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- 孔明の巻
青空文庫より、曹丕の登場シーンだけ、コピペします。
野に真人あり
亡国の最後をかざる忠臣ほど、あわれにも悲壮なものはない。
審配の忠烈な死は、いたく曹操の心を打った。
「せめて、故主の城址に、その屍かばねでも葬ってやろう」
冀州の城北に、墳を建て、彼は手厚く祠まつられた。
建安九年の秋七月、さしもの強大な河北もここに亡んだ。冀州の本城には、曹操の軍馬が充満した。
曹操の嫡子曹丕は、この時年十八で、父の戦に参加していたが、敵の本城が陥るとすぐ随身の兵をつれて城門の内へ入ろうとした。
当然、落城の直後とて、そこは遮断されている。番の兵卒が、
「待てっ、どこへ行くか。――丞相のご命令だ。まだ何者でも、ここを通ってはならん」
と、さえぎった。
すると曹丕の随臣は、「御曹司のお顔を知らんか」と、あべこべに叱りとばした。
城内はまだ余燼濛々と煙っている。曹丕は万一、残兵でも飛びだしたらと、剣を払って、片手にひっさげながら、物珍しげに、諸所くまなく見て歩いていた。
すると、後堂のほの暗い片隅に、一夫人がその娘らしい者を抱いてすくんでいた。紅の光が眼をかすめた。珠や金釵(きんさい)が泣きふるえているのである。
「――誰だっ?」
曹丕も足をすくめた。
かすかな声で、
「妾は、袁紹の後室劉夫人です。むすめは、次男の袁煕の妻……」
と、眸に、憐れを乞うように告げた。
なお問うと、袁煕は遠くへ逃げたという。――曹丕はつと寄って、むすめの前髪をあげて見た。そして自分の錦袍の袖で、娘の容顔をふいてやった。
「ああ! これは夜光の珠だ」
曹丕は、剣を拾いとって、舞わんばかりに狂喜した。そして自分は曹操の嫡男であると二女に明かして、
「助けてやる! きっと一命は守ってやる! もう慄えなくともいい」と云いわたした。
その時、父の曹操は、威武堂々、ここへ入城にかかっていた。すると、彼の郷里の旧友で、黄河の戦いから寝返りしてついていた例の許攸が、いきなり前列へ躍りだして、
「いかに阿瞞。もしこの許攸が、黄河で計を授けなかったら、いくら君でも、今日この入城はできなかっただろう」
と、鼻高々、鞭をあげて、いいつけられもしないのに一鼓六足の指揮をした。
曹操は非常に笑って、
「そうだそうだ。君のいう通りである」と、彼の得意をなお煽った。
城門からやがて府門へ通るとき、曹操は何かで知ったとみえ、番兵に詰問した。
「予の前に、ここを通過した者は誰だ! 何奴か!」
番の将士は戦慄して、
「世子でいらせられます」
と、ありのまま答えると、曹操は激色すさまじく、
「わが世子たりとも軍法をみだすにおいては、断乎免じ難い。荀攸、郭嘉、其方どもはすぐ曹丕を召捕ってこい。斬らねばならん」
郭嘉は諫めて、世子でなくて誰がよく城中を踏み鎮めましょうといった。曹操は救われたように、
「むむ、それも一理ある」
と不問に付して馬をおり、階を鳴らして閣内へ通った。
劉夫人は、彼の脚下に拝して、曹丕の温情を嬉し泣きしながら告げた。曹操はふと、娘の甄氏を見て、その天麗の美質に愕きながら、
「なに。曹丕が。そんな優しい情を示したというか。それは怖らくこの娘が嫁に欲しいからだ。曹丕の恩賞には、これ一つで足りよう。他愛のないやつではある」
粋な父の丞相は、冀州陣の行賞として、甄氏を彼に賜わった。
食客
北方攻略の業はここにまず完成を見た。
次いで、曹操の胸に秘められているものは、いうまでもなく、南方討伐であろう。
が、彼は、冀州城の地がよほど気に入ったとみえて、ここに逗留していること久しかった。
一年余の工を積んで、漳河の畔ほとりに銅雀台を築いた。その宏大な建物を中心に、楼台高閣をめぐらして、一座の閣を玉龍と名づけ、一座の楼を金鳳ととなえ、それらの勾欄から勾欄へ架するに虹のように七つの反橋をもってした。
「もし老後に、閑を得たら、ここに住んで詩でも作っていたい」
とは、父としての彼が、次男の曹子建にもらした言葉だった。
曹操の一面性たる詩心――詩のわかる性情――をその血液からうけついだ者は、ほかに子も多いが、この次男だけだった。
で、曹操は、日ごろ特に、彼を愛していたが、自分はやがて都へ還らなければならない身なので、「よく兄に仕えて、父が北方平定の業を、空しくするなよ」と訓え、兄の曹丕と共に鄴城へとどめて、約三年にわたる破壊と建設の一切を完了し、兵雲悠々と許都へひきあげた。
まず久しぶりに参内して、天子に表を捧げ、朝廟の変りない様をも見、つづいて大規模な論功行賞を発表した。また郭嘉の子郭奕を取り立てなどして、帰来、宰相としての彼は、陣中以上、政務に繁忙であった。
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- 図南の巻
鵞毛(がもう)の兵
昨夜の雪辱を期してであろう。夜が明けるとともに、張遼は一軍を引いて、呉の陣へ驀然、攻勢に出てきた。
「きょうこそは、華々と」
呉の凌統も、手に唾してそれをむかえた。甘寧が昨夜すばらしい奇功を立てて、君前のお覚えもめでたいことは、もう耳にしている。で、勃然、(彼如きに負けてなろうか)という日頃の面目も、今日の彼には、充分意中にある。漠々とけむる戦塵の真先に、張遼のすがた、その左右に、李典、楽進など、呉の兵を蹴ちらし蹴ちらし馳け進んできた。
凌統は、馬上、刀をひっさげて、疾風のように斜行し、
「来れるは、張遼か」
と、斬りつけた。
「おれは、楽進だ」
とその者は、槍をひねって、直ちに応戦してきた。
人違いか――と、舌打ちしたが、もうほかを顧みるいとまもない。楽進を相手に、五十余合も戦った。
すると、彼方の張遼のうしろから、曹操の御曹司曹丕が、鉄弓を張って、ぶんと矢を放った。
凌統を狙ったのだが、すこし外それて、その馬にあたった。
「しめたっ」
と楽進は、槍を逆しまにして、地上へ向けた。凌統が勢いよく落馬していたからである。
ところが、その時また、どこからか一本の矢がひょうッと飛んできた。楽進の真眉間に立ったので、楽進は、槍を投げて、鞍上からもんどり打った。
呉の将も倒れ、魏の将も傷ついたので、両軍同時にわっと混み合って、互いに味方を助けて退ひいた。
柑子(こうじ)と牡丹
建安二十一年五月。もろもろの官吏軍臣は、帝に奏して、詔を仰いだ。
――魏公曹操、功高ク、徳ハ宏大ニシテ、天ヲ極メ、地ヲ際カギル。伊尹ノ周公モ及バザルコト遠シ。ヨロシク王位ニススメ、魏王ノ位ヲ賜ワランコトヲ。
と、いうのである。
帝はやむなく、鍾繇に詔書の起草を命じ、すなわち曹操を冊立して、魏王に封じ給うた。
詔に接すると、曹操は固辞して、辞退の意を上書する。帝はまた、かさねて別の一詔をおくだしになる。そこで初めて、 「聖命もだし難がたければ」
と、曹操は王位をうけた。 十二旒の冠、金銀の乗用車、すべて天子の儀を倣い、出入には警蹕して、ここに彼の満悦なすがたが見られた。
さっそく、鄴都には、魏王宮が造営された。ここにはすでに玄武池がある。曹操の親衛隊は、ここで船術を練り、弓馬を調練していた。雄大な魏王宮は、玄武池のさざ波に映じて、この世のものと思えなかった。
曹操には四人の子がある。みな男子だった。曹丕、曹彰、曹植、曹熊の順だ。けれども大妻丁夫人の子ではなかった。側室から出た者ばかりである。
このうちで、曹操が、(わが世嗣は、彼に)と、ひそかに思っていたのは三番目の曹植だった。曹植は子建と字し、幼少から詩文の才に長け、頭脳はあきらかで、また甚だ上品な風姿をもっている。
嫡男の曹丕は、
(……怪しからん)と、不満に思った。曹家は自分が嗣つぐべきであるときめているからだ。中大夫の賈詡をそっと招いて、何かと相談した。
「……こうなさいませ」
賈詡はささやいた。その後、曹操が遠い軍旅に立つ時がきた。三男の曹植は、詩を賦して、父との別れを惜しんだ。
だが曹丕は、賈詡にいわれたとおり、ただ城外まで見送りに立って、涙をふくみ、黙然、父が前を通るとき、眸をこらして見送った。
曹操は、あとで考えた。
「詩は巧み、珠玉の字をつらねているが、曹植のその才よりも、曹丕の無言のほうが、もっと大きな真情をもっているのじゃないかな?」
それから彼の子をみる眼がまたすこし変った。
曹丕はその後も、父曹操の近習たちへ、特に目をかけて、金銀を与えたり、徳を施したり、歓心を得ることにぬかりなく努めたので、
「ご嫡男にはもう仁君の徳を自然に備えておいで遊ばされる」
と、もっぱら彼の評判はよかった。
曹操もやがて、すでに魏王の位にも昇ると世嗣のことが、彼の意中にさし迫る問題となっていた。そこである時、思いあまって、賈詡を召した。
「――曹丕をあとに立てるべきだろうか。それとも曹植がよかろうか」
賈詡は、黙然たるままで、敢て明答を欲しないような顔色だった。が、再三、曹操から問われるに及んで、ただこう答えた。
「それは、私にお質しあるよりは、さきに亡んだ袁紹だの劉表などがよいお手本ではありませんか」
劉表も袁紹も、世子問題では、大きな内政の癌がんを作っている。いずれも正統の嫡男を立てていない。曹操は大いに笑い、
「いや、そうか。人間というものは、案外、分りきっていることに分別を迷うものだ。はははは、よし、よし」
