読書録 > 西部忠『貨幣という謎』_再帰性に関する読書メモ

全章
開閉

西部忠『貨幣という謎』より

のちのち、『三国志』について考えるときに使うため、読書メモをつくります。
今日における貨幣と、後漢末における爵位(天子を含む)が、類似しているのではないか。という直感があって、この直感を押し広げるために、読んだ本についてメモしておきます。三国志の話じゃなくてすみません。

お金は「こと」である

お金は「もの」ではない。金属片や紙切れは本質でない。
貨幣なければ市場なし。
市場経済は、貨幣によって成り立っている経済。
貨幣を対価として商品が取引される。貨幣で売買されるものであれば、何であれ「商品」となる。映画・ゲームなどの情報財、株・債権・不動産、労働力、地位や名声、臓器や精子や卵子。貨幣を支払うなら、非合法的なものでも商品になってしまう。
貨幣が物を「商品」にして、その「商品」を売買する場所を「市場」に変える。市場とは、貨幣があることで成り立っている。もしもこの世に貨幣がなければ、市場も商品も存在しなかった。貨幣は、市場や商品を成立させるための前提条件。市場での商品交換をただ効率的にするための便利な「道具」ではない。_065

ぼくの関心に置き換えてみます。
貨幣を爵位、商品を爵位を媒介に授受されるもの(封邑などの経済財、政治や学問の情報、功績、名声など)。爵位が、漢代の人々の活動の諸産物を、「漢による支配の場」に持ちこむ。はじめに確固たる漢による支配があり、その支配を円滑ならしめるために、便利な道具として爵位が作られたのではない。爵位があって初めて、漢による支配が立ち上がる。爵位の授受に先立って、漢があったのではない。漢帝による封爵と、漢による支配は、先後関係はなく、表裏一体というか、同一物である。
という話か何かを考え中です。

貨幣は、その存在自体が、物と物との交換を初めて可能にする。貨幣は、広範な商品売買を通じて豊かな物資文明を築きうる市場経済の可能性を開く。ハイパーインフレ、バブルも引き起こす。
貨幣は言葉に似ている。
私たちが言葉を使うのは、コミュニケーションをスムーズにしたり、メッセージを伝達するためか。あるいは、言葉を介さない以心伝心の世界がまずあって、その世界の狭さや不便さを克服するための「道具」として言葉が生み出されたと言えるか。
言葉がなければ伝えられないことがある。だが、言葉による伝達は失敗する可能性がある。思想・信仰・世界観が異なれば、言葉によって、関係が断絶して戦争が起こる可能性もある。
言葉は便利な「道具」というよりも、むしろコミュニケ-ションの可能性を一般に開くことで、人が他者との困難なコミュニケ-ションをなんとか成立させようと努力するための不可欠な「前提条件」だとわかる。

貨幣の成立以前、「二重の欲望の一致」による物々交換は、やれない。もしも誰もが受けとってくれる「何か」があれば、この問題は解決する。それが貨幣。鹿と鮭は交換できなくても、鹿-貨幣、貨幣-鮭と2回の交換を行うことで、目的を達成する。
貨幣はいかに生まれるか。メンガーによる説明。ある地域で比較的おおくの人が欲しがっているものがある。「販売可能性」が高いもの。直接交換による偏りがあり(販売可能性が異なるので、頻繁に応酬されるものがあり、偏りが増幅されることで(販売可能性の高い商品がますます頻繁に応酬され)、貨幣がほかの商品から分化する(販売制の高い商品が貨幣となる)。_072

どの君主が発行した爵位がほしいか。すなわち、どの君主と関係を結びたいか。その君主と関係が結べていれば、在地の支配が円滑だし、他の勢力に対して有利に渡り合える。こういう感じで、群雄のなかから、正統な皇帝が出現するのだと思う。
みんなが関係の構築を欲望する君主が発行する爵位が、「販売可能性」が高いものとして、商品から貨幣へと格上げされる。


この貨幣生成論は、貨幣商品説という。ある物が貨幣になると同時に、他のものが商品になる。あるいは、貨幣と商品は同時に分化する。貨幣が成立する以前に商品が存在しない以上、「貨幣物説」「貨幣実在説」と呼ぶべきか。
先ほどは、各所有者が「自分の周りのもののつい、最も直接交換可能性の高いものを要求する」としたが、このルールを、「直接交換可能性が、ある一定の閾値を超えるものを欲求する」ともできる。そうすると、「一定の閾値」が大きすぎると、貨幣はまったく生まれない。これが小さすぎると、いくつもの物が直接交換可能性を高めたり低めたりする不安定なプロセスがくり返される。いくつかのものが、貨幣として、生成したり消滅したりをくり返す。

