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- 前漢の呂太后元年~5年 呂氏を王に立てる
郭茵氏の『呂太后期の権力構造 ―前漢初期「諸呂の乱」を手がかりに』を読みました。おもしろそうだと思ったので、呂太后期を『資治通鑑』で読みます。
どうやら、郭茵氏が反論したい所の、時代を乱しただけの呂太后という司馬光の編纂方針が見えますが、、そんなことを気にせず、抄訳します。
『資治通鑑』巻13 より。テキストは維基文庫からもらっているので、引用のときは〔校勘〕が必要。中華書局を見ながら、気になった胡注も抄訳。
高後元年(前187)
◆呂太后が呂氏を王に立てたい
冬,太后議欲立諸呂為王,問右丞相陵。陵曰:「高帝刑白馬盟曰:『非劉氏而王,天下共擊之。』今王呂氏,非約也。」太后不說,問左丞相平、太尉勃,對曰:「高帝定天下,王子弟;今太后稱制,王諸呂,無所不可。」
太后喜,罷朝。王陵讓陳平、絳侯曰;「始與高帝啑血盟,諸君不在邪?今高帝崩,太后女主,欲王呂氏;諸君縱欲阿意背約,何面目見高帝於地下乎?」陳平、降侯曰:「於今,面折廷爭,臣不如君;全社稷,定劉氏之後,君亦不如臣。」陵無以應之。
十一月,甲子,太后以王陵為帝太傅,實奪之相權。陵遂病免歸。冬、太后は、呂氏たちを王に立てたいと議して、右丞相の王陵に問うた。王陵は、「高帝は刑白馬で盟約した。劉氏でない者が王となれば、天下はともに撃てと。いま呂氏が王となれば、盟約をやぶることになる」と。太后は悦ばず、左丞相の陳平、太尉の周勃に問うた。答えて、「高帝が天下を定め、子弟を王にした。いま太后は称制する。呂氏を王にすることは、不可ではない」と。
太后は喜び、朝廷より罷った。王陵は、陳平と周勃を責めた。「はじめ高帝と血をすすって盟約したとき、諸君はその場にいただろう。いま高帝が崩じ、太后が女主となり、呂氏を王にしたい。諸君はもし呂太后におもねって盟約にそむくとして、なんの面目で地下にて高帝に会うのか」と。陳平と周勃は、「いま朝廷で諫争すれば、私たちは王陵に劣る。だが社稷を全うし、劉氏の未来を定めるなら、王陵は私たちに劣る」と。王陵は返す言葉がない。
11月甲子、呂太后は王陵を帝の太傅して、じつは右丞相の権限を奪った。王陵はついに病気となり、免官されて帰宅した。
乃以左丞相平為右丞相,以辟陽侯審食其為左丞相,不治事,令監宮中,如郎中令。食其故得幸於太后,公卿皆因而決事。
太后怨趙堯為趙隱王謀,乃抵堯罪。
上黨守任敖嘗為沛獄吏,有德於太后,乃以為御史大夫。
太后又追尊其父臨泗侯呂公為宣王,兄周呂令武侯澤為悼武王,欲以王諸呂為漸。
左丞相の陳平を右丞相として、
胡三省はいう。このとき右をとうとぶ。ゆえに陳平は左から右に昇進した。辟陽侯の審食其を左丞相とした。審食其は、左丞相の職務を行わず、郎中令と同じように、宮中を監した。ゆえに審食其は呂太后に頼りにされ、公卿はみな審食其に決裁をあおいだ。
太后は趙堯が趙隠王のために謀ったことを怨み、趙堯を有罪とした。
胡三省はいう。趙堯が趙王にために謀ったのは、高祖10年にある。趙王の如意は、諡を「隠」という。上黨守の任敖は、かつて沛の獄吏となり、呂太后に徳をあたえた。そのために御史大夫となった。
胡三省はいう。任敖は沛の人。わかいとき獄吏となる。高祖はつねに吏を避けたので、吏は(代わりに)呂太后を繋いだ。任敖は、呂太后をつないで管理している吏を撃傷したので、呂太后はこれを徳に感じた。太后は、父の臨泗侯の呂公を宣王として、兄の周呂令武侯の澤を悼武王とした。順に呂氏に王爵をつけてゆく。
春,正月,除三族罪、妖言令。
夏,四月,魯元公主薨。封公主子張偃為魯王,謚公主曰魯元太后。
辛卯,封所名孝惠子山為襄城侯,朝為軹侯,武為壺關侯。春正月、三族罪と妖言令を除いた。
胡三省はいう。秦家は威虐なので、刑罰を重くした。誅戮は三族に及んだ。過誤の語は、妖言だとされた。いま、この刑罰を除いた。夏4月、魯元公主が薨じた。公主の子の張偃を魯王とした。公主を魯元太后とした。
4月辛卯、いわゆる恵帝の子の劉山を襄城侯(頴川)とした。劉朝を軹侯(河内)とした。劉武を壺關侯(上党)とした。
太后欲王呂氏,乃先立所名孝惠子強為淮陽王,不疑為恆山王;使大謁者張釋風大臣。大臣乃請立悼武王長子酈侯台為呂王,割齊之濟南郡為呂國。太后は、呂氏を王にしたい。先に恵帝の子の劉強を淮陽王として、劉不疑を恆山王とした。大謁者の張釋から大臣たちに(呂氏を王にしようと)諷させた。大臣は、悼武王の長子である酈侯の呂台を呂王として、齊の濟南郡を割いて呂國とした。
張釋(釈)は、張澤(沢)ともされる。
五月,丙申,趙王宮叢台災。
秋,桃、李華。5月丙申、趙王宮の叢台(趙国の邯鄲県)で火災あり。
秋、桃と李に、花がさいた。
高後二年(前186)
冬,十一月,呂肅王台薨。
春,正月,乙卯,地震;羌道、武都道山崩。
冬11月、呂肅王の呂台が薨じた。
『考異』は没年の異同をのべる。春正月乙卯、地震あり。羌道(隴西)と武都道の山が崩れた。
武都は当時はまだ県であり、武帝が郡にした。
夏,五月,丙申,封楚元王子郢客為上邳侯,齊悼惠王子章為朱虛侯,令入宿衛,又以呂祿女妻章。
六月,丙戌晦,日有食之。夏5月丙申、楚元王の子である劉郢客を上邳侯とした。齊悼惠王の子である劉章を朱虛侯として、宿衛に入らせた。また呂禄の娘を劉章の妻とした。
