孫呉 > 『呉志』巻十六 潘濬伝・陸凱伝を読む

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関羽を棄てた荊州名士:潘濬伝

甘寧伝を読みまして、孫呉にはトザマが少ないなと思いました。トザマつながりで、潘濬伝を読みます。陸凱伝とセットになっていますが、巻末の評を見ても、このふたりをセットにする理由が見当たらない。活躍した時期が異なるし。いちおう「君主を諌めて善道した」という共通点があろうが、諌言はみんなやる。
甘寧・潘濬を一巻にまとめてはどうかと思ったが、あまりにキャラが違うので、甘寧は武将をまとめた『呉志』巻十に詰めこまれたようである。

潘濬が劉表に仕える

潘濬、字承明、武陵漢壽人也。弱冠、從宋仲子、受學。
吳書曰。濬爲人聰察、對問有機理、山陽王粲見而貴異之。由是知名、爲郡功曹。

潘濬は、あざなを承明といい、武陵の漢寿のひと。

漢寿は、『蜀志』関羽伝にみえる。

弱冠のとき宋仲子に従って、学を受く。

宋仲子は、『魏志』劉表伝・王粛伝に見える。
『蜀志』尹黙伝はいう。尹黙は遠く荊州に遊学し、司馬徳操・宋仲子らに古学を受けたと。『蜀志』李譔伝に、父の李仁は、同県の尹黙とともに荊州にあそび、司馬徽・宋忠らより学んだと。
ぼくは思う。潘濬は、尹黙・李譔と同門となる。というか、司馬徽のネットワークは、どれほど広いのか。

『呉書』はいう。潘濬のひととなりは、聡察で、対問すれば機理がある。山陽の王粲は、潘濬を貴異とした。これにより名を知られ、郡功曹となる。

『魏志』にある王粲の記述をみよ。
宮城谷昌光『三国志』外伝は、はじめに王粲のお話でした。


未三十、荊州牧劉表辟爲、部江夏從事。時、沙羡長、贓穢不脩。濬、按殺之、一郡震竦。後爲湘鄉令、治甚有名。

30歳になる前、荊州牧の劉表に辟され、部江夏從事となる。

『続百官志』はいう。諸州には、みな従事がある。『続郡国志』はいう。荊州刺史は郡7つを部す。ゆえに「部江夏従事」という。胡三省はいう。漢制では、州牧・刺史は、諸郡を部し、各郡に部従事をおく。
ぼくは思う。江夏太守は黄祖。つまり、黄祖を監督するのが、潘濬である。誤解を招く書き方をすると、ブルーカラーの黄祖を、学歴あるホワイトカラーの潘濬が見張る。そこで、甘寧・潘濬が出会っても、おかしくない。

ときに沙羡長は、賄賂を受けて(法令を)脩めず。潘濬が沙羨長を殺すと、一郡は震竦した。湘郷令となり、治績に名あり。

沙羨は孫策伝に見える。江夏郡である。
湘郷は、『蜀志』蒋琬伝にみえる。


潘濬が劉備に仕える

劉備領荊州、以濬爲治中從事。備入蜀、留典州事。

劉備が荊州を領すると、潘濬を治中從事とした。劉備が入蜀すると、留まって州事を典した。

『蜀志』楊戯伝の『季漢輔臣賛』にみえる。「潘濬、字承明、武陵人也。先主入蜀、以爲荊州治中、典留州事、亦與關羽不穆。孫權襲羽、遂入吳。普、至廷尉。濬、至太常、封侯」と。郝普の記述が混在。関羽と穆せずというのがポイント。


潘濬が孫権に仕える

孫權、殺關羽、幷荊土、拜濬輔軍中郎將、授以兵。

孫権が関羽を殺し、荊州をあわせた。潘濬は輔軍中郎将を拝し、兵を授かる。

呉は輔軍中郎将を置き、定員1名。←情報ふえてない


◆孫権への転職をこばむ

江表傳曰。權克荊州、將吏悉皆歸附、而濬獨稱疾不見。權遣人以牀就家輿致之、濬伏面著牀席不起、涕泣交橫、哀咽不能自勝。權慰勞與語、呼其字曰「承明、昔觀丁父、鄀俘也、武王以爲軍帥。彭仲爽、申俘也、文王以爲令尹。此二人、卿荊國之先賢也、初雖見囚、後皆擢用、爲楚名臣。卿獨不然、未肯降意、將以孤異古人之量邪?」使親近以手巾拭其面、濬起下地拜謝。卽以爲治中、荊州諸軍事一以諮之。

『江表伝』はいう。孫権が荊州を得ると、将吏はみな帰付した。潘濬だけが病気と称して、孫権に会わず。孫権は潘濬を担ぎだし、ベッドごと連れてきた。潘濬は横になって泣きまくる。

何焯はいう。潘濬は、蜀漢の叛臣であり、『季漢輔臣賛』にある。『江表伝』のように、潘濬が蜀漢を慕って泣きまくるのは、ウソである
ぼくは思う。孫権に、故事をたっぷり引いたセリフを喋らせ、恰好を付けた。『江表伝』の作者が、学識を見せびらかしたのだ。宋忠に学んだという潘濬こそ、そのセリフを仮託・代入するのに適任だと。
何焯の言うとおり、蜀から見たら「裏切り者」であり、『江表伝』に見られるような「蜀漢が恋しいよお!」という応酬は、なかっただろう。あったとしても、ポーズだけ。

孫権はあざなで呼びかけ、故事をひいて潘濬を説得した。潘濬は侍中となり、荊州の諸軍事は、すべて諮られた。

胡三省はいう。郝普・麋芳・傅士仁は、呉にいったが、活躍しない。しかし潘濬だけが活躍した。陸遜・諸葛瑾と同類とされ、重んじられた。


◆南陽の旧族を人物鑑定

武陵部從事樊伷誘導諸夷、圖以武陵屬劉備、外白差督督萬人往討之。權不聽、特召問濬、濬答「以五千兵往、足可以擒伷。」權曰「卿何以輕之?」

『江表伝』はいう。武陵部從事の樊伷は、諸夷を誘導し、

『通志』は「武陵郡従事」とする。
ぼくは思う。潘濬は「部江夏従事」であった。いま樊伷は「武陵部従事」である。「部江夏従事」は荊州刺史の手先として江夏を監督したけど、「武陵部従事」は武陵太守の配下という理解であっているのかなあ。

武陵を劉備に与えようとした。(呉ではこれを受けて)督をえらんで1万人を督させ、樊伷を討てという。

胡三省はいう。「差」は「択」の意味。だから「えらんで」とした。
厳衍はいう。上督を「督将」といい、下督を「統率」という。

孫権はゆるさず、潘濬に聞いた。潘濬「5千の兵を行かせれば、樊伷を擒えられる」と。孫権「なぜ樊伷を軽んずるか」。

濬曰「伷是南陽舊姓、頗能弄脣吻、而實無辯論之才。臣所以知之者、伷昔嘗爲州人設饌、比至日中、食不可得、而十餘自起、此亦侏儒觀一節之驗也。」權大笑而納其言、卽遣濬將五千往、果斬平之。

潘濬「樊伷は南陽の旧姓であり、

胡三省はいう。南陽の樊氏とは、光武帝の母党である。ゆえに「旧姓」という。
ぼくは思う。劉表期に、潘濬が宋忠・司馬徽と交際して、南陽「名士」とネットワークを持ったがゆえに、こういう人物の見定めができる。水鏡先生じこみ。『江表伝』だけど、この記事は貴重な情報をつたえる。

脣吻を弄せるが(ベラベラ喋るが)、じつは辯論の才がない。むかし樊伷が州人のために食事の席を設けたが、日中になっても料理が出てこず、10余回も立って(調理場を見に行った)。『侏儒は一節の験に観る』ですよ」と。

桓譚『新論』に見え、胡三省によれば「芸人は笑いを取って愛されるが、ちょっと話を聞けば、芸の巧拙がわかる」という意味。厳衍は胡三省が誤りといい、チビは、身体のパーツだけを見れば、チビと分かると。
ぼくは補う。食事会の準備すら、手際よくできないくせに、反乱のプロデュースなんてムリだと。上流の社交界にありがちな、気品あふれる人物評である。潘濬が、劉表→劉備→孫権と転職しても、埋没せずに活躍したのは、この文化資本のおかげ。

孫権は大笑して、潘濬に従う。潘濬に5千をつけた。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻八十に、軍山が常徳府の龍陽県の東80里にあり、潘濬が樊伷を攻めるとき、屯して「軍山」と名づいたと。
唐庚はいう。『江表伝』で潘濬は泣いて孫権に仕えるのを拒んだが、樊伷が武陵を劉備に差し出そうとすると、樊伷を討った。劉備を思う気持ちは、どうなったのか。楽毅は燕国から趙国に行ったが、趙国が燕国を攻めるとき(旧主を攻撃したくなく)参戦を拒んだ。潘濬は、しれっと旧主の劉備を攻撃する。ひどいやつだ。
王氏はいう。潘濬は劉備の侍中となり、州事を典留した。劉備軍における職務は軽くない。潘濬は、士仁とともに公安を守ったが、士仁の裏切りを知っていたはず。どうして劉備から荊州を任されたのに、孫権に荊州を与えてしまったか。樊伷は武陵を劉備に与えようとしたから、旧臣の義を失わない。しかし潘濬は、せっかくの樊伷を斬った。ひとの心があるのか。楽毅は「奴隷になっても、旧主を攻撃しない」と覚悟したが、それと比べると、潘濬は節操がない。ゆえに潘濬は、麋芳・士仁と同じく、楊戯『季漢輔臣賛』でそしられた。『資治通鑑』は、『江表伝』で潘濬が劉備のために泣く記事を載せ、『季漢輔臣賛』にある「関羽と潘濬は不仲」を載せない

潘濬は、樊伷を斬った。

ぼくは思う。関羽と蜀ファンに最も呪われるべきは、武陵の潘濬。
劉備から荊州を任されたが(留典州事)、ともに公安にいる士仁の離反を黙認したようで、孫権に転職。『江表伝』では劉備を慕って泣き、孫権への仕官を拒むが、恐らくウソ。宋忠・司馬徽に習った文化資本で、華麗に呉で昇進。旧知の樊伷が、武陵を劉備に「返還」しようとすると自ら阻止。
楊戯『季漢輔臣賛』で「糜芳・士仁・郝普・潘濬」が裏切り者としてセットで論じられている。前の3人が呉で活躍しないが、潘濬だけは教養と人脈をウリに活躍し、『呉志』に列伝を得る。呉に移籍後、蜀が不利になるように、知恵まで出す。たしかに、故国の攻撃を拒んだ楽毅とはちがう。
『江表伝』の大泣きエピソードも、潘濬の経歴にスワリの悪さを感じた呉ひとが、納得するために捻り出したのだろう。まあ、全国レベルのネットワークを持ち、視点の高い潘濬にすれば、劉備とか孫権とか、どちらでも同じだったのかも。


