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サイト『はじめての三国志』に寄せて

三国志や曹操を分かりやすく紹介|はじめての三国志
http://hajimete-sangokushi.com/

というサイトについてのコメントを、ツイッター上で頻繁に見るようになりました。ぼくも気になっていました。そして先日、151121 三国志サミットで、運営責任者のおとぼけさんに、お目にかかることができました。
気になっていた矢先、いつもお世話になっている、にゃもさん(@AkaNisin)のツイートを見たのをキッカケに、ラインで会話をしました。この会話がなければ、このページを書こうという気が起こらなかったはずなので、さきに、にゃもさんの意見をご紹介し、そのあと、ぼくが考えたことを書きます。

にゃもさん(@AkaNisin)の意見

@AkaNisin さんはいう。文章は誰にでも書けるもののようでいて、特別に学ばないとなかなか書けないものです。それを仕事にされる人は、当然卓越した技術と専門の知識を身につけています。なのにそれに敬意を払わない書き手を最近立て続けに見たので、悲しくなりました。
@AkaNisin さんはいう。匂わせるような批判はよくなかったです。このツイートは、はじめての三国志@otoboke3ngokusiというサイトに対する批判です。初心者向けを掲げながら知識不足の記事を書き、無自覚にか他人の分析を盗む態度が、とてもとても腹立たしいです。プロのライターさんに失礼じゃないでしょうか。

その他にも気になるツイート

サイト名で検索をしてみると、ほかにも気になるツイートが見つかりました。なるほど!と思ったのは、以下です。

@Jominian さんはいう。はじめての三国志の問題は、運営者の語る理念は良いし、読者の要求にどう応えるかという苦悩は分かるんだけど、現実に記事として表出しているものが、あまりに理念とかけ離れていること。そうすると、理念が嘘っぱちで、適当にやって儲けようとしているだけなんじゃないか、という疑念を抱かせる。

このページを書いた意図

ぼくの基本的なスタンスなんですが、はじめての三国志を応援しています。「理念」の部分は、すごいと思っており(自分のサイトがグチャグチャなので)、おとぼけさんには、「お手伝いできることがあれば、言ってください」と伝えました。

もともと、半年くらい前から、「妙に更新の頻度が高いな。どうやって運営しているんだろう。ん? 1人で書いているわけじゃないのか? 新しいなあ」とか、

ぼくのサイトも、ぼくがよく見るサイトも、大抵が三国志が好きなひとが、1人で書いているので。ときどき、閲覧者の方から「お手伝いをさせて下さい」という、ありがたいお話を頂きますが、1人で気まぐれに書き散らかしているので、何を「お手伝い」して頂けばいいのか、よく分からず、何かをお願いするには至ったことがありません。

「三国志そのものを楽しむより、三国志とウエブを使って、何かをしようとしているらしい(何をしようとしているかは分からないけど)。今後、どういう動きをするのか、気になるなー」と、身近なひとと話していたのです。

運営責任者のおとぼけさんのツイートは、「三国志にかんする本を読んで、こういう気づきがあった」系の内容よりも、ウエブのビジネス?系の内容が多かったので、このような疑問が生じました。

三国志サミットで、おとぼけさんと会うに至って、あらためてサイト開設の理念を読み、どういう方向性のサイトなのか、うっすら分かったような気になりました。

ぼくがここに何か書くことは、運営者への要望ではありません。「こうしてほしい」「こうするべきだ」という類いの意見なら、ここではなくて、運営者に送信すべきです。

きっと運営者のもとには、直接・間接に、さまざまな要望?や、玉石混淆のコメントが、届いているのでしょう。それに応対していたら、日々の更新が止まってしまう。そして一部のコメントは、更新を止めるための悪意のようなもの?を含んでいるかも知れず、かかずらっていたら、悪意の思うツボです。
厄介なのは、善意の応援・感想・助言と、悪意の呪詛とで、区別がつかないことでしょうか。きっと発言者も自覚がなく(区別しておらず)、受信者も区別できないでしょう。こういう事情があって、無視しているのではないでしょうか(こうした事情は、運営者から聞いたわけじゃないから、想像するのみですが)

しかし、ウエブだけを介して、他者を動かそうとするのは(より直接的に言えば、他者を操ろうとするのは、他者をコントロールしようとするのは)、方法がまちがってると思います。そんなことで、他者が変わるはずがない。

誰かのやり方が気に食わないなら、それを凌駕するものを作って、気にくわないひとの影響力を、界隈から抹殺すればいいはずです。


ぼくができるのは、ぼくの意見を掲示するだけです。
誰かに読んで頂けるかも知れないし、読んで頂けないかも知れない。そんなのは、副次的なことです。誰かを動かすかも知れないし、誰も動かさないかも知れない。それも、あまり興味がありません。
いま、はじめての三国志というサイトをキッカケに、こういうことを考えましたと、自分なりのメモを、ウエブに載っけて、いつか(心境の変化した、未来の自分が)読み返す日を、待っているのです。
では、本題に入ります。

カネは、いかにして知性を不調にするか

カネは、いかにして知性を不調にするか。
はじめての三国志に絡めて、ぼくが論じたいのは、このことです。はじめての三国志というサイトの善し悪しを論ずるのではなくて、その背景にある、構造のようなものを、つかみ取りたいと考えます。
上述、@Jominian さんの仰る「理念が嘘っぱちで、適当にやって儲けようとしているだけなんじゃないか、という疑念を抱かせる」という印象は、きっと、ひろく共有されていて(少なくともぼくは共有していて)、なんとなく、気持ち悪い感じがあります。
この気持ち悪さは、どこから来るんだろう…と考えました。

