雑感 > 中国化する三国志(與那覇潤『中国化する日本』より)

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〈霊帝〉モデルと〈高祖〉モデルを設定する

與那覇潤氏の『中国化する日本』日中「文明の衝突」一千年史(文春文庫)を読みました。この本(以下「原書」という)は、宋代以降の中国と、日本史を分析の対象としております。
しかし、三国志でも同じ話ができるのではないかと思いました。すぐれた理論は、射程が長い(多くのことに当てはまる;説明が付けられる)のです。著者が専門外として、沈黙しておられるので、代わりにやってみようかと思います。

特定のページを参照した場合は「_001」のように番号をつけます。


論文調で書ける話ではないので(射程の長い理論は、おおくの場合、論証の形式と相性がわるいので)、会話形式にします。原書は大学の講義ですが、この記事では、曹髦(曹丕の孫で、曹氏の思想の正統な継承者とする)と、司馬昭(曹氏への批判者で、のちに曹髦を返り討ちにして弑殺)の討論という形に託して、後漢~三国を分析してみようと思います。
議論が進んだ結果、曹髦は「司馬昭を排除すべし」と確信を深めるはずですし(まだ書いてないので、あくまで予定ですけど)、司馬昭は「魏王朝の歴史的な役割は終わった」と、魏晋革命を決意するはずです。ワクワクします(とりあえず、書き手であるぼくが)
このように、自分以外の話者に託する方式は、譙周『仇国論』とか、左思『三都賦』とかに見られる伝統的なものなのです。そのほうが喚起力があると思うので、パクっていきます。もっとも、いまあげた2作品は、架空の人物をつかっておりますが。

原書では、説明のための術語として唐宋革命ののちに成立した「中国」と、日本の「江戸時代」が出てくる。どちらも、三国時代のひとに喋らせられない言葉です。

三国時代は唐宋革命より前だし、そもそも三国志が「中国」の話なので、混乱をまねく。「江戸」なんて、ますますワケが分からない。

この記事では、原書の「中国」を〈霊帝〉として、「江戸時代」を〈高祖〉とする。

順番に説明していきます。まだ、ワケが分からないはずです。

〈霊帝〉と〈高祖〉は、史実の時代のことではない。また、三国期のひとが史書を通じて認識していた時代のことでもない。原書の術語を、便宜的に置き換えたものです。だから、カッコで囲んであります。文中で、術語でないところの、霊帝=劉宏や、高祖=劉邦について語らせたければ、カッコを外します。

発端:曹髦が司馬昭に議論をふっかける

甘露期(西暦250年後半)洛陽にて、ときの皇帝である曹髦が、大将軍の司馬昭に話しかけた。
曹髦「司馬昭よ。朕は歴史について考えていた。歴史には、いくつもの転換点があるな。いまも転換点に立っていると思う」_019
司馬昭「ええ、まあ……(曹芳を廃したことのイヤミを言われるのかな、連年の寿春での反乱のことを言うのかな)」
曹髦「黄巾の乱、董卓の暴政、そして漢魏革命……」
司馬昭「(イヤミは免れたが、長くなりそうな話だ)黄巾の乱が、すべての始まりでした。黄巾の乱がなければ、漢魏革命に至りませんでした。魏王朝、バンザイ、バンザイ、万々歳(適当にごまかして、会話を終了させよう)」

曹髦「ちょっと待て。もしも黄巾の乱が起きねば、漢王朝は平穏無事で、万々歳だったのか。朕は、違うと思う。黄巾に先立ち、桓帝・霊帝期には、既存の体制の終わりが徐々に明らかになりつつあり、黄巾の乱は、それをアカラサマにする、最後の一撃に過ぎない」_020

原書では、東日本大震災を「最後の一撃」としている。

司馬昭「黄巾の乱より前から、すでに漢王朝が行き詰まっていたと(漢が滅んだおかげで、曹髦のような若者が皇帝になった。漢の滅亡を必然と見るのは、オノレの立場の正当化に過ぎない。浅ましいな)」

曹髦「当世の魏王朝を、よき時代にするためには、『黄巾の乱より前に戻す』だけではダメだ。黄巾よりも前から行き詰まっていたことを前提におき、新たなストーリーを見出す必要があると思う
司馬昭「現在、呉賊と蜀賊がおります。二国を滅ぼして、黄巾以前に戻すだけでも、おおいに意義があることだと思いますけど」
曹髦「光武帝が漢王朝が中興してから、われらは、一歩ずつ努力してきた。だから漢王朝なみに戻すだけでも、幸せになれる。――そういう、聞き心地のよいストーリーを、支持するのか」
司馬昭「(言い方にトゲがあるけど)内容的には、そうです」
曹髦「そんな考えでは、当世は良くならない。認識を改めるためにも、新しい概念・新しいストーリーが必要だ」
司馬昭「そうですかね(違うと思うけど)」

歴史は変化しない、反復する

曹髦「三十年前、漢魏革命は『変化』であると、認識された」_035

原書では、オバマの「チェンジ」と、ノーベル平和賞の話。

司馬昭「古典にしか見えない、禅譲を達成しました」
曹髦「しかし実際には変化よりも『反復』であり、むしろ『再現』であった」_036
司馬昭「禅譲のロジックは、経書をつかって正統化しましたから。尭が舜に譲ったように、漢が魏に譲ったわけですよね」
曹髦「経書への準拠は、重要だが、そういう表面的な言葉づかいの話ではない。社会構造のことを、朕は考えたいと思う」
司馬昭「……よく分かりませんね」

曹髦「漢魏革命の話をする前に、後漢の霊帝期のことを話そう」_036

原書では、オバマの20年前、「冷戦と歴史の終わり」の話にうつる。フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』がひかれる。

司馬昭「どんな時代だと思われますか?」
曹髦「当時は、歴史が終わったという論調があったらしい。鮮卑の檀石槐という、漢王朝と対等かそれ以上の大国をひきいる君主がいた。それが、光和期(黄巾の直前)に死んだ。鮮卑は分裂して、漢王朝に帰順する部族があいついだ。漢王朝と異民族の争いは、漢王朝の勝利によって決着がついた」

檀石槐ひきいる鮮卑の分裂=ソビエト連邦の崩壊。ソビエトの衛星国が、あいついで西側諸国に脱出して、自由主義が社会主義に勝った。冷戦が終わったと。

司馬昭「なかなか想像できませんが、黄巾の前夜、数年間だけ、そういう充足した時代があったのかも知れません」

曹髦「霊帝の全盛時代である、光和期の世界のあり方は、ふたつ。①民族・地域を超えた、全世界的な政治理念の再現
司馬昭「とくに目新しい気がしませんけど」
曹髦「もともと儒家の思想のレベルでは、国境などなく、世界は同心円状に認識されていた。全世界的な政治理念だけはあった。しかし霊帝期、北辺の鮮卑の大国が分裂して、事実上の国境線を考えなくてよくなった。特定の民族・地域が、私利私欲のために戦うのは悪である。よりより世界秩序を保つために、漢王朝は『正しい戦争』を行うと」
司馬昭「やはり、特段に新しいとは思えません」
曹髦「漢の高祖 劉邦が匈奴に苦戦したときから、異民族は、軍事的には対等の帝国であった。儒家がスモークを炊いて、否認してきた。そのスモークが、必要なくなったのだ。一時的にせよ」

