表紙 > 読書録 > 楊永俊『禅譲政治研究』を抄訳する

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内容提要、序文

楊永俊『禅譲政治研究』 学苑出版社、を抄訳します。

内容の要約

禅譲とは、王朝が交替する主要な方法である。堯舜禹の時代から、隋唐、五代や宋の時代まで見られる。禅譲は一種の政治の行為である。中国に特徴的な、礼儀化された政治である。
禅譲の「禅」は、先秦から秦漢の経書のなかに用法がある。「禅」とは、世襲、簒奪、譲国と隣接した概念である。「禅」の用法をさぐることで、中国の歴史の特性がわかるだろう。
皇帝の専政のもとでは、はじめて王莽が禅譲をおこなった。ただし起源は、堯舜にさかのぼる。堯舜は、原始の部落連盟の時代であり、首領を選挙するために、禅譲の制度があった。「賢と能を選ぶ」「民心を得て、天下を得る」の2つが原則である。のちの皇帝専政の時代も、この原則が継承された。

春秋戦国期、燕王のカイが禅譲を下が、これが代表的な禅譲の試みである。春秋戦国期、禅譲の思想は、「賢と能を選ぶ」と「民心を得て、天下を得る」という原則を発展させた。前漢期に「天下を公となす」という理念ができた。これらの原則と理念が、王莽の禅譲の思想的な根源である。
王莽は、伝説にすぎなかった禅譲を、歴史的な現実のものとした。王莽は、皇帝の専政のもとで、「いかにして権臣が、皇帝との地位を逆転させるか」という問題を解決した。王莽が確立した禅譲政治の「心法」は、魏晋のときに完成された。宋代まで継続した。
王莽は、孺子嬰を監禁した。これは、後代の禅譲のとき前例となった。南朝宋の劉裕にいたり、東晋の皇帝を殺戮した。劉裕の前例は、のちに前例とされた。前代の君主や宗室の待遇をおとす(これを「降殺制度」という)のは、王莽がはじめた。王莽は劉裕とちがい、平和に前漢の劉氏の待遇をそいだ。
王莽は、禅譲の方法を創出した。符命により、世論を獲得する。禅譲の前に、公国に封建される。礼を制し、楽を作ること。九錫を受けること。辞退の文面を飾ること。これらは、特徴的な禅譲の方法である。

禅譲政治は、前漢末に実践された。前漢の中後期には、「天下を1つの姓が私有しない」という観念が広がっていた。王莽の禅譲は、必然的な結果である。董仲舒の『公羊伝』の学説のなかに、五徳終始説が説かれる。五徳終始説が、禅譲の思想の根源にある。禅譲政治とは、儒家の仁政の精神を体現したものである。禅譲政治は、儒家のいう「天下を公とする」、「賢と能を選ぶ」とう政治の理想が、皇帝の専制のもとで、すがたを変えて実現したものである。

研究状況_001

禅譲は、西暦960年に北宋が周に禅譲するまで、数千年にわたって行われた。
先秦の研究者は、五帝時代からの禅譲をテーマにする。1940年代まで、禅譲は学会で熱心に議論された。 郭沫若、顧頡剛らは、堯舜禹の禅譲について見解をのべる。学説は2つある。禅譲を歴史的な真実と見なすのが、郭沫若である。禅譲を真実でないと見なすのが、顧頡剛である。
顧頡剛『墨家のいう禅譲伝説について』はいう。戦国期の時勢から考えると、禅譲はあり得ない。堯舜禹は実在の人物ではない、と。
解放ののち、堯舜禹の禅譲を扱う議論は停止した。文化革命の結果、研究が再開された。堯舜禹を、歴史的な現実と捉えて、研究が進められた。
いっぽうで、漢魏から宋代までの禅譲については、研究がすくない。原因は2つある。1つは、王朝交替のたびに禅譲があるので、とくに意識に登らない。2つは、魏晋の王朝交替は、禅譲ではなく簒奪が実態だと考えるから。清代の趙翼は、「禅譲というが、じつは簒逆だ」と分析した。

先行研究が列挙されていますが、抜粋します。_004


衛広来はいう。建安15年の「求賢令」は、ただ才のみを挙げさせた。曹魏は、賢者の採用を政策として、政権の合法性を準備した。これは儒家の「賢と能を選ぶ」という理想に符合する。漢魏革命において、この理想が実践されたという。
漢魏革命ののち、北魏の鮮卑を例外として、王朝の交替は、すべて漢魏革命をなぞる。漢魏革命の前には、「湯武革命」の方式が採用された。漢魏革命という成功例が現れてから、「堯舜が賢に譲る」の方式が採用されるようになった。古代の政治史で、1つ段階が進んだと。

彭邦本はいう。政治の腐敗を防止するため、禅譲という概念が発想され、『唐虞の道』が著された。『唐虞の道』とは、郭店から出土した竹簡に記されたテキストである。世襲制が失敗し、社会が被害を受けぬように、禅譲が説かれたと。
劉宝才はいう。禅譲とは、戦国中期に儒家がつくった概念である。堯舜禹という歴史伝説を吸収して、国家の元首にむけて提出された学説である。崇高な理想を語ったものであると。
蒋重ヨウはいう。「禅」とは「蝉」という文字が起源である。セミが脱皮するように、王朝が脱皮する。禅譲とは、断絶と継続をアウフヘーベンするものである。中国古代の王朝の交替にたいする思想であると。
これら先行研究は、堯舜禹の禅譲について論じるが、漢魏のことを論じない。堯舜禹と漢魏を、有機的につなげて論じなければならない。
日本の宮川尚志は『六朝史研究』の政治・社会篇に、「禅譲およびその王朝革命の研究」を採録する。内容が豊富であり、海外の研究のなかでは、もっとも整っている。宮川氏の特徴は、歴史上の禅譲を、ずらっと並べて論じている点である。

国内の研究者は、先秦の禅譲ばかりに着目して、魏晋を論じない。日本でも、魏晋南北朝の研究はすくない。わずかに宮川氏の研究があるだけである。アメリカでは、薄っぺらな小冊子があるだけで、こちらも先秦ばかり論じている。

テーマ選択の意義と構想_007

禅譲の研究には、3つの問題がある。1つ、禅譲の整合的な把握。2つ、政治的な特色の解析。3つ、禅譲政治の理論的な分析。

禅譲政治には、4つの段階がある。1つ、伝説のなかの堯舜禹。2つ、春秋戦国期の試み。3つ、前漢の中後期から王莽まで。4つ、魏晋南北朝から宋代まで。それぞれの段階は、たがいに関連をもつ。
禅譲の伝説は、春秋戦国期の思想と背景のなかから生まれた。儒家と墨家は、禅譲の伝説を理想化した。孟子、荀子、韓非子は、春秋戦国期に実践された禅譲を否定した。燕王カイは、禅譲を試みた。

伝説の確定を、春秋戦国期に求めるのね。

戦国末期から前漢初期にかけて、禅譲の思想は衰えた。前漢のとき、陰陽五行説が発達すると、前漢中後期に禅譲の思想が再燃した。最終的に王莽の禅譲にいたる。王莽による禅譲が、伝説と現実の境界線にある。伝説のなかの禅譲は、原始部落や部落連盟のとき、民主選択をした制度のことである。現実の禅譲は、皇帝の専制のもと、平和的におこなわれた王朝の交替である。

王莽によって、伝説から現実に移行した。なるほど!


堯舜禹の伝説を論じなければ、漢魏以降の現実を論じることができない。両者は、緊密に結びついている。禅譲とは、政治の現象であり、礼儀の行為でもある。王莽がはじめた政治の手続、九錫などの儀礼は、五代宋まで共通している。
伝説と現実をどちらも論じ、政治と礼儀をどちらも論じる。これが先行研究が及ばない点である。_009

ここから、本の構成、研究方法について、説明がある。本編を読めば、分かることなので、はぶく。

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禅譲の釈義と境界線

禅譲の釈義

「禅」とはなにか。_018
「譲」とはなにか。_023
先秦の典籍にある「禅」と「譲」_025
「禅譲」という熟語について。_028

関心から逸れるので、はぶきます。

『白虎通』によれば、禅とは「封禅」のこと。異姓が天下を獲得したことを、天に報告すること。など。

禅譲政治の境界線_030

禅譲について論じるためには、「禅譲に含まれるもの」と「禅譲に含まれないもの」を確定せねばならない。以下に4組の概念を比較して、禅譲の範囲を確定する。

◆禅譲政治と世襲継位
「禅」と「継」は、同じ意味である。先秦や秦漢における儒家の共同観念である。『孟子』万章篇でも、同じ意味だと記されている。だが、おもに異姓には「禅譲」し、同姓には「継位」するという区別がある。

世襲継位というには、厳格な範囲がある。皇族の男子だけが継位できる。継承には順序があり、嫡長子、嫡長孫、嫡次子、庶子という優先順位がある。血筋の貴さが、個人の賢さよりも優先される。世襲制度は、黄帝の子孫が帝王になったという前例がある。夏殷のとき、世襲は確立しており、子もしくは弟に王位が継承された。西周のとき、周公は制礼作楽して、嫡長子が継承する制度をかためた。歴代の皇帝は、200人以上いるが、ほとんどが世襲継位である。_031

禅譲の範囲は、世襲継位ほど固まっていない。前代の帝王の宗族を排除して、特権を専断すれば、禅譲といえる。国内の男性であれば、だれでも禅譲を受ける資格がある。選び、選ばれた者が権力をもつ。禅譲は、「賢者が治国する」というを追及したもので、いまの皇族の永続をめざす世襲とは、まったく目標が異なる。親族を選ぶことと、賢者を選ぶことは、対立する。
堯舜禹の伝説があり、春秋戦国期に儒家と墨家によって理想化された。戦国後期には、儒家や墨家を実践する者があった。燕王のカイ、趙の武霊王、魏の恵王は禅譲を試みた。これらは、王莽、魏晋南北朝の前例となった。

禅譲政治の歴史とは、理想を現実化するための過程である。世襲継位に比べると、禅譲は事例が少ないから、あくまで補足的なものである。世襲の10分の1にも満たない。だが中国史の発展において、重要な意義がある。

◆禅譲政治と権臣簒奪_032
世襲でなく、皇帝の姓が変わる場合、禅譲と簒逆とがある。だが明確に区別するのは難しい。『爾雅』釈詁は、「簒」とは位を盗むことだという。不法に奪うことである。古代の帝王は、みな終身制である。前任の君主が死ぬ前に、伝統に逆らって地位を奪えば、それは「簒」である。
伝統的な世襲継位では、兄弟の年齢の順番に、地位が継承された。庶子が嫡子から地位を奪えば、簒奪である。傍流が嫡流から地位を奪えば、簒奪である。たとえば西晋の司馬孚の子孫は、司馬懿の子孫の地位を奪取した。これも簒奪のひとつだ。
『荘子』では、習俗に逆らうことを「簒」という。『管子』では、臣が君に代わることを「簒」とする。臣が君に代わるのは、習俗に逆らうことである。『荀子』臣道では、命に逆らい、君に利さないことを「簒」とする。これら思想家の言うことは、おおくが重複している。

原始の部落社会で、堯舜禹は禅譲をした。しかし当時は「天下を公とする」習俗があり、また禅譲した者が不利をこうむっていないので、「簒」とはいえない。状況によって、禅譲か簒奪かの評価は変わるのだ。
簒奪とは、暴力をともなう傾向がある。軍事力でせまって、君主の利益を損なえば、簒奪である。ただし礼儀によって粉飾して、禅譲に見せかけることもある。
同族内での「内禅」は、簒奪とどう違うか。前任の君主の子孫が保全されれば、内禅というべきだろう。簒奪による弊害は起きていない。
しかし大多数の禅譲は、もとの君主の本心から出ていない。権臣が圧迫することで、仕方なく禅譲が行われた。王莽の禅譲、曹丕の禅譲が、禅譲なのか簒奪なのか、断定することは難しい。記録者の意図により、表現が選ばれる。_035

「区別できない」ことが区別できたのだ。


◆禅譲と譲国_035
禅譲と譲国は、同一の概念であろうか。これまで、あまり議論されず、混同されている。
「譲国」とは広い概念であり、「禅譲」を包括する。さらに譲国は、未遂に終わった禅譲も包括する。堯舜禹のとき、許由らへの禅譲は、未遂に終わった。春秋戦国期には兄弟のあいだで、王位や封国の譲りあいがあったが、これらは譲国であるが、禅譲とは言わない。

春秋戦国期の事例がある。はぶく。

禅譲とは、譲国のうちの一種である。禅譲は、異姓の王朝のあいだで起こることがおおい。譲国は、同姓のあいだで起こる。
『荀子』は天下で禅譲が起こることを待望した。『荀子』は、既存の諸侯の兄弟のあいだで、地位を譲りあうことを待望したのでない。禅譲とは、盛徳ある者に天下が移動することである。五帝以降、盛徳ある者が出てこないから、きちんとした禅譲は行われなかった。これが『荀子』の認識である。

◆外禅と内禅_036
禅譲には、外禅と内禅がある。
外禅とは、異姓のあいだの禅譲という。漢魏革命、魏晋革命、晋宋革命など。南朝斉と南朝梁は、皇帝が同姓の蕭氏であるが、血縁がとおいので、外禅である。堯舜禹は、みな黄帝の子孫だが、異姓なので外禅である。
中国史のすべての革命は、外禅である。