にゃもさんの意見を受けて、ぼくが思いますに、
「教養があり、先学への敬意を抱き、執筆のルールを守れる、良き書き手」と、「教養もなく、剽窃しても、内容が間違っていても居直っている、悪しき書き手」という、単純な二項対立ではないでしょう。
ゲームが始まる以前、ルールの段階です。前提が異なるのです。

ぼくの認識において、
良いブログや論文は、本質的に贈与(贈りもの)だと思います。ブログなら閲覧者、論文ならば他の研究者のために、良き情報を発信しようという気持ちから作られます。これは、ブログや論文だけでなく、世間の仕事一般にも適用されます。「いくら儲かるか」だけを基準とせず、お客様のために、良きものを提供しようとする職業人は、対価以上の価値を提供し、贈与をしています。
例えば、ライターというお仕事ならば、にゃもさんの言うところの「卓越した技術と専門の知識」を身につけて、読者に贈与をしています。特定の読者だけじゃなく、三国志に関する文化を盛り上げることで、その発展に寄与しています(大げさな話ではありません)。そういうライターさんは、たくさんいらっしゃいます。

しかし、すべての職業人が、贈与者であるとは限りません(ライターでもそれ以外でも、同じことです)。
市場原理を優先すると、いくら原価を下げて、利益を多く出すか、を先に考えることになります。「発注者からクレームがこない範囲で、いかにコストを下げて納品をするか」に、知恵を絞ります。これは、市場原理に従った発想であり、別に悪いことではありません。むしろ、市場原理のなかでは、賞賛されるべきことです。

原価の低減を強みにして、拡大した企業はたくさんあります。

例えば、ライターというお仕事ならば、市場原理に照らす限り、剽窃や間違いだらけでも、発注者が代金をくれたら、それでいいんです。ライターにとっては、発注者が「お客様」です。「お客様」がカネをくれるなら、それは正義です。市場は間違えないというのが、この原理の前提ですから。
むしろ、綿密に調査したら「負け」なんです。有料の情報源(書籍や雑誌)にアクセスしたり、調査や取材に時間をかけたりしたら、それを実費請求できない限り(時間を実費請求するのは難しいですね)、持ち出しです。損失です。綿密に調査することで、納期を守れなかったら、代金をもらえないわけですから、大損です。

他人の話ばかりしていると、ずるいので、ぼく自身の話をします。
ぼくは会社員ですが、会社に対する贈与は、ほとんど行っていません。上司に叱られないレベルを見極め、人事評価が下がらないように(ときには印象操作をして)限界まで手を抜いています。会社員として、本当のプロだとは思っていません。しかし、会社が給料を出すのなら、会社が(それほど悪くない)人事評価をするのであれば、これ以上、努力をするつもりはありません。
労働力という商品の売り手であるぼくが、発注者である会社からクレームのこない範囲で、労働力を納品して(日々、働いて)その対価をトラブルなくもらえたら、そこには売買行為が成立しており、それでいいんです。

会社に贈与していたら、三国志で遊ぶ時間がなくなるし。

労働者にとっての原価低減とは、手を抜くこと、サボること、残業代がつかないなら働かないこと、などです。これに、せっせと励んでいます。働いたら「負け」なんです。

どの企業にも(労働力の売り手としての労働者にも)当てはまることですが、短期的に収益をあげても、お客様に「だまされた」という印象を与えたら、中長期的には、市場で敗北者となる。商品を買ってもらえなくなる。良品条件を満たしつつ、ギリギリまで原価を下げる、というバランスが重要。


では、贈与する人間が、「愚直な好人物」で、
市場原理で原価を下げる人間が「賢明だが狡猾な人物」かといえば、
必ずしも、そうではない。ちがう原理のあいだで、往復運動をくり返して、意識しなくても、行動の基準を使い分けているのだと思います。

三国志のサイトの話に戻します。

ぼくらが、これまで見てきた三国志のサイトは、個人が好きに書いているものが多く、無料で閲覧でき、贈与されたものでした。

ただし、サイトの作成者が「有益な情報を、プレゼントしてあげましょう」と、ニヤニヤして、ときには恩着せがましく、にじり寄ってくるのではありません。そんなの、気持ちが悪くて、みんなが逃げます。

沈黙交易に似ています。何となく、誰かがポンと、生活圏の境界線上に、ものを置いていく(ゴミかも知れない)。たまたま拾った、べつの生活圏のひとが、「これは私のために提供されたものだ」と解釈して、受けとる。欲しくなければ、受けとらない。不気味ならば近寄らない。
あるとき、受けとったひとが、「提供してもらったなら、何か返さないとな」と負い目を感じて、もとあった場所に、別のものを置いていく。また、誰かが「自分あてだ」と思って、受けとる。そして、いずれ別のものを置いて……と。顔の見える商談をするのではなく、なんとなく、ものが循環する。ものが停滞しても、それもまたよし。丁々発止の値切り交渉など、そこには発生しません。