六月丙戌みそか、日食あり。
秋,七月,恆山哀王不疑薨。
行八銖錢。
癸丑,立襄成侯山為恆山王,更名義。秋7月、恆山哀王の劉不疑が薨じた。
八銖錢を発行した。
応劭はいう。これまでは秦銭をつかった。質は周銭と同じ。文は「半両」と刻まれ、重さは文字どおり半両=八銖だった。漢代に、これでは重すぎるから、民間で軽い銭がつくられた。だが民は、軽すぎるのを嫌って、八銖にもどした。癸丑、襄成侯の劉山を恆山王として、名を劉義と改めた。
高後三年(前185)
夏,江水、漢水溢,流四千餘家。
秋,星晝見。
伊水、洛水溢,流千六百餘家。汝水溢,流八百餘家。抄訳はぶく。
高後四年(前184)
春,二月,癸未,立所名孝惠子太為昌平侯。 夏,四月,丙申,太后封女弟嬃為臨光侯。抄訳はぶく。
◆少帝が実母の仇討を誓い、呂太后に廃される
少帝浸長,自知非皇后子,乃出言曰:「后安能殺吾母而名我!我壯,即為變!」太后聞之,幽之永巷中,言帝病,左右莫得見。太后語群臣曰:「今皇帝病久不已,失惑昏亂,不能繼嗣治天下;其代之。」群臣皆頓首言:「皇太后為天下齊民計,所以安宗廟、社稷甚深。群臣頓首奉詔。」遂廢帝,幽殺之。五月,丙辰,立恆山王義為帝,更名曰弘,不稱元年,以太后制天下事故也。以軹侯朝為恆山王。少帝が成長するにつれ、皇后の子でないと自覚した。
恵帝の張皇后は、魯元公主の娘。呂太后には子がないから、いつわって妊娠したといい、後宮の美人の子をわが子だといい、その実母=美人を殺した。少帝、劉義、劉朝、劉強、劉不義は、みなこのパターンである。少帝はこう言った。「呂太后はわたしの実母を殺して、私の母だと名乗れるものか。私が成長したら、すぐにでも変(実母の仇討)をしてやる」と。呂太后はこれを聞き、永巷中に幽閉した。「少帝は病気だから」として、左右の者は少帝と会えない。呂太后は郡臣にいう。「いま皇帝の病は、長びいて治らない。意識も混濁して、高帝を嗣いで天下を治められない。交代させよう」と。郡臣は、みな頓首していう。「皇太后が天下のために民計をととのえるのは、宗廟を安んじて、社稷をとても重んじるからです。群臣は頓首して、詔を奉ります」と。
ついに少帝を廃して、幽閉して殺した。5月丙辰、恆山王の劉義を皇帝にした。名を劉弘と改めた。元年を称さず、太后が天下の事を制するのは、もとのまま。軹侯の劉朝を恆山王とした。
是歲,以平陽侯曹窋為御史大夫。
有司請禁南越關市、鐵器。南越王佗曰:「高帝立我,通使物。今高後聽讒臣,別異蠻夷,隔絕器物,此必長沙王計,欲倚中國擊滅南越而並王之,自為功也。」この年、平陽侯の曹窋を御史大夫とした。
有司は、「南越の関市・鉄器を禁じたい」と請うた。
感は辺境の関において、蛮夷と交易をした。これを「関市」という。南越王の佗はいう。「高帝は私を南越王に立てて、文物を交易させた。いま呂太后が悪口をいう臣下の話を聞き、蛮夷との交易を断絶させようという。これは必ずや長沙王の計である。漢軍を動員して南越を撃滅し、(長沙王が)南越の王も兼ねて、自らの功績にするつもりだ」と。
高後五年(前183)
春,佗自稱南越武帝,發兵攻長沙,敗數縣而去。
秋,八月,淮陽懷王強薨,以壺關侯武為淮陽王。春、南越王の佗は、南越武帝を自称した。兵を発して長沙を攻めた。数県をやぶって去った。
韋昭はいう。生前から「武」を号するのは、古制と一致しない。
師古はいう。韋昭はちがう。殷湯王は「わが武は甚だし。みずから号して武王と曰はん」とある。秋8月、淮陽懷王の劉強が薨じた。壺關侯の劉武を淮陽王とした。
九月,發河東、上黨騎屯北地。
初令戍卒歲更。9月、河東と上黨の騎兵を発して、北地に屯した。
はじめて、戍卒(辺境の守兵)を年ごとに交代させた。140613
秦制では、南で五嶺をまもり、北で長城をつくるが、何年にもわたって働かされ、故郷に帰らずに死ぬ者が多かった。このとき、1年交代になった。閉じる
- 前漢の呂太后6年~8年 呂太后の死
高後六年(前182)
冬,十月,太后以呂王嘉居處驕恣,廢之。十一月,立肅王弟產為呂王。
春,星晝見。冬10月、呂太后は、呂王の呂嘉の態度が驕恣なので、これを廃した。11月、肅王の弟の呂産を呂王とした。
春、星が昼に見えた。
夏,四月,丁酉,赦天下。
封硃虛侯章弟興居為東牟侯,亦入宿衛。
匈奴寇狄道,攻阿陽。行五分錢。
宣平侯張敖卒,賜謚曰魯元王。夏4月丁酉、天下を赦した。
朱虚侯の劉章の弟である劉興居を東牟侯(東莱)として、彼も宿衛に入れた。
匈奴が狄道(隴西)を寇して、阿陽(天水)を攻めた。五分錢を発行した。
宣平侯の張敖が卒した。魯元王と追諡した。
張敖は、もとは父の張耳をついで、趙王となった。貫高の謀略があばかれ、張敖は趙王を廃されて、宣平侯になって、魯元公主をめとった。恵帝のとき、斉悼恵王は、城陽郡を献じて、魯元公主に奉じた。張敖が死ぬと、魯元公主にちなみ、魯元王と追諡された。
高後七年(前181)
◆呂太后が趙王を餓死させる
冬,十二月,匈奴寇狄道,略二千餘人。
春,正月,太后召趙幽王友。友以諸呂女為后,弗愛,愛他姬。諸呂女怒,去,讒之於太后曰:「王言『呂氏安得王!太后百歲後,吾必擊之。』」太后以故召趙王,趙王至,置邸,不得見,令衛圍守之,弗與食;其群臣或竊饋,輒捕論之。