内禅とは、同姓の王朝のなかで、正当でない交替をすること。王族の成員が、父子や兄弟の順序をやぶって、君位につくのが内禅である。内禅は2つに区別できる。父子のあいだと、兄弟のあいだである。北魏や北斉に事例がある。はぶく。
内禅のとき、王朝が交替しないので、重厚な儀式をやらない。
内禅は、定常的に起こらない。少数民族の王朝では、よく見られる。北魏や北斉、清朝などにある。北朝では、長子継承という儒教の伝統がないので、内禅が頻発した。北魏の顕祖が孝文帝に内禅し、清朝の順治黄帝が内禅した。仏教にある厭世の思想も原因のひとつである。

外禅は、堯舜禹から北宋まで、3千年に跨がって発生した。王朝の交替は、外禅の形式をとった。
いっぽうで内禅は、歴史がみじかい。『左伝』で晋景公が内禅した。『史記』で趙武霊王が内禅した。『竹書紀年』で夏帝が内禅した。『左伝』荘公四年に、紀侯が内禅した。魏晋南北朝で数例がある。清朝で順治帝が内禅した。内禅は断続的に行われただけだ。
外禅は中国史における影響がおおきい。

◆禅譲政治の境界線_039
「禅譲」という概念の境界線を検討してきた。

ぼくが省略してしまった、この章の前半「禅譲の釈義」の結論が書かれているので、きちんと抄訳しようと思います。

「禅」という文字の用法は、史書において、戦国中後期に出現した。『孟子』や『荘子』の時代である。儒家は『孟子』万章篇にて、孔子のセリフに仮託して、禅譲に対する見解を述べている。「孔子はいう。唐虞は『禅』した。夏室のあと、殷室と周室は『継』した。『禅』と『継』は同じ意味である」と。『孟子』によれば、禅譲も世襲も、言葉はちがうが、実態は同じである。帝位の交替のことである。
禅譲と世襲を区別しないのは、『荀子』正論篇も同じである。董仲舒も同じである。正当の儒家は、禅譲と世襲を区別しない。禅譲の政治的な特徴を、儒家から読みとれない。

だが、禅譲を「賢に伝う」という理解は、世襲と禅譲を区別するだろう。鄭玄注『礼記』礼運はいう。「天下を公にする」とは、「天下を共に獲る」であると。鄭玄は後漢の大儒であるが、これは世襲の否定である。
『礼記』は前漢に編集されたもので、秦漢の儒家の著作をふくむ。鄭玄は、西晋の儒家や墨家の「賢者をとうとぶ」思想を結合させて、世襲を否定する思想をセットした。
前漢の文帝期の『韓氏易伝』も、同じ思想である。始皇帝から前漢への交替を、「天下を公とし、賢と能を選ぶ」思想を説いた。秦漢の交替期に、禅譲の思想が進展したのである。
魏晋をへて、唐代の孔穎達の『礼記』注釈では、さらに明確に世襲を否定している。孔穎達は『尚書』堯典を引用して、子孫でなく賢者に地位をゆずることを強調した。

禅譲は「わるいこと」ではない。つまり、永続すべき統一王朝にとって、偶発的に起こってしまう事故なのではない。儒家や墨家が、堯舜禹の伝説に仮託して、理想を語ったものなのだ。既存の権力者は、禅譲なんて概念はきらうだろう。それこそ「わるいこと」だと見なして、抑圧するだろう。だが、権力の外部にいる儒家や墨家は、権力者の意向を無視してでも、理想をかたる。
漢代になって、儒家が権力側に入りこんでゆく。儒家の考えた禅譲が、前漢の「自浄作用」のように、現実味をおびてゆく。しかし理想は理想でしかない。これを実現したのが、王莽である。王莽は、前漢との関係性の良し悪しはともあれ、理想を実現させた。「伝説を現実にした」とは、最大の賛辞だろう。
たとえば、「空を飛ぶことは、人類の夢だが、さすがに無理だよな」という時代があった。しかし飛行機の発明者は、いろいろ品質に難点があれども、人類に空を体験させた。既存の輸送手段は、自分の権益が妨げられるから、反発しただろう。だが、いちど発明された飛行機は、たとえすぐ墜落しても、前例となってゆく。王莽はすぐに墜落したが、やはり前提となった。
飛行機について理解するとき、飛行機に言及した古文書を見てゆけば、実現の可能性のうすい夢物語ばかり出てくるだろう。しかし、夢物語だからと言って、笑ってすませてはいけない。その夢物語があるから、やがて飛行機ができた。ルネサンス期には、飛行機の設計図があったかも知れないが(戦国期に燕王や趙王は禅譲を試みたが)未遂に終わった。彼らの試行錯誤が蓄積して、発明者(王莽)を経由して、近代に飛行機が完成したのだ(漢魏革命が達成されたのだ)。

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原始の禅譲政治

堯舜禹の禅譲_060

原始の禅譲政治における、末期の形態について。
堯舜禹の禅譲は、『尚書』にまとめられる。『堯典』と『虞書』には、禅譲の過程が詳細に記される。『史記』五帝本紀は、『尚書』に基づくものである。

『史記』のほうが、あとの編纂史料なのだ。

禅譲には3つの登場人物がいる。帝王、継承者、議会貴族である。継承者とは、帝王の子もしくは推戴された者である。帝位の継承は、議会貴族が決める。当時の部落連盟には「四岳」という有力者がいた。継承は、帝王が決められない。堯舜禹は、議会貴族に決定権があるという、原始の部落社会を反映したものだ。

すげえ!知らなかった。

学者は、ギリシャやローマに似ていると考え、西洋の学術用語で、堯舜禹を分析する。誤りである。西洋風に曲解せず、中国の特色をきちんと捉えるべきである。

『尚書』や『史記』には、禅譲がもつ2つの性質が見られる。
1つは、「賢と能を選ぶ」という目標である。私利ではなく、天下のために働く者をたたえる。「天は大任を降す」という。この目標を達成するため、禅譲には長い時間がかかった。たとえば舜は、28年間も摂政を試された。_063
2つは、民心の意向を重視することである。禅譲するとき、まず君主と四岳が候補を出してから、天下の諸侯に判断させた。

ぼくはこの本を読んでて思ったのだが。「民」というのは、近代的に1人1人の生活をもった、顔が見える(ことが想定された)独立した個人の量的にカウント可能な集合ではない。概念である。
例えるなら、ぼくらが「草花の気持ち」を考えるとき、「民」を思う思考に似ているかも知れない。草花には、どうせ自分と同レベルの知性や感性が、そなわっていない。しかし、真心をこめて接すれば、期待にこたえて果実をもたらすかも知れない。ときには枯れて見せて、「あなたの世話が良くなかった」と事後的に突きつける。しかし、どのように改善すべきか、までは教えてくれない。「自然のなすことだから」と、距離を取った上で、配慮せねばならない。
草花を大切に育てる人は、草花に話しかけるだろう。決して愚かではない。自分とは明らかに異なる生き物である草花に、自分に共通した部分があるだろうと、想像力を投影する。その投影した部分に話しかけているのである。古代の君主が、百姓に話しかけるとしたら、こんな感じでは。
もの言わぬ(教養がないから)民たちの心を、そっと感じとることができる。これが名君である。「里山のすぐれた管理者」が名君である。

『孟子』は、「民心を得る者が、天下を得る」という。この「民心」とは、貴族たちの普遍的な意思のことである。これが古代中国の禅譲の規則である。

先行研究では、禅譲の評価をめぐり、「選挙説」と「争奪説」に分裂した。この議論は、貴族たちによる選挙制度を見落としている。_063
『史記』五帝本紀では、はじめの黄帝から、長子の世襲がつづく。これは歴史の現実を反省しているだろう。五帝の時代の末期、貴族による選挙が行われ、堯舜禹の記録ができた。堯舜禹が現れたのは、世襲制から選挙制への過渡期である。_065

禅譲にはいくつか問題がある。
1つは、時間軸。堯が死んで3年で、摂政する舜が天子となった。舜の死後、禹が天子となった。通常の禅譲に関する理解では、前の君主が生前にゆずるはずだ。だが、前の君主が死んで3年喪を経てから、次の君主が立つのであれば、ゆずっていない。前の君主が死ぬまで摂政して、死後に新たな王朝を建てたのでは、ただの簒奪ではないか。これは魏晋時代の禅譲に似ている。
2つは、分類の問題。堯舜禹は、おなじ共同体の構成員であった。また禅譲ののち、正朔や服色が変わらない。これは、北魏と北斉に見られた、内禅(皇族内での継承)に似ている。堯舜禹とは、異姓の外禅ではなく、同姓の内禅に過ぎないのではないか。_066

ぼくは思う。ここに疑義があるように、堯舜禹は、必ずしも(漢魏以降に言うところの)禅譲をやったのではない。正朔や服色が、王朝の正統性をささえる要件になるのは、『尚書』が成立したあとである。『尚書』のなかに、正朔や服色による正統性の主張が、入りこむはずがない。
王莽は、堯舜禹という、つかみどころのない伝説を素材にして、漢魏以降の有史に言うところの禅譲を創出したのだ。
堯舜禹の伝説が、有史に言うところの禅譲として不充分なのでない。王莽が独創的なのだ。王莽が補って意味を確定させた、オリジナリティの上げ幅の分だけ、堯舜禹の伝説が不充分に見えるのだ。前後関係を誤解してはいかんなあ。
そもそも、ここに紹介されている「堯舜禹はほんとうに(有史と同じ意味での)禅譲か」という問いの立て方が、誤りである。
まるで、後漢を研究しながら、「後漢のなかには、近代的な特徴がおおく見られるので、完成度のたかい王朝である。魏晋になると、近代的な特徴が減るので、歴史的に後退する」と言う近代人と同じくらい、まったくチグハグである。後漢の人々は、近代を目指してないじゃん。その視角に意味はないよね。
それだけ、王莽がフロイト的に抑圧されているということか!すごいなあ、王莽。すごいなあ、王莽に対する抑圧。王莽を抑圧していることを、みな気づかずに中国史を研究している。それほど王莽は、中国史の研究者が誰でも無意識に見ているくせに、意識においては見ていないと思いこむ。

3つ、禅譲の前には、おおくの候補者がいた。人選における物語は、道家学派がおおくを記録する。これは小説であり、史実だと思えない。当時の民主的な政治の性格を示すかも知れないが。_067
姚エイ冰はいう。禅譲とは、歴史的な事実が投影されたものだ。虚構ではない。原始社会の部落連盟における、領袖を選挙する方法が読める。
著者が思うに、原始社会は、もとは黄帝の子孫が継承した。原始の末期に、民主的な選挙が行われた。その後、王莽の登場まで、1500年ものあいだ、禅譲は「長い夜」を迎える。

春秋戦国期の禅譲政治_067

春秋戦国期に禅譲が出てくるとき、「復古」が語られる。暗黒の中世ヨーロッパで、ギリシャやローマへの「復古」が理想化されるのと同じである。春秋戦国期の禅譲をしたのは、燕王カイ、趙武霊王、古蜀王_霊である。

◆禅譲政治の事件
燕王カイは、紀元前316年から314年のあいだに、禅譲をした。『戦国策』燕一に詳しい。燕王の事例は、春秋戦国期において、最大の影響をもつ、もっとも典型的な禅譲である。燕王は、子之に禅譲をした。これが内禅なのか、外禅なのか、よく分からない。遠い血縁者への禅譲のようであり、南朝斉と南朝梁の禅譲ににている。_069
趙武霊王は、寵愛する女が生んだ、末子に内禅をした。嫡長子の相続という規則をやぶり、内乱を起こした。司馬光『稽古録』にある。_070

ぼくは思う。孫権もまた「禅譲」をやらかしているのかも。少なくとも、趙武霊王と同等レベルには、継承者を混乱させた。

古蜀王の杜宇も禅譲をやらかした。張衡『思玄賦』と、注引の揚雄『蜀王本紀』に、この記事がある。歴史の真相は、2つの部落が合併しただけである。蜀地にいる首領が、巴人の部落を消滅させて、末代の国君・蜀王になりたがった。古蜀の乗っとりを、中原の文化で脚色した結果、あたかも禅譲のような逸話になった。
秦孝公と魏恵王は、禅譲の未遂をやった。_070

『説苑』至公篇はいう。始皇帝は群臣にいう。「五帝は賢者に禅譲し、三王は子孫に世襲させた。どちらが正しいか」と。博士の鮑令之が答える。「天下の官は、賢者から選べ。天下の家は、世襲させろ。五帝は天下を官として、三王は天下を家とした」と。始皇帝はいう。「私の徳は五帝から出ている。私は天下を官にしよう。誰であれ、私の代わりに天子にさせない」と。

天下を官僚組織とみれば、適任者をつけるのが正しい。天下を血縁集団とみれば、血縁者につがせるのが正しい。天下をいかに認識するか、という立場の違いなのだと。どちらが正しいと、一元的には決まらないのよと。

封建専制の中央集権した君主は、五帝時代の「天下を公とする」という思想を「大道」の原則とした。原則を実現するため、自分の子孫でなく、賢者に継がそうとした。いま博士は始皇帝に、禅譲を否定させた。
始皇帝は、五帝の禅譲にあこがれ、三王の世襲をきらった。秦孝公が禅譲にあこがれたように、始皇帝も禅譲へのあこがれを絶やさない。賢者への禅譲にあこがれるという思考は、正常と言うべきである。_072

ぼくは思う。春秋戦国期には、わりに禅譲が口にされた。いずれも、「もっと名君になろう」とか、「もっと自国を富ませよう」などの現実的な要請から出てきたのだろう。しかし、未遂に終わったり、混乱を招いたりして終わった。堯舜禹という伝説は流布しており、「賢者への禅譲」が理想的であることは、みんな知っている。だが成功する手段がない。人間の探求は、この「やりたいけど、できない」状態がおおい。この前段階には、「夢にも思わない」があるだろう。この状態から、前に進めることはない。ヒントとすべき何かが見つかっても、それをヒントだと認識できない。
さっきの飛行機の例ならば。「押さえられる力より、浮き上がる力が大きければ、飛べるはずだ。鳥だって、飛んでいる。しかし私は、飛ぶことができない」という状態である。何人かが、腕に羽をつけて、決死の覚悟でガケから飛び降りた。死んだ。設計図だけを書いて、溜息をつくだけの人もいた。
王莽の登場が待たれるなあ、という伏線だろう。