三国志のサイトには、沈黙交易のような雰囲気があるのではないでしょうか。リンクを貼ったり、ほかで引用したり、感想を書いたりする。ブログの持ち主なら、そこで紹介したり、議論を深めたりする。ブログがなくても、リツイートしたり。
「三国志に関する、おもしろい情報」という財物に関して、経済史?的には、きわめて原始的なやりとりが、行われていたような気がします。カネを媒介せずに、なんとなく、ゆるやかに繋がっていたのです。
値札をつけて売るわけじゃないから、「手を抜く」ことは賢明な行動ではなく、「だれも拾ってくれなくなる」だけです。手を抜いてまで、ムリに更新するモチベーションは、どこからも湧いてこないから、更新が滞って終わりです。それでいい。

そういう環境のなかに、はじめての三国志という、市場原理のにおい(後漢っぽくいうなら「銅臭」)がするサイトが現れました。更新頻度の高さと、かわいいイラストによって、存在感を増した。界隈は、異質なものに邂逅して、ざわめいたのです。
間違えてはいけないのは(誰も間違えていませんが)、閲覧者は、カネをはらって、はじめての三国志を見ているのではないため、「カネを返せ」「代価に見合った品質を提供しろ」と、抗議する権利はありません。なんとなく、銅臭への違和感に、対処できずにいるのでしょう。

はじめての三国志の文章の品質は、にゃもさんの仰るとおり、決して優れたものではありません。品質の悪さは、にゃもさんに同意します。
しかし、これまでのブログとは異なる原理に基づいて生産されているものです。なるべく手を抜くことを「正しい」「有利だ」とする原理のなかで、量産されているものなので、それに怒っても仕方がない。
剽窃や誤記があっても、運営者が「検収」をあげて、「支払」をしてくれるなら、それでも構わない。それどころか、むしろ、「こんなに剽窃や誤記があるが、検収をあげてもらえたよ!ラッキー!」という方向に、損得勘定が傾きます。

誤解なきように申しますが(ものすごく分かりにくいと思いますが)、はじめての三国志のライターが、そういう私利私欲にあふれた、邪悪な集団だと言いたいのではありません。人類として不可避的に、そういう動き方をしてしまう、という原理の話です。きっと当事者の意識には、ここに書いたことが顕れていないでしょう。意識にのぼらずとも、行動が方向づけられるところに、構造のすごさがあります。
会社で、最低限の仕事しかしないぼくが、私利私欲にあふれた、邪悪な人間であるとは限りません(邪悪かも知れません)。そうでなく、資本主義のつくった約束に従って、動いているだけなのと同じです。

カネという媒介が挟まることによって、当事者が意識しているかどうかは別として、市場原理が「侵食」しているのです。1円でも払えば、そうなります。
贈与の経済に生きていた、三国志の界隈のネット閲覧者(ぼくを含む)は、そこに気持ち悪さを感じ取っているのではないでしょうか。

では、どうすれば、気持ち悪さが払拭されるか。方法が2つあると思います。

くり返しますが、これは、はじめての三国志への提言ではなく、カネを媒介させることで生じた知性の不調を、いかに解消することができるかという、思考実験の結果です。

1つ、充分な報酬を支払う。
現在、いくらのお金が動いているか知りませんが、歴史について平易に解説するには、高い専門性が求められます。数字がひとり歩きしてもいけませんが、1本の記事に対して2万円を支払うとか、それぐらいの敬意を金額によって示せば、充分な準備ができ、品質はあがるのではないでしょうか。

物書きとは、全く関係ない職場で働いているので、相場を知りません。適当に書いています。「業界の金銭感覚が、まるでないな」というのであれば、笑って流してください。ぼくは、世間にある、ビジネスのベースに乗った良質のコンテンツは、それなりの代価が支払われることによって、成り立っている(成り立っていてほしい)と思います。

2つ、報酬をなくす。
サイト立ち上げの経緯は知りませんが、「同志」が集まったことが窺われます。志を同じくするのであれば、カネの授受は、ジャマになります。人間関係を破壊するのではないでしょうか。貨幣には、贈与の輪を断ち切って、人間を分断・孤立させる機能があります。

隣の家から、おかずをもらったら、人間関係が深まり、いつかお返しをする。コンビニで惣菜を買っても、店長に恩など感じない。代金を払ったら、それで終わり。

「それのみで生活費の大半をまかなえる」ほどの金額を用意できなければ、お小遣い程度の報酬など、ないほうがいいです。
今日の日本で、献血してもカネはもらえません。お菓子やジュースはもらえるが、現金はもらえない。血が足りないとき、血をカネで買いとれば、献血者が増えるのではないか、と考えたことがあったそうです(出典、時代・国ともに忘れました)。結果、献血者は減ったらしい。無償ならば志に訴えかけられ、贈与の気持ちが動く。しかし、カネを支払われると、なんだか萎える。
身近な話でも、例えば、電車で席を譲ったら、「ありがとう」と500円を渡されたら、ガッカリする。たとえ、同じ電車の座席指定の料金が、同じ500円だったとしても、なんか違う。

2つめの方法をとり、報酬をなくすことで、去るライターが出てくるかも知れません。しかし、それは仕方がない。去ってもらうほうが、サイトのためになる。なぜなら、そのひとこそ、無意識にでも「手を抜く」ことに励んでいたひとだから。初めは同志だったのに、カネによって分断された。重ねて強調しますが、そのひとが貪欲なのではなく、市場原理に活動の軸足があったというだけです。

むしろ現代の多数派ではないでしょうか。

べつにぼくは、清貧をムネとして(後漢かよ)、「サイトで儲けることが許せない」と言いたいのではない。知性が不調を起こす原因が、充分な金額ではない(と思われる)の報酬のせいではないかと思えるのです。
収益化するには、無報酬の同志が結束しなおして、サイトの信頼性を高めてからでも良いのではないか。イラストやウエブ管理について、ぼくは善し悪しの分かる人間ではないので、コメントできませんが、少なくとも文章に関しては、そう思います。

