孫呉 > 石井仁先生の論文を読む

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孫呉軍制の再検討

はじめに

孫呉政権の評価は、2つに大別できる。
①非江東の名士・武人からなる孫氏の軍事集団と、これを支持した江東豪族との連合政権。大川富士夫『六朝江南の豪族社会』1987年・田余慶『秦漢魏晋史探微』所収の「孫呉建国的道路」。
②支持基盤としての江東豪族の脆弱性を、開発領主的な将帥との主従関係によって補った、封建的な軍事政権。川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』1982年。

呉の後進性に基づくという見解は一致。大川氏曰く、官制は漢を模したが、官衙・分掌が未発達。天子の私的属僚。有力宗族は世襲。川勝氏の根拠となったのは、世兵制・都督の世襲・奉邑制。
世兵制は、陸抗伝で「衆五千人」が継承され、陸抗の五子が分けた。都督の世襲は、西陵都督の歩氏。3代45年にわたり、最後は中央に徴されて反乱。奉邑制は、周瑜・魯粛・呂蒙が、下雋・劉陽・漢昌・州陵を奉邑として「食」み、養兵費に充当した。
川勝氏は、世兵の私兵集団(陸抗)が、官職に付随した奉邑(魯粛ら)を与えられ、都督を世襲(歩隲)した、開発領主とした。開発領主が、資質のある武人(孫策・孫権)を推戴したと。

濱口重國『秦漢隋唐史の研究 上』1966年によると、奉邑制は、呉王国・王朝の成立とともに、漸次、封爵制に切り替えられて消滅した。藤家禮之助『漢三国両晋南朝の田制と税制』1989年によると、大半が、典農部屯田に再編された。つまり、奉邑制は孫呉政権の基本政策でなく、創業期における軍事的強化の過程で生じたきわめて特異な制度にすぎないという理解である。藤家氏は、世兵制は、政権確立以前の便宜的な措置にすぎないのではないかという疑問を提示。

1_世兵制の再検討

孫呉でも兵戸・中軍の存在が指摘され、世兵を特徴とはできない。さらに、世襲の軍隊は、孫呉に固有でない。『蜀志』霍峻伝 注引『襄陽記』に、羅憲の部曲と職が、羅襲に受けつがれた。条件さえ整えば、容易に表出。
宮川尚志『六朝史研究 政治・社会篇』九章によると、孫策・孫権によって「授兵」されてから、軍務につくのが一般的。
甘寧伝によると、数百人をひきいて投じ、赤壁で兵を合わせたが、益陽では三百、濡須では三千。曹操に夜襲して二千を増員。作戦や軍功に応じて、兵力を管理された。
呂蒙伝によると、200年、孫権が兵を整理するとき、呂蒙は非凡なので増兵された。周瑜伝によると、周瑜の兄子は不適格なので世襲できず。孫呉では、将帥に対する厳格な適性審査と、これにともなう部隊の統廃合が断続的に実施された

江陵・陸抗に駐屯した部隊は、周瑜は4千、魯粛以降は1万余。周瑜・魯粛・厳畯・呂蒙と、名将に引き継がれた。駐屯地の重要度や部隊の規模に比例して、世兵的な原理が機能しにくくなっていた。

2_孫呉の中軍と地方軍

孫呉の中軍は「部」「営」と呼ばれる部隊によって編成され、指揮官「都督」が設置された。羽林・五校(五営)・武衛などは、既成の名号を借用した部隊。『呉志』巻十七 胡綜伝によると、劉備の荊州進攻に際して、兵力不足に悩まされた孫権が、胡綜・徐詳に命じて編成させたという「解煩左右部」をはじめ、無難左右部・馬閑左右部は、孫呉が新設した。
『呉志』巻六 孫静伝に、20年余も豫章太守に在任した孫鄰が、都督となった「繞帳督」あるいは、帳下左右部・外部などは、君主を護衛する部隊と推測される。中軍の主力が、孫策・孫権の旗本部隊から発達したものと如実に物語る。
孫権の死後、諸葛恪・孫峻・孫綝・全尚・孫恩・張布は、例外なく「中外都督」「中軍都督」を帯びる。中軍は、地方に駐屯する将帥を威圧するに足る、強大なものであった。

