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- 925年冬、前蜀が滅び、李嗣源が叛する
資治通鑑 第274卷
【後唐紀三】 起旃蒙作噩十一月,盡柔兆閹茂三月,不滿一年。
莊宗光聖神閔孝皇帝下同光三年(乙酉,公元九二五年)
11月、王宗弼が蜀主を侵し、前蜀が滅亡する
十一月,丙申,蜀主至成都,百官及後宮迎於七里亭。蜀主入妃嬪中作回鶻隊入宮。丁酉,出見群臣於文明殿,泣下沾襟,君臣相視,竟無一言以救國患。 戊戌,李紹琛至利州,修桔柏浮梁。昭武節度使林思諤先棄城奔閬州,遣使請降。甲辰,魏王繼岌至劍州,蜀武信節度使兼中書令王宗壽以遂、合、渝、瀘、昌五州降。11月丙申、蜀主は成都に至る。百官および後宮は、七里亭で迎える。
成都から7里にあるから、この名である。
ぼくは思う。蜀主が利州にいたのは、ほんとうに秦州に遊びにいくためだった。唐軍と接近したら、そのまま迎撃するのでない。ちゃんと成都に帰ってきた。
蜀主は、妃嬪のなかに入り、回鶻隊をつくって入宮する。丁酉、蜀主は出て、群臣と文明殿で面会する。泣下・沾襟する。君臣は相い視る。ついに一言も、國患を救えという言葉がない。
「文明殿」は洛陽宮の別名で、、8943頁。戊戌、李紹琛は利州に至る。桔柏の浮梁を修する。
蜀主が去るときに壊した。いま唐軍が渡るために、修復した。
ぼくは思う。まったく足止になっていない。また修復するために止まったとき、唐軍を前蜀が急襲するでもない。ただ、気持ちの問題として、唐軍を遠ざけたかっただけか。昭武節度使の林思諤は、さきに棄城して閬州に奔り、使者して請降する。甲辰、魏王の李継岌は、劍州に至る。前蜀の武信節度使・兼中書令の王宗壽は、遂・合・渝・瀘・昌の5州をもって降る。
地理について、8943頁。前蜀は武信軍を、遂州におく。
王宗弼至成都,登大玄門,嚴兵自衛。蜀主及太后自往勞之,宗弼驕慢無復臣禮。乙巳,劫遷蜀主及太后後宮諸王於西宮,收其璽綬,使親吏於義興門邀取內庫金帛,悉歸其家。其子承涓杖劍入宮,取蜀主寵姬數人以歸。丙午,宗弼自稱權西川兵馬留後。王宗弼は、成都に至る。大玄門を登る。兵を嚴して、自衛する。蜀主および太后は、みずから往き労う。王宗弼は驕慢となり、もう臣禮をしない。乙巳、蜀主および太后・後宮・諸王を西宮に劫遷する。璽綬を王宗弼がもらう。王宗弼の親吏は、義興門にて、内庫の金帛を邀取する。すべて王宗弼の家財とする。子の王承涓は、杖劍・入宮して、蜀主の寵姬を数人うばう。丙午、王宗弼は、權西川兵馬留後を自称する。
ぼくは思う。王宗弼(王建の養子・魏弘夫)が、蜀主をおびやかす。大唐という外敵よりも、王宗弼のほうが、蜀主にとっては恐ろしかったのか。
李紹琛進至綿州,倉庫民居已為蜀兵所燔,又斷綿江浮梁,水深,無舟楫可渡,紹琛謂李嚴曰:「吾懸軍深入,利在速戰。乘蜀人破膽之時,但得百騎過鹿頭關,彼且迎降不暇;若俟修繕橋樑,必留數日,或教王衍堅閉近關,折吾兵勢,倘延旬浹,則勝負未可知矣。」乃與嚴乘馬浮渡江,從兵得濟者僅千人,溺死者亦千餘人,遂入鹿關頭;丁未,進據漢州;居三日,後軍始至。
王宗弼遣使以幣馬牛酒勞軍,且以蜀主書遺李嚴曰:「公來吾即降。」或謂嚴:「公首建伐蜀之策,蜀人怨公深入骨髓,不可往。」嚴不從,欣然馳入成都,撫諭吏民,告以大軍繼至,蜀君臣後宮皆慟哭。蜀主引嚴見太后,以母妻為托。宗弼猶乘城為守備,嚴悉命撤去樓櫓。
李紹琛は、進んで綿州に至る。倉庫も民居も、すでに蜀兵に燔された。また綿江を断って、浮梁をつくる。
綿州は、左綿という。綿水が流れて、その左にあるから。水は深く、渡るべき舟楫がない。李紹琛は李厳にいう。「わたした懸軍して深入した。利は速戰にある。蜀人が破膽する時に乗じて、ただ1百騎でも鹿頭關を過ぎれば、蜀軍は暇なく迎降するだろう。もし橋樑の修繕を待ち、数日留まれば、或者が蜀主に「近關(鹿頭関)を堅閉せよ」といい、わが唐軍の兵勢が折られる。情勢が長びけば、勝負が分からなくなる」と。李紹琛は李厳とともに、乘馬して江を浮き渡る。従兵で江を渡ってついて来られたのは、わずか1千人。溺死する者もまた、1千余人。ついに鹿關頭に入る。丁未、進んで漢州に拠る。3日いて、後続の軍が至る。
王宗弼は、使者をやり、幣馬・牛酒で軍をねぎらう。蜀主は、唐将の李厳に文書をおくる。「李厳が成都に来たら、私はすぐに降る」と。或者が李厳にいう。「あなたは伐蜀之策を、筆頭で策定した。蜀人のあなたへの怨みは、骨髓に深入する。成都にゆくな」と。李厳は従わず、,欣然として成都に馳せ入る。吏民を撫諭し、後唐の大軍が継至すると告げる。前蜀の君臣・後宮は、みな慟哭した。蜀主は、李厳を太后に会わせ、母妻を李厳に託した。
王宗弼は、なお乘城して守備をやる。李厳は、すべての樓櫓を撤去せよと、王宗弼に命じた。
ぼくは思う。イデオロギーや私怨が染みこんだ憎み合いではない。李厳のように、フリーパスで前蜀のなかに入ってこれる唐将もいるのだ。前蜀の初代・王建の独立だって、成り行きみたいなところがあったし。
己酉,魏王繼岌至綿州,蜀主命翰林學士李昊草降表,又命中書待郎、同平章事王鍇草降書,遣兵部侍郎歐陽彬奉之以迎繼岌及郭崇韜。
王宗弼稱蜀君臣久欲歸命,而內樞密使宋光嗣、景潤澄、宣徽使李周輅、歐陽晃熒惑蜀主;皆斬之,函首送繼岌。又責文思殿大學士、禮部尚書、成都尹韓昭佞諛,梟於金馬坊門。內外馬步都指揮使兼中書令徐延瓊、果州團練使潘在迎、嘉州刺史顧在珣及諸貴戚皆惶恐,傾其家金帛妓妾以賂宗弼,僅得免死。凡素所不快者,宗弼皆殺之。己酉、魏王の繼岌は、綿州に至る。蜀主は、翰林學士の李昊に降表を草させる。中書待郎・同平章事の王鍇にも、降書を草させる。兵部侍郎の歐陽彬をやり、降表を奉って、李繼岌と郭崇韜を迎える。
「降表」とは、皇帝に上するもので、降書は軍前に達するもの。王宗弼はいう。「前蜀の君臣は、久しく後唐に歸命したかった。だが、内樞密使の宋光嗣と景潤澄と、宣徽使の李周輅と歐陽晃が、蜀主を熒惑した」と。彼らの首を斬って、函に入れて李継岌に送った。また王宗弼は、「文思殿の大學士・禮部尚書・成都尹の韓昭が、佞諛である」といい、金馬坊門に梟した。
ぼくは思う。王宗弼は、なんの権限があって、蜀臣を裁いているのだろう。ちょっと前まで、蜀主よりも偉そうに、後唐と戦うつもりでいたのに。蜀主に主体性がないから、代わりに王宗弼が「精算」してあげているのか。正否はともかく。内外馬步都指揮使・兼中書令の徐延瓊と、果州團練使の潘在迎と、嘉州刺史の顧在珣および諸貴戚は、みな惶恐した。家を傾け、金帛・妓妾を王宗弼に賄賂した。わずかに死を免れた。ふだんから不快な者を、王宗弼はすべて殺した。
辛亥,繼岌至德陽。宗弼遣使奉箋;稱已遷蜀主於西第,安撫軍城,以俟王師。又使其子承班以蜀主後宮及珍玩賂繼岌及郭崇韜,求西川節度使,繼岌曰:「此皆我家物,奚以獻為!」留其物而遣之。
辛亥、李継岌は德陽に至る。王宗弼は使者をやり、箋を奉る。「すでに蜀主は西第に遷した。軍城を安撫して、王師(李継岌の唐軍)を俟つ」と。
胡三省はいう。すでに蜀主は、後唐に降伏を申し入れた。だから「西宮」でなく「西第」というのだ。また王宗弼の子の王承班は、蜀主と後宮の珍玩を、李継岌と郭崇韜に賄賂して、西川節度使の官職を求める。李継岌「これは、みなわが家物である。なぜ献となるものか」と。
ぼくは補う。天下のものは、唐帝のもの。ひいては唐帝の後嗣のもの。どうせ蜀主の財産は、遅かれ早かれ、李継岌のものになった。だから、蜀主の財産を提出しても、それは「違う財布への移動」ではなく、「同じ財布のなかの移動」である。だから献上とはいえない。李継岌は、もらった物をとどめて、王承班をかえす。
ぼくは思う。贈物を受けとったら、それは節度使にしてあげるという、承諾の意味である。これを守らずに退蔵したら、李継岌はろくな死に方をしない。あ、ろくな死に方をしないのは、確定しているけど。
李紹琛留漢州八日以俟都統,甲寅,繼岌至漢州,王宗弼迎謁;乙卯,至成都。丙辰,李嚴引蜀主及百官儀衛出降於陞遷橋,蜀主白衣、銜璧、牽羊,草繩縈首,百官衰絰、徒跣、輿櫬,號哭俟命。繼岌受璧,崇韜解縛,焚櫬,承製釋罪;君臣東北向拜謝。丁巳,大軍入成都。崇韜禁軍士侵掠,市不改肆。自出師至克蜀,凡七十日。得節度十,州六十四,縣二百四十九,兵三萬,鎧仗、錢糧、金銀、繒錦共以千萬計。李紹琛は、漢州に8日とどまり、都統(李継岌)を俟つ。
甲寅、李継岌は漢州に至る。王宗弼が迎謁する。乙卯、李継岌は成都に至る。丙辰、李嚴は蜀主および百官・儀衛をひきいて、陞遷橋で出降する。蜀主は白衣・銜璧・牽羊・草繩縈首である。百官は衰絰・徒跣・輿櫬にて、號哭して命を俟つ。李繼岌は受璧して、崇韜が解縛・焚櫬する。承製して釋罪する。君臣は東北に、拜謝を向ける。
大唐の昭宗の大順2年(891)、王建は蜀地を取った。王衍にいたって滅亡した。ぼくは補う。35年目に滅びた。1.5世代くらい、国家がもちました。丁巳、大軍は成都に入る。崇韜は、軍士に侵掠を禁じる。市は肆を改めず。出師から克蜀まで、70日だった。
『考異』はいう。『実録』は75日とするが、70日が正しい。節度10,州64,縣249を得た。兵3萬,鎧仗、錢糧、金銀、繒錦は、ともに千萬を計える。
節度と州県の内訳は、8946頁。
荊州の高季興と馬殷が、滅蜀に動揺する
高季興聞蜀亡,方食,失匕箸,曰:「是老夫之過也。」梁震曰:「不足憂也。唐主得蜀益驕,亡無日矣,安知其不為吾福!」
楚王殷聞蜀亡,上表稱:「臣已營衡麓之間為菟裘之地,願上印綬以保餘齡。」上優詔慰諭之。高季興は蜀亡を聞き、食べていたが、匕箸を失した。「これは老夫之過である」と。
高季興は伐蜀を勧めた。272巻の同光元年にある。梁震「憂うに足らず。唐主は蜀地を得て、ますます驕る。亡まで日がない。なぜ我らの福だと考えないのか」と。
梁震が荘宗=唐帝を料るのは、火で照らすように明らか。楚王の馬殷は、蜀亡を聞いて、唐帝に上表した。「私はすでに、衡麓之間に軍営して、菟裘之地とする。
「衡麓」とは、衡山の麓(ふもと)である。
『左氏伝』はいう、魯隠公は、「菟裘」を営して、老いようという。馬殷は老齢を理由にして、引退したいのだ。前蜀が滅びたと聞いて(楚国も滅ぼされないかと)恐れている。だから衡山の麓に引退したいと言っている。
印綬を返上して、余命を保ちたい」と。唐帝は、優詔して、馬殷を慰諭した。
ぼくは思う。もう楚王の領域も、唐帝が手に入れたも同然。あとひとおしで、馬殷の割拠を辞めさせることができる。まあ老齢は事実だろうけど。いま74歳のようだ。ちなみに、あと5年生きる。唐帝よりも、あとまで生きる。
12月、
平蜀之功,李紹琛為多,位在董璋上。而璋素與郭崇韜善,崇韜數召璋與議軍事。紹琛心不平,謂璋曰:「吾有平蜀之功,公等樸樕相從,反呫囁於郭公之門,謀相傾害。吾為都將,獨不能以軍法斬公邪!」璋訴於崇韜。
十二月,崇韜表璋為東川節度使,解其軍職。紹琛愈怒,曰:「吾冒白刃,陵險阻,定兩川,璋乃坐有之邪!」乃見崇韜言:「東川重地,任尚書有文武才。宜表為帥。」崇韜怒曰:「紹琛反邪,何敢違吾節度!」紹琛懼而退。平蜀之功は、李紹琛に多いとして、官位は董璋の上となる。だが董璋は、郭崇韜と仲が善い。崇韜は、しばしば董璋を召して、ともに軍事を議した。李紹琛の心は不平である。李紹琛は董璋にいう。「私の平蜀之功は、あなたたち樸樕(小枝みたいな人材と)と相い從う。あなたは郭公之門で呫囁して(郭崇韜に細語して)謀って相い傾害する。私は都将となるが、軍法によってあなたを斬れない」と。董璋は郭崇韜に訴えた。
12月、崇韜は表して、董璋を東川節度使とした。軍職を解く。
任命の時期について、『考異』がいう。8947頁。
軍職を解いたのは、李紹琛が軍法で、処罰できなくするため。郭崇韜が董璋を保護するために、この人事をやった。李紹琛はいよいよ怒る。「私は白刃を冒し、險阻を陵え、兩川を定めた。董璋は座っていただけだ」と。郭崇韜に会っていう。李紹琛「東川は重地である。尚書の任圜は、文武の才がある。表して任圜を帥としろ」と。
ときに任圜は、工部尚書・参預軍機である。郭崇韜は怒った。「李紹琛は反するか。なぜわが節度に違うのか」と。李紹琛は、懼れて退く。
初,帝遣宦者李從襲等從魏王繼岌伐蜀;繼岌雖為都統,軍中制置補署一出郭崇韜,崇韜終日決事,將吏賓客趨走盈庭,而都統府惟大將晨謁外,牙門索然,從襲等固恥之。及破蜀,蜀之貴臣大將爭以寶貨、妓樂遺崇韜及其子廷誨,魏王所得,不過匹馬、束帛、唾壺、麈柄而已,從襲等益不平。はじめ唐帝は、宦者の李從襲らを、魏王の李継岌に従わせて伐蜀する。李継岌は、都統であるが、軍中の制置補署は、ひとえに郭崇韜から出る。崇韜は終日に決事する。將吏・賓客は、趨走して庭に盈つ。だが都統府は、ただ大將が朝に謁する外は、牙門は索然とする。李従襲らは、これを固く恥じた。
