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- 『通俗三国志』VS『吉川三国志』比較 上
緑文字が『通俗三国志』で、黒文字が『吉川三国志』。注釈のワクのなかは、ぼくが書いています。
「翻訳」の言葉の意味を広めにとるなら、『吉川三国志』は、『通俗三国志』の「翻訳」であると思い、このような体裁をとりました。
両者を比較しやすい、というだけでも、このページの価値があるのではないかと思います。ぼくの注釈などなくても。
南征して、譙県で饗宴する
曹丕は魏王の位に登りて、建安二十五年を延康元年と改め、
夏六月に文武の百官を伴ひ、精兵三十萬騎を引きて沛の譙県を巡り、先祖の墓(つか)を祭りて栄華を故郷(ふるさと)に耀(かがや)かしければ、
郷(さと)の老人 道の岐(ちまた)に出(いで)て酒を献(たてまつ)り、漢の高祖 沛に還り玉(たま)ひし例に効(なら)ふ。魏では、その年の建安二十五年を、延康元年と改めた。
また夏の六月には、魏王曹丕の巡遊が実現された。亡父曹操の郷里、沛の譙県を訪れて、先祖の墳を祭らんと沙汰し、供には文武の百官を伴い、護衛には精兵三十万を従えた。
「巡遊が実現された」と、記事の結論を先に見せる。「亡父曹操の郷里」と譙県を解説する。「先祖の墳を祭らん」という、巡遊の目的を先に出す。
読みやすいように、補足しつつ、結論から先に書いてゆく。
沿道の官民は、道を掃いて儀仗の列にひれ伏した。
通過地点の人々の描写を、新たに追加。江戸時代の大名行列のイメージか。
李卓吾『三国演義』は、「遂(つひ)に甲兵三十万を統べ、南して沛国の譙県を巡る」と、非常にさらっとしており、『通俗三国志』もそれを踏襲する。実際に大名行列のあった江戸期の『通俗三国志』より、昭和の『吉川三国志』のほうが江戸っぽい。わけて郷里の譙県では、道ばたに出て酒を献じ、餅を供え、
餅(もち)を持ってきてくれた。日本に風習?
日本の人々が分かりやすいように、条件を日本風に改めたのだろう。中国は、城外を大軍が移動しているのであり、沿道から無関係の者たちが祝福する、、という日本的な場面は、おそらく無理。
「高祖が沛の郷里にお帰りになった例もあるが、それでもこんなに盛んではなかったろう」と、祝し合った。
『通俗三国志』では、漢の高祖なみ。しかし『吉川三国志』では、漢の高祖よりも、盛んだったとする。漢魏革命の伏線を明確に張る。
『通俗三国志』では地の文の説明だけだったが、会話として切り出すことで、読みやすくなった。これは単に手法だけの話だろう。
夏侯惇が死ぬ
是年の七月に大将軍 夏侯惇 病(やま)ひすでに危(あや)ふしと告げけば、曹丕 速やかに鄴郡に囘(かへ)りけるが、数日以前すでに死したり。曹丕 自ら孝(かう)を掛けて東門の外に殯(かりもがり)し、礼を厚くして之を葬る。が、曹丕の滞留はひどく短く、墓祭がすむ途端に帰ってしまったので、郷人たちは何か張り合い抜けがした。
『通俗三国志』が唐突に話題を変える。読者が置き去りにされないように、代わりに譙県の人々を置き去りにする。心憎い思いやり。老夏侯惇が危篤という報を受けたためであったが、曹丕が帰国したときは、すでに大将軍夏侯惇は死んでいた。 曹丕は、東門に孝を掛けて、この父以来の功臣を、礼厚く葬った。
「老夏侯惇」という言葉が、いかにも「中国っぽく」て愛を感じるけど、『三国演義』にそんな表現はなく、『通俗三国志』にもない。
鳳凰・麒麟・黄龍が現れる
時に八月の間 石邑県に鳳凰 来(らい)儀(ぎ)し、臨菑城に麒麟 出(い)で、鄴郡に黄龍 現(げん)ずと報じければ、「凶事はつづくというが、正月以来この半歳は、どうも葬祭ばかりしておるようだ」曹丕もつぶやいたが、臣下も少し気に病んでいたところが、
また唐突な『通俗三国志』の展開に振り回されぬように、配慮されている。曹丕の述懐を挿入することで、話を自然につなげている。八月以降は、ふしぎな吉事ばかりが続いた。
「石邑県の田舎へ鳳凰が舞い降りたそうです。改元の年に、大吉瑞だと騒いで、県民の代表がお祝いにきました」 侍者が、こう取次いで曹丕をよろこばせたと思うと、石邑が「田舎」というのは、補足なんだろう、いちおう。鳳凰が人々の目の前に現れるはずがない、という暗黙の説明かも。
石邑からの報告をセリフとして切り出し、鳳凰が「吉瑞、お祝い」すべきことだと、解説されている。新聞連載の読者が、「鳳凰ってなに?は?」と、意味するところに気づかないと、話が進まない。幾日か経って、「臨菑に麒麟があらわれた由で、市民は檻おりに麒麟を入れて城門へ献上したそうです」
麒麟って、オリに入るのか!
さっきの鳳凰は田舎だったが、このたびの麒麟は、オリに入れて皆の目に触れた。日本の読者が、麒麟に抵抗があるだろうと、するとまた、秋の末頃、鄴郡の一地方に、黄龍が出現したと、誰からともなく云い伝えられ、ある者は見たといい、ある者は見ないといい、やかましい取り沙汰だった。
曹丕が手下の百官ことごとく相ひ議して曰く、
「いま上天 象(しょう)を垂れ、これ魏王 漢に代わりて天を治め玉ふべき瑞祥なり。いそぎ受禅の礼を調へ、漢帝を勧めて天下を魏王に禅らしむべし」おかしいことには、その噂と同時に、魏の譜代面々が、日々、閣内に集まって、
「おかしい」と断っておかねば、吉川英治と読者が乖離する。吉川英治は、「おかしさを分かって書いていますよ、私もこちら側の人間ですよ」と断りを入れている。
「譜代」と書いたほうが、日本人には分かりよいのだろう、という配慮がされている。やっぱり、三国時代=江戸時代という比喩のもとで、理解させようとしてる。
「いま、上天 吉祥を垂る。これは魏が漢に代って、天下を治めよ、という啓示にほかならぬものである。よろしく魏王にすすめ、漢帝に説き奉らせて受禅の大革を行うべきである」
言葉を増やしているが、内容は同じ。と、勝手な理窟をつけて、しかも帝位を魏に奪う大陰謀を、公然と議していたのである。
「勝手な理屈」、「大陰謀」を追記。「大陰謀」を「公然と」語るおかしさは、読者を笑わそうとしているのか。
魏の三公が禅譲をせまる
時に侍中の劉廙、辛毘、劉曄、尚書令の桓階、陳矯、陳羣等を初めとして、宗徒の文武 四十余人みな来たりて、太尉の賈詡、相国の華歆、御史大夫の王朗に見(まみ)えて右の趣(おもむ)きを告げければ、侍中の劉廙、辛毘、劉曄、尚書令の桓楷、陳矯、陳群などを主として、宗徒の文武官四十数名は、ついに連署の決議文をたずさえて、重臣の大尉賈詡、相国の華歆、御史大夫王朗の三名を説きまわった。
登場人物は同じ。「連署」も日本史用語かな。
太尉、相国、御史大夫が「重臣である」ことも親切な解説。
賈詡 笑いて曰く、「諸人の意見よくも吾が機に合(かな)へり」とて、「いや、諸員の思うところは、かねてわれらも心していたところである。先君武王のご遺言もあること、おそらく魏王におかれてもご異存はあるまい」三重臣のことばも、符節を合わせたように一致していた。
曹操が死んだことを、読者に思い起こさせる。麒麟の出現も、鳳凰の舞も、この口ぶりからうかがうと、遠い地方に現れたのではなく、どうやらこれら重臣たちの額と額の間から出たものらしく思われる。が、瓢箪から駒が出ようと、閣議室から黄龍が出現しようと、支那においては不思議でない。
これが「相手国を知る」ための解説にあたる。民衆もまた奇蹟を好む。鳳凰などというものはないという説よりも、それは有るのだという説のほうをもっぱら支持する通有性をもっている。朝廷を仰ぐにも、帝位についての観念も、この大陸の民は黄龍鳳凰を考えるのと同じぐらいなものしか抱いていなかった。それのはっきりしている上層中流の人士でもかつての自国の歴史に徴して、その時代時代に適応した解釈を下し、自分たちの人為をすべて天象や瑞兆のせいにして、いわゆる機運を醸かもし、工作を運ぶという風であった。
たっぷりと解説してくれる。
李伏と許芝が、革命の理論を語る
華歆、王朗と共に中郎将の李伏、太史丞の許芝等を伴ひ、内殿に入(い)りて漢の天子に見(まみ)え、華歆 奏して申しけるは、
「臣伏して魏王の曹丕を覩(み)るに、位に登りてより恩徳を四方に布(し)き、仁慈よく万物に及びて、古(いにしへ)に越え今に騰(あ)がる。唐虞と云へども争(いか)でか之に過ぎん。郡臣みな漢の運 已に蓋(つ)きたるを見て共に相ひ議し、陛下の尭舜に効(なら)ひて山川・社稷を以て魏王に禅り、上は天の命従ひ、下は民の意に合(かな)ひ玉はんことを望む。然る時は陛下 自(おのづか)ら安閑にして少しも憂ひ候(そうら)はじ、是れ祖宗の幸甚、万民の大慶ならん」
