全章
開閉
- 第0回 企画の趣旨と方向性
ツイートで想像を募集しました
はじめに、経緯を書き留めておきます。
日曜の夕方、ぼくがツイッターで書きました。140518
もしも曹丕が40歳で死なずに80歳まで生きたら。曹叡は次の皇帝でなく、他の適当な子が皇太子。諸葛亮の北伐を親征で防ぐ。孫権の皇帝即位はない(もしくは遅れる)。司馬懿は功臣として使い倒され、魏晋革命はない。曹植とちょっと和解して死別。宮殿造営はもっと地道。妄想を募集したいです。 @Hiro_Satoh
【募集】もしも曹丕が40歳でなく80歳まで生きたら、三国時代はどうなったか、想像を教えて下さい。できるだけ1本の話につなげて、ニセ歴史書のシナリオをつくります。拡散をお願いします。集計のため、タグもお願いします。 #曹丕80歳
曹丕が80歳まで生きたら、鍾会がどう振る舞ったのか。曹氏の参謀として、存分に活躍して終わったのか。荀彧なきあとの荀氏も、地位を回復したのか。魏晋交替期に高位だった「名士」の同行を、1氏ずつ想像せねば。 #曹丕80歳
曹丕が80歳まで生きれば、266年まで生きることに。孫権が先に死ぬ。諸葛恪政権ができたら、曹丕は親征の手をゆるめず呉を追い込みそう。史実では、蜀の滅亡と魏晋革命まで生きることに。これを目安に考えれば良いのかな。蜀を倒して次代(曹氏)につないで崩御と。 #曹丕80歳
ぼくが「拡散をお願いします」と書いたツイートに、1日で約120人の方々がリツイートをして頂きました。また、ハッシュタグをつけて、曹丕が80歳まで生きた場合の想像を教えて頂きました。ありがとうございます。
まとめサイトは、敎団さん(@Vitalize3K)が、作って下さっています。
http://togetter.com/li/668932
敎団さんが途中で、こうおっしゃいました。
曹丕に関しては対外関係、国内政策、後継者問題、文学など多岐に渡る問題があるので、非常に面白い話題が展開されている。 @Vitalize3K
まさにそのとおりです。
言い出した責任をとるべく、ニセの歴史の筋書きをつくります。
敎団さんの指摘にあるように、曹丕は、多岐にわたって影響のある人物です。曹丕が死なないというイフ物語を書くのは、三国志ファンとしての総合力を試されるような気がします。
いきなり完成形の歴史書にするのは、難しいので、ぼくがあれこれ考えた過程を、順番に書いてゆきます。最終的には、体裁を整えた史書っぽくします。
イフによる影響は最小限にします
曹丕を、史実より40年も長生きさせるわけですが、ただ漠然と40年を付け足しても、おもしろくなりません。できるだけ史実に準拠し、曹丕の生存による変化を最低限にして、話を作りたいと思います。
曹丕の生き残ったことによる、1次的な影響は、想像を膨らまします。しかし、玉突きのように発生する2次的な影響は、できるだけ及ぼしません。あまりに改変してしまうと、登場人物だけ借りた、まったく別の話ができてしまうので。
たとえば、曹丕が生き残れば、孟達は、史実と同じようには、曹魏を離反しないでしょう。諸葛亮の1回目の北伐は、見送られるか、ちがった戦略になるでしょう。これは、1次的な影響です。
しかし、諸葛亮が北伐を見送ることで、その後の展開がまるで史実から離れ、、という話は、おもしろくないと思います。諸葛亮は、ちょっとムリをしても、史実どおりに北伐を仕掛けてくる。諸葛亮は、史実とは違う理由で敗退するかも知れませんが、2回目の北伐は、史実どおりに挑んでくる。
ぼくが目指すのは、完全なシミュレーションではありません。
基本方針は、なるべく史実に沿うこと。まるで、竹を押し曲げても、もとの形に戻るように。とは言え、書いているうちに、史実に回復できないくらい、離れていくかも知れません。いまの段階では、よく分かりません。
鍵となるのは人物の死
皆さんのツイートを見つつ、まずは全体の枠組をつくりたいと思います。
ツイートから得た知見は、重要人物の死が、曹丕にとっての転機となることです。重要人物の死によって、曹丕に追加した寿命の40年を、いくつかに区切るところから始めます。
「時代区分」をしないと、話の筋が定まらないので。史実で病死した人は、同じ年に死んでもらいます。史実で殺された人は、同じ年には死なないはずです。例外として、曹叡のように、「その立場にあったせいで、明らかに寿命を縮めたと思われる」人は、長生きしてもらいます。
くり返しますが、なるべく史実からの差をつけません。
曹丕の人生を区切りそうな人物の死と、そのときの曹丕の年齢。
呉質(230年)、曹丕は44歳
曹植(232年)、曹丕は46歳
献帝(234年)、曹丕は48歳
郭皇后(235年)、曹丕は49歳
司馬懿(251年)、曹丕は65歳
孫権(252年)、曹丕は66歳
司馬師(255年)、曹丕は69歳
司馬昭(265年)、曹丕は79歳
呉質が死ぬことで、腹を割って話せる友人を失い、孤独を深める。郭皇后を失って、皇族の経営がザツになる。司馬懿を失ってから暴走をはじめ、孫権が死んでから天下統一への関心を失い、文化事業に傾倒する。
司馬師と司馬昭が、どのように絡んでくるかは、とても重要なことなので、ちょっと保留です。司馬昭は、長安に進駐して鍾会の伐蜀を見張りつつ、鍾会と呼応して謀反!とか、あるかも知れません。司馬懿は忠臣で終わるでしょうが、司馬昭は、史実の鍾会に似てる気がします。
漢文帝と梁武帝とを参考にする
曹丕が規範としたのは、前漢の文帝です。
漢文帝は、24年も皇帝をやった人。治世が長びいたとき、曹丕が漢文帝に接近する可能性がある。呉楚七国への対処と、孫権への対処は、ますます似てくるのでは。辺境にいて、なつかぬ諸侯への対処法として。
南朝梁の武帝は、48年間も皇帝だった。今回の架空の曹丕と、ほぼ同じくらいの長期間、皇帝をやった。文化事業に傾倒したところが、曹丕と似ている気がする。
梁武帝は、86歳まで生きた。彼の即位後の経過年数と、心情の変化をかさねると、いいサンプルになるのかも。
六朝文化を、長生きした曹丕が先取りするという。
設定や作り方の方針について、順次 ここに追記します。140519閉じる
- 第1回 曹丕が死なない
文体を探りつつ、曹丕が死なない話をやります。
死の切迫感にさいなまれる曹丕
まずは、伏線を確認するところから、イフ物語を始めます。「曹丕80歳」というのは、なんの根拠や背景もなく、出てきた設定ではありません。
曹丕の基本資料である、『三国志』巻2 文帝紀から始めます。
曹丕の生前を、ちょっとだけ史料で確認して、すぐイフ物語を始めます。
曹魏の文皇帝は、いみなを丕、あざなを子桓という。中平四(187)年冬、譙県で生まれた。建安十六(211)年、25歳のとき、五官中郎将・副丞相となった。建安二十二(217)年、31歳のとき、魏王の太子に立てられた。
文皇帝諱丕,字子桓,武帝太子也。中平四年冬,生於譙。建安十六年,為五官中郎將、副丞相。二十二年,立為魏太子。(巻2 文帝紀)この立太子は、はじめから約束されたものではなかった。
曹操は、建安十八年(213)、魏公に進んでも、後嗣を立てない。建安二十一(216)年、魏王に進んでも、後嗣を定めない。曹操は、すでに60歳を過ぎており、いつ死んでも不思議ではないのに。
立場が定まらず、将来に疑問を持った曹丕。彼は、人相を見ることができるという、高元呂なる人物を呼んだ。太祖不時立太子,太子自疑。是時有高元呂者,善相人,乃呼問之,對曰:「其貴乃不可言。」問:「壽幾何?」元呂曰:「其壽,至四十當有小苦,過是無憂也。」後無幾而立為王太子,至年四十而薨。(同注引『魏略』)「私はどういう人物だろうか」
「言い表せぬほど、高貴でいらっしゃる」
高元呂は、曹丕の前途を祝福した。しかし同時に、呪いとも解釈できる言葉をあたえた。「あなたの寿命について言えば、40歳のときに、ちょっとした苦難があるでしょう。40歳を過ぎてしまえば、心配はありませんがね」と。
似たエピソードがある。巻29 方技伝 朱建平伝である。
文帝為五官將,坐上會客三十餘人,文帝問己年壽,又令遍相眾賓。建平曰:「將軍當壽八十,至四十時當有小厄,願謹護之。」曹丕が五官将となったころ、30余人の客を集めた。曹丕は、まだ25歳の若者であるにも関わらず、
「私の寿命はどれほどか」
と質問した。
朱建平は、
「将軍の寿命は、80歳あるでしょう。しかし40歳のとき、ちょっとした災厄がある。どうか謹んで、寿命を大切にされますように」
と答えた。
この逸話を信じるなら、曹丕は、死の現実感をつねに意識していた。わずか25歳で、寿命のことを問うほど、死のことが気になっていた。この性質は、大理の王朗に与えた文書に表れる。
「人は生きていれば七尺の形があるが、死ねば棺の土になってしまう。ただ徳を立てて名をのこせば、記録のなかで生き続けることができる」
大理王朗書曰:「生有七尺之形,死唯一棺之土,唯立德揚名,可以不朽,其次莫如著篇籍。疫癘數起,士人彫落,余獨何人,能全其壽?」故論撰所著典論、詩賦,蓋百餘篇。(文帝紀 注引 『魏書』)
自分が朽ちてしまうという現実に抵抗すべく、『典論』や詩賦などを残した。文学への情熱は、さしせまる死への予感に裏打ちされていた。曹丕は、「死なない人間はいない」という当然のことを、わざわざ言及せずにはいられないほど、死に取りつかれていた。
そして訪れた、曹丕の40歳
曹丕は、延康元(220)年、34歳のときに、漢の献帝から禅譲を受けて、みずから皇帝となった。黄初元年と改元した。その6年後の黄初7(226)年、曹丕は40歳をむかえる。
前年、孫権を討伐すべく、徐州方面をめぐった。攻めあぐねたので、許昌に帰ってきた。すると、許昌城の南門が、理由もなく崩れた。
「不吉なことだ」
曹丕は、忌み嫌って、目をそらした。
七年春正月,將幸許昌,許昌城南門無故自崩,帝心惡之,遂不入。壬子,行還洛陽宮。三月,築九華台。全軍に命じて、許昌に入るのを辞めさせた。