心は決したのである。その後間もなく、
――嫡子曹丕ヲ以テ我ガ王世子ト定ム
と、発表した。
鶏肋
魏王の位についてからの曹操は当然、次の太子は誰に譲ろうかと、わが子をながめていた。ある時、彼は侍側の臣に命じて、
(明日、長男の曹丕と、三男の曹子建とを、鄴城へ招き呼ぶが、ふたりが城門へ来たら、決して通すな)といいつけておいた。
曹丕は、門で拒まれた。兵隊たちに峻拒されて、やむなく後へ帰ってしまった。
次に曹子建が来た。同じように関門の将士が、通過を拒むと、
(王命を奉じて通るに何人か我を拒まん。召しをうけて行くは弦を離れた箭の如きもので、再び後へかえることを知らぬ)と、云い捨てて通ってしまった。
曹操は聞いて、さすがは我が子だと、大いに子建を賞めたが、後になって、それは子建の学問の師楊修が教えたものだとわかり、がっかりすると共に、
(よけいな智慧をつけおる)と、彼の才に、その時も眉をひそめた。
また楊修は「答教」という一書を作って曹子建に与え、
(もし父君から何か難しいお訊ねのあったときは、これをご覧なさい)
と、いっていた。答教のうちには、父問三十項に対する答がかいてあった。
こういう風に、曹子建には、楊修のうしろ楯があったので長男の曹丕よりは、何事にまれ勝すぐれて見えたが、やがて自分こそ、当然、太子たらんとしている曹丕は、心中大いに面白くなく、事ごとに楊修を父に讒していた。
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- 出師の巻(曹操の死)
曹操死す
重臣すべてを枕頭によびあつめ、 「予に、四人の子があるが、四人ともが、みな俊英秀才というわけにもゆかない。予の観るところは、平常のうちに、おまえたちにも語っておる。汝らよくわが意を酌み、忠節を継ぎ、予に仕える如く、長男の曹丕を立てて長久の計をはかれよ。よろしいか」
おごそかに、こういうと、曹操はその瞬間に六十六年の生涯を一望に回顧したのであろう、涙雨のごとく頬をぬらし、一族群臣の嗚咽する眸の中に、忽然と最期の息を終った。――時、建安二十五年の春正月の下旬、洛陽の城下には石のような雹が降っていた。
武祖
かくて魏は、次の若い曹丕の世代に入った。曹丕は父の死の時、鄴都の城にいた。そしてやがて洛陽を出た喪の大列をここに迎えるの日、彼は哀号をあげて、それを城外の門に拝した。
曹丕は、曹家の長男である。
いま鄴都の魏王宮に、父の柩を迎えた彼は、そもそもどんな当惑と悲嘆を抱いたろう。余りに偉大な父をもち、余りに巨きな遺業を残された子は、骨肉の悲しみと共に、一時は為なす術も知らなかったであろう。
――魏宮ノ上、雲ハ憂イニ閉ジ、殿裡ノ香煙、朝ヲ告ゲズ、日モ夜モ祭ヲナシテ、哭ク声タダ大イニ震ウ
とある古書の記述もあながち誇張ではなかったに違いない。
時に、侍側の司馬孚は、
「太子には、いたずらに悲しみ沈んでおられる時ではありません。また左右の重臣たちも、なぜ嗣君を励まして、一日も早く治国万代の政策を掲げ、民心を鎮め給わぬか」
と、さも腑甲斐なき人々よと云わんばかりにたしなめた。
重臣たちはそれに答えた。
「さようなことは、ご注意がなくても分っておるが、何よりも、魏王の御位へ太子を冊(かしず)き立て奉ることが先でなければならぬ。けれど如何せん、未だにそれを許すとの勅命が朝廷からくだっていない」
すると兵部尚書 陳矯がまたすすみ出て、やにわに声を荒らげ、
「やあ、いつもながら重臣方の優柔不断、聞くも歯がゆい仰せではある。国に一日の主なきもゆるさず。いま魏王薨こうぜられ、太子御柩のかたわらに在り、たとえ勅命おそくとも、直ちに太子を上せて王位へ即け奉るに、誰かこれに従わぬ者があろうや。――もしまた、それを不可とし、阻め奉らん意志を抱く者があるなら、すすんでわが前にその名を名乗り給え」
と、剣を払って、睨めまわした。
重臣たちは、みな愕きの眼をすえて、二言と説を吐く者もなかった。
ところへ、故曹操の股肱の一人たる華歆が、許昌から早馬をとばしてきた。華歆来れりという取次ぎに、諸人はみな色を変じて、
「何事が勃発したのか」と、さらに固唾かたずをのみ合っていた。
華歆はこれへ来ると、まず先君の霊壇に額ずき、太子曹丕に、百拝を終ってから、満堂の諸臣を見まわして、
「魏王の薨去が伝わって、全土の民は、天日を失ったごとく、震動哀哭、職も手につかない心地である。御身ら、多年高禄を喰はみながら、今日この時、無為茫然、いったい何をまごまごしておられるのか。なぜ一日も早く太子を立てて新しき政綱を掲げ、天下に魏の不壊を示さないのか」
と、罵った。
諸人はまた口を揃えて、すでにその事は議しているが、まだ漢朝から何らのご沙汰がくだらないので、さしひかえているところであると陳弁した。
すると華歆はあざ笑って、
「漢の朝廷には今、そんな才覚のある朝臣もいないし、第一 政事をなす機能すらすでに許都にはなくなっているのに、手をつかねて、勅命のくだるのを待っていたとて、いつのことになるか知れたものではない。故に、自分は直接、漢朝へ迫って、天子に奏し、ここに勅命をいただいて来た」
と、華歆は懐中から詔書を取り出して、一同に示したうえ、
「謹んで聴かれよ」
と、声高らかに読みあげた。
詔書の文は魏王曹操の大功を頒し、嗣子 曹丕に対して、父の王位を即ぐことを命ぜられたもので――建安二十五年春二月詔すと明らかにむすんである。
重臣始め、諸人はみな眉をひらいて歓んだ。もとよりこれは漢帝のご本意でなかったこと勿論であろうが、その空気を察して、この際大いに魏へ私威を植えておこうとする華歆が、許都の朝廷へ迫ってむりに強請してきたものなのである。
が、名分はできた。形式はととのった。
曹丕はここに、魏王の位に即き、百官の拝賀をうけ、同時に、天下へその由を宣示した。
時に、一騎の早馬は、
(鄢陵侯 曹彰の君。みずから十万の軍勢をしたがえ長安よりこれへ来給う)
という報をもたらした。曹丕は、大いに疑って、
「なに。弟が?」
と、会わないうちからひどく惧れた。曹彰は操の次男で、兄弟中では武剛第一の男である。察するに、王位を争わんためではないかと、曹丕は邪推して兢々と対策を考え始めた。
曹家には四人の実子があった。 生前曹操が最も可愛がっていたのは、三男の曹植であったが、植は華奢でまた余りに文化人的な繊細さを持ち過ぎているので、愛しはしても、
(わがあとを継ぐ質ではない)
と、夙に観ていた。
四男の曹熊は多病だし、次男の曹彰は勇猛だが経世の才に乏しい。で、彼が後事を託するに足るとしていたのは、やはり長男の曹丕でしかなかった。曹丕は親の目から見ても、篤厚にして恭謙、多少、俗にいう総領の甚六的なところもあるが、まず輔弼の任に良臣さえ得れば、曹家の将来は隆々たるものがあろうと、重臣たちにもその旨は遺言されてあった。
けれど王位継承のことは、兄弟同士の仲でもかねて無言のうちに自分を擬していた空気があるし、ことに遺子おのおのに付いている傅役の側臣中には歴然たる暗闘もあったことなので、今、兄弟中でも最も気の荒い曹彰が十万の兵をひいて長安から来たと聞いては、曹丕も安からぬ気がしたに違いなかった。
「お案じ遊ばすな。あの方のご気質はてまえがよく呑みこんでいます。まず私が参って、ご本心を糺してみましょう」
そういって、彼をなぐさめた諫議大夫の賈逵は、急いで魏城の門外へ出て行った。そして、曹彰を出迎えると、曹彰は彼を見るとすぐ云った。
「先君の印璽や綬はどこへやったかね?」
賈逵は色を正して答えた。
「家に長子あり、国に儲君んあり、亡君の印綬はおのずから在るべき所に在りましょう。あえて、あなたがご詮議になる理由はいったいどういうお心なのですか」
曹彰は黙ってしまった。
進んで、宮門へかかると、賈逵はそこでまた釘をさした。
「今日、あなたがこれへ参られたのは、父君の喪に服さんためですか、それとも王位を争わんためですか。さらに、忠孝の人たらんと思し召すか、大逆の子にならんとお思い遊ばすか」
曹彰は勃然と云った。
「なんでおれに異心などあるものか。これへ来たのは父の喪を発せんためだ」
「それなら十万人の兵隊をつれてお入りになることはありますまい。すべて、この所から退けて下さい」
かくて曹彰はただ一人になって宮門に入り、兄の曹丕に対面すると、共に手をとって、父の死を愁みかなしんだ。
曹丕が魏王の位をついだ日から改元して、建安二十五年は、同年の春から延康元年とよぶことになった。
華歆は功によって相国となり、賈詡は大尉に封ぜられ、王朗は御史大夫に昇進した。
そのほか大小の官僚武人すべてに褒賞の沙汰があり、故曹操の大葬終るの日、高陵の墳墓には特使が立って、
――以後、諡して、武祖と号し奉る。
という報告祭を営んだ。
さて。葬祭の万端も終ってから、相国の華歆は、一日、曹丕の前へ出て云った。
「ご舎弟の彰君には、さきに連れてきた十万の軍馬をことごとく魏城に附与して、すでに長安へお立ち帰りなされましたから、かの君にはまず疑いはありませんが、三男曹植の君と、四男の曹熊君ぎみには、父君の喪もにも会し給わず、いまだに即位のご祝辞もありません。故に、令旨を下して、その罪をお責めになる必要がありましょう。不問に附しておくべきではありません」