と申しければ、帝これを聞(きこ)し食(め)して暫くはものを宣(のたま)はず。王朗、華歆、中郎将李伏、太史丞許芝などという魏臣はついに許都の内殿へ伺佐して、 「畏れ多いことですが、もう漢朝の運気は尽きています。御位を魏王に禅ゆずり給うて、天命におしたがいあらんことを」と、伏奏した。
上奏のなかで、下線部だけを拾ってきた感じ。いや、冠をつらねて、帝の闕下に迫ったというべきであろう。
良(や)やありて百官を覷(うかが)ひ、哀しみ哭きて宣ひけるは、献帝はまだ御齢 三十九歳であった。九歳の時 董卓に擁立されて、万乗の御位について以来、戦火乱箭の中に幾たびか遷都し、荊棘の道に飢えをすら味わい、やがて許昌に都して、ようやく後漢の朝廟に無事の日は来ても、曹操の専横はやまず、魏臣の無礼、朝臣の逼塞、朝はあってなきが如きものだった。
およそ天の恵福の薄かったことは、東漢の歴代中でも、この献帝ほどの方は少ないであろう。そのご生涯は数奇にして薄幸そのものであったというほかはない。
『通俗三国志』はきわめてシンプルで、献帝の共通を推し量ったりしない。
ここを『三国演義』では、「半晌(はんにち) 無言なり」とする。「晌」は「ひる」なので、ぼくは「半日」の意でルビを振りましたが、正しいのかよく分からない。『通俗三国志』は「ややありて」と言い換える。
『吉川三国志』は、この無言を拡大したといえよう。
しかも今また、魏の臣下から、臣下としてとうてい口にもすべきでないことを強いられたのである。お胸のうちこそどんなであったろうか。
帝ももとより、そのようなことを、即座に承諾になるわけはない。献帝の内心を解説している。感情移入すべき側としては、献帝なのだろう。魏蜀の正閏論ではなく、キャラの魅力として、この場面は、曹丕よりも献帝の心情を描くほうが、話がおもしろくなると、吉川英治が判断したと思われる。
三国志を読みながら、歴史書でなく物語としても、魏蜀の正閏論を読み取ってしまうのは、まだ中国風なのだ。日本風の『吉川三国志』は、そういう正閏論から自由に読まれるべきだと、ぼくは思う。少なくとも『吉川三国志』は、そういう問題設定/ルールに基づいて、描かれていない。
「朕よく高祖 三尺の剣を提(ひっさ)げて、秦を平らげ楚を滅ぼして、新たに天下を創立し玉ひ、世統(せいとう) 相ひ続きて四百余年 伝はりたるを想ふに、朕 真(まこと)に不才なれども、又た大なる悪逆をも成さず、安(いづく)んぞ祖宗の大業を等(なほ)閑(ざり)に弃(す)つるに忍びん。汝もろもろの臣 再びよく公(こう)計(けい)を議せよ」「朕の不徳は、ただ自らをうらむほかはないが、儂(み)不才なりといえ、いずくんぞ祖宗の大業を棄つるに忍びん。ただ公計に議せよ」
下線部を抜き出して、さらにカンタンにした感じ。『通俗三国志』では、高祖まで想起するが、『吉川三国志』では時系列が混乱するのを嫌ってか、祖先に思いを馳せたりはしない。まあ、高祖が云々というのは定型句だから、予備知識がある人は、カッコに入れて読み飛ばせる。
『吉川三国志』は、あくまで余計な情報は入れない。
と、一言仰せられたまま、内殿へ起たれてしまった。
献帝の退場は、『吉川三国志』のみ。つぎに華歆が、新キャラの李伏と許芝を連れてくる。いちど場面を区切らないと、分かりにくいと思ったのだろう。
華歆乃ち李伏、許芝を引きて御前ちかく進み、「陛下もし信(まこと)なりとし玉はざれば、此の二人に能く問ひ玉へ」と奏す。
時に李伏 申しけるは、「魏王 位に即(つ)きてより、麒麟 出(い)で、鳳凰 来(きた)り、黄龍 現(げん)じ、嘉禾・瑞草・甘露の奇祥ことごとく数(かぞ)へ難(がた)し。是れ天象を垂れて魏まさに漢の禅(ゆず)りを受くべきを示すものなり」華歆、李伏の徒は、その後ものべつ参内して麒麟、鳳凰の奇瑞を説いたり、また、
李伏のセリフは、内容が重複するのでカット。
許芝 奏して曰く、「臣(しん)等(ら) 司天の職を掌り、夜 天文を考へ視るに、炎漢の気数すでに尽きて、陛下の帝星 光を隠して明らかならず、魏王の乾(けん)象(しょう) 天を極(きは)め地を際(かぎ)る。言(ことば)を以て伸(の)べがたし。殊(こと)に其の讖文に、『鬼』辺に在りて『委』相ひ連なる、当(まさ)に漢に代はるべし。『言』東に在りて『午』西に在り、両『日』並び光(てら)して上下に移ると云へり。此れを以て論ずる時は、陛下 早く位を禅り玉へ。『鬼』辺に在りて『委』相ひ連なるは乃ち『魏』の字なり。『言』東に在りて『午』西に在りとは乃ち『許』の字なり。両『日』並び光(てら)すは乃ち『昌』の字なり。此れは魏 許昌に在りて漢の禅(ゆず)りを受くべきの象なり。願はくは陛下、よく察し玉へ」また、 「臣ら、夜天文を観るに、炎漢の気すでに衰え、帝星光をひそめ、魏王の乾象、それに反して、天を極め、地を限る。まさに魏が漢に代るべき兆です。司天台の暦官たちもみなさように申しておりまする」と、暦数から迫ってみたり、
下線部のみ採用。許芝の名はカット。裴注『献帝伝』では、もっとも長く、もっとも難解な理屈をこねるのだが、日本人に知られる機会を失った。
裴注『献帝伝』には、文字なぞなぞがある。東+日=曹。不+一=丕。委+鬼=魏。言+午=許。日×2=昌。『三国演義』は一部を省略し、『吉川三国志』は全てを不採用とした。麒麟や黄龍の件も「作者たる私・吉川も、怪しんで書いてますから」と断っている。さらに字謎を詳述したら、呆れられると判断したか。新聞のべつのクイズ欄とかで、連動した企画をしたら良かったのに。
帝 宣(のたま)ひけるは、「祥瑞・讖文 みな是れ謬(いつ)はりの虚説なり。安(いづく)んぞ軽々しく万世不朽の基(もとゐ)を捨つべけん」『吉川三国志』では下にまとめる。
っていうか、『三国演義』で献帝が反論するセリフをのせるとき、正史との違いに驚いた。だって正史では、献帝はもっぱら禅譲したがるだけ。「禅譲したがるだけの献帝」って、かなり政治的に限定された立場からの記述である。これが逆に浮き立つ。
華歆 又た曰く、「陛下 大いに差(あやま)れり。昔し三皇・五帝 徳を以て相ひ譲り、徳なきは徳あるに譲る。此れに依りて三皇より以来(このかた)、みな子孫に伝へて徳を諭ぜざれば、桀・紂に至りて天下これを誅す。天下は一人の天下に有らず。乃ち天下の人の天下なり。陛下 早く退きて徳ある人に譲り玉へ。遅き時は変を生ぜん」
ある時はなお、「むかし三皇、五帝も、徳をもって御位を譲り、徳なきは徳あるに譲るを常とし、たとえ天理に伏さずとも、必ず自ら滅ぶか、或いは次代の帝たる勢力に追われておりましょう。
夏桀王、殷紂王といった固有名詞を省いてある。
「天下は一人の天下にあらず」という名言も、カットする。
話者が、華歆から王朗へと畳みかける流れも、固有名詞をカット。
王朗 又た奏して曰く、「古(いにしへ)より以来(このかた)、興ることあれば必ず亡(ほろ)ぶことあり。盛んなること有れば必ず衰ふことあり。豈に亡(ほろ)びざるの国、敗れざるの家あらんや。漢朝 相ひ伝へて四百余年、いま気運すでに尽きたり。自(みづか)ら迷ひを執りて禍ひを招き玉ふな」漢朝すでに四百年、決して、陛下の御不徳にも非ず、自然にその時期に際会されておられるのです。
献帝その人の責任ではない、という話は、『通俗三国志』にないでもないが、『吉川三国志』が誇張して切りだしている。
「盛んなものも滅び、滅びないものはない」というのは、『平家物語』に代表される日本の伝統的な諒解だが、これは敢えて書くまでもないと判断して、削ったのだろう。難解だから省くパターンと、自明だから省くという二種類の選択があることに気づいた。
きっと『吉川三国志』も、この「禅代衆事」にうんざりしているので、省きたくて、うずうずしている。そのとき、「盛者必衰の理」が省かれたと、ぼくは思う。ふかく聖慮をそこに用いられて、あえて迷いをとったり、求めて、禍いを招いたり遊ばさぬようご注意申しあげる」 などと言語道断な得手勝手と、そして半ば、脅迫に似た言をすらもてあそんだ。
「言語道断な得手勝手」「脅迫に似た言」というのは、『吉川三国志』の解釈。文言をいちいち追いかけられなくても、メタな読み方をしたとき、このセリフ群がなにを意味するのか、導いてくれる。
