両晋- > 『資治通鑑』唐紀を抄訳 924年1月-925年10月

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924年春、唐帝が南郊する

【後唐紀二】 起閼逢涒灘,盡旃蒙作噩十月,凡一年有奇。
莊宗光聖神閔孝皇帝中同光二年(甲申,公元九二四年)

正月、洛陽を整える

春,正月,甲辰,幽州奏契丹入寇,至瓦橋。以天平軍節度使李嗣源為北面行營都招討使,陝州留後霍彥威副之,宣徽使李紹宏為監軍,將兵救幽州。

春正月の甲辰、幽州は契丹の入寇を奏した。瓦橋に至る。

李存審が奏したのである。

天平軍節度使の李嗣源を、北面行營都招討使とする。陝州留後の霍彦威を副官とする。宣徽使の李紹宏を監軍とする。兵を將いて、幽州を救う。

◆孔謙を租庸使にしない

孔謙復言於郭崇韜曰:「首座相公萬機事繁,居第且遠,租庸簿書多留滯,宜更圖之。」豆盧革嘗以手書假省庫錢數十萬,謙以手書示崇韜,崇韜微以諷革。革懼,奏請崇韜專判租庸,崇韜固辭。上曰:「然則誰可者?」崇韜曰:「孔謙雖久典金谷,若遽委大任,恐不葉物望,請復用張憲。」帝即命召之。謙彌失望。

孔謙は、ふたたび郭崇韜にいう。「首座の相公は、萬機の事が繁である。居第は且遠で、租庸の簿書は、おおくが留滯する。体制を変えるべきだ」と。

租庸使を、豆盧革が兼任するのでなく、べつの専任の長官を立てろと言っている。孔謙は、じぶんが租庸使の長官になりたい。

豆盧革は、かつて手ずから文書をつくり、省庫の錢を數十萬、借りたことがある。

ぞくに銭を借りることを「銭を便する」という。これは、借貸して便用するから。ときに租庸使は、みな銭を省庫に入れた。
ぼくは思う。内部統制が行き届いていない。なんでも兼務させ、権限を集中しすぎると、仕組みとして、不正なことをさせてしまう。第三者による牽制が必要である。

孔謙は、豆盧革の手書を郭崇韜に示す。郭崇韜は、かすかに豆盧革を諷した。豆盧革は懼れ、「郭崇韜が租庸を專判してほしい」という。郭崇韜は固辞した。

ぼくは思う。豆盧革よりも、郭崇韜のほうが忙しかろうにw

唐帝「だれを租庸使にすべきか」と。郭崇韜「孔謙は、久しく金穀を典するが、

唐帝が魏博を得てから、孔謙は支度務使となった。このときから、財政の管理を担当してはいる。

もし大任を委ねれば、物望に叶わないことを恐れる。張憲を租庸使とすべきだ」と。
唐帝は張憲を命召した。孔謙は、いよいよ失望した。

孔謙は、昨年4月に唐帝が皇帝になったとき、租庸使になりたがった。上巻にある。ぼくは思う。孔謙の話をここまでひっぱって、どうするつもりなんだろう。史家は孔謙に、何をさせたいのか。


◆李茂貞が入洛し、子が往復する

岐王聞帝入洛,內不自安,遣其子行軍司馬彰義節度使兼侍中繼曮入貢,始上表稱臣。帝以其前朝耆舊,與太祖比肩,特加優禮,每賜詔但稱岐王而不名。庚戌,加繼曮兼中書令,遣還。

岐王の李茂貞は、唐帝が入洛したと聞き、内では不安である。子の行軍司馬彰義節度使兼侍中の李継曮を入貢させ、はじめて上表して稱臣する。

李茂貞は、唐帝が大梁から洛陽に入ったと聞いて、兵を西に移して、岐国を攻めるのではないかと懼れた。
李継曮は、鳳翔の行軍司馬をもって、涇州の節を領した。

唐帝は、李茂貞が前朝の耆舊であり、太祖(李克用)と比肩したから、とくに優禮を加えた。

大唐の僖宗と昭宗のとき、李茂貞は李克用と比肩した。李存勗が皇帝となると、父の李克用を武皇帝といい、廟号を「太祖」とした。

李茂貞が唐帝から詔を賜わるとき、ただ「岐王」とだけ書いて、「李茂貞」という名を記さない。庚戌、李繼曮に兼中書令をくわえて、岐国に還した。

◆唐代の宦官をあつめる

敕:「內官不應居外,應前朝內官及諸道監軍並私家先所畜者,不以貴賤,並遣詣闕。」時在上左右者已五百人,至是殆及千人,皆給贍優厚,委之事任,以為腹心。內諸司使,自天祐以來以士人代之,至是復用宦者,浸干政事。既而復置諸道監軍,節度使出征或留闕下,軍府之政皆監軍決之,陵忽主帥,怙勢爭權,由是籓鎮皆憤怒。

唐帝は敕した。「内官(宦官)は、居外する者でない。前朝の内官で、諸道の監軍や私家で畜われている者は、貴賤にかかわらず、詣闕させろ」と。

唐末に宦官を誅したが、逃逸した者がいた。外鎮および私家で養われた。
ぼくは思う。大唐のとき、ちらかった内官を集めた。これこそが、唐家の復興である。財政は持たなかろうが、「皇帝として」正しいことをしている。

ときに唐帝の左右には、すでに5百人いる。ここにいたり、1千人におよぶ。みな給贍が優厚である。内官に委ねて事任させ、唐帝の腹心とする。内諸司使は、天祐期より士人が務めたが、また宦官にもどした。宦官は、政事を浸干した。

昭宗の天復3年、宦官を誅したとき、内諸司使は、士人が務めるようになった。ときに使のポストは、9つしかない。梁国が省いたからだ。官制の変遷について、8912頁。

すでにして、諸道監軍を置きなおす。節度使は出征し、或者は闕下に留まる。軍府之政は、みな監軍が決する。監軍が、忽を陵し、帥を主する。勢を怙り、權を爭う。

ぼくは思う。監軍は、皇帝の直属の目付。史書は唐帝にたいして批判的だが、唐帝を批判するなら、皇帝制を批判しなければならない。皇帝制を批判するという本質には踏み込まず(だって史家も皇帝制のもとで生きていたから)君主を個別批判する。どうしても、ムリが出る。
たとえば、会社につとめながら、上司のやり方を批判する。しかし上司が権力を発揮するのは、会社づとめしているから。しかし、会社を辞められない者は、上司の細部を批判するしかない。上司の横暴は、ただの典型的な行動だったりするのだが、内部の人間にはどうにもならない。

これにより、みな籓鎮は憤怒した。

のちに諸藩鎮が、変に乗じて監軍を殺す張本である。


契丹出塞。召李嗣源旋師,命泰寧節度使李紹欽、澤州刺史董璋戍瓦橋。
李繼曮見唐甲兵之盛,歸,語岐王,岐王益懼。癸丑,表請正籓臣之禮,優詔不許。

契丹は出塞する。李嗣源を召して旋師させる。泰寧節度使の李紹欽、澤州刺史の董璋に、瓦橋を守らせる。
李繼曮(李茂貞の子)は、唐国の甲兵之盛を見て、帰って岐王(李茂貞)に語った。岐王は、ますます懼れた。正月癸丑、表して「籓臣之禮を正したい」と請う。優詔(李茂貞の名を書かないという特別待遇)はそのまま。

◆孔謙が、張憲が租庸使になるのを阻止

孔謙惡張憲之來,言於豆盧革曰:「錢谷細事,一健吏可辦耳。魏都根本之地,顧不重乎!興唐尹王正言操守有餘,智力不足,必不得已,使之居朝廷,眾人輔之,猶愈於專委方面也。」革為之言於崇韜,崇韜乃奏留張憲於東京。甲寅,以正方為租庸使。正言昏懦,謙利其易制故也。
李存審奏契丹去,復得新州。

孔謙は、張憲が来る(租庸使になる)ことを悪む。

ときに魏都より、張憲をめして租庸使とする。張憲は方正で、ゆえに孔謙は張憲が来ることを悪んだ。ぼくは思う。「方正なやつだから悪む」という説明をされる時点で、孔謙は史家を敵に回している。

孔謙は、豆盧革にいう。「錢穀の細事は、1人の健吏が弁じるべき。魏都は根本之地である。顧みるに、重んじなくて良いものか。興唐尹の王正言は、操守して余りあるが、智力は足らない。やむをえず朝廷にいて、衆人が王正言を輔けている。(もし張憲を租庸使にしたら)さらに王正言に、(魏都の)方面を専委することになる」と。

ぼくは思う。魏都は、王正言だけでは統治を維持できない、と孔謙は言っているのだろう。王正言の事務能力の低さを補っているのが、張憲である。だから張憲を魏都と剥がしてはダメだと。

豆盧革は、この孔謙の意見を郭崇韜に伝える。郭崇韜は奏して、張憲を東京=魏都に留めろという。甲寅、王正言を租庸使とした。そう制限は昏懦であり、孔謙は、その制御しやすさを利としたのだ。

ぼくは思う。孔謙はみずから租庸使になれなくても、操りやすい上司を置くことで納得したらしい。魏都にいる、張憲と王正言のうち、事務能力の低いほうを、租庸使に持ってきた。しかし、財務の長官の人事を、そんなに軽く考えて良いのか。無能だから、方鎮の管理よりも、中央の財務をやらせとけ、という判断は誤っているような。だから、唐帝はつぶれるのかな。

李存審は、契丹が去ったと奏した。ふたたび新州を得た。

戊午,敕鹽鐵、度支、戶部三司並隸租庸使。
上遣皇弟存渥、皇子繼岌迎太后、太妃於晉陽,太妃曰:「陵廟在此,若相與俱行,歲時何人奉祀!」遂留不來。太后至,庚申,上出迎於河陽;辛酉,從太后入洛陽。

戊午に敕して、鹽鐵、度支、戶部の三司を、あわせて租庸使に隷属させる。
唐帝は、皇弟の李存渥、皇子の李繼岌をやって、太后と太妃を、晋陽から洛陽に迎えさせた。太妃「陵廟はここ(晋陽)にある。もし私と太后がともに洛陽にいくなら、歲時はだれが奉祀するのか」と。ついに留まって来ない。太后は洛陽に至る。正月庚申、唐帝は河陽に出迎えた。辛酉、太后に従って洛陽に入った。

後唐の廟の構成について、8913頁。
太妃が洛陽にいかないのは、陵廟の祭祀のためだけでなく、(晋陽にいたいという)意思の表れなのだ。かつ洛陽ゆきを拒否する言葉は(祭祀の問題だと言って、唐帝の機嫌を損ねないようにしているから)とても正しい。太后と太妃のために、ともに憂邑して病気になる。その張本である。


2月、唐帝が南郊し、軍士に財産をまく

二月,己巳朔,上祀南郊,大赦。孔謙欲聚斂以求媚,凡赦文所蠲者,謙復征之。自是每有詔令,人皆不信,百姓愁怨。

2月の己巳ついたち、唐帝は南郊を祀り、大赦した。
孔謙は、媚を求めて聚斂したい。赦文から除された者を、すべて孔謙がふたたび徴した。これより、詔令があるごとに、人はどれも信じない。百姓は愁怨した。

ぼくは思う。唐帝の判断により赦された者の名前を、孔謙がけずる。孔謙が、あたかも自分の恩徳のように、赦免を申し渡す。これによって孔謙は、「お前の罪が赦されるように、私が斡旋した」という恩を着せられると計算した。しかし、バレバレなので、かえって見え透いて怨まれた。という話なのだろうか。


郭崇韜初至汴、洛,頗受籓鎮饋遺,所親或諫之,崇韜曰:「吾位兼將相,祿賜巨萬,豈藉外財!但以偽梁之季,賄賂成風,今河南籓鎮,皆梁之舊臣,主上之仇讎也,若拒,其意能無懼乎!吾特為國家藏之私室耳。」及將祀南郊,崇韜首獻勞軍錢十萬緡。

郭崇韜が、はじめて汴州と洛州に至ると、おおくの籓鎮の饋遺を受けた。郭崇韜に親しむ者が諫めた。郭崇韜はいう。「私の官位は、將相を兼ねる。

郭崇韜は、枢密使となり、侍中をくわえられ、成徳節を領する。枢密使は、天下で関わらないことがない。侍中は、三省の長官である。また節鎮を領する。ゆえに、将相を兼ねるというのだ。

祿賜は巨萬である。どうして外財を籍するか。ただ、偽梁之季(梁代の末期)賄賂が風潮を形成した。いま河南の籓鎮は、みな梁之舊臣であり、主上(唐帝)の仇讎である。もし賄賂を拒めば、彼らは懼れなければならない。

ぼくは思う。久しぶりに出ました。『贈与論』。
胡三省はいう。郭崇韜が賄賂を受けるのは、藩鎮が疑い懼れる心が、まだ安していないから。そのために、財貨を好むという悪をやる。ぼくは思う。胡三省の言い分も正しいが、善悪じゃなくて、モースの世界だと思う。

私はとくに国家のために、賄賂を私室に蔵しているのだ」と。
唐帝が南郊を祀るとき、郭崇韜は、筆頭にたち、軍をねぎらって10万緡をつかう。

ぼくは思う。史家は、おくして郭崇韜に財貨を吐き出させて、郭崇韜の威信が失墜しないように、配慮してくれた。本能的に分かっているのだろう。郭崇韜は、唐帝の名臣である。孔謙をけなして、郭崇韜をほめるというのが、サブテーマだから。


先是,宦官勸帝分天下財賦為內外府,州縣上供者入外府,充經費,方鎮貢獻者入內府,充宴游及給賜左右。
於是外府常虛竭無餘而內府山積。及有司辦郊祀,乏勞軍錢,崇韜言於上曰:「臣已傾家所有以所助大禮,願陛下亦出內府之財以賜有司。」上默然久之,曰:「吾晉陽自有儲積,可令租庸輦取以相助。」於是取李崇韜私第金帛數十萬以益之,軍士皆不滿望,始怨恨,有離心矣。

これより先、宦官が唐帝に「天下の財賦を分けて、内府と外府の収入を区別せよ。州縣の上供する者は、外府に入れて、經費に充てる。方鎮の貢獻は、内府に入れろ。宴游および左右への給賜に充てよ」と。
ここにおいて、外府はつねに虛竭であり、余りがない。内府は山積した。

ぼくは補う。州県からの収入は少なく、経費はおおい。方鎮からの貢納はおおく、宴遊につかっても、まだ利益がのこる。

有司が郊祀を弁じると、(外府は)軍をねぎらう銭に乏しい。郭崇韜は唐帝にいう。「私はすでに家を傾け、所有する財貨をつかい、大禮を助ける。願わくは陛下は、内府の財を支出して、有司に賜ってほしい」と。

ぼくは思う。郭崇韜は、国庫の収支と、自分の財産を同列にならべて、支払の相手と内容を提案できるほど、カネを持っている。すごいなあ。

唐帝は、ながらく黙った。唐帝「私は晋陽に儲積(貯蓄)がある。租庸に取ってこさせ、費用の足しにしろ」と。ここにおいて李崇韜の私第にある金帛が数十万を、唐帝が自分の財産とした。