司馬昭「それで、もうひとつの世界のあり方とは?」
曹髦「②政府の再分配による平等よりも、世界規模の市場競争がもたらす自由が優先されるというルールの確認」
司馬昭「くわしく」
曹髦「国家による強力な統治機構によって、領民を抑圧するのは辞めようと」
司馬昭「豪族の経済力が発展して、政府のオサエが利かなくなっただけでは。国家の良民を、豪族が私的に抱えこむという傾向も、進みました」
曹髦「そうとも言える……。自由(機会の平等)という名目のもとに、結果の平等がないがしろにされた。司馬昭が言ったように、「勝ち組」の豪族と、困窮した「負け組」の人民という構図が、より強烈になった」
司馬昭「暗愚といわれる霊帝は、自身でも「勝ち組」に加わろうと、商人のまねごとをしたり、、そういうマネー偏重というか、マネーに自由すぎる時代でしょうね」
曹髦「豪族のような中間層は、皇帝権力にとってはジャマである。しかし、豪族が蓄財に励むだけで、政治に干渉してこなければ、制度設計が狙ったとおりの結果といえるだろう。あとは、しっかり課税して……」
司馬昭「そんなに、皇帝の都合よく運ぶものですかね」

漢王朝の四百年を分析する

曹髦「霊帝で頂点をむかえる漢王朝は、四百年間、一定の方向をむいて、統治の仕方を変化させてきた」
司馬昭「どんなふうに?」
曹髦「①貴族制度(世襲官僚)を廃して、皇帝の独裁とした」
司馬昭「われわれは当然に感じてしまいますが、代々の封建領主が、重職を世襲することは、行われておりませんね。当代でも、そうなっています」
曹髦「そう。しかし自明ではないのだ。前漢では、天下の大半に封建領主がいた。楚漢交替期というか、戦国期からの名残だな。封建領主をたくさん置かないと、治まらなかった。やがて、領主から、封土を召し上げ、皇帝権力は強められた。呉楚七国の反乱が、転換点といわれる。以後、郡国制といわれるが、国王の政治的な力はない。実質的には郡県制である
司馬昭「魏王朝でも、漢の原則をふまえて、皇族には、おおきな封土が与えられず、要職におりません(私は、これでいいとは思っていないが)」
曹髦「祖父の文皇帝(曹丕)が決めたんだもん」

曹髦「漢王朝の指向性は、もうひとつある。②経済や社会を徹底的に自由化する代わりに、政治の秩序は一極支配によって維持した」_042
司馬昭「漢のひとつ前、秦王朝は、地方の軍閥によって滅びた。戦国期と同じように、列国がならびたつ楚漢期がおとずれた。秦王朝の失敗をふまえて、持続可能な集権体制を設計した結果、そうなったのでしょう」

内藤湖南「宋代以降近世説」(『東洋文化史』)を、原書が説明している。内藤湖南いわく、宋王朝でやったとしたを、ぼくは漢王朝がやったこととして、曹髦に喋らせている。あながち、史実に反していないと思います。

曹髦「人材の登用も、皇帝におおきな権限をもたせた。霊帝は、鴻都門学をつくって、そこから独自のルートで、官僚を抜擢しようとした。皇帝に恩義のある人材を、子飼いのように集めて、中央集権を徹底させたかった。官僚のあいだで私的な党派・派閥をつくるのを防ごうとしたのだ」
司馬昭「……(なんか私が睨まれてるんですけど)」

曹髦「採用した官僚は、自分の出身地に赴任させず、数年ごとに任地を移した。地盤を築いて、皇帝に刃向かってきたりするのを防ぐためだ」
司馬昭「三互の法。まあ、われらの常識ですね」
曹髦「秦王朝に由来する制度だが、漢王朝が完成させたものだ」

ほかに、原書は、王安石の青苗法(政府が農民に低利で融資するかわり、国庫に返済するときは、収穫物を貨幣にかえて返すことを義務づけたもの)をひく。農民に貨幣の使用を行き渡らせる。すると、蓄財した農民は、移動しやすくなる。貴族は、農民を領土に囲いこんで、縛りつけられないと。漢王朝でも、貨幣の流通は狙ったみたいですが、明確な成果が出たことを知らないので、本文には反映させません。しかし、構造的には「ありそう」な話なので、事例を知ったら追記する。_044


曹髦「名門貴族が掣肘しあうのではなく、皇帝ひとりに権力を集中する。桓帝・霊帝期に行われた、評判のわるい党錮の禁だが、要するに、徒党をくんだ官僚の集団を、まるごと王朝から排除した施策だ。もしも官僚になりたければ、党派を解体して、皇帝と個別に結びつけと。かわりに、皇帝と、個人対個人で結びついた宦官のようなものは、優遇してやると」
司馬昭「ええっ?(党錮の再評価??)」
曹髦「政治は一極集中で、絶対に服従。しかし、経済活動や、移動・営業・職業選択は自由にしてゆく。霊帝期に過熱した、カネを関与させた猟官活動は、悪いものとも言い切れまい。漢王朝の与えるポストに、絶対的な有効性・権威を認めた上で、それを前提にして、それを疑うことはせず、『経済活動』にいそしんだのだから。むしろ、漢王朝の到達点とすら、言えまいか」
司馬昭「(もし曹髦が、霊帝リバイバルをやるつもりなら、この皇帝を退位させねばなるまい。もう少し、様子を見よう。それにしても、よく喋る若者だよ。もっとも利害の対立する、私にこんなことを聞かせるのだから)」

曹髦「機会の平等は保障する。結果の平等は保障しない。商売に成功したもの、官僚となったものに膨大な褒賞を約束し、それができないナマケモノは叩き落とす。無能な貴族の連中がもつ既得権益をとりあげ、全員に成功にむけた努力をさせる。霊帝が目指したのは、そして、ある程度は実現したのは、そういう社会」
司馬昭「鮮卑の檀石槐が死に、党錮の禁は継続され、鴻都門学をくぐった人材が登用され始め……、それが光和期(180年ごろ) であると」
曹髦「そうだ」
司馬昭「捉え方によっては、ひどい社会ではありませんか。弱者・敗者にセーフティネットがなければ、あまりに救いがない」
曹髦「だから、『宗族』という父系血縁のネットワークが発展したんだろう。宦官の子弟がのさばって…、という言い方がされるが、要するに、一族のなかで、ひとりでも成功者が出れば、それ以外のメンバーは寄生できる。蜀賊の劉備は、おじに学費を支援されたらしいが、これも霊帝期のできごとだ」
司馬昭「よくご存知で……」
曹髦「三国志には、詳しいから」
司馬昭「宗族だけでなく、門生故吏のネットワークも、セーフティネットですね。同じ師匠に学んだ、同じ上司に仕えた、という私的な人脈が充実するのが、この時代です。同郷というだけで、特別扱いする風潮も」

宗族のこと、私的なネットワークは、47ページ。宦官の子弟、劉備の事例、門生故吏のことは、ぼくが付け加えました。

曹髦「政治的に皇帝に絶対服従。この一点だけを守るなら、ネットワークが、副産物として生じるのは仕方がないと思う。しかし、そのネットワークが、後漢にキバを剥くのが、霊帝の没後なのだが……」
司馬昭「後漢末の群雄は、世襲貴族なんて一人もいません。皇族の出身者もいますが、世襲権力に拠って立ったのではない。群雄は、人脈のネットワークを基調として勢力を得ました。『名士』論です。群雄割拠は、霊帝の行きすぎた権力集中が、準備したのかも知れません」
曹髦「……アンビバレント」

曹髦「権力社会のコントロール術として、理想主義的な理念にもとづく、統治行為の正統化がある」
司馬昭「漢王朝の成熟史は、儒教の発展史とイコールです」
曹髦「常識の範囲だ」
司馬昭「あえて言わせて頂きますが、皇帝だけに絶対権力が集中していると、とても怖い状態です。恣意的な暴君が、なにをするのか分からない。だから、徹底的にほめる。『その理念に恥じないだけの政治を頼みますよ』とお願いする(実際は、お願いに見せかけて要求する)」_049
曹髦「皇帝から見れば、支配を正統化する思想。臣下から見れば、皇帝の暴走をとめる思想。君臣が、それぞれ互いのために儒教を発展させてきた」

ふたつの概念を提示:〈霊帝〉と〈高祖〉

曹髦「漢王朝の到達点とは、可能な限り固定した集団をつくらず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に則った政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会であり、だいたい霊帝期に達成された」
司馬昭「もう少し、分解してください」_060
曹髦「では、A~Eの5つに分ける。