曹丕はその言葉に従って、すぐ令旨を発し、二人の弟へ、おのおの使いを派して、その罪を鳴らした。
曹熊の所へ赴いた使者は、帰ってくると、涙をながして告げた。
「常々、ご病身でもあったせいでしょうが、問罪の状をお渡しすると、その夜、自らお頸を縊って、あわれ自害してお果て遊ばしました」
曹丕はひどく後悔したが、事及ばず、篤く葬らせた。そのうちに、三男の曹植のもとへ赴いた使者も帰ってきたが、この使いの報告は、前のとは反対に、いたく曹丕を憤らせた。
七歩の詩
曹丕が甚だしく怒った理由というのはこうであった。
以下、すなわち令旨をたずさえて、曹植のところから帰ってきた使者の談話である。
「――私が伺いました日も、うわさに違わず、臨菑侯曹植様には、丁儀、丁廙などという寵臣を侍はべらせて、前の夜からご酒宴のようでした。それはまアよいとしても、かりそめにも御兄上魏王の令旨をもたらして参った使者と聞いたら、口を含嗽し、席を清めて、謹んでお迎えあるべきに、座もうごかず、杯盤の間へ私を通し、あまつさえ臣下の丁儀が頭から使者たる手前に向って……汝、みだりに舌を動かすな。そもそも、先王ご存命のとき、すでに一度は、わが殿、曹植の君を太子に立てんと、明らかに仰せ出されたことがあったのだ。しかるに、讒者の言に邪たげられ、ついにその事なく薨去せられたが、その大葬のすむや否、わが曹植の君に、問罪の使いを向けてよこすとは何事だ。いったい曹丕という君はそんな暗君なのか。……左右に良い臣もいないのか……。と、いやはや口を極めて罵りまする。するとまた、もうひとりの丁廙という家臣も口をそろえて。……知らずや汝、わが主曹植の君には、学徳世に超えたまい、詩藻は御ゆたかに、筆をとればたちまち章をなし、たちまち珠玉を成す。しかも生れながら王者の風を備えられておる。汝の侍く曹丕などとは天稟がちがう。わけて汝ら廟堂の臣ども、みなこれ凡眼の愚夫、豈に、賢主暗君の見分けがつこうや。……と、まるでもうてんから頭ごなしで、二の句もいわせぬ権まくですから、ぜひなくただ令旨をお伝えしただけで、ほうほうの態にて立ち帰って参りましたような次第で――」
かくて曹丕の一旦の怒りは、ついに兄弟 墻にせめぐの形を取ってあらわれた。彼の厳命をうけた許褚は、精兵三千余をひっさげて、直ちに、曹植の居城臨菑へ殺到した。
「われらは王軍である」
「令旨の軍隊だぞ」
許褚の将士は、口々にいって、門の守兵を四角八面に踏みちらし突き殺し、拒ぎ闘うひまも与えず閣中へ混み入って、折ふし今日も遊宴していた丁儀、丁廙を始め、弟君の植をも、ことごとく捕縛して車に乗せ、たちまち、鄴の魏城へ帰ってきた。
憎悪の炎を面に燃やして、曹丕は一類を階下にひかせて、一眄をくれるや否、
「まず、その二人から先に誅殺を加えろ」
と、許褚に命じた。
剣光のひらめく下に、二つの首は無造作に転がった。階欄は朱に映はえ、地は紅の泉をなした。
そのとき曹丕のうしろにあわただしい跫音が聞え、魂げるような老女の泣き声が彼の足もとへすがった。――ふたりの家臣が目のまえに斬られて、血しおの中に喪心していた曹植が、その蒼ざめた顔をあげてふと見ると、それは自分たち兄弟を生んだ実の母たる卞氏であった。
「あっ……わが母公」
植は思わず伸び上がって嬰児の如く哀れを乞う手をさし伸べると、老母は涙の目できっと睨めつけて、
「植……なぜ先王の御大葬にも会さなかったんですか。おまえのような不孝者はありません」
と、烈しく叱って、そして曹丕の裳を持った手は離さずに、
「丕よ、丕よ。ちょっと、妾のはなしを聞いておくれ。後生、一生のおねがいだから」
と、強ってわが子を引っ張って、偏殿の陰へ伴い、どうか同胞の情をもって、植の一命は助けてあげておくれと、老いの眼もつぶれんばかり泣き濡れて曹丕へ頼んだ。
「もう、もう……そんなにお嘆きなさいますな。なあに、もとより弟を殺す気なんかありません。ただ懲らしめのためですから」
曹丕はそのまま奥へ隠れて数日は政を執る朝にも姿を見せなかった。
華歆がそっと来て、彼の機嫌を伺った。そしてはなしのついでに、
「先日、母公が何か仰っしゃったでしょう。――曹植を廃すなかれ、と御意遊ばしはしませんか」
「相国はどこでそれを聞いておったのか?」
「いえ、立ち聞きなどは致しませんが、それくらいなことは分りきっています。が、大王のご決心は、いったいどうなのか、それは未だ私には分っておりません」
華歆はなおことばを続けた。
「あのご舎弟の才能は、好いわ好いわでほうっておくと、周囲の者が担かつぎあげて、池中の物としておかんでしょう。今のうちに、除いておしまいにならないと、後には大きな患いですぞ」
「……でも。予は母公に、もう約束してしまったからの」
「何とお約束なさいました」
「かならず弟の曹植を廃すようなことはせぬと……」
「なぜそんなことを」と、華歆は舌打ちして、
「でなくてさえ、曹家の才華は植弟君にある、植弟君が口を開けば、声は章をなし、咳唾は珠を成すなどと、みな云っています。恐れながら、その衆評はみな暗に兄君たるあなたの才徳を晦ろうするものではありませんか」
「でも、ぜひがあるまい」
「いやいや。ひとつかように遊ばしては如何……」と、華歆は主君の耳へ口をよせた。曹丕の面は弟の天分に対して、嫉妬の情を隠しきれなかった。佞臣の甘言は、若い主君の弱点をついた。
彼の入れ智慧は、こうであった。今この所へ曹植を呼びだし、その詩才を試してみて、もし不出来だったらそれを口実に殺しておしまいなさい。また噂のとおりな才華を示したら、官爵を貶おとして、遠地へ追い、この天下繁忙の時代に、詩文にのみ耽っている輩の見せしめとしたらよろしいでしょう。一挙両得の策というものではありませんか。
「よかろう。すぐ呼び出せ」
曹丕の召しに、植は恐れわななきながら兄の室へひかれて来た。丕は、強いて冷やかに告げた。
「こら弟、いや曹植。――平常の家法では兄弟だが国法においては君臣である。そのつもりで聞けよ」
「はい」
「先王も詩文がお好きだったので、汝はよく詩を賦して媚びへつらい、兄弟中でも一番愛せられていたが、その頃からひそかに他の兄弟たちも云っていた。植の詩は、あれは植が作るのではない、彼の側に詩文の名家がいて代作しているのだと。――予も実は疑っておる。嘘か実まことか、今日はここでその才を試してみようと思う。もし予の疑いがはれたら命は助けてやるが、その反対だった場合は、長く先王を欺き奉った罪を即座に糺すぞ。異存はないか」
すると曹植は、それまでの暗い眉を急ににこと開いて、
「はい。ありません」
と、神妙に答えた。
曹丕は、壁に懸っている大幅古画を指さした。二頭の牛の格闘を描いた墨画で、それへ蒼古な書体をもって何人かが、
二頭闘檣下牛墜井死
と賛してあったが、その題賛の字句を一字も用いないで、闘牛の詩を作ってみよという難題を、植に与えた。
「料紙と筆をおかし下さい」
と乞いうけて、植はたちどころに一詩を賦して兄の手もとへ出した。牛という字も、闘という字も用いずに、立派な闘牛之詩が賦されてあった。
曹丕も大勢の臣も、舌をまいてその才に驚いた。華歆はあわてて几の下からそっと曹丕の手へ何か書いたものを渡した。曹丕は眼をふと俯せてそれを見ると、たちまち声を高めて次の難題を出した。
「植っ。起て――そして室内を七歩あゆめ。もし七歩あゆむ間に、一詩を作らなければ、汝の首は、八歩目に、直ちに床へ落ちているものと思え」
「はい……」
植は、壁へ向って、歩み出した。一歩、二歩、三歩と。そして歩と共に哀吟した。
豆ヲ煮ルニ豆ノ萁(マメガラ)ヲ燃ク
豆ハ釜中ニ在ッテ泣ク
本是コレ同根ヨリ生ズルヲ
相煎ルコト何ゾ太ダ急ナル
「…………」
さすがの曹丕もついに涙を流し、群臣もみな泣いた。詩は人の心琴を奏で人の血を搏つ。曹植の詩は曹植のいのちを救った。即日、安郷侯に貶へんされて、孤影を馬の背に託し、悄然 兄の魏王宮から別れ去ったのである。
私情を斬る
折ふしまた魏では、曹丕が王位に即ついて、朝廷をないがしろにする風は益々はなはだしいと聞き、玄徳はある日、成都の一宮に文武の臣を集めて、大いに魏の不道を鳴らし、また先に亡しなった関羽を惜しんで、
「まず呉に向って、関羽の仇をそそぎ、転じて、驕れる魏を、一撃に討たんと思うが、汝らの意見は如何に」と、衆議に計った。(中略)
彭義が誅されたことによって、遠隔の地にある孟達も、さてはと、身に危急を感じだした。彼にはもともと、離反の心があったものとみえ、その部下、申耽と申儀の兄弟は、
「魏へ走れば、曹丕が重く用いてくれるに違いありません」と、主に投降をすすめ、同じ城にいる劉封にも告げず、わずか五、六十騎を連れて夜中、脱走してしまった。
魏へ投降した孟達は、曹丕の前に引かれて、一応、訊問をうけた。曹丕は、内心この有力な大将の投降は歓迎していたが、なお半信半疑を抱いて、
「玄徳が特に汝を冷遇していたとは思われんが、一体、なんの理由で魏へ来たか」と質問した。
孟達は、それに答えて、
「関羽の軍が全滅にあったとき、麦城へ救いに行かなかった点を、旧主玄徳はあくまで責めてやみません。関羽を見殺しになしたるは孟達なりと、害意を抱いておらるる由を、成都の便りに知ったからです」