◆春秋戦国期の禅譲政治の解釈
禅譲の時期について。
古蜀はよく分からない。古蜀が滅びる紀元前316年より前だから、古蜀だけが他よりも早い。しかし、ほんとうに禅譲だったのか怪しい。
始皇帝が禅譲の意図を口にしたのは、統一した紀元前221年より後だから、いまは議論しない。
魏恵王は、紀元前334年ごろ。秦孝公は、紀元前338年ごろ。秦孝公のほうが、4年早いが、ほぼ同時期である。魏と秦は敵国だが、どちらも商鞅とつながりがある。同じ時期における禅譲の風潮のもと、どちらも未遂に終わったのである。
燕王と趙武霊王は、もっと遅い。燕王は、紀元前316年ごろ、趙武霊王は紀元前299年ごろか。両者は1世代以上は隔たる。
秦と魏は、戦国の中期。燕と趙は戦国の中期の終わり。これは孟子や荘子が活動した時代である。

禅譲の地域について。秦、魏、燕、趙は、範囲がひろい。地域の特徴を確定できない。秦と魏は未遂に終わったが、燕と趙は実行した。燕と趙は失敗して、国が衰退した。春秋戦国期の禅譲は、政治的に成熟していない。燕王の失敗が、とても顕著である。_075

燕王の失敗について記されるが、はぶきます。

『史記』燕召公世家にひく、徐広はいう。燕王カイは、在位7年で死んだ。燕王カイが即位して9年目に、太子の平が燕王となったと。燕王が禅譲した子之は、最長でも7年しか執政しない。このうち、舜禹なみに3年の準備期間をとり、また燕は大乱が1年あった。子之が摂政したのは、せいぜい3年である。『史記』燕世家によると、この期間に燕は、楚と三晋とともに、秦を攻めたが勝てなかった。短期間に、変化がありすぎる。
舜禹は、20年や30年かけて摂政して、禅譲を準備した。天下に業績を示した。だが燕王は、慌ただしい。禅譲の手法は、まだ幼稚で蒙昧な萌芽の段階である。

ぼくは思う。王莽が長らく前漢で輔政する。これも事後的には、「舜禹なみの摂政の期間」と見なされたのか。よく話ができている。燕王が急いで失敗したことすら、王莽の伏線となっている。


なぜ春秋戦国期の禅譲は、政治手法として発展しないか。禅譲政治をおこなうものが、意味を理解しないからだ。魏恵王と燕王カイは、ただ富国強兵のために、禅譲をやった。秦孝公は、政治改革の延長として、禅譲をやった。趙武霊王は、私情に流されただけ。4例とも、困難を打開するために、安易に飛びついただけだ。
堯舜禹のとき、民主的に首領を選挙する制度だった。しかし春秋戦国期の君主は、民主的でない。また、伝説の堯舜禹に自分をなぞらえて、むなしい名声を欲しただけだ。結果、燕王のように国を衰退させた。_077

「しかし、王莽はちがう」と、著者は言いたいのでしょう。民主的というと、なんだか近代の民主主義みたいだが、ちがう。諸侯というか、貴族というか、臣下のなかの有力者の合意のことを指す。春秋戦国期の4例は、いずれも君主が、かってに推し進めただけであると。「しかし、王莽はちがう」と、また聞こえてきた。


燕と趙は東北、秦と蜀は西南である。これら周辺で、禅譲があった。だが、中原にある正統な諸侯は、禅譲をしない。秦と魏は、未遂にとどめた。春秋の五覇、戦国の強国である秦・斉・楚は、禅譲をしない。国力は弱いが、地位のたかい、魯・楚・鄭は禅譲をしない。
周礼の制度が、各国にどれだけ残存していたかにより、決定される。春秋期に、礼楽は崩壊した。しかし、強大な国や、地位のある国は、周礼を伝承した。「堯舜禹の禅譲とは何か」を知っている、強大もしくは地位のある国は、いい加減な禅譲をやらない。禅譲を試みたのは、弱小で地位のない国である。_078

「しかし、王莽はちがう」と、また聞こえてきた。王莽は『周礼』を理解した上で、正しく禅譲をやった。春秋戦国期は未熟なので、「馬鹿がやる」か「賢者がやらない」の2つしかなかった。王莽は「賢者がやる」を達成した。


春秋戦国期の政治思想_078

◆賢人政治の主張
ひんぱんに起きた譲国と禅譲が、社会に禅譲の思想を起こしたのか。思想が起きたので、ひんぱんに譲国と禅譲が起きたのか。ニワトリとタマゴの問題で、確定できない。ともかく譲国と禅譲は、春秋戦国期の政治社会の産物である。当時の特徴は、「例は崩れ、楽は壊る」と概括される。秦や鄭などの強国は、周の天子を圧倒して「王天下」の特権を専断した。
富国強兵のために、伝統的な世卿の世襲制度を改革して、賢人を政治に登用した。斉桓公は管仲をもちい、晋文公は「賢士5人」を登用した。「親しきを親しむ」「尊きを尊ぶ」から、「賢きを賢しとす」という傾向が現れた。

儒家と墨家は対立したが、賢者を登用する思想という意味で、どちらも内容は似ていた。_079
『論語』子路で、孔子は弟子の子路に「賢才を挙げよ」と教訓した。朱熹の注解によると、「賢」とは徳あること。「才」とは能あること。こんな人材を用いろという。長子に世襲させるだけでは、徳も能もない者が出てきてしまう。徳や能のある者を用いることで、世襲制度を補整しようとした。
『孟子』も賢者の登用を説く。_080
『荀子』も賢者の登用を説く。_081
墨家の思想は、『墨子』尚賢に現れる。尚賢の思想と、賢人の政治について説かれている。「賢を挙げ、国を治む」のが「政の本」である。堯舜禹にも、湯武にも例外はないと。_082
『墨子』は、農工商のなかから賢者を登用して、職業の世襲をやぶれという。血筋、財産、容姿にこだわらず、賢者を選べという。「三不」の原則である。_082

「現状では問題があるから、改革をする」という、きわめて現実的な対応。堯舜禹を歴史としてカウントしなければ。禅譲という発想は、燕王カイなどによって、初めて現れたのだ。流産に終わったけれど。


道家と法家は、あまり賢能な者の登用を説かない。
道家の『老子』は、賢者を尊ばなければ、民は争わなくなるという。道家の『荘子』は、堯は賢者が天下に利することを知るが、賢者が天下に害をもたらす側面を知らないという。
法家の『韓非子』は、君主による法術の活用を主張して、臣下の徳能を軽視した。「法を上とし、賢を上とせず」である。賢者を用いれば、君主は簒奪されてしまう。賢者を用いるより、法術を用いるほうがマシである。『韓非子』は慎子原をひく。堯は禅譲後に匹夫となり、三人すら統治できない。夏王桀は天子となり(堯より人格が劣るが)天下を乱すことができた。君主が地位を保てば、いくら賢者でも君主に手を出せない。_083

「社会的な階層の流動」は、必ずしも常に正しいとは言えない。機会の均等、ひろく天下に公募して、、というのが、安定をもたらすとは限らない。「賢者を用いる」というのが、じつはラディカルで、かなり尖った特徴的な主張である、ということを忘れてはいけない。近代っぽいから、先進的である、というのは残念なのだ。


◆禅譲思想の拡張と衰退_083
「尚賢」の思想の極致が禅譲である。関心は、君主がいかに賢能な大臣を登用するかにある。諸侯の地位とは、天子にとって大臣である。賢能な大臣をもとめる思想は、賢能な天子をもとめる思想に結びつく。『墨子』に顕著である。_084
儒家と墨家が尚賢について論述するとき、かならず堯舜禹の原始における禅譲に言及される。『墨子』尚賢にある。賢者はなぜ天子の地位を得られるのか。『墨子』は天命鬼神の観念から、分析している。天地鬼神は、万民の福利のために賢者を帝王とする。_086
儒家も堯舜禹に言及するが、墨家のように迷信的でない。『孟子正義』万章章句上で、孔子はいう。唐虞は「禅」した。夏殷周は「継」した。「禅」「継」は、君主の地位を私的に独占しないという意味で、どちらも同じである。孔子は、性質がことなるはずの禅譲と継承を同一視して、賢者のあいだで地位が移動したという。
また孔子は、周代までの「礼」を回復することを夢想した。「礼」には、君主の地位が父子で世襲される制度をふくむ。ゆえに孔子は(周代の世襲を肯定するため)世襲と禅譲の概念を妥協的に同一視したのである。儒家が中庸の政治を尊ぶという特徴が現れている。_087
『孟子』はいう。禹はわが子に君主を継承したが、これは子だから継承したのではない。子の啓が賢者だから、継承したのだと。

うまい詭弁だが、筋道は通っているのだ。これにより、世襲か禅譲か、という二者択一な議論が、まるで意味をなさなくなってしまった。少なくとも『孟子』においては。ところで、漢魏の史料を読んでいても、あんまり『孟子』の学者っていないんだよなあ。

『孟子』によると、天命は民心に属する。君主が賢能か否かは、民心により決定される。民心を獲得する主要な方法は、仁政である。儒家による禅譲の思想は、『孟子』のときに微妙に変化する。天命と民心に迎合するため、「賢能を用いている」という虚飾が行われる。儒家の思想は低迷する。燕国では禅譲をやり、富国強兵どころが、政治に災難があった。_088
舜禹が天子になれたのは、諸侯の支持があったから。堯舜の子が天子になれなかったのは、諸侯の支持がなかったから。いくら形式だけマネても、春秋戦国期に禅譲をうけた者が、周囲から支持されねば、地位をたもてない。堯舜禹が得たという「民心」とは、諸侯の支持である。燕王カイは、燕国の有力者から支持されなかった。
『孟子』は、春秋戦国期の現実に影響を与えた。しかし禅譲によって成功した春秋戦国期の君主がいないから、儒教は低迷した。やがて秦漢時代にも禅譲の思想が出てくる。堯舜禹は「精神の武庫」として、影響を与えた。堯舜禹の伝説は、禅譲の精神の原動力となった。また具体的には、天命や符瑞によって、民意を操縦する手段とした。

「民」というのが、だれを指しているのか。政治家とその予備群である士大夫(支配者層)なのか、被支配者層なのか。なんだか議論がブレる。おそらく、『孟子』を読んでも、よく分からないのだろう。「民」というのは、「概念=言語で、うまく拾うことができない連中」を指す記号なのだと考えたら、この気持ち悪さも説明がつくけれど。『漢書』王莽伝だって、けっきょく王莽に反発するのは、民衆ではなく、士大夫であった。農業などの生産者である人々は、そもそもカウントに入っていない、と理解せねば、議論のワケがわからなくなる。


『荀子』は『孟子』よりも禅譲の議論が進んでおり、理想と現実の矛盾をかかえる。『荀子』正論では、禅譲を否定している。_090
『荀子』は堯舜禹の禅譲について懐疑して、鮮明に完全否定している。禅譲なんて「虚言」「浅はかな者の伝達」「陋者の説」であるとする。賢者への継承は、自然と発生するものである。前代の君主の恩恵によって、賢者に地位が伝達されるはずがない。これは、『孟子』のいう「天子は天下を人に与えられない」と共通する。『荀子』は禅譲を、「国をほしいままにしても、天下をほしいままにするな」に現れている。_091

たしかに、前代の君主が、恣意的に地位をもてあそぶのは、僭越なことかも知れないなあ。天子の地位とは、そもそも自然に継承されるもので、人間が(たとえ君主であっても)いじくれない。


法家の韓非子は、儒家の荀子の門生である。韓非子は、荀子の禅譲否定を継承し、発展させた。『韓非子』忠孝篇はいう。韓非子によれば、堯はバカで、舜は奸臣である。禅譲とは、馬鹿な君主が、奸臣に乗っ取られる過程にすぎない。これは、魏晋南北朝の、臣下が恫喝する禅譲に似ている。_093

以上に見たように、禅譲は思想において熱烈な話題であった。儒家の態度は、複雑で矛盾したものだった。『孟子』はかろうじて禅譲を折りあわせたが、『荀子』は完全に否定した。法家と道家も完全に否定した。ただ墨家だけは、禅譲を肯定した。墨家が活躍したのは、『孟子』の前代か同時代である。思想の主流においては、禅譲を否定する方向に向かっていった。

王莽への道筋が閉ざされてしまった。大丈夫なのか。春秋戦国期において、富国強兵のための試行錯誤のなかで、散発的に禅譲が行われた。散発的に、禅譲を理想的に語った思想家がいた。『論語』にいう賢者の登用など。しかし現実には、さっぱり適用しなかった。思想において、禅譲を否定するものが主流を占めた。そりゃ、禅譲なんて、実現不可能なだけでなく、政治を混乱させる有害な理想論である。むしろ、なんで禅譲思想が漢代に出てくるのか、そちらのほうが不思議で奇跡的なのだ。


