両晋- > 『資治通鑑』梁紀を抄訳 908年8月-911年2月

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『資治通鑑』 908年8月-の抄訳

太祖神武元聖孝皇帝中開平二年(戊辰,公元九零八年)

908年秋8月、

八月,吳越王鏐遣寧國節度使王景仁奉表詣大梁,陳取淮南之策。景仁即茂章也,避梁諱改焉。

8月、呉越王の銭鏐は、寧國節度使の王景仁に奉表させ、大梁を詣でて、淮南をとる策をのべる。王景仁とは、王茂章である。後梁の朱晃の祖父(朱茂琳)を忌避して改名したのだ。

胡三省はいう。王茂章は両浙にはしる。昭宣帝の天祐3年にある。


908年9月、楚王の馬殷が領土を拡大・安定させる

淮南遣步軍都指揮使周本、南面統軍使呂師造擊吳越,九月,圍蘇州。吳越將張仁保攻常州之東洲,拔之。淮南兵死者萬餘人。淮南以池州團練使陳璋為水陸行營都招討使,帥柴再用等諸將救東洲,大破仁保於魚蕩,復取東洲。柴再用方戰舟壞,長槊浮之,僅而得濟。家人為之飯僧千人,再用悉取其食以犒部兵,曰:「士卒濟我,僧何力焉!」

淮南遣歩軍都指揮使の周本と、南面統軍使の呂師造は、呉越を撃つ。9月、蘇州をかこむ。
吳越の将・張仁保は、常州の東洲をぬく。

宋白はいう。通州の海門県の東南、水を隔てて200余里。もとは東州鎮である。

淮南の兵は、死者が1万を数える。淮南の池州團練使の陳璋は、水陸行營都招討使となる。陳璋は、柴再用らをひきい、東洲をすくう。張仁保を魚蕩で大破して、東洲をとりかえす。柴再用は舟が壊れ、ながく浮き、そのうち僅かが救われる。水死した者の家族は、1千人の僧侶に食糧をほどこす。柴再用は、僧侶にほどこされた食糧を取りあげ、部兵をねぎらう。柴再用「士卒は私をすくうが、僧侶は力にならない」と。

史家はいう。柴再用は、士卒を養うのを善しとした。異端に惑わず。


丙子,蜀立皇后周氏。后,許州人也。
晉周德威、李嗣昭將兵三萬出陰地關,攻晉州,刺史徐懷玉拒守。帝自將救之,丁丑,發大梁,乙酉,至陝州。戊子,岐王所署延州節度使胡敬璋寇上平關,劉知俊擊破之。周德威等聞帝將至,乙未,退保隰州。荊南節度使高季昌遣兵屯漢口,絕楚朝貢之路。楚王殷遣其將許德勳將水軍擊之,至沙頭,季昌懼而請和。殷又遣步軍都指揮使呂師周將兵擊嶺南,與清海節度使劉隱十餘戰,取昭、賀、梧、蒙、龔、富六州。殷土宇既廣,乃養士息民,湖南遂安。

9月丙子、前蜀では皇后に周氏をたてる。周氏は許州の人。
晋将の周徳威と李嗣昭は、3万をひきいて、陰地関をでて、晋州を攻める。晋州刺史の徐懐玉が拒守する。朱晃はみずから晋州をすくい、大梁を発して陝州にいたる。岐王が署した延州節度使の胡敬璋が、上平關を寇するが、劉知俊が撃破する。周徳威は、朱晃がきたと聞き、隰州に退保する。

地理についての胡注は、8704頁。

荊南節度使の高季昌は、漢口に屯する。高季昌は、楚国が後梁に朝貢する路をふさぐ。楚王の馬殷は、許徳勲に水軍をつけ、沙頭におく。高季昌は懼れて、許徳勲に請和する。馬殷は、步軍都指揮使の呂師周に嶺南を撃たせる。呂師周は、清海節度使の劉隠と10余戦して、昭、賀、梧、蒙、龔、富の6州をとる。馬殷の領土はすでに広く、士を養い、民を息ませ、湖南はついに安定した。

地理についての胡注は、8704頁。


908年冬、

冬,十月,蜀主立後宮張氏為貴妃,徐氏為賢妃,其妹為德妃。張氏,郪人,宗懿之母也。二徐,耕之女也。
華原賊帥溫韜聚眾嵯峨山,暴掠雍州諸縣,唐帝諸陵發之殆遍。
庚戌,蜀主講武於星宿山,步騎三十萬。丁巳,帝還大梁。

冬10月、前蜀の王建は、後宮の張氏を貴妃とする。徐氏を賢妃とする。その妹を德妃とする。張氏は郪の人で、王宗懿(太子)の母である。2人の徐氏は、徐耕の娘である。

徐耕は、昭宗の大順2年にある。徐妃は、前蜀が滅ぶ張本である。

華原の賊帥である温韜は、嵯峨山に軍衆をあつめる。雍州の諸県を暴掠する。唐帝の諸陵は、ほとんど盗掘される。

温韜伝はいう。華原7年、大唐の諸陵から、金宝を取られた。盗掘について、中華書局版8705頁。

10月庚戌、王建は、星宿山で講武する。歩騎は30万。10月丁巳、朱晃は大梁に還る。

辛酉,以劉隱為清海、靜海節度使,以膳部郎中趙光裔、右補闕李殷衡充官告使,隱皆留之。光裔,光逢之弟;殷衡,德裕之孫也。
依政進士梁震,唐末登第,至是歸蜀。過江陵,高季昌愛其才識,留之,欲奏為判官。震恥之,欲去,恐及禍,乃曰:「震素不慕榮宦,明公不以震為愚,必欲使之參謀議,但以白衣侍樽俎可也,何必在幕府!」季昌許之。震終身止稱前進士,不受高氏辟署。季昌甚重之,以為謀主,呼曰先輩。

10月辛酉、劉隠は、清海・靜海節度使となる。

交州と広州の2鎮である。しかるに劉氏は、ついに安南を領有しなかった。

膳部郎中の趙光裔、右補闕の李殷衡は、充官告使となる。劉隠は、趙光裔と李殷衡をとどめる。趙光裔は、趙光逢の弟である。李殷衡は、李徳裕の孫である。

胡三省はいう。史家はいう。群雄は割拠する。衣冠の冑(人材)を収拾して、用いる。

依政(漢代の臨邛県)の進士である梁震は、唐末に登第した。いま前蜀に帰した。江陵を過ぎる。高季昌に才識を愛され、梁震は留められた。高季昌は、梁震を判官としたい。梁震はこれを恥として去りたい。「わたし媵臣は、栄宦をしたわず。高季昌は私を愚者と見なさず、謀議に参じさせたいようだ。私は白衣をきて、樽俎に侍るだけで良い(つまらん人材だ)。どうして幕府に置かれようか」と。高季昌は許す。梁震は、終身ずっと「さきの進士」の称号に留まり、高氏の辟署を受けない。高季昌は梁震を重んじ、謀主として「先輩」とよぶ。

大唐の人は、進士を「先輩」とよぶ。高季昌はこれと同じ。


908年11月、

帝從吳越王鏐之請,以亳州團練使寇彥卿為東南面行營都指揮使,擊淮南。十一月,彥卿帥眾二千襲霍丘,為土豪朱景所敗;又攻廬、壽二州,皆不勝。淮南遣滁州刺史史儼拒之,彥卿引歸。
定難節度使李思諫卒;甲戌,其子彝昌自為留後。

朱晃は、吳越王の銭鏐の請により、亳州團練使の寇彦卿を、東南面行營都指揮使として、淮南を撃たせる。11月、寇彦卿は2万をひきい、霍丘を襲う。土豪の朱景に敗れた。廬州と壽州を攻めたが、寇彦卿はどちらも勝てず。淮南は、滁州刺史の史儼に拒ませる。寇彦卿は引帰する。

胡三省はいう。寇彦卿は、兵勢がすでに挫けた。史𠑊は河東の健将である。汴兵が畏れた。史𠑊がくるときいて、寇彦卿は撤退した。

定難節度使の李思諫がした。11月甲戌、子の李夷昌がみずから留後となる。

劉守文舉滄德兵攻幽州,劉守光求救於晉,晉王遣兵五千助之。丁亥,守文兵至盧台軍,為守光所敗;又戰玉田,亦敗。守文乃還。
癸巳,中書侍郎、同平章事張策以刑部尚書致仕;以左僕射楊涉同平章事。
保塞節度使胡敬璋卒,靜難節度使李繼徽以其將劉萬子代鎮延州。

劉守文は、滄徳の兵をあげて、幽州を攻める。劉守光は、晋王に救いを求める。晋王は5千で助ける。

ぼくは補う。劉守文が兄、劉守光が弟。劉守光は、大燕の皇帝となる。在位は911-913。

11月丁亥、劉守文の兵は、盧台軍にいたる。劉守光に敗れた。玉田(漢代の無終県)でも敗れた。劉守文は還った。
11月癸巳、中書侍郎、同平章事の張策は、刑部尚書を致仕された。左僕射楊涉が、同平章事となる。
保塞節度使の胡敬璋が卒した。靜難節度使の李継徽は、将の劉萬子に、胡敬璋の代わりとして延州に鎮させた。

保塞、静難の2鎮は、ときに岐州に属する。


是歲,弘農王遣軍將萬全感繼書間道詣晉及岐,告以嗣位。
帝將遷都洛陽。

この歳、弘農王(楊隆演)は、軍將の萬全感をつかわし、文書をもち、間道から晋国(李存勗)と岐国(李茂貞)にゆき、嗣位したと告げる。

胡三省はいう。岐国と晋国は、淮南の与国である。

朱晃は、洛陽に遷都しそう。130811

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『資治通鑑』 909年の抄訳

太祖神武元聖孝皇帝中開平三年(己巳,公元九零九年)

909年春、

春,正月,己巳,遷太廟神主於洛陽。甲戌,帝發大梁。壬申,以博王友文為東都留守。己卯,帝至洛陽。庚寅,饗太廟。辛巳,祀圓丘,大赦。
丙申,以用度稍充,初給百官全俸。

春正月己巳、太廟の神主を洛陽にうつす。正月甲戌、朱晃は大梁を発する。正月壬申、博王の朱友文を東都留守とする。

後梁は、大梁を東都した。

正月己卯、朱晃は洛陽にゆく。正月庚寅、太廟を饗する。正月辛巳、圓丘を祀する。大赦した。
正月丙申、用度を稍充させ、はじめて百官に全俸を給した。

胡三省はいう。大唐の広明期(880-881)より、百官の俸給は、名目だけになった。いま、額面どおり払われた。


909年2月、

二月,丁酉朔,日有食之。
保塞節度使劉萬子暴虐,失眾心,且謀貳於梁,李繼徽使延州牙將李延實圖之。延實因萬子葬胡敬璋,攻而殺之,遂據延州。馬軍都指揮使河西高萬興與其弟萬金聞變,以其眾數千人詣劉知俊降。岐王置翟州於鄜城,其守將亦降。

2月丁酉ついたち、日食あり。
保塞節度使の劉萬子は、暴虐で衆心を失う。劉萬子は、大梁に謀反する。李継徽は、延州牙將の李延実に、劉萬子を殺させたい。李延実は、劉萬子が胡敬璋を葬るとき、劉萬子を殺して、延州に拠った。馬軍都指揮使する河西の高萬興と、その弟の高萬金は、事変をきき、数千で劉知俊にくだる。

高萬興の兄弟が、鄜州と延州をとる張本である。

岐王は、翟州を鄜城におく。鄜城の守将もまた(後梁に)降る。

909年3月、

三月,甲戌,帝發洛陽。以山南東道節度使楊師厚兼潞州四面行營招討使。
庚辰,帝至河中,發步騎會高萬興兵取丹、延。

3月甲戌、朱晃は洛陽を発する。山南東道節度使の楊師厚に、潞州四面行營招討使を兼ねさせる。
3月庚辰、朱晃は河中にいたる。步騎を発して、高萬興と兵をあわせ、丹州(秦代の上郡)と延州をとる。

丙戌,以朔方節度使兼中書令韓遜為穎川王。遜本靈州牙校,唐末據本鎮,前廷因而授以節鉞。
辛卯,丹州刺史崔公實請降。
徐溫以金陵形勝,戰艦所聚,乃自以淮南行軍副使領升州刺史,留廣陵,以其假子元從指揮使知誥為升州隊遏兼樓船副使,往治之。

3月丙戌、朔方節度使兼中書令の韓遜を、穎川王とする。韓遜は、もとは霊州の牙校である。唐末に本鎮による。朝廷は、韓遜に節鉞を授ける。
3月辛卯、丹州刺史の崔公實は、請降する。

胡三省はいう。丹州は、保塞軍の巡属である。

徐温は、金陵の地形が勝れるので、戦艦をあつめる。みずから、淮南行軍副使、領升州刺史となり、広陵に留まる。仮子の元従指揮使の徐知誥を、升州隊遏兼樓船副使として、往って(金陵を)治させる。

胡三省はいう。徐知誥が、昇州を完理する。徐温がついにそこに居する張本である。


909年夏、

夏,四月,丙申朔,劉知俊移軍攻延州,李延實嬰城自守。知俊遣白水鎮使劉儒分兵圍坊州。
庚子,以王審知為閩王,劉隱為南平王。
劉知俊克延州,李延實降。

夏4月丙申ついたち、劉知俊は軍を移し、延州を攻める。李延実は、城を嬰して自守する。劉知俊は、白水鎮使の劉儒に兵をわけて、坊州を囲ませる。

地理について、胡注は中華書局版8708頁。

4月庚子、王審知は閩王となる。劉隠は南平王となる。
劉知俊は延州に克ち、李延実が降る。

ぼくは思う。珍しく、話が進んだ。


淮南兵圍蘇州,推洞屋攻城,吳越將臨海孫琰置輪於竿首,垂絲亙投錐以揭之,攻者盡露,砲至則張網以拒之,淮南人不能克。吳越王鏐遣牙內指揮使錢鏢、行軍副使杜建徽等將兵救之。
蘇州有水通城中,淮南張網綴鈴懸水中,魚鱉過皆知之。吳越游弈都虞候司馬福欲潛行入城,故以竿觸網,敵聞鈴聲舉網,福因得過,凡居水中三日,乃得入城。由是城中號令與援兵相應,敵以為神。

