孫呉 > 『呉志』巻十五を読む

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会稽南部都尉・新都太守、賀斉伝

劉咸キはいう。この『呉志』巻十五は、東南の蛮族を平定したひと。『蜀志』では、李恢・呂凱・馬忠・張嶷が、同じような人々である。

会稽の賀氏

賀齊、字公苗、會稽山陰人也。
虞預晉書曰。賀氏本姓慶氏。齊伯父純、儒學有重名、漢安帝時爲侍中、江夏太守、去官、與江夏黃瓊、(漢中)[廣漢]楊厚俱公車徵。避安帝父孝德皇(帝)諱、改爲賀氏。齊父輔、永寧長。

賀斉は、あざなを公苗といい、会稽の山陰のひと。

山陰は、孫堅伝にみえる。

虞預『晋書』はいう。賀氏は、本姓は慶氏である。賀斉の伯父の慶純は、儒学にて重名あり。漢安帝のとき、侍中・江夏太守となる。官を去り、江夏の黃瓊・広漢の楊厚とともに、公車徵された。安帝の父である孝德皇(劉慶)の諱を避けて、

潘眉はいう楊厚は「広漢」のひと。『范書』で、広漢の新都のひととある。『蜀志』周羣伝に、周舒が術(術数学?)を広漢の楊厚に学んだとある。
官本『考証』はいう。「孝徳皇」が正しいので、「帝」の字は誤って増やされた。
「公車徴」は『范書』朱儁伝にあった。公車は、洛陽南闕門のことで、皇帝による察挙である「公車徴」を受けた人物が至る場所であった。

賀氏に改めた。賀斉の父の賀輔は、永寧長となる。

『范書』黄瓊伝・李固伝に、賀純の名が見える。
李賢注にひく謝承『後漢書』はいう。純字仲真,會稽山陰人。少為諸生,博極羣蓺。十辟公府,三舉賢良方正,五徵博士,四公車徵,皆不就。後徵拜議郎,數陳灾異,上便宜數百事,多見省納。遷江夏太守と。
『晋書』賀純伝はいう。賀純はあざなを彦先といい、会稽山陰のひと。祖先の慶普は、漢世に『礼』を伝え、世に「慶氏学」といわれる。賀純の高祖父の賀純は、博学で重名あり。曽祖父の賀斉は、呉の名将となる。祖父の賀景は、滅賊校尉となる。父の賀邵は中書令となり、孫晧に殺され、家族は辺郡に徙された。


賀斉が令長をする

少爲郡吏、守剡長。縣吏斯從、輕俠爲姦、齊欲治之、主簿諫曰「從、縣大族、山越所附、今日治之、明日寇至」齊聞大怒、便立斬從。從族黨遂相糾合、衆千餘人、舉兵攻縣。齊、率吏民、開城門突擊、大破之、威震山越。後、太末、豐浦、民反。轉、守太末長、誅惡養善、期月盡平。

少きとき郡吏となり、剡長を守す。県吏の斯従は、輕俠で姦をなすから、賀斉はこれを治し(取り締まり)たい。

『郡国志』に、会稽郡の「剡県」がある。潘眉はいう。東海郡の「郯県」とは異なる。
官本『考証』はいう。『御覧』では、「斯従」を「期従」につくるが誤り。「斯従」で、姓+名である。

主簿は諌めた。「斯従は、県の大族で、山越に頼られている。今日 治しても、明日には寇する」と。賀斉は大怒し、すぐに斯従を斬った。斯従の族党が糾合、衆は1千余人。兵を挙げて県を攻めた。賀斉は吏民をひきい、城門を開いて突撃し、おおいに破った。賀斉の威は、山越を震わせた。

ぼくは思う。後漢では、山越につながる「大族」が県吏を送りこみ、私的な政治をおこなった。これで、うまく回っていた。賀斉はそれを許さない。敢えて空気を読まず、慣例を無視してまで、漢族のルールを徹底する。

のちに、太末・豊浦の民が反した。転じて、賀斉が太末長を守し、悪を誅し善を養い、1ヶ月で尽く平らいだ。

太末は、虞翻伝にみえる。漢代・晋代に豊浦県がない。郡国志の太末県の劉昭注に、「建安四年、孫氏は太末県を分けて豊安県を置く」とある。『沈志』では、東陽郡の豊安県は、興平二年、孫氏が諸キを分けて立てたとある。銭大昕は、どちらが正しいか分からない。
『一統志』はいう。豊安は廃県であり、浙江の金華府の浦江県の西南にある。後世の豊安・浦陽は、漢末の豊浦県にゆらいするか。地理的に、太末と諸キの間と思われるが、地志からは明らかでない。



賀斉が孫策に仕える

建安元年、孫策臨郡、察齊孝廉。時、王朗奔東冶、候官長商升、爲朗起兵。策、遣永寧長韓晏、領南部都尉、將兵討升。以齊、爲永寧長。晏爲升所敗、齊又代晏領都尉事。升畏齊威名、遣使乞盟。齊、因告喻、爲陳禍福。升、遂送上印綬、出舍求降。賊帥張雅、詹彊等、不願升降、反、共殺升。雅、稱無上將軍。彊、稱會稽太守。賊盛、兵少、未足以討、齊住軍息兵。雅、與女壻何雄、爭勢兩乖。齊、令越人、因事交構、遂致疑隙、阻兵相圖。齊、乃進討、一戰大破。雅彊黨、震懼、率衆出降。

建安元年、孫策が会稽郡に臨み、賀斉を孝廉に察す。ときに王朗は東冶に奔り、候官長の商升は、王朗に味方して起兵した。孫策は、永寧長の韓晏に南部都尉を領させ、商升を討つ。賀斉は(韓晏の後任として)永寧長となる。韓晏が商升に敗れると、賀斉は韓晏に代わり都尉事を領した。商升は賀斉の威名を畏れ、使者をやり盟を乞う。賀斉は禍福を説いた。

侯官は虞翻伝にみえる。韓晏・賀斉が、孫策に任じられたのは、会稽南部都尉である。会稽南部都尉とは、建安郡のこと。孫権伝 赤烏二年にみえる。
ぼくは思う。なぜ賀斉は孫策に味方したのか。山越を討伐し、彼らの独自の利権を粉砕する!という、武闘派なところに共感したのでしょう。「禍福を説く」セリフの中身を考えるのは、楽しそうだ。

商升は印綬を送ってきて、降伏を求めた。賊帥のい張雅・詹彊らは、商升が降るのに反対して、商升を殺した。張雅は「無上将軍」、詹彊は「会稽太守」を称した。賊が盛んで、賀斉は兵が少なくて討てない。賀斉は軍を止めて兵を休ます。張雅は、女壻の何雄とライバル関係。賀斉は越人に内紛をあおらせ、一戦して大いに破った。張雅・詹彊の党は震懼し、衆を率いて出で降る。

王朗をかばった侯官県を平定する話でした。勝利の要因は、反乱者のライバル関係に漬けこんだこと。


賀斉が孫権に仕える

候官既平、而建安、漢興、南平、復亂。齊、進兵建安、立都尉府。是歲八年也。郡發屬縣五千兵、各使本縣長、將之、皆受齊節度。賊、洪明、洪進、苑御、吳免、華當等、五人、率各萬戶、連屯漢興。吳五、六千戶別屯大潭。鄒臨、六千戶別屯蓋竹。大潭、同出餘汗。軍、討漢興、經餘汗。

候官が平らぐと、建安・漢興・南平がふたたび乱れた。

建安県は、孫権伝 赤烏二年に。胡三省はいう。建安は、もとは冶県の地。会稽南部都尉の治所である。建安期、東侯官を分けて、建安県をおく。沈約はいう。建安県は漢末に立てられ、呉は「呉興」と改めた。南平県もまた漢末に立てられ、司馬炎が平呉すると「延平」と改称された。いずれも会稽南部都尉に属する。銭大昕はいう。漢興は呉興となったが、ここの呉興とは別である。烏程の呉興ではない。

賀斉は建安県に兵を進め、都尉府を立てた。建安八年(203) のこと。

洪亮吉はいう。会稽南部都尉府は、建安八年に置かれ、永安三年(260) に廃した。盧弼が考えるに、都尉府から建安郡となった。謝鍾英はいう。都尉府は、『寰宇記』によると建安県の東南3百里にある。