夏殷周の禅譲と譲国_097

『史記』夏本紀によると、夏家の創始者である大禹は、表面上は堯舜から禅譲の伝統を継承しながら、世襲に切り替えた。天下において、禅譲は整っていない。大禹から子の啓には、世襲のような体裁が採られた。啓は前任者の子だから君位につくのでなく、賢者だから君位につくのだといわれた。当初の夏家は権臣の簒奪などがあったが、中康の時代以降は、世襲になった。
夏初に禅譲の記事があって以降、殷家から西周まで、禅譲の記載はない。ただ禅譲と密接不可分の「譲国」が偶発的に、殷初と周初の建国のときに現れた。
『韓非子集解』説林上によると、殷湯王は陰謀によって帝位をうばった。「譲国」というのは虚名である。夏桀王が暴君だから、国を譲られたという外衣をよそおった。『逸周書』殷祝解は、夏桀王が禅譲したという記事がある。_099

へえ!知らなかった。

夏桀王が三譲して、殷湯王がしぶしぶ受けとった。これは魏晋南北朝の禅譲と同じである。禅譲は、征伐とは並存できないはずである。夏桀王は、この三譲の前に、事実上、すでに国を失っていた。夏桀王と殷湯王の事例は、禅譲にカウントしてはいけない。原始社会における禅譲の概念は、すでに消滅していたと見なすべきだ。_100

ぼくは思う。堯舜禹の伝説が「異常値」なのだ。べつに古代のどこの時代にも、禅譲が励行された時代なんてない。伝説をふくんだ文献において、そんな時代はない。おそらく事実においても、そんな時代はない。だって「不自然」なんだもの。このフィクションを、あたかも「中国の前近代の歴史の特徴」であるかのように、手段催眠術をかけた、王莽はすごい。という話なのだ。


周武王が殷紂王を滅ぼし、中国は分封の社会になる。周公は制礼作楽して、西周は礼楽が完成した社会となった。長子が継承する、世卿世爵の制度が執行された。原始社会に見られた、民主選挙による禅譲や譲国などの事件は、まず起こり得なくなった。西周の社会は穏健だからである。

いくら禅譲を理想的に語っても、やはり「乱世における苦肉の改革」という性格は抜けない。禅譲が起こり得ないほうが、安定した社会なのだ。思想家たちが禅譲を否定するのは、理由がないことではない。王莽は周代を理想としたけど、周代の安定性を理想とする限り、世襲が強固に肯定されるだけ。だから王莽は、禅譲の遂行にあたっては、周公の理想を採用しなくなった。

西周が建国される前に、例外的に「太伯が三譲する」がおきた。太伯の譲国は、湯王の譲国とは異なる。太伯は、同姓で平等な兄弟のなかで、地位を回しただけ。君臣のあいだの禅譲をやったのではない。

以上のように、夏殷周の建国のとき、禅譲や譲国がいわれた。だが五帝の時代から離れるほど、禅譲は不可能となる。 禅譲は建前であり、美名を得るための脚色である。殷周にて制度の整備がすすむと、堯舜禹のような禅譲がなくなる。兄から弟へ、弟まが終わったら嫡長子へ、という継承の順序が固定する。これは原始の禅譲斉氏からの反動である。

禅譲なんか、ないほうが安定している。ゆえに王莽が、いかに特異なことをやったのか、浮き上がってくる。ずっと「そういう話」をしている。

西周の嫡長子の継承制度が完成する。殷湯王と太伯の三譲は、世襲制度に束縛された人々が、堯舜禹の夢幻を追い求めた結果、でてきた話である。実効性はなかった。_102

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王莽の禅漢、簒逆と居摂政治の突破

王莽は、禅譲の伝統の、継承と創造をした。原始の政治精神を復活した。
春秋戦国期の儒家がいう「天下を公とする」という理想を、皇帝専制のもとに持ってきた。禅譲は王莽が選択した、王朝を交替させる手段である。春秋戦国期に流行した簒逆政治と、夏殷周の居摂政治、五帝時代の原始禅譲などを、総合したものである。
王莽の禅譲は、後世におおきな影響を与えた。王莽は、禅譲した前代の君主を、はじめて監禁した。前代の君主の宗室を、はじめて降殺した。これら王莽がつくった禅譲の「心法」は、後世の規範となった。_111

王莽の受禅

◆禅譲の方式が選択された
先行研究では、王莽が禅譲を創始したという説と、曹魏が禅譲を創始した(王莽は簒奪に過ぎない)という説がある。王莽の王朝は、10数年で滅びた。では禅譲の成否は、王朝の長さで決まるのか。魏晋南北朝には、20数年で滅びた王朝もあるが、禅譲が失敗だったという評価にはなるまい。王朝の短命さは、政策の成否であって、禅譲の成否ではない。王莽が禅譲を創始したと考えたい。_113

禅譲の成立状況をグラフに書くなら。黄帝の時代はゼロ。堯舜禹のとき、3、4、5くらいに曲線が上昇したが、夏殷のとき、2に逆戻りする。つまり、禅譲の記憶は、伝説として残存しないわけではないが、現実的な手段と見なされない。西周が礼楽を完成させると、世襲が完成して、1にもどる。春秋戦国期に燕王や趙王が試みるが、10未満を低空飛行して、乱高下する。秦漢の交替期もそれくらい。王莽に到り、いきなり80に高められる。曹魏が95に押し上げて、魏晋で98くらい。あとは五代と宋代まで、ゆっくり100に近似的に接近する。
何が言いたいか。王莽のあげた幅が、とにかく大きいのだ。王莽の失敗を起点として見れば、曹魏による完成に目がいく。「曹魏は創出し、西晋以降は模倣である」となる。しかし王莽が、どこからどこまで持ち上げたのか、この本は教えてくれる。

前漢の劉邦は、武力により建国した。秦漢の交替期は、殷湯王のように武力討伐によって、王朝が成立するという思想があった。堯舜禹の禅譲は意識されない。春秋戦国期の禅譲思想は、漢代には直接の影響を与えない
前漢の中後期に「天下を公とする」思想が出現した。これが王莽の禅譲を基礎づけた。儒教の地位が向上したことで、戦国末期や秦漢交替期よりも、禅譲をしやすい環境をつくった。_113
王莽は皇帝専制の時代にいた。皇帝専制のもとでは、君臣の関係が春秋戦国期と異なる。三代と春秋戦国期は、社会の構造は、宗族の分封制度であった。親族が世襲するのが原則で、親族でない者は遠ざけられた。皇帝専制のもとでは、君臣の関係が成熟した。君臣関係の密接さは、伊尹と周公のいた殷周時代に似ている。権臣が摂政をすることもある。

権臣に摂政を任せられるということは、政治制度の成熟なのね。もし成熟していなければ、簒奪されて終わりである。となれば、漢代の制度の完成度は、ともかくすごい。

春秋戦国期に礼楽が破壊されて、権臣が簒逆するようになった。禅譲や譲国こそあれ、禅譲はポーズとなった。簒逆者は、前代の君主を殺害したり、廃黜したり、傀儡にしたりした。簒逆が頻発すれば、民衆を不安にさせ、政治が安定しないリスクがある。仁政を主張する儒家は、簒奪に筆誅をくわえた。君主権力が衰退した秦漢の交替期には、法家が盛んとなり、君主を権臣の簒奪から守った。_115

前漢末期、新たな政治的な危機となった。艱難の時代には、傑出した人物がでる。王莽は、周公や伊尹のように、問題を解決した。だが摂政した家は滅ぼされる。伊尹は殺害され、周公は南に行かされ、霍光は族殺された。王莽は霍光と同じ結末に行きたくない。

外戚の王氏は、皇帝の代数を重ねて、功績が大きくなってしまったから、最低限の自衛のために、禅譲をやらねばならなかった。霍光ですら、彼の死後に一族が倒れたのだから。
漢家を安定させるなら、霍光や王莽のような人物が「手柄を立てなければならない状況」を予防することだなあ。手柄を取らせたあとに、滅ぼすなんてひどい。手柄を取らせたあとに、禅譲をこばむのもフェアでない。

王莽が禅譲を受けた方法は、堯舜禹と同じで、戦国期の燕王カイとは異なる。
燕王は政治を混乱させただけだった。王莽から見れば、堯舜禹は時代がとおく、燕王は時代が近いのだが、かえって燕王を踏襲しなかった。史書において、堯舜禹は記録が詳細だが、燕王は記録が簡略である。王莽は堯舜禹をおおいに参考にした。_116

春秋戦国期の禅譲は、王莽が無視することで、ほんとうに歴史的意義が「なかったこと」になった。燕王カイなんて、知らない。というか、「口」偏に「会」と書いて、カイと読んでいいのか知らない。


◆王莽の禅譲の3段階
王莽が前漢から禅譲を受けるには、3段階がある。

(1)簒逆の段階_116
『荀子』臣道はいう。「命に逆らい、君に利せずを、簒という」と。顔師古は『漢書』成帝紀に注釈する。「逆して取るを簒という」と。簒奪の形式はいろいろあるが、既存の君主を廃黜して、べつの君主を立てることだ。残忍なら、君主を殺害して、自立することもある。王莽が簒逆する形式は、皇帝の弑殺であった。簒逆の段階とは、平帝の殺害である。

わりに王莽ファンっぽい研究者だったが、平帝の殺害は肯定するのね。たしかに『漢書』には、そう書いてあるから、そちらのほうが「実証史学的な態度」には違いないのだが。

王莽にとって、哀帝の死は幸運であった。哀帝が死んだので、王莽は執政を開始できた。王太皇太后は、哀帝の母・傅太后を押し退けた。外戚としての王氏を保全する目的である。王莽は最高となった。阿衡の伊尹と、太宰の周公をあわせた。
王莽は、元始元年に安漢公となり、元始4年に最高となった。王莽の集団は、完全に前漢の政権を主導した。_117

平帝は9歳で即位し、元始5年には14歳になった。判断力がつき、あと2年のうちに成年の礼をやる。平定は衛太后の子であるが、衛氏と王氏は中がわるい。霍光は昌邑王を廃して、宣帝を立てた。だが平帝は、昌邑王のように悪徳がない。王莽は、霍光の方法で、平帝を廃位できない。
平帝の身体が弱いことを利用して、王莽は平帝を殺害した。王莽は殺害について人々の耳目をふさいだ。『漢書』王莽伝には、平帝の死因がない。平帝は自然な病死か、王莽の殺害か、史学界には定説がない。私は王莽の弑殺に賛同したい。

著者の楊氏は、王莽が鴆殺したという史料を列挙する。まあ、それだけ史料があがるのだが、なお定説が出ていないという事態を、どう見積もるかという話です。
この本の議論としては、王莽の禅譲に、すべての要素が詰まっていると見たいだろう。弑殺によって、禅譲が起こるという話も、禅譲の伝説や学説の1つである。王莽にこの過程を踏ませたい、という行論上の要請は、よくわかるのだ。

王莽による弑殺は、「弑君36」といわれる春秋時代、荒唐な戦国時代のなかでは、新鮮でない。影響もちいさい。だが前漢のように、大一統の平和な年代のなかでは、影響が大きい。西晋や南北朝で、前代の君主が殺されるが、王莽はその前例となった。_118

西晋が君主を殺したとは、曹髦のことを言うのですね。
王莽が平帝を殺害したとしたら。禅譲を受けるために、殺害したのではない。そこまでの見通しはない。外戚の抗争から生き残るため、平帝を殺害したと見なすべきだろう。「そんな自分勝手な」と思うが、そこまでの自分勝手をやらないと維持できないほど、王氏は高みに登っていたのだ。


(2)居摂の段階_119
王莽の居摂は、平帝を殺してから始まった。『漢書』王莽伝の元始5年冬、泉陵侯の劉慶は「いま皇帝は孺子なので、王莽が居摂せよ」という。 しかし平帝はすでに孺子でない。王莽が居摂する前提条件は、皇帝が孺子であることだ。平帝が死んだ同月に、王莽が居摂せよという提案があった。翌月に、正式に居摂して改元した。
居摂というのは、天子の地位にいて、天子の事務を摂行することだ。劉歆による解釈によると、居摂とは「伊尹と周公が、殷道と周道を立てたようにやる」ことだ。出典は王莽伝。
居摂には前提条件が2つある。天子が幼弱であること。権臣が有徳であること。これで権臣が、天子の仕事を代行する。『漢書』王莽伝で、王莽が居摂する、必要性と合法性が説明される。必要性において、王莽は私利のためでなく、国家のために居摂するのだ。合法性において、周公の故事がある。王莽がもらう特権は周公のマネである。仮皇帝や摂皇帝の呼称は、『尺子』にある「周公は仮に皇帝となる」という文書からの直接の模倣である。_121

居摂までは、周公。渡邉先生の本でもそうだった。

王莽が居摂した原因は2つである。1つ、善感が衰弱していた。西周の初めも、周武王が死んで衰弱していた。2つ、王莽にとって禅譲は既定の方針であり、居摂は手段であって、最終目的ではない。王莽は、期限つきの居摂から、期限なしの終身制にいきたい。居摂と真皇帝のあいだの境界線があいまいになるよう、力をつくした。居摂と真皇帝は、特権も名分も完全に同一であることを強調した。

(3)禅譲して真となる_121
秦漢のとき、官職には「仮授」があった。仮に官職をうけ、職務を摂した。趙翼らの本が出典である。一般の官職とおなじように、皇帝にも「仮授」があったのか。王莽は居摂のとき「仮皇帝」の称号をつくった。官職の「仮」は、一般には1年が期限で、翌年には「真」となる。

王莽は、官職の制度から「換喩」的に、「仮」皇帝を設けたのか。頭がいいなあ!