李継韜の父・李嗣昭は、晋王の李克用に従い、晋陽で岐兵した。ゆえに私第が晋陽にある。李継韜は、反して誅された。その家の財貨は、唐帝に没収された。

軍士は、支給された財貨に、滿望しない。怨恨を始め、離心する者もある。

のちに諸軍が、唐帝に離反する張本である。
ぼくは思う。ここに、離反の張本を設定するのは、難しかろう。いちおう唐帝も、けちらずに、南郊のタイミングで、みんなに財貨を支給した。郭崇韜も、分配を手伝ってくれた。もとは梁臣の財産だけど、こういう循環にこそ意味が付加されるのだ。


河中節度使李繼麟請榷安邑、解縣鹽,每季輸省課。己卯,以繼麟充制置兩池榷鹽使。
辛己,進岐王爵為秦王,仍不名、不拜。

河中節度使の李繼麟は、安邑と解縣の鹽を榷したいという。季輸ごとに、課を省く。己卯、李繼麟を、制置兩池榷鹽使に充てる。

胡三省はいう。3ヶ月に1回、塩課を省に輸する。

2月辛己、岐王の爵位を、秦王に進める。不名と不拜とする。

『考異』が時期について検討する。8915頁。


2月、郭崇韜が保身のために、劉皇后を立てる

郭崇韜知李紹宏怏怏,乃置內句使,掌句三司財賦,以紹宏為之,冀弭其意,而紹宏終不悅,徒使州縣增移報之煩。
崇韜位兼將相,復領節旄,以天下為己任,權侔人主,旦夕車馬填門。性剛急,遇事輒發,嬖倖僥求,多所摧仰,宦官疾之,朝夕短之於上。崇韜扼腕,欲制之不能。

郭崇韜は、李紹宏が怏怏とするのを知る。内句使をおき、三司の財賦を掌句させる。この内句使に李昭宏を任命して、気持ちをなだめたい。だが李昭宏は、ついに悦ばず。

李昭宏が郭崇韜を恨むのは、上巻にある。

いたずらに州県に、移報之煩を増やしただけ。

『薛史』はいう。同光元年11月、李昭宏に、内司を兼ねさせ、天下の銭穀の簿書を裁遣することを、すべて委ねた。これより、州県では、供帳が煩費となり、議者はこれをいやがった。「11月」という年月に異同がある。

郭崇韜は、官位は將相をかね、ふたたび節旄を領し、天下をおのれの任務とする。權は人主に侔しく、旦夕に車馬が門を填める。性は剛急で、事に遇せば、すぐに發する。嬖倖僥求は、おおく摧仰される。宦官は郭崇韜を疾し、朝夕に唐帝へ郭崇韜をそしった。郭崇韜は扼腕する。宦官を制したいが、できない。

豆盧革、韋說嘗問之曰:「汾陽王本太原人徙華陰,公世家雁門,豈其枝派邪?」 崇韜因曰:「遭亂,亡失譜諜,嘗聞先人言,上距汾陽世四耳。」革曰:「然則固從祖也。」崇韜由是以膏梁自處,多甄別流品,引拔浮華,鄙棄勳舊。有求官者,崇韜曰:「深知公功能,然門地寒素,不敢相用,恐為名流所嗤。」由是嬖倖疾之於內,勳舊怨之於外。崇韜屢請以樞密使讓李紹宏,上不許;又請分樞密院事歸內諸司以輕其權,而宦官謗之不已。崇韜鬱鬱不得志,與所親謀赴本鎮以避之,其人曰:「不可,蛟龍失水,螻蟻足以制之。」

豆盧革と韋說は、かつて郭崇韜に問うた。「汾陽王は、もとは太原の人で、華陰に徙った。公は世よ雁門に家する。どうして汾陽王の枝派でないのか」と。郭崇韜「乱に遭い、譜諜を亡失した。かつて先人に聞いたことには、汾陽王は4世代前の祖先である」と。

譜とは籍録である。汾陽王とは、郭子儀である。

豆盧革「それなら汾陽王は、郭崇韜の從祖である」と。郭崇韜は、これにより膏梁・自處をもって、おおく甄別流品する。浮華を引拔し、勳舊を鄙棄する。求官する者がいれば、郭崇韜はいう。「あなたの功能を深く知るが、私は門地が寒素である。あえて相用しない。名流に嗤われるのを恐れる」と。
これにより、嬖倖は郭崇韜を内で疾み、勳舊は郭崇韜を外で怨む。郭崇韜はしばしば、樞密使を李紹宏に譲りたい。唐帝は許さず。樞密院事を分割して、内諸司に配分して、郭崇韜は自分の権限を軽くしたい。だが宦官は、郭崇韜を謗ってやまず。郭崇韜は鬱鬱として志を得ず、親しむ者と謀って(洛陽を去り)本鎮にいってトラブルを避けたいという。親しむ者はいう。「洛陽を去ってはならない。蛟龍が水を失えば、螻蟻にでも制されてしまう」と。

先是,上欲以劉夫人為皇后,而有正妃韓夫人在,太后素惡劉夫人,崇韜亦屢諫,上以是不果。於是所親說崇韜曰:「公若請立劉夫人為皇后,上必喜。內有皇后之助,則伶宦輩不能為患矣。」崇韜從之,與宰相帥百官共奏劉夫人宜正位中宮。癸未,立魏國夫人劉氏為皇后。皇后生於寒微,既貴,專務蓄財,其在魏州,至於薪蘇果茹皆販鬻之。及為後,四方貢獻皆分為二,一上天子,一上中宮。以是寶貨山積,惟用寫佛經,施尼師而已。

これより先、唐帝は劉夫人を皇后にしたい。だが正妃の韓夫人がいる。

『欧史』はいう。荘宗=唐帝の性質は、衛国夫人の韓氏である。その次が、燕国夫人の伊氏である。つぎが魏国夫人の劉氏である。

太后はもとより劉夫人を悪む。

『欧史』をみるに。劉氏は、袁建豊がひろってきて、太后宮に入れられた。楽器と舞踊がうまいから、荘宗に悦ばれた。太后は、荘宗に劉氏を賜った。しかし太后は、劉氏をにくむ。劉氏の出自が微賤であり、妬悍するからでもある。

郭崇韜はしばしば諫め、唐帝は劉夫人を皇后にできない。
ここにおいて、崇韜に親しむ者が説く。「もし崇韜が劉氏を皇后にせよといえば、唐帝は必ず喜ぶ。内に皇后之助があれば、伶宦らは崇韜の患とならない」と。崇韜はこれに従う。宰相は百官をひきい、劉夫人の位を正し中宮にせよと奏した。
癸未、魏國夫人の劉氏を皇后とした。

郭崇韜は、自らの全うを求めた。だがこれが、自らの禍いとなる。郭崇韜が、郭従韜に殺される張本である。

皇后は、寒微に生まれた。すでに貴となり、蓄財に專務した。魏州にいて、薪蘇・果茹は、どれも販売した。皇后となり、四方の貢献の2分の1を天子が、2分の1を中宮がもらう。寶貨は山積し、ただ佛經を写すのに用い、尼師に施すのみ。

ぼくは思う。仏教という思想を介在させなくても、貧しい出自の者が、いきなり富貴になったので、蓄財に専念するという話は理解できる。ぎゃくに、仏教がどのように効いているのか、わからない。後漢の霊帝の周囲も、同じパタンだった。


是時皇太后誥,皇后教,與制敕交行於籓鎮,奉之如一。
詔蔡州刺史硃勍浚索水,通漕運。

このとき皇太后の誥、皇后の教は、制敕とともに籓鎮へ交行して発布された。同レベルの扱いである。

婦女の言葉と、王の言葉とが、並行する。古代より、この同光期ほど、ひどく政治が乱れた時期はない。

詔して、蔡州刺史の硃勍浚に索水させ、漕運を通じる。

地理について、8916頁。


3月、総管の李存審が、やっと節度使になる

三月,己亥朔,蜀主宴近臣於怡神亭,酒酣,君臣及宮人皆脫冠露髻,喧嘩自恣。知制誥京兆李龜禎諫曰:「君臣沉湎,不憂國政,臣恐啟北敵之謀。」不聽。
乙巳,鎮州言契丹將犯塞,詔橫海節度使李紹斌、北京左廂馬軍指揮使李從珂帥騎兵分道備之;天平節度使李嗣源屯邢州。紹斌本姓趙,名行實,幽州人也。 丙午,加高季興兼尚書令,時封南平王。

3月の己亥ついたち、蜀主は近臣と、怡神亭で宴する。酒酣に、君臣および宮人は、みな脫冠・露髻して、ほしいままに喧嘩する。知制誥する京兆の李亀禎は、蜀主を諫めた。「君臣は沉湎し、國政を憂わず。私は、北敵之謀でないかと恐れる」と。蜀主は聽かず。
乙巳、鎮州は「契丹が犯塞しそう」という。詔して、横海節度使の李紹斌と、北京左廂馬軍指揮使の李從珂に、騎兵を帥して道を分けて備えさせる。天平節度使の李嗣源は邢州に屯する。李紹斌は、もとは「趙行實」という姓名である。幽州の人である。
丙午、高季興に、兼尚書令を加える。ときに南平王に封じる。

李存審自以身為諸將之首,不得預克汴之功,感憤,疾益甚,屢表求入覲,郭崇韜抑而不許。存審疾亟,表乞生睹龍顏,乃許之。初,帝嘗與右武衛上將軍李存賢手搏,存賢不盡其技,帝曰:「汝能勝我,我當授籓鎮。」存賢乃奉詔,僅僕帝而止。及許存審入覲,帝以存賢為盧龍行軍司馬,旬日除節度使,曰:「手搏之約,吾不食言矣。」
庚戌,幽州奏契丹寇新城。
勳臣畏伶宦之讒,皆不自安,蕃漢內外馬步副總管李嗣源求解兵柄,帝不許。

李存審は、みずから身をもって、諸將之首となるが、克汴之功に預らず。李存審は憤を感じ、疾がひどい。

李存審は、蕃漢馬歩軍都総管である。
ぼくは補う。梁都の大梁=汴の陥落に関わらなかったか。
李存審は、滄州から幽州にうつされ、このときすでに寝疾である。

しばしば表して、入覲を求める。郭崇韜は許さず。李存審は、疾が亟まり、「生きているうちに、唐帝の龍顏を睹たい」という。許された。
はじめ唐帝は、右武衛上將軍の李存賢と手搏をやる。李存賢は、その技量を尽くさず(手加減した)。唐帝「お前が私に勝てば、藩鎮を授けよう」と。李存賢は詔を奉り、わずかに唐帝を僕して止む。李存審に入覲を許すにおよび、唐帝は李存賢を、盧龍行軍司馬とした。旬日して李存賢を節度使に除する。「手搏の約束がある。私は言葉を食まない(前言撤回してウソにしない)」と。

手搏に勝ったから、大藩を得る。これは節鎮を戯れに取ったのだ。
ぼくは思う。地方の有力な権力を、このように配分する。功績に見合った配分でない。唐帝が戯れのように国家を失っても、文句は言えない。なんて言わせたいのかw

庚戌、幽州は、契丹が新城(涿州)を寇したという。
勳臣は、伶宦之讒を畏れる。みな不安である。蕃漢內外馬步副總管の李嗣源は、兵柄を解いてくれと求める。唐帝は許さず。

李嗣源の「兵柄」によって、唐帝はその地位を(間接的にだが)奪われる。つねに伏線に見えるところが、歴史のおもしろさだなあ。


自唐末喪亂,搢紳之家或以告赤鬻於族姻,遂亂昭穆,至有舅叔拜甥、侄者,選人偽濫者眾。郭崇韜欲革其弊,請令銓司精加考核。時南郊行事官千二百人,注官者才數十人,塗毀告身者十之九。選人或號哭道路,或餒死逆旅。唐室諸陵先為溫韜所發,庚申,以工部郎中李途為長安按視諸陵使。皇子繼岌代張全義判六軍諸衛事。

唐末に喪亂してから、搢紳之家でも、族姻に鬻する者があると告赤する。

族婚に「鬻」のは、すでに非である。いずくにか知る。後世には、族類でない者にも「鬻」することを。

ついに昭穆を乱し、舅と叔が(下世代の)甥侄に(物乞のために)拝する。選人(官僚の推薦)は、偽濫する者がおおい。郭崇韜は、この弊害を革めたい。銓司にくわしく考核を加えさせた。

銓司とは、吏部である。

ときに南郊の行事官は、1200人である。注官する者は、数十人ばかり。塗毀・告身する者は、10人に9人。選人は、或者は道路で號哭し、或者は逆旅で餒死する。
唐室の諸陵は、さきに温韜に発かれた。庚申、工部郎中の李途を、長安按視諸陵使とする。皇子の李継岌は、張全義に代わって、判六軍諸衛事する。130908

唐帝は温韜の罪を正せなかった。上巻の上年にある。

閉じる

924年夏、前蜀と潞州が敵対する

4月、前蜀が唐帝に敵対し、李茂貞が死ぬ

夏,四月,己巳朔,群臣上尊號曰昭文睿武至德光孝皇帝。
帝遣客省使李嚴使於蜀,嚴盛稱帝威德,有混一天下之志。且言硃氏篡竊,諸侯曾無勤王之舉。王宗儔以其語侵蜀,請斬之,蜀主不從。宣徽北院使宋光葆上言:「晉王有憑陵我國家之志,宜選將練兵,屯戍邊鄙,積糗糧,治戰艦以待之。」蜀主乃以光葆為梓州觀察使,充武德節度留後。

夏4月の己巳ついたち、群臣は尊號をたてまつり、昭文睿武至を、德光孝皇帝とする。

唐制では、諸帝の尊号には、みな「孝」の字をつける。けだし漢制にちなむのだ。後唐でも、大唐と同じにした。

唐帝は、客省使の李嚴を前蜀にゆかせる。李厳は、さかんに唐帝の威徳を稱する。天下を混一する志がある。かつ李厳は、朱氏の篡竊をいい、諸侯には(大唐に対する)勤王之舉がなかったという。王宗儔は、李厳の語が蜀を侵すので、李厳を斬りたい。蜀主は従わず。
宣徽北院使の宋光葆が上言した。「晉王は、わが國家(前蜀)の志を憑陵するつもりだ。選將・練兵して、邊鄙に屯戍し、糗糧を積み、戰艦を治め、晋王=唐帝を待とう」と。

戦艦とは、峡江を防ぐためのものだ。
ぼくは思う。晋王=唐帝は、荊州から益州に、水軍で遡ってくる可能性もあった。すくなくとも前蜀では、そのように認識されていた。

蜀主は、宋光葆を、梓州觀察使として、武德節度留後に充つ。

乙亥,加楚王殷兼尚書令。
庚辰,賜前保義留後霍彥威姓名李紹真。
秦忠敬王李茂貞卒,遣奏以其子繼曮權知鳳翔軍府事。

4月乙亥、楚王の馬殷に、兼尚書令をくわえる。
庚辰、前保義留後の霍彦威に「李紹真」という姓名を賜う。

後唐はすでに後梁を滅ぼす。陝州鎮国軍を「保義軍」と改める。

秦忠敬王の李茂貞が卒した。子の李繼曮を、權知鳳翔軍府事とする。

ぼくは思う。李茂貞が死んだ!唐帝から秦王にしてもらった時点で、実質は勢力が「滅亡」していた。岐国がなくなった。いま病死して、子は、単なる後唐の地方官になった。朱温=朱全忠と戦っていた李茂貞が死ぬのは、感慨深いなあ。