軍団の形成過程については、陶元珍「三国呉兵考」1933年・宮川尚志『六朝史研究 政治・社会篇』1956年の1章1節・3章3節など。袁術・劉繇・劉勲から兵を増強し、山越を討伐して拡張。周瑜が3万人(周瑜伝 注引『江表伝』)、合肥を10万で襲う(張遼伝)ように、数万から十万、後方の兵站・予備部隊を併せれば20万近い軍勢。諸葛恪伝によると、20万の衆が徴用され、これが最大か。全盛期は、後方も含めて30万近い兵力。
陸抗伝は、陸遜から5千を継承するが、数万で楽郷に駐屯し、荊州に8万を増強せよという。孫晧期、6万6千の軍隊が皇子に与えられた。君主が差配できる中軍が多かった。歩氏ら、重鎮の都督は、いずれも中軍によって簡単に撃破された。中軍は数万単位で動員でき、都督らの将帥が対抗することは不可能で、陸抗の遺表にあるように地方軍が中軍に依存した。
藤家氏が指摘したように、草創期はともかく、世兵制を基本政策と位置づけることはできない。

3_孫呉の都督制度について

曹魏の都督は州単位。孫呉は狭いエリア。曹魏・西晋に対して、長江を防衛ラインとした厳戒体制。下流から、京下(京口)・濡須口・牛渚・武昌・夏口・陸口・公安・江陵・楽郷・西陵などの戦略拠点。長江と支流の合流点や中洲。
建業の北方を固める京下都督は、204年に孫韶(孫河の甥、241年に卒官)が任ぜられ、嫡子の孫越、276年に孫楷(孫越の兄)が西晋に亡命するまで、3代70年が世襲した(孫韶伝)。
長江と漢水が合流する夏口督は、孫皎(孫静の子、213-219)、孫奐(孫皎の弟、219-234)、孫承(孫奐の子、234-243)、孫壱(孫承の弟、249-257、魏に亡命)のように、孫皎の子弟が世襲した(孫皎伝・孫奐伝)。
楽郷都督(はじめ江陵に駐屯、219-270、朱然の父子、朱然伝)、公安都督(219-253、諸葛瑾・諸葛融父子、諸葛瑾伝)でも、世襲が見られる。これは、魏・蜀だけでなく、六朝を通じても稀有。

江南の後進地域では、有力官僚が、積極的に開発をした。孫休伝 永安元年 注引『襄陽記』によると、李衡が柑橘を栽培する。『水経注』巻三十四 江水二に、歩隲城・歩闡城・陸抗城が存在する。西陵付近の中洲で、開発していた。『資治通鑑』巻七十九 晋紀一 泰始八年十月 胡三省注に、西陵は三国の国境にまたがる商業都市として繁栄した。交通の要衝にあり、関税徴収権が認められた可能性がある。開墾を含めた経済活動をしたかも。
しかし利殖活動が、地方割拠とはいえない。『魏志』趙儼伝 注引『魏略』によると、曹魏の都督・四征将軍は、軍府の物資を、意のままに処分できた。孫呉の将帥を、領主とはいえない。

歩闡の反逆は、楽郷都督の陸抗によって短期間で鎮圧された。公安に駐屯した諸葛融は、諸葛恪が253年に失脚すると、無難都督の施寛・周辺都督に攻められて自尽した。中央から派遣された監軍によって牽制された。曹魏に等しい。このあたり、はぶく。