会稽郡は属県から兵5千を発し、おのおの(兵を発した県の)県長がひきい、賀斉の節度を受けた。賊の洪明・洪進・苑御・呉免・華當ら5人は、それぞれ1万戸をひきい、漢興県に屯を連ねる。呉五は6千戸をひきい、別に大潭に屯す。

呉五は、姓が呉、名が五である。日本語では「ごご」、現代中国語でも「wu2wu3」となる。呉氏の五男くらいの意味か。
『一統志』によると、大潭は、閩越王が築城して漢を拒んだところ。『方輿紀要』九十七によると、大潭山は、山勢が盤屈する。こわいなー。

鄒臨は、6千戸で別に蓋竹に屯し(呉五とともに)餘汗に出る。

『一統志』によると、蓋竹鎮は、険要県の南25里である。
原文の2回目の「大潭」を何焯が衍字とする。ぼくの抄訳も従った。
謝鍾英はいう。地理的には「余汗」とは、建寧府の松渓県の西であり、鄱陽郡の余汗県ではない。

賀斉は進軍して、漢興を討ち、餘汗を経る。

齊以爲、賊衆兵少、深入無繼、恐爲所斷、令松陽長丁蕃、留備餘汗。蕃、本與齊鄰城、恥見部伍、辭、不肯留。齊、乃斬蕃。於是、軍中震慄、無不用命。遂、分兵留備、進討明等、連大破之。臨陳斬明、其免、當、進、御、皆降。轉、擊蓋竹。軍向大潭、三將又降。凡討治斬首六千級、名帥盡禽。復立縣邑、料出兵萬人。拜爲平東校尉。十年、轉討上饒、分以爲建平縣。

賀斉は、賊兵がおおく自軍は少ないから、深入りしたら断たれることを恐れ、松陽長の丁蕃を余汗に留めて備えた。

松陽は孫晧伝 天紀四年にある。潘眉はいう。「陽松」は『晋書』『宋書』は「松陽」につくる。李吉甫はいう。県に大きな松樹があり、名となる。のちに章安県を分けて立てた。ときに賀斉が永寧長で、永寧もまた章安県を分けて立てた。だから隣の城だと。

丁蕃は、もとは賀斉と隣城で(対等な令長だったのに)賀斉に部伍されるのを恥じ、(賀斉の命令を)断って留まらず。賀斉は丁蕃を斬った。

ぼくは思う。丁蕃は出身地が書かれないが、呉臣に同族がいそう。孫策・孫権が急速に力を持ち、積極的な登用をするから、こういう嫉妬心・対抗意識により、揚州の各地で摩擦が起きたのかも知れない。

軍中は震慄し、賀斉の命令は徹底された。賀斉は(当初の命令どおり)兵を分けて留備し、進んで洪明らを討ち、連りに大破した。陳に臨みて洪明を斬り、呉免・華當・洪進・苑御は降る。転じて蓋竹を撃ち、軍を大潭に向け、3将もまた降った。

陳浩はいう。「2将」とすべきか。大潭・蓋竹にいるのは、呉五・鄒臨のふたり。

討治して斬首6千級、名帥は尽く禽えた。ふたたび県邑を立て(統治機構を再建し、平定した地域から)兵1万を出させた。平東校尉を拝す。建安十年(205) 転じて上饒県を討ち、分けて建平県を立てた。

上饒・建平は、孫権伝 建安十年にある。


建安十三年~

十三年遷威武中郎將、討、丹陽、黟、歙。時、武彊、葉鄉、東陽、豐浦、四鄉先降。齊表言、以葉鄉爲始新縣。而、歙賊帥金奇、萬戶屯安勒山。毛甘、萬戶屯烏聊山。黟帥陳僕、祖山等、二萬戶屯林歷山。林歷山、四面壁立、高數十丈、徑路危狹、不容刀楯、賊臨高下石、不可得攻。

建安十三年(208) 威武中郎將に遷り、丹陽・黟県・歙県を討つ。

威武中郎將は1名、呉が置く。丹陽・黟県・歙県は孫策伝に。

ときに武彊・葉郷・東陽・豊浦の4郷が、先に降った。賀斉は表して、葉郷を始新県とした。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻九十によると、厳州府の淳安県は、漢の丹陽郡の歙県の葉郷の地である。呉が始新県をおき、新都の郡治とした。『水経』漸水注に、始新の府は、歙の華郷にあり、華郷とは葉郷であると。盧弼はいう。葉郷を始新と改名し、新都の郡治としたのは、孫権伝 建安十三年にみえる。東陽郡は、孫晧伝 宝鼎元年にあり、豊浦は前にみゆ。

しかし歙県の賊帥の金奇は、1万戸で安勒山に屯す。毛甘は、1万戸で烏聊山に屯す。黟県の帥の陳僕・祖山らは、2万戸で林歴山に屯す。林歴山は、四面に壁が立ち、高さ数十丈、経路は危狹で、刀楯を容れず、賊は高みに臨んで石を落とし(賀斉が)攻められない。

軍住經日、將吏患之。齊、身出周行、觀視形便、陰募輕捷士、爲作鐵弋。密於隱險賊所不備處、以弋拓斬山爲緣道、夜令潛上、乃多縣布、以援下人、得上百數人、四面流布、俱鳴鼓角。齊、勒兵、待之。賊夜聞、鼓聲四合、謂、大軍悉已得上。驚懼惑亂、不知所爲、守路備險者、皆走還依衆。大軍、因是得上、大破僕等。其餘皆降、凡斬首七千。

趙一清はいう。『郡国志』にひく『魏氏春秋』によると、歙県には安勒山・烏邪山がある。黟県には林歴山がある。烏邪山とは(賀斉伝にある)烏聊山である。

軍は数日とどまり、將吏は患う。賀斉は自ら周行し、形便を観視し、ひそかに軽捷の士を募り、鉄弋(ハーケン?)を作る。

ハーケンというのは、ちくま訳より。『三国志集解』にも注釈があるが、よく分からず。

ひそかに険の賊が備えぬところに隠れ、鉄弋で山を拓斬して縁道をつくり、夜にひそかに登らせ、布をかけて、したの人の登山を助け、1百人が登れた。四面に流布し、一斉に鼓角を鳴した。賀斉は兵を勒して待つ。賊は夜に鼓聲の四合するを聞きき、大軍がすべて山に登ったと思った。驚懼し惑乱し、路を守り険に備えるものは、みなにげて衆に依る。(険地の守備が解除されたから)大軍は登山でき、おおいに陳僕らを破る。残りは降り、斬首すること7千。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻七十に、柵源は、淳安県の東北40里にある。賀斉が山越と戦い、ここに柵を樹てた。


抱朴子曰。昔吳遣賀將軍討山賊、賊中有善禁者、每當交戰、官軍刀劍不得拔、弓弩射矢皆還自向、輒致不利。賀將軍長情有思、乃曰「吾聞金有刃者可禁、蟲有毒者可禁、其無刃之物、無毒之蟲、則不可禁。彼必是能禁吾兵者也、必不能禁無刃物矣。」乃多作勁木白棓、選有力精卒五千人爲先登、盡捉棓。彼山賊恃其有善禁者、了不嚴備。於是官軍以白棓擊之、彼禁者果不復行、所擊殺者萬計。

『抱朴子』はいう。呉の賀斉が山賊を討つとき、賊中に「禁を善くする」者あり。

裴注の位置より、これはハーケンで山を登ったときの話。『水経』漸水注に一連の話として書かれる(裴注の位置に基づき、『水経』が書かれただけかも)
「禁を善くする」は、ちくま訳は、ものの力の発動を禁じる術。盧弼はとくに解説せず。『水経』漸水注に「気 禁じて行はれず」とあるが、『抱朴子』の要約か。

官軍は刀剣が抜けず、弓弩は矢を射ると、自分のほうに向かう。賀斉は長情して思い、「聞けば金属は刃があるから禁じ、蟲は毒があるから禁じることができると。刃のない刀・毒のない蟲なら、禁じられない。刃のない武器で戦えば、禁じられまい」と。つよい(固い)木で白棓(白棒)をつくり、力精の卒5千人を選び、先に登った。山賊は、禁を善くすることに恃み、厳備しない。官軍が白棒で撃つと、禁ずる者はうまくゆかず、1万を撃ち殺した。