この城を、「許昌」と名づけたのは、曹丕。もとは「許」とだけいった。曹丕が皇帝になるに先駆けて、めでたい前兆や予言書がおおく報告された。そのなかで、曹魏は許で昌(さかん)になる、という文書が報告された。いわば許昌の城市は、曹魏そのものを象徴している。文帝紀 注引 『献帝伝』 許芝の上条など。「まさか天命は、漢から魏に移っていないのか」
曹丕は、ああ、と唸って血を吐いた。
はじめ、曹丕は臣下につよく勧められ、皇帝となった。しかし、
――皇帝の資格がほんとうに自分にあるのか、
という自問自答は、即位してからも続いた。
曹丕は、疑念と後悔をぬぐうため、漢の皇帝にできなかったことを、代わりに成し遂げようとした。すなわち、天下の統一をめざした。
いくたびも孫権を討伐したが、天候にめぐまれず、撤退せざるを得なかった。いよいよ自責の念が強まった矢先に、許昌の城門がくずれたのである。
「洛陽に転進せよ」
そう命じてから、曹丕は馬上に突っ伏した。
曹丕が死なない
黄初7年の夏5月、長雨がふり、曹丕の病は篤くなった。嘉福殿に横たわったまま、何日も眠り続けた。数日ぶりに、意識が戻った。
「お目覚めですか」
寝床のすぐ横には、郭皇后がいた。
「――太子を立てていない」
曹丕が悪夢にうなされるように言った。
父の曹操は、60歳を過ぎても太子を立てず、そのせいで曹丕は、不安を味わった。曹丕は、甄氏と対立したからか、長子の曹叡を太子にせずに、他の子の成長を待っていた。けっきょく曹叡に、同じように不安な思いをさせたんだろうなあ。「私が養っている、あの子ではいけませんか」
しばらく沈黙してから、曹丕は嘆息した。
「呉賊が残っている。幼子に、皇帝は務まらないだろう。やむを得ないな」
詔して、平原王の曹叡を太子とした。
黃初二年為齊公,三年為平原王。以其母誅,故未建為嗣。七年夏五月,帝病篤,乃立為皇太子。(巻3 明帝紀)
後嗣を定めて安心した曹丕は、しみじみと言った。
「かつて朱建平という者に、寿命が80歳まであると言われた。これは昼と夜をべつに数えたものだったのか」
文帝黃初七年,年四十,病困,謂左右曰:「建平所言八十,謂晝夜也,吾其決矣。」頃之,果崩。(方技 朱建平伝)郭皇后が、曹丕の手を取った。
「昼を1日、夜を1日、という数え方などありません」
「私は天子となった。これにより、天を欺くことになってしまった。遺詔を伝えよう。太子の叡を連れてこい。曹真、陳群、曹休、司馬懿をここに呼ぶように。私が死んだら、後宮の女官たちは、実家に帰せ…」
夏五月丙辰,帝疾篤,召中軍大將軍曹真、鎮軍大將軍陳群、征東大將軍曹休、撫軍大將軍司馬宣王,並受遺詔輔嗣主。遣後宮淑媛、昭儀已下歸其家。丁巳,帝崩於嘉福殿,時年四十。
5月丁巳、いよいよ危うくなった曹丕は、曹真の手をとって、くれぐれも皇太子を頼む、と言って目を閉じて、つぶやいた。
「蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事なり。
年寿は時ありて尽き、永楽はその身に止まる。
二者は必ず至る常期にして、未だ文章の無窮なるに若かず」
消えそうな声で、曹丕は彼自身の『典論』を唱えた。寿命は、やがて尽きる。栄華だって、何代にも渡ることはない。しかし文学は、永久に残るであろう。いざ、死するに際して、自著が心の支えとなった。「文学について論じた文学」を遺すことで、自分の名は不朽のものになった。曹丕はそう確信し、絶望してはいなかった。
曹丕が危篤に陥った。昼過ぎ、侍官が嘉福殿に駆け入った。
「山陽公(献帝)からの使者・張音どのが参られましたが――」
「お通ししなさい」 郭皇后が命じた。
「陛下に、これを」
漢の最後の皇帝から、曹丕の快癒を願った詩が届いた。
「お聞かせしましょう」
郭皇后は、張音から書簡を受けとり、曹丕の耳元で読んだ。
「主上は眠っておいでですよ」
司馬懿がうろたえて、郭皇后をさえぎった。
「いいえ。必ず陛下に届くはずです」
山陽公の言葉を、郭皇后は心をこめて、何回も読み上げた。泣き崩れて読めなくなると、曹真が代わって読んだ。曹真が泣き崩れると、曹休に代わった。
「ま、まさか」
いきなり、司馬懿がへんな声を出した。
一同が見守る前で、曹丕が目をひらき、起き上がった。
「天子としての務めを果たすため、四百年の漢を終わらせ、禅譲を受けたのだ。私はまだ死ぬことはできない」
曹丕は、40歳の災厄を乗りこえて、80歳までの寿命を生き始めた。
つづきます。140519閉じる
- 第2回:226-228年 諸葛亮の第一次北伐
65歳以降、文化に傾倒する
ハッシュタグのついたツイートを見ながら、全体のイメージができつつあります。場当たり的に書いても、収拾がつかなくなるので、見通しをメモします。140521
第1回は、小説風に書きましたが、きっと息切れするので、概略から作ります。
若いときの性格が、良くも悪くも、晩年は前面に出てくるだろう、というのが皆さんの見通しでした。孫権の例を見れば、それがよく分かります。
人間は、ただでさえ年を取ると、性格が固まってきます。まして、皇帝となって、だいたい思いどおりになるのですから、その傾向は強まるでしょう。
たとえば、ニシンP(冬が来る前に)さんより。
孫権「早世した人物が長生きするifで、若い時の能力を維持したまま寿命が長くなるという思考は安易すぎるぞ」 #曹丕80歳 @nishinP
曹丕の性質をつきつめると、以下でしょうか。
・文学と食文化に傾倒する
・わずかな恩讐や貸借に確実に報いる
・人事権を皇帝が一元支配したがる(「名士」と対決)
・孫呉の存在自体を絶対にユルサナイ
目安としては、司馬懿が死ぬ251年(曹丕65歳)までは、バランスの取れた名君モード。曹叡に代わった史実よりも、曹魏の国力が増して、あわや天下統一かという勢い。
しかし司馬懿なきあとは、上記の性質が凝り固まって、裏目に出る。史実なみに曹魏が押し戻され、もしかしたら天下が混乱、という流れかと思います。
曹操が死んだのが、数えで66歳のとき。でも正月に死んでいるから、実質的には、65歳までしか目の玉が黒くなかった。曹丕の人生を、65歳で区切るのは、意味のあることだと思います。司馬懿が死んだタイミングで、父の死んだ年齢をこえる感慨を表明して、狂い始めた詔書を出し始めるとか。65歳までは、わりと手堅く、曹魏の権勢を量的にふやす。曹魏のファンが喜ぶような、ハッピーエンドに向かうと思わせる。しかし後半では、わりと流動的に勢力を動かす。三国鼎立を揺さぶる。
混乱する結末としては、内藤武弐さんより、
「もし曹丕が80歳まで生きていたら」というお題、「後嗣を巡り二宮事件まがいが司馬懿派と曹爽派の間で発生、兵乱に発展し都落ち側が長安に遷都を宣言、以後の展開は300年早い北魏東西分裂と北斉北周」という鬱展開しか考え付かなかった。のでハッシュタグはつけない。
東曹魏(司馬懿)⇒北晋(禅譲)、西曹魏(曹爽)⇒曹爽家による簒奪、蜀漢北伐対処に西曹魏では北族傭兵化進行⇒五部匈奴独立⇒内乱
孫呉は孫権後求心力低下、孫皓時代に北晋南伐を受け解体、豪族が各個降伏。孫呉崩壊時に蜀漢が荊州進駐。西曹魏北族の乱が北晋江北や蜀漢西部に波及、北晋南渡(南晋成立)。江南政権が二つある五胡十六国風状態に。そのうち南北朝に収斂するが、流石にどこが勝ち抜くかは「?」 @BuniNaitoh
というツイートがありました。ここまで混乱させないにしても、曹丕がモウロクする後半では、三国鼎立から、大きめに揺さぶってみたいと思います。
251年までのできごとを、なるべく史実を変えずに、曹丕が存命したという設定だけを変えて、ちょっとだけ意味づけを修正していきます。『資治通鑑』を通読して、骨格をつくります。
226年、曹叡の廃太子の予兆
5月、陳群が上疏した。蘇生した曹丕の施政について、意見を述べる。これは曹叡に対するものから変えない。陳群の存在の大きさ(それを引き継ぐ司馬懿)を示すもの。成人の曹丕に向かって、説教みたいな上疏をするから、イラッとさせる。
原典が、幼い曹叡に対するものだから。曹叡が、実母の甄氏に「皇后」を追諡したいと言い出す。
曹叡は、曹丕の臨終のときに太子になった。だから、母を尊ぶ権利があるだろうとか言い出す。「母は子を以て貴し」とか、都合のよいほうの『春秋』を持ち出す。曹丕は、鹿狩りの逸話を思い出し、ムカッとして却下する。曹丕と曹叡の関係が悪くなる。曹丕は、曹叡を廃太子したい。
史実では「文昭皇后」だが、曹丕が死んで「文帝」になっていないので、この諡号をそのまま使えない。まあ、イレギュラーな追諡は、たびたびケンカの原因なので、リアリティはあるでしょう。史実では、5月、曹叡の弟の曹蕤を、陽平王にする。
曹蕤は、まだ幼いけれど、じつは曹丕のなかで、太子の予定だった。年齢が足りないので、曹丕が死ぬかも、という緊急事態に際して、曹叡が太子に立てられただけ。緊急事態が去れば、既定路線どおり、曹蕤を太子にすれば良い。
曹叡派のだれか(高堂隆とか?)が、曹叡の太子としての地位を固めるために、曹蕤を県侯に封じろと提案したことにしよう。
「帝 聴かず」
曹蕤の封建をしぶって、高堂隆を却下する曹丕。さらには、曹叡と曹蕤との待遇を同じにする、という二宮フラグなんて、どうでしょう。曹蕤は、233年に死ぬ。それまでは、二宮フラグが立ったまま、曹叡と曹蕤が暗闘する。参考:『三国与太噺』封建されなかった曹叡の弟 【曹蕤】
http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20110405/1301929457
6月、孫権は、曹丕が死んだという誤報に基づいて、出陣する。「じつは死んでない」という話も聞こえるが、孫権は曹丕との関係を清算したい(呉王に封じられたが裏切ったことはチャラ)と考え、死んだほうに賭ける。
8月、孫権は江夏郡を攻める。
太子の曹叡は、「文聘に任せれば大丈夫だ」という。だが曹丕は、孫権を殺す機会と捉えて、親征を決断する。しかし、治書侍御史の荀禹の機転よって孫権が撤退したので、親征は未遂におわる。
「惜しいことをした」という曹丕と、「皇帝たるもの、不必要な無謀は避けるべきです。私が皇帝であれば、決して洛陽から動かないでしょう」という曹叡。大逆か!