『呉志』巻三 三嗣主伝の評 注引『陸機弁亡論』によると、「周瑜・陸遜・魯粛・呂蒙のともがら、入りて腹心となり、出でて股肱となる」とある。帷幄にあるべき智謀の士が、前線に立ったのは、人材が不足したから。
『通典』巻二十九 職官典十一 雑号将軍 所引『王隠晋書』に、「陸機 少くして父を襲いて牙門将となる。呉人 武官を重んずるが故なり」とある。軍事偏重と、武官重視が、世襲化に影響を与えたか。呂範伝には、有力将帥の嫡子が「副軍校尉」として父を輔佐した事例がある。
川勝氏が地方軍鎮に割拠する封建勢力と理解した将帥は、中央集権的な軍事体制のなかに組み込まれた存在。実力を過大評価できない。

おわりに

孫呉の軍隊は、強大な中軍を中心とする集権的な運営がなされていた。三国政権は、いずれも比較的弱小の軍隊から成長したものである。袁術の配下の「一校尉」(孫匡伝 注引『干宝晋紀』)に過ぎない孫策が、江東侵攻195年のときに率いた、兵わずかに1千余(孫策伝)から出発した。劉繇・王朗を駆逐したが、孫策の都督を買って出た呂範が「綱紀がなお整わず」に合流した(呂範伝 注引『江表伝』)。孫権の時代も、私憤による刃傷事件がたえない。206年、麻屯・保屯を攻略したとき、凌統は同僚を斬殺した。
孫皎と甘寧(巻六 孫皎伝)、周瑜と程普(巻九 周瑜伝)、蒋欽と徐盛(巻十 蒋欽伝)、甘寧と凌統(甘寧伝)、甘寧と呂蒙など、将帥同士の不協和音を伝える。

初期の孫呉政権(曹操政権)から、正式に承認された地位は、わずかに将軍(討逆・討虜)、会稽太守・呉侯にすぎない。事実上、揚州のうち九江郡を除く6郡(会稽・呉郡・廬江・豫章・廬陵)を制圧した孫呉は、合法的に支配するための名分に欠き、それを将軍を頂点とした統帥系統を援用することによって補完しなければならなかった。巻十一 呂範伝に、孫策が征虜中郎将の呂範(都督も兼任?)に、「財計を典主」させたといわれることは、初期の政権が、軍事組織に立脚した、きわめて粗放な構造をもつと同時に、孫氏の家政機関の色彩を示す。その傾向は、滅亡の直前まで拭えない面もあるが(宮川論文)、文官優位の一元的な政治・軍事体制の確立を指向しつつあった。

中央の軍制機構に限れば、呉王国222年、呉王朝229年ののち、軍功の査定・武官の人事を担当する「典軍」(巻七 張昭伝 付張休伝)、軍糧などの軍需物資を総管する「節度」(巻十九 諸葛恪伝 注引『江表伝』)、軍事司法にかかわる「執法」(巻十七 是儀伝・胡綜伝)などの官署が設置されていった。
魏晋に匹敵しうる軍事制度の整備に腐心したことを読み取れる。

成立事情・支配地域が異なるが、その社会経済の発展状況が、ダイレクトに制度に反映されるというのは、いささか拙速。これは孫呉・蜀漢の政治・軍事制度に対する評価の低さが影響している。しかし、政権構想・政治理念はあったはず。170101

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孫呉政権の成立をめぐる諸問題

はじめに

孫呉政権の基礎は、孫策による会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬陵・廬江(揚州六郡)の領有。先主伝 注引『江表伝』で魯粛が「孫討虜すでに六軍を拠有す」といい、周瑜伝 注引『江表伝』で黄蓋が曹操に偽降する文書に「江東六軍・山越の人をもって」とある。孫呉政権の実態が、揚州六郡というのが、内外の共通認識。