齊復表、分歙爲新定、黎陽、休陽。幷、黟、歙、凡六縣。權、遂割爲新都郡、齊爲太守、立府於始新、加偏將軍。

賀斉はふたたび表して、歙県を分けて、新定・黎陽・休陽県をつくる。黟県・歙県とあわせ、ぜんぶで6県。

新定・黎陽・休陽は、いずれも孫権伝 建安十三年。
胡三省はいう。孫権は歙県を分け、始新・新定・休陽・黎陽をつくり、黟県とともに6県で新都郡をおく。西晋の太康元年、新安郡と改む。唐は睦州、宋は徽州とする。
ぼくは思う。これは「漢代の秩序の回復」ではなく、開拓そのもの。下の地図で「休陽」を「海陽」にしてしまった。また確認します。

孫権は新都郡をつくり、賀斉を太守とし、郡府を始新に立て、偏將軍を加えた。

孫策のとき、臨時で会稽南部都尉の仕事を任され、各地を平定した。会稽太守そのものは、孫策・孫権のポストだから、もらえない。ついに、自分で平定した地域に、1郡を立てて、そこの太守となった。



建安十六年~

十六年吳郡餘杭民郎稚、合宗、起賊、復數千人。齊、出討之、卽復破稚。表言、分餘杭爲臨水縣。被命詣所在、及當還郡、權出祖道、作樂舞象。賜齊、軿車駿馬。罷坐、住駕、使齊就車。齊辭不敢、權使左右扶齊上車、令導吏卒兵騎、如在郡儀。權、望之笑曰「人當努力。非積行累勤、此不可得」去百餘步、乃旋。

建安十六年(211) 呉郡の余杭の民である郎稚が宗を合わせ賊を起こし、数千人。賀斉が出て討ち破る。

余杭は孫策伝に。趙一清はいう。「宗」とは、宗賊のこと。宗賊(もとから賊の集団)を合わせたのだ。『范書』劉表伝の李賢注に「宗党がみんなで賊となった」と解釈があるが、誤りである。ぼくは思う。民が宗族を合わせても、それほど強そうではないし。

表して、餘杭を分けて臨水県をつくった。

裴松之はいう。『呉録』によると、晋は臨水県を臨安県に改めた。
臨水は、孫晧伝 宝鼎元年にある。

賀斉が命を受けて、孫権のところ(秣陵)から(新都)郡に還るとき、

孫権伝に、建安十六年、孫権は秣陵に徙るとある。

孫権は出で祖道し、楽舞象をなす。賀斉に軿車・駿馬を賜る。座を罷め、賀を住め、賀斉に乗車させようとする。賀斉が辞すが、孫権が左右にかつがせ賀斉を乗車させた。吏卒・兵騎を導くこと、郡に在るときの儀の如くす。

賀斉は孫権のいないところで、豪華な車馬で、帝王のように威儀を振るっていた。それを孫権が、彼自身の前で再現させた。こういう豪華なハッタリも、異文化・異民族を圧倒するときは、有効であろう。ただのゼイタクではない。

孫権は、これを望んで笑い、「人は力に努むべし。行を積ね勤を累ねずんば(賀斉のように豪華に)できん」と。賀斉が1百歩ゆくと、孫権は旋した。

賀斉を遠くからながめて(望んで)感歎するのは、いま見送る孫権と、洞口で戦った曹休。「豪華な船がきた、追撃はムリだ」と言ったことになっている。マジか。


吳書曰。權謂齊曰「今定天下、都中國、使殊俗貢珍、狡獸卒舞、非君誰與?」齊曰「殿下以神武應期、廓開王業、臣幸遭際會、得驅馳風塵之下、佐助末行、效鷹犬之用、臣之願也。若殊俗貢珍、狡獸率舞、宜在聖德、非臣所能。」

『呉書』はいう。孫権は賀斉に、「天下を定め、中国を都とし、殊なる俗に珍を貢がせ、狡獣に(相ひ)率いて舞わせるのは、キミとでなければ、ほかに誰であろうか」と。賀斉「殿下は神武を以て期に応じ、王業を廓開す。もし殊なる俗が珍を貢し、狡獣が舞うなら、あなたの聖徳のおかげ。私の能ではない」

『尚書』益稷辺に「百獣 率いて舞う」とある。『正義』によると、鳥獣までが徳に感じ、上下関係を決めて、仲よく暮らす様子。
ちくま訳は「狡獣」にこだわり、「馴れにくい獣」とする。いちばん獰猛そうな獣ですら、孫権の徳に感応して、秩序を守りながら、舞をするという。
ぼくは思う。異俗の珍品は、のちに孫権が曹丕に献上して、政治の道具につかう。建安十一年、つまり赤壁が終わり、劉備に荊州を貸して……、と魯粛の「呉帝」路線が軌道に乗ったころである。こういう会話があっても、よさそう。


十八年豫章東部民、彭材、李玉、王海等、起爲賊亂、衆萬餘人。齊討平之、誅其首惡、餘皆降服。揀其精健爲兵、次爲縣戶。遷奮武將軍。

建安十八年、豫章の東部の民である彭材・李玉・王海らは、起ちて賊乱をなし、衆は1万余人。賀斉が討平し、首悪を誅し、のこりは降服した。精健なものを選んで兵とし、次ぐものを県戸とした。奮武將軍に遷る。

ぼくは思う。賀斉伝は、いやに年表がキッチリしている。ほかの呉臣の列伝(とくに武将系)は、年代が不明だったり、記述が前後したりする。賀斉の事績に関する、まとまった記録があったのか。民の反乱は、因果・前後関係がなく、スタンド・アロンだから、紀年がないと、本当にいつ起きたか不明となる。


建安二十年、合肥の戦い

二十年、從權征合肥。時、城中出戰。徐盛、被創、失矛。齊、中兵拒擊、得盛所失。

建安二十年、孫権に従って合肥に征く。ときに城中(の張遼が)出て戦う。徐盛はキズつき、矛(矛ではなく牙旗か)を失った。賀斉は、兵にあたって拒ぎ撃ち、徐盛の失せものを得た。

官本『考証』はいう。『御覧』はここを引き、徐盛が『牙』を失い、賀斉が取り戻したとする。潘眉はいう。『御覧』では「牙」部に入っており、「矛」部に入っていない。「牙」が正しく、「矛」とするのは誤り。趙一清はいう。「牙」とは牙旗である。孫権が黄龍の大牙(おおきな旗)をつくったのは、胡綜伝にみえる。
陳武伝はいう。宋謙・徐盛の部隊は逃げた。潘璋は後列におり、馳せ進み、馬を横にして(道を塞ぎ)宋謙・徐盛の逃兵を2人を斬ったと。ぼくは思う。つまり、徐盛軍は崩れて、旗すら捨てて逃げた。賀斉は落ちついて、それを奪還したと。潘璋のように兵を斬って「戦え」と叱咤・脅迫しないが、賀斉は戦場をよく見ていた。


江表傳曰。權征合肥還、爲張遼所掩襲於津北、幾至危殆。齊時率三千兵在津南迎權。權既入大船、會諸將飲宴、齊下席涕泣而言曰「至尊人主、常當持重。今日之事、幾至禍敗、羣下震怖、若無天地、願以此爲終身誡。」權自前收其淚曰「大慚!謹以尅心、非但書諸紳也。」

『江表伝』はいう。孫権は、張遼に逍遙津で襲われ、死にかけた。賀斉は3千の兵で、津の南で孫権を迎えた。孫権は大船に乗ると、諸将と飲宴した。賀斉は席をおりて涕泣した。「孫権が死にかけて、天地がなくなるかと思った」と。孫権はすすんで、賀斉の涙をぬぐい「大慚なり。謹んで以て心に尅まん。但だ紳(おび)に書すのみにあらず」

胡三省はいう。孫権は大いに慚じて(迎えに来てくれた)賀斉に謝した。ぼくは思う。つぎの曹休との戦いでも、賀斉は遅れて大船を率いて現れ、敗軍を収容する。後方で船団を管理するひとなのか、曹休の話にかこつけ、『江表伝』が創作したのか。ともあれ、「張遼から逃げて、ひと心地ついた孫権」というのは、物語的には需要がある気がします。
胡三省はいう。『論語』で、紳(大帯)に書すことが出てくる。つねに身につけるものにメモったら、忘れない。


二十一年鄱陽民尤突、受曹公印綬、化民爲賊。陵陽、始安、涇縣、皆與突相應。齊、與陸遜、討破突、斬首數千。餘黨震服、丹楊三縣皆降、料得精兵八千人。拜安東將軍、封山陰侯、出鎭江上、督扶州以上至皖。