三世の名臣・芮玄の兵をもらう

遷奮威將軍、封常遷亭侯。

奮威将軍にうつり、常遷亭侯に封ぜられる。

あるひとは「高遷亭侯」とすべきかという。盧弼はいう。高遷は、屯名であり、県名ではない。『呉志』宗室 孫静伝にみえる。常遷は『宋志』寧州の南広郡にみえる。東晋が立てた。当時は「常遷」という県はないから、「高遷」「常遷」ともおかしい。
ぼくは思う。よく移籍するから(常に遷るから)という、経歴の皮肉とか。


吳書曰。芮玄卒、濬幷領玄兵、屯夏口。
玄字文表、丹楊人。父祉、字宣嗣、從孫堅征伐有功、堅薦祉爲九江太守、後轉吳郡、所在有聲。

『呉書』はいう。(黄武五年)芮玄が卒すると、藩屏は芮玄の兵をあわせて領し、夏口に屯した。
芮玄は、あざなを文表といい、丹楊のひと。父の芮祉は、あざなを宣嗣といい、孫堅に従って征伐して功あり。孫堅は芮祉を薦めて九江太守とし、のちに呉郡太守に転じ、任地で声望あり。

ぼくは思う。潘濬伝にひく『呉書』によると、丹陽の芮祉は孫堅に従って戦い、孫堅から九江太守・呉郡太守に薦められ、治績もある。
孫堅は死ぬまで袁術の影響下。つまり袁術は南陽に居ながらにして、芮祉を九江太守・呉郡太守とし、揚州を遠隔支配(影響力を行使)した。揚州刺史に陳瑀・鄭泰を送り込むのと同じ種類の動き。袁術の揚州支配は、一日にして成らず。


玄兄良、字文鸞、隨孫策平定江東、策以爲會稽東部都尉、卒、玄領良兵、拜奮武中郎將、以功封溧陽侯。權爲子登揀擇淑媛、羣臣咸稱玄父祉兄良並以德義文武顯名三世、故遂娉玄女爲妃焉。黃武五年卒、權甚愍惜之。

芮玄の兄の芮良(芮祉の子)は、あざなを文鸞といい、孫策に随い江東を平定た。孫策は、芮良を会稽東部都尉とし、卒すると芮玄が兄の兵を領し、奮武中郎将となり、溧陽侯に封ぜられた。

会稽東部都尉は、張紘伝に。奮武中郎将は、定員1名で呉がおく。溧陽は、『呉志』妃嬪 何姫伝にある。 ぼくは思う。芮氏は、『呉志』巻十に列伝があってもおかしくにない。というか、韋昭『呉書』には列伝があったが、陳寿が脱落させた。経歴から見ても、『呉志』巻十と遜色なく、官職・爵位ともに高い。

孫権の子の孫登が淑媛(妻)を選ぶとき、みな郡臣は「芮玄は、父の芮祉・兄の芮良が徳義をもって文武があり、3世にわたり名が顕れるから、芮玄の娘を妃にせよ」という。黄武五年(226) 芮玄は卒した。孫権は愍惜した。

ぼくは思う。孫登が皇帝になれば、芮氏が外戚となり、権限を得たかも。郡臣がいうように、芮氏はトップクラスの呉の名臣であり、『呉志』巻十のひとびとよりも格上である。芮氏は「未遂」者であり、陳寿に切り捨てられた。
トザマである潘濬には、プロパーの兵士がいない。そこで孫権は、めぼしい当主のいなくなった芮氏の兵を、潘濬に移した。こういう融通が、孫権政権の特徴なのだろう。


潘濬が九卿となる

權稱尊號、拜爲少府、進封劉陽侯、遷太常。

孫権は尊号を称し、少府を拝し、進んで劉陽侯に封ぜられ、太常に遷る。

劉陽は、周瑜伝にみえる。


江表傳曰。權數射雉、濬諫權、權曰「相與別後、時時蹔出耳、不復如往日之時也。」濬曰「天下未定、萬機務多、射雉非急、弦絕括破、皆能爲害、乞特爲臣故息置之。」濬出、見雉翳故在、乃手自撤壞之。權由是自絕、不復射雉。

『江表伝』はいう。孫権はキジ射ちが好き。潘濬が諌めた。孫権「昔ほど、やってねえよ」。潘濬「天下が定まらず忙しいはず。弓矢が壊れてもケガをする」と。孫権はキジ羽でつくったカバーを見つけても(キジを思い出すから)手にとって壊した。やっとキジ射ちを辞めた。

「翳」とは、隠蔽するもの。カバーか。ちくま訳では「かざし」。
ぼくは思う。孫権が皇帝になったから、こういう「ほのぼの君臣シアター」みたいな茶番が、史書に表れるようになったと。


五渓蛮を討伐する

五谿蠻夷、叛亂盤結、權假濬節、督諸軍討之。信賞必行、法不可干、斬首獲生、蓋以萬數、自是羣蠻衰弱、一方寧靜。

五谿の蠻夷は、叛乱して各地で結ぶ。

五谿の蛮夷は、『蜀志』先主伝 章武元年にある。
ぼくは思う。蜀になびいた樊伷も、いまの蛮夷も、潘濬の故郷の武陵で、呉に敵対した。潘濬がそれを平定した。甘寧と同じで「荊州の経験者」は、荊州方面を任される。まっとうな人事である。

孫権は潘濬に節を仮し、諸軍を督して討たせる。信賞は必ず行はれ、法は干す可からず、斬首・捕獲は万を数え、蛮族たちは衰弱し、各地は寧静となった。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻八十に、常徳府の武陵県に臨沅城がある。呉の潘濬は、郡城が大きく、固め(守り)にくいから、障城を築き、郡治を移したという。
『水経』沅水注に「潘承明の塁」が見える。潘濬が五谿蛮を討つとき、ここに軍営を築いた。
『長沙耆旧伝』はいう。夏隆が郡に仕えたとき、潘濬が南征した。武陵太守は夏隆をつかわし、文書をおくり礼を致す。潘濬な中流に飛帆して(川に浮かんで)いる。力が及ばないと(夏隆が、水上の潘濬と合流できず?)夏隆は岸辺で刀を抜き、潘濬を指して「賊だ」と叫んだ。潘濬は夏隆を捕らえた(夏隆は、狙いどおり潘濬と合流できた?)。潘濬は、夏隆の権変を評価して、みずから縄をとき、酒食を賜った。
ぼくは思う。武陵太守からの連絡係を、夏隆がきちんと果たした。潘濬の注意を引くために、陸地から、水上の潘濬を「賊」呼ばわりした。という話かな。


潘濬の人柄エピソード集

吳書曰。驃騎將軍步騭屯漚口、求召募諸郡以增兵。權以問濬、濬曰「豪將在民閒、耗亂爲害、加騭有名勢、在所所媚、不可聽也。」權從之。

『呉書』はいう。驃騎將軍の步騭は、漚口に屯し、諸郡から召募して兵を増やしたい。孫権は、潘濬に相談した。

漚口は、歩隲伝にみえる。

潘濬「豪将が民間(孫権の遠く)にいれば、乱して害をなす。しかも歩隲は名勢があり、どこにいても媚びられる。歩隲の増兵をゆるすな」と。孫権は従った。

孫権の君主権力の性質について、論文に使えそうな話。
そして、東晋の課題まで、いっきに見抜いてしまうという洞察力。


中郎將豫章徐宗、有名士也、嘗到京師、與孔融交結、然儒生誕節、部曲寬縱、不奉節度、爲衆作殿、濬遂斬之。其奉法不憚私議、皆此類也。

『呉書』はいう。中郎将の豫章の徐宗は、名のある士で、かつて京師で孔融と交結した。しかし儒生で誕節、部曲は寛縦で、節度を奉じない。潘濬が斬った。潘濬が、法を奉じて私議を憚らないのは、こんな(歩隲・徐宗への対処の)類い。

豫章の徐氏、豫章徐氏を、いつか論じるでしょう。というわけで、検索してヒットするように、「豫章徐氏」「豫章の徐氏」と書いておく。
ぼくは思う。歩隲も徐宗も、揚州を名声の場とする。荊州を場とする潘濬は「客観的」に接することができる。このように、州が複数あることで、政権内の人間関係が複雑となり、成熟する。どこかの蜀漢と違うなあ!


歸義隱蕃、以口辯爲豪傑所善、濬子翥亦與周旋、饋餉之。濬聞大怒、疏責翥曰「吾受國厚恩、志報以命、爾輩在都、當念恭順、親賢慕善、何故與降虜交、以糧餉之?在遠聞此、心震面熱、惆悵累旬。疏到、急就往使受杖一百、促責所餉。」當時人咸怪濬、而蕃果圖叛誅夷、衆乃歸服。

呉に帰服した隠蕃は、口弁によって豪傑に認められた。潘濬の子の潘翥も、隠蕃を追って(交際を申し出て)食物を贈った。潘濬は「降虜と付き合うな」と怒って、潘翥に杖1百を加えた。みな潘濬を怪しんだが、はたして隠蕃は謀反して誅された。みな潘濬に帰服した。

「義に帰す」とは「降った」と同じこと。隠蕃のことは、胡綜伝にみえる。
ぼくは思う。潘濬の見識は、司馬徽に通じ、「人物を適切に見抜くこと」にある。歩隲が君主権力を脅かすこと、徐宗は斬るしかないほど処置なし、隠蕃は呉に叛乱することを、いずれも予期して、主の孫権・子の潘翥をみちびいた。
胡三省はいう。潘濬は、子の罪を国中にひろめて見せ(隠蕃との交際は「罪」だと伝え)後禍を絶とうとした。
何焯はいう。潘濬は、劉表・劉備の旧臣である。ゆえに、降人が反覆して(主君を変えたひとが、また主人を変えて)自分と同じようになる(潘濬が劉備を裏切ったのと同じことをする)のを恐れた。←辛辣!