ちょうど襄陽方面から急報が入った。劉封が五万余の兵を擁して、国境を侵おかし、諸所焼き払いながら進攻してくるという注進であった。曹丕は、孟達を試すには適当な一戦と思ったので、
「襄陽には、わが夏侯尚や徐晃などが籠っているから、決して不安はないが、試みに、足下はまず同地の味方に加勢して、劉封の首をこれへ持って来給え。ご辺を如何に待遇するかは、その上でまた考えるから」と取りあえず、散騎常侍、建武将軍の役に任じて、襄陽へ赴かせた。
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- 出師の巻(漢魏革命)
出師の巻は、曹丕がたくさん登場するので、
引用者の都合で、2つに分けました。
改元
魏では、その年の建安二十五年を、延康元年と改めた。
また夏の六月には、魏王曹丕の巡遊が実現された。亡父曹操の郷里、沛の譙県を訪れて、先祖の墳を祭らんと沙汰し、供には文武の百官を伴い、護衛には精兵三十万を従えた。
沿道の官民は、道を掃いて儀仗の列にひれ伏した。わけて郷里の譙県では、道ばたに出て酒を献じ、餅を供え、
「高祖が沛の郷里にお帰りになった例もあるが、それでもこんなに盛んではなかったろう」
と、祝し合った。
が、曹丕の滞留はひどく短く、墓祭がすむ途端に帰ってしまったので、郷人たちは何か張り合い抜けがした。老夏侯惇が危篤という報を受けたためであったが、曹丕が帰国したときは、すでに大将軍夏侯惇は死んでいた。
曹丕は、東門に孝を掛けて、この父以来の功臣を、礼厚く葬った。
「凶事はつづくというが、正月以来この半歳は、どうも葬祭ばかりしておるようだ」
曹丕もつぶやいたが、臣下も少し気に病んでいたところが、八月以降は、ふしぎな吉事ばかりが続いた。
「石邑県の田舎へ鳳凰が舞い降りたそうです。改元の年に、大吉瑞だと騒いで、県民の代表がお祝いにきました」
侍者が、こう取次いで曹丕をよろこばせたと思うと、幾日か経って、
「臨菑に麒麟があらわれた由で、市民は檻おりに麒麟を入れて城門へ献上したそうです」
するとまた、秋の末頃、鄴郡の一地方に、黄龍が出現したと、誰からともなく云い伝えられ、ある者は見たといい、ある者は見ないといい、やかましい取り沙汰だった。
おかしいことには、その噂と同時に、魏の譜代面々が、日々、閣内に集まって、
「いま、上天 吉祥を垂る。これは魏が漢に代って、天下を治めよ、という啓示にほかならぬものである。よろしく魏王にすすめ、漢帝に説き奉らせて受禅の大革を行うべきである」
と、勝手な理窟をつけて、しかも帝位を魏に奪う大陰謀を、公然と議していたのである。
侍中の劉廙、辛毘、劉曄、尚書令の桓楷、陳矯、陳群などを主として、宗徒の文武官四十数名は、ついに連署の決議文をたずさえて、重臣の大尉賈詡、相国の華歆、御史大夫王朗の三名を説きまわった。
「いや、諸員の思うところは、かねてわれらも心していたところである。先君武王のご遺言もあること、おそらく魏王におかれてもご異存はあるまい」
三重臣のことばも、符節を合わせたように一致していた。麒麟の出現も、鳳凰の舞も、この口ぶりからうかがうと、遠い地方に現れたのではなく、どうやらこれら重臣たちの額と額の間から出たものらしく思われる。
が、瓢箪から駒が出ようと、閣議室から黄龍が出現しようと、支那においては不思議でない。ぼくは思う。食人習慣の件と同様に、作者が作中に登場して解説する。珍しい。民衆もまた奇蹟を好む。鳳凰などというものはないという説よりも、それは有るのだという説のほうをもっぱら支持する通有性をもっている。朝廷を仰ぐにも、帝位についての観念も、この大陸の民は黄龍鳳凰を考えるのと同じぐらいなものしか抱いていなかった。それのはっきりしている上層中流の人士でもかつての自国の歴史に徴して、その時代時代に適応した解釈を下し、自分たちの人為をすべて天象や瑞兆のせいにして、いわゆる機運を醸かもし、工作を運ぶという風であった。
20世紀の「国民性」の研究がされてます。小説の連載時、相手国を理解するというニーズもあったそうで。
「それのはっきりしている」とは、「朝廷を仰ぐこと、帝位の観念がはっきりしている」という意味なんだろう。ちょっと接続が悪いので、推測まじりですが。
王朗、華歆、中郎将李伏、太史丞許芝などという魏臣はついに許都の内殿へ伺佐して、
「畏れ多いことですが、もう漢朝の運気は尽きています。御位を魏王に禅ゆずり給うて、天命におしたがいあらんことを」
正史では、李伏からスタートして、許芝が理論的裏づけを豪勢に準備する。王朗や華歆などの重臣は、わりと後半に出てきて、「そーだ、そーだ」と叫ぶだけなのだ。と、伏奏した。いや、冠をつらねて、帝の闕下に迫ったというべきであろう。
献帝はまだ御齢 三十九歳であった。九歳の時 董卓に擁立されて、万乗の御位について以来、戦火乱箭の中に幾たびか遷都し、荊棘の道に飢えをすら味わい、やがて許昌に都して、ようやく後漢の朝廟に無事の日は来ても、曹操の専横はやまず、魏臣の無礼、朝臣の逼塞、朝はあってなきが如きものだった。
およそ天の恵福の薄かったことは、東漢の歴代中でも、この献帝ほどの方は少ないであろう。そのご生涯は数奇にして薄幸そのものであったというほかはない。
しかも今また、魏の臣下から、臣下としてとうてい口にもすべきでないことを強いられたのである。お胸のうちこそどんなであったろうか。
帝ももとより、そのようなことを、即座に承諾になるわけはない。
「朕の不徳は、ただ自らをうらむほかはないが、儂(み)不才なりといえ、いずくんぞ祖宗の大業を棄つるに忍びん。ただ公計に議せよ」
正史よりも抵抗している!と、一言仰せられたまま、内殿へ起たれてしまった。
華歆、李伏の徒は、その後ものべつ参内して麒麟、鳳凰の奇瑞を説いたり、また、
「臣ら、夜天文を観るに、炎漢の気すでに衰え、帝星光をひそめ、魏王の乾象、それに反して、天を極め、地を限る。まさに魏が漢に代るべき兆です。司天台の暦官たちもみなさように申しておりまする」と、暦数から迫ってみたり、ある時はなお、
「むかし三皇、五帝も、徳をもって御位を譲り、徳なきは徳あるに譲るを常とし、たとえ天理に伏さずとも、必ず自ら滅ぶか、或いは次代の帝たる勢力に追われておりましょう。漢朝すでに四百年、決して、陛下の御不徳にも非ず、自然にその時期に際会されておられるのです。ふかく聖慮をそこに用いられて、あえて迷いをとったり、求めて、禍いを招いたり遊ばさぬようご注意申しあげる」
などと言語道断な得手勝手と、そして半ば、脅迫に似た言をすらもてあそんだ。
しかし、帝はなお頑として
「祥瑞、天象のことなどは、みな取るにも足らぬ浮説である。虚説である」と、明確に喝破し、
正史では、「喝破」するのは曹丕の役目である。早く『三国演義』を確認したくなってきた。「高祖三尺の剣をさげて、秦楚を亡ぼし、朕に及ぶこと四百年。なんぞ軽々しく不朽の基(もとい)を捨て去らんや」と、あくまで彼らの佞弁を退け、依然として屈服遊ばす色を示さなかった。
だがこの間に、魏王の威力と、その黄金力や栄誉の誘惑はしんしんとして、朝廟の内官を腐蝕するに努めていた。さなきだにもう心から漢朝を思う忠臣は、多くは亡(な)き数に入り、或いは老いさらばい、または野(や)に退けられて、骨のある人物というものは全くいなかった。
さなきだに=そうでなくても滔々として、魏の権勢に媚こび、震い怖れ、朝臣でありながら、魏の鼻息のみうかがっているような者のみが残っていた。
それかあらぬか、近ごろ帝が朝へ出御しても、朝廷の臣は、文武官なども、姿も見せない者が日にまし殖えてきた。或いは病気と称し、或いは先祖の祭り日と称し、或いは届けもなしに席を欠く者が実におびただしい。いや遂には、帝おひとりになってしまわれた。
「ああ。いかにせばよいか」
帝はひとり御涙を垂れていた。すると、帝のうしろから后の曹皇后がそっと歩み寄られて、
「陛下。兄の曹丕からわたくしに、すぐ参れという使いがみえました。玉体をお損ね遊ばさぬように」
意味ありげにそう云いのこして、楚々と立ち去りかけた。
帝は、皇后がふたたび帰らないことを、すぐ察したので、
「お身までが、朕をすてて、曹家へ帰るのか」
と、衣の袖を抑えた。
皇后は、そのまま、前殿の車寄せまで、足をとめずに歩んだ。帝はなお追ってこられた。すると、そこにたたずんでいた華歆が、
「陛下。なぜ臣の諫めを用いて、禍いをおのがれ遊ばさぬか。御后のことのみか、こうしていれば、刻々、禍いは御身にかかって参りますぞ」
と、今は拝跪の礼もとらずに傲然という有様であった。
なんたる非道、無礼。つねにお怺え深い献帝も、身をふるわせて震怒せられた。
「汝ら臣子の分として、何をいうか。朕ちん、位に即ついてより三十余年、兢々業々、そのあいだかりそめにも、かつて一度の悪政を命じた覚えもない。もし天下に今日の政を怨嗟するものがあれば、それは魏という幕府の専横にほかならぬことを、天人共によく知っておろう。たれか朕をうらみ、漢朝の変を希おうや」
すると、華歆もまた、声をあららげて、御衣のたもとをつかみ、
「陛下。お考え違いを遊ばすな。臣らとて決して不忠の言をなすものではありません。忠なればこそ、万一の禍いを憂いておすすめ申しあげるのです。今は、ただ御一言をもって足りましょう。ここでご決意のほどを臣らへお洩らし下さい。許すとも、許さぬとも」