A:権威と権力の一致
貴族のような政治的中間層と、彼らが依拠する荘園=村落共同体(中間集団)が打破された結果、皇帝が名目上の権威者に留まらず、政治的実験をも掌握する。
B:政治と道徳の一致
皇帝が王権を儒教思想=普遍的なイデオロギーによって正統化したため、政治的な「正しさ」と道徳的な「正しさ」が同一視されるようになる。
C:地位の一貫性の上昇
皇帝がおこなう試験=「徳の高さ」と一体化した「能力」を問う試験で官僚が選抜される。「政治的に偉いひとは、頭もよく、人間的にも立派」というタテマエが成立。
D:市場ベースの秩序の流動化
貨幣の農村普及などの政策により、自給自足的な農村共同体をモデルとした秩序が解体に向かい、むしろ商工業者が地縁に関係なく利益を求めて動き回る、ノマド(遊牧民)的な世界が出現する。
E:人間関係のネットワーク化
官僚試験の合格者を探すうえでも、商売の有利な情報を得るにも便利なので、同じ場所で居住する「近くて深い」コミュニティよりも、宗族(父系血縁)に代表される「広くて浅い」個人的なコネクションが優先される」

司馬昭「霊帝が達成したかは分かりませんが、目標とはしたでしょう」
曹髦「5つの要素を達成した状態を、〈霊帝〉という術語で表そう」

原書の「中国」がこれにあたる。


曹髦「漢王朝が四百年をかけて、これを達成したということは、反転すると、漢の始まり、高祖の時代の状態となる。

A:権威と権力の分離
権威者=皇帝である劉邦と、権力者=封建領主たちが別の人物である。漢王朝の成立時は、関中と巴蜀のみが「皇帝の領土」であり、関東は異姓王(のちに同姓王)が治めている。前漢の前期のメインテーマは、この克服にあった。
B:政治と道徳の弁別
劉邦が、儒家のかんむりに小便をしたように、政治の支配者と、道徳の具現者がイコールではない。政治とは、複数の有力者のあいだの利益分配だと見なされ、利益の調整のコーディネートが、為政者の主たる任務となる。統治体制の外部までに訴えかけるような高邁な政治理念や、抽象的なイデオロギーは使われない。

利益分配のコーディネートとは、原書にある言葉ですが、劉邦は気前よくバラ撒いて人望を得たし、劉邦の臣である陳平は肉を公平に切り分けて、器量を示した。

C:地位の一貫性の低下
「能力」があるからといって、それ以外の資産(権力や富)が得られるとは限らない。そのような欲求を表明することは忌避される。知識人が政治に及ぼす能力は低い。それを(知識人ご本人を除いては)問題としない。劉邦の時代は、秦の始皇帝が焚書をした直後である。儒家が劉邦に儀礼を売りこみにくるが、必ずしも全面的に尊敬されない。漢の歴史とは、知識人の相対的な社会的地位が上昇していく過程であった。
D:農村モデルの秩序の静態化
世襲の農業世帯が支える「地域社会」の結束力が強い。規制緩和や自由競争による社会の流動化を「地方の疲弊」として批判する。

この点は、ぼくの手にあまるので、例示できません。

E:人間関係のコミュニティ化
ある時点でおなじ地域・組織に属していることを優先する。他地域に残してきた、宗族への帰属意識は優先されない。ある組織の「一員」であるという意識が、ほかの組織の「同業者」との繋がりよりも優越する」

この点も、ぼくの手にあまるので、例示できません。


司馬昭「反転させれば、こうなるでしょうね」
曹髦「これを〈高祖〉という術語で表そう。歴史は、〈霊帝〉モデルと〈高祖〉モデルとの往復運動、もしくは混合の比率によって、決まってくる。これが、われわれが獲得したい視点なのだ」
司馬昭「(〈霊帝〉よりも〈高祖〉のほうが住みやすそうだな)」

ここまでのまとめ

というわけで、原書の第1章はここまで。
今後の見通しを……。
霊帝の後継者である曹操は、きっと〈霊帝〉モデルを目指した。少なくとも曹髦はそう感じており、自分も徹底したいと思っている。しかし司馬昭は、そんな酷薄な社会はイヤだと思い、〈高祖〉モデルへの回帰をめざす。魏晋交替期も、このふたつのモデルの闘争であったと。これが結論。
原書では、日本は、どうしても〈高祖〉モデル(原書の「江戸時代」)が好き。だから日本史上で、たまに霊帝モデル(原書の「中国」)の政権が生まれても、短期間で倒されてしまう。そういう話になってる。

ぼくが思うに、曹髦たちの時代は、原書の提示した日本と同じである。つまり、〈霊帝〉モデルを目指す君主は、短期間で倒される。〈高祖〉モデルが好まれる。だから、霊帝は批判を食らったし、曹氏の魏王朝は短期間でつぶれた。〈高祖〉モデルを使う司馬氏が、輿望をせおって、魏晋革命をすると。

曹丕は〈霊帝〉モデルを目指したが、陳羣によって九品官人法を打ち込まれた。九品官人法は、やがて貴族制に発展するような、〈高祖〉モデルに属する制度。司馬懿が州大中正でバージョンアップさせた。〈霊帝〉を徹底させたい曹氏と、それに抵抗して〈高祖〉モデルを持ちこむ司馬氏。司馬氏が皇帝になると、封建制をやり過ぎるとか、南朝の貴族制を準備するとか、、おいおい考えていきます。
原書も同じですが、どちらか1つのモデルが徹底されて「歴史が終わる」のではなく、双方のモデルが、出たり入ったりして歴史を編んでゆく。だから、司馬氏の晋に、〈霊帝〉的な要素があったとしても、べつに論理の破綻ではないのです。

唐宋革命の意義をクッキリさせるためには、唐宋革命より以前(唐代まで)は、中国ですら、〈霊帝〉モデルよりも、〈高祖〉モデルが優位だったことを言わねばなるまい。そういう、おおきなお話です。160521

原書では、中国の明王朝は「江戸時代」モデルだとする。明王朝は、漢民族によるもので、元や清とは違うといわれる。これを遡らせていくと、この記事になります。原書の言葉づかいを使えば、漢代は「江戸」から「中国」に移行するプロセス、魏は「中国」で、晋は「江戸時代」となります。

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モデルを使い、董卓・袁紹・袁術を分析

與那覇潤氏の『中国化する日本』日中「文明の衝突」一千年史(文春文庫)を読みました。この本(以下「原書」という)は、宋代以降の中国と、日本史を分析の対象としております。
しかし、三国志でも同じ話ができるのではないかと思いました。すぐれた理論は、射程が長い(多くのことに当てはまる;説明が付けられる)のです。著者が専門外として、沈黙しておられるので、代わりにやってみようかと思います。

董卓政権について

司馬昭「前回のラストは、かなり演繹的に突っ走りましたね」
曹髦「(原書がそうなっているのだ)」
司馬昭「霊帝期は、〈霊帝〉モデルの極致だったわけですが……」
曹髦「それはちがう。霊帝が当為・目標としたと思われるのが〈霊帝〉モデルであって、史実の霊帝期は、どうしても不純物がまざる。モデルの極致は、董卓であろう」
司馬昭「董卓……」
曹髦「董卓は皇帝ではないが、董卓が目標とし、途中まで実現したのが〈霊帝〉モデルであろう。手始めに董卓は、廃立を行った」
司馬昭「皇帝権力を侵害しましたね」
曹髦「いいや。A 権力と権威の一致が、〈霊帝〉モデルである。必然的に、皇帝は、能力にあふれた名君でなければならない。外戚に政治を一任したり、三公に政治を丸投げしたりしたら、権威と権力が分裂してしまう。十年後の『名君による親政』を準備するために、劉辯を廃して、劉協を立てた」
司馬昭「董卓は、十年後をみすえた改革者だと」
曹髦「利己的な独裁者、もしくは、王朝の破壊者であれば、劉辯を残して、傀儡にしたほうがよい。外戚の何進はもういないのだから、無能な劉辯は、もっとも扱いやすい人形である。それに、廃立すれば、その内容の当否とは関係なく、一定の批判がくる。その批判を恐れずに、漢王朝を再建した」
司馬昭「(廃立を肯定したか)」