江表傳曰。時濬姨兄零陵蔣琬爲蜀大將軍、或有閒濬於武陵太守衞旌者、云濬遣密使與琬相聞、欲有自託之計。旌以啓權、權曰「承明不爲此也。」卽封旌表以示於濬、而召旌還、免官。

『江表伝』はいう。潘濬の姨兄(妻の兄)は、零陵の蔣琬である。蒋琬が蜀の大將軍となると、

胡三省はいう。同出(同腹の兄弟?)を姨といい、母の姉妹を姨といい、妻の姉妹もまた姨という。もし母の兄弟なら「舅」という。つまり(潘濬からみて蒋琬は)妻の兄弟であろう。
盧弼はいう。『通鑑』は「蒋琬が諸葛亮の長史になると」とある。こちらが正しく、『江表伝』が誤りである。王濬が武陵蛮を討つのは、黄龍三年(231) である。諸葛亮が祁山に出て、蒋琬が張裔に代わって長史となったとき。
衛旌は、歩隲伝にもみえる。

あるものが潘濬と、武陵太守の衛旌を対立させようと、衛旌に「潘濬は蒋琬と通じ、自ら託するの計がある(呉を裏切るつもり)」と教えた。 衛旌が孫権に報告した。孫権は「承明がそんなことせん」という。衛旌の報告書を封印して、潘濬に送って見せた。衛旌は、武陵太守を免じられた。

ぼくは思う。潘濬が、「呉・蜀をまたがって立場が微妙」という記事は、『江表伝』ばかり。ゲスのかんぐり。もしくは、ゲスの関心により、「取材活動」を成功させてきた。


呂壱をとがめ、孫権を反省させる

先是、濬、與陸遜俱、駐武昌、共掌留事、還復故。

これより先、潘濬は陸遜とともに、武昌に駐し、ともに留事を掌る。(武陵蛮の討伐から)還ると、もとにもどる(武昌に駐す)

潘濬が武昌にいった時期を、特定する必要がある。


時、校事呂壹、操弄威柄、奏按、丞相顧雍、左將軍朱據等、皆見禁止。黃門侍郎謝厷、語次、問壹「顧公、事何如」壹答「不能佳」厷又問「若此公免退、誰當代之」壹未答厷、厷曰「得無、潘太常得之乎」壹良久曰「君語、近之也」厷謂曰「潘太常、常切齒於君、但道遠、無因耳。今日代顧公、恐明日便擊君矣」壹、大懼、遂解散雍事。

ときに校事の呂壱が、威柄を操弄し、呂壱の提案によって、丞相の顧雍・左將軍の朱據らが「禁止」された。

胡三省はいう。「禁止」とは、まだ獄には下さぬが、人に監視され、出入を禁じられ、親党と交通できない状態のこと。
鄭樵『通志』はいう。「禁止」とは、殿省に入るのを禁じること。光禄勲が殿門を管轄しているから、光禄勲が、立ち入り禁止を管理する。
ちくま訳では「軟禁」とある。胡三省にちかい。

黃門侍郎の謝厷(謝宏)は、呂壱に「顧公はどうなる」と聞くと、

謝厷のことは陸遜伝にある。「厷」は「宏」と同じ。

呂壱「解放されまい」と。謝宏は「もし顧雍が免じられたら、後任はだれかな」、呂壱は答えず、謝宏「候補がなければ、潘太常だろう」、呂壱はしばらくして「そうだね」、謝宏「潘太常は、つねに呂壱に切歯している。遠隔地(武昌)にいるから、関与しないだけ。

『通鑑』は「遠隔地にいるから」という理由を省く。つられて胡三省は、「呂壱の罪をあげるのは、太常の職務ではないから、呂壱に手を出さない」と解釈する。
胡三省はいう。漢制では、丞相・御史は、百官の罪を挙奏した。潘濬が丞相となって初めて、呂壱の罪を指摘することができる。

顧雍に潘濬が代われば(丞相として)明日にも呂壱を攻撃する」と。呂壱は(潘濬の着任を)おおいに懼れ、顧雍らを解放した。

濬、求朝、詣建業、欲盡辭極諫。至聞、太子登已數言之而不見從。濬、乃大請百寮、欲因會手刃殺壹、以身當之爲國除患。壹、密聞知、稱疾不行。濬、每進見、無不陳壹之姦險也。由此、壹寵漸衰、後遂誅戮。權、引咎責躬、因誚讓大臣。語在權傳。

潘濬は朝見を求め、(武昌から)建業にきて、呂壱のことを極諫しようとした。だが、太子の孫登がすでに諌め(孫権に対して)効果がないことを聞いた。潘濬は百僚とともに、呂壱を刃で殺し、国の患いを除こうとした。
呂壱は潘濬の計画を知り、病気といい出ず。潘濬は進見するたび(孫権に)呂壱の姦険をのべた。呂壱への寵愛がおとろえ(赤烏元年)呂壱を誅戮した。孫権は自己批判して、大臣にあやまった。孫権伝にある。

子の潘秘は、荊州の州大中正

赤烏二年、濬卒、子翥嗣。濬女、配建昌侯孫慮。

赤烏二年(239) 潘濬は卒した。子の潘翥が嗣ぐ。潘濬の娘は、建昌侯の孫慮に配す。

王氏はいう。『通鑑』は景初二年(238) 冬十月、太常の潘濬が卒したとする。呉主は鎮南将軍の呂岱を、潘濬の後任として太常にしたと。『綱目』は冬十月、呉が将軍の呂岱を武昌に鎮させたとし、潘濬の後任としない。
王氏はいう。太和五年(231) 孫権は太常の潘濬に節を仮し、督軍して五渓蛮を討たせた。『綱目』は潘濬が五渓蛮を撃つとき、なんの官位だったか記さない。潘濬(というか呉を丸ごと)を貶めたのである。


吳書曰。翥字文龍、拜騎都尉、後代領兵、早卒。翥弟祕、權以姊陳氏女妻之、調湘鄉令。

『呉書』はいう。潘翥は、あざなを文龍といい、騎都尉を拝し、のちに潘濬に代わり兵を領し、早く卒す。潘翥の弟の潘秘は、孫権の姉の陳氏の娘をめとり、調湘郷令となる。

孫権の姉の陳氏の娘のことは、『呉志』妃嬪 呉夫人伝をみよ。

襄陽記曰。襄陽習溫爲荊州大公平。大公平、今之州都。祕過辭於溫、問曰「先君昔曰君侯當爲州里議主、今果如其言、不審州里誰當復相代者?」溫曰「無過於君也。」後祕爲尚書僕射、代溫爲公平、甚得州里之譽。

『襄陽記』はいう。襄陽の習温は、荊州の大公平となった。大公平とは、いまの州都(晋代の州都中正)のこと。

ぼくは思う。襄陽習氏は、習禎がいる。妹が龐林の妻。習鑿歯の祖先。西晋の習温も、この一族に属するのだろう。

潘秘は習温にあいさつし、「むかし父は、きみが州里の議主(人物鑑定を仕切れる権威)になると言った。その通りになったが、つぎの州里はだれか」と。習温「きみより適任はない」と。潘秘は尚書僕射となり、潘秘に代わって公平となり、はなはだ州里の誉を得た。160615

ぼくは思う。潘濬が、荊州レベルの名族であったことが分かる。文化のランキングでは、呉ではトップクラスだった。劉備とか孫権とか、どちらでもいいじゃんと。西晋になっても、州大中正のなかで、その文化資本は継承された。

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呉郡陸氏だから孫晧に直言できた陸凱伝

交州・荊州で平定をする

陸凱、字敬風、呉郡呉人、丞相遜族子也。黄武初、為永興、諸暨長、所在有治迹、拝建武都尉、領兵。雖統軍衆、手不釈書。好太玄、論演其意、以筮、輒験。赤烏中、除儋耳太守、討朱崖、斬獲有功、遷為建武校尉。

陸凱は、字を敬風、呉郡の呉の人である。丞相の陸遜の族子である。黄武初、永興・諸暨の長となり、そこで治績があり、建武都尉を拝して、兵を領した。

永興は、孫静伝に見える。『郡国志』によると、会稽郡に諸暨県がある。
建武都尉は、1名で、呉が置いた。

軍衆を統べたが、手は書を放さず。太玄を好み、その意を論演し、筮で占えば、験があった(占いが的中した)。

『隋志』によると、梁に『揚子太玄経』十三巻、陸凱注、亡せり、とある。

赤烏中、儋耳太守に除せられ、朱崖を討ち、斬獲して功あり、建武校尉に遷る。

儋耳・朱崖は、どちらも呉主伝 赤烏五年にみえる。銭大昕によると、儋耳郡は、『晋書』・『宋書』二志は、どちらも載せない。洪亮吉によると、呉のときは儋耳郡が(支配領域に)復しておらず、この陸凱伝に「儋耳太守に除す」とあるのは、けだし珠崖を討つための(名目的な)肩書きで、虚領(遙領)であろうと。


五鳳二年、討山賊陳毖、於零陵、斬毖克捷、拝巴丘督、偏将軍、封都郷侯、転為武昌右部督。与諸将共赴寿春、還、累遷盪魏、綏遠将軍。孫休即位、拝征北将軍、仮節領豫州牧。

五鳳二年、山賊の陳毖を零陵で討し、陳毖を斬って勝利し、巴丘督・偏将軍を拝し、都郷侯に封じられた。転じて武昌右部督となった。諸将とともに寿春に赴き、還ると、累ねて盪魏・綏遠将軍に遷った。

盪魏将軍は、一名、呉が置く。

孫休が即位すると、征北将軍を拝し、仮節・領豫州牧(盧弼によると遙領)

孫晧立、遷鎮西大将軍、都督巴丘、領荊州牧、進封嘉興侯。孫晧、与晋平。使者丁忠、自北還、説晧、弋陽可襲。凱、諫止、語在晧伝。宝鼎元年、遷左丞相。晧性不好人視己、羣臣侍見、皆莫敢迕。凱、説晧曰「夫、君臣、無不相識之道。若卒有不虞、不知所赴」晧聴凱自視。晧、徙都武昌。揚土百姓、泝流供給、以為患苦。又政事多謬、黎元窮匱。凱、上疏曰、

孫晧が立つと、鎮西大将軍に遷り、巴丘を都督し、領荊州牧、進んで嘉興侯(嘉興は孫策伝を参照)に封ぜらる。孫晧は、西晋と和平をむすぶ。丁忠を使者とし、北から還ってくると、孫晧に「弋陽を襲うチャンスです」と言った。陸凱が諫止した。語は、孫晧伝 宝鼎元年にある。