淮南の兵が、蘇州をかこむ。洞屋を推して攻城する。吳越の將・臨海孫琰は、輪を竿首に置き、絲亙を垂らし、錐を投げて、淮南の兵をふせぐ。網をはって拒み、淮南の兵は克てない。吳越王の銭鏐は、牙內指揮使の銭鏢、行軍副使の杜建徽らに、蘇州を救わせる。
蘇州は、川が城中に流れる。淮南の兵は、水中に網をはり、鈴をつなぐ。魚鱉が過ぎたら知らせる。吳越の游弈都虞候の司馬福欲は、水中をもぐって城に入りたいが、網にさわり、鈴がなった。司馬福は(鈴が敵に知られながらも)水中に3日いて、入城できた。司馬福は女中から号令して、援兵を応じあう。敵は司馬福を「神」となした。

【神】死後の霊魂、自然の法則、精神、顔つき、すがた、不思議、この上なく聡明、たっとぶ(シンとす)。『漢辞海』より。五代十国で水中に3日間もぐり、敵をあざむいた呉越の司馬福が「神」とされた。GODでも日本の八百万でもない。字義以前に概念に注意。孫権が付き合った「神」王表は霊魂かな。


吳越王鏐嘗游府園,見園卒陸仁章樹藝有智而志之,及蘇州被圍,使仁章通信入城,果得報而返。鏐以諸孫畜之,累遷兩府軍糧都監使,卒獲其用。仁章,睦州人也。
辛亥,吳越兵內外合擊淮南兵,大破之,擒其將何朗等三十餘人,奪戰艦二百艘。周本夜遁,又追敗之於皇天蕩。鐘泰章將精兵二百為殿,多樹旗幟於菰蔣中,追兵不敢進而還。

吳越王の銭鏐は、かつて府園に游し、園卒の陸仁章が、芸をたて、智があるのを知る。蘇州が囲まれると、陸仁章を通信・入城させ、果たして城内の情報を得て返ってきた。銭鏐は、陸仁章の諸孫をやしない、陸仁章を両府軍糧都監使としていた。ついに陸仁章を活用する機会があった。陸仁章は、睦州の人である。

胡三省はいう。両府とは、鎮海と鎮東の両節度府である。

4月辛亥、吳越の兵は、城の内外であわさり、淮南の兵を大破した。淮南の將・何朗ら30余人を捕らえ、戦艦200艘をえた。周本は夜ににげ、呉越は周本を追って、皇天蕩(長洲県の境)で破った。鐘泰章は、精兵200で殿軍をやり、旗幟を菰蔣に多くたてた。追兵はあえて進まず還った。

岐王所署保大節度使李彥博、坊州刺史李彥昱皆棄城奔鳳翔,鄜州都將嚴弘倚舉城降。己未,以高萬興為保塞節度使,以絳州刺史牛存節為保大節度使。
淮南初置選舉,以駱知祥掌之。

岐王が署した、保大節度使の李彦博、坊州刺史の李彦昱は、どちらも城を棄てて鳳翔にはしる。鄜州都將の厳弘倚は、城をあげて(後梁に)くだる。4月己未、高萬興を保塞節度使とする。絳州刺史の牛存節を、保大節度使とする。
淮南で、はじめて選挙(制度)をおく。駱知祥が管理する。

胡三省はいう。喪乱より以来、選挙の法制は廃された。楊氏がふたたびおいた。


909年5月、

五月,丁卯,帝命劉知俊乘勝取邠州,知俊難之,辭以闕食,乃召還。
佑國節度使王重師鎮長安數年,帝在河中,怒其貢奉不時,己巳,召重師入朝,以左龍虎統軍劉捍為佑國留後。癸酉,帝發河中;己卯,至洛陽。
劉捍至長安,王重師不為禮,捍譖之於帝,雲重師潛與邠、岐通。甲申,貶重師溪州刺史,尋賜自盡,夷其族。

5月丁卯、朱晃は劉知俊に命じて、勝ちに乗じて邠州を取らせる。劉知俊は難しいと考え、食糧が足りぬといい、召還された。

胡三省はいう。李継徽が邠州による。邠州は、鳳翔より助けられており、劉知幾は攻略が難しいと考えた。

佑國節度使の王重師は、長安に数年のあいだ鎮する。朱晃は河中にいて、王重師の長安からの貢奉が時期どおりでないのを怒った。5月己巳、王重師を召して(洛陽に)入朝させた。左龍虎統軍の劉捍を佑國留後とした。5月癸酉、朱晃は河中を発して、己卯に洛陽にいたる。
劉捍が長安にいたると、王重師は礼をしない。劉捍は朱晃にむけ、王重師をそしって「王重師はひそかに、邠州と岐州と通じる」という。5月甲申、王重師を溪州刺史におとしめ、自害を賜り、夷三族とする。

劉守文頻年攻劉守光不克,力大發兵,以重賂招契丹、吐谷渾之眾,合四萬屯薊州。守光逆戰於雞蘇,為守文所敗。守文單馬立於陳前,泣謂其眾曰:「勿殺吾弟!」守光將元行欽識之,直前擒之,滄德兵皆潰。守光囚之別室,栫之藂棘,乘勝進攻滄州。滄州節度判宮呂兗、孫鶴推守文子延祚為帥,乘城拒守。兗,安次人也。

劉守文は頻年、劉守光を攻めるが克てない。

劉守文は、開平元年から劉守光を攻める。3年目。

劉守文は、重賂して、契丹と吐谷渾の軍衆をよぶ。4万で薊州に屯する。劉守光は、雞蘇で迎撃したが、劉守文に敗れた。

『薛史』梁紀はいう。この年、劉守光は上言する。「蘇州から西して、兄の劉守文と戦った。劉守文を生け捕った」と。これは、この戦いを指すのだろう。

劉守文は單馬で陳前に立ち、泣いて軍衆にいう。「わが弟を殺すな」と。劉守光の将・元行欽はこれを知り、劉守文を捕らえた。滄德の兵は、みな潰えた。劉守光は別室にとらわれ、叢棘のなかに置かれる。劉守文は勝ちに乗じて、滄州を攻める。滄州節度判宮の呂兗と孫鶴は、劉文子の子・劉延祚を帥して、守城する。呂兗は、安次の人。

ぼくは思う。燕の人々は、なかなか滅びない。


909年6月、劉知俊が同州で後梁に叛く

忠武節度使兼侍中劉知俊,功名浸盛,以帝猜忍日甚,內不自安。及王重師誅,知俊益懼。帝將伐河東,急征知俊入朝,欲以為河東西面行營都統;且以知俊有丹、延之功,厚賜之。知俊弟右保勝指揮使知浣從帝在洛陽,密使人語知俊云:「入必死。」又白帝,請帥弟侄往迎知俊,帝許之。

忠武節度使兼侍中の劉知俊は、功名が浸盛なので、朱晃から猜忍され、不安となる。

胡三省はいう。去年、同州匡国軍を「忠武」軍とした。

(長安から還った)王重師が誅されると、劉知俊はますます懼れた。朱晃は河東(李氏の晋)を伐つため、急ぎ劉知俊をめして入朝させた。劉知俊を、河東西面行營都統としたい。劉知俊には、丹と延の功があるから、厚く賞賜した。
劉知俊の弟は、右保勝指揮使の劉知浣である。劉知浣は、朱晃に従って洛陽にいる。劉知浣は人をやり、ひそかに劉知俊に教えた。「入朝すれば、劉知俊は必ず死ぬ」と。また劉知浣は朱晃に「弟姪をひきいて、劉知俊を迎えたい」という。朱晃は許す。

六月,乙未朔,知俊奏稱「為軍民所留」,遂以同州附於岐,執監軍及將佐之不從者,皆械送於岐。遣兵襲華州,逐刺史蔡敬思,以兵守潼關。潛遣人以重利啖長安諸將,執劉捍,送於岐,殺之。知俊遣使請兵於岐,亦遣使請晉人出兵攻晉、絳,遺晉王書曰:「不過旬日,可取兩京,復唐社稷。」

6月乙未ついたち、劉知俊は奏稱して「軍民に留められた」といい、ついに同州をもって岐州(李茂貞)につく。監軍および將佐のうち(後梁から岐州への移動に)従わない者をとらえ、械して岐州に送る。華州を襲い、華州刺史の蔡敬思を追いはらう。

『九域志』はいう。同州から南に70里で、華州である。

兵をおいて潼関を守る。ひそかに人をやり、長安の諸将を利益でつって、梁将の劉捍を執え、岐州に送って殺す。劉知俊は、岐州に兵を請う。また晋国に使者をだし、「晋州と絳州を攻めよう」という。劉知俊は晋王に「旬日を過ごさず、両京をとり、大唐の社稷を復興できる」という。

胡三省はいう。長安は取れるかも知れないが、梁都の洛陽は取れないよ。


丁未,朔方節度使韓遜奏克鹽城,斬岐所署刺史李繼直。
帝遣近臣諭劉知俊曰:「朕待卿甚厚,何忽相負?」對曰:「臣不背德,但畏族滅如王重師耳。」帝復使謂之曰:「劉捍言重師陰結邠、岐,朕今悔之無及,捍死不足塞責。」知俊不報。庚戌,詔削知俊官爵,以山南東道節度使楊師厚為西路行營招討使,帥侍衛馬步軍都指揮使劉鄩等討之。辛亥,帝發洛陽。

6月丁未、朔方節度使の韓遜が奏して、「鹽城に克ち、岐州の署した刺史の李継直を斬った」という。

胡三省はいう。唐末に、鹽城の奏事は、もっぱら朝廷に達した。霊夏に属さなかった。ここにいたり、霊州と鹽州は、ふたたび1つの鎮に併合された。

朱晃は近臣をつかわし、劉知俊を諭した。「朕は劉知俊を厚遇したのに、なぜいきなり叛くのか」と。劉知俊「私は徳に背かず。ただ王重師のように族滅されるのを畏れただけ」と。朱晃「劉捍は、王重師がひそかに邠州と岐州と結ぶという(だから王重師を族殺した)。この族殺を、私は後悔している。劉捍の死(劉知俊が劉捍を殺したこと)は塞責するに足りない(劉知俊を罪としない)」と。
劉知俊は返答しない。
6月庚戌、劉知俊の官爵を削る。山南東道節度使の楊師厚を、西路行營招討使とした。楊師厚に、侍衛馬步軍都指揮使の劉鄩らをひきいさせ、劉知俊を討つ。6月辛亥、朱晃は洛陽を発した。

劉鄩至潼關東,獲劉知俊伏路兵藺如誨等三十人,釋之使為前導。劉知浣迷失道,盤桓數日,乃至關下,關吏納之。如海等繼至,關吏不知其已被擒,亦納之。鄩兵乘門開直進,遂克潼關,追及知浣,擒之。
癸丑,帝至陝。

劉鄩は潼関の東にいたる。劉鄩は、劉知俊の伏兵である藺如誨ら30人をとらえ、ゆるして前導させる。

胡三省はいう。劉知俊は、潼関に伏兵をおいて、潼関を守ろうとした。だが劉鄩にバレて、かえって劉鄩の道案内に利用されてしまった。

劉知浣は道にまよう。劉知浣は、潼関のもとに至り、関吏に潼関を通してもらう。藺如誨も、つづけて潼関に入る。関吏は、藺如誨がすでに捕らわれている(劉知俊でなく、後梁の劉鄩に属する)ことを知らない。劉鄩は、潼関に突入して、劉知浣を捕らえた。
6月癸丑、朱晃は陝州にいたる。

丹州馬軍都頭王行思等作亂,刺史宋知海逃歸。
帝遣劉知俊侄嗣業持詔指同州招諭知俊,知俊欲輕騎詣行在謝罪,弟知偃止之。楊師厚等至華州,知俊將聶賞開門降。知俊聞潼關不守,官軍繼至,蒼黃失圖,乙卯夜,舉族奔岐。楊師厚至長安,岐兵已據城,師厚以奇兵並南山急趨,自西門入,遂克之。庚申,以劉鄩權佑國留後。岐王厚禮劉知俊,以為中書令。地狹,無籓鎮處之,但厚給俸祿而已。

丹州馬軍都頭の王行思らが、作乱する。丹州刺史の宋知海は逃歸した。
朱晃は、劉知俊の姪・劉嗣業に持詔させ、同州にいって劉知俊を招諭させた。劉知俊は、軽騎で朱晃に謝罪にいきたいが、弟の劉知偃がとめた。楊師厚らは華州にいたる。劉知俊の將・聶賞は、開門して降る。劉知俊は、潼関を守れなかったと聞き、族をあげて岐州にゆく。楊師厚は長安にいたる。岐兵はすでに長安による。楊師厚は、奇兵によって長安の岐兵に克つ。6月、劉鄩を權佑國留後とする。
岐王(李茂貞)は、劉知俊を厚禮して、中書令とする。岐王の領地は狭く、劉知俊を藩鎮にする場所がない。ただ俸祿を厚くしただけ。

ぼくは思う。いちばんの厚遇は藩鎮。俸給は二の次。土地、金銭、官職の権限、などに対する価値観のポートレートが、ぼくらとは違うのは当然として、魏晋とも違うんだろう。
胡三省はいう。劉知俊は領地がない。劉知俊が前蜀に奔る張本である。


劉守光遣使上表告捷,且言「俟滄德事畢,為陛下掃平並寇。」亦致書晉王,雲欲與之同破偽梁。
撫州刺史危全諷自稱鎮南節度使,帥撫、信、袁、吉之兵號十萬攻洪州。淮南守兵才千人,將吏皆懼,節度使劉威密遣使告急於廣陵,日召僚佐宴飲。全諷聞之,屯象牙潭,不敢進,請兵於楚,楚王殷遣指揮使苑玫會袁州刺史彭彥章圍高安以助全諷。玫,蔡州人;彥章,玕之兄子也。

劉守光は、戦勝を後梁に報告した。「滄德のことが終わるのを待ち、陛下は并州の寇賊を掃平してほしい」という。また劉守光は晋王に文書をだし、「ともに偽梁を破ろう」という。

胡三省はいう。并州の寇賊とは、河東の晋王=李存勗である。
胡三省はいう。劉守光は、後梁と晋国のあいだで、反覆する。みずからの計略により、滅亡を早めたことを、劉守光は気づかなかった。

撫州刺史の危全諷は、みずから鎮南節度使を称する。撫、信、袁、吉州の兵をひきい、10万と号して、洪州を攻める。

胡三省はいう。大唐は、鎮南軍を億州におく。撫、信、袁、吉州は、みな鎮南軍の巡属である。

淮南の守兵は、洪州に1千しかいない。將吏はみな懼れた。節度使の劉威密は、ひそかに広陵に急を告げ、僚佐と宴飲した。危全諷はこれを聞き、象牙潭(撫州の金渓県)に屯して進まない。危全諷は、楚王に兵を請う。楚王の馬殷は、指揮使の苑玫をやり、袁州刺史の彭彦章とあわさり、高安を囲んで危全諷を助ける。苑玫は蔡州の人。彭彦章は、彭玕の兄子である。