正月丁丑,趙王餓死,以民禮葬之長安民塚次。冬12月、匈奴が狄道を寇し、二千余人を略奪した。
春正月、太后は趙幽王の劉友を召した。劉友は、呂氏の娘を后とするが、これを愛さず、他氏の姫を愛した。呂氏は怒って、趙王のもとを去り、呂太后に讒言した。「趙王は言いました。呂氏が王になれるものか。呂太后が100歳になったら、私は必ず呂氏を撃つと」と。呂太后は、ゆえに趙王を召した。趙王は長安の藩邸に置かれ、呂太后に会えない。衛兵に藩邸を囲んで守らせ、食物を与えたない。郡臣がひそかに食物を送ったので、捕らえて裁いた。
正月丁丑、趙王は餓死した。民礼にて葬り、長安の民の塚次に埋めた。
己丑,日食,晝晦。太后惡之,謂左右曰:「此為我也!」
二月,徙梁王恢為趙王,呂王產為梁王。梁王不之國,為帝太傅。正月己丑、日食あり、昼でも暗い。呂太后はこれを悪み、左右に「この日食は私のせいだ」と言った。
ぼくは思う。呂太后は、横暴なのか、名君なのか、わからん。2月、梁王の劉恢をうつして趙王とした。呂王の呂産を梁王とした。梁王は国にゆかず、帝の太傅となった。
◆秋、年長の劉沢が瑯邪王になり、趙王が自殺秋,七月,丁巳,立平昌侯太為濟川王。
呂嬃女為將軍、營陵侯劉澤妻。澤者,高祖從祖昆弟也。齊人田生為之說大謁者張卿曰:「諸呂之王也,諸大臣未大服。今營陵侯澤,諸劉最長;今卿言太后王之,呂氏王益固矣。」張卿入言太后,太后然之,乃割齊之琅邪郡封澤為琅邪王。
趙王恢之徙趙,心懷不樂。太后以呂產女為王后,王后從官皆諸呂,擅權,微伺趙王,趙王不得自恣。王有所愛姬,王后使人鴆殺之。六月,王不勝悲憤,自殺。太后聞之,以為王用婦人棄宗廟禮,廢其嗣。秋7月丁巳、平昌侯の劉太を濟川王とした。
呂嬃の女は将軍であり、營陵侯(北海)の劉沢の妻である。劉沢は、高祖の從祖昆弟である。斉人の田生は、劉沢のことを思い、大謁者の張卿にむけて説いた。「呂氏らが王となったが、大臣たちはまだ心服しない。いま劉沢は、劉氏のなかで最年長である。あなたから呂太后に、『劉沢を王にせよ』と言えば、きっと呂氏は劉沢を王にするだろう」と。張卿は呂太后に提案すると、呂太后は同意した。斉の琅邪郡を割いて、劉沢を琅邪王とした。
趙王の劉恢之は趙国にうつり、心は楽しまない。呂太后は、呂産の娘を趙王の后とした。王后の従官は、みな呂氏であり、権力をふるい、趙王を無視した。趙王は、思うとおりにならない。王が愛する姫がいたので、王后は姫を鴆殺させた。6月、趙王は悲憤にたえず、自殺した。太后はこれを聞き、「趙王が愛する婦人のために宗廟を棄てた」と考え、趙王の後嗣を廃した。
◆劉章が呂太后に向けて、劉氏の意地を見せる
是時,諸呂擅權用事。朱虛侯章,年二十,有氣力,忿劉氏不得職。嘗入侍太后燕飲,太后令章為酒吏。章自請曰:「臣將種也,請得以軍法行酒。」太后曰:「可。」酒酣,章請為《耕田歌》,太后許之。章曰:「深耕穊種,立苗欲疏;非其種者,鋤而去之!」太后默然。
頃之,諸呂有一人醉,亡酒,章追,拔劍斬之而還,報曰:「有亡酒一人,臣謹行法斬之!」太后左右皆大驚,業已許其軍法,無以罪也,因罷。自是之後,諸呂憚朱虛侯,雖大臣皆依朱虛侯,劉氏為益強。このとき、呂氏が専権した。朱虛侯の劉章は、20歳で気力がある。劉氏が官職を得られないことに怒った。かつて呂太后に入侍して燕飲した。呂太后は、劉章に酒吏をやらせた。劉章は自ら請うた。「私は武将の血筋です。軍法の行酒をやりたい」と。呂太后「よい」と。
酒宴がたけなわとなり、劉章は『耕田歌』をやりたいと言った。呂太后は許した。劉章はうたう。「深く耕して種を植える。苗を立てて、間引きたい。ちがう品種の苗があれば、鍬で除去しよう」と。呂太后は黙然とした。
劉氏を育てる畑に、呂氏の雑草があれば、除去すると。このころ、呂氏の1人が酔ったので、酒を避けて逃げた。劉章は追って、剣を抜いて逃げた呂氏を斬った。劉章は席に戻り、「酒を避けた者がいたので、軍法どおりに斬りました」と報告した。呂太后の左右は、みな大驚した。すでに「軍法の行酒」を許しているので、劉章は罪とされない。
これ以後、呂氏は劉章をはばかる。大臣であっても、みな劉章を頼りにした。おかげで劉氏はますます強くなった。
◆陸賈の勧めで、陳平が周勃をさそう
陳平患諸呂,力不能制,恐禍及己。嘗燕居深念,陸賈往,直入坐,而陳丞相不見。陸生曰:「何念之深也!」陳平曰:「生揣我何念?」陸生曰:「足下極富貴,無欲矣;然有憂念,不過患諸呂、少主耳。」陳平曰:「然!為之奈何?」
陸生曰:「天下安,注意相;天下危,注意將。將相和調,則士豫附;天下雖有變,權不分。為社稷計,在兩君掌握耳。臣常欲謂太尉絳侯,絳侯與我戲,易吾言。君何不交歡太尉,深相結?」因為陳平畫呂氏數事。陳平用其計,乃以五百金為絳侯壽,厚具樂飲;太尉報亦如之。兩人深相結,呂氏謀益衰。陳平以奴婢百人、車馬五十乘、錢五百萬遺陸生為飲食費。陳平は、諸呂を患うが、陳平の権力では制することができず、己に禍いが及ぶのを恐れた。かつて国家のことを思って、静かに方策を考えた。陸賈がきて、入室して座ったが、陳平は(思考に熱中して気づかず)陸賈を見なかった。陸賈はいう。「何を深く考えているのか」と。陳平「きみは私が何を考えていたと思うか」と。陸賈「あなたは富貴をきわめ、欲がないはず。だが憂念があるなら、諸呂と少主について悩むのだろう」と。陳平「そう。どうしたものか」と。