曹丕は、呉王に封じてやった恩があるので、孫権にムカついている。だが曹叡は、孫権とのあいだに恩讐がない。だから、冷静に軍事的な戦略から、情勢を判断できる。この差異が、史実では、孫呉に対する政策の転換になる。この物語においては、皇帝と太子の対立として表れる。諸葛瑾が襄陽を攻めたので、司馬懿が撃破。曹丕は親征をしたがるが、司馬懿は、病み上がりの曹丕をいたわる。諸葛瑾を退けるのは、史実どおり。
12月、曹魏の三公の人事が変更されるが、史実どおりでよし。鍾繇が太傅となる。曹休には、もとのまま揚州を都督させる。「くれぐれも頼む。孫呉を徳化することで、おのずと平定するのがベストだけどなあ」と理想を語る曹丕。石亭への伏線。
この年、交州で士燮が死に、孫呉が接収した。史実どおり。交州は、孫呉が逃げこむ候補地になるので、しっかり目を配っておかねば。
孫呉をどれくらい、いじめるのか、未定です。
227年、朱鑠が孟達と対立する
2月、王朗が「方に宮室を営修せん」とする魏帝を諫める。
史実では曹叡がやっていることを、曹丕がやったことにする。この事情をいちいち説明するのが面倒なので、「魏帝」という表記でいきます。曹丕は、孫呉への親征に何度も失敗したことと、洛陽の宮殿が、いまだ董卓さんの焼け野原であることを理由に、修繕に意欲を見せ始める。曹叡ならずとも、曹丕が考えても良さそうなことだ。
安田二郎氏の「曹魏明帝の「宮室修治」をめぐって」2006によると、洛陽の修治は、曹丕の生前からの課題であった。都城・堤防の整備、公共事業は必要である。曹叡が、諸葛亮の死をきっかけにして、いきなり始めるものではない。
3月、諸葛亮が漢中に進軍して、出師の表。それを取り寄せる曹丕。「漢室を興復し、旧都に還さん」は、洛陽を修繕しようとする曹丕にも通じる。また、自分のやった禅譲にケチをつけるので、蜀をつぶさないと、と思う。そんな気楽で浪漫的な理想論じゃないんだぞと。
文帝紀 注引 『献帝伝』禅代衆事を参照。曹丕は、蜀の勢力をあなどっており、出てこれば潰せると考える。それよりも孫呉を倒さねば、と考える。だって孫呉は、曹丕から呉王を受けておきながら、裏切ったから。劉禅や諸葛亮とのあいだに恩讐はないので、いまいち関心が薄い。
史実では、散騎常侍の孫資が、「漢中に大軍を送らなくてよい」という。曹丕の考えとも一致する。
4月、魏帝が洛陽に宗廟をつくる。曹丕がやっても良い。
6月、司馬懿を宛城に配置。呉蜀に対応できるように。
司馬懿とは、史実では生前、内政と外征を分担しようと言った関係。司馬懿が前年に諸葛瑾を破ったことから、曹丕は司馬懿に外の守りを委ね、自分は内政に専念することに。曹丕、勝てないし。
肉刑の議論が起こる。曹操・曹丕は、肉刑を復そうとしたが、軍事があるので実現しなかった。太傅の鍾繇は、肉刑に賛成。王朗は反対。魏帝は、肉刑を先送り。
史実では曹叡が王朗に押し切られる。たとえ曹丕が存命でも、肉刑の復活は、まだ難しかっただろう。曹操でもムリだったのだ。曹丕が2年だけ余計にいきても、君主権力の強さは変わらない。
史実では、諸葛亮が孟達を誘う。
きました、孟達。ここでオリジナルの話を。だよもんさんさんより
しゅ、朱鑠さんにもワンチャンの可能性が? 痩せていた以外の情報がありませんからねぇw ただ長期政権化するなら側近として機会も増えるだろうと思うのですが、実際には短気な性格が災いして失敗やらかして、史実より悪い結果になるかもしれませんね……。四友は何れも重職を歴任したとある割には他3人に比べて資料が残っていないのは恐らく能力的に不足があったのでしょうし(もしくは早死にしていた?)。例えば遠征軍の一将として手柄を立てさせようとするも失敗して処分する羽目になるとか? 喧嘩相手は降将かつ曹丕のお気に入りだと良いかもですね……孟達さんの出番が!w @dayomonsan
これをヒントに、話をつくります。
中領軍の朱鑠は、同じ「四友」である司馬懿が、荊州と豫州を任せられたのがおもしろくない。司馬懿を圧倒するために、功績がほしい。孟達のところにゆき、「一緒に漢中の諸葛亮を討とう。伐蜀を曹丕に提案しよう」と持ちかける。
孟達は降将だから、立場が危うい。朱鑠のアグレッシブな提案を受け入れることができない。失敗したら後がないし、蜀に関する政策を提案すれば、心ない人から蜀との内通を疑われかねない。
すると朱鑠は(史実で、呉質の宴会で見せた持ち前の短気を発揮して)孟達を脅す。「今日の孟達の地位は、曹丕の寵愛によるもの。だが曹丕の寵愛は、不変ではない。このオレを見ろ(司馬懿より冷遇されているぞ)。功績なく年数を費やせば、孟達の立場も危うくなるのだ」と。朱鑠が剣を抜く(これは彼のクセだな)。孟達は動揺する。
朱鑠は洛陽に帰って、あることないこと、孟達の悪口をいう。「孟達を新城太守から外せ。私を新城太守にしてくれたら、漢中を攻めるのに」という。曹丕との個人的な紐帯にもとづいた、朱鑠のわがまま。だが曹丕は、「私は孟達を信頼している」と言って、新城太守を変えない。
曹丕は、2通の文書をだす。新城の孟達には「心配するな」といい、司馬懿には「蜀漢が攻めてきたら、孟達を支援せよ」と命じる。
孟達は魏興太守の申儀と仲が悪い(これは史実)。そこに諸葛亮から、蜀に降れ、という使者がくる。
ところが、この物語において孟達は、曹丕からのラブレターを見ているので、諸葛亮に降る気持ちは全くない。むしろ、「諸葛亮を釣り出す好機である。私は蜀漢に寝返ったふりをする。諸葛亮が出てきたら、魏軍で包囲しよう」という、作戦まで構想して、曹丕に報告する。孟達は、「諸葛亮を倒せば、蜀漢は瓦解する。蜀漢が瓦解すれば、孫呉の上流を占められる」と上書する。ひとえに孟達は、曹丕との関係を信頼して、この危うい文書を届ける。
曹丕は、孫権にムカついているので、「よくぞ言ってくれた、孟達。それでこそ孟達。外見がいいだけのことはある」と感動する。
しかし出先の司馬懿は、孟達と曹丕の心の交流を無視して、「孟達は信義がない。早く殺さないと、蜀漢に深入りされる」と独断した。
曹丕からは「孟達を支援せよ」という文書を受けとるが、それすら無視して、倍速で殺到して、8日で孟達の城下に達する。「将軍は出征すれば、君主の命令を受けないのだ」と考える。
孟達の意図がどうあれ、諸葛亮が漢中に出てきている今日、降将を要地に置いておくこと自体が、荊州の脅威となる、という地方長官としての判断である。孟達は、ほかの魏臣(史実の申儀とか、架空の朱鑠とか)との折り合いが悪いので、どうしても蜀戦で不安要素になるのだと。
孟達は、司馬懿に包囲され、「なんて神速だ」と驚く。これは、司馬懿の救援が早すぎることに対する、批難の気持ちからの言葉。孟達の意図では、諸葛亮を釣り出してから、司馬懿に殺到してもらい、いっしょに諸葛亮を包囲する、という段取りだった。いま司馬懿と合流してしまえば、諸葛亮が出てこない。
曹丕と孟達の認識は一致しており、司馬懿だけが、ちがう判断をしている。というか、司馬懿だけが、史実と同じように動いているという設定。
228年春、司馬懿が孟達を斬り、曹丕が怒る
司馬懿は、新城を16日で陥落させて、孟達を斬った。
孟達は、司馬懿を味方だと思っているから、初動において、防御が充分にできない。最後まで、なぜ攻められているのか理解できなかった。孟達は城内から、曹丕にもらった「信頼している」という文書を示して、司馬懿の誤解を正そうとする。司馬懿だって、「孟達を支援せよ」と曹丕に言われているが、あえて無視して、攻撃をゆるめない。
新城を陥とした司馬懿は、孟達と対立していた、魏興太守の申儀すらも攻めて、これを捕らえた(史実と同じ)。荊州にある不安要素を、独断で排除する司馬懿。さすが都督さん。
司馬懿は洛陽に帰って(史実どおり)、孟達のクビと、申儀の身柄を曹丕に引き渡す。曹丕は、孟達のクビを抱いて泣きまくり、司馬懿の判断ミスを責めた。しかし司馬懿は、荊州の軍事を一元管理するためには、孟達も申儀も有害であると説いて譲らない。とくに孟達は、彼自身の意図がどこにあれ、蜀につけこまれる地勢と立場にあったから、斬らざるを得なかったと。
「個人的な親愛よりも、天下統一を優先されるべきだ」
と司馬懿に諫められた。
「荊州の事はきみに任せてあった。きみの判断を尊重しよう」
曹丕は、司馬懿の官職を移さず、かえって賞賛した。
『資治通鑑』の司馬光みたいに、コメントを挿入するなら。
司馬懿の正しさは、蜀の北伐を防ぎきったことから、証明される。この司馬懿を用いることができた曹丕は、やっぱり名君だなあ!と。
孟達の件は、ツイートでも、たびたび言及されました。孟達が裏切らねば、諸葛亮の北伐は史実と違ったものになるだろうと。しかし、北伐をいじってしまうと、収拾がつかなくなるので、諸葛亮の計画変更はさせませんでした。これは、蜀漢が勝つというイフ物語の主題でしょう。今回は、曹魏の目線で。
曹丕と孟達の心の交流と、空気をあえて読まない司馬懿、という曹魏の内部での行き違いにしてみました。
曹操が死に、曹丕が魏王となった直後、「遠方から曹丕の徳を慕ってきた者」として、立て続けに降伏の使者をくれたのが、孟達と孫権だった。孫権とは、泥沼になった。孟達だって、孫権に鑑みれば、いつ寝返るか分からない、というのが司馬懿の見立てだった。
司馬懿は、次のように言っただろう。
「徳化によって敵を懐かせる、というのは天子になるための要件でした。しかし、漢という偉大な価値観が倒壊した現在において、陛下は、リアルな軍事を見るべきです。8年前、皇帝になるときに掲げた理想に執着するのは、ほどほどにして、現実を見てください。恩を振りまくだけでは、天下は統一できません」