「ご注意申し上げる」という、おかしな丁寧語は、「玉ふな」という『通俗三国志』に由来するのだろう。
曹皇后が献帝のもとを去る
帝 痛く哭(なげ)いて後殿に逃げ入り玉ひければ、しかし、帝はなお頑として、「祥瑞、天象のことなどは、みな取るにも足らぬ浮説である。虚説である」と、明確に喝破し、「高祖三尺の剣をさげて、秦楚を亡ぼし、朕に及ぶこと四百年。なんぞ軽々しく不朽の基(もとい)を捨て去らんや」と、あくまで彼らの佞弁を退け、依然として屈服遊ばす色を示さなかった。
「取るにも足らぬ浮説、虚説」と思っているのは、じつは吉川英治だろう。『通俗三国志』にも、さっき上にあったが、吉川英治は意見が同じだったので、浮説、虚説、喝破、と畳みかけるのだ。
高祖三尺、というのは、上で『通俗三国志』から省かれたものだった。つまり『吉川三国志』は、セリフの往復する回数を減らして、繁雑になるのを回避した。献帝による拒絶のセリフを、まとめてきた。
『三国演義』『通俗三国志』では、献帝は泣いて脅されてばかりである。でも『吉川三国志』の献帝は、「明確に喝破」するし、「屈辱遊ばす色を示さず」という態度である。これは、分かりにくさを解説するとか、繁雑を回避するといった、編集者の目線ではない。献帝のキャラクターを更新しているのだ。
この断固たる反対は、おそらく吉川英治は参照していないだろうが、『献帝伝』の曹丕による拒絶に似ている。一周まわって、ねじれた感じで似たのだろうけど。
百官みな大いに笑ひて退き、次の日 又たことごとく朝に集まり、内官に命じて帝を請(しやう)じ出さしむるに、帝 怖れて出で玉はざりければ、
李卓吾本、毛宗崗本、『通俗三国志』とも、百官が献帝を笑う。しかし吉川英治は、献帝が笑われる描写をカットする。その代わりに、魏王が裏から手を回して、朝廷で献帝を孤立させた様子を書く。これは、「ありそうな話」だが、少なくとも『三国演義』『通俗三国志』には見られない。
「郡臣が笑って、献帝は孤立する」という状況が、いかにして生まれるだろうか。吉川英治は、これを自問自答して、事情の説明したのだ。だがこの間に、魏王の威力と、その黄金力や栄誉の誘惑はしんしんとして、朝廟の内官を腐蝕するに努めていた。さなきだにもう心から漢朝を思う忠臣は、多くは亡(な)き数に入り、或いは老いさらばい、または野(や)に退けられて、骨のある人物というものは全くいなかった。滔々として、魏の権勢に媚こび、震い怖れ、朝臣でありながら、魏の鼻息のみうかがっているような者のみが残っていた。
魏王が金銭で高官を抱きこむとか、漢の名臣が老死したとか、吉川英治の推測である。エピソードを伴うわけでない。楊彪が生きてるんだから、あまりに「漢には人なし」と言ったらかわいそう。それかあらぬか、近ごろ帝が朝へ出御しても、朝廷の臣は、文武官なども、姿も見せない者が日にまし殖えてきた。或いは病気と称し、或いは先祖の祭り日と称し、或いは届けもなしに席を欠く者が実におびただしい。いや遂には、帝おひとりになってしまわれた。「ああ。いかにせばよいか」帝はひとり御涙を垂れていた。
献帝の孤独を、(史料や原典を)見てきたかのように書いている。しかし、『三国演義』や『通俗三国志』には、こんな描写はない。
正史で禅譲革命は、3週間ぐらいで完了する。だから、徐々に献帝のまわりが淋しくなり、、と変化する時間の幅がない。『吉川三国志』だけ読んでいたら、時間の感覚がくるいそう。
曹皇后 問ひて曰く、「いま百官みな陛下を朝に請(こう)て、政(まつりごと)を問はんとす。何ゆゑに出で玉はざる」
帝 御涙を流して宣ひけるは、「汝が兄 わが位を奪はん為に、百官をして逼らしむ。朕この故に朝に出ず」
曹皇后 怒りて申しけるは、「汝 わが兄の国を奪ふ逆賊なりとす。汝 漢の高祖と云ひしも、裳と本これ豊沛の一匹夫、なほ強きを頼みて秦の天下を奪ひ取れり。吾が父は四界を掃(はら)ひ平らげて、吾が兄しきりに大功あり。何ぞ帝位に即かざるべき。汝 位に登りて已に三十余年、もし吾が父を得ずんば、早く微塵にせらるべし」と罵り、車に乗りて出(いで)んとす。すると、帝のうしろから后の曹皇后がそっと歩み寄られて、 「陛下。兄の曹丕からわたくしに、すぐ参れという使いがみえました。玉体をお損ね遊ばさぬように」意味ありげにそう云いのこして、楚々と立ち去りかけた。
女性がらみは、本当に改変がおおい。『三国演義』は、女性が少ない物語だからこそ、その役割が物語の雰囲気を大きく規定する。
李卓吾本とそれに基づく『通俗三国志』では、曹皇后は献帝を叱る。「早く政治の場に出ろよ」と。
毛宗崗本では、毛宗崗なりの正義に基づき、曹皇后が兄を叱る。
だが『吉川三国志』は、曹皇后は誰も叱らない。ただ曹丕に呼ばれて、政治的な内容を何も語らずに去って行く。ここは吉川英治が「私なりに全訳」したところだろう。
吉川英治は献帝に同情的である。だから、『通俗三国志』で献帝が叱られるのを見て、これは採用したくないと思った(笑われるシーンを省くほどの愛があるのだ)。しかし毛宗崗本も、儒者っぽい匂いを嗅ぎつけ、物語的な真実ではないと思った。だから、曹皇后のセリフをはぐらかした。
政治的に対立する男達に板挟みにされた女性として、貂蝉との対比で見たら、何か言えるかも!帝は、皇后がふたたび帰らないことを、すぐ察したので、「お身までが、朕をすてて、曹家へ帰るのか」と、衣の袖を抑えた。皇后は、そのまま、前殿の車寄せまで、足をとめずに歩んだ。帝はなお追ってこられた。
切ない感じにしあがっている。
華歆が献帝につめよる
帝いよいよ驚き急ぎ御衣を更(あらた)めて前殿に出で玉ひければ、華歆 奏して曰く、 「陛下 早く臣が諫めに依りて、禍ひに遭ふことを免れ玉へ」すると、そこにたたずんでいた華歆が、
華歆の唐突な登場を、「たたずんで」と説明する。
「陛下。なぜ臣の諫めを用いて、禍いをおのがれ遊ばさぬか。御后のことのみか、こうしていれば、刻々、禍いは御身にかかって参りますぞ」
「御后のことのみか」と、華歆のセリフが増えている。『通俗三国志』では、初めから曹皇后が敵対しているので、新たに生じた禍いにはカウントされない。と、今は拝跪の礼もとらずに傲然という有様であった。
なんたる非道、無礼。つねにお怺(こら)え深い献帝も、身をふるわせて震怒せられた。「非道、無礼、震怒」は、吉川英治が付け足した。『通俗三国志』では、献帝は嘆くだけである。献帝に味方する毛宗崗本ですら、献帝は痛哭するばかりで、頼りない。
帝 哭(なげ)いて宣(のたま)ひけるは、「汝等は皆な漢の禄を食らふこと年久し。殊(こと)に功臣の子孫多き中に、何とて朕が憂ひを分くる者ひとりも無きぞ」
華歆が曰く、「陛下もし天下を魏王に禅り玉はずんば、旦夕 大いなる禍ひあらん。臣等 敢へて陛下に忠なきに有らず」
帝 宣ひけるは、「誰か朕に禍いする者あらん」
華歆が曰く、「天下の人ことごとく陛下 人君の福なく、四海の大乱に及ぶことを知る。魏王もし朝に在らずんば、陛下を弑(ころ)すもの公庭に満ち塞がらん。陛下なほ恩を以て徳に報ずることを知り玉はずば、天下の人ことごとく陛下を伐たん」
帝の宣はく、「昔し桀・紂 無道にして生民を残暴せしかば、天下の人ことごとく之を誅せり。朕は位に即いてより三十余年、兢々業々として嘗(かつ)て非礼の事を行はず。天下の人たれか朕を伐つに忍びん」『通俗三国志』は、献帝が「私を殺してみろ。殺せるものか」と脅迫いい、華歆が「殺したろか、殺したるぞ」と脅迫する。しかし吉川英治は、この緊迫したやりとりを載せない。
当然(?)ながら、すべて正史にない。「汝ら臣子の分として、何をいうか。朕、位に即ついてより三十余年、兢々業々、そのあいだかりそめにも、かつて一度の悪政を命じた覚えもない。
『吉川三国志』は、『通俗三国志』の下線部を持ってきたもの。
李卓吾本、毛宗崗本、ともに、献帝が「殺せるものか、殺される筋合いがあるものか」と言う。つまり、献帝の命を賭けた駆け引きは、吉川英治が省いている。これじゃあ、「あちらの人々は、行儀が悪いなあ」と思っても仕方ない。事実や正史でなく、『三国演義』だけ見れば、うんざりする。
もし天下に今日の政を怨嗟するものがあれば、それは魏という幕府の専横にほかならぬことを、天人共によく知っておろう。たれか朕をうらみ、漢朝の変を希おうや」
華歆 大いに怒り声を荒げて曰く、「陛下 徳なく福なくして自ら帝位に居(ゐ)玉ふは、桀・紂が残暴より甚だ過ぎたり」すると、華歆もまた、声をあららげて、御衣のたもとをつかみ、
