である。王宗本は、黔州が瘴癘な地なので、王建にたのみ、治所を涪 州に移してもらった。
いま、にゃもさんがツイートされてて、気になった。
@AkaNisin さんはいう。禅譲の危機に瀕する東晋末と受禅を拠り所とする新王朝では当然正統観も違いますよね。『後漢紀』や『漢晋春秋』が盛り上げた蜀漢正統・漢晋継承を、范曄『後漢書』は採らないし。
ぼくはいう。歴史を記述するなら、正統の理論に対する姿勢を明らかにする(もしくは自然と明らかになる)のか。歴史を記述するなら(私撰でも)同時代を支配する王朝が頂いている正統の理論を(対抗的に批判するにせよ)反映する(or反映してしまう)のか。この2つは、どこまで自明として良いか。どちらも「民族誌的奇習」だよね。異文化圏(時代も土地もちがい、さらに西洋か東洋か、依拠する主要な文化系統すら違う)のぼくらは慎重に吟味せねば!
さらにいう。史料を読むときでも、会社で働くときでも。さながら前世紀の文化人類学者のような気持ちで臨むと楽しめる。「当事者は真剣そのものだが、はたから見ると、意味がさっぱり分からない。でも何らかの意味があるはずだ。彼らも自分も、同じ人間なのだから」という視点。飽きない「民族誌的奇習」の世界。
葛從周急攻兗州,劉鄩使從周母乘板輿登城,謂從周曰:「劉將軍事我不異於汝,新婦輩皆安居,人各為其主,汝可察之。」從周歔欷而退,攻城為之緩。鄩悉簡婦人及民之老疾不足當敵者出之,獨與少壯者同辛苦,分衣食,堅守以扞敵。號令整肅,兵不為暴,民皆安堵,久之,外援既絕,節度副使王彥溫逾城出降,城上卒多從之,不可遏。鄩遣人從容語彥溫曰:「軍士非素遣者,勿多與之俱。」又遣人徇於城上曰:「軍士非素遣從副使而敢擅往者,族之!」士卒皆惶惑不敢出。敵人果疑彥溫,斬之城下,由是眾心益固。葛従周は、兗州を急攻した。劉鄩は葛従周の母を板輿にのせ、城壁の上にだし、葛従周にいう。「劉鄩の事業は、葛従周と同じである。新婦たちは安居している。人にはそれぞれ主君がある。わかってくれ」と。葛従周は歔欷して退き、攻城をゆるめた。 劉鄩は、婦人や老疾で、敵軍と戦えない者を、城外にだす。少壯と辛苦を共有し、衣食を分け、敵をふせぐ。節度副使の王彦温は、城壁をこえて降った。兵卒が王彦温に従って城外にくだるが、劉鄩はとめない。劉鄩は王彦温にいう。「軍士をつれてくな」と。また劉鄩は城上に使者をめぐらせて「もとから王彦温の部下でないのに、王彦温について城外に行く者は、族殺にする」と。士卒は惶惑して、城外に出ない。城外では、王彦温を疑い、城下で王彦温を斬った。これにより城内は劉鄩のともで士気をかためた。
及王師範力屈,從周以禍福諭之,鄩曰:「受王公命守此城,一旦見王公失勢,不俟其命而降,非所以事上也。」及師範使者至,丁丑,始出降。從周為具繼裝,送鄩詣大梁。鄩曰:「降將未受梁王寬釋之命,安敢乘馬衣裘乎!」乃素服乘驢至大梁。全忠賜之冠帶,辭;請囚服入見,不許。全忠慰勞,飲之酒,辭以量小。全忠曰:「取兗州,量何大邪!」以為元從都押牙。是時四鎮將吏皆功臣、舊人,鄩一旦以降將居其上,諸將具軍禮拜於廷,鄩坐受自如,全忠益奇之。未幾,表為保大留後。葛從周久病,全忠以康懷英為泰寧節度使代之。王師範が(朱全忠に)屈したので、葛従周は禍福を劉鄩にさとした。劉鄩はいう「私は王師範から守城を命じられた。王師範が勢力をうしない、すぐに降るのは良くない」と。王師範の使者が来てから、劉鄩は10月丁丑に、はじめて降った。葛従周は、劉鄩を大梁におくる。