胡三省はいう。彭玕は、昭宣帝の天祐3年にある。


徐溫問將於嚴可求,可求薦周本。乃以本為西南面行營招討應援使,將兵七千救高安。本以前攻蘇州無功,稱疾不出,可求即其臥內強起之。本曰:「蘇州之役,敵不能勝我,但主將權輕耳。今必見用,願毋置副貳乃可。」可求許之。本曰:「楚人為全諷聲援耳,非欲取高安也。吾敗全諷,援兵必還。」乃疾趣象牙潭。過洪州。劉威欲犒軍,本不肯留。或曰:「全諷兵強,君宜觀形勢然後進。」本曰:「賊眾十倍於我,我軍聞之必懼,不若乘其銳而用之。」

徐温は、厳可求に将軍の人選について問う。厳可求は、周本を勧める。周本を、西南面行營招討應援使として、7千で高安を救わせる。周本は、以前に蘇州を攻めたが、功績がなかった。病気といって(徐温の召集に)応じない。厳可求は、強引に起こした。
周本「蘇州之役で勝てなかった。主將の権限が軽かったからだ。いま私を用いるなら、副貳を置かないでくれ(主将の私に権限を集中させてくれ)」と。厳可求は許す。周本「楚人(馬殷)は危全諷を支援するために高安を囲む。高安を取りたいのでない。私が危全諷を破れば、援兵である楚人も還る」と。

ぼくは思う。この時代は(この時代も)ある城を救うときに、その城を直接に攻撃・守備するとは限らない。周辺の城をつつき、間接的に形勢を変えようとする。

周本は、すばやく象牙潭にゆき、洪州を過ぎる。劉威は(進軍をやめて)軍をねぎらいたいが、周本は「留まるな」という。或者がいう。「危全諷の兵は強い。形勢を見て、交代すべきだ」と。周本「危全諷は、わが軍の10倍の兵がいる。わが軍がこれを聞けば、必ず懼れる。鋭(行軍の早さ)を利用するほうがよい」と。

909年秋7月、

秋,七月,甲子,以劉守光為燕王。
梁兵克丹州,擒王行思。
商州刺史李稠驅士民西走,將吏追斬之,推都押牙李玫主州事。

秋7月甲子、劉守光を燕王とした。
梁兵は丹州に克ち、王行思を擒とした。
商州刺史の李稠は、士民を駆って(前蜀にむけ)西走した。將吏が追って李稠を斬った。都押牙の李玫に州事を主させる。

胡三省が史料ごとの食い違いをのせる。


庚午,改佑國軍曰永平。
河東兵寇晉州,抄掠至堯祠而去。
癸酉,帝發陝州,乙亥,至洛陽,寢疾。

7月庚午、佑國軍を「永平」軍とする。

開平元年、佑国軍を長安にうつした。いま永平と改めた。

河東の兵が、晋州を寇した。抄掠して、堯祠まで至って去る。

胡三省はいう。唐堯は、平陽に都した。唐堯の祠は、汾城の東10里の東原上にある。平陽は、唐代は臨汾県となる。晋州の治所となった。
ぼくは思う。晋国が「晋州」を領有していないのが、気持ちわるい。まあ、楊行密が弘農王とか、ちぐはぐな封爵もあったけれど。隣接しているだけに、分かりにくい。

7月癸酉、朱晃は陝州を発する。7月乙亥、洛陽に至り、寢疾する。

初,帝召山南東道節度使楊師厚,欲使督諸將攻潞州,以前兗海留後王班為留後,鎮襄州。師厚屢為班言牙兵王求等凶悍,宜備之,班自恃左右有壯士,不以為意,每眾辱之。戊寅,謫求戍西境,是夕,作亂,殺班,推都指揮使雍丘劉□為留後。□偽從之,明日,與指揮使王延順逃詣帝所。亂兵奉平淮指揮使李洪為留後,附於蜀。未幾,房州刺史楊虔亦叛附於蜀。

はじめ朱晃は、山南東道節度使の楊師厚を召して、諸將を督して潞州を攻めさせたい。前兗海留後の王班を留後として、襄州に鎮させたい。楊師厚は、しばしば「王班の牙兵の王求らが凶悍だから、王班は備えておけ」という。だが7月戊寅、王班は王求に殺された。
乱兵の王求らは、推都指揮使する雍丘劉[王巳]を留後とした。[王巳]は偽って従ったふりをし、翌日、指揮使の王延順らとともに、朱晃のもとに逃げた。

胡三省が『考異』の異説を載せる。中華書局版8714頁。

乱兵は、平淮指揮使の李洪を留後として、前蜀につく。すぐに房州刺史の楊虔もまた、後梁にそむき前蜀につく。

909年8月、江西の地が全て楊氏に帰する

危全諷在象牙潭,營柵臨溪,亙數千里。庚辰,周本隔溪布陳,先使羸兵嘗敵。全諷兵涉溪追之,本乘其半濟,縱兵擊之,全諷兵大潰,自相蹂藉,溺水死者甚眾,本分兵斷其歸路,擒全諷及將士五千人。乘勝克袁州,執刺史彭彥章,進攻吉州,歙州刺史陶雅使其子敬昭及都指揮使徐章將兵襲饒、信,信州刺史危仔倡請降,饒州刺史唐寶棄城走。行營都指揮使米志誠、都尉呂師造等敗苑玫於上高。

危全諷は象牙潭にいて、溪ぞいの数千里に柵をつくる。7月庚辰、周本は渓を隔てて陣をしく。先に羸兵に敵を試させる。危全諷の兵は、渓を渉って周本を追う。周本は、危全諷が半分を渉ったところで、撃破した。戦死と溺死がおおい。周本は危全諷の退路をたち、危全諷と将士5千人をとらえた。勝ちに乗じて袁州に克ち、袁州刺史の彭彦章を執え、吉州に進攻する。

『九域志』はいう。袁州から南して315里で吉州。

歙州刺史の陶雅は、子の陶敬昭と、都指揮使の徐章に兵をつけ、饒州と信州を襲う。信州刺史の危仔倡は請降する。

胡三省はいう。僖宗の中和2年、危全諷は撫州による。危仔倡は信州による。ここにおいて、危氏は滅亡した。

饒州刺史の唐宝は城を棄ててにげる。行營都指揮使の米志誠と、都尉の呂師造らは、苑玫を上高でやぶる。

長いから区切ったけど。この段落と次の段落は、一連の内容です。


吉州刺史彭玕帥眾數千人奔楚,楚王殷表玕為郴州刺史,為子希范娶其女。淮南以左先鋒指揮使張景思知信州,遣行營都虞候骨言將兵五千送之。危仔倡聞兵至,奔吳越,吳越王鏐以仔倡為淮南節度副使,更其姓曰元氏。危全諷至廣陵,弘農王以其嘗有德於武忠王,釋之,資給甚厚。八月,虔州刺史盧光稠以州附於淮南。於是江西之地盡入於楊氏。光稠亦遣使附於梁。

吉州刺史の彭玕は、数千をひきいて楚国にはしる。

昭宗の天祐3年、彭玕は楚国についた。

楚王の馬殷は表して、彭玕を郴州刺史とする。子の馬希範に、彭玕の娘をめとらせた。淮南は、左先鋒指揮使の張景思に信州を知させる。行營都虞候の骨言に5千をつけ、信州におくる。
危仔倡は、淮南の兵がくると聞き、呉越にはしる。呉越王の銭鏐は、危仔倡を淮南節度副使として、「元」に改姓させた。

『欧史』十国世家によると、銭鏐が「危」という字を悪んで、改姓させた。

危全諷は廣陵にいたる。弘農王は、かつて危全諷は武忠王(楊行密)に徳があったので、危全諷を釋して、資給を厚くした。

ときに淮南の諸将は議した。「むかし先王の楊行密が趙コウ[金皇]を攻めたとき、危全諷はしばしば、淮南に軍糧を供給してくれた」と。

8月、虔州刺史の盧光稠は、虔州をもって淮南につく。ここにおいて江西之地は、すべて楊氏に入る。廬光稠もまた、使者をだして後梁につく。

甲寅,上疾小瘳,始復視朝。
以鎮國節度使康懷貞為西路行營副招討使。
蜀主命太子宗懿判六軍,開永和府,妙選朝士為僚屬。
辛酉,均州刺史張敬方奏克房州。

8月甲寅、朱晃は小瘳を病んでから、はじめて視朝に復す。

7月乙亥より、40日で復活した。

鎮國節度使の康懐貞を、西路行營副招討使とする。
前蜀の王建は、太子の王宗懿に判六軍させ、永和府を開かせる。朝士を妙選して、太子の僚属とする。
8月辛酉、均州刺史の張敬方が、房州に克ったと奏する。

胡三省はいう。楊虔は、房州をもって前蜀についた。『九域志』はいう。均州から南して215里で房州である。


岐王欲遣劉知俊將兵攻靈、夏,且約晉王使攻晉、絳。晉王引兵南下,先遣周德威等將兵出陰地關攻晉州,刺史邊繼威悉力固守。晉兵穿地道,陷城二十餘步,城中血戰拒之,一夕城復成。詔楊師厚將兵救晉州,周德威以騎扼蒙坑之險,師厚擊破之,進抵晉州,晉兵解圍遁去。

岐王は、劉知俊に兵をつけ、霊州と夏州を攻めさせたい。劉知俊は晋王と約して、晉州と絳州を攻める。晋王は南下した。さきに周德威らをやり、陰地関から出て晉州を攻める。晋州刺史の邊繼威は固守した。晉兵は地道をうがつ。城壁の20歩が陥没する。城中で血戰してふせぐ。一夕で城壁の修復がおわる。
朱晃は、楊師厚に詔して、晉州を救わせる。周德威は、騎馬で蒙坑(汾水の東)の険しい地を扼する。楊師厚は周徳威を破る。楊師厚は進み、晉州にあたる。晉兵(晋王と劉知俊)は囲みを解いて遁去した。

『考異』が史料のちがいをいう。中華書局版8716頁。
ぼくは思う。後梁が、晋国の晋州への攻撃をしのいだのだ。


李洪寇荊南,高季昌遣其將倪可福擊敗之。詔馬步都指揮使陳暉將兵會荊南兵討洪。
蜀主以御史中丞王鍇為中書侍郎、同平章事。

李洪が荊南を寇する。高季昌は、将の倪可福をやり、李洪をやぶる。馬步都指揮使の陳暉に詔して、荊南の兵と合わさり、李洪をうつ。
前蜀は、御史中丞の王鍇を、中書侍郎、同平章事とする。

909年9月、

陳暉軍至襄州,李洪逆戰,大敗,王求死。九月,丁酉,拔其城,斬叛兵千人,執李洪、楊虔等送洛陽,斬之。
丁未,以保義節度使王檀為潞州東面行營招討使。
劉守光奏遣其子中軍兵馬使繼威安撫滄州吏民。戊申,以繼威為義昌留後。

陳暉は進軍して、襄州に至る。李洪は逆戦するが、大敗した。王求が死んだ。9月丁酉、陳暉は襄州をぬき、叛した兵1千人を斬る。李洪と楊虔を捕らえ、洛陽に送って斬る。
9月丁未、保義節度使の王檀を、潞州東面行營招討使とする。
劉守光は奏して、子の中軍兵馬使の劉継威を、安撫滄州吏民とする。9月戊申、劉継威は義昌留後となる。

辛亥,侍中韓建罷守太保,左僕射、同平章事楊涉罷守本官。以太常卿趙光逢為中書侍郎,翰林奉旨工部侍郎杜曉為戶部侍郎,並同平章事。曉,讓能之子也。
淮南遣使者張知遠修好於福建,知遠倨慢,閩王審知斬之,表上其書,始與淮南絕。審知性儉約,常躡麻屨,府捨卑陋,未嘗營葺。寬刑薄賦,公私富實,境內以安。歲自海道登、萊入貢,沒溺者什四五。

9月辛亥、侍中の韓建は、守太保・左僕射をやめる。同平章事の楊涉は、守本官をやめる。太常卿の趙光逢を中書侍郎とする。翰林奉旨工部侍郎の杜曉を戶部侍郎とする。趙光逢と杜暁は、どちらも同平章事する。杜暁は、杜讓能の子である。

胡三省が官名にかんする忌避について。中華書局版8716頁。
杜讓能は、国難で死んだ。昭宗の景福2年にある。

淮南は、使者の張知遠をおくり、福建と修好する。張知遠は倨慢で、閩王の審知が、張知遠を斬り、はじめて淮南と福建が断絶した。閩王の審知は、性質は儉約で、つねに麻屨をはく。府捨は卑陋で、營葺しない。寬刑・薄賦で、公私は富實たり。1年ごとに、海路から、登州や萊州に入貢した。没溺する者は、10人に4-5人。

海路についての胡三省の注釈。中華書局版8717頁。


909年冬10月、

冬,十月,甲子,蜀司天監胡秀林獻《永昌歷》,行之。
湖州刺史高澧性凶忍,嘗召州吏議曰:「吾欲盡殺百姓,可乎?」吏曰:「如此,則租賦何從出?當擇可殺者殺之耳。」時澧糾民為兵,有言其咨怨者,澧悉集民兵於開元寺,紿雲犒享,入則殺之,死者逾半;在外者覺之,縱火作亂。澧閉城大索,凡殺三千人。吳越王鏐欲誅之,戊辰,澧以州叛附於淮南,舉兵焚義和臨平鎮,鏐命指揮使錢鏢討之。

冬10月甲子、前蜀の司天監の胡秀林が、『永昌歷』を献じた。採用した。

胡三省はいう。永昌歷は、前蜀のみ使われ、現存しない。

湖州刺史の高澧は、性質が凶忍である。高澧はかつて州吏を召して議論した。「百姓を全殺したいが、よいか」と。州吏「全殺したら、租賦を払う者がいなくなる。殺すべき者を選んで殺せ」と。ときに高澧は、民を兵に転用する。高澧の施策に怨みを言った者を、開元寺にすべて集め、犒享(ねぎらい)と偽って、入寺した者を殺した。使者は半分をこえる。寺の外にある者は(内で殺害が行われていると)気づき、火をはなって作乱する。高澧は城門をとじて捜索し、3千人を殺す。
吳越王の銭鏐は、高澧を誅したい。10月戊辰、高澧は湖州ごと叛して、淮南につく。兵をあげて、義和の臨平鎮を焚く。銭鏐は、指揮使の錢鏢に命じて、高澧を討たせる。