孫策伝に「盡更置長吏、策自領會稽太守、復以吳景爲丹楊太守、以孫賁爲豫章太守。分豫章、爲廬陵郡、以賁弟輔爲廬陵太守。丹楊朱治爲吳郡太守。彭城張昭、廣陵張紘、秦松、陳端等、爲謀主」とある。196年、会稽郡を奪取して自ら太守を領した孫策は、呉景・孫賁・孫輔・朱治を署置した。武力制圧した諸郡に、将帥を起用。
孫策伝 注引『江表伝』に、李術を表して廬江太守と為すとある。江北の廬江に李術を任用。李術の経歴は不明だが、旧袁術政権の生き残りか。
廬陵の分置時期は、初平二(191)年(『水経注』巻三十九 贛水)、興平元(194)年(『宋書』巻三十六 州郡二、『続漢志』巻二十二 郡国四 劉昭注)、建安四(199)年(『資治通鑑』巻六十三、『読史方輿紀要』巻八十七 江西五)など諸説がある。孫策の設置であれば、平定後の建安四年が有力。
しかし『太平御覧』巻百七十 州郡部十六 江南道上 吉州に引く雷次宗『豫章記』に、「霊帝末、楊州刺史 劉遵 上書すらく、廬陵・鄱陽の二郡を置くことを請ふ。献帝 初平二年、始めて郡を立つ」とある。『呉志』巻四 太史慈伝 注引『江表伝』に、「丹陽の僮芝 自ら廬陵を擅にし、詔書を被ると言を詐りて太守と為る」とある。孫策が侵攻する前、豫章太守を称する土豪も現れた。初平二年の可能性も残る。

注意を要するのが、首班の孫策が一郡太守に過ぎない点。太守の間に上下関係は存在せず、他の5郡の太守に超絶し、指揮権を行使することは、制度上、不可能。呉景・孫賁は孫堅に仕えた旧臣。
大川富士夫『六朝江南の豪族社会』1987年は、族的結束力の脆弱な寒門孫氏の軍事集団が、江東豪族の協力を得て成立した「武断的」な軍事国家とする。江北・江東の名士勢力が、王朝創設後に君主権を阻害。宮川尚志『六朝史研究 政治・社会篇』1956年、田余慶『秦漢魏晋史探微』1993年も、大川氏の理解に近い。
川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』1982年は、開発領主の性格をもつ配下の将帥との間に濃密な主従結合を認め、豪族社会の後進地域に成立した、封建的な「純軍事政権」とした。
呉郡・会稽、江東豪族の成熟度・力量の評価に問題をはらむが、孫呉を既成の制度の枠外に構築された国家・政治体制に求める点で、異口同音。
大川氏・田氏は、江東豪族の力量を高く評価。唐長孺『魏晋南北朝史論叢』1955年、万縄楠『魏晋南北朝史論稿』1983などの研究者も同じ。小南一郎「神亭壺と東呉の文化」1993年は、墓葬文化・習俗の視点から、江東豪族社会の自立性を強調。

これまで後漢末の政治社会は、貴族制成立に係わる問題(後漢に代わる在地勢力の勃興)という図式で捉えられた。三国が、支持基盤として名士・豪族層の駆け引きの上に成立したというのは、自明の前提。個人の出自・経歴を中心とした、集団構成員の復原と、政権の結合原理が分析された。
依拠した地域の社会経済の差が、そのまま漢王朝を継承・復興を主張した、三国政権の国家体制に反映されたとするのは拙速では。秦漢帝国以来の諸制度を保持しつつ、実際の政治・社会に適応させようとしていた。既成の制度から、制約を受けない政治権力はあり得ない。
田氏が「偏覇」という、後進的な江東社会を基盤とする名分なき地域社会とされた孫呉政権を再検討。

1_後漢末の江淮における袁術の覇権

孫堅は、襄陽で191年に戦死するまで、袁術の忠実な部下(孫破虜伝)。袁術の庇護で成長した孫策は、周囲に袁術の「将」「部曲」と映る。宮川・大川・田 前掲書。緊密な環境は、袁術が帝位僭称まで続く。
孫呉政権成立の地理的・政治的要因として、袁術との関わりの評価が鍵。