剽窃・誤認だらけの文章でも、きちんとサイトが収益を上げたら、「市場は正しい」ので、それが正義です。ぼくのような、古参(になりつつある)ブロガーの戯れ言でしたと、このページを読み返せるなら、それはそれで嬉しい結果です。


はじめての三国志の事例は、人類学的な知見が得られて、勉強になるなあ……、霊帝の売位売官が、王朝に致命的なダメージを与えたのではないか(←この話を通じて考えを深めたい本題)と思って、眺めております。
好き勝手に、書き散らかしましたが、本音です。失礼しました。151205

当サイトのトップページに、はじめての三国志のリンクを追加しました。
追記:週末に書いた文章についてコメントを頂き、ぼくの発言を受けるような形で「市場原理主義 」という語彙を使われた。そんな言葉使いをした覚えがないので確認したら「市場原理」「資本主義」とは言ってて、似た意味にしてる。しかし「市場原理主義」の話をした覚えがなく、ニュアンスが違う。難しい! きっと彼らのいう意味での「市場原理主義」を志向しなくても、市場原理に基づいて行動していると、原理主義的な行動を取ってしまって、恐いな、というお話をしたかった。どうでもいいニュアンスの違いの話、朝からすみません。151210

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『はじめての三国志』に寄せて【追記】

「まとめ」が作られたりして、話題が活性化してきたので、追加。

160118追記

はじめての三国志、情報が増えてきましたね。当事者を追及したいのではなくて(むしろ一貫して応援しています)、「たかが少額の報酬により、いかに人間の知性が破壊されるか」というモデルとして興味深い。
貨幣はもっとも優れた商品です(受け取りを拒否されないから)
近年、ぼくたちは、貨幣経済に馴れ過ぎた結果、「全ての情報の応酬に、いちど貨幣という媒介をかませる」という倒錯が発生している。『はじめての三国志』にまつわる、気持ち悪さ(のようなもの)は、このあたりに起因するのではなかろうかと、ぼくは思っています。
元来、貨幣を媒介させなくても、物々交換できるなら、話は終わりです。もっとも優れた商品である貨幣を噛ませなくても、取引は成立する。

「伝えたいことがある」人と「読みたい」人が繋がれるネットってすごい。


いきなり貨幣の話に飛んですみません。こういうことなんです。
ブログの運営者がカネをライターに払う。広告主が広告会社にカネを払う。閲覧者が広告を見て、広告主にカネを使う。広告会社が運営者にカネを戻す。運営者が、次の記事の代価としてライターにカネを…。これだけ複雑にカネのゲームをしても、内容の向上に資さないのだから、貨幣経済って(ある部分では)本当に効率が悪いモデル!
はじめての三国志が失敗するなら、「赤字が膨らんで閉鎖」という形であってほしくありません。カネで活動の成否を決めるのは、彼らの価値観です。もっと別の観点、「文化として活性化しなかった」、「黒字だけど方向性を見失った」という形で幕引きをして、知性に関する何らかのヒントを与えてほしいです。

ある識者の仰るように、500円の報酬を提示されたら作らない記事でも、無償なら作って公開したい。変なの!

@Jominian さんはいう。約1500文字。1時間で作りましたが、500円では作りません。 季漢書 : 第二次・第三次北伐 陳倉攻撃~武都陰平攻略 http://blog.livedoor.jp/jominian/archives/3090503.html …
ぼくは思う。このツイートは、真理を突いていて、溜め息をつきました。

たまたま三国志というネタを通じ、過熱した市場経済の外部を垣間見ることができるチャンネルを確保できた。たのしー。

160119追記

@my_birthday0128 さんはいう。三国志に興味を持ち始めた頃に、三国志サイトやブログに貼られたリンクから他の三国志サイト等に飛びながら、様々な知識を得たことを思い出す。はじ三も、ただコピペするのではなく、引用としてちゃんとリンクを貼れば、初心者の三国志道を切り開く一助になれるのになぁ。

というツイートを見て、考えてみました。
『はじめての三国志』の滅亡要因は、史実の袁術と同じです。先行世代・同輩から集めた威信・財産を自分のためだけに使った(ように周囲から認識された)ことにより、支持者を失いました。受けた恩(パス)は次に回す。これがルール。引用元の明示もパス回しです。
思うに、三国志に限らず、文化的な営みは、パス回し・バトン継承に例えることができます。前任者からバトンを受け、しばし走って後任者に渡す。バトン自体に価値はない。走ることにも意義がない。回すという(一見すると)空疎な行為こそ本質。
バトンを受けとらずに走った宮城谷昌光『三国志』。バトンを受けとって退蔵した『はじめての三国志』。
『宮城谷三国志』・『はじめての三国志』に対する違和感は(成功者への嫉妬という人間らしい感情が混ざっているとはいえ)人類学的に裏づけのあることだと思う。

この人類学的な営為が、カネの介入によって、動作不良を起こしているのが面白い!とくに『はじめての三国志』は、ビッグ・マネーが動いているわけじゃなく、数十万円の規模ですらないと思う(知りませんが)。それなのに、こんな変なことになるなんて。