孫晧伝:晧、訪羣臣、鎮西大将軍陸凱曰「夫、兵不得已而用之耳。且、三国鼎立已来、更相侵伐、無歳寧居。今、彊敵新并巴蜀、有兼土之実、而遣使求親、欲息兵役。不可謂、其求援於我。今敵形勢方彊、而欲徼幸求勝。未見其利也」

宝鼎元年、左丞相に遷った。

『隋志』に、『呉先賢伝』四巻があり、呉の左丞相の陸凱の撰とある。呉の丞相である『陸凱集』五巻も見える。

孫晧の性質は、人に視られるのを好まない。羣臣は侍見しても、みな孫晧のほうを見返さない。

『通鑑』では「莫敢挙目」で、目を挙げる者がいない。

陸凱は孫晧に説いた。「そもそも君臣とは、相識の道(互いに見知っているもの)です。もし緊急事態があったとき、どこに駆けつけてよいか分かりません」と。孫晧は、陸凱が視ることを許した。
孫晧は、武昌の都を徙した。揚州の百姓は、流れを遡って(租税を)供給せねばならず、患苦を味わった。

胡三省によると、呉の武昌は荊州に属する。丹陽・宣城・毗陵・呉興・会稽・

さらに政事は誤りが多いので、黎元(人民)は窮迫した。そこで、陸凱が上疏した。

陸凱が孫晧を諫言する(列伝本文)

陸凱の諫言のなかから、孫呉の史実と思われることを中心に抄訳。

臣聞、有道之君、以楽楽民。無道之君、以楽楽身。楽民者、其楽弥長。楽身者、不楽而亡。夫、民者国之根也、誠宜重其食、愛其命。民安則君安、民楽則君楽。自頃年以来、君威傷於桀紂、君明闇於姦雄、君恵閉於羣孽。無災而民命尽、無為而国財空、辜無罪、賞無功。使君有謬誤之愆、天為作妖。而、諸公卿、媚上以求愛、困民以求饒、導君於不義、敗政於淫俗。臣、窃為痛心。今、鄰国交好、四辺無事、当務息役養士、実其廩庫、以待天時。而更傾動天心、騷擾万姓、使民不安、大小呼嗟。此、非保国養民之術也。

有道の君は、民を楽しませることを楽しみとする。無道の君主は、自ら楽しむことを楽しみとする。いま隣国(西晋)とは関係良好で、辺境は軍事的緊張がないため、兵士を休ませ、食糧を蓄え、民を保養しなさいと。

臣聞、吉凶在天、猶影之在形、響之在声也。形動則影動、形止則影止、此分数乃有所繋、非在口之所進退也。昔、秦所以亡天下者、但坐賞軽而罰重、政刑錯乱、民力尽於奢侈、目眩於美色、志濁於財宝、邪臣在位、賢哲隠蔵、百姓業業、天下苦之、是以遂有覆巣破卵之憂。漢所以彊者、躬行誠信、聴諫納賢、恵及負薪、躬請巌穴、広采博察、以成其謀。此往事之明證也。

吉凶は天にあり、地上に感応するものです。統一秦が天下を失ったのは、賞が軽く罰が重く、政治も刑罰も錯乱し、民力が奢侈によって消費されたからです。漢朝が強くなったのは、賢者を登用して、意見を聞いたからです。

近者漢之衰末、三家鼎立、曹失綱紀、晋有其政。又、益州、危険、兵多精彊、閉門固守可保万世。而、劉氏与奪乖錯、賞罰失所、君恣意於奢侈、民力竭於不急、是以為晋所伐、君臣見虜。此目前之明験也。臣、闇於大理、文不及義、智慧浅劣、無復冀望、窃為陛下惜天下耳。臣謹奏、耳目所聞見、百姓所為煩苛、刑政所為錯乱。願陛下、息大功、損百役、務寛盪、忽苛政。

漢朝が衰微すると、3王朝が鼎立したが、曹氏は綱紀を失い、晋に移りました。益州は、地形・兵数に恵まれたが、劉氏が賞罰を誤り、奢侈に流れたので、やはり晋に捕らわれました。魏・蜀を反面教師にして、建築や軍役を減らし、民力を休養させなさい。

又、武昌土地、実危険而塉确、非王都安国養民之処。船泊、則沈漂。陵居、則峻危。且、童謡言「寧飲建業水、不食武昌魚。寧還建業死、不止武昌居」臣聞、翼星為変、熒惑作妖。童謡之言、生於天心、乃以安居而比死、足明天意、知民所苦也。

武昌の土地は、(地形が)危うく険しく、石が多くて土が痩せており、王都として国を安んじ民を養う土地ではありません。船舶は、漂って沈み(良港ではなく)、陸上に住むにも、峻危です(街区に使える土地が少ない)。しかも、童謡に、「建業の水を飲もうとも、武昌の魚を食わない。建業に還って死んでもいい、武昌に居するよりは」とあります。

胡三省によると、長江を遡って、武昌に物資を運ぶことを嫌った童謡であるという。陸凱は、長々と諫めているが、ピンポイントで、武昌遷都に反対したいだけ。陳寿の文脈から明らかである。政治がデタラメとか、百姓への負担が重いというが、すべて武昌遷都が原因。これを除けば、全体的にマシになる。

翼星が変異をおこし、熒惑が妖異をおこしている。童謡は、天の心から生じるものである。武昌に居ることを、死に準えているから、民の苦しみは明らかなのです。

臣聞、国無三年之儲、謂之非国。而今無一年之畜、此臣下之責也。而、諸公卿位処人上、禄延子孫、曾無致命之節匡救之術、苟進小利於君、以求容媚、荼毒百姓、不為君計也。自従孫弘造義兵以来、耕種既廃、所在無復輸入。而、分一家父子異役、廩食日張、畜積日耗。民有離散之怨、国有露根之漸、而莫之恤也。民力困窮、鬻売児子、調賦相仍、日以疲極。所在長吏、不加隠括。加、有監官、既不愛民、務行威勢。所在騷擾、更為煩苛、民苦二端、財力再耗、此為無益而有損也。願陛下、一息此輩、矜哀孤弱、以鎮撫百姓之心。此猶、魚鼈得免毒螫之淵、鳥獣得離羅網之綱。四方之民繈負而至矣。如此、民可得保、先王之国存焉。

国に3年の備蓄がなければ、国とは言えないという。いま1年分の備蓄もない。

『礼記』王制によると、国に6年の備蓄がなければ、「急」という。三年の備蓄がなければ、そんな国は国ではないと。盧弼は、「ましてや備蓄が1年もないなら?」とあおる。

孫弘が義兵をおこして以来、農耕は行われず、各地の納税はありません。

中書令の孫弘のこと? それとは別に、孫弘が、百姓のために起兵した事件があったのか。『三国志集解』に説明がなくて、ちょっと分かりません。

しかも一家の父子を、別の戦役に送り(兵力・財力のわりに、戦場の数が多すぎて?)兵糧の消費は増え、備蓄は損耗しています。民は子を売ってまで、納税しようとしていますが、長吏(行政官)は権力をふるい、監官(監察官)は取り締まらず、民は疲弊しています。

臣聞、五音令人耳不聡、五色令人目不明。此、無益於政、有損於事者也。自昔先帝時、後宮列女、及諸織絡、数不満百、米有畜積、貨財有餘。先帝崩後、幼景在位、更改奢侈、不蹈先迹。伏聞、織絡及諸徒坐乃有千数、計其所長不足為国財、然坐食官廩、歳歳相承、此為無益。願陛下、料出賦嫁、給与無妻者。如此、上応天心、下合地意、天下幸甚。

先帝(孫権)の時代、後宮の列女や織絡(紡織)に従事する女は、数は百に満たず、食糧・貨幣も余裕がありました。幼帝・景帝(孫亮・孫休)が即位すると、奢侈になり、織絡および諸々の女は千を数え、財政を圧迫しています。どうぞ降嫁して、妻のない者に与えなさい。

臣聞、殷湯取士於商賈、斉桓取士於車轅、周武取士於負薪、大漢取士於奴僕。明王聖主、取士以賢、不拘卑賤、故其功徳洋溢、名流竹素、非求顔色而取好服捷口容悦者也。臣伏見、当今内寵之臣、位非其人、任非其量、不能輔国匡時、羣党相扶、害忠隠賢。願陛下、簡文武之臣、各勤其官、州牧督将、藩鎮方外、公卿尚書、務脩仁化、上助陛下、下拯黎民、各尽其忠、拾遺万一、則康哉之歌作、刑錯之理清。願陛下、留神思臣愚言。

人材の施策について、殷湯王は商人のなかから(酒保の伊尹を登用し)、斉桓公は車夫から(甯戚を登用し)、周武王は負薪から、漢朝は奴僕から、賢者を登用をしました。

『三国志集解』に従って、実例が特定できるものは、抄訳に補った。

しかし、いまの呉朝の寵臣は、素質なき人が高官におり、国政を輔佐できません。群党をつくって助けあい、忠賢な人材を阻害・排除しています。文武の官に、適任者を抜擢してください。

侫幸の何定との対立

時、殿上列将何定、佞巧便辟、貴幸任事。凱、面責定、曰「卿見、前後事主不忠傾乱国政、寧有得以寿終者邪。何以、専為佞邪、穢塵天聴。宜自改厲。不然、方見卿有不測之禍矣」定、大恨凱、思中傷之。凱、終不以為意、乃心公家、義形於色、表疏皆指事不飾、忠懇内発。

ときに、殿上列将の何定は、佞巧で便辟され、貴幸で任事された。

何定のことは、孫晧伝 建衡二年・鳳凰元年にある。「殿中列将」に作られ、「殿上列将」とする陸凱伝と異なる。

陸凱は、面と向かって何定を責めた。「前代の、不忠で国政を傾けた者たちを見よ。寿命を全うできた者がいるか。佞邪なお前は、孫晧の耳を塞いでいる。きっと殺されるだろう」と。何定は、おおいに陸凱を恨み、陸凱を中傷しようとした。だが、陸凱の心は、国家の公を思い、正義は顔にも表れ、上表・上疏は飾らずに事実を書き、忠懇は内から発した(何定が中傷する隙を与えなかった)。