劉鄩はいう。「降将である私は、まだ朱全忠から許されていない。乗馬と衣裘をして良いものか」と。素服でロバのり、大梁にゆく。朱全忠は劉鄩に冠帶をたまう。劉鄩は辞して、囚服を着たがる。朱全忠は劉鄩を慰勞して、酒を飲ます。辞は量小を以て?す。朱全忠はいう。「兗州を取れたことは、量は何と大ならん?や」と。朱全忠は劉鄩を、元從都押牙とする。このとき四鎮の將吏は、みな功臣や舊人である。劉鄩は降将のくせに、将吏の上位となる。諸将が軍糧をそなえて朝廷に拝するとき、劉鄩は自ら受けとりにゆく。朱全忠は劉鄩を奇とした。すぐに朱全忠は表して、劉鄩を保大留後とした。葛従周はひさしく病気なので、朱全忠は康懐英を泰寧節度使として、葛従周に代えた。
辛巳,宿衛都指揮使硃友倫與客擊球於左軍,墜馬而卒。全忠悲怒,疑崔胤故為之,凡與同戲者十餘人盡殺之,遣其兄子友諒代典宿衛。
山南東道節度使趙匡凝遣兵襲荊南,朗人棄城走,匡凝表其弟匡明為荊南留後。時天子微弱,諸道財賦多不上供,惟匡凝兄弟委輸不絕。
楊行密求兵於錢鏐,鏐遣方永珍屯潤州,從弟鎰屯宣州。又遣指揮使楊習攻睦州。10月辛巳、宿衛する都指揮使の朱友倫は、左軍にて客擊球で遊び、落馬して卒した。朱全忠は悲怒して、崔胤のせいだと疑った。一緒に遊んだ10余人が、全殺された。兄子の朱友諒に、朱友倫の代わりに宿衛を典させた。
山南東道節度使の趙匡凝は、荊南をおそう。朗州の人は、城を棄ててにげた。趙匡凝は表して、弟の趙匡明を荊南留後とした。ときに天子が微弱なので、諸道の財賦は、おおくが上供されない。ただ趙匡凝の兄弟だけは、上供を絶やさない。
楊行密は、錢鏐に兵をもとめた。銭鏐は、方永珍を潤州に屯させた。從弟の銭鎰を宣州に屯させた。指揮使の楊習は、睦州を攻めた。
903年11月、
鳳翔、邠州屢出兵近京畿,硃全忠疑其復有劫遷之謀,十一月,發騎兵屯河中。鳳翔と邠州は、しばしば出兵して、京畿に近づく。朱全忠は、ふたたび昭宗が鳳翔に連れ去られるのを疑った。11月、騎兵を発して、河中に屯させた。
903年12月、田頵が斬られ、楊行密が悲しむ
十二月,乙亥,田頵帥死士數百出戰,台濛陽退以示弱。頵兵逾濠而鬥,濛急擊之。頵不勝,還走城,橋陷墜馬,斬之,其眾猶戰,以頵首示之,乃潰,濛遂克宣州。初,行密與頵閭裡,少相善,約為兄弟,及頵首至廣陵,行密視之泣下,赦其母殷氏,行密與諸子皆以子孫禮事之。行密以李神福為寧國節度使,神福以杜洪未平,固讓不拜。宣州長史合肥駱知祥善治金谷,觀察牙推沈文昌為文精敏,嘗為頵草檄罵行密,行密以知祥為淮南支計官,文昌為節度分推。文昌湖州人也。
初,頵每戰不勝,輒欲殺錢傳瓘,其母及宣州都虞候郭師從常保護之。師從,合肥人,頵之婦弟也。頵敗,傳瓘歸杭州,錢鏐以師從為鎮東都虞候。
12月乙亥、田頵は死士を数百ひきいて、戦い出る。台濛は、いつわって撤退して、弱いふりをした。田頵は濠水を越えてたたかう。台濛がいきなり反撃した。田頵は城に逃げ帰る。橋がおち、馬からおち、田頵は斬られた。なお田頵の軍衆は戦う。台濛が田頵の首級を示すと、潰走した。ついに台濛は宣州に勝った。