『はじめての三国志』は、いろんな走者からバトンを受けとるが、自分では走らずにバトンをコレクションしてる。しかしバトンは、そのように使うものじゃない。それでは、これまでバトンを繋いできた先行者に対して失礼だと思います。知性の不全(記事の品質の悪さ)は、このスタンスも反映しているのか。

バトンを独り占めするようなことをするから、知性が不全になるのか。知性が不全だから、バトンを独り占めするようなことを始めるのか。きっと再帰的に、足を引っ張り合っている。悪循環に陥っている。

自分で走らない(ブログや本を作ったりしない)人たちも、観客としてリレーを応援しています。彼らの期待も裏切ります。「走れ!ちゃんと走って、競技を成立させてくれ!バトンを鞄に入れて、競技場を去らないでくれ!」と。

三国志警察と、その対処法

「三国志警察」というのがいるらしい。しかし、公的な存在ではない。
どうやら「三国志警察」の主要な任務は、ネットに掲載された、三国志に関する誤った情報を摘発して、修正を強く要請?することらしい。

三国志警察は、ネットに誤情報を載せることを批判して、「誤情報を信じる人がいるでしょう」という語り口を使うときがある。このとき(に限定して見れば)警察の態度は、ほかの閲覧者の読解力を、低く見積もっていると思う。読者はそんなに単純ではないと思います。
警察の取り締まり対象として、閲覧数のおおい百科事典とか、有力な(と批判者が認識している)サイトのことになっても同じ。「こんな権威のある場に書かれた誤情報なら、信じる人が増えるでしょう。なおさら、許しがたし」と言いたいのだと思われますが、話形は同一です。やはり読者を低く見積もっています。

誤解を恐れずに、端的にいえば、ある局面において警官は、

警官というのは、特定の個人、特定のアカウントのことではありません。数あるペルソナのひとつ。きっとぼくの仮面のレパートリーのなかにも、「三国志警察」はスタンバイされているのです。怖いことです。

「私は当否を判断できるだけの知性を備えているが、そうではない他の閲覧者のために、代わりに取り締まる」という態度で、捜査に臨んでいるのではないでしょうか。どうもスッキリしない。私見ではありますが、採用されている人間観や、ネットに対するスタンスに、いまいち共感できないから、このような感じ方をしてしまうのだと思います。

念のために補足しますと、ぼくは近日のネットで、どういう定義・文脈で「三国志警察」という言葉が使われているか、網羅的に調べたわけではありません。しかし、いまツイッターで「三国志警察」として名指しされているひとがいるとしたら、ぼくは、その方を念頭に置いて、これを書いたのではありません。
むしろ、近日「三国志警察」という言葉を作り出した方は、「うまく言えないけど、なんとなく存在に気づいていたこと」「自分のなかにも巣くっていそうな怖い存在」に、適切な名づけをなさった方です。
くり返しますが、警官というのは、特定の個人、特定のアカウントのことではありません。ネットに、むかしから隠然と存在しているような、圧力ないしは風潮・空気のようなものを指す言葉として、一時的に借りております。


なんの話をしているかというと、『はじめての三国志』の記事が、間違いだらけだとしても、その側面については、「仕方がない。ネットなんだし(ネットに限らずあらゆる情報は、そういうもんだし)」と思います。

だからぼくは、このページのなかで、特定の記事の正誤について、1回も発言しておりません。というか、そんなに厳密にチェックする気分もなく。校正マンではないから。
ただし、運営の仕方とか、そこから派生する種々の品質問題については、興味があります。記事の正誤なんて、ただの結果だから、あげつらうことに意味がないと思います、というのがぼくのスタンスです。


ただし、もし記事について、ただの誤記ではなく、剽窃などの「犯罪」を指摘されたら、謝って削除したほうがいいでしょう。電化製品は、不良品の回収にコストが掛かるが、ブログの記事なので、ボタンひとつで消せる。
もし、有志(友だち)に無償で書いてもらったなら、消すのは「気が咎める」でしょう。しかし、カネで買いとったのだから、クールに消すことができる。というか、「消す権利」が運営者にある。ライターには、原稿料を(少額であれ、契約に従って)払ったのだから、後腐れはない。ここは、カネという、人間の恩讐関係を分断するツールを導入した、副次的なメリットでしょうか。

「製造原価が掛かっているから、消すのが惜しい」という気持ちが生じるはず。しかし、カネのゲームにした時点で、そんな気持ちに惑わされてはいけません。訴訟とはいかないまでも、問題が広がるよりは、損切りをするのが、経営者としての姿勢です。


引用元を明示すると、ページ・ビューが増える

『はじめての三国志』が出典を明記しないのは、なぜか。パクリ・コピペであることがバレるから、という、現実的な事情もあるでしょう。というか、すでにバレたので、もう出典を隠す理由にはなりませんよね。
あるひとは、「リンク先に読者が流れるから」「自サイトの閲覧者が減るから」ではないかと仰ってました。しかし、そうだとしたら、すぐに改善すべきところだと思います。

出典を隠すことの問題の本質は、どこにあるか。
「パクられた側が、本来は受けとれたはずの利益」を盗んだから?
いいえ違います(ぼくは重視しません)。たしかにそういう側面があるかも知れませんが、金額に換算したら、微々たるものでしょう。パクられた当人は、「憤懣やるかたない」と思いますが、そこは付随的なことです。

ぼくが思うに、出典を明記することは、ページ・ビューを増やすことがあっても、減らすことはありません。もしも、「出典を明記すると、ページ・ビューが減るんだ」と、少しでも思って、今日の情況に至ったなら、誤りです。

