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- 913年12月、晋王が趙王の守光を滅ぼす
【後梁紀四】 起昭陽作噩十二月,盡強圉赤奮若六月,凡三年有奇。
12月、呉将の徐温が、梁将の王景仁に勝つ
十二月,吳鎮海節度使徐溫、平盧節度使硃瑾帥諸將拒之,遇於趙步。吳徵兵未集,溫以四千餘人與景仁戰,不勝而卻。景仁引兵乘之,將及於隘,吳吏士皆失色,左驍衛大將軍宛丘陳紹援槍大呼曰:「誘敵太深,可以進矣!」躍馬還鬥,眾隨之,梁兵乃退。溫拊其背曰:「非子之智勇,吾幾困矣!」賜之金帛,紹悉以分麾下。吳兵既集,復戰於霍丘,梁兵大敗。王景仁以數騎殿,吳人不敢逼。梁之渡淮而南也,表其可涉之津。霍丘守將硃景浮表於木,徙置深淵。及梁兵敗還,望表而涉,溺死者太半,吳人聚梁屍為京觀於霍丘。12月、呉国の鎮海節度使の徐温と、平盧節度使の朱瑾は、諸将をひきいて(梁将の王景仁を)拒む。たまたま両軍は、趙歩で遭遇した。
趙歩とは、淮水の津に瀕した、渡し場。南してすぐ、寿春の紫金山。呉軍は徵兵したが、まだ集まらない。呉将の徐温は、4千余人で王景仁と戦う。勝てずにに卻く。梁将の王景仁はこれに乗じ、呉兵を隘路にゆかす。呉軍の吏士は、みな失色する。左驍衛大將軍する宛丘の陳紹が、援槍・大呼した。「敵を深くまで誘った。進めるぞ」と。躍馬して還って闘う。呉衆は従う。梁兵は退く。
徐温は、陳紹の背をなでる。徐温「陳紹の智勇がなくば、私は危なかった」と。陳紹に金帛を賜る。陳紹は、すべて麾下に配分した。
吳兵が集まると、霍丘で再戦して、梁兵をおおいに破る。
ぼくは思う。【破】やぶる、やぶれる。打ちやぶる、攻め落とす、負ける。【敗】やぶる、やぶれる。負ける。打ち負かす。『漢辞海』より。『通鑑』を読んでると、「破」と「敗」は頻出する。どちらも勝ち負け両方の意味がある。文脈で判定するしかないのか。現代日本語では「破」は勝ち、「敗」は負けるに整理してる?王景仁は、数騎で殿軍をやる。呉人は敢えて逼らず。
梁兵が(呉国を攻めに来た当初)淮水を渡って南するとき、歩いて渡れる浅瀬を示すため、(水面から覗くように)木の目印を置いた。霍丘の守將である朱景は、浅瀬の目印を、深淵に移し換えた。胡三省はいう。朱景は、霍丘の怒号である。呉国に用いられて、呉将となり、霍丘を守った。朱景は、木の目印の長さを、木材で継ぎ足して、深瀬においた。梁兵が敗還して、記録を見て渡ると(深瀬に落ちて)大半が溺死した。吳人は、梁兵の屍で、霍丘に京觀をつくる。
12月、晋王が趙王の守光を滅ぼし、凱旋する
庚午,晉王以周德威為盧龍節度使,兼侍中,以李嗣本為振武節度使。12月庚午、晉王は周德威を、盧龍節度使・兼侍中とする。李嗣本を、振武節度使とする。
これより先、周徳威は夾寨の功績により、振武の帥となった。いま燕国を平らげた功績により、廬龍の帥にうつる。李嗣本を、周徳威のかわりに振武の帥をした。『欧史』はいう。李嗣本は、雁門の張氏の子。
燕主守光將奔滄州就劉守奇,涉寒,足腫,且迷失道。至燕樂之境,晝匿坑谷,數日不食,令妻祝氏乞食於田父張師造家。師造怪婦人異狀,詰知守光處,並其三子擒之。癸酉,晉王方宴,將吏擒守光適至,王語之曰:「主人何避客之深邪!」並仁恭置之館舍,以器服膳飲賜之。王命掌書記王緘草露布,緘不知故事,書之於布,遣人曳之。燕主の守光は、滄州に奔って、劉守奇につく。
劉守奇は兵を梁国に籍して、もって滄州をとる。上年にあり。寒を涉り、足は腫れ、迷って道を失する。燕楽の境に至る。
燕楽県は、後魏がおいた。治所は白檀。漢代は虎渓県にふくむ。晝匿・坑谷し、数日食わず。守光は妻の祝氏に、田父の張師造の家で乞食させた。張師造は、婦人の異状を怪しみ、追及して守光の居場所を知った。守光と3子を擒えた。
12月癸酉、晉王が方宴のとき、將吏は守光を擒えてよこす。晋王「主人はなぜ、客の深を避けようか」と。守光を、守光の父の劉仁恭とともに、館舍におく。器服・膳飲をたまう。
晋王は、掌書記の王緘に命じて露布を草させる。王緘は故事を知らず、布に書いて、その布を人に曳かせた。
胡三省はいう。魏晋より以来、戦勝するとその状況を書いた。漆竿を建て、天下にこれを知らせた。これを「露布」という。露布とは、そのことを暴白して(さらして)天下に知らせるものだ。人に曳かせるものでない。
晉王欲自雲、代歸,越王鎔及王處直請由中山、真定趣井陘,王從之。庚辰,晉王發幽州,劉仁恭父子皆荷校於露布之下。守光父母唾其面而罵之曰:「逆賊,破我家至此!」守光俯首而已。甲申,至定州,捨於關城。丙戌,晉王與王處直謁北嶽廟。是日,至行唐,趙王鎔迎謁於路。晋王は、雲州や代州から帰る。
幽州から山後路をとり、雲州と代州らを歴して、晋陽に至る。趙王の王鎔と王處直は、晋王の行路について、中山と真定を通って、井陘に行ってほしい。晋王は、王鎔と王處直の希望に従った。
胡三省はいう。それぞれで迎賀の礼を展べたいからだ。12月庚辰、晉王は幽州を発する。劉仁恭の父子は、みな露布の下で荷校する。守光の父母は、守光の顔に唾して罵った。「逆賊め。わが一族をこのように破綻させたな」と。守光は首をうつむけるだけ。12月甲申、定州に至り、関城に舎す。丙戌、晉王は、王處直とともに、北嶽の廟(恒山の大茂山)に謁した。この日、行唐(漢代の南後唐県)に至る。趙王の王鎔は、路に迎謁した。130818
ぼくは思う。晋王が趙王を滅ぼしたあとの、凱旋である。閉じる
- 914年、前蜀が南詔と岐国の諸鎮を破る
均王上乾化四年(甲戌,公元九一四年)
914年、王鎔が晋王の戦勝を祝賀する
春,正月,戊戌朔,趙王鎔詣晉王行帳上壽置酒。鎔願識劉太師面,晉王命吏脫劉仁恭及守光械,引就席同宴。鎔答其拜,又以衣服、鞍馬、酒饌贈之,己亥,晉王與鎔畋於行唐之西,鎔送至境上而別。春正月戊戌ついたち、趙王の王鎔は、晉王の行帳にもうで、上壽・置酒した。王鎔は、劉太師の顔を識りたいと願った。
劉守光は、かつて父の劉仁恭をとらえて、梁国に請うた。劉仁恭は、太子を致仕された。ゆえに王鎔は、劉仁恭を「劉太師」といったのだ・晋王は吏に命じて、劉仁恭と劉守光の械を脱させ、同席して酒宴した。王鎔は劉氏の父子の拜した。王鎔から劉氏に、衣服・鞍馬、酒饌を贈った。正月己亥、晉王と王鎔は、行唐の西で畋(狩)をした。王鎔は、晋王を境界まで送って、別れた。
丙子,蜀主命太子判六軍,開崇勳府,置僚屬,後更謂之天策府。正月丙子、蜀主は太子に命じて、判六軍させ、崇勲府を開かせる。僚屬を置く。のちに崇勲府を、「天策府」と改称する。
正月、晋王が守光を斬り、尚書令に推さる
壬子,晉王以練絲斥劉仁恭父子,凱歌入於晉陽。丙辰,獻於太廟。自臨斬劉守光。守光呼曰:「守光死不恨,然教守光不降者,李小喜也!」王召小喜證之,小喜瞋目叱守光曰:「汝內亂禽獸行,亦我教邪!」王怒其無禮,先斬之。守光曰:「守光善騎射,王欲成霸業,何不留之使自效!」其二妻李氏、祝氏讓之曰:「皇帝,事已如此,生亦何益!妾請先死。」即伸頸就戮。
守光至死號泣哀祈不已。王命節度副使盧汝弼等械仁恭至代州,刺其心血以祭先王墓,然後斬之。正月壬子、晋王は、劉仁恭の父子を練[糸斥]し(しばり)、凱歌して晉陽に入った。丙辰、太廟に献じて、晋王みずから劉守光を斬るのに臨んだ。守光は呼した。「守光は死んでも恨まず。だが劉守光を降らせなかった者(降伏に反対した者)は、李小喜である」と。晋王は李小喜を召して証めた。李小喜は瞋目して守光を叱った。「お前は内に乱れ、禽獣の行いをした。私が(守光に降伏の延期を)させたものか」と。
晋王は李小喜の(旧君への)無礼に怒り、先に李小喜を斬った。守光「私は騎射を善くする。晋王が覇業を成したければ、なぜ私を殺さずに留め、活用しないのだ」と。
ぼくは思う。呂布かよ、という話。唐が滅びた後の914年。父を殺して燕帝を自称した劉守光は、晋王の李存勗に敗れて、斬られることになった。死を目前にしていう。「私は騎射がうまい。晋王が覇業を成したいなら、なぜ私を用いないのか」と。劉守光は「中国の歴史記述におけるクズ」を一身に集めた好人物です。守光の2人の妻・李氏と祝氏は譲した。「皇帝よ。事態はすでにこのようだ。生きて、なんの益があるか。私を先に死なせてくれ」と。頸を伸して、戮に就く。
守光は死に至り、號泣・哀祈してやまず。
史家はいう。守光は死を畏れる。2人の妻よりもひどい。
晋王は、節度副使の盧汝弼らに命じて、劉仁恭を械して代州に至らせる。劉仁恭の心臓を刺して、血を先王の墓に祭る。その後で、劉仁恭を斬る。
劉仁恭は父にそむいた。晋王は、先王(劉仁恭の父)を、代州の雁門県に葬った。のちに建極陵という。
或說趙王鎔曰:「大王所稱尚書令,乃梁官也,大王既與梁為仇,不當稱其官。且自太宗踐祚已來,無敢當其名者。今晉王為盟主,勳高位卑,不若以尚書令讓之。」鎔曰:「善!」乃與王處直各遣使推晉王為尚書令,晉王三讓,然後受之,始開府置行台如太宗故事。或者が趙王の王鎔にいう。「大王は尚書令と称されるが、これは後梁の官職だ。大王はすでに、後梁と仇敵である。尚書令の官職を称すべきでない。大唐の太宗(李世民)が、尚書令から皇帝に即位したので、のちの唐臣で尚書令を名のる者はない。
ぼくは思う。大唐においては、李世民の故事があるから、尚書令は「欠番」である。後梁においては、この「欠番」が解除される。というか、「欠番」を解除することにより、後梁は大唐に対して独自性を主張できる。
いま王鎔は、大唐の「欠番」ルールを復活させた。後梁を明確に否定したのだ。いま晋王が盟主である。晋王は勲は高いが、位は卑い。王鎔は、尚書令を晋王に譲れ」と。王鎔「そうだな」と。王鎔は、王處直とともに、晋王に使者をやって、晋王を尚書令に推した。晋王は三譲して、そのあとで受けた。はじめて開府して、太宗の故事のように、行台を置く。
唐太宗が行台を置いたのは、高祖紀に見える。
◆荊南の高季昌が、前蜀の王宗寿と王成先に敗れる
高季昌以蜀夔、萬、忠、涪四州舊隸荊南,興兵取之,先以水軍攻夔州。時鎮江節度使兼侍中嘉王宗壽鎮忠州,夔州刺史王成先請甲,宗壽但以白布袍給之。成先帥之逆戰,季昌縱火船焚蜀浮橋,招討副使張武舉鐵絲亙拒之,船不得進。會風反,荊南兵焚溺死者甚眾。季昌乘戰艦,蒙以牛革,飛石中之,折其尾,季昌易小舟以遁。荊南兵大敗,俘斬五千級。成先密遣人奏宗壽不給甲之狀,宗壽獲之,召成先,斬之。蜀地にて、夔、萬、忠、涪の4州がもとは荊南に属した。荊南の将・高季昌は、兵を興して4州を取り、水軍をもって夔州を攻めた。
ときに鎮江節度使・兼侍中する前蜀の嘉王の王宗壽は、忠州に鎮する。
前蜀は、鎮江軍節度を置く。夔州、忠州、万州を領する。夔州刺史の王成先は、甲(防具)を請する。王宗壽は、ただ白布の袍を支給しただけ。王成先は高季昌を逆戦する。高季昌は、ほしいままに船に火をつけ、蜀の浮橋を焚く。招討副使の張武は、鐵[糸亙]をあげて高季昌を拒む。高季昌の船は進めない。たまたま風向きが変わり、荊南の兵で、焚溺した死者は、ひどく多い。
胡三省はいう。高季昌は順風なので火をつけたが、逆風になって、自軍が焼けた。高季昌は戰艦に乗り、牛革で蒙う。飛石があたり、戦艦の後部を折った。高季昌は小舟に乗り換えて遁した。荊南の兵は大敗した。五千級が俘斬された。王成先はひそかに人をやり、王宗壽が甲を供給しないことを上奏した。
王宗壽は、王成先の(チクリの)上奏を得て、王成先を斬った。
2月、康懐貞が岐人を防ぐため、長安に鎮す
帝以岐人數為寇,二月,甲戌,徙感化節度使康懷英為永平節度使,鎮長安。懷英即懷貞也,避帝名改焉。梁帝は、岐人がしばしば寇するので、2月甲戌、感化節度使の康懐英をうつして、永平節度使とし、長安に鎮させる。康懐英とは、康懐貞である。梁帝の名を避けて改めた。
感化軍は、陝州に鎮する。後梁ははじめ、佑国軍を長安にうつす。そのとき、永平軍と改めた。
夏4月、楚国の王環が、呉国の黄州を掠める
夏,四月,丙子,蜀主徙鎮江軍治夔州。
丁丑,司空兼門下侍郎、同平章事於兢坐挾私遷補軍校,罷為工部侍郎,再貶萊州司馬。吳袁州刺史劉崇景叛,附於楚。崇景,威之子也。楚將許貞將萬人援之,吳都指揮使柴再用、米志誠帥諸將討之。夏4月丙子、蜀主は鎮江軍を徙して、夔州に治させる。
4月丁丑、司空兼門下侍郎、同平章事の于兢が、挾私したので、軍校に遷補される。罷めて工部侍郎となる。さらに貶められ、萊州司馬となる。
呉国の袁州刺史の劉崇景が叛して、楚国につく。劉崇景は、劉威の子である。劉威と楊行密は、合肥でいっしょに岐兵した。劉威は戦功があり、方鎮を歴した。楚將の許貞は、1万をひきいて劉崇景を援ける。呉国の都指揮使の柴再用と、米志誠とは、諸將をひきいて、劉崇景を討つ。
胡三省はいう。都指揮使は、諸将をすべて統率する。1都の指揮使ではない。「都」は、ミヤコではなく、スベテの意味である。
ぼくは思う。隣接する、呉越と呉国が、ちゃんと仲が悪いから安心する。
