両晋- > 『資治通鑑』梁紀を抄訳 911年3月-913年11月

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911年、劉守光が晋王に偽って尊ばれ、燕帝に

【後梁紀三】 起重光協洽三月,盡昭陽作噩十一月,凡二年有奇。
太祖神武元聖孝皇帝下乾化元年(辛未,公元九一一年)

911年春3月、前蜀が、岐王の李茂貞を伐つ

三月,乙酉朔,以天雄留後羅周翰為節度使。
清海、靜海節度使兼中書令南平襄王劉隱病亟,表其弟節度副使巖權知留後。丁亥卒,巖襲位。

3月乙酉ついたち、天雄留後の羅周翰を節度使とする。
清海、靜海節度使、兼中書令する南平襄王の劉隠の病がきわまる。劉隠は表して、弟の節度副使の劉巌を權知留後とした。3月丁亥、劉隠は卒した(83歳だった)。劉巌が襲位した。

岐王聚兵臨蜀東鄙,蜀主謂群臣曰:「自茂貞為硃溫所困,吾常振其乏絕,今乃負恩為寇,誰為吾擊之?」兼中書令王宗侃請行,蜀主以宗侃為北路行營都統。司天少監趙溫珪諫曰:「茂貞未犯邊,諸將貪功深入,糧道阻遠,恐非國家之利。」蜀主不聽,以兼侍中王宗祐、太子少師王宗賀、山南節度使唐道襲為三招討使,左金吾大將軍王宗紹為宗祐之副,帥步騎十二萬伐岐。壬辰,宗侃等發成都,旌旗數百里。

岐王の李茂貞は、聚兵して、蜀の東鄙に臨む。蜀主は郡臣にいう。「岐王の李茂貞は、朱温に困らされ、つねに私が李茂貞の乏絕を救ってきた。いまの李茂貞は、私の恩にそむいて寇する。だれが私のために李茂貞を撃つか」兼中書令の王宗侃が行きたいと請う。蜀主は、王宗侃を北路行營都統とする。
司天少監の趙温珪が諫めた。「李茂貞はまだ国境を犯さない。諸将が功績をむさぼり、(岐国に)深入したら、糧道が阻遠となる。國家之利にならない」と。蜀主は諫めを聴かず。兼侍中の王宗祐、太子少師の王宗賀、山南節度使の唐道襲を、三招討使とする。

胡三省はいう。3路から岐国をうつ。1路には、1招討使がいる。王宗侃は、3人の招討使を都統する。

左金吾・大將軍の王宗紹を、宗祐之副とする。步騎12万をひきい、岐国を伐つ。3月壬辰、王宗侃らは成都を發する。旌旗は數百里ならぶ。

岐王募華原賊帥溫韜以為假子,以華原為耀州,美原為鼎州。置義勝軍,以韜為節度使,使帥邠、岐兵寇長安。詔感化節度使康懷貞、忠武節度使牛存節以同華、河中兵討之。己酉,懷貞等奏擊韜於車度,走之。

岐王は、華原の賊帥である温韜をつのり、仮子とする。華原を耀州とし、美原を鼎州とする。

地理について、中華書局版8741頁。ぼくは思う。岐王は領土が小さいので、州をたくさん置いて、領域の恰好をつけた。

岐王は、義勝軍をおき、温韜を節度使として、邠州と岐州の兵をつけ、温韜に長安を寇させる。
朱晃は、感化節度使の康懷貞と、忠武節度使の牛存節に、同華と河中の兵をつかい、温韜を討たせる。3月己酉、康懐貞らは、温韜を車度で撃って、これを敗走させた。

車度は地名で、長安の北、同州との境界にある。


夏、劉守光が晋王に尚父と尊ばれ、皇帝即位

夏,四月,乙卯朔,岐兵寇蜀興元,唐道襲擊卻之。

夏4月乙卯ついたち、岐兵は前蜀の興元を寇する。唐道襲が擊卻する。

上以久疾,五月,甲申朔,大赦。甲辰,以清海留後劉巖為節度使。巖多延中國士人置於幕府,出為刺史,刺史無武人。
蜀主如利州,命太子監國;六月,癸丑朔,至利州。

朱晃は、久しく疾である。5月甲申ついたち、大赦する。
5月甲辰、清海留後の劉巌を節度使とする。

劉巌の名と時期、官職について異説あり。史料ごとに、ひどく食い違っているみたい。中華書局版8741頁。

劉巌は、おおく中國の士人を延べ、幕府におく。中国の士人を出して刺史とする。刺史に武人はいない。
蜀主は利州にゆき、太子に監國を命じる。六月癸丑ついたち、利州に至る。

胡三省はいう。蜀主は、みずから兵を総べ、岐国を伐つ軍の後ろに続きたかった。


燕王守光嘗衣赭袍,顧謂將吏曰:「今天下大亂,英雄角逐,吾兵強地險,亦欲自帝,何如?」孫鶴曰:「今內難新平,公私困竭,太原窺吾西,契丹伺吾北,遽謀自帝,未見其可。大王但養士愛民,訓兵積穀,德政既修,四方自服矣。」守光不悅。又使人諷鎮、定,求尊己為尚父,趙王鎔以告晉王。晉王怒,欲伐之,諸將皆曰:「是為惡極矣,行當族滅,不若陽為推尊以稔之。」乃與鎔及義武王處直、昭義李嗣昭、振武周德威、天德宋瑤六節度使共奉冊推守光為尚書令、尚父。

燕王の劉守光は、かつて赭袍(唐の天子の服)をきて、将吏を顧みた。劉守光「いま天下は大乱する。英雄が角逐する。わが兵は強く、地は険しい。自ら帝になりたい。どうだろうか」と。孫鶴が反対した。孫鶴「いま燕の国内は平らいだばかり。

滄州と徳州を、新たに平定したことをいう。この発言は、孫鶴から発したものではない。ぼくは思う。燕国の共通理解、世論という感じか。

公私は困竭する。太原(晋王)は、燕国の西をうかがう。契丹は北をかがう。晋王と契丹を片づけずに称帝するのは早い。劉守光は、養士・愛民しろ。訓兵・積穀しろ。德政を行えば、四方は自服してくる」と。守光は悅ばず。

ぼくは思う。よくある話。晋王と契丹がカギなのね。

また劉守光は人に諷させ、鎮州と定州に劉守光を尊び「尚父」と呼ばせた。趙王の王鎔は晋王に告げた。晉王は怒って諸将にいう。晋王「劉守光の悪事は極まった。族滅すべき悪事だ。劉守光を推尊するふりをして、劉守光の悪事を明らかにしよう」と。

【稔】みのる、かたちづくる。ぼくは思う。劉守光の計画をみのらせ、かたちをハッキリさせることで、悪事が明らかになる。ということか。

晋王は、王鎔および義武の王處直、昭義の李嗣昭、振武の周德威、天德の宋瑤ら、6節度使(晋王+5節度使)にて、ともに奉冊して、劉守光を尚書令、尚父に推した。

昭義の李嗣昭より以下、みな河東の晋王に属する。ぼくは補う。晋王の計画にもとづき、晋王に呼びかけられて、5節度使は劉守光を「尚父」と尊んだ。屈折した晋王の作戦である。おもしろい!


守光不寤,以為六鎮實畏己,益驕,乃具表其狀曰:「晉王等推臣,臣荷陛下厚恩,未之敢受。竊思其宜,不若陛下授臣河北都統,則並、鎮不足平矣。」上亦知其狂愚,乃以守光為河北道採訪使,遣閣門使王瞳、受旨史彥群冊命之。
守光命僚屬草尚父、採訪使受冊儀。乙卯,僚屬取唐冊太尉儀獻之,守光視之,問何得無郊天、改元之事,對曰:「尚父雖貴,人臣也,安有郊天、改元者乎?」守光怒,投之於地,曰:「我地方二千里,帶甲三十萬,直作河北天子,誰能禁我!尚父何足為哉!」命趣具即帝位之儀,械系瞳、彥群及諸道使者於獄,既而皆釋之。

劉守光は(晋王の真意を)悟らず、6鎮がほんとうに自分を畏れると思った。ますます驕り、具さに表した。劉守光「晉王らは私を推した。私は陛下の厚恩を荷り、あえてまだ受けない。陛下は私に、河北を都統する権限を与えるのが良いでしょう。并州(晋王の李存勗)や鎮州(趙王の王鎔)では、河北を平定できない」と。
朱晃は、劉守光の狂愚を知るが、劉守光を河北道採訪使とした。

唐代の盛時、10道には采訪使がいた。河北の采訪使もその1人である。安史の乱ののち、采訪使は除授(任命)されなくなった。

閣門使の王瞳をつかわし、受旨の史彦群はこれを冊命した。

受旨とは、けだし崇政院の官属である。なお枢密院の承旨のごとし。

守光は、僚屬に尚父の称号がほしいと起草させ、採訪使はその冊儀を受けた。5月乙卯、僚屬は唐冊の太尉の儀をとって献じる。守光はこれを視て問う。守光「なぜ郊天と改元のことを記さないか」と。僚属「尚父は貴いが人臣である。郊天と改元をする権限はない。どうして記せようか」と。守光は怒り、冊儀を地に投げた。「私の領地は方2千里。帶甲は30万。直ちに河北の天子となる。だれが私に、天子即位を禁じられるか。尚父だけで充足するものか」と。命じて即帝位之儀を具えろと催促した。守光は、後梁の使者・王瞳と史彦群および諸道の使者を、監獄につなぐ。即位が終わってから解放した。

ぼくは思う。こういう話を読みたかった!
守光が皇帝を自称するときの経緯について、異説がおおそう。中華書局版8743頁。おもしろそうなので、あとからちゃんと読まねば。できごとの月日も錯綜している。


帝命楊師厚將兵三萬屯邢州。

朱晃は楊師厚に命じて、3万をひきいて邢州に屯させる。

胡三省はいう。趙国を攻めたいのだ。


秋7月、晋王と王鎔が、血縁を擬して盟する

蜀諸將擊岐兵,屢破之。秋,七月,蜀主西還,留御營使昌王宗金歲屯利州。
辛丑,帝避暑於張宗奭第,亂其婦女殆遍。宗奭子繼祚不勝憤恥,欲弒之。宗奭止之曰:「吾家頃在河陽,為李罕之所圍,啖木屑以度朝夕,賴其救我,得有今日,此恩不可忘也。」乃止。甲辰,還宮。

前蜀の諸將は、しばしば岐兵を破る。秋7月、蜀主は西還する。御營使する昌王の王宗[金歲]を利州に屯させる。
7月辛丑、朱晃は張宗奭の第に避暑する。

開平元年、張全義は「宗奭」の名をたまわった。『薛史』によると、張宗奭の私第は、洛陽の会節坊にある。

朱晃は、張宗奭の婦女と乱交する。張宗奭の子・張継祚は憤恥にたえず、朱晃を弑殺したい。張宗奭がとめた。「わが家は河陽にあり、李罕之に囲まれた(僖宗の文徳元年)。木屑を食べて、朝夕をしのいだ。朱晃に救われた恩を忘れるな」と。張継祚は弑殺をやめた。7月甲辰、朱晃は還宮した。

趙王鎔以楊師厚在邢州,甚懼,會晉王於承天軍。晉王謂鎔父友也,事之甚恭。鎔以梁寇為憂,晉王曰:「硃溫之惡極矣,天將誅之,雖有師厚輩不能救也。脫有侵軼,僕自帥眾當之,叔父勿以為憂。」鎔捧卮為壽,謂晉王為四十六舅。鎔幼子昭誨從行,晉王斷衿為盟,許妻以女。由是晉、趙之交遂固。

趙王の王鎔は、楊師厚が邢州にいるのを、甚だ懼れる。

『九域志』はいう。邢州を北して、趙州まで144里だけ。梁将の楊師厚が、国境のそばにいるから、王鎔は懼れたのだ。

王鎔は、晉王と承天軍で会する。晋王は王鎔を、父(李克用)の友といい、晋王が王鎔に仕える態度は、はなはだ恭である。

王鎔はかつて、晋王の李克用と肩を並べて大唐に仕えた。

王鎔は、梁軍の寇を憂いた。晋王「朱温の悪は極まった。天は朱温を誅すだろう。楊師厚のような輩がいても、朱温を救えない。脫が侵軼にあれば、私は軍衆をひきいて梁軍にあたる。叔父(王鎔)は憂うな」と。王鎔は捧卮して壽となし?、晋王を「46舅」という。

胡三省はいう。晋王の第は46であった。?

王鎔の幼子の王昭誨は、晋王に從行する。晉王は斷衿して盟をなす。晋王の娘を、王昭誨の妻とする。これにより、晋国と趙国の交際は、ついに強固となった。

911年8月、

八月,庚申,蜀主至成都。

8月庚申、蜀主は(利州から還り)成都に至る。

燕王守光將稱帝,將佐多竊議以為不可,守光乃置斧質於庭曰:「敢諫者斬!」孫鶴曰:「滄州之破,鶴分當死,蒙王生全,以至今日,敢愛死而忘恩乎!竊以為今日之帝未可也。」守光怒,伏諸質上,令軍士C061而啖之。鶴呼曰:「百日之外,必有急兵!」守光命以土窒其口,寸斬之。甲子,守光即皇帝位。國號大燕,改元應天。以梁使王瞳為左相,盧龍判官劉涉為右相,史彥群為御使大夫。受冊之日,契丹陷平州,燕人驚擾。

燕王の守光は稱帝しそう。おおくの將佐は、ひそかに不可と議する。守光は斧質を宮庭に置き「あえて諫める者は斬る」という。孫鶴「滄州の敗戦(開平4年=910年)で、わたし孫鶴は死にかけたが、守光のおかげで今日まで生きている。

胡三省はいう。守光は、父の劉仁恭を囚えて、兄の劉守文を殺した。幽州と滄州の人は、この行動を支持せず、守光とともに天を頂きたくない。孫鶴は劉守文の委任を受けたが、劉守文に殉死できなかった。いま守光に忠諫して死ねば、死んでも死ねず、死なずに死ねる。
ぼくは思う。胡三省がひねってしまって、理解が難しい。

あえて死を愛して、恩を忘れるものか。私の意見では、まだ称帝は早い」と。守光は怒る。孫鶴「100日以内に、かならず大兵がある」と。守光は孫鶴の口を土でふさぎ、寸斬した。
8月甲子、守光は皇帝に即位した。国号を大燕として、改元「應天」と改元した。梁使の王瞳を左相とする。盧龍判官の劉涉を右相とする。史彦群を御使大夫とする。受冊した日、契丹は平州を陥落させた。燕人は驚擾した。

地理について、中華書局版8745頁。
ぼくは思う。皇帝に即位した日に、重要な拠点が陥落するなんて、まるで天命がない。すばらしいw


岐王使劉知俊、李繼崇將兵擊蜀,乙亥,王宗侃、王宗賀、唐道襲、王宗紹與之戰於青泥嶺,蜀兵大敗,馬步使王宗浩奔興州,溺死於江,道襲奔興元。先是,步軍都指揮使王宗綰城西縣,號安遠軍,宗侃、宗賀等收散兵走保之,短俊、繼崇追圍之。眾議欲棄興元,道襲曰:「無興元則無安遠,利州遂為敵境矣。理必以死守之。」蜀主以昌王宗金歲為應援招討使,定戎團練使王宗播為四招討馬步都指揮使,將兵救安遠軍,壁於廉、讓之間,與唐道襲合擊岐兵,大破之於明珠曲。明日又戰於鳧口,斬其成州刺史李彥琛。