建衡元年、疾病。晧、遣中書令董朝、問所欲言。凱陳「何定、不可任用。宜授外任、不宜委以国事。奚煕、小吏、建起浦里田、欲復厳密故迹、亦不可聴。姚信、楼玄、賀卲、張悌、郭逴、薛瑩、滕脩、及族弟喜、抗、或清白忠勤、或姿才卓茂、皆社稷之楨幹、国家之良輔。願陛下、重留神思、訪以時務。各尽其忠、拾遺万一」遂卒、時年七十二。

建衡元年、病気になった。孫晧は、中書令の董朝を派遣し、言いたいことを問う。陸凱は、「何定は、任用してはならない。外任を授けるべきで、国事を委ねてはいけない。奚煕は、小吏のくせに、浦里田を建起し、厳密の業績をまねるつもりですが、許してはいけません。

胡三省によると、孫休のとき、厳密がこれを建議した。けだし奚煕は、厳密の建議をまねて、提出したのだろう。

姚信・楼玄・賀卲・張悌・郭逴・薛瑩・滕脩と、わが族弟の陸喜・陸抗は、

銭大昭によると、姚信は宝鼎二年に太常となった。張悌は襄陽のひとで、孫晧伝に見える。郭逴は、未詳である!薛瑩は、薛綜伝に附伝がある。滕脩は「滕循」が正しいと思われ、孫晧伝に「執金吾の滕循が司空になった」とある。陸喜は、陸瑁伝に附伝がある。楼玄・賀邵・陸抗は、自伝がある。

清白で忠勤、姿才は卓茂であり、みな社稷の楨幹、国家の良輔です。陛下は、彼らを任用してください」と。七十二歳で死んだ。

孫晧伝によると、陸凱は建衡元年に卒した。


陸凱の子・陸禕伝

子禕、初為黄門侍郎、出領部曲、拝偏将軍。凱亡後、入為太子中庶子。右国史華覈、表薦禕曰「禕、体質方剛、器幹彊固、董率之才、魯粛不過。及被召当下、径還赴都、道由武昌、曾不迴顧。器械軍資、一無所取。在戎果毅。臨財有節。夫、夏口、賊之衝要、宜選名将以鎮戍之、臣窃思惟、莫善於禕。」

陸凱の子の陸禕は、はじめ黄門侍郎となり、(都から)出でて部曲を領し、偏将軍を拝した。陸凱の死後、入りて太子中庶子となった。右国史の華覈は、上表して陸禕を推薦し、夏口に出鎮させるべきとした。

華覈が、上表して推薦するのは、この陸凱の子の陸禕と、陸凱の弟の陸胤である。陸胤が推薦されたことは、この下に見える。

「陸禕は、体格も意思も強く、統率力は、魯粛ですら彼に及ばない。赴任地に行くときも、武昌に戻るときも、振り返らず(行軍は順調で)軍資は少しもネコババしませんでした。夏口は、賊の衝要(西晋の要衝)なので、名将に鎮護させるべきです。陸尉が適任です」と。

初、晧常銜凱数犯顔忤旨、加何定譖構非一、既以重臣、難繩以法、又陸抗、時為大将在疆埸、故以計容忍。抗卒後、竟徙凱家於建安。

これより先、孫晧は、つねに陸凱が直視して逆らってくるし、何定が陸凱を譏るのも聞いていたが、重臣なので、法で裁けなかった。

『世説』によると、孫晧は丞相の陸凱に聞いた。「あなたの宗族は、張悌に何人いるか」と。陸凱「2相、5侯、将軍は10余」と。孫晧「栄えているな(盛なるかな)」、吏侯康「君が賢く臣が忠なら、国が栄えます。父が慈で子が孝なら、家は栄えます。いま政は乱れ民は弊れ、滅亡の懼れがあります。どうして栄えていると、言えましょうか」
この陸凱は、ただイヤミなだけじゃん。

さらに、陸抗が大将として荊州を委ねられいるから、陸凱を容認せざるを得なかった。(鳳凰三年)陸凱が死ぬと、陸氏の家を建安に徙した。

陸遜・陸凱・陸抗の順で死ぬに及び、孫晧は、呉郡陸氏の勢力を削ごうとした。しかし貫徹できず、呼び戻すことになる。このことから、陸凱の諫言は、一族の力を借りたものと言える。フラットな臣が、ここまで直言したら、命がない。陸抗が重鎮であるという前提の上で、陸凱は言いたいことを言ったのだ。陸凱の子・陸禕も、このとき建安郡に徙されている。建安郡は、呉主伝 赤烏二年にある。


陸凱が孫晧の廃位を試みた事件

或曰、宝鼎元年十二月、凱与大司馬丁奉、御史大夫丁固謀、因晧謁廟、欲廃晧立孫休子。時、左将軍留平、領兵先駆、故密語平。平、拒而不許、誓以不泄、是以所図不果。太史郎陳苗、奏晧、久陰不雨、風気迴逆、将有陰謀、晧深警懼、云〔一〕。
〔一〕呉録曰、旧拝廟、選兼大将軍領三千兵為衛、凱欲因此兵以図之、令選曹白用丁奉。晧偶不欲、曰「更選。」凱令執拠、雖蹔兼、然宜得其人。晧曰「用留平。」凱令其子禕謀語平。平素与丁奉有隙、禕未及得宣凱旨、平語禕曰「聞野豬入丁奉営、此凶徴也。」有喜色。禕乃不敢言、還、因具啓凱、故輟止。

あるものは、宝鼎元年十二月、陸凱と、大司馬の丁奉・御史大夫の丁固が謀って、孫晧が謁廟するとき、孫休の子を皇帝に立てようとしたという。このとき、左将軍の留平は、兵を領して先駆するから、ゆえにひそかに(陸凱が?)留平に(廃立の計画を語った)。留平は合意せじ、しかし口外しないと誓った。こうして、廃立は実行されなかった。

『通鑑考異』はいう。陸凱は尽忠で、義を実践しているから、廃立なんて計画するはずがない。しかも、孫晧は残酷で猜疑心が強く、留平は凡人であるから、留平が秘密を守り抜くことなど、ないだろう。廃立の計画は、なかったのである。

太史郎の陳苗は、孫晧に上奏し、久しく陰(くも)って雨がふらず、風気は迴逆するから、きっと陰謀があるでしょうと。孫晧は深く警戒して懼れたとか。。
『呉録』によると、もともと拝廟するとき、選んで大将軍に兼ねて三千兵を領させて護衛とする。陸凱がこの兵を使って廃立を実行するため、選曹(人事係)に丁奉を選用させた。孫晧はたまたま丁奉がイヤだったので、「選び直せ」といった。陸凱は、一時的な任務とはいえ、適任者を選ばねばと言った。

史料には見えないが、陸凱は遠回しに、「やっぱり陸凱が良いんじゃないですか」と言ったのだと思う。丁奉は、このときは重臣なので。

孫晧は、「留平にする」と。陸凱は、子の陸禕から留平に、計画を告げた。留平は、ふだん丁奉と仲が悪く、陸禕が陸凱の趣旨を伝える前に、留平が陸禕に、「聞けば野豬が丁奉の軍営に入ったらしい。凶徴だね」と、嬉しそうに言った。陸禕は、あえて計画を告げず、陸凱に報告した。陸凱は、計画をとりやめた。

孫晧伝 鳳凰元年に引く『江表伝』を参照。郝経によると、留平が秘密を守ったのは、もしも計画を告発すれば、自分にも禍いが及ぶと考えたからである。なるほど。


陸凱が孫晧を諫言する二十箇条

予、連従荊揚来者得凱所諫晧二十事、博問呉人。多云、不聞凱有此表。又按其文、殊甚切直、恐非晧之所能容忍也。或以為、凱蔵之篋笥、未敢宣行、病困、晧遣董朝省問欲言、因以付之。虚実難明、故不著于篇。然愛其指擿晧事、足為後戒、故鈔列于凱伝左云。

わたし陳寿は、荊州・揚州から来た者から、陸凱が孫晧を諫めた20箇条を入手した。ひろく呉人に問うと、陸凱にこんな上表はないとか、露骨すぎて孫晧に容認されないとか言う。陸凱が篋笥(文箱)に入れて、提出せず、病気になって董朝が遺言を聞きにきたとき、託したともいう。虚実は明らかでないが、孫晧の政事について、よく伝えており、教訓になると思うので、陸凱伝にくっつける。

周寿昌によると、陸凱は、陸凱伝に採録されている上疏で、孫晧を桀・紂に準えており、それでも孫晧に容認された。この20箇条が、病気なってから、董朝に託されたとしても、信じうることである。


晧遣親近趙欽、口詔報凱前表、曰「孤、動必遵先帝、有何不平。君所諫、非也。又建業宮不利、故避之。而西宮室宇摧朽、須謀移都。何以不可徙乎」凱、上疏曰、臣窃見、陛下執政以来、陰陽不調、五星失晷、職司不忠、奸党相扶。是、陛下不遵先帝之所致〔一〕。 〔一〕江表伝載凱此表曰「臣拝受明詔、心与気結。陛下何心之難悟、意不聡之甚也。」

孫晧は、親近する趙欽を派遣し、口頭で陸凱の諫言に対する返答をした。「私は先帝のやり方を遵守しているのであり、なにが問題か。きみの諫言は、当たらない。建業宮は、都合がわるいので(利がないので)避けた(武昌に遷都した)。しかし、西の宮室(武昌の宮殿)は、建物が破損しており、だから遷都を計画(延期?)しているのだ。どうして遷都に反対するのか」と。

争点は、あくまで武昌遷都。ほかの政事に関するゴタゴタは、派生したようである。そして、孫晧・陸凱の規範は、孫権の治世。リアルタイムで、それほど理想的だったかは別として、理想化されている。事実として、どれだけ孫権の治世に一致するかは、あまり問題ではない。諸葛亮が、劉備を理想化して、出師の表で「先帝、先帝」と連呼していた。あれと同じ。

陸凱は上疏して、反論した。「陛下が執政して以来、陰陽は調わず、五星は軌道を失い、職司は忠ならず、奸党は相ひ扶く。これは、陛下が先帝のやり方を遵守していないためです〔一〕。
『江表伝』に載せる陸凱のこの上表は、「臣拝受明詔、心与気結。陛下何心之難悟、意不聡之甚也」と書き始める。ただの前口上である。

【01】武昌遷都を辞めよ

夫王者之興、受之於天、脩之由徳、豈在宮乎。而、陛下不諮之公輔、便盛意駆馳、六軍流離悲懼、逆犯天地、天地以災、童歌其謡。縦令、陛下一身得安、百姓愁労、何以用治。此不遵先帝、一也。