「現実を見るのは、司馬懿、きみのような臣に任せている。あくまで皇帝たる私は、徳化を理想とする」
「何回も親征したにも関わらず、陛下は孫呉を平定できなかった。どうしても詰めが甘かったのです。心のどこかで、魏軍が長江に臨めば、孫権が降ってくるのでは、という甘い期待があったのではありませんか。だから、作戦に綻びがあった」
「そうした期待を辞めてしまえば、私が天子である意味がない」
「……ああ、もう!こいつは!(でも嫌いじゃない)」
という話を、孟達のクビを肴に、曹丕と司馬懿がやると思います。
228年春、曹丕が漢中をめざす
夏侯惇の子の夏侯楙が、長安にいた。史実では曹叡が任命するが、曹丕が任命してもおかしくない。夏侯楙は曹丕と仲がよいという記述があるから、曹丕こそ、夏侯楙を要所に置くだろう。
魏延が「子午道から夏侯楙を討とう」という。諸葛亮は採用せず。
諸葛亮は、趙雲と鄧芝を褒谷道に向けた。諸葛亮は祁山にきた。天水、南安、安定は、諸葛亮についた。
史実で曹叡が、「諸葛亮が自ら出てきたのだから、討ち取ることができる」という。曹丕も同じように考えただろう。孫権は、長江の向こう側にいて、手を焼いた。諸葛亮は、わざわざ山から出てきた。
右将軍の張郃に5万を与えて、魏帝も長安にゆく(史実なみ)
曹丕の関心は、諸葛亮にない。諸葛亮を討ち取るのは、ほぼ確定だと思っている。張郃に任せておけばよい。
曹操が蜀漢から引いたのは、険阻な地形に逃げ込まれたから。蜀軍が自分から出てきたのだから、造作もない。それよりも、ちかぢか蜀を滅ぼして、孫呉の上流を抑えることに関心がある。
曹叡は、どちらかというと、三国鼎立を是認した。積極的に、天下統一に動かなかった。攻め入った者を追い返すだけ。現状を保てれば、それ以上に危ないことをしない。しかし曹丕は、曹操の方針を引き継ぎ、天下統一に執心する。
曹操は、彼自身の立場を守るため、漢臣としての功績が必要だった。曹丕も、「天子としての功績」が必要だと思っている。というわけで、いま思いついた。諸葛亮の北伐で、ムチャをさせたくなってきた。よし。
当初、趙雲と鄧芝を防ぐのは、曹真の役目だった。
だが、勝利を確信した曹丕は、曹真とともに大軍を編成して、褒谷道の趙雲と鄧芝に当たることにした。曹丕に叱咤されて、夏侯楙も従軍している。
史実では、曹真だけ。しかも、あくまで迎撃のみ。
曹丕は、漢中(南鄭)を占領したいと考えた。漢中は、かつて曹操が征服し、夏侯淵が守った地である。曹操と夏侯淵による漢中の占領を、曹丕と夏侯楙によって再現したいと考えた。
『演義』では、夏侯楙は夏侯淵の子で、夏侯惇の養子だと。漢中への因縁では、『演義』の設定のほうが、おもしろい。どちらにせよ、曹丕からの距離は同じだし。「諸葛亮は、きっと張郃が討ちとる。万が一、逃げられても、先に私が漢中を抑えてしまえば、諸葛亮は帰る場所がない。かつて父のとき、漢中を抑えても、蜀地には劉備と諸葛亮がいた。だが今日、漢中を抑えてしまえば、蜀地には劉禅しかいない。成都は混乱を収められないだろう」
「私もそう思います」
とか言っているうちに、趙雲の奇襲を食らって、曹丕と夏侯楙は、命からがら撤退した。曹真の手堅い差配によって、辛うじて危機を脱した。趙雲たちの撤退を、黙って見守るしかなかった。
以後、夏侯楙は生活が乱れて、金儲けに精をだし、失脚する(史実なみ)
曹真は、蜀漢についた3郡を平定し、諸葛亮を祁山から逐う(史実なみ)
他方、諸葛亮のいる蜀軍の本隊は、姜維を味方つけた。先鋒の馬謖が、街亭で山に登った。張郃が馬謖を片づけた。諸葛亮は馬謖を斬った。
第一次北伐は、諸葛亮が北上したスキを突いて、曹丕が漢中の平定をねらい、趙雲に追い返される話になった。それ以外は、史実なみ。
228年夏、涼州を修復する
夏4月、魏帝は洛陽に帰った。
西方を去るとき、曹丕は、「蜀漢は、当分は出てこないだろう」と甘い見通しをする。曹真は、手堅く郝昭を陳倉に置いて、諸葛亮に備える。果たして同年末、曹真の見立てどおりになる。
曹丕は苦笑しながら言うだろう。
「劉備は死ぬとき、諸葛亮に『お前の才能は、曹丕に十倍する』と言ったらしい。十倍とは笑止であるが、才能が対等である可能性くらいは、忘れないでおこう」
徐邈を涼州刺史にして、民政を立て直す。
涼州の経営は、曹丕の史実における生前の、数少ない成功した実績。だから、諸葛亮を侮っていたし、一時的に3郡も征圧されたことに、ショックを受けた。信頼する曹真に、この方面を任せて、経営の安定をはかる。
つづいて、石亭の戦いです。また考えます。140521閉じる
- 第3回 曹丕の後嗣について
にゃもさんのシナリオ
にゃもさん @AkaNisin が、曹魏の爵制等の観点から、もしも曹丕が80歳まで生きたときのシナリオについて、考えて下さいました。おもに依拠したいと思います。
【〜227年】皇后は郭氏。太子は立てず。曹蕤のみは封建せず、仮候補に
【233年】曹蕤薨去
【235年】郭皇后、嫡子をなさぬまま崩ず。皇子のうち生存していた平原王曹叡と東海王曹霖の関係がキナ臭く
【239年】平原王曹叡死去。曹霖を太子とす
【249年】太子曹霖薨去 @AkaNisin
分岐点としては、郭皇后が嫡子を生む可能性。230年ごろに生まれるとすると、文帝崩御のときは30代半ば。これはみんな幸せ。
もうひとつの分岐は太子曹霖が薨去した時で、曹霖を最後に史実の曹丕の皇子はゼロに。でも曹霖には嫡子曹啓がいるんで、きっと曹啓が皇太孫になるはずです。でももし、曹丕が長生きしたぶんひょっこり末子が生まれたりすると、@AkaNisin
関連するいくつかの疑問
上記の話について、ぼくと、敎団さん(@Vitalize3K)と、Stellaさん(@Stella_)が質問しました。にゃも先生のご回答を緑字にして載せます。
史実で、兄の曹啓でなく弟の曹髦が皇帝になった理由
曹啓がすでに東海王を継いでいたからです。@AkaNisin
曹霖は性格的な問題があり、太子になれないのでは
曹霖以外の皇子が239年〜はもういませんから...どうでしょうか。@AkaNisin
曹植の子・曹志(?-288年)を立てる可能性
さすがに皇子がいるのによその諸侯を持ってきたら(((;゚Д゚))) まず曹丕自身が才能より嫡長子の序をもって後継者になれた人なんで、自分の正統性を揺らがせるような後継者選びはできないと思います。@AkaNisin
曹髦に期待して、その父曹霖を太子にしないか
曹髦がカギですね。でもさっきのツイートの通り、曹丕は嫡長子の序でないと選べないと思うので、厳しいです。曹髦には嫡長兄の曹啓がいるので。
魏の諸侯には、後期でも曹彪とか曹髦とか曹志とか有能っぽい人はいるんですけど、でも曹丕が長幼の序を越えてまで彼らを後継者にできるか。自分の拠り所を捨てた選択ができるか。老年文帝の見どころかもしれません。 @AkaNisin
以上を踏まえて、ぼくなりに話を構成してみます。
郭皇后に子が産まれ、曹叡を廃太子
曹丕は、才能ではなく、嫡長子(皇后の子、年長の子)であることを理由にして、魏王の太子になれた。その曹丕は、後継問題で悩むことになる。
226年5月、瀕死になって、曹叡を立太子。曹叡は、曹丕の不興を買って死んだ甄氏の子である。曹丕に疎まれていた。曹丕の瀕死という危機にあたって、年長だからという理由で担がれた。
しかし曹丕が奇跡的に蘇生したことで、曹叡は皇帝になり損ね、太子の身分を保持したままとなる。太子の立場から、曹丕を「輔佐」せんと意気ごむ。
これより前、曹叡は、平原王(もしくは降格されて平原侯)に封じられており、庶長子に過ぎず、太子になる予定ではなかった。当初、曹丕が漠然と太子として想定していたのは、ただ1人だけ封建されていなかった曹蕤。
しかし曹蕤も庶子(皇后の子でない)であり、正統性の乏しさに関しては、曹叡とあまり変わらない。曹丕は、いちいち自分に逆らう曹叡を、つぎの皇帝にはしたくないため、(誤って太子にしてしまった)曹叡の立場を相対化するためだけに、曹蕤と曹叡の待遇を並べた。これが混乱を招くやり方だとは心得ていたので、曹丕は根本的な解決にとりくむ。
曹丕は、蘇生した生命力を、郭皇后に注ぎ込んだ。めでたく郭皇后は、228年に男子を出産した。「曹郁」と名づけられた。
曹郁(ソウユウ)というのは、架空の人物です。検索すると、映画女優?が出てきますが、その人とは関係ありません。曹丕は、嫡子(皇后の子)が生まれたことから、庶長子である曹叡の廃太子を宣言した。曹叡を平原王にもどし、曹郁を皇太子に立てた。
これに対して、重臣(劉曄あたり?)が反発した。
「曹叡は、始皇帝、漢武帝に類する人物であり、次の時代を任せるのに足る人物である。曹郁の器量を見極めてからでも、太子の交替は遅くない」
これは明帝紀 注引『世語』に基づきます。「曹叡には、目立った過失があったわけではない。過失がないのに、太子を廃するのは、賞罰の論理に反する。王朝を混乱させる原因となる」
「後漢期、生後1年に満たない幼帝が立ったが、崩じた例がある。嫡子を皇太子とするのは正しいことだが、それほど急ぐ必要はない」
乳幼児の死亡率をナメンナヨと。
敎団さん(@Vitalize3K)より。卞蘭(卞夫人の弟・卞秉の子)を重臣に置いてはいかがでしょうか。曹叡に何度も諫言しているので、使えそうだなと思います。出典は武宣卞皇后引『魏略』です。曹丕は聞かず、228年、1歳の曹郁を皇太子とした。
にゃもさん(@AkaNisin)より。「嫡子が生まれたことから、庶長子である曹叡の廃太子を宣言した」は曹丕強引な気が。実際に「立太子後に皇后が嫡子を生んだ」事例を思い出せないのであれですが、ここは後漢東海王の故事にならって曹叡から廃太子を申し出るというのはどうでしょう?