「…………」
帝はわななく唇をかみしめてただ無言を守っておられた。 すると華歆が、王朗へきっと眼くばせしたので、帝は御衣の袖を払って、急に奥の便殿へ馳け込んでしまわれた。
たちまち、宮廷のそこかしこに、常ならぬ跫音が乱れはじめた。ふと見れば、魏の親族たる曹休、曹洪のふたりが、剣を佩はいたまま殿階へ躍り上がって、
「符宝郎はどこにいるかっ。符宝郎、符宝郎っ」と、大声で探し求めていた。
『ドラマ三国志』でも、符宝郎が出てきた。どこ出典? 知らない、、符宝郎とは、帝室の玉璽や宝器を守護する役名である。ひとりの人品の良い老朝臣が、怖るる色もなく二人の前へ近づいた。
「符宝郎 祖弼はわたくしですが……?」
「うム。汝が符宝郎の職にある者か。玉璽を取りだしてわれわれに渡せ」
「あなた方は正気でそんなことを仰せあるのか」
「拒む気か?」
曹洪は剣を抜いて、祖弼の顔へつき出した。――が祖弼はひるむ色もなく、
「三歳の童子も知る。玉璽はすなわち天子の御宝です。何で臣下の手に触れしめてよいものぞ。道も礼も知らぬ下司ども、沓をぬいで、階下へ退れっ」と、叱咤した。
洪、休のふたりは、憤怒して、やにわに祖弼を庭上に引きずり出し、首を斬って泉水へほうり捨てた。
すでに禁門を犯してなだれこんだ魏兵は、甲を着、戈を持って、南殿北廂の苑(にわ)に満ちみちていた。帝は、いそぎ朝臣をあつめて、御眦(おんまなじり)に血涙をにじませ、悲壮な玉音をふるわせて一同へ宣(のたも)うた。
「祖宗以来歴代の業を、朕の世にいたって廃せんとは、そも、何の不徳であろうか。九泉の下にも、諸祖帝にたいし奉り、まみゆべき面目もないがいかにせん、事ついにここへ来てしもうた。この上は、魏王に世を禅り、朕は身をかくして唯ひたすら万民の安穏をのみ祈ろうと思う……」
玉涙、潸(さん)として、頬をながれ、嗚咽する朝臣の声とともに、しばしそこは雨しげき暮秋の池のようであった。
すると、ずかずかここへ立ち入ってきた魏臣 賈詡が、
「おう、よくぞ御心をお定め遊ばした。陛下! 一刻もはやく詔書を降して、闕下に血をみるの難を未然におふせぎあれ」と、促した。
綸言ひとたび発して、国禅(くにゆずり)の大事をご承認なされたものの、帝はなお御涙にくるるのみであったが、賈詡はたちまち桓楷、陳群などを呼んで、ほとんど、強制的に禅国の詔書を作らせ、即座に、華歆を使いとして、これに玉璽を捧げしめ、
「勅使、魏王宮に赴(ゆ)く」と、称(とな)えて禁門から出たのであった。もちろん朝廷の百官をその随員とし、あくまで帝の御意を奉じて儀仗美々しく出向いたので、沿道の諸民や一般には、宮中における魏の悪逆な行為は容易に洩れなかった。
「来たか」
曹丕は定めしほくそ笑んだであろう。詔書を拝すや、直ちに禅りをお受けせん、と答えそうな容子に、司馬懿仲達があわてて、
「いけません。そう軽々しくおうけしては」と、たしなめた。
たとえ欲しくてたまらないものでもすぐ手を出してはいけない。何事にも、いわゆる再三謙辞して、而(しこう)して受く、というのが礼節とされている。まして天下の誹(そし)りを瞞(くら)ますには、より厳かに、その退謙と辞礼を誇大に示すのが、策を得たものではないでしょうか。――司馬仲達は眼をもってそう主君の曹丕へ云ったのである。
曹丕は、すぐ覚って、
「儂(み)はとうてい、その生れにあらず、万乗を統(つ)ぐはただ万乗の君あるのみ」
と、肚とはまったく反対なことばを勅使に答えて、うやうやしくも王朝に表を書かせ、一たん玉璽を返し奉った。
勅使の返事を聞かれて、帝はひどくお迷いになった。侍従の人々を顧みられて、
「曹丕は受けぬという。どうしたものであろう?」
と、いささかそれに依って御眉を開かれたようにすら見えた。
華歆は、お側を離れない。彼はすぐこう奏上した。
「むかし堯の御世に、娥皇、女英という二人の御娘がありました。堯が舜に世を禅ゆずろうというとき、舜はこばんで受けません。そこで堯帝はふたりの御娘を舜王に娶(めあ)わせて、後に帝位を禅られたという例がございます。……陛下。ご賢察を垂れたまえ」
献帝はまたしても無念の御涙をどうすることもできない面持ちを示された。ぜひなく、次の日ふたたび高廟使 張音を勅使とし、最愛の皇女おふた方を車に乗せ、玉璽を捧げて、魏王宮へいたらしめた。
曹丕はたいへん歓んだ。けれど今度もまた謀臣 賈詡が側にいて、
「いけません。まだいけません」というような顔をして首を振った。
空しく勅使を返したあとで、曹丕は少しふくれ顔して彼を詰問なじった。
「堯舜の例もあるのに、なぜこんども断れといったのか」
「もうそんなにお急ぎになる必要はないではございませんか。賈詡の慮(おもんぱか)りは、唯々世人の誹そしりを防がんためで、曹家の子、ついに帝位を奪えりと、世の智者どもが、口をそろえて誹(そし)りだしては、怖ろしいことでございますからな」
「では、三度勅使を待つのか」
「いやいや、こんどはそっと、華歆へ内意を通じておきましょう。すなわち、華陰をして、一つの高台(うてな)を造営させ、これを受禅台と名づけて、某月吉日をえらび、天子御みずから玉璽を捧げて、魏王にこれを禅るという、大典を挙げ行うことをお薦め申すべきです」
実に、魏の僭位は、これほど念に念を入れた上に行われたものであった。
受禅台は、繁陽の地を卜ぼくして、その年十月に、竣工を見た。三重の高台と式典の四門はまばゆきばかり装飾され、朝廷王府の官員数千人、御林の軍八千、虎賁の軍隊三十余万が、旌旗や旆旛を林立して、台下に立ちならび、このほか匈奴の黒童や化外の人々も、およそ位階あり王府に仕えるものは挙こぞって、この祭典を仰ぐの光栄に浴した。
十月庚午(かのえうま)の日。寅の刻。
この日、心なしか、薄雲がみなぎって、日輪は寒々とただ紅かった。
献帝は台に立たれた。
そして、帝位を魏王に禅るという冊文を読まれたのである。玉音はかすれがちに時折はふるえておられた。
曹丕は、八盤の大礼という儀式の後、台にのぼって玉璽をうけ、帝は大小の旧朝臣を従えて、御涙をかくしながら階下に降られた。
天地の諸声をあざむく奏楽が同時に耳を聾(ろう)すばかり沸きあがった。万歳の声は雲をふるわした。その夕方、大きな雹が石のごとく降った。
曹丕、すなわち魏帝は、
「以後国名を大魏と号す」
と宣し、また年号も、黄初元年とあらためた。
故曹操にはまた「太祖 武徳皇帝」と諡された。
ここにお気のどくなのは献帝である。魏帝の使いは仮借なく居を訪れて、
「今上の仁慈、汝をころすに忍び給わず、封じて山陽公となす。即日、山陽に赴き、ふたたび都へ入るなかれ」
という刻薄な沙汰をつたえた。公はわずかな旧臣を伴って、一頭の驢馬に召され、悄然として、冬空の田舎へ落ちて行かれた。
蜀また倣う
曹丕が大魏皇帝の位についたと伝え聞いて、蜀の成都にあって玄徳は、
「何たることだ!」と、悲憤して、日夜、世の逆(さか)しまを痛恨していた。
都を逐われた献帝は、その翌年、地方で薨去せられたという沙汰も聞えた。玄徳はさらに嘆き悲しんで、陰ながら祭をなし、孝愍皇帝と諡おくりなし奉って、深く喪に籠ったまま政務も見ない日が多かった。すべてを孔明に任せきって、近頃は飲食もまことにすすまない容子だった。(中略)
後漢の朝廷が亡んだ翌年の三月頃である。襄陽の張嘉という一漁翁が、
「夜、襄江で網をかけておりましたところ、一道の光とともに、河底からこんなものが揚がりましたので」と、遥々、その品を、蜀へたずさえてきて、孔明に献じた。
黄金の印章であった。
金色(こんじき)燦爛(さんらん)として、印面には、八字の篆文(てんぶん)が刻こくしてある。すなわちこう読まれた。
受命于天(めいをてんにうけて)既寿永昌(きじゅえいしょう)
孔明はひと目見るやたいへん驚いて、
「これこそ、ほんとうの伝国の玉璽ぎょくじである。洛陽大乱のみぎり、漢家から持ち出されて、久しく行方知れずになっていると聞いておるあの宝章にちがいない。曹丕に伝わったものは、そのため、仮に朝廷で作られた後の物に相違なかろう」(中略)
孔明は、襟を正して、
「逆子(ぎゃくし)曹丕と、わが君とを、同一視するものではございません。彼の如き弑逆の大罪を、いったい誰がよく懲こらしますか。景帝のご嫡流たるあなた様以外にはないではございませんか」
「でも、ひとたび臣下の群れに落ちた涿郡の一村夫である。普天の下もと、率土そっとの浜ひん。まだ一つの王徳も施さないうちに、たとえ後漢の朝は亡んだにせよ、予がそのあとを襲ったら、やはり曹丕のような悪名をうけるであろう。ふたたび云うな。予にはそんな望みはない」(中略)
周囲の事態形勢、また蜀中の内部的なうごきも、遂に、玄徳の逡巡を今はゆるさなかった。
「よくわかった。予の思慮はまだ余りに小乗的であったようだ。予がこのまま黙っていたら、かえって、魏の曹丕の即位を認めているように天下の人が思うかも知れない。軍師の病が癒ったらかならず進言を容れるであろう」
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- 出師の巻(魏帝として)
呉の外交