王者が興隆するとき、天命を受け、徳を修めるもので、どうして宮殿の場所で決まるでしょうか。陛下は、輔弼の臣に相談せず、気ままに移動させまる。六軍は流離することに悲しみ懼れ、天地は災異をもたらし、童謡は苦しみを歌っています。もし陛下ひとりが満足しても、百姓が愁い疲れれば、統治は成り立ちません。これは、先帝のやり方と違います。

【02】中常侍の王蕃の殺害はミス

臣聞、有国以賢為本。夏殺龍逢、殷獲伊摯、斯前世之明効、今日之師表也。中常侍王蕃、黄中通理、処朝忠謇、斯社稷之重鎮、大呉之龍逢也。而、陛下忿其苦辞、悪其直対、梟之殿堂、屍骸暴棄。邦内傷心、有識悲悼、咸以呉国夫差復存。先帝親賢、陛下反之、是陛下不遵先帝、二也。

賢者の登用は、国政の根本です。夏桀は関龍逢を殺して(韓詩外伝に見える)衰退し、他方で、殷湯王は伊摯(伊尹)を得て発展したこと(荀子・呂氏春秋・孟子に見える)は、今日の手本となります。中常侍の王蕃は、黄中通理、社稷の重鎮で、呉朝にとっての関龍逢でした。

黄中通理の意味は、『魏志』劉廙伝を参照。

しかし陛下は、苦言・直言に怒って殺し、殿堂に死骸を晒しました。みな悲しみ悼み、陛下は(直諌した伍員を殺した)呉国の夫差の再来だと言っています。先帝は賢者に親しみ、陛下は賢者を虐げております。

【03】万彧は丞相に不適任

臣聞、宰相国之柱也、不可不彊。是故、漢有蕭曹之佐、先帝有顧歩之相。而万彧、瑣才凡庸之質、昔従家隷、超歩紫闥、於彧已豊、於器已溢。而陛下、愛其細介、不訪大趣、栄以尊輔、越尚旧臣。賢良憤惋、智士赫咤。是不遵先帝、三也。

宰相とは国の柱です。漢朝の蕭何・曹参は適任で、先帝の登用した顧雍・歩隲も適任だった。しかし万彧は凡庸で、家隷の出身で、器量が足りません。しかし陛下は、万彧を優遇し、旧臣よりも高位としています。賢良な人々は怒っています。

【04】民の衣食住を保証せよ

先帝、愛民過於嬰孩、民無妻者以妾妻之、見単衣者以帛給之、枯骨不収而取埋之。而陛下反之、是不遵先帝、四也。

先帝は、民を赤子よりも愛し、独身者に妻をあたえ、衣服がなければ布帛をあたえ、枯骨は埋葬しました。しかし陛下は、これをしていません。

【05】後宮の人数を削減せよ

昔、桀紂滅由妖婦、幽厲乱在嬖妾。先帝鑒之、以為身戒、故左右不置淫邪之色、後房無曠積之女。今中宮万数、不備嬪嬙、外多鰥夫、女吟於中。風雨逆度、正由此起。是不遵先帝、五也。

むかし夏桀・殷紂は妖婦(末喜・妲己)のせいでほろび、周の幽王・厲王は嬖妾(栄夷公を近づけて芮良夫の諫めを退けた・褒姒におぼれた)のせいで乱れました。先帝はこれを自戒とし、左右に淫邪な女を置かず、後宮の人数も絞りました。いま中宮は万をかぞえ、外では結婚できない男が多く、女は宮中でヒマです。

【06】政治に集中しろ

先帝、憂労万機、猶懼有失。陛下、臨阼以来、游戯後宮、眩惑婦女、乃令庶事多曠、下吏容姦。是不遵先帝。六也。

先帝は、万機に憂労し、それでも過失があることを懼れました。陛下は即位してから、後宮で遊び、婦女に眩惑され、諸事をほったらかし、下吏に丸投げするから、不正が入りこんでいます。

孫晧は、従来は官職の低い役人・在地の名声がなさそうな役人に、おおきな権限を与えている。これは、呉郡陸氏のような名士から見ると、許せないこと。しかし、孫権の後期も、君主権力の獲得のため、在地・人的ネットワークのない人物を抜擢し、群臣を圧倒していた。孫晧こそ、先帝=孫権をきちんと継承しているのでは。


【07】衣服・宮殿の華美を改めよ

先帝、篤尚朴素、服不純麗、宮無高台、物不彫飾、故国富民充、姦盜不作。而陛下、徴調州郡、竭民財力、土被玄黄、宮有朱紫。是不遵先帝、七也。

先帝は、あつく朴素を尊び、服は純麗でなく、宮は高台がなく、物は彫飾せず、ゆえに国は富んで民は充ち、姦盜は起こらない。しかし陛下は、州郡から徴調し、民の財力を竭くし、土は玄黄を被り、宮は朱紫あり。重税により装飾するとか、マジでダメ。

【08】呉郡の豪族を登用せよ

先帝、外仗、顧、陸、朱、張。内近、胡綜、薛綜。是以、庶績雍煕、邦内清粛。今者、外非其任、内非其人。陳声、曹輔、斗筲小吏、先帝之所棄、而陛下幸之。是不遵先帝、八也。

先帝は、外では顧氏・陸氏・朱氏・張氏にたより、内では胡綜・薛綜を近づけた。これにより、政治は整備され、国内は清粛であった。

陸凱は、在地豪族を重用せよという。自らが属する陸氏も、含める。

いまは、内外とも不適任者を任命している。陳声・曹輔は、斗筲の小吏であり、先帝に棄てられたが、陛下が用いている。

陳声は、孫晧伝 鳳凰三年にある。曹輔は、未詳である。
孫晧伝:晧愛妾或使人至市、劫奪百姓財物。司市中郎将陳声、素晧幸臣也、恃晧寵遇、繩之以法。妾以愬晧、晧大怒、仮他事焼鋸断声頭、投其身於四望之下。
巻六十五 王蕃伝:孫晧初、復入為常侍、与万彧同官。彧与晧有旧、俗士挟侵、謂蕃自軽。又中書丞陳声、晧之嬖臣、数譖毀蕃。蕃、体気高亮、不能承顔順指、時或迕意、積以見責。

これが、陛下が先帝と異なることの、第八である。

ぼくは思う。陸凱伝は、破滅的な暴君の孫晧を、良識的な忠臣の陸凱が直諌するという図である。しかし、この構図は、かなり作為的である。少なくとも、人材登用に関して、陸凱の「公正さ」は疑わしい。陸凱は、呉郡陸氏を含む有力豪族を重職に就けよ!! と、自らの利権を主張する。「陸喜・陸抗を用いよ」と、身内を名指しにすることもある。孫晧は、身分の低い人物を登用して国政を委任。これが悪政だと批判されているが、それって君主権力強化の手段かと。
陸凱が孫晧を批判するとき、孫権を理想化し、「先帝を踏襲せよ」と連呼する。諸葛亮の出師の表に通じる。しかし、孫晧が在地豪族でない者(官歴・名声に乏しい)を登用し、彼らを己の手足とし、駆使して豪族と対決するのは、後期の孫権そのものでは。陸凱の諫言もまた、君主と名士という対立構造が、潜んでいるのかも。
陸凱が、万民にとっての経済的損失であると主張する武昌遷都も、在地の利権の問題では? 都が武昌に遷されたら、呉郡陸氏の影響力は減衰する。それを防ぎたいから、とくに呉の四姓あたりは、遷都に猛烈に反対をする。


【09】アルハラ禁止

先帝、毎宴見羣臣、抑損醇醲、臣下終日無失慢之尤、百寮庶尹、並展所陳。而陛下、拘以視瞻之敬、懼以不尽之酒。夫、酒以成礼、過則敗徳。此無異商辛長夜之飲也、是不遵先帝、九也。

先帝は群臣と酒宴をするとき、酒量をセーブしたから、百僚はその場で意見を上申できた。

盧弼はいう。孫権は、酒を飲んで虞翻を殺そうとし、釣台で酒を飲んで臣下を水に落とそうとした。遡及的に美化しているだけである。

陛下は、視線を向けさせないし、酒を飲み干せと(いう圧力で)懼れさせる。これでは、商辛の長夜の飲と同じである。

【10】宦官の重用禁止

昔、漢之桓霊、親近宦豎、大失民心。今、高通、詹廉、羊度、黄門小人。而陛下、賞以重爵、権以戦兵。若、江渚有難、烽燧互起、則度等之武不能禦侮明也。是不遵先帝、十也。

漢朝の桓帝・霊帝は、宦官を近づけて民心を失った。いま高通・詹廉・羊度は、黄門の小人であるが、陛下は爵位を高め、兵を指揮する「権」限を与えている。江渚に難があって、烽火が上がっても(西晋の進攻が伝わっても)羊度ら武力では、防禦できない。

3名の宦官の名は、『三国志集解』に注釈なし。文中に「権」字があるが、忌避されていないという。
三国で宦官の害が強調されるのは、蜀の黄皓ですが、呉も例外ではない。陸凱伝の諫言の第十条に「高通・詹廉・羊度は、黄門の小人であるが、爵位を高め、軍の指揮権を持っている。彼らでは西晋の軍を防げない」とある。3人の名は創作に使そう。


【11】宮女の強制徴発は禁止

今、宮女曠積、而黄門復走州郡、條牒民女。有銭則舍、無銭則取、怨呼道路、母子死訣。是不遵先帝、十一也。

宮女はムダに人数がおおいのに、さらに黄門が州郡をめぐり、(宮中に徴発する名簿に)民の娘を記録しています。カネがあれば登録を免れますが、カネがなければ娘を差し出すしかなく、道路に怨嗟が満ち、母子は死別しています。

【12】乳母の家族に恩典を

先帝在時、亦養諸王太子。若取乳母、其夫復役、賜与銭財、給其資糧、時遣帰来、視其弱息。今則不然、夫婦生離、夫故作役、児従後死、家為空戸。是不遵先帝、十二也。

先帝のときも諸王・太子を(乳母を使って)養育した。もし乳母にしたら、その夫の傜役を免除し、銭材を支給し、ときには帰宅させ、乳母の実子の保育をさせました。しかし今は、夫婦は生き別れ、夫は傜役につき、乳母の実子が死ねば、その家はカラっぽです。