4月、潞州で楊立が反し、孔謙が絹糸を集める

初,安義牙將楊立有寵於李繼韜,繼韜誅,常邑邑思亂。會發安義兵三千戍涿州,立謂其眾曰:「前此潞兵未嘗戍邊,今朝廷驅我輩投之絕塞,蓋不欲置之潞州耳。與其暴骨沙場,不若據城自守,事成富貴,不成為群盜耳。」因聚噪攻子城東門,焚掠市肆;節度副使李繼珂、監軍張弘祚棄城走,立自稱留後,遣將士表求旌節。詔以天平節度使李嗣源為招討使,武寧節度使李紹榮為部署,帳前都指揮使張廷蘊為馬步都指揮使以討之。

はじめ、安義牙將の楊立は、李繼韜に寵された。李継韜が誅されると、つねに邑邑として乱を思う。ちょうど安義兵3千を発して(唐帝の命令で契丹から)涿州を戍る。楊立は立ちて軍衆にいう。「われら潞兵は、辺境を守ったことがない。いま朝廷は私たちを駆って、絕塞に投じる。けだし唐帝は、私たち潞兵を、潞州に置きたくないだけ。ともに骨を沙場に暴すより、據城・自守したほうが良い。事が成れば富貴になれる。成らねば群盜になるだけ」と。聚は噪ぐ。

涿州は幽州の南にある。絶塞とはいえない。唐人は、砂漠の地を「沙場」というが、涿州は砂漠ではない。楊立は、潞州の兵を激怒させるために(実態と合わないことを)言ってる。

楊立は、子城の東門を攻め、市肆を焚掠する。節度副使の李継珂と、監軍の張弘祚は、城を棄てて走げる。楊立は留後を自称した。楊立は將士をやり、表して旌節を求めた。
詔して、天平節度使の李嗣源を、招討使とする。武寧節度使の李紹榮を、部署とする。帳前都指揮使の張廷蘊を、馬步都指揮使とする。彼らに楊立を討たせる。

孔謙貸民錢,使以賤估償絲,屢檄州縣督之。翰林學士承旨、權知汴州盧質上言:「梁趙巖為租庸使,舉貸誅斂,結怨於人。陛下革故鼎新,為人除害,而有司未改其所為,是趙巖復生也。今春霜害桑,繭絲甚薄,但輸正稅,猶懼流移,況益以稱貸,人何以堪!臣惟事天子,不事租庸,敕旨未頒,省牒頻下,願早降明命!」帝不報。

孔謙は、民に錢を貸す。賤估を絲と交換する。しばしば州県に檄州して、交換を監督する。翰林學士承旨・權知汴州の盧質は、上言した。「梁国の趙巌は租庸使となり、舉貸・誅斂して、人に結怨された。陛下は、ふるい鼎を更新して、人とのために害を除く。だが有司には、いまだ梁制を改めない者がいる(孔謙である)。これでは、趙巌が生き返ったも同じ。今春は桑が霜害にあう。繭絲が薄い。ただ正規の課税をすれば、人口が流移する恐れがある。ましてや、貸し付けて(孔謙が糸を回収すれば)人々の生活は堪えられない。私は天子に仕えるのであり、租庸に仕えるのでない。まだ敕旨は頒されないが(租庸使から)省牒はしきりに下す。早く(租庸使の文書を修正するような)明命を降してほしい」と。

「省牒」とは、租庸使が発行する文書である。
ぼくは補う。納税を催促するのだろう。租庸使がその部署の役割を果たしている。租庸使にとって、きっちり税収を確保することは、個別最適である。しかし後唐の全体から見たら、人民の生活を破壊するから、危険なことだと。

皇帝は(絹糸の減税と、孔謙の抑止について)報せず。

漢主引兵侵閩,屯於汀、漳境上;閩人擊之,漢主敗走。

漢主は、兵をひき閩国を侵す。汀州と漳州の境上に屯する。閩人が撃ち、漢主は敗走した。

5月、功臣よりも伶人の恩人2名を刺史とする

初,胡柳之役,伶人周匝為梁所得,帝每思之;入汴之日,匝謁見於馬前,帝甚喜。匝涕泣言曰:「臣所以得生全者,皆梁教坊使陳俊、內園栽接使儲德源之力也,願就陛下乞二州以報之。」帝許之。

はじめ胡柳之役のとき、伶人の周匝は、梁国に捕らわれた。唐帝は、いつも周匝のことを思う。入汴之日に、周匝は馬前で唐帝に会った。唐帝は甚だ喜ぶ。周匝は涕泣した。「私は生き残れたのは、梁国の教坊使の陳俊と、内園栽接使の儲德源のおかげである。彼らに2州を与えて、報いてほしい」と。唐帝は許した。

胡柳之役とは、梁均王の貞明4年にある。
唐帝が、伶人の周匝を思うが、武将の周徳威を思わない。これが、唐帝が亡した理由である。
周匝が助命したがった2名の官職について、8920頁。


郭崇韜諫曰:「陛下所與共取天下者,皆英豪忠勇之士。今大功始就,封賞未及一人,而先以伶人為刺史,恐失天下心。」以是不行。逾年,伶人屢以為言,帝謂崇韜曰:「吾已許周匝矣,使吾慚見此三人。公言雖正,然當為我屈意行之。」五月,壬寅,以俊為景州刺史,德源為憲州刺史。時親軍有從帝百戰未得刺史者,莫不憤歎。

郭崇韜は唐帝を諫めた。「陛下とともに天下を取る者は、英豪・忠勇之士である。いま(梁都を陥落させて)大功が始就するのに、まだ1人も封賞されていない。さきに伶人を司使にしては、天下の心を失う」と。2人の任命は行われず。
年をこえ、伶人はしばしば「まだ刺史になれないか」という。唐帝は郭崇韜にいう。「私はすでに周匝に(2人を刺史にすると)許してしまった。郭崇韜の発言は正しいが、私は意を屈して、2名を刺史にしたい」と。
5月壬寅、陳俊を景州刺史、儲德源を憲州刺史とした。ときに親軍のなかで、唐帝に従って百戦する者で、まだ刺史になれない者は、みな憤歎した。

胡三省はいう。よろしくそれ離叛すべし。
ぼくは思う。皇帝権力の源泉は、理不尽であること。道理をひっこめる。彼が介在しないと、自然のなりゆきでは、そうはならない。これを実現するからこそ、権力があるのだ。唐帝がやっていることは、たしかに不公平だが、「それほどに皇帝権力が強い」とも言える。寵愛する伶人の命を救っただけで、刺史にしてもらえる。おおー、君主権力っぽくて良い。
ぼくは思う。寵臣を厚遇して、功臣を冷遇する。まるで暴君の典型のようだが、単純に批判できない。「誰が判断しても、その処置になる」ことを実行するなら、権力の行使とは言えない。「誰が判断しても、その処置はあり得ない」を断行するから、権力の行使だ。皇帝権力の強さと正しさを批評するのって難しいなあ。


乙巳,右諫議大夫薛昭文上疏,以為:「諸道僭竊者尚多,征伐之謀,未可遽息。又,士卒久從征伐,賞給未豐,貧乏者多,宜以四方貢獻及南郊羨餘,更加頒賚。又,河南諸軍皆梁之精銳,恐僭竊之國潛以厚利誘之,宜加收撫。又,戶口流亡者,宜寬徭薄賦以安集之。又,土木不急之役,宜加裁省。又請擇隙地牧馬,勿使踐京畿民田。」皆不從。

乙巳、右諫議大夫の薛昭文が上疏した。「諸道の僭竊する者は、なお多い。征伐之謀は、まだ遽息するな。また、士卒で久しく征伐に從う者は、賞給がまだ豊かでない。貧乏する者は多い。四方の貢獻および南郊の羨餘をもって、さらに頒賚を加えろ。また、河南の諸軍は、みな梁軍の精鋭だった。僭竊之國(後梁)は、ひそかに利を厚くして、河南の諸軍を誘った。收撫を加えるべきだ。

ぼくは補う。河南の諸軍は、後梁の正統を支持し、かつ後唐の正統に不支持なのではない。ただ情勢によって、後梁に従っただけだから、後唐のために懐かせろと。こういう、正統論めいた語り口によって、ただの軍閥たちが、ただの将兵たちが、正統をめぐる戦いに巻きこまれ、史書に登録されてゆく。この上疏より前に、河南には「後梁の軍の生き残り」なんて、じつは明確には存在しなかったのかも知れない。
ぼくは思う。やがて唐帝を殺すのは、この河南の諸軍である。つまりこの慰撫は、徹底されなかった。もしくは徹底したが、効果が薄かった。

また、戶口の流亡する者は、徭を寬げ、賦を薄くし、安集せよ。また、土木の不急之役は、裁省を加えろ。隙地を擇んで牧馬せよ。京畿の民田を踐ませるな」と。みな従わず!

ぼくは思う。後漢の桓帝や霊帝も、こういう「上疏を実現してれば、のちの滅亡を回避できたのに」というネタが多く、最後に「従わず」「聴かず」で終わるのだ。


戊申,蜀主遣李嚴還。初,帝因嚴入蜀,令以馬市宮中珍玩,而蜀法禁錦綺珍奇不得入中國,其粗惡者乃聽入中國,謂之「入草物」。嚴還,以聞,帝怒曰:「王衍寧免為入草之人乎!」嚴因言於帝曰:「衍童騃荒縱,不親政務,斥遠故老,暱比小人。其用事之臣王宗弼、宋光嗣等,諂諛專恣,黷貨無厭,賢愚易位,刑賞紊亂,君臣上下專以奢淫相尚。以臣觀之,大兵一臨,瓦解土崩,可翹足而待也。」帝深以為然。

戊申、蜀主は李厳を洛陽に還す。

李厳は、4月に入蜀して、いま還る。時期について『考異』が、半頁かけて、モメている。8921頁。

はじめ唐帝は、李厳が入蜀すると、宮中の珍玩を馬市させる。しかし蜀法では、錦綺・珍奇は禁じられており、中国に入れてはならない。粗惡な物だけ、中国に持ち込める。粗悪品を「入草物」という。

盛唐より以来、蜀地の貢賦は、歳ごとに京師に至る。この法(粗悪なものしか中原に持ち込まない)は、前蜀の王衍が定めたものである。

李厳が還ると、この蜀の規則を聞いて、唐帝は怒った。「王衍(蜀主)は『入草之人』となることを免れないぞ」と。
李厳は唐帝にいう。「王衍は、童騃・荒縱である。政務を親せず、故老を斥遠する。小人を暱比する。用事之臣は、王宗弼と宋光嗣らである。彼らは、諂諛・專恣する。黷貨して厭かず、賢愚は位を易える。刑賞は紊亂する。君臣の上下は、もっぱら奢淫・相尚する。私が見るに、大兵が一臨すれば、瓦解・土崩する。翹足して待つべきだ」と。唐帝は、深く合意した。

唐帝が前蜀を討伐する、張本である。前蜀は、あと1年で滅びる。


帝以潞州叛故,庚戌,詔天下州鎮無得修城浚隍,悉毀防城之具。
壬子,新宣武節度使兼中書令、蕃漢馬步總管李存審卒於幽州。存審出於寒微,常戒諸子曰:「爾父少提一劍去鄉里,四十年間,位極將相,其間出萬死獲一生者非一,破骨出鏃者凡百餘。」因授以所出鏃,命藏之,曰:「爾曹生於膏梁,當知爾父起家如此也。」

唐帝は、潞州が叛したので、庚戌、天下の州鎮のうち、修城・浚隍できないものは、すべて防城之具を破壊させた。

胡三省はいう。防城の具をこわさせたのは、天下の将卒が、その城に拠って、唐帝の命令を拒むのを恐れたからである。だから趙在礼が魏州を攻めて、魏州は守れなかった。趙在礼が魏州に拠って、唐軍は魏州を抜けなかった。そして唐帝は、乱兵に殺された。患を防ぐ方法は、防城の道具とは関係がなかったのだ。

壬子、新宣武節度使・兼中書令・蕃漢馬步總管の李存審が、幽州で卒した。

李存審は、宣武の命を受けたが、まだ幽州を離れていない。

李存審は、寒微の出自である。つねに諸子に戒めた。「お前の父は、少いとき一剣を提げて、郷里を去った。40年間、位は將相を極める。

李存審は、陳州の宛丘の人。李罕之に従って、晋王の李克用に帰した。ぼくは思う。唐帝の親類ではないよね。
将相とは、節度使と同平章事のこと。

その期間に、萬死に出て、一生を獲たことは、1度でない。破骨・出鏃したことは、1百余ある」と。身体から出てきた鏃の貯蔵を命じた。「お前らは膏梁に生まれた。だが父の起家が、このようであったことを知っておけ」と。

ぼくは思う。この家の末路は、どうなるのかなあ。


幽州言契丹將入寇,甲寅,以橫海節度使李紹斌充東北面行營招討使,將大軍渡河而北。契丹屯幽州東南城門之外,虜騎充斥,饋運多為所掠。
壬戌,以李繼曮為鳳翔節度使。
乙丑,以權知歸義留後曹義金為節度使。時瓜、沙與吐蕃雜居,義金遣使間道入貢,故命之。

幽州は、契丹が入寇しそうという。甲寅、橫海節度使の李紹斌を、東北面行營招討使に充てる。大軍をひきい、渡河して北する。契丹は、幽州の東南の城門之外に屯する。虜騎は充斥する。唐軍の饋運は、おおくが掠まれた。
壬戌、李繼曮を、鳳翔節度使とする。

李繼曮は、父の李茂貞を嗣いで、岐州を帥する。

乙丑、權知歸義留後の曹義金が、節度使となる。ときに、瓜州と沙州は、吐蕃と雜居する。曹義金は、間道から使者を入貢させる。ゆえに曹義金を節度使に命じたのだ。

大唐の懿宗の咸通8年、張義潮が入朝した。その族子がつぎ、咸通13年に死んだ。曹義金が、権知留後となる。咸通13年から54年間たつ。曹義金は老いているだろう。


6月、李嗣源が潞州を平らげ、唐帝が幸姫を失う

李嗣源大軍前鋒至潞州,日已暝;泊軍方定,張廷蘊帥麾下壯士百餘輩逾塹坎城而上,守者不能御,即斬關延諸軍入。比明,嗣源及李紹榮至,城已下矣,嗣源等不悅。丙寅,嗣源奏潞州平。六月,丙子,磔楊立及其黨於鎮國橋。潞州城池高深,帝命夷之。

李嗣源の大軍は、前鋒が潞州に至る。日はすでに暝い。軍を泊め、方定する。(李嗣源の前鋒である)張廷蘊は、麾下の壯士の1百餘輩を帥して、塹を逾え、城を坎して上る。潞州の守兵は、防御できない。關斬して、諸軍を延べ、入城する。比明に、李嗣源および李紹榮が至る。城はすでに下る。李嗣源らは悦ばず。

張廷蘊は、李嗣源の本隊の到着をまたずに、城を取ってしまった。

5月丙寅、李嗣源は潞州が平らいだと奏する。
6月丙子、楊立およびその党を鎮國橋に磔した。潞州は、城が高く、池が深である。唐帝は潞州を夷(平らに)させた。

丙戌,以武寧節度使李紹榮為歸德節度使、同平章事,留宿衛,寵遇甚厚。帝或時與太后,皇后同至其家。帝有幸姬,色美,嘗生子矣,劉後妒之。會紹榮喪妻,一日,侍禁中,帝問紹榮:「汝復娶乎?為汝求婚。」後因指幸姬曰:「大家憐紹榮,何不以此賜之!」帝難言不可,微許之。後趣紹榮拜謝,比起,顧幸姬,已肩輿出宮矣。帝為之托疾不食者累日。

