両晋- > 『資治通鑑』梁紀を抄訳 917年7月-919年9月

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917年秋、

【後梁紀五】 起強圉赤奮若七月,盡屠維單閼九月,凡二年有奇。
均王中貞明三年(丁丑,公元九一七年)

7月、晋王が幽州を救う兵を追加

秋,七月,庚戌,蜀主以桑弘志為西北面第一招討,王宗宏為東北面第二招討。己未,以兼中書令王宗侃為東北面都招討,武信節度使劉知俊為西北面都招討。

秋7月庚戌、蜀主は、桑弘志を西北面第一招討とする。王宗宏を東北面第二招討とする。7月己未、兼中書令の王宗侃を、東北面都招討とする。武信節度使の劉知俊を、西北面都招討とする。

ぼくは思う。後継者がボケっとしており、関中への攻撃ばかり熱中し、官職をもてあそび、諸王の封建をさかんにする。蜀地に入ると、こうなるのか。ミニ王朝なので、かえってゴッコ遊びに執心するらしい。


晉王以李嗣源、閻寶兵少,未足以敵契丹,辛未,更命李存審將兵益之。

晉王は、李嗣源と閻宝の兵が少なく、契丹に敵わないと考えた。7月辛未、さらに李存審に命じて(幽州を契丹から救うための)兵を増やした。

8月、前蜀で、毛文錫と庾傳素を左遷する

蜀飛龍使唐文扆居中用事,張格附之,與司徒、判樞密院事毛文錫爭權。文錫將以女適左僕射兼中書侍郎、同平章事庾傳素之子,會親族於樞密院用樂,不先表聞,蜀主聞樂聲,怪之,文扆從而譖之。八月,庚寅,貶文錫茂州司馬,其子司封員外郎詢流維州,籍沒其家;貶文錫弟翰林學士文晏為榮經尉;傳素罷為工部尚書。以翰林學士承旨庾凝績權判內樞密院事。凝積,傳素之再從弟也。

前蜀の飛龍使である唐文扆は、居中・用事する。張格が唐文扆につく。唐文扆は、司徒・判樞密院事の毛文錫と、爭權する。

ぼくは思う。ミニ国家は、内朝での権力争いも、一人前に「再現」する。

毛文錫の娘は、左僕射兼中書侍郎・同平章事の庾傳素の子にとつぐ。親族が樞密院で会して、音楽をやる。蜀主に音楽をやると、事前に報告していなかった。蜀主は樂聲を聞いて怪しむ。唐文扆は「(蜀主に報告もせず音楽やるとは)毛文錫は僭越である」とそしった。
8月庚寅、毛文錫を茂州司馬に貶める。子の司封員外郎の毛詢を維州に流す。籍はその家を没す。文錫の弟の翰林學士の毛文晏を榮經尉とする。庾傳素を罷めて工部尚書とする。翰林學士承旨の庾凝績に、權判內樞密院事させる。庾凝積は、庾傳素の再從弟(曽祖父が同じ)である。

癸巳,清海、建武節度使劉巖即皇帝位於番禺,國號大越,大赦,改元乾亨。以梁使趙光裔為兵部尚書,節度副使楊洞潛為兵部侍郎,節度判官李殷衡為禮部侍郎,並同平章事。建三廟,追尊祖安仁曰太祖文皇帝,父謙曰代祖聖武皇帝,兄隱曰烈宗襄皇帝。以廣州為興王府。

8月癸巳、清海・建武節度使の劉巌が、番禺で皇帝に即位し、国号を「大越」として大赦し、「乾亨」と改元した。梁使の趙光裔を兵部尚書とする。節度副使の楊洞潛を兵部侍郎とする節度判官の李殷衡を禮部侍郎とする。3人に同平章事させる。3廟を立て、祖父・父・兄を祭る。廣州を「興王府」とする。

ぼくは思う。五代十国にはカウントされない。


李嗣源と李存審が、幽州から契丹を払う

契丹圍幽州且二百日,城中危困。李嗣源、閻寶、李存審步騎七萬會於易州,存審曰:「虜眾吾寡,虜多騎,吾多步,若平原相遇,虜以萬騎蹂吾陳,吾無遺類矣。」嗣源曰:「虜無輜重,吾行必載糧食自隨,若平原相遇,虜抄吾糧,吾不戰自潰矣。不若自山中潛行趣幽州,與城中合勢,若中道遇虜,則據險拒之。」

契丹は幽州を200日かこむ。城中は危困した。

この年の3月から、幽州は囲まれている。

李嗣源、閻寶、李存審は、歩騎7万で易州に会する。

閻宝は、李存勗の配下にいる。さきに閻宝の名を史料が記すのは、李嗣源と閻宝が、先に出発したからである。

李存審「契丹は多く、わが晋軍は少ない。契丹は騎兵が多く、わが晋軍は歩兵がおおい。もし平原で相遇すれば、契丹の1万騎に、わが陣を蹂躙される。生き残れない」と。李嗣源「契丹は輜重がない。わが晋軍は食糧を輸送している。もし平原で相遇すれば、契丹は食糧を奪いにくる。わが軍は戦わずに自潰する。山中から幽州に潛行するのがよい。もし道中で契丹に遭遇したら、地形を頼って防げばよい」と。

ぼくは思う。戦闘でも輸送でも、平地という選択肢はないと。


甲午,自易州北行,庚子,逾大房嶺,循澗而東。嗣源與養子從珂將三千騎為前鋒,距幽州六十里,與契丹遇。契丹驚卻,晉兵翼而隨之。契丹行山上,晉兵行澗下,每至谷口,契丹輒邀之,嗣源父子力戰,乃得進。至山口,契丹以萬餘騎遮其前,將士失色。

8月甲午、易州から北行する。庚子、大房嶺をこえ、澗水をめぐり、東する。

地理について、中華書局版8817頁。

李嗣源とその養子の李従珂は、3千騎で前鋒となり、幽州から60里の地点で契丹と遭遇した。契丹は驚卻し、晉兵は翼して隨う。

「翼す」とは、左右に翼を張る(広がる)こと。

契丹は山上にゆく、晉兵は澗下にゆく。谷口を通過するごとに、契丹は迎撃した。李嗣源の父子は力戰して、進むを得た。山口に至り、契丹は1万余騎で晋兵の前を遮った。晋国の將士は失色した。

嗣源以百餘騎先進,免冑揚鞭,胡語謂契丹曰:「汝無故犯我疆場,晉王命我將百萬眾直抵西樓,滅汝種族!」因躍馬奮□,三入其陳,斬契丹酋長一人。後軍齊進,契丹兵卻,晉兵始得出。李存審命步兵伐木為鹿角,人持一枝,止則成寨。契丹騎環寨而過,寨中發萬弩射之,流矢蔽日,契丹人馬死傷塞路。將至幽州,契丹列陳待之。

李嗣源は1百余騎で先進し、冑を免ぎ、鞭を揚げ、胡語で契丹にいった。「お前らは理由なく、わが疆場を犯す。晉王は私に命じた。1百万で西樓(契丹の本拠)を攻撃して、契丹の種族を滅ぼせと」と。

契丹の地理と事情について、中華書局版8818頁。
ぼくは思う。李嗣源のセリフは、まったく漢族と契丹が和解する余地がない。

李嗣源は、3たび契丹の陣に入り、酋長1人を斬った。後軍も(李嗣源に続いて)斉進し、契丹が兵卻した。晋兵は山口から出ることができた。李存審は歩兵に命じて、伐木して鹿角とする。1人に1枝を持たせ、寨を成す。契丹の騎兵は、寨を環んで過ぎた。寨中で萬弩を射た。晋兵の流矢が、日をおおう。契丹の人馬は死傷して、路を塞ぐ。晋軍が幽州にゆくと、契丹が列陣して待つ。

存審命步兵陳於其後,戒勿動,先令羸兵曳柴然草而進,煙塵蔽天,契丹莫測其多少。因鼓噪合戰,存審乃趣後陳起乘之,契丹大敗,席捲其眾自北山去,委棄車帳鎧仗羊馬滿野,晉兵追之,俘斬萬計。辛丑,嗣源等入幽州,周德威見之,握手流涕。契丹以盧文進為幽州留後,其後又以為盧龍節度使,文進常居平州,帥奚騎歲入北邊,殺掠吏民。晉人自瓦橋運糧輸薊城,雖以兵援之,不免抄掠。契丹每入寇,則文進帥漢卒為鄉導,盧龍巡屬諸州為之殘弊。

李存審は歩兵に命じて、契丹の後ろに陣させた。動くなと戒めた。さきに羸兵をやり、柴を曳せて、土煙をたてた。契丹は、晋兵の数が分からない。李存審が鼓噪・合戰する。契丹は大敗し、軍衆を席捲し、北山より去る。契丹が棄てた車帳・鎧仗・羊馬は、野を満たした。8月辛丑、李嗣源らは幽州に入城した。周徳威は、李嗣源の手を握って流涕した。

胡三省はいう。契丹に困り、いま解放されたので、喜び極まって流涕したのだ。

契丹は、盧文進を幽州留後とする。

ぼくは思う。盧文進は、もう契丹の将になって、信頼されたのね。

のちに契丹は、盧文進を盧龍節度使とする。盧文進は、つねに平州にいる。奚騎を帥いて、歳ごとに北辺に侵入して、吏民を殺掠する。

ぼくは思う。盧文進は、ろくでもない。漢族から見ると、ひどいなあ。

晋人は、瓦橋から薊城に食糧をはこぶ。兵が輸送を援けるが、契丹の抄掠を免れない。契丹が入寇するたび、盧文進は漢卒をひきいて郷導する。盧龍が巡属する諸州は、契丹と盧文進のために殘弊した。

廬龍の諸州は、唐代の中期より、1域を形成する。外には両蕃(2つの異民族)をふせぎ、内には河朔と連なる。廬龍の力は、つねに余っていた。いま晋国の一部となり、食糧を運んでもらわねばならぬほど、衰退した。


9月、梁帝が、敗将の劉鄩を左遷する

劉鄩自滑州入朝,朝議以河朔失守責之。九月,落鄩平章事,左遷亳州團練使。

劉鄩は滑州から入朝する。朝議は、劉鄩が河朔で(晋将から領土を)守れなかったことを責めた。9月、劉鄩を落して、平章事とする。左遷して、亳州團練使とする。

胡三省はいう。劉鄩が失敗してすぐに罰さず、時期が遅れて、劉鄩が入朝してから罰した。梁国では、政事と刑罰が失われている。


冬、晋王と曹夫人が、重臣の張承業に謝る

冬,十月,己亥,加吳越王鏐天下兵馬元帥。

冬10月己亥、吳越王の銭鏐に「天下兵馬元帥」を加えた。

晉王還晉陽。王連歲出征,凡軍府政事一委監軍使張承業,承業勸課農桑,畜積金谷,收市兵馬,征租行法不寬貴戚,由是軍城肅清,饋餉不乏。王或時須錢蒱博及給賜伶人,而承業靳之,錢不可得。王乃置酒錢庫,令其子繼岌為承業舞,承業以寶帶及幣馬贈之。王指錢積呼繼岌小名謂承業曰:「和哥乏錢,七哥宜以錢一積與之,帶馬未為厚也。」承業曰:「郎君纏頭皆出承業俸祿,此錢,大王所以養戰士也,承業不敢以公物為私禮。」

晉王は晉陽に還る。晋王は、連年で出征する。軍府・政事は、すべて監軍使の張承業に委任する。張承業は、農桑を勸課し、金穀を畜積する。兵馬を收市する。租行法を徴し、貴戚でもゆるめない。これにより、晋陽の軍城は肅清となり、饋餉は乏しからず。
晋王はあるとき、伶人に銭を給賜したいが、張承業がケチって、銭を出さない。晋王が置酒・錢庫し、子の李継岌を、張承業のために舞わせると、張承業は、寶帶と幣馬を李継岌に贈った。晋王は積まれた銭を指さして、「七哥(張承業)は、銭を持っているではないか。ケチるなよ」という。張承業はいう。「これは私の俸禄から出したもの(ポケットマネー)だ。国家の銭は、大王が戦士を養うために使うべきだ。私は、国家の銭を、私礼に使ったりしない」と。

王不悅,憑酒以語侵之,承業怒曰:「僕老敕使耳!非為子孫計,惜此庫錢,所以佐王成霸業也,不然,王自取用之,何問僕為!不過財盡民散,一無所成耳。」王怒,顧李紹榮索劍,承業起,挽王衣泣曰:「僕受先王顧托之命,誓為國家誅汴賊,若以惜庫物死於王手,仆下見先王無愧矣。今日就王請死!」

晋王は悦ばず、酒に浸って張承業を批判した。張承業は怒った。「子孫の計のためでなければ、国庫の銭を惜しむ。王を佐け、覇業を成すためだ。王は国庫を、私的に使おうとする。もし国庫が尽きれば、民は散じる。覇業が成らない」と。
晋王は怒り、李紹榮を顧みて、剣を索させた。張承業は起ち、晋王の衣を挽いて泣く。「私は、先王(李克用)から顧托之命を受け、国家のために汴賊(梁の朱氏)を誅そうと誓った。庫物を惜しんで、晋王の手で殺されるなら、李克用に対しても愧じない。殺してくれ」と。

閻寶從旁解承業手令退,承業奮拳毆寶踣地,罵曰:「閻寶,硃溫之黨,受晉大恩,曾不盡忠為報,顧欲以諂媚自容邪!」曹太夫人聞之,遽令召王,王惶恐叩頭,謝承業曰:「吾以酒失忤七哥,必且得罪於太夫人,七哥為吾痛飲以分其過。」王連飲四卮,承業竟不肯飲。
王入宮,太夫人使人謝承業曰:「小兒忤特進,適已笞之矣。」明日,太夫人與王俱至承業第謝之。未幾,承製授承業開府儀同三司、左衛上將軍、燕國公。承業固辭不受,但稱唐官以至終身。

閻宝が、張承業の手をひいて退出させた。張承業は閻宝をなぐって地に倒した。張承業が罵る。「閻宝は、もとは朱温の党だった。晋王の大恩を受けた。

胡三省はいう。閻宝は梁国に背いて、晋国に降った。晋王は、閻宝を殺さずに寵貴した。

かつて梁国に忠をつくさず、晋国では諂媚するか」と。
曹太夫人はこれを聞き、晋王を召した。

「曹太夫人」と書かれるのは、嫡母の劉夫人に子がないから。

晋王は惶恐して叩頭する。張承業に誤った。「私は酒に酔って、七哥(張承業)に忤らった。曹太夫人から叱られた。張承業は私とともに痛飲して、過失を分けあおう」と。晋王は、連ねて4杯を飲んだが、ついに張承業は飲まない。
晋王は入宮した。太夫人は人をやり、張承業に謝った。「小兒(晋王)が特進(張承業)に忤らった。すでに晋王を笞した」と。翌日、太夫人と晋王は張承業の第にいって謝る。

史家はいう。晋王が魏州にいるとき、張承業が食糧を供給した(功績がある)。また内(晋陽)には曹夫人がいた。ゆえに張承業は、志を行う(国庫を公的な目的のみに使う)ことができた。

晋王は承制して、張承業を、開府儀同三司・左衛上將軍として、燕國公にした。張承業は固辞して受けない。ただ大唐の官爵だけで、身を終えた。

掌書記盧質,嗜酒輕傲,嘗呼王諸弟為豚犬,王銜之。承業恐其及禍,乘間言曰:「盧質數無禮,請為大王殺之。」王曰:「吾方招納賢才以就功業,七哥何言之過也!」承業起立賀曰:「王能如此,何憂不得天下!」質由是獲免。

