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- 己を韓信に比したかも知れない魏延伝
部曲をひきいて仕え、漢中太守となる
魏延、字文長、義陽人也。以部曲隨先主入蜀、數有戰功、遷牙門將軍。先主爲漢中王、遷治成都、當得重將以鎭漢川。衆論以爲必在張飛、飛亦以心自許。先主乃拔延、爲督漢中鎭遠將軍、領漢中太守、一軍盡驚。魏延は、あざなを文長といい、義陽のひと。
義陽は、明帝紀の景初元年にある。
胡三省はいう。曹丕は南陽郡を分けて義陽郡をつくった。また義陽県を立てて、義陽郡に属させた。これは魏延が入蜀した後である。遡って書いたのだ。
魏延に聞けば、「私は南陽のひとです」と言った。
部曲を以て先主に随い入蜀した。
部曲ごと、兵数をつれて群雄を頼るパターン。宗族・部曲をひきいて曹操に従ったのが李典である。魏における李典の立ち位置や、李典の発言を見れば、魏延のことが理解できそう。
なぜ劉備に従ったか。故郷が曹操に属したけれど、人口の強制移住とか、係争の地になって危険だとか、族長として魏延が判断したのだろう。孫権でなく劉備を選んだあたり、劉備ファンと言うこともできるか。
他の太守に仕えて、劉備といちど戦った……というのは、ありそうな話だけど、少なくとも史料的な裏づけはない。しばしば戦って功あり、牙門將軍に遷る。先主が漢中王になると、遷って(還って)成都を治め、重将なので漢川に鎮した。衆論は張飛が選ばれると思い、張飛も自認していたが、劉備は魏延を抜擢して、漢中に督して鎮遠將軍とし、漢中太守を領した、一軍は尽く驚いた。
あまり言われないことだと思うが、魏延が連れてきた部曲が、劉備軍のなかで存在感があったのでは。もしくは「魏延のような族長に、どんどん合流してほしい」という政治的なメッセージを出すという狙いも……劉備だからないか。魏延の将軍としての力量を、純粋に評価したのだろう。
何焯はいう。張飛が怨んだという話しがない。張飛と劉備が信頼しあっていないと、こうはならない。
先主大會羣臣、問延曰「今委卿以重任。卿、居之欲云何?」延對曰「若曹操舉天下而來、請爲大王拒之。偏將十萬之衆至、請爲大王吞之」先主稱善、衆咸壯其言。先主が郡臣と大会し、魏延に問う。「いま卿に重任を委ねたが、担当してみて、言いたいことは?」。魏延は答えた。「もし曹操が天下をあげて漢中にきたら、大王のために防ごう。偏將の十萬の衆が至れば、大王のために呑もう」と。先主は善をたたえ、衆はみな発言を壮とした。
史料中で、魏延の口から「曹操」が出てきた。べつに奇異ではないが、おもしろいなーと思いました。やはり魏延は、故郷の南陽で、曹操と劉備の両方を見てから、劉備を選んだ。劉備が漢中に魏延を抜擢した理由は、曹操を敵として視野にいれている、曹操のことを知っている、というところを買ったのかも知れない。益州には、曹操のことなど意識したこともない、それゆえに将軍としての器に限界がある人々がいそうだ。
先主踐尊號、進拜鎭北將軍。建興元年、封都亭侯。五年、諸葛亮駐漢中、更以延爲督前部、領丞相司馬、涼州刺史。八年、使延、西入羌中。魏後將軍費瑤、雍州刺史郭淮、與延戰于陽谿。延大破淮等、遷爲前軍師征西大將軍、假節、進封南鄭侯。劉備が称帝すると、鎮北將軍を拝す。建興元年、都亭侯に封ぜらる。五年、諸葛亮が漢中に駐すると、更めて魏延に前部を督させ、丞相司馬・涼州刺史を領させた。
漢の丞相の配下の官として、長史はあるが司馬はない。いま用兵するから(例外的に)司馬をおいた。
趙一清はいう。蜀は涼州のうち、武都・陰平の2郡しか領さない。けだし遙領。
八年、魏延を西のかた羌中に入らしむ。魏の後將軍の費瑤・雍州刺史の郭淮は、魏延と陽谿で戦った。魏延は郭淮らをおおいに破り、遷って前軍師・征西大將軍、假節となり、進んで南鄭侯に封ぜられる。
後主伝の建興八年にみえる。
長安攻めを許されず
延、每隨亮出、輒欲請兵萬人、與亮異道會于潼關、如韓信故事。亮、制而不許。延、常謂亮爲怯、歎恨己才用之不盡。魏延は、いつも諸葛亮に随って出て、兵1万人をもらい、諸葛亮とちがう道をゆき、潼関で合流したい。
姚範はいう。魏延の計は、けだし、第一次北伐の建興六(228)年のことである。魏では太和二年。曹叡が征西して、夏侯楙を召して尚書とした。