ぼくは思う。そういう役割分担なんだから、しょーがないよね。破蜀におよび、前蜀の貴臣・大將は、争って寶貨・妓樂を郭崇韜と、その子の郭廷誨におくる。魏王が得たのは、匹馬・束帛・唾壺・麈柄に過ぎない。李從襲らは、ますます不平である。
王宗弼之自為西川留後也,賂崇韜求為節度使,崇韜陽許之。既而久未得,乃帥蜀人列狀見繼岌,請留崇韜鎮蜀。從襲等因謂繼岌曰:「郭公父子專橫,今又使蜀人請己為帥,其志難測,王不可不為備。」繼岌謂崇韜曰:「主上倚侍中如山嶽,不可離廟堂,豈肯棄元臣於蠻夷之域乎!且此非余之所敢知也,請諸人詣闕自陳。」由是繼岌與崇韜互相疑。會宋光葆自梓州來,訴王宗弼誣殺宋光嗣等。又,崇韜征犒軍錢數萬緡於宗弼,宗弼靳之,士卒怨怒,夜,縱火喧噪。崇韜欲誅宗弼以自明,己巳,白繼岌收宗弼及王宗勳、王宗渥,皆數其不忠之罪,族誅之,籍沒其家。蜀人爭食宗弼之肉。王宗弼は、みずから西川留後となったが、崇韜に賄賂して節度使を求めた。郭崇韜は、これを許したふりをした。
『考異』はいう。『実録』と『薛史』では、崇韜は蜀帥を(いつわりでなく)許す。だが郭崇韜の識略からすると、西川で王宗弼に兵をあずけて、反を招くようなことはしない。けだし王宗弼はなお成都にいて、郭崇韜が王宗弼を許さねば、王宗弼はふたたび後唐にそむく。だから許したふりをしたのだ。しばらくして、蜀人は列狀(署名)を帥して繼岌に見せ、「郭崇韜を留めて、鎮蜀させてくれ」と請う。李従襲らは、李継岌にいう。「郭公の父子は專橫する。いま蜀人から帥に推薦された。彼の志は測りがたい。魏王は備えるべきだ」と。
李継岌は郭崇韜にいう。「主上が侍中を倚する(唐帝が崇韜に頼ること)こと、山嶽のごとし。廟堂を離れるべきでない。元臣を棄てて、蠻夷之域にいるつもりはなかろうな。蜀地の長官は、私が決められない。みずから洛陽に問い合わせろ」と。これにより李継岌と郭崇韜は、相互に疑う。
この12月の記事「平蜀之功,李紹琛為多」より以下、みな李紹琛がそむく張本である。はじめ唐帝は李従襲を従軍させ、李継岌につけた。これが郭崇韜を殺す張本となった。
ぼくは思う。唐帝は、郭崇韜を殺す意図はなかっただろうに。宦官をつけたばかりに、唐帝は郭崇韜を失い、唐帝も敗死することになります。たまたま蜀臣の宋光葆が、梓州から来て、「王宗弼が宋光嗣らを誣殺した」と訴えた。また崇韜は、軍をねぎらう錢數萬緡を、王宗弼にあげる。王宗弼が退蔵したので、士卒は怨怒とした。夜に士卒は、縱火・喧噪した。郭崇韜は、王宗弼を誅して、自ら明らかにしたい。
己巳、李継岌は、王宗弼および王宗勳、王宗渥をとらえて、みな不忠之罪を数え、族誅とした。その家を籍沒した。蜀人は争って、宗弼之肉を食った。
辛未,閩忠懿王審知卒,子延翰自稱威武留後。汀州民陳本聚眾三萬圍汀州,延翰遣右軍都監柳邕等將兵二萬討之。辛未、閩忠懿王の審知が卒した。子の延翰は、みずから威武留後を称する。
審知は64歳。延翰はその長子で、あざな子逸。汀州の民・陳本は、衆3万をあつめ、汀州を囲む。延翰は、右軍都監の柳邕らに2万をつけて討たせる。
◆李継岌が、蜀将の王承休を殺す癸酉,王承休、王宗汭至成都,魏王繼岌詰之曰:「居大鎮,擁強兵,何以不拒戰?」對曰:「畏大王神武。」曰:「然則何不降?」對曰:「王師不入境。」曰:「所俱入羌者幾人?」對曰:「萬二千人。」曰:「今歸者幾人?」對曰:「二千人。」曰:「可以償萬人之死矣。」皆斬之,並其子。癸酉、王承休と王宗汭は、成都に至る。
10月に秦州から上道して、いま成都につく。魏王の繼岌は、王承休らをなじる。「大鎮に居いて、強兵を擁する。なぜ拒戰しないか」と。王承休「大王の神武を畏れたから」と。継岌「それなら、唐軍になぜ降らない」と。王承休「王師が入境しないから」と。継岌「ともに入る羌族は何人か」と。王承休「12千人だ」と。継岌「いま帰する者は何人か」と。王承休「2千人だ」と。継岌「1万人の死を以て償うべきだ」と。
継岌は、王承休らを斬り、その子を斬る。
◆魏州の鄴都を史彦瓊がつかさどる
丙子,以知北都留守事孟知祥為西川節度使、同平章事,促召赴洛陽。帝議選北都留守,樞密承旨段徊等惡鄴都留守張憲,不欲其在朝廷,皆曰:「北都非張憲不可。憲雖有宰相器,今國家新得中原,宰相在天子目前,事有得失,可以改更,比之此都獨系一方安危,不為重也。」乃徙憲為太原尹,知北都留守事。以戶部尚書王正言為興唐尹,知鄴都留守事。正言昏耄,帝以武德使史彥瓊為鄴都監軍。彥瓊,本伶人也,有寵於帝。魏、博等六州軍旅金谷之政皆決於彥瓊,威福自恣,陵忽將佐,自正言以下皆諂事之。丙子、知北都留守事の孟知祥を、西川節度使・同平章事とする。促し召して洛陽に赴かせる。
孟知祥を召して、洛陽に至らせる。のちに鎮所(蜀地)に赴かせる。唐帝は、議して北都留守を選ぶ。樞密承旨の段徊らは、鄴都留守の張憲をにくむ。張憲を朝廷にいさせたくない。段徊「北都(鄴州)は張憲でなければ、務まらない。張憲は宰相の器があるが、
郭崇韜は、張憲を薦めて、宰相にせよといった。唐帝はこれを用いたい。だから段徊は(張憲を鄴州から洛陽に異動させないために)これを入っている。いま國家は新たに中原を得た。宰相は天子の目前にいるもの。事には得失があり、改更すべきだ。これに比べれば、鄴都は一方面の安危だけに関わり、重んじられていない」と。
張憲を太原尹として、知北都留守事させる。
尹をもって知留守事させる。正官でなく留守である。戸部尚書の王正言を、興唐尹として、知鄴都留守事させる。王正言は昏耄なので、唐帝は武德使の史彦瓊を鄴都監軍とする。
後唐において武徳使は、もとは宮中の罪をつかさどる。明宗(李嗣源)のとき、ひでりがあり、つぎに雪が降った。暴して庭中に座し、武徳司宮中に詔して、雪かきをさせた。これが、武徳使が宮中の罪をつかさどる証拠である。史彦瓊は、もとは伶人であり、唐帝に寵された。
魏州と博州ら6州の軍旅と、金穀の政は、みな史彦瓊が決めた。威福は自恣で、將佐を陵忽する。王正言はより以下は、史彦瓊に諂事した。
王正言と史彦瓊のせいで、鄴都を守れない張本である。ぼくは思う。李嗣源が独立するフラグである。
◆魏州の精鋭が、唐軍のなかで功績をほこる
初,帝得魏州銀槍效節都近八千人,以為親軍,皆恿悍無敵。夾河之戰,實賴其用,屢立殊功,常許以滅梁之日大加賞賚。既而河南平,雖賞賚非一,而士卒恃功,驕恣無厭,更成怨望。はじめ唐帝は、魏州の銀槍效節都を、8千人ほど得て、親軍とした。みな恿悍・無敵である。
梁均王の貞明元年にある。夾河之戰において、その其用を實賴した。しばしば殊功を立てる。つねに滅梁之日をもって、おおいに賞賚を加える。すでに河南が平らぎ(後梁が滅亡し)、賞賚は1つでないが、士卒は恃功し、驕恣して厭かず。(唐軍のなかで)怨望された。
◆唐国で飢饉が起き、唐帝が狩猟して民衆を苦しめる
是歲大饑多流亡,租賦不充,道路塗潦,漕輦艱澀,東都倉廩空竭,無以給軍士。租唐使孔謙日於上東門外望諸州漕運,至者隨以給之。軍士乏食,有雇妻鬻子者,老弱采蔬於野,百十為群,往往餒死,流言怨嗟,而帝游畋不息。
己卯,獵於白沙,皇后,皇子、後宮畢從。庚辰,宿伊闕;辛巳,宿潭泊;壬午,宿龕澗;癸未,還宮。時大雪,吏座有僵仆於道路者。伊、汝間饑尤甚,衛兵所過,責其供餉,不得,則壞其什器,撤其室廬以為薪,甚於寇盜,縣吏皆竄匿山谷。この歳に、大饑して流亡が多い。租賦は不充、道路は塗潦。漕輦は艱澀である。
「漕」は水運であり、「輦」は陸運である。東都の倉廩は空竭たり。軍士への給付がない。租唐使の孔謙は、日々に上東門外で、諸州の漕運を望む。至った物資からは、すぐに給付した。軍士は乏食で、妻を雇わせ、子を売る者がある。老弱は野で野菜をとる。百十が群をなす。往往して餒死した。流言・怨嗟した。
だが唐帝は,游畋して息まず。己卯、白沙で唐帝が猟する。皇后と皇子と後宮は畢從する。庚辰、伊闕に宿する。辛巳、潭泊に宿する。壬午、龕澗に宿する。癸未、還宮する。
いずれも洛陽の東である。地名は8950頁。ときに大雪である。吏は座して、道路で僵仆する者あり。伊水と汝水のあいだで、飢饉はもっとも甚しい。衛兵が過ぎると、供餉を要求し、得られないとその什器を壊した。その室廬を撤して薪とする。寇盜が甚だしい。縣吏は、みな山谷に竄匿する。
ぼくは思う。唐帝の狩猟が、迷惑をかけまくっていることを、『資治通鑑』がモレずに拾ってきて、印象づけている。
◆漢主と南詔が婚姻する
有白龍見於漢宮;漢主改元白龍,更名曰龔。
長和驃信鄭旻遣其布燮鄭昭淳求婚於漢,漢主以女增城公主妻之。長和即唐之南詔也。
白龍が漢宮にあらわれた。漢主は「白龍」と改元した。「龔」と改名した。
長和驃信の鄭旻は、その布燮の鄭昭淳をつかわし、漢主に婚姻を求めた。漢主は、娘の增城公主を、鄭旻の妻とした。長和とは、唐代の南詔である。
南詔について、詳しくは8950頁。
閏月、
成德節度使李嗣源入朝。
閏月,己丑朔,孟知祥至洛陽,帝寵待甚厚。成德節度使の李嗣源が、入朝した。
閏月の己丑ついたち、孟知祥は洛陽に至る。唐帝は寵待すること、甚だ厚し。
◆農民を休ませる政策を実行できず
帝以軍儲不足,謀於群臣,豆盧革以下皆莫知為計。吏部尚書李琪上疏,以為:「古者量入以為出,計農而發兵,故雖有水旱之災而無匱乏之憂。近代稅農以養兵,未有農富給而兵不足,農捐瘠而兵豐飽者也。今縱未能蠲省租稅,苟除折納、紐配之法,農亦可以小休矣。」帝即敕有司如琪所言,然竟不能行。唐帝は、軍儲が不足なので、群臣に謀る。豆盧革より以下は、みな計を知らず。吏部尚書の李琪は上疏した。「古代において、収入を量って、支出した。農を計って、兵を發した。ゆえに、水旱之災があっても、匱乏之憂はなかった。近代は、農に課税して兵を養う。まだ農が富まずに給して、兵は足らない。農民は捐瘠して、兵士は豊飽する。いま、もし租稅を蠲省しなくても、折納と紐配之法を除けば、農民は小休できる」と。
「折納」とは、民を疲れさえて、納めるための生産物がなくなること。「紐配」とは、紐数して科配すること。唐帝は、有司に敕して、李琪の言うとおりにさせた。ついに実行できず。
◆前蜀の官僚を、後唐でもちいる
丁酉,詔蜀朝所署官四品以上降授有差,五品以下才地無取者悉縱歸田裡;其先降及有功者,委崇韜隨事獎任。又賜王衍詔,略曰:「固當襲土而封,必不薄人於險。三辰在上,一言不欺。」
庚子,彰武、保大節度使兼史書令高萬興卒,以其子保大留後允韜為彰武留後。丁酉、詔して、前蜀の朝廷で、4品以上の官僚だった者に、それぞれ後唐の官位を降格して授けた。五品より以下で、採用すべき才地のない者は、すべて田里に帰した。さきに唐軍に降るか、滅蜀に功績のあった者は、郭崇韜がすべてを判断して昇進させた。
また王衍(蜀主)に詔を賜る。「もとより、土地を裂いて封じるなら、必ずしも人を険地に薄めるべきでない?。三辰が上空にあるから、一言でも欺かない」と。
この三辰(日月星)への誓いをやぶり、唐帝は蜀主を殺す。唐帝には信がない。庚子、彰武・保大節度使・兼史書令の高萬興が卒した。その子の保大留後の高允韜を、彰武留後とする。
州と軍の名の変遷について、8951頁。
◆皇帝が汴州へ、軍糧の補給にいきたい
帝以軍儲不充,欲如汴州,諫官上言:「不如節儉以足用,自古無就食天子。今楊氏未滅,不宜示以虛實。」乃止。
辛亥,立皇弟存美為邕王,存霸為永王,存禮為薛王,存渥為申王,存又為睦王,存確為通王,存紀為雅王。唐帝は、軍儲が不充なので、汴州に行きたい。諫官が上言した。「節儉は足用にしかず。
ぼくは思う。収入を増やすよりも、支出を減らせ。1百万円の収入を増やすよりも、1百万円の欲しいものを減らせ。これが、たびたび登場する諫言である。
ぼくは思う。唐帝は、あからさまにインフレする。「1百万円の欲しいものを思いつくから、1百万円の収入を増やせ」というのが、唐帝がとりつかれた思考。皇帝病である。古代より、天子を就食することはない。いま楊氏は滅しておらず。虚実を楊氏に見せてはならない」と。唐帝は汴州にいくのを辞める。
呉国は、淮南に近い。中原の虚実(軍兵の食糧が不足すること)を、楊氏に知らせたくない。辛亥、皇弟の李存美を邕王とする。以下、はぶく。
郭崇韜が宦官と衝突し、唐帝が崇韜を疑う