ページ・ビューのことは、知人の推測を聞きかじり、ぼくがこだわっているだけで、運営に聞いたわけではありません。しかし、わりに、感情の動きとしては「ある」ことだと思います。この感情の働きが、上述の袁術に通じます。うまいこと利益を独占できないか、というスケベ心は、誰にでもあります。
現状、出典が明記されていない理由は、「なんとなく」であり、ライターからすれば、「そこまで頼まれなかったから」でしょう。しかし思考実験のネタとしては有効です。

出典を隠すのは、物書きとしてマナー違反であることはくり返しませんが、ビジネスとしても「誤った判断」です。ちゃんとカネを稼ぐなら、出典を明示したほうがいいと思います。これがぼくの考えです。なぜか。

ひとが物事を理解するとき、複層的な情報を頭に入れます。
ながい学術・文化の歴史のなかで、この題材は、どのように培われてきたのか。いまどこにいるのか。いま読んでいるものが、どういう位置づけのものなのか。コンテンツ(内容)に加え、コンテキスト(文脈)が、必ずセットになるはずです。コンテキストが消された状態で情報を与えられても、おもしろくない。信頼できない。

ちまたの初心者向けの本は、いちいち注釈がついていませんが、巻末に、著者による専門書のタイトルが書いてありします。専門書を書いたことがないひとに、出版社が初心者向けの解説を頼むことは、少ないでしょう。巻末のプロフィールが、注釈に代わる役割を果たしています。位置づけを保証します。
『はじめての三国志』のように、ネット上で、ちまたの入門書の本文の体裁だけマネても、ちっとも初心者向けになりません。サイトがゴチャついて困るならば、クリックしたら開くとか、どうにでも「一見、取っつきやすくする方法」はあるはずです。コストが増えるけど、「100円の生焼けのパン」よりも「150円の焼けたパン」のほうが売れるはずです。

引用元を明示することは、コンテキストの提供となる。コンテキストが明らかなサイトには、多くのひとが、何度も足を運ぶのだと思います。

グーグルが「被リンク」でページの重要性を判断したり、論文は「被引用回数」で評価が決まったりするように。

学術・文化の輪に、きちんと乗っかること(自らの位置を言明すること)が、ページ・ビューを増やすことに繋がります。

誤解してはならないのが、「初心者」とは、「バカ」「幼稚」と同義ではないということです。たまたま、そのネタに触れる機会が今日までなかっただけです。ほかの分野で、興味と好奇心をもち、いろいろ学び味わってきた層でしょう。
たとえば、皆さんが物理学に詳しくなくて(ぼくは詳しくないです)、突然、物理学に興味を持ったとします。初心者向けをうたった、「はじめての物理学」という、ゆるいイラストのサイトに、何度も足を運ぶでしょうか。有名な実験は、かわいいイラストで知りたいでしょう。物理学者のエピソードも。しかし、出典の明示のない「行き止まり」であり、つぎに何を読めばいいのか、まったくヒントがなかったら、それでも通いたいか?という話です(説得力があるなあ!)
情報を集めるために、ポータルサイト的な使い方もできて、遊び・学びのガイドをしてくれるという機能もあれば、きっと何度も通います。小手先でごまかしたような(出典が特定されたら、読むに値しないことをライター自身が自覚していそうな)読み物ばかり載っていても、すぐ飽きます。たとえば、既存の書籍の紹介・感想などがあるサイトは、とても信頼できると思うのは、ぼくだけではないはずです。

霊帝の売官制の功罪

くり返しますが、ぼくには、運営者を「叩く」意図はないのです。たまたまコンテンツの善し悪しを判定できる(ような気がする)分野で、既成の価値観(市場・貨幣経済を万能と見なしがち)が、相対化される(というか、弊害のほうが大きく表出している)事件が起きているから、部外者として楽しんでいるのです。
これはぼくのなかで、先月も書いたとおり、霊帝を理解するためのヒント。

以下、蛇足(もしくは本題)
漢の官職は、俸禄を「○○石」と表示するが、それは経済的な有利さよりも、官職のあいだの高低を明確にするのが狙いでしょう。これが魏晋で「○品」に表示が変わっても機能は同じ。当然、官位があがれば経済的には有利になるのだろうが(俸禄以外の収入も増えそうだし)経済が指標の第一とならない。
後漢の霊帝以外にも、官職の販売はあったが、寄付して名誉職を買うくらいの位置づけだろう(要出典←)。本格的な投資の商品として、官職を大々的に売り出した霊帝が、いかに革新的な改革(=既成秩序の破壊)をやったのか、正確に見積もることから、三国志の理解が始まる!