「陛下。お考え違いを遊ばすな。臣らとて決して不忠の言をなすものではありません。忠なればこそ、万一の禍いを憂いておすすめ申しあげるのです。今は、ただ御一言をもって足りましょう。ここでご決意のほどを臣らへお洩らし下さい。許すとも、許さぬとも」 「…………」
李卓吾本と『通俗三国志』の華歆は、ろこつに脅迫する。でも吉川英治では、華歆はあくまで臣下としての「助言」という姿勢をくずさない。
これも、吉川英治が省いたという「残酷すぎる」シーンだろうか。まとめると、こんな感じ。
まとめると。吉川英治の方針は、残酷な場面の省略。禅譲を拒む献帝は、「私は悪政をしたわけではない。殺される理由もない」という。
『通俗三国志』で華歆は「無能なくせに長く帝位にいるのは、桀紂よりも悪辣だ。天下は献帝を殺したい者で溢れる。死ぬぞ。禅譲シマスと言え!」と脅迫。
『吉川三国志』で華歆は「勘違いしないで下さい。私は、献帝のためを思って禅譲を勧めます。さあ、あの御一言を」と。献帝に優しい『吉川三国志』。
オブラートに包んだ分、『吉川三国志』のほうが精神的なダメージは、じわじわ来るかも知れないけれど。
帝 怕(おそ)れ驚き、袖を払いて起ち玉ひければ、王朗 屹(きつ)と華歆に目(め)加(くば)せするに、華歆 走り寄りて御衣の袖を扯(ひ)き止め、色を変じて申しけるは、 「陛下の御意(こころ) 許すと許さざると、早く一言を以て決し玉へ」 帝 怖れ戦(わな)なきて答へ玉ふこと能はざる所に、帝はわななく唇をかみしめてただ無言を守っておられた。 すると華歆が、王朗へきっと眼くばせしたので、
『吉川三国志』で華歆のセリフであった、「ただ御一言をもって足りましょう」は、『通俗三国志』では王朗のセリフだった。登場人物を減らして、単純にしている。帝は御衣の袖を払って、急に奥の便殿へ馳け込んでしまわれた。
『吉川三国志』では献帝は奥に逃げる。でも『通俗三国志』では、献帝は華歆につかまえられて、奥に逃げることができない。これも残酷シーンのカットだろうか。
符宝郎の祖弼が斬られる
忽(たちま)ち曹洪・曹休の二人 剣を帯(はい)て殿に入り、「符宝郎は何(い)づくに在る」と問ひければ、符宝郎の祖弼 罵りて申しけるは、「玉璽は乃ち天子の宝なり。安んぞ汝等に与えん」たちまち、宮廷のそこかしこに、常ならぬ跫音が乱れはじめた。ふと見れば、魏の親族たる曹休、曹洪のふたりが、剣を佩はいたまま殿階へ躍り上がって、
いちいち解説が読者に優しい。「符宝郎はどこにいるかっ。符宝郎、符宝郎っ」と、大声で探し求めていた。符宝郎とは、帝室の玉璽や宝器を守護する役名である。ひとりの人品の良い老朝臣が、怖るる色もなく二人の前へ近づいた。
符宝郎の職掌を、字面から推測せよ、というのは、新聞の読者にはムリである。だから優しい解説をした。祖弼の「人品の良い」という描写は、筆の勢いだろう。
後漢より、璽綬の受け渡しが、皇帝即位において重要になった。符宝郎(印綬の化身のような存在)を登場させて、それを曹氏が切り捨てるというのは、優れたフィクションである。
「符宝郎 祖弼はわたくしですが……?」
「うム。汝が符宝郎の職にある者か。玉璽を取りだしてわれわれに渡せ」
「あなた方は正気でそんなことを仰せあるのか」
「拒む気か?」
『通俗三国志』では祖弼が一息に喋ってしまうが、『吉川三国志』では、短い言葉のかけあいになっている。ドラマ『三国志』で、符宝郎は問答無用で斬られた。吉川英治みたいに、細かな応酬があったほうが、緊張できて楽しい。
曹洪 大いに起こり、武士に命じて祖弼を外に引き出し、首を斬りて弃(す)てたりければ、帝 大いに怖れ玉ひ、階下に武(たけ)き魏の勢 甲(よろひ)を被(き)て戈を持ち、数百人あつまりたるを見玉ひて御涙 血を洒(そそ)ぎ、
「祖宗の天下 何ぞ期(ご)せん。一旦に廃せんとは、朕 九泉の下に死して、何の面目ありて先帝に見(まみ)ゆべき」 とて哭(なげ)き玉ひ、曹洪は剣を抜いて、祖弼の顔へつき出した。――が祖弼はひるむ色もなく、
「三歳の童子も知る。玉璽はすなわち天子の御宝です。何で臣下の手に触れしめてよいものぞ。道も礼も知らぬ下司ども、沓をぬいで、階下へ退れっ」と、叱咤した。
祖弼は、最後まで見せ場をもらった。「三歳の童子」とかも、『吉川三国志』による追加。「沓をぬいで」も追加。裸足って、罪人ということ?それとも、ただ室内では脱ぐという、日本の風習が紛れ込んだのだろうか。洪、休のふたりは、憤怒して、やにわに祖弼を庭上に引きずり出し、首を斬って泉水へほうり捨てた。 すでに禁門を犯してなだれこんだ魏兵は、甲を着、戈を持って、南殿北廂の苑(にわ)に満ちみちていた。帝は、いそぎ朝臣をあつめて、御眦(おんまなじり)に血涙をにじませ、悲壮な玉音をふるわせて、
表現は、作者自身の呼吸のテンポに合わされているが、内容はだいたい『通俗三国志』と同じ。閉じる
- 『通俗三国志』VS『吉川三国志』比較 下
献帝が禅譲を決心する
乃ち郡臣に向けて宣ひけるは、 「朕 願はくは天下を以て魏王に禅り、心安く一期を暮さば幸ならん」一同へ宣(のたも)うた。
「祖宗以来歴代の業を、朕の世にいたって廃せんとは、そも、何の不徳であろうか。九泉の下にも、諸祖帝にたいし奉り、まみゆべき面目もないがいかにせん、事ついにここへ来てしもうた。この上は、魏王に世を禅り、朕は身をかくして唯ひたすら万民の安穏をのみ祈ろうと思う……」献帝が内省して、先帝たちに申し訳ないというのは、『吉川三国志』が追加するもの。しかし今は、目の前で忠臣が殺されたのだ。『通俗三国志』みたいに、言葉が少ない方が、リアリティがあるかも。
吉川英治が、かなり献帝の内面に入り込んだことが分かる。
玉涙、潸(さん)として、頬をながれ、嗚咽する朝臣の声とともに、しばしそこは雨しげき暮秋の池のようであった。
献帝の涙は、吉川英治がおおいに追加した。
賈詡が曰く、「臣等 いづくんぞ敢へて陛下に負(そむ)かん。陛下いそぎ詔を降して万人の心を安くし玉へ」 帝 御涙さらに止(とどま)らず、乃ち桓階・陳羣に命じて禅国の詔を作らしめ、華歆を使ひとし、玉璽を捧げて百官と共に魏王宮に行きて曹丕に譲り与へさせらる。すると、ずかずかここへ立ち入ってきた魏臣 賈詡が、
「おう、よくぞ御心をお定め遊ばした。陛下! 一刻もはやく詔書を降して、闕下に血をみるの難を未然におふせぎあれ」と、促した。
賈詡の行動・言葉も、おおいに『吉川三国志』が追加している。この決定的な名場面を、『通俗三国志』のほうが、淡泊すぎるのかも知れない。
吉川英治による追加は、下線を付けてみた。綸言ひとたび発して、国禅(くにゆずり)の大事をご承認なされたものの、帝はなお御涙にくるるのみであったが、賈詡はたちまち桓楷、陳群などを呼んで、ほとんど、強制的に禅国の詔書を作らせ、即座に、華歆を使いとして、これに玉璽を捧げしめ、
『通俗三国志』には「ほとんど、強制的」なんて記述がない。
『三国演義』『通俗三国志』は、献帝が暴力の前に、なすすべなく全て従ったような書き方だった。だが『吉川三国志』は、献帝があくまで自主的に禅譲を判断したものの、胸中にはおおくの葛藤がのこる、、というキャラクターに仕上がっている。
ただの善悪とか、有能・無能に帰するよりも、ずっと近代小説のキャラクターとして完成度があがっている気がする。この点は、曹操に対する吉川英治の思い入れを裏読みすることで、何かを言えるかも知れない。まだ見通しのみ。
「勅使、魏王宮に赴(ゆ)く」と、称(とな)えて禁門から出たのであった。もちろん朝廷の百官をその随員とし、あくまで帝の御意を奉じて儀仗美々しく出向いたので、沿道の諸民や一般には、宮中における魏の悪逆な行為は容易に洩れなかった。
沿道に人々が並ぶのは、『三国演義』『通俗三国志』になくて、『吉川三国志』にあること。沿道には悪逆がモレなかったというのは、吉川英治の解釈。『通俗三国志』は、ここまで詳しく書いていない。
宮殿の内部での悪逆を、吉川英治が誇張して書いてしまった(と自覚した)が、物語は『通俗三国志』に準拠して進めねばならない。だから、悪逆がモレなかったと書くことで、誇張した分が以後のストーリーに及ばなくても、つじつまがあうようにしたのだろう。
曹丕が禅詔を受けとる
曹丕 大いに喜び、聞きて之を読むに、其の詔に曰く、