掌書記の盧質は、嗜酒して輕傲である。かつて晋王の諸弟を「豚や犬」といった。晋王はこれを銜む。張承業は、禍いを恐れて、晋王にいう。「盧質はしばしば無礼だ。大王のために盧質を殺せ」と。
晋王「私は賢才を招納して、功業する。(盧質を殺せとは)言い過ぎである」と。張承業は起立して賀した。「晋王にそれができれば、なんぞ天下を得ないことを憂おうか」と。

史家はいう。張承業は、ただ兵を足すだけでなく、士君子を保護することもできた。
ぼくは思う。張承業は、あえて極端な処罰を、先手をうって口にすることで、晋王が盧質をにくむ気持ちを、萎えさせた。

盧質は免じてもらえた。

劉夫人が、実父を笞うつ

晉王元妃衛國韓夫人,次燕國伊夫人,次魏國劉夫人。劉夫人最有寵,其父成安人,以醫卜為業。夫人幼時,晉將袁建豐掠得之,入於王宮,性狡悍淫妒,從王在魏。父聞其貴,詣魏宮上謁,王召袁建豐示之。建豐曰:「始得夫人時,有黃須丈人護之,此是也。」王以語夫人,夫人方與諸夫人爭寵,以門地相高,恥其家寒微,大怒曰:「妾去鄉時略可記憶,妾父不幸死亂兵,妾守屍哭之而去,今何物田舍翁敢至此!」命笞劉叟於宮門。

晉王の元妃は、衛國の韓夫人である。次は燕國の伊夫人である。次は魏國の劉夫人である。劉夫人がもっとも寵愛される。劉夫人の父は、成安の人。醫卜を生業とする。
夫人が幼いとき、晋将の袁建豊が、劉夫人を掠得して、王宮に入れた。性質は狡悍・淫妒である。晋王に従って、魏州にゆく。劉夫人の父は、娘が貴くなったと聞き、魏宮で上謁したい。王は袁建豊に、劉夫人の父を示した。袁建豊「私が劉夫人を得たとき、黄ひげの人に護られていた。この人物である」と。
晋王は劉夫人に、父がきたと語る。劉夫人は、夫人と寵愛を競っている。家柄の寒微を恥じた。劉夫人は大怒した。「私の父は乱兵に殺され、私は父の死体を守って哭いた。いま田舍の翁が、何しにきた」と。劉夫人は、宮門で父を笞うたせた。

胡三省はいう。父を笞うつとは、どこが君子だ。異日に、李存渥のことが起きても、怪しむに足りない。
中国の維基百科より。【李存渥】(?-926年)。后唐太祖李克用的第四子,后唐庄宗同母弟,生母曹氏。
同光三年(925年)十二月辛亥,诏封申王。李存渥历任义成、天平二军节度使,都是不到藩镇,只是在京师食俸禄。唐庄宗到汜水,改李存霸北京太原府留守,李存渥为河中节度使,诏书没有到达,郭从谦反,攻兴教门,李存渥从庄宗抗拒。庄宗中流矢而死,李存渥与刘玉娘皇后逃奔太原,据说路上二人私通。到太原符彦超不纳,李存渥走至风谷,为部下所杀。


越帝の劉巌が、呉王に称帝を勧める

越王巖遣客省使劉瑭使於吳,告即位,且勸吳王稱帝。
閏月,戊申,蜀主以判內樞密院庾凝績為吏部尚書、內樞密使。

越王の劉巌(同年8月に皇帝即位)は、客省使の劉瑭を呉国におくり、即位をつげる。劉巌は、呉王に称帝を勧める。
閏月戊申、蜀主は、判內樞密院の庾凝績を、吏部尚書、內樞密使とする。

11月、河が凍結し、晋王が梁国を攻めたい

十一月,丙子朔,日南至,蜀主祀圜丘。
晉王聞河冰合,曰:「用兵數歲,限一水不得渡,今冰自合,天讚我也。」亟如魏州。

11月丙子ついたち、日が南至する。蜀主は圜丘を祀る。
晉王は、河が凍結したと聞く。晋王「用兵すること數歲。1つの川も渡ることができなかった。いま河が氷結した。天が我を讚ける」と。急いで魏州にゆく。

貞明元年、晋王は魏博の兵を得た。はじめて河上を窺った。もし夾寨を破ったのを、用兵の起点とすれば、すでに10年たつ。


12月、晋王が楊柳城を得て、梁帝が南郊中止

蜀主以劉知俊為都招討使,諸將皆舊功臣,多不用其命,且疾之,故無成功。唐文扆數毀之,蜀主亦忌其才,嘗謂所親曰:「吾老矣,知俊非爾輩所能馭民。」十二月,辛亥,收知俊,稱其謀叛,斬於炭市。
癸丑,蜀大赦,改明年元曰光天。壬戌,以張宗奭為天下兵馬副元帥。

蜀主は(7月)劉知俊を都招討使とする。諸將は、みな舊功臣である。おおくが、劉知俊の命を用いない。そのため、劉知俊は(岐国を討伐する)功績がない。唐文扆は、しばしば劉知俊をけなす。蜀主は劉知俊の才を忌み、親しい者にいう。蜀主「私も老いた。劉知俊は、お前ら(のような旧功臣)がいなければ、うまく民を馭せるだろうに」と。
12月辛亥、劉知俊を收め、謀反したといい、炭市で斬った。

劉知俊は、梁国でうまくやれず、岐国にきた。岐国でうまくやれず、前蜀にきた。前蜀でもうまくやれなかった。虎狼の性をもち、人に仕えてきた。うまくいかない。

癸丑、前蜀で大赦して、翌年から「光天」と改元する。
壬戌、張宗奭を「天下兵馬副元帥」とする。

帝論平慶州功,丁卯,以左龍虎統軍賀瑰為宣義節度使、同平章事,尋以為北面行營招討使。
戊辰,晉王畋於朝城。是日,大寒,晉王視河冰已堅,引步騎稍度。梁甲士三千戍楊劉城,緣河數十里,列柵相望,晉王急攻,皆陷之。進攻楊劉城,使步卒斬其鹿角,負葭葦塞塹,四面進攻,即日拔之,獲其守將安彥之。

梁帝は、慶州を平した功績を論じる。丁卯、左龍虎統軍の賀瑰を、宣義節度使、同平章事とする。北面行營招討使とする。

賀瑰が慶州を平らげたのは、上年である。また今回の任命が、賀瑰が晋国を防げない張本である。

戊辰、晋王は朝城で狩りをする。この日は大いに寒く、晋王は、河冰がすでに堅いのを見た。晋王は、步騎をひきいて渡る。梁国の甲士3千が、楊劉城を守る。河ぞいに数十里、梁軍は列柵する。晋王は急攻して、すべて陷とす。楊劉城に進攻する。步卒に鹿角を斬らせ、葭葦を負わせ、塹を塞ぐ。

葭葦について、中華書局版8822頁。

四面で進攻する。即日に、晋王は梁国の楊劉城をぬく。守將の安彦之をとらえる。

先是,租庸使、戶部尚書趙巖言於帝曰:「陛下踐祚以來,尚未南郊,議者以為無異籓侯,為四方所輕。請幸西都行郊禮,遂謁宣陵。」敬翔諫曰:「自劉鏐失利以來,公私困竭,人心惴恐;今展禮圜丘,必行賞賚,是慕虛名而受實弊也。且勍敵近在河上,乘輿豈宜輕動!俟北方既平,報本未晚。」帝不聽,己巳,如洛陽,閱車服,飾宮闕,郊祀有日,聞楊劉失守,道路訛言晉軍已入大梁,扼汜水矣,從官皆憂其家,相顧涕泣。帝惶駭失圖,遂罷郊祀,奔歸大梁。

これより先、租庸使・戶部尚書の趙巌は、梁帝にいう。「陛下が踐祚して以來、まだ南郊しない。議者はいう。(南郊しない梁帝は)籓侯と異ならず、四方に軽んじられると。西都にゆき、郊禮を行え。宣陵に謁せ」と。
敬翔が諫めた。「いま劉鄩が敗れてから、公私は困竭する。人心は惴恐する。いま圜丘を展禮すれば、必ず賞賚を行わねばならない。虚名を慕って、実弊を受ける。晋王は河上にいる。梁帝は、軽々しく動くな。北方を平定するまで待て。本に報いてからでも、遅くない」と。梁帝はゆるさず。

『晋書』はいう。郊祀は帝王の重事である。本に報いて、始に反すなり。

己巳、洛陽にゆき、車服を閱し、宮闕を飾る。郊祀の日、楊劉が失守した。道路は訛言して「晉軍は、すでに大梁に入って、汜水(虎牢の険)を扼する」と。從官はみな家属を憂い、相顧・涕泣した。梁帝は、失圖を惶駭し、郊祀を罷めて、大梁に奔歸した。

ぼくは思う。これを「天命がない」というのだ。後漢末の群雄で、かってに天地を祭ったという記事はあるが。祭るその日に、重要な拠点が陥ちたという記事は少ない。おもしろい話だから、創作においては流用したいもの。


甲戌,以河南尹張宗奭為西都留守。
是歲,閩王審知為其子牙內都指揮使延鈞娶越主巖之女。

12月甲戌、河南尹の張宗奭を、西都留守とする。
この歳、閩王の審知は、子の牙內都指揮使の延鈞に、越主の劉巌の娘をめとらせた。130821

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918年春夏、

均王中貞明四年(戊寅,公元九一八年)

春、敬翔が「梁帝は軍事ができない」という

春,正月,乙亥朔,蜀大赦,復國號曰蜀。
帝至大梁,晉兵侵掠至鄆、濮而還。敬翔上疏曰:「國家連年喪師,疆土日蹙。陛下居深宮之中,所與計事者皆左右近習,豈能量敵國之勝負乎!先帝之時,奄有河北,親御豪傑之將,猶不得志。

春正月の乙亥ついたち、前蜀で大赦して、国号を「蜀」にもどす。

ぼくは思う。劉備のマネは、とくに利益がなかったらしい。2年でもどした。

梁帝が(洛陽から)大梁にいたる。晋兵は、鄆州と濮州を侵掠して還った。

晋国は、楊柳をぬく。楊柳は、鄆州の境界に属する。また西すれば、すぐに濮州の境界である。晋王は、このあたりにきた。

敬翔が上疏した。「国家は、連年の喪師(敗戦)で、領土は日に日に、せまくなる。陛下は、深宮のなかにいる。ともに計事する者は、みな左右の近習である。なぜ敵國之勝負を量れるか。

ぼくは思う。梁国の2代目は、軍事をしない。晋国の2代目は、軍事をする。これにより、晋国が領土をひろげる。なんの思想的なひねりもない、強弱の問題。
ぼくはいう。五代の特色とは。お盆休み明けに、小前亮氏『趙匡胤』を読んだ。武将が初代皇帝になり、親征でのみ領土を拡張。初代の死後、2代目が功臣に簒奪されるという図式。いま『通鑑』を読んでる朱氏の梁国も該当しそう。ただし思想?的な操作?を経ず、強弱だけを競うなら、五代のあり方のほうが自然。世襲が成立する王朝ほうが奇異。分析すべき対象。分析の意欲をそそられる対象。

先帝(朱晃)のとき、河北を奄有した。

開平のとき、幽州、滄州、鎮州、定州、魏州は、梁国についた。いま晋国にとられちゃったけど。

朱晃は、みずから豪傑之將を御したが、志を得なかった。

夾寨、柏郷、蓨県で、いずれも朱晃は晋王に敗れた。


今敵至鄆州,陛下不能留意。臣聞李亞子繼位以來,於今十年,攻城野戰,無不親當矢石,近者攻楊劉,身負束薪為士卒先,一鼓拔之。

いま敵の晋王は、鄆州に至る。陛下は、留意できない。私が聞くに、李亞子(李存勗)が晋王を継いで、10年たつ。攻城・野戰は、晋王みずから、矢石に当たる。今回の楊劉でも、晋王はみずから束薪を背負い、士卒に先んじた。1鼓で、たちまち楊柳を陥とした。

陛下儒雅守文,晏安自若,使賀瑰輩敵之,而望攘逐寇仇,非臣所知也。陛下宜詢訪黎老,別求異策。不然,憂未艾也。臣雖駑怯,受國重恩,陛下必若乏才,乞於邊垂自效。」疏奏,趙、張之徒言翔怨望,帝遂不用。

陛下は、儒雅・守文である。晏安・自若とする。賀瑰らを晋王に当てたが、寇仇された。賀瑰のことは私には分からない。陛下は、黎老を詢訪して、べつに異策を求めろ。さもなくば、憂は艾(おさ)まらない」と。
趙氏や張氏が「敬翔は怨望がある(からこんな意見を梁帝にいう)」という。梁帝は、敬翔の疏奏を用いない。

吳以右都押牙王祺為虔州行營都指揮使,將洪、撫、袁、吉之兵擊譚全播。嚴可求以厚利募贛石水工,故吳兵奄至虔州城下,虔人始知之。

呉国の右都押牙の王祺は、虔州行營都指揮使となる。洪、撫、袁、吉州の兵を合わせて、譚全播を撃つ。厳可求は、報酬を厚くして、贛石の水工を募った。ゆえに呉兵は、虔州の城下をふさぐ。虔人は、はじめてこれを知る

虔州から水路で吉州にいくとき、贛石という険しい地がある。呉国は、先に水工をつのり、水路に習熟した。虔州の城下を制圧することができた。


2月、

蜀太子衍好酒色,樂遊戲。蜀主嘗自夾城過,聞太子與諸王鬥雞擊球喧呼之聲,歎曰:「吾百戰以立基業,此輩其能守之乎!」由是惡張格,而徐賢妃為之內主,竟不能去也。信王宗傑有才略,屢陳時政,蜀主賢之,有廢立意。二月,癸亥,宗傑暴卒,蜀主深疑之。

前蜀の太子の王衍は、酒色を好み、遊戲を楽しむ。蜀主はかつて夾城を過ぎたら、太子と諸王が、闘雞や擊球で喧呼する声をきいた。

胡三省はいう。前蜀は、長安の制度にならい、夾城をつけて、諸王の宅とした。

蜀主は歎じた。「私は百戰して基業を立てた。やつらに守れるものか」と。これにより蜀主は、張格を悪む。徐賢妃を内主として、ついに排除できない。

張格が、王宗衍を太子に立てた。乾化2年である。

信王の王宗傑は、才略あり。しばしば時政をのべる。蜀主は、王宗を賢として、太子を廃立したい。2月癸亥、王宗傑がにわかに卒した。蜀主は深く(太子の王衍を)疑った。

河陽節度使、北面行營排陳使謝彥章將兵數萬攻楊劉城。甲子,晉王自魏州輕騎詣河上。彥章築壘自固,決河水,瀰浸數里,以限晉兵,晉兵不得進。彥章,許州人也。安彥之散卒多聚於兗、鄆山谷為群盜,以觀二國成敗,晉王招募之,多降於晉。

河陽節度使・北面行營排陳使の謝彦章は、数万をひきいて、(梁国が晋王に取られた)楊劉城を攻める。2月甲子、晉王は魏州から軽騎で、河上にくる。謝彦章は、築壘・自固して、河水を決する。數里がひたり、晉兵は進めない。