魏延伝の書きぶりだと、魏延はいつも諸葛亮の北伐に随うが、この提案は、第一次北伐と決まったわけじゃない。列伝の記述の順序としては、建興八(230)年のことを先に書いて、そのあとで出てくる。「毎(つね)に」で時間の幅を持たせているが……。夏侯楙が中央に帰っていくタイミングから、やはり第一次北伐から動かすことは難しいのか。
しかし史料の書きぶりからすれば、魏延が別働隊で長安を突きたいと考えたのは、第一次北伐のときだけではない。諦めずに、たびたび主張したのだろう。韓信の故事のように。
韓信の攻撃の経路を見ておかねば。潼関で合流するんだっけ。
姚範はいう。韓信の故事は、『史記』では未詳である。
ぼくは思う。やっぱり韓信は、潼関で劉邦と合流したわけじゃない。漢中から攻め上がり、秦地を征服する……という動きしますが。魏延のなかで、韓信がどのように認識されていたかを考えることで、妄想のトッカカリになるか。
ちなみに費禕は、孫権に「魏延が危険人物だね」と言われて、「韓信のような志はないので平気」という。しかし魏延は、別働隊を率いて、やがて君主を上回る領土を得る韓信に、自分を擬している。「魏延と韓信」はホットな検討課題。
しかし諸葛亮は、制して許さず。
諸葛亮が魏延を韓信に準えたか、韓信になる可能性にリアリティを感じていたか気になる。魏延の提案を却下する理由に、1ミリでも「魏延が韓信のようになるかも」と警戒する気持ちがあったか。なかったか。
諸葛亮の北伐は、出るたびに経路や作戦がちがう。しかし魏延の別働隊の要望は、魏延伝いわく「つねに」ある。「今回の作戦に照らすと、別働隊は有効じゃない」という説得が通じるのは、1回か2回だけで、退け続けることは難しい。 ……すると魏延が諸葛亮を『怯』とした真意は、「韓信と化したオレを、使いこなせなくなることを恐れているのか」ということになる。
諸葛亮としては否認したいだろうが、意外と真実を突いてるのかも。諸葛亮は、馬謖・李厳に敗戦の責任をなすったように、「戦いに失敗したけど、トップに居続けたい」という矛盾した(わがままな)要求を持っている。もし魏延が成功して、魏延の功績が大きくなれば、この危ういゲームをしている諸葛亮はあっさり失脚する。自分以外が奇功を立てるのを嫌う……というのが諸葛亮の心のなかの、もっともやましい部分10%くらいではないか(残りの90%は忠烈・無私の一辺倒)
@fushunia さんはいう。劉邦の関中攻略は、速やかに成功したような印象もありますが、たしか防衛側の雍王が孤立無援のまま首都の廃丘に籠城して、相当に長い期間持ちこたえていた気がします。そういう故事も諸葛亮が参考にしていたかどうかは分かりませんが。
@fushunia さんはいう。『史記』高祖本紀を確認したところ、8月に攻めて廃丘を囲み、翌年の6月になって廃丘が降ったとありました(水を引いて廃丘にそそいだ)。これくらいのことは仕方ないということで、劉邦陣営は戦争に臨んだかもしれませんが、蜀は同じことになると厳しい気がしますね。
ぼくはいう。もと秦将3人を王にしたが、秦地の民は彼らを裏切り者として見ており、支持しなかった……という、いかにも漢王朝に都合がいい解釈を聞きかじっただけで、理解が止まってました。史料を読んで確認してみます。諸葛亮が「関中の民は、漢を追慕して魏を怨嗟している。蜀兵が訪れれば、魏将を追い出して蜀兵を迎えるだろう」なんて考えれば、相当に理想主義者ですが、魏延の奇襲を許さなかったのだから、それはないです。
魏延は、つねに諸葛亮を『怯』といい、己の才を、尽く活用できないことを歎恨した。
つぎにある裴注は、第一次北伐のときの話で決まる。しかし魏延伝の「つねに」の話は、北伐の全体を通じての話。裴注に引っ張られて、魏延伝の別働隊の話を、第一次北伐に限ってしまったら、それは誤読です。
魏略曰。夏侯楙爲安西將軍、鎭長安、亮於南鄭與羣下計議、延曰「聞夏侯楙少、主壻也、怯而無謀。今假延精兵五千、負糧五千、直從褒中出、循秦嶺而東、當子午而北、不過十日可到長安。楙聞延奄至、必乘船逃走。『魏略』はいう。夏侯楙は安西將軍となり、長安に鎮す。諸葛亮が南鄭で群下と議す。魏延「夏侯楙はわかく、主の壻です。