はじめ楊行密は、田頵と同郷で、約して兄弟となる。田頵の首級が広陵にくると、楊行密は泣下して、田頵の母の殷氏をゆるす。楊行密と諸子は、田頵の母に対して子孫の礼でつかえた。楊行密は、李神福を寧國節度使とした。李神福は、杜洪を平定していないので、固辞した。宣州長史する合肥の駱知祥は、うまく金穀を管理する。觀察牙推の沈文昌は、文を精敏につくる。かつて沈文昌は、田頵のために代筆して、楊行密を罵る文書をつくった。楊行密は、駱知祥を淮南の支計官とした。沈文昌に節度分推させた。沈文昌は、湖州の人である。
はじめ田頵は敗戦のたび、錢傳瓘を殺そうとした。田頵の母と、宣州都虞候の郭師従は、つねに錢傳瓘を保護した。郭師従は、合肥の人であり、田頵の婦弟である。田頵がやぶれると、銭傳鐐は杭州に帰った。占領は、郭師従を鎮東都虞候とした。
辛巳,以禮部尚書獨孤損為兵部侍郎、同平章事。損,及之從曾孫也。中書侍郎兼戶部尚書、同平章事裴贄罷為左僕射。左僕射致仕張濬居長水,王師範之舉兵,濬豫其謀。硃全忠將謀篡奪,恐濬扇動籓鎮,諷張全義使圖之。丙申,全義遣牙將楊麟將兵詐為劫盜,圍其墅而殺之。永寧縣吏葉彥素為濬所厚,知麟將至,密告濬子格曰:「相公禍不可免,郎君宜自為謀。」謂格曰:「汝留則俱死,去則遺種。」格哭拜而去,葉彥帥義士三十人送之渡漢而還,格遂自荊南入蜀。12月辛巳、禮部尚書の独孤損は、兵部侍郎、同平章事となる。独孤損は、独孤及の從曾孫である。中書侍郎兼戶部尚書、同平章事の裴贄は、罷官され、左僕射となる。左僕射致仕の張濬は長水にいる。王師範が挙兵すると、張濬は謀をあずかる。朱全忠が簒奪をはかると、張濬が藩鎮を扇動するのを恐れた。張全義に諷して、張濬を殺させようとした。
12月丙申、張全義は、牙將の楊麟に兵をつけ、劫盜といつわり、張濬を囲ませた。永寧縣吏の葉彦は、ふだんから張濬に厚遇される。楊麟が張濬を殺しにきたと聞き、ひそかに張濬の子・張格につげる。「張濬は禍いを免れない。張格はみずから謀をなしとけ。父の張濬のもとに留まれば死ぬ。去って子孫をのこせ」と。張格は哭拜して去った。葉彦は、義士30人をつれて、張格が漢水をわたるのを見送る。張格は、荊南から蜀地に入る。
劉仁恭が契丹をだまし、崔胤が簒奪を警戒する
盧龍節度使劉仁恭習知契丹情偽,常選將練兵,乘秋深入,逾摘星嶺擊之,契丹畏之。每霜降,仁恭輒遣人焚塞下野草,契丹馬多饑死,常以良馬賂仁恭買牧地。契丹王邪律阿保機遣其妻兄述律阿缽將萬騎寇渝關,仁恭遣其子守光戍平州,守光偽與之和,設幄犒饗於城外,酒酣,伏兵執之以入。虜眾大哭,契丹以重賂請於仁恭,然後歸之。
盧龍節度使の劉仁恭は、契丹の情偽を習知する。つねに練兵をひきい、秋に乗じて、摘星嶺で契丹を撃ち、契丹に畏れられた。霜が降りると、劉仁恭は塞下の野草を焼く。契丹の馬は、おおくが饑死した。契丹は、良馬を劉仁恭にさしだし、劉仁恭から牧地を買った。
契丹王の邪律阿保機は、妻兄の述律阿缽をつかわし、1万騎で渝關を寇した。劉仁恭は、子の劉守光に平州を守らせる。劉守光はいつわって契丹と和睦し、城外にまねいて、契丹をとらえた。契丹=虜衆は大哭した。契丹は、劉仁恭に賂いを重ね、劉仁恭に帰した。