楚岳州刺史許德勳將水軍巡邊。夜分,南風暴起,都指揮使王環乘風趣黃州,以繩梯登城,逕趣州署,執吳刺史馬鄴,大掠而還。德勳曰:「鄂州將邀我,宜備之。」環曰:「我軍入黃州,鄂人不知,奄過其城,彼自救不暇,安敢邀我!」乃展旗鳴鼓而行,鄂人不敢逼。楚国の岳州刺史の許徳勲は、水軍をひきいて巡辺する。
楚国の鄂州の東北は、みな呉国と隣接する。夜分(夜半)南風が暴起する。都指揮使の王環が、風に乗って黄州にゆく。
王環は、1州の都指揮使である。繩梯で登城する。州署で、呉国の黄州刺史の馬鄴を執らえ、大掠して還る。許徳勲「鄂州はわが軍を迎撃しそうだ。備えろ」と。
黄州から鄂州に還るとき、船は鄂州の城外を過ぎる。ゆえに許徳勲は、鄂州からの攻撃を畏れたのだ。王環「わが軍は黄州に入ったが、鄂人は気づかない。鄂州の城を奄過すれば、彼らは自ら救う暇もない。迎撃されようか」と。王環は(恐れないことを示して)旗を展し、鼓を鳴して、通行した。鄂人は敢えて逼らず。
5月、呉将の柴再用が、楚につく劉崇景を破る
五月,朔方節度使兼中書令穎川王韓遜卒,軍中推其子洙為留後。癸丑,詔以洙為節度使。
吳柴再用等與劉崇景、許貞戰於萬勝岡,大破之,崇景、貞棄袁州遁去。5月、朔方節度使・兼中書令する穎川の王韓遜が卒した。軍中は、王韓遜の子の王洙を留後とした。癸丑、王洙を節度使とした。
呉将の柴再用らは、劉崇景や許貞と、萬勝岡で戦って、おおいに破る。劉崇景と許貞は、袁州を遁去した。
秋、梁将の楊師厚が、邢州で晋王を退ける
晉王既克幽州,乃謀入寇。秋,七月,會趙王鎔及周德威於趙州,南寇邢州,李嗣昭引昭義兵會之。楊師厚引兵救邢州,軍於漳水之東。晉軍至張公橋,裨將曹進金來奔。晉軍退,諸鎮兵皆引歸。八月,晉王還晉陽。晉王は幽州(燕王の守光)に克ち、後梁への入寇を謀る。
秋7月、趙王の王鎔と、晋将の周徳威は、趙州にいて、邢州に南寇する。晋将の李嗣昭は、昭義兵をひいて合わさる。
梁将の楊師厚は、引兵して邢州を救い、漳水の東に屯する。楊師厚は魏州から兵をひき、邢州を救いにきた。晋軍が張公橋にくると、晋国の裨將の曹進金が來奔した。
晋軍は青山口から出て、張公橋に至る。邢州の龍岡県の境界である。『薛史』によると、唐末に葛従周が晋軍を沙河で敗り、張公橋まできた。晉軍が退き、(燕州、趙州、潞州の)鎮兵らはみな引歸する。8月、晉王は晉陽に還る。
蜀武泰節度使王宗訓鎮黔州,貪暴不法,擅還成都。庚辰,見蜀主,多所邀求,言辭狂悖。蜀主怒,命衛士毆殺之。戊子,以內樞密使潘峭為武泰節度使、同平章事,翰林學士承旨毛文錫為禮部尚書,判樞密院。峽上有堰,或勸蜀主乘夏秋江漲,決之以灌江陵。毛文錫諫曰:「高季昌不服,其民何罪!陛下方以德懷天下,忍以鄰國之民為魚鱉食乎!」蜀主乃止。前蜀の武泰節度使の王宗訓は、黔州に鎮する。貪暴で不法であり、かってに成都に還る。8月庚辰、王宗訓は蜀主にあい、おおくを邀求する。言辭は狂悖である。蜀主は怒り、衛士に王宗訓を毆殺させた。8月戊子、內樞密使の潘峭を、武泰節度使、同平章事とした。翰林學士承旨の毛文錫を禮部尚書として、判樞密院させる。
ぼくは思う。王宗訓の空席を埋める、玉突きの人事。潘峭も毛文錫も、まえに前蜀の太子が「謀反」したときに、関与した人たち。(長江の)峡には堰がある。或者が蜀主に勧めた。「夏秋に長江の水量が増える。堰を壊せば(高季昌が鎮する)江陵が潅する」と。毛文錫が諫めた。「高季昌は前蜀に服さないが、江陵の民になんの罪があるか。陛下は徳で天下を懐けよ。隣国の民を魚のエサにするのは忍びない」と。蜀主は堰を壊さない。
帝以福王友璋為武寧節度使。前節度使王殷,友珪所置也,懼,不受代,叛附於吳。九月,命淮南西北面招討應接使牛存節及開封尹劉鄩將兵討之。梁帝は、福王の朱友璋を武寧節度使とした。前節度使の王殷は、(朱晃を殺害した)朱友珪が置いた。王殷は(梁帝に処罰されるのを)懼れて、節度使の交代を受けず、叛して呉国につく。9月、淮南西北面招討應接使の牛存節と、開封尹の劉鄩に命じて、王殷を討たせる。
段落はつぎの頭に続く。一連のお話。
冬、前蜀が蛮族の南詔と、岐国の諸鎮を破る
冬,十月,存節等軍於宿州。吳平盧節度使硃瑾等將兵救徐州,存節等逆擊,破之,吳兵引歸。冬10月、牛存節らは、宿州に軍する。
『九域志』はいう。徐州を南して145里で宿州と。牛存節は、徐州を攻めずに、南して宿州にいく。牛存節は、ヨウ橋の要地による。淮南の援が絶えた所以である。呉国の平盧節度使の硃瑾らは、徐州を救う。牛存節らは、朱瑾を逆擊して破る。吳兵は引歸した。
十一月,乙巳,南詔寇黎州,蜀主以夔王宗范、兼中書令宗播、嘉王宗壽為三招討以擊之。丙辰,敗之於潘倉嶂,斬其酋長趙嵯政等。壬戌,又敗之於山口城。十二月,乙亥,破其武侯嶺十三寨。辛巳,又敗之於大度河,浮斬數萬級,蠻爭走度水,橋絕,溺死者數萬人。宗范等將作浮梁濟大渡河攻之,蜀主召之令還。11月乙巳、南詔が黎州を寇する。蜀主は夔王の王宗範と、兼中書令の宗播、嘉王の王宗壽を、3招討として、南詔を撃たせる。11月丙辰、潘倉嶂で南詔をやぶり、酋長の趙嵯政らを斬る。壬戌、山口城でも、蜀将が南詔を敗る。
12月乙亥、南詔のもつ武侯嶺の13寨をやぶる。
13寨の地理について、中華書局版8785頁。12月辛巳、また南詔を大度河で破り、數萬級を浮斬する。蛮族は争ってにげ、川をわたる。橋が絶え、溺死者は數萬人。王宗範らは、浮梁をつくり、川を渡って攻める。蜀主は王宗範らを召して還らせた。
胡三省はいう。蛮地は深阻である。遠くを攻めて、疲弊させたくない。蛮族を、境界から追い出せば充分だというのが、蜀主の王建の志である。
癸未,蜀興州刺史兼北路制置指揮使王宗鐸攻岐階州及固鎮,破細砂等十一寨,斬首四千級。甲申,指揮使王宗儼破岐長城關等四寨,斬首二千級。
岐靜難節度使李繼徽為其子彥魯所毒而死,彥魯自為留後。12月癸未、前蜀の興州刺史・兼北路制置指揮使の王宗鐸が、岐国の階州および固鎮を攻める。
興州から西南して510里で階州にいたる。固鎮とは、青泥嶺の東北にある。『薛史』地理志によると、鳳州の固鎮である。細砂ら11寨を破り、4千級を斬首する。
12月甲申、指揮使の王宗𠑊は、岐国の長城關ら、4寨を破り、2千級を斬首する。
岐国の靜難節度使の李継徽は、子の李彦魯に毒殺された。李彦魯が、みずから留後となる。130818
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- 915年、魏博を分割し、劉鄩が晋王と戦う
均王上貞明元年(乙亥,公元九一五年)
春、前蜀が蛮酋を斬り、南詔を遠ざける
春,正月,己亥,蜀主御得賢門受蠻俘,大赦。初,黎、雅蠻酋劉昌嗣、郝玄鑒、楊師泰,雖內屬於唐,受爵賞,號金堡三王,而潛通南詔,為之詗導。鎮蜀者多文臣,雖知其情,不敢詰。於是,蜀主數以漏洩軍謀,斬於成都市,毀金堡。自是南詔不復敢犯邊。春正月己亥、蜀主は得賢門に御して、蠻俘を受けた。大赦した。
はじめ、黎州と雅州の蛮酋である劉昌嗣、郝玄鑒、楊師泰は、大唐に内属して爵賞を受け、「金堡三王」と号す。
蛮族についての胡三省註は、中華書局版8786頁。蛮酋は、ひそかに南詔と通じて、南詔のために詗導する。前蜀で鎮する者は、おおくが文臣である。蛮酋と南詔の交通を知るが、あえて詰さず。ここにおいて蜀主は、しばしば(蛮酋のせいで)軍謀が漏洩したので、成都の市で蛮酋を斬った。金堡を毀す。これより南詔は、前蜀の辺境を犯さない。
二月,牛存節等拔彭城,王殷舉族自焚。
三月,丁卯,以右僕射兼門下侍郎、同平章事趙光逢為太子太保,致仕。2月、牛存節らは、彭城をぬく。王殷は族を挙げて自焚した。
『考異』はいう。乾化4年11月とする史料もある。3月丁卯、右僕射・兼門下侍郎・同平章事の趙光逢が、太子太保となり、致仕される。
3月、楊師厚が死に、梁帝が魏博の権限を分割
天雄節度使兼中書令鄴王楊師厚卒。師厚晚年矜功恃眾,擅割財賦,選軍中驍勇,置銀槍效節都數千人,給賜優厚,欲以復故時牙兵之盛。帝雖外加尊禮,內實忌之,及卒,私於宮中受賀。租庸使趙巖、判官邵贊言於帝曰:「魏博為唐腹心之蠹,二百餘年不能除去者,以其地廣兵強之故也。羅紹威、楊師厚據之,朝廷皆不能制。陛下不乘此時為之計,所謂『彈疽不嚴,必將復聚,』安知來者不為師厚乎!宜分六州為兩鎮以弱其權。」天雄節度使・兼中書令する鄴王の楊師厚が卒した。
師厚の晚年は、矜功・恃衆する。ほしいままに財賦を割き、軍中の驍勇を選ぶ。銀槍效節を数千人おく。給賜は優厚である。牙兵のときの強盛を再現したかった。
魏博は、田承嗣が牙兵をおいてから、羅紹威のあと除かれた。楊師厚は、牙兵をふたたび設置したかった。梁帝は、外では尊禮を加えるが、内では師厚を忌んだ。師厚が死ぬと、ひそかに宮中で(師厚の死を祝う)賀を受けた。租庸使の趙巖と、租庸判官の邵贊は、
租庸使は、大唐の中期からある。『五代会要』はいう。江陵は租庸使をおく。その班は、崇政使の下、宣徽使の上である。梁帝にいう。「魏博は、大唐の腹心之蠹となった。2百余年、除去できなかった。地が広く、兵が強いからだ。羅紹威や楊師厚は魏博に拠り、朝廷は魏博を制せない。陛下がこの時機(楊師厚の死)に乗らねば、『不完全な治療をすると、必ず傷口の膿が再発する』ことになる。魏博の6州を、2鎮に分割して権限を弱めろ」と。
中国の維基百科より。【魏博】について。
魏博は、天雄ともいう。唐朝の地名。治所は魏州(いまの河北省の邯郸市の大名県の東北)である。いまの河北の南部、山東の北部を轄した。唐粛宗の乾元初は、安史の乱の末期である。魏州と博州に、「魏博」軍をおく。田承嗣を、魏博節度使とした。田氏が魏博なると、朝廷に服さず、河朔の3鎮の1つとなった。唐德宗の建中3年、田悦が朝廷に反叛して、魏王を称する。魏州を大名府と改称した。
後漢の光武帝も袁紹も、曹操も考えることは同じである。
帝以為然,以平盧節度使賀德倫為天雄節度使;置昭德軍於相州,割澶、衛二州隸焉,以宣徽使張筠為昭德節度使,仍分魏州將士府庫之半於相州。筠,海州人也。二人既赴鎮,朝廷恐魏人不服,遣開封尹劉鄩將兵六萬自白馬濟河,以討鎮、定為名,實張形勢以脅之。梁帝は、魏博の分割に合意した。平盧節度使の賀徳倫を、天雄節度使とする。昭德軍を相州におき、澶州と衛州を属させる。宣徽使の張筠を、昭德節度使とする。魏州の將士・府庫の半分を分けて、相州におく。張筠は、海州の人。
2人は鎮所にゆく。朝廷は、魏人が不服なのを恐れて、開封尹の劉鄩に兵6万をつけ、白馬(滑州)から済河させる。「鎮州と定州を討つ」という名目のもと、じつは魏人を牽制した。
魏兵皆父子相承數百年,族姻磐結,不願分徙。德倫屢趣之,應行者皆嗟怨,連營聚哭。己丑,劉鄩屯南樂,先遣澶州刺史王彥章將龍驤五百騎入魏州,屯金波亭。魏兵相與謀曰:「朝廷忌吾軍府強盛,欲設策使之殘破耳。吾六州歷代籓鎮,兵未嘗遠出河門,一旦骨肉流離,生不如死。」是夕,軍亂,縱火大掠,圍金波亭,王彥章斬關而走。詰旦,亂兵入牙城,殺賀德倫之親兵五百人,劫德倫置樓上。有效節軍校張彥者,自帥其黨,拔白刃,止剽掠。魏兵は数百年、父子で相承してきた。族間で通婚しており、分徙を願わず。賀徳倫は分割を促したが、分割された者は嗟怨して、営を連ねて聚って哭く。
3月己丑、劉鄩は南樂に屯する。さきに澶州刺史の王彦章は、龍驤500騎をひきい、魏州に入り、金波亭に屯する。魏兵はともに謀った。「朝廷は、わが魏博の軍府の強盛を忌む。軍府を殘破させたい。われら6州の歴代の藩鎮は、かつて河門から遠出したことがない。『旧唐書』はいう。魏州の城外には、河門の旧堤がある。もし一度はなれたら、親族と流離する。死んだも同然だ」と。その夕、魏博の軍が乱れた。縱火・大掠して、王彦章の金波亭を囲む。彭彦章は、斬関してにげる。詰旦、亂兵は牙城に入る。賀徳倫の親兵500人を殺す。賀徳倫を劫して、樓上に置く。有效節軍校の張彦は、みずから党をひきいて、白刃を拔いて、乱兵の剽掠を止める。
ぼくは思う。魏博の解体は、うまくいっていない。
4月、魏博を解体し損ねた梁将が、晋国を頼る
夏,四月,帝遣供奉官扈異撫諭魏軍,許張彥以刺史。彥請復相、澶、衛三州如舊制。異還,言張彥易與,但遣劉鄩加兵,立當傳首。帝由是不許,但以優詔答之。使者再返,彥裂詔書抵於地,戟手南向詬朝廷,謂德倫曰:「天子愚闇,聽人穿鼻。今我兵甲雖強,苟無處援,不能獨立,宜投款於晉。」遂逼德倫以書求援於晉。夏4月、梁帝は供奉官の扈異をやり、魏軍を撫諭させる。扈異は、張彦が魏州刺史となるのを許す。張彦は「相、澶、衛の3州を旧制にもどせ」と請う。
胡三省はいう。張彦は、昭徳軍をやめて、相、澶、衛の3州を天雄軍に属させろというのだ。扈異が大梁に還る。扈異「張彦は交代させろ。劉鄩には兵を加えろ」と。梁帝は許さない。梁帝からの(要請を認めないという)詔書をもらい、張彦は詔書を裂いて地になげた。戟手・南向して、朝廷をののしった。