6月丙戌、武寧節度使の李紹榮を、歸德節度使・同平章事とする。宿衛に留め、寵遇は甚厚である。唐帝はあるとき、太后と皇后ととおmに、李紹栄の家にゆく。李紹栄の幸姬は色美であり、かつて唐帝の子を産んでいる。劉皇后は、幸姫に嫉妬した。
たまたま李紹栄が妻を喪くした。1日、禁中に侍る。唐帝は李紹栄に問う。「お前は妻を娶り直さないか。お前のために婚する者を求めてやろう」と。劉皇后は、幸姫を指さした。「大家(唐帝)は、李紹栄を憐れむ。なぜ幸姫を李紹栄に賜らないのか」と。唐帝はダメと言えず、微かに許した。皇后は、李紹栄に拝謝を促した。唐帝は起ち、幸姬を顧みた。幸姫の輿は肩がれ、出宮した。
唐帝はがっかりして、数日食べなかった。

史家はいう。唐帝は、劉皇后の妬悍をはばかった。


壬辰,以天平節度使李嗣源為宣武節度使,代李存審為蕃漢內外馬步總管。

6月壬辰、天平節度使の李嗣源を、宣武節度使とする。李存審に代えて、蕃漢內外馬步總管とする。

李嗣源は、副総管から、都総管に昇進した。

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924年秋、前蜀と使者を交換する

7月、

秋,七月,壬寅,蜀以禮部書許寂為中書侍郎、同平章事。
孔謙復短王正言於郭崇韜,又厚賂伶宦,求租庸使,終不獲,意怏怏,癸卯,表求解職。帝怒,以為避事,將置於法,景進救之,得免。梁所決河連年為曹、濮患,甲辰,命右監門上將軍婁繼英督汴、滑兵塞之。未幾,復壞。

秋7月の壬寅、前蜀の禮部書の許寂は、中書侍郎・同平章事となる。
孔謙は、ふたたび王正言の短所を、郭崇韜にいう。孔謙は、伶宦に厚賂し、租庸使の官職を求める。ついに官職を獲られず、孔謙の意は怏怏とする。7月癸卯、孔謙は表して、解職を求める。唐帝は怒った。孔謙が避事したから、法に置こうとする。景進が孔謙を救ったので、孔謙は法による処罰を免れた。
梁国が連年にわたり黄河を決壊させたので、曹州と濮州の患となる。甲辰、右監門・上將軍の婁繼英に命じて、汴州と滑州の兵を督させ、黄河の決壊を塞いだ。修復の途中で、また決壊した。

梁軍が黄河を決壊させたのは、貞明4年にある。


庚申,置威塞軍於新州。
契丹恃其強盛,遣使就帝求幽州以處盧文進。時東北諸夷皆役屬契丹,惟渤海未服;契丹主謀入寇,恐渤海掎其後,乃先舉兵擊渤海之遼東,遣其將禿餒及盧文進據營、平等州以擾燕地。

7月庚申、威塞軍に新州を置く。
契丹は、その強盛を恃み、唐帝に「幽州を盧文進に處させよ」という。ときに東北の諸夷は、みな契丹に役屬する。ただ渤海だけが、契丹に服さない。契丹主は、後唐への入寇を謀るが、渤海に後ろを掎されるのを恐れた。契丹主は、さきに兵をあげ、渤海の遼東を撃つ。契丹將の禿餒および盧文進は、軍営に拠る。等州を平らげて、燕地を擾する。

勃海は、ときに海東の盛国である。5京をおき、15府をおき、62州をおく。高麗と粛慎の地をあわせる。


8月、

八月,戊辰,蜀主以右定遠軍使王宗鍔為招討馬步使,帥二十一軍屯洋州;乙亥,以長直馬軍使林思諤為昭武節度使,戍利州以備唐。
租庸使王正言病風,恍惚不能治事,景進屢以為言。癸酉,以副使、衛尉卿孔謙為租庸使,右威衛大將軍孔循為副使。循即趙殷衡也,梁亡,復其姓名。謙自是得行其志,重斂急征以充帝欲,民不聊生。癸未,賜謙號豐財贍國功臣。

8月戊辰、蜀主は、右定遠軍使の王宗鍔を、招討馬步使とした。21軍を帥して、洋州に屯する。8月乙亥、長直馬軍使の林思諤を、昭武節度使として、利州を戍り、唐軍に備えさせる。
租庸使の王正言は、病風である。恍惚として治事できない。しばしば景進は、王正言のために発言する。癸酉、副使・衛尉卿の孔謙を、租庸使とした。右威衛・大將軍の孔循を租庸副使とした。孔循とは、趙殷衡のことである。梁国が滅亡したとき、姓名をもどした。

孔循の名の変遷について、8924頁。ちょい長い。


孔謙は、これより志を実行した。租庸を重斂・急徴して、唐帝の欲を充たす。民は生を聊さず。癸未、孔謙に「豐財・贍國の功臣」の号を賜る。

ぼくは思う。孔謙は、ふつうに唐帝に味方した、べんりな官僚ではないか。史書は唐帝=荘宗=李存勗に批判的だから、ちょっと扱いがカラいだけで。
『記』はいう。聚斂の臣というよりは、盗臣である。こんな孔謙に「功臣」の号を与えて寵愛したのは、唐国の君臣が孔謙の罪を知らないからだ。民は困り、軍は怨む。唐帝が久しく体制を維持できるはずがない。孔謙が李嗣源に誅される張本である。ぼくは思う。やっと孔謙について、ネタバレした。


9月、

帝復遣使者李彥稠入蜀,九月,己亥,至成都。
癸卯,帝獵於近郊。時帝屢出遊獵,從騎傷民禾稼,洛陽令何澤付於叢薄,俟帝至,遮馬諫曰:「陛下賦斂既急,今稼穡將成,復蹂踐之,使吏何以為理,民何以為生!臣願先賜死。」帝慰而遣之。澤,廣州人也。

唐帝は、ふたたび使者の李彦稠を入蜀させる。9月己亥、成都に至る。
癸卯、唐帝は近郊で狩猟する。ときに唐帝は、しばしば遊猟にでる。騎を從え、民の禾稼を傷める。洛陽令の何澤は、草むらの薄いところで、唐帝を待つ。唐帝の馬を遮って諫めた。「陛下の賦斂は、すでに急である。いま稼穡はすでに稔ったのに、蹂踐する。吏には何をもって理するか。民は何をもって生きるか。私は先に死を賜りたい」と。唐帝は洛陽令の何沢を慰めてゆかす。何沢は、廣州の人である。

ぼくは思う。伏兵なら、成功しているw
胡三省はいう。唐帝の狩猟を諫めて、かつて中牟令は死にかけた。いま洛陽令は、唐帝から労われて去った。洛陽令は、伶人と宦官については、容認していた。洛陽令は、亮直の士ではない。


契丹攻渤海,無功而還。
蜀前山南節度使兼中書令王宗儔以蜀主失德,與王宗弼謀廢立,宗弼猶豫未決。庚戌,宗儔憂憤而卒。宗弼謂樞密使宋光嗣、景潤澄等曰:「宗儔教我殺爾曹,今日無患矣。」光嗣輩俯伏泣謝。宗弼子承班聞之,謂人曰:「吾家難乎免矣。」

契丹は渤海を攻めるが、功なく還った。
前蜀のさきの山南節度使・兼中書令の王宗儔は、蜀主が失德したので、王宗弼ともに廢立を謀る。王宗弼は、決められない。庚戌、王宗儔は。憂憤して卒した。宗弼は、樞密使の宋光嗣と景潤澄らにいう。「王宗儔は私に、きみらを殺せと言った。今日(王宗儔が死んだので)患がなくなった」と。宋光嗣らは、俯伏・泣謝した。
王宗弼の子・王承班はこれを聞き、人にいう。「わが家難は、免れた」と。

ぼくは思う。ただし、蜀主の失徳は、まったく根本が解決されていないという。どんなことも、前蜀の滅亡を予感できない、まぬけな蜀臣の滑稽劇に見える。


乙卯,蜀主以前鎮江軍節度使張武為峽路應援招討使。
丁巳,幽州言契丹入寇。

9月乙卯、蜀主は、さきの鎮江軍節度使の張武を、峽路應援招討使とする。

前蜀は、鎮江軍を夔州においた。

丁巳、幽州は契丹が入寇したという。130908

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924年冬、蜀主が国境を武装解除

10月、中央の租庸使と、節度使の関係

冬,十月,辛未,天平節度使李存霸、平盧節度使符習言:「屬州多稱直奉租庸使貼指揮公事,使司殊不知,有紊規程。」租庸使奏,近例皆直下。敕:「朝廷故事,制敕不下支郡,牧守不專奏陳。今兩道所奏,乃本朝舊規;租庸所陳,是偽廷近事。自今支郡自非進奉,皆須本道騰奏,租庸征催亦須牒觀察使。」雖有此敕,竟不行。
易定言契丹入寇。

冬10月の辛未、天平節度使の李存霸と、平盧節度使の符習はいう。「属州のおおくは(中央の)租庸使に直接に奉する。租庸使が、公事を指揮する。使司(地方の節度使司)は、とくに内容を知らず。これでは、規程を紊する」と。

ときに租庸使は、諸州の徴発を帖下した。

租庸使の奏は、近例はどれも地方に直接下された。

地方に命令するとき、かならず節度使を経由させるかという話。唐制では、経由させる。梁制では、経由させない。いま、唐制にもどして、梁制をやめる。

唐帝の敕「朝廷の故事では、制敕は支郡に下さず。

節鎮を会府とする。諸州を巡属して、支郡とする。

牧守は奏陳を専らにせず。2つの経路から奏があり、これが本朝(唐制)の舊規である。租庸が陳べるのは、偽廷(梁制)の近事である(から廃止する)。今より支郡は、みずから進奉しない。みな本道から奏を騰げろ。租庸の徴催もまた、觀察使を牒せよ」と。

唐制において節度使は、兵事を掌握した。観察使は、民事を掌握した。ゆえに租庸の徴催は、観察使司を止牒した。

この敕があるが、ついに実行されず。

史書はいう。徴斂は厳しく急である。ただ趣弁を期して、ついに敕を奉じずに実行された。ぼくは思う。この段落は、予備知識がないから、よく分からなかった。ダメだなあ。

易定は、契丹が入寇したという。

10月、前蜀、呉越、呉国のこと

蜀宣徽北院使王承休請擇諸軍驍勇者萬二千人,置駕下左、右龍武步騎四十軍,兵械給賜皆優異於它軍,以承休為龍武軍馬步都指揮使,以裨將安重霸副之,舊將無不憤恥。重霸,去州人,以狡佞賄賂事承休,故承休悅之。

前蜀の宣徽北院使の王承休は、諸軍から驍勇な者1万2千人を選びたい。駕下に左右龍武步騎40軍を置きたい。兵械は、他軍よりも優れた装備を給賜してほしい。王承休は、龍武軍馬步都指揮使となる。裨將の安重霸を副将とする。舊將は、憤恥しない者はない。安重霸は、去州の人。狡佞・賄賂をもって、王承休に仕える。ゆえに王承休は、安重霸を悦した。

吳越王鏐復修本朝職貢,壬午,帝因梁官爵而命之。鏐厚貢獻,並賂權要,求金印、玉冊、賜詔不名、稱國王。有司言:「故事惟天子用玉冊,王公皆用竹冊;又,非四夷無封國王者。」帝皆曲從鏐意。

吳越王の銭鏐は、本朝の職貢を復修する。

銭鏐は、もとは唐臣であった。大唐が滅亡して、後梁に仕えた。後梁がほろびて、後唐につかえた。ゆえに「復修」というのだ。

壬午、唐帝は銭鏐に、梁国と同等の官爵を命じた。銭鏐は貢獻を厚くする。あわせて權要に賄賂する。金印、玉冊、賜詔不名、稱國王を求める。有司「故事で、ただ天子のみが玉冊を用いる。王公は竹冊を用いる。四夷は國王に封じない」と。唐帝は、有司の意見を曲げて、すべて銭鏐の要望に従う。

吳王如白沙觀樓船,更命白沙曰迎鑾鎮。徐溫自金陵來朝,先是,溫以親吏翟虔為閣門、宮城、武備等使,使察王起居,虔防制王甚急。至是,王對溫名雨為水,溫請其故。王曰:「翟虔父名,吾諱之熟矣。」因謂溫曰:「公之忠誠,我所知也,然翟虔無禮,宮中及宗室所須多不獲。」溫頓首謝罪,請斬之,王曰:「斬則太過,遠徙可也。」乃徙撫州。

吳王は、白沙の觀樓船にゆく。更命して、白沙を「迎鑾鎮」とする。

地名について、8926頁。

徐溫が、金陵より來朝する。これより先、徐温は、親吏の翟虔を、閣門・宮城・武備らの使とする。翟虔に、王の起居を察させる。翟虔は、呉王の甚急を防制する。

鍾泰章が張顥を殺した。牙城門を閉じ、朱瑾を討った。どちらも翟虔がやったのだ。ゆえに徐温は、翟虔を親任した。

ここにいたり呉王は徐温に向けて、雨のことを「水」といった。徐温が理由を聞いた。呉王「翟虔の父の名は、雨である。ゆえに雨の文字を諱むのだ」と。呉王は徐温にいう。「徐温の忠誠を、私は知っている。だが翟虔の無禮は、宮中および宗室に歓迎されていない」と。徐温は頓首・謝罪して「翟虔を斬りたい」という。呉王「斬ったら太過である。遠徙するのが良い」と。翟虔を撫州に徙した。

ぼくは思う。呉王は、徐温の親吏を遠ざけられるほどには、権力を持っているのね。


11月、前蜀が後唐をふせぐ鎮所を引き上げる

十一月,蜀主遣其翰林學士歐陽彬來聘。彬,衡山人也。又遣李彥稠東還。
癸卯,帝帥親軍獵於伊闕,命從官拜梁太祖墓。涉歷山險,連日不止,或夜合圍;士卒墜崖谷死及折傷者甚眾。丙午,還宮。
蜀以唐修好,罷威武城戍,召關宏業等二十四軍還成都。戊申,又罷武定、武興招討劉潛等三十七軍。

11月、蜀主は、翰林學士の歐陽彬を來聘する。歐陽彬は、衡山の人。また、李彥稠を東還させる。

『考異』は歐陽彬をめした時期の異同をいう。李彦稠が(後唐から)前蜀に至るのは、9月に記事がある。

癸卯、唐帝は親軍を帥して、伊闕で猟する。從官に命じ、梁太祖の墓を拝する。

伊闕県は、洛陽の南2百里にある。伊闕山があり、大禹が鑿したところ。
梁祖は、唐帝の仇讐である。前に墓を発して、棺を断った。いま従官に拝させる。なぜ前後で、相違するのか。ぼくは思う。胡三省の短慮である。もはや後梁の現実的な脅威が去ったから、度量の大きさを見せつけたのだろう。べつに矛盾していない。