反董卓同盟は、191年、豫州刺史の帰属をめぐる、周喁と孫堅の紛争を契機に分裂。
袁紹の署置された揚州刺史「周喁」を、『後漢書』袁術伝・公孫瓚伝は「周昕」に作り、『魏志』公孫瓚伝は「周昂」に作る。孫堅伝 注引『呉録』・『会稽典録』によると、周喁の長兄が周昕、次兄が周昂で、いずれも袁紹派。九江太守の周昂は、陰陵県で孫賁に敗れた(孫賁伝)。丹陽太守の周昕も、袁術が派遣した呉景に敗れ、故郷に逃れた(呉景伝)。豫州刺史を「周昕」「周昂」とする史料は、同じ経緯で袁術・孫氏集団に敵対した兄弟を混同したか。

袁術と公孫瓚の同盟が成立。袁紹・劉表・曹操と提携。袁紹派の袁遺(袁紹の従兄)を撃退した袁術は、自派の鄭泰・陳瑀を刺史とする。『范書』鄭太伝・『魏志』袁術伝 注引『英雄記』。
193年、袁術は南陽を放棄して兗州の陳留郡の封丘県に移動。曹操を打倒して、袁紹派を分断し、荊州の劣位を挽回。『魏志』呂布伝 注引『三国典略』に、「金尚 献帝初に兗州刺史となり、東のかた郡にゆくも、太祖すでに兗州に臨み、金尚 南のかた袁術に依る」とある。金尚は、曹操に入部を阻まれ、袁術に身を寄せた。袁術が兗州攻略の口実とした可能性が高い。

袁術は匡亭(平丘県)などで連敗し、九江郡に敗走。武帝紀 初平四年。陳瑀に背反されるが、同年三月ごろ、陳瑀を駆逐。
『後漢書』袁術伝に「揚州刺史の陳温を殺して自らこれを領し、また兼せて徐州伯を称す。……李傕 左将軍・仮節を授け、陽翟侯に封ず」とある。
『魏志』袁術伝で裴松之が疑義を呈するように、袁術の陳温殺害は誤り。『資治通鑑』巻六十 献帝 初平三年~四年も、陳温の病死・陳瑀の刺史就任・袁術と陳瑀の交戦を記載。

寿春を占拠した袁術は「揚・徐二州牧」を名のり、李傕は支援を期待して官号を授けた。孤立無援の李傕は、各地の群雄を州牧に進め、懐柔を試みる。石井氏「四征将軍の成立をめぐって」『古代文化』45-10 1993年。
『魏志』劉表伝に、192年10月頃、劉表は「使持節・鎮南将軍・荊州牧・成武侯」となる。『魏志』陶謙伝では「安東将軍・徐州牧・溧陽侯」となる。袁術の叙任も同じ懐柔策と見られるが、袁術が自称した「揚・徐州牧」に対し、「使持節・左将軍」は不可解。治所を抑えた揚州牧すら認められないか。
『呉志』劉繇伝に、詔書による揚州刺史となった劉繇が、193-194年に曲阿に着任。袁術と開戦後、195年頃、「漢」は劉繇を「振武将軍・揚州牧」に昇格させた。李傕が任命の主体。すでに劉繇・陶謙がいるから、袁術を州牧に就任させず。ひとつの解釈。
ところが孫策伝 注引『呉歴』に、渡江する前に孫策が袁術を「袁揚州」とよぶ。これを牧・刺史と理解すれば、揚州の長官が二人存在する。田氏は袁術と劉繇を、対立州牧と理解する。当時、対立勢力が長官を重複させる例が多い。李傕が二人を同時に任命すれば、自らの権威を否定する暴挙。いかに理解すべきか。
『范書』劉虞伝に、李傕は劉虞に「督六州事」を加え(州名は不明)、公孫瓚を「使持節・前将軍・督幽并青冀四州・易侯」に進め、均衡を計った。注目すべきは、公孫瓚が拝受した官位。袁術と釣りあう。
袁術=使持節+左将軍+( )+陽翟侯
公孫瓚=使持節+前将軍+督州+易侯