『左氏伝』はいう。公戟其手。杜預は注する。ひじを曲げて、戟のような形にすること。鄭玄はいう。人が弓矢をもつとき、ひじを戟のように曲げると。張彦は賀徳倫にいう。「天子は愚闇だ。人が鼻を穿つのをゆるす(梁帝は私たちに、魏博の分割という、無理な任務を押しつけるだけだ)。いまわが兵は強いが、處援がなければ、独立できない。晋国に投款しよう」と。張彦は賀徳倫に逼り、晋国に求援する文書を書かせた。
ぼくは思う。梁帝が、梁帝をおびやかす魏博を解体するために送った兵が、晋国に投じようとしている。梁帝は、まるで裏目である。
李繼徽假子保衡殺李彥魯,自稱靜難留後,舉邠、寧二州來附。詔以保衡為感化節度使,以河陽留後霍彥威為靜難節度使。
吳徐溫以其子牙內都指揮使知訓為淮南行軍副使、內外馬步諸軍副使。李継徽の仮子・李保衡は、李彦魯を殺して、靜難留後を自称する。邠州と寧州は、李保衡に來附した。
胡三省はいう。2州は、岐国から叛して、梁国に付いたのだ。ぼくは思う。こういう注釈が嬉しい。いまの自分では、とっさに書けない。梁帝は詔して、李保衡を、感化節度使とする。河陽留後の霍彦威を、靜難節度使とする。
呉将の徐温は、子の牙內都指揮使する徐知訓を、淮南行軍副使・内外馬步諸軍副使とする。徐知訓が驕横となり、寿命を終えない張本である。
5月、晋王が賀徳倫を救い、張彦を殺す
晉王得賀德倫書,命馬步副總管李存審自趙州引兵進據臨清。五月,存審至臨清,劉鄩屯洹水。賀德倫復遣使告急於晉,晉王引大軍自黃澤嶺東下,與存審會於臨清,猶疑魏人之詐,按兵不進。德倫遣判官司空頲犒軍,密言於晉王曰:「除亂當除根。」因言張彥凶狡之狀,勸晉王先除之,則無虞矣。王默然。頲,貝州人也。晉王は、賀徳倫のの文書を得た。晋王は、馬步副總管の李存審に、趙州から引兵して、臨清に進據させた。
5月、李存審は臨清に至る。梁将の劉鄩は、洹水に屯する。
臨清は、魏州の北にある。洹水は、魏州の西にある。賀德倫は、ふたたび晋王に文書をやり、告急する。晋王はみずから黃澤嶺(楽平郡の遼陽県)から東下した。晋王は、李存勗と臨清であわさる。晋王は、なお魏人の詐を疑って、進まない。
ぼくは補う。賀徳倫は晋王に、「梁帝は私に、魏博の解体をやれという。任務に失敗したから、晋国に頼るしかない」と言ってきた。梁国の内輪モメを、晋王は信じていない。賀徳倫は、判官の司空頲に軍をねぎらわせる。賀徳倫はひそかに晋王にいう。「乱を除くには、根を除くことだ」と。梁将の賀徳倫は、同じ梁将の張彦の凶狡をいい、晋王に「先に(魏博を平定するより前に)張彦を除け。そうすれば虞れがなくなる」と言ったのだ。晋王は黙って合意した。
胡三省はいう。賀徳倫は晋王に意図を伝達するが(張彦の凶狡を言うだけで)口に出さない(張彦を殺せとまでは言わない)。賀徳倫は、軍機をのがす(張彦に逃げられる)のを恐れたのだ。司空頲は、貝州の人である。
晉王進屯永濟,張彥選銀槍效節五百人,皆執兵自衛,詣永濟謁見,王登驛樓語之曰:「汝陵脅主帥,殘虐百姓,數日中迎馬訴冤者百餘輩。我今舉兵而來,以安百姓,非貪人土地。汝雖有功於我,不得不誅以謝魏人。」遂斬彥及其黨七人,餘眾股慄。王召諭之曰:「罪止八人,餘無所問。自今當竭力為吾爪牙。」眾皆拜伏,呼萬歲。明日,王緩帶輕裘而進,令張彥之卒擐甲執兵,翼馬而從,仍以為帳前銀槍都。眾心由是大服。晉王は進んで、永濟(魏州の北・数十里)に屯する。張彦は、銀槍效節を5百人選び、自衛とする。張彦は、永濟で晋王に謁見した。晋王は、驛樓に登って、張彦にいう。晋王「張彦は主帥を陵脅し、百姓に殘虐する。數日中に、馬を迎え、冤者を1百余輩も訴えた。私は挙兵して以来、百姓を安じ、人の土地をむさぼらない。張彦は晋国に対して功績があるが、張彦を殺して魏人に謝そう」と。
ついに晋王は、ついに張彦とその党7人を斬った。余衆は股慄した。晋王は余衆を召して諭した。
晋王「罪は8人に止める。今より力を尽くし、晋国の爪牙となれ」と。張彦の軍衆は拜伏して、萬歲をいう。翌日、晋王は緩帶・輕裘して進む。張彦の卒に、を擐って兵を執らせる。馬を翼させる(左右に従行させる)。張彦の卒を、帳前の銀槍都とした。衆心は、晋王に大服した。
劉鄩聞晉軍至,選兵萬餘人,自洹水趣魏縣。晉王留李存審屯臨清,遣史建瑭屯魏縣以拒之,王自引親軍至魏縣,與鄩夾河為營。
帝聞魏博叛,大悔懼,遣天平節度使牛存節將兵屯楊劉,為鄩聲援。會存節病卒,以匡國節度使王檀代之。
梁将の(梁帝に背かず、魏博の解体に取り組んでいる)劉鄩は、晋軍が至ると聞き、兵を1万余人えらび、洹水から魏県にゆく。
『九域志』はいう。魏県は、魏州の西35里にある。晉王は李存審を臨清に留め、史建瑭を魏県に屯させて、劉鄩を拒ませる。晋王は親軍をひき、魏県にゆく。劉鄩と晋王は、漳河を夾んで営する。
梁帝は、魏博が叛したと聞き、おおいに悔み懼れた。天平節度使の牛存節は、楊劉(陽留)に屯して、劉鄩に聲援する。たまたま牛存節が病卒した。匡國節度使の王檀が、牛存節に代わる。
岐王遣彰義節度使劉知俊圍邠州,霍彥威固守拒之。岐王は、彰義節度使の劉知俊に、邠州を囲ませる。梁将の霍彦威は固守して、岐将の劉知俊をこばむ。
これより裂き、李保衡は岐国に叛して、梁国についた。梁国は、霍彦威をやり、李保衡のかわりに邠州に鎮させた。
6月、賀徳倫が天雄軍の印節を、晋王に献上
六月,庚寅朔,賀德倫帥將吏請晉王入府城慰勞。既入,德倫上印節,請王兼領天雄軍,王固辭,曰:「比聞汴寇侵逼貴道,故親董師徒,遠來相救。又聞城中新罹塗炭,故暫入存撫。明公不垂鑒信,乃以印節見推,誠非素懷。」德倫再拜曰:「今寇敵密邇,軍城新有大變,人心未安。德倫腹心紀綱為張彥所殺殆盡,形孤勢弱,安能統眾!一旦生事,恐負大恩。」王乃受之。德倫帥將吏拜賀,王承製以德倫為大同節度使,遣之官。德倫至晉陽,張承業留之。6月庚寅ついたち、賀德倫は將吏をひきい、晋王に請う。晋王を府城に入れ、慰勞したいと。晋王が入城すると、賀徳倫は(梁国の天雄軍の)印節(府印と旌節)をさしあげ、晋王に天雄軍を兼領せよと請う。晋王は固辞した。「このごろ汴寇が貴道に侵逼すると聞き、みずから兵をつれて(賀徳倫を)救いにきた。また城中が塗炭を罹ると聞き、撫しにきた。天雄軍の立て直しは、賀徳倫がやれ。まる投げするな」と。
賀徳倫は再拝した。「城内は不安定である。私の腹心や紀綱は、ほぼ張彦に殺された。晋王でなければ、城内を安定させられない」と。『左氏伝』で、晋文公を衛った者を「紀綱の僕」という。晋王は、天雄軍の府印と旌節を受けた。賀徳倫は、將吏をひきいて晋王を拜賀した。晋王は承制して、賀徳倫を大同節度使として、大同軍に赴任させた。
大同軍は、北は極辺にのぞむ。賀徳倫はあらたに節度使となった。張承業は、賀徳倫に大同軍の城と兵を持たせたくないから、賀徳倫を晋陽(晋国の首都)に留めた。賀徳倫は晋陽に至り、張承業を大同に留めた。
張承業が、のちに賀徳倫を殺す張本である。
時銀槍效節都在魏城猶驕橫,晉王下令:「自今有朋黨流言及暴掠百姓者,殺無赦!」以沁州刺史李存進為天雄都巡按使。有訛言搖眾及強取人一錢已上者,存進皆梟首磔屍於市。旬日,城中肅然,無敢喧嘩者。存進本姓孫,名重進,振武人也。ときに銀槍效節都は、魏州の城にいる。なお銀槍效節都が驕横なので、晋王は下令した。「いまより朋党・流言および、百姓を暴掠する者、殺して赦さず」と。
晋王は、沁州刺史の李存進を、天雄都巡按使とする。訛言して軍衆を動揺させたり、1銭以上を強した者は、李存進が、市で梟首・磔屍した。旬日のうちに、魏城のなかは肅然として、喧嘩する者もなくなる。
李存進は、もとは孫重進という。振武の人。
晉王多出征討,天雄軍府事皆委判官司空頲決之。頲恃才挾勢,睚眥必報,納賄驕侈。頲有從子在河南,頲密使人召之。都虞候張裕執其使者以白王,王責頲曰:「自吾得魏博,庶事悉以委公,公何得見欺如是!獨不可先相示邪?」揖令歸第。是日,族誅於軍門,以判官王正言代之。正言,鄆州人也。晉王はおおく征討に出る。天雄の軍府事は、すべて判官の司空頲に委ねた。司空頲は、恃才・挾勢する。睚眥も必報する。納賄して驕侈たる。
ぼくは思う。わずかな怨みにも報復するのは、鍾会みたいだ。司空頲は、従子が河南にいる。司空頲は、ひそかに従子を召した。都虞候の張裕は、司空頲の使者をとらえて、晋王にいう。晋王は司空頲を攻めた。晋王「わたしは魏博を得て、庶事はすべて司空頲に委任した。だがなぜ司空頲は、私を欺くのか。」と。使者を揖して歸第させた。この日、司空頲は軍門で族誅された。
判官の王正言が、司空頲に代わって魏博を委ねられた。王正言は、鄆州の人。
◆能吏の孔謙のこと
魏州孔目吏孔謙,勤敏多計數,善治簿書,晉王以為支度務使。謙能曲事權要,由是寵任彌固。魏州新亂之後,府庫空竭,民間疲弊,而聚三鎮之兵,戰於河上,殆將十年,供億軍須,未嘗有闕,謙之力也。然急征重斂,使六州愁苦,歸怨於王,亦其所為也。魏州の孔目吏である孔謙は、勤敏で計數がおおく、簿書を善治する。晉王は、孔謙を支度務使とする。
大唐の節鎮は、おおく支度等使を兼ねた。末世には、藩鎮の署官を、支計官とした。支度務使とした。孔謙は、よく權要を曲事でき、これにより晋王からの寵任は、いよいよ固い。魏州が新たに乱れたあと、府庫は空竭で、民間は疲弊する。だが魏博は、3鎮(并州、魏州、鎮州)の兵を集め、河上で戦うこと10年。億の軍須を供給し、欠落がない。これは孔謙の力である。だが、いきなり重斂を徴したので、6州を愁苦させた。6州の怨は、晋王に帰された。これもまた孔謙のせいである。
◆晋王が徳州を先に取り、滄州と貝州を孤立させる張彥之以魏博歸晉也,貝州刺史張源德不從,北結滄德,南連劉鄩以拒晉,數斷鎮、定糧道。或說晉王:「請先發兵萬人取源德,然後東兼滄景,則海隅之地皆為我有。」晉王曰:「不然。貝州城堅兵多,未易猝攻。德州錄於滄州而無備,若得而戍之,則滄、貝不得往來,二壘既孤,然後可取。」乃遣騎兵五百,晝夜兼行,襲德州。刺史不意晉兵至,逾城走,遂克之,以遼州守捉將馬通為刺史。張彦は、魏博を晋王に帰させた。貝州刺史の張源德は(張彦に)従わず、(晋王とではなく)北の滄德と結ぶ。
乾化3年、楊師厚と劉守奇は北略する。滄徳はついに梁国についた。張源徳は、南の劉鄩と結ぶ。晋王拒み、しばしば鎮州と定州で、晋国の糧道を断つ。或者が晋王にいう。「1万で張源徳を取ろう。そのあとで東して滄景をあわせろ。海隅之地は、みな晋国の領土となる」と。晋王「だめだ。貝州の城は堅く、兵は多い。攻めにくい。德州は、滄州に属して、守備がない。もし徳州を取れば、滄州と貝州は往来できなくなる。滄州と貝州が孤立してから、この2州を取るべきだ」と。
ぼくは思う。晋王の李存勗が語る軍略!すばらしい。位置関係が、中華書局版8792頁。ただし地図を見たほうが早いなあ。騎兵5百に、昼夜兼行させ、德州を襲う。徳州刺史は、不意に晋兵がきたから、城を逾えてにげる。晋王は、遼州守捉將の馬通を、徳州刺史とする。
秋7月、晋王が梁将の劉鄩に包囲される
秋,七月,晉人夜襲澶州,陷之。刺史王彥章在劉鄩營,晉人獲其妻子,待之甚厚,遣間使誘彥章,彥章斬其使,晉人盡滅其家。晉王以魏州將李巖為澶州刺史。秋7月、晋人は澶州を夜襲して、これを陷とす。
地理、とくに治所について。中華書局版8792頁。梁国の澶州刺史の王彦章は、劉鄩の軍営にいる。晉人は、王彦章の妻子を獲らえて、厚遇する。間使をやり、王彦章を(梁から晋に移れと)誘う。王彦章は、晋の使者を斬る。晋人は、王彦章の家族を全滅させた。晉王は、魏州の將の李巌を澶州刺史とする。
晉王勞軍於魏縣,因帥百餘騎循河而上,覘劉鄩營。會天陰晦,鄩伏兵五千於河曲叢林間,鼓噪而出,圍王數重。王躍馬大呼,帥騎馳突,所向披靡。裨將夏魯奇等操短兵力戰,自午至申乃得出,亡其七騎,魯奇手殺百餘人,傷夷遍體,
會李存審救兵至,乃得免。王顧謂從騎曰:「幾為虜嗤。」皆曰:「適足使敵人見大王之英武耳。」魯奇,青州人也,王以是益愛之,賜姓名曰李紹奇。晉王は魏県で軍をねぎらう。1百餘騎をひきい、河をめぐって遡る。晋王は、劉鄩の陣営をみる。たまたま天が陰晦となる。劉鄩は、兵5千を河曲の叢林のあいだに伏せる。鼓噪して、伏兵が出る。晋王を数重に囲む。晋王は躍馬・大呼して、帥騎・馳突する。晋王の進路は、梁兵が披靡する。裨將の夏魯奇らは、短兵を操って力戰する。午より申の刻で、晋王は包囲から出られた。晋王は7騎しか失わず、夏魯奇は手ずから1百余人を殺した。傷夷は体じゅう。
たまたま晋将の李存進が救いにきて、晋王は免れた。晋王は従騎にいう。「もう少しで虜に嗤われるところだ」と。
「もう少しで敵に笑われるところだ」は、後漢の光武帝のセリフ。915年、戦争を有利に運ぶ晋王の李存勗は、梁将の劉鄩の伏兵に包囲されて、ギリギリ逃れた。この光武帝のセリフを言った。帝王たるもの、歴代の帝王のセリフ集を暗記して、とっさに転用すべきだ。もし使用の場面がチグハグだと、いかに戦功を立てても、みっともない。従騎「敵に大王の英武を見せるには、充分な場面でした」と。夏魯奇は、青州の人。晋王はこの包囲の危機があって、ますます夏魯奇を愛した。李紹奇の姓名を賜った。夏魯奇=李紹奇。