「朕 位に在ること三十二年。天下の蕩覆に遭ふて、幸ひにより祖宗の靈に賴り、危くして復た存す。然(しか)れども今 天象を仰瞻(のぞ)み、俯して民の心を察するに、炎精の數 既に終りて、行運 曹氏に在り。是を以て前王 既に神武の蹟を樹て、今王 久しく明德を光耀して、以て其の期に應ず。暦數は昭明にして、信(まこと)に知る可し。夫れ大道の行はるるや、天下 公を為し、賢を選び能に与す。故に唐堯は厥(そ)の子に私(わたくし)せず、而して名 無窮に播(ほどこ)す。朕 義なりとして焉(これ)を慕(した)ふ。今 其れ踵(あと)を堯典に追ひ、位を禅りて丞相・魏王に与ふ。王 辞することを得ること無かれ」曹丕 見了(を)はりて「来たか」 曹丕は定めしほくそ笑んだであろう。
詔を全てはぶく。新聞連載で、解説を加えながら引用していたら、1週間ぐらい掛かってしまう。その代わり、曹丕にほくそ笑ませた。
裴注『献帝伝』では、郡臣から曹丕への勧進があり、やがて禅詔が出て、禅詔と並行して勧進がつづく。だが『三国演義』は、郡臣から献帝への脅迫がおおく描かれる。もし史実でこれが起こるとしたら、曹丕が曲蠡に着陣してから、献帝の第一次禅詔が出るまで。漢魏革命にとっては不名誉なことなので伝えられないのかも知れないが、献帝の近辺で、このような葛藤があってもおかしくないのかも。
魏臣が、どこまで献帝の身辺に踏み込んでくるのか、ちょっとルール(とその破られ方の度合い)が分からないけれど。
即ち禅りを受けんとしければ、司馬懿 諫めて曰く、
「主上、かるがるしくし玉ふな。已に詔ありて玉璽を禅り玉ふと云へども、表を上(たてまつ)りて再三 献辞して天下の人の誹(そし)りを免れ玉へ」詔書を拝すや、直ちに禅りをお受けせん、と答えそうな容子に、司馬懿仲達があわてて、 「いけません。そう軽々しくおうけしては」と、たしなめた。
『通俗三国志』の司馬懿のセリフは、解説つきで、長く地の文に開かれる。司馬懿に直接にしゃべらせるには、だらだら説明くさくなる。かといって、『通俗三国志』の原文だけでは、漢文帝の三譲などの故事を知らない新聞読者は、置いていかれる。たとえ欲しくてたまらないものでもすぐ手を出してはいけない。何事にも、いわゆる再三謙辞して、而(しこう)して受く、というのが礼節とされている。まして天下の誹(そし)りを瞞(くら)ますには、より厳かに、その退謙と辞礼を誇大に示すのが、策を得たものではないでしょうか。
――司馬仲達は眼をもってそう主君の曹丕へ云ったのである。『通俗三国志』で司馬懿は、目でなく口で語るw
司馬懿が目で語ることになったのは、司馬懿のセリフを、吉川英治の地の文が奪ったからである。すごい、ツジツマのあわせかた。
曹丕これに従ひ、王朗に表と作らせ、玉璽を返し献(たてまつ)りければ、曹丕は、すぐ覚って、「儂(み)はとうてい、その生れにあらず、万乗を統(つ)ぐはただ万乗の君あるのみ」と、肚とはまったく反対なことばを勅使に答えて、うやうやしくも王朝に表を書かせ、一たん玉璽を返し奉った。
曹丕のセリフは、吉川英治のオリジナル。「万乗」も、吉川英治がべつのところから知識を持ってきて、付け加えたのだろう。「万乗」とは天子のこと。
「万乗」は、裴注『献帝伝』の庚午の詔書に、「夫れ万乘の位を辞せざるは、命を知り節に達するの数なればなり」とある。『三国演義』や『通俗三国志』にはない。吉川英治は『献帝伝』を見たのではなく(見たのなら、曹丕のセリフでなく、献帝のセリフとするはず)、天子=万乗という知識をもってきて、このセリフをひねり出したのだろう。『通俗三国志』に曹丕のセリフはない。かといって、曹丕の意見表明であろう上表を引用すると、重くなりすぎる。
「肚とはまったく反対」も、曹丕にとっては、吉川英治の言いがかりである。曹丕の本心なんて、分からないじゃないか。とくに正史では。
帝その表を聞き玉ふに、表に曰く、
「臣丕 謹んで詔を受け奉る。伏して惟(み)るに、陛下 垂世の詔を以て、無功の臣に禅りたまふ。臣をして聞き知めて肝胆 摧(くだ)け裂け、措く所を知らざらしむ。切(せつ)に以(おも)んみるに、尭 大位を賢に譲りて、巣由 跡を避け、後世 之を称す。臣 才は鮮(すく)なく徳は薄し。安んぞ敢へて命を奉ぜん。請ふ、盛世に於いて別に大賢を求め、礼を以て之を識(し)りて、庶(ねが)はくは萬年の議論を免れたまへ。臣丕 謹んで璽綬を納めて還し、死を闕下に待つ。惶懼・戦慄の至に勝(た)へず、表を奉りて以て聞(ぶん)す」『通俗三国志』の原文でも、ここは書き下し調に、開かれているのでなく、漢文の原文に、訓点が付いているだけ。堅そうだし、話をおもしろくするわけじゃないから、省いたのだろう。
帝 表を叡覧(えいらん)ありて御心 疑ひ、郡臣を顧みて、「魏王 禅りを受けず。いかがすべき」と問ひ玉へば、
勅使の返事を聞かれて、帝はひどくお迷いになった。侍従の人々を顧みられて、「曹丕は受けぬという。どうしたものであろう?」
セリフが対応する。と、いささかそれに依って御眉を開かれたようにすら見えた。
献帝は、禅譲を免れたかと期待する。吉川英治の献帝は、その胸中が克明に描かれているのが特徴。
献帝が娘とセットで禅譲を押し込む
華歆 奏して曰く、「陛下、いま唐尭の聖に効(なら)はんと欲し玉ふか」
帝 宣ひけるは、「如何(いか)なる故(ゆえ)ぞ」
華歆が曰く、「昔し唐尭 二人の御女(むすめ)あり。娥皇・女英と云へり。位を舜に禅り玉へども、舜さらに受け玉はざれば、了(つひ)に二人の御女を妻(めあわ)わせて後に帝位を禅り玉へり。此れに因りて今の世までも大聖人の徳と称す。陛下 幸いに二人の御女あり。何ぞ唐尭に効(なら)ひて魏王に妻(めあわ)せ玉はざる」華歆は、お側を離れない。彼はすぐこう奏上した。
華歆に離れてほしい。それが献帝(献帝に感情移入すべき読者)の願いである。とてもドラマチックに描かれる。「むかし堯の御世に、娥皇、女英という二人の御娘がありました。堯が舜に世を禅ゆずろうというとき、舜はこばんで受けません。そこで堯帝はふたりの御娘を舜王に娶(めあ)わせて、後に帝位を禅られたという例がございます。……陛下。ご賢察を垂れたまえ」
原文の「大聖人の徳」は省略されているが、だいたい内容は同じ。
帝これに依りて已むことを得ず、復た桓階に詔を造らせ、高廟使 張音を勅使として二人の御女を車にのせ、玉璽を捧げて魏王宮に到らしめ玉ふ。『三国演義』がまちがってるんだが。このとき曹丕は、鄴県の魏王の宮にいない。許県の南70里にある曲蠡にいる。『三国演義』仕様で、許県と鄴県を往復していたら、ものすごく時間がかかってしまう。献帝はまたしても無念の御涙をどうすることもできない面持ちを示された。ぜひなく、次の日ふたたび高廟使 張音を勅使とし、最愛の皇女おふた方を車に乗せ、玉璽を捧げて、魏王宮へいたらしめた。
『通俗三国志』の「已むことを得ず」を、もっと具体的に「御涙をどうしようも」と言い換える。小説としてば、ビジュアル化されたほうがいい。「高廟使」という、よく分からない官職も、『通俗三国志』を踏襲する。
曹丕 詔を披(ひら)き見るに、其の文に曰く、 「惟(こ)れ延康元年十月己酉(七日(四))、皇帝詔して曰く、咨(ああ) 爾 魏王、上書・謙譲、朕 切(せつ)に為(おも)ふに、漢道 陵遅し、日 已に久しきことと為る。幸ひに武王たる操(一)の徳 符運に膺(あた)り、神武を奮揚し、兇暴を芟夷して、区夏を清定す。今 王たる丕(二)は前緒を継ぎ承け、至徳は光昭なり。声教は四海に被(およ)び、仁風は鬼区を扇(あふ)ぐ。天の歴数 実に爾(なんぢ)の躬(み)に在り。昔し虞舜 大功 二十有りて、而して放勛 禅(ゆず)るに天下を以てす。大禹 疏導の績有りて、而して重華 禅るに帝位を以てす。漢 尭の運を承(う)け、伝聖の義有り。加々(ますます) 霊祇に順(したが)ひて、天の明命を紹(つ)ぐ。二女を釐(をさ)めて降(くだ)し、以て魏に嬪(ひん)せしむ。行御史大夫の張音をして、節を持して皇帝の璽綬を奉ぜしむ。永く人君と為(な)す。万国 天威を敬仰(三)し、允に其の中を執れ。天禄 永く終へん。之を敬しめ」
曹丕 見了(をは)りて大いに喜び、密かに賈詡に問ひて申しけるは、 「いま二度 詔を受くと云えども、孤(われ)ただ位を奪へりと人の沙汰せんことを恐るるなり」曹丕はたいへん歓んだ。
すげー!省略した。びっくりした。