建安二十一年、鄱陽の民の尤突が、曹公の印綬を受け、民を化して賊となす。陵陽・始安 安呉・涇県(いずれも丹陽郡)は、みな尤突に応ず。

ぼくは思う。合肥の翌年に、曹操が工作をしてるのがおもしろい。
陵陽・始安・涇県は、いずれも孫策伝にみえる。
梁商鉅はいう。始安県は、もとは零陵郡に属する。呉領となり、甘露元年に始安県と改められた。ここで始安と書くのは(まだ)おかしく、鄱陽とも近くない。洪亮吉の記す丹陽16県にも、始安はない。程普伝に「宣城・涇県・安呉・陵陽・春穀の諸族を討つ」とある。『州郡志』によると、安呉は呉が立てた県。『一統志』によると涇県の西南に安呉県がある。始安は安呉とすべきか。こうすれば、すべて丹陽に属する。

賀斉は陸遜とともに、尤突を討破し、斬首すること数千。のこりは震服し、丹楊の3県は降り、精兵8千人を得る。

陸遜伝で、尤突のことより後に、「丹楊の賊帥である費棧が、曹操から印綬を受けて、山越を扇動し(曹操に)内応した」とある。曹操が丹陽に印綬をくばるのは、建安二十一年より後も続けられたか。

安東將軍を拝し、山陰侯に封ぜられ、(建安二十四年?)出て江上に鎮し、扶州より以上、皖に至るまでを督す。

扶州は呂範伝に:『呉志』巻十一:洞浦で曹休をふせぐ、呂範伝
皖県は孫堅伝に。呂範は丹陽太守となり、建業を治所とし、(建安二十四年に関羽を討った後)扶州より以下、海に至るまでを督した。つまり、荊州に領土が広がったことを受け扶州を境界として、呂範・賀斉が、それぞれ揚州を管轄した。


洞口を曹休から守る

黃武初、魏使曹休來伐。齊、以道遠後至、因住新市爲拒。會洞口諸軍遭風流溺、所亡中分、將士失色。賴齊未濟偏軍獨全、諸將倚以爲勢。

黄武初(222) 魏の曹休が来伐した。賀斉は、道が遠くて遅れたから、新市に止まって拒ぐ。洞口の諸軍が風に遭って流溺し、半数を亡くし、将士は色を失った。

洞口は『魏志』曹休伝。
洞口で大敗するのは、呂範伝:洞浦で曹休をふせぐ、呂範伝

賀斉がまだ渡っていないから、(風で大半が壊滅した)軍は、賀斉の船に救われた。諸将はもりかえした。

ぼくは思う。風というのは「公式見解」であり、実態は呉軍が大敗した。賀斉が後方にいて、魏軍からの攻撃を免れたから、兵たちはこれに乗って逃げたのだろう。賀斉が「新手」として参戦し、全滅を免れたのだろう。


齊、性奢綺、尤好軍事。兵甲器械、極爲精好。所乘船雕刻丹鏤、青蓋絳襜、干櫓戈矛葩瓜文畫、弓弩矢箭咸取上材、蒙衝鬭艦之屬望之若山。休等憚之、遂引軍還。遷後將軍、假節領徐州牧。

賀斉は、性は奢綺で、軍事を好む。兵甲・器械は、精好をきわむ。乘船は雕刻・丹鏤し、青蓋は絳襜で、干櫓・戈矛は、葩瓜を描き、弓弩・矢箭は上材をつかい、蒙衝・闘艦は、遠くから望むと山みたい。曹休らは(賀斉の船の派手さを)憚り、ついに軍を還した。

曹休の撤退の理由は、これではなかろう。賀斉の性癖について書きたいが、批判になっては困る(賀氏は子孫も栄えた)。だから、「曹休をビビらせた」というプラスの描写として、この記述を強引に入れたか。

後将軍に遷り、假節し徐州牧を領す。

晋宗を生け捕る

初、晉宗、爲戲口將、以衆叛如魏。還爲蘄春太守、圖襲安樂、取其保質。權、以爲恥忿、因軍初罷、六月盛夏、出其不意。詔齊、督麋芳、鮮于丹等、襲蘄春、遂生虜宗。後四年卒、子達及弟景皆有令名、爲佳將。

はじめ晋宗は、戲口の守将であったが、衆をつれて叛し、魏にゆく。還って(魏の地方官として呉の国境に赴任し)蘄春太守となる。安楽(武昌県)を襲って、保質を取りたい。孫権は(裏切り者の晋宗に)恥忿した。初めて(曹休との戦いが終わり)軍を罷めたので、六月の盛夏に、晋宗の不意を攻めたい。賀斉に詔して、麋芳・鮮于丹らを督して、蘄春を襲い、晋宗を生け捕った。

孫権伝 黄武二年と、胡綜伝に見える。
ぼくは思う。蜀を裏切ったあとの麋芳は、仕事が1つだけ。ここ賀斉伝のみ。呉を裏切って魏に従った晋宗を、賀斉の指揮のもとで生け捕りにする仕事。裏切り者が、裏切り者をしばくという。あとは、虞翻伝でケンカするだけ。

四年後(黄武六年 226) 賀斉は卒した。子の賀達および弟の賀景も、令名があり、佳将であった。

會稽典錄曰。景爲滅賊校尉、御衆嚴而有恩、兵器精飾、爲當時冠絕、早卒。達頗任氣、多所犯迕、故雖有征戰之勞、而爵位不至、然輕財貴義、膽烈過人。子質、位至虎牙將軍。景子邵、別有傳。

『会稽典録』は、賀斉の子弟について記す。160619

趙一清はいう。末尾の「賀邵はべつに列伝あり」は、『会稽典録』ではなく陳寿の本文である。

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東安太守、孫魯班の夫、全琮伝

この巻は、山越の討伐をしたひとたち。山越を討伐したときの、主要な肩書きを、ワクのタイトルにしてます。

全琮の父・全柔伝

全琮、字子璜、吳郡錢唐人也。父柔、漢靈帝時舉孝廉、補尚書郎右丞。董卓之亂、棄官歸、州辟別駕從事。詔書就拜、會稽東部都尉。孫策到吳、柔舉兵先附、策表柔爲丹楊都尉。

全琮は、あざなを子璜、呉郡の銭唐のひと。父の全柔は、霊帝期に孝廉に挙げられ、尚書郎右丞に補せらる。

銭唐は孫堅伝に。ぼくは思う。全琮は198年生まれらしいので、孫堅の海賊エピソードに、絡ませることができない。
『続百官志』はいう。尚書左右丞は1名ずつ、4百石。『魏志』武帝紀 建安十八年の注に、尚書左丞の潘勗がある。全琮伝は「尚書郎右丞」でなく、「尚書右丞」にすべきか。趙一清は全琮伝に脱誤ありとする。

董卓の乱で、官位を棄てて揚州に帰る。州は別駕從事に辟した。

揚州刺史は、袁紹・袁術の争奪によって、コロコロ変わる。全柔を辟した刺史はだれか。特定は、ほぼムリか。ともあれ、董卓の乱による「遠心力」により、地方に人材が散らばり、地方長官が有為な人材を使えるようになったのは、大切なこと。

詔書により官職を受け、全柔は会稽東部都尉となる。

会稽太守の王朗のころである。賀斉は、孫策がきてから会稽郡に仕え、会稽南部都尉となった。その点で、全柔のほうが早い。
会稽東部都尉は、張紘伝にみえる。

孫策が呉に到ると、全柔は兵を挙げて先附した。

賀斉も全柔も、孫策がくると「大歓迎!」という。おそらくウソ。新興の侵略者・袁術の手先の孫策に、従うべきか、拒んで殺されるか、と悩んだはずだが、『呉志』が省いた。全柔は、その判断が早かったから「先に付す」と記された。

孫策は(曹操に)表して、全柔を丹楊都尉とした。

賀斉は、孫策に仕えた直後、令長となる。令長として実績があったし、逆にそれしかない。全柔は、霊帝期に中央で官僚をしている。どちらかというと、王朗・華歆に近い。だから、初めから郡の都尉である。/つぎから、子の全琮の話が始まる。


呉に亡命した士大夫を養う

孫權爲車騎將軍、以柔爲長史、徙桂陽太守。柔嘗使琮、齎米數千斛到吳、有所市易。琮至、皆散用、空船而還。柔大怒、琮頓首曰「愚以、所市非急、而士大夫方有倒縣之患。故便振贍、不及啓報」柔、更以奇之。