郭崇韜素疾宦官,嘗密謂魏王繼岌曰:「大王他日得天下,騬馬亦不可乘,況任宦官!宜盡去之,專用士人。」呂知柔竊聽,聞之,由是宦官皆切齒。時成都雖下,而蜀中盜賊群起,佈滿山林。崇韜恐大軍既去,更為後患,命任圜、張筠分道招討,以是淹留未還。帝遣宦者向延嗣促之,崇韜不出郊迎,及見,禮節又倨,延嗣怒。郭崇韜は、もとより宦官を疾する。かつて崇韜は、ひそかに継岌にいう。崇韜「大王(魏王の継岌)は他日に、天下を得る。騬馬には、もう乗るべきでない。
「騬」とは[牛害]のこと。「騬馬」とは宦官を例えている。ぞくに扇馬を改馬といい、これを[牛害]馬という。ぼくは思う。『漢辞海』に、[馬乗]も[牛害]も載っていなかった。つらいなあ。
いわんや宦官を任じるべきでない。すべての宦官を去らせ、もっぱら士人を用いろ」と。
呂知柔は、ひそかにこれを聞く。
呂知柔は、ときに都統牙通謁である。だから聞けた。宦官は、みな切歯した。
ときに成都を下したが、蜀中の盜賊は群起して、山林に布滿する。崇韜は、後唐の大軍が既に去り、さらに後患となるのを恐れる。任圜と張筠に命じて、分道・招討させる。郭崇韜は、任圜と張筠を淹留して還さず。
唐帝は、宦者の向延嗣に、郭崇韜は洛陽に還れと促す。郭崇韜は出ずに郊迎する。向延嗣に会うが、郭崇韜の禮節は倨傲である。向延嗣は怒った。宦官は、もとより郭崇韜と仲がわるい。天子の使いとして命じるのだから、郭崇韜が宦官を敬うのは、唐帝を敬うことである。唐帝は、刑臣(宦官)に将命させたが、人選が適切でない。また郭崇韜は、天子の使いに倨傲だから、郭崇韜も適切でない。ああ宦官が将命するのは、大唐の開元より以後、みな同じである。
ぼくは思う。宦官は皇帝の手足だから、皇帝の権限が伸張すると、宦官が伸張する。宦官「ごときが」皇帝の代理になれるほど、皇帝権力は理不尽に強いのだ。逆説的だけど。唐帝は、大唐の心性を忠実に踏襲している。悪いところも含めて。というか、悪いところは表裏一体なのだ。名君と暴君の線を引くことが、そもそも外部から見れば不適切ないしは、恣意的すぎるのだ。
李從襲謂延嗣曰:「魏王,太子也;主上萬福,而郭公專權如是。郭廷誨擁徒出入,日與軍中饒將、蜀土豪傑狎飲,指天畫地,近聞白其父請表己為蜀帥;又言『蜀地富饒,大人宜善自為謀。』今諸軍將校皆郭氏之黨,王寄身於虎狼之口,一委有變,吾屬不知委骨何地矣。」因相向垂涕。延嗣歸,具以語劉後。後泣訴於帝,請早救繼岌之死。前此帝聞蜀人請崇韜為帥,已不平,至是聞延嗣之言,不能無疑。李從襲は、向延嗣にいう。「魏王は太子である。主上=唐帝は萬福であるが、郭公の專權はこのようである。(郭崇韜の子)郭廷誨は、徒を擁して出入する。郭廷誨は、日々に、軍中の饒將や蜀土の豪傑とともに、狎れ飲む。天を指し、地を畫す。郭廷誨は父の郭崇韜に、『私を蜀帥にしてくれと上表せよ』と請う。また郭廷誨は『蜀地は富饒たり。大人は宜しく自ら謀をなすに善し』という。いま諸軍の將校は、みな郭氏之黨である。魏王は、虎狼之口に寄身する。一委して変があれば、私はどこに委骨するか分からない」と。
李従襲と向延嗣は、(宦官同士で)相向して垂涕する。
向延嗣は洛陽に歸して、つぶさに劉皇后に語る。のちに唐帝に泣訴して「早く死にそうな李継岌を救え」という。これより前に、唐帝は蜀人から、郭崇韜が帥になりたがると聞く。すでに唐帝は不平である。いま向延嗣の報告をきいて、郭崇韜を疑わないわけにはいかない。
帝閱蜀府庫之籍,曰:「人言蜀中珍貨無算,何如是之微也?」延嗣曰:「臣聞蜀破,其珍貨皆入於崇韜父子,崇韜有金萬兩,銀四十萬兩,錢百萬緡,名馬千匹,他物稱是,廷誨所取,復在其外;故縣官所得不多耳。」帝遂怒形於色。
及孟知祥將行,帝語之曰:「聞郭崇韜有異志,卿到,為朕誅之。」知祥曰:「崇韜,國之勳舊,不宜有此。俟臣至蜀察之,苟無他志則遣還。」帝許之。唐帝は、前蜀の府庫之籍を閲する。「人は蜀中に珍貨が無算だというが、なぜ微量しかない目録にないのか」と。向延嗣「私が聞くに、前蜀を破ったとき、その珍貨は、みな郭崇韜の父子に入ったらしい。郭崇韜は、金萬兩・銀四十萬兩・錢百萬緡・名馬千匹を得たと。子の郭廷誨が、のこりの財貨を取って、他者に渡さない。ゆえに縣官の得るところは多くない」と。唐帝は、ついに怒って顔色をかえる。
孟知祥が蜀地に行くとき、唐帝は孟知祥にいう。「郭崇韜に異志があると聞く。蜀地に到れば、私のために崇韜を誅せよ」と。孟知祥「崇韜は、國之勳舊である。誅するのは良くない。私が蜀地に到り、崇韜を観察する。もし他志がなければ、洛陽に還らせる」と。唐帝は許す。
ぼくは思う。蜀地から洛陽に郭崇韜が還ったら。中央の宦官を、派手にクビにしただろう。成都でも洛陽でも、唐帝からの信頼が厚すぎるを、邪魔に思う者が増えている。ただし、郭崇韜がスケープゴートなっているうちは、唐帝のウザさには、誰も目がゆかない。唐帝は、郭崇韜という、皇帝権力に比肩する功臣の扱い方を、史書に学ぶべきだなあ。伊尹、霍光、諸葛亮とか。
壬子,知祥發洛陽。帝尋復遣衣甲庫使馬彥珪馳詣成都觀崇韜去就,如奉詔班師則已,若有遷延跋扈之狀,則與繼岌圖之。彥珪見皇后,說之曰:「臣見向延嗣言蜀中事勢憂在朝夕,今上當斷不斷,夫成敗之機,間不容髮,安能緩急稟命於三千里外乎!」皇后復言於帝,帝曰:「傳聞之言,未知虛實,豈可遽爾果決?」皇后不得請,退,壬子、知祥は洛陽を発する。唐帝は、また衣甲庫使の馬彦珪を、成都に馳詣させ、郭崇韜の去就を観察させる。
衣甲庫使は、盛唐のときにない官職である。唐帝が置いたのだろう。内諸司使の1つ。奉詔して班師は則ち已にし、郭崇韜の遷延・跋扈之狀は、聞いていたとおりだった。馬彦珪は李継岌とともに、郭崇韜を殺そうとする。
胡三省はいう。唐帝が孟知祥と馬彦珪に命じたのは、このようである。もしも宦官の李従襲らが、皇后の教書を根拠として、郭崇韜を殺さねば、(唐帝は郭崇韜を助けたいので)郭崇韜は洛陽に還れた。馬彦珪は劉皇后に会って説いた。「私が見るに、向延嗣は『蜀中の事勢は、憂いが朝夕にある』という。いま唐帝が判断するにあたり、成敗之機は、わずかな時間もない。稟命に緩急をつけることを、3千里の外にやれるか」と。
ぼくは補う。郭崇韜がなにをするか分からないから、いちおう唐帝は、郭崇韜を殺しておけ。郭崇韜が、あやしい動きをしてからでは、洛陽の唐帝がうつ対策が間に合わないと。馬彦珪は、郭崇韜の命よりも、メリットもデメリットも小さい、安全策をいっている。劉皇后は、ふたたび唐帝に(郭崇韜を殺せと)いう。
ぼくは思う。劉皇后は、子の魏王=李継岌のほうが、功臣の郭崇韜よりも重要である。もし李継岌に危害が及ぶ可能性があるなら、郭崇韜を殺しておけという。宦官と利害も理由も一致しないが、結論は一致している。唐帝「傳聞之言は、いまだ虚実が分からない。どうして急いで決断できようか」と。皇后は、郭崇韜を殺すことを請えずに退く。
自為教與繼岌,令殺崇韜。知祥行至石壕,彥珪夜叩門宣詔,促知祥赴鎮,知祥竊歎曰:「亂將作矣!」乃晝夜兼行。みずから皇后は、皇后の教書を継岌に与えて、崇韜を殺させる。知祥は石壕に至る。馬彦珪は、夜に叩門して詔を宣べる。孟知祥に「はやく鎮所にゆけ」と促す。孟知祥はひそかに歎じた。「乱がまさに起ころうとしている」と。昼夜、兼行した。
孟知祥は倍速ですすむ。だが郭崇韜の死を救えなかった。崇韜が死ねば、(郭崇韜の反乱とは別の)他の変事が起こることを、孟知祥は恐れたのだ。
ぼくは思う。孟知祥が蜀地で「後蜀」をつくる。お前だよ、変事はw
◆楚国と呉越のこと
初,楚王殷既得湖南,不征商旅,由是四方商旅輻水奏。湖南地多鉛鐵,殷用軍都判官高郁策,鑄鉛鐵為錢,商旅出境,無所用之,皆易他貨而去,故能以境內所餘之物易天下百貨,國以富饒。湖南民不事桑蠶,郁命民輸稅者皆以帛代錢,未幾,民間機杼大盛。
吳越王鏐遣使者沈□致書,以受玉冊,封吳越國王告於吳。吳人以其國名與己同,不受書,遣□還。仍戒境上無得通吳越使者及商旅。はじめ、楚王の馬殷は、すでに湖南を得る。商旅を徴さず。これにより四方の商旅は、輻湊する。湖南の地は、鉛と鐵がおおい。馬殷は、軍都判官の高郁の策をもちいて、鉛鉄を鋳して銭とする。商旅が出境すると、楚国の銭を用いない。みな他の貨幣にかえて去る。ゆえに楚国の領域のなかに余る物は、天下の百貨と交換された。楚国は富饒となる。湖南の民は、桑蠶をしない。高郁は民に命じて、輸稅は帛を以て銭に代えた。すぐに、民間の機杼は大盛した。
高郁は馬殷が湖南を治めるのを補佐した。たくみに民が利益に趨るように誘導した。けだし『管子』の学問をやったのだろう。吳越王の銭鏐は、沈トウを使者にして、呉国に致書して、玉冊を受ける。唐国から吳越國王に封じられたと、呉国に告げた。吳人は、国名がかぶるので、文書を受けない。沈トウは還された。境界を警戒して、呉越の使者や商旅が通れないようにした。130910
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- 926年春、郭崇韜が殺され、河北が嗣源を推戴
明宗聖德和武欽孝皇帝上之上
莊宗光聖神閔孝皇帝下天成元年(丙戌,公元九二六年)
正月、朱友謙=李継麟が疑われる
春,正月,庚申,魏王繼岌遣李繼曮、李嚴部送王衍及其宗族百官數千人詣洛陽。春正月の庚申、魏王の繼岌は、李繼曮と李嚴をやり、蜀主の王衍とその宗族と百官を、数千人、洛陽に詣でさせる。
河中節度使、尚書令李繼麟自恃與帝故舊,且有功,帝待之厚,苦諸伶宦求丐無厭,遂拒不與。大軍之征蜀也,繼麟閱兵,遣其子令德將之以從。景進與宦官譖之曰:「繼麟聞大軍起,以為討己,故驚懼,閱兵自衛。」又曰:「崇韜所以敢倔強於蜀者,與河中陰謀,內外相應故也。」繼麟聞之懼,欲身入朝以自明,其所親止之,繼麟曰:「郭侍中功高於我。今事勢將危,吾得見主上,面陳至誠,則讒人獲罪矣。」癸亥,繼麟入朝。河中節度使・尚書令の李繼麟は、みずから唐帝との故舊をたのむ。また有功であり、さらに自らたのむ。唐帝から厚遇される。
後梁の乾化2年、朱友謙は河中をもって晋国についた。ゆえに故旧をたのむのだ。晋国についてから、晋王と梁人は、河上で戦った。汾州と晋州は、後顧の憂いがなかった。だから有功である。諸伶宦が、限りなく賄賂を求めるので、ついに李継麟は拒んで与えず。大軍が征蜀すると、李継麟は閱兵して、子の李令徳はこれにひきい、征蜀に従う。
景進と宦官は、李継麟をそしる。「李継麟は大軍が起つと聞き、己を討つのではと早とちりして驚懼した。閱兵して自衛した」と。
ぼくは思う。後梁からの降将だから、おびえてる。また景進と宦官はいう。「郭崇韜が蜀地であえて倔強である理由は、河中とともに陰謀し、内外であい応じるから」と。
李継麟はこれを聞いて懼れる。みずから入朝して、釈明したい。李継麟に親しむ者に止められた。李継麟「郭侍中(郭崇韜)は、私より功績が高い。いま事勢は危うい。私が主上(唐帝)に会えれば、至誠を面陳する。うそを讒言する者は、罪を獲るだろう」と。癸亥、李継麟は入朝した。
郭崇韜の功績が高いとは、後梁と前蜀を滅ぼした功績のことをいう。李継麟は郭崇韜に及ばないといっている。讒言する者とは、伶人や宦官のこと。
正月、郭崇韜が殺される
魏王繼岌將發成都,令任圜權知留事,以俟孟知祥。諸軍部署已定,是日,馬彥珪至,以皇后教示繼岌,繼岌曰:「大軍垂發,彼無釁端,安可為此負心事!公輩勿復言。且主上無敕,獨以皇后教殺招討使,可乎?」李從襲等泣曰:「既有此跡,萬一崇韜聞之,中塗為變,益不可救矣。」相與巧陳利害,繼岌不得已從之。甲子旦,從襲以繼岌之命召崇韜計事,繼岌登樓避之。崇韜方升階,繼岌從者李環撾碎其首,並殺其子廷誨、廷信。外人猶未之知。魏王の繼岌は、まさに成都を発しそう。任圜に成都のことを權知留事させ、孟知祥を待たせる。諸軍の部署(の行く者と留まる者の区別)はすでに定まる。この日、馬彦珪が至り、皇后の教書を継岌に示す。継岌「大軍が発しようとしたとき、郭崇韜には釁端(謀反の前兆)がない。郭崇韜のために、心を負(そむ)けるものか。きみらはもう(郭崇韜の処罰について)言うな。唐帝の敕書はなく、皇后の教書だけで、招討使を殺すのは良いのか」と。
李從襲らは泣いた。「すでに証拠はある。万が一、郭崇韜がこれを聞けば、道中で変をなすだろう。ますます(継岌を)救えない」と。ともに巧みに利害を陳べる。魏王の李継岌は、やむなく従う。
甲子旦、李従襲は、李継岌の命として、郭崇韜を召した。李継岌は登樓して(暗殺の混乱を)避けた。崇韜が登楼しようと階段をのぼったとき、継岌の従者・李環が、崇韜の頭を撾碎した。郭崇韜の子・郭廷誨と郭廷信も殺した。そとにいる者は、郭崇韜の殺害を知らない。