これが事実なら、孫晧は「孫権より劣化している」となり、単純にひどい。


【13】農桑を勧めよ

先帝歎曰「国以民為本、民以食為天、衣其次也。三者、孤存之於心」今則不然、農桑並廃、是不遵先帝、十三也。

先帝は歎いて、「国は民を根本とし、民は食を天(不可欠なもの)とし、衣はその次である。民・食・衣の3つは、私がいつも心を砕いているものだ」と。いまはそうでなく、農桑が廃れています。

【14】郷里の評価で人材登用せよ

先帝簡士、不拘卑賤、任之郷閭、効之於事。挙者不虚、受者不妄。今則不然、浮華者登、朋党者進、是不遵先帝、十四也。

先帝が士を選ぶときは、卑賎に拘らず、郷閭(郷里での評判)に基づいて任用し、功績は仕事に基づいて査定した。推挙する者は、実態のないものを推挙せず、受ける者も妄りではなかった(相応のポストしか拝受しなかった)。

いま陸凱は、郷閭をないがしろにするなという。つまり、まるで後世の科挙のように、個人の力量に基づき、君主が一本釣りすることに、陸凱は反対している。在地の豪族・名士のネットワークが、導き出した人材を、呉朝に送りこみ、序列を制御しようとしている。これも、呉郡陸氏の既得権益という気がする。
ただし、科挙のような、個人の能力を査定するシステムがない。孫晧が、一本釣りするのは、君主権力の強化が目的かも知れないが、その目的が果たされたか(人材の目利きが、うまく機能したか)は、べつに検討が必要だろう。というか、人選に失敗して、呉朝は寿命を縮めたことになる。

いまはそうでなく、浮華な者が登用され、朋党がつるんで昇進している。

浮華な者が問題となったのは、魏の曹叡の時代。


【15】兵士は他の負担を免除せよ

先帝戦士、不給他役、使春惟知農、秋惟収稲、江渚有事、責其死効。今之戦士、供給衆役、廩賜不贍、是不遵先帝、十五也。

先帝のときは、兵士はほかの傜役が免除され、春には農業に専念し、秋は収穫だけすれば良かったから、江渚の有事には、死力を尽くして戦えた。しかし今日の兵士は、多くの傜役をやらされ、給与も足りない。

孫呉にとって、もっとも恐ろしいのは「江渚の有事」すなわち、西晋の進攻。しかし、西晋を万全な態勢で迎撃できないほど、国力が疲弊している。
分からないが、軍役その他に従事できる人口が減っている。しかし、国防のコストや、孫晧が皇帝としての威信を保つコスト(遷都・土木建築、奢侈な宮殿のメンテ)は、どんどん高くなる。これは、三国膠着から晋呉分立になったのが理由だろう。既存の人民1家あたりの軍役・納税の負担が高まり、加重負担によって、家族が物理的に破綻する(陸凱の所説のように、父が軍役から帰らない、母が宮中から帰らない)か、単純に経済的に破綻する。残された子供は、育たない。こうして、人口の再生産に失敗し、さらに1家あたりの負担が高まる。構造的な問題。
平蜀から伐呉まで、約15年のブランクがある(孫晧期と重複)。西晋の内部に、伐呉に関する高官の対立があったものの、結果的に、孫呉の国家が、精神的のみならず、人口構造的に自壊・自滅するまで、あえて、遠巻きな「攻城戦」をやったようなもの。西晋のなかで、だれがそれを、戦略として計画していたか、分からないけど。1世代の半分くらいで、孫呉は「籠城」が不可能に。


【16】信賞必罰

夫、賞以勧功、罰以禁邪。賞罰不中、則士民散失。今、江辺将士、死不見哀、労不見賞、是不遵先帝、十六也。

賞とは功績をあげることを勧めるもので、罰とは罪をおかすことを禁じるためのもの。賞罰が的外れだと、士民は散失してしまう。長江のあたりの兵士は、戦死しても哀れまれず、功労があっても賞されない。

【17】役人の数の過剰

今、在所監司已為煩猥、兼有内使、擾乱其中。一民十吏、何以堪命。昔景帝時、交阯反乱、実由茲起。是為遵景帝之闕、不遵先帝十七也。

今、監司する役人がムダにおおく、さらに内使(中央からの使者)があれば、その地域は擾乱します。民1人に吏10がいるような状態で、とても立ちゆかない。むかし景帝(孫休)のとき、交阯が反乱したのは、じつはこれが原因なのです。景帝のときの失敗を活かさないと。

孫休のときの交阯の反乱は、整理しないと。
蜀漢も、国家の規模のわりに、役人や兵士の数(人口比)が多かったはず。割拠政権という実態と、それでも皇帝に即位しているという名分のあいだのギャップは、こういう役人の数のような、現場レベルで不都合を引き起こすのかも。


【18】校事による弾劾を抑えよ

夫、校事、吏民之仇也。先帝末年、雖有呂壹、銭欽、尋皆誅夷、以謝百姓。今復、張立校曹、縦吏言事、是不遵先帝十八也。

校事は、吏民の仇である。先帝の末年、呂壱・銭欽は、みな誅して族殺され、先帝が百姓に謝った。いま、また校曹の官を立て、ほしいままに吏について発言している(弾劾している)。

【19】州県の着任期間が短い

先帝時、居官者、咸久於其位、然後考績黜陟。今、州県職司、或莅政無幾。便徴召遷転、迎新送旧、紛紜道路、傷財害民、於是為甚。是不遵先帝、十九也。

先帝のときは、官職に着任すると、しばらく勤務し、その後に査定して、昇進・降格をした。いま州県の職務は、着任してすぐに中央に戻ったり、べつの州県に転任したりする。新旧の役人の送迎のため、道路はあわただしく、経済的負担が民にのしかかっている。

【20】刑罰の判決は慎重に

先帝、毎察竟解之奏、当留心推按。是以、獄無寃囚、死者呑声。今則違之、是不遵先帝二十也。若、臣言可録、蔵之盟府。如其虚妄、治臣之罪。願、陛下留意。

先帝は、竟解の奏を察し(判決の結果を見て)、心に留めて考え直した。ゆえに獄には冤罪の囚人はなく、刑死者も(不当さを訴えて)声を出さなかった。いまそうではない。以上、もし私の発言に見るところがあれば、盟府に格納してほしい。もし虚妄なら、私が罪を受けます。

『江表伝』より、宮殿建築を諫める文

江表伝曰、晧所行弥暴、凱知其将亡、上表曰「臣聞悪不可積、過不可長。積悪長過、喪乱之源也。是以古人懼不聞非、故設進善之旌、立敢諫之鼓。武公九十、思聞警戒、詩美其徳、士悦其行。臣察陛下無思警戒之義、而有積悪之漸、臣深憂之、此禍兆見矣。故略陳其要、寫尽愚懐。陛下宜克己復礼、述脩前徳、不可捐棄臣言、而放奢意。意奢情至、吏日欺民。民離則上不信下、下当疑上、骨肉相克、公子相奔。臣雖愚、闇於天命、以心審之、敗不過二十稔也。臣常忿亡国之人夏桀、殷紂、亦不可使後人復忿陛下也。臣受国恩、奉朝三世、復以餘年、値遇陛下、不能循俗、与衆沈浮。若比干、伍員、以忠見戮、以正見疑、自謂畢足、無所餘恨、灰身泉壤、無負先帝、願陛下九思、社稷存焉。」

この『江表伝』の言葉は、見るべき史実はない。わが諫言を、聞き届けて下さい!という、念押し。進善之旌・敢諫之鼓というアイテムがあり、衛武公の故事などが見え、陸凱が自らを比干(史記 殷本紀)・伍員に準えていることくらい。

初、晧始起宮、凱上表諫、不聴、凱重表曰「臣聞宮功当起、夙夜反側、是以頻煩上事、往往留中、不見省報、於邑歎息、企想応罷。昨食時、被詔曰『君所諫、誠是大趣、然未合鄙意、如何。此宮殿不利、宜当避之、乃可以妨労役、長坐不利宮乎。父之不安、子亦何倚。』臣拝紙詔、伏読一周、不覚気結於胸、而涕泣雨集也。臣年已六十九、栄禄已重、於臣過望、復何所冀。所以勤勤数進苦言者、臣伏念大皇帝創基立業、労苦勤至、白髪生於鬢膚、黄耇被於甲冑。天下始静、晏駕早崩、自含息之類、能言之倫、無不歔欷、如喪考妣。幼主嗣統、柄在臣下、軍有連征之費、民有彫残之損。賊臣干政、公家空竭。今彊敵当塗、西州傾覆、孤罷之民、宜当畜養、広力肆業、以備有虞。且始徙都、属有軍征、戦士流離、州郡騷擾、而大功復起、徴召四方、斯非保国致治之漸也。臣聞為人主者、攘災以徳、除咎以義。故湯遭大旱、身禱桑林、熒惑守心、宋景退殿、是以旱魃銷亡、妖星移舍。今宮室之不利、但当克己復礼、篤湯、宋之至道、愍黎庶之困苦、何憂宮之不安、災之不銷乎。陛下不務脩徳、而務築宮室、若徳之不脩、行之不貴、雖殷辛之瑤台、秦皇之阿房、何止而不喪身覆国、宗廟作墟乎。夫興土功、高台榭、既致水旱、民又多疾、其不疑也。為父長安、使子無倚、此乃子離於父、臣離於陛下之象也。臣子一離、雖念克骨、茅茨不翦、復何益焉。是以大皇帝居于南宮、自謂過於阿房。故先朝大臣、以為宮室宜厚、備衛非常、大皇帝曰『逆虜游魂、当愛育百姓、何聊趣於不急。』然臣下懇惻、由不獲已、故裁調近郡、苟副衆心、比当就功、猶豫三年。当此之時、寇鈔懾威、不犯我境、師徒奔北、且西阻岷、漢、南州無事、尚猶沖譲、未肯築宮、況陛下危惻之世、又乏大皇帝之徳、可不慮哉。願陛下留意、臣不虚言。」

引き続き『江表伝』で、陸凱が、宮殿の造営に反対している。文中で陸凱は「年六十九」と自己申告する。陸凱は、建衡元年に七十二歳で卒したから、『三国志集解』陸凱伝によると、これは宝鼎元年と分かるという。