夏侯楙は、曹操の娘むこ。清河公主をめとる。夏侯惇伝にある。『通鑑』では「少(わか)く」がなく、夏侯淵の子とする。誤りである。怯にして無謀。もし精兵5千と、負糧5千をくれたら、まっすぐ褒中から出て、秦嶺を循って東し、子午に当たれば北する。10日も過ぎず、長安に到れる。夏侯楙は、私が奄至すると聞けば、必ず船に乗って逃走する。
『通鑑』が地名・経路について胡三省の注釈がある。司馬光によって「船」は削除されている。
長安中惟有御史、京兆太守耳、橫門邸閣與散民之穀足周食也。比東方相合聚、尚二十許日、而公從斜谷來、必足以達。如此、則一舉而咸陽以西可定矣。」亮以爲此縣危、不如安從坦道、可以平取隴右、十全必克而無虞、故不用延計。長安中にはただ御史・京兆太守がいるだけ。
胡三省はいう。『晋志』によると、曹丕は受禅すると、漢の京兆尹を太守に改めた。横門の邸閣と、散民の穀により、軍糧は足りる。
潘眉はいう。邸閣とは、貯糧するところ。李傕・王基に邸閣に関する発言がある。南頓には大きな邸閣がある。孫策が牛渚を攻めて邸閣の穀糧を得た。孫権は全琮に安城の邸閣を焼かせた。諸葛亮は米を運んで斜谷の邸閣に治めた……などの用法がある。
胡三省はいう。魏は横門(地名)に邸閣を置いた。また民は蜀兵が来るのを聞けば、必ず逃散して彼らが蓄えた穀物を得られるから、軍糧に宛てることができると。
そのころ東方(魏)が軍を集めるには、なお20日ばかりかかる。諸葛亮が斜谷から出ても、必ず達するに足る(間に合う)。こうすれば、咸陽より以西を定めることができる」
長安を咸陽と言い換えているあたり、楚漢戦争を気取っているのが分かる。劉邦・韓信を、諸葛亮・魏延に置き換えているのだ。この魏延の、採用されなかった作戦(蜀のなかで握りつぶされて終わったはず)が、なぜ魏側の『魏略』に載っているのか疑問である。もしかして魏のなかで、つまり長安の夏侯楙の周囲、もしくは夏侯楙をはずそうとする連中が、「蜀ではこんな会話がなされたはずだ。やつらは、漢の後継者を気取っているから」と話したのかも知れない。だとしたら、魏延がこれを言ったとは限らなくなる。諸葛亮は縣危(危計)として、安全で平坦な道から、隴右を平取すれば、十全で必ず克ち虞れが無いので、魏延の計を用いなかった。
楊儀と魏延は「水と火」のよう
延、既善養士卒、勇猛過人、又性矜高、當時皆避下之。唯楊儀不假借延、延以爲至忿、有如水火。魏延は、善く士卒を養ひ、勇猛は人に過ぎ、また性は矜高で、時に當り、みな避け下った。ただ楊儀だけが魏延を假借しないから、魏延はひどく忿して、水と火のようである。
胡三省はいう。同じところに居られない。銭振鍠はいう。費禕伝では、魏延が楊儀に刀を擬したとある。こんなことをする魏延は大任に堪えるものか。孔明が魏延を大きく用いなかったのは、これが原因である。
ぼくは思う。劉備の所に人材が集まること(いわゆる人の和)の弊害は、ポストが不足すること。龐統や蒋琬は県の長官で退屈して泥酔した。廖立と李厳は、官職への復帰を待ちぼうけた。魏延と楊儀は別部署に配属してそれぞれ活かされることもなく。蜀志には「もっと官職あげろ」の怨嗟が、やたら多いことに驚く。小さい会社は特定の上司と対立したら辞めるしかない。大きい会社なら、数年だけ耐えれば、上司か自分が定期的に人事異動になる。蜀漢は、諸葛亮と彼の選んだ官僚らと対立したら、左遷してもらうキャパもなく、官職を辞さねばならん。 呉は山越や交州で活躍する余地がある。
@Sz73B さんはいう。魏は短期間に急成長した財閥的大企業で、呉は最高幹部に過労死が続出する程のブラックな有限会社。蜀は家族的な零細企業であるが、小さい故に馴染めない場合に避難できる閑職、名誉職にも事欠く。乱世の常とはいえ、生きるのは苦労します。
@Jominian さんはいう。これはよく分からないな。魏呉蜀ともに帝国であり、必要上や成立の過程から官制に違いがあっても、蜀は小国だからポストが少ないということにはならない。また、官吏の数で言えば蜀は非常に多い。独裁傾向の強弱なら分かるが、国の大小は無関係だろう。
ぼくはいう。中央官は、蜀にも帝国に相応しい定員があったと理解してます。でも州牧や方面軍のポストは、人材に比して不足したと思います。相性の悪い人材を地理的に離して配置して、どちらも活用する……という差配がやりにくかったのは小国ゆえだと思います。