ぼくはいう。『後漢書』東海恭王強伝「強常戚戚不自安、数因左右及諸王陳其懇誠、願備蕃國……帝以強廃不以過、去就有礼、故優以大封」という話ですね。いただきます。
曹叡と対抗させる必要がなくなったため、曹蕤は、228年に陽平県王に封じられた。232年に北海王となり、233年に亡くなった。皇位継承の表舞台から、曹蕤とその子孫は退場した。
陽平県王になるタイミングが、ぼくのイフのために2年遅れましたが、それ以外は史実と同じです。
郭皇后と皇太子・曹郁の死
235年、郭皇后が死んだ(史実なみ)。49歳の曹丕は、哀しみに暮れて、新しい皇后を立てることはなかった。
郭皇后の没年は同じ。新しく皇后を立てると、話が拡散しすぎる。どこが曹魏の外戚になるのか。あ!明帝の郭皇后を、曹丕の次の皇后にしてしまおう。後述。親孝行な太子の曹郁は、寝食を忘れて悲しんだ。曹丕は、曹郁が痩せ衰えたので心配をした。「まだ8歳で、食べ盛りなのだから、自愛せよ」と詔した。
239年、曹丕は皇后を失った哀しみから明けると、西平の郭氏を皇后にした。もとの郭皇后は、安平の人だったから、別人である。
これは、史実にいう、明帝の郭皇后を宛がったもの。曹叡が後宮を設けることができていないから、「曹丕が曹叡から女官を奪った」わけじゃない。念のため、、
明帝の郭皇后は、史実では(曹叡が死にかけた)239年に皇后に立てられた。このイフ物語でも、239年に皇后にしよう。明帝の郭皇后は、甄氏、司馬氏との婚姻や養子の縁組がからんでくる。また、明帝の郭皇后は、史実で、曹魏の皇帝を廃するときに詔を発した。役割としては、充分なキャラクターである。
曹郁は、新しい郭皇后にも、よく仕えた。
240年、曹郁は13歳になった。とても聡明な少年であった。天才的な逸話が、いくつも記録され、他国にも鳴り響いた。しかし風邪をこじらせ、病没した。曹丕は胸を叩いて慟哭し、詔した。
「わが弟の曹沖は、13歳のときに死んで、父(曹操)をとても悲しませた。もし曹沖が生きていれば、私は魏王となることは、なかったであろう。いま、わが子の曹郁は、同じく13歳にて寿命を終えた。父(曹操)の哀しみが、初めて分かった」
曹丕の皇太子は、空席となった。
曹郁のために、平原王の曹叡が弔問にきた。曹丕は憎まれ口を叩いた。「曹郁の死は、私にとっては哀しみだが、お前にとっては歓びであろう」と。曹丕は、本人も気づかぬところで、曹操に同調していた。
曹叡は恐縮しながらも、心のなかでは、「これで私は太子に戻れる」と考えていた。この胸中を、隠し通したつもりだが、曹丕には筒抜けだった。なぜなら、曹丕も同じ経験をしていたから。
また曹叡は、義母にあたる(新しい)郭皇后の前で、子として仕えるべきなのに、男女としての感情を懐き、うっかり視線に表れた。
史実では、曹叡の妻になる人だったしw曹丕は曹叡を憎んだ。
このとき、曹叡を除いて、曹丕の皇子で存命なのは、東海王の曹霖だけである。性格が粗暴だと言われていたが、曹叡との遺恨が消えない曹丕は、曹霖を皇太子とした。空席となる東海王は、曹霖の長子である曹啓が嗣いだ。
史実で曹叡は239年に死ぬ。だが曹叡は、皇帝にならなければ、もっと長く生きられたと思う。だから、まだ生きていた。 にゃもさんはいう。太子曹郁死後、曹叡が健在なのにすんなり曹霖を太子にできますかね?ここは、曹郁死後ほどなく「都合よく」曹叡にも病死してもらうのは? ほら曹彰の例もありますしー。それかこういうのはいかがですか?廃立までした太子に死なれた曹丕は、もうおいそれと太子を立てられない。そのうちに曹霖にも曹叡にも先立たれ。最晩年になってやっと東海王の弟である高貴郷公を指名する、と。
ぼくは思う。都合よく病死するほうで行きたいです。
翌年ぐらいに、曹丕は曹叡を死に追いこんだ。
曹叡を片づけるべき事件を考えねば。皇族をいじめるのは、曹丕の得意技である。なんとでもなるでしょう。
曹髦を皇太孫に立てる
249年、皇太子の曹霖が死んだ(史実なみ)
郭皇后には子がないから、皇太子の問題が再浮上した。
史実でも、曹叡の郭皇后は子がいない。63歳の曹丕は、これ以上の子を望みにくい。皇太孫として、曹霖の子を立てることにした。
曹霖の子は、すでに東海王を嗣いでいる兄の曹啓と、まだ封建されていない弟の曹髦。曹丕は、曹啓がすでに藩王であることと、さらに曹髦が聡明であることから、9歳の曹髦を皇太孫にした。
嫡長子の原理を守るなら、曹丕は、曹啓を皇太孫として、曹髦を東海王に押し上げれば良い。しかし、まだ名君モードなので、原理原則をやぶってでも、有望な曹髦のほうを立てた。ひととおり、ここで議論が行われるべきだな。
史実で曹芳を廃した後、曹啓が存命にもかかわらず、曹啓が東海王を嗣いでいることから、郭太后によって曹髦が立てられる。この皇太孫の人選は、「ありそうな話」だと思います。
251年に司馬懿が死んで、曹丕は暴君モードが起動する。
残りの寿命を17年分、晩節をけがしながら、曹丕は80歳で崩じる。26歳の青年皇帝の曹髦が、曹魏の2代皇帝となる。そのとき天下の情勢は、どうなっていることやら。140521
曹丕の弟たちをかつぐ敵対勢力が、節目ごとに出てくるのだろう。またおいおい、肉づけをします。
新しい郭皇后は、正史なみに263年まで生きるとする。「政敵に名義を課して詔書を発し、曹丕を攻撃する」とか、史実と同じように複雑な使われ方をするのかも。まだ目処なしです。
閉じる
- 第4回 司馬懿の晩年、師と昭の行方
名誉職になるまでは史実どおり
もし曹丕が長生きしたら、いちばん運命が変わるのは、司馬氏です。司馬氏がどうなるかの見通しをつけないと、この物語は方向性が固まりません。
史実では、司馬懿は238年までは遼東の討伐を行っており、これは変更の必要なし。239年に曹叡が死に、太傅になったあたりから、曹爽との対立が生まれてくる。しかし、すぐに対立が顕在化することなく、曹爽は年長の司馬懿を尊重する。
もし曹丕が長生きしても、司馬懿を重んじる一方で、曹爽らを用いることは充分に想定される。曹丕は、いっしょに「老荘のお勉強」をして、曹爽や何晏を、有効活用してそうだし。曹真とも関係が良かったしね。
その結果、史実と同じように、中央においては、老年の司馬懿が影響力を失っても、不思議ではない。
太傅(もりやく)というのは、成人の曹丕につけるのは、似つかわしくない。相国でもなんでも、立派な肩書きをつけて、追いやっておけばよいのだ。
249年のクーデターが起こる前提
分岐点は、正始10(249)年の正月6日、司馬懿のクーデター。曹丕が存命であれば、司馬懿がこれをやらないだろう、、というのが、皆さんのツイートの総意だと思います。というわけで、司馬懿にこれをやらせない、舞台装置が必要となります。
史実の司馬懿だって、好きこのんで、権力欲を剥きだしにして、クーデターをやったのではない。「曹丕が生きているから、心情的な結びつきがあり、クーデターをしない」という感情論では片づかない。「曹丕が生きているから、勝ち目がないと思った」と思考停止してもつまらない。
司馬懿は、「クーデターをやらざるを得ない状況」だからこそ、やったと思います。イフ物語の曹丕が、舞台装置を変えてあげることで、これを回避できるはずです。
同じ249年、史実の司馬懿は、州大中正を置いて、九品中正をさらに、司馬懿たち官僚層の都合がいいものに作り替える。
史実の司馬懿は、曹氏が皇帝権力をワタクシに集中させることに、疑問があった。これは、イフ物語においても、同じだろう。曹丕がいるので、実現できる見通しはないが、司馬懿は「あー、州大中正を設置したい。官僚層のオオヤケの議論で、人物を査定したい」と思っていたのは、史実でもイフでも共通だ。
君主である曹丕は、これに反対するに決まっている。司馬懿に「謀反」の意図がなくても、属する立場が異なることから、どうしても対立せざるを得なくなる。
べつの観点からも、司馬懿は潜在的な、曹丕の敵である。
「功績が大きすぎる臣下」と、彼が推し進める政策が、君主権力と衝突することは、よく起こる。近くでは、曹操がそうだった。忠臣として、君主のために功績をかせいだ。しかし、君主のために働きすぎた結果、君主よりも目立ってしまう。