陸賈「天下が安泰なら、意を宰相にそそぐ。天下が危険なら、意を将軍にそそぐ。将軍と宰相が協力すれば、士人はもとより味方する。天下に変事があっても、権限が分かれない。社稷のための計画は、将軍と宰相の2人の手にある。私(陸賈)はつねに太尉の周勃に(呂氏を倒そうと)言いたいが、周勃にはぐらかされ、言い出せない。陳平は、どうして周勃に思いを打ち明け、協力しあわないのか」と。
陸賈は陳平に、周勃と交際せよとしばしば提案した。陳平はその計画を用い、五百金を周勃に贈って長寿を祝い、楽しく酒を飲んだ。周勃の思いも同じだった。陳平と周勃は、深く結びついた。陳平は陸賈に、奴婢を百人、車馬を五十乗、銭を五百萬あたえて、飲食の費用にあてさせた。
太后使使告代王,欲徙王趙。代王謝之,願守代邊。太后乃立兄子呂祿為趙王,追尊祿父建成康侯釋之為趙昭王。
九月,燕靈王建薨,有美人子,太后使人殺之。國除。
遣隆慮侯周灶將兵擊南越。太后の使者が、代王の劉恒に「趙国にうつれ」と告げた。代王は感謝しつつも、辺境の代国を守っていたいと願った。呂太后は、兄子の呂禄を趙王として、呂禄の父の建成康侯の呂釋に趙昭王と追尊した。
このとき趙国ゆきを辞退したのが、のちの文帝。三譲する文帝。かれは、辞退するのがクセだったに違いない。彼の子孫が、王莽に滅ぼされるまでの前漢をつくる。9月、燕靈王の劉建が薨じた。美人に子がいたが、呂太后は殺させ、燕国を除いた。
隆慮侯の周灶に、南越を撃たせる。
高後八年(前180)
冬,十月,辛丑,立呂肅王子東平侯通為燕王,封通弟莊為東平侯。
三月,太后祓,還,過軹道,見物如蒼犬,撠太后掖,忽不復見。卜之,雲「趙王如意為祟」。太后遂病掖傷。冬10月辛丑、呂肅王の子である東平侯(済東)の呂通を燕王とした。呂通の弟である呂莊を東平侯とした。
3月、太后が祓(除悪の祭)をやり、還るとき軹道を過ぎた。蒼犬のような物が、太后のわきに挟まっているように見えた。
師古はいう。「撠、之を拘持するを謂ふなり」と。すぐに見えなくなった。占ってみると、「趙王の如意が、呂太后を祟っている」とでた。呂太后は、ついに病んで、わきに傷ができた。
太后為外孫魯王偃年少孤弱,夏,四月,丁酉,封張敖前姬兩子侈為新都侯,壽為樂昌侯,以輔魯王。又封中大謁者張釋為建陵侯,以其勸王諸呂,賞之也。
3 江、漢水溢,流萬餘家。呂太后は、外孫である魯王の張偃(張敖の子)が年少で孤弱なので、夏4月丁酉、張敖の前姬の2人の子を封建した。張侈を新都侯、張寿を樂昌侯として、魯王を輔けさせた。また中大謁者の張釋を建陵侯とした。呂太后は、張釋が魯王にむけて呂氏の登用を勧めたことから、これを賞した。
長江と漢水があふれて、1万余家を流した。
◆呂太后が死ぬ
秋,七月,太后病甚,乃令趙王祿為上將軍,居北軍;呂王產居南軍。太后誡產、祿曰:「呂氏之王,大臣弗平。我即崩,帝年少,大臣恐為變。必據兵衛宮,慎毋送喪,為人所制!」辛巳,太后崩,遺詔:大赦天下,以呂王產為相國,以呂祿女為帝後。高後已葬,以左丞相審食其為帝太傅。秋7月、呂太后の病が甚しくなり、趙王の呂禄を上將軍として、北軍に居らせる。呂王の呂産を南軍に居らせる。太后は呂産と呂禄に戒めた。「呂氏が王であれば、大臣は不平だと思うだろう。私が死ねば、皇帝が年少なので、おそらく大臣は政変を起こすだろう。必ず兵力をにぎって宮を護衛せよ。私の死体を葬送すれば、他人に制される」と。
辛巳、太后は崩じた。遺詔により、天下を大赦した。呂王の呂産を相国として、呂禄の娘を皇帝の后とした。呂太后を葬り終えると、左丞相の審食其を帝の太傅とした。
斉王が起兵し、長安で呂禄が迷う
諸呂欲為亂,畏大臣絳、灌等,未敢發。朱虛侯以呂祿女為婦,故知其謀,乃陰令人告其兄齊王,欲令發兵西,朱虛侯、東牟侯為內應,以誅諸呂,立齊王為帝。齊王乃與其舅駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃陰謀發兵。齊相召平弗聽。
八月,丙午,齊王欲使人誅相。相聞之,乃發卒衛王宮。魏勃紿召平曰:「王欲發兵,非有漢虎符驗也。而相君圍王固善,勃請為君將兵衛王。」召平信之。勃既將兵,遂圍相府,召平自殺。於是齊王以駟鈞為相,魏勃為將軍,祝午為內史,悉發國中兵。諸呂は乱を起こしたいが、大臣の絳侯(周勃)や灌侯(蕭何)らを畏れて、まだ乱を起こさない。朱虚侯の劉章は、呂禄の娘を妻とするから、呂氏の謀略を知った。ひそかに兄の斉王につげて、兵を発して西(長安)にゆかせる。朱虛侯・東牟侯は(長安で)内応する。こうして呂氏を誅して、斉王を皇帝に立てたい。
呂氏の乱でなく、斉王が乱をかってに起こして、呂氏を破ったと。郭茵氏の本で書いてあった。たしかに、呂氏は何もせず、かってに勘ぐられただけ。斉王は、しゅうとの駟鈞、郎中令の祝午、中尉の魏勃らと、ひそかに謀って兵を発した。斉相の召平は反対した。
郡国の完成について、431頁に胡注あり。8月丙午、斉王は斉相(の召平)を殺そうとした。斉相はこれを聞き、兵を発して王宮を護衛した。魏勃は召平をあざむき、「斉王は兵を発したいが、漢の虎符驗がない。だがあなたは、王宮をかたく包囲してしまった。私はきみのために(きみの代わりに?)兵をひきいて王を護衛したい」と。召平はこれを信じた。魏勃は兵を手に入れると、ついに召平の斉相府をかこんだ。召平は自殺した。ここにおいて斉王は、駟鈞を斉相に、魏勃を將軍に、祝午を内史として、国じゅうの兵をすべて発した。