初,崔胤假硃全忠兵力以誅宦官,全忠既破李茂貞,併吞關中,威震天下,遂有篡奪之志。胤懼,與全忠外雖親厚,私心漸異,乃謂全忠曰:「長安密邇茂貞,不可不為守禦之備。六軍十二衛,但有空名,請召募以實之,使公無西顧之憂。」全忠知其意,曲從之,陰使麾下壯士應募以察其變。胤不之知,與鄭元規等繕治兵仗,日夜不息。及硃友倫死,全忠益疑胤,且欲遷天子都洛,恐胤立異。はじめ崔胤は、朱全忠の兵力をかりて、宦官を誅した。朱全忠が李茂貞をやぶり、関中を併呑すると、簒奪の志をもった。崔胤はおそれ、朱全忠と親厚するふりをして、内心は警戒した。崔胤は朱全忠にいう。「長安は李茂貞に近い。守備に適さない。6軍12衛は、名だけで実がない。兵をつのり、西方の憂いをなくそう」と。朱全忠は、崔胤の(朱全忠を牽制する)意図を知るから、崔胤の提案をまげる。朱全忠は、麾下の壯士に兵をつのらせ、政変にそなえる。
崔胤は、うまくいかないと知り、鄭元規とともに兵仗を繕治して、日夜やすまらない。朱友倫が死ぬと、朱全忠は、ますます崔胤を疑う。朱全忠は、天子を洛陽にうつしたい。崔胤が(朱全忠に不利な、昭宗とは別の)天子を立てるのを恐れた。130803
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- -904年4月、朱全忠が昭宗から簒奪しそう
昭宗聖穆景文孝皇帝下之上天祐元年(甲子,公元九零四年)
904年春正月、朱全忠が崔胤を殺す!
春,正月,全忠密表司徒兼侍中、判六軍十二衛事、充鹽鐵轉運使、判度支崔胤專權亂國,離間君臣,並其黨刑部尚書兼京兆尹、六軍諸衛副使鄭元規、威遠軍使陳班等,皆請誅之。乙巳,詔責授胤太子少傅、分司,貶元規循州司戶,班湊州司戶。丙午,下詔罪狀胤等。以裴樞判左三軍事、充鹽鐵運使,獨孤損判右三軍事、兼判度支。胤所募兵並縱遣之。以兵部尚書崔遠為中書侍郎,翰林學士、左拾遺柳璨為右諫議大夫,並同平章事。璨,公綽之從孫也。戊申,硃全忠密令宿衛都指揮使硃友諒以兵圍崔胤第,殺胤及鄭元規、陳班並胤所親厚者數人。春正月、朱全忠はひそかに表した。「司徒兼侍中、判六軍十二衛事、充鹽鐵轉運使、判度支の崔胤は、専権して国をみだす。君臣を離間させる。崔胤の党与である、刑部尚書兼京兆尹、六軍諸衛副使の鄭元規と、威遠軍使の陳班らを、みな誅したい」と。
正月乙巳、昭宗は詔して、崔胤と鄭元規を責めた。崔胤を太子少傅、分司とした。鄭元規を、循州司戶,班湊州司戶とした(降格した)。正月丙午、詔して、崔胤の罪状をいう。裴枢を、判左三軍事、充鹽鐵運使,獨孤損判右三軍事、兼判度支とした。崔胤がつのった兵を、裴枢がつかう。兵部尚書の崔遠を中書侍郎とした。翰林學士、左拾遺の柳璨を右諫議大夫とした。崔遠と柳璨は、どちらも同平章事した。柳璨は、柳公綽の從孫である。
正月戊申、朱全忠はひそかに宿衛都指揮使の硃友諒に、崔胤の第を囲ませた。崔胤と鄭元規を殺した。崔胤に親厚した者を数人殺した。
初,上在華州,硃全忠屢表請上遷都洛陽,上雖不許,全忠常令東都留守佑國軍節度使張全義繕修宮室。全忠之克邠州也,質靜難軍節度使楊崇本妻子於河中。崇本妻美,全忠私焉,既而歸之。崇本怒,使謂李茂貞曰:「唐室將滅,父何忍坐視之乎!」遂相與連兵侵逼京畿,複姓名為李繼徽。己酉,全忠引兵屯河中。丁巳,上御延喜樓,硃全忠遣牙將寇彥卿奉表,稱邠、歧兵逼畿甸,請上遷都洛陽。及下樓,裴樞已得全忠移書,促百官東行。戊午,驅徙士民,號哭滿路,罵曰:「賊臣崔胤召硃溫來傾覆社稷,使我曹流離至此!」老幼繈屬,月餘不絕。はじめ、昭宗は華州にいた。朱全忠はしばしば表して、昭宗を洛陽にうつしたい。昭宗は許さないが、朱全忠の指示により、東都留守佑國軍節度使の張全義が、洛陽の宮室を繕修した。朱全忠が邠州で勝つと、質靜難軍節度使の楊崇本の妻子が、河中にくる。楊崇本の本妻は美しく、朱全忠がうばった。楊崇本が怒り、使者を李茂貞に送っていう。「唐室が滅びそうだ。座視してるなよ」と。ついに李茂貞は、京師にせまった。楊崇本は、李繼徽ともいう。