岐王は、劉知俊と李継崇に使者をやり、兵をひきいて前蜀を撃たせる。8月乙亥、劉知俊と李継崇が、蜀将の王宗侃、王宗賀、唐道襲、王宗紹と青泥嶺で戦う。

青泥嶺は、興州の長挙県の西北50里にある。

蜀兵が大敗する。馬步使の王宗浩は興州ににげる。嘉良江で溺死する。道襲は興元にはしる。
これより先、步軍都指揮使の王宗綰は、西縣に城して「安遠軍」という。

西県は、興元府の西100里にある。

王宗侃と王宗賀らは、散兵を收めて、西城に逃げこむ。劉知俊と李継崇は、西城まで追って囲む。
前蜀の衆議は「興元を棄てろ」という。だが唐道襲はいう。「興元を失えば、安遠も失う。利州はついに敵国との境界にさらされる。興元を死守すべきだ」と。

『九域志』はいう。興元から西して西県まで100里。西県は、利州の境界まで45里。境界から利州までは、264里ある。

蜀主は、昌王の王宗[金歲]を、應援招討使とする。定戎團練使の王宗播を、四招討馬步都指揮使とする。

蜀主は、すでに岐王を伐つため、3招討使を出している。さらに王宗[金歳]を、應援招討使とした。招討使が4人いる。

兵をひきいて、2将に安遠軍を救わせる。廉水と讓水のあいだに壁をつくる。唐道襲とあわさり、岐兵を撃ち、明珠曲で大破する。翌日に鳧口で戦い、岐王の成州刺史の李彦琛を斬る。

地理について、中華書局版8746頁。
ぼくは思う。前蜀が岐王に敗れたが、押し返したという話でした。


911年9月、朱晃が晋軍にむけて倍速で移動

九月,帝疾稍愈,聞晉、趙謀入寇,自將拒之。戊戌,以張宗奭為西都留守。庚子,帝發洛陽。甲辰,至衛州,方食,軍前奏晉軍已出井陘。帝遽命輦北趣邢洺,晝夜倍道兼行。丙午,至相州,聞晉兵不出,乃止。相州刺史李思安不意帝猝至,落然無具,坐削官爵。

9月、朱晃の疾病がすこし癒えた。晋国と趙国が、梁国への入寇を謀ると聞き、朱晃はみずから拒ぐ。9月戊戌、張宗奭を西都留守とする。9月庚子、朱晃は洛陽を発する。9月甲辰、衛州に至る。食事のとき、すでに晋軍が井陘に出たと報告がある。朱晃は北して邢洺にゆく。昼夜で倍道・兼行する。9月丙午、相州に至る。

『九域志』はいう。永久から北して、125里で相州に至る。相州からさらに北して、邢洛がある。

晋兵が出ないと聞き、朱晃は止まる。
相州刺史の李思安は、不意に朱晃がきたので、落然として準備がない。越度に坐して官爵を削られた。

ぼくは思う。味方の刺史すら、準備が間に合わないほどの高速移動だったのだ。晋兵が出ていたら、朱晃が勝ったのでは、と窺わせる話。


冬10月、

湖州刺史錢鏢酗酒殺人,恐吳越王鏐罪之,冬,十月,辛亥朔,殺都監潘長、推官鐘安德,奔於吳。
晉王聞燕主守光稱帝,大笑曰:「俟彼卜年,吾當問其鼎矣。」張承業請遣使致賀以驕之,晉王遣太原少尹李承勳往。承勳至幽州,用鄰籓通使之禮。燕之典客者曰:「吾主帝矣,公當稱臣庭見。」承勳曰:「吾受命於唐朝為太原少尹,燕王自可臣其境內,豈可臣它國之使乎!」守光怒,囚之數日,出而問之曰:「臣我乎!」承勳曰:「燕王能臣我王,則我請為臣,不然,有死而已!」守光竟不能屈。

湖州刺史の錢鏢は、酗酒して殺人した。銭鏢は、呉越王の銭鏐から罪とされるのを恐れた。冬10月辛亥ついたち、銭鏢は、都監の潘長と、推官の鐘安德を殺して、呉国にはしった。
晋王は、燕主の守光が稱帝したと聞き、大笑した。晋王「守光の卜年を待ち、私は守光の鼎の軽重を問うべきだな」と。

周成王の卜年をもって、楚子は鼎の軽重を問うた。晋王はこれにひっかけて戯れた。

張承業は、使者を祝賀の使者をよこせと、晋王に要請した。晉王は、太原少尹の李承勲をゆかせた。李承勲は幽州に至り、鄰籓通使の禮を用いた。燕帝の典客はいう。「わが君主は皇帝である。稱臣して庭見すべきだ」と。李承勲「私は唐朝から太原少尹を授命した。燕王は領内では臣下の礼を取らせられるが、他国の使者にまで臣下の礼を取らせられない」と。
守光は怒り、李承勲を数日とたえた。出ては李承勲に「私に臣従しろ」という。李承勲「燕王はわが王(晋王)に臣従するなら、私は燕王に臣従を請う。さもなくば死あるのみだ」と。
守光はついに、李承勲を屈せられない。

蜀主如利州,命太子監國。決雲軍虞候王琮敗岐兵,執其將李彥太,俘斬三千五百級。乙卯,捉生將彭君集破岐二寨,俘斬三千級。王寂侃遣裨將林思諤自中巴間行至泥溪,見蜀主告急,蜀主命開道都指揮使王宗弼將兵救安遠,及劉知俊戰於斜谷,破之。

蜀主は利州にゆき、太子に監國を命じた。

胡三省はいう。蜀主は、王宗侃が岐兵に敗れたと聞いて、ふたたび利州にきて、自軍の継援になろうとした。

決雲軍虞候の王琮は、岐兵を破って、岐將の李彦太を捕らえ、3500級を俘斬した。10月乙卯、捉生將の彭君集は、岐軍の2寨を破り、3000級を俘斬する。
蜀将の王宗侃は、裨將の林思諤をつかわし、中巴から間行して泥溪に至らせ、蜀主に会って告急させた。蜀主は、開道都指揮使の王宗弼に兵をつけ、安遠を救わせる。劉知俊は斜谷で戦い、岐軍を破った。

911年11月、朱晃が晋兵・趙兵と戦わずに帰洛

甲寅夜,帝發相州,乙卯,至洹水。是夜,邊吏言晉、趙兵南下,帝即時進軍,丙辰,至魏縣。或告云:「沙陀至矣!」士卒恟懼,多逃亡,嚴刑不能禁。即而復告雲無寇,上下始定。戊午,貝州奏晉兵寇東武,尋引去。帝以夾寨、柏鄉屢失利,故力疾北巡,思一雪其恥,意鬱鬱,多躁忿,功臣宿將往往以小過被誅,眾心益懼。

10月甲寅夜、朱晃は相州を発して、乙卯に洹水に至る。この夜、辺吏が「晋兵と趙兵が南下する」という。朱晃は即時に進軍する。10月丙辰、魏県に至る。

地理は中華書局版8747頁。

或者が朱晃にいう。「沙陀が至った」と。士卒は恟懼して、おおくが逃亡した。刑を厳しくしても、逃亡を禁じられない。「沙陀の寇掠がない」と言われて、上下ははじめて定まった。

ぼくは思う。沙陀族とは、晋兵のこと。後梁の上下は、みな晋兵が恐いのだ。そのなかで、まったくタイムラグなく動く朱晃はすごい。というか、朱晃ほど機敏でないと、晋兵と戦えないのだろう。
胡三省はいう。敗れた兵の気力は、没世して復さないとは、これをいう。

10月戊午、貝州は「晋兵は東武を寇して、引去した」という。朱晃は、夾寨と柏郷でしばしば失利したので、力疾して北巡し、恥を雪ぎたい。

夾寨の敗北は、開平2年。柏郷の敗北は、上巻の本年に。

意は鬱鬱として、躁忿がおおい。功臣や宿將は、往往にして小過だけで朱晃に誅された。衆心はますます懼れた。

わずかな過失だけで誅された事例が、中華書局版8747頁。


既而晉、趙兵竟不出。十一月,壬午,帝南還。燕主守光集將吏謀攻易定,幽州參軍景城馮道以為未可,守光怒,系獄,或救之,得免。道亡奔晉,張承業薦於晉王,以為掌書記。丁亥,王處直告難於晉。

もう晋兵と趙兵が出てこない。11月壬午、朱晃は南還した。燕主の守光は、將吏を集めて、易定を攻めようと謀る。幽州參軍する景城の馮道は、「易定の攻撃が早い」という。守光は怒り、系獄した。或者が救えというので、馮道は免れた。馮道は晋国に亡奔した。張承業は、馮道を晋王に勧めた。馮道は晋国の掌書記となる。

馮道は、唐、晋、漢、周に仕えて、官位は人臣を極める。諫争を聴かず、どうして守光の禍いを懲諫しなかったか(最後まで守光に付き合えよ)と。

11月丁亥、王處直は晋国に告難した。

懷州刺史開封段明遠妹為美人。戊子,帝至獲嘉,明遠饋獻豐備,帝悅。
庚寅,保塞節度使高萬興奏遣都指揮使高萬金將兵攻鹽州,刺史高行存降。
壬辰,帝至洛陽,疾復作。

懷州刺史する開封の段明遠は、妹を朱晃の美人とする。11月戊子、朱晃が獲嘉(懐州の東北150里)に至る。段明遠は、饋獻すること豐備である。朱晃は悦んだ。

胡三省はいう。段明遠は、のちに「凝」と改名する。官位は上将となる。後梁はついに、段明遠に滅ぼされる。

11月庚寅、保塞節度使の高萬興が奏して、都指揮使の高萬金に兵をつけ、塩州を攻めさせろという。塩州刺史の高行存は降った。

『考異』によると、塩州刺史を李継直とする史料がある。中華書局版8748頁。

11月壬辰、朱晃は洛陽に至る。また病気になる。

蜀王宗弼敗岐兵於金牛,拔十六寨,俘斬六千餘級,擒其將郭存等。丙申,王宗金歲、王宗播敗岐兵於黃牛川,擒其將蘇厚等。丁酉,蜀主自利州如興元,援軍既集,安遠軍望其旗,王宗侃等鼓噪而出,與援軍夾攻岐兵,大破之,拔二十一寨,斬其將李廷志等。己亥,岐兵解圍遁去。唐道襲先伏兵於斜谷邀擊,又破之。庚子,蜀主西還。

蜀王の王宗弼は、岐兵を金牛で破り、16寨をぬく。6000余級を俘斬する。岐将の郭存らを捕らえる。12月丙申、王宗[金歲]と王宗播は、岐兵を黄牛川で破り、岐将の蘇厚らをとらえる。

ぼくは思う。前蜀が岐王に勝ちまくる記事ばかりだ。岐王は、長らく前蜀に支援してもらっており、対立した途端にボコボコにされる。なにをしたい国なのか、よく分からない。

12月丁酉、蜀主は利州から興元にゆく。前蜀の援軍はすでに集まる。安遠軍は援軍の(蜀主の)旗を望む。王宗侃らは鼓噪して出た。王宗侃は、蜀主の援軍とともに、岐兵を夾攻して大破した。21寨をぬく。岐将の李廷志らを斬る。12月己亥、岐兵は解圍・遁去した。唐道襲は先に斜谷に伏兵して、岐兵を破る。12月庚子、蜀主は西還した。

岐王左右石簡顒讒劉知俊於岐王,王奪其兵。李繼崇言於王曰:「知俊壯士,窮來歸我,不宜以讒廢之。」王為之誅簡顒以安之。繼崇召知俊舉族居於秦州。
戊申,燕主守光將兵二萬寇易定,攻容城。王處直告急於晉。

岐王の左右である石簡顒は、劉知俊を岐王のそしって「劉知俊が岐王の兵を奪う」という。李継崇は岐王にいう。「劉知俊は壯士である。窮まって岐国に來歸した。讒言によって廃すな」と。岐王は、石簡顒を誅して解決した。李継崇は、劉知俊を召して、一族を挙げて秦州に居住させた。

胡三省はいう。ときに李継崇は秦州に鎮する。だが李継崇は、すぐに秦州の統治から外れたので、劉知俊は前蜀に降ることになる。

11月戊申、燕主の守光は、2万をひきいて易定を寇し、容城(易州)を攻める。王處直は晋国に告急する。

911年12月、

十二月,乙卯,以朗州留後馬賨為永順節度使、同平章事。
鎮南留後盧延昌遊獵無度,百勝軍指揮使黎球殺之,自立;將殺譚全播,全播稱疾請老,乃免。丙辰,以球為虔州防禦使。未幾,球卒,牙將李彥圖代知州事,全播愈稱疾篤。劉巖聞全播病,發兵攻韶州,破之,刺史廖爽奔楚,楚王殷表為永州刺史。

12月乙卯、朗州留後の馬賨を、永順節度使、同平章事とする。
鎮南留後の盧延昌は、遊獵して度がない。百勝軍指揮使の黎球が廬延昌を殺して、自立した。黎球は譚全播を殺そうとしたが、譚全播が稱疾・請老したので、殺害を免れた。12月丙辰、黎球は虔州防禦使となる。すぐに黎球は卒した。
牙將の李彦圖が代知州事する。譚全播は、いよいよ疾篤と称した。劉巌は譚全播が病気だと聞き、兵を発して韶州を攻め破った。韶州刺史の廖爽は奔、楚国に奔った。

天復2年、虔人が韶州をとり、ここにおいて韶州は劉氏にもどった。

楚王の馬殷は表して、廖爽を永州刺史とした。

丁巳,蜀主至成都。戊午,以靜海留後曲美為節度使。
癸亥,以靜江行軍司馬姚彥章為寧遠節度副使,權知容州,從楚王殷之請也。劉巖遣兵攻容州,殷遣都指揮使許德勳以桂州兵救之;彥章不能守,乃遷容州士民及其府藏奔長沙,巖遂取容管及高州。

12月巳、蜀主は(興元から還って)成都に至る。
12月戊午、靜海留後の曲美が節度使となる。
12月癸亥、靜江行軍司馬の姚彦章を、寧遠節度副使として、權知容州させる。姚彦章のことは、楚王の馬殷の要請に従った任命である。
劉巌は容州を攻める。馬殷は、都指揮使の許徳勲をつかわし、桂州の兵で容州を救う。姚彦章は容州を守れず、容州の士民と、その府藏をもって長沙に奔る。劉巌は、容管および高州をとる。

開平4年、楚国は容管および高州をとる。ここにおいて棄てる。


甲子,晉王遣蕃漢馬步總管周德威將兵三萬攻燕,以救易定。
是歲,蜀主以內樞密使潘炕為武泰節度使,炕從弟宣徽南院使峭為內樞密使。

12月甲子、晉王は蕃漢馬步總管の周德威に3万をつけ、燕王を攻める。周徳威は易定を救う。
この歳、蜀主は内樞密使の潘炕を、武泰節度使とする。潘炕の從弟の宣徽南院使の潘峭を、内樞密使とする。130816