使祝午東詐琅邪王曰:「呂氏作亂,齊王發兵欲西誅之。齊王自以年少,不習兵革之事,願舉國委大王。大王,自高帝將也。請大王幸之臨菑,見齊王計事。」琅邪王信之,西馳見齊王。
齊王因留琅邪王,而使祝午盡發琅邪國兵,並將之。琅邪王說齊王曰:「大王,高皇帝適長孫也,當立。今諸大臣狐疑未有所定,而澤於劉氏最為長年,大臣固待澤決計。今大王留臣,無為也,不如使我入關計事。」齊王以為然,乃益具車送琅邪王。琅邪王既行,齊遂舉兵西攻濟南。遺諸侯王書,陳諸呂之罪,欲舉兵誅之。祝午を東にゆかせ、琅邪王をだました。「呂氏が乱を起こした。斉王は兵を発して、長安にゆき、呂氏を誅したい。だが斉王は年少であり、軍略も未熟なので、国をあげて瑯邪王にゆだねたい。大王さまは、高帝期から兵をひきいた。大王は、臨菑にいらっしゃり、斉王の計画を見てください」と。瑯邪王はこれを信じて、西に馳せて斉王にあった。
斉王は瑯邪王を留めおき、祝午にすべての瑯邪の国兵を徴発させ、みずからの兵に合わせた。
瑯邪王は斉王にいう。「大王は、高皇帝の適長孫であり、まさに立つべきだ。いま大臣たちは狐疑して(だれを主君にするか)心が定まらない。ところで私は、劉氏のなかで最年長である。大臣たちは私の判断を待っている。いま大王は私を留め、私は何もできない。長安にゆく仕事を私に担当させるのがよい」と。斉王はそうだと思い、瑯邪王を長安に送り出した。瑯邪王が出発すると、斉王は兵をあげて西にゆき、済南を攻めた。済南は、呂産の封国である。諸侯王に文書をおくり、諸呂の罪をのべ、兵をあげて諸呂を誅そうとした。
相國呂產等聞之,乃遣穎陰侯灌嬰將兵擊之。灌嬰至滎陽,謀曰:「諸呂擁兵關中,欲危劉氏而自立。今我破齊還報,此益呂氏之資也。」乃留屯滎陽,使使諭齊王及諸侯與連和,以待呂氏變,共誅之。齊王聞之,乃還兵西界待約。
呂祿、呂產欲作亂,內憚絳侯、朱虛等,外畏齊、楚兵,又恐灌嬰畔之。欲待灌嬰兵與齊合而發,猶豫未決。相国の呂産らはこれを聞き、穎陰侯の灌嬰に兵をつけて迎撃させた。灌嬰は滎陽にいたり、謀っていう。「諸呂は兵を擁して関中にいて、劉氏を危うくして自立するつもりだ。いま私が斉王を破って、長安に知らせても、呂氏の利益になるだけだ」と。滎陽に留屯して、使者を斉王や諸侯におくり、連和しようと諭した。呂氏の政変を待ち、ともに呂氏を誅そうといった。斉王はこれを聞き、兵を西界にもどして、灌嬰のいう時期を待った
呂禄と呂産は、乱を起こしたいが、内には周勃や劉章をはばかり、外には斉王や楚王の兵をおそれた。また、灌嬰がそむいたと恐れた。灌嬰の兵と斉王の兵が衝突するのを待ち、いまだ決断できない。
けっきょく呂禄と呂産は、何もしてないのね。
當是時,濟川王太、淮陽王武、常山王朝及魯王張偃皆年少,未之國,居長安;趙王祿、梁王產各將兵居南、北軍。皆呂氏之人也。列侯群臣莫自堅其命。ちょうどこのとき、濟川王の劉太、淮陽王の劉武、常山王の劉朝、および魯王の張偃は、すべて年少であり、まだ就国せずに長安にいた。趙王の呂禄、梁王の呂産は、それぞれ兵をひきいて、南軍と北軍のなかにいた。軍はみな呂氏の味方をする人である。列侯や郡臣は、みずから命を堅める者はいない。
情勢が動かない!
太尉絳侯勃不得主兵。曲周侯酈商老病,其子寄與呂祿善。絳侯乃與丞相陳平謀,使人劫酈商,令其子寄往紿說呂祿曰:「高帝與呂后共定天下,劉氏所立九王,呂氏所立三王,皆大臣之議,事已佈告諸侯,皆以為宜。今太后崩,帝少,而足下佩趙王印,不急之國守籓,乃為上將,將兵留此,為大臣諸侯所疑。足下何不歸將印,以兵屬太尉,請梁王歸相國印,與大臣盟而之國。齊兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此萬世之利也。」呂祿信然其計,欲以兵屬太尉。使人報呂產及諸呂老人,或以為便,或曰不便,計猶豫未有所決。太尉の絳侯の周勃は(上将の印を呂禄が持つため)兵をつかさどれない。曲周侯の酈商は老病である。其の子である酈寄と呂禄は、仲がよい。周勃は、丞相の陳平とともに謀り、酈商をおどして、子の酈寄をつかって呂禄をおどした。
「高帝と呂后は、ともに天下を定めた。劉氏が立てたのは9王で、呂氏が立てたのは3王である。みな大臣の決議によるものだ。いま呂太后が崩じて、皇帝はおさない。だが呂禄らは趙王の印を佩き、急いで就国して藩屏となることもなく、上将となり、兵を長安に留める。大臣は呂禄のことを疑う。なぜ呂禄は、上将の印を返還して、兵権を太尉(の周勃)にあずけないか。なぜ梁王に請うて相国の印を返還し、大臣と結盟してから、国にゆかないか。(上将と相国の印を手放せば)斉王の兵は、かならず止み、大臣たちは安心できるだろう。呂禄だって枕を高くして、千里に王でいられる。これこそ万世の利である」と。
呂禄はこれを信じて、兵権を太尉にあずけたい。呂産および呂氏の老人たちに告げた。ある者は賛成し、ある者は反対して、呂禄は結論をだせない。まだ何も起きてない。もう何も起きないのかw