孫権が車騎将軍となると、全柔を長史とし、桂陽太守に徙す。
かつて全柔は全琮に、米を数千斛(銭唐から?)呉県に運んで売らせた。全琮は呉に到ると、みな散用し、船をカラにして還った。全柔が大怒すると、全琮は頓首した。「米をカネに代え、買い物をするのは緊急ではないと思いました。だが(呉郡に避難してきた)士大夫は、倒縣之患にあり(困窮している)。ゆえに(言いつけに背き)振給しました」と。全柔は更めて奇とした。

徐衆評曰。禮、子事父無私財、又不敢私施、所以避尊上也。棄命專財而以邀名、未盡父子之禮。 臣松之以爲子路問「聞斯行諸」?子曰「有父兄在」。琮輒散父財、誠非子道、然士類縣命、憂在朝夕、權其輕重、以先人急、斯亦馮煖市義、汲黯振救之類、全謂邀名、或負其心。

徐衆は全琮を批判し、裴松之は弁護する。はぶく。

是時、中州士人、避亂而南、依琮居者以百數。琮、傾家給濟、與共有無、遂顯名遠近。後權以爲奮威校尉、授兵數千人、使討山越。因開募召、得精兵萬餘人、出屯牛渚、稍遷偏將軍。

このとき中原の士人は、乱を南に避け、全琮に依って暮らすものは百を数えた。全琮は、家を傾け給済し、持てるものを共用し、名を遠近に顕した。

時期を書いていないが、210年代ごろか。
全柔のコメ(を売ったカネ)を寄付してしまったことは、父と子の規律ではなく、当時の呉地の状況を、全琮が的確につかんだ話として読むべきか。中原から避難した人々は、当然ながら経済基盤がない。だれかが、彼らを養わないと、孫権集団は名士を抱えられない。

のちに孫権は、全琮を奮威校尉とし、兵数千を授け、山越を討たしむ。兵を募召し、精兵1万余人をえた。牛渚に屯し、ようやく偏將軍に遷る。

奮威校尉は1名、呉がおく。牛渚は孫策伝にみえる。


蜀・魏と戦う

建安二十四年、劉備將關羽圍樊、襄陽。琮上疏陳、羽可討之計。權、時已與呂蒙陰議襲之、恐事泄、故寢琮表、不答。及禽羽、權置酒公安、顧謂琮曰「君前陳此、孤雖不相答。今日之捷、抑亦君之功也」於是封陽華亭侯。

建安二十四年、関羽が樊城・襄陽を囲むと、全琮は上疏して、関羽を討つ計を陳べた。孫権は、すでに呂蒙と計画を進めており、世にモレるのを恐れ、全琮の上表に答えなかった。

劉備と荊州を分割したとき、全琮は桂陽太守である。荊州にいるから、見えてくる関羽の弱点があるのだろう。この期間、動きが記されない。ずっと桂陽郡にいて、劉備・関羽をふせいでいたのでは。

孫権を捕らえると、孫権は公安で置酒し、「今日の勝利は、全琮の功績でもある」という。陽華亭侯に封じた。

当時、陽華の地名がない。陽羨とすべきか。黄武元年、全琮は銭唐侯に封じられ(入れ替わりで)孫邵を陽羨侯とする。孫権伝 黄武四年にひく『呉録』にみえる。「新華」とする本もある。


黃武元年、魏以舟軍大出洞口。權、使呂範督諸將拒之、軍營相望。敵數以輕船鈔擊、琮常帶甲仗兵、伺候不休。頃之、敵數千人出江中、琮擊破之、梟其將軍尹盧。遷琮綏南將軍、進封錢唐侯。四年、假節領九江太守。

黄武元年(222) 魏は舟軍で洞口に出る。孫権は、呂範に諸将を督して拒がしめ、軍営を築いて相い望んだ。なんども魏軍が軽船で鈔撃してくる。全琮はつねに甲を帯び兵に仗り、伺候して休まず。

軽船による散発的な攻撃は、目眩ましだった。戦場での目標は、中洲であった。全琮が、魏軍の観察を惜しまなかったから、それに気づくことができたと。まあ、この戦いはトータルでは呉が負けたが、全琮だけには見せ場があったと。

このころ、敵は数千人で江中に出て(中洲に渡ろうとし)全琮は、魏の将軍の尹盧を梟した。綏南將軍に遷り、銭唐侯に封じられた。

洞口は『魏志』曹休伝に。この戦いは孫権伝 黄武元年にある。
胡三省はいう。綏南将軍は、呉がはじめて置いた。

黄武四年(225)、假節し九江太守を領す。

七年、權到皖、使琮與輔國將軍陸遜擊曹休、破之於石亭。

黄武七年(228) 孫権は皖城に至り、全琮は、輔國將軍の陸遜とともに、石亭で曹休を破った。

石亭は、『魏志』明帝紀 太和二年に。
ぼくは思う。3年前の洞口の戦いのリベンジになった。曹休はこれで死ぬ。
すぐ下にある東安郡の記事のあとに、この石亭が置かれるべき。


是時、丹楊、吳、會、山民復爲寇賊、攻沒屬縣。權、分三郡險地、爲東安郡、琮領太守。

(黄武五年 226)丹楊・呉郡・会稽では、ふたたび山民が寇賊となり、属県を攻没する。孫権は、3郡の険地を分け、東安郡をつくり、全琮に太守を領させた。

『呉録』はいう。全琮はこのとき、富春を治とした。
孫権伝によると、黄武五年秋、東安郡を置き、黄武七年に罷む。いずれも曹休と戦う前の話。曹休を石亭で破ったのは、黄武七年の八月で、『魏志』明帝紀では太和二年九月とする。
銭大昕はいう。けだし全琮は陸遜に従って曹休を撃ったのは、東安郡を罷めて牛渚に還った後である。全琮伝は、記述が入れ替わっている。

東安郡(富春)に至ると、賞罰を明らかにし(山民を)招誘し降附させた。数年中に、1万余人を得た。

ぼくは思う。賀斉に比べると、全琮が山越の討伐を始めたのは遅い。賀斉は、孫策の時代から、ひっきりなしに山越を討伐してた。全琮は、ここで山越と戦い始める。曹操が、丹陽の賊に印綬を配ったように、揚州における魏との戦いは、魏が手を回した山越との戦いと、一連のものとなる。蜀が羌族を味方につけて魏に対抗したが、魏は山越を味方につけて呉に対抗する。「東安郡」を作って、支配の強化を全琮に委ねたのは、魏との戦いのためか。

(黄武七年 228)孫権は全琮を召して牛渚に還し、東安郡を罷めた。

建安二十四年(219)、関羽と戦う前に、全琮は牛渚に屯する。10年をへて、同じ場所。牛渚が、全琮の定位置なのか。


江表傳曰。琮還、經過錢唐、脩祭墳墓、麾幢節蓋、曜於舊里、請會邑人平生知舊、宗族六親、施散惠與、千有餘萬、本土以爲榮。

『江表伝』はいう。全琮が(東安郡から)還るとき、故郷の銭唐をとおる。祖先を祭ると、邑人・平生からの知旧、宗族・六親があつまって、贈りものを千余万くれて、全琮を「本土の栄だ」とした。

ぼくは思う。全琮が、故郷で養った、中原の士大夫たちである。「全琮に養ってもらった」といい、呉臣として高官につく人を、いつか見つけたい。


公主をめとる

黃龍元年、遷衞將軍、左護軍、徐州牧、尚公主。

黄龍元年、永昌郡に遷り、左護軍・徐州牧となり、公主をめとる。

全琮は孫魯班をめとる。孫魯班は、まえは周瑜の子・周循にとついだが、周循が死んだので、全琮のところにきた。全公主と呼ばれた。孫魯班は、孫峻と私通した。孫峻伝に見える。


吳書曰。初、琮爲將甚勇決、當敵臨難、奮不顧身。及作督帥、養威持重、每御軍、常任計策、不營小利。 江表傳曰。權使子登出征、已出軍、次于安樂、羣臣莫敢諫。琮密表曰「古來太子未嘗偏征也、故從曰撫軍、守曰監國。今太子東出、非古制也、臣竊憂疑。」權卽從之、命登旋軍、議者咸以爲琮有大臣之節也。

『呉書』はいう。全琮は、将となれば甚だ勇決し、敵に當り難に臨まば、奮ひて身を顧みず。督帥になるに及び、威を養ひ重を持し、軍を御するたび、常に計策を任じ、小利に営せず。