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912年、梁帝の朱晃が、子の朱友珪に殺さる

太祖神武元聖孝皇帝下乾化二年(壬申,公元九一二年)

912年春正月、

春,正月,德威東出飛狐,與趙王將王德明、義武將程巖會於易水。丙戌,三鎮兵進攻燕祁溝關,下之;戊子,圍涿州。刺史劉知溫城守,劉守奇之客劉去非大呼於城下,謂知溫曰:「河東小劉郎來為父討賊,何豫汝事而堅守邪?」守奇免冑勞之,知溫拜於城上,遂降。周德威疾守奇之功,譖諸晉王,王召之,守奇恐獲罪,與去非及進士趙鳳來奔,上以守奇為博州刺史。去非、鳳,皆幽州人也。
先是,燕主守光籍境內丁壯,悉文面為兵,雖士人不免,鳳詐為僧奔晉,守奇客之。

春正月、周徳威は東して飛狐にでる。

代州の飛狐である。飛狐県は、漢代は代郡に賊する。葬儀は、楽進を広昌侯国に封じた。

周徳威は、趙將の王德明、義武將の程巖と、易水であわさる。正月丙戌、3鎮の兵は、燕の祁溝關に進攻して下す。

3鎮とは、并州、鎮州、定州である。地理は中華書局版8750頁。

正月戊子、涿州をかこむ。涿州刺史の劉知温が城守する。劉守奇の客・劉去非は、城下で大呼して、劉知温にいう。劉去非「河東の小劉郎がきて、父のために討賊する。なぜ幽州の城を堅守するか」と。劉守奇は、免冑して劉知温をねぎらう。

劉守奇は晋国にはしった。開平元年にある。

劉知温は城上で拝し、ついに降る。周德威は、劉守奇の功を疾し、晋王にそしる。

胡三省はいう。これは周徳威の褊である。

晋王は(周徳威を真に受けて)劉守奇を召す。劉守奇は罪を獲るのを恐れ、劉去非および進士の趙鳳とともに來奔する。朱晃は、劉守奇を博州刺史とする。劉去非、趙鳳ともに、幽州の人である。
これより先、燕主の守光は、境內の丁壯を籍して、すべて兵の顔面に刺青する。士人でも免れない。趙鳳はいつわって僧侶となり晋国に奔る。劉守奇が、趙鳳を客とした。

丁酉,德威至幽州城下,守光來求救。二月,帝疾小愈,議自將擊鎮、定以救之。 帝聞岐、蜀相攻,辛酉,遣光祿卿盧玭等使於蜀,遺蜀主書,呼之為兄。

正月丁酉、周徳威が幽州の城下に至ると、守光は幽州に来て救う。
2月、朱晃は病気が少し良くなり、みずから鎮州と定州を撃つと議した。
朱晃は、岐王と前蜀が相攻すると聞き、2月辛酉、光祿卿の盧玭らを前蜀につかわす。蜀主に文書を送り、蜀主を「兄」とよぶ。

胡三省はいう。朱晃は蜀主とともに、細微において、偕起である。蜀兵は強く地は険しい。前蜀を制しがたいので、敵国(対等の国)をとり、兄と呼んだのだ。
ぼくは思う。三国の魏蜀では考えられないこと。


甲子,帝發洛陽。從官以帝誅戮無常,多憚行,帝聞之,益怒。是日,至白馬頓,賜從官食,多未至,遣騎趣之於路。左散騎常侍孫騭、右諫議大夫張衍、後部郎中張俊最後至,帝命撲殺之。衍,宗奭之侄也。

2月甲子、朱晃は洛陽を発する。從官は、朱晃による誅戮が無常(思いつき)なので、おおくの者が同行を憚る。朱晃はますます怒った。
この日、白馬頓に至り、從官に食事を賜る。おおくが食べ終わる前に、騎兵を路にゆかす。左散騎常侍の孫騭、右諫議大夫の張衍、後部郎中の張俊は、最後に至る。朱晃は遅れた者を撲殺した。張衍は、張宗奭の侄である。

ぼくは思う。けっきょく朱晃の処置は、思いつきなのだ。食事を与えるなら、食べさせる。食べさせる時間を取らないなら、食事を与えない。このようにムチャをして、自分の権力を確かめているとしたら、タチがわるい。


丙寅,帝至武陟,段明遠供饋有加於前。丁卯,至獲嘉,帝追思李思安去歲供饋有闕,貶柳州司戶,告辭稱明遠之能曰:「觀明遠之忠勤如此,見思安之悖慢何如?」尋長流思安於崖州,賜死。明遠後更名凝。
乙亥,帝至魏州,命都招討使宣義節度使楊師厚,副使、前河陽節度使李周彝圍棗強,招討應接使、平盧節度使賀德倫,副使、天平留後袁象先圍蓨脩縣。德倫,河西胡人;象先,下邑人也。戊寅,帝至貝州。

2月丙寅、朱晃は武陟(懐州の東80里)に至る。段明遠は、供饋を朱晃の前におく。
2月丁卯、獲嘉に至る。朱晃は、李思安が去年に供饋したものに欠陥があったことを思い出し、李思安を柳州司戶に貶める。朱晃は告辭して、段明遠の有能をほめた。朱晃「段明遠の忠勤は、かくのごとし。李思安の悖慢をどうしてやろうか」と。李思安を崖州に移して、死を賜った。

ときの遠ざけ貶められた者は、みな死を賜った。柳州は遠くて、嶺嶠をこえる。崖州は、さらに鯨波をわたる。李思安は、とても到達できない。つまり死ねということだ。

段明遠は、のちに名を「凝」と改めた。
2月乙亥、朱晃は魏州に至る。都招討使・宣義節度使の楊師厚と、副使・前河陽節度使の李周夷に、棗強(鎮州の東南55里)を囲めと命じる。招討應接使・平盧節度使の賀德倫と、副使・天平留後の袁象先に、蓨縣(岐州の東北150里)を囲めと命じる。賀德倫は、河西の胡人である。袁象先は、下邑の人である。2月戊寅、朱晃は貝州に至る。

辰州蠻酋宋鄴、昌師益皆帥眾降於楚,楚王殷以鄴為辰州刺史,師益為漵州刺史。

辰州の蛮酋である宋鄴と昌師益は、みな衆をひきいて楚国にくだる。楚王の馬殷は、宋鄴を辰州刺史とする。昌師益を漵州刺史とする。

912年3月、梁軍が棗強の城をおとす

帝晝夜兼行,三月,辛巳,至下博南,登觀津塚。趙將符習引數百騎巡邏,不知是帝,遽前逼之。或告曰:「晉兵大至矣!」帝棄行幄,亟引兵趣棗強,與楊師厚軍合。習,趙州人也。

朱晃は昼夜兼行する。3月辛巳、下博の南にいたり、観津塚に登る。

胡三省はいう。漢文帝の竇皇后の父・竇少消の冢である。竇少消は観津県の人である。秦末の乱にあい、漁釣して身をかくす。淵に落ちて死んだ。漢景帝がたつと、使者をつかわして、観津塚をつくらせた。県民はこれを、竇氏の青山とよぶ。

趙將の符習は、数百騎をひきいて巡邏する。これを朱晃に知られず、直前に逼る。或者が「晋兵がたくさん至った」という。朱晃は行幄を棄て、いそいで引兵して、棗強にゆく。楊師厚の軍とあわさる。符習は趙州の人である。

ぼくは思う。朱晃の本領は、対応の早さだ。
下博より棗強まで、60余里である。


棗強城小而堅,趙人聚精兵數千守之。師厚急攻之,數日不下,城壞復修,死傷者以萬數。城中矢石將竭,謀出降,有一卒奮曰:「賊自柏鄉喪敗已來,視我鎮人裂眥,今往歸之,如自投虎狼之口耳。因窮如此,何用身為!我請獨往試之。」夜,縋城出,詣梁軍詐降,李周彝召問城中之備,對曰:「非半月未易下也。」因請曰:「某既歸命,願得一劍,效死先登,取守城將首。」周彝不許,使荷擔從軍。卒得間舉擔擊周彝首,踣地,左右救至,得免。帝聞之,愈怒,命師厚晝夜急攻,丙戌,拔之,無問老幼盡殺之,流血盈城。

棗強の城は小さいが堅い。趙人の精兵が数千で棗強を守る。楊師厚は棗強を急攻したが、数日でも下せず。城が壊れても復修され、攻城する梁兵の死傷者は1万をかぞえる。いっぽうで、棗強の城中の矢石は尽きそうで、出降を謀った。
1兵卒が奮った。「賊(梁兵)は柏郷の喪敗より、わが鎮の守兵が裂眥するのを視て、撤退しようとしている。みずから虎狼之口に投じようとするようだ。城中の因窮はかくのごとし。いちど私が敵軍を試してみよう」と。夜に縋って城を出て、梁軍に詐降する。李周夷は、城中の防備を問うた。棗城の兵卒「半月たっても状況が変わらねば、棗強は落ちる」と。兵卒は請うた。「私に城内に帰命させてくれ。1剣をもらえれば、城壁を先登して、城将の首をとる」と。李周夷は許さず、荷擔して從軍させた。兵卒は隙をねらい、李周夷を首を撃って、地に倒した。左右が李周夷を救った。

李周夷が兵卒にやられる話で『考異』あり。中華書局版8752頁。

朱晃は怒って、棗強を昼夜にわたり急攻した。3月丙戌、棗強をぬく。老幼を問わず全殺した。流血が城をみたす。

3月、晋王がきたと誤認し、朱晃が逃亡する

初,帝引兵渡河,聲言五十萬。晉忻州刺史李存審屯趙州,患兵少,裨將趙行實請入土門避之,存審不可。及賀德倫攻蓨縣,存審謂史建瑭、李嗣肱曰:「吾王方有事幽薊,無兵此來,南方之事委吾輩數人。今蓨縣方急,吾輩安得坐而視之!使賊得蓨縣,必西侵深、冀,患益深矣。當與公等以奇計破之。」

はじめ朱晃は、引兵して渡河する。50万という。晋国の忻州刺史の李存審は趙州に屯する。兵が少ないのを患う。裨將の趙行實は、土門に入って(晋陽に退帰して)梁軍を避けたい。李存審は許さず。賀德倫が蓨縣を攻めると、李存審は、史建瑭と李嗣肱にいう。「われらが晋王は、幽州や薊州が有事でも、兵をよこさない。南方之事は、われら数人に委任するからだ。いま蓨縣が(梁兵に攻められ)方急である。見過ごしてはならない。梁兵の賊が蓨縣を得れば、必ず西して、冀州に侵深する。患はますます深まる。奇計により(蓨縣を攻める)梁兵を破るべきだ」と。

存審乃引兵扼下博橋,使建瑭、嗣肱分道擒生。建瑭分其麾下為五隊,隊各百人,一之衡水,一之南宮,一之信都,一之阜城,自將一隊深入,與嗣肱遇梁軍之樵芻者皆執之,獲數百人。明日會於下博橋。皆殺之,留數人斷臂縱去,曰:「為我語硃公:晉王大軍至矣!」時蓨縣未下,帝引楊師厚兵五萬,就賀德倫共攻之。

李存審は引兵して、下博橋を扼する。

漳水は、下博県をとおる。けだし漳水にかけた橋だろう。

史建瑭と李嗣肱は、道を分かれて擒生する。史建瑭は、麾下を5隊に分け、1隊あたり1百人。隊名は、衡水、南宮、信都、阜城とし、あと1隊は史建瑭がひきいる。

信都は漢代の古県である。唐代は冀州に属する。治所は郭下にあるが、所管する地は、冀州の近郊まわりにあったのだろう。

李嗣肱は、梁軍の樵芻(木草を刈る者)とあうと、みなこれを執えた。数百人を執えた。翌日、下博橋にあつめて全殺した。数人は、臂を断つに留めて去らせた。「朱晃にいえ。晋王の大軍が来たぞと」と聞かせて去らせる。
ときに蓨縣はいまだ降らず。朱晃は、楊師厚の兵5万をひかせ、賀德倫とともに晋王を攻める。

丁亥,始至縣西,未及置營,建瑭、嗣肱各將三百騎,效梁軍旗幟服色,與樵芻者雜行,日且暮,至德倫營門,殺門者,縱火大噪,弓矢亂髮,左右馳突,既暝,各斬馘執俘而去。營中大擾,不知所為。斷臂者復來曰:「晉軍大至矣!」帝大駭,燒營夜遁,迷失道,委曲行百五十里,戊子旦乃至冀州;蓨之耕者皆荷鉏奮梃逐之。委棄軍資器械不可勝計。既而復遣騎覘之,曰:「晉軍實未來,此乃史先鋒游騎耳。」帝不勝慚憤,由是病增劇,不能乘肩輿。留貝州旬餘,諸軍始集。

3月丁亥、はじめて朱晃は県西にきて、軍営を置かないうちに、晋将の史建瑭と李嗣肱が3百騎ずつでくる。晋将は、梁軍の旗幟と服色をつけ、樵芻に混じってくる。日が暮れ、德倫の營門にくると、晋兵は門番を殺して、縱火して大噪する。弓矢を亂髮し、左右に馳突する。すでに日没して暗い。晋兵は、斬馘・執俘して去る。梁軍の軍営は大擾した。斷臂された梁軍の樵芻がきて、「晉軍が大いに至る」という。朱晃は大駭して、燒營して夜遁する。道に迷失する。委曲して150里をゆき、3月戊子の朝に冀州に至る。
蓨県の耕者は、みな鉏を荷ぎ、梃を奮って、朱晃を逐う。軍資・器械で、梁軍が棄てた者は、数えきれない。騎兵に敵情を観させた。騎兵「晋軍はまだ来ていない。史先鋒(先鋒指揮使の史建瑭)の游騎だけだ」と。朱晃は慚憤にたえず、病気が增劇した。朱晃は、肩輿に乗れない。

胡三省はいう。朱晃は6軍をみずから率いたのに、敵の先鋒におどろいて逃げてしまった。だから恥じた。出撃しては、敗北した。だから病気がひどくなった。

貝州に10日余とどまり、逃げ散った諸軍が集まり始める。

義昌節度使劉繼威年少,淫虐類其父,淫於都指揮使張萬進家,萬進怒,殺之。詰旦,召大將周知裕,告其故。萬進自稱留後,以知裕為左都押牙。庚子,遣使奉表請降,亦遣使降於晉;晉王命周德威安撫之。知裕心不自安,求為景州刺史,遂來奔,帝為之置歸化軍,以知裕為指揮使,凡軍士自河朔來者皆隸之。辛丑,以萬進為義昌留後。甲辰,改義昌為順化軍,以萬進為節度使。

義昌節度使の劉継威は、年少だが、父(劉守光)に似て淫虐である。都指揮使の張萬進の家にて、劉継威が淫行したので、張萬進は怒って劉継威を殺した。詰旦、大將の周知裕を召して、張萬進は殺した経緯を話した。張萬進は留後を自称し、周知裕を左都押牙とする。
3月庚子、張萬進は(梁帝の朱晃に)奉表して請降する。また晋国にも降伏の使者をだす。晋王は、周德威に命じて、張萬進を安撫させる。周知裕は不安に思い、「景州刺史になりたい」といって來奔する。朱晃は、周知裕のために歸化軍をおき、周知裕を指揮使とする。帰化軍に、河朔よりきた軍士を属させる。
3月辛丑、張萬進を義昌留後とする。3月甲辰、義昌を「順化」軍と改め、張萬進をその節度使とする。