賈詡が曰く、「これ甚(はな)はだ易きことなり。再び玉璽を返して堅く辞し申し、密かに華歆に命じて一つの台(うてな)を作らしめ、受禅台と名付けて吉日を択(えら)び定め、大小の百官、四夷・八方の人を集め、天子に自ら玉璽を捧げて天下を主上に禅らしめば、智者の謗りを塞ぎつべし」
曹丕「しかるべし」と喜び、又た表を上(たてまつ)りて玉璽を囘(かへ)す。けれど今度もまた謀臣 賈詡が側にいて、 「いけません。まだいけません」というような顔をして首を振った。
原文は賈詡が受禅台を築くところまで提案するが、吉川英治はただ否定するだけである。情報量が、一気に増えすぎないように気遣われている。空しく勅使を返したあとで、曹丕は少しふくれ顔して彼を詰問なじった。 「堯舜の例もあるのに、なぜこんども断れといったのか」
このあたりは、吉川英治のほうが、曹丕の心の動きを、『三国演義』や『通俗三国志』よりも、時系列にそって丁寧に見せている。
『吉川三国志』では、献帝を禅譲したくない者、曹丕を受禅したい者、華歆と賈詡と王朗を禅譲をプロデュースする者として、固定する。彼らの思惑は不変であり、ただ排他的・決定的に矛盾する献帝と曹丕を、献帝をおどしつつ、曹丕をなだめつつ、調整するという話になってる。
『献帝伝』では、字面では曹丕が辞退したり、献帝が禅譲を望んだりするので、これほど単純ではない。『三国演義』では、献帝が泣き寝入りするだけで、献帝と曹丕の対立までは見えてこない。「もうそんなにお急ぎになる必要はないではございませんか。賈詡の慮(おもんぱか)りは、唯々世人の誹そしりを防がんためで、曹家の子、ついに帝位を奪えりと、世の智者どもが、口をそろえて誹(そし)りだしては、怖ろしいことでございますからな」
張音 内裏に入(い)りて魏王 受けずと奏しければ、帝 郡臣に問ひて宣ひけるは、 「魏王 受けず。いかがせん」
華歆が曰く、「陛下 一つ台(うてな)を築き、受禅台と名づけて公卿・庶民を集め、明白に位を譲り玉へ。然る時は陛下の子々孫々 長く魏の恩を被(かうむ)り玉ふべし」「では、三度勅使を待つのか」
「いやいや、こんどはそっと、華歆へ内意を通じておきましょう。すなわち、華陰をして、一つの高台(うてな)を造営させ、これを受禅台と名づけて、某月吉日をえらび、天子御みずから玉璽を捧げて、魏王にこれを禅るという、大典を挙げ行うことをお薦め申すべきです」
『通俗三国志』では、場面が献帝と華歆のところに、いちど移る。しかし『吉川三国志』では、曹丕と賈詡の場面のまま、語りきってしまう。情報は減らない。場面転換が少ないほうが、分かりやすい。実に、魏の僭位は、これほど念に念を入れた上に行われたものであった。
これは吉川英治による総括。
受禅台を築き、禅譲をやる
帝これに従い、太常院官に命じて地を繁陽に卜せしめ、三重の高き台を築き、十月庚午の日 寅の刻を択(えら)んで、帝乃ち曹丕を台の上の請(しやう)じ、自ら玉璽を授けて、位を禅り玉へば、大小の官人四百余員、御林虎賁の軍勢三十余万、及び匈奴単于・化外の人ことごとく台下に集まる。受禅台は、繁陽の地を卜ぼくして、その年十月に、竣工を見た。
『三国演義』から『通俗三国志』まであった、太常院官というのが省かれたが、後漢の官名じゃないよね。三重の高台と式典の四門はまばゆきばかり装飾され、朝廷王府の官員数千人、御林の軍八千、虎賁の軍隊三十余万が、旌旗や旆旛を林立して、台下に立ちならび、こ
「大小の官人 四百余員」が、「数千人」に増えちゃった。まあ、三十余万というホラが書いてあるから、官員が増えてもいいのか。のほか匈奴の黒童や化外の人々も、およそ位階あり王府に仕えるものは挙こぞって、この祭典を仰ぐの光栄に浴した。
「黒童」って何だろう。吉川英治が追加した。十月庚午(かのえうま)の日。寅の刻。
日時を地の文から切り出し、メリハリをつける。
帝 位を禅りて冊文を読み玉へば、万人 跪いて之を聞く。その文に曰く、
「咨(ああ) 爾(なんぢ) 魏王よ。昔者(むかし) 帝尭 虞舜に位を禅(ゆず)り、舜も亦た以て禹を命(もち)ゐる。天命 常に於いてせず、惟だ有徳に帰す。漢道 陵遅して、世々其の序(ついで)を失ふ。朕が躬(み)に降り及び、大乱茲(じ)昏(こん)、羣凶 肆(ほしい)ままに逆らひ、宇内 顛覆す。武王の神武に頼りて、茲(こ)の難を四方に拯(すく)ひ、惟(これ) 区夏を清め、以て我が宗廟を保綏す。豈に予(われ)一人 乂(おさ)むるを獲んや、九服をして実(まこと)に其の賜を受けしむ。今王 欽みて前緒を承け、乃(なんぢ)が徳を光(てら)す。文武の大業を恢(ひろ)め。『爾(なんぢ) 度(はか)れ、虞舜に克(よ)く協(かな)ひ、用(もっ)て我が唐典に率(したが)ひ、敬みて爾が位を遜(ゆず)れ』と。於(あ)戯(あ)、天の歴数 爾(なんぢ)の躬(み)に在り。允(まこと)に其の中を執り、天の禄 永く終(おは)らん。君 其れ祗(つつし)みて大礼を順ひ、萬國を饗(う)け、以て粛(つつし)んでに天の命を承けよ」と。この日、心なしか、薄雲がみなぎって、日輪は寒々とただ紅かった。献帝は台に立たれた。そして、帝位を魏王に禅るという冊文を読まれたのである。玉音はかすれがちに時折はふるえておられた。
天候に関する情報が追加された代わりに、「冊文」の中身が、すべてカットされた。さすが大衆小説。献帝の声のトーンを描くことで、とことん献帝の内面に接近する小説。
ぎゃくに、曹丕はさっぱり感情移入をするキッカケを与えてくれない。彼の辞譲だって、司馬懿や華歆の策謀にすぎない。操り人形でしかない。
曹丕 八般の大礼を受けて、了(つひ)に帝の位に登りければ、賈詡 大小の百官を引きて尽(ことごと)く台下に朝(てう)せしめ、延康元年を改めて黄初元年と号し、国を大魏と号す。曹丕 自ら官人に命じて天下に大赦を行はしめ、父曹操を太祖武徳皇帝と謚しければ、曹丕は、八盤の大礼という儀式の後、
『三国演義』からある礼だが、どんな礼だろう。吉川英治は「般」を「盤」と、わざわざ画数を増やしている。台にのぼって玉璽をうけ、帝は大小の旧朝臣を従えて、御涙をかくしながら階下に降られた。
『通俗三国志』にあった賈詡の名をカット。かわりに、献帝の「御涙」を吉川英治が付け加える。天地の諸声をあざむく奏楽が同時に耳を聾(ろう)すばかり沸きあがった。万歳の声は雲をふるわした。その夕方、大きな雹が石のごとく降った。
雹が降るのは、吉川英治だけ。『通俗三国志』は、すべての儀礼が終わってから、強風で砂と石が舞い上がる。曹丕は病気になってしまう。これには、リアリティがないと思ったのか、雹に変更された。曹丕、すなわち魏帝は、 「以後国名を大魏と号す」と宣し、また年号も、黄初元年とあらためた。
故曹操にはまた「太祖 武徳皇帝」と諡された。
「武徳」という誤った諡号も、『通俗三国志』を踏襲。
献帝を山陽公におとす
華歆が曰く、「天に二つの日なく民に二人の王なし、已に帝位に即き玉ひぬれば、早く劉氏を何(いづ)れの処へも移し玉へ」とて、献帝を引き下ろし奉り、台の下に跪(ひざまづ)かしめれば、賈詡が曰く、「公卿に封じて即日に行かしむべし」
曹丕乃ち献帝を山陽公に封じければ、華歆 剣を取り声を励まして曰く、「一帝を立てて一帝を廃するは、古の常例。今上の仁慈 汝を殺すに忍び玉はず、封じて山陽公とす。今日 早く山陽にゆく、詔して召さずんば、必ず都に入(い)ること勿れ」ここにお気のどくなのは献帝である。魏帝の使いは仮借なく居を訪れて、
「お気の毒」を増やしてから、華歆の演説をカットする。華歆も賈詡も名前をつぶされて、「魏帝の使い」なんて一般名詞になる。2人とも既出なのに。
『三国演義』『通俗三国志』では、華歆、王朗、賈詡の魏の三公が、それぞれキャラを立たせながら、禅譲を演出してゆく。むしろこの3人を基軸にして、物語を分析したいほど。しかし吉川英治は、この『三国演義』以来の趣向を、ばっさりと切り捨ててしまった。ズル賢さの描写は、残酷だから。
「今上の仁慈、汝をころすに忍び給わず、封じて山陽公となす。即日、山陽に赴き、ふたたび都へ入るなかれ」
下線部は『通俗三国志』に対応する。華歆と賈詡のキャラがつぶれたこと以外、山陽公という結末は同じなので、情報は減っていない。という刻薄な沙汰をつたえた。
献帝 御涙せきあへ玉はず、拝謝して馬に打ちのり、すごすごとして去り玉へば、之を見る人 哭(なげ)かずと云ふものなし。公はわずかな旧臣を伴って、一頭の驢馬に召され、悄然として、冬空の田舎へ落ちて行かれた。
「刻薄」「わずかな」「悄然と」「冬空の田舎」と、とことん献帝をクローズアップする。