@Jominian さんはいう。蜀漢には東南北に方面軍があり、巨大な中央軍もありました。また、小規模な拠点を統率する幾つもの督が置かれています。これが少ないと感じるかはその人次第ですが、相性の悪い人を配置しきれずに失敗したという具体例でもないと、肯んずることはできません。
ぼくはいう。蜀志を通して読み始めたばかりで、蜀漢はポスト不足というのは直感です。魏延・楊儀の例が「相性の悪い人を配置しきれずに失敗したという具体例」という気がしますが、もっとちゃんと読んでから仮説を唱えてみたいと思います。
@Jominian さんはいう。魏延と楊儀は、その希有な才覚を、当時の蜀漢で最重要な事業である北伐で用いるため、敢えて同じ北伐軍に置いたのでしょう。最初に述べていたような、中小企業に例えたような話には当てはまらないと思います。単に上の退場まで耐えるためのポストであれば、蜀漢にもありますし。蜀漢においては、特にその末期において、政権主流派の鋭鋒を避ける動きがあり、またそのための官職もあった。具体的には、地方官吏、秘書、太子属である。
諸葛亮の死後、楊儀と争う
十二年亮出北谷口、延爲前鋒。出亮營十里、延夢頭上生角、以問占夢趙直。直、詐延曰「夫、麒麟有角而不用。此、不戰而賊欲自破之象也」退而告人曰「角之爲字、刀下用也。頭上用刀、其凶甚矣。」十二年、亮が北谷口を出ると、魏延は前鋒となり、諸葛亮の軍営より10里前をゆく。魏延は夢で、頭に角が生えた。趙直に占夢させる。趙直は詐わって、「麒麟には角があるが用いない。これた戦わずに賊が自破する象です」という。趙直は退いて、ひとに告げた。「『角』の字は『刀』の下に『用』がある。頭の上に『刀を用ふ』とは、凶甚である」という。
蜀漢で暗躍する趙直。蒋琬伝で、「1つの牛の頭が、門前で血を流す」夢を、「血を見るのは、事が分明ということ。牛角および鼻は『公』の字のかたち。きみは必ず『公』となる。大吉の徵也」であるという。
『三国志』巻41 楊洪伝 注引『益部耆舊傳雜記』で、何祗の夢から寿命が48歳までだと占う。嘗夢井中生桑,以 問占夢趙直,直曰:「桑非井中之物,會當移植;然桑字四十下八,君壽恐不過此。」祗笑言「得此足矣」。
あちこちで目撃すると思ったら、以外にもこれで全部だった。
秋、亮病困。密與長史楊儀、司馬費禕、護軍姜維等作身歿之後退軍節度。令延斷後、姜維次之。若延或不從命、軍便自發。亮適卒、祕不發喪。儀、令禕往、揣延意指。延曰「丞相雖亡、吾自見在。府親官屬、便可將喪還葬。吾自當率諸軍、擊賊。云何以一人死廢天下之事邪。且魏延何人、當爲楊儀所部勒、作斷後將乎」秋、諸葛亮は病困す。ひそかに長史の楊儀・司馬の費禕・護軍の姜維らに、没後に退軍する節度を指示する。魏延には後ろを断たせ(殿軍となり)、姜維がこれに次ぐ。
あとで魏延が「裏切る」から、この記述は、諸葛亮が魏延には、自分の没後のことを伝えなかった、という印象を与えるが、違うだろう。地理的に魏延が離れていたから(10里、先に進んでいたから)話し掛けなかった。代わりに、敵の追撃を防ぐという役割を与えた。もし魏延が命令に従わねば、軍はすぐに自ら発せ(魏延が殿軍を引き受けなければ、それを無視して撤退せよ)と。
胡三省はいう。諸葛亮は、魏延が楊儀の命令を聞かないことを分かっていた(から、こんなことを言った)と。ぼくは胡三省が、結果論から論評しているように見える。諸葛亮が、自軍が分裂する前提で指示するとは思えない。自軍が分裂しないように手を打つ、ぐらいの発想はするだろう。魏延に殿軍という別の役割を与えたのは、分裂を防ぐための工夫では。諸葛亮が卒すると、秘して喪を発せず。
『通鑑』は、「楊儀が」喪を秘したと、主語をつけくわえる。楊儀は、費禕をとどめて、魏延の意思を計らせた。魏延「丞相が亡したが、私がいる。府親の官属は、喪を還して葬れ。私は諸軍をひきいて、賊を撃つ。なぜ1人の死によって天下の事を廃するか。
ぼくは諸葛亮の志を継ぐものとして、立派な発言に見える。
胡三省は「魏延の矜高の語」といったり、盧弼は「闘将だから、気合いだけは充分」といったり、批判・揶揄をしている。しかも魏延サマを誰だと心得る。楊儀から部勒され、殿軍なんてできるか」と。