乙巳,帝發貝州;丁未,至魏州。
戊申,周德威遣裨將李存暉等攻瓦橋關,其將吏及莫州刺史李嚴皆降。嚴,幽州人也,涉獵書傳,晉王使傳其子繼岌,嚴固辭。王怒,將斬之,教練使孟知祥徒跣入諫曰:「強敵未滅,大王豈宜以一怒戮向義之士乎!」乃免之。知祥,遷之弟子,李克讓之婿也。

3月乙巳、朱晃は貝州を発する。丁未、魏州に至る。

貝州から南して210里で魏州に至る。

3月戊申、周德威は、裨將の李存暉らに瓦橋関を攻めさせる。瓦橋関の將吏および莫州刺史の李厳は晋国に降る。

『九域志』はいう。瓦橋関は、涿州の南120里。

李厳は幽州の人。書傳を涉獵する。晋王は李厳を、子の李継岌の傅にしたいが、李厳は固辭した。晋王は怒り、これを斬ろうとした。教練使の孟知祥が、徒跣で入諫した。「強敵がまだ滅さない。なぜ大王は一怒により、向義之士を戮するか」と。李厳を殺さず。孟知祥は、孟遷の弟の子である。李克讓の婿である。

孟遷は、邢州をもって晋王に降る。晋王に背いて、邢州をもって梁帝にくだる。孟知祥はこれを始とす。
李克譲は、晋王の李克用の弟である。


◆呉国で徐温が、旧将の李遇を退ける

吳鎮南節度使劉威,歙州觀察使陶雅,宣州觀察使李遇,常州刺史李簡,皆武忠王舊將,有大功,以徐溫自牙將秉政,內不能平;李遇尤甚,常言:「徐溫何人,吾未嘗識面,一旦乃當國邪!」
館驛使徐玠使於吳越,道過宣州,溫使玠說遇入見新王,遇初許之;玠曰:「公不爾,人謂公反。」遇怒曰:「君言遇反,殺侍中者非反邪!」侍中,謂威王也。溫怒,以淮南節度副使王檀為宣州制置使,數遇不入朝之罪,遣都指揮使柴再用帥升、潤、池、歙兵納檀於宣州,升州副使徐知浩為之副。遇不受代,再用攻宣州,逾日不克。

吳鎮南節度使の劉威と、歙州觀察使の陶雅と、宣州觀察使の李遇と、常州刺史の李簡は、みな武忠王(楊行密)の舊將であり、大功がある。徐温は牙將のくせに秉政するから、旧将たちを納得させられない。

胡三省はいう。徐温は右牙指揮使として、秉政する。開平元年にある。

李遇の不平がもっともひどい。つねに李遇はいう。「徐温は何者か。わたしはまだ顔を知らない。国政するべき人物か」と。
館驛使の徐玠は呉越に使者にゆき、宣州を過ぎる。徐温は徐玠を使者にして、李遇に「新王に会え」という。李遇ははじめは「新王に会う」と許した。だが李遇は、徐玠に「あなたが新王に会わねば、人々は『李遇が反した』と言うだろう」と言われて怒った。李遇「きみは李遇が反したというが、侍中を殺すのは反と言わないのか」と。侍中とは、威王の楊渥である。

ぼくは補う。李遇は「徐温が楊渥を殺したことは、反ではないのか」と言ったのだ。遠回しだなあ。君主の殺害のことだから、遠回しになるのは仕方ないのだが。楊渥は殺されたあと、「侍中」という、ひとりの臣下の扱いみたい。胡三省ではなく、司馬光がみずから「侍中とは、威王の楊渥のことでね」と注釈せねばならぬほど、わかりにくい。

徐温は怒り、淮南節度副使の王檀を宣州制置使とする。しばしば李遇は入朝をサボった罪がある。都指揮使の柴再用に、升、潤、池、歙州の兵をつけ、王檀を宣州で納れる(身柄を収容する)。升州副使の徐知浩を副官とする。李遇は交代を受け入れない。柴再用は宣州を攻めるが、日をこえても克てない。

912年夏4月、

夏,四日,癸丑,以楚王殷為武安、武昌、靜江、寧遠節度使,洪、鄂四面行營都統。 乙卯,博王友文來朝,請帝還東都。丁巳,發魏州;己未,至黎陽,以疾淹留;乙丑,至滑州。 維州羌胡董琢反,蜀主遣保鸞軍使趙綽討平之。

夏4四月癸丑、楚王の馬殷を、武安、武昌、靜江、寧遠節度使と、洪、鄂四面行營都統とする。

ぼくは思う。馬殷は、朱晃の藩屏として機能している。
胡三省はいう。朱晃は馬殷に、呉国の楊氏の領土である、洪州と鄂州を攻めさせたい。

4月乙卯、博王の朱友文が(魏州の行宮に)來朝した。朱友文は朱晃に「東都に還れ」という。丁巳、朱晃は魏州を発する。己未に、黎陽に至る。疾により淹留する。乙丑、滑州に至る。

胡三省はいう。黎陽から滑州にいくには、あいだに黄河がある。いまの滑州の古城は、すでに黄河を渡ったところにある。

維州の羌胡である董琢が反した。蜀主は、保鸞軍使の趙綽に討平させた。

己巳,帝至大梁。
帝聞嶺南與楚相攻,甲戌,以右散騎常侍韋戩等為潭、廣和葉使,往解之。
戊寅,帝發大梁。
周德威白晉王,以兵少不足攻城,晉王遣李存審將吐谷渾、契苾騎兵會之。李嗣源攻瀛州,刺史趙敬降。

4月己巳、朱晃は大梁に至る。
朱晃は、嶺南と楚国が相攻すると聞く。4月甲戌、右散騎常侍の韋戩らに、潭州と廣州へ和叶使としてゆかせ、和解させる。

ぼくは思う。この調停する機能が、いかにも正統の王朝。「

4月戊寅、朱晃は大梁を発する。
周德威は晋王にいう。「兵が少なくて、幽州の城は固いから、攻めきれない」と。晋王は、李存審に、吐谷渾と契苾の騎兵をつけ、周徳威と合流させる。李嗣源は瀛州を攻め。瀛州刺史の趙敬が晋王に降る。

5月、晋将の周徳威が、燕将の単廷珪を擒とす

五月,甲申,帝至洛陽,疾甚。
司空、門下侍郎、同平章事薛貽矩卒。

5月甲申、朱晃は洛陽に至る。疾病はひどい。
司空、門下侍郎、同平章事の薛貽矩が卒した。

燕主守光遣其將單廷珪將精兵萬人出戰,與周德威遇於龍頭岡。廷珪曰:「今日必擒周楊五以獻。」楊五,德威小名也。既戰,見德威於陳,援槍單騎逐之,槍及德威背,德威側身避之,奮□反擊廷珪墜馬,生擒,置於軍門。燕兵退走,德威引騎乘之,燕兵大敗,斬首三千級。廷珪,燕驍將也,燕人失之,奪氣。
己丑,蜀大赦。

燕主の守光は、將の単廷珪に精兵1万で出戰させる。晋将の周德威と、龍頭岡で遭遇する。

龍頭岡は、幽州の城の東南である。『考異』は、地名と時期の違いをいう。中華書局版8756頁。

単廷珪「今日こそ、かならず周楊五(周徳威)を擒にして、燕帝に献じる」と。戦い始め、単廷珪が周徳威の陣を見て、援槍・單騎で周徳威を逐う。単廷珪の槍が、周徳威の背にせまる。周徳威は身を側して、槍を避ける。周徳威が反撃して、燕将の単廷珪を墜馬させた。

胡三省はいう。単廷珪の馬は疾走して、勢いが止まらない。周徳威の反撃を避けたとき、馬の勢いが余って落馬した。格闘において、刀より棒のほうが役立つとは、これを言うのだ。ぼくは思う。見てきたように書いてある。『通鑑』らしくない。

単廷珪を生擒って軍門におく。燕兵は退走した。周徳威は、騎兵で燕兵の逃走に乗じた。燕兵を3千級、斬首した。単廷珪は、燕の驍將である。燕人は単廷珪を失って、気力を奪われた。
5月己丑、前蜀で大赦した。

◆呉国で執政の徐温が、旧将の李遇を夷族する

李遇少子為淮南牙將,遇最愛之,徐溫執之,至宣州城下示之,其子啼號求生,遇由是不忍戰。溫使典客何蕘入城,以吳王命說之曰:「公本志果反,請斬蕘以徇;不然,隨蕘納款。」遇乃開門請降,溫使柴再用斬之,夷其族。於是諸將始畏溫,莫敢違其命。

李遇の少子は、淮南牙將となる。李遇は少子を最愛する。徐温は、李遇の少子を執らえ、宣州の城下に示す。少子は啼號して「殺さないで」という。李遇は戦うに忍びない。

胡三省はいう。大事を挙げる者は、家族を顧みない。李遇は徐温と敵対するのに、子を顧みるのか(李遇は大事を挙げられない)。

徐温は典客の何蕘を入城させ、呉王の命を李遇に説く。「あなたの本志が反乱なら、私を斬れ。反乱でないなら、私に従って(徐温に)納款せよ」と。李遇は開門して請降する。徐温は柴再用に、李遇を斬らせ、李氏を夷族とする。ここにおいて諸将は徐温を畏れ、逆らわなくなった。

◆呉国で徐知誥が、徐温の権力をねらう

徐知誥以功遷升州刺史。知誥事溫甚謹,安於勞辱,或通夕不解帶,溫以是特愛之,每謂諸子曰:「汝輩事我能如知誥乎?」時諸州長吏多武夫,專以軍旅為務,不恤民事;知誥在升州,獨選用廉吏,修明政教,招延四方士大夫,傾家貲無所愛。洪州進士宋齊丘,好縱橫之術,謁知誥,知誥奇之,闢為推官,與判官王令謀、參軍王翃專主謀議,以牙吏馬仁裕、周宗、曹悰為腹心。仁裕,彭城人;宗,漣水人也。

徐知誥は功績により、升州刺史に遷る。徐知誥は、謹んで徐温に仕え、勞辱に安じる。あるとき、徐知誥が解帶せずに通夕したら、徐温はとくにこれを愛した。徐温は諸子に「おまえらは、徐知誥よりもうまく、私に仕えられるか」という。

胡三省はいう。徐温は、楊行密によく仕えた。徐温は呉国の権力をねらった。徐知誥は、徐温によく仕えた。徐知誥は徐氏の権力をねらった。天や、人や。ぼくは思う。同じことの繰り返し。

ときの諸州の長吏には、武夫がおおい。軍旅だけを務めとして、民事を恤さない。徐知誥は升州にあり、ひとり廉吏を選用して、政教を修明する。四方の士大夫を招延する。家貲を傾けて、惜しまない。
洪州の進士・宋齊丘は、縱橫之術を好む。徐知誥は、宋斉丘を奇として、闢して推官とする。宋斉丘は、判官の王令謀、參軍の王翃とともに、徐知誥のために謀議をした。牙吏の馬仁裕、周宗、曹悰を、徐知誥が腹心となる。

ぼくは思う。「謀議」「腹心」をあつめた。旗揚げするときの定型文。
胡三省はいう。徐知誥が、楊氏を簒奪する張本である。

馬仁裕は彭城の人。周宗は漣水の人である。

912年閏月、朱晃「諸子では晋王に敵わない」

閏月,壬戌,帝疾增甚,謂近臣曰:「我經營天下三十年,不意太原餘孽更昌熾如此!吾觀其志不小,天復奪我年,我死,諸兒非彼敵也,吾無葬地矣!」因哽咽,絕而復甦。
高季昌潛有據荊南之志,乃奏築江陵外郭,增廣之。
丙寅,蜀門下侍郎、同平章事王鍇罷為兵部尚書。

閏月壬戌、朱晃の疾は、ますますひどい。朱晃は近臣にいう。「私は天下を30年経営した。

大唐の僖宗の中和3年、朱晃は宣武に鎮したのが創業である。これより31年たつ。

思わず、太原の餘孽(晋国)が、さらに昌熾である。私は晋王の志が小さいとは思わない。晋王は(大唐の)天復の年号を使っている。私が死ねば、諸児は晋王にかなわない。私の葬地がなくなる」と。哽咽して気絶し、蘇生した。

ぼくは思う。いま運送業者により、ネットで注文した、仁木英之『朱温』が届いた。朱温=朱晃が、ちょうど『通鑑』で死ぬタイミングにきた。自分で発注したのだが、運命を感じる。

高季昌はひそかに、荊南に割拠する志がある。高季昌は奏して、「江陵の外郭を築して、城を増し広げたい」という。
閏月丙寅、前蜀の門下侍郎、同平章事の王鍇が、兵部尚書を罷る。

帝長子郴王友裕早卒。次假子博王友文,帝特愛之,常留守東都,兼建昌宮使。次郢王友珪,其母亳州營倡也,為左右控鶴都指揮使,無寵。次均王友貞,為東都馬步都揮指使。

朱晃の長子・郴王の朱友裕が早卒した。次の仮子・博王の朱友文が、とくに愛され、つねに東都を留守して、兼建昌宮使する。

朱晃は大梁の旧第を、建昌宮とした。

次の郢王の朱友珪は、母が亳州の營倡である。左右控鶴都指揮使となり、寵愛がない。

朱友珪の伝記について、中華書局版8758頁。

次の均王の朱友貞は、東都馬步都揮指使となる。

ぼくは補う。この朱友貞が、つぎの皇帝。来歴が語られるはず。


初,元貞張皇后嚴整多智,帝敬憚之。後殂,帝縱意聲色,諸子雖在外,常征其婦入侍,帝往往亂之。友文婦王氏色美,帝尤寵之,雖未以友文為太子,帝意常屬之。友珪心不平。友珪嘗有過,帝撻之,友珪益不自安。帝疾甚,命王氏召友文於東都,欲與之訣,且付以後事。友珪婦張氏亦朝夕侍帝側,知之,密告友珪曰:「大家以傳國寶付王氏,懷往東都,吾屬死無日矣!」夫婦相泣。左右或說之曰:「事急計生,何不改圖?時不可失!」

はじめ元貞張皇后は、嚴整・多智である。朱晃は張皇后を敬憚する。のちに(昭宗の天祐元年)皇后が殂し、朱晃は意のままに聲色する。諸子は在外だが、つねにその婦を徴して入侍させる。朱晃はよく(諸子の婦と)乱交した。朱友文の婦・王氏は色美なので、朱晃は(朱友文の妻が美しいので)朱友文を太子にしたい。