霊帝の評価について、宦官の傀儡の暗君/主体的に制度改革に取り組んだ名君という、二項対立がある(気のせいかも知れない)。だが、制度改革の副作用によって、後漢の滅亡が招来された面もあるはず。その場合、暗君か名君か判断に困ります。
官職の販売、州牧制、軍事制度……。とりあえず官職は、あたかも手触りがよくパッケージングされた商品のように認識され、競合的に贈り/贈られるようになった。州牧制・軍事制度は、割拠を促進した。
後漢末~三国の群雄は、霊帝があたえたオモチャを使って、たたき合った。それを霊帝の先見性というか、「やっぱり霊帝が後漢を滅ぼした原因じゃん」とみるか。160118

160120追記

@Jominian さんはいう。私は件のサイトは最早放っておけばいいと思うが、誤りを指摘する行為そのものを侮蔑的に見るようなこの考え方は、賛同しかねる。デマが容易に拡散され根絶が困難になるのはよくある。それを無くそうとする人の心の奥に無理に悪意を見ているように思う。三国志に限ったことではなく、「デマでも何でも自由に語らせろ。指摘するのは人をバカにする卑しさがあるからやめろ」みたいな態度は、はっきり言って承服できるものではありません。公開しているのだから、誤りがあれば指摘されて然るべきですから。

これを受けて、ぼくは思います。
上記 三国志警察の件、持論を浮き上がらせるために、ネット上の誤りを正す行為を貶めてしまって良くなかったです。ごめんなさい。
ぼくは「あらゆる読者は真偽を見通せる」と楽観すると同時に、「ネットの情報は、そこまで人の認識に影響を与えない」と悲観・絶望もしてて、ゆえにミス容認・放置を唱えました。ミスがあっても仕方ないし、大勢に影響がないから、いいじゃないかと思ったため、このように書きました。
当人のネットとの付き合い方によると思うのですが、
例えばぼくは、ぼくのサイトに「レッテル貼り」めいた記事があっても、読者は過度の単純化を割り引いて読めると思うし(楽観の側面)、たかが個人サイトを見て考えを形成するひとなどいないと思う(悲観の側面)ので、書いてしまいました。
ともあれ、デマをあおりたいとか、誤りを正すひとの胸中に悪意を見出そうとか、そういう意図はありませんでした。そのように読める(というか、実際にそのように書いてしまいました)のは、適切なことではなかったです。ごめんなさい。160120

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『はじめての三国志』に寄せて【追記2】

160121追記

上記 三国志警察の件について、「誤りを指摘されたら、素直に正せばよいのではないか」というご意見を頂きます。おっしゃるとおりです。なぜぼくは、誤りを指摘する行為に疑問をもつ(正直に告白すれば、ときに敵意のようなものすら抱く)のか。また、なぜ、誤りを放置することを是認する(仕方ないとする)のか。
皆さまからの反響を見て、よくよく考え直してみました。今から述べるのは、上の記事を書いたときに、心のなかに予め準備があった事柄ではありません。「なぜぼくは、こんなに不適切な(各方面から批判を受けるべき)ことを書いたのか」という内省の結果です。

ぼくは、ネットを通じて、誤りを指摘され、是正するというプロセスが、なかなか成り立たないと思っています。
誤りの訂正には、最低ふたつの要素が必要です。①指摘内容の正しさ・信頼性。②指摘に従うことができる心的情況。このふたつです。

会社の仕事を例に、考えてみます。
日々、顔を突きあわせている職場で、上司から部下に対してですら、仕事のなかで誤りを指摘し、訂正させるのは、心が波立つものです。職場の小さな「事件」であり、ときに「戦争」に発展しかねません。
上司から「きみ違うよ、直しなさい」と言われても、部下は①上司の言うことが本当に正しいのか、疑うでしょう。よくある話ですが、上司のさらに上司まで決裁をあげると、訂正箇所が元に戻る(部下が正しく、上司の指摘のほうが不適切だった)ということは起こりえます。
そして誰でも、自分のつくったものは、いちどは「正しい」と思って提出していますから、単純ミスの場合ですら、②指摘をもらったとき、納得感をもって(気持ちよく)受け入れるのは、なかなか困難です。これは、人間関係の永遠のテーマでしょう。会社の例の場合、上司は決裁権限というパワーを付与されていますから、カタチだけ従わせるのは可能です。しかし、怨みが残るのは、避けにくいと思います。
このように、①指摘内容の妥当性を信じ/確かめ、②オープンな心的情況を担保するのは、わりに困難です。

本題に戻り、インターネットを媒介にしたミスの指摘は、どうでしょうか。
①指摘内容の信頼性を、保証するのが難しい。
まず発言者が、「誰」だか分からない。かつて匿名の掲示板が主流だった時期(ぼくは見たり書いたりしませんでしたが)に比べると、ツイッターは、発言者の傾向・属性を、いくらか追うことは可能です。しかし、やはり「誰」だか分からない。
これは、特定の個人が悪いのではなく、ネットというのが、そういう媒体だからです。互いに「誰」だか分からない、というデメリットを構造的に抱える一方で、情報の交換を容易にしてくれました。
「誰」だか分からないひとの発言を、吟味するのは、とても時間のかかることです。「全ての発話者が、同様に信頼できない」わけですから、取捨選択に多大な労力がかかります。

あってはならないし、きっと無いのでしょうが、悪意をもって撹乱するひとがいる可能性すら、想定しなければなりません。ネットとは「そういうもの」です。

そして、指摘内容が正しいのか、自分の目で確認するのは、とても大変なことです。「誤りの指摘を受けたら、自分なりに確認する」のは、発信者の良心・規範意識に照らして、当然 行うべきことですが(ぼくはこれを絶対に否定しません)、
インターネットを通じた誤りの指摘にも、無条件に適用されるのか。無数の反響に、ひとしく応えることが、行為として成り立つか。時間対効果が成り立つのか。やや疑問を持たざるを得ません。
「単純な記載ミス・事実誤認ならば、すぐに訂正できるだろう。少なくともそれは直すべき」という反論が想定されますが(ぼくもそう思いますが)、なにが「単純な記載ミス・事実誤認」なのか、それを判別するのも、容易ではないはずです。これには、高いリテラシーと、長い時間が必要になります。「誰」からだか分からない指摘の数々に、きちんと付き合うのは、現状の彼らの体制では不可能でしょう。