胡三省はいう。謝彦章は、梁国の騎将である。晋兵の衝突をおそれて、河を決壊させた。幽州と并州の突騎に、南兵は敵わない。古代からそうである。

謝彦章は、許州の人。安彦之の散卒は、おおくが兗州と鄆州の山谷で群盜となる。梁と晋の2国の勝敗を観ていた。晋王に招募され、おおくが晋国に降った。

己亥,蜀主以東面招討使王宗侃為東、西兩路諸軍都統。

2月己亥、蜀主は、東面招討使の王宗侃を、東西兩路の諸軍都統とした。

3月、

三月,吳越王鏐初立元帥府,置官屬。

3月,吳越王の銭鏐が、はじめて「元帥府」を立て、官属をおく。

夏4月、岐国が前蜀に、修好の使者を送る

夏,四月,癸卯朔,蜀主立子宗平為忠王,宗特為資王。
岐王復遣使求好於蜀。

夏4月の癸卯ついたち、蜀主は、子の王宗平を忠王とする。王宗特を資王とする。
岐王は、使者を再開して、前蜀に良好な関係を求めた。

岐国と前蜀は、乾化元年に関係が絶えた。むしろ戦闘してた。


己酉,以吏部侍郎蕭頃為中書侍郎、同平章事。
保大節度使高萬金卒。癸亥,以忠義節度使高萬興兼保大節度使,並鎮鄜、延。
司空兼門下侍郎、同平章事趙光逢告老,己巳,以司徒致仕。

4月己酉、吏部侍郎の蕭頃を、中書侍郎・同平章事とした。
保大節度使の高萬金が卒した。4月癸亥、忠義節度使の高萬興は、保大節度使を兼ねる。鄜州と延州も鎮する。

朱晃は、保塞軍を忠義軍と改めた。高萬興は、高萬金の兄である。兄弟で、鎮を並べたが、いま1つにあわせた。

司空兼門下侍郎・同平章事の趙光逢は、告老する。己巳、司徒致仕に。

5月、蜀主が瀕死、唐文扆が失脚、宋光嗣が立つ

蜀主自永平末得疾,昏瞀,至是增劇。以北面行營招討使兼中書令王宗弼沉靜有謀,五月,召還,以為馬步都指揮使。乙亥,召大臣入寢殿,告之曰:「太子仁弱,朕不能違諸公之請,逾次而立之。若其不堪大業,可置諸別宮,幸勿殺之。但王氏子弟,諸公擇而輔之。徐妃兄弟,止可優其祿位,慎勿使之掌兵預政,以全其宗族。」

蜀主は、永平末より病気で、ひどくなった。北面行營招討使・兼中書令の王宗弼は、沉靜で謀あり。5月、蜀主は王宗弼を召還して、馬步都指揮使とする。乙亥、大臣を召して寢殿に入れる。大臣に告げた。「太子は仁弱。私は諸侯の要請を、違えられず、この太子を立てた。

趙融が諸侯に、署して時事を表させたことをいう。

もし太子が大業に堪えなければ、諸別宮に天子に置け。太子を殺すな。王氏の子弟の中だけから、つぎの皇帝を立て、諸公が輔けてくれ。徐妃の兄弟は、禄位を優れさせ(ても)掌兵・預政をさせるな。徐氏の宗族を全うするためだ」と。

ぼくは思う。劉備の遺言のパクりなのか。劉備よりも、度量が小さい。
劉備の遺言のスケールについて。918年、前蜀の初代皇帝は遺言した。「もし太子に、覇業に堪える器量がなければ(退位させて)諸別宮に置け。殺すな」と。この前蜀は2年間だけ、国号を「大漢」にするなど、劉備との共通点があった。でも遺言のスケールが違った。冷静になると劉備のほうが突飛だけど。


內飛龍使唐文扆久典禁兵,參預機密,欲去諸大臣,遣人守宮門。王宗弼等三十餘人日至朝堂,不得入見,文扆屢以蜀主之命慰撫之,伺蜀主殂,即作難。遣其黨內皇城使潘在迎偵察外事,在迎以其謀告宗弼等。宗弼等排闥入,言文扆之罪,以天冊府掌書記崔延昌權判六軍事,召太子入侍疾。丙子,貶唐文扆為眉州刺史。翰林學士承旨王保晦坐附會文扆,削官爵,流瀘州。在迎,炕之子也。

内飛龍使の唐文扆は、久しく禁兵を典する。機密に參預する。諸大臣を去らせ、人をやり宮門を守らせる。王宗弼ら30余人は、朝堂にきても、蜀主に会えない。唐文扆は、しばしば蜀主之命をもって、王宗弼らを慰撫した。蜀主が殂するのを伺い、すぐに作難するつもり。
唐文扆の与党の内皇城使の潘在迎は、外事を偵察する。潘在迎は謀をもって、王宗室らに(蜀主が死にそうだと)告げた。王宗弼らは、排して闥入し、唐文扆の罪をいう。天冊府掌書記の崔延昌を、權判六軍事とする。

前蜀は、天策府をおく。乾化4年にある。唐文扆の罪をいって、崔延昌が、さきに判六軍事を奪ったのである。

太子を召して、侍疾に入らせる。丙子、唐文扆を貶めて、眉州刺史とする。翰林學士承旨の王保晦が、唐文扆に坐して、瀘州に流された。潘在迎は、潘炕の子である。

潘炕は、蜀主に親任された。中央では枢密をみて、地方では方鎮にいた。


丙申,蜀主詔中外財賦、中書除授、諸司刑獄案牘專委庾凝績,都城及行營軍旅之事委宣徽南院使宋光嗣。丁酉,削唐文扆官爵,流雅州。辛丑,以宋光嗣為內樞密使,與兼中書令王宗弼、宗瑤、宗綰、宗夔並受遺詔輔政。初,蜀主雖因唐制置樞密使,專用士人,及唐文扆得罪,蜀主以諸將多許州故人,恐其不為幼主用,故以光嗣代之。自是宦者始用事。

5月丙申、蜀主は、中外の財賦、中書の除授、諸司刑獄の案牘を、もっぱら庾凝績にゆだねた。都城および行營と軍旅之事を、宣徽南院使の宋光嗣のいゆだねた。丁酉、唐文扆の官爵をけずり、雅州に流す。辛丑、宋光嗣を、内樞密使とする。兼中書令の王宗弼、宗瑤、宗綰、宗夔とともに、遺詔を受けて輔政した。

ぼくは思う。唐文扆を排除して、重臣が新しくなった。

はじめ蜀主は、唐制にちなみ、樞密使を置くが、士人だけを用いた。唐文扆が罪を得ると、蜀主は諸将のおおくが許州の故人なので、幼主が彼らを用いられないと恐れた。

蜀主は、もとは許州の舞陽の人である。ゆえに諸将には、許州の人がおおい。ぼくは思う。故郷から連れてきた人々は、2代目を助けてくれないのか。

ゆえに宋光嗣を、唐文扆の代わりとした。これより宦官が、はじめて用事した。

前蜀を宦官が滅ぼす張本である。


6月、蜀主の王建が死ぬ

六月,壬寅朔,蜀主殂。癸卯,太子即皇帝位。尊徐賢妃為太后、徐淑妃為太妃。以宋光嗣判六軍諸衛事。乙卯,殺唐文扆、王保晦。命西面招討副使王宗昱殺天雄節度使唐文裔於秦州,免左保勝軍使領右街使唐道崇官。

6月の壬寅ついたち。蜀主が殂した。癸卯、太子が皇帝に即位した。徐賢妃を太后とし、徐淑妃を太妃とする。宋光嗣に、判六軍諸衛事させる。乙卯、唐文扆と王保晦を殺す。西面招討副使の王宗昱に、天雄節度使の唐文裔を、秦州で殺させる。

貞明2年、蜀主は唐文裔に岐国を伐たせ、秦州に鎮させた。

左保勝軍使・領右街使の唐道崇の官を免じる。

呉臣の徐知訓が、呉王や徐知誥をいじめる

吳內外馬步都軍使、昌化節度使、同平章事徐知訓,驕倨淫暴。威武節度使、知撫州李德誠有家妓數十,知訓求之,德誠遣使謝曰:「家之所有皆長年,或有子,不足以侍貴人,當更為公求少而美者。」知訓怒,謂使者曰:「會當殺德誠,並其妻取之!」
知訓狎侮吳王,無復君臣之禮。嘗與王為優,自為參軍,使王為蒼鶻,總角弊衣執帽以從。又嘗泛舟濁河,王先起,知訓以彈彈之。又嘗賞花於禪智寺,知訓使酒悖慢,王懼而泣,四座股慄。左右扶王登舟,知訓乘輕舟逐之,不及,以鐵撾殺王親吏。將佐無敢言者,父溫皆不之知。

呉国の內外馬步都軍使・昌化節度使・同平章事の徐知訓は、驕倨・淫暴である。威武節度使・知撫州の李德誠は、家妓が数十人いる。徐知訓が、李徳誠に「家妓をくれ」という。李徳誠「うちの家妓は、年長や子持で、貴人に侍らせるものでない。徐知訓には、年少で美しい者がよいでしょう」と。徐知訓「李徳誠を殺して、李徳誠の妻を取ってやる」と。

李徳誠の肩書から派生した地理につき、中華書局版8827頁。

徐知訓は、吳王を狎侮する。君臣之禮をしない。かつて呉王と徐知訓は優人となり、徐知訓んが参軍となる。呉王に蒼鶻・總角弊衣させ、執帽させて従わせる。またかつて、濁河に舟を浮かべる。王が先に起ち、徐知訓が王を弾でうった。またかつて、禪智寺で花をめで、徐知訓は酒に酔って悖慢となる。王は徐知訓を懼れて泣いた。四座は股慄とした。左右の者は、王を助けて登舟させる。徐知訓は、軽舟で呉王の舟をおう。追いつかないと、鐵撾で呉王の親吏を殺した。將佐する者は、敢えて口を開かない。父の徐温は、徐知訓のいたずらを知らない。

知訓及弟知詢皆不禮於徐知誥,獨季弟知諫以兄事禮之。知訓嘗召兄弟飲,知誥不至,知訓怒曰:「乞子不欲酒,欲劍乎!」又嘗與知誥飲,伏甲欲殺之,知諫躡知誥足,知誥陽起如廁,遁去,知訓以劍授左右刁彥能使追殺之。彥能馳騎及於中塗,舉劍示知誥而還,以不及告。

徐知訓および弟の徐知詢は、みな徐知誥に礼しない。

胡三省はいう。徐知誥が養子だからである。

ひとり末弟の徐知諫だけが、徐知誥に兄事した。徐知訓は、かつて兄弟を召して飲む。徐知誥が来ない。徐知訓は怒った。「徐知誥は酒が要らないなら、剣が欲しいのか」と。
またかつて、徐知誥と飲むとき、甲を伏せて、徐知誥を殺そうとした。末弟の徐知諫が、徐知誥の足を踏んで、いつわって厠所に行かせ、遁去させた。徐知訓は、左右の刁彦能に徐知誥を追わせた。刁彦能は、馳騎して中塗におよぶ。剣をあげて徐知誥に示しただけで還り、徐知訓には報告せず。

刁彦能は徐知訓に、追ったが追いつかなかったと(ウソを)告げたのだ。楊渥(呉王)と徐知訓による、徐知誥の扱いかたは、みな徐知訓を悪んでのものだ。


呉臣の朱瑾が、徐知訓を殺し、自害する

平盧節度使、同平章事、諸道副都統硃瑾遣家妓通候問於知訓,知訓強欲私之,瑾已不平。知訓惡瑾位加己上,置靜淮軍於泗州,出瑾為靜淮節度使,瑾益恨之,然外事知訓愈謹。瑾有所愛馬,冬貯於幄,夏貯於幬。寵妓有絕色。知訓過別瑾,瑾置酒,自捧觴,出寵妓使歌,以所愛馬為壽,知訓大喜。瑾因延之中堂,伏壯士於戶內,出妻陶氏拜之。知訓答拜,瑾以笏自後擊之踣地,呼壯士出斬之。

平盧節度使・同平章事・諸道副都統の朱瑾は、家妓を徐知訓のところに通候させる。徐知訓は、朱瑾の家妓をほしがった。朱瑾はすでに平らかでない。徐知訓は、朱瑾のほうが官位が上なので、朱瑾をにくむ。靜淮軍を泗州に置き、朱瑾を靜淮節度使とした。朱瑾は、ますます徐知訓をうらむ。だが外面では、ますます謹んで徐知訓に仕えた。
朱瑾は愛馬がいる。冬は幄に、夏は幬につなぐ。朱瑾には、絶色の寵妓がいる。徐知訓は(地方に赴任する)朱瑾に別れをいう。朱瑾は寵妓に歌わせ、愛馬を壽とした。徐知訓は大喜する。朱瑾は、徐知訓を中堂に連れてくる。壯士を戸内に伏せる。朱瑾の妻・陶氏が、朱瑾に拝した。徐知訓が答拜した。そのとき朱瑾は、笏で後ろから徐知訓を撃ち、地に倒した。壯士をよび、徐知訓を戸外に出して斬った。

瑾先系二悍馬於廡下,將圖知訓,密令人解縱之,馬相蹄嚙,聲甚厲,以是外人莫之聞。瑾提知訓首出,知訓從者數百人皆散走。瑾馳入府,以首示吳王曰:「僕已為大王除害!」王懼,以衣障面,走入內,曰:「舅自為之,我不敢知!」瑾曰:「婢子不足與成大事!」以知訓首擊柱,挺劍將出,子城使翟虔等已闔府門勒兵討之,乃自後逾城,墜而折足,顧追者曰:「吾為萬人除害,以一身任患。」遂自剄。

朱瑾は、さきに2匹の悍馬を、廡下につなぐ。徐知訓を殺すとき、ひそかに馬を放させた。馬が蹄嚙して、声が激しいので(徐知訓を殺害する音は)外人に聞かれない。朱瑾は、徐知訓の首を提げて出た。徐知訓の従者・数百人は、みな散走した。
朱瑾は瑾せて入府する。呉王に朱瑾の首を示した。「私が大王のために、害を除いた」と。呉王は懼れ、衣で顔をかくす。内に走り入った。呉王「舅(朱瑾)が自らやったのだ。私は知らない」と。朱瑾「婢子は、ともに大事を成すに足らず」と。

呉王の楊行密は、さきに朱氏をめとった。呉王の母が、朱瑾と同姓だから、呉王は朱瑾を「舅」とよぶのだ。

朱瑾は、徐知訓の首を柱に撃った。剣を抜いて出る。子城使の翟虔らは、すでに府門を閉じ、勒兵して朱瑾を討つ。朱瑾は後ろから城壁をこえた。墜ちて足を折った。追う者を顧った。朱瑾「私は万人のため害を除いた。なぜ一身に患を任うか」と。ついに自剄した。

徐知誥在潤州聞難,用宋齊丘策,即日引兵濟江。瑾已死,因撫定軍府。時徐溫諸子皆弱,溫乃以知誥代知訓執吳政,沉硃瑾屍於雷塘而滅其族。瑾之殺知訓也,泰寧節度使米志誠從十餘騎問瑾所向,聞其已死,乃歸。宣諭使李儼貧困,寓居海陵。溫疑其與瑾通謀,皆殺之。嚴可求恐志誠不受命,詐稱袁州大破楚兵,將吏皆入賀,伏壯士於戟門,擒志誠,斬之,並其諸子。

徐知訓の末弟・徐知誥は、潤州で難(徐知訓の殺害)を聞く。宋齊丘の策をもちい、即日に引兵して江をわたる。

『考異』が、このと経緯を論じる。中華書局版8829頁。
ぼくは思う。この末弟は、徐知訓にいじめられていたが、対応はするのね。

朱瑾が死に、徐知誥が軍府を撫定する。ときに、徐温の諸子は、みな弱い。父の徐温は、徐知誥を、徐知訓のかわりに呉国の執政とする。朱瑾の死体を雷塘に沈めて、朱氏の一族を滅した。
朱瑾が徐知訓を殺すと、泰寧節度使の米志誠は、10余騎をひきい、朱瑾の行き先を問う。朱瑾が死ぬと、歸った。宣諭使の李𠑊は貧困で、海陵に寓居する。