胡三省はいう。高澧の父子は、1州を領有する。湖州は、呉越の銭鏐と、淮南の楊隆演のあいだにある。両府について、存続してきた。いまもっぱら淮南に属したので、呉越の兵がきたのだ。


十一月,甲午,帝告謝於圜丘;戊戌,大赦。
鄴王羅紹威得風痺病,上表稱:「魏故大鎮,多外兵,願得有功重臣鎮之,臣乞骸骨歸第。」帝聞之,撫案動容。己亥,以其子周翰為天雄節度副使,知府事。謂使者曰:「亟歸語而主:為我強飯!如有不可諱,當世世貴爾子孫以相報也。今使周翰領軍府,尚冀爾復愈耳。」

11月甲午、朱晃は圜丘で告謝した。11月戊戌、大赦した。
鄴王の羅紹威は、風痺の病になった。羅紹威は上表していう。「魏はもとは大鎮である。外兵がおおい。有功の重臣を、魏に鎮させろ。私は骸骨・歸第したい」と。朱晃は羅紹威の引退を認めた。朱晃は、案を撫し、容を動かした。

胡三省はいう。朱晃は、羅紹威の病気が理由で、動容したのではない。魏博は大鎮で、150年も世襲してきた。羅紹威が朱晃に、魏博の鎮の後任の人選を任せると言うから、朱晃は嬉しすぎて、手のやりばがなく、顔色を変えたのだ。

11月己亥、子の羅周翰を、天雄節度副使、知府事とする。朱晃は使者にいう。「急いで魏鎮にかえって、お前の主(羅紹威)にいえ。私のために、ムリにでも飯を食え。もし羅紹威が死んでも、子孫に魏鎮を継がせてやる。いま羅周翰に軍府を領させる。羅紹威の病気が治るといい」と。

羅紹威にかんする異説を、胡三省が載せる。中華書局版8718頁。ぼくは思う。朱晃が一目おいて、ビビるほどに、魏鎮の影響はおおきい。朱晃との力関係は、史料によって書き方が異なる、微妙な問題なんだろう。


909年12月、

岐王欲取靈州以處劉知俊,且以為牧馬之地,使知俊自將兵攻之。朔方節度使韓遜遣使告急;詔鎮國節度使康懷貞、感化節度使寇彥卿將兵攻邠寧以救之。懷貞等所向皆捷,克寧、衍二州,拔慶州南城,刺史李彥廣出降。遊兵侵掠及涇州之境,劉知俊聞之,十二月,己丑,解靈州圍,引兵還。帝急召懷貞等還,遣兵迎援於三原青谷。

岐王は、霊州をとり、劉知俊を霊州におき、牧馬之地としたい。劉知俊は兵をひきいて、霊州を攻める。朔方節度使の韓遜が、後梁に急を告げた。朱晃は詔して、鎮國節度使の康懐貞、感化節度使の寇彦卿に、邠寧を攻めて(間接的に)霊州を救わせる。康懐貞は、寧州と衍州の2州に克ち、慶州の南城をぬく。慶州刺史の李彦廣は出降した。

寧州と慶州と衍州は、みな静難軍の巡属である。みな岐州の統治がおよぶ。周の顕徳5年、衍州を廃して定平鎮として、汾州に属させた。

遊兵は侵掠して、涇州之境におよぶ。(岐将の)劉知俊はこれを聞き、12月己丑、霊州の包囲をとき、兵をひく。朱晃は、康懐貞らを急ぎ還して、三原の青谷で迎援させる。

懷貞等還,至三水,知俊遣兵據險邀之,左龍驤軍使壽張王彥章力戰,懷貞等乃得過。懷貞與裨將李德遇、許從實、王審權分道而行,皆與援兵不相值,至昇平,劉知俊伏兵山口,懷貞大敗,僅以身免,德遇等軍皆沒。岐王以知俊為彰義節度使,鎮涇州。
王彥章驍勇絕倫,每戰用二鐵槍,皆重百斤,一置鞍中,一在手,所向無前,時人謂之「王鐵槍」。

康懐貞らが還って、三水に至る。劉知俊は、三水の険阻によって康懐貞を迎撃する。左龍驤軍使する壽張の王彦章が力戰して、康懐貞らは三水を通過できた。
康懐貞と、裨將の李德遇、許從實、王審權は、道を分けてゆく。みな援兵と相値せず、昇平にいたる。劉知俊は山口に伏兵する。康懐貞は大敗して、わずかに身だけ免れる。李徳遇らの軍は、すべて没した。岐王は劉知俊を彰義節度使として、涇州に鎮させる。

ぼくは思う。後梁が岐王に負けるほうのパターン。

王彦章は、驍勇で絶倫。戦いでは、鐵槍2本をつかい、重さは100斤。1本は鞍中、1本は手にもつ。「王鐵槍」といわれた。

蜀蜀州刺史王宗弁稱疾,罷歸成都,杜門不出。蜀主疑其矜功怨望,加檢校太保,固辭不受,謂人曰:「廉者足而不憂,貪者憂而不足。吾小人,致位至此,足矣,豈可求進不已乎!」蜀主嘉其志而許之,賜與有加。

前蜀の蜀州刺史の王宗弁は、稱疾して、罷して成都に帰る。門を閉ざして出ない。前蜀の王建は、王宗弁が矜功して怨望すると疑う。檢校太保を加えるが、王宗弁は固辞して受けない。王宗弁は人にいう。「廉とは、足りて憂わないこと。貪とは、憂いて足りないこと。私は小人だから、致位して、この状況(王建から、官職の低さを怨むのではと疑われる状況)なった。もう官職は足りている。昇進したいのでない」と。王建は、王宗弁の志を嘉して許し、賜与を加えた。

ぼくは思う。官職は返報の原理がべったりつきまとい、人を拘束する。でも財物や金銭なら、その場で精算できて気楽である。そういう価値観が見える。


劉守光圍滄州久不下,執劉守文至城下示之,猶固守。城中食盡,民食堇泥,軍士食人,驢馬相啖□□尾。呂兗選男女羸弱者,飼以麴面而烹之,以給軍食,謂之宰殺務。

劉守光は、滄州を囲むが、久しく下せない。劉守文を捕らえて、城下で示す。なおも滄州は固守する。城中は食盡し、民は堇泥を食べる。軍士は人を食べる。驢馬は尾を食いあう。呂兗は、男女の羸弱な者を選び、彼らを酒麦で煮て、軍食に給した。戦力外の人間を煮て、軍兵に食べさえることを「宰殺務」という。130814

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『資治通鑑』 910年の抄訳

太祖神武元聖孝皇帝中開平四年(庚午,公元九一零年)

910年春正月、

春,正月,乙未,劉延祚力盡出降。時劉繼威尚幼,守光使大將張萬進、周知裕輔之鎮滄州,以延祚及其將佐歸幽州,族呂兗而釋孫鶴。兗子琦,年十五,門下客趙玉紿監刑者曰:「此吾弟也,勿妄殺。」監刑者信之,遂挈以逃。琦足痛不能行,玉負之,變姓名,乞食於路,僅而得免。琦感家門殄滅,力學自立,晉王聞其名,署代州判官。

春正月乙未、劉延祚は、力つきて出降した。ときに劉継威(劉守光の子)は、なお幼い。劉守光は、大將の張萬進と周知裕に、劉継威を輔けさせ、劉継威を滄州に鎮させた。劉延祚およびその將佐は、幽州に帰する。呂兗を族殺して、孫鶴をゆるす。
呂兗の子は呂琦で、15歳である。門下客の趙玉は、監刑に紿っていう。「これは私の弟だから殺すな」と。監刑する者は信じた。呂琦は足が痛くて進めない。趙玉が呂琦を背負った。呂琦は姓名を変えて、道中で食物をこい、やっと免れた。呂琦は家門が殄滅したことに感じ、学んで晋王に名を知られ、代州の判官に署された。

胡三省はいう。孫鶴が誅殺を免れず、呂琦が自立できたのは、天の意向か。
ぼくは思う。この後日談が用意されていないと、この話はおもしろくない。呂琦が、なにかをやり返さないとね。胡三省は、そのことまでは、言っていない。


辛丑,以盧光稠為鎮南留後。
劉守光為其父仁恭請致仕,丙午,以仁恭為太師,致仕。守光尋使人潛殺其兄守文,歸罪於殺者而誅之。

正月辛丑、盧光稠を鎮南留後とする。

廬光稠は、虔州をもって後梁についた。鎮南軍は、洪州に置かれた。ときに淮南が領有している。

劉守光は、父の劉仁恭の致仕を請う。正月丙午、劉仁恭を太師として、致仕させる。劉守光は、ひそかに人をやり、兄の劉守文を殺そうとした。殺において罪に帰す者は、これを誅した。

910年2月、

二月,萬全感自岐歸廣陵,岐王承製加弘農王兼中書令,嗣吳王,於是吳王赦其境內。
高澧求救於吳,吳常州刺史李簡等將兵應之,湖州將盛師友、沈行思閉城不內;澧帥麾下五千人奔吳。

2月、萬全感は、岐王から去り、広陵に帰する。

前年に淮南の使者・万全感は、晋王と岐王のもとにゆく。

岐王は承制して、弘農王(楊隆演)に、兼中書令を加え、呉王とする。ここにおいて呉王は、領内を赦した。

ぼくは思う。楊氏の呉王とは、岐王からもらった爵位なのか。
胡三省はいう。昭宗の天復2年、楊行密を呉王とした。いま岐王が承制して、楊隆演を嗣王とした。

高澧は、呉王に救援をもとめた。呉国の常州刺史の李簡らが応じた。湖州の將・盛師友と沈行思は、閉城して(高澧を)内に入れない。高澧は5千をひきいて呉国に奔った。

昭宗の乾寧4年、李彦徽が淮南に奔り、銭鏐が湖州をとる。天復2年、徐許が杭州をみだす。湖州刺史の高彦は、子の高渭を入援させる。昭宣帝の天祐3年、高彦が卒する。子の高澧が代わりに立つ。ここにおいて高澧が敗れた。
ぼくは思う。さっぱり経過を追えていない、マイナーな展開。


910年3月、

三月,癸巳,吳越王鏐巡湖州,以錢鏢為刺史。
蜀太子宗懿驕暴,好陵傲舊臣。內樞密使唐道襲,蜀主之嬖臣也,太子屢謔之於朝,由是有隙,互相訴於蜀主。蜀主恐其交惡,以道襲為山南西道節度使、同平章事。道襲薦宣徽北院使鄭頊為內樞密使,頊受命之日,即欲按道襲昆弟盜用內庫金帛。道襲懼,奏項褊急,不可大任,丙午,出頊為果州刺史,以宣徽南院使潘炕為內樞密使。

3月癸巳、呉越王の銭鏐は、湖州をめぐり、銭鏢を湖州刺史とする。
蜀太子の王宗懿は驕暴である。舊臣を陵傲するのを好む。内樞密使の唐道襲は、王建の嬖臣である。太子はしばしば、唐道襲を朝廷でふざけてけなした。唐道襲は王建にちくった。王建は、2人の交惡を恐れ、唐道襲を山南西道節度使、同平章事とした。道襲は、宣徽北院使の鄭頊を(自分の後任として)内樞密使に進めた。
鄭頊が受命する日、唐道襲の昆弟が、内庫の金帛を盜用した。唐道襲は(昆弟の罪を鄭頊に摘発されるのを)懼れて、「鄭頊は褊急だから、大任に適さない」という。3月丙午、鄭頊を(地方に)出して果州刺史にする。宣徽南院使の潘炕を、内樞密使とする。

910年夏4月、

夏州都指揮使高宗益作亂,殺節度使李彝昌。將吏共誅宗益,推彝昌族父蕃漢都指揮使李仁福為帥,癸丑,仁福以聞。夏,四月,甲子,以仁福為定難節度使。
丁卯,宋州節度使衡王友諒獻瑞麥,一莖三穗,帝曰:「豐年為上瑞。今宋州大水,安用此為!」詔除本縣令名,遣使詰責友諒,以兗海留後惠王友能代為宋州留後。友諒、友能,皆全昱子也。
帝以晉州刺史下邑華溫琪拒晉兵有功,欲賞之,會護國節度使冀王友謙上言晉、絳邊河東,乞別建節鎮,壬申,以晉、絳、沁三州為定昌軍,以溫琪為節度使。

夏州都指揮使の高宗益が作乱して、節度使の李夷昌を殺した。將吏が高宗益を殺して、夷昌の族父である李蕃漢を、都指揮使とした。李仁福を帥とした。4月癸丑、李仁福は名声がある。夏4月甲子、李仁福は、定難節度使となる。
4月丁卯、宋州節度使の衡王の朱友諒が、瑞麦を献じた。1茎から3穂が生えてる。朱晃「豊年は上瑞となる。だがいま、宋州で大水がある。めでたい麦を喜べるものか」と。瑞麦の生えた県の名を除き、使者を送って朱友諒をとがめる。兗海留後の惠王の朱友能を、朱友諒の代わりに宋州留後とする。朱友諒と朱友能は、どちらも(広王、朱晃の兄)朱全昱の子である。

朱晃は大梁に都して、宣武節度使を宋州にうつす。『薛史』はいう。開平3年5月、宋州を升して、宣武軍の節鎮とする。亳州、輝州、頴州を属郡とする。

朱晃は、晉州刺史する下邑の華溫琪が、晋兵をふせいだ功績があるので、賞したい。たまたま護國節度使する冀王の朱友謙が上言して「晉州と絳州は、河東に隣接するから、べつに節鎮を建てろ」という。4月壬申、晉州、絳州、沁州の3州を定昌軍とした。華温琪をそこの節度使とした。

左金吾大將軍寇彥卿入朝,至天津橋,有民不避道,投諸欄外而死。彥卿自首於帝。帝以彥卿才幹有功,久在左右。命以私財遺死者家以贖罪。御史司憲崔沂劾奏「彥卿殺人闕下,請論如法。」帝命彥卿分析。彥卿對:「令從者舉置欄外,不意誤死。」帝欲以過失論,沂奏:「在法,以勢使令為首,下手為從,不得歸罪從者;不鬥而故毆傷人,加傷罪一等,不得為過失。」辛巳,責授彥卿游擊將軍、左衛中郎將。彥卿揚言:「有得崔沂首者,賞錢萬緡。」沂以白帝,帝使人謂彥卿:「崔沂有毫髮傷,我當族汝!」時功臣驕橫,由是稍肅,沂,沆之弟也。