玄徳は、無言を守りきっている。諸葛瑾は、畢生の弁舌と智をしぼって、もう一言つけ加えてみた。
「陛下にも夙(つと)に、ご承知でありましょう。魏の曹丕の悪事を。――ついに漢帝を廃し、自身、帝位に昇って、億民を悲憤に哭なかしめているではありませんか。いま、漢室の裔たる陛下が、仇を討つなら、魏をこそ討つべきで、その簒逆の罪も正し給わず、呉へ戦いを向けられては、大義を知らず、小義に逸(はや)る君かなと、一世のもの笑いにもなりましょう。そこをも深くご賢慮遊ばして……」
ここで玄徳は、くわっと眼をひらいて、瑾の能弁を手をもって制した。
「呉使、大儀であった。もうよい。席を退がって呉へ立ち帰れ。そして孫権にかたく告げおけよ。朕ちかって近日まみえん。頸を洗うて待ちうけよと」
「なに。呉の国が使節をもって、朕に表を捧げてきたとか」
大魏皇帝曹丕は、にやりと笑ってその表をざっと読んだ。
近頃、閑暇に富んでいるとみえ、曹丕は、使者の趙咨に謁見を与えた後、なおいろいろなことを訊ねた。半ばからかい半分に、半ば呉の人物や内情を、談笑のうちに探ろうとするような、口吻(こうふん)だった。
「使節に問うが、汝の主人孫権は、ひと口にいうと、どんな人物か」
趙咨は鼻のひしげた小男であったが、毅然として、
「聡明仁智勇略のお方です」
と答え、それから臆面もなく、曹丕を正視して、眼をぱちぱちさせながら、
「陛下、何をくすくすお笑い遊ばしますか」と、反問した。
「されば、朕は笑うまいとするに苦しむ。なぜなれば、自分の主君というものは、そんなにも過大に見えるかと思うたからだ」
「これは心外な仰せを」
「なぜ心外か」
「てまえにすれば、陛下の御前なので、甚だ遠慮して申し上げたつもりなのです。遠慮なくそのわけを述べよと仰っしゃって下されば、陛下がお笑い遊ばさないようにお話しできると思います」
「申してみよ、存分に、孫権の豪(えら)さを」
「呉の大才魯粛を凡人の中から抜いたのは、その聡です。呂蒙を士卒から抜擢したのはその明です。于禁をとらえて殺さず、その仁です。荊州を取るに一兵も損ぜなかったのは、その智です。三江に拠って天下を虎視す、その雄です。身を屈して魏にしたがう、その略です。……豈に、聡明智仁勇略の君といわずして何といいましょうか」
曹丕は笑いを収めて、この鼻曲りの小男を見直した。――身を屈して魏に従うこれ略なり、とはよくも思いきっていえたもの哉と、魏の群臣もその不敵さに皆あきれていた。
曹丕はくわっと眼をこらして彼を見くだしていた。大魏皇帝たる威厳を侵されたように感じたものとみえる。
やがて曹丕は、趙咨にむかって、あえてこういう言葉を弄した。
「朕はいま、心のうちに、呉を伐たんかと考えておる。汝はどう思うか」
趙咨は額をたたいて答えた。
「や。それも結構でしょう。大国に外征をする勢力があれば、小国にもまた守禦あり機略あり、何ぞ、ただ畏怖しておりましょうや」
「ふーむ。呉人はつねにも魏を怖れておらないというか」
「過大に恐れてもいませんが、過大に莫迦ばかにしてもおりません。わが精兵百万、艦船数百隻、三江の嶮を池として、呉はただ呉を信じているだけであります」
曹丕は内心舌を巻いて、
「呉の国には、汝のような人物は、どれほどおるか」と、また訊ねた。
すると趙咨は腹をかかえて笑い出し、
「それがし程度の人間なら桝で量って車にのせるほどあります」と、いった。
ついに曹丕は三嘆してこの使者を賞めちぎった。
「四方ニ使シテ君命ヲ辱ハズカシメズというのは実にこの男のためにできていることばのようだ。うい奴、うい奴、酒をとらせよ」
趙咨はすっかり男を上げた。たいへんな歓待をうけたばかりでなく、彼の与えた好印象と呉の国威とは深く曹丕の心をとらえたとみえて、外交的にも予想以上の成功を収めた。
すなわち、大魏皇帝は、使者の帰国に際して将来の援助を確約し、また呉侯孫権にたいしては、
(封じて呉王となす)
と、九錫の栄誉を加え、臣下の太常卿 邢貞にその印綬をもたせて、趙咨とともに呉へ赴かせた。
皇帝みずから定められたので、魏の朝臣はどうすることもできなかったが、呉使が都を去るや否、疑義嘆声、こもごもに起って、
「あの小男めに一杯くわされたかたちだ」
となす者が多かった。
劉曄の如きは、面(おもて)を冒(おか)して、皇帝に諫奏し、
「いま呉と蜀とが相戦うのは、実に天が彼らを滅ぼすようなもので、もし陛下の軍が呉蜀のあいだに進んで、内に呉を破り、外に蜀を攻めるなら、両国もたち所に崩壊を現すでしょう。それを余りにはっきりと呉に援けを約されたのは、この千載一遇の好機を可惜(あたら)、逃がしたようなものかと存ぜられます。このうえは、呉へ味方すると称して呉の内部から攪乱(こうらん)し、一面、蜀を伐つ計を急速おめぐらし遊ばしますように」
「否々。それはいかん。信を天下に失うであろう」
「とはいえ今、呉の譎詐(きっさ)に乗ぜられて、彼に呉王の位を贈り給い、また九錫の重きをお加え遊ばしたのは、わざわざ虎に翼をそえてやったようなもので、ほうっておいたら呉は急激に強大となり、将来事を醸(かも)したときはもう如何とも手がつけられなくなるでしょう」
「すでに彼は、朕に臣礼をとっておる。叛かぬ者を伐つ名分はない」
「それはまだ孫権の官位も軽く、驃騎将軍 南昌侯という身分に過ぎないからでした。けれどもこれからは呉王と称して、陛下ともわずか一階を隔つる身になってくれば、自然心は驕り、勢威はつき、何を云い出してくるかわかりません。そのとき陛下が逆鱗あそばして討伐の軍を発せられましょうとも、世人はそれを見て、魏は江南の富や美女を掠(かす)めんとするものであると口を揃えて非を鳴らすでしょう」
「否とよ。まあしばらく黙って見ておれ。朕は、蜀もたすけず、呉も救わず、ただ正統にいて、両者が戦って力の尽きるのを待っておる考えじゃ。多くをいうな」
そこまでの深慮遠謀があってのことなら、何をかいわんやと、劉曄は慙愧(ざんき)して、魏帝の前を退いた。
蜀と呉の開戦は、魏をよろこばせていた。いまや魏の諜報機関は最高な活躍を示している。 大魏皇帝曹丕は、或るとき、天を仰いで笑った。
「蜀は水軍に力を入れて、毎日百里以上も呉へ前進しているというが、いよいよ玄徳の死際が近づいてきた」
側臣は怪しんで訊ねた。
「そのおことばは如何なる御意によるものですか」
「わからんか、お前たちには。すでに蜀軍は陸に四十余ヵ所の陣屋をむすび、今また数百里を水路に進む。この蜿蜒 八百里にわたる陣線に、その大軍を配すときは、蜀七十五万の兵力も、極めて薄いものとなってしまう。加うるに、陸遜の陣を措いて、水路から突き出したのは、玄徳が運の極まるものというべきだ。古語にもいう――叢原ヲ包ンデ屯ロスルハ兵家ノ忌ミ――と。彼はまさにその忌を犯したものだ。見よ、近いうちに蜀は大敗を招くから」
だが、群臣はなお信じきれず、かえって蜀の勢いを怖れ、
「国境の備えこそ肝要ではありませんか」
と云ったが、曹丕は否と断言して――
「呉が蜀に勝てば、その勢いで、呉が蜀へ雪崩なだれこむだろう。この時こそ、わが兵馬が、呉を取るときだ」と、掌を指すごとく情勢を説き、やがて曹仁に一軍をさずけて濡須へ向わせ、曹休に一軍を付けて洞口方面へ急がせ、曹真に一軍を与えて南郡へやった。かくて三路から呉をうかがって、ひたすら待機させていたのは、さすがに彼も曹操の血をうけた者であった。
孔明を呼ぶ
蜀の水軍の将 黄権が、魏に入って、曹丕に降ったという噂が聞えた。
(中略)その黄権は魏に降って、曹丕にまみえたとき、鎮南将軍にしてやるといわれたが、涙をながすのみで少しも歓ばなかった。で、曹丕が、
「いやか」
と、問うと、
「敗軍の将、ただ一死を免れるを得ば、これ以上のご恩はありません」
と、暗に仕えるのを拒んだ。
そこへ一名の魏臣が入って、わざと大声で、
「いま蜀中から帰った細作の報らせによると、黄権の妻子一族は、玄徳の怒りにふれ、ことごとく斬刑に処されたそうであります」と、披露した。
聞くと、黄権は苦笑して、
「それはきっと何かのお間違いか、為にする者の虚説です。わが皇帝はそんなお方では決してありません」と、かえってそれらの者の無事を信ずるふうであった。
曹丕は、もう何もいわずに、彼を退しりぞけた。そしてその後ですぐ三国の地図を拡げ、ひそかに賈詡を招き入れた。
「賈詡、朕が天下を統一するには、まず蜀を先に取るべきか、呉を先に攻めるべきだろうか」
賈詡は、黙考 久しゅうして、
「蜀も難し、呉も難し……。要は両国の虚を計るしかありません。しかし陛下の天威、かならずお望みを達する日はありましょう」
「いま、わが魏軍は、その虚を計って、三道から呉へ向っておる。この結果はどうか」
「おそらく何の利もありますまい」
「さきには、呉を攻めよといい、今は不可という。汝の言には終始一貫したものがないではないか」
曹丕の頭脳はなかなかするどい。謀士賈詡といえど、彼には時々やりこめられることがあった。
――だが、賈詡はなお面を冒して云った。
「そうです。さきに呉が蜀軍に圧されて敗退をつづけていた時ならば、魏が呉を侵すには絶好なつけ目であったに相違ございません。しかるにいまは形勢まったく逆転して、陸遜は全面的に蜀を破り、呉は鋭気日頃に百倍して、まさに不敗の強味を誇っております。故に、今では呉へ当り難く、当るは不利だと申しあげたわけであります」