司馬氏は直前に、曹芳を廃位にしている。

曹髦「〈霊帝〉モデルは、B 政治と道徳の一致も目指す。董卓は、高名な儒者を積極的に登用した。蔡邕に権限をあたえた。C 地位の一貫性の上昇も目指した。つまり、党錮のころは、名声は高いが官職は低い、名声は高いが経済的に貧しい、学問はあるが官職がない、といったネジレ現象が起きた。それを解消するために、たとえば荀爽を短期間で高位に昇らせた」
司馬昭「たしかに〈霊帝〉モデルとの親和性が高い」
曹髦「そう。董卓は、霊帝以上に〈霊帝〉的なのだ。D 市場ベースの秩序の流動化は、貨幣政策。ろくに加工しない貨幣を流通させ、市場経済を活性化しようとした。政治は有無を言わさぬ一極化する反面、経済は新自由主義のように流動性を高める、というのが〈霊帝〉モデルである」
司馬昭「董卓が社会をシャッフルしたので、人々は、E 人間関係のネットワーク化を頼みにした」
曹髦「ネットワーク化は、霊帝期から進んでいた現象である。奔走の友をつくったり、友のために殺人を犯したり。董卓は、袁氏の門生故吏のネットワークを重視した。人脈の時代がくることを見抜いた。だから、袁隗を政権の内部にとりこみ、逃亡した袁紹に勃海太守を与え、袁術にも将軍位を与えた」
司馬昭「おのれの敵となるとも知らずに」
曹髦「おのれが官職任命のハブになることで、ネットワークの中心に近づこうとしたのだろう。人材を一本釣りして、任命した恩を売り、思いどおりに動かすのは、〈霊帝〉モデルである。地方長官に、名士たちを軒並み任じたのも、同じこと」

原書では科挙で体現される。後漢に科挙はないので、こんな書き方に。

司馬昭「董卓は、霊帝がつくった軍隊を吸収したので、その意味で、霊帝の継承者なのかなと思っておりましたが……」
曹髦「それ以前に、政治のモデルが、霊帝の発展形であった」

司馬昭「皇帝自身がこれをやるなら分かりますが、董卓は皇帝じゃない。A 権力と権威の一致とならず、董卓は専横者として批判されるに至りました」
曹髦「残念ながら。また、時代の趨勢がある。われらは、〈霊帝〉モデルを追及すると、その政権を短命化させるらしい。社会の下部構造(生産の基盤)がそうなっているのか、文明の価値観に根ざしたものか」

日本では、後醍醐天皇が〈霊帝〉モデル(原書では「中国化」)した王権であり、それが短期間で滅びる。足利義満も同じ。足利義満は、幕府の宿老たちに反対された。世襲する領地・家職が取り上げられることを恐れたからだと。_073

司馬昭「董卓が反発を受けた理由は、そんな高尚なものでしょうか。董卓が強引すぎた。それだけだと思いますが」
曹髦「個人の素質に帰してしまっては、歴史から学ぶところがない。董卓が強引だとして、その強引さが、なぜ政権を崩壊させたか。そこまで考えるべきだ」

原書いわく、逆に近世の中国では、〈高祖〉モデル(原書では「江戸時代」)した王権が誕生すると、それが短期間で滅びる。明王朝がそれであると。市場の自由競争を規制して、民衆の移動を禁じた。_076


袁術・孫堅について

曹髦「董卓に立ち向かったのは、袁術と孫堅」
司馬昭「(そこは「曹操」と言わなくて良いのかな)」
曹髦「この時期の袁術の業績として、よく言われるのが、『拠点とした南陽郡で、奢侈・蕩尽を行った』という悪評である」
司馬昭「そうらしいですね」
曹髦「秦王朝から続く郡県制は、地方長官は、地元の出身者ではない。中央から派遣されてきたヨソモノが、現地を治める。彼らの利害は、地域のコミュニティの保全ではない。ヨソモノだから、その地域を『目的』ではなくて『手段』にしようとする」
司馬昭「袁術が南陽を、食い物にしたように」
曹髦「そう。袁術は、中央の権力闘争=董卓との戦いが『目的』であり、南陽の統治は眼中にない。ただの補給地として、膨大な人口を使役した」
司馬昭「南陽には、迷惑なことでした」

曹髦「孫堅は、赴任地で討伐戦をよくやった。郡を越境して、戦うこともある。これは、その地域を保全するための行動ではない。官僚として成り上がるために、戦っていた。その証拠に、孫堅は、故郷でもなんでもない長沙において太守となり、おのれに非協力的な刺史・太守を殺して回った。荊州を保全しようとする動きは、これっぽっちも見せない」
司馬昭「孫堅は、呉の初代と認識されていますが、彼は、呉の地域で国を築いたことはありませんでした」

モデルの転換により、群雄割拠へ

曹髦「袁術と孫堅は、高邁な理念を掲げただろう。袁紹も同じ。董卓と戦い始めた当初、〈霊帝〉モデル内での主導権を争った。兵員は流動性が高く、境界をまたいで移動し、地域の保全よりも、董卓の打倒のほうが先だった」
司馬昭「しかし彼らは、領国経営に重点をシフトする」

曹髦「地域のコミュニティの保全、流動性の低下は、〈霊帝〉モデルを離脱して、〈高祖〉モデルに回帰する動きだ。まず董卓が先んじて、長安に閉じ籠もって、地域政権となった」
司馬昭「初平期には、袁紹らの仲違いしたのでなく、目指すべきモデルの転換点があったと。すごく歴史的意義があるじゃないですか」
曹髦「そのとおり。〈高祖〉モデルとは、A 権力と権威の不一致。権力は董卓が、権威は献帝がもつ。もともと、廃立をして、皇帝ならぬ董卓が改革を主導した時点で、ちょっとムリがあったわけだが、そのムリを、モデルを転換することで解消した」

司馬昭「B 政治と道徳の弁別。董卓の暴虐は、なりふり構わなくなってきた。都の富裕層や、近隣の聚落を襲撃して、利益の配分者として振る舞いました。C 地位の一貫性の低下。董卓はおおくの名士を招いたが、決死の抵抗を受けました。名声の高さ=官職の高さ=経済の豊かさ、とは限らない」
曹髦「D 農村モデルの秩序の静態化、E 人間関係のコミュニティ化。平たく言えば、群雄割拠である。理念を頂いた名君による一元支配ではなく、あたかも封建領主が並立するような状態。地域を越えたネットワークよりも、「ある時点で、同じ地域にいる」ことが優先される。

曹髦「荊州には、劉表が赴任する。劉表は、赴任した直後は、なんの在地的な基盤のない『単騎』の刺史だった。これは〈霊帝〉モデルである。しかし、在地の宗族をまとめて殺した。つまり、現地の人的なネットワークを寸断してから、在地支配を組み立てた」
司馬昭「孫堅が劉表に勝てなかったのは……」
曹髦「戦場には、不測の事態がつきものである。しかし、地域を『手段』としか見ない孫堅よりも、地域を『目的』として見てくれる劉表のほうに、時代の趨勢は傾いていた。かりに孫堅が劉表を倒しても、第二の劉表、第三の劉表が送りこまれて、荊州『藩』が立てられるまで、抗争が続いたはずだ。袁術か孫堅が、荊州『藩』のトップに転じたかも知れないが」
司馬昭「なぜ領民は、『藩』を求めたのでしょう」
曹髦「生き残るため。きわめてシンプルな理由だと思う。では、なぜ地方に閉じ籠もらないと生き残れなくなったか。〈霊帝〉モデルの闘争が、過熱しすぎたからだ。もともと〈霊帝〉モデルは、地方軍閥の出現を防ぐためのものだ。