李𠑊は淮南を宣諭した。昭宗の天復2年である。

徐温は、李𠑊が朱瑾と通謀したと疑って、みな殺した。厳可求は、米志誠が命を受けないことを恐れ、いつわって「袁州が楚兵を大破した。将吏は入賀する」という。厳可求は、壯士を戟門に伏せ、米志誠とその諸子を斬った。

ぼくは思う。徐知訓が、呉王をいじめるエピソードは、いかにも徐知訓が横暴だが。呉国の秩序からすると、徐知訓が政権を持つことに、重臣たちの反対はなく、むしろ朱瑾が謀反人みたいな。正邪があるとしても、これだけじゃ、わからない。


6月、晋王が河を渡って、梁将の謝彦章を破る

壬戌,晉王自魏州勞軍於楊劉,自泛舟測河水,其深沒槍。王謂諸將曰:「梁軍非有戰意,但欲阻水以老我師,當涉水攻之。」甲子,王引親軍先涉,諸軍隨之,褰甲橫槍,結陳而進。是日水落,深才及膝。匡國節度使、北面行營排陳使謝彥章帥眾臨岸拒之,晉兵不得進,乃稍引卻,梁兵從之。及中流,鼓噪復進,彥章不能支,稍退登岸。晉兵因而乘之,梁兵大敗,死傷不可勝紀,河水為之赤,彥章僅以身免。是日,晉人遂陷濱河四寨。

6月壬戌、晉王は魏州からきて、楊劉で軍をねぎらう。みずから舟を浮かべて、河水を測る。深さは、槍が没するほど。晋王は諸将にいう。「梁軍は戦意がない。ただ水を阻み、わが晋軍を老わしめたいだけ。水を渡って攻めよう」と。
甲子、晋王はみずから軍をひきいて、先に渡る。諸軍が従う。褰甲・橫槍、結陳して進む。この日、水量が減り、深さは膝まで。匡國節度使・北面行營排陳使の謝彦章は、岸で晋軍をふせぐ。

この前と謝彦章の官職がかわってる。けだし河陽から、匡国に移った。

晋兵は進めずに、引却する。梁兵が従う。晋兵が中流にきて、鼓噪して反転する。梁将の謝彦章は支えられず、退いて登岸する。晋兵はこれに乗じて、梁兵を大敗させる。死傷者は記録できないほど。

胡三省はいう。岸(梁軍)と渡水(晋軍)で戦うときは、高所にいる者が有利である。両軍(梁軍と晋軍)とも水中にいるときは、勇ある者が有利である。ゆえに梁軍は敗れた。

河水は赤く染まる。謝彦章は、身を以て免じる。この日、晋人は濱河の(河に臨んだ)梁国の4寨を陷とした。

◆前蜀で張格が失脚、顧承郾が巻きこまれる

蜀唐文扆既死,太傅、門下侍郎、同平章事張格內不自安,或勸格稱疾俟命,禮部尚書楊玢自恐失勢,謂格曰:「公有援立大功,不足憂也。」庚午,貶格為茂州刺史,玢為榮經尉。吏部侍郎許寂、戶部侍郎潘嶠皆坐格黨貶官。格尋再貶維州司戶,庾凝績又奏徙格於合水鎮,令茂州刺史顧承郾伺格陰事。王宗侃妻以格同姓,欲全之,謂承郾母曰:「戒汝子,勿為人報仇,他日將歸罪於汝。」承郾從之。凝績怒,因公事抵承郾罪。

前蜀で唐文扆が死ぬと、太傅・門下侍郎・同平章事の張格は、内心は不安である。或者は張格に、稱疾・俟命せよという。禮部尚書の楊玢は、失勢を恐れて張格にいう。楊玢「あなたは援立大功がある。憂うに足らず」と。

張格が、諸侯に草表させ、王宗衍を太子にせよと請わせたことをいう。

6月庚午、張格を貶めて茂州刺史とする。楊玢を榮經尉とする。吏部侍郎の許寂と、戶部侍郎の潘嶠は、張格に坐して官職を貶められた。張格は、さらに維州司戶に落ちる。庾凝績が奏して、合水鎮(卭州)に徙す。茂州刺史の顧承郾に、ひそかに張格のことを伺わせる。
王宗侃の妻は、張格と同姓である。張格を全うさせたい。顧承郾の母にいう。「お前の子を戒めろ。人のために報仇するな。他日に罪を着せられる」と。顧承郾は従った。庾凝績は怒って、公事によって、顧承郾に罪をあてた。130821

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918年秋、

秋7月

◆前蜀を宋光嗣が衰えさせる

秋,七月,壬申朔,蜀主以兼中書令王宗弼為巨鹿王,宗瑤為臨淄王,宗綰為臨洮王,宗播為臨穎王,宗裔、宗夔及兼侍中宗黯皆為琅邪郡王。甲戌,以王宗侃為樂安王。丙子,以兵部尚書庾傳素為太子少保兼中書侍郎、同平章事。蜀主不親政事,內外遷除皆出於王宗弼。宗弼納賄多私,上下咨怨。宋光嗣通敏善希合,蜀主寵任之,蜀由是遂衰。

秋7月の壬申ついたち。蜀主は、兼中書令の王宗弼を巨鹿王とした。宗瑤を臨淄王、宗綰を臨洮王、宗播を臨穎王とする。宗裔と宗夔および、兼侍中の宗黯は、みな琅邪郡王となる。

典午より渡河してから、江左(東晋)では瑯邪の王を、衣冠の甲族とした。ゆえに、3人も瑯邪郡王がいる。

7月甲戌、王宗侃を樂安王とする。丙子、兵部尚書の庾傳素を、太子少保・兼中書侍郎・同平章事とする。

ぼくは思う。前蜀は、軍制と官制、爵制をいじり、太子をころころ変更することに、凝っている。おそらく、わりとヒマなんだろう。大唐の長安から流れてきた、文化資本のある貴族たちが、時間をつぶしている。ちょっと王莽めいているが。適用範囲が、蜀地だけと狭いので、混乱が起きない。

蜀主は、みずから政事しない。内外の遷除は、みな王宗弼から出る。王宗弼は、納賄を多私する。上下は咨怨む。宋光嗣は、敏善・希合に通じる。蜀主は、宋光嗣を寵任した。前蜀はこれにより、ついに衰えた。

ぼくは思う。王莽の趣味は、国家を衰退させる。少なくとも、史家にはそのように認識されている。
胡三省はいう。政事があれば、国は強まる。政事がなければ、国は衰える。衰えは、国を亡させること(浸食の速度が)が漸である。戒めないでおくべきか。


◆呉国で徐知誥が執政し、殺された徐知訓の逆を張る

吳徐溫入朝於廣陵,疑諸將皆預硃瑾之謀,欲大行誅戮。徐知誥、嚴可求具陳徐知訓過惡,所以致禍之由,溫怒稍解,乃命網瑾骨於雷塘而葬之,責知訓將佐不能匡救,皆抵罪;獨刁彥能屢有諫書,溫賞之。戊戌,以知誥為淮南節度行軍副使、內外馬步都軍副使、通判府事,兼江州團練使。以徐知諫權潤州團練事。溫還鎮金陵,總吳朝大綱,自餘庶政,皆決於知誥。

呉国の徐温は(昇州より)廣陵に入朝する。徐温は、諸將がみな、朱瑾の謀(徐知訓の殺害)に預かると疑い、おおいに誅戮を行おうとする。徐知誥と嚴可求は、徐知訓の過惡を具陳して、致禍の原因を説明する。徐温の怒りは解ける。朱瑾の遺骨を雷塘から網とすくい、葬ろうとする。

徐温は、実子の徐知訓に罪があることを知り、朱瑾を葬ることにしたのだ。

徐温は、徐知訓の將佐が、徐知訓を匡救できなかったので、みな抵罪とした。ひとり、刁彦能だけは、しばしば徐知訓に諫書したので、徐温は刁彦能を賞した。
7月戊戌、徐知誥を、淮南節度行軍副使・內外馬步都軍副使・通判府事・兼江州團練使とする。徐知諫を、權潤州團練事とする。徐温は金陵に還って鎮する。徐温が吳朝の大綱を総べる。それ未満の政事は、みな徐知誥が決裁する。

『考異』はいう。『十国紀年』によると、6月乙卯、徐知訓が殺された。それから44日で、徐温の体制ができた。けだし徐知誥が広陵にいたり、徐知訓の代わりに執政した。


知誥悉反知訓所為,事吳王盡恭,接士大夫以謙,御眾以寬,約身以儉。以吳王之命,悉蠲天祐十三年以前逋稅,餘俟豐年乃輸之。求賢才,納規諫,除奸猾,杜請托。於是士民翕然歸心,雖宿將悍夫無不悅服,以宋齊丘為謀主。

徐知誥は、ことごとく徐知訓の反対をやる。呉王に仕える態度は恭をつくす。士大夫に接する態度は謙たり。衆を御する態度は寬たり。身を約して倹たり。呉王の命をもち、天祐13年より前の税は免じ、それ以後の分は、豊年に輸させた。

唐梁革命により、淮南は「天祐」の年号をつかう。いま天祐15年である。徐知誥は、天祐14年以降の課税分だけを徴収した。

徐知誥は、賢才を求め、規諫を納れ、奸猾を除き、請托を杜した。

ぼくは思う。記号的、図式的、かつものすごく抽象的である。これじゃあ史料は、何も言っていないのと同じだ。情報量が増えていない。

ここにおいて士民は、翕然として歸心する。宿將・悍夫であっても、悅服しない者はない。宋齊丘を謀主とする。

◆徐知誥が宋斉丘を謀主とし、密談する

先是,吳有丁口錢,又計畝輸錢,錢重物輕,民甚苦之。齊丘說知誥,以為「錢非耕桑所得,今使民輸錢,是教民棄本逐末也。請蠲丁口錢;自餘稅悉輸谷帛,紬絹匹直千錢者當稅三十。」或曰:「如此,縣官歲失錢億萬計。」齊丘曰:「安有民富而國家貧者邪!」知誥從之。由是江、淮間曠土盡辟,桑柘滿野,國以富強。

これより先、呉国には「丁口錢」がある。また「畝輸錢」を計する。銭の価値が重く、物の価値が軽い。民は苦しむ。宋斉丘は、徐知誥にいう。「銭は、耕桑せずに得られる。民に輸錢させれば、民に本業(耕桑=第一次産業)を棄てて、末業を逐わせる。丁口錢を免じろ。税収は、穀帛から確保せよ。絹を1匹つむいだら、1千銭の価値にあたれば、税を30銭かけろ」と。

税制について、漢代からの注釈あり。中華書局版8832頁。ちゃんとやるなら、先行研究を読めば良いのだが。また後日、、もやらないな。きっと。

或者がいう。「そうしたら、縣官は、1年あたりに億萬の銭による税収を失う」と。宋斉丘「民が富み、国家だけが貧することがあろうか」と。徐知誥は、宋斉丘に従う。これより、江淮の間では、曠土は辟を尽くされ(未耕の地がなくなり)桑柘は野に満ちる。国は富強となる。

知誥欲進用齊丘而徐溫惡之,以為殿直、軍判官。知誥每夜引齊丘於水亭屏語,常至夜分,或居高堂,悉去屏障,獨置大爐,相向坐,不言,以鐵箸畫灰為字,隨以匙滅去之,故其所謀,人莫得而知也。

徐知誥は、宋斉丘を進用したが、(徐知誥の父の)徐温は宋斉丘を悪んだ。

胡三省はいう。宋斉丘は、徐知誥のために謀り、徐温の政権を奪いたい。これを徐温が知ったら、どうして宋斉丘は悪まれるだけですむか(殺される)。けだし宋斉丘の人となりは、軽佻で偏躁なので、徐温に悪まれた。

宋斉丘を、殿直・軍判官とした。

殿直とは、これをして呉殿に入直させる官職。軍判官とは、軍判官を行する。

徐知誥は夜ごとに、宋斉丘を水亭で屏語(視線を遮って密談)する。つねに夜半まで。あるいは高堂にいて、屏障を撤去して、大爐だけを置き、向きあって座る。

屏障を撤去するのは、誰かが隠れて見ているのを、防ぐためである。

しゃべらず、鉄箸で灰に字を書く。匙で文字を滅去する。ゆえに、徐知誥と宋斉丘の謀ることは、だれも知らない。

◆呉将の劉信が虔州を攻め、呉越の傳球が援軍する

虔州險固,吳軍攻之,久不下,軍中大疫,王祺病,吳以鎮南節度使劉信為虔州行營招討使,未幾,祺卒。譚全播求救於吳越、閩、楚。吳越王鏐以統軍使傳球為西南面行營應援使,將兵二萬攻信州;楚將張可求將萬人屯古亭,閩兵屯雩都以救之。

虔州は險固である。呉軍は虔州を(2月から)攻めるが、久しく下せず。軍中は大疫する。王祺は病む。呉国は、鎮南節度使の劉信を、虔州行營招討使とする。すぐに王祺は卒した。譚全播は、呉越、閩、楚に、救いを求めた。吳越王の銭鏐は、統軍使の傳球を、西南面行營應援使とする。傳球は2万をひきい、信州を攻める。

「統軍使」とは、呉越がおいた官職である。

楚將の張可求は、1万で古亭に屯する。閩兵は、雩都に屯する。いずれも呉国の虔州攻めを救う。

信州兵才數百,逆戰,不利;吳越兵圍其城。刺史周本,啟關張虛幕於門內,召僚佐登城樓作樂宴飲,飛矢雨集,安坐不動;吳越疑有伏兵,中夜,解圍去。吳以前舒州刺史陳璋為東南面應援招討使,將兵侵蘇、湖,錢傳球自信州南屯汀州。晉王遣間使持帛書會兵於吳,吳人辭以虔州之難。

信州の兵は数百ばかりだが、呉越を逆戰する。利せず。呉越の兵は、信州の城を囲む。虔州刺史の周本は、関をひらき、虛幕を門内に張る。僚佐を召して、城樓に登らせ、作樂・宴飲する。飛矢が雨集するが、安坐して動かず。呉越の兵は、伏兵を疑う。中夜に包囲を解いて去る。
呉国は、前舒州刺史の陳璋を、東南面應援招討使とする。兵をひきい、蘇、湖を侵する。呉越の錢傳球は、信州から南して汀州に屯する。

『九域志』によると、汀州を北して480里で虔州に至る。兵を移して汀州に屯し、虔州を救うことを示す。

晉王は、間使をつかわし、帛書を持たせて、呉越と呉軍を会させる。呉人は、虔州之難を理由に辞する。

ぼくは思う。晋王が、呉国と呉越に、指示もしくは調整をする立場になっている。まるで、春秋期の盟主だなあ。


8月、晋王が梁軍に突撃し、伏兵にあう

晉王謀大舉入寇,周德威將幽州步騎三萬,李存審將滄景步騎萬人,李嗣源將邢洺步騎萬人,王處直遣將將易定步騎萬人,及麟、勝、雲、蔚、新、武等州諸部落奚、契丹、室韋、吐谷渾,皆以兵會之。八月,並河東、魏博之兵,大閱於魏州。

晉王は、大舉・入寇を謀る。周德威は、幽州の歩騎3万をひきいる。李存審は、滄州と景州の歩兵1万をひきいる。李嗣源は、邢洺の歩騎1万をひきいる。王處直は、易州と定州の歩騎1万をひきいる。麟、勝、雲、蔚、新、武州らの諸部落である奚、契丹、室韋、吐谷渾は、みな兵を以て会する。