呂祿信酈寄,時與出遊獵,過其姑呂嬃。嬃大怒曰:「若為將而棄軍,呂氏今無處矣!」乃悉出珠玉、寶器散堂下,曰:「毋為他人守也!」呂禄は酈寄を信じて、時どき、ともに出て遊猟した。その姑の呂嬃が通りがかった。呂嬃は大怒した。「もし将となって軍を棄てれば、呂氏は今に居場所がなくなる」と。すべての珠玉・宝器を出して、堂下にバラまいた。「他人の為に守ること毋し」と。140613
呂嬃の言葉をうまく読めなかったので、書き下しに留めます。閉じる
- 前漢の呂太后8年 周勃が呂禄と呂産を斬る
周勃が、北軍・南軍の兵権をうばう
九月,庚申旦,平陽侯窋行御史大夫事,見相國產計事。郎中令賈壽使從齊來,因數產曰:「王不早之國,今雖欲行,尚可得邪!」具以灌嬰與齊、楚合從欲誅諸呂告產,且趣產急入宮。平陽侯頗聞其語,馳告丞相、太尉。9月庚申ついたち、平陽侯の曹窋は御史大夫事を行い、相国の呂産の計事を見た。
郎中令の賈寿は、使者として斉国からきて?しばしば呂産に言った。「呂産が国に行くなら、もう早くない。いま行きたいと思っても、なお行けるだろうか」と。賈寿は「灌嬰は、斉王・楚王とともに合従して、諸呂を誅するつもりだ」と呂産に告げ、呂産にうながして急いで入宮させた。平陽侯は、この言葉を聞いて、丞相と太尉に告げた。
太尉欲入北軍,不得入。襄平侯紀通尚符節,乃令持節矯內太尉北軍。太尉復令酈寄與典客劉揭先說呂祿曰:「帝使太尉守北軍,欲足下之國。急歸將印辭去。不然,禍且起。」呂祿以為酈況不欺己,遂解印屬典客,而以兵授太尉。太尉至軍,呂祿已去。太尉入軍門,行令軍中曰:「為呂氏右袒,為劉氏左袒!」軍中皆左袒,太尉遂將北軍。然尚有南軍。丞相平乃召朱虛侯章佐太尉,太尉令朱虛侯監軍門,令平陽侯告衛尉:「毋入相國產殿門。」太尉は北軍に入りたいが、入れない。襄平侯の紀通は、符節をつかさどる。持節させ、いつわって(符節を偽造して)太尉を北軍に入れた。太尉は、酈寄と典客の劉揭に、先に呂禄に説かせた。「皇帝は、太尉に北軍を守らせた。呂禄は国に帰ってほしいと。将印を返還して、辞去しなさい。さもなくば禍いが起こる」と。
呂禄は、酈況がじぶんを欺くはずがないと考え、ついに将印を解いて典客にあずけた。兵権を太尉にゆだねた。
太尉の軍が至ると、呂禄はすでに去った後だった。太尉は軍門に入り、軍中に命令した。「呂氏に味方する者は右袒せよ。劉氏のためにする者は左袒せよ」と。軍中は、みな左袒した。太尉は、ついに北軍をひきいた。
しかしまだ、南軍は呂氏がつかさどる。丞相の陳平は、劉章をめして太尉を輔佐させた。太尉は朱虚侯(劉章)に軍門を監督させ、平陽侯から衛尉に告げさせた。「相国の呂産を殿門に入れるな」と。
呂產不知呂祿已去北軍,乃入未央宮,欲為亂。至殿門,弗得入,徘徊往來。平陽侯恐弗勝,馳語太尉。太尉尚恐不勝諸呂,未敢公言誅之,乃謂朱虛侯曰:「急入宮衛帝!」朱虛侯請卒,太尉予卒千餘人。入未央宮門,見產廷中。日哺時,遂擊產,產走。天風大起,以故其從官亂,莫敢鬬,逐產,殺之郎中府吏廁中。朱虛侯已殺產,帝命謁者持節勞朱虛侯。朱虛侯欲奪其節,謁者不肯。朱虛侯則從與載,因節信馳走,斬長樂衛尉呂更始。還,馳入北軍報太尉。太尉起,拜賀朱虛侯曰:「所患獨呂產。今已誅,天下定矣!」遂遣人分部悉捕諸呂男女,無少長皆斬之。辛酉,捕斬呂祿而笞殺呂嬃,使人誅燕王呂通而廢魯王張偃。戊辰,徙濟川王王梁。遣朱虛侯章以誅諸呂事告齊王,令罷兵。呂産は、すでに呂禄が北軍を去ったことを知らない。未央宮に入って、乱をなそうとした。殿門に至り、入れないから、うろうろした。平陽侯は、勝てないことを恐れ、馳せて太尉に語った。太尉も、なお呂氏にに勝てないことを恐れて、いまだ敢えて「呂氏を誅す」と公言できずにいた。
太尉は朱虚侯の劉章にいう。「急いで入宮して皇帝を衛れ」と。劉章は兵を請い、太尉は1千余人を与えた。未央宮の門に入り、呂産を廷中で見つけた。日哺ごろ、ついに呂産を破り、呂産はにげた。
天風が大いに起こり、呂氏の従官が動揺して、戦えなくなった。呂産を追って、郎中府吏の廁中で殺した。
朱虚侯の劉章は、すでに呂産を殺した。皇帝は、謁者に命じて持節させ、朱虛侯をねぎらう。朱虛侯は、その節を奪おうとしたが、謁者はこばんだ。朱虚侯は謁者に同乗して、節信の権限により馳走して、長樂衛尉の呂更始を斬った。
師古はいう。謁者の所持するの節に因り、用て信と為すなり。劉章(朱虚侯)謁者と車を同じくし、故に門者の為に信ぜられ、長楽宮に入ることを得たり。
ぼくは思う。節を借りられないから、謁者つきの節を手に入れたwもどって、北軍に馳入して太尉に知らせた。太尉は立ち、朱虛侯に拝賀して、「私が患うのは呂産だけだった。いま呂産を誅したから、天下は定まった」と。すべて呂氏の男女をとらえて、年齢に関係なく斬った。
辛酉、呂禄を捕らえて斬り、呂嬃を笞殺した。燕王の呂通を誅して、魯王の張偃を廃した。戊辰、濟川王の王梁を移した。朱虛侯の劉章をつかわし、呂氏を誅したことを斉王につげて、兵を解かせた。
斉王の兵が解散し、帝位に即き損ねる
灌嬰在滎陽,聞魏勃本教齊王舉兵,使使召魏勃至,責問之。勃曰:「失火之家,豈暇先言丈人而後救火乎!」因退立,股戰而栗,恐不能言者,終無他語。灌將軍熟視笑曰:「人謂魏勃勇,妄庸人耳,何能為乎!」乃罷魏勃。灌嬰兵亦罷滎陽歸。灌嬰は滎陽にいて、魏勃がもとは斉王をそそのかして挙兵させたと聞いた。使者をやって魏勃を召して、魏勃をとがめた。魏勃「火事になっている家があるのに、先に指示されるのを待って、後から消火するようなヒマがあるんすか」と。魏勃は退いて立つが、足がガクガク戦慄した。うまく言えないことを恐れ、黙っていた。灌嬰は熟視して笑った。「人は魏勃が勇者だというが、ウソだな。魏勃に何ができる」と。魏勃をさがらせた。灌嬰の兵は、滎陽をひきはらって帰った。