7月、劉鄩が晋陽の奇襲を狙い、晋王が追う
劉鄩以晉兵盡在魏州,晉陽必虛,欲以奇計襲取之,乃潛引兵自黃澤西去。晉人怪鄩軍數日不出,寂無聲跡,遣騎覘之,城中無煙火,但時見旗幟循堞往來。晉王曰:「吾聞劉鄩用兵,一步百計,此必詐也。更使覘之,乃縛芻為人,執旗乘驢在城上耳。得城中老弱者詰之,雲軍去已二日矣。晉王曰:「劉鄩長於襲人,短於決戰,計彼行才及山下。」亟發騎兵追之。會陰雨積旬,黃澤道險,堇泥深尺餘,士卒援籐葛而進,皆腹疾足腫,或墜崖谷死者什二三。劉鄩は、すべての晉兵が魏州にいるので、首都の晋陽が空虚だと考え、奇計で晋陽を襲取したい。ひそかに黄澤から兵をひき、西に去らせる。晋人は、劉鄩が数日、兵を出さず、聲跡がないので、騎兵が観にゆく。城中は煙火なく、ただ旗幟だけがある。
晋王「劉鄩の用兵は、1歩に100計と聞く。これは必ず詐である」と。ふたたび晋王は偵察させた。城中で老弱な者をとらえ、詰問した。劉鄩の軍は、2日前に去ったという。晋王「劉鄩は奇襲に長じるが、決戰は短である。劉鄩は山の下(相州と魏州の西はみな山が連なる)に行ったぐらいだろう」と。晋王は騎兵で劉鄩を追う。陰雨が積旬。黃澤は道が険しい。泥が深いので、士卒は籐葛をたすけに進む。みな腹が疾み、足が腫れる。崖谷を落ちて死ぬ者が2-3割。
晉將李嗣恩倍道先入晉陽,城中知之,勒兵為備。鄩至樂平,糗糧且盡。又聞晉有備,追兵在後,眾懼,將潰。鄩諭之曰:「今去家千里,深入敵境,腹背有兵,山谷高深,如墜井中,去將何之!惟力戰庶幾可免,不則以死報君親耳。」眾泣而止。周德威聞鄩西上,自幽州引千騎救晉陽,至土門,鄩已整眾下山,自邢州陳宋口逾漳水而東,屯於宗城。鄩軍往還,馬死殆半。晉將の李嗣恩は、2倍の速度で、先に晉陽に入る。城中は(梁将の劉鄩の奇襲を)知り、勒兵して備える。
梁将の劉鄩は楽平に至り、糗糧は尽きそう。晋国が備えたと聞いた。晋軍に追われると聞き、梁軍は懼れて潰れそう。劉鄩「いま家から1千里を離れる。敵境に深入する。腹背に敵兵がいる。山谷は高深である。井中に墜ちたようなもの。力を尽くせば、生き残れるかも知れない」と。
梁軍の衆は泣き止む。周徳威は、劉鄩が西上すると聞き、幽州より1千騎をひき、晋陽を救う。土門に至る。
ぼくは思う。梁将の劉鄩による晋陽の奇襲は、バレバレになり、失敗した。劉鄩はすでに衆を整え、下山した。邢州の陳宋口より、漳水をこえて東して、宗城に屯する。劉鄩は往還した。梁軍の馬はほぼ半数が死んだ。
時晉軍乏食,鄩知臨清有蓄積,欲據之以絕晉糧道。德威急追鄩,再宿,至南宮,遣騎擒其斥候者數十人,斷腕而縱之,使言曰:「周侍中已據臨清矣!」鄩軍大駭。詰朝,德威略鄩營而過,入臨清,鄩引軍趨貝州。時晉王出師屯博州,劉鄩軍堂邑,周德威攻之,不克。翌日,鄩軍於莘縣,晉軍踵之,鄩治莘城,塹而守之,自莘及河築甬道以通饋餉。晉王營於莘西三十里,煙火相望,一日數戰。ときに晉軍は食糧が乏しい。劉鄩は、臨清に晋軍の蓄積があると知り、臨清をうばい、晋軍の糧道を絶ちたい。周徳威は、劉鄩を急追した。南宮に至る。騎兵が、劉鄩の斥候を数十人とらえる。周徳威は、梁軍の斥候の腕を断ち、解放して、「周侍中(周徳威)はすでに臨清に拠るぞ」と斥候に言わせた。
ぼくは補う。梁将の劉鄩の奇襲は、またしても失敗した。周徳威が、晋軍の兵糧をすでに守っているぞと。そう劉鄩に思い込ませた。
『考異』はこのときの異説を載せる。どうやら「すでに周徳威が臨清にいる」は誤りで、「周徳威が宗城にいる」が正しい。中華書局版8794頁。劉鄩の軍は大駭した。詰朝に、周徳威は、劉鄩の軍営を通過して、臨清に入る(晋軍の兵糧の守備をする)。劉鄩は引軍して、貝州に趨る。
ときに晋王は出師して、博州に屯する。劉鄩は堂邑に軍する。周徳威は劉鄩を攻めたが、克たず。翌日、劉鄩は莘県に軍する。晉軍はこれを踵う。
地理について、中華書局版8794頁。劉鄩は莘城を治し、塹して守る。莘県より黄河まで、甬道を築って、饋餉を通す。晉王は、莘県の西30里に営する。劉鄩と晋王は、たがいに煙火が望める。1日に數戰する。
◆晋王が、元行欽=李紹栄を愛し、高行周を愛する
晉王愛元行欽驍健,從代州刺史李嗣源求之,嗣源不得已獻之,以為散員都部署,賜姓名曰李紹榮。紹榮嘗力戰深入,劍中其面,未解,高行周救之得免。王復欲求行周,重於發言,密使人以官祿啖之。行周辭曰:「代州養壯士,亦為大王耳,行周事代州,亦猶事大王也。代州脫行周兄弟於死,行周不忍負之。」乃止。晉王は、元行欽の驍健ぶりを愛した。代州刺史の李嗣源に「元行欽をくれ」と求めた。李嗣源は、やむなく元行欽を献じた。元行欽を、散員都部署として、姓名を賜い「李紹栄」とする。
都部署の官名は、はじめて『通鑑』に見える。のちに行軍・総帥の称となる。『薛史』はいう。ときに散指揮がある。名を散員という。晋王は元行欽に命じて、都部署としたと。元行欽=李紹栄は、かつて力戰・深入して、剣が顔面にあたる。李紹栄は、高行周も近くに置きたい。ひそかに人をやり、官禄を増やすと行って、高行周を誘った。
高行周「代州が壯士を養うのは、大王のためだ。私は代州に仕える。これも大王のためだ。代州は、私の兄弟を死から脱がしてくれた。代州にそむく(晋王に直属する)のは忍びない」と。晋王は、高行周を諦めた。
8月、劉鄩が晋王の前で持久し、梁帝に責めらる
絳州刺史尹皓攻晉之隰州,八月,又攻慈州,皆不克。王檀與昭義留後賀瑰攻澶州,拔之,執李巖,送東都。帝以楊師厚故將楊延直為澶州刺史,使將兵萬人助劉鄩,且招誘魏人。
晉王遣李存審將兵五千擊貝州。張源德有卒三千,每夕分出剽掠,州民苦之,請塹其城以安耕耘。存審乃發八縣丁夫塹而圍之。絳州刺史の尹皓は、晋国の隰州を攻めた。8月、尹皓は慈州も攻めた。尹皓は、いずれも克たず。
王檀と、昭義留後の賀瑰は、澶州をぬいて、晋将の李巌を執らえ、東都に送る。
これより先、晋国は澶州を襲取し、李巌が守っていた。梁帝は、楊師厚の故將である楊延直を澶州刺史とする。楊延直に1万をつけ、劉鄩を救わせる。さらに楊延直は(もとは楊師厚が率いた)魏人を招誘した。
晋王は、李存審に5千で貝州を撃たせる。梁将の貝州刺史である張源德は卒3千をもち、夕分ごとに出て剽掠した。州民は、張源徳に苦しんだ。貝州の州民は、州城を塹して、耕耘を安じてくれと請うた。晋将の李存進は(貝州のもとの)8県の丁夫を発して、塹って州城を囲んだ。
8県の内訳は、中華書局版8795頁。
劉鄩在莘久,饋運不給,晉人數抵其寨下挑戰,鄩不出。晉人乃攻絕其甬道,以千餘斧斬寨木,梁人驚憂而出,因俘獲而還。劉鄩は久しく莘県にいる。饋運は給さず。晋人はしばしば劉鄩の寨下にあたり、挑戦した。劉鄩は出ず。晉人は攻めて、梁軍の甬道を絶った。1千餘の斧で、寨木を斬った。梁人は驚憂して出た。梁人を俘獲して還る。
帝以詔書讓鄩老師費糧,失亡多,不速戰。鄩奏稱:「臣比欲以奇兵搗其腹心,還取鎮、定,期以旬時再清河朔。無何天未厭亂,淫雨積旬,糧竭士病。又欲據臨清斷其饋餉,而周楊五奄至,馳突如神。臣今退保莘縣,享士訓兵以俟進取。觀其兵數甚多,便習騎射,誠為勍敵,未易輕也。苟有隙可乘,臣豈敢偷安養寇!」帝復問鄩決勝之策,鄩曰:「臣今無策,惟願人給十斛糧,賊可破矣。」帝怒,責鄩曰:「將軍蓄米,欲破賊邪,欲療饑邪?」乃遣中使往督戰。梁帝は詔書で、劉鄩が兵糧を消費して、晋王と速戦しないことを咎めた。劉鄩は奏した。「私は晋陽を奇襲し(て失敗し)た。還って鎮州と定州を取ろうとしたら、10日目に河朔が清んだ。天はいまだ乱に厭きない。淫らに長く雨を降らせ、食糧はつき、士卒は病む。私は臨清に拠って晋軍の饋餉を絶とうとしたが、周徳威が神のように馳突し(て失敗し)た。私はいま退いて、莘県に保する。士兵に享訓して、進取の時機をまつ。
ぼくは思う。劉鄩はひどい言い訳をしている。しかし、この言い訳は「梁軍ができうるベストを、私がやっている。いまの状況が、やむなくベストである。私が担当しなければ、もっと梁軍は圧倒された」である。初代の梁帝・朱晃が死んでいる。これくらいのハンデは、あるかも。ただし晋王も、李克用につづく2代目の李存勗である。2代の梁帝は中央に留まり、2代の晋王は前線にくる。草創期は、君主の器量が、差異を生むのか。晋兵は人数がおおいが、騎射がうまく、脅威が軽くならない。もし梁軍がスキをつくれば、晋軍に漬けこまれる」と。
梁帝はふたたび劉鄩に、決勝之策を問う。劉鄩「いま私は無策だ。だが1人あたり10斛の食糧をくれ。晋兵を破ることができる」と。梁帝は怒り、劉鄩を責めた。「將軍は蓄米して、破賊するか。飢えを療すだけだろ」と。中使をゆかせ、劉鄩を督戰させた。
胡三省はいう。劉鄩は持久して晋国を制したい。
ぼくは思う。おもしろい!この梁帝の脱力がおもしろい。
鄩集諸將問曰:「主上深居禁中,不知軍旅,徒與少年新進輩謀之。夫兵在臨機制變,不可預度。今敵尚強,與戰必不利,奈何?」諸將皆曰:勝負須一決,曠日何待!」鄩默然,不悅。退謂所親曰:「主暗臣諛,將驕卒惰,吾未知死所矣!」
他日,復集諸將於軍門,人置河水一器於前,令飲之,眾莫之測。鄩諭之曰:「一器猶難,滔滔之河,可勝盡乎!」眾失色。後數日,鄩將萬餘人薄鎮、定營,鎮、定人驚擾。晉李存審以騎兵二千橫擊之,李建及以銀槍千人助之,鄩大敗,奔還。晉人逐之,及寨下,俘斬千計。劉鄩は諸将を集めて問う。「主上=梁帝は禁中に深居して、軍旅を知らない。ただ幼い新進のやつらと謀るだけ。兵法は、機に臨み、変を制するもの。予め度せない。いま晋兵は強く、戦えば必ず不利だが、どうしよう」と。
諸將「勝負は一度で決めるもの。じっくり待て」と。劉鄩は黙って同意し、悦ばず。
ぼくは思う。このあたりは、楽しい読み物なのだ。結果を知らないのだが、これで梁将の劉鄩が勝ったら、かなりスゴい。どうなるんだろう。劉鄩は退きつつ、親しむ者にいう。「梁国において、主は暗で、臣は諛う。將は驕り、卒は惰だ。私は死ぬべき所が分からん」と。
胡三省はいう。劉鄩は、敵を量り、勝を慮る。いまだ計を失わず。だが、ひじを押さえられたら(身体を動かせないように)劉鄩は、本来の計画を遂行できない。他日、ふたたび劉鄩は諸将を軍門に集めた。河水を1杯ずつ、前に置いて飲ませた。諸将は、みな意味が分からない。劉鄩は諸将に諭した。「1杯の河水でも、なお飲むのが難しい。まして滔滔たる河を、飲みつくすのは難しい」と。諸将は、みな失色した。
数日のち、劉鄩は1万余人をひきい、鎮州と定州の軍営を薄くする。鎮州と定州の人は、驚擾した。晋将の李存審は、騎兵2千で、2州を横撃した。李建及および銀槍1千人が、李存審を助けた。劉鄩は大敗して、奔還した。晋人はこれを逐い、寨下で1千を俘斬する。
胡三省はいう。劉鄩は、鎮州と定州の不備を、掩い隠したかった。だが、晋兵に不備がバレてしまい、大敗した。劉鄩の計は窮まった。
ぼくは思う。なんじゃそら。劉鄩、ここまで引っ張ったから、がんばれよ。2013年の夏休みは、いまここで終わろうとしている。劉鄩が、驚かしてくれなくて、どうするのだ。
◆その他の9月の記事
劉巖逆婦於楚,楚王殷遣永順節度使存送之。
乙未,蜀主以兼中書令王宗綰為北路行營都制置使,兼中書令王宗播為招討使,攻秦州;兼中書令王宗瑤為東北面招討使,同平章事王宗翰為副使,攻鳳州。劉巌は、婦を楚国に逆す。楚王の馬殷は、永順節度使の存を送る。
9月乙未、蜀主は、兼中書令の王宗綰を、北路行營都制置使とする。兼中書令の王宗播を、招討使とする。王宗綰と王宗播が、秦州を攻める。兼中書令の王宗瑤を、東北面招討使とする。同平章事の王宗翰を副使とする。王宗瑤と王宗翰が、鳳州を攻める。
秦州と鳳州は、ときに岐州に属している。
ぼくは思う。前蜀はすごい勢いで領土を拡大している。しかし、岐国も前蜀も、晋王の李存勗に滅ぼされるのだ。すごいネタバレ。
庚戌,吳以鎮海節度使徐溫為管內水陸馬步諸軍都指揮使、兩浙都招討使、守侍中、齊國公,鎮潤州,以升、潤、常、宣、歙、池六州為巡屬,軍國庶務參決如故;留徐知訓居廣陵秉政。9月庚戌、呉国の鎮海節度使の徐温は、管內水陸馬步諸軍都指揮使、兩浙都招討使、守侍中、齊國公となり、潤州に鎮する升、潤、常、宣、歙、池六州を巡屬する。軍國庶務參決は、もとのまま。
史家はいう。徐温は外では重鎮に拠る。内では呉国の権を制する。徐知訓を留めて、徐温は広陵で秉政する。
胡三省はいう。これが徐知訓の死を速めた。
初,帝為均王,娶河陽節度使張歸霸女為妃,即位,欲立為後。後以帝未南郊,固辭。九月,壬午,妃疾甚,冊為德妃,是夕,卒。はじめ梁帝が均王のとき、河陽節度使の張歸霸の娘を、妃とした。皇帝に即位し、皇后に立てたい。張妃は、まだ梁帝が南郊していないから、皇后を固辞した。9月壬午、張妃は疾甚となる。冊して德妃となる。その夕に卒した。
胡三省はいう。古人の相伝によると。郊して上帝にまみえ、しかるのちに、天子の民に代わる。ぼくは思う。いい記事!