ぼくは思う。息子の妻が美しいから、その息子を後嗣にする。なかなか「新しい」後継の問題です。史家による、けなしが含まれているのか。漢魏が堅苦しいだけかな。

朱友珪の心は平らかでない。かつて過失があり、朱晃に撻された。朱友珪は、ますます平らかでない。
朱晃が疾甚となると、王氏から朱友文を東都に召させ、後嗣にしようとした。朱友珪の婦の張氏もまた、朝夕に朱晃に侍る。朱友文を召したと知り、朱友珪に密告した。張氏「王氏が、伝国宝(後梁の継承権)を東都に持参する。私はもう死ぬ」と。夫婦で相泣した。左右の或者が、朱友珪に説く。「急げば計画は成る。チャンスを失うな」と。

古人はいう。淫らにして父ならずんば、必ず子に禍いありと。朱晃のことである。


912年6月、朱晃が朱友珪に殺される

六月,丁丑朔,帝使敬翔出友珪為萊州刺史,即令之官。已宣旨,未行敕。時左遷者多追賜死,友珪益恐。戊寅,友珪易服微行入左龍虎軍。見統軍韓珪,以情告之。勍亦見功臣宿將多以小過被誅,懼不自保,遂相與合謀。勍以牙兵五百人從友珪雜控鶴士入,伏於禁中,中夜斬關入,至寢殿,侍疾者皆散走。帝驚起,問:「反者為誰?」友珪曰:「非他人也!」帝曰:「我固疑此賊,恨不早殺之。汝悖逆如此,天地豈容汝乎!」友珪曰:「老賊萬段!」友珪僕夫馮廷諤刺帝腹,刃出於背。友珪自以敗氈裹之,瘞於寢殿,秘不發喪。遣供奉官丁昭溥馳詣東都,命均王友貞殺友文。

6月丁丑ついたち。朱晃は、敬翔に命じて、朱友珪を萊州刺史に出す。すぐに莱州に赴任させた。すでに宣旨され、まだ行敕されない。

胡三省はいう。敬翔はときに宣政使である。ゆえに敬翔が行敕する。敬翔は、朱晃に仕えて年数がたつ。軍国の大謀にすべて関わる。朱晃が凶暴になっても、敬翔は功績が小さくならない。朱晃が病気になると、朱友珪を外に出すため、敬翔をつかう。朱友珪のことで、血が流れるのを防いだ。転じて(朱友珪を)助けないなら、なぜ敬翔を用いようか。
ぼくは補う。朱晃は朱友珪を殺したくないから、敬翔を使わした。

ときに左遷される者は、おおくが追って死を賜る。朱友珪はますます恐れた。
6月戊寅、朱友珪は服を易え、微行して左龍虎軍に入る。左龍虎軍を統率する韓勍に、朱友珪は事情を話した。韓勍は、功臣・宿將が、小過で誅されるのを見てきたので、自らも(朱友珪と関わって)誅されると懼れた。ついに韓勍は、朱友珪と合謀した。

胡三省はいう。臣下と皇子が、ともに皇帝にそむく。朱晃がいて(誅殺しまくるので)、臣下と皇子もこんなことをする。

韓勍は、牙兵5百人を朱友珪につけ、控鶴に混ぜて、禁中に伏せる。

後梁の侍衛・親軍は、「控鶴」軍という。

中夜に関を斬って入る。寢殿に至る。侍疾する者は、みな散走する。朱晃は驚起して問う。「反は誰がなすか」と。朱友珪「他の人にあらず(私だ)」と。朱晃「私はこの賊(子の朱友珪)を固疑した。早く殺さなかったのを恨む。お前の悖逆は、かくの如し。天地は、どうしてお前を容認するものか」と。朱友珪「老賊め、萬段」と。

ぼくは思う。だれがこれを見たんだよ。よほど後梁を貶めたい史家が、密室での親子の会話を、創作したと思ったほうが、事実に近そうだけれど。

友珪の僕夫である馮廷諤が、朱晃の腹を刺した。刃は背に出る。

朱晃は61歳だった。

友珪は氈裹をかぶせて、寢殿に瘞する。秘して發喪せず。供奉官の丁昭溥を東都にゆかせる。朱友珪は、均王の朱友貞に、朱友文を殺せと命じる。

己卯,矯詔稱:「博王友文謀逆,遣兵突入殿中,賴郢王友珪忠孝,將兵誅之,保全朕躬。然疾因震驚,彌致危殆,宜令友珪權主軍國之務。」韓勍為友珪謀,多出府庫金帛賜諸軍及百官以取悅。

6月己卯、朱友珪は、詔を矯めていう。「博王の朱友文は謀逆して、兵を殿中に突入させる。郢王の朱友珪の忠孝を頼り、兵をひきいて朱友文を誅せよ。私は震驚により病がひどいから、朱友珪に軍國之務を權主させよ」と。韓勍は朱友珪の謀となり、府庫の金帛を多く出して、諸軍および百官に賜与して、悦心を買う。

辛巳,丁昭溥還,聞友文已死,乃發喪,宣遺制,友珪即皇帝位。時朝廷新有內難,中外人情忷忷。許州軍士更相告變,匡國節度使韓建皆不之省,亦不為備。丙申,馬步都指揮使張厚作亂,殺建,友珪不敢詰。甲辰,以厚為陳州刺史。

6月辛巳、丁昭溥は還る。(後嗣の本命だった)朱友文がすでに死んだと聞き、發喪して、遺制を宣する。朱友珪は、皇帝に即位する。ときに朝廷は、内難があったばかりで、中外の人情は恐々とする。許州の軍士は、変事を告げあう。匡國節度使の韓建は、すべてを省みず、備えもしない。

史家はいう。韓建は死を待ち、そして死んだ。

6月丙申、馬歩都指揮使の張厚が作乱して、韓建を殺した。朱友珪はあえて追及しない。6月甲辰、張厚を陳州刺史とする。

秋7月、朱友珪が梁帝で、楊師厚が魏州を取る

秋,七月,丁未,大赦。
天雄節度使羅周翰幼弱,軍府事皆決於牙內都指揮使潘晏;北面都招討使、宣義節度使楊師厚軍於魏州,久欲圖之,憚太祖威嚴,不敢發。至是,師厚館於銅台驛,潘晏入謁,執而殺之,引兵入牙城,據位視事。壬子,制以師厚為天雄節度使,徙周翰為宣義節度使。以侍衛諸軍使韓勍領匡國節度使。

秋7月丁未、大赦した。
天雄節度使の羅周翰は、幼弱である。軍府の事は、みな牙內都指揮使の潘晏が決めた。北面都招討使、宣義節度使の楊師厚は、魏州に進軍する。久しく魏州を取りたいが、朱晃の威厳によって、魏州を攻めない。
ここにいたり、楊師厚は銅台驛に館する。

銅雀台をもって、駅名にしたのだ。だが銅雀台が鄴州にあり、魏州にない。

潘晏が入謁し、楊師厚は潘晏を執えて殺した。引兵して牙城に入り、位に拠って視事する。7月壬子、制書により、楊師厚を天雄節度使とする。

『考異』が楊師厚が魏州をとる、べつの経緯を載せる。中華書局版8760頁。

周翰を宣義節度使とする。

僖宗の文徳元年、羅弘信が魏博を得て、孫の代に滅亡した。

侍衛諸軍使の韓勍は、匡國節度使を領する。

甲寅,加吳越王鏐尚父。
甲子,以均王友貞為開封尹、東都留守。
蜀太子元坦更名元膺。
丙寅,廢建昌宮使,以河南尹張宗奭為國計使,凡天下金谷舊隸建昌宮者悉主之。

7月甲寅、吳越王の銭鏐に「尚父」を加える。
7月甲子、均王の朱友貞を、開封尹、東都留守とする。
前蜀の太子の王元坦が、王「元膺」と改名する。

王宗懿は、王元坦と改名した。開平4年であった。『欧史』はいう。蜀主の王建は、銅牌を得た。そこに記された20余字から、諸子の名前をつけた。ゆえにいま「元膺」と改名した。
ぼくは思う。蜀地の君主は、図讖が好きである。お土地がらかな。朱晃のしばりが弱まって、「元坦」の名を捨てたとかじゃないのか。

7月丙寅、建昌宮使を廃する。河南尹の張宗奭を國計使とする。天下の金穀は、もとは全てが建昌宮が管理したが、いま張宗奭が管理するようにした。

8月、冀王の朱友謙が、梁帝の朱友珪を糾弾

八月,龍驤軍三千人戍懷州者,潰亂東走,所過剽掠;戊子,遣東京馬步軍都指揮使霍彥威、左耀武指揮使杜晏球討之,庚寅,擊破亂軍,執其都將劉重遇於鄢陵,甲午,斬之。

8月,龍驤軍の3千で懷州を守る者が、潰亂して東走した。

胡三省はいう。懐州を守る者は、晋人が、上党から太行をくだり、洛陽を窺うことへの防備であった。『考異』はこの潰走について、異説を載せる。中華書局版8761頁。

通過した地で剽掠した。8月戊子、東京馬步軍都指揮使の霍彦威と、左耀武指揮使の杜晏球が、もと龍驤軍を討つ。8月庚寅、亂軍を撃破し、都將の劉重遇を鄢陵で捕らえて斬った。

朱友貞のために、龍驤軍が起義して、朱友珪を誅する張本である。
ぼくは思う。この胡三省のネタバレ解説が、とても大切。朱友貞が3代目(実質は2代目)の梁帝になるために、この龍驤の潰走は重要なのね。ただし、龍驤軍が動いたので、晋王に対する防備がゆるくなったが。


郢王友珪既篡立,諸宿將多憤怒,雖曲加恩禮,終不悅。告哀使至河中,護國節度使冀王硃友謙泣曰:「先帝數十年開創基業,前日變起宮掖,聲聞甚惡,吾備位籓鎮,心竊恥之。」友珪加友謙侍中、中書令,以詔書自辨,且征之。友謙謂使者曰:「所立者為誰?先帝晏駕不以理,吾且至洛陽問罪,何以征為!」戊戌,以侍衛諸軍使韓勍為西面行營招討使,督諸軍討之。

郢王の朱友珪は、すでに篡立した。諸宿將の憤怒はおおい。曲げて恩禮を加えるが、ついに宿将は悦ばず。使者を河中にやり(朱晃の死を)告哀する。護國節度使する冀王の朱友謙は泣いていう。「先帝は、数十年で開創・基業した。前日に宮掖で変が起こった。聲聞はひどく悪い。われら藩鎮がいるのに(朱晃の殺害を防げず)心でこれを恥じる」と。

朱友謙は、もとは陝州の牙将である朱簡といった。唐末に朱温について、友謙の名をもらい、諸子に列した。ゆえに朱友珪の弑逆の罪にたいして、声をあげた。古法では、臣が君を弑し、子が父を弑すれば、在官の者は死罪を許されない。朱友珪は、朱晃の臣かつ子として、殺されなければならない。

朱友珪は、朱友謙に侍中、中書令を加えて、みずから詔書にて、朱友謙を徴した。朱友謙は使者にいう。「お前たちが立てた君主は誰だ。先帝の晏駕は、理を以てせず。私は洛陽にゆき、朱友珪に罪を問う。なぜ朱友珪に徴されて洛陽にゆくか」と。
8月戊戌、梁帝の朱友珪は、侍衛諸軍使の韓勍を、西面行營招討使とする。韓勍に諸軍を督させ、朱友謙を討たせる。

912年9月、

友謙以河中附於晉以求救,九月,丁未,以感化節度使康懷貞為河中都招討使,更以韓勍副之。
友珪以兵部尚書知崇政院事敬翔,太祖腹心,恐其不利於己,欲解其內職,恐失人望,庚午,以翔為中書侍郎、同平章事,壬申,以戶部尚書李振充崇政院使。翔多稱疾不預事。

冀王の朱友謙は、河中をもって、晋王について(河中の領有権を差し出して)晋王に救いを求める。
9月丁未、梁帝の朱友珪は、感化節度使の康懐貞を、河中都招討使として、韓勍を副使とする。
梁帝の朱友珪は、兵部尚書・知崇政院事の敬翔が、朱晃の腹心だったので、己に利さないことを懼れ、敬翔の内職を解きたい。

内職とは、知崇政院事のことである。

だが朱友珪は、人望を失うことを恐れ、9月庚午、敬翔を、中書侍郎、同平章事とする。9月壬申、戶部尚書の李振充を(敬翔の後任として)崇政院使とする。敬翔は稱疾がおおく、預事しない。

胡三省はいう。敬翔と李振は、どちらも先代の朱晃の佐命の臣である。李振は敬翔に代わり、崇政院使を領する。李振と朱友珪もまた、悪みあう。敬翔は病気といって政事をみない。だがもし古人の律によれば、主君の生前と死後との興亡の法により、(主君の朱晃を失った)敬翔は、死を免れない。


康懷貞等與忠武節度使牛存節合兵五萬屯河中城西,攻之甚急。晉王遣其將李存審、李嗣肱、李嗣恩將兵救之,敗梁兵於胡壁。嗣恩,本駱氏子也。

康懷貞らは、忠武節度使の牛存節とともに兵をあわせ、5万で河中の城西に屯する。河中を攻めること、甚だ急なり。晉王は將の李存審、李嗣肱、李嗣恩に、河中を救わせる。晋将は、梁兵を胡壁で破る。李嗣恩とは、もとは駱氏の子(吐谷渾の部人)である。

◆徐温が呉国で、劉威と陶雅を手なずける

吳武忠王之疾病也,周隱請召劉威,威由是為帥府所忌。或譖之於徐溫,溫將討之。威幕客黃訥說威曰:「公受謗雖深,反本無狀,若輕舟入覲,則嫌疑皆亡矣。」威從之。陶雅聞李遇敗,亦懼,與威偕詣廣陵,溫待之甚恭,如事武忠王之禮,優加官爵,雅等悅服,由是人皆重溫。訥,蘇州人也。
溫與威、雅帥將吏請於李儼,承製加嗣吳王隆演太師、吳王,以溫領鎮海節度使、同平章事,淮南行軍司馬如故。溫遣威、雅還鎮。

(天祐2年に)吳の武忠王(楊行密)が疾病となると、周隱は「劉威を召せ」と請う。劉威はこれにより、帥府(広陵)で忌まれた。或者が徐温に劉威をそしる。徐温は劉威を討ちたい。
劉威の幕客の黄訥が劉威にいう。「あなたは深く謗られるが、もとの原因はない。もし輕舟で(広陵の徐温に)入覲したら、嫌疑は晴れるのでは」と。劉威は従う。
陶雅は、李遇が敗れたので懼れた。劉威とともに廣陵にゆく。徐温は、劉威と陶雅を恭しく、武忠王之禮(楊行密に接する態度)と同じように待遇した。官爵を加えた。陶雅らは悅服した。これにより人は徐温を重んじた。黄訥は、蘇州の人。

ぼくは思う。後梁では、武力で片づける。呉国では、みょうに優しくて、尊んで圧倒する。後梁は漢族でなく、呉国は漢族の国だからとか、そういう単純化で説明してよいのかなあ。

徐温は、劉威と陶雅とともに、將吏をひきいて、李𠑊に請う。李𠑊は承制して、吳王を嗣ぐ楊隆演に、太師と吳王を加えてもらった。

楊隆演が呉王を嗣いだ爵位は、李茂貞が承制して加えたものである。楊行密は、李𠑊が承制して呉王にしてもらった。だから徐温は、李茂貞でなく李𠑊から、呉王をもらいたかった。ぼくは思う。李𠑊って、なにさま?