班固贊曰:孝文時,天下以酈寄為賣友。夫賣友者,謂見利而忘義也。若寄父為功臣而又執劫,雖摧呂祿以安社稷,誼存君親可也。班固の贊に曰く。孝文の時、天下 酈寄を以て賣友と為す。夫れ賣友なる者は、利を見て義を忘るるを謂ふなり。若し寄の父 功臣たれども又 劫を執る。呂禄を摧して以て社稷を安ずると雖も、誼は君親に存ること可なり。
師古曰く。周勃 其の父(酈商)を劫し、其の子をして(呂禄に)説を行はしむ。予 劫と謂ふは、劫質なり。蓋し寄の父を劫して質と為し、(呂)禄に説くことを行はざるを以て(周勃の言うとおりにしないと)将に之(酈商)を殺さんと諭す。、、
ぼくは思う。周勃さんの陰謀説で片づければいいじゃん。酈寄の人格の問題を、呂禄をだましたことから、追及することはできない。まとはずれの議論だと思う。
代王に使者をやり、帝位を打診する
諸大臣相與陰謀曰:「少帝及梁、淮陽、恆山王,皆非真孝惠子也。呂后以計詐名他人子,殺其母養後宮,令孝惠子之,立以為後及諸王,以強呂氏。今皆已夷滅諸呂,而所立即長,用事,吾屬無類矣。不如視諸王最賢者立之。」或言:「齊王,高帝長孫,可立也。」大臣皆曰:「呂氏以外家惡而幾危宗廟,亂功臣。今齊王舅駟鈞,虎而冠。即立齊王,復為呂氏矣。代王方今高帝見子最長,仁孝寬厚,太后家薄氏謹良。且立長固順,況以仁孝聞天下乎!」乃相與共陰使人召代王。大臣たちは、ひそかに謀った。「少帝、梁王、淮陽王、恆山王は、じつは恵帝の子ではない。呂太后が他人の子を連れてきて、母を殺して後宮で養い、恵帝の子だとして、后や諸王に立てた。呂氏を強くするためである。いま呂氏は皆殺しにしたが、呂太后が立てた諸王は成長して政務をするが、われらと近い者がいない。諸王のなかか、もっとも賢い者を立てるのがよい」と。ある者はいう。「斉王は、高帝の長孫である。立てるべきだ」と。すべての大臣は「呂氏は外戚として、宗廟を危うくして、功臣を乱した。いま斉王のしゅうとの駟鈞は、虎が冠を著ける(ように悪戻である)。斉王を立てれば、呂氏のくり返しだ。代王は、いま高帝の子のなかで最年長であり、仁孝・寬厚である。太后の家の薄氏は、謹良である。
大王は、高帝の姫・薄氏の子である。立長して固順なり。況んや仁孝を以て天下に聞えるか」と。ひそかに人をやって代王を召した。
代王問左右,郎中令張武等曰:「漢大臣皆故高帝時大將,習兵,多謀詐。此其屬意非止此也,特畏高帝、呂太后威耳。今已誅諸呂,新啑血京師,此以迎大王為名,實不可信。願大王稱疾毋往,以觀其變。」中尉宋昌進曰:「群臣之議皆非也。夫秦失其政,諸侯、豪桀並起,人人自以為得之者以萬數,然卒踐天子之位者,劉氏也,天下絕望,一矣。高帝封王子弟,地犬牙相制,此所謂磐石之宗也,天下服其強,二矣。漢興,除秦苛政,約法令,施德惠,人人自安,難動搖,三矣。夫以呂太后之嚴,立諸呂為三王,擅權專制;然而太尉以一節入北軍一呼,士皆左袒為劉氏,叛諸呂,卒以滅之。此乃天授,非人力也。今大臣雖欲為變,百姓弗為使,其黨寧能專一邪?方今內有朱虛、東牟之親,外畏吳、楚、淮陽、琅邪、齊、代之強。方今高帝子,獨淮南王與大王。大王又長,賢聖仁孝聞於天下,故大臣因天下之心而欲迎立大王。大王勿疑也。」代王 左右に問ふ。郎中令の張武ら曰く、「漢の大臣 皆 故の高帝時の大將なり。兵に習ひ、謀詐多し。此れ其の屬の意 此を止むるに非ず。特に高帝・呂太后の威を畏るるのみ。今 已に諸呂を誅し、新たに血を京師に啑る。此に以て大王を迎へて名と為す。實に信ず可からず。願はくは大王 疾を稱して往く毋かれ。以て其の變を觀よ」と。
常識的な意見だけど、名文だなあ。なんか、このブロックだけは、書き下し文にする気分なので、これでいきます。中尉の宋昌 進みて曰く、群臣の議 皆 非なり。夫れ秦 其の政を失ひ、諸侯・豪桀 並び起つ。人人 自ら以為へらく之を得んとする者 以て萬を數へ、然るに卒かに天子の位を踐む者は、劉氏なり。天下 望を絶つこと、一なり。高帝 王の子弟を封じて、地に犬牙 相ひ制す。此れ所謂 磐石の宗なり。天下 其の強きに服すこと、二なり。漢 興り、秦の苛政を除き、法令を約し、德惠を施し、人人 自安し、動搖し難きこと、三なり。夫れ呂太后の厳なるを以て、諸呂を立てて三王と為し、擅權・專制す。然れども太尉(周勃)一節を以て北軍に入りて一呼すれば、士 皆 左袒して劉氏の為にし、諸呂に叛きて、卒に以て之を滅す。此れ乃ち天の授けにして、人力に非ず。今 大臣 變を為さんと欲すると雖も、百姓 使と為らざれば、其の黨 寧んぞ能く專一するや。方今 内に朱虛・東牟の親有り。外に吳・楚・淮陽・琅邪・齊・代の畏有り。方今 高帝の子、獨り淮南王と大王のみ。大王 又 長じ、賢・聖・仁・孝 天下に聞こゆ。故に大臣 天下の心に因りて、大王を迎へ立てんと欲す。大王 疑ふこと勿かれ」と。