山險を涉歷して、連日やまず。ある夜に合圍した。士卒は崖谷を墜ちて、死および折傷した者は、ひどく多い。丙午、唐帝は還宮した。

史書はいう。唐帝は狩猟に荒れて、士卒を恤せず。

前蜀は、後唐と修好したので、威武の城戍をやめた。關宏業ら24軍を成都に還した。戊申、武定・武興の招討使である劉潛ら37軍を罷めた。

ぼくは思う。後唐が使者をおくり、前蜀の警戒をゆるめる。そして後唐が、前蜀を滅ぼす。うまくいきすぎ。というか、前蜀の警戒があまい。まあ後唐と前蜀は、三国の魏蜀のように、正統における対立があるのではないから。


丁巳,賜護國節度使李繼麟鐵券,以其子令德、令錫皆為節度使,諸子勝衣者即拜官,寵冠列籓。
庚申,蔚州言契丹入寇。
辛酉,蜀主罷天雄軍招討,命王承騫等二十九軍還成都。

11月丁巳、護國節度使の李繼麟に、鐵券を賜う。李継麟の子の李令德と李令錫を、どちらも節度使とする。諸子の勝衣する者は、即ち拜官する。唐帝の寵は列籓に冠する。

朱友謙への唐帝の寵愛は、禍いを速めた。その反覆はおおく(予想は)及べない。
ぼくは思う。朱全忠の子、李茂貞の子など、父の李克用の仇敵だった者の子を、皇帝として寵愛する。かつ寵愛から誅殺に、自在に切り替える。

庚申、蔚州は契丹が入寇したという。
辛酉、蜀主は、天雄軍の招討を罷める。王承騫ら29軍を、成都に還す。

12月、

十二月,乙丑朔,蜀主以右僕射張格兼中書侍郎、同平章事。初,格之得罪,中書吏王魯柔乘危窘之;及再為相用事,杖殺之。許寂謂人曰:「張公才高而識淺,戮一魯柔,他人誰敢自保!此取禍之端也。」
蜀主罷金州屯戍,命王承勳等七軍還成都。

12月の乙丑ついたち、蜀主は、右僕射の張格に、中書侍郎・同平章事を兼ねさせる。はじめ張格は罪を得た。

梁均王の貞明4年にある。

中書吏の王魯柔は、危に乗じて張格を窘めた。ふたたび宰相になると、張格は王魯柔を杖殺した。許寂は人にいう。「張公は才が高いが、識は浅い。ひとたび王魯柔を戮せば、他の人は誰が自保できるか。これは取禍之端である」と。

胡三省はいう。張格は則ち失した。許寂は宰相の地位にあるが、前蜀が滅亡しそうと気づかない。ただ張格が、禍いを引き寄せたことを知るだけ。前蜀が滅亡すれば、その宰相(張格も許寂も)禍いを免れられない。

蜀主は、金州の屯戍を罷めた。

ぼくは思う。蜀主がここまで武装解除するのは、なぜか。2つ理由を言えるだろう。1つ、もう前蜀を店じまいする。後唐を支持して、もう後唐の1つの藩鎮でいいやと。蜀主は政治の関心を失っている。蜀主の地位をめぐって、前蜀の宰相の地位をめぐって、それほど熾烈な権力争いがない。そもそもパイが小さいから、みんな関心を失い始めたのだろう。もう1つは、後唐が攻め込まないという安心感。ぼくは前者だと思う。
ぼくは思う。五代十国は、確かに分裂していたが。「どこまで深刻かつ真剣に分裂していたか」は、慎重に見るべきだ。漢初の楚漢戦争、漢末の魏呉の対立。これらと、どこが同じでどこが違うのか。少なくとも、全て同じだと見積もるべきでない。

王承勳ら7軍を、成都に還した。

蜀主は、後唐と和したことを恃み、辺境の守備をやめた。これは、虎豹がいるのに、オリにカギを掛けないようなものだ。


己巳,命宣武節度使李嗣源將宿衛兵三萬七千人赴汴州,遂如幽州御契丹。
庚午,帝及皇后如張全義第,全義大陳貢獻;酒酣,皇后奏稱:「妾幼失父母,見老者輒思之,請父事全義。」帝許之。全義惶恐固辭,再三強之,竟受皇后拜,復貢獻謝恩。明日,後命翰林學士趙鳳草書謝全義,鳳密奏:「自古無天下之母拜人臣為父者。」帝嘉其直,然卒行之。自是後與全義日遣使往來問遺不絕。

己巳、宣武節度使の李嗣源に命じて、宿衛の兵37000をひきい、汴州にゆく。ついに幽州にゆき、契丹をふせぐ。

李嗣源に命じて、兵をひきいて鎮所にゆかす。北に出て、辺に備える。ぼくは思う。「ついに」がポイント。いままで契丹と、後唐が戦ったことはない。

庚午、唐帝および皇后は、張全義の第にゆく。張全義は、貢獻を大陳する。酒酣となり、皇后が奏稱した。「私は幼いとき父母を失った。老者を見れば、父母を思ってしまう。張全義に父事したい」と。唐帝は許した。

すでに胡三省が批判していた。世代がバラバラであると。

張全義は、惶恐・固辭する。再三に強いられ、ついに皇后の拜を受ける。ふたたび貢獻して謝恩する。

劉皇后は、張全義の財産がほしかった。ゆえに娼婢のように膝を屈した。志は財貨にある。ぼくは思う。この胡三省の解釈は、少なくとも史家の記述意図には、合致しているのだろう。張全義が、貢献するものを並べるとか、そんな記述は、父事のことを言うだけなら不要だしね。

翌日、皇后は翰林學士の趙鳳に命じて、文書を草させ、全義に謝した。趙鳳は密奏した。「古代より天下の母が、人臣を父としたことがない」と。唐帝は、趙鳳の直を嘉するが、ついに皇后による父事は行った。これより皇后と張全義は、日々に使者を往来させて絶えない。

初,唐僖、昭之世,宦官雖盛,未嘗有建節者。蜀安重霸勸王承休求秦州節度使,承休言於蜀主曰:「秦州多美婦人,請為陛下采擇以獻。」蜀主許之,庚午,以承休為天雄節度使,封魯國公;以龍武軍為承休牙兵。
乙亥,蜀主以前武德節度使兼中書令徐延瓊為京城內外馬步都指揮使。延瓊以外戚代王宗弼居舊將之右,眾皆不平。

はじめ大唐の僖宗や昭宗のとき、宦官は盛だが、まだ建節のある者がいた。前蜀の安重霸は王承休に、秦州節度使になれと求めた。王承休は蜀主にいう。「秦州は美しい婦人がおおい。陛下のために采擇して献じたい」と。蜀主は許した。
12月庚午、王承休は天雄節度使となり、魯國公に封じられる。龍武軍を、王承休の牙兵とする。

史書はいう。前蜀の政治の乱れは、大唐の末期よりひどい。
この年の10月、前蜀は龍武軍をおいたところ。

12月乙亥、蜀主は、さきの武德節度使・兼中書令の徐延瓊を、京城内外馬步都指揮使とする。徐延瓊は、外戚なので、王宗弼に代わって、舊將之右にいる。旧将たちは、みな不平である。

ぼくは思う。前蜀の官職がインフレしすぎ、かつ整備されすぎなのは、蜀漢と似ている。呉越や呉国や楚国は、こんなに凝らない。蜀地はまた、東アジア文化圏のなかで、筆頭の「中華の文化を受容してアレンジする」地域なのかも。アレンジするからこそ、過剰になったりする。亜種が生まれる。日本の兄にあたる。
胡三省はいう。蜀主の母も妃も、どちらも徐氏である。蜀主の王建は、徐氏の兄弟に典兵させるなと遺言した。だが王衍は、この遺言を守らなかった。前任として典兵した王宗弼も、人材としては不足だった。軍衆が徐延瓊に不平なのは、ただ徐延瓊が王宗弼の後任についたからでない。
ぼくは思う。前蜀は、何ひとつ、うまくいっているように見えない。ぎゃくに、これで国家が自壊しないのだから、「うまくいっている」というべきか。滅亡直前の国家について、史家が公正に評価してくれるはずはないけれど。


壬午,北京言契丹寇嵐州。

12月壬午、北京は唐帝に、契丹が嵐州を寇したという。

同光の初期、鎮州を北都とし、太原を西京とした。やがて北都を廃して鎮州とし、太原を北京とした。つまり、いま報告をしたのは、太原である。


辛卯,蜀主改明年元曰鹹康。
盧龍節度使李存賢卒。
是歲,蜀主徙普王宗仁為衛王。雅王宗輅為幽王,褒王宗紀為趙王,榮王宗智為韓王,興王宗澤為宋王,彭王宗鼎為魯王,忠王宗平為薛王,資王宗特為莒王;宗輅、宗智、宗平皆罷軍使。

12月辛卯、蜀主は翌年を「咸康」と改元する。
盧龍節度使の李存賢が卒した。
この年、蜀主は王たちを封じた。はぶく。いずれも軍役を罷めた。

前蜀の諸王を軍使としたのは、梁均王の貞明4年にある。それをやめた。
ぼくは思う。もう武装解除じゃないか。前蜀のなかで、なにがあったのだろう。「後唐の徳が染みこんだ」という説明もついていない。でも、意外とそうなのかも。だって三国蜀だって、中原で劉氏の皇帝がふたたび立てば(どんな流れで立つのかは分からないが)武装解除したはずだ。ただし後唐の荘宗(いまの唐帝)を、あんまりほめると、末路の説明がつかないから、そうなっていない。

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925年春、

莊宗光聖神閔孝皇帝中同光三年(乙酉,公元九二五年)

正月、昭宗を葬らず、即位壇を球場にする

春,正月,甲午朔,蜀大赦。
丙申,敕有司改葬昭宗及少帝,竟以用度不足而止。
契丹寇幽州。庚子,帝發洛陽;庚戌,至興唐。
詔平盧節度使苻習治酸棗遙堤以御決河。

春正月の甲午ついたち、前蜀が大赦した。
丙申、有司に敕して、大唐の昭宗および少帝を改葬した。ついに用度が足らず、やめた。

朱温に殺されたせいで、埋葬がおおく欠陥があった。
後唐は、大唐を継承したのに、昭宗と少宗の葬儀が充分でなかった。後漢が漢を簒奪した直後、長陵と原陵は、ついに乾祐の世まで修復されない。これを史書はそしる。
ぼくは思う。王莽をはさんで、後漢が前漢をつぐとか。曹丕をはさんで、蜀漢が後漢をつぐとか。それと同じ意味で、後唐は大唐をついだのではない。もう少し、三国ファンが認識するよりは、関係がゆるい。このあたり、「後唐の国号は、ウソかよ」と思う人が、同時代にもいただろうが、少なくとも魏晋期ほどは多くなさそう。

契丹が幽州を寇した。庚子、唐帝は洛陽を発する。庚戌、興唐に至る。

ときいに魏州を、興唐府という。

詔して、平盧節度使の苻習に、酸棗の遙堤を修復させ、決河を制御させる。

遙堤とは、平地の遠くにあって水をおさえる。


初,李嗣源北征,過興唐,東京庫有供御細鎧,嗣源牒副留守張憲取五百領,憲以軍興,不暇奏而給之;帝怒曰:「憲不奉詔,擅以吾鎧給嗣源,何意也!」罰憲俸一月,令自往軍中取之。

はじめ李嗣源が北征すると、興唐を過ぎた。

去年に北して、契丹をふせぐときである。

東京庫には、供御の細鎧がある。嗣源は、副留守の張憲に牒して、5百領を取らせた。張憲は軍興したばかりで、奏する暇もなく、細鎧を李嗣源の軍に支給した。唐帝は怒る。「張憲は奉詔せず、ほしいままに私の鎧を李嗣源に供給した。どういう意図か」と。張憲を罰して、1ヶ月の減俸とする。唐帝は、みずから張憲を軍中にゆかせ、細鎧を回収させる。

ぼくは思う。李嗣源の軍がそむき、唐帝は立ち枯れる。もう李嗣源の軍に関しては、唐帝の滅亡の伏線にしか見えない。恐いなあ。


帝以義武節度使王都將入朝,欲辟球場,憲曰:「此以行宮闕廷為球場,前年陛下即位於此。其壇不可毀,請辟球場於宮西。」數日,未成,帝命毀即位壇。憲謂郭崇韜曰:「此壇,主上所以禮上帝,始受命之地也,若之何毀之!」崇韜從容言於帝,帝立命兩虞候毀之。憲私於崇韜曰:「忘天背本,不祥莫大焉。」

唐帝は、義武節度使の王都を入朝させ、球場に辟した。張憲「行宮・闕廷するのに、球場にゆかす。前年に陛下が即位したのが、この宮城の土地だ。即位の壇を毀すべきでない。王都を召すなら、球場の宮西に辟せ」と。

同光元年、唐帝は魏州の牙城の南に、壇を築いた。天に即位を告げた。
ぼくは思う。即位壇をこわして、数年後に球場にするとか、漢魏なら考えられない。漢魏に形成された文化が到達する、最後の射程なんだろう。「どんな強弓でも、着地の寸前は、薄い布すら貫けない」というやつだ。

数日して、唐帝は即位壇を毀てと命じた。張憲は郭崇韜にいう。「この壇は、主上が上帝に禮したもの。はじめの受命之地である。なぜ毀すか」と。郭崇韜は從容として唐帝にいう。唐帝は、ただちに両虞候に命じて、毀させた。

両虞候とは、馬軍虞候と、歩軍虞候である。あるいは、左右の両虞候のことである。

張憲はひそかに郭崇韜にいう。「天を忘れ、本に背く。不祥は莫大である」と。

胡三省はいう。張憲と郭崇韜は、私議するだけで、唐帝の前で(壇を壊すなと)争わない。どうせ唐帝が聞かないから、唐帝の前で言えなかったのだ。


2月、唐帝は郭崇韜に汴州を領有させたい

二月,甲戌,以橫海節度使李紹斌為盧龍節度使。
丙子,李嗣源奏敗契丹於涿州。

2月甲戌、橫海節度使の李紹斌を、盧龍節度使とする。

李紹斌は、明宗(つぎの李嗣源の時期)に「趙徳鈞」となる。趙徳鈞は幽州を守って功績がない。のちに危機に乗じて、君主をむかえる。外に契丹と市をなすが、父子で捕虜となる。幽州もまた、契丹に領有される。
ぼくは思う。李紹斌は面白そうな人物だが、明宗期にネタがある。対象外。

丙子、李嗣源は、契丹を涿州でやぶったと報告する。

上以契丹為憂,與郭崇韜謀,以威名宿將零落殆盡,李紹斌位望素輕,欲徙李嗣源鎮真定,為紹斌聲援,崇韜深以為便。時崇韜領真定,上欲徙崇韜鎮汴州,崇韜辭曰:「臣內典樞機,外預大政,富貴極矣,何必更領籓方?且群臣或從陛下歲久,身經百戰,所得不過一州。臣無汗馬之勞,徒以侍從左右,時贊聖謨,致位至此,常不自安;今因委任勳賢,使臣得解旄節,乃大願也。且汴州關東衝要,地富人繁,臣既不至治所,徒令他人攝職,何異空城!非所以固國基也。」上曰:「深知卿忠盡,然卿為朕畫策,襲取汶陽,保固河津,既而自此路乘虛直趨大梁,成朕帝業,豈百戰之功可比乎!今朕貴為天子,豈可使卿曾無尺寸之地乎!」崇韜固辭不已,上乃許之。庚辰,徙李嗣源為成德節度使。

唐帝は、契丹を憂いた。郭崇韜と謀る。威名ある宿將は、零落して殆盡した。

ぼくは思う。宿将がもういない。おお!