左金吾大將軍の寇彦卿が入朝して、天津橋に至る。民は道を避けず、欄外に身を投じて死んだ。寇彦卿はみずから朱晃に報告した。朱晃は、寇彦卿が才幹・有功であり、久しく左右にあるので、「私財にて、死者の家族に贖罪せよ」という。御史司憲の崔沂が劾奏した。「寇彦卿は闕下で殺人した。法律どおり請論せよ」と。

「御史司憲」について胡三省の注釈。中華書局版8722頁。

朱晃は(寇彦卿への罰を軽くするため)寇彦卿に、みずからの意見を提出させた。寇彦卿「從者に欄外で舉置させたら、不意に誤って死んだ」という。朱晃は過失なので罪を軽くしたい。崔沂はいう。「法律では、仕向けた者を主犯、実行した者を従犯とする。戦闘の意思を持たずに人を傷つけた者でも、傷害罪になるはずだ」と。
4月辛巳、寇彦卿を責授して(寇彦卿を処罰するため)游擊將軍、左衛中郎將とする。寇彦卿は揚言した。「はじめに崔沂を得た者(いまの官職に推薦した者)を賞して、錢を1萬緡あげろ」と。

ぼくは思う。崔沂のように、相手がどんな尊貴であろうが、原理原則に基づいて法律を執行する者は、まずは嫌われつつ、ときどき褒められる。崔沂のような法家に、痛めつけられながらも、崔沂を評価できた寇彦卿は、器量が大きいのだ。という話だと思う。

崔沂が朱晃に言ったことを、朱晃は寇彦卿に伝えた。「崔沂は、わずかな傷があれば、寇彦卿を族殺するだろう」と。
ときに功臣は驕横だったが、これより稍肅とした。崔沂は、崔沆の弟である。

崔沆は、僖宗のい広明元年にある。


910年5月、

五月,吳徐溫母周氏卒,將吏致祭,為偶人,高數尺,衣以羅錦,溫曰:「此皆出民力,奈何施於此而焚之,宜解以衣貧者。」未幾,起復為內外馬步軍都軍使,領潤州觀察使。
岐王屢求貨於蜀,蜀主皆與之。又求巴、劍二州,蜀主曰:「吾奉茂貞,勤亦至矣;若與之地,是棄民也,寧多與之貨。」乃復以絲、茶、布、帛七萬遺之。

5月、呉の徐温の母の周氏が卒した。將吏は致祭する。偶人(手足や耳目が動く機械じかけの人形)をつくり、高さは数尺あり、羅錦を着せる。徐温「この偶像は民の力を出して造った。焼却しては惜しい。解体して、衣装を貧者にあげよう」と。すぐに徐温は官職にもどり、内外馬步軍都軍使、領潤州觀察使となる。

胡三省が服喪の期間についていう。中華書局版8723頁。徐温はすぐに(未幾)官職にもどったけれど、早いんじゃないかと。

岐王の李茂貞は、しばしば前蜀の王建に財貨を求めた。前蜀は、すべて要求どおり与えた。岐王は、巴州と剣州の2つを求めた。蜀主の王建はいう。「私から李茂貞への奉仕は、全力で勤める。だがもし土地を与えれば、民を棄てることとなる。寧多與之貨」と。王建は2種をあげずに、絲、茶、布、帛を7万あげる。

ぼくは思う。どうして岐王は、王建から財貨を(当然のように)もらえるのか。理由がよく分かってない。確かめる。また、財貨と、州の統治権を比べると、統治権が重要なこと。統治権とは「民を棄てない」のと同義だと。価値観が窺われておもしろい。これもポートレートである。


己亥,以劉繼威為義昌節度使。
癸丑,天雄節度使兼中書令鄴貞莊王羅紹威卒。詔以其子周翰為天雄留後。

5月己亥、劉継威を義昌節度使とする。
5月癸丑、天雄節度使、兼中書令の鄴貞莊王の羅紹威が卒した。

胡三省はいう。開平貴より以後、黒酒の死を「殂」という。それ以後は「卒」とする。

子の羅周翰を、天雄留後とした。

910年6月、匡国節度使の馮行襲が死ぬ

匡國節度使長樂忠敬王馮行襲疾篤,表請代者。許州牙兵二千,皆秦宗權餘黨,帝深以為憂。六月,庚戌,命崇政院直學士李珽馳往視行襲病,曰:「善諭朕意,勿使亂我近鎮。」珽至許州,謂將吏曰:「天子握百萬兵,去此數捨耳;馮公忠純,勿使上有所疑。汝曹赤心奉國,何憂不富貴!」由是眾莫敢異議。

匡國節度使の長樂忠敬王の馮行襲が疾篤である。上表して代者を請う。許州の牙兵2千は、みな秦宗權の余党である。朱晃は、馮行襲の病を憂いた。

開平2年(908)、許州の忠武軍を羅溜めて、匡国軍とした。

6月庚戌、命崇政院直學士の李珽に、馳往して、馮行襲の病を見舞わせる。

命崇政院直學士について、胡三省の注釈。中華書局版8724頁。

朱晃「善く朕意を諭せ。首都に近い鎮を乱すな」と。李珽は許州にゆく。李珽は諸将にいう。「天子は100万の兵をにぎる。天子から、数舎(1舎は30里)だけ隔てた場所に兵がいる。馮行襲は忠純なので、朱晃に疑いをもたれなかった。お前たちは赤心で奉國せよ。富貴でないことを憂うな(これから馮行襲の兵を接収しても、諸将は富貴を求めるな。富貴を求めれば、朱晃に疑いを持たれるから)」と。
諸将は、あえて異議を言わない。

行襲欲使人代受詔,珽曰:「東首加朝服,禮也。」乃即臥內宣詔,謂行襲曰:「公善自輔養,勿視事,此子孫之福也。」行襲泣謝,遂解兩使印授珽,使代掌軍府。帝聞之曰:「予固知珽能辦事,馮族亦不亡矣。」庚辰,行襲卒。甲申,以李珽權知匡國留後,悉以行襲兵分隸諸校,冒馮姓者皆還宗。

馮行襲は、代理の者に受詔させた。李珽「(馮行襲は起きられなくても)東首して朝服を加えろ。これが礼制である」と。

『論語』はいう。疾病にて君主に会うなら、東に首をむける。

李珽はは臥内で宣詔して(朱晃の言葉を伝えて)馮行襲にいう。「馮行襲はよく輔養しろ。政事を視るな。これが子孫の福である」と。馮行襲は泣謝して、両使の印綬を解いて、李珽に授ける。李珽に軍府を代掌させる。

節度使の印綬と、観察使の印綬である。

朱晃はこれを聞き、「私はもとより李珽が辦事できると知る。馮行襲の一族もまた(もし李珽を後任としても)亡ぼすな」と。6月庚辰、馮行襲が卒した。6月甲申、李珽が、權知匡國留後する。馮行襲の兵を分割して、李珽の諸校に配属する。馮姓をもらう者(馮行襲の養子)は、みなもとの姓にもどす。

胡三省はいう。馮行襲の党を消散させるためである。
ぼくは思う。朱晃の意思で、馮行襲の親族は大切にしてもらえる。だが、馮行襲が統治のために設定していた、養子の集団については、解体された。この時期は、養子の集団が、擬似的な血縁として機能して、勢力をつくる。皇帝の継承すら、養子のあいだで行われる。異姓養子がラクラクなのは、日本史に似ている。


楚王殷求為天策上將,詔加天策上將軍。殷始開天策府,以弟賓為左相,存為右相。殷遣將侵荊南,軍於油口。高季昌擊破之,斬首五千級,逐北至白田而還。
吳水軍指揮使敖駢圍吉州刺史彭玕弟瑊於赤石,楚兵救瑊,虜駢以歸。

楚王の馬殷は、天策上將になりたい。朱晃は詔して、馬殷に天策上將軍を加えた。馬殷は、はじめて天策府をひらく。弟の馬賓を左相とし、馬存を右相とする。馬殷は、将をつかわし荊南を侵し、油口(公安)に軍する。高季昌はこれを撃破すして、5千級を斬首した。馬殷の将は、北の白田までもどる。
吳国の水軍指揮使の敖駢は、吉州刺史の彭玕の弟・彭瑊を赤石で囲む。楚兵は彭瑊を救う。敖駢をとらえて帰す。

7月、周徳威、李継徽、劉知俊が李仁福を囲む

秋,七月,戊子朔,蜀門下侍郎兼吏部尚書、同平章事韌城卒。
吳越王鏐表「宦者周延誥等二十五人,唐末避禍至此,非劉、韓之黨,乞原之。」上曰:「此屬吾知其無罪,但今革弊之初,不欲置之禁掖,可且留於彼,諭以此意。」
岐王與邠、涇二帥各遣使告晉,請合兵攻定難節度使李仁福。晉王遣振武節度使周德威將兵會之,合五萬眾圍夏州,仁福嬰城拒守。

秋7月戊子ついたち、前蜀の門下侍郎兼吏部尚書、同平章事の韌城が卒した。
吳越王の銭鏐は表した。「宦者の周延誥ら25人は、唐末に避禍して蜀地にきた。彼らは劉季述と韓全誨の党与ではない。朱晃は、罪を許してほしい」と。朱晃「私は彼らが無罪だと知る。だがいまの後梁は、革弊之初である。まだ禁掖を置かない(宦官を使用する部署がない)。王建は、宦官を蜀地にとどめ、私の意思を伝えてくれ」と。

ぼくは思う。おもしろい話。宦官が置かれるのは、後梁の皇帝を、安定的に世襲させることが、優先になってから。まだ後梁は、朱晃が切り盛りするだけで、精一杯である。それ以上のコストはかけられない。

岐王は、邠州と涇州の2帥とともに、使者を晋王におくる。

邠帥は、李継徽である。涇州は、劉知俊である。

晋王に「兵を合わせて定難節度使の李仁福を攻めよう」という。晋王は、振武節度使の周徳威に兵をつけ、5万をひきいて夏州をかこむ。李仁福は嬰城・拒守する。

910年8月、

八月,以劉守光兼義昌節度使。
鎮、定自帝踐祚以來雖不輸常賦,而貢獻甚勤。會趙王鎔母何氏卒,庚申,遣使吊之,且授起復官。時鄰道弔客皆在館,使者見晉使,歸,言於帝曰:「鎔潛與晉通,鎮、定勢強,終恐難制。」帝深然之。

8月、劉守光を、兼義昌節度使とする。

『考異』が時期についてモメる。中華書局版8725頁。

鎮州と定州は、種手が践祚してから、常賦を輸さないが、貢獻は甚勤である。趙王の王鎔の母・何氏が卒した。8月庚申、弔問の使者をやり、王鎔を官職に復帰させる。ときに鄰道の弔客が、みな在館する。晋王の使者がいるのを見て、使者は朱晃にチクる。「王鎔はひそかに晋王に通じる。鎮州と定州は勢強である。制御が難しくなるのでは」と。朱晃は深く合意する。

朱晃が兵をおくり、鎮州と定州が晋王につく張本である。


壬戌,李仁福來告急。甲子,以河南尹兼中書令張宗奭為西京留守。帝恐晉兵襲西京,以宣化留後李思安為東北面行營都指揮使,將兵萬人屯河陽。丙寅,帝發洛陽;己巳,至陝。辛未,以鎮國節度使楊師厚為西路行營招討使,會感化節度使康懷貞將兵三萬屯三原。帝憂晉兵出澤州逼懷州,既而聞其在綏、銀磧中,曰:「無足慮也。」甲申,遣夾馬指揮使李遇、劉綰自鄜、延趨銀、夏,邀其歸路。
吳越王鏐築捍海石唐,廣杭州城,大修台館。由是錢唐富庶盛於東南。

8月壬戌、李仁福は告急する。8月甲子、河南尹兼中書令の張宗奭(もしくは張全義)を、西京留守とする。朱晃は、晋兵に西京を襲われるのを恐れた。宣化留後の李思安を、東北面行營都指揮使として、1万人で河陽に屯させる。

後梁は鄧州を宣化軍とした。

8月丙寅、朱晃は洛陽を発し、己巳に陝州に至る。辛未、鎮國節度使の楊師厚を、西路行營招討使とする。感化節度使の康懷貞とあわせ、3万で三原に屯する。

塗抹に徐州がしばしば叛乱した。武寧軍を廃して、感化軍をおく。編成と屯地について、中華書局版8726頁。

朱晃は、晉兵が沢州をでて懷州にせまるのを憂い、すでに晋兵が綏州と銀州の磧中にいると聞き、「慮るに足らず」という。8月甲申、夾馬指揮使の李遇と劉綰を、鄜州と延州から、銀州と夏州につかわし、晋兵の帰路で迎えうつ。

ぼくは思う。後梁のいちばんの敵は晋国。そして、やはりその晋国によって、後梁は滅びるのでした。

吳越王の銭鏐は、捍海を石唐に築き、杭州城を広げる。台館を大修する。これにより銭唐の富庶は、東南より盛んとなる。

九月,己丑,上發陝;甲午,至洛陽,疾復作。
李遇等至夏州,岐、晉兵皆解去。

910年9月己丑、朱晃は陝州を発する。甲午、洛陽に至る。ふたたび病気に。
李遇らが夏州に至る。岐兵と晉兵が、どちらも解去する。

910年冬10月、

冬,十月,遣鎮國節度楊師厚、相州刺史李思安將兵屯澤州以圖上黨。
吳越王鏐之巡湖州也,留沈行思為巡檢使,與盛師友俱歸。行思謂同列陳瑰曰:「王若以師友為刺史,何以處我?」時瑰已得鏐密旨遣行思詣府,乃紿之曰:「何不自詣王所論之!」行思從之。既至數日,鏐送其家亦至,行思恨鏐賣己。鏐自衣錦軍歸,將吏迎謁,行思取鍛槌擊瑰,殺之,因詣鏐,與師友論功,奪左右槊,欲刺師友,眾執之。鏐斬行思,以師友為婺州刺史。

冬10月、鎮國節度の楊師厚と、相州刺史の李思安は、兵をひきいて沢州に屯し、上党をねらう。
吳越王の銭鏐は、湖州を巡する。沈行思を留めて湖州の巡檢使とする。盛師友とともに帰する。沈行思は同列の陳瑰にいう。「もし銭鏐が盛師友を刺史としたら、私はどう処したらよいか」と。

胡三省はいう。この年の3月、銭鏐は湖州をめぐる。

ときに陳瑰はすでに、ひそかに銭鏐の「沈行思が(鎮海)軍府にゆけ」と密旨が、沈行思に向けて出発しているのを知っている。だが陳瑰は沈行思をあざむき、「なぜみずから銭鏐に(盛師友でなく、私を軍府にいかせろと)言わないか」という。沈行思は銭鏐のところにゆく。
沈行思は陳瑰に売られたことを恨む。銭鏐が衣錦軍から帰ると、将吏は銭鏐を迎謁した。