まさに群雄割拠である。190年代である。

閾値が一定の範囲内にあれば、単一ないしはごく少数の物が、より多くのものの所有者に欲しがられ、直接交換可能性は次第に増大し、やがて最大値をとって安定する。

ごく少数のもの=三国鼎立が落ち着いた状態。

しかし、偶然により貨幣の直接交換可能性がゆらぎ、崩壊することもある。ただし崩壊しない。なぜか。ひとたび貨幣として偶然的に成立すると、自分自身の構造を絶えず強化しながら存続し続けるような性質がある。偶然に成立し、ゆらぐが、自分自身を強化する。_077

いずれの場合も、人々の交換実現の追求が、「他人が欲しがっているものを自分も欲しがる」という、他者に依存する欲求を学習し、欲求の変化が意図せざる結果として貨幣を創発する。人間の柔軟な学習能力が、貨幣が生成される必要条件である。
学習を通じた主体の欲求(内部ルール)の変化が、貨幣制度(外部ルール)の生成をもたらすという因果関係がある。同時に、貨幣の生成が人々の欲求を他者依存的にするという逆の因果関係もある。相互に規定しあう循環関係を形成する。このループこそ、「貨幣とは、貨幣として使われるから貨幣である」という自己準拠性の正体。

市場とりわけ外国貿易が共同体の周辺部で行われたのは、市場原理が贈与原理や互酬原理を壊してしまう結果、共同体が崩壊することを恐れたから。
ヤップ島の石貨は、伝説や来歴をもつ。最大の石貨は、海中に沈んでいるもの。誰も見たことがないが、購買力は失われない。貨幣はモノとしては何でもよく、「こと」である。

「観念の自己実現」としての貨幣

経済学では、貨幣の機能は4つある。交換手段/流通手段。価値尺度/購買手段。蓄積手段。支払手段。
みなが貨幣を求めるのはなぜか。貨幣が購買力を持っていると、みんなが信じているか予想しているからだ。貨幣が偉いのは、みんなが貨幣を偉いと思っているからだ。これは、社会現象における「観念の自己実現」である。自然科学に適応したらオカルトになる。
貨幣は、観念の自己実現に支えられている。

曹丕のときは半信半疑だった魏という貨幣も、曹叡のときは、循環的に自己実現された。


「裸の大様」のこと。民衆にとって王様はどんな恰好をしていようが偉い。民衆は、王様を賞賛しておいたほうが合理的。本当は何もないのに、誰もがあると信じる(ふりをする)ことによって、実際にあるかのような現実ができる。観念が自己実現する。紙幣が貨幣として扱われるのと同じ。_108
裸の王様も、日本銀行銀行券も、法的強制力がある「法貨」である。ただし、法律だけでは、紙幣の流通を義務づけられない。使用者にメリットが必要。メリットとは、慣習的な思考方法。昨日も流通したから、明日も流通するだろう、流通させれば諸決済のコストが下がると。いつもと同じ行動を取ることで、社会や経済の定常性を回復するように働く。

1つの王朝が長続きする理由。


予想の自己実現。未来において、次の人がそれを紙幣として受けとってくれると予想できるなら、自分が受けとるのは理に適うと。

岩井克人『貨幣論』ですね。

こうした合理的な思考の持ち主も、次の次の、、と未来を予想する思考実験を無限回くりかえすなら、慣習的な行動の人と同じように、紙幣を受けとるだろう。しかし思考を有限回で止めてしまうと、別の結論が導き出される。最後に自分がババを受けとることに気づき、紙幣を拒絶してしまう。_119

岩井氏の議論は、無限の思考実験を前提にしているから、おかしいと。


予想と慣習という観念がつくる強い現実。
観念の自己実現は、慣習の自己実現と、予想の自己実現の合成的な効果を生じる。両方を足し合わせて、貨幣の貨幣たることは強固になる。
だから、「王様は裸だ」と叫んだ子供がいても、「日本銀行券なんて紙切れだ」と叫んでも、急速に価値を失うことはなく、流通しなくもならない。「王様は裸だ」という子供の声が、いかにして、ある限界をこえて広く伝染したか」が描かれない。

