雑感 > 2014 三国志学会より、『三国演義』の話

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雲状のテキストの集合体、『三国演義』

2014 三国志学会 京都大会より

『三国演義』は、単一の著者が責任を持つ、単一のテキストではない。近代的な文学作品と同列に考えてはダメ。
というのが、
三国志学会で聞いてきた話。書房(出版社)が、売上向上、思想の表明、教養の誇示、「学術」的な正確性、などを目的に不断に書き換えをしてきた、テキストの雲状の集合体。

文化資本として取り扱われ、それぞれの集団が、いろんな方向に威信を発揮するための材料だった。という話に膨らむと、おもしろそうだと思った。でも、明清の出版文化なんて、やれる気がしないので、しません。
書肆というと、ただの商人というか、版木をつくる職人というか、社会的に低いとされる階層を、なんとなくイメージしてました。でも、『三国演義』の扱いを通じて、そんなテキトウな決めつけが、全然ちがうって気づきました。
わざわざ実行する必要はありませんが、日本のインターネットでも、文化資本の原資としての三国志が、なんとなく階層を形成してますね。威信が競われていますね。なんだか、嫌らしい話になるので、深入りしませんがw


学会で『三国演義』の版本ごとのテキストの、変化や差異を強調されたので、漢魏革命を読み比べした。このページの下に、葉逢春本の漢魏革命のテキストを、途中まで入力して載せてます。葉逢春本だけ、まだ見てなかったので。
結果は、「だいたい同じ」でした。嘉靖・葉逢春・李卓吾・毛宗崗を見たことになります。細かな差異があるが、むしろ共通点のほうが目につきました。自分で諸本を比べず、学会で聞いてきた話を受け売りにして、テキスト間の差異ばかりを意識するのも極端な態度です。テキストが不確定と決めつけるのも問題かも。
たとえば、
「どーせ『三国演義』は、話がバラバラなんだよ。読むべきものが確定してないのに、どうやって読むのさ。読んでほしかったら、きちんと近代的なテキストとして成型してから、持っていらっしゃい」と、グレてしまうのは、適切な態度ではありません。

ぎゃくの視点から。
『三国演義』のアンチテーゼであるはずの「近代の文学作品」として、例えば吉川『三国志』がある。同作は、新聞連載から本に移行するとき、変更・削除が為されたそうだ。これも単一のテキストじゃない。今日の文庫版を見ても、全てが分からないから、吉川『三国志』研究は深みがあるわけで。
わざと話を混ぜっ返しましたが、
テキストがバラバラのはずの、前近代の『三国演義』は、思っていたよりは(学会で発散されていたイメージよりは)整合的なテキストを持っている。また、テキストが確定的に認知できるはずの、近代の吉川『三国志』は、ぼくたちが文庫版だけを手にして、勝手に想像するよりは、テキストがバラバラである。
さあ!分からなく(おもしろく)なってきました。

三国志をやるための文学理論が要る

学会大会の午前と午後で別に論じられた、『三国演義』研究と吉川『三国志』研究を通貫できるような文学理論を、拝借(もしくは作成)することが、ぼくらのテーマじゃないのかなあ。三国志という重層的なテキスト群を対象にするがゆえに、道具として、そういう文学理論が要る。牛を斬るには牛刀が要るw
というか、目の前に裁くべき牛がいるから、牛刀が作られるのでしょう。三国志は、裁くべき巨大な牛だと思うのです。歴史だ、文学だ、と境界線論争をしている場合では、ないのかも知れません。

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葉逢春本の漢魏革命シーンと、考えたこと

ほかの版本と比べるために、葉逢春本をパソコンに打ち込んでました。
ここで画像を見てます。
葉逢春本《三國志史傳》
http://www.babelstone.co.uk/SanguoYanyi/YeFengchun/Contents.html