ぼくは思う。契丹も来てこれたのか。阿保機に一元管理されているのでは、ないのだろう。よく分からん。

8月、河東と魏博の兵をあわせ、晋王が魏州で大閱する。

胡三省はいう。兵事は、軍衆を用いることに、難しさはない。今回の戦役は、晋兵が先に敗れ、周徳威の父子が死ぬ。晋王は、特に危うく、のちに済われる。
ぼくは思う。すごいネタバレ!っていうか、この兵数だったら、晋王が梁帝を降伏させても、おかしくないよね。


◆1ブロックだけ前蜀の記事

蜀諸王皆領軍使,彭王宗鼎謂其昆弟曰:「親王典兵,禍亂之本。今主少臣強,讒間將興,繕甲訓士,非吾輩所宜為也。」因固辭軍使,蜀主許之,但營書捨、植松竹自娛而已。

前蜀の諸王は、みな領軍使である。彭王の王宗鼎は、昆弟にいう。「親王が典兵するのが、禍亂の原因である。いま蜀主は幼く、臣は強い。讒間が興りそう。甲を繕い、士を訓じる。まずい状況だ」と。王宗鼎は軍使を辞した。蜀主は許す。ただ書舎をつくり、松竹を植えて娯しむだけ。

史家はいう。王宗鼎による保身の謀は、維城の助なし。


泰寧節度使張萬進,輕險好亂。時嬖倖用事,多求賂於萬進,萬進聞晉兵將出,己酉,遣使附於晉,且求援。以亳州團練使劉鄩為兗州安撫制置使,將兵討之。

泰寧節度使の張萬進は、軽険で乱を好む。ときに用事を嬖倖する。多くの賄賂を、張萬進が求めた。張萬進は、晋兵が出そうと聞き、9月己酉、晋王に使者して、晋国につき、援を求めた。
梁国では、亳州團練使の劉鄩を、兗州安撫制置使として、晋軍を討つ。

『考異』が時期について異説を載せる。中華書局版8834頁。


◆また1ブロックだけ前蜀の記事

甲子,蜀順德皇后殂。
乙丑,蜀主以內給事王廷紹、歐陽晃、李周輅、宋光葆、宋承蘊、田魯儔等為將軍及軍使,皆干預政事,驕縱貪暴,大為蜀患,周庠切諫,不聽。晃患所居之隘,夜,因風縱火,焚西鄰軍營數百間,明旦,召匠廣其居;蜀主亦不之問。光葆,光嗣之從弟也。

8月甲子、前蜀の順德皇后が殂じた。

王建の正室の周氏である。

8月乙丑、蜀主は、内給事の王廷紹、歐陽晃、李周輅、宋光葆、宋承蘊、田魯儔らを、將軍および軍使とする。みな政事に干預する。驕縱で貪暴。おおいに前蜀の患となる。周庠は切諫するが、聽さず。
歐陽晃は、所居がせまいから、夜に風にのせて火をつけ、西鄰の軍営を數百間も焼く。明旦、匠を召して、居所を広げさせる。蜀主は、歐陽晃を不問とする。宋光葆は、宋光嗣の從弟である。

ぼくは思う。火事で居所を広げる。理にかなって、すばらしいw
ぼくは思う。晋国と魏国の決戦がせまっているのに。前蜀のくだらない記事を、ちょこちょこ、挟みこむのは辞めてほしい。また、ぼくの頭のなかが、すでに毒されているのか。五代十国の地図は複雑だが、『資治通鑑』を読む限り、三国志でインストールした地図でも、わりと記事を追うことができる。中原(梁国と晋国)と、蜀地(前蜀)と関中(岐国)、呉地(呉越や呉国)の記述がおおい。ちょいちょい顔をだす荊州(楚王の馬殷)と、北方や南方の異民族。特定の地形の上での天下の争い方は、わりと決まってくるのかも。


晉王自魏州如楊劉,引兵略鄆、濮而還,循河而上,軍於麻家渡。賀瑰、謝彥章將梁兵屯濮州北行台村,相持不戰。晉王好自引輕騎迫敵營挑戰,危窘者數四,賴李紹榮力戰翼衛之,得免。趙王鎔及王處直皆遣使致書曰:「元元之命繫於王,本朝中興繫於王,奈何自輕如此!」王笑謂使者曰:「定天下者,非百戰何由得之!安可但深居帷房以自肥乎!」

晋王は、魏州から楊劉にゆく。引兵して、鄆州と濮州とを略して還る。循河して上る。麻家渡(濮州の境)に軍する。賀瑰と謝彦章は、梁兵をひきいて、濮州に屯する。行台村に北する。相持して戦わず。

胡三省はいう。敵の力量をはかるが、勝てるとは思えない。おのおの状況の変化を、利用しよとしている。

晉王は、みずから輕騎をひき、敵の軍営に迫って挑戦する。晋王が危機に陥ること、4たび。李紹榮が守って、晋王は危機を免れた。趙王の王鎔王處直は、晋王に文書をわたす。

ぼくは思う。王鎔と王處直は、いつもセットで行動するなあ。

「元元之命は、王につながる。本朝の中興は、王につながる。なぜ自らをそのように軽んじるか」と。晋王は使者に笑う。「天下を定める者は、百戦をせずに、どうして結果を得られようか。ただ帷房に深居して、自分を肥やすだけでは、結果を得られない」と。

胡三省はいう。晋王の言葉は、王鎔に向けたもの。しかるに王鎔は、祖父の事業を守ることを志し、みずから豢養(豢と養は同義)した。晋王の志は、梁国を滅ぼして、恥を雪ぐこと。梁国を滅ぼし、荘宗の志を満たせば、田猟に駆け回り、帷房にいたくないという。晋王は、帷房にいて、自ら禍いのあること(殺害されること)を知らない。
ぼくは思う。王鎔は晋王と違って、安全な場所で、肥えているタイプ。


一旦,王將出營,都營使李存審扣馬泣諫曰:「大王當為天下自重。彼先登陷陳,將士之職也,存審輩宜為之,非大王之事也。」王為之攬轡而還。他日,伺存審不在,策馬急出,顧謂左右曰:「老子妨人戲!」王以數百騎抵梁營,謝彥章伏精甲五千於堤下;王引十餘騎度堤,伏兵發,圍王數十重,王力戰於中,後騎繼之者攻之於外,僅得出。會李存審救至,梁兵乃退,王始以存審之言為忠。

一旦、晋王が軍営を出ると、都營使の李存審は、扣馬して泣諫した。「大王は、天下のために自重せよ。先登して陷陣するのは、將士の職務だ。わたくし李存勗のような者の職務だ。大王の職務でない」晋王は、攬轡して還る。
他日、李存審がいないときを伺い、晋王は策馬して急出する。左右に顧みていう。晋王「老人や子供が、人の戯れを妨げる」と。

胡三省はいう。戦さを戯れとする。なんと晋王の軽薄なことか。のちに、李嗣源が大梁に入るのを聞くとは、どれほど晋王が衰えたことか。
ぼくは思う。晋王の李存勗の末路は、おいおい読んでゆきます。あと8年分。

晋王は数百騎で、梁營にあたる。梁将の謝彦章は、精甲5千を堤下に伏せる。晋王は10余騎をひき、堤をわたる。梁軍の伏兵が発して、晋王を数十重に囲む。晋王は、包囲のなかで力戦する。あとの騎馬がきて、包囲の外側から攻めた。ぎりぎり晋王は出られた。
たまたま李存審が救いにきた。梁兵がひく。晋王は李存審の発言を「忠」とした。

ぼくは思う。おせーよ、粗忽者。
史家はいう。晋王は、勇にして軽。しばしば危殆を経験する。免れられたのは、幸運である。なんども危機にあい、なんども死なずにすんだのは、李存勗がたすけたおかげである。「老子が人の戯れを妨げる」と言えたものか。


吳劉信遣其將張宣等夜將兵三千襲楚將張可求於古亭,破之;又遣梁詮等將兵擊吳越及閩兵,二國聞楚兵敗,俱引歸。
梅山蠻寇邵州,楚將樊須擊走之。

呉将の劉信は、將の張宣らに3千をつけ、楚將の張可求を古亭で夜襲して破る。また呉将の劉信は、梁詮に呉越および閩兵を撃たせる。呉越と閩国は、楚兵が敗れたと聞き、ともに引歸する。

胡三省はいう。虔州の勢が孤立したのだ。

梅山の蛮族が、邵州を寇する。楚將の樊須が、擊って走らす。

梅山蛮は、邵州の境界に居住する。


9月、呉将の劉信の子・劉英彦が虔州を攻める

九月,壬午,蜀內樞密使宋光嗣以判六軍讓兼中書令王宗弼,蜀主許之。

9月壬午、前蜀の内樞密使の宋光嗣は、判六軍の権限を、兼中書令の王宗弼に譲る。蜀主はこれを許した。

吳劉信晝夜急攻虔州,斬首數千級,不能克;使人說譚全播,取質納賂而還。徐溫大怒,杖信使者。信子英彥典親兵,溫授英彥兵三千,曰:「汝父居上游之地,將十倍之眾,不能下一城,是反也!汝可以此兵往,與父同反!」又使升州牙內指揮使硃景瑜與之俱,曰:「全播守卒皆農夫,饑窘逾年,妻子在外,重圍既解,相賀而去,聞大兵再往,必皆逃遁,全播所守者空城耳,往必克之。」

呉将の劉信は、昼夜に(楚国の)虔州を急攻する。數千級を斬首するが、克てない。劉信は使者をやり、譚全播に説き、人質を取り、賄賂を納れて還る。徐温は大怒して、劉信を杖刑とする。劉信の子・劉英彦は、親兵を典する。徐温は劉英彦に3千をさずける。徐温「お前の父(劉信)は、上游之地にいて、敵の10倍をひきい、1城も下せない。

劉信の本鎮は洪州である。南江は、洪州より湖口の馬当に至り、大江に会する。廬龍は、江の下流にあたる。ゆえに劉信の任地を「上游之地」というのだ。ときに淮南の呉王は、虔州の10倍の兵力で攻めた。

劉信は呉国に反するか。劉英彦は3千の兵でゆき、父とともに呉国に反するか」と。

ぼくは思う。これは、際どい徴発なんだろう。「もし功績がなければ、呉国への謀反と見なすから、そのつもりで」という。徐温は、わりにパワハラが好きである。

また徐温は、昇州牙內指揮使の朱景瑜を、劉英彦とともに行かせる。徐温「楚将の譚全播の守卒は、みな農である。歳をまたいで飢え、妻子は城外におり、(呉将の劉信による)重囲は解けた。あい賀して去った。大兵が再来したと聞けば、必ず逃遁する。譚全播は、空城を守るだけである。必ず克て」と。130821

史家はいう。徐温はすでに、よく将を御する。またよく敵を見定める。
ぼくは思う。ネタバレをすると。徐知訓が殺され、養子の徐知誥が呉国を執政するが、この徐知誥が「南唐」の建国者。その父の徐温が、たんなる将でなく、「将の将」だったとしても、なるほどー、という感じ。太祖・武皇帝を贈られる。

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918年冬、

冬11月、虔州が敗れ、呉将の劉信が勝つ

冬,十一月,壬申,蜀葬神武聖文孝德明惠皇帝於永陵,廟號高祖。
越主巖祀南郊,大赦,改國號曰漢。

冬11月壬申、前蜀は、神武聖文孝德明恵皇帝(王建)を、永陵に葬る。廟號は高祖とする。
越主の巖祀が南郊する。大赦して、國號を「漢」とする。

ぼくは思う。後梁よりも先に南郊してしまった!


劉信聞徐溫之言,大懼,引兵還擊虔州。先鋒始至,虔兵皆潰,譚全播奔雩都,追執之。吳以全播為右威衛將軍,領百勝節度使。
先是,吳越王鏐常自虔州入貢,至是道絕,始自海道出登、萊,抵大梁。

劉信は、徐温の言を聞き、大懼して、引兵して還って虔州を撃つ。

ぼくは補う。徐温は劉信に「10倍の兵力があるのに、楚国の虔州を落とせないのは、呉国に対する謀反である」と言われたのだ。

先鋒は到着すると、虔兵はみな潰れた。譚全播は、雩都に奔る。劉信は、譚全播を追って捕らえた。呉将は、譚全播を右威衛將軍・領百勝節度使とする。

胡三省はいう。虔兵のくずれは、徐温の予想したとおり。
僖宗の光啓元年、譚全播は、廬光稠を推して、虔州に拠った。とちゅうで2姓が交代して、譚全播のときに敗北した。

これより先、吳越王の銭鏐は、つねに虔州より入寇された。ここにいたり(虔州が呉国に属したので)虔州と呉越の道は絶えた。(呉越を避けて)海道より、登州、萊州に出るようになり、大梁にあたる。

呉越への虔州からの入貢は、貞明2年にある。
これすなわち、閩州と越州が、大梁に入貢するとき、水路を使ったとわかる。ただ呉越は、かならず許浦もしくは定海に、舟をつけた。水路は、閩州にくらべて近い。
ぼくは思う。地理がよくわからん。後日。三国に比べて、勢力が細分化すると、あいだに1つでも敵対する国があったら、陸路を行けない。魏呉蜀のように単純ではない。


呉臣の厳可求が、徐温に呉帝の推戴を勧める

初,吳徐溫自以權重而位卑,說吳王曰:「今大王與諸將皆為節度使,雖有都統之名,不足相臨制;請建吳國,稱帝而治。」王不許。
嚴可求屢勸溫以次子知詢代徐知誥知吳政,知誥與駱知祥謀,出可求為楚州刺史。可求既受命,至金陵,見溫,說之曰:「吾奉唐正朔,常以興復為辭。今硃、李方爭,硃氏日衰,李氏日熾。一旦李氏有天下,吾能北面為之臣乎?不若先建吳國以系民望。」溫大悅,復留可求參總庶政,使草具禮儀。知誥知可求不可去,乃以女妻其子續。

はじめ呉国の徐温は、權が重いが位が卑いので、呉王に説く。徐温「いま大王と諸将は、どちらも節度使となる。都統之名があるが、相臨制が足りない。吳國を建て、呉王は称帝して治めろ」と。呉王は許さず。

ぼくは思う。呉王が皇帝になれば、徐温の称号も、ひっぱられて上がることができる。呉王が節度使の同輩に過ぎなければ、徐温の称号は頭打ちである。
胡三省はいう。大唐は呉王の楊行密に、諸道行営都統を授けた。子の楊渥と楊隆演は、位を嗣いだ。みな、宣諭使の李𠑊が、承制して授けたものである。

厳可求はしばしば徐温に勧めた。「次子の徐知詢を、徐知誥と代えて、呉国の政治を知させよ」と。徐知誥と駱知祥は、厳可求の謀を知る。厳可求を出して、楚州刺史とする。厳可求は受命して、金陵に至り、徐温に会っていう。「私は大唐の正朔を奉る。つねに大唐の興復を辞とする。いま朱氏と李氏(梁国と晋国)が争い、朱氏が衰え、李氏が熾んとなる。いちど李氏が天下を有すれば、私は北面して臣となれるか。さきに呉国を建国して(大唐を支持し、かつ李氏の晋国を支持しない)民の望みをつなぐほうが良い」と。

ぼくは思う。この時点では、晋王は李姓だが、大唐を復興するために「後唐」を立てることなど、気づかれていない。そして、李氏の血縁者でない晋王が、「後唐」を立てることにこそ、ウソがある。厳可求のセリフを見ると、後唐のウソ(政治的な作為)がよくわかる。李氏なら、だれでも唐を立てるのではない。