正月己酉、朱全忠は兵を河中にひく。正月丁巳、昭宗は延喜樓にゆく。朱全忠は、牙將の寇彥卿に表を奉らせ、「邠州と歧州の兵が畿甸にせまるから、昭宗は洛陽にうつれ」という。昭宗が延喜樓を降りると、裴樞はすでに朱全忠の文書を得ており、百官に東行を促した。正月戊午、士民を洛陽にかりたてた。士民は罵った。「賊臣の崔胤が、朱全忠を召したせいで、社稷が傾覆した。私たちを(洛陽への移住を強制するという)境遇にした」と。老幼繈がつづき、1ヶ月余で行列が絶えた。
壬戌,車駕發長安,全忠以其將張廷范為御營使,毀長安宮室百司及民間廬舍,取其材,浮渭河而下,長安自此遂丘墟矣。全忠發河南、北諸鎮丁匠數萬,令張全義治東都宮室,江、浙、湖、嶺諸鎮附全忠者,皆輸貨財以助之。甲子,車駕至華州,民夾道呼萬歲,上泣謂曰:「勿呼萬歲,朕不復為汝主矣!」館於興德宮,謂侍臣曰:「鄙語云:『紇干山頭凍殺雀,何不飛去生處樂。」朕今漂泊,不知竟落何所!」因泣下沾襟,左右莫能仰視,正月壬戌、車駕は長安を発した。朱全忠は、将の張廷范を御營使とする。長安の宮室と、百司および民間の廬舍を壊す。その木材を、渭河に浮かべて流す。長安は丘墟となった。朱全忠は、河南と北諸鎮の丁匠を數萬あつめて、張全義に東都の宮室を修繕させた。江、浙、湖、嶺の諸鎮のうち、朱全忠に付す者は、みな貨財を運んで、修繕をたすける。
正月甲子、車駕は華州にいたる。民は道をはさみ、万歳を呼す。昭宗は泣いていう。「万歳を呼すな。ふたたび私は、民たちの主君になれない」と。興德宮に館して、昭宗は侍臣にいう。「鄙語では、紇干山頭凍殺雀、何不飛去生處樂、という。私は漂泊して、落ち着く場所を知らない」と。泣下して襟をぬらす。左右は(いたたまれなくて、昭宗を)仰視できない。
904年2月、昭宗が王建にたすけを求める
二月,乙亥,車駕至陝,以東都宮室未成,駐留於陝。丙子,全忠自河中來朝,上延全忠入寢室見何后,后泣曰:「自今大家夫婦委身全忠矣!」
甲申,立皇子禎為端王,祁為豐王,福為和王,禧為登王,祐為嘉王。
上遣間使以御札告難於王建,建以邛州剌史王宗祐為北路行營指揮使,將兵會鳳翔兵迎車駕,至興平,遇汴兵,不得進而還。建始自用墨制除官,云「俟車駕還長安表聞。」2月乙亥、車駕は陝州にいたる。東都の宮室が完成しないので、陝州にとどまる。2月丙子、朱全忠は河中から来朝した。昭宗は、朱全忠を延して、寢室に入って何后に会った。何后は泣く。「今より私たち皇帝の夫婦は、朱全忠に身を委ねたのだ」と。
2月甲申、皇子の李禎を端王とした。李祁を豐王とした。李福を和王とした。李禧を登王とした。李祐を嘉王とした。
ぼくは思う。禅譲の前に、いちど王爵をバラまく。曹操と同じ。昭宗は、間使をおくり、御札をもって王建に、困難な状況をつたえた。王建は、邛州剌史の王宗祐を北路行營指揮使として、鳳翔の兵とあわさり、昭宗を朱全忠から取り戻そうとする。興平にいたり、汴兵と遭遇したので、進めずに還る。王建は、はじめて墨制を用いて除官した。王建は「車駕をまち、長安に還り、上表を昭宗に伝えよう」という。