王莽の仮皇帝は、官職よりは期限が長かった。2年半かかった。居摂3年の春、翟義を討滅したので、権勢が盛んになって、真皇帝となった。宗室の劉崇と東郡太守の翟義を平定したのち、王莽は真皇帝となった。周公が、管、蔡、武庚の反乱の前に、王を称したのとは順逆が異なる。_121

王莽が真皇帝になるには、3つの計画がある。1つ、母の3年喪をしないこと。理由は『漢書』王莽伝で、「意は哀にあらず」と説明される。しかしこの解説は皮相的である。史家が「王莽は不孝だ」と言うために書いたのだろうが、王莽は礼学の出身者で、若年のとき沛郡の陣参から『礼経』を学んでいる。元始3年、王莽が娘を平帝に嫁がせるとき、『五経』に基づいた。元始4年には、明堂、辟雍、霊台をつくった。居摂元年、南郊した。王莽は礼制を定めるほどだから、母の喪を哀しまないはずがない。

そりゃそうだ。ぼくでも、そういう制度を知っている。

孟祥才は「王莽の場合、孝行と権力が衝突したとき、孝行は犠牲となる」というが、著者は同意しない。王莽は母喪をしないのは、王莽が官民の喪礼でなく、帝王の喪礼をするから。天子とは天の子であり、父を天、母を地とする。祭祀のとき「私親を顧みず」なのだ。『漢書』王莽伝で劉歆が言うには。
王莽が仮皇帝であるから、「臣下の王氏」として自分の母の喪に服すのではなく、「仮皇帝」として天地の祭祀を優先するのである。

ここは、すごい詭弁だけど、説得力がある。王莽にとっても、いかにもタイミングが悪く母親がなくなったから、説明の必要が生じてしまった。仮皇帝なのに、3年喪をやったら、政治的には、引退(もしくは敗退)を意味してしまう。

2つ、祥瑞や符命をつくったこと。別に論じる。
3つ、正式に即位して、受禅の礼をやったこと。周公は7年で周成王に返却したが、王莽は返却しなかった。周公の旗号を撤去しなければ、王莽は禅譲を受けられない。居摂と禅譲のあいだは、天命や天意によってしか乗り越えられない。ゆえに祥瑞に基づき、王莽は禅譲を受けた。居摂3年、哀章が金ハコに図讖を入れてもってきた。_123
史書に、王莽と哀章の関係性は記されない。だが哀章は長安で学んだのだから、当時の大学博士の門下生か、もしくは招来された「異能の士」であろう。王莽は元始5年に、博士の定員を増やして、経ごとに5人をおいた。異能の士を数千人まねいた。王莽が宰衡になれたのは、このとき招いた学者の助力である。王莽の意向を受けて、学者が動いたかも知れない。_124

王莽が学問を盛んにして、「スフィンクスの謎をとく」ことは、史書における博士の増員として現れる。そして謎を解いたとき、禅譲がおこる。禅譲が「究極の学術的な成果」なのだ。この本が言うように、無から有を作り出すのだから。べつに学者が、待遇を改善した王莽のために、へつらったと言いたいのではない。しかし、前漢末の打開しがたい雰囲気のなかで、研究結果を出すというのは、そういうことなのだ。

天命は「高皇帝の霊」から伝わったという。符命も、宮中に白衣の神人が現れて「王莽を真皇帝に」というのも、王莽の禅譲をうながした。ただし王莽は、法理なき禅譲をしたから、後世の禅譲とは異なる。王莽の禅譲は、政治的には成熟していたわけでない。_125

いかに成熟したかは、のちに曹魏が語られる。ちゃんと官僚をセットして、禅譲後の政治スタッフを確保したのは、曹操でした。その意味で、儀礼的には王莽が新しく、政治的には曹操が新しく、曹丕は2人から引き継いだだけ、という話になる。曹丕から見ると、王莽は遠く、曹操は近い。だが両者の距離は、じつは同じぐらいなのかも知れない。


王莽の政治的な不成熟は、王莽が受禅した場所にあらわれる。王莽は高廟で受禅した。曹魏以降は、南郊で受禅下。王莽は堯舜の禅譲で「受終文祖」とある。孫星衍は「文祖とは、堯の大祖である」という。堯舜はどちらも黄帝の子孫である。文祖とは、堯舜に共通の祖先だったかも知れない。王莽が劉邦の高帝廟で受禅したのは、これの模倣だったか。
王莽は、周公のように摂政し、舜禹のように受禅した。王莽の受禅は、三代の摂政政治と、五帝の原始禅譲政治を総合したものである。_125

王莽の3つの計画は、緊密に結びつく。1つ母に服喪しないのは、摂皇帝と真皇帝が同じであることを示した。2つ瑞兆は、仮高帝が真皇帝につくべきと示した。3つ受禅は、これまでの2を基礎として、上帝と祖宗の神霊によって完成された。瑞兆と受禅は、絶対に分解できない。天命が符命によって直接的に伝達された。「神道設教」の手段が、王莽の禅譲において、もっとも有効に利用された。

簒逆、居摂、禅譲という3段階は、宰衡、仮皇帝、真皇帝という飛躍をつくった。簒逆(平帝の殺害)は、春秋の権臣のやりかた。居摂は、三代の周公、伊尹のやりかた。是能は、五帝のやりかたである。
王莽は飛躍のたびに、それまでの認識を否定した。どんどん遡った。この3段階の変化が、王莽が前漢の政治危機を救うために見出した方法であった。_126

王莽の禅譲後の政治

◆前漢の王室のあつかい
前漢の帝王と宗室を、いかに処置したか。禅譲を推進してくれた功臣を賞賜し、礼楽制度は継承と確信をせねばならない。
堯舜禹には、前の王朝のあつかいが記されない。前の君主が死んで3年後に、禅譲を受けるからだ。戦国燕のとき、前代の君主は、ふたたび君主にもどった。前例がない。_127
王莽は儒家経典に方法をもとめた。董仲舒の春秋学は、王者が「通三統」するという学説をあげる。「王者は二王の後を封じる」という。正朔、服色、礼楽を継承させる。二王の後を「地は方百里、爵は公を称し、これを客として待し、臣を称さず」という。そこで王莽は、孺子嬰を方百里の公に封じて、宗廟を封国に建てさせ、正朔と服色を維持させた。董仲舒の精神を具体化した。
王莽の禅譲は、まず「通三統」を踏まえて、劉氏を安置することで成功した。後世の禅譲は、みな王莽の前代に対する扱いを参考にする。

王莽は、正朔、服色、不臣を原則とした。董仲舒の「不臣」後王学説にもとづく。しかし王莽は、孺子を「北面して称臣」させた。燕王カイと同じである。王莽は董仲舒と矛盾する。曹魏にいたり、「上書で称臣せず」が完成される。晋宋革命から、「上書で表せず、答表で詔と称さず」に改まる。書物の形式について、128頁にある。
王莽は、劉氏が祖宗を祭祀することを許したが、具体的な規定がない。曹魏のとき、明確化した。曹魏は劉協に、「天子の礼をもって郊祭する」を許した。南朝宋では「天子の旌旗を載せる」を許した。
曹魏のときに、前代の君主の待遇が確定され、南朝まで継承された。王莽は、まだ完備していない。_129

物質の待遇において、王莽は孺子に、数県で1万戸をあげる。地は方1百里の公国である。曹丕は献帝に、1万戸をあげた。南朝宋では1郡である。南朝の1郡は、漢魏の1万戸と、経済的には同等である。曹魏と司馬晋は、前代に1県だけをあげたが、京畿で人口密度が高いので、経済的には同じぐらいである。王莽が前例となった。
董仲舒は「百里の地」というだけで、戸数を定めない。王莽は厳密に百里を守り、のちの時代は、百里でなくても、経済的に同じぐらいの封邑をあげたのだ。_129
「ながく新室の賓となす」は、董仲舒の「不臣」を守っている。『尚書』に「虞賓在位」とある。董仲舒と『尚書』の内容は同じである。虞とは舜のこと。王莽は、堯舜禹の禅譲を模倣した。_130

◆禅君を監禁する_130
王莽は後世の前例となった。王莽伝は、「明光宮を定安館とする」とある。王莽が孺子を監禁した。「門衛の使者が監領した」とあるが、孺子の見張りである。
理由1。孺子を担いで、漢室復興の起兵があるのを懼れた。
理由2。精神の制御である。幼い漢帝を外界から遮断することで、言語すら発達させなかった。王莽は儒家のいう仁愛・仁慈の政をしいたが、孺子を押しこめた。漢魏革命でも、劉氏は西晋になるまで解放されなかった。魏晋革命では、曹奐が金墉城に監禁された。山濤が見張った。趙王の司馬倫が禅譲したあと、恵帝を金墉城に監禁した。東晋で桓玄が受禅すると、皇帝を尋陽にうつした。これは曹奐の故事であった。劉裕が受禅すると、晋帝だった零陵王を、秣陵宮に監禁した。
魏晋革命のとき、やや寛容だったが、原始の禅譲はきびしいものだ。王莽だけに由来する害毒ではない。南北朝になると、禅君を殺すこともある。史家は「曹操は堯舜禹の故事をかたるが、禅譲なんて暴力だ」と批判する。南北朝になると、君主権力が強化され、禅君の影響も巨大になるので、禅君は警戒されて殺された。軍事闘争にかつがれるリスクがあった。_131

君主の権力が強くなると、かえって禅君は殺される。強いから、殺される。王莽や曹操のときは、それほど禅君が脅威ではないから、生かされた。見せかけの儒家的な温情を示すことができたと。


王莽が始めた禅譲政治は、劉裕のときに変化した。劉裕で明確に境界線をひける。王莽から桓玄までは、儒家が古代を尊ぶ方法だった。温厚な士大夫がやった。堯舜禹を敬仰して、名目をもとめた。
だが劉裕は、社会の底辺層から出てきたので、儒家の思想を理解しない。南朝では、劉裕以降、禅君を殺すようになった。_132

やっぱり、ぼくたちの知っている時代は、裴松之が登場する、南朝宋が「下限」なんだと思う。ゲームのルールが変わるのだ。


◆降殺の制度_132
前代の君主を安置したら、つぎは前代の宗室である。始建国元年、王莽は宗室を処置した。
王莽は、劉氏の郡守を諫大夫にした。前漢の郡守は、実権が大きいからだ。翟義のように、郡を挙げて挙兵するのを防いだ。宗室は、文帝と景帝のとき実権をけずられた。前漢末は、政事をやらない。だが少数の宗室や疏属は、じぶんの才能によって太守などになっていた。
王莽は劉氏の王を、公爵に格下げした。莽新の皇族の公爵と同じにした。『通鑑紀事本末』は、詳細に記載する。劉氏の諸侯王22人が公爵となる。侯爵181人は子爵となる。それ未満は爵位を剥奪されたと。
莽新の初期、公爵が上限である。大部分の劉氏が侯爵であった。また劉氏は公爵におとされたが、名目だけであり、一般的な編戸斉民と同じである。王莽が即位した翌年2月、「漢の諸侯王で公爵となる者は、璽綬を返上せよ」という。11月、立国将軍の孫建が、諸侯から吏をはずせという。これにより、劉氏の特権は完全に剥奪された。劉氏を一時的に厚遇したのは、禅譲を成功させるためだった。_133

王莽は、劉氏の王を公爵としたので、封爵の制度が混乱した。孺子嬰が公爵である。諸王と孺子嬰が並んでしまった。これが混乱の1つ。王氏の宗室を格上して、公爵とした。前漢の劉氏の公爵は、新室の賓客のはずだ。だが新室の公爵は、新室の臣子である。王莽の五等爵は、前漢の王爵をついだものだが、異姓の封王がいるので、紛らわしい。
莽新では、王子は公爵で、大臣は公爵で、禅君は公爵で、劉氏の王も公爵である。混乱の2つめ。
このように混乱したのは、王莽が『周礼』の封爵制度をまねたから。_134

王莽の降殺制度は、前代の天子と宗族にたいする政策である。前例となった。曹丕は、献帝を公爵とした。劉氏の諸侯王を崇徳侯とした。王莽の混乱に比べると、漢魏革命、魏晋革命では整う。魏晋革命では、曹氏の諸侯王をみな県侯とした。晋宋革命は、晋帝を王、晋の諸侯を侯とした。以下、南北朝について概観する。王莽から始まり、北周の文帝まで『周礼』を模倣した。_135
王莽が始めた、禅君の待遇、宗室の降殺は、変化しながら受け継がれた。3つの段階がある。1つ、王莽から漢魏まで。前代の天子は公爵となった。2つ、魏晋から北斉までの禅譲。前代の天子は王爵をもらう。漢魏の公爵よりも、待遇がよい。3つ、北周が西魏から受禅するときは、漢魏の公爵にもどった。
ともあれ、王莽がはじめた降殺制度は模範となった。

◆莽新の王室の処置_135
前代の劉氏を降殺する一方で、建国の功臣と、宗族の王氏に爵位ををくばった。後世の模範となった。
王氏の政治的な地位について。王莽が居摂するとき、王臨が褒新侯となった。禅譲のあと、王臨は兄を越えて皇太子となった。『周礼』は「長子を立てろ、賢者を立てるな」というが、王莽は守らない。符命政治のせいである。
王臨は、符命によって皇太子となった。王臨が皇太子の地位を奪われる事件は、地皇元年(020)7月である。王臨は自殺した。符命にまどわされ、判断がくるった。_138

王莽が居摂のとき、三男の王安が公爵となる。交替になれなかった。王莽は王安に「辟」=国君という、特殊な官位をあたえた。王安は王莽の子だから、公爵になった孫よりも高位であるべきだ。だが皇太子の爵位よりは低位であるべきだ。だから「辟」は、皇太子と公爵のあいだである。これにより礼制を一貫させた。
王莽は『周礼』の五等爵を復古しつつ、『周礼』にない辟爵をつくった。辟爵の実態は、王爵である。王莽は王爵をあたえず、辟爵を王安にあげた。虚飾であり、実態はない。ただ王莽が「上下と長幼」をいう儒家の礼制を、厳格に守ったことを意味する。王安と王臨の兄弟は、どちらも王爵をもらうべきだが、弟の王安を辟爵にすることで、王爵を取り消した。
王莽は、秦漢の宗王の爵制に妥協したのである。王氏の子弟で王爵をもらったのは、王臨と王安だけだ。王氏の宗族の勢力はうすい。_138