ぼくはいう。南郊をしなければ、正式な皇帝じゃない。皇后を立てる権利もない。915年、後梁の皇帝・朱友貞の妻・張妃が死んだ。皇后になれと勧められていたが、「まだ皇帝が南郊していないから」と先送りしていた。南郊は皇帝の必須要件だという見方ができてる。
冬10月、梁帝が、趙巌と外戚の張氏を重用
康王友敬,目重瞳子,自謂當為天子,遂謀作亂。冬,十月,辛亥夜,德妃將出葬,友敬使腹心數人匿於寢殿。帝覺之,跣足逾垣而出,召宿衛兵索殿中,得而手刃之。壬子,捕友敬,誅之。帝由是疏忌宗室,專任趙巖及德妃兄弟漢鼎、漢傑、從兄弟漢倫、漢融,鹹居近職,參預謀議,每出兵必使之監護。康王の朱友敬は、目の瞳子が重なる。みずから「(身体的特徴にある私が)天子になるべき」という。ついに朱友敬は、作乱した。
冬10月辛亥の夜、徳妃が出葬するとき、朱友敬は(梁帝を暗殺するため)腹心の數人を寢殿にかくす。梁帝はそれを覚り、跣足で垣をこえて出る。宿衛の兵を召して(朱友敬の腹心を)殿中で索す。つかまえて、梁帝が手ずから刃で斬る。10月壬子、朱友敬を捕えて誅した。
これにより梁帝は、宗室を疏忌した。もっぱら梁帝は、趙巌と、德妃の兄弟の張漢鼎、張漢傑、徳妃の從兄弟の張漢倫、張漢融を親任して、そばにおき、謀議に參預させる。出兵のたびに、必ず彼らに監護させる。
巖等依勢弄權,賣官鬻獄,離間舊將相,敬翔、李振雖為執政,所言多不用。振每稱疾不預事,以避趙、張之族,政事日紊,以至於亡。劉鄩遣卒詐降於晉,謀賂膳夫以毒晉王。事洩,晉王殺之,並其黨五人。趙巌らは、依勢・弄權する。賣官・鬻獄する。旧將相を離間する。旧臣の敬翔や李振は、執政するが、発言は採用されない。李振は、稱疾して預事せず、趙氏と張氏を避けた。政事は日に日に紊れ、亡ぶに至る。
史家はいう。後梁が自滅した。晋王が滅ぼしたのでない。
ぼくは思う。この史家の歴史観に信憑性を持たせるために、おおくの印象操作が行われているような気がしてならない。まあ、おいおい「唐室バンザイ」史観を検証してゆかねば。晋王が唐室を復興するあたりで、いろいろ明らかになろう。劉鄩は卒をやり、詐って晋王に降る。膳を贈って、晋王を毒殺する計画である。ことが洩れ、晋王は劉鄩の使者の卒を殺した。その党5人も殺した。
11月、秦州と劉知俊が前蜀に降る
十一月,己未夜,蜀宮火。自得成都以來,寶貨貯於百尺樓,悉為煨燼。諸軍都指揮使兼中書令宗侃等帥衛兵欲入救火,蜀主閉門不內。庚申旦,火猶未熄,蜀主出義興門見群臣,命有司聚太廟神主,分巡都城,言畢,復入宮閉門。將相皆獻帷幕飲食。
壬戌,蜀大赦。乙丑,改元。11月己未の夜、蜀宮で出火。蜀主の王建が成都を得て以来、宝貨は百尺樓に貯めるが、すべて煨燼となる。諸軍都指揮使・兼中書令の王宗侃らは、衛兵をひきいて入って救いたいが、蜀主は閉門して内に入らず。庚申の旦、火は熄まず。蜀主は義興門にでて群臣にあう。有司に命じて、太廟の神主を集めさせ、分けて都城を巡らせた。蜀主は言い終わり、また入宮・閉門した。將相はみな、帷幕の飲食を献じた。
胡三省はいう。蜀主が閉門したのは、消火に乗じて、変事(暗殺)が起きるのを警戒したからだ。史家は、蜀主が疑いぶかいという。11月壬戌、前蜀で大赦あり。乙丑、後梁で(貞明と)改元した。
己巳,蜀王宗翰引兵出青泥嶺,克固鎮,與秦州將郭守謙戰於泥陽川。蜀兵敗,退保鹿台山。辛未,王宗綰等敗秦州兵於金沙谷,擒其將李彥巢等,乘勝趣秦州。興州刺史王宗鐸克階州,降其刺史李彥安。甲戌,王宗綰克成州,擒其刺史李彥德。蜀軍至上染坊,秦州節度使李繼崇遣其子彥秀奉牌印迎降。宗絳入秦州,表排陳使王宗儔為留後。劉知俊攻霍彥威於邠州,半歲不克,聞秦州降蜀,知俊妻子皆遷成都。知俊解圍還鳳翔,終懼及禍,夜帥親兵七十人,斬關而出,庚辰,奔於蜀軍。王宗綰自河池、兩當進兵,會王宗瑤攻鳳州,癸未,克之。11月己巳、前蜀の王宗翰は、引兵して青泥嶺を出る。固鎮(鳳州の河池県)に克つ。王宗翰は、秦州將の郭守謙と、泥陽川(成州の栗亭県)で戦う。蜀兵は敗れ、退いて鹿台山に保する。辛未、王宗綰らは、秦州兵を金沙谷でやぶり、秦州将の李彦素らをとらえる。乗勝して秦州にゆく。興州刺史の王宗鐸は、階州に克つ。階州刺史の李彦安をくだす。
ぼくは思う。前蜀は、火事で財産をほぼ失ったわりに、まだ進攻が止まらない。このまま前蜀が、領域を拡大してしまいそう。梁国と晋国を除けば、呉越と呉国に比べても、前蜀は記述がおおい。11月甲戌、王宗綰は成州に克ち、成州刺史の李彦徳をとらえる。蜀軍は上染坊にいたる。秦州節度使の李継崇は、子の李彦秀に、牌を奉らせて迎降する。王宗絳が秦州に入ると、表して排陳使の王宗儔を留後とする。
劉知俊は霍彦威を邠州に攻めるが、半年しても克てず。
この年の5月、劉知俊は邠州を攻めた。秦州が前蜀に降ったと聞き、劉知俊の妻子は、みな成都に遷される。劉知俊は鳳翔の包囲をといて還る。禍いを懼れ、拠るに親兵70人をひきい、斬関して出る。11月庚辰、劉知俊は蜀軍に奔る。
劉知俊が前蜀に殺される張本である。王宗綰は河池と兩當から進兵する。たまたま王宗瑤が鳳州を攻める。癸未、王宗瑤が克つ。
胡三省はいう。前蜀はついに、秦州、鳳州、成州の3州を領有した。地理について、中華書局版8798頁。前蜀の版図を地図におとそう。
12月、岐将の李彦韜が2州をもち、後梁に降る
岐義勝節度使、同平章事李彥韜知岐王衰弱,十二月,舉耀、鼎二州來降。彥韜即溫韜也。乙未,詔改耀州為崇州,鼎州為裕州,義勝軍為靜勝軍,復彥韜姓溫氏,名昭圖,官任如故。
丁未,蜀大赦;改明年元曰通正。置武興軍於鳳州,割文、興二州隸之,以前利州團練使王宗魯為節度使。岐国の義勝節度使・同平章事の李彦韜は、岐王の衰弱を知る。12月、耀州と鼎州の2州をあげ、李彦韜は後梁に來降する。李彦韜とは、温韜である。
岐州は、義勝軍を置いて、温韜に授けた。乾化元年である。12月乙未、梁帝は詔して、耀州を崇州とし、鼎州を裕州とする。義勝軍を靜勝軍とする。李彦韜を「温昭圖」と改名させる。官任はもとのまま。
12月丁未、前蜀で大赦した。明年を通正元年とした。前蜀は、武興軍を鳳州におく。文州と興州を割いて、武興軍に属させる。前利州團練使の王宗魯を、武興軍の節度使とする。
是歲,清海、建武節度使兼中書令劉巖,以吳越王鏐為國王而己獨為南平王,表求封南越王及加都統,帝不許。巖謂僚屬曰:「今中國紛紛,孰為天子!安能梯航萬里,遠事偽庭乎!」自是貢使遂絕。この歲、清海・建武節度使・兼中書令の劉巌は、
ときに邕州を建武軍という。吳越王の銭鏐の官爵、国王のみとして、南平王とした。
南平王とは、郡王のランクである。劉巌は表して、劉巌を南越王に封じ、都統を加えろと求めた。梁帝は許さず。劉巌は僚属にいう。「いま中國は紛紛とする。だれが天子となるか。よく萬里を梯航し、遠事は庭を偽るか」と。これより貢使はついに絶えた。130819
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- 916年、梁将が晋陽を狙い、前蜀が隴州を得る
均王上貞明二年(丙子,公元九一六年)
正月、儒者の李愚は、梁帝の兄に屈さない
春,正月,宣武節度使、守中書令、廣德靖王全昱卒。帝聞前河南府參軍李愚學行,召為左拾遺,充崇政院直學士。衡王友諒貴重,李振等見,皆拜之愚獨長揖,帝聞而讓之,曰:「衡王於朕,兄也,朕猶拜之,卿長揖,可乎?」對曰:「陛下以家人禮見衡王,拜之宜也。振等陛下家臣。臣於王無素,不敢妄有所屈。」久之,竟以抗直罷為鄧州觀察判官。春正月、宣武節度使・守中書令する廣德靖王の朱全昱が卒した。
広は国名で、德靖は諡である。梁帝の伯父である。梁帝は、前河南府參軍の李愚の学行を聞いて、召して左拾遺・充崇政院直學士とする。衡王の朱友諒は貴重であり、李振らは、みな朱友諒に拜する。李愚だけが、朱友諒に長揖するだけ。梁帝が李愚を責めた。梁帝「衡王は私の兄だ。私ですら兄に拜する。李愚は長揖で良いのか」と。李愚「陛下は、家人の礼で(弟として)衡王の朱友諒に拝する。李振らは陛下の家の臣だから、朱友諒に拝する。私は朱友諒との関係に”素”がない。
胡三省はいう。先に過従する雅がないという。だから妄りに朱友諒に屈さない」と。久しくして、ついに抗直な性格なので、李愚は罷かり、鄧州觀察判官となる。
蜀主以李繼崇為武泰節度使、兼中書令、隴西王。蜀主は、李継崇を武泰節度使・兼中書令とし、隴西王とする。
2月、劉鄩が、晋王と李存審に挟まれる
二月,辛丑夜,吳宿衛將馬謙、李球劫吳王登樓,發庫兵討徐知訓。知訓將出走,嚴可求曰:「軍城有變,公先棄眾自去,眾將何依!」知訓乃止。眾猶疑懼,可求闔戶而寢,鼾息聞於外,府中稍安。壬寅,謙等陳於天興門外,諸道副都統硃瑾自潤州至,視之,曰:「不足畏也。」返顧外眾,舉手大呼,亂兵皆潰,擒謙、球,斬之。2月辛丑の夜、呉国の宿衛將の馬謙と李球は、呉王を劫して登樓させる。庫兵を発して、徐知訓を討つ。徐知訓が逃げだそうとすると、厳可求がいう。「軍城に異変があれば、あなたは先に軍衆を棄てて自去する。これでは軍衆に頼られない」と。徐知訓は逃げるのを止めた。
軍衆はなお疑懼するが、厳可求は闔戶して寢る。厳可求の鼾息は外に聞こえる。府中は稍く安じた。2月壬寅、馬謙らは、天興の門外に陣した。
楊行密は揚州の牙城の南門を「天興門」と名づけた。諸道副都統の朱瑾は、(徐温のいる)潤州から至り、馬謙らを視て、「畏れるに足らず」という。外衆を返顧して、手をあげて大呼した。乱兵はみな潰えた。馬謙と李球を擒えて斬った。
史家はいう。呉兵は、朱瑾に畏服した。
帝屢趣劉鄩戰,鄩閉壁不出。晉王乃留副總管李存審守營,自勞軍於貝州,聲言歸晉陽。鄩聞之,奏請襲魏州。帝報曰:「今掃境內以屬將軍,社稷存亡,系茲一舉,將軍勉之!」鄩令澶州刺史楊延直引兵萬人會於魏州,延直夜半至城南,城中選壯士五百潛出擊之,延直不為備,潰亂而走。詰旦,鄩自莘縣悉眾至城東,與延直餘眾合,李存審引營中兵踵其後,李嗣源以城中兵出戰,晉王亦自貝州至,與嗣源當其前。しばしば梁帝は、劉鄩に戦えと促した。劉鄩は、閉壁して出ず。
晉王は、副總管の李存審を留めて守営させ(莘西の営を守らせ)みずから貝州で軍をねぎらう。「晋陽に帰る」と声をあげた。劉鄩はこれを聞き、奏して「魏州を襲いたい」という。
梁帝は劉鄩にいう。「いま梁国の領内の兵をすべて劉鄩に属させた。社稷の存亡は、この一挙による。がんばれ」と。劉鄩は、澶州刺史の楊延直に1万を引兵させ、(晋軍が守る)魏州であわさる。楊延直は、夜半に魏州の城南に至る。城中では、晋将が壯士500を選び、ひそかに出撃させる。楊延直は備えがなく、潰乱してにげた。詰旦、劉鄩は莘県の全軍を、魏州の城東に至らせる。劉鄩は、楊延直の余衆をあわせる。
晋将の李存審は、営中の兵をひき、劉鄩のあとを追う。李嗣源は、城中の兵を出して戦う。晋王も貝州に至り、李嗣源とともに、梁軍の前面にあたる。
鄩見之,驚曰:「晉王邪!」引兵稍卻,晉王躡之,至故元城西,與李存審遇。晉王為方陳於西北,存審為方陳於東南,鄩為圓陳於其中間,四面受敵。合戰良久,梁兵大敗,鄩引數十騎突圍走。梁步卒凡七萬,晉兵環而擊之,敗卒登木,木枝為之折,追至河上,殺溺殆盡。鄩收散卒自黎陽渡河,保滑州。劉鄩は晋王を見て、驚いた。「晉王や」と。引兵して稍卻する。晋王は追う。故元城の西で、晋王は、晋将の李存審とあう。
元城について、地理が中華書局版8800頁。晉王は、北西に方陣をしく。李存審は、東南に方陣をしく。劉鄩は、晋王を李存審のあいだで、円陣をしく。劉鄩は四面に敵を受ける。劉鄩の梁兵は大敗して、劉鄩は数十騎で包囲を突破する。梁兵の歩卒は7万いたがが、晋兵はこれを環んで擊つ。梁軍の敗卒は木に登り、木の枝が折れて、河上に至る。ほぼ全ての梁兵が、殺され溺れた。劉鄩は、散卒をおさめ、黎陽から渡河して、滑州を保する。
2月、梁将の王檀が、晋陽を4たび陥としそう
匡國節度使王檀密疏請發關西兵襲晉陽,帝從之,發河中、陝、同華諸鎮兵合三萬,出陰地關,奄至晉陽城下,晝夜急攻。城中無備,發諸司丁匠及驅市人乘城拒守,城幾陷者數四,張承業大懼。梁国の匡國節度使の王檀は、ひそかに疏して「関西の兵を発して、晋陽を襲いたい」という。