「もういうな。御林の兵はすでに呉の境へ出ておる。朕の心もすでに定まっておるものを」
曹丕は耳もかさなかった。そして三路の大軍を補強して、さらに、彼自身、督戦に向った。
一面蜀を打ち、一面魏を迎え、この間かん、神速円転、用兵の妙を極めた陸遜の指揮のために、呉は何らのうろたえもなく、堂々、三道の魏軍に接して、よく防ぎよく戦った。
就中。――呉にとってもっとも枢要な防禦線は、主都建業に近い濡須の一城であった。
魏は、この攻め口に、曹仁をさしむけ、曹仁は配下の大将王双と諸葛虔に五万余騎をさずけて、濡須を囲ませた。
「ここだに陥とせば、敵府建業の中核へ、まさに匕首を刺すものである。全軍それ励めよ。大功を立つるは今ぞ」
魏帝曹丕が督戦に臨んだ陣もまさにここであった。――で、魏の士気はいやがうえにも振い、江北江東の天、ために晦冥、戦気紅日を蔽い、殺気地軸をゆるがした。
ときに、濡須の守りに当った呉の大将は、年まだ二十七歳の朱桓であった。
朱桓は若いが胆量のある人だった。さきに城兵五千を割さいて、羨渓の固めに出してしまったので、城中の兵は残り少なく、諸人がみな、
「この小勢では、とても眼にあまる魏の大軍を防ぎきれまい。今のうちにここを退いて、後陣と合するか、後陣をここへ入れて、建業からさらに新手の後ろ備(まき)を仰がねば、互角の戦いをすることはできまい」
恟々と、ふるえ上がっているのを見て、朱桓は、主なる部下を会して告げた。
「魏の大軍はまさに山川を埋めている観がある。しかし彼は遠く来た兵馬であり、この炎暑にも疲労して、やがてかえって、自らの数に苦しむときが来るだろう。陣中の悪疫と食糧難の二つが彼を待っておる。それに反して、寡兵なりといえ、われは山上の涼地に籠り、鉄壁の険に加うるに、南は大江をひかえ、北は峩々たる山険を負う。――これ逸をもって労を待つ象(かたち)。兵法にもこういっておる。――客兵倍ニシテ主兵半バナルモノハ、主兵ナオヨク客兵ニ勝ツ――と。平川 曠野の戦いは兵の数よりその掛合いにあること古来 幾多の戦いを見てもわかる。ただ士気乏しきは凶軍である。貴様たちはこの朱桓の指揮を信じて、百戦百勝を信念せよ。われ明日 城を出て、その証を明らかにその方たちの眼にも見せてやるであろう」
次の日、彼はわざと、虚を見せて、敵勢を近く誘った。
魏の常雕は、短兵急に、城門へ攻めかけて来た。――が、門内は寂として、一兵もいないようであった。
「敵に戦意はない。或いはすでに搦手から逃散したかもしれぬぞ」
兵はみな不用意に城壁へつかまり、常雕も壕のきわまで馬を出して下知していた。
轟音一発。数百の旗が、矢倉、望楼、石垣、楼門の上などに、万朶(ばんだ)の花が一ぺんに開いたように翻った。
弩や征矢が、魏兵の上へいちどに降りそそいできた。城門は八文字にひらかれ、朱桓は単騎乱れる敵の中へ入って、魏将の常雕を、ただ一太刀に斬って落とした。
前隊の危急を聞いて、中軍の曹仁は、即座に、大軍をひきいて進んできたが、何ぞはからん振り返ると、羨渓の谷間から雲のごとく湧き出した呉軍が、退路を切って、うしろからとうとうと金鼓を打ち鳴らしてくる。
実に、この日の敗戦が、魏軍にとって、敗け癖のつき始まりとなった。以後、連戦連敗、どうしても朱桓の軍に勝てなかった。
ところへまた、洞口、南郡の二方面からも、敗報が伝わった。悪くすると、曹丕皇帝の帰り途すら危なくなって来たので、曹丕もついにここを断念し、無念をのみながら、敗旗を巻いて、ひとまず魏へ引き揚げた。
魚紋
玄徳の死は、影響するところ大きかった。蜀帝崩ず、と聞えて、誰よりも歓んだのは、魏帝曹丕で、
「この機会に大軍を派せば、一鼓して成都も陥おとすことができるのではないか」
と虎視眈々、群臣に諮ったが、賈詡は、
「孔明がおりますよ」といわぬばかりに、その軽挙にはかたく反対した。
すると、曹丕の侍側から、ひとりつと起って、
「蜀を伐つは、まさに今にあり、今をおいて、いつその大事を期すべきか」
と、魏帝の言に力を添えた者がある。
「何ぴとか?」と、人々が見れば、河内温城の人、司馬懿、字は仲達だった。曹丕は、ひそかに、会心の面持で、
「司馬懿。その計は」と、流し目にたずねた。(中略)
規模の遠大、作戦の妙。言々信念をもっていうその荘重な声にも魅せられて満堂異議を云い立てる者もなく、わけて曹丕は絶大な満足をもって、
「直ちにその方針をとれ」
と、決定を与えた。
建艦総力
魏ではこのところ、ふたりの重臣を相次いで失った。大司馬 曹仁と謀士 賈詡の病死である。いずれも大きな国家的損失であった。
「呉が蜀と同盟を結びました」
折も折、侍中 辛毘からこう聞かされたとき、皇帝曹丕は、
「まちがいであろう」と、ほんとにしなかった。
しかし次々の報告はうごかすべからざる事実を彼の耳に乱打した。曹丕は怒った。
「よしっ、そう明瞭になればかえって始末がいい。峡口の進攻にぐずぐずしていたのもこのために依るか。この報復は断じて思い知らせずにはおかん」
一令、直ちに南下して、大軍一斉に呉を踏みつぶすかの形勢を生んだ。
辛毘は、諫止した。
「蜀境へ当った五路の作戦も不成功に終った今日、ふたたび征呉の軍を起さるるは、国内的におもしろくありますまい」
「腐れ儒者、兵事に口をさしはさむな。蜀呉の結ぶは何のためぞ。すなわちわが魏都を攻めるためではないか。安閑とそれを待てというのか」
逆鱗すさまじいものがある。ときに司馬仲達は、
「呉の守りは、長江を生命としています。水軍を主となして、強力な艦船を持たなければ、必勝は期し得ますまい」と、献言した。
この用意は、大いに曹丕の考えと一致するものだった。魏の水軍力はそれまでにも約二千の船と百余の艦艇があったが、さらに、数十ヵ所の造船所で、夜を日に継いで、艦船を造らせた。
特にまたこんどの建艦計画では、従来にない劃期的な大艦を造った。龍骨の長さ二十余丈、兵二千余人をのせることができる。これを龍艦と呼び、十数隻の進水を終ると、魏の黄初五年秋八月、他の艦艇三千余艘を加えて、さながら「浮かべる長城」のごとく呉へ下った。
水路は長江によらず、蔡・潁から湖北の淮水へ出て、寿春、広陵にいたり、ここに揚子江をさしはさんで呉の水軍と大江上戦を決し、直ちに対岸南徐へ、敵前上陸して、建業へ迫るという作戦の進路を選んだのであった。
一族の曹真は、このときも先鋒に当り、張遼、張郃、文聘、徐晃などの老巧な諸大将がそれを輔佐し、許褚、呂虔などは中軍護衛として、皇帝親征の傘蓋 旌旗をまん中に大軍をよせていた。
魏の大艦船隊は、広陵まで進んでいた。
先鋒の偵察船は、河流を出て揚子江をうかがったが、水満々たるのみで、平常の交通も絶え、一小船の影も見えない。曹丕は、聞くと、
「或いは南岸の呉軍に、企図するものがあるのかも知れない。朕、親しく大観せん」
と云って、旗艦の龍艦を、河口から長江へ出し、船楼に上って江南を見た。
旗艦の上には、龍鳳 日月五色の旗をなびかせ、白旄 黄鉞の勢威をつらね、その光は眼もくらむばかりであったし、広陵の河沿いから大小の湖には、無数の艨艟が燈火を焚いて、その光焔は満天の星を晦うするばかりだったが、江南呉の沿岸はどこを眺めても、漆のような闇一色であった。
侍側の蒋済がすすめた。
「陛下。この分では、一挙に対岸へ攻めよせても、大した反撃はないかもしれません」
「否々!」
と、あわてて制したのは劉曄である。彼は戒めた。
「実々虚々、鬼神もはかるべからずという。そこが兵法であろう。功をあせらず、まず数日はよくよく敵の気色をうかがうべきであろう」
「そうだ、あせることはない」
曹丕も同意した。彼はすでに呉を呑んでいた。
やがて月光が映さした。数艘の速舸が矢のごとく漕いでくる。敵地深く探ってきた偵察船であった。その復命によると、
「呉の領一帯に、いずこの岸をうかがってみても、寂として、人民もいません。町にも一面の灯なく、部落も墓場のようです。お味方の襲来をつたえ、早くも避難してしまったのかもしれません」
曹丕も大いに笑った。
「さもあろうか」と、うなずいていた。
五更に近づくと、江上一帯に濃霧がたちこめてきた。しばらくは咫尺(しせき)も見えぬ霧風と黒い波のみ渦巻いていた。しかしやがて夜が明けて陽が高く昇ると、霧は吹き晴れて、対岸十里の先も手にとるようによく見える快晴であった。
「おお」
「あれは如何に?」
舷(ふなべり)の将士はみな愕き指さし合っていた。ひとりの大将は船楼を馳け上って、曹丕の室へ、何事か大声でその愕きを告げていた。
呉の都督徐盛も決して無為無策でいたわけではない。彼が固く守備を称えていたのもやがて積極的攻勢に移る前提であったことが、後になって思い合わされた。
いま夜明けと共に船上の将士が口々に愕きを伝えている中へ、曹丕もまた船房から出て、手をかざして見るに、なるほど、部下が肝を冷やしたのも無理はない。呉の国の沿岸数百里のあいだは一夜に景観を変えていた。
ゆうべまで、一点の燈もなく、一旒の旗も見られず、港にも部落にも、人影一つ見えないと、偵察船の者も報告して来たのに、いま見渡せば、港には陸塁 水寨を連ね、山には旌旗がみちみちて翻り、丘には弩弓台あり石砲楼あり、また江岸の要所要所には、無数の兵船が林のごとく檣頭を集めて、国防の一水ここにありと、戦気烈々たるものがあるではないか。