李紹斌は、位望は素輕だから、李嗣源を徙して真定に鎮させ、李紹斌に聲援したい。郭崇韜は深く便とした。ときに郭崇韜は真定を領する。唐帝は郭崇韜を徙して、汴州に鎮させたい。

李嗣源と郭崇韜の2人とも、節鎮を変更したい。

郭崇韜は辞した。崇韜「私は内に樞機を典し、外に大政を預る。富貴は極れり。なぜ必ずしも領する籓方を変更するか。群臣のなかに、陛下に従って歳の久しい者がいる。身は百戰を経験したが、所領が1州に過ぎない者もいる。私は、汗馬之勞がない。いたずれに左右に侍從するだけ。ときに聖謨を贊するだけで、官位はこのように最高になった。つねに不安である。いま勲賢に委任せよ。私の旄節を解け。これは私の大願である。汴州は關東の衝要である。

汴州は、成皋関の東にある。南は、淮水や泗水に通じる。北は、滑州や魏州に通じる。
ぼくは思う。というか汴州は、後梁の根拠地である。ここに郭崇韜を置けば、郭崇韜は、第2の皇帝である。唐帝は、要地だからこそ信頼できる臣下を、汴州に置きたい。しかし信頼できる-重職を与える、というループを何度も回すと、官職の配分が不公平になる。数学的に分布のグラフを描けそうだが、格差が拡大しそう。首長竜が首をもたげそう。

汴州は、地は富み、人は繁く、私は治められない。他人に攝職させねば、空城も同じだ。国の基を固めねば」と。
唐帝「卿の忠盡を深く知る。だが卿は、私のために畫策し、汶陽を襲取して、河津を保固した。この路から、郭崇韜が虚に乗じて大梁に直趨して、私の帝業が成った。(滅梁は)百戰之功を比べられるか。

汶陽を取るとは、鄆州を取ったことをいう。河津を固めるとは、馬家口に塁を築き、大梁を取ったことをいう。

いま私を天子にしてくれた郭崇韜に、無尺寸之地を領させられない」と。だが崇韜は固辭して已まず。唐帝は(辞退を)許した。庚辰、李嗣源を徙して、成德節度使とした。

漢主聞帝滅梁而懼,遣宮苑使何詞入貢,且覘中國強弱。甲申,詞至魏。及還,言帝驕淫無政,不足畏也。漢主大悅,自是不復通中國。

漢主は、唐帝が滅梁したと聞いて懼れる。宮苑使の何詞を、後唐に入貢させる。中國の強弱を覘る。甲申、何詞は魏州に至る。

ときい唐帝が魏都にいた。

還って、何詞は漢主にいう。「唐帝は、驕淫・無政である。畏れるに足りない」と。漢主は大悅した。これより中原と使者を通じない。

3月、はじめて唐帝が、李嗣源を疑い懼れる

帝性剛好勝,不欲權在臣下,入洛之後,信伶宦之讒,頗疏忌宿將。
李嗣源家在太原,三月,丁酉,表衛州刺史李從珂為北京內牙馬步都指揮使以便其家,帝怒曰:「嗣源握兵權,居大鎮,軍政在吾,安得為其子奏請!」乃黜從珂為突騎指揮使,帥數百人戍石門鎮。嗣源憂恐,上章申理,久之方解。辛丑,嗣源乞至東京朝覲,不許。郭崇韜以嗣源功高位重,亦忌之,私謂人曰:「總管令公非久為人下者,皇家子弟皆不及也。」密勸帝召之宿衛,罷其兵權,又勸帝除之,帝皆不從。

唐帝の性は剛で、勝を好む。權が臣下にあるのを欲さず。入洛之後に、伶宦之讒を信じる。すこぶる宿將を疏忌した。

胡三省はいう。敵国(対等な国)や外患がなければ、国はつねに亡する。漢主は唐帝を畏れないのは、奢虐がひどいからである。
ぼくは思う。唐帝が、①洛陽に入り、②対等な外敵がないので、③近臣を寵用して宿将を遠ざけ、④国家が傾く。いいなあ。典型的なストーリーである。

李嗣源は、家が太原にある。3月丁酉、李嗣源は表して、衛州刺史の李從珂を、北京内牙馬步都指揮使として、李嗣源の家を便させた。唐帝は怒った。「嗣源は兵權を握り、大鎮に居る。だが軍政は、私にある。なぜ李嗣源は、子の李従珂のために奏請するか」と。唐帝は、李従珂を黜して、突騎指揮使として、數百人を帥いて石門鎮を戍らせる。

石門鎮は、大唐の横水柵である。
ぼくは思う。李嗣源が、李従珂に自宅を管理させるために、李従珂の配置を決めてしまった。だから唐帝は怒ったのだ。軍務や経済の実際よりも、手続に関して、聡くなっている。

李嗣源は憂恐した。上章・申理した。久しくして方解した。
3月辛丑、嗣源は東京に至って、朝覲を請う。唐帝は許さず。郭崇韜は、嗣源が功高・位重なので、嗣源を忌んだ。ひそかに人にいう。崇韜「總管令公は、久しく人の下にいない。皇家の子弟は、みな嗣源に及ばない」と。

ぼくは思う。郭崇韜は、このあと前蜀を滅ぼしにゆき、死んでしまう。唐帝の最後を見届けない。李嗣源が、つぎの唐帝になることを阻止しないし、見届けない。
李嗣源は中書令であり、蕃漢内外馬歩軍都総管である。だから「総管令公」とよぶ。

郭崇韜はひそかに唐帝に、嗣源を召して宿衛にして、嗣源の兵權を罷めろという。また唐帝に嗣源を除けという。唐帝は従わず。

唐帝が李嗣源を、疑い懼れた張本である。郭崇韜もまた、自分が伶宦に忌まれていることを知っている。


己酉,帝發興唐,自德勝濟河,歷楊村、戚城,觀昔時戰處,指示群臣以為樂。
洛陽宮殿宏邃,宦者欲上增廣嬪御,詐言宮中夜見鬼物。上欲使符咒者攘之,宦者曰:「臣昔逮事鹹通、乾符天子,當是時,六宮貴賤不減萬人。今掖庭太半空虛,故鬼物游之耳。」上乃命宦者王允平、伶人景進采擇民間女子,遠至太原、幽、鎮,以充後庭,不啻三千人,不問所從來。上還自興唐,載以牛車,纍纍盈路。張憲奏:「諸營婦女亡逸者千餘人,慮扈從諸軍挾匿以行。」其實皆入宮矣。

3月己酉、唐帝は興唐を発して、德勝より濟河した。楊村、戚城をとおる。昔時の戰處をみる。群臣に指を示して、樂しんだ。

胡三省はいう。これ即ち、唐帝が自ら「私は10指の上で天下を得た」と考えているゆえの態度である。

洛陽の宮殿は宏邃である。宦者は唐帝に、嬪御を增廣せよという。詐言して「宮中で夜に鬼物を見た」という。唐帝は符咒する者に、鬼物を攘させる。
宦者「私は昔、咸通期や乾符期に、天子につかえた。

大唐の懿宗と僖宗の年号である。

そのとき六宮には、貴賤の者が、1万人以上いた。いま掖庭の太半は、空虛である。ゆえに鬼物が游するのだ」と。

ぼくは思う。現代日本で、廃墟ブームとか、廃墟でのホラーとかが成立し得るのは、この洛陽と同じである。いちど調子にのって、コンクリート製の建物をいっぱいつくった。人が使っていない。鬼神がうろつく。人間の活動には、当然ながら伸縮がある。その縮んだところに、鬼神が入り込む。

唐帝は宦官の王允平、伶人の景進采に命じて、民間の女子を擇ばせた。遠くは、太原、幽州、鎮州から、女子を連れてきて後庭を充す。3千人をただならず、来る者は問わず。唐帝は興唐より還り、牛車にのる。纍纍として路に盈つる。
張憲「(魏州の)諸營の婦女で、亡逸する者は、1千餘人いる。諸軍に扈從して、挾匿することが心配である」と。この婦女を、みな後宮に入れた。

胡三省はいう。史家は、唐帝が魏卒から怨まれたことをいう。
ぼくは補う。のちに魏卒が李嗣源を担いで反乱する。魏卒は、唐帝によって婦女を奪われたから、唐帝を怨んでいるのだ。レヴィ=ストロースが、女性を交換の対象だと見なしたように、いちばんの「財産」である。これを一方的に奪ったのだから、怨まれるし、背かれても仕方ない。


庚辰,帝至洛陽;辛酉,詔復以洛陽為東都,興唐府為鄴都。

3月庚辰、唐帝は洛陽に至る。辛酉、ふたたび洛陽を東都、興唐府を鄴都とする。130909

地名の変遷について、8932頁。

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925年夏、

4月、

夏,四月,癸亥朔,日有食之。
初,五台僧誠惠以妖妄惑人,自言能降伏天龍,命風召雨;帝尊信之,親帥后妃及皇弟、皇子拜之,誠惠安坐不起,群臣莫敢不拜,獨郭崇韜不拜。時大旱,帝自鄴都迎誠惠至洛陽,使祈雨,士民朝夕瞻仰,數旬不雨。或謂誠惠:「官以師祈雨無驗,將焚之。」誠惠逃去,慚懼而卒。
庚寅,中書侍郎、同平章事趙光胤卒。

夏4月の癸亥ついたち、日食あり。
はじめ、五台僧の誠惠は、妖妄で人を惑わす。みずから「天龍を降伏させ、風を命じ、雨を召せる」という。唐帝はこれを尊信した。みずから后妃および皇弟や皇子をつれ、誠恵に拜した。誠恵は安坐して起たず。群臣は、莫えて拜さない者がない。ひとり郭崇韜だけが、誠恵に拜さず。
ときに大旱である。唐帝は、鄴都から誠恵を洛陽に迎え、祈雨させる。士民は朝夕に瞻仰する。數旬しても雨らず。或者が誠恵にいう。「官(唐帝)は、祈雨して無驗なら、あなたを焚く」と。誠恵は逃去し、慚懼して卒した。

胡三省はいう。史家は、異端をみだりに信じるなという。

庚寅、中書侍郎・同平章事の趙光胤が卒した。

太后自與太妃別,常忽忽不樂,雖娛玩盈前,未嘗解顏;太妃既別太后,亦邑邑成疾。太后遣中使醫藥相繼於道,聞疾稍加,輒不食,又謂帝曰:「吾與太妃恩如兄弟,欲自往省之。」帝以天暑道遠,苦諫,久之乃止,但遣皇弟存渥等往迎侍。五月,丁酉,北都奏太妃薨。太后悲哀不食者累日,帝寬譬不離左右。太后自是得疾,又欲自往會太妃葬,帝力諫而止。
閩王審知寢疾,命其子節度副使延翰權知軍府事。

太后は、みずから太妃と別れ、つねに忽忽として楽しまず。

同光2年正月(昨年正月)太后は晋陽を離れて、洛陽にいった。

娛玩は盈前するが、解顏したことがない。太妃は、すでに太后と別れ、太后も邑邑として成疾した。太后は、中使をやる。醫藥は相次いで運ばれる。太妃の疾が悪化したと聞き、太后は食わない。また太后は唐帝にいう。「私と太妃は、恩は姉妹のようなもの。みずから行って省たい」と。唐帝は、天が暑くて道が遠いので、苦諫した。久しくして止めさせた。ただ皇弟の李存渥らをゆかせ、迎侍させた。
5月丁酉、北都は太妃が薨じたと奏した。太后は悲哀して、数日食わない。唐帝は寬譬して、太后の左右を離れず。太后はこれより得疾して、自ら太妃の葬に往會したい。帝は力諫して止めた。

太后が悲慕したのは、太妃が太后の心を得ていたからだ。

閩王の審知が寢疾した。子の節度副使の延翰に、權知軍府事させる。

6月、唐帝が暑がり、宦官が大唐の納涼を教える

自春夏大旱,六月,壬申,始雨。
帝苦溽暑,於禁中擇高涼之所,皆不稱旨。宦者因言:「臣見長安全盛時,大明、興慶宮樓觀以百數。今日宅家曾無避暑之所,宮殿之盛曾不及當時公卿第捨耳。」帝乃命宮苑使王允平別建一樓以清暑。宦者曰:「郭崇韜常不伸眉,為孔謙論用度不足,恐陛下雖欲營繕,終不可得。」帝曰:「吾自用內府錢,無關經費。」然猶慮崇韜諫,遣中使語之曰:「今歲盛暑異常,朕昔在河上,與梁人相拒,行營卑濕,被甲乘馬,親當矢石,猶無此暑。今居深宮之中而暑不可度,奈何?」對曰:「陛下昔在河上,勍敵未滅,深念仇恥,雖有盛暑,不介聖懷。今外患已除,海內賓服,故雖珍台閒館猶覺郁蒸也。陛下倘不忘艱難之時,則暑氣自消矣。」帝默然。宦者曰:「崇韜之第,無異皇居,宜其不知至尊之熱也。」帝卒命允平營樓,日役萬人,所費巨萬。崇韜諫曰:「今兩河水旱,軍食不充,願且息役,以俟豐年。」帝不聽。

春夏より大旱で、6月壬申に始めて雨がふった。
帝は溽暑(湿熱)に苦しむ。禁中において、高涼之所を擇ぶ。みな稱旨せず。宦者は因りて言う。「私が長安の全盛時を見るに、大明と興慶宮の樓觀は、1百を数えた。

ぼくは思う。宦官が、大唐と後唐をつなげて見せて、いまの唐帝を狂わせる役割なのね。外からきた唐帝は、むかしの長安を知らない。「皇帝たるため」の条件を、宦官から吹きこまれ、いちいち実践して、国家を傾けるのだ。

今日の宅家には、避暑之所がない。宮殿之盛は、大唐期の公卿の第舎に及ばない」と。
唐帝は、宮苑使の王允平に命じて、別に一樓を建て、清暑する。宦者「郭崇韜は、つねに伸眉せず。孔謙のために、用度の不足を論じる。陛下が營繕しても(費用の不足を理由にされて)完成しないことを恐れる」と。唐帝「私はみずから内府の錢を用いる。(郭崇韜や孔謙の管理する)經費は関係ない」と。
だが郭崇韜は諫めた。中使をやって唐帝は郭崇韜にいう。「今歲の盛暑は異常である。むかし私は河上にあり、梁人と相拒した。行營は卑濕で、被甲・乘馬し、みずから矢石に当たったが、これほど暑くなかった。いま深宮之中にいて、暑さに耐えられない。どうしたものか」と。郭崇韜「むかし陛下は河上にあり、勍敵は未滅、仇恥を深念した。盛暑でも、聖懷を介さず。いま外患はすでに除かれ、海内は賓服する。ゆえに、珍台・閒館をつくっても、なお郁蒸を感じるだろう。陛下が艱難之時を忘れねば、暑氣は自消する」と。唐帝は默然とした。
宦者「崇韜之第は、皇居に等しい。至尊の熱さを知らないのだ」と。唐帝はすぐに王允平に命じて、營樓させる。日に萬人を役す。所費は巨萬。崇韜は諫めた。「いま兩河が水旱で、軍食は不充。息役して、豐年を待て」と。唐帝は不聽。