胡三省はいう。銭鏐は、臨安の石鏡県で生まれた。里中に大木があった。銭鏐は、群児たちと木の下で遊ぶ。銭鏐は大石に座って指揮をして、群児は隊伍をつくる。号令には法があり、群児は銭鏐をはばかる。銭鏐が貴くなると、大唐の昭宗は、銭鏐の郷里を広義郷として、里を勲貴里とする。軍営を衣錦軍とする。銭鏐が遊んだ大木を「衣錦将軍」という。

沈行思は、鍛槌をとると陳瑰をうち殺した。沈行思は銭鏐のもとにゆき、盛師友と(自分を比べて)論功した。左右の槊をうばい、盛師友を刺そうとした。みなが沈行思を抑えた。銭鏐は沈行思を斬り、盛師友を婺州刺史とした。

ぼくは思う。昇進を気負いすぎると、ボタンをかけ違う話。黙っていれば昇進できたのに、陳瑰にあおられた。陳瑰を恨むことになり、自滅した。


11月、趙王の王鎔が梁に疑われ、晋と燕を頼る

十一月,己丑,以寧國節度使、同平章事王景仁充北面行營都指揮招討使,潞州副招討使韓勍副之,以李思安為先鋒將,趣上黨。尋遣景仁等屯魏州,楊師厚還陝。

11月己丑、寧國節度使、同平章事の王景仁を、北面行營都指揮招討使に充てる。潞州副招討使の韓勍が副官となる。李思安を先鋒の將として、上黨に趣く。景仁らを魏州に屯させる。

胡三省はいう。王景仁に、鎮州と定州を狙わせるため、魏州にうつした。王景仁は、上党からはずした。

楊師厚を陝州に還す。

蜀主更太子宗懿名曰元坦。庚戌,立假子宗裕為通王,宗范為夔王,宗金歲為昌王,宗壽為嘉王,宗翰為集王;立其子宗仁為普王,宗輅為雅王,宗紀為褒王,宗智為榮王,宗澤為興王,宗鼎為彭王,宗傑為信王,宗衍為鄭王。初,唐末宦官典兵者多養軍中壯士為子以自強,由是諸將亦效之。而蜀主尤多,惟宗懿等九人及宗特、宗平真其子;宗裕、宗金歲、宗壽皆其族人;宗翰姓孟,蜀主之姊子;宗范姓張,其母周氏為蜀主妾;自餘假子百二十人皆功臣,雖冒姓連名而不禁婚姻。

蜀主は、太子の王宗懿を、王元坦と改名させた。
11月庚戌、假子の王宗裕を通王とした。宗范為夔王,宗金歲為昌王,宗壽為嘉王,宗翰為集王;立其子宗仁為普王,宗輅為雅王,宗紀為褒王,宗智為榮王,宗澤為興王,宗鼎為彭王,宗傑為信王,宗衍為鄭王。

王爵に封じるのは、文型が同じなので、はぶきます。

はじめ唐末の宦官のうち、典兵する者は、おおく軍中に壯士を養子にとり、自らを強めた。

胡三省はいう。たとえば、田令孜、楊復恭らである。

これにより諸将は、養子がおおい。蜀主の養子がもっとも多い。王宗懿ら9人と、王宗特と王宗平は、養子でなく実子である。王宗裕、王宗金歲、王宗壽は、族人である。王宗翰は孟氏で、蜀主の姉子である。王宗範は張氏で、母の周氏が蜀主の妾である。ほかの仮子120人は功臣である。王姓をもらうが、王氏との婚姻を禁じられない。

史家はいう。仮の父と仮の子は、利益でむすびつく。人倫の正でない。


上疾小愈,辛亥,校獵於伊、洛之間。

朱晃の疾病は少し癒えた。11月辛亥、伊水と洛水のあいだで校猟した。

上疑趙王鎔貳於晉,且欲因鄴王紹威卒除移鎮、定。會燕王守光發兵屯淶水,欲侵定州,上遣供奉官杜廷隱、丁延徽臨魏博兵三千分屯深、冀,聲言恐燕兵南寇,助趙守禦。又雲分兵就食。趙將石公立戍深州,白趙王鎔,請拒之。鎔遽命開門,移公立於外以避之。公立出門指城而泣曰:「硃氏滅唐社稷,三尺童子知其為人。而我王猶恃姻好,以長者期之,此所謂開門揖盜者也。惜乎,此城之人今為虜矣!」

朱晃は、趙王の王鎔が二心をもち、晋王になびくのを疑う。

さきに疑心があるところに、晋国の使者が弔問に来ているのを見て、いよいよ朱晃は王鎔を疑った。

鄴王の羅紹威が死んでから、鎮州と定州を除移したい。たまたま燕王の朱守光が、兵を発して淶水に屯し、定州を侵しそう。朱晃は、供奉官の杜廷隠と丁延徽をつかわし、魏博の兵3千を監させ、深州と冀州に分けて屯させる。

唐末に、東頭供奉官、西頭供奉官をおく。のちに西班寄禄となる。

朱晃は兵の配置換えについて「燕兵の南寇をおそれ、趙国を守禦するから」とアナウンスする。また「兵を分けて、食糧を行き渡らせるため」ともいう。趙將の石公立は、深州をまもる。石公立は、王鎔に「深州を守りたい」という。王鎔は石公立に深州を開門させ、石公立を城外におく。石公立は城門を出て、城を指さして泣いた。「朱氏が大唐の社稷を滅ぼした。3尺の童子でも、朱晃の人となりを知る。だが、わが趙王の王鎔は、朱晃との婚姻をたのむ。

王鎔の子の王昭祚は、後梁の皇女と結婚した。昭宗の光化3年である。

これを、門を開いて盗賊に揖する、というのだ。惜しいかな。この深州の城は、いま虜となった」と。

梁人有亡奔真定,以其謀告鎔者,鎔大懼,又不敢先自絕;但遣使詣洛陽,訴稱「燕兵已還,與定州講和如故,深、冀民見魏博兵入,奔走驚駭,乞召兵還。」上遣使詣真定慰諭之。未幾,廷隱等閉門盡殺趙戍兵,乘城拒守。鎔始命石公立攻之,不克,乃遣使求援於燕、晉。

梁人の亡命者が、真定に逃げてきた。王鎔は大懼したが、あえて亡命者を拒否しない。使者を洛陽にやり、朱晃に訴えた。「燕兵はすでに還った。定州と、もとどおり講和した。

定州は、義武節度使の王処直が治めている。

深州と冀州の民は、魏博の兵が入るのを見て、奔走・驚駭した。兵を召して還したい」と。朱晃は使者を真定にやり、王鎔を慰諭した。すぐに杜廷隠らは閉門して、趙国の戍兵を盡殺して、城をうばって拒守した。王鎔ははじめて石公立に命じて、梁将の杜廷隠を攻めたが克てず。燕国と晋国に救援をもとめた。

鎔使者至晉陽,義武節度使王處直使者亦至,欲共推晉王為盟主,合兵攻梁。晉王會將佐謀之,皆曰:「鎔久臣硃溫,歲輸重賂,結以婚姻,其交深矣,此必詐也,宜徐觀之。」王曰:「彼亦擇利害而為之耳。王氏在唐世猶或臣或叛,況肯終為硃氏之臣乎?彼硃溫之女何如壽安公主!今救死不贍,何顧婚姻!我若疑而不救,正墮硃氏計中。宜趣發兵赴之,晉、趙葉力,破梁必矣。」乃發兵,遣周德威將之,出井陘,屯趙州。

趙王の王鎔の使者は、晉陽にゆく。義武節度使の王處直もまた晋陽にいたる。ともに晋王を盟主に推して、兵を合わせて梁を攻めたい。
晉王は将佐をあつめて謀った。みな「王鎔は久しく朱温の臣である。

昭宗の光化3年、王鎔は朱全忠に服した。朱全忠が受禅すると、臣従した。朱温=朱全忠=朱晃。

歲輸・重賂する。婚姻する。今回の使者は、必ず詐である。徐ろに観ろ」という。晋王「王鎔は利害により、選択しただけだ。王氏は唐世において、或者は臣従し、或者は謀叛した。

王武俊や王承宗、王庭湊のことをいっている。

まして朱氏のもとで、臣従をつらぬくか。朱温の娘は、壽安公主と比べて(忠誠をひきだす機能は)どちらが上か。

王鎔の祖父の王元逵は、大唐の絳王・李悟の娘・寿安公主と婚姻した。ぼくは補う。王氏は大唐の王女をもらったのに、朱温に臣従したじゃないかと。

いま王鎔は、後梁に殺されそうだ。婚姻関係など気にするものか。もし晋国が王鎔を救わねば、朱温の(権臣の王鎔を滅ぼして、皇帝権力を強化する)計画が実現してしまう。晋国と趙国が力をあわせれば、後梁を敗れる」と。
晋王は兵を発する。周徳威は井陘を出て、趙州に屯する。

史家はいう。晋王の李存勗は、虚実を識る。兵勢を見られる。


鎔使者至幽州,燕王守光方獵,幕僚孫鶴馳詣野謂守光曰:「趙人來乞師,此天欲成王之功業也。」守光曰:「何故?」對曰:「比常患其與硃溫膠固。溫之志非盡吞河朔不已,今彼自為仇敵,王若與之並力破梁,則鎮、定皆斂衣任而朝燕矣。王不早出師,但恐晉人先我矣。」守光曰:「王鎔數負約,今使之與梁自相弊,吾可以坐承其利,又何救焉!」趙使者交錯於路,守光竟不為出兵。自是鎮、定復稱唐天祐年號,復以武順為成德軍。

王鎔の使者は、幽州にいたる。燕王の劉守光は、方猟する。幕僚の孫鶴は、野に馳せ詣で、劉守光にいう。「趙人が援軍をほしがる。天が王之功業を、成させようとしている」と。劉守光「なにゆえに」と。孫鶴「つねに憂患だったのは、王鎔と朱温の膠固である。朱温は、河朔を吞する意志が抑えられず、みずから(河朔を治める)王鎔に敵対した。もし燕王の劉守光が、趙王の王鎔と力をあわせれば、後梁を破れる。鎮州と定州は、どちらも燕国の領土となる。早く出兵せねば、晋人に先を越される」と。

鎮州は王鎔が、定州は王処直がおさめる。

劉守光「王鎔は、しばしば盟約にそむく。いま後梁と対立して、苦し紛れに使者をよこした。私は動かずに(漁夫のような)利益だけを承けよう。わざわざ兵を出して、王鎔を救うことはない」と。王鎔の使者がしばしば道路に交錯したが、劉守光は出兵せず。
鎮州と定州は、大唐の年号「天祐」にもどす。武順を「成德」軍とする。

鎮州と定州は、後梁に臣従した。開平の年号をつかった。朱晃の祖先の名を避けて、成徳軍を武順軍とした。いま梁国と対立したので、大唐にもどした。
ぼくは思う。晋王は趙王を救援し、燕王は趙王を放置する。立場の違いが出ていて、おもしろい。これで対応が同じなら、(キャラ的に)2つの国が登場する意味がない。


910年12月、みずから晋王が梁軍に挑戦する

司天言:「來月太陰虧,不利宿兵於外。」上召王景仁等還洛陽。十二月,己未,上聞趙與晉合,晉兵已屯趙州,乃命王景仁等將兵擊之。庚申,景仁等自河陽渡河,會羅周翰兵,合四萬,軍於邢、洺。

司天はいう。「来月は太陰虧である。外で宿兵するには不利である」と。朱晃は王景仁らを召して、洛陽に還す。
12月己未、朱晃は趙王と晋王が合わさると聞く。晋兵はすでに趙州に屯する。王景仁らに、晋兵を撃たせる。12月庚申、王景仁らは河陽から渡河する。王景仁は、羅周翰の兵をあわさり、4万となる。邢州と洺州に軍する。

虔州刺史盧光稠疾病,欲以位授譚全播,全播不受。光稠卒,其子韶州刺史延昌來奔喪,全播立而事之。吳遣使拜延昌虔州刺史,延昌受之,亦因楚王殷通密表於梁,曰:「我受淮南官,以緩其謀耳,必為朝廷經略江西。」丙寅,以延昌為鎮南留後。延昌表其將廖爽為韶州刺史,爽,贛人也。吳淮南節度判官嚴可求請置制置使於新淦縣,遣兵戍之,以圖虔州。每更代,輒潛益其兵,虔人不之覺也。

虔州刺史の盧光稠は疾病する。官職を譚全播に授けたいが、譚全播は受けない。

譚全播と廬光稠は、いっしょに起兵した者だ。

廬光稠が卒すると、子の韶州刺史の廬延昌が葬儀にくる。譚全播は廬延昌につかえる。呉王は使者をやり、廬延昌に虔州刺史を拝させ、廬延昌はこれを受ける。
楚王の馬殷は、ひそかに後梁に上表する。「私は淮南に官職を受ける。朝廷のために江西を經略しよう」と。12月丙寅廬延昌を鎮南留後とする。廬延昌は表して、その將の廖爽を韶州刺史とする。廖爽は贛人である。
呉国の淮南節度判官の厳可求は、制置使を新淦縣(吉州)に置いて、虔州を図りたいと表した。交代のたびに兵を兵を増やしたが、虔人は(虔州を攻略するための兵の増員に)気づかない。

淮南が虔州を併合する張本である。ネタバレ。


庚午,蜀主以御史中丞周庠、戶部侍郎判度支庾傳素並為中書侍郎、同平章事。
太常卿李燕等刊定《梁律令格式》,癸酉,行之。
丁丑,王景仁等進軍柏郷。辛巳,蜀大赦,改明年元曰永平。

12月庚午、蜀主は御史中丞の周庠と、戶部侍郎判度支の庾傳素との2人を、中書侍郎、同平章事とした。
太常卿の李燕らが、『梁律令格式』を刊定して、12月癸酉に施行した。
12月丁丑、王景仁らが柏郷に進軍する。
12月辛巳、前蜀で大赦する。翌年に「永平」と改元する。

12月、趙王の王鎔が、後梁の王景仁と戦う

趙王鎔復告急於晉,晉王以蕃漢副總管李存審守晉陽,自將兵自讚皇東下,王處直遣將將兵五千以從。辛巳,晉王至趙州,與周德威合,獲梁芻蕘者二百人,問之曰:「初發洛陽,梁主有何號令?」對曰:「梁主戒上將云:『鎮州反覆,終為子孫之患。今悉以精兵付汝,鎮州雖以鐵為城,必為我取之。』」晉王命送於趙。