都統推官饒陽李崧謂繼岌曰:「今行軍三千里外,初無敕旨,擅殺大將,大王奈何行此危事!獨不能忍之至洛陽邪?」繼岌曰:「公言是也,悔之無及。」崧乃召書吏數人,登樓去梯,矯為敕書,用蠟印宣之,軍中粗定。崇韜左右皆竄匿,獨掌書記滏陽張□厲詣魏王府慟哭久之。繼岌命任圜代崇韜總軍政。魏王通謁李廷安獻蜀樂工二百餘人,有嚴旭者,王衍用為蓬州刺史,帝問曰:「汝何以得刺史?」對曰:「以歌。」帝使歌而善之,許復故任。 戊辰,孟知祥至成都。時新殺郭崇韜,人情未安,知祥慰撫吏民,犒賜將卒,去留帖然。都統推官する饒陽の李崧は、継岌にいう。「いま行軍は3千里の以上の道程をゆく。はじめに敕旨がなく、ほしいままに大将を殺せば、大王(継岌)は、行軍が危うくなってしまう。なぜ洛陽に至るまで、郭崇韜の殺害を忍べないのか」と。
継岌「きみはそう言うなら、崇韜の殺害を悔いるには及ばない」と。李崧は、書吏の数人を召して、登楼・去梯し、敕書を偽作する。蠟印でとじて宣べる。軍中は(唐帝の詔書に基づく、崇韜の殺害であるならと)あらかた定まる。
崇韜の左右は、みな竄匿する。ひとり掌書記する滏陽の張[石厲]だけは、魏王府に詣でて慟哭すること久しい。繼岌は任圜に命じて、郭崇韜の代わりに軍政を総管させる。
魏王通謁の李廷安は、蜀地の樂工2百餘人を献じる。厳旭という者がいて、前蜀では蓬州刺史であった。唐帝「お前はなぜ刺史になれたのだ」と。厳旭「歌により刺史にしてもらった」と。唐帝は厳旭に歌わせ、うまいので後唐でも、前蜀とおなじ蓬州刺史とした。
人はみな唐帝に、前蜀に克ったことだけ言い、前蜀が滅びた原因を察しなかった。前蜀の失敗を踏まえなかった。これは唐帝の気習(キャラ)を知らないからである。李存賢や周匝らのことを見るべきである。
ぼくは補う。周匝は唐帝がお気に入りの伶人だった。周匝の命を救った梁臣を、唐帝は功臣をさしおいて刺史にした。功臣よりも、寵臣にホイホイと官職を与える。胡三省はこれを戒めている。
正月戊辰、孟知祥が成都に至る。ときに郭崇韜を殺したばかりで、人情は安じない。知祥は吏民を慰撫した。將卒に犒賜した。成都に去る者も留まる者も、帖然とした。
史書は孟知祥の才をいい、よく蜀地を領有できることを示す。ぼくは補う。孟知祥が、後蜀の初代君主となるのだ。
閩人破陳本,斬之。
契丹主擊女真及勃海,恐唐乘虛襲之,戊寅,遣梅老鞋裡來修好。閩人は、陳本を破って斬る。
陳本が汀州を囲むのは、上年12月にある。契丹主は、女真および勃海を撃つ。後唐が虚に乗じて契丹を襲うことを恐れる。戊寅、契丹主は、梅老鞋裡が後唐にきて修好した。
正月、郭崇韜を殺した後始末
馬彥珪還洛陽,乃下詔暴郭崇韜之罪,並殺其子廷說、廷讓、廷議,於是朝野駭惋,群議紛然,帝使宦者潛察之。保大節度使睦王存乂,崇韜之婿也;宦官欲盡去崇韜之黨,言「存乂對諸將攘臂垂泣,為崇韜稱冤,言辭怨望。」庚辰,幽存乂於第,尋殺之。馬彦珪は洛陽に還る。詔を下して、郭崇韜の罪をあばく。洛陽にいる崇韜の子らを殺す。朝野は駭惋とし、群議は紛然とする。唐帝は宦者に潛察させた。保大節度使の睦王たる李存乂は、郭崇韜の婿である。宦官は崇韜の党をすべて除きたい。宦官「李存乂は諸将にむけて、攘臂・垂泣した。崇韜の冤罪を称した。言辭は怨望である」と。庚辰、李存乂を第に幽閉して、殺した。
景進言:「河中人有告變,言李繼麟與郭崇韜謀反;崇韜死,又與存乂連謀。」宦官因共勸帝速除之,帝乃徙繼麟為義成節度使,是夜,遣蕃漢馬步使硃守殷以兵圍其第,驅繼麟出徽安門外殺之,復其姓名曰硃友謙。友謙二子,令德為武信節度使,令錫為忠武節度使;詔魏王繼岌誅令德於遂州,鄭州刺史王思同誅令錫於許州,河陽節度使李紹奇誅其家人於河中。
紹奇至其家,友謙妻張氏帥家人二百餘口見紹奇曰:「硃氏宗族當死,願無濫及平人。」乃別其婢僕百人,以其族百口就刑。張氏又取鐵券以示紹奇曰:「此皇帝去年所賜也,我婦人,不識書,不知其何等語也。」紹奇亦為之慚。友謙舊將吏武等七人,時為刺史,皆坐族誅。景進「河中の人は告変する。李継麟と郭崇韜が謀反したと。崇韜が死に、李存乂と連謀したと。宦官はともに唐帝に「早く李継麟と李存乂を除け」と勧める。唐帝は、李継麟を義成節度使とする。この夜、蕃漢馬步使の朱守殷は、兵をもってその第を囲む。
『欧史』では「その館を囲む」とある。けだし朱友謙は、私第が洛陽にない。李継麟を駆って、徽安門外に出して殺す。姓名を朱友謙にもどす。
唐昭宗のが洛州に遷ったとき、車駕は微安門より入宮した。洛陽の門の名について、8956頁。朱友謙の2子である、朱令德を武信節度使とし、朱令錫を忠武節度使とする。魏王の繼岌に詔して、朱令德を遂州で殺させる。鄭州刺史の王思同に、朱令錫を許州で殺させる。
大唐は、忠武軍を許州におく。匡国軍を同州におく。後梁は軍号を変えたが、後唐は軍号をもどした。河陽節度使の李紹奇は、朱友謙の家人を河中で誅する。李紹奇はその家に至る。朱友謙の妻の張氏は、家人2百餘口を帥いて、李紹奇にあう。張氏「朱氏の宗族は死ぬべきだが、濫りに(朱氏でない)平人まで殺すな」と。婢僕1百人は殺さず、朱氏の1百口だけを就刑して殺した。
張氏は、また鉄券を取って李紹奇に示す。「これは皇帝に去年賜ったもの。私は夫人だから書を識らない。何が書いてあるのか分からない」と。李紹奇は鉄券をみて慚した。李紹奇は、朝廷が信を失うので、慚したのだ。ぼくは思う。唐帝が特別待遇をいう鉄券を渡しておきながら、翌年には族誅する。一貫性がなさすぎるだろうと。朱友謙の旧將や吏武ら7人は、ときに刺史である。7人とも坐して族誅。
時洛中諸軍饑窘,妄為謠言,伶官采之以聞於帝,故郭崇韜、硃友謙皆及於禍。成都節度使兼中書令李嗣源亦為謠言所屬,帝遣硃守殷察之;守殷私謂嗣源曰:「令公勳業振主,宜自圖歸籓以遠禍。」嗣源曰:「吾心不負天地,禍福之來,無所可避,皆委之於命耳。」時伶宦用事,勳舊人不自保,嗣源危殆者數四,賴宣徽使李紹宏左右營護,以是得全。ときに洛中の諸軍は饑窘である。みだりに謠言をなす。伶官はこれを聞きとって唐帝に報告した。謠言を用いたせいで、郭崇韜と朱友謙が禍いにあった。
成都節度使・兼中書令の李嗣源もまた、謠言に登場する。唐帝は朱守殷に李嗣源を検察させた。朱守殷はひそかに李嗣源にいう。「あなたは勳業・振主した者となった。みずから帰藩して、禍いを遠ざけることを図れ」と。李嗣源「私の心は天地にそむかない。禍福之來は、避けられない。すべて、”命”に従うだけだ」と。
李嗣源が朱守殷に答えた言葉は、死生や禍福について、英雄が、自分でコントロールできる限度を知っていたのだと言えよう。ときに伶宦が用事する。勳舊の人は、自保できない。李嗣源が危殆すること4たび。宣徽使の李紹宏に左右を營護させ、全うできた。
魏王繼岌留馬步都指揮使陳留李仁罕、馬軍都指揮使東光潘仁嗣、左廂都指揮使趙廷隱、右廂都指揮使浚儀張業、牙內指揮使文水武漳、驍銳指揮使平恩李廷厚戍成都。甲申,繼岌發成都,命李紹琛帥萬二千人為後軍,行止常差中軍一捨。魏王の繼岌は、馬步都指揮使する陳留の李仁罕と、馬軍都指揮使する東光の潘仁嗣と、左廂都指揮使する趙廷隱と、右廂都指揮使する浚儀と張業と、牙內指揮使する文水の武漳と、驍銳指揮使する平恩の李廷厚を留めて、成都を戍らせる。
諸将の蜀地に残った者は、孟知祥に殺されることになる。甲申、継岌は成都を発する。李紹琛に命じて、12千で後軍を帥させる。行止はつねに、中軍から1舎の距離のうちにある(まとまって移動した)。
1舎とは30里である。中軍から30里以内にいた。
2月、魏博の兵・皇甫暉が唐帝のために起兵
二月,己丑朔,以宣徽南院使李紹宏為樞密使。
魏博指揮使楊仁晸,將所部兵戍瓦橋,逾年代歸,至貝州,以鄴都空虛,恐兵至為變,敕留屯貝州。2月の己丑ついたち。宣徽南院使の李紹宏を、樞密使とした。
魏博指揮使の楊仁晸は、部兵をひきいて瓦橋を守る。年をまたぎ、代わって歸る。貝州に至る。鄴都が空虚なので、兵が至って変をなすのを恐れた。敕して、貝州に留屯させる。
時天下莫知郭崇韜之罪,民間訛言云:「崇韜殺繼岌,自王於蜀,故族其家。」硃友謙子建徽為澶州刺史,帝密敕鄴都監軍史彥瓊殺之。門者白留守王正言曰:「史武德夜半馳馬出城,不言何往。」又訛言云:「皇后以繼岌之死歸咎於帝,已弒帝矣,故急召彥瓊計事。」人情愈駭。ときに天下は、郭崇韜の罪を知らない。民間は訛言していう。「郭崇韜が李継岌を殺して、みずから蜀地で王となった。ゆえに家を族誅された」と。硃友謙の子である朱建徽は、澶州刺史となる。唐帝は密敕して、鄴都監軍の史彦瓊に、朱建徽を殺させた。
澶州は、魏博の巡属(管轄する範囲)である。ゆえに魏博監軍に密勅して、朱建徽を殺させた。門者は、留守の王正言にいう。「史武德(史彦瓊)は、夜半に馳馬・出城した。行き先を言わなかった」と。
史彦瓊は、武徳使をもって出て、監軍となる。これを「内職」という。また民間が訛言した。「皇后は、李継岌が死んだ責任を、唐帝におしつけた。すでに皇后が唐帝を弑した。ゆえに急いで史彦瓊を召して、計事した」と。人々の情は、ますます駭した。
訛言が興って、史彦瓊は有司に疑われ、駭された。訛言がますますひどくなり、乱れてこれに随う。
ぼくは思う。唐帝の死も、洛陽の周辺が暴発したから。唐帝は、訛言による恐慌によって命を落とすと言っても、大きくは外していない。
楊仁晸部兵皇甫暉與其徒夜博不勝,因人情不安,遂作亂,劫仁晸曰:「主上所以有天下者,吾魏軍力也;魏軍甲不去體,馬不解鞍者十餘年,今天下已定,天子不念舊勞,更加猜忌。遠戍逾年,方喜代歸,去家咫尺,不使相見。今聞皇后弒逆,京師已亂,將士願與公俱歸,仍表聞朝廷。若天子萬福,興兵致討,以吾魏博兵力足以拒之,安知不更為富貴之資乎?」楊仁晸の部兵である皇甫暉とその徒は、夜に博く勝えず、人情は不安となり、ついに作亂する。楊仁晸を劫していう。「主上は天下を有するのは、わが魏軍の力である。
魏博の兵力が、後梁を破ったことをいう。魏軍の甲は體を去らず(鎧をぬがず)、馬は鞍を解かず、これが10余年つづく。いま天下はすでに定まり、天子は旧勞を念わず。さらに猜忌を加える。遠い地を戍って、年を逾える。代歸できると喜ぶ。家を去って咫尺、相見させない。
貝州にとどめて、魏州に還してくれないことをいう。いま皇后が、唐帝を弑逆したと聞く。京師はすでに乱れた。將士は、あなた(楊仁晸)とともに魏州に帰り、朝廷に表聞したい。もし天子が萬福なら(弑殺されていなければ)兵を興して、討を致そう。われら魏博の兵力は、唐帝への反逆者を距ぐに足りる。
皇甫暉は、銀槍郊節の卒である。唐帝に従って、河上で後梁と戦った。唐帝の用兵を習見する。諸軍の勇怯をどちらも見てきた。だから、これを言っている。さらに富貴となるチャンスだと思わないか」と。
ぼくは思う。魏博の兵は、辺境を守らされ、ルサンチマンが蓄積している。「再び唐帝のために働いて、功績を認められないかな」と。これは、みずから先頭で戦ってきた唐帝の胸中と、共鳴するものが有るかも知れない。唐帝が、宮中の奥深くにひっこむから、魏博は矛先をもてあまし、過剰に忠義めいた反乱をやるのだ。
仁晸不從,暉殺之;又劫小校,不從,又殺之。效節指揮使趙在禮聞亂,衣不及帶,逾垣而走,暉追及,曳其足而下之,示以二首,在禮懼而從之。亂兵遂奉以為帥,焚掠貝州。暉,魏州人;在禮,涿州人也。
詰旦,暉等擁在禮南趣臨清、永濟、館陶,所過剽掠。楊仁晸は従わず。皇甫暉は楊仁晸を殺した。また小校(楊仁晸よりも下級の将校)を劫したが、小校も従わず。小校も殺された。
效節指揮使の趙在礼は乱を聞き、衣は帯もつけず、垣をこえて逃げる。皇甫暉は追及し、足を曳いて下ろす。楊仁晸と小校の2つの首級をみて、趙在礼は懼れて從った。亂兵は、ついに奉って帥となる。貝州を焚掠した。皇甫暉は魏州の人。趙在禮は、涿州の人。
詰旦に、皇甫暉らは、趙在礼を擁して、南して臨清、永濟、館陶にゆく。過ぎたところで、剽掠する。
ぼくは思う。もとは魏博は、大唐の後期の独立勢力で、皇帝も支配が及ばなかった。のちに後梁が魏博を陥落させた。さらに晋王がこれを撃破して、自分の先鋒とした。つねに魏博の兵は、乱のきっかけであり、推進力である。この魏博の兵のせいで、李嗣源が唐帝にそむくのだから。
ぼくは思う。洛陽で皇帝として鎮座するまでの李存勗を、魏博の兵とを、べったり意気投合させておくと、良い伏線となるでしょう。魏博の兵は、皇帝病にそまった李存勗を、きちんと「彼は病気だ。我らが治さねば」と認識した人たちだと思う。