因、與禕共作行留部分。令禕手書、與己連名、告下諸將。禕紿延、曰「當爲君還、解楊長史。長史文吏、稀更軍事、必不違命也」禕出門馳馬而去、延尋悔、追之已不及矣。魏延は費禕とともに、軍隊を(魏との戦線に)留めようとした。費禕に手ずから文書を書かせ、魏延との連名にて、諸将に告下した。
指揮権が自分にあることを示そうとした。楊儀と魏延が、諸葛亮亡き後の指揮権を争っている。魏延は、費禕を味方につけ、楊儀を圧倒しようとした。
「諸葛亮の遺言は、楊儀のでっちあげ」という妄想をしたくなる。ツジツマが合わなくもない。しかし、蒋琬・費禕が、楊儀に協力的なことから見て、諸葛亮の遺言は、この魏延伝にあるとおり撤退だったと見るべきだろう。ただ魏延が、それに納得しなかっただけで。
費禕は魏延をあざむき、「君のために(本隊に)還り、楊長史を説得しよう(魏との戦闘を継続せよという魏延の命令に従わせよう)。長史(楊儀)は文吏で、軍事にうとい。必ず(魏延の)命に逆らわない」と。費禕は門を出て馬を馳せて去る。魏延はすぐに悔いて、費禕を追ったが、及ばず。
延、遣人覘儀等、遂使欲案亮成規、諸營相次引軍還。延大怒、纔儀未發、率所領、徑先南歸、所過燒絕閣道。延儀、各相表叛逆、一日之中羽檄交至。後主、以問侍中董允、留府長史蔣琬。琬允咸保儀疑延。儀等、槎山通道、晝夜兼行、亦繼延後。延先至、據南谷口、遣兵逆擊儀等。儀等令何平在前、禦延。平、叱延先登、曰「公亡、身尚未寒。汝輩何敢乃爾!」延士、衆知曲在延、莫爲用命、軍皆散。延、獨與其子數人逃亡、奔漢中。魏延は、人をやって楊儀を偵察すると、諸葛亮の遺言どおりに、軍を還そうとしてる。魏延は先回りして、閣道を焼絶させた。
ぼくは思う。桟道を焼いてしまえば帰れない。韓信の背水の陣とは違うけれど(水じゃないから)死地に兵を置いて、死力を引きだそうという作戦は有効かも知れない。最期まで、韓信なみの軍略を発揮した。しかし劉邦集団は、けっこう官僚組織としてはザツだったので個人プレイが許されたが、蜀漢は官僚組織として発達しており、魏延は個人プレイができない。
もしも司馬懿が追撃すれば、魏延に退路を断たれた兵が、死に物狂いで魏にダメージを与えたかも。諸葛亮のカゲに怯えて司馬懿が撤退したというより、魏延がつくった「死地」を見て、警戒して追撃を辞めたのかも。けっきょく魏延は、撤退を成功させることに、役立ってしまったとか。魏延・楊儀は、たがいに相手が叛逆したと表し、1日のうちに羽檄が交至した。後主は、侍中の董允・留府長史の蔣琬に問う。蒋琬・董允は、どちらも魏延を疑う。楊儀らは、昼夜兼行で(桟道がないので)山道を通り、魏延の後方を断つ。魏延は先に至り、南谷口に拠る。楊儀は、何平(王平)を前において、魏延を防ぐ。魏延の死は、魏延の命令に従わずに散じた。魏延は、数人の子とともに逃亡して、漢中に奔る。
儀、遣馬岱、追斬之。致首於儀、儀起自踏之、曰「庸奴!復能作惡不?」遂夷延三族。初、蔣琬、率宿衞諸營赴難北行。行數十里、延死問至、乃旋。原延意、不北降魏而南還者、但欲除殺儀等。平日諸將素不同、冀時論必當以代亮。本指如此。不便背叛。楊儀は、馬岱をつかわして魏延を斬った。首が届くと、楊儀は踏む。夷三族。
馬岱が、魏延軍のなかに潜んでおり、魏延が3たび叫ぶと……などは小説です。楊儀軍の一員として、魏延を追撃したのが正史です。
はじめ蒋琬は、宿衛の諸営をひきいて、難(楊儀と魏延の戦場)に北行する。数十里いくと、魏延が死んだと聞き、もどった。
ぼくは思う。あえて魏延伝にこの記述があるので、3つのことを思う。
1つ、成都の中央軍が出るほど、蜀軍は危機だった。しかし、そこは官僚制の行き届いた蜀漢のこと。魏延がひきいるのは私兵ではないので、血で血を洗うような、深刻な分裂は起きない。史実も、そのとおりになった。司馬懿の追撃もこわいが、司馬懿という明確な外敵がいれば、魏延と楊儀は団結した。蜀軍が勝てるかどうかは別として、2人の対立は収束した。
2つ、もしも魏延が死ぬ前に、蒋琬が到着したら、魏延を殺さずに活かす道を探れたのではないか。蒋琬は、魏延に謀反の心がないと分かっていたと、すぐ下に書いてある。蒋琬としては、諸葛亮を失った今だからこそ、貴重な人材を失うことを恐れたのでは。惜しいなあ!