将軍・督帥としては、優秀だったと。しかし、下に見えるように、ひとがらは柔和。不思議なひと。洞口でも、機敏に動いていたし、なにかスイッチがついているのか。

『江表伝』はいう。孫権の子の孫登が出征し、すでに軍を出した。安楽にきて、郡臣は敢えて諌めない。

安楽は賀斉伝。武昌県だと分かるくらいだが。

全琮は密表して、『左伝』閔公二年をひいて諌めた。孫権はこれに従い、孫登の軍をもどらせた。議者は「全琮には大臣の節がある」といった。

姜宸英はいう。『通語』によると、全琮が魯王にへつらって、太子(孫和)の出征を諌めたのであり、『江表伝』はウソである。趙一清はいう。全琮は、太子(孫和)に兵権・功績を与えたくないから、出征を諌めた。全琮は、まことに奸臣である。
盧弼はいう。ここに出てくる太子は、孫登のことで、孫和ではない。両者とも、孫和と誤認して論評しているから、誤りである。


嘉禾二年、以降は、また後日。160621

人柄を表しそうなのは、「人となりは恭順で、顔を承け規を納るるに善く、言辞は未だ嘗て切迕せず」と、「既に親重せられ、宗族・子弟 並びに寵貴を蒙り、累ねて千金を賜ふ。然れども猶ほ謙虚に士に接し、貌に驕色なし」くらいか。「将としては甚だ勇決」という二面性から、キャラを造型できるか。


全琮伝の後半を追記

1年をへだて、読みたくなったので追記する。170720

嘉禾二年、督步騎五萬、征六安。六安民皆散走、諸將欲分兵捕之。琮曰「夫、乘危徼倖、舉不百全者、非國家大體也。今、分兵捕民、得失相半、豈可謂全哉。縱有所獲、猶不足以弱敵而副國望也。如或邂逅、虧損非小。與其獲罪、琮寧以身受之、不敢徼功以負國也。」

嘉禾二年、歩騎5萬を督し、六安(孫堅伝に見ゆ)を征した。六安の民は、みな散走した。諸將は兵を分けて、これを捕らえようとした。全琮「そもそもリスクに乗じてラッキーに向かうのは、万全な行動ではなく、国家の根本ではない。いま兵を分けて民を捕らえたら、得失は半分ずつで、どうして全員を得られようか。もし捕獲できても、敵を弱めて、国家の目標を達成することにはならない。もしリスクが実現すれば、損失は小さくない。たとえ罪をこの身に受けようとも、不確かなことをして、国家の利益を損ねたくはない」と。

呉主伝によると、嘉禾二年、全琮が六安を征したが、勝たず。嘉禾六年にも、全琮が六安を征したが、勝たずと。赤烏余年、全琮は淮南を攻略し、芍陂を決壊させ、安成の邸閣を焼いて、その人民を捕獲した。これも孫権伝に見える。
ぼくは思う。『三国志集解』は半端だけど、要するに、全琮は、嘉禾二年・六年に、リスクを評価して、むちゃな攻略はしなかった。それは、全琮が無能や臆病・見当違いということではない。淮南の攻略は、成功したじゃないかと。


赤烏九年、遷右大司馬、左軍師。爲人恭順、善於承顏納規、言辭未嘗切迕。初、權將圍珠崖及夷州、皆先問琮、琮曰「以聖朝之威、何向而不克。然、殊方異域、隔絕障海、水土氣毒、自古有之。兵入民出、必生疾病、轉相汚染。往者懼不能反、所獲何可多致。猥虧江岸之兵、以冀萬一之利、愚臣猶所不安」權不聽。軍行經歲、士衆疾疫死者十有八九、權深悔之。後言次及之、琮對曰「當是時、羣臣有不諫者、臣以爲不忠。」

赤烏九年、右大司馬・左軍師に遷った。人となりは恭順で、善く顔を承け規を納れ(顔色を見て意見を聞き)、言辞が切迕な(差し迫って逆らう)ことはなかった。かつて孫権が、珠崖・夷州を囲もうとした。全琮「聖朝の威をもって、なぜ向かえば勝てないことがありましょう。

と、孫権の機嫌を損ねないように、顔を立てた持ちあげて、

しかし、殊方の異域は、障海に隔絶され、水土の気は毒をふくみます。兵が入り民が出ても、必ず病気になり、感染するでしょう。行けば帰れない恐れがあり、捕獲しても多くはないでしょう。みだりに水軍の兵を費やして、万一の利を願うのは、良くないと思いますけど」と。

陸胤伝によると、蒼梧・南海は、年に旧風・障気の害があるという。『魏志』公孫瓚伝に、日南は鄣気があるといい、『後漢書』では瘴気に作っており、「障」「鄣」「瘴」字は、通用している。
ぼくは思う。リスクを嫌う!! というのは全琮のキャラなんだろう。六安でも、珠崖・夷洲でも、イチかバチかの戦果(おもに人口の獲得)を求めることを、全琮は回避したがる。

孫権は、全琮の意見を聞かなかった。軍事行動を数年間おこない、士衆の病死する者は、八・九割であり、孫権は深く悔いた。のちにこの話題になると、全琮は答えた。「当時は、群臣のなかに諫めない者がおれば、私は不忠だと思ったのです」と。

全琮の子や孫が、魏に降る

琮、既親重、宗族子弟並蒙寵貴、賜累千金、然猶謙虛接士、貌無驕色。十二年卒、子懌嗣。後、襲業領兵。救諸葛誕于壽春、出城、先降。魏、以爲平東將軍、封臨湘侯。懌兄子禕、儀、靜等、亦降魏、皆歷郡守列侯。

全琮は、親しみ重んじられ、

趙一清によると、『太平御覧』巻七百十に引く『呉書』に、「全琮は年が高いので、履杖を賜った」とある。

宗族・子弟は、すべて寵貴をこうむり、累ねて千金を賜わった。

全琮は、魯王孫覇に味方した。孫和伝 注引 殷基『通語』にも見える。全琮の子の全紀は、魯王孫覇に阿付し、それは陸遜伝に見える。

しかし全琮は、なおも謙虚に士に接し、顔には驕色がない。十二年に卒し、子の全懌が嗣いだ。

孫権伝によると、赤烏十年正月に、全琮が卒した。銭大昭によると、「十二年」とする全琮伝は、誤りである。
ぼくは思う。呉主伝に「十年春正月、右大司馬全琮卒」とあり、『三国志集解』呉主伝によると、全琮伝は赤烏十二年に卒したといい、どちらが正しいか分からないという。『建康実録』は、赤烏十二年に「冬、右大司馬全琮卒」とあり、全琮伝に近い。しかし、巻六十 全琮伝は、「十二年卒、子懌嗣」としかなく、『建康実録』にある「冬」の情報が得られない。

のちに全懌は、事業を相続して、兵を領した。諸葛誕を寿春で救い、城を出て、先に降った。魏は、全懌を平東将軍とし、臨湘侯に封じた(臨湘は長沙の郡治、先主伝 建安十三年に見ゆ)。全懌の兄子である全禕・全儀・全静らもまた、魏に降って、みた郡守を歴任し、列侯となった。

趙一清はいう。全琮の諸孫(=全懌の兄子)に、全静がいない。これは、孫静の孫である、孫弥のこと。孫曼も降ったといい、誤って混入した。孫弥・孫曼の2人は、『晋書』文帝紀に見える。しかし文帝紀は、全端の兄子である全禕および全儀らは、母を奉じて魏にくだり、全儀の兄の全静は、ときに寿春にいた。鍾会の計略をもちい、全禕・全儀の書を偽作して、全静をひっかけた。全静の兄弟5人は、軍勢をひきいて魏に降ったとある。文帝紀は誤りである。『魏志』鍾会伝は、ひそかに全輝・全儀の書をつくり、親信する人を入城させ、全懌に告げた。全懌は、東門を開けて出降したという。諸葛誕伝もまた、全懌に作っているから、「静」字が誤りであることは疑いなく、全静なんて存在しない。以上、趙一清の説でした。
盧弼によると、趙一清の説は全て誤りで、『三国志集解』鍾会伝で説明したと。


吳書曰。琮長子緒、幼知名、奉朝請、出授兵、稍遷揚武將軍、牛渚督。孫亮卽位、遷鎭北將軍。東關之役、緒與丁奉建議引兵先出、以破魏軍、封一子亭侯、年四十四卒。次子寄、坐阿黨魯王霸賜死。小子吳、孫權外孫、封都鄉侯。