徐温は大悦した。ふたたび厳可求を留めて、庶政に參總させる。禮儀(呉帝に建国させる儀注)を草具させる。徐知誥が厳可求を地方に去らせられないので、娘を、子の厳続の妻とした。

胡三省はいう。のちに厳続が、南唐の宰相となる。


12月、歩兵将の賀瑰が、騎兵将の謝彦章を殺す

晉王欲趣大梁,而梁軍扼其前,堅壁不戰百餘日。十二月,庚子朔,晉王進兵,距梁軍十里而捨。

晋王は、大梁にゆきたい。だが梁軍が、晋王の進路を扼する。堅壁して、1百余日、戦わない。12月庚子ついたち、晋王は兵を進める。梁軍までの距離は、10里にして1舎。

麻家渡より、兵を進めて、行台村にせまる。


初,北面行營招討使賀瑰善將步兵,排陳使謝彥章善將騎兵,瑰惡其與己齊名。一日,瑰與彥章治兵於野,瑰指一高地曰:「此可以立柵。」至是,晉軍適置柵於其上,瑰疑彥章與晉通謀。瑰屢欲戰,謂彥章曰:「主上悉以國兵授吾二人,社稷是賴。今強寇壓吾門,而逗遛不戰,可乎!」彥章曰:「強寇憑陵,利在速戰。今深溝高壘,據其津要,彼安敢深入!若輕與之戰,萬一蹉跌,則大事去矣。」

はじめ、北面行營招討使の賀瑰は、よく歩兵をひきいる。排陳使の謝彦章は、よく騎兵をひきいる。賀瑰は、謝彦章と自分の名声が斉しいのを悪んだ。
ある1日、賀瑰と謝彦章は、野で治兵した。賀瑰は1つの高地を指さした。「ここに柵を立てるべきだ」と。ここにいたり、たまたま晋軍が、賀瑰が柵を立てた地の上にきた。賀瑰は、謝彦章が晋王と通謀したと疑った。賀瑰はしばしば戦おうとして、謝彦章にいう。賀瑰「主上の梁帝は、すべての国兵を我ら2人に授け、社稷の頼りとした。いま強寇=晋兵が、わが門を圧したが、逗遛して戦わない。この状況で良いだろうか」と。謝彦章「強寇が憑陵するとき、利は速戰にあり。いま晋兵は、深溝・高壘して、津要に拠る。晋兵は、どうして深入してこようか。もし軽んじて晋兵と戦い、万が一に蹉跌があれば、大事は去ってしまう」と。

胡三省はいう。謝彦章は、持久戦により晋兵を疲れさせたい。賀瑰は、勝負の1戦をしたい。両者の智識には、確固たるひらきがある。


瑰益疑之,密譖之於帝,與行營馬步都虞候曹州刺史硃珪謀,因享士,伏甲,殺彥章及濮州刺史孟審澄、別將侯溫裕,以謀叛聞。審澄、溫裕,亦騎將之良者也。丁未,以硃珪為匡國留後,癸丑,又以為平盧節度使兼行營馬步副指揮使以賞之。

賀瑰は、ますます謝彦章を(晋国と通じるのではないかと)疑った。ひそかに梁帝に、謝彦章をそしった。行營馬步都虞候・曹州刺史の朱珪とともに謀って、賀瑰は、謝彦章および濮州刺史の孟審澄、別將の侯溫裕を殺した。謀反があったと奏してである。孟審澄、侯溫裕もまた、騎將の良者であった。

ぼくは思う。歩兵をひきいる賀瑰が、騎兵をひきいる謝彦章たちを殺した。兵科がちがうから、スルーすれば良かったのに。これにより、梁軍は騎兵の良将がいない。なにかの伏線だろうか。

12月丁未、朱珪を匡國留後とする。癸丑、朱珪を平盧節度使・兼行營馬步副指揮使とする。(賀瑰の要請により)朱珪を賞した。

12月、晋王が梁都に直進、周徳威が乱兵に殺さる

晉王聞彥章死,喜曰:「彼將帥自相魚肉,亡無日矣。賀瑰殘虐,失士卒心,我若引軍直指其國都,彼安得堅壁不動!幸而一與之戰,蔑不勝矣。」王欲自將萬騎直趣大梁,周德威曰:「梁人雖屠上將,其軍尚全,輕行徼利,未見其福。」不從。戊午,下令軍中老弱悉歸魏州,起師趨汴。庚申,毀營而進,眾號十萬。

晉王は、謝彦章の死を聞いて、喜んだ。「梁将は、味方同士で食いあう。すぐに亡びる。賀瑰は殘虐で、士卒の心を失う。もし私が引軍して、直接に国都をねらえば、梁軍は堅壁して動かずにいられようか。幸して、ともに1戦し、勝たざるを蔑む(勝って当然だ)」と。
晋王は、みずから1万騎をひきい、大梁に直接ゆきたい。周德威「梁人は上將を屠ったが、その軍は、なお全である。輕行して徼利しても、福は見えない」と。晋王は従わず。
12月戊午、軍中の老弱を、すべて魏州に還らせる。師を起し、汴に趨る。庚申、営を毀ちて進む。10万と号する。

辛酉,蜀改明年元曰乾德。

12月辛酉、前蜀は明年を「乾德」元年とする。

ぼくは思う。前蜀の改元は、毎年である。一世一元ならぬ、一年一元の制度でも、運用しているのだろうか。まさかね。


賀瑰聞晉王已西,亦棄營而踵之。晉王發魏博白丁三萬從軍,以供營柵之役,所至,營柵立成。壬戌,至胡柳陂。癸亥旦,候者言梁兵自後至矣。周德威曰:「賊倍道而來,未有所捨,我營柵已固,守備有餘,既深入敵境,動須萬全,不可輕發。此去大梁至近,梁兵各念其家,內懷憤激,不以方略制之,恐難得志。王宜按兵勿戰,德威請以騎兵擾之,使彼不得休息,至暮營壘未立,樵爨未具,乘其疲乏,可一舉滅也。」王曰:「前在河上恨不見賊,今賊至不擊,尚復何待,公何怯也!」顧李存審曰:「敕輜重先發,吾為爾殿後,破賊而去!」即以親軍先出。德威不得已,引幽州兵從之,謂其子曰:「吾無死所矣。」

賀瑰は、すでに晋王が西したと聞く。

行台村より、大梁にゆく。東から西に移動する。

賀瑰は、営を棄てて、その跡地を踵む。晉王が魏博を発して、丁3万を従軍させるという。營柵を供する役を指示しており、ここにいたり、營柵が立成した。壬戌、賀瑰は胡柳陂に至る。

胡柳陂は、濮州の之詩、臨濮県の境にある。

癸亥の旦、候者は、梁兵が後ろから至るという。晋将の周德威「賊は2倍の速さできて、まだ舎していない。わが營柵は、すでに固い。守備は余りある。すでに敵境に深入する。動くなら萬全にすべきだ。輕く發すべきでない。ここから大梁は至近である。梁兵はその家を思い、内では憤激をいだく。方略がなく制圧すれば、志を得がたいと恐れる。晋王は、兵を按ぜよ。戦うな。周徳威は騎兵に、梁軍を擾せよと請う。梁軍を休息させない。暮になり、梁軍の營壘が立たぬうちに、疲乏に乗じて、一挙に滅ぼそう」と。

胡三省はいう。この方法は、周徳威が王景仁を破った方法だ。もし晋王が、この周徳威の意見を用いたら、賀瑰は必ず支えられなかった。梁国の事業は去っていた。李嗣源が東平で勝つのを待つ必要はなかった。

晋王「まえに河上で、戦えなかったのを恨む。いま賊がきたのに(すぐに攻撃する、日暮まで)撃たねば、また戦いを回避される。周徳威はなにを怯むのか」と。李存審を顧みていう。晋王「輜重を先に発せよ。私は輜重の殿後になる。賊を破って去れ」と。

晋王はすでに先に出る。周徳威がもし晋王に従って兵を続けねば、「顧望して進まず」となる。まことにやむを得ないことだ。史書はその心を(的確に)言っている。

晋王はみずから先に出た。周徳威はやむを得ず、幽州の兵をひいて従う。周徳威は、その子に「私は死に場所がない」といった。

ぼくは思う。納得のできる的確な死に場所がないのだ。おそらく、晋王がふらふらと出て行けば、死ぬべきでない場所で、周徳威が死ぬのだろう。さきがどうなるのか、楽しみ。


賀瑰結陳而至,橫亙數十里。王帥銀槍都陷其陳,沖蕩擊斬,往返十餘里。行營左廂馬軍都指揮使、鄭州防禦使王彥章軍先敗,西走趣濮陽。晉輜重在陳西,望見梁旗幟,驚潰,入幽州陳,幽州兵亦擾亂,自相蹈藉;周德威不能制,父子皆戰死。魏博節度副使王緘與輜重俱行,亦死。

梁将の賀瑰は、陣を結んで至る。横は数十里にわたる。王帥の銀槍都は、その陣を陥とす。沖蕩・擊斬して、10餘里を往返する。行營左廂馬軍都指揮使・鄭州防禦使の王彦章は、さきに敗れて、西走して濮陽にゆく。
晋軍の輜重は、陣西にある。梁軍(王彦章)の旗幟を望見して、驚潰し、幽州の陣に入る。幽州の兵もまた擾亂する。蹈藉しあう。周德威は幽州の兵を制せられず、父子ともに戦死した。魏博節度副使の王緘は、輜重とともに行軍していたが、王緘も死んだ。

ぼくは思う。晋国の輜重の部隊が、梁軍の敗将がにげてきたのを見て、ぎゃくに驚かされ、パニックを起こした。晋将の周徳威を失ってしまった。何がおこるか、ほんとうに分からんなあ。
胡三省はいう。幽州の兵の陣が擾乱すると、周徳威の勇があっても、1夫の働きしかできない。


晉兵無復部伍。梁兵四集,勢甚盛。晉王據高丘收散兵,至日中,軍復振。陂中有土山,賀瑰引兵據之。晉王謂將士曰:「今日得此山者勝,吾與汝曹奪之。」即引騎兵先登,李從珂與銀槍大將王建及以步卒繼之,梁兵紛紛而下,遂奪其山。

晉兵は、部伍がもどらない。梁兵は四集し、勢は甚盛である。
晉王は高丘に拠り、散兵を收める。日中に至り、ふたたび晋軍は振う。陂中に土山がある。賀瑰は引兵して、そこに拠る。晉王は将士にいう。「今日この山を得た者が勝ちだ。私はお前たちと、山を奪いあおう」と。

ぼくは思う。晋王は戦さを戯れだと思ってるのだ。

晋王は、騎兵をひいて先に登る。李從珂と、銀槍大將の王建および步卒がつづく。梁兵は紛紛として、山を下る。晋軍はついに、その山を奪った。

胡三省はいう。用兵の勢において、高地から低地を臨む者が勝つ。晋兵は、土山を奪った。賀瑰は、地利を失った。
ぼくは思う。梁晋の戦いの長い1日。記述が長いので、ちょっと分けます。


12月、梁軍と晋軍ともに3分の2の士卒を失う

日向晡,賀瑰陳於山西,晉兵望之有懼色。諸將以為諸軍未盡集,不若斂兵還營,詰朝復戰。天平節度使、東南面招討使閻寶曰:「王彥章騎兵已入濮陽,山下惟步卒,向晚皆有歸志,我乘高趣下擊之,破之必矣。今王深入敵境,偏師不利,若復引退,必為所乘。諸軍未集者聞梁再克,必不戰自潰。凡決勝料敵,惟觀情勢,情勢已得,斷在不疑。王之成敗,在此一戰;若不決力取勝,縱收餘眾北歸,河朔非王有也。」

日は晡に向かう。賀瑰は山西に陣する。晉兵は賀瑰をみて、懼色がある。諸將は、諸軍がすべて集まらないので、斂兵・還營し、詰朝に復戰したい。
天平節度使・東南面招討使の閻宝がいう。「王彦章の騎兵は、すでに濮陽に入った。山下には、梁軍の步卒しかいない。晚に向けて、みな帰りたい。わが軍が高地から攻め下れば、必ず梁軍の歩兵を敗れる。いま晋王は、敵境に深入する。偏師は利せず。もしふたたび引退すれば、梁軍に乗じられる。諸軍のうち、まだ集まらぬ晋兵は、梁軍が再び勝つと聞けば、必ずや戦わずに自潰する。晋王の成敗は、この一戦にある。もし勝てねば、残兵をあつめて北帰しても(追って梁軍が黄河の北に渡ってくるので)河朔の王者でいられない

昭義節度使李嗣昭曰:「賊無營壘,日晚思歸,但以精騎擾之,使不得夕食,俟其引退,追擊可破也。我若斂兵還營,彼歸整眾復來,勝負未可知也。」王建及擐甲橫槊而進曰:「賊大將已遁,王之騎軍一無所失,今擊此疲乏之眾,如拉朽耳。王但登山,觀臣為王破賊。」王愕然曰:「非公等言,吾幾誤計。」嗣昭、建及以騎兵大呼陷陳,諸軍繼之,梁兵大敗。元城令吳瓊、貴鄉令胡裝,各帥白丁萬人,於山下曳柴揚塵,鼓噪以助其勢。梁兵自相騰藉,棄甲山積,死亡者幾三萬人。裝,證之曾孫也。是日,兩軍所喪士卒各三之二,皆不能振。

昭義節度使の李嗣昭はいう。「梁軍は營壘がない。日夜、帰りたい。ただ精騎で梁軍を擾せば、夕食を得られず、引退するだろう。これを追撃しよう。もし晋軍が斂兵・還營したら、梁軍の整った衆がきてしまい、勝敗が分からなくなる」と。

ぼくは思う。李嗣昭もまた、日暮れどき、一気に勝負をつける派である。晋軍もまた、疲れて帰りたいのだ。梁軍もまた、疲れている。だから攻めるw

王建及は、擐甲・橫槊して進みでる。王建及「賊の大將(王彦章)は、すでに逃げた。晋王の騎兵は、1つも失われない。いま梁軍の疲乏した衆を撃てば、朽を拉するようなもの。晋王はただ登山して、私たちの戦いを見てください」と。
晋王は愕然としていう。「きみらの発言がなければ、私は計を誤るところだ」と。李嗣昭、王建および騎兵は、大呼・陷陳した。諸軍はつづく。梁兵は大敗した。
元城令の吳瓊、貴郷令の胡裝は、白丁1万人ずつをひきいる。山下で、柴を曳き、塵を揚げる。鼓噪して勢を助ける。梁兵は騰藉しあい、甲を棄てて山積する。死亡者は3万ちかく。胡裝は、胡證の曾孫である也。

胡證は、歴代の唐帝につかえた。憲宗、穆宗である。

この日、両軍の士卒は、3分の2が失われた。どちらも振るわず。

胡三省はいう。ともに傷つき、どちらも敗れたのだ。


晉王還營,聞周德威父子死,哭之慟,曰:「喪吾良將,是吾罪也!」以其子幽州中軍兵馬使光輔為嵐州刺史。
李嗣源與李從珂相失,見晉軍撓敗,不知王所之,或曰:「王已北渡河矣。」嗣源遂乘冰北渡,將之相州。是日,從珂從王奪山,晚戰皆有功。甲子,晉王進攻濮陽,拔之。李嗣源知晉軍之捷,復來見王於濮陽,王不悅,曰:「公以吾為死邪?渡河安之!」嗣源頓首謝罪。王以從珂有功,但賜大鐘酒以罰之,然自是待嗣源稍薄。