漢魏革命の物語の主役は、裴注『献帝伝』では、李伏と許芝。『三国演義』『通俗三国志』では、魏の三公。『吉川三国志』では、献帝。いずれの記事でも、曹丕が受け身に徹しているのがおもしろい。むしろ、曹丕を主役にして描いたら、どういう話になるのか。きっと、献帝と密会する場面を描くことになるだろう。
曹丕が強風で病気になる
曹丕 郡臣を顧みて、「舜禹の事、朕これを知る」
と云いければ、郡臣みな万歳を三声 呼ぶ。曹丕の名場面を、『吉川三国志』は省略する。『吉川三国志』が、ほんとうに曹丕(ひいては魏臣)を冷遇していることは、よーく分かった。
曹丕乃ち天地を拝せんとする所に、忽然として一陣の風ふき起こり、砂(いさご)を飛ばし石を走(わし)らしむこと雨よりも急にして、前後 俄(には)かに暗く成り、咫尺(二)の内をも見わけ難(がた)く、台上の燭火(ともしび)ことごとく滅(き)えければ、曹丕 驚きて倒れて地に根絶す。
『吉川三国志』は、さっき「雹」を降らせることで、この記事は、いちおう舐めたつもりだろう。だがこれは、曹魏の前途がくらいことを象徴する、大切な『三国演義』の演出である。飛ばしちゃダメだろ。
諸人たすけて宮中に入りければ、半時ばかりして生き出で、四・五日は朝に出ること能はず。病の少し癒ゆるを待ちて華歆を司徒に封じ、王朗を司空に封じ、ことごとく百官に賞を施し、鸞駕に乗りて許昌より洛陽に到り、宮殿をぞ造りける。魏の朝廷の為政開始も、洛陽遷都も、書いてない。
『通俗三国志』から、けっこう変わっていて、おもしろかった。140226閉じる
- 『吉川三国志』を読んで思ったこと
吉川英治の作中の解説
漢魏革命に際して、物語でない文章が挿入されます。
「麒麟の出現も、鳳凰の舞も…遠い地方に現れたのではなく、どうやらこれら重臣たちの額と額の間から出たものらしく思われる。 が、瓢箪から駒が出ようと、閣議室から黄龍が出現しようと、支那においては不思議でない」と。
「民衆もまた奇蹟を好む。鳳凰などというものはないという説よりも、それは有るのだという説のほうをもっぱら支持する通有性をもっている。朝廷を仰ぐにも、帝位についての観念も、この大陸の民は黄龍鳳凰を考えるのと同じぐらいなものしか抱いていなかった」と。
「層中流の人士でもかつての自国の歴史に徴して、その時代時代に適応した解釈を下し、自分たちの人為をすべて天象や瑞兆のせいにして、いわゆる機運を醸かもし、工作を運ぶという風であった」と。
これは、漢魏革命に絡めた吉川英治による、中国の「国民性」解説。小説の連載時、相手国を理解するというニーズもあったそうです。解説者としての吉川英治が登場するのは、食人習慣の件と同様です。
にゃもさんの『三国与太噺』より引用します。
『吉川三国志』草莽の巻 「劉安、人を喰った話」
http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20130402/1364904363
「そういう彼我の相違を読み知ることも、三国志の持つ一つの意義でもある」、これが本作における吉川英治の最も重要なスタンスだと僕は思います。
本作の序文で述べられている通り、そもそも『吉川三国志』には、日中戦争を契機とした中国への関心と理解への動きがその根底にありました。それは同時代に発表された村上知行、野村愛正、弓館芳夫らの「三国志」作品にも共通するところです。
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- その他、『三国演義』を読んで思ったこと
『通俗三国志』と李卓吾本の共通点
『通俗三国志』は、『三国演義』にある禅譲の詔勅などを、地の文のように書き下し文として開かずに(翻訳してしまわずに)、和刻本のように訓点や送り仮名だけを付けて、原文を見せる。「史実っぽさ」「教養書」として、『三国演義』を紹介した形跡だと想います。
テキストの異同により、すでに先行研究で明らかになっているように、『通俗三国志』の原本は李卓吾本だと確認されます。2例を見つけたので書きます。
『後漢紀』「今王又光曜明徳…天下為公、選賢与能」と。
李卓吾本「今王久光耀…天下為公、選賢与能」と。
毛宗崗本「今王又光輝明徳…天下為公。」と。
『通俗三国志』「今王久しく明德を光耀して…天下公を為す。」とする。
読み比べると、『通俗三国志』は、李卓吾と同じく「久」とし、毛宗崗と同じく「選賢与能」を省略している。しかし毛宗崗本の「又」を採用していないことから、『通俗三国志』による「選賢与能」の省略は、たまたま毛宗崗と一致したのだろう、ぐらいに推測を留めるべきか。
毛宗崗も引き比べて書いた、というには材料が足りない。
袁宏『後漢紀』の禅詔は「朕羨而慕焉。」と。
李卓吾本は「朕義而慕焉…無得辞焉」と。
毛宗崗本は「朕竊慕焉…王其毋辞」と。
『通俗三国志』は「朕 義なりとして焉を慕ふ…王 焉を辞することを得ること無かれ」となっている。
やはり『通俗三国志』は李卓吾本を見てることが分かる。「羨」を「義」にしたのは、李卓吾本の誤写もしくは改変。『通俗三国志』はこれを踏襲している。
ちなみに『吉川三国志』は禅詔を大胆に省略。
裴注『献帝伝』と、李卓吾本『三国演義』
『三国演義』李卓吾本は、曹丕の受禅辞退の上表を、『献帝伝』を切り貼りして、独自に編集(なかば創作)する。原文で100文字弱。毛宗崗本はそれを豪快に全て削る。だが『通俗三国志』はきっちり収録して訓点を付ける。やはり『通俗三国志』は、李卓吾本に基づいている。
李卓吾本は、『献帝伝』の”読まれ方”の一例として、史料価値がありそう。
たとえば、漢魏革命の新しい日付。『三国演義』李卓吾本は、献帝の己酉(十月七日)の禅詔を載せる。文面は『献帝伝』1回目の禅詔(十月乙卯=十三日)に似てるが、物語のなかでは2回目の禅詔にあたる。「乙卯」を「己酉」と読解・筆写しまちがうのは難しくないか。
毛宗崗本は、この日付をブレイブに省略する。
李卓吾『三国演義』では、献帝が禅詔を3回出す。だが『献帝伝』が載せる3回の禅詔の要約・改変ではない。勧進のストーリーは独自の創作(華歆が献帝を虐待)。
作中の3回の禅詔は、裴注『後漢紀』、『献帝伝』第一次禅詔、文帝紀の本文の3つを抄録したもの。出典を違うところに求めて、取りあえず3回分のの元ネタを得た模様。
当然ながら、『献帝伝』が持っていた、思想史的なストーリーは、『三国演義』から読み取ることができない。『献帝伝』を時系列に読めば、徐々に論点が推移しているのだが、『三国演義』はそれをクラッシュする。
関羽、諸葛亮、貂蝉など、伝承と相互に影響しあって形成されたキャラは、研究対象となるが、それだけの価値がある分、理解が困難。でも『三国演義』の編者が、知識人の読者を獲得すべく、正史を睨めっこして書いたような部分は「一次創作」の痕跡がまだ見える。漢魏革命のあたりは『献帝伝』のアレンジに苦心した編者の様子が浮かぶ。
話をつなげるためには、こういう地味な部分が、けっこう多いのだろう、『三国演義』には。だって「七分が史実」と言わしめるのだから、かなり正史に張り付かねばならない。
『蒼天航路』は、原作者が途中でお亡くなりになったらしい。批判の切り口として、「正史の解説漫画になった」というのがある。しかし、正史に寄り添ってくれたほうが、物語の形成過程を復元・想像しやすい。
文帝紀にある禅詔の読まれ方について。
はじめ正史に書かれ、李卓吾本『三国演義』に収録され、湖南文山『通俗三国志』が引用して訓点を付し、いまぼくが正史を読むときに、とても参考になります。世代(どころじゃないけど)を越えた学恩に、なんだかものすごく興奮する。
符宝郎の祖弼
ドラマ三国志を見ていて、漢魏革命で「フホーロー」という官名が出てきたが知らない。就官する祖弼という人も初見。
「自分が知っているなら正史準拠、知らないなら演義」という判定基準が成り立ちつつあるが、こんなのは本物の知識じゃない。符宝郎の祖弼は『吉川三国志』にも出てくる。
ほかにも、
漢帝の璽綬を曹丕にもたらした張音の官職について。裴注『献帝伝』では、禅詔のなかに「使持節行御史大夫事太常音」とある。李卓吾本も毛宗崗本も「使行御史大夫」とあり、裴注に準拠する。しかし李卓吾本も毛宗崗本も直前に「高廟使」という肩書を記す。後漢にそんな官職があるのを知らない。符宝郎と同じく後代の官職?