原書「中国」のモデルである宋王朝は、安禄山に始まる唐末五代の反省を踏まえて作られた。

実質的に、地方軍閥が出てきてしまうと、ふたつのモデルが折衷的になる。両方の色合いのあいだで、濃淡がくるくる変わる」
司馬昭「モデルにおいて敗北した袁術は、北を目指しました」
曹髦「揚州において割拠勢力になることで、彼は生き残った」
司馬昭「同じころに、すでに袁紹は、冀州『藩』の領主であった」

袁紹政権論

曹髦「冀州に入った袁紹の使命は、何だったか」
司馬昭「天下統一?」
曹髦「それはテレビゲームだけの話。近隣との食糧の争奪戦から、冀州を防衛するために、道路の整備と、駅伝の管理を通じて、迅速な情報伝達と物資輸送につとめ、いざというときは避難民を城郭におさめ、命を守ること

原書では日本の戦国大名の使命について書いてある。_091

司馬昭「霊帝期の刺史は、そこまでしてくれなかったはずです」
曹髦「そう。地方長官に求められることと、その要件・性格が変わった。『州牧』が内実を持つのも、この流れであろう。領民とすれば、武装して自力救済する必要がないのが、袁紹をトップに頂くメリット」
司馬昭「領民にとっては、社会のインフラを領主が準備してくれるのだから、暮らしやすそう……」
曹髦「本当にそうかな。税率は高くなる。兵役・労役も重くなる。『鼓腹撃壌』の理想から遠ざかり、おらおら、誰のおかげで生活できているんだと、領主=袁紹がいちいち介入してくる」

曹髦「『遠くにいるけどネットワークで繋がっているひと』よりも、『いま一緒に暮らしているひと』との結束が強くなる。どんどん地域に固定化されていく」

あたかも江戸時代の藩。あたかも近代の国民国家。_094

司馬昭「袁紹のもとには、多彩な人材がいました」
曹髦「出身地や、学問の師弟関係、官僚としての主従よりも、『いま冀州にいる』ことが、重要になっていく」
司馬昭「袁紹のもと、なぜ異質な人材が集まり、殺しあうほどにモメたのかと不思議に思います」
曹髦「霊帝期までなら、官僚が定期的に異動するように、人間関係は流動的だった。目に見えないつながり、門生故吏のネットワークが優先だった。ソリがあわねば、移動することができた。しかし時代が転換して、土地に縛りつけられないと、生き残れなくなった。そこが彼らの悲劇だな」

司馬昭「土地に縛られる〈高祖〉モデルは、権威と権力が分離するもの。つまり、『象徴皇帝制』でいい。権威である皇帝は、どこにいるか分からなくてもいい。目の前の権力である袁紹に従うと」

原書は、もちろん「象徴天皇制」と書いてある。_095

曹髦「〈高祖〉モデルが徹底すれば、そうなる。呉楚七国の乱の前夜のようなもの。しかし、皇帝が長安を出ると、動揺する。皇帝は、象徴でもなんでもなく、生身を晒してウロウロするわけだから」
司馬昭「袁紹の配下には、いや袁紹自身にも、冀州の保全よりも、天下の統一を目指す野望=〈霊帝〉モデルが残っていたはずです。そこが動揺と不和の原因でしょうね。冀州出身者は、〈高祖〉モデルと親和的だが、必ずしも出身地で色分けできるとは限らない。冀州出身者が、皇帝奉戴を勧めることもある」
曹髦「タイミング的に出兵するのが有利か。豊作で、補給が続けられるのか。そういった諸要因にも左右されるから」

群雄の最大の敵は、黄巾の残党

曹髦「袁紹らの最大のライバルはなにか。袁術や公孫瓚だと答えたら不可。皇帝を奉戴する李傕・郭汜なら、ギリギリで可。じつは皇帝だといえば、論じ方によっては良。優がもらえるのは、黄巾である

織田信長の最大のライバルはあれか。武田信玄や上杉謙信は不可。足利義昭でギリギリで可。正親町天皇で良。本願寺が優。_096


曹髦「群雄どうしの合戦は、食糧の奪いあい。黄巾の乱だけは、『いかなる原理に基づいて、つぎの社会を再建するか』という争いだった。宗教勢力であり、全国的な(地域を越えた)黄巾のネットワークがあった」
司馬昭「中平元年、広範囲で一斉に蜂起があった。張角が死んでも、黄巾は残り続けた。青州黄巾などが代表的です」
曹髦「もしも黄巾が勝利したら、黄老の思想に基づいて、人々が統合される社会を迎えた可能性がある。ところが黄巾を、『とりあえずメシは食わせてやるから、地元は黙ってオレに付いてこい』式のシステムが圧倒してしまう」_097
司馬昭「太祖武皇帝(曹操)」
曹髦「思想性よりも、メシのこと。のちに曹氏は、儒家の思想性を回復して、王朝を建設した。すると、黄巾たちは一斉に去った。初平期の太祖は、思想性を後回しにしても、メシを優先して、政権の基礎を作られた」
司馬昭「董卓の割拠により、思想性を推す〈霊帝〉モデルよりも、地域のメシを推す〈高祖〉モデルのほうが、優勢の時代でした」
曹髦「まことしやかに『荀彧が黄巾を説得した』と語るものがいるが、ウソだと思う。メシを確保したから、青州黄巾は、太祖に強力した。理念じゃない。捉え方を変えたら、理念を説いて『棄教』させる必要がなかったから、ほかの部隊と共存できた。于禁の例のように、対立があるとしたら、もっぱらメシの奪いあい」

〈霊帝〉モデルへの揺り戻し

司馬昭「こうして漢王朝は、〈高祖〉モデルとなりました。群雄たちによって『藩』に分割されました。地域の保全を重んじ、権威はないが権力がある領主が、無思想ながらも、現実的な統治をしました。民衆は、経済的な流動性が下がりましたが、ほそぼそと『家職』を守れば、少なくとも飢える心配はなくなりました。官僚は世襲となり、能力による抜擢は少なくなりました。領主と民衆は、たまにモメることがあっても、平和で良好な関係を維持し、現状の継続を受け入れていきました……とは、なりませんでしたね」
ちょっと残念そうな司馬昭。

〈高祖〉モデル=江戸時代。これは、西晋の社会制度に近いという見通し。

曹髦「霊帝・董卓がめざした〈霊帝〉モデルと、いま地方に現れた〈高祖〉モデルは、どちらも完結した政策パッケージなのであって、優劣はない。ただし問題なのは、政策パッケージと、社会的に必要とされる局面が、噛みあわなくなると破綻する。混ぜて使うと、それぞれの短所が現れてしまうことがある」

曹髦「複数の州をおさめた袁紹・袁術は、無思想な地域政権を脱皮して、思想性を獲得しようとする。董卓と決裂して以降、なりゆきで統治していた。しかし、『袁氏は皇帝から任じられた官職によって治めている』ということを前景化した」

松平定信の完成の改革が「混ぜるな危険」のサンプル。_131
松平定信は、儒家を取りこみ、「徳川将軍は天皇陛下からこの国の支配権を預かっている」と、はじめて突き詰めて考えて理論化した。これが明治維新を準備したと。

司馬昭「ええ。李傕が、天下を安定させるため、関東の群雄たちに、官職を配りました。群雄が『なぜ州を統治できるか』が明らかになりました。彼らが実力で奪った領土の支配権を、皇帝の名のもとに追認しました。おまけに同じころ、皇帝が関西から帰ってきました」