「ああ、こは抑(そも)いかなる戦術か。呉には魏にもない器量の大将がおるとみえる」
曹丕は思わず長嘆を発して、敵ながら見事よと賞めたたえた。
要するにこれは、呉の徐盛が、江上から見えるあらゆる防禦施設に、すべて草木や布をおおいかぶせ、或いは住民をほかへ移し、或いは城廓には迷彩をほどこしたりして、まったく敵の目をくらましていたのだった。そして曹丕の旗艦以下、魏の全艦隊が、いまや淮河の隘路から長江へと出てくる気配を見たので、一夜に沿岸全部の偽装をかなぐり捨て、敢然、決戦態勢を示したものである。
「彼にこの信念と用意がある以上、いかなる謀があるやも測り難い」と、曹丕はにわかに下知して、淮水の港へ引っ返そうとしたところ、運悪くせまい河口の洲に旗艦を乗りあげてしまったため、日暮れまでその曳きおろしに混乱していた。
ようやく、船底が洲を離れたと思うと、今度は昨夜以上の烈風が吹き出してきて、諸船はみな虚空に飛揺し、波は船楼を砕き人を翻倒し、何しろ物凄い夜となってきた。
「危ない危ない。また乗しあげるぞ」
暗黒の中に戒め合いながら、疾風にもまれていたが、そのうちに船と船とは衝突するし、舵を砕かれ、帆檣を折られ、暴れ荒ぶ天地の咆哮の中に、群船はまったく動きを失ってしまった。
曹丕は船に暈(よ)って、重病人のように船房の中に臥していた。それを文聘が背に負って、小舟に飛び移り、辛くも淮河のふところをなしている一商港に上陸あがった。
船暈(ふなよい)は土を踏むとすぐ忘れたように癒る。ここには魏の陸上本営があるので、そこへ入ったときはもう平常の曹丕らしい元気だった。
「いやひどい目に遭うた。しかしこの荒天も暁までには収まるだろう」と、諸大将と共に語り合っていたが、それまた束の間まであった。深夜に至ってからこの暴風雨の中を二騎の早打ちが着いて、
「蜀の大将 趙雲が、陽平関から出て、長駆わが長安を攻めてきました」
という大事を告げたので、曹丕はまた色を失ってしまった。
「長安は魏の肺心に位する要地。わが遠征の長日にわたるべきを察して、孔明が敏くも虚を衝かんとする兆したりや必せりである。それは一刻も捨ておかれまい」
突如、夜のうちに、水陸両軍へ向って、総引き揚げの命は発せられ、皇帝曹丕もまたやや風のおさまるのを待ってもとの龍艦へ立ち帰ろうとした。
すると、どこから江を渡ってきたのか、約三千ほどの兵が、魏の本営に火を放って、これを一撃に殺滅し、さらに魏帝のあとを追撃してきた。
「味方か?」「失火か?」
と思っていたのが、呉軍だったので、魏帝と左右の諸大将は狼狽をきわめ、みるまに討たれては屍の山をなす味方をすてて、辛くも龍艦に逃げもどり、淮河の上流へ十里ほど漕ぎつづけると、たちまち、左岸右岸、前方の湖も、一瞬に火の海となった。
この辺は、大船の影もかくれるほどな芦萱のしげりであったが、呉軍はこれへ大量な魚油をかけておいて、こよい一度に火を放ったものであった。
魏の大艦小艇などの何千艘は、両方の猛焔、波上を狂いまわる油の火龍に、彼方に焼け沈み、此方に爆発し、淮河数百里のあいだは次の日になっても黒煙濛々としてこの帰結を見ることもできなかった。曹丕の敗北シーン。これで実質的に退場です。
鹿と魏太子
大魏皇帝曹丕の太子、曹叡の英才は、近ごろ魏のうわさになっている。
太子はまだ十五歳だった。
母は、甄氏の女である。傾国の美人であるといわれて、初め袁紹の二男 袁煕の夫人となったがそれを攻め破ったときから、曹丕の室に入り、後、太子曹叡を生んだのであった。だが、曹叡にも、一面の薄幸はつきまとった。母の甄氏の寵はようやく褪(あ)せて、郭貴妃に父 曹丕の愛が移って行ったためである。
郭貴妃は、広宗の郭永の女で、その容色は、魏の国中にもあるまいといわれていた。で、世の人が、女中の王なりと称となえたので、魏宮に入れられてからは、
「女王郭貴妃」と、尊称されていた。
しかし心は容顔の如く美しくない。甄皇后を除くため、張韜という廷臣と謀って、桐の木の人形に、魏帝の生年月日を書き、また何年何月地に埋むと、呪文を記して、わざと曹丕の眼にふれる所へ捨てた。
曹丕はその佞を観破することができないで、とうとう甄氏皇后を廃してしまったのである。
で――太子曹叡は、この郭女王に幼少から養われて、苦労もしてきたが、性は至極快活で、少しもべそべそしていない。とりわけ弓馬には天才的なひらめきがあった。
この年の早春。
曹丕は群臣をつれ狩猟に出た。
一頭の女鹿を見出し、曹丕の一矢が、よくその逸走を射止めた。
母の鹿が、射斃されると、その子鹿は、横っ跳びに逃げて曹叡の乗っている馬腹の下へ小さくなって隠れた。曹丕は、声をあげて、
「曹叡、なぜ射ぬ。いやなぜ剣で突かぬか。子鹿はおまえの馬の下にいるのに」
と、弓を揮って、歯がゆがった。
すると、曹叡は、涙をふくんで、
「いま父君が、鹿の母を射給うたのさえ、胸がいたんでいましたのに、何でその子鹿を殺せましょう」
と、弓を投げ捨てて、おいおい泣き出してしまった。
「ああ、この子は、仁徳の主となろう」
と、曹丕は、むしろ歓んで、彼を斉公に封じた。
その夏五月。
ふと傷寒を病んで、曹丕は長逝した。まだ年四十という若さであった。
生前の慈しみと、その遺詔に依って、太子曹叡は次の大魏皇帝と仰がれることになった。
これは嘉福殿の約によるものである。嘉福殿の約とは、曹丕が危篤に瀕した際、三人の重臣を枕頭に招いて、
「幼(いとけな)くこそあれ、わが子曹叡こそは、仁英の質、よく大魏の統を継ぐものと思う。汝ら、心を協(あわ)せて、これを佐け、朕が心に背くなかれ」
との遺詔を畏み、重臣の三名も、
「誓って、ご遺託にそむきますまい」
と、誓いを奏したその事をさすのであった。
枕頭に招かれたその折の重臣というのは、
中軍大将軍曹真。
鎮軍大将軍陳群。
撫軍大将軍司馬懿仲達。
の三名であった。
これにもとづいて、三重臣は、曹叡を後主と仰ぎ、また曹丕に文帝と諡し、先母后 甄氏には、文昭皇后の称号を奉った。
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- 五丈原の巻
鶏家全慶
李豊がいうことはこうだった。孟達は魏に降ってから、ひとたびは曹丕の信寵もうけたが、曹丕歿後、新帝曹叡の代になってからは、ほとんど顧みられなくなり、近頃はことに、何かにつけ、軽んじられ、また以前蜀臣だった関係から猜疑の眼で見られるので、怏々として楽しまない心境にある。彼の部下も今では、故国の蜀を恋う者が多く、祁山渭水の戦況を聞くにつけ、なぜ蜀を離れたかを、今ではいたく後悔している。
――で遂に、孟達は、そうした心境を綿々と書中に託して、
(どうか、この趣おもむきを、諸葛丞相に取次いでくれ)
と、帰参の斡旋方を、李豊の父、白帝城の李厳へすがって来たものであった。
二次出師表
孔明が南蛮に遠征する以前、魏の曹丕が大船艦を建造して呉への侵寇を企てた以前において、かの鄧芝を使いとして、呉に修交を求め、呉も張蘊を答礼によこして、それを機会にむすばれた両国の唇歯の誼は、いまなお持続されている。
つぎは、『三国演義』と比べてみたいなあ。140222『吉川三国志』の曹丕の思い出。2006年の2月か3月に、沖縄に旅行した。とくに計画を立てず、沖縄本島から久米島にゆく船に乗った。でも、激しく船酔いした。一定の周期で、船が上下に揺れるのだが、下りるときに、オエエとなる。「下りるな、下りるな」と願うが、そんな願いが届くはずもなく。
限界になったので、途中に停泊した渡名喜島というところに下りた。久米島なんて知らなかったが、渡名喜島なんて、もっと知らない。逃げるように下りたところ、1日に船が1回しか来ないとのこと。仕方ないから、渡名喜島で1日だけ時間をつぶした。店は1件だけあった。食糧は、最低限は買えた。
まだ夜は寒かった。1周をすぐ歩き終えてしまうくらいの小さな島。海からの風が強い。民宿もあるみたいだが、高そうなので、島の中の小山にある、お社みたいなところで寝ようとした。壁が四方に有るのでなく、太めの柱が四本かこんでいるだけ。柱のかげに入ろうとしたが、どうにも寒い。
そこで思いついたのが、船着き場の建物に入ること。そこなら、より海に近くなるが、少なくとも壁がある。移動した。やはり寒い。
このとき手許にあったのが、『吉川三国志』。ちょうど漢魏革命とか、徐盛にやっつけられる曹丕の話を読んだ。初読ではなく、時間をつぶせるかと思って、てきとうに持ってきてた。
船着き場のなかは電灯の付け方がわからない。でも自動販売機があった。前に立つと、商品を見せるために電気がつく。その明かりで『吉川三国志』を読んだ。しばらくジッとしてると、電気が消える。だから手足を動かし、センサーに認識をさせる。申し訳ないので、なにか1本だけ買った気がする。学生はオカネがないのだ。
寒くなってきたから、筋トレをして熱をつくりながら、『吉川三国志』を読んで朝を待つ。
日が昇ってきたら、まだ行っていなかったほうの島の中の小山に登る。そのときも、『吉川三国志』を読みながら、時間をかけてゆっくり歩いた。
なんてことを、このページを作りながら思い出した。閉じる