『呉書』によると、全琮の長子である全緒は、幼くして名を知られ、朝請を奉り、出でて兵を授けられ、揚武將軍に遷り、牛渚に督す。孫亮が即位すると、鎮北将軍に遷る。東関の役では、全緒は丁奉とともに兵をひきいて先に出ることを建議し、魏軍を破り、1子が亭侯に封じられた。44歳で卒した。次子の全寄は、魯王に阿付して死を賜った。小子の全呉は、孫権の外孫で、都郷侯に封じられた。170720

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長沙に鎮し、交州刺史となる呂岱伝

呉県の丞となる

呂岱、字定公、廣陵海陵人也。爲郡縣吏、避亂南渡。孫權統事、岱詣幕府、出守吳丞。權、親斷諸縣倉庫及囚繫。長丞、皆見、岱處法應問、甚稱權意、召署錄事。出、補餘姚長、召募精健、得千餘人。會稽東冶五縣賊呂合、秦狼等、爲亂。權、以岱爲督軍校尉、與將軍蔣欽等、將兵討之。遂禽、合、狼、五縣平定。拜昭信中郎將。

呂岱は、あざなを定公、広陵の海陵のひと。郡県の吏となり、乱を避けて南渡す。孫権が統事すると、呂岱は幕府に詣り、出で呉丞を守す。

海陵は、『魏志』張遼伝にみえる。幕府は『魏志』袁紹伝に解く。呉丞とは、呉県の丞である。『続百官志』県丞は1名、文書を署し、倉獄を典知する。

孫権は、みずから諸県の倉庫および囚繋を断ず。呉県の県長・県丞は、みな孫権にまみえて(孫権に倉庫と囚繋のことを報告して、決裁をあおぐが)呂岱のやり方や受け答えは、はなはだ孫権の意見と一致した。召されて(孫権の府の)録事を署した。出て、餘姚長に補され、精健を召募し、1千余人を得た。

余姚は孫策伝にみえる。
ぼくは思う。なぜ孫権は、呉県の財政・裁判を、直接にみたのか。孫権は会稽太守だが、会稽は、朱然が「山陰令に移り、折衝校尉を加えられ、5県を督す」と実務をやる。かわりに孫権は、呉郡太守の朱治のもとにいる。政治の勉強のために、居場所である呉郡のことを見たのか。孫権がそういう「教育」を受けていたのは、おもしろい。

会稽の東冶の5県の賊である呂合・秦狼らが、乱をなした。孫権は、呂岱を督軍校尉として、将軍の蒋欽らとともに、兵をひきいて討たしむ。呂合・秦狼をとらえ、5県は平定された。昭信中郎將を拝す。

呂合らの乱は、蒋欽伝にみえる。昭信中郎将は、1名で呉が置く。


吳書曰。建安十六年、岱督郎將尹異等、以兵二千人西誘漢中賊帥張魯到漢興寋城、魯嫌疑斷道、事計不立、權遂召岱還。

『呉書』はいう。建安十六年(211) 呂岱は郎将の尹異らを督し、兵2千人で、西のかた漢中の賊帥・張魯を誘い、漢興の寋城に到らしめようとした。

漢興郡は、『魏志』張既伝にひく『三輔決録注』にある。寋は蹇(ケン)
『郡国志』巻一末に、劉昭が『魏志』をひく。曹操は関中をわけて、漢興郡をおき、遊楚を漢興太守にしたと。また『献帝起居注』はいう。中平六年(189) 扶風都尉をはぶき、雍県や陳倉ら5県からなる漢安郡をおいたと。洪亮吉はいう。漢興郡とは、漢安郡を改名したものである。ある人はいう。漢安郡は、おいたが、すぐに廃された。曹操が漢安郡をわけて、漢興郡と改名したと。
呉増僅はいう。遊楚が太守となったのは、建安十六年(211) だ。曹操が関中を定めたとき。「呉志」呂岱伝にひく『呉書』はいう。建安十六年、呂岱は「西にゆき、漢中の張魯をさそい、漢興郡にゆこう」と言った。ここから、曹操が関中を定めたとき、漢興郡をおいたとわかる。漢安を漢興とした。ただし遊楚は、隴西太守にうつる。魏代の史料は、関中の記事がおおいが、漢興郡の記事がない。漢魏革命のとき、漢興郡ははぶかれた。黄初初年、西城に魏興郡をおいた。漢興がはぶかれたのは、このときだ。
以下、扶風との出入り、王朝名のはいった地名についてつづく。はぶく。

張魯は、道を断たれることを嫌疑し、事計は立たず、孫権は呂岱を召し還した。

ぼくは思う。孫権が、漢中の張魯を、関中に誘ってどうするのか。潼関の戦いの前、曹操は「漢中を討つ」と宣言する。このとき、張魯が関中に入れば、馬超らと連携することになる。その連携を、呂岱・孫権がプロデュースした? 坂口和澄氏が、この呂岱の計略を、強調してた気がするが、いろいろ想像をはさまないと、話が通じない。


建安二十年、関羽から長沙を奪う

建安二十年、督孫茂等十將從、取長沙三郡。又、安成、攸、永新、茶陵、四縣吏共入陰山城、合衆、拒岱。岱、攻圍、卽降、三郡克定。權、留岱鎭長沙。

建安二十年(215)、孫茂ら10将を督して(呂蒙に?)従い、長沙・零陵・桂陽の3郡を(関羽から)取った。また安成・攸県・永新・茶陵の4県の吏が、

『郡国志』はいう。荊州の長沙郡の安城である。恵棟はいう。『漢書』および『州郡志』は、どちらも「安成」につくる。王先謙はいう。成と城とは通ず。呉は改めて安城郡に属させた。盧弼はいう。安成の郡治は安成県である。孫晧伝 宝鼎二年にある。
攸県は、『蜀志』黄忠伝にある。
洪亮吉はいう。永新は、呉の宝鼎二年に廬陵県を分けて立てた。謝鍾英はいう。永新は『沈志』によると、呉が立てて安成郡に属す。『寰宇記』によると呉は宝鼎期に廬陵を分けて立てた。謝鍾英が考えるに、永新は漢末(呂岱伝の時点)にあるから、宝鼎期に立てたとは誤りである。
茶陵は、孫権伝 赤烏八年にある。

ともに(桂陽郡の)陰山の城に入り、衆を合はせ、呂岱を拒いだ。

『郡国志』荊州の桂陽郡に陰山がある。『宋書』州郡志はいう。湘東郡に陰山県がある。陰山は漢の旧県で、桂陽に属した。呉の湘東郡は陰山県に置かれた。

呂岱は、陰山を攻囲し、降した。3郡は克定した。孫権は、呂岱を長沙に留めて鎮せしめた。

安成長吳碭及中郎將袁龍等、首尾關羽、復爲反亂。碭、據攸縣。龍、在醴陵。權、遣橫江將軍魯肅、攻攸。碭、得突走。岱、攻醴陵、遂禽斬龍。遷廬陵太守。

安成長の呉碭および中郎將の袁龍らは、関羽と首尾し(連携し)、ふたたび反乱した。呉碭は、攸県に拠った。袁龍は醴陵にいる。

醴陵は、顧雍伝にみえる。

孫権は、横江將軍の魯粛をつかわし、攸県を攻めた。呉碭は(魯粛軍を)突破してにげた。呂岱は醴陵を攻め、禽えて袁龍を斬った。

蒋超伯はいう。「呉碭と袁龍は、蜀漢の純臣であり、前将軍(関羽)の心膂である。急ぎ宜しく表して出すべし」と。
ぼくは思う。このとき、呂蒙が関羽を攻めて、実力で3郡を奪った。甘寧が「関羽瀬」で、関羽が川を渡るのを防いだ。劉備が公安に出てきて、「湘水を境界にしよう」と決め直す。同年、孫権は合肥を攻めた。関羽の党与とか、魯粛の戦績とかが、呂岱伝にあるのを知らなかった。

廬陵太守に遷る。

廬陵は、孫策伝に見える。
ぼくは思う。孫権は劉備と同盟することで、関羽にそなえた荊州の人材を、ほかに振り分けることができた。劉備の視点から語られがちな、荊州の争奪ですが(孫権は悪役?)孫権から見ても、この同盟には意味があった。孫権軍と劉備軍を、きっぱり別のものに分け、かつ国境の警備は、最低限でいいという。


延康元年、交州刺史となる

延康元年、代步騭、爲交州刺史。到州、高涼賊帥錢博乞降。岱、因承制、以博爲高涼西部都尉。又、鬱林夷賊、攻圍郡縣、岱討破之。是時、桂陽湞陽賊王金、合衆於南海界上、首亂爲害。權又詔岱討之、生縛金、傳送詣都。斬首獲生凡萬餘人。遷安南將軍、假節、封都郷侯。