徐温を、領鎮海節度使、同平章事とする、淮南行軍司馬は、もとのまま。ジョンは劉威と陶雅をつかわし、(呉国の首都である広陵を去らせて)還鎮させた。

劉威は洪州に鎮する。陶雅は_州に鎮する。徐温は、旧来の関係を忘れず、劉威と陶雅に仕えた。徐温は、うまく情を矯めた。いま劉威と陶雅が、帰鎮させてもらい、徐温に心服した。古代以来、英雄の分量(器量)は、おのずと同じでない。分量に従って、一事を制するのは、ひとつの方法だ。歴史をよく観る者は、忽諸するな。


辛巳,蜀改劍南東川曰武德軍。

9月辛巳、前蜀は、劍南東川を「武德軍」と改める。

912年冬、朱友謙が晋王の前で泥酔して寝る

硃友謙復告急於晉,冬,十月,晉王自將自澤潞而西,遇康懷貞於解縣,大破之,斬首千級,追至白徑嶺而還。梁兵解圍,退保陝州。友謙身自至猗氏謝晉王,從者數十人,撤武備,詣晉王帳,拜之為舅。晉王夜置酒張樂,友謙大醉。晉王留宿帳中,友謙安寢,鼾息自如。明旦復置酒而罷。

朱友謙は、ふたたび晋国に告急した。冬10月、晋王はみずから澤潞より西する。

大言の南より、汾州や深州に出たのでない。

晋王は、梁将の康懐貞と解県で遭遇して、康懐貞を大破し、1千級を斬首した。

解県の地理について。中華書局版8763頁。

康懐貞を追って、晋王は白徑嶺に至ってから還る。

白徑嶺は、河中の安邑県の東にある。

梁兵は包囲をとき、退いて陝州を保する。朱友謙は、みずから猗氏に至り、晉王に謝する。

猗氏県は、河中府の東北95里にある。

從者の数十人は、武備を撤する。晉王の帳を詣して、晋王に拝して舅とする。晉王は夜に置酒・張樂する。朱友謙は大酔する。晉王は宿帳のなかに留まる。朱友謙は安寢して、鼾息は自如である。明旦に、ふたたび置酒して罷かる。

胡三省はいう。朱友謙は、晋王に心を委ねたことを示した。猜疑のないことを示した。


楊師厚既得魏博之眾,又兼都招討使,宿衛勁兵多在麾下,諸鎮兵皆得調發,威勢甚重,心輕郢王友珪,遇事往往專行不顧。友珪患之,發詔召之,云「有北邊軍機,欲與卿面議。」師厚將行,其腹心皆諫曰:「往必不測。」師厚曰:「理知其為人,雖往,如我何!」乃帥精兵萬人,渡河趣洛陽,友珪大懼。丁亥,至都門,留兵於外,與十餘人入見。友珪喜,甘言遜詞以悅之,賜與巨萬。癸巳,遣還。

楊師厚はすでに魏博の衆を得た。また楊師厚は、都招討使を兼ねる。宿衛の勁兵は、おおくが麾下にある。諸鎮兵は、みな調發を得る。威勢は甚重である。
楊師厚は、心では郢王の朱友珪を軽んじる。朱友珪はこれを患いた。詔を発して、楊師厚を召した。「北辺に軍機がある。面着で議論したい」と。楊師厚が行くとき、腹心がみな諫めた。「往けば必ず不測(の事態=楊師厚の殺害)が起こる」と。楊師厚はいう。「私は朱友珪の人となりを知る。私が朱友珪のもとに行っても、私をどうにかできない」という。
楊師厚は、精兵1万をひきい、渡河して洛陽にゆく。朱友珪は大懼する。10月丁亥、楊師厚は都門にゆき、兵を門外に留める。10余人とともに、朱友珪と会見する。朱友珪は喜び、甘言・遜詞して(楊師厚の訪問を)悦ぶ。巨萬を賜与する。10月癸巳、楊師厚を還らせた。

十一月,趙將王德明將兵三萬掠武城,至於臨清,攻宗城,下之。癸丑,楊師厚伏兵唐店,邀擊,大破之,斬首五千餘級。
甲寅,葬神武元聖孝皇帝於宣陵,廟號太祖。
吳淮南節度副使陳璋等將水軍襲楚岳州,執刺史苑玫;楚王殷遣水軍都指揮使楊定真救岳州。璋等進攻荊南,高季昌遣其將倪可福拒之。吳恐楚人救荊南,遣撫州刺史劉信帥江、撫、袁、吉、信五州兵屯吉州,為璋聲援。

11月、趙將の王徳明は、3万をひきいて武城を掠める。

武城とは、漢代の東武城県である。唐代は貝州に属する。『九域志』はいう。貝州から東に50里。

王徳明は臨清に至り、宗城を攻めて、これを下す。11月癸丑、楊師厚は唐店に伏兵して、王徳明を大破した。五千余級を斬った。
11月甲寅、神武元聖孝皇帝を宣陵に葬る。廟號を太祖とする。
吳淮南節度副使の陳璋らは、水軍をひきいて、楚国の岳州を襲い、岳州刺史の苑玫を執える。

開平元年、楚国は岳州をとる。開平3年、苑玫が楚国を下し、淮南に執えられた。苑玫が江西から楚国にくだり、楚国は苑玫に岳州を守らせた。

楚王の馬殷は、水軍都指揮使の楊定真に岳州を救わせる。陳璋らは荊南に進攻する。高季昌は、将の倪可福に陳璋を防がせる。呉人は、楚人が荊南を救うことを恐れ、撫州刺史の劉信をつかわす。劉信は、江、撫、袁、吉、信州の5州の兵をひきい、吉州に屯して、陳璋のために声援する。

吉州は、声勢を張る。もし、潭州や衡州に兵を進める者があれば、楚兵に牽制される。


十二月,戊寅,蜀行營都指揮使王宗汾攻岐文州,拔之,守將李繼夔走。

12月戊寅、前蜀の行營都指揮使の王宗汾が、岐文州を攻めてぬく。守將の李継夔がにげた。

この歳、

是歲,隰州都將劉訓殺刺史,以州降晉,晉王以為瀛州刺史。訓,永和人也。
虔州防禦使李彥圖卒,州人奉譚全播知州事,遣使內附,詔以全播為百勝防禦使虔、韶二州節度開通使。

この歳、隰州都將の劉訓が、隰州刺史のを殺して、州をもって晋王に降る。晋王は、劉訓を瀛州刺史とした。劉訓は、永和(隰州)の人である。
虔州防禦使の李彦圖が卒した。州人は、譚全播をあげて知州事として、使者をやって譚全播に内附した。守光は詔して、譚全播を、百勝防禦使虔、韶二州節度開通使とした。

虔州はさきに百勝指揮がおかれた。いま「百勝」の軍名にちなんで、州の号とした。開通使者とは、道路を開通させて、南は交州や広州に到達させる(任務をもった)者である。


高季昌出兵,聲言助梁代晉,進攻襄州,山南東道節度使孔勍擊敗之。自是朝貢路絕。勍,兗州人也。

高季昌は出兵する。後梁を助けて晋国を伐つという。高季昌は、襄州に進攻した。山南東道節度使の孔勍は、これを擊敗した。これにより、高季昌から後梁に朝貢する路が絶えた。孔勍は、兗州の人である。130816

高季昌はすでに、孔勍との関係が悪い。高季昌から後梁に入る道が、ついに孔勍に絶やされ、後梁に朝貢できなくなった。

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913年、朱鍠が梁帝となり、前蜀の太子が殺さる

均王上上
太祖神武元聖孝皇帝下乾化三年(癸酉,公元九一三年)

春正月、周徳威が燕の順州と安遠軍をぬく

春,正月,丁巳,晉周德威拔燕順州。
癸亥,郢王友珪朝享太廟;甲子,祀圜丘,大赦,改元鳳歷。

春正月丁巳、晋将の周德威は、燕国の順州をぬく。

地理について、中華書局版8765頁。

正月癸亥、郢王の朱友珪が朝して、太廟を享する。甲子、朱友珪が圜丘を祀って、大赦する。鳳暦と改元する。

吳陳璋攻荊南,不克而還,荊南兵與楚兵會於江口以邀之;璋知之,舟二百艘駢為一列,夜過,二鎮兵遽出追之,不能及。
晉周德威拔燕安遠軍,薊州將成行言等降於晉。

呉国の陳璋が、荊南を攻めるが、克てずに還る。荊南の兵は、楚兵とぶつかり江口(荊江口)で戦う。陳璋はこれを知り、舟2艘をならべて1列とする。夜過、2鎮の兵が出て陳璋を追うが、追いつかず。
晋将の周徳威は、燕国の安遠軍をぬく。薊州の將・成行言らは、晋王に降る。

宋白はいう。薊州の治所は漁陽。もとは春秋期の無終の国。


2月、均王が龍驤軍に、梁帝を討てと煽る

二月,壬午,蜀大赦。
郢王友珪既得志,遽為荒淫,內外憤怒,友珪雖啖以金繒,終莫之附。駙馬都尉趙巖,犨之子,太祖之婿也;左龍虎統軍、侍衛親軍都指揮使袁象先,太祖之甥也。巖奉使至大梁,均王友貞密與之謀誅友珪,巖曰:「此事成敗,在招討楊令公耳,得其一言諭禁軍,吾事立辦。」均王乃遣腹心馬慎交之魏州說楊師厚曰:「郢王篡弒,人望屬在大梁,公若因而成之,此不世之功也。」且許事成之日賜犒軍錢五十萬緡。

2月壬午、前蜀で大赦した。
郢王=梁帝の朱友珪は、すでに志を得て、荒淫となる。内外は憤怒する。朱友珪は、金繒を啖したが、ついに付かない。駙馬都尉の趙巌は、趙犨の子であり、朱晃の婿である。

趙犨は陳州を守り、黄巣をふせぐ功績があった。僖宗紀にある。
趙巌は、朱晃の子・長楽公主をめとる。

左龍虎統軍、侍衛親軍都指揮使の袁象先は、朱晃のおいである。

袁象先の父・袁敬初は、朱晃の妹・万安大長公主をめとる。

趙巌は、奉使して大梁に至る。均王の朱友貞は、ひそかに趙巌と密謀して、朱友珪を誅したい。趙巌「ことの成敗は、招討の楊令公(楊師厚)にある。

楊師厚の官職は、中書令である。北面都招討使である。

楊師厚の一言があれば、禁軍を説得でき、ことは成功する」と。

ときに後梁の重兵は、みな楊師厚の手にある。

均王の腹心の馬慎交は、魏州にゆき、楊師厚を説得した。「郢王は篡弑した。人望は大梁にある。楊師厚がこと(郢王の朱友珪の討伐)を成せば、不世之功である」と。また成功した日には、軍をねぎらい錢50万緡をだすと楊師厚に説いた。

師厚與將佐謀之,曰:「方郢王弒逆,吾不能即討;今君臣之分已定,無故改圖,可乎?」或曰:「郢王親弒君父,賊也,均王舉兵復仇,義也。奉義討賊,何君臣之有!彼若一朝破賊,公將何以自處乎?」師厚驚曰:「吾幾誤計。」乃遣其將王舜賢至洛陽,陰與袁象先謀,遣招討馬步都虞候譙人硃漢賓將兵屯滑州為外應。趙巖歸洛陽,亦與象先密定計。

楊師厚は將佐と謀った。師厚「郢王は弑逆したが、私は郢王をすぐに討てなかった。いま郢王を君主として、君臣の区分は、すでに定まる。ゆえなく君臣の分を改めるのは可能か」と。或者はいう。「郢王(朱友珪)は父親=君主を弑した賊である。均王(朱友貞)は挙兵して報仇する。均王は義である。義を奉じて賊を討つ。これに君臣の区分があろうか。もし均王が一朝に郢王を破ったら、師厚はどこに身をおくのか」と。師厚は驚き「私は計を誤りかけた」という。師厚は、將の王舜賢を洛陽に至らせ、ひそかに袁象先と謀する。招討馬步都虞候する譙人の朱漢賓に兵をつけて、滑州に屯して外応させる。趙巌は洛陽に帰り、趙巌も袁象先と密かに計を定める。

友珪治龍驤軍潰亂者,搜捕其黨,獲者族之,經年不已。時龍驤軍有戍大梁者,友珪征之,均王因使人激怒其眾曰:「天子以懷州屯兵叛,追汝輩欲盡坑之。」其眾皆懼,莫知所為。丙戌,均王奏龍驤軍疑懼,未肯前發。戊子,龍驤將校見均王,泣請可生之路,王曰:「先帝與汝輩三十餘年征戰,經營王業。今先帝尚為人所弒,汝輩安所逃死乎!」因出太祖畫像示之而泣曰:「汝能自趣洛陽雪仇恥,則轉禍為福矣。」眾皆踴躍呼萬歲,請兵仗,王給之。

朱友珪は、龍驤軍の(去年に懐州で)潰亂した者を治める。その党を搜捕し、獲した者は族殺する。經年しても已まず。ときに龍驤軍のうち、大梁を戍る者がいる。朱友珪は、この龍驤軍をを徴す。均王は人をやり、龍驤軍を激怒させた。均王「天子(朱友珪)は懷州の屯兵が叛いたから、追ってお前たちを全て穴埋にするつもりだ」と。龍驤軍はみな懼れた。

『考異』はこの懼れる経緯の異なる史料を載せる。中華書局版8767頁。

2月丙戌、均王は奏して「龍驤軍は疑懼して、いまだ前發を肯んじない」という。2月戊子、龍驤の將校は均王に会い、泣いて生きられる方法を請う。均王「先帝の朱晃とお前らは、30余年も征戦して、王業を經營した。いま先帝は弑させた。お前らに逃げて死ぬ所があるものか」と。均王は朱晃の画像を示して泣いた。均王「お前はみずから洛陽にゆき、仇恥を雪げ。禍いを福に転じろ」と。
龍驤軍は、みな踴躍して萬歲をさけぶ。兵仗を請い、均王が給う。

庚寅旦,袁象先等帥禁兵數千人突入宮中。友珪聞變,與妻張氏及馮廷諤趨北垣樓下,將逾城,自度不免,令廷諤先殺妻,次殺己,廷諤亦自剄。諸軍十餘萬大掠都市,百司逃散,中書侍郎、同平章事杜曉、侍講學士李珽皆為亂兵所殺,門下侍郎、同平章事於兢、宣政使李振被傷。至晡乃定。
像先、巖繼傳國寶詣大梁迎均王,王曰:「大梁國家創業之地,何必洛陽!」乃即帝位於大梁,復稱乾化三年,追廢友珪為庶人,復博王友文官爵。

2月庚寅あさ、袁象先らは禁兵を数千人ひきい、宮中に突入する。朱友珪は変事を聞き、妻の張氏および馮廷諤と、北垣の樓下に趨した。城壁を越えかけ、逃げられないと知る。朱友珪は、馮廷諤に先に妻を殺させ、次に朱友珪を殺させる。馮廷諤もまた自剄した。
諸軍は10万余は、都市を大掠した。