途中であきて、見直しすらしてないので、まったく宛てになりません。パソコンのなかで埋もれそうなので、とりあえず、載せておきます。

却説、魏王曹丕同官遂乃引甲兵三十万、南征至沛国譙県、大饗六軍。郷中父老望塵奉觴進酒,效漢高祖還沛之意。七月間、大将軍夏侯惇病危、遂引軍、還鄴。惇已死。曹丕親自掛孝殯送於東門之外、厚礼葬焉。
八月、報称石邑県鳳凰来、臨淄城麒麟出。黄龍見於勒城。魏王有官商議今天乗景象、魏当代漢、可安排受禅之礼。今漢天子将天下譲与魏王。時有侍中南陽安平人劉廙字恭嗣・侍中潁川陽翟人辛毗字左治・侍中淮南人劉曄字子陽・尚書令長沙臨襄人桓階字伯緒・尚書令広陵東陽人陳矯字秀弼・尚書令潁川許昌人陳震字長文、一班児四十余人、皆来見賈詡・相国華歆・御史大夫王朗、共言此事翊曰、「合吾意」。皆来見漢献帝要交割天下還是如何。
時建安改延康冬十月朔、文武官僚引中郎将李伏・太史丞許芝、直入内殿、来見天子。華歆奏曰、伏覩魏王、自登位以来、徳布四方、仁可越古超今。今雖唐虞无以過此。群臣会議、言漢祚已終、伏望陛下效尭舜帝之道、将江山・社稷、伝位与魏王。上合天心、下合民意。誠陛下祖宗幸甚。臣等議定、今乃奏知」。献帝大驚、汴流満面、半晌不能言、観百官哭曰、「朕想高祖提三尺剣、平秦滅楚而有天下。世統相伝四百年矣。朕雖不□、又無罪悪、争忍以祖宗之基。等閑棄之。汝百官再宜従公商議」。
華歆引李伏・許芝出班奏曰、「陛下不信、可問此二人」。李伏奏曰、「自魏王登位以来、祥瑞累現、麒麟生、鳳凰来儀、黄龍出現、嘉禾・瑞草・慶雲・甘露不時而得皇天垂象。当代漢禅也」。奏未畢、許芝奏曰、「臣職掌司天、夜観乾象、見炎漢気数已尽。陛下帝星隠匿不明。魏国之気極天際地、言之難尽。更兼之応図讖合主魏受漢禅。其図讖曰、
『鬼在辺、禾相連。当代漢、与可言。言在東、午在西。西日無光、上下移』
以此論之、陛下可禅位。『鬼在辺、禾相連』、是箇『魏』字。『言在東、午在西』、是箇『許』字。『西日無光、上下移』、是箇『昌』字也。応魏在許昌合受漢禅也。請陛下思之」。献帝曰、「祥瑞・図讖、皆虚言之事。奈何以虚言之事、而捨万世不毀之基業乎」。華歆曰、「陛下差矣。昔日三皇五帝互相推譲、無徳譲有徳。次後三五名伝子孫、至於桀紂無道、天下伐之。春秋雖覇各相呑併有賢者居之後、併入秦方帰与漢。以此論之天下者非一人之天下。乃天下之人之天下也。須不是陛下祖宗自伝到今陛下早決、去就勿令生。
御史大夫王朗曰、「自古以来有興必有廃、有盛必衰。豈有不亡之国。安有不敗之家。陛下」漢朝相伝四百余年、気運已極、不可自勢而悲禍也。
献帝哭入後殿、百官皆哂笑而退。
次日、百官又聚於大殿、令宦官欲請。獻帝惧不敢出。皇后曹氏曰、「今百官請陛下設朝、問政。何故推耶」。帝曰、「汝兄欲簒奪漢室、故令百官相逼。朕故不敢出也」。曹后大怒曰、「汝以吾兄子桓為簒国之賊。汝祖高皇乃豊沛一嗜酒匹夫、無籍小輩、尚自倚強奪劫大秦之天下。吾兄累有大功、吾掃清海内、有何不可為君□安二十余年。若無吾父、汝為□粉矣」。言訖、便欲上車出内。献帝大驚慌更衣出前殿。華歆奏曰、「陛下□□□思臣等之言是否」。帝泣曰、「卿等皆食漢禄久矣。中□多有漢朝子孫。直無一人与朕分憂耶」。華歆曰、「陛下之意不肯以天下禅於魏王。旦夕有に蕭墻之禍。一時有変、非臣等為不怒怜陛下也。」
帝曰、「誰敢欲殺朕耶」。
歆曰、「天下之人、皆知陛下無人君之福。以致四海大乱、非武王在朝、咸殺陛下之人已塞満宮庭久矣。陛下尚不知恩、以報其徳直欲令天下之人共伐之耶」。
帝曰、「昔日、桀紂無道残暴生霊、故天下伐之。朕即位以来兢々業々、未常敢行半点非礼之事。天下之人、誰忍伐之」。
歆怒曰、「陛下無福無徳、而居天位甚於残暴之道也」。
帝払袖而起。王朗目視、華歆縦歩向前扯住龍袍曰、「陛下与不与許不許、早乞一言」。
帝戦慄不能答、忽堦下曹洪・曹休二人各帯剣、上殿励声問曰、「符宝郎、何在」。
班部后一人出曰、「符宝郎在此」。洪曰、「玉璽何在」。符宝郎祖弼応之曰、「玉璽乃天子之宝。女問何為」。洪大怒叱武士牽出斬之。祖弼大罵不絶口、而死静。軒有詩曰、
姦宄専権漢室亡、詐称禅位効虞唐、満朝百辟皆尊魏、僅見忠臣符宝郎。
帝見殿階之下披甲持戈数百人、皆兵士也。帝乃流涕出血嘆曰、「祖宗天下、何期今日廃之。朕九泉之下、何面目見先帝乎」。泣告群臣曰、「朕天下願禅与魏王、幸留残喘、以終天年」。大夫賈詡曰、「臣等安有負陛下。事已至此、可急降詔、以安衆心」。帝乃令桓階・陳群草詔願禅国於魏詔曰、
「制曰、朕在位三十有二禩、遭天下蕩覆、幸頼祖宗之霊、得曹氏父子力、為輔政。今仰瞻天運、俯察民心、炎精之数已尽、大暦合帰於魏。是以前王既樹神武之蹟、今王主有光耀明徳、以応有期。暦数昭然、已可知矣。夫人道□継為資為能。故唐尭不私於厥子、而名□□羨而之。今位陪臣献国璽、追則尭典、禅位於丞相魏王。無致辞焉」。
是日百官□丹詔并玉璽、詣魏王宮献納。曹丕便欲受之、司馬懿曰、陛下不可軽易。雖然詔璽已至、可以上表謙辞、以絶天下之謗。曹丕於是、従司馬之言、令王朗作表虚辞謙譲表曰、
「臣丕、昨奉受詔、伏惟陛下以垂世之詔、禅無功之臣、使人聞知」、肝摧膽裂、不知□措。昔以尭遜・・・