李卓吾本『三国演義』のおもしろさ
不毛な対立をあおりがちだが、正史VS演義は、魅力的な議論。立間先生の『三国演義』翻訳は毛宗崗本(のはず)だけど、李卓吾本のほうが、より正史の痕跡が強い『三国演義』だと思う。邦訳は少ないが、『通俗三国志』で雰囲気は味わえる。上記の議論に陥ったら、仲よく李卓吾本を読めば良いのでは。
『三国志平話』の荒唐無稽を修正し、知識人が読めるように正史で補正したのが『三国演義』とされます。李卓吾本は毛宗崗本より古く、正史の引用が多くてツギメが明確。悪く言えば、物語として完成度が低い(おもしろさに貢献しない正史ネタが多いから)。李卓吾本とその訳本の『通俗三国志』を読もう!
李卓吾本を改変したのが、毛宗崗本。
『三国演義』毛宗崗本は、八十回の冒頭に評(小論)を載せる。曹皇后は曹操の娘だが、漢帝のために曹丕を罵って偉いなあと。毛宗崗はこのコメントを入れるため、李卓吾本を改編したのかも。主張や論評ありきで改編するのって、物語作家として見るなら、ちょっとずるい。毛宗崗は物語作家じゃないけど。
@AkaNisin さんはいう。そこに限らず、毛宗崗の改変箇所はそういうのばっかりですよ( ・`ω・´)
以上、いい年休の使い方をしました。140226
夏侯惇の死期と、曹丕の居場所
漢魏革命の押し問答は、『三国演義』では、許県と鄴県の間で使者が往復する。正史では、許県と曲蠡(許県のすぐ南)で使者が往復する。曹丕が許県の南方で大軍を率いて居座る正史のほうが、献帝を圧迫する。正史ではデイリーで使者が往復するが(近いから)、『三国演義』では日付がない(遠いから)。
漢魏革命のとき、『三国演義』では華歆が許県にいて、王朗と賈詡は鄴県にいる。正史では、華歆・王朗・賈詡が魏国の三公として連名で曹丕を勧進するが、『三国演義』では彼らは離ればなれ。許県に入り込んで献帝を脅すという「おいしい役」を華歆が得たのは、伏皇后をいじめた実績を買われたからか。
正史の曹丕は、夏侯惇の死→鄴を出発→故郷で酒宴→許県に接近→禅代衆事→受禅。『演義』は、鄴を出発→故郷で酒宴→夏侯惇の死→(夏侯惇を見舞うため)鄴に帰還→禅代衆事→許県に接近→受禅。『演義』は禅代衆事のとき曹丕を鄴県に置くため、夏侯惇の死を半年も遅らせた。惇ファンに嬉しい仕様。
夏侯惇は南で死ぬ。夏侯惇伝に「督諸軍還壽春、徙屯召陵。文帝卽王位、拜惇大將軍、數月薨」と。夏侯惇の危篤を見舞うなら曹丕は、『演義』のように鄴に還るのでなく、南征を急ぐべき。この帰還は『演義』の創作で、「結局 曹丕は夏侯惇の死に目に会えなかった」と申しなさげに辻褄を合わせてある。もし曹丕と夏侯惇が対面したら、なんらかの会話イベントが発生する。そこまで、『三国演義』が面倒みきれない。冗長になるから。
嘉靖本を読んで気づいたこと
李卓吾本の誤り。『献帝伝』にある十月乙卯の詔を、嘉靖本では正しく「乙卯」と記す。だが李卓吾本では「己酉」とする。原『三国演義』が正史準拠で『三国志平話』等の系統に加筆したのに、李卓吾本に至るあいだでミスが起きた。『通俗三国志』も「己酉」と誤る。毛宗崗本は、日付そのものを省略する。
禅詔を2回も断られた献帝。嘉靖本と李卓吾本では、いきなり華歆が「唐尭をマネて娘を嫁がせれば良い」と言い始める。脈絡がない急展開。ここを毛宗崗本だと、「曹操を魏王に封じるときも、三譲があったじゃないっすか」と華歆がクッションを置いてから、嫁がせる話をする。毛宗崗本の華歆は親切。
ところで、嘉靖本と李卓吾本とを比べましたが、禅詔の日付(乙卯)を李卓吾本がミスっている、ということ以外は、たいした差異がなかった。むしろ、李卓吾本の特徴だと思っていた、挿入詩が、嘉靖本を引き継いだだけのものだと知って、ガッカリした。
嘉靖本は、簡体字・句読点つきで読んだ。李卓吾本は、句読点なしで読んだ。ぼくが李卓吾本を読んだとき、句読点をつけ間違えていることが、嘉靖本のチェックで判明して、直すことができた。
嘉靖本を読んだメリットといえば、そんなところか。
以上、いい年休の使い方をしました。140306
毛宗崗本を読んで気づいたこと
嘉靖本と李卓吾本で、献帝が「禅譲するから殺さないで」と言うと、賈詡が「私たち(臣等)は陛下にそむかない」という。毛宗崗本では、賈詡が「魏王は陛下にそむかない」という。直前に華歆が「魏王が朝廷にいなけりゃ、陛下を殺す者は天下にあふれる」と脅した。文脈では「臣等」が妥当。
毛宗崗本は、「献帝を殺し得る者は、曹丕である」と強調するために、李卓吾本までの文脈を崩した。さすが毛宗崗本、曹皇后に曹丕を罵倒させるだけある。曹丕に批判的である。
武徳皇帝。嘉靖本と李卓吾本では、曹丕が贈った曹操の諡号は「武徳皇帝」。でも毛宗崗本では「武皇帝」に修正されてる。毛宗崗本は、独自の好みによって毀誉褒貶を強めているだけかと思いきや、ちゃんと陳寿『三国志』も参照していました(当然のことですみません)。
ドラマ「三国志」で、渡邉先生が直したのだと思ってた。
華歆が禅譲を終えた献帝をどこかに封じろと言うとき、毛宗崗本だけが「漢帝既禪天下、理宜退就藩服」という文を挿入しており、解説がとても親切。嘉靖本と李卓吾本は、唐突に献帝を許都から(事実上)追放するだけに見える。これが追放ではなく、封建制度に基づいた処置なのだよと、説明されてる。
受禅を終えた曹丕は『魏氏春秋』で「舜禹之事、吾知之矣」といい、『三国演義』で「舜禹之事、朕知之矣」という。吾から朕に改変され、曹丕の自覚がみなぎる。前者のちくま訳は「舜と禹の行った事を、わしは理解したぞ」、後者の立間訳は「舜・禹のことは、朕もよう心得ておるぞ」。時制の語感・ニュアンスが違う。
ちくま訳では、この受禅・祭天の儀式を通じて、まさに今、舜禹のことを理解したという感動が伝わってくる。これは、『魏氏春秋』が祭天の直後に、この台詞を置くからか。
『三国演義』毛宗崗本の立間訳では、献帝を山陽に見送りながら、曹丕がこのセリフをいう。リアルタイムで、何かに気づいたとは思われない場面なので、立間訳では、このようになっているのだろう。でも、禅譲した者を手厚く待遇するというのは、尭舜禹の故事ではない。「二王の後」の話。
ぼくは、『魏氏春秋』のほうが、歴史資料であるにも関わらず、話としてうまく仕上がっていると思う。『三国演義』のように、とくに動きのない曹丕が、「わかってるから」と念を押しても、感動が半減である。
許昌のタタリ。曹丕の遷都は、毛宗崗本で「丕疾未痊、疑許昌宮室多妖、乃自許昌幸洛陽、大建宮室」と記される。許昌のタタリ(多妖)は李卓吾本までにない。許昌はもとは許といい、「曹魏が許にて昌(さか)ん」という讖文に基づいて漢魏革命を祝して改称したもの。曹丕にとって、とんだ言いがかり。
これは、許昌の城門が崩れおちて、ガッカリして曹丕が死ぬことへの伏線だろうか。
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