壬辰晚,有自貝州來告軍亂將犯鄴都者,都巡檢使孫鐸等亟詣史彥瓊,請授甲乘城為備。彥瓊疑鐸等有異志,曰:「告者雲今日賊至臨清,計程須六日晚方至,為備未晚。」孫鐸曰:「賊既作亂,必乘吾未備,晝夜倍道,安肯計程而行!請僕射帥眾乘城,鐸募勁兵千人伏於王莽河逆擊之,賊既勢挫,必當離散,然後可撲討也。必俟其至城下,萬一有奸人為內應,則事危矣。」彥瓊曰:「但嚴兵守城,何必逆戰!」是夜,賊前鋒攻北門,弓弩亂髮。時彥瓊將部兵宿北門樓,聞賊呼聲,即時掠潰。彥瓊單騎奔洛陽。壬辰の晚、貝州より「軍が亂れ、鄴都を犯しそう」と報告がある。都巡檢使の孫鐸らは、急いで史彥瓊に詣でて、「甲兵を授け、城に乗って備えたい」と請う。史彦瓊は孫鐸らに異志があると疑う。史彦瓊「報告によると、今日の時点で、賊は臨清に至る。6日の晩に、鄴都に至るだろう。それから防備をしても遅くない」と。
『九域志』はいう。臨清県から南して、魏州まで150里ある。起兵した皇甫暉らは、壬辰に臨清にいた。史彦瓊が魏州に6日の晩に到着するという。1日に50里進めば3日でつく。壬辰は2月4日だから、3日目が2月6日なのだ。2月6日は、甲午である。孫鐸「賊はすでに作乱する。必ず我らの未備に乗じて、昼夜に倍道する。所要時間を標準的に計算できはしない。僕射(史彦瓊)は軍衆を帥して乗城させろ。勁兵1千人を募り、王莽河に伏せて逆擊したい。賊は勢が挫ければ、必ず離散する。のちに撲討できる。城下で敵の到着を待てば、万が一にも奸人が内応すれば、事態は危うくなる」と。
史彦瓊「ただ兵を厳して、城を守る。なぜ逆戰する必要があろうか」と。
この日の夜、賊の前鋒が北門を攻めた。弓弩は乱髪する。ときに史彦瓊は、部兵をひきいて北門樓に宿する。賊の呼聲を聞き、すぐに掠潰した。史彦瓊は単騎で洛陽に奔った。
ぼくは思う。「皇甫暉に備える必要はない」と楽観的すぎた史彦瓊は、皇甫暉の先鋒の声を聴くだけで、にげてしまった。まったく、状況判断もできなけりゃ、腰を据えて戦闘もできない長官である。こうして魏博は反乱して、李嗣源が担がれる。
2月、鄴都が占領され、李紹栄が討伐に
癸巳,賊入鄴都,孫鐸等拒戰不勝,亡去。趙在禮據宮城,署皇甫暉及軍校趙進為馬步都指揮使,縱兵大掠。進,定州人也。
王正言方據按召吏草奏,無至者,正言怒,其家人曰:「賊已入城,殺掠於市,吏皆逃散,公尚誰呼!」正言驚曰:「吾初不知也。」又索馬,不能得,乃帥僚佐步出門謁在禮,再拜請罪。在禮亦拜,曰:「士座思歸耳,尚書重德,勿自卑屈。」慰諭遣之。眾推在禮為魏博留後,具奏其狀。北京留守張憲家在鄴都,在禮厚撫之,遣使以書誘憲,憲不發封,斬其使以聞。2月癸巳、賊(皇甫暉ら)は鄴都に入る。孫鐸らは、拒戰したが不勝てず、亡去した。趙在礼は、宮城に拠る。皇甫暉および軍校の趙進を署して、馬步都指揮使とする。縱兵・大掠する。趙進は定州の人。
王正言は、吏を召して草奏させたいが、至る者がない。王正言は怒る。王正言の家人がいう。「賊はすでに入城した。市で殺掠する。みな吏は逃散した。王正言は誰を呼ぶのか」と。王正言は驚いた。「私は(吏の逃散を)知らなかった」と。また馬を索めるが、得られない。僚佐を帥し、步いて門を出でて、趙在礼に謁する。再拜して、王正言が請罪する。趙在礼も拜した。「士は座して帰りたいだけ。尚書(王正言)は德が重い。自ら卑屈になるな」と。趙在礼は王正言を慰諭して、ゆかせた。
王正言は、戸部詔書をもって、出て留守を知する。ゆえに趙在礼は、王正言を尚書とよぶ。軍衆は、趙在礼を魏博留後に推して、その状況を具奏した。
北京留守の張憲は、家が鄴都にある。
去年、張憲は鄴都の留守から、北京に遷った。ゆえに、まだ家が鄴都にあった。趙在礼は、張憲の家族を厚撫した。使者に文書をもたせ、張憲を誘った。張憲は返答を発さず、使者を斬ってこたえた。
甲午,以景進為銀青光祿大夫、檢校右散騎常侍兼御吏大夫、上柱國。
丙申,史彥瓊至洛陽。帝問可為大將者於樞密使李紹宏,紹宏復請用李紹欽,帝許之,令條上方略。紹欽所請偏裨,皆梁舊將,己所善者,帝疑之而止。皇后曰:「此小事,不足煩大將,紹榮可辦也。」帝乃命歸德節度使李紹榮將騎三千詣鄴都招撫,亦征諸道兵,備其不服。甲午、景進は銀青光祿大夫となり、檢校右散騎常侍・兼御吏大夫・上柱國となる。
丙申(鄴都から逃げ去った)史彦瓊は、洛陽に至る。唐帝は、だれを大将にすべきか、樞密使の李紹宏に問う。李紹宏は、ふたたび「李紹欽を用いろ」という。唐帝は許す。方略を條上させた。伐蜀の役で、李紹宏はすでに李紹欽をすすめた。用いられなかった。ゆえに「ふたたび」というのだ。李紹欽が偏裨にしたいのは、みな後梁の舊將で、己と仲が善いものばかり。唐帝は(李紹欽が後唐にそむき、後梁の勢力を復興するかと)疑って、李紹欽をやめた。
皇后「これ(鄴都の占領)は小事である。大將を煩わすに足らず。李紹栄(元行欽)にやらせろ」と。唐帝は、歸德節度使の李紹榮に騎3千をつけ、鄴都で招撫させた。また諸道の兵を徴し、服さぬ者に備えた。
蜀地で康延孝=李紹琛が、後梁の将士と起兵
郭崇韜之死也,李紹琛謂董璋曰:「公復欲呫囁誰門乎?」璋懼,謝罪。魏王繼岌軍還至武連,遇敕使,諭以硃友謙已伏誅,令董璋將兵之遂州誅硃令德。時紹琛將後軍魏城,聞之,以帝不委己殺令德而委璋,大驚。俄而璋過紹琛軍,不謁。紹琛怒,乘酒謂諸將曰:「國家南取大梁,西定巴、蜀,皆郭公之謀而吾之戰功也;至於去逆效順,與國家掎角以破梁,則硃公也。今硃、郭皆無罪族滅,歸朝之後,行及我矣。冤哉,天乎!奈何!」郭崇韜が死んでから、李紹琛は董璋にいう。「あなたは(郭崇韜の次は)また誰の門に呫囁したいか」と。董璋は懼れて、李紹琛に謝罪する。魏王の繼岌は、軍を還して武連に至る。敕使に遭遇する。勅使は「朱友謙がすでに伏誅した」と諭した。勅使は、董璋に兵をひきいて遂州にゆかせ、朱令徳を誅させたい。
ときに李紹琛は、後軍をひきいて魏城(巴西、綿州)にいる。
地名について、8960頁。李紹琛は、唐帝が李紹琛に朱令徳の殺害を委ねず、董璋に朱令徳の殺害を委ねたと聞いて、大驚した。
にわかに董璋が李紹琛の軍を通過することがあったが、董璋は謁さず。李紹琛は怒って、乘酒して諸将にいう。「国家が南して大梁を取り、西して巴蜀を定めた。みな郭崇韜の謀と、私の戰功のおかげである。逆を去り、順に效う。国家(唐国)とともに掎角して破梁したのは、朱友謙である。朱友謙は、蒲州と同州をもって晋国=唐国にくだった。梁国を掎角(はさみうち)にした。いま、朱友謙も郭崇韜も、無罪で族滅された。歸朝之後、私も無罪で族滅されるだろう。天よ、どうしたものか」と。
紹琛所將多河中兵,河中將焦武等同號哭於軍門曰:「西平王何罪,闔門屠膾!我屬歸則與史武等同誅,決不復東矣。」是日,魏王繼岌至泥溪,紹琛至劍州遣人白繼岌云:「河中將士號哭不止,欲為亂。」丁酉,紹琛自劍州擁兵西還,自稱西川節度、三川制置等使,移檄成都,稱奉詔代孟知祥,招諭蜀人,三日間眾至五萬。李紹琛(康延孝)は、おおく河中の兵をひきいる。
ぼくは補う。もとは後梁の兵である。河中將の焦武らは、軍門で號哭した。「西平王(朱友謙)に、何の罪があって、闔門・屠膾されたか。われらは属歸して、史武らとともに同じく誅されるだろう。東する(洛陽に帰る)前に誅されるだろう」と。
朱友謙は、河中をもって晋国についたので、西平王に封じられた。
焦武が言うには。史武らは、河中の将なので誅された。もし東に帰れば、同じ罪を着せられて、誅されて死ぬだろうと。この日、魏王の繼岌は、泥溪に至る。李紹琛は、劍州に至る。人をつかわし、継岌にいう。「河中の將士は、號哭して止まず。乱をしそう」と。
ぼくは思う。開き直りかよw丁酉、紹琛は劍州より擁兵して西還する。西川節度・三川制置等使を自称する。成都に移檄する。奉詔すると稱して、孟知祥に代わる。蜀人を招諭する。3日間で、軍衆が5万あつまる。
ぼくは思う。敗者が共感した連合である。李存勗に敗れた後梁の将士が、李存勗に敗れた前蜀の地で起兵する。まあ、前蜀を滅ぼすために、後梁の将士を使ったのだから、原因の一部は李存勗にもあるけど。
ぼくは思う。鄴都の鎮圧のために、梁将をつかうのが危険だと、さっき唐帝が判断したばかり。しかし、タイミングを同じくして、蜀地で梁将が起兵した。兵力を節約する観点から、「さきに滅ぼした国の将士を、つぎに滅ぼす国の攻撃にあてる」というのは、ローテーションの再利用で、経済的に見える。しかし、亡国の将士は、心が荒んでいるし、いつ罰せられるのか、ビクビクしている。制御が難しい。
戊戌,李繼曮至鳳翔,監軍使柴重厚不以符印與之,促令詣闕。
己亥,魏王繼岌至利州,李紹琛遣人斷桔柏津。繼岌聞之,以任圜為副招討使,將步騎七千,與都指揮使梁漢顒、監軍李延安追討之。
庚子,邢州左右步直兵趙太等四百人據城自稱安國留後;詔東北面招討副使李紹真討之。
辛丑,任圜先令別將何建崇擊劍門關,下之。
2月戊戌、李継曮は鳳翔に至る。監軍使の柴重厚は、符印がないが、鳳翔の長官の地位をゆずった。促して詣闕させた。
唐僖宗の光啓3年、李茂貞が鳳翔に拠ったが、ここに至って唐国に譲りわたした。のちに明宗(李嗣源)は、あらためて李継曮を鳳翔に鎮させる。己亥、魏王の繼岌は、利州に至る。李紹琛は、人をやり、桔柏津を断つ。継岌はこれを聞き、任圜を副招討使として、步騎7千をひきい、都指揮使の梁漢顒と、監軍の李延安とともに、李紹琛を追討する。
『考異』が日付についての不審をいっている。8961頁。庚子、邢州の左右步直兵の趙太ら4百人は、城によって、みずから安國留後を称する。詔して、東北面招討副使の李紹真(霍彦威)に、これを討たせる。
歩直とは、歩兵長直な者のこと。辛丑、任圜は先に別將の何建崇をやり、劍門関を撃ちくだす。
任圜は、李紹琛が剣門関をふさぐことを恐れて、さきに撃ったのだ。李紹琛は、まさに剣門関に到着しようとするところだった。
李紹榮至鄴都,攻其南門,遣人以敕招諭之,趙在禮以羊酒犒師,拜於城上曰:「將士思家擅歸,相公誠善為敷奏,得免於死,敢不自新!」遂以敕遍諭軍士。史彥瓊戟手大罵曰:「群死賊,城破萬段!」皇甫暉胃其眾曰:「觀史武德之言,上不赦我矣。」因聚噪,掠敕書,手壞之,守陴拒戰,紹榮攻之不利,以狀聞,帝怒曰:「克城之日,勿遣□類!」大發諸軍討之。壬寅,紹榮退屯澶州。李紹榮は、鄴都に至る。その南門を攻める。人をやり、敕をもって(鄴都の反兵を)招諭する。趙在礼は、羊酒で犒師する。城上で拝していう。「將士は、家を思い、ほしいままに帰った。相公(李紹栄)は、まことに敷奏がうまい。(李紹栄の口利きによって唐帝が許してくれて)死を免れるなら、もう抵抗しない」と。
李紹栄は、節度使・同平章事である。ゆえに「相公」という。のちに、建節する者は、みな相公とよぶようになった。李紹栄は、敕をもって、あまねく軍士を諭す。反将の史彦瓊は、戟手・大罵する。「群死賊、城は萬段を破る」と。皇甫暉は、その軍衆にいう。「史武德の発言を観るに、唐帝は私たちを赦さない」と。聚は噪ぐ。皇甫暉は敕書を掠み、手ずから壞す。鄴都の反軍は、守陴・拒戰する。李紹栄は攻めても利さず。唐帝に状況を報告した。唐帝は怒る。「城に克った日には、1人のこらず殺せ」と。
文字バケしているが。[口焦]である。かむ、いきている。おおいに諸軍を発して、鄴都を討つ。壬寅、李紹栄は澶州に退屯する。
甲辰夜,從馬直軍士王溫等五人殺軍使,謀作亂,擒斬之。從馬直指揮使郭從謙,本優人也,優名郭門高。帝與梁相拒於得勝,募勇士挑戰,從謙應募,俘斬而還,由是益有寵。帝選諸軍驍勇者為親軍,分置四指揮,號從馬直,從謙自軍使積功至指揮使。郭崇韜方用事,從謙以叔父事之,睦王存乂以從謙為假子。及崇韜、存乂得罪,從謙數以私財饗從馬直諸校,對之流涕,言崇韜之冤。及王溫作亂,帝戲之曰:「汝既負我附崇韜、存乂,又教王溫反,欲何為也?」從謙益懼。既退,陰謂諸校曰:「主上以王溫之故,俟鄴都平定,盡坑若曹。家之所有宜盡市酒肉,勿為久計也。」由是親軍皆不自安。甲辰の夜、從馬直軍士の王温ら5人は、軍使を殺して、作亂を謀り、軍使を擒斬する。從馬直指揮使の郭從謙は、もとは優人である。優名は「郭門高」という。かつて唐帝が後梁と得勝で相拒するとき、勇士を募って挑戰した。郭従謙は応募して、俘斬して還る。ますます唐帝から寵された。唐帝は、諸軍の驍勇な者を選んで、親軍とする。四指揮を分置する。「從馬直」と号する。郭従謙は、軍使の官職から積功して、指揮使に至る。
郭崇韜は、用事すると。郭従謙は、郭崇韜を叔父として仕えた。睦王の李存乂は、郭従謙を假子とした。郭崇韜と李存乂が罪を得ると、郭従謙はしばしば私財をつかって、從馬直の諸校を饗した。諸校に向きあって流涕し、郭崇韜の冤罪をいった。