3つ、史実では楊儀がすぐに失脚するから気づかないが、この時点で、蒋琬の最大のライバルが楊儀である。楊儀が一人勝ちして、諸葛亮と同等の権限を持てば、蒋琬は働きにくい。費禕だって、便宜的に魏延をだまして楊儀に味方したが、楊儀の独裁を望まないだろう。蒋琬は、政治の転機に立ち会うことで、己の影響力を担保しつつ、魏延を仲裁して、楊儀の独裁を避けたかったのでは。魏延の本意は、北にゆき魏に降ることはなく、ただ楊儀を除き殺したいだけだった。2人は対立して、時論は「魏延と楊儀、どちらが諸葛亮に代わべきるか」と話した。魏延には、蜀を裏切る意図がなかった。
韓信に準えるなら、蜀は諸葛亮の死によって、北伐を辞めることになった。戦場がなくなれば、闘将はジャマになる。だから魏延は葬り去られた。だれかの明確な意図があったとは思えないし、韓信の故事を思い起こしながら魏延を始末したひとは、蜀漢のリアルタイムには居なかったでしょう。しかし、劉備に信頼された名将の魏延は、政治的に退場する運命になった。
劉邦は天下を統一してから、韓信の官職を取りあげた。蜀漢は、天下統一していないから、韓信とは状況が違うじゃん、という反論はあるでしょう。しかし、諸葛亮が北伐を中止といえば、戦闘がなくなるのだから、同じことだ。数年後もしくは数十年後に、また北伐をするかも知れないが、そんな先のことは、この時点では分からないので。
魏略曰。諸葛亮病、謂延等云「我之死後、但謹自守、慎勿復來也。」令延攝行己事、密持喪去。延遂匿之、行至褒口、乃發喪。亮長史楊儀宿與延不和、見延攝行軍事、懼爲所害、乃張言延欲舉衆北附、遂率其衆攻延。延本無此心、不戰軍走、追而殺之。臣松之以爲此蓋敵國傳聞之言、不得與本傳爭審。『魏略』はいう。諸葛亮は病むと、魏延らに「私の死後、自守せよ。ふたたび攻めるな」という。諸葛亮は魏延に、己の権限を摂行させ、密かに死体を持ち帰らせようとした。魏延は諸葛亮の死を隠し、褒口に至り、喪を発した。
『魏略』の諸葛亮は、後継者を魏延とした。『蜀志』では楊儀であり、『通鑑』はそれをさらに鮮明にした。しかし実態の指揮権は、魏延・楊儀・費禕あたり……という曖昧な感じだったのでは。1人を丞相の代行者として指名するのではなく、「諸葛亮の命令を受けた者たち」として、協同して動くことを希望したのでは。このあたりは、諸葛亮は「諸葛亮がいない蜀軍」を充分に想像できていない。なぜなら諸葛亮にとって、つねに諸葛亮は存在するから。魏延の殺害、のちの楊儀の失脚は、かなりの部分は仕方なかったが、蜀にとっては失点である。
長史の楊儀は、魏延と不和なので、魏延が軍事を摂行すると、殺害されるのを懼れた。「魏延は衆を挙げて北に付く(魏に裏切る)」と言い触らし、魏延を攻めた。魏延は、魏に付く心はないから、戦わずに逃げ、追われて殺された。裴松之が考えるに、敵国(魏)の伝聞なので、『蜀志』魏延伝の信憑性には敵わない。150828
そうだろうか。魏にモレ聞こえたことも、ひとつの真理ではないか。魏延が裏切ったなんて、蜀の歴史としては不名誉である。しかし、政争のドサクサでは、ある話かも知れない。ただし、『魏略』だけで理解するのではなく、魏延伝とあわせて読むべきだが。閉じる
- 孔明の北伐を支えた事務屋さん、楊儀伝
劉備から左遷され、弘農太守に遥任
楊儀、字威公、襄陽人也。建安中、爲荊州刺史傅羣主簿、背羣而詣襄陽太守關羽。羽命爲功曹、遣奉使西詣先主。先主、與語論軍國計策政治得失、大悅之、因辟爲左將軍兵曹掾。及先主爲漢中王、拔儀爲尚書。先主稱尊號、東征吳。儀、與尚書令劉巴不睦、左遷遙署弘農太守。楊儀は、あざなを威公といい、襄陽のひと。
『水経』沔水注に、楊儀とのゆかりがある[シ回]湖の話がある。
盧弼はいう。楊儀の里居は、龐統伝にひく『襄陽記』に見える。建安期、荊州刺史の傅羣の主簿となり、傅羣にそむいて襄陽太守の關羽もとにくる。
銭大昕はいう。傅羣は、けだし曹操に任命された。趙一清はいう。魏の荊州であり、治所は穣県である。盧弼はいう。魏の治所は宛県である。『魏志』王昶伝にある。
銭大昭はいう。建安十三年、曹操は南郡より以北を襄陽郡とした。蕩寇が太守のとき、郡は已に西に属した。 ぼくは思う。劉備の臣となるとき、荊州に鎮する関羽のところにくるというパターンはあろうが、他が思いつかない。なぜ曹操の荊州刺史を裏切ったのか、理由に興味がある。関羽は命じて功曹として、使者として劉備に会いに行かせる。劉備は、楊儀とともに軍國の計策・政治の得失を語論し、大いに悦び、辟して左將軍兵曹掾とした。先主が漢中王になると、抜擢され尚書となる。先主が尊號を称し、東して呉を征すると、楊儀は、尚書令の劉巴と睦まず、左遷され弘農太守を遙署する。