臣下が君主のために功績を立てるのと同じように、君主もまた天(と観念されるもの)に対して、功績を立てねばならない。臣下が、君主の頭越しに、天に対して功績を立ててしまうと、君主は立場がなくなる。近くでは、献帝がこれだった。
この話は、べつのところでやります。
イフ物語の曹丕の場合、司馬懿は曹操ほど強くないし、曹丕は献帝ほど弱くないけど。それでも司馬懿が煙たいのは確か。史実で、曹叡が、五丈原→遼東、と司馬懿を酷使したのも、同じ思いだろうし。
というわけで、イフ物語の曹丕は、潜在的な脅威になりつつある司馬懿を、さらなる戦場に送り込み、衝突を回避します。
司馬懿の個人的な忠誠心とかを除いて、どうしても対立しかねない緊張関係に、ふたりはあるのです。
前例を見れば、前漢の霍光と王莽は、どちらも功績が絶大だった。霍光は、臣下として留まったが、死後に一族が抹殺された。王莽は、臣下として留まりきれず、簒奪をした。両者の結果は違うが、「功績が絶大ゆえに、君主と衝突せざるを得ない臣下」という点では、同じです。
後漢の外戚だって、絶大な権力を持ち、一族を高官に登らせながら、末路は、まとめて失脚でした。高位の者が、うまくランディングするのは、かくも難しい。
曹丕が、ほんとうに司馬懿のことを思うなら。
霍光のように、司馬懿の死後に、族滅されるような状況をつくってはいけない。かといって、曹丕自身のために、司馬懿を王莽にしてはならない。やはり、騙しだまし司馬懿を転戦させて、衝突を回避したい。可能であれば、司馬懿がいくらか失敗するぐらいが、バランスが取れてよい。
君主に差し迫って、引き返すことができなくなる臣下の特徴は、長生きしすぎること。早く死ねば、功績がたまらず、このような状況に陥らない。
司馬懿は、早く死ぬべきだったのに。悪い意味じゃなくてね。
君主もまた、あまりに治世が長いと、引き返すことができないほど、王朝の天命を食らいつくす。適度な世代交代は、大切なのだ。曹丕80歳、のイフ物語は、そのあたりも表現できればと思います。
関係ないけど、「#曹丕80歳」のハッシュタグの、一部分をかえたものが、タイムラインを出回っていますが。「#浅倉南80歳」というのは、まだ見ていません。
クーデターを回避する曹丕の一手
正始10年正月1日。史実で司馬懿がクーデターを起こす5日前。曹丕は、父の曹操の宗廟に参ろう、と郡臣の前でいう。
史実では、曹爽が出かける。これと同時に、曹丕は司馬懿に、長安への駐屯を命じる。
「諸葛亮は、身の丈にあわない出征をくり返して、きみのおかげで陣没した。だが劉禅は、いまだに漢の正統をつぐという、まるで意味の通らない戯れ言を撤回しない。蒋琬や費禕は、能力がないくせに益州を取り回し、裏切り者の姜維は、涼州の民を使役して、むだに命を損ねている。司馬懿に、蜀の平定を命じる」
「拝命いたします」
「どれほどかかりそうか。行きに100日、戦いに100日、帰りに100日、その他の休憩を含めて、1年でやってくれるか」
「公孫淵は、なんの正統性もなく、官僚を酷使し、百姓を疲弊させておりました。ですが劉禅は、漢という建前をかかげ、官僚や百姓の心を集めております。っていうか、ぶっちゃけ、ムリです」
「きみは、いちばんの功臣だ。くれぐれも健康に気をつけてくれ」
そして、大過なく時間を費やして、達者で死んでくれと。そうしたら、司馬懿の子供たちも、まとめて曹丕サマが面倒を見てやるからと。
司馬懿は、曹丕の処置に安心した。
曹丕と司馬懿は、最後まで、心が通じ合っているという設定で。司馬懿は、曹丕の意図をくんで、けっして焦ることなく、蜀漢を防ぐことを、おのれの使命とする。
史実では、郭淮が、蜀の防御をやってきた。郭淮伝によると、同年(正始10年=嘉平元年)に、「征西将軍に遷り、都督雍・涼諸軍事とす」とある。郭淮がこれに昇進するのを、見合わせてもらって、司馬懿が、「相国・大将軍・都督雍涼益州諸軍事」とかになる。
郭淮は、司馬懿の下にもどってもらう。諸葛亮が北伐したとき、郭淮は司馬懿の下にいたから、決してムリな話ではない。司馬懿が死に場所を見つけにきたと理解して、ヤリニクイナーと思いながらも、大人しくしている。
司馬師の誤算
おもしろくないのは、司馬師である。司馬師は、曹丕が、毎年のように、百官をともなって、宗廟だか天地だかを祭るのを知っていた。司馬懿こそ、クーデターを企んでいた。史実でも、司馬師が、親や弟に内緒で「死兵」を調達している。首謀者は、司馬師なんだと思う。
司馬師は、曹丕を殺すつもりはないが、「曹丕の判断を狂わせている悪臣の曹爽」を排除したいと思っていた。曹爽を駆逐すれば、曹丕は意気消沈して、もうちょっと、オオヤケで「名士」に配慮した政治をするだろうと考えていた。 司馬師は、曹丕に「先手」を取られて、クーデターを挫かれた。クーデターは、去年では早すぎて、来年では遅すぎると思っていた。絶妙な時期に、曹丕が司馬懿を移動させた。
司馬師だけで決起しても良いが、やはり、「司馬懿の名義で曹爽を倒す」ことが必要である。「司馬師の名義で曹爽を倒す」では、たんなる私闘に見える。司馬師には功績も名声も足りない。
司馬師は、くすぶったまま。
王淩の挙兵理由の変更、司馬懿の死
司馬懿は、正月に洛陽を出発して、2月に着任。
同(249)年秋、姜維が侵入して、史実では郭淮に敗れる。これは、名誉職のような司馬懿が長安にいても、実働の郭淮に、史実どおり姜維を打ち払ってもらえば良い。可能な限り、史実に準拠。
史実では、この年に夏侯覇が蜀に亡命する。正月のクーデターに応じたもの。しかし、クーデターがないのだから、夏侯覇は、正月には蜀に行きそびれる。
正月、曹丕は、司馬懿を西方にやるときに、「父の夏侯淵の仇をとれ」と言い含めて、夏侯覇を随行させることにしよう。同年秋の戦役で、夏侯覇は姜維にとらわれて、蜀に落ちてゆく。姜維に大歓迎される。こうして、史実に近づけよう。
曹丕は、烈火のごとく、怒るだろうなあ!
つぎの嘉平2(250)年、姜維が西平に出撃。
これも、名誉職の司馬懿の下で、郭淮さんががんばる。
嘉平3(251)年4月、王淩が揚州で起兵。
史実では、司馬懿が王淩を打ち取る。しかしイフ物語では、司馬懿はにいる。そこで、司馬師が前倒しして登場し、あたかも司馬懿のように、王淩を平定しよう。どうせ司馬懿はこの年に死ぬ。司馬師は、このあと、淮南の反乱を鎮めるだけの力量がある。できても不自然ではない。王淩がかつぎだした曹彪を、どのように扱うかは、気になるところ!
史実の王淩は、「曹芳は年少で頼りなく、曹彪は頼れる」という名目で、挙兵する。だがイフ物語の曹丕は、年少ではない。王淩の挙兵する理由を変えねばならない。
そこで使えるのが、史実で249年に設置した州大中正。
イフ物語の曹丕は、州大中正の逆(君主権力をめっちゃ強化する官僚制度)を、249年に制定する。いわゆる「名士」を封殺する制度をつくる。曹爽や何晏あたりが、イフゆえに寿命が延長され、この制度の策定をおこなう。
王淩は、これが許せない。
「相国の司馬懿は、名声がたかく、人格がすぐれた功臣である。しかし曹丕は、司馬懿を優遇するどころか、かえって地方に退けて、尊ぶことをしない。また、恣意的な人事制度をつくって、王朝を私物化している。その点で曹彪は、曹丕よりも周囲の意見に耳を傾け、仁徳をそなえたお方なので、曹魏の皇帝にふさわしい」
とか、檄文を回付して、東南方面の支持を集めるとか。
王淩が、これを言ったら、曹彪は史実どおり、死ぬしかないか。ごめんなさい。
7月、司馬懿が長安でおだやかに死亡。よかった!
五丈原とかを視察にいって、感慨深く死んでもいい。『演義』脳。曹彪は、けっきょく残念だったけど、司馬懿はよかった!
曹爽が諸葛恪に敗れ、司馬師が史実に復帰
251年7月、司馬懿が死んだので、司馬師は史実どおり、撫軍大将軍・録尚書事に、、なれない。曹爽が生きているから、司馬師は臣下の第一になれない。
リアリティを失わない範囲で、史実への復帰をめざす。
252年、孫権が死んだ直後、諸葛恪が北伐する。史実どおり、魏軍が敗れる。
孫権の晩年が、どんなふうになるかは、あとで考える。史実では、司馬師が「敗戦は私の責任だ」といって、かえって徳を積む。しかしイフ物語では、曹爽が中枢にいるから、諸葛恪との戦いで、作戦指揮は曹爽がやるはず。ここで、曹爽にこっぴどく敗れてもらい、責任を周囲になすりつけて名声を損ない、失脚してもらおう!