王温が作乱すると、唐帝は戯れた。「郭従謙はすでに私にそむき、郭従韜と李存乂についた。さらに王温を反させた。どうするつもりか」と。郭従謙は、ますます懼れた。
ぼくは思う。唐帝のように絶対権力にある者が、こういう冗談を言ってはいけないよね。まあ、その「言ってはいけない」を言うことも含めて、たのしい戯れなのかも知れないけど。郭従謙は退いて、ひそかに諸校にいう。「主上は、王温の旧知である。鄴都の平定を待って、私たちを全て坑(穴埋め)するだろう。持てる家財をすべて酒肉に交換しろ。久計をするな(中長期的な生活の計画なんか立てるな)」と。これにより親軍は、みな不安となる。
張破敗が作乱して、郭従謙が弑逆される張本である。郭崇韜は勲旧であり、無罪なのに、族殺された。康延孝(李紹琛)が(蜀地で)乱を起こした。皇甫暉が(鄴都で)乱を起こした。張破敗も乱をして、郭従謙を弑する。みな郭崇韜が死んだから、将校が不安になった結果である。
ぼくは思う。郭崇韜を殺したことから、功臣が疑心暗鬼となり、ドミノを倒すように殺されていったと。まるで前漢の高帝である。前漢とちがうのは、この唐帝すら反乱に倒れること。守ってくれる臣下がいないんだもん。
2月、李嗣源にしか鄴都を征圧できない
乙巳,王衍至長安,有詔止之。
先是,帝諸弟雖領節度使,皆留京師,但食其俸。戊申,始命護國節度使永王存霸至河中。丁未,李紹榮以諸道兵再攻鄴都。庚戌,裨將楊重霸帥眾數百登城,後無繼者,重霸等皆死。賊知不赦,堅守無降意。朝廷患之,日發中使促魏王繼岌東還。繼岌以中軍精兵皆從任圜討李紹琛,留利州待之,未得還。2月乙巳、王衍は長安に至る。詔あり、止まる。
これより先、唐帝の諸弟は、節度使を領するが、みな京師に留まる。ただその俸禄を食す。戊申、はじめて護國節度使する永王たる李存霸を、河中にゆかせる。すでに朱友謙を殺した。ゆえに李存覇を鎮所にゆかせ、朱友謙に代える。2月丁未、李紹榮に諸道の兵をつけ、ふたたび鄴都を攻める。庚戌、裨將の楊重霸は、軍衆を数百ひきいて、登城する。のちに継く者がない。楊重霸らは、みな死んだ。賊は赦されないのを知り、堅守して降意なし。朝廷はこれを患い、日に中使を発して、魏王の継岌の東還を促す。繼岌は、中軍の精兵をもって、任圜を従え、李紹琛を討つ。利州に留まり、これを待つ。まだ東還しない。
李紹榮討趙在禮久無功,趙太據邢州未下。滄州軍亂,小校王景戡討定之,因自為留後;河朔州縣告亂者相繼。帝欲自征鄴都,宰相、樞密使皆言京師根本,車駕不可輕動,帝曰:「諸將無可使者。」皆曰:「李嗣源最為勳舊。」帝心忌嗣源,曰:「吾惜嗣源,欲留宿衛。」皆曰:「他人無可者。」忠武節度使張全義亦言:「河朔多事,久則患深,宜令總管進討;若倚紹榮輩,未見成功之期。」李紹宏亦屢言之,帝以內外所薦,久乃許之,甲寅,命嗣源將親軍討鄴都。
延州言綏、銀軍亂,剽州城。李紹榮は、趙在礼を討つが、久しく無功。趙太は、邢州に拠って、まだ下らず。滄州の軍は乱れる。小校の王景戡が、滄州をを討定して、みずから留後となる。河朔の州縣で、告乱する者が相い繼ぐ。
唐帝は、みずから鄴都を征したい。宰相と樞密使は、みな「京師は根本である。車駕は軽く動くな」という。唐帝「諸将で、鄴都を征せる者がいない」と。みな「李嗣源がもっとも勲旧である」と。唐帝は、内心は李嗣源を忌む。唐帝「私は李嗣源を惜しむ。宿衛に留めたい」と。みな「李嗣源でなければ、ムリ」と。
忠武節度使の張全義もいう。「河朔は多事で、長びけば患は深くなる。総管(李嗣源)に進討させろ。もし李紹栄のような輩をやれば、成功之期は見えない」と。李紹宏もまたいう。と婦帝は、内外が薦めるので、久しくして許す。
「内」とは李紹宏で、「外」とは張全義および在廷の臣である。甲寅、李嗣源に命じて、親軍をひきいて鄴都を討たせる。
延州は、「綏と銀の軍が乱れ、州城を剽む」という。
地理について、8964頁。
董璋將兵二萬屯綿州,會任圜討李紹琛。帝遣中使崔延琛至成都,遇紹琛軍,紹之曰:「吾奉詔召孟郎,公若緩兵,自當得蜀。」既至成都,勸孟知祥為戰守備。知祥浚壕樹柵,遣馬步都指揮使李仁罕將四萬人,驍銳指揮使李延厚將二千人討紹琛。延厚集其眾詢之曰:「有少壯勇銳,欲立功求富貴者東!衰疾畏懦,厭行陳者西!」得選兵七百人以行。董璋は、兵2万をひきい、綿州に屯する。たまたま任圜が、李紹琛を討つ。唐帝は、中使の崔延琛を成都につかわす。崔延琛は、李紹琛の軍を遭遇する。崔延琛はあざむく。「私は奉詔して、孟郎(孟知祥)を召す。
孟知祥の妻は、太祖の弟・李克譲の娘である。ゆえに孟郎とよぶ。むこのことを「郎」というのだ。もし、きみ(李紹琛)が兵を緩めるなら、おのずと(孟知祥が洛陽に還ったあとに)蜀地を得るだろう」と。
崔延琛が成都に至り、孟知祥に守戦の準備を薦める。孟知祥は、浚壕・樹柵する。馬步都指揮使の李仁罕に4万をつけ、驍銳指揮使の李延厚に2千をつけ、李紹琛を討つ。
胡三省はいう。すでに壕をほり、柵をたて、守城の備えをした。また重ねて兵をだした。兵がぶつかり、もし有利でなくとも、退いて守れる。孟知祥がはじめて西河に至り、その審慎はこのようである。
胡三省はいう。ときに前蜀の旧兵は、散ってしまった者がおおい。前蜀に攻め入った唐兵もまた、数千に過ぎない。李仁カンがひきいるのも、4万に満たない。さらに博く考えるべきだ。
延厚は、その軍衆を集めて詢える。「少壯・勇銳で、立功・富貴を求める者は東に。衰疾・畏懦、行陳に厭きる者は西に」と。兵7百を選んだ。
兵は多いよりも、精しいほうを貴ぶ。
是日,任圜軍追及紹琛於漢州,紹琛出兵逆戰;招討掌書記張□厲請伏精兵於後,以贏兵誘之,圜從之,使董璋以東川贏兵先戰而卻。紹琛輕圜書生,又見其兵贏,極力追之,伏兵發,大破之,斬首數千級。自是紹琛入漢州,閉城不出。この日、任圜の軍は、紹琛を漢州に追及する。紹琛は、出兵・逆戰する。招討掌書記の張[石厲]は、精兵を後ろに伏せて、贏兵を以て李紹琛を誘いたい。
郭崇韜が招討使となると、張レイを掌書記とした。郭崇韜が死に、継岌が任圜を招討副使とする。李紹琛を討つとき、張レイを幕属を以て従軍させた。任圜はこれに従う。董璋に、東川の贏兵を以て、先に戦わせて却した。紹琛は、任圜を書生だと軽んじる。また自軍の兵が勝つのを見て、力を極して追う。伏兵が發し、李紹琛を大破した。斬首は數千級。これより李紹琛は漢州に入り、閉城して出ず。
3月、鄴都の反兵が、李嗣源を河北の帝に推す
三月,丁已朔,李紹真奏克刑州,擒趙太等。庚申,紹真引兵至鄴都,營於城西北,以太等徇於鄴都城下而殺之。
辛酉,以威武節度副使王廷翰為威武節度使。3月の丁已ついたち、李紹真は「刑州に克ち、趙太らを擒えた」と奏した。庚申、李紹真は、兵をひいて鄴都にいたる。城の西北に軍営する。趙太らを、鄴都の城下に徇(したが)わせて殺す。
趙太の殺害は(鄴都で反している)皇甫暉らを懼れさせるには足らず。死守の心を固めさせてしまった。辛酉、威武節度副使の王廷翰を、威武節度使とする。
壬戌,李嗣源至鄴都,營於城西南;甲子,嗣源下令軍中,詰旦攻城。是夜,從馬直軍士張破敗作亂,帥眾大噪,殺都將,焚營舍。詰旦,亂兵逼中軍,嗣源帥親軍拒戰,不能敵,亂兵益熾。嗣源叱而問之曰:「爾曹欲何為?」對曰:「將士從主上十年,百戰以得天下。今主上棄恩任威,貝州戍卒思歸,主上不赦,云『克城之後,當盡坑魏博之軍』;近從馬直數卒喧競,遽欲盡誅其眾。我輩初無叛心,但畏死耳。今眾議欲與城中合勢擊退諸道之軍,請主上帝河南,令公帝河北,為軍民之主。」嗣源泣諭之,不從。壬戌、李嗣源は鄴都に至る。城の西南に営する。甲子、嗣源は軍中に下令し、詰旦に攻城せよという。この夜、從馬直軍士の張破敗が、作亂する。
日付について『考異』が8965頁。帥衆は大噪し、都將を殺し、營舍を焚く。詰旦に、亂兵は中軍に逼る。嗣源は、親軍を帥いて拒戰するが、敵わず。亂兵は、ますます熾んとなる。
乱に従う者が、いよいよおおい。嗣源は叱って乱兵に問う。「お前らはどうしたいのか」と。乱兵「將士は主上に従って10年。百戰して天下を得た。いま主上は、恩を棄て、威を任す。貝州の戍卒は、帰りたい。主上は赦さず。『克城の後、すべて魏博の軍を坑める』らしい。
皇甫暉らの言ったことだ。唐帝は皇甫暉らが降らないので怒って、「城に克った日には、1人を生かすな」と言っていた。近從馬直の数卒が喧競して、いきなり、配下の軍衆を誅する。
王温らの乱のこと。郭従謙は、王温が乱をしたのち、唐帝の言葉だとウソをつき、張破敗の乱心を扇動した。われらは当初は叛心がない。ただ死を畏れるのみ。いま衆議は、城中と合勢して、諸道之軍を擊退しようという。いまの唐帝を河南の帝とし、あなた(李嗣源)を河北の帝として、軍民之主としたい」と。
李嗣源は、中書令である。だから「公」と呼ばれる。嗣源は泣いて諭すが従わず。
嗣源曰:「爾不用吾言,任爾所為,我自歸京師。」亂兵拔白刃環之,曰:「此輩虎狼也,不識尊卑,令公去欲何之!」因擁嗣源及李紹真等入城,城中不受外兵,皇甫暉逆擊張破敗,斬之,外兵皆潰。趙在禮帥諸校迎拜嗣源,泣謝曰:「將士輩負令公,敢不惟命是聽!」嗣源詭說在禮曰:「凡舉大事,須藉兵力,今外兵流散無所歸,我為公出收之。」在禮乃聽嗣源、紹真俱出城,宿魏縣,散兵稍有至者。嗣源「きみは私の言葉を用いず、なすがままにするなら、私は京師に帰る」と。乱兵は白刃を拔き、嗣源を環む。乱兵「こいつらは虎狼である。尊卑を識らない。あなたは京師に去って、どうしようというか」と。
ぼくは思う。「やむなく即位させられた」という正統化のパターンである。李嗣源は、これを断っていたら、乱兵に殺された。それほど唐帝は人望を失っていた。という話である。乱兵は嗣源と李紹真らを擁して、鄴都に入城した。城中は外兵を受けない。皇甫暉は張破敗を逆擊して、これを斬った。
ぼくは思う。「乱兵」という集合名詞に、あえて名をつけるなら、この張破敗である。喋らせるなら、張破敗の名のもとに、セリフを書けば良いのか。
ぼくは思う。ギャグマンガみたいな名前。後唐には「張破敗」という人がいる。よほど負けるらしい。李嗣源に「皇帝に即位してくれないと、あなたを斬る」と白刃をぬいて詰めより、李嗣源の皇帝即位を「やむを得なかった」正統なものであると印象づけるためのキャラ。用済になり、すぐに斬られてしまう。名前どおり。外兵は、みな潰えた。趙在礼は諸校をひきい、嗣源を迎拜した。泣いて謝る。趙在礼「將士らは、あなたにそむく。
嗣源は、蕃漢馬歩軍総管統諸軍として、契丹をふせぐ。およそ河北の鎮兵は、みな嗣源に属する。だが魏兵が作乱して、嗣源にそむいた。あえて惟命是聽するな」と。嗣源は趙在礼に詭說する。「およそ大事を挙げるには、兵力を藉さねば。いま外兵は流散して、帰するところがない。私はあなたのために、城外に出て外兵を集めてこよう」と。趙在礼は、嗣源と紹真とともに、出城した。魏縣に宿する。散兵は、少しばかり集まる。
3月、任圜が李紹琛を捕らえ、蜀地を平定
漢州無城塹,樹木為柵。乙丑,任圜進攻其柵,縱火焚之,李紹琛引兵出戰於金雁橋,兵敗,與十餘騎奔綿竹,追擒之。孟知祥自至漢州犒軍,與任圜、董璋置酒高會,引李紹琛檻車至座中,知祥自酌大卮飲之,謂曰:「公已擁節旄,又有平蜀之功,何患不富貴,而求入此檻車邪!」紹琛曰:「郭侍中佐命功第一,兵不血刃取兩川,一旦無罪族誅;如紹琛輩安保首領!以此不敢歸朝耳。」魏王繼岌既獲紹琛,乃引兵倍道而東。漢州は、城塹がない。樹木を柵とする。乙丑、任圜はその柵に進攻して、縱火して焚く。李紹琛は、引兵して金雁橋で出戦するが、兵が敗れ、10餘騎とともに綿竹に奔る。追って擒える。
お騒がせの李紹琛は、ぶじに捕まりました。孟知祥は、漢州より至って犒軍する。任圜と董璋ともに、置酒・高會する。李紹琛の檻車をひき、座中に至る。知祥はみずから酌して、大卮して飲む。孟知祥は李紹琛にいう。「公はすでに節旄を擁する。また平蜀之功がある。なぜ富貴でないことを患いたか。この檻車に入ることを求めたか」と。李紹琛「郭侍中は、佐命功が第一。兵は血刃せず、両川を取った。だが、無罪で族誅された。紹琛の輩(私のようなもの)は、どうして首級を保てるか。これが敢えて歸朝しない理由だ」と。
ぼくは思う。郭崇韜を殺したせいで、蜀地にいる唐軍は、みんなが生命の不安にさらされ、ぐちゃぐちゃになった。むしろこれが「普通」であり、姜維と鍾会を片づけた司馬昭は、敏腕である。
孟知祥獲陝虢都指揮使汝陰李肇、河中都指揮使千乘侯弘實,以肇為牙內馬步都指揮使,弘實副之。蜀中群盜猶未息,知祥擇廉吏使治州縣,蠲除橫賦,安集流散,下寬大之令,與民更始。遣左廂都指揮使趙廷隱、右廂都指揮使張業將兵分討群盜,悉誅之。孟知祥は、陝虢都指揮使する汝陰の李肇と、河中都指揮使する千乘の侯弘實をとらえた。李肇を、牙內馬步都指揮使とする。侯弘実をその副使とする。