晉王は還營する。周德威の父子の死を聞き、哭慟した。「わが良將を喪った。わが罪だ」と。周徳威の子である、幽州中軍兵馬使の周光輔を、嵐州刺史。とする。

晋王は周徳威の意見を用いないことを悔いたのだ。戦死させてしまったので、自分の罪として、周徳威の子を抜擢した。

李嗣源と李從珂は、はぐれた。晉軍が撓敗するのを見て、晋王の居場所が分からない。或者がいう。「晋王はすでに北して渡河した」と。李嗣源は、ついに冰に乗じて北渡した。相州にゆく。

李嗣源は、相州から邢州に帰ろうとしたのだ。

この日、李従珂は、晋王に従って山を奪う。晚にも戰い、どちらも功績がある。
甲子、晉王が濮陽に進攻し、濮陽をぬく。李嗣源は、晉軍之捷を知り、ふたたび濮陽で晋王にあう。晋王は悦ばない。晋王「李嗣源は私のために死んでくれないのか。自分だけ渡河して北帰しやがって」と。
李嗣源は、頓首・謝罪した。晋王は、李従珂に功績があるが、大鐘酒を賜るだけ。李嗣源を罰するためである。これより、李嗣源の待遇が、薄くなっていく。

ぼくは思う。そして最後には、李嗣源が晋王をのっとる。


初,契丹主之弟撒剌阿撥號北大王,謀作亂於其國。事覺,契丹主數之曰:「汝與吾如手足,而汝興此心,我若殺汝,則與汝何異!」乃囚之期年而釋之。撒剌阿撥帥其眾奔晉,晉王厚遇之,養為假子,任為刺史;胡柳之戰,以其妻子來奔。

はじめ契丹主の弟の撒剌阿撥は「北大王」を号する。契丹の国で作乱を謀る。ことが発覚する。契丹主はしばしばいう。「きみと私は手足のようなもの。だがきみは、作乱の心を興した。もし私がきみを殺せば、きみとやっていることは同じだ」
契丹主は、弟を囚えて、期年してから釈した。弟の撒剌阿撥は、その衆をひきいて晋国に降る。晋王に厚遇され、假子となり、刺史に任じられた。胡柳之戰で、撒剌阿撥は妻子をもって(晋国を去って)來奔した。

晉軍至德勝渡,王彥章敗卒有走至大梁者,曰:「晉人戰勝,將至矣。」頃之,晉兵有先至大梁問次捨者,京城大恐。帝驅市人登城,又欲奔洛陽,遇夜而止。敗卒至者不滿千人,傷夷逃散,各歸鄉里,月餘僅能成軍。

晉軍が德勝渡に至ると、王彦章の敗卒のうち、大梁に走る者がいる。敗卒「晉人が戦勝した。いまに大梁にくる」と。このころ晋兵のうち、さきに大梁に向かう者は、舎を問次する。京城は大恐した。梁帝は、市人を駆って登城させる。洛陽に奔りたい。夜になったので、やめた。大梁に至った敗卒は、1千人に満たない。傷夷して逃散し、おのおの郷里に帰る。月余して、わずかに梁軍を成せた。130822

ぼくは思う。官渡の戦いで、もし袁紹が勝っていれば、こんな感じだったのかな。

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919年、

均王中貞明五年(己卯,公元九一九年)

正月、

春,正月,辛巳,蜀主祀南郊,大赦。
晉李存審於德勝南北夾河築兩城而守之。晉王以存審代周德威為內外番漢馬步總管。晉王還魏州,遣李嗣昭權知幽州軍府事。

春正月の辛巳、蜀主は南郊して、大赦した。
晋将の李存審は、德勝の戦いにて、南北で河を夾むよう、2城を築いて守った。晉王は李存審を、戦死した周德威の代わりに、内外番漢馬步總管とした。

李存審の築城した地理について、中華書局版8842頁。

晉王は魏州に還る。李嗣昭をつかわし、權知幽州軍府事とする。

漢主巖立越國夫人馬氏為皇后,殷之女也。

漢主の劉巌は、越國夫人の馬氏を皇后とした。馬殷の娘である。

3月、晋王が廬龍節度使を領し、郭崇韜を用いる

◆蜀主が北伐しつつ、遊びまくる

三月,丙戌,蜀北路行營都招討、武德節度使王宗播等自散關擊岐,渡渭水,破岐將孟鐵山。會大雨而還,分兵戍興元、鳳州及威武城。戊子,天雄節度使、同平章事王宗昱攻隴州,不克。
蜀主奢縱無度,日與太后、太妃游宴於貴臣之家,及游近郡名山,飲酒賦詩,所費不可勝紀。仗內教坊使嚴旭強取士民女子內宮中,或得厚賂而免之,以是累遷至蓬州刺史。太后、太妃各出教令賣刺史、令、錄等官,每一官闕,數人爭納賂,賂多者得之。

3月丙戌、蜀北路行營都招討・武德節度使の王宗播らが、散關から岐国を撃つ。渭水を渡り、岐將の孟鐵山をやぶる。

ぼくは思う。また諸葛亮みたいな北伐をしている。使者を交換して、国交を回復したのでは、なかったか。

たまたま大雨なので、還る。蜀軍は兵を分けて、興元、鳳州、威武(鳳州の北)の城を守る。
戊子、天雄節度使・同平章事の王宗昱が、隴州を攻めるが克たず。
蜀主は、奢縱・無度。昼から、太后と太妃とともに、貴臣之家に游宴する。近郡の名山に游ぶ。飲酒・賦詩する。費用は記録できないほど。
仗内教坊使の厳旭は、士民・女子を強取して、宮中に内する。或者が厚賂を得て(強取されるのを)免れ、蓬州刺史となる。太后と太妃は、おのおの教令を出して、刺史、令、錄らの官職を売る。一官に欠員がでるごとに、數人が納賂を争う。賄賂の金額が大きなほうが官職を得る。

ぼくは思う。後漢に似てきた。


◆晋王が郭崇韜に機密をまかせる

晉王自領盧龍節度使,以中門使李紹宏提舉軍府事,代李嗣昭。昭宏,宦者也,本姓馬,晉王賜姓名,使與知嵐州事孟知祥俱為河東、魏博中門使。孟知祥又薦教練使雁門郭崇韜能治劇,王以為中門副使。崇韜倜儻有智略,臨事敢決,王寵待日隆。先是,中門使吳珪、張虔厚相繼獲罪,及紹宏出幽州,知祥懼禍,稱疾辭位,王乃以知祥為河東馬步都虞候,自是崇韜專典機密。

晉王は、みずから盧龍節度使を領する。

周徳威が死んで、代わりがいない。北辺の大鎮は、士馬が強鋭である。ゆえに晋王がみずから領した。

中門使の李紹宏は、軍府事を提挙して、李嗣昭に代わる。李昭宏は、宦官である。もとは馬氏だが、晋王に李氏をもらう。

胡三省はいう。宦官を功臣の代わりにする。これを失する。
ぼくは思う。なぜ宦官を功臣に代えてはいけないんだろう。胡三省をふくむ史家のあいだで、共通の諒解みたいなものがあるのか。「功績が少ない者を、高い官職につける」を一般的に批判しているのか。功績が少ないのに、高い官職につけるのは、宦官であることがおおいだけで、宦官そのものの人格攻撃をしているのではないのか。

李昭宏は、知嵐州事の孟知祥とともに、河東・魏博中門使となる。孟知祥はまた、教練使する雁門の郭崇韜が治劇できると推薦した。晋王は、郭崇も中門副使とする。郭崇韜は、智略があり、ことに臨んで敢えて決められる。晋王の寵待は、日ごとに隆い。

胡三省はいう。郭崇韜はこれにより、晋王をたすけて梁国を滅する。

これより先、中門使の吳珪と張虔厚は、あいつぎ罪を獲た。李紹宏が幽州に出るにおよび、孟知祥は禍いを懼れ、稱疾・辭位する。晋王は、孟知祥を、河東馬步都虞候とする。これより郭崇韜が、機密を專典した。

◆梁帝が呉越に、呉国の討伐を命じる

詔吳越王鏐大舉討淮南。鏐以節度副大使傳瓘為諸軍都指揮使,帥戰艦五百艘,自東洲擊吳。吳遣舒州刺史彭彥章及裨將陳汾拒之。

梁帝は詔して、吳越王の銭鏐に、大舉して淮南(呉王の楊隆演)を撃たせた。銭鏐は、節度副大使の傳瓘を、諸軍都指揮使として、戰艦500艘をひきさせる。東洲より呉国を撃つ。呉国は、舒州刺史の彭彥章と、裨將の陳汾をつかわし、これを拒む。

夏4月、

吳徐溫帥將吏籓鎮請吳王稱帝,吳王不許。夏,四月,戊戌朔,即吳國王位。大赦,改元武義。建宗廟社稷,置百官,宮殿文物皆用天子禮。以金繼土,臘用丑。改謚武忠王曰孝武王,廟號太祖,威王曰景王,尊母為太妃;以徐溫為大丞相、都督中外諸軍事、諸道都統、鎮海、寧國節度使、守太尉兼中書令、東海郡王,以徐知誥為左僕射、參政事兼知內外諸軍事,仍領江州團練使,以揚府左司馬王令謀為內樞密使,營田副使嚴可求為門下侍郎,鹽鐵判官駱知祥為中書侍郎,前中書舍人盧擇為吏部尚書兼太常卿,掌書記殷文圭為翰林學士,館驛巡宮游恭為知制誥,前駕部員外郎楊迢為給事中。擇,醴泉人;迢,敬之之孫也。

呉国の徐温は、將吏・籓鎮をひきい、吳王に称帝を請う。呉王は許さず。
夏4月の戊戌ついたち、楊隆演は、呉国の王位につく。

ぼくは思う。大唐の承制からもらった王位ではなくて、自称した王位なのだろう。漢魏革命のときの孫権は、後漢からもらった呉王ではなかったので、「曹丕にもらった呉王から、自称した呉王へ」という転換は起きえなかった。進むなら、呉帝だった。

大赦して「武義」と改元した。宗廟と社稷をたて、百官をおき、宮殿・文物は、天子の礼制とした。大唐の土徳をつぎ、金徳とした。臘用丑。楊行密を「武忠王」から「孝武王」とし、廟号を太祖とした。楊渥を「威王」から「景王」とした。

ぼくは思う。呉王から呉王だから。楊行密の諡号が、目に見えて貴くなるわけではない。

徐温を、大丞相、都督中外諸軍事、諸道都統、鎮海・寧國節度使、守太尉兼中書令とし、東海郡王とする。徐知誥を、左僕射、參政事、兼知內外諸軍事、領江州團練使とする。揚府左司馬の王令謀を、内樞密使とする。營田副使の嚴可求を、門下侍郎とする。鹽鐵判官の駱知祥を、中書侍郎とする。前中書舍人の盧擇を、吏部尚書・兼太常卿とする。掌書記の殷文圭を、翰林學士とする。館驛巡官の游恭を、知制誥とする。前駕部員外郎の楊迢を、給事中とする。盧擇は、醴泉の人。楊迢は、楊敬之の孫である。

楊敬之は、楊憑の弟の子である。
ぼくは思う。梁帝が呉越に、呉国の討伐を命じたから。呉国が梁帝との対立を明確にして、張り合うために、王号をみずから称したのだろう。大唐との連続性を主張したのだろう。梁帝がまいたタネだな。


◆呉越の銭傳鐐が、呉船を焼きはらう

錢傳瓘與彭彥章遇;傳瓘命每船皆載灰、豆及沙,乙巳,戰於狼山江。吳船乘風而進,傳瓘引舟避之,既過,自後隨之。吳回船與戰,傳瓘使順風揚灰,吳人不能開目;及船舷相接,傳瓘使散沙於己船而散豆於吳船,豆為戰血所漬,吳人踐之皆僵仆。傳瓘因縱火焚吳船,吳兵大敗。

呉越の錢傳瓘は、彭彦章と遭遇した。銭傳瓘は、船ごとに灰・豆・沙を載せろと命じ、狼山江で戦った。吳船は乘風して進む。銭傳瓘は船をひいて、呉船を避ける。呉船をやり過ごし、その後ろにつく。

銭傳瓘が風向きを利用するためである。銭傳瓘が王琳を破ったときも、風を利用した。

呉船は旋回して、銭傳瓘と戦う。呉越の銭傳瓘は、風にのせて灰をあげる。呉人は目をあけられない。船舷は相接する。銭傳瓘は、自船に沙を散らせ、呉船に豆をまく。豆は戦いの血に漬かる。呉人は豆をふんで倒れる。銭傳瓘は呉船を焼く。呉兵は大敗した。

彥章戰甚力,兵盡,繼之以木,身被數十創,陳汾按兵不救;彥章知不免,遂自殺。傳瓘俘吳裨將七十人,斬首千餘級,焚戰艦四百艘。吳人誅汾,籍沒家貲,以其半賜彥章家,稟其妻子終身。

彭彦章は、兵がつき、数十の傷を受ける。陳汾は彭彦章を救わず。彭彦章は自殺した。傳瓘は、吳の裨將70人を捕虜とし、1千余級を斬った。戰艦400艘を焼いた。吳人は(彭彦章を救わなかった)陳汾を誅して、家貲を没し、その半分を彭彦章の妻子に与えた。

ぼくは思う。「陳汾は、救うべき彭彦章を救わなかった」ことが、敗戦のなかでも、あまりに明確に知られてしまった。財産を没収され、彭彦章の妻子の生活費に回されるなんて。聞いたことがない。
ぼくは思う。呉王は、王を自称した途端に、灰と豆で敗走した。称号をランクアップさせると、なぜだか、ろくなことがない。


◆晋王が、梁将の賀瑰を破り、徳勝を救う

賀瑰攻德勝南城,百道俱進,以竹笮聯艨艟十餘艘,蒙以牛革,設睥睨、戰格如城狀,橫於河流,以斷晉之救兵,使不得渡。晉王自引兵馳往救之,陳於北岸,不能進;遣善游者馬破龍入南城,見守將氏延賞,延賞言矢石將盡,陷在頃刻。晉王積金帛於軍門,募能破艨□童者;眾莫知為計,親將李建及曰:「賀瑰悉眾而來,冀此一舉;若我軍不渡,則彼為得計。今日之事,建及請以死決之。」

梁将の賀瑰は、德勝の南城を攻める。百道から並進する。竹笮で、艨艟10余艘をつなぐ。牛革でおおう。睥睨を設け、戰格は城狀のよう。賀瑰は、河の流れで横して、晋国の救兵を絶ち、渡河をふせぐ。
晋王は、みずから救いにきて、北岸に陣するが進めず。泳ぎのうまい馬破龍は、南城に入って、守將の氏延賞にあう。氏延賞「矢石は尽きそう。陥落は時間の問題だ」と。晋王は、金帛を軍門に積み、梁軍の蒙衝を敗れる者をつのる。だれも計なし。
親將の李建及がいう。「賀瑰は、すべての兵を連れて、ここに賭ける。もしわが軍が河を渡れなければ、賀瑰の計が当たる。今日の事は、死をもって決したい」

李建及とは、王建及である。このとき、銀槍大将である。銀槍とは、晋王の帳前の親兵である。ゆえに親将という。李建及は、少ないときから李罕之につかえて養子となる。のちに王姓にもどす。

李建及は、死士を300人を選ぶ。鎧を被て斧を操れる者である。李建及は死士をひきいて、乗船した。蒙衝に近づく。
梁船からの流矢は雨集する。李建及と斧を操れる者は、蒙衝のあいだで、竹笮を切った。木罌に油をつけて点火した。蒙衝は、つながりが切れて焼けた。梁兵の殆半が焚溺した。晋兵は渡河できた。賀瑰は(徳勝の南城)の包囲を解いてにげる。晋兵が追って、濮州に還る。賀瑰は、退いて行台村に屯する。