曹髦「その結果、皇帝の任命さえあれば、州牧となり、群雄に取って代わることができる、ということが、バレてしまった。さらに言えば、李傕のように皇帝を奉戴すれば、戦わずしてライバルを圧倒できることが、バレてしまった
司馬昭「皇帝が董卓・李傕に押し込められて、漢王朝そのものが割拠政権のように振る舞ったのは、長く見積もって5年です。〈高祖〉モデルによる社会の安定、身分や官職の固定・世襲が始まる前に、ふたたび揺り戻しがきました」
曹髦「すると、袁紹・袁術に残された手段は、ふたつだけ。
ひとつ、みずから皇帝を奉戴して、〈霊帝〉モデルの再建に協力すること。
ふたつ、皇帝を無視して地域で自己完結し、〈高祖〉モデルを体現すること
司馬昭「袁紹の配下は、この選択でモメましたね」

〈高祖〉モデルに逃げこむ袁術

司馬昭「袁術は、太祖が皇帝を確保してしまったから、苦肉の策でふたつめを選び、皇帝となりました。実効的な皇帝がふたりいれば、〈霊帝〉モデルの絶対君主による一君万民のスタイルは崩れます。モデルを賭けた勝負だったわけですか」

曹髦「苦し紛れであったと思うが、結果的にはそうなる。〈高祖〉モデルを目指した。袁術その人が(世襲ではないにせよ)四世三公の身分の固定化と親和的なキャラ。袁術は、袁紹ほど人脈のネットワークを作るのがうまくなかった。そのわりには、揚州という地盤を求めると、奇跡的に統治に成功した」
司馬昭「まさに〈高祖〉モデル」
曹髦「漢代の儒家からすると、袁術の皇帝即位は、思想史的には破綻している。しかし、整合的な思想がなくても、なりゆきで押せてしまうのが〈高祖〉モデル。楚漢交替期の称号は、今日から見たら、デタラメだしな」
司馬昭「しかし、袁術は敗れました」
曹髦「〈高祖〉モデルをとことん追及したら、整合性が取れて、生き存えたかも知れない。しかし、太祖への攻撃を仕掛けるなど、〈霊帝〉モデルのような行動も並行させた。『右に左折せよ』という、ワケの分からない状態である」

両方のモデルの「悪いところ取り」というのが、原書のいう「ブロン」

司馬昭「はっ、もしかして、袁術をバージョンアップし、中央に対して無関心をよそおい、思想的に破綻しているくせに、領国経営に成功しているのが……」
曹髦「孫権だったのだろうな……忌々しい」
司馬昭「後進地域は、〈高祖〉モデルと馴染むのかも知れません」 曹髦「楚漢戦争というが、『楚』も『漢』も辺境であった」_160524

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魏・呉・蜀を分析して、晋をほのめかす

ちょっと整理

與那覇氏の「中国化」(このページでいう〈霊帝〉モデル)とは、ぼくがたびたび書いている、「天下統一に病的に固執しすぎて、あちこち齟齬が生じている」と、ほぼイコールだと思います。
中国の皇帝専制が完成するのが、唐王朝のつぎの宋王朝だそうです。ぼくらは、漢王朝をひとつの理想型と見がちです。ほかの時代をろくに勉強したことがないので、ひらたく言えば、
「皇帝専制が完成するのって、漢王朝じゃないの?」
と思ってしまう。不勉強って、怖いですね。これを書きながらも、やはり漢王朝を「完成形」だと思ってしまう。やはり、宋王朝の皇帝権力が、どれほど強いのかを、きちんと知る必要がありそうです。明確な指標は、科挙制度の有無です。

名古屋大学の東洋史研究会で、朱元璋の話を聞いてきました。明王朝の草創期、科挙で採用した人材が「使えない」ので、科挙を停止して、孝廉による人材登用をめざすとか、漢への逆戻りぶりがおもしろいです(孝廉はうまく機能せず、キモを削って親に食わせるとか、元代に禁止された過激な『孝』の表現者が出てきて、逆に困ったとか)。科挙人材が、どう「使えない」のか、詳しく聞きたかったです。
富裕層(経済的な強者)を明王朝に取りこみたいが、政権基盤が弱いので、疑獄事件・武力討伐に限界がある(朱元璋は気まぐれに殺害する君主だそうですが)。理念に訴える以外に、富裕層の関係を調整し、王朝に「自発的な寄付」をするように仕向け、寄付者を顕彰したという。
「王朝に寄付した富裕層を顕彰する」という政策があったというお話でしたが、後漢脳としては「官爵の売買と何が違うか」です。経済資源が富裕層から王朝に移り、名誉や特権が王朝から富裕層に移る。外形的には同じでも、後漢の官職には「市場価値」があり、明初の官職には「市場価値」がなさそう。
理念よりも経済。科挙による一本釣りの登用でなく、富裕層に、共同体への参画を求める。與那覇氏によれば、明王朝は「中国化」しなかった(「江戸時代」の)王朝です。ご報告と整合するなあと思って聞いていました。

曹髦と司馬昭の会話劇にもどります。

劉表・劉焉・公孫度

つぎの日も、曹髦は司馬昭をひきとめた。
曹髦「袁術に限らず、後漢末には、明らかに理念としては、皇帝の権威を侵している、正統性を踏み外している、そういう地方勢力が生まれる」
劉表は皇帝の祭りをやったと、劉焉(劉璋だっけ)に告発された。そんな劉焉は、州牧を提案して、「地方の自立モデル」を提唱したひと。漢王朝を分断するつもりなのかという嫌疑すら、かかり得る。公孫度は、漢王朝の始祖を祭った。

司馬昭「彼らにオートマチックに天誅が下るべきだったと?」
曹髦「朕はそう思うが……。地理的に距離があるから、彼らは討伐をまぬがれた。もしくは、中央の権力が衰退していたから、討伐が遅れてしまった。そういう簡単な説明では、足りない気がする。なぜなら、少なくとも直近の150年ぐらいは、漢王朝の一部だった地域だ。容易に分離して、不忠者の統治を許すとは思えない
司馬昭「それも、モデルの違いなんじゃないですか」
曹髦「この天下の民は、〈霊帝〉モデルを歓迎していないと」
司馬昭「そうです」きっぱり。

曹髦「州牧というのは、ふたつのモデルを折衷したような役職だ。皇帝に任命されるから、郡県制における地方長官に等しい。しかし、藩王のように振る舞う」
司馬昭「州牧に、おおくの劉姓が任じられたのが兆候的です。幽州牧の劉虞しかり。まるで藩王でした」
曹髦「霊帝は、〈霊帝〉モデルを突き詰めるなら、州牧の設置を認めるべきではなかった――ということになる」
司馬昭「しかし、州牧による分割統治は、そこまで不幸なことでしょうか。今日だって、『都督いくつかの州諸軍事』がいて、州牧よりも強力な権限を、ほかの誰でもない陛下から預かっています」

曹髦「だから近年、寿春で揚州牧が、なんども起兵したんだろう。呉賊と蜀賊がいるうちは、必要悪かも知れないが、いずれは撤廃すべきだと思う」
司馬昭「それは賛成です。軍事に偏重した『都督制』でなく、、(皇族もしくは世襲貴族による、地域に根ざした統治制度をつくるべきだが、これを言うとケンカになるので、黙っておこう)」
曹髦「社会的に、あらゆる中間集団を根絶させ、官僚制度では、あらゆる中間階層を撤廃する。理想は、朕が直接、万民を統治する。さすがに現実的でないから、朕の手足となる官僚を、落下傘部隊のように各地・各所にばらまき、忙しなく移動させる
司馬昭「(そんな社会は、地獄だな)」

曹操政権論

曹髦から見ると、太祖=曹操は曽祖父(祖父の父)である。曹操について言及するのは、この国について自己言及することになる。だから、ウカツに発言できず、あえて避けてきたのだが、ついに「本題」に入る。

曹髦「太祖の志は、漢王朝の復興。〈霊帝〉モデル。董卓とは異なるかたちで、董卓よりもうまく(モデルの欠点を克服しながら)モデルを実現しようとした」
司馬昭「はい」
曹髦「〈霊帝〉モデルは、君主が有能な人材を一本釣りする。社会的に教育のインフラが整って初めて、実現できること。儒家の経典を共通のコードとして、後漢末にはこれが実現していた。『唯才』は典型的な〈霊帝〉モデル