ぼくは思う。前蜀の王建が、昭宗の味方なのか。献帝は、劉備にこういう頼り方をしなかった。もし劉備が、後漢の献帝に信用されており、献帝が禅譲を不本意に思うなら。劉備に「たすけて」という使者が立ったはず。蜀漢の「後漢をつぐ」という国是は片思い。献帝の意志ではなかろう。献帝から見れば、劉備も、劉表も劉璋も同じ、半独立の軍閥だろう。
@goushuouji さんはいう。唐の場合は安史の乱で玄宗が蜀に避難した故事があるからかも。
ぼくはいう。長安からだと、蜀は地理的に近く、実際の助けになりそうです。
904年3月、
三月,丁未,以硃全忠兼判左、右神策及六軍諸衛事。癸丑,全忠置酒私第,邀上臨幸。乙卯,全忠辭上,先赴洛陽督修宮室。上與之宴群臣,既罷,上獨留全忠及忠武節度使韓建飲,皇后出,自捧玉卮以飲全忠,晉國夫人可證附上耳語。建躡全忠足,全忠以為圖己,不飲,陽醉而出。全忠奏以長安為佑國軍,以韓建為佑國節度使,以鄭州刺史劉知俊為匡國節度使。丁巳,上復遣間使以絹詔告急於王建、楊行密、李克用等,令糾帥籓鎮以圖匡復,曰:「朕至洛陽,則為所幽閉,詔敕皆出其手,朕意不復得通矣!」
3月丁未、朱全忠は、左右神策および六軍諸衛事を兼判した。3月癸丑、朱全忠は私第で置酒した。昭宗をむかえ、臨幸させた。3月乙卯、朱全忠は昭宗とわかれ、さきに洛陽に入って、修繕を監督した。
昭宗は郡臣と酒宴して、おわってから、朱全忠と忠武節度使の韓建だけを残して飲んだ。皇后が退出した。昭宗は、みずから玉卮をささげ、朱全忠に飲ませた。晉國夫人は、昭宗にくっついて耳語した。韓建は朱全忠の足をふむ。朱全忠は(昭宗が毒をもって)昭宗が自分を殺そうとすると悟り、飲まずに酔ったふりをして退出した。
ぼくは思う。朱全忠にロコツに不快感をあらわす(と史料で性格づけられる)昭宗。献帝と董卓、献帝と曹操、献帝と曹丕の関係を、ここから連想するのは誤りかも。献帝が曹操を毒殺しかねないほど、禅譲を警戒していた、と考えるのは、ほかの史料(さらには隋唐や宋元まで反映した『三国演義』)を、投影させすぎかも。もっと、良い意味だけではなく、「平和的」だよね。後漢の人たち。朱全忠は上奏して、長安を佑國軍と(改称)する。韓建を佑國節度使とする。鄭州刺史の劉知俊を匡國節度使とする。
3月丁巳、昭宗は絹詔をつくり、王建、楊行密、李克用らにつげる。藩鎮たちに大唐の匡復をよびかける。昭宗はいう。「私は洛陽つけば、幽閉される。詔敕は自筆である。私の意思は(幽閉されるので)もう伝達できない」と。
楊行密は、錢傳撩と婦並の顧全武を、錢塘に帰す。
楊行密遣錢傳撩及其婦並顧全武歸錢塘。以淮南行軍司馬李神福為鄂岳招討使,復將兵擊杜洪。硃全忠遣使詣行密,請捨鄂岳,復修舊好。行密報曰:「俟天子還長安,然後罷兵修好。」淮南行軍司馬の李神福を、鄂岳招討使として、ふたたび杜洪を撃たせる。朱全忠は楊行密に使者をだし、「鄂岳を捨ててくれ。また修好しよう」という。楊行密はいう。「天子が長安に還ってから、兵をひいて(朱全忠と)修好する」と。
904年夏、
夏,四月,辛巳,硃全忠奏洛陽宮室已成,請車駕早發,表章相繼。上屢遣宮人諭以皇后新產,未任就路,請俟十月東行。全忠疑上徘徊俟變,怒甚,謂牙將寇彥卿曰:「汝速至陝,即日促官家發來。」閏月,丁酉,車駕發陝。壬寅,全忠逆於新安。上之在陝也,司天監奏:「星氣有變,期在今秋,不利東行。」故上欲以十月幸洛。至是,全忠令醫官許昭遠告醫官使閻祐之、司天監王墀、內都知韋周、晉國夫人可證等謀害元帥,悉收殺之。