5月、楚人が荊南を攻め、呉人が救う

蜀主命天策府諸將無得擅離屯戍。五月,丁卯朔,左散旗軍使王承諤、承勳、承會違命,蜀主皆原之。自是禁令不行。

蜀主は、天策府の諸將に命じて、擅離・屯戍を得るなという。?
5月の丁卯ついたち、左散旗軍使の王承諤、承勳、承會は、3人とも違命したが、蜀主はゆるした。これより、禁令が行われない。

ぼくは思う。もう前蜀が、滅びそうじゃん。


楚人攻荊南,高季昌求救於吳,吳命鎮南節度使劉信等帥洪、吉、撫、信步兵自瀏陽趣潭州,武昌節度使李簡等帥水軍攻復州。信等至潭州東境,楚兵釋荊南引歸。簡等入復州,執其知州鮑唐。

楚人は、荊南を攻めた。高季昌は、呉国に救いを求めた。呉国は、鎮南節度使の劉信らに、洪、吉、撫、信州の歩兵をひきいさせる。

ぼくは思う。唐末は、史料に出てくる行政区分は「州」だけである。もちろん県があるのだが、県の単位で、戦闘のゆくえが左右されることはない。これは、人間のアタマが求める効率化の結果だろう。後漢末は、少なくとも州と郡は、どちらも行政区分として、戦局に意味を持った。これは、秦漢より前の戦国六国のなごりじゃないか。よりアタマが好きな、キレイな状態に整理される前。地形や移動能力の実態にしばられた、「克服されるべき」過渡期だったんだ。
まあ、魏晋の都督制と、唐代の節度使は、(戦局の物語を読む上で)なにが同じでなにが違うのか。細分化と統合の往復運動は、どんなふうに推移するのか。ヒトは、推移させずにはいられないのか。考えたい問題はある。

劉信は、瀏陽より潭州にゆく。武昌節度使の李簡等らは、水軍で復州を攻める。劉信らは、潭州の東境に至る。楚兵は、荊南を釈いて引歸する。李簡らは、復州に入り、知州の鮑唐を捕らえた。

六月,吳人敗吳越兵於沙山。

6月、呉人は呉越に、沙山で敗れた。

秋7月、呉将の徐温が呉越を破り、停戦する

秋,七月,吳越王鏐遣錢傳瓘將兵三萬攻吳常州,徐溫帥諸將拒之,右雄武統軍陳璋以水軍下海門出其後。壬申,戰於無錫。會溫病熱,不能治軍,吳越攻中軍,飛矢雨集,鎮海節度判官陳彥謙遷中軍旗鼓於左,取貌類溫者,擐甲冑,號令軍事,溫得少息。俄頃,疾稍間,出拒之。時久旱草枯,吳人乘風縱火,吳越兵亂,遂大敗,殺其將何逢、吳建,斬首萬級。傳瓘遁去,追至山南,覆敗之。陳璋敗吳越於香彎。溫募生獲叛將陳紹者賞錢百萬,指揮使崔彥章獲之。紹勇而多謀,溫復使之典兵。

秋7月、吳越王の銭鏐は、錢傳瓘に3万をつけ、呉国の常州を攻めさせる。呉将の徐温がふせぐ。右雄武統軍の陳璋は、水軍で海門を下り、徐温の後ろに出る。

地理について、中華書局版8846頁。

壬申、無錫で戦う。徐温は病熱で、治軍できない。呉越は中軍を攻め、飛矢が雨集した。鎮海節度判官の陳彦謙は、中軍にうつり、左に旗鼓する。徐温に外見が似ている者に、甲冑を擐せ、軍事を號令させた。
徐温が少息を得たので、すぐに指揮にもどった。ひさしく日照で、草枯が乾燥する。呉人が火をつけ、呉越は大敗した。呉越の将の何逢、吳建を殺した。銭傳瓘は遁去して、山南に至るが、覆われて敗れた。陳璋は、香彎で呉越を負かした。徐温は、敵将の陳紹を生け捕ったら、銭1百万を与えるという。指揮使の崔彦章が、陳紹を生け捕った。陳紹は、勇にして謀がおおい。徐温は、陳紹に典兵させた。

胡三省はいう。霍丘の役では、陳紹は(呉越の将として、呉国を負かした)功績が多かった。徐温は、かつて陳紹が呉国を攻めたことを咎めず、陳紹を呉将として活用したのだ。
ぼくは思う。生け捕りの懸賞金の意味は、スカウトするため。徐温すごい。


◆呉臣の徐温の人となり

初,錦衣之役,吳馬軍指揮曹筠叛奔吳越,徐溫赦其妻子,厚遇之,遣間使告之曰:「使汝不得志而去,吾之過也,汝無以妻子為念。」及是役,筠復奔吳。溫自數昔日不用筠言者三,而不問筠去來之罪,歸其田宅,復其軍職,筠內愧而卒。

はじめ、錦衣之役(乾化3年)のとき、呉軍の馬軍指揮の曹筠が、呉国に叛して吳越に奔った。徐温はその妻子を赦して厚遇した。間使を使わして告げる。徐温「お前に志を得させず、呉国を去らせたのは、私の過失である。妻子の心配はするな」と。
今回の戦役で、曹筠は呉国にもどった。徐温は、自ら数えて「昔日、私が曹筠を用いるなと言ったのは、3回だった」と。徐温は、呉越に去った罪を許し、呉国に戻った罪を許し、田宅に帰して、軍職にもどした。

ぼくは補う。徐温が、曹筠に対して犯した罪は、(曹筠の登用を妨げた)3回。徐温から曹筠に与えた恩は、4回になった。ぎゃくに曹筠が、徐温に対して借りがあることになる。

曹筠は内愧して卒した。

胡三省はいう。徐温は将を御するのがうまい。


知誥請帥步卒二千,易吳越旗幟鎧仗,躡敗卒而東,襲取蘇州。溫曰:「爾策固善;然吾且求息兵,未暇如汝言也。」諸將皆以為:「吳越所恃者舟楫,今大旱,水道涸,此天亡之時也,宜盡步騎之勢,一舉滅之。」溫歎曰:「天下離亂久矣,民困已甚,錢公亦未易可輕;若連兵不解,方為諸君之憂。今戰勝以懼之,戢兵以懷之,使兩地之民各安其業,君臣高枕,豈不樂哉!多殺何為!」遂引還。

徐知誥が請うには、步卒2千をひきい、吳越の旗幟・鎧仗に易えて(敵軍に仮装して)敗卒を躡んで東して、蘇州を襲取したい。
徐温「徐知誥の策は、もとより善い。だが私は兵を息ませたい。まだ実行できない」と。諸将「呉越が恃むのは舟楫である。いま日照で、水量が少ない。これは、呉越にとって天亡之時である。歩騎をつくし、一挙に呉越を滅ぼすべきだ」と。
徐温は歎じた。「天下は、離亂して久しい。民の困窮はひどい。呉越の錢公(銭鏐)を軽んずべきでない。もし連兵して解けねば、諸君之憂となる。戦いに勝っては懼れ、敵兵をなつけ、呉国と呉越の両地の民、生業を安定させろ。そうすれば君臣は枕を高くでき、楽しめよう。なぜ多く(の呉越の兵)を殺すのか」と。徐知誥も諸将も、攻撃をあきらめた。

ぼくは思う。徐温は、とても魅力ある人物に描かれる。やみくもな統一よりも、とりあえずの安定。こんな徐温がいるわりに、2世代で天下が再統一されるのだから、統一への要請は強固なのだ。


◆呉越王の銭鏐の人となり

吳越王鏐見何逢馬,悲不自勝,故將士心附之。寵姬鄭氏父犯法當死,左右為之請,鏐曰:「豈可以一婦人亂我法。」出其女而斬之。

呉越王の銭鏐は、何逢の馬にあう。悲しんで勝えず、故將士は、銭鏐に心をよせた。

史家はいう。銭鏐もまた、士心を結い、国を保つことができる。呉越の銭鏐は、(凡庸な呉王の)楊氏とはちがう。

寵姬の鄭氏の父が、犯法して死に値する。左右が助命を請うと、銭鏐はいう。「なぜ1婦人のために、わが法を乱すか」と。寵姫を斬った。

鏐自少在軍中,夜未嘗寐,倦極則就圓木小枕,或枕大鈴,寐熟輒欹而寤,名曰:「警枕」。置粉盤於臥內,有所記則書盤中,比老不倦。或寢方酣,外有白事者,令侍女振紙即寤。時彈銅丸於樓牆之外,以警直更者。嘗微行,夜叩北城門,吏不肯啟關,曰:「雖大王來亦不可啟。」乃自他門入。明日,召北門吏,厚賜之。

銭鏐は若くから軍中にいて、夜に寝たことがない。丸い木の小枕や、大鈴のつく枕をつかう。寝てても、すぐに起きられるので「警枕」という。

枕について、中華書局版8847頁。

粉盤を臥内におく。記録すべきことがあれば、そこに記す。老いても倦まない。酔って寝ており、外に報告者がくると、侍女に紙を振らせ、すぐに起きた。ときに彈銅丸を樓牆の外におき、直更の者を警した。
かつて銭鏐は微行して、夜に北城の門を叩く。吏が「大王がきても開けられない」と断った。銭鏐は他門より入った。翌日、北門の吏を召して、厚く賜った。

丙戌,吳王立其弟濛為廬江郡公,溥為丹楊郡公,潯為新安郡公,澈為鄱陽郡公,子繼明為廬陵郡公。

7月丙戌、吳王は、弟の楊濛を廬江郡公とする。楊溥を丹楊郡公とする。楊潯を新安郡公とする。楊澈を鄱陽郡公とする。子の楊継明を廬陵郡公とする。

◆馮道の登場

晉王歸晉陽,以巡官馮道為掌書記。中門使郭崇韜以諸將陪食者眾,請省其數。王怒曰:「孤為效死者設食,亦不得專,可令軍中別擇河北帥,孤自歸太原。」即召馮道令草詞以示眾。道執筆逡巡不為,曰:「大王方平河南,定天下,崇韜所請未至大過;大王不從可矣,何必以此驚動遠近,使敵國聞之,謂大王君臣不和,非所以隆威望也。」會崇韜入謝,王乃止。

晉王は晋陽に帰る。巡官の馮道を、掌書記とする。中門使の郭崇韜は、諸將のうち陪食する人数を減らせという。

晋王は、諸将と甘苦を同じくする。諸将を食事に侍らせる。これには、預にあたらない預がある(予想できないことが起こるかも知れない)。ゆえに郭崇韜は、諸将との食事をやめろといったのだ。

晋王は怒った。「私は效死する者のために、設食する。また(周徳威のなきあと、河北の軍務を)私が専らにすることはできない。軍中から別に河北帥を選ばせ、私は太原に帰ろう」と。

ぼくは思う。郭崇韜が晋王に、諸将と食事するなといった。晋王は「郭崇韜が、諸将と私を引き離すなら、私は諸将との関係を断ち切って、首都にひっこもう。代わりの者に、諸将との関係を構築させ、梁国を攻めさせれば良いんだろ」とスネたのだ。

馮道を召し(河北の帥をつのる文書を)草詞して衆に示させる。だが馮道は筆をもつが、逡巡して書かない。
馮道「大王は河南(梁国)を平らげ、天下を定めようとしている。郭崇韜の意見は、大過とは言えない。だが、大王が郭崇韜に従わないのも、悪くない。

ぼくは思う。いくつもの王朝を渡り歩く、馮道だけに。断定せず、両者の顔を立てるような言い方をするらしい。

だが敵国がこれを聞けば、大王と君臣の不和を願うだろう。晋国の威望が高まらない理由となる」と。郭崇韜は入謝した。王は止めた。

初,唐滅高麗,天祐初,高麗石窟寺眇僧躬乂,聚眾據開州稱王,號大封國,至是,遣佐良尉金立奇入貢於吳。

はじめ、大唐が高麗を滅ぼしたとき、天祐初に、高麗の石窟寺で、眇僧の躬乂が、聚眾して開州に拠り、王を称して「大封國」と号した。ここにいたり、佐良尉の金立奇が、呉国に入貢した。

唐末に自立して、王を号したらしい。へえ。中華書局版8848頁。


8月、梁の王瓚と晋の李存審が、浮橋をつくる

八月,乙未朔,宣義節度使賀瑰卒。以開封尹王瓚為北面行營招討使。瓚將兵五萬,自黎陽渡河掩擊澶、魏,至頓丘,遇晉兵而旋,瓚為治嚴,令行禁止,據晉人上游十八里楊村,夾河築壘,運洛陽竹木造浮梁,自滑州饋運相繼。晉蕃漢馬步副總管、振武節度使李存進亦造浮梁於德勝,或曰:「浮梁須竹笮、鐵牛、石囷,我皆無之,何以能成!」存進不聽,以葦笮維巨艦,繫於土山巨木,逾月而成,人服其智。

8月乙未ついたち、宣義節度使の賀瑰が卒した。開封尹の王瓚を、北面行營招討使とする。王瓚は5万をひきい、黎陽から渡河して、澶州と魏州を掩撃する。頓丘に至り、晋兵と遇って旋した。

はじめ王瓚は、晋兵の備えがないところを突いた。晋兵がきてしまったので、ひき返した。

王瓚の治は厳で、禁止を行わしめた。晉人の上游18里にある楊村に拠り、河を夾んで壘を築く。洛陽の竹木を運び、浮梁を造る。滑州より、饋運があいつぐ。

晋人がいる徳勝の上游に、王瓚は拠ったのだ。

晋国の蕃漢馬步副總管・振武節度使の李存進もまた、浮梁を德勝に造る。
或者はいう。「浮梁は(水に浮く素材である)竹笮がよく、(竹笮をつなぐには)鐵牛、石囷がよい。どの材料も、わが晋軍にない。どうして浮梁をつくれるか」と。李存審はこれを聴かず、葦笮で巨艦を維ぎ、土山や巨木につなぐ。月をこえて完成した。みな李存審の智恵に服した。

吳徐溫遣使以吳王書歸無錫之俘於吳越;吳越王鏐亦遣使請和於吳。自是吳國休兵息民,三十餘州民樂業者二十餘年。吳王及徐溫屢遺吳越王鏐書,勸鏐自王其國;鏐不從。

呉国の徐温は使者をやり、吳王の文書を以て、無錫の俘が吳越に帰した。吳越王の銭鏐もまた、呉国に請和の使者をやる。

無錫の戦いにより、呉越の兵は敗走した。徐温は、敗走した兵を追わない。呉越と講話することを、当初から徐温は考えていた。ぼくは思う。徐温すげー。

これより呉国は休兵・息民する。30余州の民は、20余年、生業を楽しむ。

30余州について、中華書局版8849頁。

呉王と徐温は、しばしば呉越の銭鏐に文書をおくり、銭鏐に「呉越王」の自称を勧める。銭鏐は従わず。

9月、梁帝が呉越に、劉巌の討伐を命じる

九月,丙寅,詔削劉巖官爵,命吳越王鏐討之。鏐雖受命,竟不行。
吳廬江公濛有材氣,常歎曰:「我國家而為它人所有,可乎!」徐溫聞而惡之。

9月丙寅、梁帝は詔して、(皇帝を自称した)劉巌の官爵をけずる。呉越王の銭鏐に、劉巌の討伐を命じた。銭鏐は受命したが、ついに討伐を行わず。
呉国の廬江公の濛には、才と気がある。つねに歎じた。「わが国家は他人(権臣の徐温)に所有される。良いのかな」と。徐温はこれを聞いて悪んだ。130824

廬江公が殺される張本である。

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