孫策伝で袁術は、193-194年、廬江太守の陸康に軍糧を督促し、拒否を侵攻の口実とした。『後漢書』陳王伝に、豫州の陳国に軍糧を督促。漢代、騒乱した地域に派遣された「使持節・督州郡事」(監軍使者)は戒厳令を布告し、刺史・二千石に対しても軍法を行使する権限がある。州牧の権力は、平時の行政監察を掌る州刺史に、監軍使者の権限を結合させることで機能したと推測される。石井氏「漢末州牧考」。廬江・陳国の事件は、袁術が揚州・豫州の諸郡県に対する監軍権を保有したことを暗示。
徐州牧の劉備・呂布への度重なる軍事介入も、袁術が徐州における権益を主張し得る立場にあったことを裏づける。袁術に、揚州・豫州・徐州を含む広域的な「督州」の権限が認められていたと推測される。

袁術は江東に軍事介入。攻略した郡県の長吏を改易して、配下の将帥を任命。
劉繇と対立する以前、周昕・周昂、廬江太守の陸康(孫策伝・『後漢書』陸康伝)らを駆逐。陳紀を九江、呉景を丹陽、劉勲を廬江太守とした。劉繇との抗争期、恵衢を揚州刺史(孫策伝)、周尚を丹陽太守(周瑜伝)、袁胤を丹陽太守(『呉志』妃嬪 徐夫人伝 付徐琨伝 注引『江表伝』)、諸葛玄を豫章太守に署置(諸葛亮伝、ただし劉繇伝 注引『献帝春秋』では劉表の署置)。呉郡都尉の朱治は、孫策の渡江に合わせて北上し、呉郡太守の許貢を破る(朱治伝)。
強敵が少ない江東を完全制圧、後方基地とし、人的・物的資源を供給させて中原の軍閥と覇を争う。袁術の基本戦略(田氏)。江東制圧→北伐という基本路線を提示した点で、袁術は孫呉政権の先駆者。ただし実力を過信して皇帝を名のり、孫策に離反の口実を与え、曹操を中心とする反袁術同盟の包囲のなかに孤立。
同時期の益州牧の劉焉・荊州牧の劉表・冀州牧の袁紹・兗州牧の曹操が、自ら州牧を権力基盤とした。揚州の政治情勢も、牧伯制を軸に展開。

2_孫策の揚州六郡平定と曹操政権の江淮進出

孫策が渡江する以前、江北の袁術と江東の劉繇という主導権争い。孫策の活躍で、袁術が勝利しつつあるが、196-197年、袁術が僭号を画策して皇帝を名のり、反発した孫策が自立。呉郡・会稽・丹陽北部を制圧した孫策は、曹操と接近。反袁術同盟の参加条件として、自身の会稽太守、呉景の丹陽太守を認めさせた(孫策伝 注引『江表伝』・呉景伝・徐琨伝)。

寿春では皇帝袁術が健在で、揚州の九江・廬江(劉勲)、徐州の広陵、豫州の汝南・沛国・陳国など、江淮は勢力下。
僭号の前後、孫賁を九江郡(淮南尹?)、呉景を広陵郡、孫香(孫堅の族子)を汝南太守(孫賁伝 注引『江表伝』)とした。陳相の袁嗣(武帝紀 建安元年正月)、沛相の舒邵(『後漢書』袁術伝、『呉志』孫鄰伝)など。
劉繇は、豫章郡南昌県で数万を温存。彭沢県に駐屯するが(劉繇伝)、『太平寰宇記』巻百六 江南西道 洪州 南昌県に「劉繇城、県の東北三十八里にあり。けだし孫策 曲阿を略地し、揚州刺史の劉繇、敗れて豫章に奔り、築城して自保す。いま人 号して劉繇城となす」とある。豫章の郡治の南昌県に居城を構えた。
豫章太守に着任した華歆が支持勢力を形成(華歆伝)。劉繇の将帥の太史慈は、丹陽郡涇県で丹陽太守を自称。
しかし、袁術は徐州・豫州に侵攻して、陳国で曹操軍に大敗(武帝紀 建安二年九月)し、『後漢書』献帝紀 建安四年六月に憤死。劉繇は198年頃に病死。孫策は急浮上し、六郡を平定。陶元珍「三国呉兵考」1933年、宮川「三国軍閥の形成」、大川・田 前掲書。