去年5月、王檀が牛存節に代わって、河上に屯した。梁帝が従う。河中、陝州、同華の諸鎮の兵3万を発して、陰地關を出る。晉陽の城下をおさえて、昼夜とも急攻する。城中は無備である。晋陽では、諸司・丁匠を発し、市人を駆りだし、乘城・拒守する。晋陽は4たび陥落しそう。張承業は大懼した。
代北故將安金全退居太原,往見承業曰:「晉陽根本之地,若失之,則大事去矣。僕雖老病,憂兼家國,請以庫甲見授,為公擊之。」承業即與之。金全帥其子弟及退將之家得數百人,夜出北門,擊梁兵於羊馬城內。梁兵大驚,引卻。代北故將の安金全は、太原に退居している。
安金全は、晋王の李克用に従い、代北で起兵した。ゆえに「故将」という。安金全は晋陽にきて、張承業にいう。「晉陽は、晋国の根本之地である。もし晋陽を失えば、大事は去る。私は老病するが、家も国も憂う。
晋陽がもし陥落したら、国が敗れて、家も亡ぶというのだ。庫甲を授けてくれ。張承業のために(晋陽を守って)梁兵を撃つ」と。張承業はすぐに、安金全に兵器を与えた。
安金全は、子弟および退將の家属をひきい、数百人をえる。夜に北門を出て、梁兵を羊馬城の内で撃つ。梁兵じゃ大驚して、引卻する。
昭義節度使李嗣昭聞晉陽有寇,遣牙將石君立將五百騎救之。君立朝發上黨,夕至晉陽。梁兵扼汾河橋,君立擊破之,逕至城下大呼曰:「昭義侍中大軍至矣。」遂入城。夜,與安金全等分出諸門擊梁兵,梁兵死傷什二三。詰朝,王檀引兵大掠而還。
晉王性矜伐,以策非己出,故金全等賞皆不行。昭義節度使の李嗣昭は、晋陽が寇されると聞き、牙將の石君立に5百騎をつけて、晋陽を救わせる。石君立は、朝に上黨を発して、夕に晉陽に至る。
上党から晋陽までは5百余里ある。速い!梁兵は汾河橋を扼する。石君立は、梁兵を撃破して、晋陽の城下に至って大呼した。「昭義侍中(李嗣昭)の大軍が至った」と。ついに石君立は、晋陽に入城した。安金全らとともに、諸門を出て梁兵を撃つ。梁兵は、2-3割が死傷した。詰朝、梁兵の王檀は(晋陽を諦めて)引兵・大掠して還る。
晉王の性質は、矜伐である。自分が出した策でなければ、実行しても賞さない。ゆえに安金全らは、賞されない。
『虞書』に照らせば、晋王は、功績ある者を賞さないから、天下を取れず、天下を守れなかったのだ。中華書局版8801頁。『虞書』に戻ってよく読みましょう。
梁兵之在晉陽城下也,大同節度使賀德倫部兵多逃入梁軍,張承業恐其為變,收德倫,斬之。
帝聞劉鄩敗,又聞王檀無功,歎曰:「吾事去矣!」梁兵が晋陽の城下にいるとき、大同節度使の賀德倫の部兵は、おおくが逃げて、梁軍に入る。張承業は、変事をなすのを恐れた。張承業は、賀徳倫を斬った。
胡三省はいう。張承業の権略は、烏?は宦者をもってこれに待すべき。梁帝は、劉鄩が敗れると聞いて、また王檀も無功(晋陽が陥ちない)と聞いて、歎じた。「わが事(梁国の天下)は去れり」と。
3月、晋王が、衛州と恵州をおとす
三月,乙卯朔,晉王攻衛州,壬戌,刺史米昭降之。又攻惠州,刺史靳紹走,擒斬之,復以惠州為磁州。晉王還魏州。
上屢召劉鄩不至,己巳,即以鄩為宣義節度使,使將兵屯黎陽。3月乙卯ついたち、晉王は衛州を攻める。壬戌、刺史の米昭が晋王に降る。また晋王は恵州を攻め、刺史の靳紹を斬る。恵州を磁州とした。
唐代の天雄3年、「磁」と「慈」がちかいから、磁州を「恵」州に改めた。これは朱晃のしわざ。晋王が取り返したので、朱氏による改変をリセットした。晋王は魏州に還る。
梁帝は、しばしば劉鄩を召すが、劉鄩はこない。
胡三省はいう。劉鄩はすでに師を失う。罪を懼れて、入朝しない。梁帝は、3月己巳、劉鄩を宣義節度使として、黎陽に屯させる。
夏4月、大梁で兵乱し、杜晏球が平定する
夏,四月,晉人拔洺州,以魏州都巡檢使袁建豐為洺州刺史。夏4月、晋人は洺州をぬく。魏州都巡檢使の袁建豊を、洺州刺史とする。
劉鄩既敗,河南大恐,鄩復不應召,由是將卒皆搖心。帝遣捉生都指揮使李霸帥所部千人戍楊劉,癸卯,出宋門,其夕,復自水門入,大噪。縱火剽掠,攻建國門,帝登樓拒戰。龍驤四軍都指揮使杜晏球以五百騎屯球場,賊以油沃幕,長木揭之,欲焚樓,勢甚危。劉鄩はすでに敗れ、河南は大恐する。ふたたび劉鄩は、梁帝の召に応じない。將卒はみな搖心した。梁帝は、捉生都指揮使の李霸帥に、1千人で楊劉を戍させる。
4月癸卯、李霸帥は(大梁の)宋門を出て、夕に水門から入る。大噪して、火をつけ剽掠した。建國門を攻めた。梁帝は登樓して拒戰する。龍驤四軍都指揮使の杜晏球は、5百騎で毬場に屯する。
戦場となった大梁のなかの門や宮殿の名は、中華書局版8802頁。ぼくは思う。大梁のおひざもとが、兵乱に見まわれている。劉鄩が晋王に敗れてから、梁帝はもうダメなのか。でもまだ、『通鑑』中華書局版で75頁も、梁紀がある。どうなるか、いまぼくは分かっていない。
『欧史』はいう。杜晏球は、もとは洛陽の王氏の子。汴州の富人である杜氏の養子になった。のちに大唐に帰して、「李紹虔」という姓名をもらう。のちに本姓にもどり、王晏球ともいう。賊は、油で沃幕する。長木を掲げる。樓を焚きそう。兵勢は、甚危である。
晏球於門隙窺之,見賊無甲冑,乃出騎擊之,決力死戰,俄而賊潰走。帝見騎兵擊賊,呼曰:「非吾龍驤之士乎,誰為亂首?」晏球曰:「亂者惟李霸一都,餘軍不動。陛下但帥控鶴守宮城,遲明,臣必破之。」既而晏球討亂者,闔營皆族之,以功除單州刺史。杜晏球は、門隙で戦況を窺う。賊が甲冑をつけないのを見て、騎して擊う。決力・死戰する。にわかに賊が潰走した。梁帝は、騎兵が賊を撃つのを見て、「(賊を撃つのは)わが龍驤の士ではないのか。だれが乱を首謀するか」という。
杜晏球「乱を起こしたのは李覇の一都だけ。余軍は動かず。陛下は、ただ控鶴を帥いて、宮城を守せよ。遅明には、必ず私が破る」と。杜晏球は、乱を起こした者を討ち、闔營して族殺する。この功績で、杜晏球は單州刺史となる。
唐末に朱晃は、碭山で生まれた。単州(ぜんしゅう)を、輝州と改めた。このとき、また単州にもどしている。
夏、銭鏐が遠路より、後梁に使者する
五月,吳越王鏐遣浙西安撫判官皮光業自建、汀、虔、郴、潭、岳、荊南道入貢。光業,日休之子也。
六月,晉人攻邢州,保義節度使閻寶拒守。帝遣捉生都指揮使張溫將兵五百救之,溫以其眾降晉。5月、吳越王の銭鏐は、浙西安撫判官の皮光業をつかわし、建、汀、虔、郴、潭、岳、荊南道より、後梁に入貢した。皮光業は、皮日休の子である。
通ってきた路について、中華書局版8803頁。
皮日休は、大唐の僖宗の広明元年にある。
6月、晉人は邢州を攻める。保義節度使の閻宝が晋人を拒守する。梁帝は、捉生都指揮使の張温に5千をつけ、閻宝を救わせる。徐温は、5百の衆をもって晋人にくだった。
ぼくは思う。張温は、なぜ優勢なはずなのに、晋人に降っちゃうの?
秋7月、銭鏐の貢献は、交易の利益が目的
秋,七月,甲寅朔,晉王至魏州。
上嘉吳越王鏐貢獻之勤,壬戌,加鏐諸道兵馬元帥。朝議多言鏐之入貢,利於市易,不宜過以名器假之。翰林學士竇夢征執麻以泣,坐貶蓬萊尉。夢征,棣州人也。秋7月甲寅ついたち、晉王は魏州に至る。
梁帝は、吳越王の銭鏐による貢獻之勤を嘉する。7月壬戌、銭鏐に、諸道兵馬元帥を加える。朝議のおおくは「銭鏐の入貢は、市易で利するのが目的だ。銭鏐には、過度な名声と器量を仮してやるな」という。
胡三省はいう。「市易」とは、自分が持つものを、自分が持たないものと交換すること。ぼくは思う。市場取引である。これが、誤用されがちな「朝貢貿易」という語の、ウソから出たマコトである。翰林學士の竇夢徴は、麻を執りて泣き、坐して蓬萊(蓬莱は漢代の黄県)尉に貶された。竇夢徴は、棣州の人である。
甲子,吳潤州牙將周郊作亂,入府,殺大將秦師權等,大將陳祐等討斬之。7月甲子、呉国の潤州牙將の周郊が作乱して、呉国に入府した。大將の秦師權らを殺す。大將の陳祐らが、周郊を斬った。
8月、前蜀が2路で岐国を伐ち、
八月,丁酉,以太子太保致仕趙光逢為司空兼門下侍郎、同平章事。
丙午,蜀主以王宗綰為東北面都招討,集王宗翰、嘉王宗壽為第一、第二招討,將兵十萬出鳳州;以王宗播為西北面都招討,武信軍節度使劉知俊、天雄節度使王宗儔、匡國軍使唐文裔為第一、第二、第三招討,將兵十二萬出秦州,以伐岐。8月丁酉、太子太保・致仕の趙光逢を、司空兼門下侍郎・同平章事とする。
丙午、蜀主は、王宗綰を東北面都招討とする。集王の王宗翰と、嘉王の王宗壽を、第一、第二招討とする。10万で鳳州に出る。王宗播を西北面都招討とする。武信軍節度使の劉知俊と、天雄節度使の王宗儔と、
前蜀の天雄節度使は、秦州に鎮する。匡國軍使の唐文裔を、第一、第二、第三招討とする。12万で秦州に出る。いずれも岐州を伐つ。
鳳州に出る兵は、宝鶏をめざして、鳳翔を攻める。秦州にでる兵は、隴州をめざす。
晉王自將攻邢州,昭德節度使張筠棄相州走。晉人復以相州隸天雄軍,以李嗣源為刺史。晉王遣人告閻寶以相州已拔,又遣張溫帥援兵至城下諭之,寶舉城降。晉王以寶為東南面招討使,領天平節度使、同平章事;以李存審為安國節度使,鎮邢州。晉王は、みずから兵をひきい、邢州を攻める。昭德節度使の張筠は、相州を棄てて走げる。晉人は、相州を天雄軍に属させ、李嗣源を相州刺史とする。
『考異』が中華書局版8804頁にある。袁建豊が相州刺史とか。晉王は、人をやり、邢州を守る梁将の閻宝に「すでに相州をぬいた」と告げる。張温は援兵をひきい、城下で閻宝に諭す。閻宝は邢州の城をあげて、晋王に降る。
胡三省はいう。相州がすでに晋王に抜かれたと言えば、閻宝は邢州が孤立すると気づく。閻宝を救いにきたはずの張温が晋王に降り、閻宝に降伏を説けば、閻宝は、梁国の援軍の望みが絶えたことを知る。晉王は、閻宝を東南面招討使・領天平節度使・同平章事とする。
天平は、ときに梁国に属す。晋王が閻宝を任じたのは遙領である。李存審を、安國節度使・鎮邢州とする。
邢州とは、梁国の保義軍があった。すでに晋国が入手したので、安国軍と改称したのだ。『考異』は、軍名の異同をいう。中華書局版8805頁。
契丹王阿保機帥諸部兵三十萬,號百萬,自麟、勝攻晉蔚州,陷之,虜振武節度使李嗣本。遣使以木書求貨於大同防禦使李存璋,存璋斬其使。契丹進攻雲州,存璋悉力拒之。契丹王の阿保機は、30万をひきいる。麟州と勝州から、晋国の蔚州を攻めおとす。阿保機は、振武節度使の李嗣本を虜とする。
地名についての疑義と異同。中華書局版8805頁。阿保機は、使者に木書を持たせ、財貨を大同防禦使の李存璋に要求した。李存璋は、阿保機の使者を斬った。契丹は雲州に進攻した。李存璋は、力をつくして、阿保機を拒む。
霊州には、大同軍がある。
9月、晋王が、滄州と貝州を獲得する
九月,晉王還晉陽。王性仁孝,故雖經營河北,而數還晉陽省曹夫人,歲再三焉。9月、晋王は晋陽に還る。晋王の性質は仁孝である。河北を経営するが、しばしば晋陽に還って、生母の曹夫人に会う。1年に再三である。
晋王は生母を重んじる。嫡母(生母でない、李克用の正妻)を軽んじる。生母を太后といい、嫡母を太妃という。称号が転倒している。みな、生母を重んじる心から出たことである。
晉人以兵逼滄州,順化節度使戴思遠棄城奔東都。滄州將毛璋據城降晉,晉王命李嗣源將兵鎮撫之,嗣源遣璋詣晉陽。晉王徙李存審為橫海節度使,鎮滄州,以嗣源為安國節度使。嗣源以安重誨為中門使,委以心腹,重誨亦為嗣源盡力。重誨,應州胡人也。晉兵は、滄州に逼る。順化節度使の戴思遠は、棄城して東都に奔る。
河朔はすべて晋国に帰した。滄州は孤絶する。戴思遠は、滄州を守れなかった。滄州の將の毛璋は、滄州の城に拠って晋王に降る。晉王は李嗣源に命じて、滄州を鎮撫させた。李嗣源は、使者をやり、毛璋を晉陽にゆかせる。晋王は、李存審を徙して、橫海節度使として滄州に鎮させる。
滄州はこれより晋国に属する。ふたたび改称して、順化を横海とした。李嗣源を、安國節度使とする。李嗣源は、安重誨を中門使として、心腹を委ねる。
晋王の封内では、すべて節鎮には中門使がいる。その任務は、天朝(中央)の枢密使と同じである。安重誨もまた、李嗣源のために盡力する。安重誨は、應州の胡人である。