宋王朝の科挙に通じる部分があります。

司馬昭「いっぽうで〈高祖〉モデルは、『家職』というかたちで、ほそぼそと細分化した役割をシェアリングする社会。太祖は、これを望まれなかった」
曹髦「無能なものが、惰性で職務を引き受けたら、全体の生産性がさがる。そんなこと、許されるはずがない。朕も『唯才』の後継者でありたいと思う」

司馬昭「この天下に、『外部』はありますか」
曹髦「は? あるわけない。世界の総体が『天下』だから」
司馬昭「ですよね。陛下は、全体の生産性について言われましたが、仮想敵と競っているわけではない。生産性をあげないと、社会が滅亡するとか、そういう切迫した話ではない……」
曹髦「有為な才能のもちぬしが、切磋琢磨して、全体の生産性をあげて、発展していく。ベストだ。これに疑義を差し挟む、司馬昭の気持ちが分からない」
司馬昭「王朝のために、才能を絞り尽くす社会が、はたして理想的か」
曹髦「きみは、竹林の七賢とうまくいっていないそうだ。『才能を浪費してもよい』というのは、竹林の七賢を認めるような態度ではないか」
司馬昭「竹林の連中のことは、わきに措くとして、社会のモデルとしては、こぢんまりとした社会、ほどほど・そこそこでも生きている社会というのも、選択肢としてあるのではないかと」
曹髦「そんな人類規模の損失は、認められない」

司馬昭「たとえば、劉璋の時代に燻っていた益州の人材が、劉備がきた途端に頭角を現した、ということがあったでしょう。しかし、豊かだった益州は、劉備・諸葛亮のせいで疲弊した。わが国と戦うことを強いられたからです。劉璋の時代も、そこそこには統治は成り立っていたわけで、それも良かったんじゃないか、ということです」
曹髦「劉表・劉璋の無為な政治をほめるのか」
司馬昭「無為な政治、黄老の思想、つまり〈高祖〉モデル。ふたつのモデルに、善し悪しも優劣もなく、ただモデルがふたつある。中途半端に混ぜると、『悪いとこ取り』が起きて破綻する。しかし、ひとつのモデルを追及すれば、うまくいく」
曹髦「しかし、劉表・劉璋は、太祖・劉備によって敗れた。時代に逆行した、非効率な〈高祖〉モデルを、〈霊帝〉モデルが塗り替えてゆくのが、歴史の進展だと思う。もともと漢王朝の四百年が、このプロセスだった。〈高祖〉モデルの亡霊が現れたなら、それを退治すべきだ。太祖は、そういう戦いに生涯をささげた」

赤壁の戦いを再解釈する

司馬昭「孫権が建国した理由は、〈高祖〉モデルにある。昨日、袁術に絡めて、そういう話をしましたね。あれを掘り下げましょう」
曹髦「建国の端緒は、いわゆる赤壁の戦い。あれは、単なる軍事の優劣で、結果が決まったのではない。というか、太祖の軍は、孫権に敗れたのではない。状況が不利だから、撤退しただけ」
司馬昭「何が起きたんでしょうか」
曹髦「孫権が『鎖国』した」
司馬昭「知らない言葉です」
曹髦「孫権は、〈霊帝〉モデルにNOを突きつけた。長江に隔てられたという地理的な条件を活かして、対外的な関係をミニマムにした。内部だけで完結した、持続可能な社会を作ろうとした」

江戸時代の日本は、周囲を海に囲まれたという地理的な条件を……と同型。
原書ではほかに、鎌倉時代の元寇について書いている。モンゴル軍は、日本を占領するために来たのではない。グローバルに形成されつつある経済の一員になれ、という交渉にきた。それを日本は「占領される」と勝手に読み替えて、軍事的に抵抗したと。「パクス・モンゴリア」に編入されることを拒んだと。
赤壁の前夜を理解するには、北条時宗の時代を知ればいいのか!


曹髦「赤壁のころ、太祖と孫権は、敵対的な関係ではない。むしろ、孫策の時代から、婚姻をかわし、官職をやり、友好的な関係を築いてきた。武力で揚州を征圧して、孫権のクビを取ろう!なんて話ではなかった。孫権のほうが、勝手に『占領される』と読み替えて、軍事的に抵抗した。不意を突かれ、計画外の戦いを避けて、太祖は撤退した」
司馬昭「太祖からの使者を、かってに『宣戦布告』と勘違いした。さきに手を出したのは、孫権であると」
曹髦「勘違いというか……、モデルの違いが、根っこにあるのだろうな。太祖は〈霊帝〉モデルを頂き、もと漢王朝の領域を、同一のルールに取りこもうとした。しかし孫権は、それを望まなかった。いや、望まない勢力に担がれた」
司馬昭「太祖と孫権は、宿敵ではありません。交戦状態になってからも、親しげに文書を交わしたりします」
曹髦「私怨ではなく、モデルの違い。呉では、父が死ぬと、その兵を子に継がせることがある。これは〈高祖〉モデルに見える、『家職』に近い。有能だから継ぐのではなく、子だから継ぐのである。徹底された制度ではなさそうだが」

司馬昭「孫権は、称号にこだわらなかった。高祖(曹丕)から、呉王に封じられた。その後、なんの必然性もなさそうな時期に、ザツな理論によって皇帝になった」
曹髦「赤壁で太祖を追い返してから、皇帝を詐称するまで。この時期の呉は、〈高祖〉モデルとしておもしろい。積極的に外に出て行かないのは、怠けているからではない。出て行く必要がそもそもない」
司馬昭「関羽を殺して荊州を奪ったのは、漢王朝に絡む理念というよりは、ただ生存上の理由のため」
曹髦「当時の孫権は、外交の巧者だった。太祖(曹操)・高祖(曹丕)と劉備を、テダマにとった」

原書によると、〈江戸時代〉をひきずる戦前の日本は、相手が1国か2国の、それほど複雑でない状況なら、うまく外交をやれた。「鎖国していた時期なみの相手」ならば、うまく付き合えた。第一次世界大戦以降、それよりも複雑になると、拙くなったと。

曹髦「皇帝になった後の孫権は、〈霊帝〉モデルを『混ぜるな危険』した状態となって、平凡な……というか、劣悪な皇帝権力に成り下がった」
司馬昭「劣悪ですか……」
曹髦「〈高祖〉モデルの主君は、ちょっとした知恵を身につけて『改革』をやろうとすると、既存の〈高祖〉的な社会や官僚集団とのあいだに亀裂が生まれる。そういうとき、『主君押し込め』が発動するのが、〈高祖〉モデルである。孫権が執政をすると、やはり『押し込め』が起きた。

原書の江戸時代の話。「主君押し込め」は。

これに懲りて、晩年の孫権は、〈霊帝〉モデルを目指したみたいだが、ハンパなキメラだった。あまり怖くなくなった。」
司馬昭「そもそも呉は、正統性に瑕疵があります。〈霊帝〉モデルを追及しようとすると、どこかがおかしくなる」

いかにして呉を滅ぼすか

曹髦「もしも、呉が〈高祖〉モデルを徹底すると、手ごわいな」
司馬昭「そうとも限りません。これを説明するために、ちょっと議論を迂回してみましょう」
曹髦「許す(司馬昭も、興に乗ってきてくれた)」
司馬昭「かりに、魏に攻めこむという思考実験をしてみましょう。われら魏は、〈霊帝〉モデルを基調としています。〈霊帝〉モデルを滅ぼす場合、どんな戦いになるか」
曹髦「不吉なことをいう」
司馬昭「もしも、都督として揚州を任され、寿春で起兵した場合です」
曹髦「(リアリティがあって、気分が悪いぜ)」