延康元年(220) 歩隲に代わって交州刺史となる。

ぼくは思う。219年に関羽を斬って、呉の人事はおおきく動く。そのとき呂岱には、交州が回ってきた。

交州に到ると、高涼の賊帥の銭博が降らんことを乞ふ。

『郡国志』はいう。交州の合浦郡の高涼である。高涼郡について、3535p。はぶく。

呂岱は承制し、銭博を高涼西部都尉とした。また鬱林の夷賊が、郡県を攻囲した。呂岱はこれを討破した。このとき、桂陽の湞陽の賊である王金は、衆を合はせ南海郡の界上で、乱をなす。

『郡国志』荊州の桂陽郡の湞陽県である。王先謙はいう。呉は改めて湞陽県を始興郡に属させた。南海郡は、番禺を治所とする。孫晧伝 天紀三年に。

孫権は詔して呂岱に討たしめ、王金を生け捕り、都に送った。斬首・獲生はおよそ1万余人。安南將軍に遷り、假節、都郷侯に封ぜらる。

侯康はいう。『寰宇記』交州条下に、もっと固有名詞がたくさんある。3536p


交阯太守士燮、卒。權、以燮子徽、爲安遠將軍、領九真太守、以校尉陳時、代燮。岱表、分海南三郡爲交州、以將軍戴良、爲刺史。海東四郡、爲廣州、岱自爲刺史。遣良與時、南入、而徽不承命、舉兵戍海口以拒良等。岱於是上疏請討徽罪、督兵三千人、晨夜浮海。或謂岱曰「徽、藉累世之恩、爲一州所附。未易輕也」岱曰「今、徽雖懷逆計、未虞吾之卒至。若我潛軍輕舉、掩其無備、破之必也。稽留不速、使得生心、嬰城固守、七郡百蠻、雲合響應、雖有智者、誰能圖之」遂行、過合浦、與良俱進。徽、聞岱至、果大震怖、不知所出、卽率兄弟六人、肉袒迎岱。岱皆斬送其首。徽大將甘醴、桓治等、率吏民、攻岱。岱、奮擊大破之、進封番禺侯。於是、除廣州、復爲交州如故。岱既定交州、復進討九真、斬獲以萬數。又遣從事、南宣國化、暨徼外。扶南、林邑、堂明、諸王各遣使奉貢。權嘉其功、進拜鎭南將軍。

(黄武五年 226)交趾太守の士燮が卒すると、孫権は、士燮の子の士徽を安遠將軍とし、九真太守を領させた、校尉の陳時を、士燮に代えて交趾太守とした。以下、後日やります。

黃龍三年、以南土清定、召岱還屯長沙漚口。
王隱交廣記曰。吳後復置廣州、以南陽滕脩爲刺史。或語脩蝦鬚長一丈、脩不信、其人後故至東海、取蝦鬚長四丈四尺、封以示脩、脩乃服之。
會武陵蠻夷蠢動、岱與太常潘濬共討定之。嘉禾三年、權令岱領潘璋士衆、屯陸口。後、徙蒲圻。四年、廬陵賊、李桓、路合、會稽東冶賊、隨春、南海賊、羅厲等、一時並起。權、復詔岱督、劉纂、唐咨等、分部討擊。春、卽時首降。岱、拜春偏將軍、使領其衆、遂爲列將。桓厲等、皆見斬獲、傳首詣都。權詔岱曰「厲、負險作亂、自致梟首。桓、凶狡反覆、已降復叛、前後討伐、歷年不禽。非君規略、誰能梟之。忠武之節、於是益著。元惡既除、大小震懾、其餘細類、掃地族矣。自今已去、國家、永無南顧之虞、三郡晏然、無怵惕之驚。又、得惡民以供賦役、重用歎息。賞不踰月、國之常典。制度所宜、君其裁之。」
潘濬、卒。岱、代濬、領荊州文書。與陸遜、並在武昌、故督蒲圻。頃之、廖式作亂、攻圍城邑、零陵、蒼梧、鬱林、諸郡騷擾。岱、自表輒行、星夜兼路。權、遣使追拜岱交州牧、及遣諸將唐咨等、駱驛相繼。攻討一年破之。斬式、及遣諸所偽署臨賀太守費楊等。幷其支黨、郡縣悉平、復還武昌。時年已八十、然體素精勤、躬親王事。奮威將軍張承、與岱書曰「昔、旦奭翼周、二南作歌。今、則足下與陸子也。忠勤相先、勞謙相讓、功以權成、化與道合。君子歎其德、小人悅其美。加、以文書鞅掌、賓客終日、罷不舍事、勞不言倦。又知、上馬輒自超乘、不由跨躡。如此、足下過廉頗也、何其事事快也。周易有之、禮言恭、德言盛。足下、何有盡此美耶」及陸遜卒、諸葛恪代遜。權、乃分武昌爲兩部。岱、督右部、自武昌上至蒲圻。遷、上大將軍。拜子凱、副軍校尉、監兵蒲圻。孫亮卽位、拜大司馬。


呂岱が死ぬ

岱、清身奉公、所在可述。初在交州、歷年不餉家、妻子飢乏。權、聞之歎息、以讓羣臣曰「呂岱、出身萬里、爲國勤事、家門內困、而孤不早知。股肱耳目、其責安在」於是、加賜錢米布絹、歲有常限。

呂岱は、身を清くして奉公し、所在に述ぶ可し(任地ごとに記述に値する功績あり)。はじめ交州にあり、歴年 家に餉せず(カネを入れず)妻子は飢乏した。

交州から故郷までが遠いから、仕送りできずにいた、らしい。

孫権は聞いて歎息し、郡臣を責めた。「呂岱は、身を万里(遠き交州)に出し、国のために勤事す。家門が内に困しても、私は知らなかった。股肱・耳目たちの責任はどこにあるか(ちゃんと呂岱の家の窮乏を、私に報告しろよ)」と。ここにおいて、加えて銭米布絹を賜い、歳に常限(定額・定量)を支給した。

始、岱親近吳郡徐原。慷慨、有才志、岱知其可成、賜巾褠、與共言論。後遂薦拔、官至侍御史。原、性忠壯、好直言。岱、時有得失、原、輒諫諍、又公論之。人或以告岱、岱歎曰「是、我所以貴德淵者也」及原死、岱哭之甚哀、曰「德淵、呂岱之益友。今不幸、岱復於何聞過」談者美之。

はじめ呂岱は、呉郡の徐原と親近した。

徐原のことは、陸瑁伝にみえる。

徐原は慷慨し、才志あり。呂岱は、徐原が大成すると思い、巾褠を賜い、ともに言論した。

胡三省はいう。『釈名』によると、巾とは謹である。二十歳で成人すると、士は冠をかぶり、庶民は巾をかぶり、自ら四教を「謹」み脩むという。褠とは、単衣である。漢魏より以来、士庶ともに礼服とした。

のちに呂岱は徐原を薦抜し、官位は侍御史に至る。徐原の性は忠壮で、直言を好む。ときに呂岱は得失があると、徐原は呂岱を諌諍し、公然と(衆中で呂岱の得失を)論じた。あるひとが呂岱に(徐原が呂岱を批判していると)告げると、呂岱は歎じた。「だから(衣服・官職の世話をしてやった私を、遠慮せずに批判するから)こそ、私は徳淵(徐原)を貴ぶのだ」と。徐原が死ぬと、呂岱は哭して甚だ哀しみ、「徳淵は、呂岱の益友であった。いま不幸にも、私は過失を指摘してくれる友を失った」と。談者は美とした。

『論語』に、孔子曰く「益者三友」と。正直・誠実・博識で、自分にとって利益をもたらす3タイプの友人。『論語』に「不幸にして短命に死す」とある。


太平元年、年九十六卒、子凱嗣。遺令、殯以素棺、疏巾布褠、葬送之制、務從約儉。凱皆奉行之。

太平元年(256) 年96で卒して、子の呂凱が嗣いだ。

太平元年の九月己丑に卒したと、孫亮伝にある。周寿昌はいう。呂岱は孫亮が即位して5年目に卒した。呂岱は孫権よりも20歳上だった。

遺令し、素棺で殯し、(遺体には)疏巾・布褠(だけを着けさせ)葬送の制は倹約した。呂凱は違令どおり葬った。160622

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