胡三省はいう。汴兵はいまだ洛陽に至らない。禁衛の諸軍は、すでに朱友珪を殺した。ぼくは補う。汴兵は何もしていない。

百司は逃散した。中書侍郎・同平章事の杜曉と、侍講學士の李珽は、みな乱兵に殺された。門下侍郎・同平章事の于兢と、宣政使の李振は傷つけられる。晡のころに定まる。
袁像先と趙巌は、伝国宝をつぎ、大梁を詣でて、均王を迎えた。均王「大梁は、國家の創業之地である。なぜ必ずしも洛陽でなければならないか」と。均王は大梁で皇帝に即位した。「乾化3年」にもどす。朱友珪を廃して庶人となす。博王の朱友文に官爵をもどす。

丙申,晉李存暉攻燕檀州,刺史陳確以城降。
蜀唐道襲自興元罷歸,復為樞密使。太子元膺延疏道襲過惡,以為不應復典機要,蜀主不悅。庚子,以道襲為太子少保。

2月丙申、晋将の李存暉は、燕国の檀州を攻める。檀州刺史の陳確は、州城をもって降る。
蜀将の唐道襲は、興元から罷歸する。また樞密使となる。太子の王元膺は、唐道襲の過惡を並べて疏する。唐道襲は、復典の機要を守らない。蜀主は悦ばず。2月庚子、唐道襲を太子少保とした。

ぼくは思う。太子と対立して、太子に糾弾された唐道襲を左遷して、太子少保にする。ひどい人事だなあ。


913年3月、李嗣源と李従珂が趙国を攻める

三月,甲辰朔,晉周德威拔燕盧台軍。
丁未,帝更名鍠;久之,又名瑱。
庚戌,加楊師厚兼中書令,賜爵鄴王,賜語不名,事無鉅細必咨而後行。帝遣使招撫硃友謙;友謙復稱籓,奉梁年號。

3月甲辰ついたち、晋将の周徳威は、燕国の盧台軍をぬく。
3月丁未、均王=梁帝の朱友貞は、朱鍠と改名する。朱瑱ともする。

ぼくは思う。このページでは「梁帝」でいきます。

3月庚戌、楊師厚に兼中書令を加える。鄴王を賜爵する。詔不名を賜る。事は鉅細なく、必ず咨して、後に行う。梁帝は、使者をつかわし、朱友謙を招撫し、朱友謙を稱籓にもどす。後梁の年號を奉る。

去年、朱友謙は、晋国につく。いま称藩に復したが、じつはひそかに晋国につく。


丙辰,立皇弟友敬為康王。
乙丑,晉將劉光濬克古北口,燕居庸關使胡令圭等奔晉。
戊辰,以保義留後戴思遠為節度使,鎮邢州。

3月丙辰、皇弟の朱友敬を康王とした。
3月乙丑、晋将の劉光濬は、古北口で克つ。燕国の居庸關使の胡令圭らは、晋国に奔る。

檀州は燕楽県の東にあり、東軍と北口の2つで手捉する。長城の口である。
幽州の昌平県の北15里に、軍都ケイがある。西北35里に納款関がある。これが居庸のもとの関である。 地理について、中華書局版8768頁。

3月戊辰、保義留後の戴思遠は、節度使となり、邢州に鎮する。

大唐の昭義軍は、潞州、沢州、邢州、メイ州、磁州の5州を統べる。唐末の兵乱で、晋国は潞州を得て、潞州を昭義軍とした。孟方立からは、後梁において、邢州、メイ州、磁州の3州を昭義軍とした。晋国と後梁で、2つの昭義軍があったのだ。
いま後梁は、邢州、メイ州、磁州を保義軍とした。そして、陝州の保義軍を鎮国軍とした。


◆晋将の李嗣源が、趙国の武州を陥とす

燕主守光命大將元行欽將騎七千,牧馬於山北,募北山兵以應契丹;又以騎將高行珪為武州刺史,以為外援。晉李嗣源分兵徇山後八軍,皆下之;晉王以其弟存矩為新州刺史總之。以燕納降軍使盧文進為裨將。李嗣源進攻武州,高行珪以城降。元行欽聞之,引兵攻行珪,行珪使其弟行周質於晉軍以求救,李嗣源引兵救之,行欽解圍去。嗣源與行周追至廣邊軍,凡八戰,行欽力屈而降;嗣源愛其驍勇,養以為子。

燕主の守光は、大將の元行欽に7千騎をつけ、山北で牧馬した。北山の兵を募り、契丹に応じる。

守光は契丹に救いを求めた。ゆえに元行欽に、山北で募兵させ、契丹に応じた。

また守光は、騎將の高行珪を武州刺史として、外援とする。
晋将の李嗣源は、兵を分けて山後の8軍を徇え、8軍とも趙国から晋国にくだす。晋王は、弟の李存矩を、新州刺史として、8軍を総べさせる。

李存勗が驕惰となり、乱に到る張本である。ぼくは思う。ろくでもない、ネタバレ。

燕国の納降軍使の盧文進は、裨將となる。李嗣源は、燕国の武州に進攻する。趙国の武州刺史の高行珪は、城をもって、晋将の李嗣源に降る。元行欽はこれを聞き、引兵して高行珪を攻める。高行珪は、弟の高行周を人質にして、晋軍に救いを求める。李嗣源が引兵して、高行珪を救う。
元行欽は、武州の包囲を解いて去る。李嗣源は、高行周とともに、元行欽を追って、廣邊軍に至る。

媯州の懐戎県の北に、広辺軍がある。もと白雲城である。

8戦して、元行欽は力屈して晋国に降る。晋将の李嗣源は、趙将の元行欽の驍勇を愛して、これを養子とする。

『考異』がたっぷり異説を載せる。司馬光の結論は、諸説がおおいが、史料の多数派に従って『通鑑』の本文を書いたと。中華書局版8769頁。すごく長い胡注だが、どうでもいい(と言ったら李嗣源に怒られるけど)内容で良かった。


嗣源進攻儒州,拔之,以行珪為代州刺史。行周留事嗣源,常與嗣源假子從珂分將牙兵以從。從珂母魏氏,鎮州人,先適王氏,生從珂,嗣源從晉王克用戰河北,得魏氏,以為妾,故從珂為嗣源子,及長,以勇健善戰知名,嗣源愛之。

李嗣源は、儒州に進攻して、これをぬく。

唐末の媯州の東に儒州をおく。晋山の1県を領する。
ぼくは思う。ネットで注文した、仁木英之『李嗣源』の出荷が遅れているという、お詫びのメールがきた。いつ読めるのかなあ。以降、彼のことを「嗣源」とのみ書きます。キャラ立ちしてくると、2字でイメージがバシッと定着する。劉守光は守光、とか。

高行珪を代州刺史とする。高行周は、嗣源を留事する。つねに高行周は、嗣源の仮子である李従珂とともに牙兵を分將して、嗣源に従う。從珂の母は魏氏で、鎮州の人。魏氏はさきに王氏の嫁ぎ、従珂を生んだ。嗣源が晋王の李克用に従って河北で戦って、魏氏を得て妾とした。ゆえに従珂は、嗣源の子となった。長じて、従珂は勇健・善戰により名を知られ、嗣源に愛された。

李従珂は、ここより登場する。後唐の廃帝である。中華書局版8770頁。


吳行營招討使李濤帥眾二萬出千秋嶺,攻吳越衣錦軍。吳越王鏐以其子湖州刺史傳瓘為北面應援都指揮使以救之,睦州刺史傳鐐為招討收復都指揮使,將水軍攻吳東洲以分其兵勢。

呉国の行營招討使の李濤は、2万をひきいて、千秋嶺を出る。吳越の衣錦軍を攻める。

杭州より東南にゆくと、千秋嶺を度し、杭州の臨安県にいたる。

吳越王の銭鏐は、子の湖州刺史の銭傳瓘を、北面應援都指揮使として、衣錦軍を救わせる。睦州刺史の銭傳鐐を、招討收復都指揮使とする。水軍をひきいて、呉国の東洲を攻め、呉国の兵勢を分散させる。

東洲は、常州の東洲である。


夏4月、燕帝の守光が、晋将の周徳威に泣きつく

夏,四月,癸未,以袁象先領鎮南節度使、同平章事。
晉周德威進軍逼幽州南門。壬辰,燕主守光遣使致書於德威以請和,語甚卑而哀。德威曰:「大燕皇帝尚未郊天,何雌伏如是邪!予受命討有罪者,結盟繼好,非所聞也。」不答書。守光懼,復遣人祈哀,德威乃以聞於晉王。

夏4月癸未、袁象先を、領鎮南節度使、同平章事とする。

鎮南軍は、洪州である。ときに呉国に属する。これは、いわゆる「名号節度使」である。五代および十国では、どの国にも置かれた。

晋将の周徳威は、進軍して幽州の南門に逼る。4月壬辰、燕主の守光は、周徳威に文書をおくり、請和する。語は、ひどく卑で哀である。周徳威「大燕の皇帝・守光は、まだ郊天しない。なぜこのように(卑屈な文面をよこして)雌伏するのか。

漢代の趙温はいう。大丈夫はまさに雄飛すべし。どうして雌伏して良いものか。

あらかじめ受命して罪ある者を討ち(守光は皇帝になったくせに)、盟を結んで好を継ぐ(晋将の私に迎合する)とは、聞いたことがない」周徳威は返書せず。守光は懼れ、人をやって周徳威に祈哀した。周徳威は、晋王に報告した。

千秋嶺道險狹,錢傳瓘使人伐木以斷吳軍之後而擊之,吳軍大敗,虜李濤及士卒三千餘人以歸。

千秋嶺の道は、險狹である。呉越の錢傳瓘は人をやり、伐木させて、呉軍の退路を断った。呉軍が大敗すると、李濤および士卒3000余人が捕虜となり、呉越に帰した。

5月、梁将の楊師厚と劉守奇が、趙州を攻める

己亥,晉劉光浚拔燕平州,執刺史張在吉。五月,光浚攻營州,刺史楊靖降。
乙巳,蜀主以兵部尚書王鍇為中書侍郎、同平章事。

4月己亥、晋将の劉光浚は、燕国の平州をぬく。平州刺史の張在吉を執らえる。5月、劉光浚は營州を攻め、営州刺史の楊靖を降す。

宋白はいう。平州から東北して690里で営州に至る。

5月乙巳、蜀主は、兵部尚書の王鍇を、中書侍郎、同平章事とする。

楊師厚與劉守奇將汴、滑、徐、兗、魏、博、邢、洺之兵十萬大掠趙境,師厚自柏鄉入攻土門,趣趙州,守奇自貝州人趣冀州,所過焚掠。庚戌,師厚至鎮州,營於南門外,燔其關城。壬子,師厚自九門退軍下博,守奇引兵與師厚會攻下博,拔之。晉將李存審、史建瑭戍趙州,兵少,趙王告急於周德威。德威遣騎將李紹衡會趙將王德明同拒梁軍。師厚、守奇自弓高渡御河而東,逼滄州,張萬進懼,請遷於河南;師厚表徙萬進鎮青州,以守奇為順化節度使。

梁将の楊師厚は、劉守奇とともに、汴、滑、徐、兗、魏、博、邢、洺州の兵をひきい、10万で趙州の境界を大掠する。

楊師厚は、燕兵と晋兵が交戦するので、その隙に趙州に入る。

師厚は、柏郷より土門に攻め入りり、趙州にゆく。劉守奇は、貝州から冀州に入る。通過した地で、焚掠する。5月庚戌、楊師厚は鎮州に至る。

『九域志』はいう。趙州から北して鎮州まで95里。

楊師厚は、南門の外に軍営して、その關城を燔く。5月壬子、師厚は九門から下博に退軍する。劉守奇も引兵して、楊師厚とともに下博を攻めてぬく。
晋将の李存審と史建瑭は、趙州を戍する。趙州の兵が少ないので、趙王は、晋将の周徳威に告急する。周徳威は、騎將の李紹衡をつかわし、趙將の王德明とともに、梁軍を拒む。
梁将の楊師厚と李守奇は、弓高から御河を渡って東して、滄州に逼る。滄州の鎮将・張萬進は懼れ、河南の遷りたい。

隋の煬帝が永済渠をうがつ。このとき造った河を「御河」という。

楊師厚は表して、張萬進を徙して、青州に鎮させる。劉守奇を順化節度使とする。

去年、滄州の義昌軍を、順化軍と改めた。


吳遣宣州副指揮使花虔將兵會廣德鎮遏使渦信屯廣德,將復寇衣錦軍。吳越錢傳瓘就攻之。

呉国は、宣州副指揮使の花虔に兵をつけ、廣德鎮遏使の渦信とあわさり、廣德に屯させる。ふたたび衣錦軍を寇したい。呉越の錢傳瓘は、呉将の花虔と渦信を攻めた。

6月、燕帝の守光が、晋将の張承業に降りたい

六月,壬申朔,晉王遣張承業詣幽州,與周德威議軍事。
丙子,蜀主以道士杜光庭為金紫光祿大夫、左諫議大夫,封蔡國公,進號廣成先生。光庭博學善屬文,蜀主重之,頗與議政事。

6月壬申ついたち、晉王は張承業を幽州にゆかす。張承業は、周徳威とともに軍事を議する。
6月丙子、蜀主は道士の杜光庭を、金紫光祿大夫・左諫議大夫として、蔡國公に封じる。進號して「廣成先生」という。杜光庭は、博學で屬文に善し。蜀主は杜光庭を重んじ、よくともに政事を議する。

吳越錢傳瓘拔廣德,虜花虔、渦信以歸。
戊子,以張萬進為平盧節度使。
辛卯,燕主守光遣使詣張承業,請以城降。承業以其無信,不許。

吳越の錢傳瓘は、廣德をぬき、呉将の花虔と渦信を、虜えて歸る。
6月戊子、張萬進を平盧節度使とする。
6月辛卯、燕主の守光は、使者をやって張承業に詣でて、城をもって降りたいと請う。張承業は、守光が信用できないから、許さず。

ぼくは思う。いやしくも燕帝が、降るのかよ。がんばって。反復のつねならぬ、ニセ皇帝として、劉守光はおもしろいかも。司馬懿の当て馬にされた、燕帝の公孫淵よりも、インチキ感がただよっている。


蜀太子元膺,豭喙齙齒,目視不正,而警敏知書,善騎射,性狷急猜忍。蜀主命杜光庭選純靜有德者使侍東宮,光庭薦儒者許寂、徐簡夫,太子未嘗與之交言,日與樂工群小嬉戲無度,僚屬莫敢諫。

前蜀の太子の王元膺は、出歯で目視がゆがむ。だが警敏で知書、騎射に善し。性は狷急で猜忍。蜀主は杜光庭に命じて、純靜で有德な者を選び、東宮に侍らせた。杜光庭は、儒者の許寂と徐簡夫を薦めた。太子は、この儒者と交言したことがない。太子は日々、儒者とともに樂工するようになった。群小の嬉戲は無度である。あえて諫める僚屬はいない。

ぼくは思う。蜀地の後嗣は、どうも周囲に流される。本人に欠陥をはらみ、バカじゃないんだが、バカっぽくなる。


秋7月、前蜀の太子が唐道襲を殺し、殺される

秋,七月,蜀主將以七夕出遊。丙午,太子召諸王大臣宴飲,集王宗翰、內樞密使潘峭、翰林學士承旨高陽毛文錫不至,太子怒曰:「集王不來,必峭與文錫離間也。」大昌軍使徐瑤、常謙,素為太子所親信,酒行,屢目少保唐道襲,道襲懼而起。