李肇らを孟知祥のために用いる張本である。蜀中の群盜は、なお息まず。知祥は、廉吏を擇び、州縣を治めさせる。橫賦をのぞき、流散をあつめる。
ぼくは思う。[益蜀]という漢字がある。へんが「益」で、つくりが「蜀」で、動物の「やすで」もしくは動詞の「のぞく」。益州は蜀地ですねw いまは「のぞく」の用法でした。寬大之令を下し、民とともに更始する。
孟知祥はすでに蜀地に拠る規摹がある。左廂都指揮使の趙廷隱と、右廂都指揮使の張業に、兵をひきい、分かれて群盜を討たせ、すべて誅する。
3月、李嗣源が鄴都のそばで、兵を集め直す
李嗣源之為亂兵所逼也,李紹榮有眾萬人,營於城南,嗣源遣牙將張虔釗、高行周等七人相繼召之,欲與共誅亂者。紹榮疑嗣源之詐,留使者,閉壁不應。及嗣源入鄴都,遂引兵去。嗣源在魏縣,眾不滿百,又無兵仗;李紹真所將鎮兵五千,聞嗣源得出,相帥歸之,由是嗣兵稍振。嗣源泣謂諸將曰:李嗣源は乱兵に逼られたころ。李紹榮は軍衆が1万人いて、城南に営する。李嗣源は、牙將の張虔釗と高行周ら7人をやり、相い継いで李紹栄を召す。李嗣源は李紹栄とともに(李紹栄の兵力を使って)乱者を誅したい。李紹栄は、李嗣源の詐りを疑い、使者を留め、閉壁して応じず。
嗣源が鄴都に入ると、ついに李紹栄は兵をひいて去る。嗣源は魏県にいて、衆は1百に満たず。また兵仗もない。
ぼくは補う。李嗣源が連れてきた兵は、鄴都の外で散らかってしまった。だから李嗣源は、兵を持っていない。脅されて鄴都に入り、なかで皇帝に仰がれている。変なの。この異常事態を引き起こしたのは、唐帝が将士を殺しまくるからだ。将士は、李嗣源レベルのトップを頂かねば秩序を保てないが、そのためには李嗣源を脅すしかない。やっぱり、変なの。梁唐革命の慌ただしさと、唐帝の皇帝病のせいだろう。李紹真は、鎮兵5千をひきいる。
鎮兵とは、鎮州の兵である。李嗣源は、もとは鎮州に鎮する。その鎮州の兵をひきいて、帰るのだ。李嗣源が鄴都を出られたと聞き、相帥して歸する。これにより、嗣源の兵は、ようやく振るった。嗣源は泣いて諸将にいう。
「吾明日當歸籓,上章待罪,聽主上所裁。」李紹真及中門使安重誨曰:「此策非宜。公為元帥,不幸為凶人所劫;李紹榮不戰而退,歸朝必以公藉口。公若歸籓,則為據地邀君,適足以實讒慝之言耳。不若星行詣闕,面見天子,庶可自明。」嗣源曰:「善!」丁卯,自魏縣南趣相州,遇馬坊使康福,得馬數千匹,始能成軍。福,蔚州人也。李嗣源「私は明日には(鎮州に)歸籓して、上章して罪を待つ。主上の裁きを聴く」と。李紹真と、中門使の安重誨がいう。「この策は宜しくない。あなたは元帥となり、不幸にして凶人に劫された。李紹栄は戦わずに退いた。歸朝したら、必ずあなたを藉口とする。
李紹栄は必ず天子に奏するだろう。「自分が軍を退いた理由は、李嗣源が魏城=鄴都に入って、賊と合わさったからだ」と。
ぼくは補う。李紹栄の保身のための「ウソ」が原因で、李嗣源は叛逆を問われる。洛陽に帰ったら、死ぬしかない。しかし、李嗣源がどこまで「無抵抗で」「やむなく」魏城に入ったのか、よく分からんよね。李嗣源が明宗として君臨する期間は、天下が安定した。史料の整備とか、過去の読み換えとか、盛んに行うヒマがあった。もし李嗣源が帰藩したら、『地に拠り、君に邀した(割拠して独立するつもりだ)』と讒慝之言を受けてしまう。星行(星を戴せて)詣闕し、天子に面見し、自らを明らかにするのがよい」と。嗣源「よし」と。
丁卯、魏縣より南して、嗣源は相州にゆく。馬坊使の康福と遭遇し、馬を數千匹もらい、軍を編成できた。康福は、蔚州の人。後唐は太原から出発し、并州や代州に馬の牧場をつくる。唐帝は、河上で後梁と戦い、馬牧を相州におく。康福を、小馬坊使にして、馬牧を鎮させた。けだし、并州と代州には、大馬坊がある。大唐の内諸司には、小馬坊使があるが、宦官がつき、後唐の馬坊とはちがう。嗣源が魏県をはなれ、康福は相州にいたから、嗣源のもとに駆けつけたか。
平盧節度使符習將本軍攻鄴都,聞李嗣源軍潰,引兵歸。至淄州,監軍使楊希望遣兵逆擊之,習懼,復引兵而西。青州指揮使王公儼攻希望,殺之,因據其城。
時近侍為諸道監軍者,皆恃恩與節度使爭權,及鄴都軍變,所在多殺之。安義監軍楊繼源謀殺節度使孔勍,勍先誘而殺之。武寧監軍以李紹真從李嗣源,謀殺其元從,據城拒之;權知留後淳於晏帥諸將先殺之。晏,登州人也。
戊辰,以軍食不足,敕河南尹豫借夏秋稅;民不聊生。平盧節度使の符習は、本軍をひきいて鄴都を攻める。李嗣源の軍が潰えたと聞き、引兵して歸る。符習は淄州に至り、監軍使の楊希望に逆擊された。符習は懼れ、また引兵して西する。青州指揮使の王公儼が、楊希望を攻め殺す。王公儼は、楊希望の城に拠る。
平廬節度は、青州を治所とする。青州に拠ったのだ。ときに唐帝の近侍は、諸道の監軍者となる。みな唐帝の恩を恃み、節度使と爭權する。鄴都の軍が變じ、多くの監軍者が殺された。安義監軍の楊繼源は、節度使の孔勍を殺そうと謀る。孔勍は先に誘って、楊継源を殺した。武寧監軍は、李紹真をもって李嗣源に従う。その元從を謀殺して、據城して拒る。
「元従」とは、もと李紹真に従っていた将士のこと。いわゆる義故。李紹真は、ときに李嗣源に従う。監軍は、李紹真の元従のうち、彭城に留まる者を殺そうとした。權知留後の淳於晏は、諸将を帥して先に監軍を殺す。淳於晏は、登州の人。
戊辰、軍食が足らず。河南尹の豫借に、夏秋稅をとれと敕する。民は生を聊せず。
忠武節度使、尚書令齊王張全義聞李嗣源入鄴都,憂懼不食,辛未,卒於洛陽。忠武節度使・尚書令する齊王たる張全義は、李嗣源が鄴都に入ったと聞き、憂懼して食わず。辛未、洛陽で張全義は卒した。
張全義の憂死は、彼が李嗣源に北討させよと薦めた(責任を感じた)から。
◆劉皇后が財政の改革を妨害する
租庸使以倉儲不足,頗朘刻軍糧,軍士流言益甚。宰相懼,帥百官上表言:「今租庸已竭,內庫有餘,諸軍室家不能相保,儻不賑救,懼有離心。俟過凶年,其財復集。」上即欲從之,劉後曰:「吾夫婦君臨萬國,雖藉武功,亦由天命。命既在天,人如我何!」宰相又於便殿論之,後屬耳於屏風後,須臾,出妝具及三銀盆、皇幼子三人於外曰:「人言宮中蓄積多,四方貢獻隨以給賜,所餘止此耳,請鬻以贍軍!」宰相惶懼而退。租庸使は、倉儲が足りないので、ひどく軍糧を朘刻(縮減)する。軍士の流言は、ますますひどい。宰相は懼れ、百官を帥して上表した。
宰相「いま租庸は、すでに竭する。内庫は余りがある。諸軍の室家は、相い保てない。もしも賑救しなければ、離心を懼れる。凶年が過ぎるのを待ち、その財をまた集めよう」と。唐帝はこれに従いたい。だが劉皇后はいう。「わが夫婦は、萬國に君臨する。武功を藉すが、また天命に由りもする。命はすでに天にある。人が私をどうにかできるものか」と。
殷紂は天に命を責めた。殷紂が亡びたが、妲己が天命について言ったとは聞かない。ぼくは補う。劉皇后が天命について口出す状況は、殷紂よりも悪いと言っているのだろう。宰相が財政の改善を言っているのに、皇后は「改善しなくても、天命が財政をどうにかしてくれる」と、開き直っている。宰相は、また便殿でこれを論じる。のちに皇后は屏風の後ろで聞き耳をたて、須臾にして、妝具および三銀盆を出す。
皇幼子3人は外でいう。「人は宮中に蓄積が多いという。だが四方の貢獻は、収入のたびに給賜するから、余ったものが宮中に止まるだけ(宮中に備蓄はない)。宮中にある者を売り払い、軍に贍したい」と。宰相は惶懼して退く。胡三省はいう。劉皇后は、金宝をたくわえ、馬の鞍をつなぐときに(国家のために支出するときに)すべて内庫に積んだままにしようとした。
李紹栄に妨げられ、嗣源が自立を決心
李紹榮自鄴都退保衛州,奏李嗣源已叛,與賊合。嗣源遣使上章自理,一日數輩。嗣源長子從審為金槍指揮使,帝謂從審曰:「吾深知爾父忠厚,爾往諭朕意,勿使自疑。」從審至衛州,紹榮囚,欲殺之。從審曰:「公等既不亮吾父,吾亦不能至父所,請復還宿衛。」乃釋之。帝憐從審,賜名繼璟,待之如子。是後嗣源所奏,皆為紹榮所遏,不得通,嗣源由是疑懼。李紹榮は、鄴都より退いて衛州を保つ。「李嗣源がすでに叛して、賊と合わさる」という。嗣源は、使者をやって、自理を上章する。1日に数人がくる。嗣源の長子・李従審は、金槍指揮使となる。
荘宗=李存勗が魏州を得ると、魏州の銀槍軍に、帳前銀槍都を置いた。のちに金槍軍を置いた。唐帝は李従審にいう。「私はきみの父(嗣源)の忠厚を深く知る。きみは行って、父に朕の意を諭せ。自疑させるな」と。
李従審は衛州に至り、李紹栄に囚われ、殺されそう。
李従審「あなたらは、すでにわが父を亮さず(信じず)。また私は(李紹栄に妨げられ)父のところに至れない。宿衛に還してほしい」と。李紹栄は釋す。唐帝は李従審を憐れみ、「李継璟」の名を賜い、子のように待遇した。のちに嗣源が奏するが、みな李紹栄に遏され、洛陽に通じない。嗣源はこれにより疑懼した。
ぼくは思う。李紹栄は、自分の敗戦の責任が明らかになるのを嫌って、李嗣源になすりつけた。そのついでに、李嗣源と唐帝の連絡を遮断した。李嗣源の離叛は、李紹栄の保身のせいである。という説明が成り立つように、『資治通鑑』が作られている。
石敬瑭曰:「夫事成於果決而敗於猶豫,安有上將與叛卒入賊城,而他日得保無恙乎!大梁,天下之要會也,願假三百騎先往取之;若幸而得之,公宜引大軍亟進,如此始可自全。」突騎都指揮使康義誠曰:「主上無道,軍民怨怒,公從眾則生,守節必死。」嗣源乃令安重誨移檄會兵。義誠,代北胡人也。石敬瑭「夫れ、事は果決に成る。敗は猶豫である。どうして上將と叛卒が賊城(鄴都)に入って、他日に自らを保ち、恙なくいられようか。大梁は、天下の要會である。
胡三省はいう。大梁は、黄河と汴水を控引する。南は淮水と泗水に通じる。北は滑州と魏州に接する。水軍が集まれる。大梁は旧都である。ゆえに石敬瑭は、これをいう。
ぼくは思う。李嗣源は、意思はどうあれ(なんだか怪しいけど)賊に脅されて、不本意ながら鄴城に入ってしまった。反乱に見える。申し開きも、李紹栄に妨害されて、ままならない。こうなった以上、もう反乱を起こしちゃえよ、と石敬瑭はいうのだ。3百騎を仮してくれ。先に大梁を取ってくる。もし幸いにして私が大梁を取れたら、嗣源は大軍をひき、急いで進め。こうすれば始めて自全できる」と。
大梁に拠れば、洛陽に逼る。嗣源が自らを全うできるが、唐帝は全うしにくい。石敬瑭は、察察の言をにくみ(唐帝が苦しくなっても構わないと考え)これを言った。突騎都指揮使の康義誠はいう。「主上は無道である。軍民は怨怒とする。嗣源は、衆に従えば生き、節を守れば死ぬ」と。嗣源は、安重誨に移檄・會兵させる。康義誠は、代北の胡人である。
胡人の言うことは率直なので、その発言は見るべきである。康義誠が、明宗=嗣源に親任される張本である。
ぼくは思う。李嗣源の「謀反」を、言い訳するための史料である。やはり後唐の史料や「公式見解」は、明宗=李嗣源を基準にして、整備されたみたい。李存勗は、その前ぶれを務めた、やられキャラ。戦場で突っこむだけの暗君。
時齊州防禦使李紹虔、泰寧節度使李紹欽、貝州刺史李紹英屯瓦橋,北京右廂馬軍都指揮使安審通屯奉化軍,嗣源皆遣使召之。紹英,瑕丘人,本姓房,名知溫;審通,金全之侄也。嗣源家在真定,虞候將王建立先殺其監軍,由是獲全。建立,遼州人也。ときに齊州防禦使の李紹虔(王晏球)と、泰寧節度使の李紹欽(段凝)と、貝州刺史の李紹英(房知温)は、瓦橋に屯する。北京右廂馬軍都指揮使の安審通は、奉化軍に屯する。
軍と州の変遷について、8969頁。嗣源は、彼らに使いして召した。李紹英は、瑕丘の人で、房知溫である。安審通は、金全之のおいである。
安金全には、梁兵を卻(しりぞ)け、晋陽を全うした功績がある。嗣源の家は、真定にある。
李厳は真定に鎮して、洛陽に入朝した。その家は真定に留まる。虞候將の王建立は、先にその監軍を殺して、全を獲た。王建立は、遼州の人。
嗣源の(家を守る)ために、王建立が真定に鎮する張本である。
李從珂自橫水將所部兵由盂縣趣鎮州,與王建立軍合,倍道從嗣源。嗣源以李紹榮在衛州,謀自白皋濟河,分三百騎使石敬瑭將之前驅,李從珂為殿,於是軍勢大盛。嗣源從子從璋自鎮州引軍而南,過邢州,邢人奉為留後。李從珂は、橫水より部兵をひきいて、盂縣により、鎮州にゆく。
李従珂が横水を守るのは、同光3年にある。孟県について、8970頁。王建立の軍と合わさる。倍道して嗣源に従う。