「禅代衆事」が描かれていない。

信じるふりをしていた人々が、「予想の自己実現」にほころびが生じ、なだれを打ってくずれる。強固であるはずの「慣習の自己実現」がくずれ、臨界点を超えると、それも一気にくずれる。ゆらぎによりもたらされる「予想の自己実現」の不安定化作用が働き出し、それが「慣習の自己実現」の安定化作用を上回ると、最後は「観念の自己実現」の全体が破壊されるといった、ダイナミックなプロセスがある。

まさに「禅代衆事」のことだ。122p。

貨幣価値が大幅に減少するのは、物価が急騰するハイパーインフレーション。人々は、円以外の貨幣、ドルや金塊など、あるいは新たなる貨幣、を追い求める。貨幣なしでは、市場経済は成り立たないから。べつの「観念の自己実現」が生き延びる。
「裸の王様」は、子供に裸を指摘され、群衆も呼応したが、それでも堂々と歩き続けた。王権そのものは生き延びた。

漢は滅びても、ちがう魏呉蜀は求められた。漢が滅びることで、王朝がなくなるのでない。ドルが滅びても、違う貨幣が流通するだけで、貨幣なき社会が訪れない。


貨幣につきまとう病

観念の自己実現としてのバブル。_193
貨幣がなければ、ポトラッチのような熱狂的な贈与と大量破壊があるにしても、バブルのような、一国単位の大規模な集団現象は起きないだろう。貨幣がなければ、市場が存在しない。
貨幣のことを、盲目的に信じる(慣習)か、信じるふりをして利益を期待する(予想)かに関わらず、貨幣が「ある」かのような現実ができあがる。現実が、信念を維持・強化する。
ソロスの「再帰性」。
金融市場を理解するためのカギは再帰性。人間とは、自らが生きる世界を理解しようとすると同時に、他方で世界に影響を与え、自らが都合がよいように変化させようとする。
認知機能・操作機能が干渉し合いながら同時に作用している社会現象。参加者の未来に対する予想や意図によって影響を受ける。この双方向性のため、社会現象の不確実性や偶発性が生じると同時に、参加者の観察事実は知識として不完全なものになる。
現実の「社会現象」とは、社会で生じる「事実」だけでなく、その事実に関する参加者の意見・解釈・誤解をも含む。それゆえ、参加者の社会理解と社会の現実は一致しない。
市場原理主義者が想定している完全競争モデルは、情報や予想の完全性を仮定するだけでなく、需要と供給は相互に独立なものと考えるために、両者が再帰的に関連する可能性が排除されている。いわゆる合理的期待仮説では、すべての市場参加者は、客観的な経済モデルを把握した上で、それと整合的に将来を予想すると考えるので、人々の予想と現実は、混乱時を除いては一致せざるを得ない。しかしそれは、金融市場が自己調節機能を持っていて、おのずと均衡値に収束すると見なすことに等しい。ありえない。_201

バブルの膨張と崩壊過程の典型モデル。「支配的トレンド」と「支配的バイアス」の2つによって、ポジティブフィードバックのループが加速的に作動することで、価格暴騰をともなうバブルを形成する。ある転換点でループが逆回転すると、価格暴落をともなうバブルの破裂が引き起こされる。
「支配的トレンド」とは、ある時代に広く受け入れられた、世界への働きかけの方法、操作機能のこと。「支配的バイアス」とは、広く受け入れられた、しばしば誤解や誤認を含む認識の方法、つまり認知機能のこと。 初期(まだ支配的トレンドが認識されない)。加速期(支配的トレンドが広く認識され、支配的バイアスにより強化される。株価は均衡水準から乖離する)。試練期(株価は一時的に下落する)、