王莽の孫について。王宇の子の王宗が、居摂のとき侯爵となる。禅譲のあと公爵となる。王臨が皇太子となると、爵位を奪われる。王宗は皇太孫に指定されたようである。ほかの皇孫は公爵である。孺子や劉氏の宗王と同じである。莽新末まで、王安の子らが公爵であったように、王莽の孫の待遇は変化しない。

王莽伝にそって、王氏の待遇が記される。はぶく。

王莽は、舜の子孫を名乗るから、姚氏、ギ氏、陳氏、田氏を厚遇した。劉氏は前漢を通じて宗族を発展させた。王氏は匹敵できない。だから宗族の範囲を広げて、劉氏に対抗したのだろう。_140

すごい指摘だなあ。堯舜になぞらえる以上の実効がある。


以上から、宗室の分封には、2つの特徴がある。
1つ。莽新の封爵は、復古の傾向と、符命政治の影響を受けている。『周礼』五等爵を厳格にまもった。だから皇太子の人選につき、符命に惑わされた。
2つ。ひろく同宗をたてて、異姓すら巻きこみ、大家族による統治を社会の基礎とした。家族統治が長期的に安定すれば、宗王の封地と郡県制は、牽制するはずだ。
王莽の子孫や宗室は、『周礼』に基づいて封建されたが、実際には前漢の皇族抑制も影響し、一貫しない。王莽の子孫は、名目は爵位が重いが、実態は権勢がない。名目は周代の封建制、実態は前漢の郡県制。王莽の子孫のなかには、領兵する将軍がいない。軍政の大権をもつ州牧がいない。王莽が短期間で敗北した原因の1つか。
王莽の禅譲は、「君は堯舜の上に到る」という儒家の理想にもとづいて行われた。政治の反対派の強大な軍事力をふせぐ準備がない。儒生として守旧して、堯舜禹の痕跡をまねる。耳目を幻惑することができるが、政治制度の実態がない。_141

曹操の丞相府、魏王の官僚制度が意識されている。後述。


◆莽新の功臣を分封する
『漢書』王莽伝に、くわしい。_141
功臣を上公、三公、四将にする。11公がいる。功臣の爵位は、王氏の孫である公爵や、劉氏の公爵に等しい。王舜、平晏、劉歆、哀章、甄豊、孫建、王興、王盛など。
崔發、陳崇も。

王莽の官僚は、じつは少ない。ここに名をあげただけで、だいたい尽くされてしまう。王莽の弱さは、独自の官僚組織を持たなかったことだと、この本がいう。『漢書』から王莽本紀を再構成しようとしても、厚みがでない。王莽ひとりで終わってしまう。みな、前漢との掛け持ちで、やや王莽派というだけなのだ。


王莽が受禅したとき、11公に利益が集中した。王莽の私党が4分の3弱である。政治に投機した(王莽の私党でない者、成り上がり者)は4分の1強である。王莽の私党では、王舜、劉歆、平晏は前漢の重臣である。甄邯、甄豊、王邑、孫建は、みな前漢の官僚である。魏晋のときは、オリジナルの臣下がいたが、王莽にはいない。また王莽には、武将の出身者がいない。
漢新革命でも統治階層には変化がない。ただ劉氏が排除されただけで、前漢と莽新は変わらない。

ぼくは思う。それでこそ「禅譲」なんだろう。タナトスが仕込まれているような、弱々しさゆえに、理想的な禅譲なんだと思う。官僚と軍隊をつれて、乗りこんだら、そりゃ簒奪だろ。曹操さん。


王莽の封爵には、不合理がある。政治に投機した哀章は、上公となる。核心にいる。政治経験のない、餅屋の王盛は、政治の最高の階層にのぼる。符命に名前があるから、首脳になれる。王莽の私党(前漢の重臣や学者)と、投機の成り上がり者は、分裂の禍根をつくる。
1つめの分裂は、王莽が受禅した2年後。甄豊を、餅屋の王盛と同列にするから、甄豊の子、劉歆の子、王邑の弟が気分をそこねて、自殺させられた。2つめの分裂は、地皇4年である。劉歆が、子を殺されたことを怨み、王莽の従弟の王渉とともに謀反した。
王莽が不合理な封爵をしたせいだ。王莽は符命によって天下の信用をえて、禅譲を完成した。だから分封も、符命に従わねばならない。哀章のつくった符命が、低い階層の者の名を仕込むから、政権が分裂した。

よくわかる話!


前漢の劉氏に対する扱いは、後世の模範となった。だが、功臣に対する分封も(王莽は失敗したが、分封するという政策は)後世の模範となった。
降殺制度は、社会の主要な利益集団のなかで、政治地位や家族個人の利益につき、調整する機能があった。統治階層の内部で、矛盾を緩和して、秩序を回復することができた。社会を穏定した。_144

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禅譲の政治鼓動

王莽の禅譲政治が実現する過程をみた。本節では、実現の手段を分析する。符命政治と、群衆運動である。_153

符命と禅譲

◆符命が王莽の禅譲をひらく
王莽の禅譲は、符命と符瑞に助けられた。宗室や功臣の升遷制度も、符命の影響がある。

降殺制度と、昇遷制度が、ついになるのか。

符命は、禅譲政治の愛用を主張する、「神道設教」の一種である。42編の符命等を編成して、天下にまいた。徳祥、符命、福応の3種類がある。王莽伝中より。五徳終始説である。黄龍の徳は、前漢の文帝と宣帝の時代にでえた。黄龍は黄帝に対応すると。

ぼくは思う。五徳終始説は、5種類から等距離に出てきたのではない。伝説の黄帝から、土徳が見出された。きっと黄砂が、黄龍に見えたのだ。そこから、はじめ「黄徳は漢室のためのもの」だったが、王莽が「黄徳は莽新のため」と読み換えた。結果、漢室は火徳に押しやられたと。「黄帝はみんなの祖先」という伝説ありきで、あとは結びつき方を椅子とりゲームしたのだろう。

福応と徳祥は12編である。メンドリがオンドリに変わるのは、女主が君主にかわることをいう。王元后が王莽の禅譲を導くことを暗示する。_156

符命は25編で、もっとも強調された。王莽が用意した42編のうち、過半をしめる。石に文字が浮き出るなど。「武功で王を開く」とか。王業の開始とは、王朝の創始である。平帝の前輝光の謝囂が白石を献上するなど。_157
符命のなかに「巴宕で命を成す」がある。新王朝をひらく歴史的な使命である。居摂3年春の王莽伝にも、劉京らが符命を献上する。_159
宮中からでる符命もある。_161

王莽伝を読めば、まるまる分かる。どの政策に結びついたか、こまかく書いてあるが。個別に検討することに、魅力を感じない。

上天の神意を、貫徹して執行し、禅譲政治を一歩ずつ進めるのが、王莽の手段と特徴である。符命の助けを借りて、その時期ごとの政治意図を実現した。前漢の風潮のなかで妨げられず、また魏晋南北朝にもマネされた。_162

◆符命政治の「心法」が魏晋南北朝に伝わる
曹魏も符命を利用した。『三国志』文帝紀の裴注にある。侍中の劉廙は、暦数、天象、図緯について言及した。など、はぶく。_165
王莽のとき、天意をもつ符命の製造と伝達は、拙劣だった。単純だった。政策がそのまま石に浮き出た。漢魏革命になると、複雑になった。容易に理解できない文体を、解読するようになった。

遠回しになり、「読めない」ことが発達なのね。

魏初は、符命の製造と伝達は、太史令が管理した。_166

石瑞も、魏晋にマネされた。司馬氏は石瑞をつかった。『三国志』明帝紀にひく『魏氏春秋』と『漢晋春秋』にある。曹魏が滅びる前兆がある。

これも知ってる。

『捜神記』には、『魏氏春秋』と同じ内容がある。_168
石瑞は、魏初の建安まで遡れる。曹操をへて、魏晋革命の泰始期までゆく。『晋書』で、張掖太守の焦勝が、泰始3年に石瑞をみつける。魏晋革命を予感させるものである。王莽と同じように、石瑞が革命につかわれた。_169
石瑞は、北斉でも使われた。『北斉書』にある。_170

天文符瑞は、魏晋南北朝で、もっとも重視された。王莽のとき、天文の図象は、いまだ祥瑞とは見なされない。だが曹丕が禅譲を受けるとき、太史令は天文(星座のなかの星の異常)を報告した。彗星、変星、日食、月食である。_172
古人は、日月と五星に、国家の吉兆が含まれると考えた。漢魏革命のころから、太史令が天文に基づいて、革命を主張するようになった。魏晋革命以降も同じである。_174
魏晋を通じて、符命は複雑となり、天文が追加された。隋文帝が周から受禅するまで、かたちをかえて符命の利用は継続された。

時代による変化はどんなか。統治者により符瑞の製造が制御されるようになる。王莽のとき、臣下が符瑞をつくるので、王莽はふりまわされた。だから漢魏革命のとき、太史令が符瑞を統治した。

いもしない功臣の名を混ぜて、「大臣にしろ」と言われると、門番や餅屋のなかから、同名の人物を見つけねばならない。符瑞をつくった人物は、たいていは功臣の名簿に自分を入れる。振り回される。

符瑞の上程は、恒例のこととなる。天命符瑞は、幼稚ではない。一目瞭然のものから、専門家が読解すべきものに変わってゆく。_176
王莽の42編の符瑞が、のちの時代にマネされるが、内容は変化する。作者の変化が、社会の変化をあらわす。王莽のとき、統治者は符瑞の製造と伝播に熱心だった。のちに皇帝権力は、符瑞のあつかいかたの法律を定める。統治者が符瑞政治を重視したことがわかる。晋宋革命以降は、禅譲前のあたりまえの行事となり、あまり重視されなくなる。_176

王莽がはじめて、漢魏革命、魏晋革命にて完成される。社会の下層から出てきた南朝宋によって、形骸化される。もしくは破壊される。禅君を殺すのも、南朝宋からである。顕著だなあ。
曹魏や司馬は、真剣に王莽の継承と完成を考えた。南朝宋は、司馬が禅譲を完成させたがゆえに、形骸化した外面だけを借りられる。武力による簒奪を「禅譲」と強弁するには、禅譲が定義されていないといけないから。
南朝宋の成立に、断絶がある。桓玄の苦労は共感をよぶ。


民意の操縦_176

もっとも民意を重視するのは、『孟子』である。「天下の有道を得て、その民を得れば、その天下を得る」という。符命を製造する他にも、王莽は民心の操縦に手をつくした。
上下の階層から、すべて支持を得るために。まず王莽は、儒家をよそおい、礼制を守った。母親や兄嫁や孤児につくした。叔父を看病した。「骸骨を乞う」「杜門して自守」することで、政治の挫折すら名声にかえた。新都に3年いて、元寿元年に推薦されて長安にもどった。_178
王莽は、平凡な儒生である。曹操、司馬懿、劉裕にくらべると、驕傲になるべき特徴がない。十年にわたり、和平的に政治をしただけだ。しかし2百年の基礎をもつ前漢をうばった。王莽の威力はどこにあるか。司馬光は前漢が「陵夷」だからだという。しかしザツな議論だ。『漢書』王莽伝っはくわしい。_178
班固は「侫者の材」と総括する。ただ王莽は、声誉と才能があり、民心を獲得した。声誉が、王莽の禅譲にとって、重要な政治的資本だった。民心を操縦して、目的を果たした。

ここも「名声が資本」という話になるのね。


◆民心にせまる
専制社会においては、統治者や知識階層らの大多数からとられる政治態度が、民心に反映した。

こういう見方になるよね。近代の民主主義を構成する個人・国民なんて、存在しないから。

王莽は大司馬となり、官吏の任免権を独占した。私党を形成して、反対者を誅滅した。王元后にせまって、官吏を選挙・昇進する権限をにぎった。『漢書』王莽伝にある。私属や門生で、官僚を占めた。_180
また、文化意識の形成をやった。元始3年から5年、礼制作楽した。元始3年夏、車服制度をととのえ、学校をつくった。元始5年、羲和の劉歆ら4人に、明堂と辟雍をつくらせた。天下から、経に詳しい者を数千人もあつめた。混乱した学説を統一した。これにより王莽は、統治階層から支持された。

◆民意操縦の組織的形成_180
哀帝の死後、理想の政治に熱狂した分子が、王莽を支持した。王舜、王邑は、王莽の堂兄弟である。劉歆は皇族である。王莽の政治の盟友は、哀帝期に失意した者である。平晏は、前漢の名臣である平当の子である。甄邯は孔光の女婿である。甄豊と甄邯は親族ではなく、血縁が明らかでない。前漢の三公である、孔光、平当、師丹らは、王莽の同僚であるが、哀帝の外戚とうまくやれない。劉向と劉歆の父子も、哀帝の時代に失敗した。_181

ぼくは思う。王莽の政治過程で、哀帝の時代が「足踏みした、ムダな時間」に思える。しかし、政敵を出現させることで、かえって王莽のまわりが結束した。政敵がいなければ、結束する必要もなかった。王莽の禅譲を助けるほどの紐帯もできなかった。かも。

ほかに政治に投機する分子がいる。陳崇、崔発、孫建である。王莽の政治集団は、哀帝の失意者と、政治への投機者の2種類である。

王莽は全国から儒者を招来した。劉歆、王舜、甄豊、王邑らを核心にして、大学博士や異能者をあつめた。崔発は符瑞をあやつり、劉歆は経籍をやり、文化意識の形態を統一させた。陳崇は、民意を直接つくるため、煽動をやった。