皇族が孫呉に敗れて、背中にできものができて死ぬ。というは、曹仁、曹休、という歴戦の大先輩たちのパターンである。
おまけに、何晏ちゃんとかも去り、曹丕は孤独になる。
253年、調子にのった諸葛恪は、ふたたび北伐する。こんどは、史実どおり司馬師が指揮をとって、諸葛恪を追い返す。司馬師は声望をあつめる。
254年、史実とおなじく、司馬師は、敵対する夏侯玄、張緝、李豊ら、皇族やそれに連なる人を圧迫する。張緝は史実では曹芳の外戚だが、まあ曹丕が寵愛する、皇后未満の妻の父としても良いでしょう。誰か1人ぐらい、史実どおり司馬師に殺されてもよい。「死士」をつかった電光石火でもいい。精神的に追いこむような政治的圧力でも良い。
曹丕は、「骨肉を殺された」、「手足を切られた」と怒るはずだ!
史実では、254年6月に、司馬師が曹芳を廃する。さすがに、司馬師が曹丕を廃することはできない。少なくとも、254年、司馬懿の死後3年目をもって、曹丕と司馬師の対立が決定的になる。
司馬師が曹丕に逆らう理由は、68歳の曹丕が、文化事業にくるって、政事を顧みないからだろうか。
夏侯玄あたりを殺して、曹丕に向けて、「陛下がちゃんと政事を見てないから、夏侯玄が死ぬまで、気づかないんですよ」と、反抗的なアラームを出した。
曹丕がボケッとしており、消せるはずの紛争のタネを放置してしまった、という話にすれば良いと思う。曹丕は、結果だけ見て、「おのれ、司馬師め」と怒ったとか。司馬師は、その感度の低さと、自分の責任を顧みない鈍さに、いよいよ曹丕に対する義憤をつのらせる。正しいかどうか別として、司馬師はそういう「意識の高い」人だと思う。司馬師は、いちどは王淩を平定したものの、司馬懿の死後にモウロクが進む曹丕を見て、「王淩の言い分は、じつは説得力があった」と思い直している。曹丕は、ワタクシの権力を強めるばかりで、ちっとも天下のことを考えていない。曹氏や夏侯氏は、排除しなければならない、と考える。
侯景の乱に匹敵する、司馬師の乱
思いついた。254年、史実では司馬師が曹芳を廃する年に、司馬師が曹丕に向けてクーデターを起こそう。
251年、司馬懿のクーデターは、このイフ物語において、起きないことにした。しかし司馬師は、クーデターをやりたかった。
そういうわけで、モウロクした曹丕を見限って、司馬師が反乱します。
お手本となるのは、南朝梁の武帝に反乱した、侯景の乱。
ぼくはこのイフ物語の曹丕を、梁武帝に似せることは、初めから考えていた。その梁武帝の晩年、ボケた君主を、軍事力でたたき直したのが、侯景である。侯景の記述を借りて、情勢をまねて、曹魏を混乱させよう。
史実の司馬懿は、曹魏に思いやりがあったし、軍略もやれたから、最小限のクーデターで収束させた。だがイフ物語の司馬師は、わりと堂々と、高い理想を掲げて、内乱を起こしてしまう。史実でも、これくらい強引な人だったと、ぼくは思っています。
一時は幽閉された曹丕。
しかし曹丕は、滅びない。なぜなら、80歳までの寿命があるから。
曹丕を救ったのは、史実である。255年、毋丘倹と文欽が寿春で挙兵した。司馬師の専横に怒る、という、きわめて順当な理由で挙兵する。曹丕の長期間にわたる統治のおかげで、曹魏の基礎は盤石なのだ。
司馬師は、洛陽をはなれて、寿春に向かう。そして寿春を平定したが、眼病で死ぬ。すべて史実なみ。
司馬師が眼病で死なず、侯景のように、長年にわたり曹魏をひっかき回したら、どうなったか分からない。イフ物語は、カオスに陥っただろう。だが、史実によって、司馬師の寿命は尽きた。寿命をいじるのは、曹丕だから。史実でも、毋丘倹たちは、「司馬師は横暴だが、司馬昭は君子の風格がある」という。司馬師のクーデターを、司馬氏全員のものではなく、司馬師1人のものと見ていた。建前かも知れないけど。
平蜀を願い出る司馬昭
史実では、司馬昭から軍権を剥がそうとして、曹髦が失敗する。だがこのイフ物語では、曹丕が軍権を取り戻す。なんだかんだ言っても、史実の曹髦よりは、遥かに強いから。
兄が謀反した司馬昭は、保身のために、願い出る。
「是非とも私に、平蜀をお命じ下さい」
冷や汗で、上着がびちょびちょになった司馬昭に、曹丕は、寛大な処置をする。
「司馬懿が無二の功臣であったから、司馬師の罪を、司馬昭に及ぼすことはしない。司馬昭の忠心を、朕は信じている。父にならって、大きな功績を立てるように」
とか、モウロクした曹丕は認めてしまう。
司馬昭にしてみれば、もはや曹魏に身の置きどころがない。やぶれかぶれに謀反しても、兄の司馬師と同じように、失敗するだろう。さすがに曹丕が、そこまでバカだとは思えない。だから、外征して手柄をとるしかない。
外征すれば、謀反するときに有利だし。
賢明にそこまで考えた司馬昭の処世を、曹丕は見抜かない。やっぱり、鈍くなっているんだろう。
都合がよいことに、同じ255年に、郭淮が病死した。
『演義』では、姜維に射貫かれる。この設定を持ちこんでも良いと思う。雍州方面の長官が空席だから、司馬昭はうってつけ。なんだか、このイフ物語に、史実が味方しているようだw
そして、司馬昭は必死になって出陣するので、平蜀が早まる。結論を言うと、史実よりも、6年くらい早くなる。
司馬昭が長安に留まって「漢晋革命」
史実では、255年8月、姜維が雍州刺史の王経に価値、陳泰に敗れる。256年7月、姜維は上邽で鄧艾に敗れる(段谷の戦い)。
このあたりで、王経や陳泰の上位者(郭淮の後任者)として、司馬昭が赴任しており、姜維に対処していた、というイフ設定にしよう。
司馬昭は、親交のある鍾会、司馬懿が育てた鄧艾らを組織して、平蜀の軍を起こす。司馬昭に同調する人材が、理由をつけて、続々と長安に集まってきて、司馬昭の将軍府につく。賈充さんとか。
史実の曹爽しかり、功績のほしい人が、積極的に平蜀の軍を編成することは、不自然ではないはず。長安にきて2年目の司馬昭は、256年冬あたりに上書する。
「今年、姜維を段谷で破りました。蜀は国力をおおいに損ねました。蜀の内部では、姜維に対する批判が高まっており、上下の心は離れております。いまこそ機に乗じて追い打ちをかけるべきです」
「よろしい」
司馬昭は準備をして、257年に鍾会らを進発させた。
史実では263年に起こる平蜀を、257年に前倒しして行う。6年早くなったけど、まあいいや。史実でも、司馬昭は長安にいて、鍾会や鄧艾を監督した。平蜀の過程は、史実にあわせます。
この6年による影響は、「姜維が、成都に帰らずに漢中にとどまって孤立し、」というクダリがなくなるだけです。司馬昭は、兄が謀反して、曹丕に目を付けられた以上、これ以上ダラダラする余裕がない。一気に平蜀に成功してもらいましょう。
平蜀の報告を受けた曹丕は、司馬昭を晋公にする。
司馬懿と司馬師の時代も封建されていたが、「晋」を号するのは、司馬昭が初めてです。史実では、258年5月。近づけたい。史実では、諸葛誕の反乱を司馬昭が平定したこと功績に報いるもの。
史実で諸葛誕は、257年5月に淮南で挙兵する。
あ、司馬昭が長安にいったせいで、諸葛誕の反乱が、起こせなくなってしまった。べつに考えますが、おそらく、曹丕の横暴に対しておきた反乱でしょう。王淩に同じ。もしくは、孫呉の陰謀をもっと積極的に絡ませてもいい。また、司馬昭が諸葛誕を片づけないことにより、史実よりも魏軍に人材が不足して、諸葛誕が割拠に成功してもよい。後日、考えます。
諸葛恪を、ぎりぎりで避難させるのも良いかも。凶兆が目撃されていたから、暗殺を回避したとか。孫呉の、諸葛恪・孫峻・孫綝という負のバトンタッチを書いても、このイフ物語の主題ではない。諸葛誕を連携させるため、諸葛恪を生かしておこうか。
史実なみに、鍾会が鄧艾を追放する。鍾会は「司馬昭を討って、劉備くらいにはなる」と野心を表し、姜維は「蜀漢を復興するのだ」という。
これを聞いた司馬昭は、迅速に書簡をだす。
「私も同じことを考えていた」と。
つまり、司馬昭は長安で曹魏から独立して、成都は鍾会に任せる。劉禅を皇帝として尊び、長安の郊外で劉禅から禅譲を受けるというかたちで、晋の皇帝となる。これにより、鍾会は劉備になれる。劉禅を尊ぶという姜維の志も、禅譲というロジックを媒介にして保たれる。みんな幸せ!
これぞ、『漢晋春秋』の世界観です!