加速は曹操さん、試練は曹丕さん。

確立期(試練期を乗りこえ、支配的バイアスと支配的トレンドが強化され、均衡から速く離れた株価が確立する)。

曹叡さんの建設ラッシュ。統一王朝かよ。

正念場期(現実が誇張された予想を支えきれなくなる)。黄昏期(参加者はゲームを続けているが、その危険性にすでに気づいている)。

曹爽さん。

転換期(転換点で支配的トレンドは一気に下方転換し、支配的バイアスも逆転する)。暴落期(破局的な下方への加速が生じる)。

価格の下落は上昇より速いので、その動きは非対称になる。バブルはゆっくりと形成され、徐々に加速度的に膨らんで、ある時点で一気に破裂する。
ソロスがみた支配的バイアスは、「多くの投資家が、一株あたり利益の急成長を、その原因に注意を払わずに好むこと」である。支配的トレンドとは、「企業が自社株を使って、低い株価収益率の企業を買収することで、一株あたりの利益の高成長率を達成することができる」こと。_203
この2つがループを形成すると、低い株価収益率の企業を吸収する企業の株は投資家にどんどん買われてその株価が上昇し、上昇した自社株を利用して、さらに企業買収が進むという好循環が生まれる。しかし、投資家ががやがてこのバイアスの危険を察知して、その企業の株を売り始めると、トレンドは崩壊して、ループは逆回転を始める。
サブプライムローンの場合、支配的バイアスとは、担保物件である住宅の価格は、銀行の貸し出し意欲によって影響を受けない(で上がり続ける)と信じること。支配的トレンドとは、貸し出し基準の積極的な緩和と融資比率の拡大、すなわち信用膨張だった。これは、不動産バブルに共通して見られる。

ソロスを普遍化する。
支配的バイアスとは、完全な合理性を持ち得ない人間が、世界の現実を認知するための認知枠。その中には現実に関するゆがみ、誤解、希望をも含みうる。
支配的トレンドとは、社会的に広く受け入れられている、行動のための指針や手続。
この2つがミクロレベルで相互に強化する関係を形成すると、さらにもう1つ上のマクロレベルでは、バブルという経済現象が自己組織的につくられる。ミクロが加速度的に作用することで、バブルというマクロな秩序が作られる。マクロな秩序の成長が、さらにミクロに燃料を注ぐことで、ループが作動しつづける。しかし、何らかのきっかけで、支配的トレンドと支配的バイアスが相互に否定しあい、弱めあうと、マクロの秩序であるバブルは自己崩壊する。

後漢末は、漢の官爵のマクロである。ああ、この一文を言うために、本を引用してきた気がする。
つまり、実態に比して、漢のためという名目や、漢の官爵が価値を持ちすぎた。いままで漢王朝は続いてきたという慣習的なバイアスとか、これからも漢は永続するだろうという儒教が保障した「合理的な」予想により、漢は高値が付き続けた。しかし、ちょっとしたキッカケで、値崩れがおこり、貨幣として顧みられなくなり、みんな曹魏に流れた。
曹氏に革命の意思があろうがなかろうが、本質的な問題ではないかも。みんな、曹操や曹丕の胸中を勘ぐることが好きだが、あんまり重要じゃない。なぜなら、日本銀行が法的に貨幣の流通を強制しても、必ずしも充分でないように。臣下たちが、右見て左見て、慣習を打ち切ってでも(もしくは魏は漢の封国という観点からすれば慣習を強化するために)、また合理的な予想をして、漢よりも魏の発行する官爵に価値があると見出し、雪崩を起こした。「禅代衆事」は漢のバブル崩壊である。
後漢末、漢はバブルを経験したから(曹操が漢の実態を上回る値付けをしたから)かえって崩壊の一歩前に来てしまった。曹操が死に、曹操による値付けが根拠を失ったから、バイアスとトレンドが逆回転をしたと。


なぜ資本主義は不安定になるのか

貨幣が壊れるとき。
貨幣とは仮想現実である。仮想現実が壊れるのは、ハイパーインフレーションである。貨幣価値が累積的に下落するとき、紙幣は紙くずになる。ハイパーインフレは、近代に登場した紙幣にとりついた病気。資本主義を不安定にさせる要因。
ハイパーインフレがおきると、貨幣も市場も消滅して、物々交換の世界がナマの姿で表れるか。ちがう。国家貨幣は、べつの貨幣にかわる。タバコや穀物のような現物貨幣か、貴金属か、

むきだしの暴力による支配権力か、

金貨か、国際通貨か、コミュニティ通貨や企業通貨か、電子マネーなのか。夢から覚めるのでなく、別の夢うつつに移行するだけ。くりかえし別の仮想現実がでてくる。
貨幣には、ハイパーインフレや投機など、悪い点もある。それらが起きないような貨幣が、選び取られる。貨幣の質を競うことになる。

官爵と禅譲について、多くの知見が得られました。ほんとです。おいおい、わかるような形に整えていきます。140603

閉じる

ソロスは警告する(再帰性の話)作成中

入手済・読了。ここに書きます。140603

閉じる

与那覇潤『日本人はなぜ存在するか』作成中

こちらも再帰性の本。
入手済・読了。ここに書きます。140603

閉じる