安重誨が、李嗣源を佐命する張本である。『薛史』によると安重誨は、北部の酋豪である。父は河東の将となり、兗州とコン州を救った。
晉王自將兵救雲州,行至代州,契丹聞之,引去,王亦還。以李存璋為大同節度使。
晉王は、みずから兵をひきい(阿保機から)雲州を救う。代州に至る。契丹はこれを聞き、引去する。晋王も還る。李存璋を、大同節度使とする。
晉人圍貝州逾年,張源德聞河北諸州皆為晉有,欲降,謀於其眾。眾以窮而後降,恐不免死,不從。共殺源德,嬰城固守。城中食盡,啖人為糧,乃謂晉將曰:「出降懼死,請擐甲執兵而降,事定而釋之。」晉將許之,其眾三千出降,既釋甲,圍而殺之,盡殪。晉王以毛璋為貝州刺使。於是河北皆入於晉,惟黎陽為梁守。晉王如魏州。晉人は(去年8月より)貝州を囲んで、年をまたぐ。張源德は、河北の諸州がみな晋王の領有と聞き、降りたい。張源徳が軍衆に謀る。軍衆は「窮まった後に降れば、死を免れない」といい、張源徳に従わない。ともに張源徳を殺して、嬰城・固守した。城中の食は盡きる。人を食べる。軍衆は晋将にいう。「出降したら死を懼れる。擐甲・執兵して降るから、貝州の制圧が完了したら、逃がしてくれ」と。晋将は許した。滄州の軍衆が3000で出降したら、晋将に殺された。
『考異』が異説を載せる。「死事伝」なんて列伝があるのね。中華書局版8806頁。晉王は、毛璋を貝州刺使とする。ここにおいて河北は、すべて晋国が領有する。ただ黎陽だけを、梁将の劉鄩が守る。晋王は、魏州にゆく。
吳光州將王言殺刺史載肇,吳王遣楚州團練使李厚討之。廬州觀察使張崇不俟命,引兵趣光州,言棄城走。以李厚權知光州。崇,慎縣人也。
庚申,蜀新宮成,在舊宮之北。
天平節度使兼中書令琅邪忠毅王王檀,多募群盜,置帳下為親兵。己卯,盜乘檀無備,突入府殺檀。節度副使裴彥帥府兵討誅之,軍府由是獲安。呉国の光州の將の王言は、刺史の載肇を殺した。吳王は、楚州團練使の李厚をつかわし、王言を討つ。廬州觀察使の張崇は、呉王の命を待たず、引兵して光州にゆく。王言は城を棄てて走げた。李厚は權知光州する。張崇は、慎県の人。
ぼくは思う。張崇をほめる、けなす、の処置がない。9月庚申、前蜀では、新宮が完成した。舊宮の北にある。
天平節度・使兼中書令する琅邪忠毅王の王檀は、群盜をつのり、帳下において親兵とする。9月己卯、群盗は、王檀の無備に乗じて、府に突入して王檀を殺した。節度副使の裴彥は、府兵をひきいて群盗を誅した。軍府は安定を得た。
冬10月、前蜀が岐州を破り、隴州を降す
冬,十月,甲申,蜀王宗綰等出大散關,大破岐兵,俘斬萬計,遂取寶雞。己丑,王宗播等出故關,至隴州。丙寅,保勝節度使兼侍中李繼岌畏岐王猜忌,帥其眾二萬,棄隴州奔於蜀軍。蜀兵進攻隴州,以繼岌為西北面行營第四招討。劉知俊會王宗綰等圍鳳翔,岐兵不出。會大雪,蜀主召軍還。復李繼岌姓名曰桑弘志。弘志,黎陽人也。冬10月甲申、前蜀の王宗綰らは、大散關を出て、岐兵を大破した。1万を俘斬する。ついに前蜀が宝鶏をとる。
ぼくは思う。宝鶏=陳倉だっけ。諸葛亮を越えたw己丑、王宗播らは(大震)故關を出て、隴州に至る。
丙寅、岐将の保勝節度使・兼侍中の李継岌は、岐王の猜忌を畏れ、2万をひきいて、隴州を棄てて蜀軍に奔る。蜀兵は隴州に進攻する。
岐国は、保勝軍を隴州においた。将の李継岌が降ってしまった。前蜀は、李継岌を西北面行營・第四招討とする。劉知俊は、王宗綰らにあわさり、鳳翔を囲む、岐兵は、鳳翔から出ない。たまたま大雪がふり、蜀主は召して軍を還す。李継岌を「桑弘志」と改名する。桑弘志は、黎陽の人。
11月、晋兵と呉兵が応じ、梁国の頴州を囲む
丁酉,以禮部侍郎鄭玨為中書侍郎、同平章事。玨,綮之侄孫也。
己亥,蜀大赦。11月丁酉、禮部侍郎の鄭玨を、中書侍郎・同平章事とする。鄭玨は、鄭綮の侄孫である。
鄭綮は、大唐の昭宗の乾寧元年にある。
『考異』が、この任命の時期をモメている。中華書局版8807頁。11月己亥、前蜀で大赦した。
晉王遣使如吳,會兵以擊梁。十一月,吳以行軍副使徐知訓為淮北行營都招討使,及硃瑾等將兵趣宋、亳與晉相應。即渡淮,移檄州縣,進圍穎州。晉王は使者を呉国にやる。兵をあつめて、梁国を撃つ。11月、呉国の行軍副使の徐知訓を、淮北行營都招討使とする。徐知訓は、硃瑾らと兵をひきい、宋州や亳州にゆき、晋兵と相應する。淮水をわたり、州県に移檄して、進んで穎州を囲む。
ぼくは思う。晋国と呉国が、梁国をつぶすかと思いきや。この戦役は、梁国が退けてしまう。残念。
12月、
十二月,戊申,蜀大赦,改明年元曰天漢,國號大漢。
楚王殷聞晉王平河北,遣使通好。晉王亦遣使報之。12月戊申、前蜀で大赦する。翌年を天漢元年とし、国号を大漢とする。
ぼくは思う。「大漢」の「天漢」。五代十国には、王建の前蜀がある。この国が、劉備をどのくらい意識しているか、『資治通鑑』だけから探るのは難しそうだが。916年に、宝鶏と隴州を落とし、関中にいる岐国から領土を切り取ったあと、国号と年号に「漢」を混ぜてくる。劉備を意識してるかも。楚王の馬殷は、晋王が河北を平らげると聞き、使者をやり通好する。晉王もまた、使者で返報する。
是歲,慶州叛附於岐,岐將李繼陟據之。詔以左龍虎統軍賀瑰為西面行營馬步都指揮使,將兵討之,破岐兵,下寧、衍二州。この歲、慶州が梁国に叛して、岐国につく。岐將の李継陟は、慶州による。
慶州はもとは岐州の領地である。けだし去年に李保衡が、邠寧をもって梁国につき、このとき慶州も梁国の領土になっていたのだろう。左龍虎統軍の賀瑰を西面行營馬步都指揮使として、岐兵を破る。寧州と衍州の2州を、梁国が岐国からくだす。
衍州は、岐国の李茂貞が置いた。寧州と慶州のあいだにある。『考異』は、8808頁。
河東監軍張承業既貴用事,其侄瓘等五人自同州往依之,晉王以承業故,皆擢用之。承業治家甚嚴,有侄為盜,殺販牛者,承業立斬之,王亟使救之,已不及。王以瓘為麟州刺史,承業謂瓘曰:「汝本車度一民,與劉開道為賊,慣為不法,今若不悛,死無日矣!」由此瓘所至不敢貪暴。河東監軍の張承業は、すでに貴くて用事する。その姪の張瓘ら5人は、同州よりきて、河東による。晋王と張承業は、ふるい知人である。張瓘ら5人を用い名。張承業の治家は、甚だ厳しい。もし姪が盜みや、販牛の殺をしたので、張承業は姪を斬りそう。晋王は姪を救おうとしたが、間に合わない。
晋王は張瓘を麟州刺史とした。張承業は張瓘にいう。「お前は、もとは車度の1民だ。劉開道とともに賊をしていた。
劉開道とは、劉知俊である。劉知俊は、梁国の開道指揮使となった。また劉知俊は、かつて同州に鎮した。張瓘は(劉知俊と付き合ったせいで)不法に慣れている。もし悛めなければ、すぐに死ね」と。これにより張瓘は、貪暴をしなくなった。
吳越牙內先鋒都指揮使錢傳□逆婦於閩,自是閩與吳越通好。
閩鑄鉛錢,與銅錢並行。吳越の牙內先鋒都指揮使の錢傳[王向]は、閩国に逆婦する。これより、閩国と呉越は通好するようになった。
閩国は、鉛錢を鋳造した。鉛銭は、銅銭と並用・流通した。
晋王が、契丹の阿保機を叔父として仕える
初,燕人苦劉守光殘虐,軍士多歸於契丹。及守光被圍於幽州,其北邊士民多為契丹所掠,契丹日益強大。契丹王阿保機自稱皇帝,國人謂之天皇王,以妻述律氏為皇后,置百官。至是,改元神冊。述律後勇決多權變,阿保機行兵御眾,述律後常預其謀。はじめ燕人は、劉守光の殘虐に苦しんだ。軍士の多くは、契丹に帰した。守光が幽州で晋軍に囲まれると、北邊の士民は、おおくが契丹に掠された。契丹は日に日に強大となる。契丹王の阿保機は、皇帝を自称した。契丹の国人は、阿保機を「天皇王」という。妻の述律氏を皇后といい、百官を置く。神冊と改元する。
阿保機のことについて、中華書局版8809頁。長い。述律の皇后は、勇決で権変がおおい。阿保機が行兵・御衆するとき、述律皇后が、つねに謀を預る。
阿保機嘗度磧擊黨項,留述律後守其帳,黃頭、臭泊二室韋乘虛合兵掠之。述律後知之,勒兵以待其至,奮擊,大破之,由是名震諸夷。述律後有母有姑,皆踞榻受其拜,曰:「吾惟拜天,不拜人也。」晉王方經營河北,欲結契丹為援,常以叔父事阿保機,以叔母事述律後。かつて阿保機は、度磧して党項(タングート)を撃つ。述律后に帳を守らせる。黄頭と臭泊の2室韋(2つの強い部族)は、阿保機の虚に乗じて、兵をあわせて掠める。述律后はこれを知り、2つの部族を大破し、名は諸夷を震わせた。述律后は、母と姑がいる。どちらも述律后に踞榻し、受拜していう。「ただ私は天を拝する。人を拝さない」と。
晉王が河北を経営するとき、契丹と結んで援としたい。つねに晋王は、阿保機を叔父として仕えた。述律后を叔母として仕えた。
晋王の李克用(いまの晋王の李存勗の父)が、阿保機と兄弟の盟約を結んだからである。
契丹に寵用された漢族・韓延徽のこと
劉守光末年衰困,遣參軍韓延徽求援於契丹。契丹主怒其不拜,留之,使牧馬於野。延徽,幽州人,有智略,頗知屬文。述律後言於契丹主曰:「延徽能守節不屈,此今之賢者,奈何辱以牧圉!宜禮而用之。」契丹主召延徽與語,悅之,遂以為謀主,舉動訪焉。延徽始教契丹建牙開府,築城郭,立市裡,以處漢人,使各有配偶,墾藝荒田。由是漢人各安生業,逃亡者益少。契丹威服諸國,延徽有助焉。劉守光は末年に衰困する。参軍の韓延徽を契丹に使わし、援を求めた。契丹主は怒って拝さず、韓延徽を留めた。韓延徽に野で牧馬させた。
『考異』がある。8810頁。守光を知るなら、これは要るなあ。韓延徽は、幽州の人。智略があり、属文を知る。述律后は契丹主にいう。「韓延徽は、守節して屈さず。この賢者を、なぜ牧馬して辱めるか。礼して用いるべきだ」と。
ぼくは思う。述律后が韓延徽を見出すから、述律后の話を『資治通鑑』は書いてあったのだ。漢族の皇后で、ここまで的確な発言を史料に記される人って、少ないのでは。契丹主は韓延徽を召して語り、悦んで謀主とした。動を挙げて訪れた。韓延徽は、はじめて契丹に、建牙・開府を教えた。城郭を築て、市裡を立て、漢族を住まわせた。漢族を配偶させ、荒田を墾藝させた。これにより漢族は(契丹の領土で)生業を安じ、逃亡は少なくなる。契丹が諸国を威服したのは、韓延徽の助けによる。
ぼくは思う。ホントカヨ。模造記憶だな。
頃之,延徽逃奔晉陽。晉王欲置之幕府,掌書記王緘疾之。延徽不自安,求東歸省母,過真定,止於鄉人王德明家,德明問所之,延徽曰:「今河北皆為晉有,當復詣契丹耳。」德明曰:「叛而復往,得無取死乎?」延徽曰:「彼自吾來,如喪手目;今往詣之,彼手目復完,安肯害我!」既省母,遂復入契丹。契丹主聞其至,大喜,如自天而下,拊其背曰:「曏者何往?」延徽曰:「思母,欲告歸,恐不聽,故私歸耳。」契丹主待之益厚。及稱帝,以延徽為相,累遷至中書令。このころ韓延徽は、晉陽に逃奔した。晋王は、韓延徽に幕府を置かせたい。掌書記の王緘が、韓延徽を疾した。韓延徽は自安せず、「東帰して母に会いたい」という。
晋陽から幽州にいくには、西から東にゆく。韓延徽が真定を過ぎると、郷人の王德明の家に留められた。
王徳明は、趙王の王鎔の養子である。すなわち燕人の張文礼である。ぼくは思う。王徳明=張文礼。ややこしい。王徳明に事情を聞かれ、韓延徽はいう。「いま河北は、すべて晋国が領有する。契丹に行こうと思う」と。王徳明「契丹に叛して、また契丹にゆけば、殺されるのでは」と。韓延徽「契丹が私を喪ったのは、手目を失ったに等しい。契丹は(私が戻れば)手目が戻るのだから、どうして私を殺そうか」と。
韓延徽は母にあい、契丹にもどる。契丹主の大喜は、天より下ったごとし。韓延徽の背を拊する。契丹主「さきに晋国に行ったのは、なぜか」と。延徽「母に会いたかった。だが契丹主に事前に報告して、許されないことを恐れた。ゆえに私的に、中原に帰った」と。
契丹主は、韓延徽を厚遇した。契丹主が皇帝を称すると、韓延徽を相とした。中書令に至る。
『欧史』はいう。阿保機は韓延徽を相とした。「政事令」と号した。契丹では「崇文相公」といわれる。