癸卯,上憩於谷水。自崔胤之死,六軍散亡俱盡,所餘擊球供奉、內園小兒共二百餘人,從上而東。全忠猶忌之,為設食於幄,盡縊殺之。豫選二百餘人大小相類者,衣其衣服,代之侍衛。上初不覺,累日乃寤。自是上之左右職掌使令皆全忠之人矣。甲辰,車駕發谷水,入宮,御正殿,受朝賀。乙巳,御光政門,赦天下,改元。更命陝州曰興唐府。詔討李茂貞、楊崇本。夏4月辛巳、朱全忠は「洛陽の宮室が完成した。車駕は早く洛陽にむけて出発せよ」と、なんども表章する。昭宗は「皇后が子を産んだばかりなので、10月になってから、洛陽にいきたい」という。朱全忠は怒って、牙將の寇彦卿にいう。「速やかに(昭宗のいる)陝州にいけ。同日に官家を出発させろ」と。
閏月丁酉、車駕は陝州を発した。閏月、朱全忠は新安に迎えにゆく。昭宗が陝州にいるとき、司天監が奏した。「星氣に変がある。今年の秋をまて。東行は利さない」という。ゆえに昭宗は10月まで、洛陽ゆきを延ばしたがった。朱全忠は、醫官の許昭遠に命じて、醫官使の閻祐之、司天監の王墀、内都知の韋周、晉國夫人の可證らが、元帥の謀害をたくらんだとして、全員を殺した。
閏月癸卯、昭宗は谷水でやすむ。崔胤が死んでから、六軍は散亡しつくし、のこりは擊球の遊びの供奉だけ。内園の小兒が200余人が従うだけ。朱全忠は、この残りの200余人も忌んで、食事会をひらいて、すべて縊殺した。200人余人の衣服を、外見の類似した(朱全忠に従う)者に着せて、昭宗に侍衛させた。はじめ昭宗は、200余人が入れ替わっていると気づかない。数日でさとる。
これより昭宗の周辺には、朱全忠に従う者だけがいる。閏月甲辰、昭宗は谷水を発し、洛陽の宮に入り、正殿に御し、朝賀を受ける。閏月乙巳、光政門に御する。天下を許して改元した。陝州を興唐府と改称した。「李茂貞と楊崇本を討て」と(朱全忠の指示で)詔した。
戊申,敕內諸司惟留宣徽等九使外,餘皆停廢,仍不以內夫人充使。以蔣玄暉為宣徽南院使兼樞密使,王殷為宣徽北院使兼皇城使,張廷范為金吾將軍、充街使,以韋震為河南尹兼六軍諸衛副使,又征武寧留後硃友恭為左龍武統軍,保大節度使氏叔琮為右龍武統軍,典宿衛,皆全忠之腹心也。癸丑,以張全義為天平節度使。乙卯,以全忠為護國、宣武,宣義、忠武四鎮節度使。
閏月戊申、内諸司惟留宣徽ら九使をのぞき、みな停廢した。内夫人を充使しない。蔣玄暉を宣徽南院使兼樞密使とする。王殷を宣徽北院使兼皇城使とする。張廷范を金吾將軍、充街使とする。韋震を河南尹兼六軍諸衛副使とする。また、征武寧留後の硃友恭を左龍武統軍とする。保大節度使の氏叔琮を右龍武統軍として、宿衛を典させる。みな朱全忠の腹心である。
大梁の朝廷が、できちゃったよ。閏月癸丑、張全義を天平節度使とする。閏月乙卯、朱全忠を、護國、宣武,宣義、忠武の4四鎮節度使とする。
鎮海、鎮東節度使越王錢鏐求封吳越王,朝廷不許。硃全忠為之言於執政,乃更封吳王。 更命魏博曰天雄軍。癸亥,進天雄節度使長沙郡王羅紹威爵鄴王。鎮海、鎮東節度使、越王の錢鏐は、吳越王の封爵をもとめる。朝廷は許さず。朱全忠の発言は執政において、銭鏐を執政として、吳王に封じかえた。
魏博を天雄軍とする。閏月癸亥、進天雄節度使、長沙郡王の羅紹威を、鄴王とする。130803閉じる