趙王の王鎔は(梁軍が迫るので)ふたたび晋王に告急する。晋王は、蕃漢副總管の李存審に晉陽を守らせ、自ら兵をひきい、讚皇(漢代の鄗県)から東下する。王處直は、5千で晋王に従う。12月辛巳、晋王は趙州に至り、周徳威と合わさる。
梁の芻蕘する者(草薪を刈る者)を2百人とらえて、「洛陽を発したとき、朱晃はなんと号令したか」と問うた。芻蕘する者「朱晃は上将に戒めた。鎮州の反覆は、ついに子孫之患となる。いま精兵をすべて、きみに付ける。趙王のいる鎮州は鉄のような城だが、きみなら必ず取れる」と。晋王は、芻蕘する者を趙国に送る。

胡三省はいう。晋王は、趙王にこの証言を聞かせて、趙王が晋王を頼る心を強めようとしたのだ。


壬午,晉王進軍,距柏鄉三十里,遣周德威等以胡騎迫梁營挑戰,梁兵不出。癸未,復進,距柏鄉五里,營於野河之北,又遣胡騎迫梁營馳射,且詬之。梁將韓勍等將步騎三萬,分三道追之,鎧冑皆被繒綺,鏤金銀,光彩炫耀,晉人望之奪氣。周德威謂李存璋曰:「梁人志不在戰,徒欲曜兵耳。不挫其銳,則吾軍不振。」乃徇於軍曰:「彼皆汴州天武軍,屠酤人庸販之徒耳,衣鎧雖鮮,十不能當汝一。擒獲一夫,足以自富,此乃奇貨,不可失也。」德威自帥精騎千餘擊其兩端,左馳右突,出入數四,俘獲百餘人,且戰且卻,距野河而止。梁兵亦退。

12月壬午、晉王が進軍する。柏郷まで30里。周德威らは、胡騎をもって梁営にせまり、挑戰する。梁兵は出ず。
12月癸未、晋王がまた進む。柏郷まで5里。野河の北に営する。また胡騎をやり、梁営にせまり、馳射して、梁軍をののしる。梁將の韓勍らは、歩騎3万をひきい、3道に分かれて晋軍をおう。梁軍の鎧冑はみな繒綺でおおい、鏤は金銀。光彩は炫耀する。晉人はこれを見て士気を奪われる。
周德威は李存璋にいう。「梁人の意志は、この戦いにない。曜兵だけだ。梁兵の鋭気を挫かねば、わが軍は振るわない」と。周徳威は自軍をめぐる。周徳威「敵軍は、みな汴州の天武軍である。

天武の軍号について、中華書局版8731頁。

だが梁軍の実態は、屠酤・傭販の徒である。衣鎧は鮮やかだが、10人で1人分の強さしかない。もし1人を擒獲すれば(彼らの装束から)富を得られる。チャンスを逃すな」と。周徳意は、精騎1千餘をひきいて、梁軍の両端を撃つ。左に馳せ、右に突する。4たび出入して、1百餘人を俘獲する。戦っては退き、野河を隔てて止まる。梁兵も撤退した。

ぼくは思う。梁軍と晋軍の見せ場。天下の両雄だからね。


德威言於晉王曰:「賊勢甚盛,宜按兵以待其衰。」王曰:「吾孤軍遠來,救人之急,三鎮烏合,利於速戰,公乃欲按兵持重,何也?」德威曰:「鎮、定之兵,長於守城,短於野戰。且吾所恃者騎兵,利於平原廣野,可以馳突。今壓賊壘門,騎無所展其足。且眾寡不敵,使彼知吾虛實,則事危矣。」王不悅,退臥帳中,諸將莫敢言。德威往見張承業曰:「大王驟勝而輕敵,不量力而務速戰。今去賊咫尺,所限者一水耳。彼若造橋以薄我,我眾立盡矣。不若退軍高邑,誘賊離營,彼出則歸,彼歸則出,別以輕騎掠其饋餉,不過逾月,破之必矣。」承業入褰帳撫王曰:「此豈王安寢時耶!周德威老將知兵,其言不可忽也。」王蹶然興曰:「予方思之。」時梁兵閉壘不出,有降者,詰之,曰:「景仁方多造浮橋。」王謂德威曰:「果如公言。」是日,拔營,退保高邑。

周徳威は晋王にいう。「賊勢は甚盛である。按兵して、梁軍の衰退を待とう」と。晋王「わが軍は遠來である。趙王の救援要請は緊急である。こちらは3鎮が烏合する。利は速戰にある。どうして周徳威は(利を捨ててまで)待てというか」と。

胡三省はいう。鎮州の趙王の王鎔、定州の王處直、河東の晋王の李存勗で、3鎮である。結成した当初は鋭気があるが、日がたつとダレて、心が離れるものだ。

周徳威「鎮州と定州の兵は、守城がうまく、野戦がつたない。われら晋兵は騎兵であり、平原や廣野でつよいから、馳突に使うべきだ。いま梁兵を圧倒したので、梁兵は壘門した。起兵が足を伸ばす戦場がない。だから持久がよい」と。
晋王は悦ばず、退いて帳中に臥した。諸将はなにも言わない。
周徳威は張承業にいう。周徳威「大王は勝に驟して敵を軽んじる。いま梁軍と近く、野河を隔てるだけ。もし梁軍が造橋して、わが軍の薄いところに渡れば、わが軍は全滅する。わが晋軍は高邑に退くべきだ。

高邑とは、漢代の鄗県である。光武帝が高邑と改めた。唐代は趙州に属する。

梁軍が離れるように仕向けるべきだ。梁兵が出れば、晋兵は帰る。梁兵が帰れば、晋兵が出る。その一方で、軽騎で梁軍の饋餉をぬすめ。月をまたがず、梁軍を破れる」と。
張承業は褰帳に入り、晋王にいう。「晋王は寝ているときでない。周徳威は老將で、兵法を知る。周徳威の発言を、忽(おろそ)かにするな」と。晋王は蹶然として興き、「私もそう思っていた」という。

ぼくは思う。この柔軟性が、晋王の李存勗の魅力だなあ。

ときに梁兵は閉壘して出ない。梁から降った者を詰問した。梁兵「梁将の王景仁は、浮橋をおおく造っている」と。晋王は周徳威にいう。「果たして周徳威の言うとおりだった」と。この日、晋王は軍営をはらい(周徳威の言うとおり)退いて高邑に保した。

辰州蠻酋宋鄴,漵州蠻酋潘金盛,恃其所居深險,數擾楚邊。至是,鄴寇湘鄉,金盛寇武岡,楚王殷遣昭州刺史呂師周將衡山兵五千討之。

辰州の蛮酋である宋鄴と、漵州の蛮酋である潘金盛は、地形の深險をたのみ、しばしば楚国の辺境をさわがす。ここにおいて、宋鄴は湘郷を寇し、潘金盛は武岡を寇する。楚王の馬殷は、昭州刺史の呂師周に、衡山の兵を5千つけ、蛮族を討伐させる。

中華書局版8733頁に地名について胡三省の注釈あり。


楚王が高州と容州を得て、姚彦章を任じる

寧遠節度使龐巨昭、高州防禦使劉昌魯,皆唐官也。黃巢之寇嶺南也,巨昭為容管觀察使,昌魯為高州刺史,帥群蠻據險以拒之,巢眾不敢入境。唐嘉其功,置寧遠軍於容州,以巨昭為節度使,以昌魯為高州防禦使。及劉隱據嶺南,二州不從;隱遣弟巖攻高州,昌魯大破之,又攻容州,亦不克。昌魯自度終非隱敵,

寧遠節度使の龐巨昭と、高州防禦使の劉昌魯は、どちらも唐官である。黃巢が嶺南を寇すると、龐巨昭は、容管觀察使となる。劉昌魯は高州刺史となる。群蠻をひきい、険しい地で黄巣をふせぐ。黄巣は入境せず。大唐はその功績を嘉し、寧遠軍を容州におく。龐巨昭を節度使とする。劉昌魯を高州防禦使とする。

『通鑑』によると。昭宗の乾寧4年、寧遠軍を容州においた。李克用は、泰章の蓋寓を、寧遠軍の節度使とした。『新書方鎮表』によると、容州に節度使が置かれたのはこの年である。龐巨昭がこの年のあとに節度使となった。

劉隠が嶺南に拠っても、2州(高州と容州)は従わず。劉隠は、弟の劉巌に高州を攻めさせる。劉昌魯は劉巌を大破した。劉巌は容州を攻めるが、容州でも克てない。劉昌魯は自ら指揮して、劉隠をよせつけない。

ひとつの段落を分けてます。つぎに続く。



是歲,致書請自歸於楚。楚王殷大喜,遣橫州刺史姚彥章將兵迎之。
彥章至容州,裨將莫彥昭說巨昭曰:「湖南兵遠來疲乏,宜撤儲偫,棄城,潛於山谷以待之。彼必入城,我以全軍掩之,彼外無繼援,可擒也。」巨昭曰:「馬氏方興,今雖勝之,後將何如!不若具牛酒迎之。」彥昭不從,巨昭殺之,舉州迎降。彥章進至高州,以兵援送巨昭、昌魯之族及士卒千餘人歸長沙。楚王殷以彥章知容州事,以昌魯為永順節度副使。昌魯,鄴人也。

この歳、劉昌魯は致書して、楚国に帰りたいと請うた。楚王の馬殷は大喜した。横州刺史の姚彥章に、劉昌魯を迎えさせる。
姚彦章は容州に至る。裨將の莫彦昭は、龐巨昭にいう。莫彦昭「湖南の兵(馬殷の兵)は遠來で疲乏する。まず私たちが城を棄てて山谷に潜伏する。湖南の兵が(補給と休息のために)入城したら、全軍で包囲する。湖南の兵には、継援がないから、擒えられる」と。
龐巨昭「馬氏は興隆する。いま湖南の兵(馬殷の兵)に勝っても、その後でどうする。牛酒を具えて迎えるのが良い」と。莫彦昭は従わない。龐巨昭は莫彦昭を殺し、容州ごと湖南の兵にくだる。

中華書局版8734頁で、この経緯をモメてる。諸説あるのか。

馬殷の将・姚彦章は、高州に至る。龐巨昭に兵を送って援ける。劉昌魯の一族と士卒の1千余人は、長沙に帰する。楚王の馬殷は、姚彦章に知容州事させる。

姚彦章が容州を守れなかった張本である。

劉昌魯は、永順節度副使となる。劉昌魯は、鄴の人である。130815

馬殷は朗州をあわせる。奏して、武貞軍を永順軍とする。

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『資治通鑑』 908年-2月の抄訳

太祖神武元聖孝皇帝中乾化元年(辛未,公元九一一年)

911年春、後梁と晋国が直接対決する

春,正月,丙戌朔,日有食之。
柏鄉比不儲芻,梁兵刈芻自給,晉人日以遊軍抄之,梁兵不出。周德威使胡騎環營馳射而詬之,梁兵疑有伏,愈不敢出,坐刀屋茅坐席以飼馬,馬多死。丁亥,周德威與別將史建瑭、李嗣源將精騎三千壓梁壘門而詬之,王景仁、韓勍怒,悉眾而出。德威等轉戰而北至高邑南;李存璋以步兵陳於野河之上,梁軍橫亙數里,競前奪橋,鎮、定步兵御之,勢不能支。晉王謂匡衛都指揮使李建及曰:「賊過橋則不可複製矣。」建及選卒二百,援槍大噪,力戰卻之。建及,許州人,姓王,李罕之之假子也。

春正月丙戌ついたち、日食あり。
柏郷では、ほぼ麦が実らない。梁兵は麦を刈って自給する。晋人は遊軍で、梁兵の刈った麦をぬすむ。梁兵は出ず。周德威は、胡騎に梁兵の軍営をかこんで馳射させ、梁兵をののしる。梁兵は伏兵を疑い、あえて出ず。屋茅を坐して、坐席して飼馬?する。梁兵の馬が多く死す。
正月丁亥、周德威と、別將の史建瑭と李嗣源は、精騎3千をひきい、梁兵の壘門を圧して、ののしる。梁将の王景仁と韓勍怒は、どちらも出る。周徳威らは転戦して、北して高邑の南にいたる。李存璋は、歩兵を野河之上に布陣する。梁軍は數里にわたって橫亙する。前を競って、橋をうばう。鎮州と定州の步兵が、橋を御するが、軍勢を支えられない。晉王は、匡衛都指揮使の李建及にいう。「賊が橋を過ぎれば、もう制御できなくなる」と。李建及は卒200を選び、援槍・大噪して、力戦してふせぐ。李建及は許州の人で、王姓である。李罕之の仮子である。

『薛史』はいう。李建及は、もとは王姓である。わかいときから李罕之につかえた。光啓期、李罕之は部下から暁雄な者100人を選び、李克用に献じた。李建及はそのなかに含まれ、のちに功績により、李姓をもらった。


晉王登高丘以望曰:「梁兵爭進而囂,我兵整而靜,我必勝。」戰自巳至午,勝負未決。晉王謂周德威曰:「兩軍已合,勢不可離,我之興亡,在此一舉。我為公先登,公可繼之。」德威叩馬而諫曰:「觀梁兵之勢,可以勞逸制之,未易以力勝也。彼去營三十餘里,雖挾糗糧,亦不暇食,日昳之後,飢渴內迫,矢刃外交,士卒勞倦,必有退志。當是時,我以精騎乘之,必大捷。於今未可也。」王乃止。

晉王は、高丘に登って望む。晋王「梁兵は争って進み、囂(虚驕)である。わが晋兵は整って静である。必ず勝てる」と。巳から午の刻まで戦うが、勝負が決さず。晉王は周德威にいう。晋王「兩軍はすでに合さり、勢は離れない。晋国の興亡は、この一挙にある。私は周徳威のために(戦場に)登る。周徳威はつづけ」と。周徳威は馬を叩いて諫めた。周徳威「梁兵之勢を観るに、勞逸をもってこれを制すべきだ。まだ(梁兵は疲労しておらず)力押しでは勝てない。梁軍は軍営から30余里、はなれる。梁兵は糗糧を携帯しているが、食べる暇がない。日昳之後、飢渴は内で迫る。外で矢刃を交えるが、士卒は勞倦する。必ず退志が生じる。このとき、わが精騎で乗じれば、必ず大捷する。いま晋王が突撃するな」と。晋王は突撃をやめた。

胡三省はいう。後梁と晋国が天下を争い、周徳威の勇をもって聞こえ、難能である。しかるにその制勝を観ると、計をもって勇をもってせず。これもまた難能であった。?