帝將伐蜀,辛卯,詔天下括市戰馬。
吳鎮海節度判官、楚州團練使陳彥謙有疾,徐知誥恐其遺言及繼嗣事,遺之醫藥金帛,相屬於道。彥謙臨終,密留中遺徐溫,請以所生子為嗣。

唐帝は伐蜀したい。辛卯、天下に詔して、戰馬を括市させた。
呉国の鎮海節度判官・楚州團練使の陳彦謙に疾あり。

陳彦謙は、徐温が親信する者である。

徐知誥は、陳彦謙の遺言と継嗣のことを懼れて、医薬と金帛を贈る。陳彦謙が臨終のとき、ひそかに留中して徐温に使いをし、陳彦謙の実子を後嗣にせよと請うた。130909

陳彦謙の地位を父子で相続させたから、徐温を感動させた。

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925年秋、

7月、太后が死ぬ

太后疾甚。秋,七月,甲午,成德節度使李嗣源以邊事稍弭,表求入朝省太后,帝不許。壬寅,太后殂。帝毀過甚,五日方食。

太后は疾甚である。秋7月の甲午、成德節度使の李嗣源は、邊事が稍弭なので、表して入朝して太后に省いたいと求めた。唐帝は許さず。壬寅、太后が殂じた。唐帝の毀は過甚で、5日して方食した。

8月、洛陽令の羅貫をウザいから殺す

八月,癸未,杖殺河南令羅貫。初,貫為禮部員外郎,性強直,為郭崇韜所知,用為河南令。為政不避權豪,伶宦請托,書積幾案,一不報,皆以示崇韜,崇韜奏之,由是伶宦切齒。河南尹張全義亦以貫高伉,惡之,遣婢訴於皇后,後與伶宦共毀之,帝含怒未發。會帝自往壽安視坤陵役者,道路泥濘,橋多壞。帝問主者為誰,宦官對屬河南。帝怒,下貫獄;獄吏榜掠,體無完膚,明日,傳詔殺之。

8月癸未、河南令の羅貫を杖殺した。
はじめ羅貫は、禮部員外郎となる。性は強直で、郭崇韜に知られ、河南令となる。為政は權豪を避けない。伶宦が請托すると、書積幾案、1つを報じないと、みな郭崇韜に示した。郭崇韜はこれを奏した。これにより伶宦は切齒した。
河南尹の張全義もまた、羅貫をもって高伉し、羅貫を悪んだ。婢をやって皇后に訴え、皇后と伶宦とともに羅貫をそしった。

劉皇后は、張全義に父事した。ゆえに婢が出入していた。

唐帝は怒りを含むが、いまだ発しない。たまたま唐帝がみずから壽安にゆき、坤陵の役者を視る。道路は泥濘で、橋は多壞。唐帝はだれが主幹する者か聞いた。宦官は「この地は河南県に属する」という。

地名について、8935頁。

唐帝は怒り、羅貫を下獄した。ゴクリは榜掠して、體は完膚なし。明日、傳詔して羅貫を殺せという。

崇韜諫曰:「貫坐橋道不修,法不至死。」帝怒曰:「太后靈駕將發,天子朝夕往來,橋道不修,卿言無罪,是黨也!」崇韜曰:「陛下以萬乘之尊,怒一縣令,使天下謂陛下用法不平,臣之罪也。」帝曰:「既公所愛,任公裁之。」拂衣起入宮,崇韜隨之,論奏不已;帝自闔殿門,崇韜不得入。貫竟死,暴屍府門,遠近冤之。

郭崇韜「羅貫は、橋道の不修に坐したが、法では死罪ほど重くない」と。唐帝は怒った。「太后の靈駕が發するとき、天子が朝夕に往來するとき、橋道が不修であった。卿は無罪という。郭崇韜は羅貫の党与かよ」と。郭崇韜「陛下は、萬乘之尊をもって、1縣令を怒る。天下に『唐帝は用法が不平だ』と言わせたら、それは私の罪である」と。唐帝「すでにきみは私に信愛されている。きみに裁決をゆだねる」と。
唐帝は、拂衣して起ち、入宮した。郭崇韜は唐帝に隨って、論奏は已まず。唐帝は自ら殿門を闔する。郭崇韜は入れない。羅貫はついに死んで、屍を府門に暴す。遠近はこれを冤罪という。

胡三省はいう。羅貫の死は、郭崇韜が防ごうとしたが、防げなかった。羅貫は夷滅してしまった。哀しいかな。


丁亥,遣吏部侍郎李德休等賜吳越國王玉冊、金印,紅袍御衣。

8月丁亥、吏部侍郎の李德休らをつかわし、吳越國王に玉冊、金印,紅袍御衣を賜る。

9月、太子の魏王・李継岌を長官に、伐蜀する

九月,蜀主與太后、太妃游青城山,歷丈人觀、上清宮,遂至彭州陽平化、漢州三學山而還。
乙未,立皇子繼岌為魏王。

9月、蜀主と太后と太妃は、青城山に游する。丈人觀を歷する。清宮に上り、ついに彭州の陽平化に至る。漢州の三學山にゆき、還る。

地理について、8936頁。

9月乙未、皇子の李継岌を魏王とした。

丁酉,帝與宰相議伐蜀,威勝節度使李紹欽素諂事宣徽使李紹宏,紹宏薦「紹欽有蓋世奇才,雖孫、吳不如,可以大任。」郭崇韜曰:「段凝亡國之將,奸諂絕倫,不可信也。」眾舉李嗣源,崇韜曰:「契丹方熾,總管不可離河朔。魏王地當儲副,未立殊功,請依故事,以為伐蜀都統,成其威名。」帝曰:「兒幼,豈能獨往,當求其副。」既而曰:「無以易卿。」

9月丁酉、唐帝と宰相は、伐蜀を議した。威勝節度使の李紹欽は、もとより宣徽使の李紹宏に諂事する。李紹宏は薦めた。「李紹欽は、蓋世奇才がある。孫子や呉子にも勝る。大任をさせろ」と。郭崇韜「段凝は亡國之將だった。奸諂は絕倫で、信じるべきでない」と。

鄧州宣化軍を、威勝軍と改めた。段凝が唐国に降って「李紹欽」と改名した。上巻の元年にある。ぼくは補う。つまりいま、段凝を再起用せよと、李昭宏が言い始めたのだ。梁将のリユースである。

みなは李嗣源を、伐蜀の長官にあげた。郭崇韜「契丹は方熾。總管の李嗣源は、河朔を離すべきでない。魏王は、地位が儲副(後嗣)にあたり、まだ殊功を立てていない。故事に依って、魏王を伐蜀の都統とせよ。魏王は威名を成せ」と。

安禄山の乱のとき、大唐の玄宗は、諸子に分命して、諸道の都統とした。これが唐代の故事である。

唐帝「兒(魏王)は幼い。ひとりで伐蜀の都統をできない。副官をつけたい」と。すでにして唐帝はいう。「きみ(郭崇韜)以外にいない」と。

ぼくは思う。郭崇韜に死亡フラグが立ちました。


庚子,以魏王繼岌充西川四面行營都統,崇韜充東北面行營都招討制置等使,軍事悉以委之。又以荊南節度使高季興充東南面行營都招討使,鳳翔節度使李繼曮充都供軍轉運應接等使,同州節度使李令德充行營副招討使,陝州節度使李紹琛充蕃漢馬步軍都排陳斬斫使兼馬步軍都指揮使,西京留守張筠充西川管內安撫應接使,華州節度使毛璋充左廂馬步都虞候,邠州節度使董璋充右廂馬步都虞候,客省使李嚴充西川管內招撫使,將兵六萬伐蜀,仍詔季興自取夔、忠、萬三州為巡屬。都統置中軍,以供奉官李從襲充中軍馬步都指揮監押,高品李廷安、呂知柔充魏王府通謁。

庚子、魏王の李継岌を、西川四面行營都統に充つ。崇韜を、東北面行營都招討制置等使に充て、軍事はすべて委ねた。また、以荊南節度使高季興充東南面行營都招討使,鳳翔節度使李繼曮充都供軍轉運應接等使,同州節度使李令德充行營副招討使,
陝州節度使李紹琛充蕃漢馬步軍都排陳斬斫使兼馬步軍都指揮使,

李令徳は、朱友謙の子である。李紹琛は、康延孝のこと。みな李制をもらった。

西京留守張筠充西川管內安撫應接使,華州節度使毛璋充左廂馬步都虞候,邠州節度使董璋充右廂馬步都虞候,客省使李嚴充西川管內招撫使。
将兵6万で伐蜀する。詔して、高季興に、みずから夔州・忠州・萬州の3州を取らせ、巡属とする。

唐代に、夔州・忠州・萬州の3州は、もとは荊南節度に属した。唐末の乱で、王建が蜀地に拠ると、この3州を併合した。ぼくは補う。王建による併合を解除して、また荊南に属させようというのだ。

都統には中軍を置き、供奉官の李從襲を、中軍馬步都指揮監押に充てた。高品の李廷安と呂知柔を、魏王府の通謁に充てた。

李從襲らは、みな宦官である。


辛丑,以工部尚書任圜、翰林學士李愚並參預都統軍機。
自六月甲午雨,罕見日星,江河百川皆溢,凡七十五日乃霽。
郭崇韜以北都留守孟知祥有薦引舊恩,將行,言於上曰:「孟知祥信厚有謀,若得西川而求帥,無逾此人者。」又薦鄴都副留守張憲謹重有識,可為相,戊申,大軍西行。

辛丑、工部尚書の任圜と、翰林學士の李愚に、都統の軍機を參預させる。
6月甲午より雨がふり、罕見日星。江河の百川は、みな溢れる。75日で晴れた。
郭崇韜は、北都留守の孟知祥に、薦引の舊恩がある。蜀地にゆくとき、崇韜は唐帝にいう。「孟知祥は、信厚・有謀である。もし西川を得て、帥を求めたら、孟知祥を越える人材はない」と。また崇韜は、鄴都副留守の張憲が、謹重・有識なので、宰相にすべきだと薦めた。

孟知祥の旧恩は、梁均王の貞明5年にある。

9月戊申、大軍は西行した。

9月、蜀主が呆けて、秦州にゆきたい

蜀安重霸勸王承休請蜀主東遊秦州。承休到官,即毀府署,作行宮,大興力役,強取民間女子教歌舞,圖形遺韓昭,使言於蜀主;又獻花木圖,盛稱秦州山川土風之美。蜀主將如秦州,群臣諫者甚眾,皆不聽;王宗弼上表諫,蜀主投其表於地;太后涕泣不食,止之,亦不能得。前秦州節度判官蒲禹卿上表幾二千言,其略曰:

前蜀の安重霸は、王承休に「蜀主を秦州に東遊させよ」と請う。王承休は到官そい、ただちに府署を毀ち、行宮を作る。おおいに力役を興す。民間の女子を強取して、歌舞と圖形を教える。
韓昭をやり、蜀主に(芸術をやれる女子がいるよと)いう。

韓昭は、へつらう。蜀主は韓昭に狎れて信じる。

また蜀主に、木圖を獻花じる。さかんに秦州の山川土風之美をほめる。蜀主が秦州にいきそう。

ぼくは思う。劉禅だけ眺め、名君だ暗君だと言ってもラチがあかない。孫権や司馬昭と比べても、状況が違う。そこで、唐末の前蜀の2代目・王衍と比べたい。父は軍閥、豊かな蜀地に割拠、領土の伸びしろは関中、中原の王朝が二転(漢魏晋ならぬ唐梁唐という変遷)、宦官の寵用。環境を揃えたら、劉禅の名君ぶりが分かる!

群臣で諫める者は、とても多いが、みな不聽。王宗弼は上表して諫める。蜀主は、王宗弼の表を地に投じた。太后は涕泣して食わず。それでも蜀主は、秦州にいきたい。さきの秦州節度判官の蒲禹卿は、2千言の上表をした。その概略は;

ぼくは思う。頼りない蜀地の2代目に、現状認識を正すように上表する。これは「出師の表」と同じである。


「先帝艱難創業,欲傳之萬世。陛下少長富貴,荒色惑酒。秦州人雜羌、胡,地多瘴癘,萬眾困於奔馳,郡縣罷於供億。鳳翔久為仇讎,必生釁隙;唐國方通歡好,恐懷疑貳。先皇未嘗無故盤遊,陛下率意頻離宮闕。秦皇東狩,鑾駕不還;煬帝南巡,龍舟不返。蜀都強盛,雄視鄰邦,邊亭無烽火之虞,境內有腹心之疾,百姓失業,盜賊公行。昔李勢屈於桓溫,劉禪降於鄧艾,山河險固,不足憑恃。」

「先帝は艱難して創業する。これを萬世に伝えたい。陛下は少長とも富貴で、荒色・惑酒する。秦州の人は、羌族や胡族が混ざる。地は瘴癘がおおい。萬眾は困って奔馳する。郡縣は供億に罷める。鳳翔は久しく仇讎である。必ず釁隙が生じる。

ぼくは思う。秦州にいけば、鳳翔=岐王と仲良くならねばならない。いま岐王は、すでに2代目が唐帝に降ったけれど、仲良くやれないというのが、蒲禹卿の見通しである。

唐國は、歡好を通じるが、疑貳を懐かれるのを恐れる。

事情がないのに、挙兵して東に出れば(秦州にゆけば)これを理由に、唐軍に寇されることを恐れているのだ。

先皇(王建)は、かつてゆえなく盤遊しない。陛下は意に率し、しきりに宮闕を離れる。秦始皇は東狩して、鑾駕は還らず。煬帝は南巡して、龍舟は返らず。

この時期になると、夏桀とか殷紂よりも、煬帝のほうが、リアルな暴君なのね。というか、古代の伝説の君主は、夏禹をのぞけば、あんまり移動の逸話がないのかも。

蜀都は強盛である。雄は鄰邦を視し、辺亭は烽火之虞がない。領内には腹心之疾があり、百姓は失業し、盜賊は公行する。むかし李勢が桓溫に屈し、劉禪は鄧艾に降った。山河は險固だが、憑恃するに足らず」

成蜀が桓温に屈したのは、東晋の孝宗の永和3年である。劉禅が降ったのは、曹魏の元帝の景元4年である。
ぼくは思う。蜀地の君主が敗れたのは、時代が近い順に、成蜀の李勢と、蜀漢の劉禅なのか。劉禅が故事になっていて、感慨ぶかい。「地勢は守りやすいが、君主が惰弱だと降伏することになるよ」という教訓である。


韓昭謂禹卿曰:「吾收汝表,俟主上西歸,當使獄吏字字問汝!」王承休妻嚴氏美,蜀主私焉,故銳意欲行。

韓昭は、蒲禹卿にいう。「私がきみの上表を收めた。主上の西歸を待てば、獄吏にお前に問わせよう」と。

秦州から成都に帰るのを「西帰」という。
蜀主が帰れば、蒲禹卿に問うまでもなく、韓昭のカラダとクビは、切り離されていただろう。

王承休の妻・厳氏は美しい。蜀主は厳氏を私した。ゆえに意を鋭くして、蜀主は秦州に行きたい。130909

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925年冬、

10月、前蜀の鳳翔をぬき、郭崇韜が倍道する

冬,十月,排陳斬斫使李紹琛與李嚴將驍騎三千、步兵萬人為前鋒,招討判官陳乂至寶雞,稱疾乞留。李愚厲聲曰:「陳乂見利則進,懼難則止。今大軍涉險,人心易搖,宜斬以徇!」由是軍中無敢顧望者。乂,薊州人也。
癸亥,蜀主引兵數萬發成都,甲子,至漢州。武興節度使王承捷告唐兵西上,蜀主以為群臣同謀沮己,猶不信,大言曰:「吾方欲耀武。」遂東行。在道與群臣賦詩,殊不為意。