つかれたし、他の版本と比較して遊ぶという当初の目的が果たせそうにないので、中断します。あんまり、他の版本と差異がないんだもん。これを確認できただけでも、意味があったなあ。

葉逢春本について思うこと

『三国演義』葉逢春本が見たい。小松謙先生の「『三國志演義』の成立と展開について:嘉靖本と葉逢春 本を手がかりに」
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/178000/1/cbh07400_029.pdf は、葉逢春本の本文を井上泰山編『三国志通俗演義史伝』で見たとする。この本はの中文版(上海古籍出版社)の方が安い。買おう。

『三国演義』李卓吾・毛宗崗本で、許芝が「両日並光、上下移」という図讖から「昌」の字を導く。葉逢春本では「西日無光、上下移」から「昌」が出る。なお裴注『献帝伝』では「両日並光、日居下」とある。葉逢春本はミス、裴注より毛宗崗等のほうが分かりやすい。ストーリーの根幹なのに異同が多すぎ。

古くからの簡体字。『三国演義』葉逢春本では、「霊」がヨ+火だし、「璽」が尓+玉になってる。簡体字を決めるとき、古くからの字体を参照したのだろうけど。簡体字を知らないと、葉逢春本も読みにくいなんて、大変だなあ。
http://www.babelstone.co.uk/SanguoYanyi/Ye

井口千雪氏の三国志学会での発表「『三国志演義』と歴史書-執筆プロセスの解明-」で、『演義』の素材を検証されていた。嘉靖本ではなく葉逢春本が、原典たちとの比較に使われていた。嘉靖本と史書との比較よりも、葉逢春本と史書との比較のほうが、得るものがあるのかも。
見てみたいなあ。

ところで、禅代衆事(漢魏革命の瞬間)は、どの史書とも似ない。嘉靖本や葉逢春本から、群臣が献帝を脅すが、陳寿・裴松之・司馬光にそんな話がない。由来を調べたら、ネタになるかも!
葉逢春本まで見てみて、元ネタが不明、というのが、いちばん価値のある発見(というか着想)だと思います。ぼちぼち水をやって、育てます。

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日本の三国文化の故郷は、李卓吾本『演義』

葉逢春本を入力しつつ、思いました。
諸本を読み比べて、「自分なりに取捨選択した『三国演義』」を、書き下し文調で作ってみてもおもしろいかも。テキストの比較の厳密性ではなく、おもしろさ重視で。とりあえず底本は李卓吾本として、あとは、とっかえひっかえ。
もともと、中国の書肆・書房も、同じような作業をしていた。今日のぼくらには、ネットという拡散ツールがある。自分なりに『三国演義』をアレンジして、「わたし本『三国演義』」をつくっても、いいじゃないか。
伝統の文脈に則った、正統な行動だと言えないか。

わたし本の底本は、李卓吾本

李卓吾本を底本とする理由は、日本の三国文化が、李卓吾本『三国演義』を故郷とするから。『通俗三国志』の底本で、吉川『三国志』もこの系統。近世~戦前(へんな時代区分の表記でごめんなさい)の三国志のスタンダードも、戦後~現代の三国志のスタンダードも、李卓吾本によるのです。
既刊の『三国演義』の翻訳は、いずれも毛宗崗本による。中国では、李卓吾本は、あとから出た毛宗崗本に駆逐されたらしいから、こうなる理由がないわけではない。しかし、なんだか起点のところで、微妙に擦れ違ったままのものしか、手に出来ないというのは、気持ちわるい。

「吉川を読めばエンギを読んだことになる?」という問いは、感覚的には納得できるけど、ものすごくザツな発想です。これに答えが出せぬまま、ボンヤリする。ぼく自身、なんだか、こうやって折り合いを付けてきたが、そろそろ『三国演義』を通読したいな、と思い始めてます。せっかく読むなら、毛宗崗本の翻訳じゃなくて、李卓吾本の原文でしょう、と思います。
また、「エンギの翻訳は親しみにくい」という話もあります。訳書としての厳密性と、読み物としてのテンポは、そりゃ両立しないわけで。しかし、毛宗崗本の翻訳を読んでも、「吉川の元ネタを読んでいるわけではない」というのは、いまいち知的な爽快感を損ねるわけで。

とかのモヤモヤを解消するには、李卓吾本の良訳が待たれますねー。先生方、お願いします!140921

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