原書222ページ、日中戦争のことをアレンジ。

司馬昭「陛下は、一箇所に留まって、徹底抗戦して、洛陽の城をマクラに討ち死に!をなさいますか」
曹髦「するわけがない」
司馬昭「そうでしょう。比較的(少なくとも同時代の呉に比べれば?)貨幣経済が発達した魏では、ひと・ものの移動が自由です。洛陽にこだわらなくても、どんどん逃げることが可能です」
曹髦「ひとつの城を落としたら終わり、ではない。逃げ回って、徹底抗戦することができる。理念で結びついたネットワークが、この抗戦を可能とする」
司馬昭「もし抗戦が可能になるとすれば、陛下の唱えた〈霊帝〉モデルの賜物です。攻撃する側は、烈祖(曹叡)のとき整備した、さまざまな正統性の論理と、対決せざるを得ない。これを打ち負かすのは、容易ではない」
曹髦「抵抗戦まで持ち込めば、負ける気がしない」
司馬昭「(そう、魏を倒すなら、この方法ではダメなのだ)」

司馬昭「反対に、呉のように〈高祖〉モデルが強い社会では、どうか。ひと・ものの流動性が低いから、逃げ回るのが難しい。主要な都市を奪われると、備蓄をまるごと失う。孫氏が理念を叫んでも、それよりも地域の保全のほうが重要ですから、ぎゃくに官僚層が、孫氏を差し出してくるかも知れない」
曹髦「〈高祖〉モデルだけだと、『持久戦論』が成り立たない」
司馬昭「国を閉ざして、外との交渉を絶っているわけです。もとから、占領軍と戦うように、設計されていません」
曹髦「それなら、占領は楽勝ではないか」
司馬昭「そうとも限りません。長江があり、国境を越えにくいという特徴があります。いままで、呉が存続しているのは、こういう事情によるでしょう」
曹髦「……しょぼん」

司馬昭「今日の呉は、純粋な〈高祖〉モデルではありません。孫権が皇帝を詐称してから、〈霊帝〉モデルを取り入れています。もしも魏に都合よく、歴史の歯車が噛みあえば、〈霊帝〉モデルの弱点である「暴君に郡臣が反発する」と、〈高祖〉モデルの弱点である「国境を突破された途端、自動的に滅びる」が同時に発動して、たちどころに呉が滅亡するのではないでしょうか」
曹髦「ふたつのモデルを『混ぜるな危険』した場合は、そうなる」
司馬昭「その時期を待つべきでしょう」
曹髦「いつだ」
司馬昭「分かりません。タイミングを誤れば、逆のことが起きます。〈高祖〉モデルの利点である「故郷を守るため、国境や首都の守備に力を入れる」と、〈霊帝〉モデルの利点である「理念で結びついた主従が、転戦しながら徹底的に抵抗」が、同時に発動するかも知れません。そしたら、枯れ葉剤を撒くしかありません。当然ながら、魏は輿望を失うでしょう」
曹髦「そんなことは、朕はしない」

蜀漢の政権論

曹髦「蜀賊は、〈高祖〉モデルの劉璋を追放して成立した。前漢の皇族の一族と称した、典型的な〈霊帝〉モデルの国。劉備・諸葛亮は、益州南部を武力制圧した。もはや在地を『手段』としか見ていない。益州のなかでの、ひと・ものの移動を活発にした。搾取ともいう。経済政策にも、積極的で……」
司馬昭「蜀漢の正統性は、妥当性はべつにして、机上の空論としては、よくできている。やつらのいう『先帝』こと劉備は、統合理念の象徴として、うまく神聖化された。出師の表は、悪くなかったと思います」
曹髦「蜀賊のカタをもつのか?」
司馬昭「いいえ、あくまでモデルをつかった分析の話です」
曹髦「劉備が死ぬと、諸葛亮が、ほぼ独断で、人事考課を行っていた。君主による人事権の専断。まさに〈霊帝〉モデル。科挙の殿試みたい

曹髦「諸葛亮の死後、モデルが揺れているだろう。〈高祖〉モデル=既存の1州に固定した保守派が、うまい具合に影響を強めたら……」
司馬昭「例の『混ぜるな危険』の発動ですね」
曹髦「劉禅が窮地に立てば、南方に逃げようという意見が出るだろう。蜀漢バージョンの『持久戦論』である。蜀漢が〈霊帝〉モデルの国家・社会なら、逃亡・抵抗が可能である。しかし、そうはならないだろう」

『陳志』譙周伝をさきどり。さっきから出してる『持久戦論』は毛沢東。

司馬昭「いくら理念だけは立派でも、諸葛亮が死んで時間がたてば、地域の存続を優先した、〈高祖〉モデルとなる。劉璋への回帰ともいえましょう」
曹髦「劉璋は、守備拠点をきちんと持っていたが、成都城に迫られたら、腰砕けのように降伏した。同じことが起こるはずだ」
司馬昭「しかし、蜀地の山岳地を越えることができたら、の場合ですけど」

魏のこれから

司馬昭「話が飛んでしまいましたが、太祖の話に戻りますと、終始一貫して〈霊帝〉モデルを求め続けたという理解でいいですか」
曹髦「モデルとしては、そうだな。決して『冀州藩』であることを、ヨシとしなかった。天下の宰相であることを求めた。しかし、A 権力と権威の一致というのが、〈霊帝〉モデルである。「天下の宰相」というのは、長く続けられる立場ではない」
司馬昭「どうしてですか」
曹髦「権威=献帝、権力=太祖という二重性では、〈高祖〉モデルになってしまう。つまり、魏の君臣とも、漢魏革命を避けることができなかった」
司馬昭「つまり末期の太祖は、選択肢が2つしかなかった。
①〈霊帝〉モデルを貫き、漢魏革命によって天下統一を目指す
②〈高祖〉モデルに転じ、最大の「地方政権」の維持管理者となる」

曹髦「もうひとつ。③:モデルと実態のツジツマが遭わなくなり、政権が滅ぶ。これには、2つのパターンがあるだろう。③の1:漢魏革命によって皇帝になりながら、最大の「地方政権」に甘んじる。もしくは、③の2:漢を存続させながら、天下統一をめざす。いずれもミスマッチで、うまくいかないだろう」
司馬昭「モデルと実態の不整合が、臨界点に達したのが……」
曹髦「太祖の没年のころだと思っている」

司馬昭「魏は、これからどうなるのですか」
曹髦「(説明責任などないのだが、せっかくなので話しながら考えてみよう)この魏は、〈霊帝〉モデルの国家である。もし不徹底があれば、それを是正していきたい。〈高祖〉モデルを基調とした呉は、赤壁の戦い(208) ~孫権の皇帝即位(229)までの 約20年間、もっとも国力が充実した。〈霊帝〉モデルを基調とした蜀漢は、理念を掲げた漢中王即位(219) ~諸葛亮の死没(234) までの 約15年間、もっとも国力が充実した。これ以後、呉は、望みもしなかった君主万能の〈霊帝〉モデルに流れ、ぎゃくに蜀は、望みもしなかった地域政権の〈高祖〉モデルに流れた。このようなミスマッチは、亡国の原因となる」
司馬昭「いまの魏は……」
曹髦「州大中正は、〈霊帝〉モデルのジャマである。また、宰相が世襲するのも、〈霊帝〉モデルのジャマである。もちろん、皇族には最小限の封地しか与えない。権威=権力=朕が、直属軍をひきいて、呉蜀を攻め滅ぼす

州大中正は、司馬懿がつくった。宰相の世襲は、司馬懿・司馬師・司馬昭。大将軍として軍権をもっているのは、司馬昭。すべて司馬昭と対立してしまう。

司馬昭「……」

魏晋革命を、「司馬懿の寝技のおかげ」とか、「曹氏の皇帝の幼弱」に求めるのではなくて、モデルとモデルの衝突、文明の衝突(@ハンチントン)として捉えられないか。魏晋革命ののち、孫呉の存続を、重臣たちが容認する。魏ではあり得ないこと。しかし西晋は〈高祖〉モデルだから、天下統一していないことが、必ずしも瑕疵ではない。とか、考えています。160525

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