……だからぼくは、『はじめての三国志』が、誤情報を垂れ流してもいい、と言いたいのではなく、信頼できる(繋がりが「インターネットだけ」ではない)ブレーンを迎えるべきだと考えます。まずは発表前、その人物にチェックさせる。その後、玉石混淆(すみません)のネット上の指摘に、優先順位をつけさせる。短時間で、訂正すべきことと、無視しても構わないことを選別させる。
幸い、匿名掲示板に比べると、ツイッターは、発話者の信頼性に関する情報をおおく提供してくれるので、このブレーン氏の作業は、捗るでしょう。

ブレーンを「迎える」と書いてしまいましたが、これは『はじめての三国志』の話ですから、「雇う」とすべきでしょうか。


②指摘に従うことができる心的情況のこと。
これも、ネットという媒体の不可能性に起因すると思いますが、まだ面識・信頼関係がないのに、ネットだけを通じてミスを指摘するという行為は、礼を失したものになりがちです。いくら、あらかじめ丁寧な言葉を並べて、冒頭で意図を述べたとしても、どうしてもトゲになりがち。
くり返しますが、特定の誰かが無礼とか、そういう話ではなく、ネットという媒体の特性上、そのようになってしまうことが多いのではないか、というぼくの印象です。まして、匿名であったり、断片的な言葉であったりしては……。
さっき例に出した、上司・部下というリアルの関係ですら、ミスの指摘とその受容は、かなりの困難がともないます。ましてや、「誰」だか分からないひとの指摘を、快く受け入れる環境・度量を、どれだけの発信者が持てるでしょうか。

ミスの指摘という行為が「正しい」にも関わらず、ぼくが敵意のようなものを持ってしまったのは、かつて匿名のだれかに「土足で踏みこまれた」と思った経験があるからです(主観の問題です)。①指摘が妥当であると、確かめることができた場合があります(そのような場合ばかりです)。しかし、語り口に対して②心情が逆らってしまい、すぐに是正する、という基本動作に、粛粛と移れませんでした。ぼくの場合は、ぼくがダメです。

一般的な教訓として、間違いがあれば素直に認めて、誤りを正すべきです。しかし、ネットを通じて実現できる(しやすい)ことでしょうか。
先月にも書いたことをくり返すと、ウエブだけを介して、他者を動かそうとするのは(より直接的に言えば、他者を操ろうとするのは、他者をコントロールしようとするのは)、方法がまちがってると思います。そんなことで、他者が変わるはずがない。これがぼくの考えです。

では、インターネットで、他サイトのミスを指摘することは無意味か。さらには、「ミスを指摘すべきではない」とまで、ぼくは言おうというのか。違います。
分かりにくいので、説明させてください。
ネットでは、ミスはどんどん指摘されるべきです。しかし、ミスを指摘したのに、相手がアクションを起こさないことに不満を持つ(怒る)のは、行きすぎ(期待のしすぎ)ではないでしょうか。指摘者の善意・義憤は、すごくよく分かるのですが、ネットという道具には、限界があるのです。
ぼくが思うに、ネットは、議論の場ではありません。互いに、じぶんの意見を、虚空にむかって掲示する。できるのはこれだけです。
あるサイトがデタラメだと思ったら、「ここは間違っている」と、別の場で掲示する。それが、見られるかも知れないし、見て誰かを動かすかも知れないし……、見られないかも知れないし、誰も動かさないかも知れない。こういう中途半端な、気持ちの悪い状態が、おそらく到達点の限界です。互いの反応については、関知しない(できない)。確信犯的な行き違いを通じて、言論の「ゆるい場」が形成されていく。
「ゆるい場」ですから、
読者が、特定のサイトの情報だけを鵜呑みにすると、ぼくは思いません(読者のリテラシーに対する楽観)。ぎゃくに、特定のサイトが、読者にそこまでの影響を与えられると、ぼくは思いません(ネットの影響力に対する悲観)
読者は、検索結果の上位数件を、チラチラと見て相対化しつつ、ネットの外部の情報とバランスを取りながら、知識・見解を形成していくのではないでしょうか。

10年近く、ホームページを持ってネットに関わってきた結果、ぼくは、このような距離の取り方になりました。だから、ネット上でミスを指摘することの「良心」と、改善を求めている(ように思われる)姿勢に、寄り添えないのではないかと思います。
ただし、その行為を貶める意図はありませんでした。上を修正してもなお、不適切な表現があるかと思います。ごめんなさい。

まとめます。
ネットで、他サイトのミスを指摘することは、もちろん意義のあることです。誤りは訂正されるべきです。
しかし『はじめての三国志』運営は、①指摘の正しさの吟味と、②気持ちの整理に、じっくり時間をかけて取り組めば良いのではないでしょうか。機敏に正しく対処できたらベストでしょうが、それをするには、ネットという道具が不向きです。
あ、でも、出典・引用元・参考文献の表示は、すぐにでもやって下さい(笑)

持論のくり返しになりますが、
ぼくがこれを書いても、運営者が読むかも知れないし、読まないかも知れない。運営の仕方が変わるかも知れないし、変わらないかも知れない。でも、それでいいと思っているから、運営者へのメールではなく、ぼく自身の媒体(サイト)に書いた次第です。三国文化の活性化のために、応援しています。160112

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