嗣源は、李紹榮が衛州にいるので、白皋から濟河を謀る。三百騎を分けて、石敬瑭に前驅させる。李從珂が殿軍をする。ここにおいて、嗣源の軍勢は大いに盛んとなる。
嗣源の從子・李従璋は、鎮州より軍を引き、南する。邢州を過ぎる。邢人は、李従璋を奉って留後とする。けだし河北は、すべて嗣源に従った。
癸酉,詔懷遠指揮使白從暉將騎兵扼河陽橋,帝乃出金帛給賜諸軍,樞密宣徽使及供奉內使景進等皆獻金帛以助給賜。軍士負物而詬曰:「吾妻子已殍死,得此何為!」甲戌,李紹榮自衛州至洛陽,帝如鷂店勞之。紹榮曰:「鄴都亂兵已遣其黨翟建白據博州,欲濟河襲暉、汴,願陛下幸關東招撫之。」帝從之。癸酉、懷遠指揮使の白從暉に詔して、騎兵をひきいて、河陽橋を扼する。
李嗣源が、懐県や孟県から、洛陽を犯すのを恐れたのだ。唐帝は、金帛を出して、諸軍に給賜する。樞密宣徽使および供奉内使の景進らは、みな金帛を献じて、給賜を助ける。軍士は物を負って詬る。「わが妻子は、すでに殍死した。いま金帛をもらっても、もう遅い」と。
ぼくは思う。劉皇后が出し惜しみをするから、軍士は妻子を殺すことになり、唐帝のために働いてくれなくなった。
胡三省はいう。事態がここに至り、唐帝および近臣は、財物を守れないと知った。ぼくは思う。どうせ守れないから、軍士にバラまいた。その財物で恩を着せて、自分たちを李嗣源から守らせようとした。
甲戌、李紹榮は衛州から洛陽に至る。唐帝は鷂店(耀店)にゆき、李紹栄をねぎらう。李紹栄「鄴都の亂兵は、すでにその党の翟建白を博州に拠らせる。黄河を渡って、暉州と汴州を襲いそう。陛下は関東(汜水関の東)に幸して、招撫してくれ」と。唐帝はこれに従う。
李紹栄は、趙在礼がつかわした兵についていう。ことに李嗣源が、すでに汴州を定める計画があることは知らない。
唐帝が嗣源を抑えるために、関東にゆく
景進等言於帝曰:「魏王未至,康延孝初平,西南猶未安;王衍族黨不少,聞車駕東征,恐其為變,不若除之。」帝乃遣中使向延嗣繼敕往誅之,敕曰:「王衍一行,並從殺戳。」已印畫,樞密使張居翰覆視,就殿柱揩去「行」字,改為「家」字,由是蜀百官及衍僕役獲免者千餘人。延嗣至長安,盡殺衍宗族於秦川驛。衍母徐氏且死,呼曰:「吾兒以一國迎降,不免族誅,信義俱棄,吾知汝行亦受禍矣!」景進らは唐帝にいう。「魏王の継岌は、まだ至らず。康延孝は初めて(前蜀を)平らげたばかりで、西南はまだ不安である。王衍(蜀主)の族黨は少なくない。車駕が東征したと聞けば、変をなすのを恐れる。王衍を除くのがよい」と。唐帝は、中使の向延嗣に敕して、王衍を誅する。唐帝の敕「王衍の一行は、あわせて殺戳に従え」と。すでに印畫する。樞密使の張居翰が覆して視た。殿柱に就き(身を隠して)「行」字を揩去して、「家」字に改めた。
ぼくは補う。殺す対象が「王衍の一行は」から「王衍の一家は」という敕に改竄された。王衍と血縁のない、洛陽に送られてきている蜀臣は、殺されずにすんだ。これにより、前蜀の百官および、王衍の僕役は、1千余人が死なずにすんだ。向延嗣は長安に至り、王衍の宗族を秦川驛で全殺した。王衍の母・徐氏が死ぬとき、さけぶ。「わが児は、一国をもって迎降したが、族誅を免れず。信義は俱に棄てられた。私はお前ら(唐帝)が受禍すると分かっている」と。
ぼくは思う。前蜀は、この捨て台詞を唐帝に聴かせ、唐帝の滅亡の伏線となるだけがために、建国され、滅亡させられたように見える。ちょっと単純化しすぎだけど。
乙亥,帝發洛陽;丁丑,次汜水;戊寅,遣李紹榮將騎兵循河而東。李嗣源親黨從帝者多亡去;或勸李繼璟宜早自脫,繼璟終無行意。帝屢遣繼璟詣嗣源,繼璟固辭,願死於帝前以明赤誠。帝聞嗣源在黎陽,強遣繼璟渡河召之,道遇李紹榮,紹榮殺之。
乙亥、唐帝は洛陽を発する。丁丑、汜水に次ぐ。戊寅、李紹榮に騎兵をつけ、河を循って、東させる。李嗣源の親党は、唐帝に従って亡去する者がおおい。或者が李継璟(嗣源の子)に、早く自ら唐帝の軍を脱せよという。李継璟は、ついに脱する意思がない。唐帝はしばしば、李継璟を嗣源のもとに行かせたい。李継璟は固辞して、唐帝の前で死んで、赤誠(赤心の実)を明らかにしたい。唐帝は、嗣源が黎陽にいると聞き、強いて李継璟に渡河させ、嗣源を召す。道で李紹栄に遭い、李継璟は殺された。
胡三省はいう。このとき嗣源を召しても、嗣源は唐帝のもとに来なかっただろう。李継璟は唐帝につかえて死に、嗣源に謀反の意図がないことを明らかにした。
ぼくは思う。李紹栄が、嗣源と唐帝の距離をとらせたのは、ほんとうに王朝にとって損失だなあ。李継璟の美談をつくるために、李紹栄が実態以上の悪役にされてる印象もあるけど。
呉越の銭鏐が病気になり、呉国の徐温が窺う
吳越王鏐有疾,如衣錦軍,命鎮海、鎮東節度使留後傳瓘監國。吳徐溫遣使來問疾,左右勸鏐勿見,鏐曰:「溫陰狡,此名問疾,實使之覘我也。」強出見之。溫果聚兵欲襲吳越,聞鏐疾瘳而止。鏐尋還錢塘。
吳以右僕射、同平章事徐知誥為待中,右僕射嚴可求兼門下侍郎、同平章事。吳越王の銭鏐は有疾である。衣錦軍にゆき、鎮海・鎮東節度使留後の銭傳瓘に、監國を命じる。呉国の徐温は、使者をやって銭鏐の問疾をする。左右は銭鏐に「使者に会うな」という。銭鏐「徐温は陰狡である。問疾の名目で、私を覗きにきている」と。強いて出て、使者に会う。徐温は果たして、聚兵して吳越を襲いたい。銭鏐の疾瘳を聞いて止めた。
史書はいう。銭鏐と徐温の智力は互角で、たがいに相手を制することができない。銭鏐は錢塘に還る。
呉国の右僕射・同平章事の徐知誥を、待中とする。右僕射の厳可求を、兼門下侍郎・同平章事とする。
嗣源が大梁を奪い、唐帝は洛陽の周りで孤立
庚辰,帝發汜水。
辛已,李嗣源至白皋,遇山東上供絹數船,取以賞軍。安重誨從者爭舟,行營馬步使陶□斬以徇,由是軍中肅然。□,許州人也。嗣源濟河,至滑洲,遣人招符習,習與嗣源會於胙城,安審通亦引兵來會。知汴州孔循遣使奉表西迎帝,亦遣使北輸密款於嗣源,曰:「先至者得之。」庚辰、唐帝は汜水を発する。
辛已、李嗣源は白皋に至る。山東の絹を上供する數船とあい、絹をうばって軍に(配分して)賞与とする。
けだし、青州や兗州が、黄河をさかのぼって、唐帝に絹を届けるための舟だった。安重誨の従者は舟を争う。行營馬步使の陶[王已]は、斬って徇する。これにより、軍中は肅然とする。陶[王已]は、許州の人。
嗣源は濟河して、滑洲に至る。人をやり、符習を招く。符習は、嗣源とともに胙城で会する。安審通もまた、引兵・來會する。
知汴州の孔循は、使者に奉表させ、西して唐帝を迎える。また孔循の使者は北して、密款を嗣源に輸する。「先に至った者(唐帝か嗣源か)が、これ(汴州=大梁)を得る」と。
先是,帝遣騎將滿城西方鄴守汴州;石敬瑭使裨將李瓊以勁兵突入封丘門,敬瑭踵其後,自西門入,遂據其城,西方鄴請降。敬瑭使人趣嗣源;壬午,嗣源入大梁。是日,帝至滎澤東,命龍驤指揮使姚彥溫將三千騎為前軍,曰:「汝曹汴人也,吾入汝境,不欲使它軍前驅,恐擾汝室家。」厚賜而遣之。彥溫即以其眾叛歸嗣源,謂嗣源曰:「京師危迫,主上為元行欽所惑,事勢已離,不可復事矣。」嗣源曰:「汝自不忠,何言之悖也!」即奪其兵。指揮使潘環守王村寨,有芻粟數萬,帝遣騎視之,環亦奔大梁。これより先、唐帝は騎將である滿城の西方鄴に、汴州を守らせる。石敬瑭は、裨將の李瓊が勁兵なので、封丘門に突入させた。石敬瑭はその後ろにつづき、西門より入る。ついに石敬瑭は、汴州=大梁の城に拠る。西方鄴は請降した。
ぼくは補う。唐帝の部将である西方鄴が、嗣源の部将である石敬瑭に降伏した。汴州が、唐帝から嗣源にうつった。石敬瑭は李嗣源に使者をだす。壬午、嗣源は大梁に入った。
この日、唐帝は滎澤の東に至る。
滎澤は、西北して泗水から45里はなれる。龍驤指揮使の姚彦温に命じて、3千騎で前軍とする。唐帝「お前は汴人である。
龍驤軍は、後梁の旧兵である。もとは、みな汴人。私がきみの国の境界に入るなら、他軍に前駆させたくない。きみの室家を擾すことを恐れるから」と。姚彦温に厚賜してゆかす。姚彦温は、その軍衆が叛して嗣源に帰したので、嗣源にいう。姚彦温「京師は危迫する。主上は、元行欽(李紹栄)に惑わされ、事勢はすでに離である。事を復せない」と。嗣源「お前は自ら不忠をやる。なんと道理にもとることを言うのだ」と。ただちに姚彦温の兵を奪う。
指揮使の潘環は王村寨を守る。芻粟が數萬ある。唐帝は騎兵に視察させる。潘環もまた、大梁に奔る。
帝至萬勝鎮,聞嗣源已據大梁,諸軍離叛,神色沮喪,登高歎曰:「吾不濟矣!」即命旋師,是夜復至汜水。帝之出關也,扈從兵二萬五千,及還,已失萬餘人,乃留秦州都指揮使張唐以步騎三千守關。癸未,帝還過罌子谷,道狹,每遇衛士執兵仗者,輒以善言撫之曰:「適報魏王又進西川金銀五十萬,到京當盡給爾曹。」對曰:「陛下賜已晚矣,人亦不感聖恩!」帝流涕而已。又索袍帶賜從官,內庫使張容哥稱頒給已盡,衛士叱容哥曰:「致吾君失社稷,皆此閹豎輩也。」抽刀逐之;或救之,獲免。容哥謂同類曰:「皇后吝財致此,今乃歸咎於吾輩;事若不測,吾輩萬段,吾不忍待也!」因赴河死。唐帝は、萬勝鎮に至る。
万勝鎮は、中牟県にある。東に大梁を距ぎ、数十里に過ぎない。李嗣源がすでに大梁に拠ると聞き、諸軍は離叛した。神色は沮喪する。登高して歎じた。唐帝「吾は濟らざるかな」と。即ち旋師を命じる。この夜、また汜水に至る。唐帝が出關するや、扈從の兵は25千。還るとき、すでに1万余人を失う。秦州都指揮使の張唐を留め、步騎3千で守關させる。
癸未、唐帝は還って罌子谷(成皋であり、汜水県の西)を過ぎる。道が狹く、衛士のうち兵仗を執る者に遭うごとに(唐帝が衛士に)善言して撫する。
唐帝「魏王に報せるか、また西川に進めるかすれば、金銀50萬をあげよう。京に至れば、財産をすべてあげよう」と。衛士「陛下の賜わりものは、すでに遅い。人はもう聖恩を感じない」と。唐帝は流涕して已めた。袍帶を索し、從官に賜わる。内庫使の張容哥は、頒給がすでに尽きたという。衛士は張容哥を叱した。
内庫使は、また荘宗(いまの唐帝)が置いた、内諸司の1つ。衛士「わが君が社稷を失うに到ったのは、みな閹豎の輩のせいだ」と。抽刀して、宦官を逐う。或者は救われ、獲を免れた。張容哥は、同類にいう。「皇后の吝財は、このようである。いま咎を我らのせいにした。事がもし測らざれば、我らは萬段であり、待に忍びない」と。張容哥は、河に赴いて死んだ。
衛士は、禍いの源を宦官とする。とくに張容哥のせいだとは言わない。張容哥は、ついに先に黄河に飛び込んで死んだ。けだし張容哥は、自分が内庫使であり、倉庫に備蓄があるのに出し惜しみして、諸軍からこれが罪と判断されると考えた。ゆえに先んじて自決したのだ。
甲申,帝至石橋西,置酒悲涕,謂李紹榮等諸將曰:「卿輩事吾以來,急難富貴靡不同之;今致吾至此,皆無一策以相救乎!」諸將百餘人,皆截發置地,誓以死報,因相與號泣。是日晚,入洛城。
李嗣源命石敬瑭將前軍趣汜水收撫散兵,嗣源繼之;李紹虔、李紹英引兵來會。
丙戌,宰相、樞密使共奉:「魏王西軍將至,車駕宜且控扼汜水,收撫散兵以俟之。」帝從之,自出上東門閱騎兵,戒以詰旦東行。甲申、唐帝は石橋(洛陽の東)の西に至る。置酒・悲涕する。李紹榮ら諸将にいう。「きみらは私に仕えて以来、難を急し、富貴は同じでないことがない。いま私はこの状況となり、みな一策を発案して、私を救わないのか」と。諸將は百餘人、みな截發・置地して、死を以て報いると誓う。ともに號泣しあう。
この日の晩、洛城に入る。
李嗣源は石敬瑭に命じ、前軍をひきいて、汜水にゆかせ、後唐の散兵を收撫する。嗣源はつづく。
胡三省はいう。嗣源は河北にあるとき、奏章して、元行欽によって壅遏された(留められた)。いまの状況のことを、元行欽は言ったのだ。
胡三省はいう。黄河をわたり、大梁に拠り、唐帝はかつて万勝鎮にいたる。君臣は相い望み、数十里の間隔しかなかった(唐帝の配下がいっぱいいた)。すでに陳情の上奏もなく、また迎候する騎兵もない。唐帝が還り、ただ兵を西に連れるだけ。どうするつもりか。
李紹虔と李紹英は、引兵・來會する。
李紹虔と李紹英は、瓦橋より引兵して、嗣源についてゆく。のちに、大梁で嗣源と会する。丙戌、宰相と樞密使は、共に奉する。「魏王(唐帝の子・継岌)の西軍は、至りそう。車駕は、汜水を控扼せよ。散兵を收撫して俟て」と。唐帝は従う。上東門より出て、騎兵を閱する。戒めて、詰旦に東行する。130912
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