代王報太后計之。猶豫未定,卜之,兆得大橫。占曰:「大橫庚庚,余為天王,夏啟以光。」代王曰:「寡人固已為王矣,又何王?」卜人曰:「所謂天王者,乃天子也。」於是代王遣太后弟薄昭往見絳侯,絳侯等具為昭言所以迎立王意。薄昭還報曰:「信矣,無可疑者。」代王乃笑謂宋昌曰:「果如公言。」代王 太后に報じて之を計る。猶豫して未だ定まらず、之を卜し、兆は大横を得たり。占ひに曰く、「大橫は庚庚(横貌)たり。余 天王と為らん。夏啓 以て光る」と。代王曰く、「寡人 固より已に王為り。又 何の王となるや」と。卜人曰く、「所謂 天王なる者は、乃ち天子なり」と。是に於て代王 太后の弟の薄昭を遣りて、往きて絳侯に見えしむ。絳侯ら具さに昭の為に王を迎立する所以の意を言ふ。薄昭 還りて報せて曰く、「信ぜよ。疑ふ可きこと無し」と。代王 乃ち笑ひて宋昌に謂ひて曰く、「果して公が言の如し」と。
長安は、何がいるか解らない恐い場所。代王が亀を横一線に割ったのは、このときの心境なんだなあ。曹丕と比べて、どっちが不安だろう。
乃命宋昌參乘,張武等六人乘傳,從詣長安。至高陵,休止,而使宋昌先馳之長安觀變。昌至渭橋,丞相以下皆迎。昌還報。代王馳至渭橋,群臣拜謁稱臣,代王下車答拜。太尉勃進曰:「願請間。」宋昌曰:「所言公,公言之;所言私,王者無私。」太尉乃跪上天子璽、符。代王謝曰:「至代邸而議之。」乃ち宋昌に命じて參乘せしめ、張武ら六人 乘傳し、從ひて長安に詣づ。高陵に至り、休止す。而るに宋昌をして先に長安に馳せて變を觀さしむ。昌 渭橋に至り、丞相より以下 皆 迎ふ。昌 還りて報ず。代王 馳せて渭橋に至り、群臣 拜謁して稱臣す。代王 下車して答拜す。太尉の勃 進みて曰く、「願はくは間を請ふ(人払いして話したい)」と。宋昌曰く、「言ふ所 公なれば、公に之を言ふ。言ふ所 私なれども、王者に私無し」と。太尉 乃ち跪きて天子の璽符を上る。代王 謝して曰く、「代邸に至りて之を議せん」と。
代王の臣たちが、長安の高官にナメられたら困るのだ。
長安で代王が三譲する
後九月,己酉晦,代王至長安,舍代邸,群臣從至邸。丞相陳平等皆再拜言曰:「子弘等皆非孝惠子,不當奉宗廟。大王,高帝長子,宜為嗣。願大王即天子位。」代王西鄉讓者三,南鄉讓者再,遂即天子位。群臣以禮次侍。後九月、己酉晦、代王 長安に至り、代邸に舍す。群臣 從ひて邸に至る。丞相の陳平ら皆 再拜して言ひて曰く、「子の弘ら皆 孝惠の子に非ず。當に宗廟を奉るべからず。大王、高帝の長子なる。宜しく嗣と為るべし。願はくは大王 天子の位に即け」と。代王 西郷して譲すること三たび、南郷して譲すること再び、遂に天子の位に即く。群臣 禮次を以て侍る。
如淳はいう。郡臣に譲したのだ。ある人はいう。賓主は東西、君臣は南北でむきあう。ゆえに賓主として東西に向きあって三譲しても、郡臣は足りないとした。改めめて南北に向きあう。賓主から君臣への関係の変化をしめしたのだ。
ぼくは思う。代王は陳平たちに「天子の位に即け」と云われ、西を向いて3回辞退して、南を向いて2回辞退してから受けた。胡注によれば、東西は賓主、南北は君臣の座る位置。「文帝の三譲」と単純化して良いわけでもない。もっと複雑そう。
東牟侯興居曰:「誅呂氏,臣無功,請得除宮。」乃與太僕汝陰侯滕公入宮,前謂少帝曰:「足下非劉氏子,不當立!」乃顧麾左右執戟者掊兵罷去;有數人不肯去兵,宦者令張釋諭告,亦去兵。滕公乃召乘輿車載少帝出。少帝曰:「欲將我安之乎?」滕公曰:「出就舍。」舍少府。乃奉天子法駕迎代王於邸,報曰:「宮謹除。」代王即夕入未央宮。有謁者十人持戟衛端門,曰:「天子在也,足下何為者而入?」代王乃謂太尉。太尉往諭,謁者十人皆掊兵而去,代王遂入。夜,拜宋昌為衛將軍,鎮撫南北軍;以張武為郎中令,行殿中。有司分部誅滅梁、淮陽、恆山王及少帝於邸。文帝還坐前殿,夜,下詔書赦天下。東牟侯の興居曰く、「呂氏を誅するに、臣 功無し。宮を除くを得ることを請ふ」と。乃ち太僕たる汝陰侯の滕公と与に入宮し、前に少帝に謂ひて曰く、「足下 劉氏の子に非ず。當に立つべからず」と。乃ち左右を顧麾して戟を執る者 兵を掊ちて罷去す。數人 去ることを肯ぜざる兵有り。宦者 張釋をして諭告せしめ、亦 兵を去らしむ。滕公 乃ち召して輿車に乘り少帝を載せて出でしむ。少帝曰く、「將に我をして安(いづこ)にか之かんと欲す」と。滕公曰く、「出でて舍に就く」と。少府に舍す。
乃ち天子の法駕を奉じて代王を邸に迎ふ。報じて曰く、「宮 謹みて除く」と。代王 即ち夕に未央宮に入る。謁者十人 戟を持して端門を衛する有り、曰く、「天子 在り。足下 何為(なんす)れぞ入るか」と。代王 乃ち太尉に謂ふ。太尉 往きて諭す。謁者十人 皆 兵を掊ちて去る。代王 遂に入る。夜、宋昌を拜して衛將軍と為し、南北軍を鎮撫せしむ。
南北軍は、呂禄たちを始末する、もっとも重要な兵力だった。これが代王の臣にうつった。周勃は、ほんとうに代王を天子に迎える気ががあるなら、代王の臣に兵権を預けねばならない。周勃が軍から手を引いたのは英断だなあ。なかなか、できることではない。張武を以て郎中令と為し、殿中を行はしむ。有司 部を分けて梁・淮陽・恆山王及び少帝を邸に誅滅す。文帝 還りて前殿に坐ず。夜、詔書を下して天下を赦す。140613
すごいドラマチック。敗退した勢力に関係する者を、まじで一掃する。日本史には、なかなかできることではない。
もともとは、魏文帝の曹丕が規範とした、漢文帝を知りたくて、『資治通鑑』を開いた。ついつい、呂太后期を読んでしまった。次回からが本番です。140613閉じる