陸凱の弟である陸胤伝は、したに枠を改める。

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交州刺史を十余年、陸凱の弟・陸胤伝

陸凱伝には、陸凱の弟・陸胤の列伝が付される。

二宮事件で、楊竺を獄死させる

胤、字敬宗、凱弟也。始為御史、尚書選曹郎。太子和、聞其名、待以殊礼。会、全寄、楊竺等、阿附魯王霸、与和分争。陰相譖搆、胤坐収下獄。楚毒備至、終無他辞〔一〕。 〔一〕呉録曰、太子自懼黜廃、而魯王覬覦益甚。権時見楊竺、辟左右而論霸之才、竺深述霸有文武英姿、宜為嫡嗣、於是権乃許立焉。有給使伏于牀下、具聞之、以告太子。胤当至武昌、往辞太子。太子不見、而微服至其車上、与共密議、欲令陸遜表諫。既而遜有表極諫、権疑竺泄之、竺辞不服。権使竺出尋其由、竺白頃惟胤西行、必其所道。又遣問遜何由知之、遜言胤所述。召胤考問、胤為太子隠曰「楊竺向臣道之。」遂共為獄。竺不勝痛毒、服是所道。初権疑竺泄之、及服、以為果然、乃斬竺。

陸胤は、あざなを敬宗、陸凱の弟である。はじめ御史、尚書選曹郎となる。太子の孫和は、その名声を聞き、殊礼で待遇した。たまたま全寄・楊竺らが、魯王霸に阿附し、孫和と分かれ争った。ひそかに譖搆し、陸胤は連坐して収められ下獄された。楚毒(激しい苦しみ)があったが、なにも自白しなかった〔一〕。

『三国志集解』は、とくに注釈なし。


〔一〕呉録曰、太子自懼黜廃、而魯王覬覦益甚。権時見楊竺、辟左右而論霸之才、竺深述霸有文武英姿、宜為嫡嗣、於是権乃許立焉。有給使伏于牀下、具聞之、以告太子。胤当至武昌、往辞太子。太子不見、而微服至其車上、与共密議、欲令陸遜表諫。既而遜有表極諫、権疑竺泄之、竺辞不服。権使竺出尋其由、竺白頃惟胤西行、必其所道。又遣問遜何由知之、遜言胤所述。召胤考問、胤為太子隠曰「楊竺向臣道之。」遂共為獄。竺不勝痛毒、服是所道。初権疑竺泄之、及服、以為果然、乃斬竺。

『呉録』によると、太子は自ら黜廃されるのを懼れ、魯王の覬覦(不相応な望み)はますます甚だしかった。ときに孫権は楊竺にあい、左右を辟して孫覇の才を論じさせた。楊竺は、「孫覇には文武の英姿があり、嫡嗣にすべき」と深く論じた。

楊竺のことは、吾粲伝・孫覇伝・陸遜伝に見える。

こうして孫権は、孫覇を継嗣に立てようと思った。給使が牀下に伏し、つぶさにこれを聞いており、太子に告げた。陸胤は、(建業から)武昌に行くにあたり、訪問して太子に辞去を告げようとした。太子は会ってくれず、しかし微服を着て車上に至り、(陸胤と)密議し、陸遜に(廃嫡を)諫める上表をさせようと話し合った。

孫登が、自らの身を守るために、陸氏を頼ったこと。身を守るために、変装をして、秘密の行動を取ったこと。陸遜の憤死に繋がる諫言は、太子本人→陸凱→陸遜というルートで、発信されたこと。などが分かる。

陸遜が上表して極諫すると、孫権は楊竺が(孫覇の立太子を)漏らしたと考えたが、楊竺はそれを否定した。孫権は楊竺を(宮殿から? 職務から?)出して、その理由を捜査させた。楊竺は、「このごろ陸胤だけが西(武昌)に行った。きっと陸胤が(陸遜に)言ったのだ」と推定した。さらに使者をやって陸遜に「なぜ(廃太子を)知っているか」と問うと、陸遜は陸胤に聞いたと答えた。
孫権は、陸胤を召して考問した。陸胤は太子のために(太子の関与を)隠して、「楊竺が私に向かって言ったのです」と言った。ついに陸胤・楊竺が獄に下された。楊竺は、痛毒にたえられず、(陸胤がでっちあげた)話に合意した。はじめ孫権は、楊竺が漏泄したと疑っており、楊竺が自白したから、楊竺を斬った。

交州刺史として治績あり

後、為衡陽督軍都尉。赤烏十一年交阯九真夷賊、攻没城邑、交部騷動。以胤為交州刺史、安南校尉。胤、入南界、喻以恩信、務崇招納。高涼渠帥黄呉等、支党三千餘家皆出降。引軍而南、重宣至誠、遺以財幣。賊帥百餘人、民五万餘家、深幽不羈、莫不稽顙、交域清泰。就加安南将軍。復討蒼梧建陵賊、破之、前後出兵八千餘人、以充軍用。

のちに衡陽督軍都尉となった。

衡陽郡は、孫亮伝の太平二年に見える。

赤烏十一年、交阯の九真夷賊が、城邑を攻没し、交部は騒動した。陸胤を交州刺史・安南校尉(一名、呉が置く)とした。

趙一清によると、『寰宇記』巻百五十七によると、広州の南海県に、菖蒲澗があり、一名を甘渓という。裴氏『広州記』によると、菖蒲は盤石の上に生え、水は山より過り、味は甘く冷たく、常流と異なるという。『南越志』によると、むかし交州刺史の陸胤の開いたものであり、今に至るまで重んじられる。いまでもこの水源が生きており、毎月の旦日、州を傾けて連ねて汲みにきて、日用を充たす。井泉はあるのだが、食は足らない、という。趙一清は『水経』温水注も引いており、薛綜伝に見える。
侯康によると、『太平御覧』三百七十一に引く劉欣期『交州記』によると、趙嫗は、九真の車安県の女子である。乳の長さは数尺、嫁がず、山に入りて群盗をあつめ、ついに郡を攻めた。つねに金㩉・蹤屐を著け、戰いて退かば輒ち帷幕を張り、少男と通じ、數十 侍側せしむ。刺史たる吳郡の陸胤 之を平らぐ。とある。盗賊の女傑がおり、九真郡を攻めたが、陸胤に平定されたという。

陸胤が南界に入ると、恩信にてさとし、崇に務めて招納した。高涼の渠帥である黄呉らは、支党3千餘家で、みな出て降だった。

高涼は、呂岱伝に見える。

軍を引いて南にゆき、重ねて至誠を宣べ、財幣を贈った。賊帥の百餘人、民の五万餘家は、(奥地の)深幽にいて従わなかったが、稽顙(拝跪して服従)しない者はなく、交域は清泰となった。安南将軍を加えられた。ふたたび蒼梧郡の建陵県の賊を討ち、これを破った。前後に兵8千餘人を徴発し、軍用を充たした。

建陵県は、『宋書』によると呉が立て、蒼梧郡に属したという。


永安元年、徴為西陵督、封都亭侯、後転左虎林。中書丞華覈、表薦胤、曰「胤、天姿聡朗、才通行絜。昔、歴選曹、遺迹可紀。還在交州、奉宣朝恩、流民帰附、海隅粛清。蒼梧、南海、歳有旧風、瘴気之害、風則折木、飛砂転石、気則霧鬱、飛鳥不経。自胤至州、風気絶息、商旅平行、民無疾疫、田稼豊稔。州治臨海、海流秋鹹。胤又畜水、民得甘食。恵風横被、化感人神、遂憑天威、招合遺散。至被詔書当出、民感其恩、以忘恋土、負老攜幼、甘心景従、衆無攜貳、不煩兵衛。自諸将合衆、皆脅之以威、未有如胤結以恩信者也。銜命在州、十有餘年、賓帯殊俗、宝玩所生、而内無粉黛附珠之妾、家無文甲犀象之珍。方之今臣、実難多得。宜在輦轂、股肱王室、以賛唐虞康哉之頌。江辺任軽、不尽其才。虎林選督、堪之者衆。若召還都、寵以上司、則天工畢脩、庶績咸煕矣。」

永安元年、徴して西陵督となり、都亭侯に封じられた。のちに左虎林に転じた(もしくは、転じて虎林に在った)。

陳景雲によると、「左」は「在」に作るべきである。魏の王昶が兗州から転じて徐州に「在」り、蜀の張飛が、宜都から転じて南郡に「在」ったというのが、訂正の参照先である。

中書丞の華覈は、上表して陸胤を推薦した。虎林として辺境の警備をするのでなく、中央で重職を任せよという趣旨。
選曹として、適切な人材登用を行い、交州刺史として善政をしたから、蒼梧・南海の荒々しい自然現象も鎮静したという、文飾たっぷりの推薦文。水・食糧の備蓄も充分になったというが、上の『三国志集解』で、陸胤が水源を開いたという地理書を引いたことに共通する。交州刺史を十余年つとめ、兵員も珍宝も自発的に集まるようになったという。ふーん。

胤卒、子式嗣、為柴桑督、揚武将軍。天策元年、与従兄禕、俱徙建安。天紀二年、召還建業、復将軍、侯。

陸胤が卒すると、

『唐書』経籍志によると、『広州先賢伝』七巻、陸胤が撰す、とある。藝文志に、「陸胤(志)『広州先賢伝』一巻」とある。

子の式が嗣いで、柴桑督・揚武将軍となった。天策(天冊が正しい)元年、従兄の陸禕とともに、建安に徙された。天紀二年、建業に召還され、ふたたび将軍・侯(揚武将軍・都亭侯)となった。

潘濬・陸凱伝の評

評曰、潘濬、公清割断。陸凱、忠壮質直。皆、節概梗梗、有大丈夫格業。胤、身絜事済、著称南土、可謂良牧矣。

『三国志』巻六十一の末尾、評に曰く、潘濬は公清割断で、陸凱は忠壮質直である。どちらも、節概梗梗、大丈夫の格業あり。陸胤は、身は絜で事は済なので、

中書丞の華覈が、「胤、天姿聡朗、才通行絜」と言ったのと共通する。

南土に著称され、良牧と言うべきである。

劉咸炘によると、潘濬・陸凱は似ていない。ただ、潘濬が呂壱をにくみ、陸凱が孫晧をいさめたという点だけが、共通点である。潘濬は、陸遜とともに武昌に鎮し、陸凱は陸遜の族子であり、陸抗とともに輔して、呉の重臣となり、よく君主を匡し、国と存亡をともにした。この伝は、じつは陸遜伝の余りであり、ほんとうであれば、陸遜伝に合わせるべき。陸遜伝から分けたから、(巻を形成する、積極的な理由がなく)評語は表面的になったのである。
ぼくは思う。陸遜の関わりの濃さを言えば、呉臣は広くあてはまる。劉咸炘の言い分も、必ずしも妥当とは言えない。

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附:楊竺伝を構成する(作成中)

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