時魏、滑之兵陳於東、宋、汴之兵陳於西。至晡,梁軍未食,士無鬥志,景仁等引兵稍卻,周德威疾呼曰:「梁兵走矣!」晉兵大噪爭進,魏、滑兵先退,李嗣源帥眾噪於西陳之前曰:「東陳已走,爾何久留!」梁兵互相驚怖,遂大潰。李存璋引步兵乘之,呼曰:「梁人亦吾人也,父兄子弟餉軍者勿殺。」於是戰士悉解甲投兵而棄之,囂聲動天地。趙人以深、冀之憾,不顧剽掠,但奮白刃追之,梁之龍驤、神捷精兵殆盡,自野河至柏鄉,殭屍蔽地。

ときに、魏州と滑州の兵は、東に陣する。宋州と汴州の兵は、西に陣する。晡の刻(日没)、梁軍はまだ食わないので、士は闘志がなくなる。梁兵の王景仁らは兵をひき、稍く卻ぐ。周德威は疾呼した。周徳威「梁兵がにげた」と。晉兵は大いに噪爭して進む。魏州と滑州の兵が、先に退く。李嗣源は帥眾して、西陳の前で噪する。李嗣源「東陳はすでににげた。どうしてお前らが久しく留まれようか」と。梁兵は互相に驚怖して、ついに大潰した。

胡三省はいう。陣を横にながく布くので、東西は連絡がない。ゆえに晋兵に噪がされ、驚いて潰えた。

李存璋は步兵をひき、これに乗じて呼した。李存璋「梁人もまた吾人(わが国の民)である。父兄・子弟のうち、軍に餉する(酒食を贈る)者は殺すな」と。
ここにおいて戰士は、すべて甲(防具)を解き、兵(武器)を投じて棄てた。囂聲が天地を動もす。趙人は、深州と冀州の憾があるから、剽掠を顧みず、ただ白刃を奮って、梁兵を追った。

胡三省はいう。梁兵が杜廷隠をつかわして、深州と冀州の戌兵を殺したことを、趙人は憾んでいるのだ。

梁兵の龍驤と神捷の精兵だが、ほぼ全滅してしまった。野河より柏郷にいたり、殭屍は地を蔽う。

『薛史』本紀はいう。開成2年、尹皓の部下500人は、神捷軍とする。


王景仁、韓勍、李思安以數十騎走。晉兵夜至柏鄉,梁軍已去,棄糧食、資財、器械不可勝計。凡斬首二萬級。李嗣源等追奔至邢州,河朔大震。保義節度使王檀嚴備,然後開城納敗卒,給以資糧,散遣歸本道。晉王收兵屯趙州。杜廷隱等聞梁兵敗,棄深、冀而去,悉驅二州丁壯為奴婢,老弱者坑之,城中存者壞垣而已。

梁将の王景仁、韓勍、李思安は、数十騎でにげた。

胡三省はいう。王景仁はかつて、労逸をもって梁兵を制した。周徳威もまた、同じように労逸をもって梁兵を制した。梁兵は(周徳威も王景仁と同じ作戦をとると)気づかなかった。

晉兵は夜に柏郷にいたる。梁軍はすでに去り、糧食、資財、器械を棄てており、計量できないほど多い。2万級を斬首した。李嗣源らは追奔して邢州にいたる。

『九域志』はいう。柏郷から西南に150余里いくと、邢州である。

河朔は大震した。保義節度使の王檀は嚴備して、その後に開城して、梁軍の敗卒を収納した。資糧を供給した。散らせて(晋兵に捕まらぬように経路を分散させて)本道に帰させた。晉王は兵を收めて趙州に屯する。
杜廷隠らは、梁兵が敗れたと聞き、深州と冀州を棄てて去る。2州の丁壯を駆って、すべてを奴婢とする。老弱な者は穴に埋めた。城中に存する者は、垣を壞した。

911年正月、晋兵が澶州・魏州・邢州を攻める

癸巳,復以楊師厚為北面都招討使,將兵屯河陽,收集散兵,旬餘,得萬人。己亥,晉王遣周德威、史建瑭將三千騎趣澶、魏,張承業、李存璋以步兵攻邢州,自以大軍繼之,移檄河北州縣,諭以利害。帝遣別將徐仁溥將兵千人,自西山夜入邢州,助王檀城守。己酉,罷王景仁招討使,落平章事。

正月癸巳、楊師厚を北面都招討使にもどし、將兵は河陽に屯させる。梁軍の散兵を收集する。旬餘して、1万余人を得る。正月己亥、晉王は周德威と史建瑭に3千騎をつけ、澶州と魏州にゆかせる。張承業と李存璋は、歩兵で邢州を攻める。

西山とは、すなわち太行山脈に連なって延びr、上党の諸山にいたる。

晋王は大軍で、これにつづく。河北の州縣に移檄して(後梁より晋国につけと)利害を諭す。朱晃は、別將の徐仁溥に兵1千をつけ、西山から夜に邢州へ入れる。王檀を助けて城守する。
正月己酉、王景仁を(敗北の責任で)招討使から罷め、平章事を落す。

蜀主之女普慈公主嫁岐王從子秦州節度使繼崇,公主遣宦者宋光嗣以絹書遣蜀主,言繼崇驕矜嗜酒,求歸成都,蜀主召公主歸寧。辛亥,公主至成都,蜀主留之,以宋光嗣為閣門南院使。岐王怒,始與蜀絕。光嗣,福州人也。

蜀主の王建の娘・普慈公主は、岐王の從子である秦州節度使の李継崇にとつぐ。

胡三省はいう。蜀主は、蕭梁の軍名をもって、娘を封じた。
宋白はいう。南朝の梁武帝は、普慈郡を普州の安岳県におく。

公主は宦者の宋光嗣をやって、蜀主に絹書を送る。公主「李継崇は驕矜で嗜酒する。成都に帰りたい」と。蜀主は公主を召して歸寧させる。

すでに嫁いだ娘が、父母のもとにいるとき「帰寧」という。「寧」とは安のこと。

正月辛亥、公主は成都に至る。蜀主は公主を留める。宋光嗣を閣門南院使とする。岐王は怒り、はじめて前蜀と岐王の関係が絶えた。宋光嗣は、福州の人。

呂師周引兵攀籐緣崖入飛山洞襲潘金盛,擒送武岡,斬之。移兵擊宋鄴。

呂師周は、引兵して籐を攀み、崖に緣い、飛山洞に入り、潘金盛を襲う。武岡を擒えて送り、これを斬る。兵を移し、宋鄴を擊す。

ぼくは思う。固有名詞ばかり羅列されても、なんじゃこりゃ。


2月、梁帝の朱晃が、晋王との戦いに出陣

二月,己未,晉王至魏州,攻之,不克。上以羅周翰年少,且忌其舊將佐,庚申,以戶部尚書李振為天雄節度副使,命杜廷隱將兵千人衛之,自楊劉濟河,間道夜入魏州,助周翰城守。癸亥,晉王觀河於黎陽,梁兵萬餘將渡河,聞晉王至,皆棄舟而去。

2月己未、晋王は魏州に至る。攻めるが克てず。朱晃は、羅周翰が年少であり、もとは羅周翰が羅紹威の將佐だったことを忌む。2月庚申、戶部尚書の李振を、天雄節度副使とする。杜廷隠に命じて、兵1千をひきい、魏州を衛らせる。

胡三省はいう。これより先、羅紹威の(後任の人選を朱晃に委任するという)要請により、朱晃は撫案(机をなでて)動容(顔色をかえて)いた。ここにいたり、朱晃の心術があらわになった。ぼくは補う。つまり朱晃が、羅氏の世襲をくずして、羅周翰を魏州から解任した。

楊劉から河をわたる。間道をゆき、夜に魏州に入る。羅周翰を助けて、魏州の城を守る。2月癸亥、晉王は黎陽で河を観る。梁兵の1万余が、渡河しそう。晋王が至ると聞き、梁兵はみな舟を棄てて去った。

史家はいう。梁兵が晋王をひどく懼れている。


帝召蔡州刺史張慎思至洛陽,久未除代。蔡州右廂指揮使劉行琮作亂,縱兵焚掠,將奔淮南;順化指揮使王存儼誅行琮,撫遏其眾,自領州事,以眾情馳奏。時東京留守博王友文不先請,遽發兵討之,兵至鄢陵,帝曰:「存儼方懼,若臨之以兵,則飛去矣。」馳使召還。田子,授存儼權知蔡州事。

朱晃は、蔡州刺史の張慎思を召して洛陽に至らせる。だが蔡州刺史のポストは、久しく除代されない。蔡州右廂指揮使の劉行琮が作乱した。縱兵・焚掠して、淮南に奔ろうとする。順化指揮使の王存儼が、劉行琮を誅し、その軍衆を撫遏して、みずから王存𠑊が領州事し、衆情を馳奏する。ときに東京留守する博王の朱友文は、王存𠑊の請に遅れて、兵を発して劉行琮を討とうとした。朱友文の兵が鄢陵に至ると、朱晃はいう。朱晃「王存𠑊は、朱友文の兵を懼れている。朱友文は飛去せよ」と。

『九域志』はいう。鄢陵は、大梁から東南に160里。

朱友文は召還された。2月甲子、王存儼に權知蔡州事をさずける。

乙丑,周德威自臨清攻貝州,拔夏津、高唐;攻博州,拔東武、朝城。攻澶州,刺史張可臻棄城走,帝斬之。德威進攻黎陽,拔臨河、淇門;逼衛州,掠新郷、共城。庚午,帝帥親軍屯白司馬阪以備之。

2月乙丑、晋将の周德威は、臨清から貝州を攻める。夏津、高唐をぬく。博州を攻め、東武、朝城をぬく。澶州を攻め、澶州刺史の張可臻は、城を棄てて逃げる。朱晃は張可臻を斬った。周徳威は黎陽に進攻した。臨河、淇門をぬく。衛州に逼り、新郷、共城を掠める。

地名にかんする注釈は、中華書局版8738頁。

2月庚午、朱晃は親軍を帥い、白司の馬阪に屯し、周徳威に備える。

史家はいう。晋兵は勝ちに乗じて、声勢が盛んである。梁祖(朱晃)は、富家の子から、材力ある者を選んで、帳下におき「廳子都」という。薛居正はいう。太祖(朱晃)は廳子都をおく。もっとも親しい軍となる。
白司馬阪は、洛陽の城北にある。
ぼくは思う。後梁と晋国の戦いは、晋王がみずから出張って、晋王が勝った。つぎは梁帝がみずから出張ってくる。決戦だなあ。


2月、晋王が、燕王の劉守光を攻めると決断

盧龍、義昌節度使兼中書令燕王守光既克滄州,自謂得天助,淫虐滋甚。每刑人,必置諸鐵籠,以火逼之;又為鐵刷刷人面。聞梁兵敗於柏鄉,使人謂趙王鎔及王處直曰:「聞二鎮與晉王破梁兵,舉軍南下,僕亦有精騎三萬,欲自將之為諸公啟行。然四鎮連兵,必有盟主,僕若至彼,何以處之?」鎔患之,遣使告於晉王,晉王笑曰:「趙人告急,守光不能出一卒以救之;及吾成功,乃復欲以兵威離間二鎮,愚莫甚焉!」

盧龍、義昌節度使兼中書令する燕王の劉守光は、すでに(去年の正月に)滄州に克つ。みずから「天助を得た」といい、淫虐は滋甚である。人を刑するごとに、必ず鐵籠をおき、火で逼る。鐵刷で人面を刷する。

サディスティックに関する精神分析を要するなあ。

劉守文は、梁兵が柏郷で敗れたと聞き、人をつかわし、趙王の王鎔と、定州の王處直にいう。劉守文「あなたがた2鎮は、晋王とともに梁兵を破ったと聞いた。軍をあげて南下せよ。私もまた精騎3万をひきい、諸公のために啓行する。4鎮が連兵すれば、必ず盟主が必要である。わたしが合流したら、どうやって決めたら良いかね(わたし=劉守文を盟主にしろ)」と。

4鎮とは、并州の晋王である李存勗、幽州の燕王である劉守光、鎮州の趙王である王鎔、定州の王處直。

王鎔は劉守文を患い、晋王につげた。晋王は笑った。「趙人が急を告げたとき、劉守光は1卒も出せずに、これを救うとした。私が卒を出して趙人を救うと、劉守光は兵威をもって、2鎮を離間しにきた。愚莫甚焉!」と。

諸將曰:「雲、代與燕接境,彼若擾我城戍,動搖人情,吾千里出征,緩急難應,此亦腹心之患也。不若先取守光,然後可以專意南討。」王曰:「善!」會楊師厚自磁、相引兵救邢、魏,壬申,晉解圍去;師厚追之,逾漳水而還,邢州圍亦解。師厚留屯魏州。

諸將はいう。「雲州と代州は、燕国と接境する。もし燕王の劉守光が我を擾せば、城の戍兵は心情が動搖する。私は千里を出征したら(燕国との国境で守備したら)緩急は応じがたい。これもまた腹心之患である。先に劉守光を攻め取るのが良い。そのあと南討に專意すべきだ」と。晋王「善し」と。

晋国が燕国を攻め滅ぼす張本である。

朱晃は、楊師厚を磁州と相州からひかせ、邢州と魏州を救わせる。2月壬申、晋兵は包囲を解いて去る。楊師厚はこれを追う。晋兵は、漳水を逾えて還る。邢州の包囲も解けた。楊師厚は、魏州に留まって屯する。

胡三省はいう。さきに晋兵は魏州の囲みを解いた。また邢州の囲みも解いた。
ぼくは思う。晋兵は、燕国をさきに滅ぼすために、梁軍との戦線をさげた。梁軍と戦っていた2つの城から手を引いた。梁軍を決戦するのは、燕王を滅ぼしたあとである。


趙王鎔自來謁晉王於趙州,大犒將士,自是遣其養子德明將三十七都常從晉王征討。德明本姓張,名文禮,燕人也。壬午,晉王發趙州,歸晉陽,留周德威等將三千人戍趙州。

趙王の王鎔は、みずから来て、晉王に趙州で謁する。

『九域志』はいう。鎮州の南95里が趙州である。

おおいに将士をねぎらう。これより王鎔は、養子の王徳明に37都をひきいさせ、つねに晋王の征討に従わせる。王徳明は、もとは張文礼という。燕人である。

王鎔の養子である王徳明(張文礼)は、のちに王鎔を殺して、鎮州を乱す。

2月壬午、晉王は趙州を発して、晉陽に帰る。周德威らをとどめ、3千で趙州を戍させる。130816

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