姜維がどういう志向のキャラなのか、注意しないといけない。リアリティをもたせるために。ともあれ、姜維が司馬昭に合意する、という結論に運ぶ話をつくりたい。
「晋」という国号を持ってくるために、曹丕には、ちょっと史実とは違っても、司馬昭を封じてもらう必要がある。だから、上に書きました。
258年、曹丕は、最大の危機に陥る。いままでは、成都に蜀漢、建業に孫呉がいた。しかし、成都から進出した長安に司馬昭がいる。建業から進出した寿春に諸葛誕がいる。諸葛誕が背いた理由は、上の注釈に書いたとおり、宿題とします。曹魏の領域は、両サイドから狭められた。曹丕、72歳。
以上、ざっくりとですが、司馬氏の動きに見通しを付けておくことで、イフ物語の方向性が定まり、大規模な手戻りがなくなると思います。詳細に物語をツメるなかで、微調整をして一貫性をもたせ、理由づけを充実させます。140521閉じる
- 第5回 文化事業と、諸葛恪による滅呉
曹丕の文化面についても、ツイートがありました。
一部分だけですが、引用しますと、、
敎団(@Vitalize3K)さん
中国国内の食べ物に留まらず、シルクロードを通る国外の食べ物に舌鼓を打ち、膨大な量の詔(と称したグルメリポート)を出す。そのため美食家としての曹丕が広く知られるであろう。また九醞春酒の製法を改良し、上質なお酒を造ったかもしれない。
合理主義・現実主義的な性格を持つ曹丕は40歳の「小厄」を乗り越えると、自身の体験より占いを信じ始める。そしてそれが転じて、不可思議な現象にも興味を抱くようになり、仙術や怪奇現象を調べ、列異伝を編纂する(※諸説あり)に至る。
りなんな@聖杯戦争中(@empress_rina)さん
完全に個人的な理想論を言うと、文化繁栄の具体例としてこの人自分の死後の事にもよく言及してた&文学崇拝なので、寿命に余裕があったらもっと適切な文学作品の保存方法等も考えて、典論はじめ当時の作品で散逸してしまうものが少なくなってた…らいいなw
「文章は書き手が死のうと国が滅びようと後世まで残り、生き続ける。それは永遠の命であると同時に、途中で紛失されてしまえば二度目の死であり、一度目の死よりも遙かに恐ろしい。人の魂を守ることと心得て作品を保護する官庁を作り、更に写本を複数箇所に分けて保管せよ」
紫電P(@sidenp)さん
文学史は劇的に変化するんだろうなあ。詩才のある人物が本来の歴史より出世する可能性はあるかも。曹叡政権以降で冷遇された人物も含めて、その辺りで該当者いないかな。
こうもりねこ(@bat_cat_dat)さん
老いて美食家としての側面を深めた曹丕と、宮中を飛び出して新聞記者になっていた曹叡が美食対決を始める
だよもんさん(@dayomonsan)さん
在位46年の集大成であるスイーツ大辞典ががっ
珍珠晶素@交地さ27(@zhenzhu359)さん
曹丕が長生きしたら倭国の使者と直接会ってその土地の風俗とか聞いて自分で本書いてまとめたり手土産に典論とか持たせてそう。倭国に珍しい食べ物があるとか情報を入手したら船とか派遣して探させたのかな。
文化事業については、これらに大いに依拠して、発想したいと思います。
史実では、234年に諸葛亮と献帝が死んで、魏帝が宮殿の建設を加速させる。このイフ物語において、曹丕が、スタッフを大動員した書物の編纂をしたり、『四庫全書』もどきをつくるのは、同じく234年あたりからで良い。写本を保管するための荘重な文書館を、国土のあちこちにつくる。
何晏とか、杜預とか、彼らも協力させられる。
史実では、青龍4(236)年4月、崇文観をもうける。これを膨らますか。
史実では、司馬懿は遼東の征伐を命じられる。
この文化事業に、あんまり関係のなさそうな司馬懿は、心情的には逃げ出すように、外に功績を求めてそう。司馬懿のポエムは、ここで登場させるか。ちょっと詩を書いたけど、さっぱりだから、逃げ出すという。
史実でも「讌飲詩」は、公孫淵を攻めるとき。
文化のため、孫呉に荊州を失わせる
文化事業のなかで、ツイートで言及されたのは、四方との交易。ぼくは、曹丕に遠慮なく四方と交易してもらいたい。
西は、史実で生前の曹丕が、開通させる。曹魏の敦煌太守もいて、火浣布も伝わってくる。史実から変える必要なし。
東は、司馬懿が遼東を征圧することで、倭国とも開通。
北は、曹操が烏桓を片づけ、匈奴は後漢で弱体したから、思いのままに通じる。
南は、孫権がジャマである。
そういうわけで、ぼくは曹丕に交易を思うままに行わせるため、孫呉の勢力を削りたい。 史書をチラチラ見て、孫呉をいじめる計画を考えると。孫権の死で、魏軍が伐呉しています。このとき孫呉には、荊州を失ってもらおう。
史実をざっと確認しますと、
嘉平2(250)年、孫和を廃して庶人として、孫亮を太子として、孫覇を自殺させる。同年12月、州泰が巫・秭歸を攻める。荊州刺史の王基が夷陵を攻める。王昶が江陵を攻める。
嘉平3(251)年正月、王基が夷陵で、数千を虜とする。この物語では、曹魏が夷陵を占拠して残留すればよい。
4月、王淩がクーデター。史実でも、孫呉の荊州方面の攻略と、なんらかの関係があったのだろうか。ちょっと分かってないです。孫権は病が重くなり、諸葛恪に孫亮を託す。
嘉平4(252)年4月、孫権が死去。
10月、諸葛恪は東興に東西2城を築く。
12月、王昶は南郡、毋丘倹は武昌、胡遵・諸葛誕は東興を攻撃。諸葛恪・丁奉は東興で魏軍を破る。
以上の、250年-252年までの史実を変えるなら。
孫権の死に応じた曹魏の一斉攻撃により、孫呉は南郡・武昌を失う。東興では丁奉が勝って、かろうじて建業に魏軍が接近するのを防いだ。
荊州から交州に抜ける道が確保されたので、曹魏は、南方との交易ルートを得ることができました。これにより、曹丕は、思う存分に、交易品のリストを充実させることができる。
諸葛恪による、孫呉の「滅亡」
史実では、253年5月、諸葛恪が合肥新城を包囲して、7月に敗れて帰ってくる。10月、諸葛恪は、孫亮と謀議した孫峻に殺害される。
ぼくは諸葛恪が好きなので、そして、孫峻と孫綝とか、どうでもいい(キャラがよく分からない)ので、孫呉の歴史をイフ物語において改変したいと思います。
諸葛恪が暗殺される兆しは、史書にいろいろ書いてある。
諸葛恪伝:恪將見之夜,精爽擾動,通夕不寐。明將盥漱,聞水腥臭,侍者授衣,衣服亦臭。恪怪其故,易衣易水,其臭如初,意惆悵不悅。嚴畢趨出,太銜引其衣,恪曰:"犬不欲我行乎?"還坐,頃刻乃復起,犬又銜其衣,恪令從者逐犬,遂升車。
諸葛恪伝 注引『捜神記』: 恪入,已被殺,其妻在室,語使婢曰:「汝何故血臭?」婢曰:「不也。」有頃愈劇,又問婢曰:「汝眼目視瞻,何以不常?」婢蹶然起躍,頭至於棟,攘臂切齒而言曰:「諸葛公乃為孫峻所殺!」於是大小知恪死矣,而吏兵尋至。諸葛恪は、諸葛亮ゆずりの占いでw、孫亮と孫峻の陰謀を見ぬく。そして諸葛恪が、カウンター攻撃を食らわせる。なんと、孫亮を皇帝からおろす。
まるで、劉備が諸葛亮に、「劉禅がダメだったら、きみが代われ」と言ったことを、孫呉で実現するかのように。死の二歩手前ぐらいに、孫権がたわむれて、劉備のマネをししたかも。死の一歩手前になったら、史実なみに「くれぐれも孫亮を頼む」と遺詔するんだけど。まあ当然ですが。
諸葛恪は、孫権のたわむれを、真に受けたふりをする。
諸葛恪は孫亮をおろすが、自ら帝位に即くのではない。
荊州を征圧して、気勢の上がっている曹丕に対して、降伏の使者を出す。孫権がかってに作った皇帝の璽綬を差し出して、「孫権が皇帝についたのは誤りでした。曹丕の藩屏となりたい」と申し出る。
曹丕が荊州を陥落させる、という1つの戦いの結末を変えることで、「必然的に」引き出される設定だと思います。荊州を失い、合肥新城でも人数を失った孫呉は、曹丕に臣従するしか、生き残る道がない。これが、社稷の臣である、諸葛氏ができる采配でしょう。
皇帝のかんばんを下ろすことで、孫呉はムリな対外拡張の政策をとらなくても、ひっそりと生き存えることができる。曹丕は、臣従した者を攻めたりしない。
曹丕は、孫亮を呉王に封じる。孫権が呉王だったときと同じく、大量の珍宝を要求する。諸葛恪は、それをせっせと貢納する。曹丕は、それを上回る東西の珍宝でお返しをして、南北の交流が盛んとなる。まるで南北朝時代に、南北で威信をかけて、珍宝を贈りあっていたのと同じように。
曹丕は、腹臣の曹爽あたりにいう。
「文物を取り交わしていれば、おのずと孫氏は洛陽に帰するだろう」
孫呉は、武力で討伐しないのが、曹丕としてのハッピーエンド。
もともと孫権だって、天地を祭れと言われても、「土中じゃないから」と言って、見当はずれな辞退をした。漢が滅びてから、天地を祭る者がいないから、と言って皇帝になったくせに。
孫呉では(じつは延康期の曹丕も)皇帝でいることは、ぎゃくにリスク。さっさと、王爵に下りてしまったほうが、政事や外交のハンドリングはしやすい。だから諸葛恪は、孫呉を(実際に)滅ぼさないために、孫呉を(名目で)滅ぼした。これは、孫権の戦略の、ひろい意味での踏襲です。
こうして曹丕は、最大の版図を得て、文化事業はピークを迎える。
司馬懿が死んで2年。これまで名君モードで積み重ねてきた治績は、253年にピークを迎え、それと同時に腐り始める。司馬氏の取り扱いは、上に書いたとおり。
ちょっとシナリオをつなげてみます。
司馬氏と諸葛氏の連携
曹丕が最大の版図を迎えてから、三国はどうなるか。
蜀は、荊州に魏軍が入り込んだので、孫呉と連携できない。政治体制が変わるかと思いきや、きっと史実なみに、黄皓がいて、姜維がパッとせず、滅亡する。上に書いた、このイフ物語においては、蜀漢の滅亡は、257年です。
第4回で書いたとおり、258年、曹丕は、最大の危機に陥る。いままでは、成都に蜀漢、建業に孫呉がいた。しかし、成都から進出した長安に司馬昭がいる。建業から進出した寿春に諸葛誕がいる。
この機会をねらって、陸抗あたりが荊州を奪回する。
もう少し年数をおいたほうが、リアリティがあるかな。司馬昭が西から、孫呉が東から、じわじわ荊州を締め上げて、魏の都督を孤立させ、降伏させるという。258年、司馬昭は劉禅から禅譲を受けて、晋帝となる。孫亮は、陸抗が荊州を奪回したところで、5年ぶりに呉帝に復帰する。曹丕は、史実における生前と同じように、気前よく爵位をばらまき、安心して文化を稔らせていた隙をふたたび突かれて、東西に敵を抱える。
曹丕が築いた文書保存館が、1つくらい焼けおちて、曹丕が、マジでがっかりする。晩年に向けて、転がり始める。
という想像を付け足してみました。140524閉じる