◆民意を操縦する活動_182
民意は、無形の政治資源である。王莽はこの資源を充分に利用した。王莽は侯国に3年いた。吏のなかで王莽が訴怨する者は数百人いた。賢良方正な者が、つらなって王莽の功徳をほめた。王莽は哀帝のとき、すでに民意の操縦を開始していた。王莽につどった熱狂者が、禅譲をすすめた。
王莽が安漢公に封じられると、まず王元后に封国した。王莽の娘が、平帝の皇后にと期待された。王莽は周公の摂政を思って、「陳崇を大司徒司直にした。陳崇と仲のよい張敞に、王莽の功徳を書かせた」ので、八千人が王莽を宰衡に推薦した。九錫を受けるときも、多数の公卿が王莽に要請した。王莽が新野に田を受けないと、みなが受けとれと要請した。居摂は、劉慶が勧めてくれたものだ。など、事例はおおい。
名声の獲得、民意の籠絡、民意の操縦は言うまでもなく、官吏集団の政治意思や、知識分子の文化意識を制御したので、王莽は人心を獲得することができた。やがて和平的に禅譲を完成させた。

◆魏晋南北朝の禅譲における民意の操縦_183
曹丕が受禅するとき、台臣と朝臣は、19回も勧進した。大人数の官僚が、曹丕を勧進した。劉裕のときも、大勢が何度も勧進した。大規模な勧進は、王莽のまねである。民意の操縦が規範化した。_184

「民」というのは、官僚のことである。はっきりした。官僚がその気になれば、その支配下にいるであろう(いや、いるよね)生産者たちも同じ気持ちになるのだ。

魏晋になると、官僚たちの勧進は、王莽のときより冷静になる。2つの説明がつく。1つ、禅譲の方法が成熟した。禅譲する側もされる側も、段取りがわかっている。模索の段階では、熱狂的にとにかくがんばった。
2つ、禅譲を受ける側の公国や台臣が、民意の操縦を直接的に制御した。劉裕のとき、台臣の傅亮がすべてを管理した。禅譲政治の組織が、民意を操縦する方法を整備し、明確にやったから熱狂がなかった。

ぼくは思う。曹丕のとき、形式的に冷たいのは、王莽のおかげで、制度が完備したからだと。これを「改善」というのか、「形骸化」というのか、むずかしい。おそらく、どちらも同じことを指している。

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公国の建制と禅譲政治

禅譲の政治を論じるとき、公国あるいは王国の分封建制を分けられない。王莽の禅譲から、五代宋まで、受禅者は公爵から始まった。公爵を受封して、公国を建制して、九錫を授与された。この3段階は、魏晋南北朝でつねに同じである。公爵になることは、未来に禅譲を受けることの、大量の準備を進めさせる。
漢魏以降の公国は、五等爵の公国とはちがう。漢魏以降の五等爵は、実封がない。身分と地位をあらわし、食食邑と関連がなくもないが、民政と擁地はしない。王莽が封じた11公、南朝の謝安や謝玄は、食邑をもらうだけで、政治をしない。

このあたりは、「古典中国」の形式を踏んだレトリックなのね。彼らはレトリックだと知っているが、ぼくらがそれを知らねば、勘違いをする。地雷である。

だが受禅する者がもらうのは、公国で政治をやり、未来の国家の準備をする。もっとも早い例は、王莽の安漢公である。このとき公国の建制は成熟していないので、王莽は自国で官僚制度を作るには到らないが。

王莽が政治に敗北して、哀帝のときに封国にゆく。故郷に帰るのでなく、封地にゆく。哀帝は、これで王莽を痛めつけたつもりだったかも知れない。しかし、のちの曹操の魏公は、おなじ調子で、故郷よりも封地で組織をたくわえる。「封地にいる王莽」というのは、じつは禅譲の過程において重要かも。足踏みじゃないなあ。


王莽と公国の建制_195

3つの側面から論じるべきだ。公爵、公国、公国制度の建設である。さきに子爵になり、つぎに公国に封じられ、最後に制度の建設をすすめる。
王莽は、成帝の永始元年、新都侯となる。南陽の新野という都郷に、1500戸をもらう。これが莽新の国号の由来になる。哀帝、平帝のとき、戸数が増える。相国の蕭何に戸数がならぶ。安漢公となり、28000戸を加える。15倍ちかくも増えた。
公爵と公国には、一定の関係があるが、同じではない。新都公国は、元始3年に陳崇がすすめて王莽に与えられた。陳崇いわく、「周公のように公国をあたえろ」と。王太后が群公に示したとき、呂寛の事件がおきた。呂寛のせいで、公国の計画がみだれた。元始4年になって、王莽は公国をもらった。『通鑑』がよくまとめる。_196
公国制度の建設は、九錫とともに準備された。元始5年に居摂した。『漢書』王莽伝に、王莽が設置した(公国の)官職が記されている。_197

王莽の建制は、3段階である。まず元始元年に安漢公になる。相国の蕭何の邸宅を与えられただけで、人員を設置しない。両漢の三公府が僚佐を置いた旧例にならったのだろう。元始5年に九錫をもらってから、人員をおく。安漢公と九錫は同時にもらったのではないので、公爵と人員の設置は同時でない。王莽の府邸は、おおむね王府の建制に相当しよう。居摂を始めると、公府を摂宮とした。居室を摂盧とした。宮の呼称は、皇宮と同じに昇格した。_197
王莽が公国の建制をしたのは、禅譲の歴史上、特殊な意義がある。前漢の丞相の食邑の記録を、おおきく突破した。はじめ侯国に封じられ、食邑があわせて31350戸に増えた。開国の元勲である蕭何は、1万戸に過ぎにない。3倍である。霍光でも2万戸だから、1万戸もおおい。娘を平帝の皇后にすると、新野に25600頃をふやし、満百里となった。居摂元年、白石がでて「漢光邑」と改名された。王莽の封邑は、6万戸になる。霍光の3倍である。_198
また王莽の夫人は2千戸。王莽の子の王安は、襃新侯となり、王臨は賞都侯となる。2戸で3千戸。宗族を手してゆくと、65000戸を越える。後漢の梁冀ですら、3万戸に過ぎないから、王莽は2倍である。_198

王莽のつぎが、梁冀なのか。開国の権臣は、それほど多くの戸数をもらっていない。前漢初は、封建制だったのに、なお王莽のほうがおおい。


封邑が拡大すると、王国の発展が可能となる。建制の物質的な基礎になるから。機構の設置と、人員の配置を分析しよう。宗、祝など4つの官職は、公府で宗廟の祭祀をやる。4官には嗇夫がトップに置かれたから、それぞれ少人数でない。居摂元年、それぞれに令、長、丞がおかれた、1つの機構は小さくない。
はじめ虎賁300人をおき、のちに虎賁100人と衛士300人を増員した。王莽の機構は「家吏」をトップにした。前漢の皇帝のマネである。両漢の三公府の性質ににているが、朝廷の官僚が機構を持つことがあっても、私として機構をもつことはない。膨大な衛士の編成は、三公府にはありえない。禅譲の台府は、異なる点がおおいが、朝廷の機構の名称ともちがい、未完成な組織である。王莽の台府は、やや朝廷と同じだが、安漢公の公府のときとも距離がある。安漢公の公国の建制は、伝統的な三公の開府に由来しつつ、小さな朝廷の台府として、発展していく過渡的な段階である。

王莽の封邑を拡大した目的は、経済の実力を増強するためだ。恵みを施し、民心を得るためである。禅譲への支持を取りつけたい。平民あるいは宮中の服務員、王太后の身辺の侍従に、銭物をあたえた。貧民に救済するという慈善をやり、統治階層のなかで名声を獲得する。_199

王莽の公国建制の政策は、成熟していない。ただし、禅譲政治を開始した。後世にも、公国の建制はマネられる。
王莽の公国建制は、前漢の削藩政策の反動である。異姓の封王を厳禁した政策があった。これにそむく。前漢の分封は、宗室と異姓の両方があったが、権力はそがれた。
前漢初の王国は、州にまたがり、城を連ねる分封があったが、七国の反により、文帝と景帝がそいだ。武帝の「推恩令」「左官律」「付益法」により、呉楚の王国は分割され、統治をしなくなった。
はじめ建国の功臣は、数郡の王となった。だが、食邑も吏民もなくなった。宗室とおなじく、権限をそがれた。
王莽の公国は、前漢の制度が変異したものだ。王莽より前、王国もしくは侯国の称号だけあった。王莽は、『周礼』の五等爵を復古した。王莽の公国分封は、周公のときの斉、前漢初の7大異姓にちかい。これは、魏晋に継承された。
公国の建制は、受禅する国家の初期段階となった。統治の領域を拡大して、母胎の王朝をかじる。王莽の公国分封は、前漢に打撃を与えた。奪取の精神と実質は、公国の建制にあらわれた。_201

太保の王舜の奏章を分析すると。王莽が安漢公の公国に封じられたのは、西周の諸侯の模倣である。ただし西周とも異なり、前漢初とも異なるのは、封国が王莽だけという点である。排他的である。王莽以外では、前漢の封国の制度は継続された。排他的に、未来の受禅者だけが封国を許されるのは、権臣による簒奪の、和平的な譲渡した政治の段取りとなった。_201
王莽は、曹魏、南朝宋などの萌芽であるが、成熟していない。曹操、司馬昭、劉裕は、もっと違う方法をとった。

曹魏の公国建制_202

曹操は建安2年に費亭侯となる。これは世襲しただけで、ランクは低く、虚報である。武平侯となるが、故郷から遠くない。封邑が実在した。

王莽の方法は、否認されつつも。「王莽のように段取りを踏まないと、禅譲が成功しない」という側面もあった。しかし、抑圧されて、だれも口にしないが。王莽がつくった制度を、あたかも「王莽が制定しなくても、自明の真理は同じだろ」という姿勢で、後漢は儒教の諸制度を完成させた。おそらく。これは使えるなあ!

武平侯の封邑は、建安2年から15年まで変わらない。建安15年の己亥令でも、曹操は武平侯国にかえるといってる。ここで食戸が3万に増邑されたと読み取れる。封建社会で、司空は慣例で「万戸侯」である。無論、費亭侯と武平侯は、一般的な意味での封邑である。禅譲の前段階の封国建制ではない。このとき曹操の3戸も侯爵をもらっている。_202
建安17年、曹操は魏公をもらう。封国建制が始まる。後漢の魏郡は15城=15県をたもつが、曹魏の範囲が拡大される。拡大の内容について、203頁にある。袁紹の地盤を、曹操が任意に拡大させて、自国の基礎とした。

「曹操に禅譲の意図があったか」は、なかなか答えがでない。だが「王莽を踏まえる意図があったか」と考えれば、回答は明確にイエスである。もちろん、魏公になることを、この著者のように重大事件として評価するのならね。

曹操が魏公になると、魏国の範囲は、魏郡が中心となった。九州制に再編成して、冀州は、面積と人口が最大になった。荀彧にダメと言われたが、『後漢書』献帝紀によると、建安18年、九州制をきめた。_205
建安18年、劉氏の趙王を博陵王にうつした。冀州から劉氏をおいだし、冀州を直轄とする。これより前、建安11年に高幹を破ってから、宗室の8国を排除した。常山、甘陵、平原である。常山と甘陵は冀州、平原は西周である。曹操は建安9年に袁紹をやぶり、冀州牧となった。そのときから、「冀州の拡大」の策略はあり、魏国の建立を見通した。崔琰が別駕従事になって、戸籍から30万衆を得たように。呉蜀とも遠いから、後方で安静な地域である。_205

母国の後漢が分崩すると、魏国は強くなった。社稷と宗廟を設置した。諸侯礼の5廟である。明帝の太和3年11月に洛陽に廟を移動するまで、鄴県にあった。7廟になるのは、景初元年である。
魏郡を魏国の京畿と認識した。後漢の司隷のように。曹操が直轄した。東部都督、西部都督を設置した。司隷校尉のようなものだ。都督という名称に、軍事への偏重が見られる。純粋な軍管である。梁習が西部都督となる。
曹丕が禅譲した翌年、東部都督を陽平郡、西部都督を広平郡として、もとにもどった。軍による管理体制がなくなり、正常な郡県制となった。魏郡から、政治の中心であるという意義がなくなった。司州のように管理されなくなった。_207

職官と人員を配備することは、公国建制でもっとも重要なことである。司馬光『通鑑』は、曹魏の顔ぶれがくわしい。_207
尚書、侍中と六卿が、魏国の政治をやる。荀攸が曹魏の尚書令のとき、荀彧は後漢の尚書令となる。ほかに桓階が、魏国の尚書令となる。魏国には、相国、行御史大夫事する郎中令と大理がいる。はじめ曹魏の大理は鍾繇で、彼は曹操が王爵をもらうと曹魏の相国となる。華歆と王朗は、曹魏の「三国の職」をやってから、三公になった。魏晋では、公国の三公が、王朝の三公になる。相国も魏公国の職官である。後漢では相国を丞相といい、曹操がつく。魏公国の郎中令は、御史大夫官事を代行する。その下に御史中丞がいる。後漢の御史大夫の職官と異なる。魏公国では、三公の下に長史のたぐいの属官が置かれた(蒋済伝など)。
魏公国には、宮衛制度がおかれた。曹操が九錫を受けたら、虎賁3千人がいる。程昱は、魏公国の衛尉をやった。涼茂は、魏公国の僕射にあたる、中尉奉常をした。魏国には、秘書郎があり、のちの中書省の先がけだ。
以上のように、完全には復元できないが、魏国の職官と人員の配置は、比較的完成している。中央の朝廷を完全に模倣したものだ。