冬10月、排陳斬斫使の李紹琛と李嚴は、驍騎3千と步兵1萬をひきい、前鋒となる。招討判官の陳乂は、宝鶏にいたる。疾と稱し、宝鶏に留まりたいと乞う。李愚は声を励ます。「陳乂は、利を見て進む。難を懼れて止まる。いま大軍は險を涉る。

宝鶏から散関に入るには、桟閣の険を渡らねばならない。
ぼくは思う。陳乂は分かりやすいのだが、みんな蜀地に行きたくないのだ。この心理的なバリアが、蜀地に独立政権をつくらせる。

人心は搖れやすい。斬って徇わせろ(宝鶏から出せ)」と。これより軍中は、あえて顧望する者がない。陳乂は、薊州の人。

癸亥、蜀主は數萬で成都を発する。甲子、漢州に至る。武興節度使の王承捷は、唐帝が西上すると告げる。

前蜀は、武興軍を鳳州におく。後唐は関東より兵を進めるから、方角は「西上」となる。

蜀主は、群臣が同謀して、己の(秦州ゆきを)沮むと考える。なお信じないで、大言した。「私は武を耀したい」と。

ぼくは思う。蜀主「お前たちは、私を秦州に行かせないために、唐兵が来ると言うのだな。まさかね。もし唐兵がきても、蜀軍の強さを逆に見せつけてやる。ほら唐軍なんて、私の秦州ゆきを止める材料にならないんだ」と。実際に唐兵がきたら、蜀主は恐いから、ぎゃくにこんなことを言う。

ついに蜀主は東行した。道中で群臣と賦詩した。ことに唐兵のことを気にしない。

丁丑,李紹琛攻蜀威武城,蜀指揮使唐景思將兵出降;城使周彥禋等知不能守,亦降。景思,秦州人也。得城中糧二十萬斛。紹琛縱其敗兵萬餘人逸去,因倍道趣鳳州,李嚴飛書以諭王承捷。李繼曮竭鳳翔蓄積以饋軍,不能充,人情憂恐。

丁丑、李紹琛は、蜀の威武城を攻める。蜀の指揮使である唐景思は、兵をひきいて出降した。城使の周彦禋らは、守れないと知り、また降る。唐景思は、秦州の人である。

攻略の順序と、鎮所の名について、『考異』にある。8939頁。

李紹琛は、城中の糧20萬斛を得た。李紹琛は、ほしいままに敗兵の1萬餘人を、逸去させた。倍道して鳳州にゆく。

ぼくは思う。敗兵を吸収していると、食糧がいるし、遅くなる。
胡三省はいう。ほしいままに敗兵をゆかせ、先に(伝言させて)蜀人を懼れさせた。倍道して、にげる蜀兵をおいかけて、鳳州にいった。

李嚴は飛書して、王承捷を諭す。李繼曮は、鳳翔の蓄積を竭して、饋軍したが、食糧が足りない。唐軍の人情は憂恐した。

郭崇韜入散關,指其山曰:「吾輩進無成功,不復得還此矣。當盡力一決。今饋運將竭,宜先取鳳州,因其糧。」諸將皆言蜀地險固,未可長驅,宜按兵觀釁。崇韜以問李愚,愚曰:「蜀人苦其主荒淫,莫為之用。宜乘其人情崩離,風驅霆擊,彼皆破膽,雖有險阻,誰與守之!兵勢不可緩也。」

郭崇韜は散關に入り、その山を指した。郭崇韜「われらが進んで成功がなければ、もう還れない。盡力・一決せよ。いま饋運は竭きそうだ。さきに鳳州を取り、鳳州の備蓄を食べよう」と。諸將はみな、蜀地が險固で、長驅できないから、按兵・觀釁せよという。
崇韜は李愚に問う。李愚「蜀人は、蜀主の荒淫に苦しむ。人情の崩離に乗じて、風驅・霆擊すれば、彼らを破膽できる。地形だけ險阻でも、蜀主は誰とともに守るのか。兵勢を緩めるな」と。

是日李紹琛告秉,崇韜喜,謂李愚曰:「公料敵如此,吾復何憂!」乃倍道而進。戊寅,王承捷以鳳、興、文、扶四州印節迎降,得兵八千,糧四十萬斛。崇韜曰:「平蜀必矣!」即以都統牒命承捷攝武興節度使。

この日、李紹琛は、鳳翔での捷ちを告げる。崇韜は喜び、李愚にいう。「きみは、このように敵を料った。もう憂いはない」と。倍道して進む。
戊寅、蜀将の王承捷は、鳳・興・文・扶の4州の印節をもって、迎降する。唐軍は兵8千と、糧40萬斛を得る。崇韜「平蜀は必定だ」と。

兵威が振るい、食糧もある。だから必ず成ると知った。

都統牒は、王承捷を、攝武興節度使に命じる。

10月、唐軍が前蜀の州をつぎつぎ接収する

己卯,蜀主至利州,威武敗卒奔還,始信唐兵之來。王宗弼、宋光嗣言於蜀主曰:「東川、山南兵力尚完,陛下但以大軍扼利州,唐人安敢懸兵深入!」從之。庚辰,以隨駕清道指揮使王宗勳、王宗儼、兼侍中王宗昱為三招討,將兵三萬逆戰。從駕兵自綿、漢至深渡,千里相屬,皆怨憤,曰:「龍武軍糧賜倍於它軍,它軍安能禦敵!」

己卯、蜀主は利州に至る。威武の敗卒が、奔還した。はじめて唐兵之來を信じた。王宗弼と宋光嗣は、蜀主にいう。「東川と山南の兵力は、尚完である。

東川とは、梓州と遂州などのこと。山南とは、興州や元州など。

陛下は、ただ大軍をもって利州で扼せ。唐人は、あえて懸兵して深入するものか」と。蜀主は従う。
庚辰、隨駕清道指揮使の王宗勳と、王宗儼と、兼侍中の王宗昱を、前蜀の三招討とする。3万をひきい、唐軍を逆戰する。駕兵を従えて、蜀主は、綿州や漢州から深渡(利州)に至る。千里に相属し(蜀主に連れ回され)みな怨憤する。蜀人「龍武軍の糧賜は、他軍の2倍である。他軍では唐軍を防ぐことができない」と。

龍武軍の優遇は、上年にある。
ぼくは思う。「たくさんカネもらってるんだから、龍武軍が唐軍を防げよな。それ以外の者にとっては、ワリに合わないよ」と。士気が低くて、秩序がほどけかかっている。


李紹琛等過長舉,興州都指揮使程奉璉將所部兵五百來降,且請先治橋棧以俟唐軍,由是軍行無險阻之虞。辛巳,興州刺史王承鑒棄城走,紹琛等克興州,郭崇韜以唐景思攝興州刺史。乙酉,成州刺史王承樸棄城走。李紹琛等與蜀三招討戰於三泉,蜀兵大敗,斬首五千級,餘眾潰走。又得糧十五萬斛於三泉,由是軍食優足。
戊子,葬貞簡太后於坤陵。

李紹琛らは、長舉を過ぎる。興州都指揮使の程奉璉は、部兵5百をひきいて来降する。さきに橋棧を治して、唐軍を俟ってくれたので、軍行は險阻之虞がない。

地名について、8940頁。

辛巳、興州刺史の王承鑒が、棄城して走げた。李紹琛らは、興州に克つ。郭崇韜は、唐景思に興州刺史を攝させる。

『実録』では、甲申、魏王が故鎮にいたり、康延孝が興州をおさめる。『十国紀年』では、辛巳、承鑑が出奔し、甲申、李継岌と郭崇韜が威武城にいたる。日付や順序がちがう。

乙酉、成州刺史の王承樸が棄城して走げた。李紹琛らは、前蜀の三招討と、三泉で戦う。蜀兵を大敗させ、斬首5千級。余衆は潰走した。また糧15萬斛を三泉で得る。これにより、軍食は優足する。

地理について、8940頁。ぼくは思う。後唐の伐蜀は、食糧が現地調達である。持ち込むための備蓄がなく、また輸送のコストもかけられないのだろう。『孫子』に忠実である。

戊子、貞簡太后を坤陵に葬る。

蜀主聞王宗勳等敗,自利州倍道西走,斷桔柏津浮梁;使中書令、判六軍諸衛事王宗弼將大軍守利州,且令斬王宗勳等三招討。
李紹琛晝夜兼行趣利州。蜀武德留後宋光葆遺郭崇韜書,「請唐兵不入境,當舉巡屬內附;苟不如約,則背城決戰以報本朝。」崇韜復書撫納之。己丑,魏王繼岌至興州,光葆以梓、綿、劍、龍、普五州,武定節度使王承肇以洋、蓬、壁三州,山南節度使兼侍中王宗威以梁、開、通、渠、麟五州,階州刺史王承岳以階州,皆降。承肇,宗侃之子也。自餘城鎮皆望風款附。

蜀主は、王宗勳らが敗れたと聞き、利州より倍道して西走する。桔柏津の浮梁を断つ。中書令・判六軍諸衛事の王宗弼に、大軍をひきいて利州を守らせる。かつ王宗勳ら三招討を斬らせる。
李紹琛は、晝夜に兼行して、利州にゆく。前蜀の武德留後の宋光葆は、郭崇韜に文書をよこす。「唐兵は入境するな。巡屬を挙げて、内付しようと思う。もし約束を違えれば、城を背に決戰して、本朝(前蜀)に報いる」と。郭崇韜はふたたび文書により撫納した。
己丑、魏王の李繼岌は、興州に至る。宋光葆は、梓・綿・劍・龍・普の5州をもって唐軍に降る。武定節度使の王承肇は、洋・蓬・壁の3州をもって降る。山南節度使・兼侍中の王宗威は、梁・開・通・渠・麟の5州をもって降る。階州刺史の王承岳は、階州をもって降る。王承肇は、王宗侃の子である。その他の城鎮は、みな望風・款附する。

地名について、8941頁。


天雄節度使王承休與副使安重霸謀掩擊唐軍,重霸曰:「擊之不勝,則大事去矣。蜀中精兵十萬,天下險固,唐兵雖勇,安能直度劍門邪!然公受國恩,聞難不可不赴,願與公俱西。」承休素親信之,以為然。重霸請賂羌人買文、扶州路以歸;承休從之,使重霸將龍武軍及所募兵萬二千人以從。將行,州人餞於城外。承休上道,重霸拜於馬前曰:「國家竭力以得秦、隴,若從開府還朝,誰當守之!開府行矣,重霸請為公留守。」承休業已上道,無如之何,遂與招討副使王宗汭自文、扶而南。其地皆不毛,羌人抄之,且戰且行,士卒凍餒,比至茂州,餘眾二千而已。重霸遂以秦、隴來降。

天雄節度使の王承休と、副使の安重霸は、唐軍を掩擊しようと謀る。

秦州から、唐軍の後ろを挟み撃ちにしたい。

安重霸「唐軍を撃って勝たねば、大事は去る。蜀中の精兵は10萬。天下は險固。唐兵は勇だが、劍門を直度できようか。あなた(王承休)は國恩を受けた。難を聞けば赴くべきだ。私はあなたとともに、西したい(秦州から成都にゆきたい)」と。王承休は、もとより安重霸を親信するから、合意した。
安重霸は、賄賂で羌族を買収する。文州と扶州の路は、安重霸に帰した。王承休は従い、安重霸に龍武軍と、募った2千をひきいさせる。

ぼくは思う。安重霸は、姜維に似てる。羌族を味方にするし、配下の軍隊がいちばん精強だし。いちばん大切なシーンで、秦州に隔てられており、ちょっと遅れそうなところも、似ているw

安重霸がゆくとき、州人は城外で餞した。王承休は上道し、安重霸は馬前で拝した。安重霸「國家は力を竭し、秦州と隴州を得た。

梁均王の貞明元年、前蜀は秦州と隴州を得た。ぼくは思う。蜀漢よりも、領土が関中に食い込んでいる。

もし開府(王承休)が還朝すれば、誰が(秦州と隴州を)守れるか。

蜀主は、王承休に、開府・儀同三司をくわえた。だから王承休のことを「開府」と呼ぶのだ。

わたくし安重霸は、開府(王承休)に、秦州と隴州を留守してほしい」と。
王承休は、業はすでに道上におり、どうしようもない。ついに招討副使の王宗汭とともに、文州と扶州から南した。この2州の地は不毛であり、羌人が抄める。戦っては進む。士卒は凍餒する。茂州に至るころ、2千しか残らない。安重霸は、ついに秦州と隴州をもって唐軍に來降する。

胡三省はいう。秦州から、文州と扶州をとるには、山をめぐって茂州にゆかねばならない。王承休と王宗汭が、魏王の李継岌のために誅される張本である。
ぼくは思う。羌族と競り合っているうちに(おそらく軍糧を取り合っているうちに)前蜀でいちばん強い龍武軍は、成都にゆくまでもなく、解体してしまった。なんじゃそら。


高季興常欲取三峽,畏蜀峽路招討使張武威名,不敢進。至是,乘唐兵勢,使其子行軍司馬從誨權軍府事,自將水軍上峽取施州。張武以鐵鎖斷江路,季興遣勇士乘舟斫之。會風大起,舟絓於鎖,不能進退,矢石交下,壞其戰艦,季興輕舟遁去。既而聞北路陷敗,以夔、忠、萬三州遣使詣魏王降。

高季興は、つねに三峽を取りたい。前蜀の峽路招討使の張武の威名を畏れ、進めない。

蜀漢の羅憲みたいなやつ。

ここにいたり、唐の兵勢に乗じ、子の行軍司馬の高従誨に權軍府事させ、みずから水軍をひきい、峽をのぼって施州を取る。張武は、鐵鎖で江路を断つ。高季興は、勇士に乘舟させ、鎖を斫たせる。風が大起して、舟が鎖にひっかかり、進退できない。矢石が交下し、高季興の戰艦を壊す。高季興は、輕舟で遁去した。

前蜀の辺境の軍は、すべて張武のように強い。散関だって、入るのが難しかったはずだ。のちに孟知祥が、張武をもちいる張本である。

すでに北路が陷敗したと聞き、夔州・忠州・萬州の3州は、使者を詣でて魏王の李継岌に降る。

郭崇韜遺王宗弼等書,為陳利害;李紹琛未至利州,宗弼棄城引兵西歸。王宗勳等三招討追及宗弼於白芀,宗弼懷中探詔書示之曰:「宋光嗣令我殺爾曹。」因相持而泣,遂合謀送款於唐。

郭崇韜は、王宗弼らに文書をやり、利害を陳べる。李紹琛が利州に至る前に、王宗弼は、棄城・引兵・西歸する。王宗勳ら三招討は、王宗弼を白芀(簡州)で追及する。王宗弼は懷中の詔書を探して、唐帝の詔書を示す。王宗弼「宋光嗣は、私にお前らを殺させようとしたのだ」と。因りて相持して泣く。ついに合謀して後唐に送款する。130909

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