「劉巴と仲が悪い」というのは、相関図を書くときに絶対に必要な情報。サラッと読み流してはいけない。まあ劉巴は、ひとを見下すらしいので、どちらが悪いかは分からない。劉備の再末期は、楊儀はいちど退場する。
馬謖にせよ楊儀にせよ、劉備から評価が低かったひとは、良い最期を迎えない。これは、劉備の人物眼の確かさを証明する。もしくは、蜀において神格化されないまでも、伝説化していた劉備のイメージが、「人物眼の確かな君主」なのかも。だから、結末からたぐり寄せて、この伝説に寄与する話だけが、選択的に記憶・記録された。
建興三年丞相亮、以爲參軍、署府事、將南行。五年、隨亮漢中。八年遷長史、加綏軍將軍。建興三年、丞相の諸葛亮は、参軍として、府事を署せしめ、南行に連れていく。建興五年、諸葛亮に随って漢中にゆく。
楊儀の権力基盤は、諸葛亮である。魏延は劉備から評価され、漢中太守に抜擢された。いっぽうで楊儀は、劉備から左遷されて、劉備と死に別れた。劉備からの評価を基盤とする魏延と、諸葛亮からの評価を基盤とする楊儀。劉備と諸葛亮は、必ずしも敵対するものじゃないが、劉備なきあとの蜀漢で、「建国者だけど死んでる」劉備と、「建国者じゃないけど生きてる」諸葛亮が、構造的に対立し得るというのは、おもしろい。そして諸葛亮に近い楊儀が勝つ。
最末期の魏延が、あくまで北伐を主張したのは、諸葛亮の遺命よりも、劉備との約束を実現しようとしたからかも。劉備から漢中太守に任命されたとき、「魏を倒す」と確約してた。魏延は、劉邦・韓信の関係を、劉備・魏延として捉えており、諸葛亮はオマケ。必ずしも彼に従う必要がない。(念のためにくり返すと、劉備と諸葛亮は敵でないから、魏延が諸葛亮に随うことに矛盾はない。どちらの思いを優先するか……という比率の問題です)
いっぽうで楊儀は、官僚制の申し子である諸葛亮の命令を、粛粛と守って、既存の領土・政権を保全することのほうに価値を感じている。
八年、長史に遷り、綏軍將軍を加へらる。
亮數出軍、儀常規畫分部、籌度糧穀、不稽思慮、斯須便了。軍戎節度、取辦於儀。亮、深惜儀之才幹、憑魏延之驍勇。常恨二人之不平、不忍有所偏廢也。
諸葛亮がしばしば軍を出すと、楊儀はつねに分部を規畫(部隊を編成)し、糧穀を籌度(軍糧を調達)した。思い悩まず、てきぱきと仕事を裁いた。軍戎の節度(物品)は、楊儀が管理した。
こういう能吏みたいな人は、劉備よりも諸葛亮に愛されるのかな。諸葛亮は、楊儀に才幹があり、魏延に驍勇があるので、2人の仲が悪いのを惜しんで、2人を偏廢(北伐から外すこと)をしなかった。
魏延・楊儀が、「オレが諸葛亮の後継者」と考えた理由は、諸葛亮のために、もっとも働いたのは自分だと思ったからだろう。それほど、諸葛亮の人材活用はうまくいっていたということ。
諸葛亮が死に、魏延を倒す
十二年、隨亮出屯谷口。亮、卒于敵場。儀、既領軍還、又誅討延、自以爲功勳至大、宜當代亮秉政。呼都尉趙正、以周易筮之、卦得家人、默然不悅。十二年、諸葛亮に随い、楊儀は谷口に屯する。諸葛亮が死ぬと、楊儀は軍を領して還し、また魏延を誅したので、功勲がとても大きいから、諸葛亮に代わって秉政したいと考えた。都尉の趙正に、『周易』で筮させると、「家人」の卦が出た。黙然として悦ばず。
魏延の夢占いをした趙直の表裏一体をなす。どちらも趙姓。
蒋琬に先回りされて閑職へ
而亮、平生密指、以儀性狷狹、意在蔣琬。琬、遂爲尚書令、益州刺史。儀至、拜爲中軍師、無所統領、從容而已。諸葛亮は、ひそかに指名をしていた。楊儀の性は狷狹だから、後任は蒋琬がいいと思うなと。
胡三省はいう。「密かに指す」なので、僚佐には話していたが、とくに楊儀には聞かれないようにしていた。
ぼくは思う。この楊儀伝で、記述の時系列が反転したことが、たまたま暴露したように見える。諸葛亮の思いは実は……というのは、蒋琬・費禕が、楊儀を破ってから、遡及的につくられたのでは。もしくは、そんな諸葛亮の素振りが、ないではなかったが……というレベルの話。