秋7月、蜀主は七夕で出遊する。
7月丙午、太子は諸王・大臣を召して、宴飲する。来なかったのは、集王の王宗翰と、内樞密使の潘峭と、翰林學士・承旨する高陽の毛文錫である。太子は怒った。「集王の王宗翰は来ない。必ずや潘峭と毛文錫ととともに(私と王宗翰を)離間させる」と。大昌軍使の徐瑤と常謙は、もとより太子に親信される。酒がすすみ、しばしば太子は、少保の唐道襲を、目で合図した。唐道襲は(太子の命令で、徐瑤と常謙が自分を殺すと思い)懼れて起った。

丁未旦,太子入白蜀主曰:「潘峭、毛文錫離間兄弟。」蜀主怒,命貶逐峭、文錫,以前武泰節度使兼侍中潘炕為內樞密使。太子出,道襲入,蜀主以其事告之,道襲曰:「太子謀作亂,欲召諸將、諸王,以兵錮之,然後舉事耳。」蜀主疑焉,遂不出;道襲請召屯營兵入宿衛,許之。內外戒嚴。

7月丁未あさ、太子は蜀主にいう。「潘峭と毛文錫は(蜀主の子である)私たち兄弟を離間させる」と。蜀主は怒り、潘峭と毛文錫を降格した。前武泰節度使・兼侍中の潘炕を、內樞密使とした。
太子が蜀主のもとから出ると、唐道襲が入った。蜀主は唐道襲に「太子によると、潘峭と毛文錫が王を離間させるようだ」という。唐道襲「太子こそが作乱を謀るのだ。太子は、諸將・諸王を召して、兵を錮めた。あとで事を挙げるだろう」と。蜀主は疑って(七夕の出遊)に出ない。唐道襲は蜀主に「屯營の兵を召して、宿衛に入れろ」という。内外は(太子に向けて)戒厳した。

太子初不為備,聞道襲召兵,乃以天武甲士自衛,捕潘峭、毛文錫至,□之幾死,囚諸東宮;又捕成都尹潘嶠,囚諸得賢門。戊申,徐瑤、常謙與懷勝軍使嚴璘等各帥所部兵奉太子攻道襲。至清風樓,道襲引屯營兵出拒戰;道襲中流矢,逐至城西,斬之。殺屯營兵甚眾,中外驚擾。

はじめ太子は、備えがない。唐道襲が召兵したと聞き、天武の甲士に自衛させた。潘峭と毛文錫を、諸東宮に囚える。また太子は、成都尹の潘嶠を、諸得賢門に囚える。7月戊申(太子の腹心である)徐瑤と常謙は、懷勝軍使の嚴璘等らと、太子を奉じて唐道襲を攻めた。清風樓に至り、唐道襲は屯営する兵をひいて、太子を拒戰する。唐道襲は流矢があたり、城西で斬られた。

『考異』は中華書局版に8774頁に異説を載せる。ながい!

太子は、屯營の兵をおおく殺す。中外は驚擾した。

潘炕言於蜀主曰:「太子與唐道襲爭權耳,無他志也。陛下宜面諭大臣以安社稷。」蜀主乃召兼中書令王宗侃、王宗賀、前利州團練使王宗魯等,使發兵討為亂者徐瑤、常謙等。宗侃等陳於西球場門,兼侍中王宗黯自大門安梯城而入,與瑤、謙戰於會同殿前,殺數十人,餘眾皆潰。瑤死,謙與太子奔龍躍池,匿於艦中。及暮稍定。

潘炕は蜀主にいう。「太子と唐道襲は、権力を争っただけ。他志はない。陛下は大臣に面諭して、社稷を安じろ」と。蜀主は、兼中書令の王宗侃、王宗賀、前利州團練使の王宗魯らを召した。兵を発して、乱をなした(太子の腹心の)徐瑤、常謙らを討った。
王宗侃らは、西球場門に布陣した。兼侍中の王宗黯は、大安門から、はしごをかけて入城した。徐瑤と常謙は、會同の殿前で戦い、数十人を殺した。余衆はみな潰えた。徐瑤は死ぬ。常謙と太子は、龍躍池に奔り、艦中にかくれる。日暮に、戦乱が定まる。

己酉旦,太子出就舟人丐食,舟人以告蜀主,遣集王宗翰往慰撫之;比至,太子已為衛士所殺。蜀主疑宗翰殺之,大慟不已。左右恐事變,會張格呈慰諭軍民榜,讀至「不行斧鉞之誅,將誤社稷之計」,蜀主收涕曰:「朕何敢以私害公!」於是下詔廢太子元膺為庶人。宗翰奏誅手刃太子者,元膺左右坐誅死者數十人,貶竄者甚眾。

己酉あさ、太子は出て舟人に食糧をもとめた。舟人は蜀主に「太子がいる」と知らせた。集王の王宗翰をつかわし、太子を慰撫させた。ここに至り、太子は衛士に殺された。蜀主は、王宗翰が太子を殺したと疑う。王宗翰は大慟して已まず。左右は事変を恐れる。たまたま張格が、呈慰して諭軍民榜する。張格が読む。「斧鉞之誅を行わねば、まさに社稷之計を誤る」と。
蜀主は收涕した。「朕はなぜ私事により、公事を害そうか」と。ここにおいて蜀主は下詔し、太子の王元膺を庶人とする。王宗翰は、太子を斬った者を誅せよという。王元膺の左右で、坐して誅死した者は数十人。貶竄される者は、とても多い。

庚戌,贈唐道襲太師,謚忠壯;復以潘峭為樞密使。

7月庚戌、唐道襲に太師を贈り、忠壯と謚する。ふたたび潘峭を樞密使とする。

8月、晋王と趙王が天長で会する

甲子,晉五院軍使李信拔莫州,擒燕將畢元福。八月,乙亥,李信拔瀛州。 賜高季昌爵勃海王。晉王與趙王鎔會於天長。
楚寧遠節度使姚彥章將水軍侵吳鄂州,吳以池州團練使呂師造為水陸行營應授使,未至,楚兵引去。

7月甲子、晋国の五院軍使の李信が莫州をぬき、燕將の畢元福を擒とする。8月乙亥、李信は瀛州をぬく。高季昌に勃海王を賜爵する。
晋王の李存勗と、趙王の王鎔が、天長で会する。

天長とは、鎮州の天長鎮である。

楚国の寧遠節度使の姚彦章は、水軍をひきい、呉国の鄂州を侵する。呉国は、池州團練使の呂師造を、水陸行營應授使とする。呉将の呂師造が至る前に、楚兵が引去する。

9月、呉国の徐温と陳祐が、呉越の王子を撃つ

九月,甲辰,以御史大夫姚洎為中書侍郎,同平章事。
燕主守光引兵夜出,復取順州。
吳越王鏐遣其子傳瓘、傳鐐及大同節度使傳瑛攻吳常州,營於潘葑。徐溫曰:「浙人輕而怯。」帥諸將倍道赴之。至無錫,黑雲都將陳祐言於溫曰:「彼謂吾遠來罷倦,未能戰,請以所部乘其無備擊之。」乃自他道出敵後,溫以大軍當其前,夾攻之,吳越大敗,斬獲甚眾。

9月甲辰、御史大夫の姚洎が、中書侍郎・同平章事となる。
燕主の守光が、引兵・夜出して、順州を取りかえす。

この年の春正月、晋将の周徳威が、燕国の順州をぬいた。それを、守光が奪回したのである。

吳越王の銭鏐は、子の銭傳瓘と銭傳鐐、および大同節度使の銭傳瑛に、呉国の常州を攻めさせた。潘葑(常州の無錫県)に軍営する。
徐温「浙人(呉越の兵)は、軽にして怯である」と。徐温は諸將を帥い、2倍の速度で、呉越の軍営・潘葑にゆく。徐温は無錫に至る。
黒雲都將の陳祐は徐温にいう。「呉越は『呉軍は遠來で罷倦する』というが、いまだ戦っていない。私が部する呉軍の兵で、防備のない呉越を撃ちたい」と。陳祐は、他道から呉越の後ろに出る。徐温は、大軍をもって呉越の前に出る。呉軍が呉越をはさみ、呉越は大敗し、おおく斬獲された。

高季昌造戰艦五百艘,治城塹,繕器械,為攻守之具,招聚亡命,交通吳、蜀,朝廷浸不能制。

高季昌は、戰艦500艘をつくる。城塹を治し、器械を繕う。攻守の具えとする。亡命した者を招聚する。高季昌は、吳国、前蜀と交通する。朝廷は浸して、高季昌を制御できない。

冬10月、前蜀で王宗衍を太子とする

冬,十月,己巳朔,燕主守光帥眾五千夜出,將入檀州。庚午,周德威自涿州引兵邀擊,大破之。守光以百餘騎逃歸幽州,其將卒降者相繼。

冬10月己巳ついたち、燕主の劉守光は、5千をひきいて夜に出て、檀州に入りそう。10月庚午、周徳威は涿州から兵を引き、邀擊して劉守光を大破した。劉守光は、1百余騎で幽州に逃歸する。將卒で、劉守光から周徳威に降る者があいつぐ。

蜀潘炕屢請立太子,蜀主以雅王宗輅類己,信王宗傑才敏,欲擇一人立之。鄭王宗衍最幼,其母徐賢妃有寵,欲立其子,使飛龍使唐文扆諷張格上表請立宗衍。格夜以表示功臣王宗侃等,詐雲受密旨,眾皆署名。蜀主令相者視諸子,亦希旨言鄭王相最貴。蜀主以為眾人實欲立宗衍,不得已許之,曰:「宗衍幼懦,能堪其任乎?」甲午,立宗衍為太子。受冊華,潘炕以朝廷無事,稱疾請老,蜀主不許,涕泣固請,乃許之。國有大疑,常遣使就第問之。

蜀の潘炕は、しばしば立太子を請う。蜀主は、雅王の王宗輅が自分に似ており、信王の王宗傑が才敏なので、2人から太子を選びたい。鄭王の王宗衍は、最幼である。王宗衍の母の徐賢妃は、有寵であり、子を太子に立てたい。
徐賢妃は、飛龍使の唐文扆に諷させ、張格に上表して「王宗衍を太子に立てよ」と請わせた。張格は夜に、功臣の王宗侃らに上表を示し、「蜀主の王建の密旨を受けた」といつわり、郡臣に(王宗衍を太子に立てよという上表に)署名させた。蜀主は、相者に諸子を見せ(占わせ)た。相者「鄭王の王宗衍の人相が最貴である」という。蜀主は、郡臣が王宗衍を太子に立てろと署名したので、やむなく許した。王建は「王宗衍は幼懦だが、太子の任務に堪えられるか」といった。

胡三省はいう。王宗衍が太子になったのが、前蜀が滅びる張本である。

10月甲午、王宗衍を太子とした。受冊がおわり、潘炕は朝廷が無事なので、稱疾・請老(引退を希望)する。蜀主は許さず。潘炕は涕泣して固請し、蜀主に許された。国に大疑あれば、つねに蜀主が使者をやり、潘炕を就第させて質問した。

嶺南節度使劉巖求昏於楚,楚王許以女妻之。

嶺南節度使の劉厳は、楚国との婚姻を求めた。楚王は娘を劉巌の妻とした。

913年11月、

盧龍巡屬皆入於晉,燕主守光獨守幽州城,求援於契丹;契丹以其無信,竟不救。守光屢請降於晉,晉人疑其詐,終不許。至是,守光登城謂周德威曰:「俟晉王至,吾則開門泥首聽命。」德威使白晉王。

盧龍の巡屬は、みな晋国に入る。燕主の劉守光だけが、幽州城を守る。契丹に求援した。契丹は劉守光に信頼がないので、ついに救わず。劉守光は、しばしば晋国に請降したが、晋人は詐欺を疑い、ついに許さない。ここにいたり、劉守光は登城して、周德威にいう。「晋王が至るのを待ち、私は開門して、泥首・聽命する」と。周徳威は、晋王に伝達した。

十一月,甲辰,晉王以監軍張承業權知軍府事,自詣幽州,辛酉,單騎抵城下,謂守光曰:「硃溫篡逆,余本欲與公合河朔五鎮之兵興復唐祚。公謀之不臧,乃效彼狂僭。鎮、定二帥皆俯首事公,而公曾不之恤,是以有今日之役。丈夫成敗須決所向,公將何如?」守光曰:「今日俎上肉耳,惟王所裁。」王憫之,與折弓矢為誓,曰:「但出相見,保無它也。」守光辭以它日。

11月甲辰、晉王は、監軍の張承業に權知軍府事させ、みずから幽州を詣でる。11月辛酉、晋王は単騎で城下にあたる。晋王は劉守光にいう。晋王「朱温が簒逆した。私はきみとともに、河朔5鎮の兵をあわせ、唐祚を興復したい。

5鎮とは、潞州、鎮州、定州、幽州、滄州である。
ぼくは思う。晋王は「大唐を復興するキャラ」である。いいね!

きみ=劉守光は、5鎮で大唐を復興する計画を良しとせず、かの狂僭を效した。鎮州と定州の2帥(王鎔と王處直)は、首をかたむけ、どちらも劉守光に仕えた。だがきみは2帥を恤まず、今日の戦役を起こした。どうするつもりか」と。劉守光「今日、私は俎上の肉にすぎない。ただ晋王に裁かれるだけ」と。晋王は劉守光を憫れみ、ともに弓矢を折って誓った。晋王「ただ幽州の城を出て会見するだけだ。保って、他のことはしない(劉守光を殺さない)」と。劉守光は辞して、会見を他日とした。

先是,守光愛將李小喜多贊成守光之惡。言聽計從,權傾境內。至是,守光將出降,小喜止之。是夕,小喜逾城詣晉軍降,且言城中力竭。壬戌,晉王督諸軍四面攻城,克之,擒劉仁恭及其妻妾,守光帥妻子亡去。癸亥,晉王入幽州。

これより先、劉守光は、とくに將の李小喜を愛した。おおくの者が劉守光の悪事に賛成したが、李小喜は「晋王に出降するな」という。この夕、李小喜は城壁をこえて、晋軍に降り、「城中の力は竭きた」という。11月壬戌、晉王は諸軍を督して、四面から攻城して克った。劉仁恭とその妻妾を擒えた。劉守光は、妻子をひきいて亡去した。11月癸亥、晉王が幽州に入った。

胡三省はいう。昭宗の乾寧2年、劉仁恭が幽州に拠った。ここにいたり、劉氏の父子とも敗亡した。
ぼくは思う。李小喜は、劉守光という個人を逃がすために、自分から降った。局所的なコダワリを発揮した。幽州の敗北を止めることはできない。これが劉守光のためなのか、よく分からんなあ。


以寧國節度使王景仁為淮南西北行營招討應接使,將兵萬餘侵廬、壽。

寧國節度使の王景仁を、淮南西北行營招討應接使とした。

後梁は淮南を攻めるとき、淮南の領域の西北を攻める。

兵1万余をひきい、廬州と壽州を侵した。130817

王景仁が呉国に敗れる張本である。

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