この最後の1文を、王莽と対比するために、ここまで書かれてきた。


宗廟社稷の制度(5廟)を確立して、行政の区画(ひろい冀州)、職官の制度(朝廷の模倣)、人員の配置(荀攸ら)をして、新たな魏国が、後漢のなかで成長した。曹魏が後漢に取って代わることが、必然となった。_208

曹操その人の意図とか、関係ないね。


魏公国と安漢公の、公国の分封制は、似ているところがある。排他性と独尊性がある。自分だけに分封を許すから。魏公国は、安漢公国を発展させたものである。
1つ、公府の僚佐臣の体系。王莽の安漢公府は、ただ家臣しかいない。公府の臣僚の萌芽ではあるが、魏公国のように独立した組織でない。魏公国は、安漢公国を発展させたものだ。魏公国は、後漢の朝臣と、公府の僚佐のあいだに、鮮明な対立をうみだした。漢臣と魏臣は任職が互換的だったが、基本的に「どちら側の人間か」は明確であった。西晋や南朝の諸公国で、発展した。南朝の台臣の体系と、前王朝の朝臣の体系は、鮮明に線引きできた。
2つ、魏公国は土地を割いて封じたが、安漢公は食邑だけである。安漢公は、4県1聚の封邑しかなく、魏公国の冀州より小さい。曹操は広大な封国により、後漢を傾けた。王莽は、小さな小さな新都国だけで、前漢を傾けた。_209

王莽のほうが「すごい」気もする。べつに「すごく」なる必要はないのだが。曹操のときになると、やたら土地を分割する。後漢末の州牧の風潮のせいか。王莽のときは、独立した政府をつくらず、独立した領土をつくらず、独立した人脈をつくらないから、「不可視」なんだよね。というか、前漢から波風なく移項したから、この「見えないこと」が王莽への最大の賛辞なのかな。


王莽の公国建制は、初始の段階である。五等爵制の公爵は、後世の公国分封建制の1段階となる。後世、これ以上(王莽を越えて)発展しない。魏公国は王莽より複雑で完善だった。曹操が成功したのは、公国政治を整備して、禅譲をやったから。司馬氏も南北朝も、王莽が始めて、曹操が完成させた禅譲政治を展開させたものだ。_209

司馬氏の公国建制

莽新と曹魏の公国建制のあいだ。

曹操の魏公国は、建安21年に魏王国に昇格した。面積は増加しなかった。司馬氏が受禅する前、晋公国から晋王国になると、面積は倍増した。数字は表象のみである。公国建制がほんとうに意味がある。公国から王国への昇格は(曹魏で面積が増えないように)あまり重要でない。曹魏と司馬では、公国建制の性質が異なるようである。

ぼくは思う。西晋は、たんなる模倣じゃない。いい!

司馬懿は、河津亭侯となるが、位置は不詳である。黄河の沿岸あたりで、司州に属したか。曹魏が受禅すると、安国郷侯となる。冀州の中山国内で、鄴城からは遠い。明帝のとき、舞陽侯になる。頴川郡であり、司州の南である。公孫康を平らげると、「昆陽県を増やし、前とあわせて2県」である。昆陽は、頴川の郡内で、舞陽につながる。

頴川のなか、舞陽と昆陽から、西晋は始まった!

正始2年、4県にふえた。頴川郡の大部分が、司馬懿に帰属した。_210

司馬懿が曹魏から封じられた4県は「晋」の領域にない。すべて頴川郡のなか。「頴川郡の大部分が司馬懿に帰属した」のだそうだ。言うまでもなく頴川は、曹操が献帝を置いた場所。どういう意図があって、頴川をちぎっては与え、ちぎっては与えるんだろう。いわゆる頴川の「名士」さんたちと、関係があるんだろうか。

嘉平3年、安平郡公となる。孫と兄子を1人ずつ列侯とする。前後で食邑は5万戸である。安平は冀州であり、魏郡の北にある。司馬懿の食邑は、1県が数千戸で、ふくらんで2万戸、5万戸となる。食邑の範囲は、頴川と安平が主体である。

なんで、頴川と安平のように連続しない土地を与えるんだろう。安平に、なにか因縁があるのだろうか。


司馬師は、はじめに長平郷侯となる。1千戸。豫州の陳郡であり、河内の東南である。司馬懿の死後、正元元年に司馬懿をつぐ。「相国となり、増邑9千戸、前とあわせて4万戸」とある。司馬懿の5万戸に近づいた。司馬師の死後、5万戸になる。司馬師がどこをもらったか分からないが、司馬懿の傾向から考えると、司馬師は陳郡に封邑をもったか。『三国志』のなかで、司馬師は「武陽侯」と自称する。これは、司馬懿の生前の封爵だろう。武陽は、益州北部の犍為郡の首府である。
司馬懿と司馬師は、魏国の京畿の外である。分散して見えるが、どこかの郡の中心となり、連続して郡を制御する。司馬懿は頴川、司馬師は隣接する陳郡である。晋公国の分封とは見なせない。ただ公国の分封に準じて、封じられただけ。司馬昭が晋公国に封じられて、禅譲の歴史は開幕する。
司馬昭は、はじめ新城郷侯になる。河南郡内である。洛陽の南偏西である。弘農にちかい。のちに高都侯となる。并州の上党郡内で、河内にちかい。司馬師が毋丘倹を東征して、死んだ。司馬昭は地位をつぎ、大将軍となる。甘露元年6月、高都公となる。地は方7百里。九錫を加えられる。8月、3県を増封される。

封地に着目すれば、司馬懿は頴川と安平に、司馬師は陳郡内に封じられた。頴川と陳郡は隣接するが、「晋」につながらない。甘露元年(256)司馬師が死に、高都侯(高都は上党郡)の司馬昭が大将軍となり、領地は方7百里となる。「晋」はここから隣接地域に順に拡大する。「晋」初代は司馬昭だなあ。

2年後の甘露3年5月、并州の8郡をもらい、晋公となる。地は方7百里。晋国には司馬をおく。司馬昭は、高都公から晋公になるが、領地は方7百里のまま。10郡の範囲である。曹操が冀州だけで10郡をもらった。司馬昭は、8郡のうち6郡が并州である。平陽郡は、曹魏のとき、河東郡から析出された。河東郡と平陽郡は、魏代には司隷に属する。司馬昭は、并州から増邑されたが、人口が少ないから、戸数は1万にいかない。ただ河東と平陽の戸数は、どちらも4万以上である。この増封された8郡をのぞくと、10郡のなかで、司馬昭がはじめに封じられたのは、『晋書』文帝紀から引き算すると、弘農郡だとわかる。河東と隣接し、河東の真南にある。弘農は、もとは豫州に属した。曹操のとき、司隷に編成された。弘農をのぞけば、馮翊は雍州に属し、弘農の真西である。魏代は司隷に属さない。司馬昭が封じられた10郡のうち、3郡は魏代の司州で、6郡は并州である。

郡数がおおいから、びびるが。并州は人口が少ないので、虚仮おどしなのかな。

1郡は并州から分割してきた。以上の10郡をつなげば、方円7百里になるのだ。_213

司馬昭は10郡で晋公となる。曹操の魏公と同じだ。曹操は、公爵から王爵になるとき、封邑は増加しない。司馬昭が公爵から王爵になるとき、封邑は2倍になる。咸熙元年2月、10郡から20郡になる。どの郡が増えたのか、史書に具体的な説明がない。これは禅譲の段階として、名目だけである。実質的な意義はない。この10郡は虚封ではないかと懐疑する。
司馬昭の公国の封邑は、司馬懿や司馬師とは、明確に異なる。面積も戸数も大きく、曹魏の京畿である司州に蚕食する。晋公の方円7百里は、曹魏の京畿の西辺にあるが、山脈を越えない。東都の洛陽と、西都の長安の関係のように、分断されている。司馬昭の公国は、父兄の封邑とは異なり、曹魏の京畿を包囲した。

司馬昭が晋公になると、司馬氏の宗室の王子も分封された。司馬懿の諸子、司馬師の諸子が分封されたが、主要なのは司馬孚とその諸子である。封邑は、諸州にちらかる。詳述しない。
晋公国の政治建設は、曹魏の甘露3年に始まる。「置官司馬」である。このとき「九譲」した。景元4年、九錫を受けたとき、正式に公国の制度を始めた。「晋国は置官した」と。

景元4年とは、263年である。司馬昭は265年に死ぬ。司馬昭ですら、「公国建制」にて、のちの西晋の母胎の官僚組織をつかっていない。曹魏に蚕食して、スライドして乗っ取る。という意味では、王莽に近いなあ。王莽は、独立した国家をつくらず、前漢に置き換わった。こちらのほうが、コストが少ない。
蜀漢の討伐は、この晋公国が「できて、すぐ」に行われたと見なせるだろう。そして司馬炎は、ほぼ未着手のまま、晋の公国建制をもらった。それでも禅譲を成功させたのだから、すごい。
王莽という秀才は、1人で全部やらねば、改革は断絶してしまった。しかし司馬氏は、司馬昭と司馬炎の継承が円滑だった。司馬懿からの継承、司馬師からの継承なんてなくて。司馬昭と司馬炎のあいだにだけ、王莽の遺産が適用された。

咸熙2年5月、晋公は晋王になる。御史大夫、侍中、、を置いていく。司馬炎が晋王になり、同年9月に、司徒・何曽を、丞相とした。鎮南将軍の王沈を、御史大夫とした。中護軍の賈充を、衛将軍とした。議郎の裴秀を、尚書令、光禄大夫とした。みな開府した。
何曽と王沈は「魏朝の公卿」と史料にある。彼らが、曹魏のなかで昇進したのか、曹魏から西晋に移動したのか、わからない。しかし司馬炎は、曹魏の中央を控制している。禅譲は方便である。

やはり、王莽の形式なのね。


晋公国の政治建制は、旧章どおりだ。だが曹魏と比べると、曹魏ほど健全ではない。魏晋の禅譲の過程で、公国建制は、曹魏ほど発揮されない。魏公国は、管轄内での行政と職官を重んじた。これは、北斉に似ている。晋公国は重視されず、司馬氏は、曹魏の洛陽や鄴城を重視した。晋公国の府は、晋公国のなかにない。魏朝の京畿にある。晋封国を建設するより、曹魏の中央を控制することに努力した。これは、王莽への回帰である。
ほかに、魏朝の朝臣は、禅譲のとき、晋の公卿に化けた。これは王莽の禅譲に似ている。公国の分封について見れば、晋国は面積が大きくて、魏国に似ている。だが晋国は、政治の建設をしない。禅譲政治の推動作用が見えにくい。王莽と似ている。
晋公国の建制は、王莽の禅譲と、曹魏の禅譲を、総合したものである。晋公国のやりかたは、南朝4代と、北朝(北斉を除く)に、直接の影響をあたえた。覇府を中央の朝廷につくって、禅譲をすすめた。覇府が優先され、公国の建設は二の次である。しかし南朝の台(受禅する国の組織)は、莽新、曹魏、西晋よりも、王朝から明確に分かれている。215

関係ないけど、いまツイッターで話していたこと。
長谷川清貴「荀悦『漢紀』における「春秋之筆法」-昌邑王廃位記事を中心に-」(『國學院雜誌』 第110巻第10号)。読みたいですねー。
ウェブの論文の概要では、『漢書』が霍光の行動と記すことを、荀悦は、昌邑王の行動のように書き換えたそうです。つまり荀悦は、弘農王の廃位を董卓のせいにせず、「弘農王が廃位されても仕方ない行動を主体的にした」と読み換えたのでしょうか。荀悦いわく「献帝は董卓が即位させたのでない。董卓がいなくても、弘農王が主体的に暗君だったから、退位して当然だ。献帝は正統だ」でしょうか。董卓は廃位の正統化に、荀攸は献帝の正統化に、昌邑王の故事を活用したんでしょうか。おなじ故事でも、活用の仕方がちがう。という議論か。論文を読まねば。読まずに想像していても、仕方ない。
『漢紀』の編纂は、献帝の勅命みたいです。荀悦をやれば、少なくとも3層の歴史を勉強できますよね。1つ、後漢の献帝期の歴史。2つ、後漢末から見た前漢史(史学史)。3つ、前漢の通史。荀悦と荀彧の関係も興味ぶかいです。そのためにもまず、長谷川先生の論文を、、

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禅譲儀礼、禅譲の模式的体裁

王莽の禅譲は、後世にどんな財産を残したか。「心法」の問題である。「心法」にはおおくの具体的表現がある。前代天子の監禁制度、宗室の降殺制度、符命の利用、民心の操縦である。魏晋南北朝まで継承された。_222
王莽の禅譲は、5つに分解できる。1つ、封建国制。2つ、九錫殊礼。3つ、揖譲虚礼。4つ、禅譲儀文。5つ、善後安置。これらのなかで、儀礼との関わりが重要である。九錫殊礼、揖譲虚礼、禅譲儀文について検討する。_223

そして、九錫については、飛ばしぎみです。


九錫の殊礼_223

九錫の殊礼は、禅譲のときだけ行われるのでない。ただし皇権専制のもとで、禅譲政治の出現の先がけとなった。王莽がはじめた。西周の九命の礼を参照して制定した。

◆九錫の起源
周秦より、殊功の臣や秉国の臣は、特殊な待遇をもらった。周公旦が特別な待遇をもらった。

いま224頁ですが、つづきは後日。
新しい議論をしているのは、この章で最後なのだが。つぎの「お断りの儀礼」に興味があるけど、つかれました。130425

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