きっと楊儀が主席となり、しかし蜀臣たちが楊儀を疎ましく思ったので、蒋琬を担ぐことにした。このクーデターを正当化する話として、世論に定着させられた。クーデターというなら、軍功トップの魏延をクーデターで破って、主席の地位を得たばかりなのだが。諸葛亮の死後は、じつは相当に混乱したと見るほうが、蜀漢の歴史を楽しく読めそう。蒋琬は、ついに尚書令・益州刺史となる。
蒋琬は成都を出て、魏延・楊儀の戦場まで、北行した。魏延が死んだと知って、成都に戻った。楊儀の勝利が確定した場所に、のこのこ行っても仕方がない。きっと後主の詔を先に抑えて、自分が主導権を握るため。「遂」という一字から、おおくを妄想するのが楽しい。楊儀が(成都に至ると)中軍師を拝したが、統領する所がなく、從容とするのみ。
費禕に失言をチクられて徙刑
初、儀爲先主尚書、琬爲尚書郎。後、雖俱爲丞相參軍長史、儀每從行、當其勞劇。自惟、年宦先琬、才能踰之。於是、怨憤形于聲色、歎咤之音發於五內。時人、畏其言語不節、莫敢從也。
惟後軍師費禕、往慰省之。儀、對禕、恨望前後云云。又語禕曰「往者丞相亡沒之際、吾若舉軍以就魏氏、處世寧當落度如此邪。令人追悔不可復及」禕、密表其言。はじめ楊儀は先主の尚書となったとき、蒋琬は尚書郎だった。
どっちが上ですか? 名目および実権の両方において。のちに、2人とも丞相参軍長史となった(同格に並んだ)が、楊儀はつねに外征に従い、激務をやった。これにより、官位・年齢とも楊儀が上位となり、才能も蒋琬を越えた。
(楊儀が閑職になって)怨憤は聲色にあらわれ、歎咤の音が五内に発した。ときの人は、楊儀の言語に節度がないことを畏れ、敢えて従うものがいない。
後軍師の費禕は、楊儀を慰めにゆく。
費禕は、調整役のふりをして、政争の舵を切る。魏延と楊儀が対立したとき、魏延の偵察にゆき、魏延を騙してきた。新たに蒋琬と楊儀が対立したとき、楊儀の本音を聞き出してチクった。楊儀は費禕に、恨望をのべた。「かつて丞相が没したとき、もし軍をあげて魏氏に就けば、こんな扱いは受けなかった。惜しいことをした」と。費禕は、ひそかにこの発言を表した。
ここまで来ると、個人のキャラのせいである。劉備は、劉巴と争う楊儀を見て、重要な仕事から外した。結局、楊儀の着地点はそこでしたと。いや逆だ。そんな楊儀でも、事務屋として才覚を買い上げて、北伐のときに酷使した諸葛亮が優れている。
十三年、廢儀爲民、徙漢嘉郡。儀、至徙所、復上書誹謗、辭指激切。遂下郡、收儀。儀自殺、其妻子還蜀。十三年、楊儀を廃して民とする。漢嘉郡に徙す。そこでも楊儀は誹謗の上書をして、言葉は差し迫って激しい。漢嘉郡に命じて、楊儀を捕らえた。楊儀は自殺し、妻子は蜀に還った。
夷三族ではなかったことに注意。おそらく楊儀は、謀反の発言は軽はずみな失敗に過ぎず、徙刑の本当の理由ではない。実態は政争に負けただけ。蒋琬は、楊儀を圧倒しつつ、自分に向けられる世論を意識して、処置をしたのだろう。
『通鑑集覧』はいう。楊儀は、蒋琬の秉政に嫉妬した。楊儀が「魏に寝返っておけばよかった」と言ったのは、韓信が蒯通の意見を聞かなかったのを悔やんだのと似ている。
ぼくは思う。楊儀を韓信に比したら、ワケが分からなくなるので、議論の展開は自粛。ともあれ、魏延・楊儀とも、蜀漢の主導権を握りたく、もしそれが不可能なら、敵の敵は味方のロジックにより、魏に寝返るという選択肢を(本人も周囲も)考えずには居られなかった。魏に寝返ることがリアリティを持った。それを確認すれば充分かな。
楊儀の兄は楊慮
楚國先賢傳云。儀兄慮、字威方。少有德行、爲江南冠冕。州郡禮召、諸公辟請、皆不能屈。年十七、夭、鄉人號曰德行楊君。『楚國先賢傳』はいう。楊儀の兄は楊慮といい、あざなは威方。少きとき德行あり、江南の冠冕(トップ)とされる。
『襄陽耆旧記』では「江南」を「沔南」につくる。州郡は禮召し、諸公は辟請したが、楊慮は出仕せず。年17で夭し、郷人は「德行楊君」と号した。
楊慮のことは、『魏志』呂布伝の注釈にある。……と『集解』にあるが、探してもよく分かりませんでした。
評曰。劉封、處嫌疑之地而思防不足、以自衞。彭羕、廖立、以才拔進。李嚴、以幹局達。魏延、以勇略任。楊儀、以當官顯。劉琰、舊仕。並咸貴重。覽其舉措、迹其規矩、招禍取咎、無不自己也。『蜀志』第十(『陳志』巻四十)は、残念なひと列伝だった。その編纂意図を明らかにするために、陳寿が各人に対して批判的なコメントをする。
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