晉王遣使至契丹,延徽寓書於晉王,敘所以北去之意,且曰:「非不戀英主,非不思故鄉,所以不留,正懼王緘之讒耳。」因以老母為托,且曰:「延徽在此,契丹必不南牧。」故終同光之世,契丹不深入為寇,延徽之力也。晋王は使者を契丹にやり、韓延徽は晋王に、北去之意を伝えていう。韓延徽「英主(晋王)を恋わないのでない。故郷を思わないのでない。晋国に留まらないのは、ただ王緘之讒を懼れたからだ」と。これにより韓延徽は、晋王に老母を託した。さらに韓延徽はいう。「私が北の契丹にいれば、契丹は必ずや南を牧さない」と。
賈誼『過秦論』はいう。古人はあえて、南下して馬を牧さずと。ゆえに同光期に、契丹は深入せず、晋国を寇さない。これは韓延徽の力である。130819
胡三省はいう。荘宗のとき、契丹は周徳威をかこみ、張文礼を救った。契丹は、中原に介入するのだ。ただ晋兵が強いあいだは、契丹は中原に介入しなかっただけ。韓延徽の力であろうか(晋兵が強いだけだ)。閉じる
- 917年-6月 盧文進が契丹に属し、幽州を攻撃
均王上貞明三年(丁丑,公元九一七年)
春、梁国の頴州と黎陽が、耐える
春,正月,詔宣武節度使袁象先救穎州,既至,吳軍引還。
二月,甲申,晉王攻黎陽,劉鄩拒之,數日,不克而去。春正月、宣武節度使の袁象先に(晋兵と呉兵から)穎州を救わせる。袁象先が頴州に至ると、呉軍は引還した。
去年11月に、呉兵が頴州を囲んだ。2月甲申、晉王は黎陽を攻め、劉鄩が拒む。数日して、克たずに去る。
ぼくは思う。けっきょく劉鄩が、晋兵に敗れたとはいえ、梁将のなかで、いちばん持ちこたえている。ほかに人がいないのだ。また劉鄩は、恵まれない環境のなかで、意外と名将なのかも知れない。
春、李存矩の兵が盧文進を頂き反乱、契丹へ
晉王之弟威塞軍防禦使存矩在新州,驕惰不治,侍婢預政。晉王使募山北部落驍勇者及劉守光亡卒以益南討之軍。又率其民出馬,民或鬻十牛易一戰馬,期會迫促,邊人嗟怨。存矩得五百騎,自部送之,以壽州刺史盧文進為裨將。行者皆憚遠役,存矩復不存恤。甲午,至祁溝關,小校宮彥璋與士卒謀曰:「聞晉王與梁人確鬥,騎兵死傷不少。吾儕捐父母妻子,為人客戰,千里送死,而使長復不矜恤,奈何?」晉王の弟である威塞軍防禦使の李存矩は、新州にいる。驕惰で不治。侍婢が預政する。
晋国は、威塞軍を新州におく。のちに節鎮となる。新州は、永興の1県のみを領する。
薛居正はいう。大唐の荘宗の同光2年7月、新州を昇し、威塞軍節度使とする。媯州、儒州、武州の3州を属させる。晉王は、山北の部落から驍勇な者を募り、劉守光の亡卒を募り、南討之軍を増員する。その民をひきいて出馬する。ある民は、10牛で1戦馬を購入する。戦闘への参加を迫促したので、辺境の民は嗟怨した。李存矩は、5百騎を得て、自ら部して送る。壽州刺史の盧文進は、裨將となる。
寿州は呉国に属する。盧文進は遙領の刺史である。動員される者は、みな遠役をはばかる。李存矩は、兵を存恤しない。
2月甲午、祁溝関に至る。小校の宮彦璋は士卒と謀った。「晉王と梁帝の対立は、確固たるものだ。
胡三省はいう。およそ戦いは、兵勢に従って、進退や離合がある。だが晋王と梁帝は、「確闘」である。進退や離合は、固定されている。ぼくは思う。三国の魏蜀みたいなもの。騎兵の死傷は少なくない。我らは父母や妻子をすて、人のために客戰し、千里に送死する。だが使長(指揮命令者)は、我らを矜恤(同情)しない。どうしたものか」と。
ぼくは思う。むりに動員された兵が、いまにも暴発しそうである。
眾曰:「殺使長,擁盧將軍還新州,據城自守,其如我何!」因執兵大噪,趣傳捨,詰朝,存矩寢未起,就殺之,文進不能制,撫膺哭其屍曰:「奴輩既害郎君,使我何面復見晉王!」因為眾所擁,還新州,守將楊全章拒之。又攻武州,雁門以北都知防禦兵馬使李嗣肱擊敗之。周德威亦遣兵追討,文進帥其眾奔契丹。晉王聞存矩不道以致亂,殺侍婢及幕僚數人。軍衆はいう。「使長を殺し、將軍の盧文進を擁して、新州に還ろう。據城して自守すれば、(晋将の李存矩は)私たちをどうにかできようか」と。執兵・大噪して、傳捨にゆく。詰朝、李存矩は起きる前に殺された。盧文進は軍衆を制せられず、撫膺して李存矩の死体に哭した。「奴輩が郎君を殺害した。私はどんな顔で晋王に会えばよいか」と。盧文君は軍衆に擁され、新州に還る。守將の楊全章が、軍衆と盧文君を拒む。
軍衆は武州を攻める。雁門以北都知防禦兵馬使の李嗣肱が、軍衆を破る。周德威も兵をやり、軍衆を討つ。盧文進は、軍衆をひきいて契丹に奔る。晉王は、李存矩が不道して乱に到ったので、(李存矩の代わりに執政した)侍婢および幕僚の数人を殺した。
初,幽州北七百里有渝關,下有渝水通海。自關東北循海有道,道狹處才數尺,旁皆亂山,高峻不可越。比至進牛口,舊置八防禦軍,募土兵守之。田租皆供軍食,不入於薊,幽州歲致繒纊以供戰士衣。每歲早獲,清野堅壁以待契丹,契丹至,輒閉壁不戰,俟其去,選驍勇據隘邀之,契丹常失利走。土兵皆自為田園,力戰有功則賜勳加賞,由是契丹不敢輕入寇。及周德威為盧龍節度使,恃勇不修邊備,遂失渝關之險,契丹每芻牧於營、平之間。德威又忌幽州舊將有名者,往往殺之。はじめ幽州の北700里には、渝関がある。くだると渝水があり、海に通じる。関から東北すると、海を循って道がある。
地理について胡三省は、中華書局版8812頁。道は狭いところは数尺ばかり。かたわらに乱山があり、高峻で越えられない。進牛口に至るころ、もとは八防禦軍が置かれ、土兵を募って守った。田租は、みな軍食に供給され、薊州に入らない。幽州は、年ごとに繒纊を、戰士の衣として軍に供給した。
毎年の収穫は早く、清野堅壁して契丹を待つ。契丹がくると、閉壁して戦わず、去るのを待つ。驍勇を選んで、隘路で迎撃する。契丹はつねに、戦利を失って逃げる。
ぼくは思う。かしこい契丹への対処法!土兵は、みなみずから田園をつくる。力戰して功績があれば、賞される。これにより契丹は、あえて入貢しない。
だが、周徳威が盧龍節度使になると、勇を恃んで邊備を修めず、ついに渝関之險を失う。契丹は、営州と平州のあいだで、芻牧する。周徳威は、幽州の旧将で名声ある者を忌み、殺した。
ぼくは思う。周徳威が渝関を失ったことが、契丹の南下をゆるして、今後の数百年にわたって苦しむ張本なのだ。罪深いぞ、周徳威。
吳王遣使遺契丹主以猛火油,曰:「攻城,以此油然火焚樓櫓,敵以水沃之,火愈熾。」契丹主大喜,即選騎三萬欲攻幽州,述律後哂之曰:「豈有試油而攻一國乎!」因指帳前樹謂契丹主曰:「此樹無皮,可以生乎?」契丹主曰:「不可。」述律後曰:「幽州城亦猶是矣。吾但以三千騎伏其旁,掠其四野,使城中無食,不過數年,城自困矣,何必如此躁動輕舉!萬一不勝,為中國笑,吾部落亦解體矣。」契丹主乃止。吳王は契丹主に使者して、契丹に猛火油をあげる。「攻城のとき、この油で樓櫓を火焚け。敵は水をかけるが、火はいよいよ熾んになる」と。
『南蕃志』はいう。猛火油は、占城国から出て、蛮人が水戦で、敵の船を焼くのに使う。
ぼくは思う。呉王は、孫権よろしく、海路での交易をめざしたのかも知れないが。契丹につよい兵器を与えることは、漢族の全体の不利益である。契丹主は大喜し、騎3万を選んで幽州を攻める。述律后に猛火油を見せる。「猛火油を試して、1国を攻めよう」と。述律后は、帳前の樹を指さして、契丹主にいう。「この樹に皮がない。生きられるか」と。契丹主「生きられない」と。述律后「幽州の城は、皮のない樹と同じ。3千騎を幽州の城のそばに伏せ、城の四野を掠し、城中の食糧をなくせば、数年を過ぎずに、城は自困する。なぜ躁動・輕舉(猛火油による城攻めの試行)をするか。万にひとつも幽州に勝てねば、中国に笑われる。わが部落は解体する」と。
契丹主は、猛火油での幽州攻めをやめる。
胡三省はいう。婦人の智識はかくのごとし。丈夫の恥はおおい。これにより契丹主の阿保機は、周囲の部族に勝利することができた。
3月、盧文進が新州をぬき、幽州を囲む
三月,盧文進引契丹兵急攻新州,刺史安金全不能守,棄城走。文進以其部將劉殷為刺史,使守之。晉王使周德威合河東、鎮、定之兵攻之,旬日不克。契丹主帥眾三十萬救之,德威眾寡不敵,大為契丹所敗,奔歸。3月、盧文進が契丹兵をひき、新州を急攻する。新州刺史の安金全は城を守れず、城を棄ててにげた。盧文進は、部將の劉殷を新州刺史とする。晉王は周徳威を、河東、鎮州、定州の兵にあわせ、新州を攻める。旬日しても、周徳威は克たず。契丹主は30万で、新州を救う。周徳威は、兵数でかなわず、契丹に大敗して奔歸した。
楚王殷遣其弟存攻吳上高,俘獲而還。楚王の馬殷は、弟の馬存に、呉国を上高を攻めさせ、俘獲して還る。
契丹乘勝進圍幽州,聲言有眾百萬,氈車毳幕彌溫山澤。盧文進教之攻城,為地道,晝夜四面俱進,城中穴地然膏以邀之。又為土山以臨城,城中熔銅以灑之,日殺千計,而攻之不止。周德威遣間使詣晉王告急,王方與梁相持河上,欲分兵則兵少,欲勿救恐失之,憂形於色,謀於諸將,獨李嗣源、李存審、閻寶勸王救之。王喜曰:「昔太宗得一李靖猶擒頡利,今吾有猛將三人,復何憂哉!」契丹は、盧文進が幽州を囲んだのに乗じて、100万と号して、氈車・毳幕を、山沢に瀰漫させる。盧文進は契丹に、攻城の仕方、地道のつくり方を教える。昼夜に四面から、盧文進と契丹がともに(幽州の城へ)進む。城中では、地に穴をほって、攻城をふせぐ。
城のそばに(掘り出した土で)土山ができた。城中では、熔銅して灑(そそ)ぐ。1日に1千を殺す。攻城が止まった。
周徳威は、晋王に告急する。晋王は、梁軍と河上で対峙する。幽州に兵を分け、梁軍に負けるのを恐れて、諸将に謀った。李嗣源、李存審、閻宝は、晋王に「幽州を救え」と勧めた。晋王は喜んだ。「むかし(貞観4年)大唐の太宗は、李靖を1人得たら、頡利を擒えた。いま私は、猛将3人もいる。なにを憂おうか」と。
猛将とは、李嗣源、李存審、閻宝である。
存審、寶以為虜無輜重,勢不能久,俟其野無所掠,食盡自還,然後踵而擊之。李嗣源曰:「周德威社稷之臣,今幽州朝夕不保,恐變生於中,何暇待虜之衰!臣請身為前鋒以赴之。」王曰:「公言是也。」即日,命治兵。李存審と閻宝はいう。「契丹は輜重がない。兵勢は長く続かない。野に掠むものがないから、食糧が尽きて還るだろう。それを追撃すればよい」と。李嗣源「周徳威は社稷の臣である。いま幽州は、朝夕にも保てず、城内で異変が発生するのを恐れる。契丹の衰を待てるか。私が前鋒となり、幽州に行きたい」と。晋王「李嗣源が正しい」と。即日に治兵を命じた。
夏、徐知誥が徐温と敵対し、潤州に赴任する
夏,四月,晉王命嗣源將兵先進,軍於淶水,閻寶以鎮、定之兵繼之。夏4月、晋王は李嗣源に先進させ、淶水(易州)に軍する。閻宝は、鎮州と定州の兵をひきいて、李嗣源につづく。
吳升州刺史徐知誥治城市府捨甚盛。五月,徐溫行部至升州,愛其繁富。潤州司馬陳彥謙勸溫徙鎮海軍治所於升州,溫從之,徙知誥為潤州團練使。知誥求宣州,溫不許,知誥不樂。宋齊丘密言於知誥曰:「三郎驕縱,敗在朝夕。潤州去廣陵隔一水耳,此天授也。」知誥悅,即之官。三郎,謂溫長子知訓也。溫以陳彥謙為鎮海節度判官。溫但舉大綱,細務悉委彥謙,江、淮稱治。彥謙,常州人也。
呉国の升州刺史の徐知誥は、城市・府捨を治めて、甚だ盛である。
5月、徐温は行部して、昇州に至り、呉国は、昇州、常州、宣州、歙州、池州をもって、徐温に巡属させる。昇州の繁富を愛した。潤州司馬の陳彦謙は、徐温に「鎮海軍の治所を昇州にうつせ」という。徐温は従う。徐知誥を、昇州州から潤州團練使にうつす。徐知誥は宣州を求めたが、徐温が許さず。徐知誥は楽しまず。
鎮海軍の治所は、もとは潤州であった。宋齊丘が、ひそかに徐知誥にいう。「三郎(徐知誥の張氏の徐知訓)は驕縱である。朝夕に(徐知誥の血統は政争に)敗れる。潤州は、廣陵から1水を隔てるのみ。これは天授である」と。徐知誥は悦び、潤州に赴任した。徐温は、鎮彦謙を、鎮海節度判官とする。徐温は、ただ大綱だけを挙げる。細務は、すべて陳彦謙に委ねた。江淮の統治が称えられた。陳彦謙は、常州の人。
陳彦謙が死にかけたとき、徐温に「私の子を立ててくれ」と請う張本である。
高季昌與孔勍修好,復通貢獻。高季昌と孔勍は修好し、通を復して貢献する。130820
高季昌は、孔勍に敗れた。乾化2年にある。いま関係を修復した。閉じる