注意すべきは、袁術・劉繇の残存勢力に対する孫策の対応。劉曄伝に「兵、江淮の間に強し」とある廬江太守の劉曄は、曹操に帰順。廬江の皖城を陥れて、袁術の百工および鼓吹・部曲三万余人を得た。孫策伝 注引『江表伝』。楊弘・張勲は、孫策に合流しようとして廬江に抑留されたが、彼らは孫策に心を寄せた。孫策伝と同注引『江表伝』。孫策は、袁術政権の幹部候補生であり、内部には盟主に推す勢力が存在した。
劉勲との抗争は、袁術の後継者の座をかけたもの。勝利し、名実ともに就任。袁術の娘は孫権の後宮に入り、袁燿は郎中となり、袁燿の娘は孫権の子の孫賁の妃(『魏志』袁術伝)。
太史慈を捕縛して召し抱え、劉繇の遺族と士衆を安撫。劉基は呉王国の郎中令、光禄勲・平尚書事となり、娘は孫覇に嫁ぐ(『呉志』劉繇伝)。太史慈伝と同注引『江表伝』。

孫策は、かつて牧伯を賭けて争った、袁術・劉繇の両勢力から推戴された、揚州における唯一の覇者。両者の権威と権力をあつめ、揚州六郡の領有という既成事実により、揚州の牧伯にもっとも近い。

『魏志』荀彧伝 注引『三輔決録注』に、督軍御史中丞として袁術の討伐を指揮した厳象が、そのまま建安六月頃(袁術の死)そのまま揚州刺史を拝命。曹操政権が、揚州の長官ポストを回収するのが、反袁術同盟の結成時の密約であろう。?
奇怪なのは、着任した直後の厳象が、孫策の将の李術に敗死させられた。李術は、孫策の死後、政権の離脱を画策したとして、孫権により滅亡。呉主伝 注引『江表伝』で、孫権は、厳象殺害を李術の独断専行と主張。曹操の介入を恐れて中立を求めた。これが事実なら、曹操の派遣した揚州刺史が、孫策・孫権の与り知らぬところで排除されたことに。孫呉に都合が良すぎる。しかも李術は、仇敵となったはずの曹操に援軍を求めた。
李術は、孫氏が刺史の厳象を殺害したスケープゴートでは。袁術の死後、揚州最大の勢力となった孫策が、曹操主導の揚州刺史の人事を座視せず、反発したことは推測に難くない。孫策が死ぬ建安五年四月との前後は確証がないが、曹操に不満をもつ孫策の指示による可能性が大きい。
孫策が暗殺され、孫権への権力委譲にともなう混乱収拾に忙殺され、揚州牧の要求が棚上げに。曹操が劉馥を送りこんだのは、弱体化した孫呉に干渉の余裕がないことを見透かした、曹操の機敏な対応。劉馥は豪族を懐柔し、水利・屯田を整え、学校を興した。劉馥伝。
のちに孫権は、合肥旧城・新城を攻略したが、失敗。旧城に「親征」したのは、208年・215年・219年・230年の四次。10万で臨んだ215年は、張遼・李典に包囲陣を破られて大敗。孫権伝・張遼伝。233年頃、揚州都督の満寵が新城に移築(孫権伝では230年正月に記載)。233年冬、孫権は新城を抜けず。諸葛恪の北伐253年も、張特により頓挫。諸葛恪伝・斉王紀 嘉平五年七月 注引『魏略』。
合肥の攻防は、尹韻公『孫権伝』1990年、章映閣『孫権新伝』1991年。

曹操政権による江淮経営の成功により、孫呉政権が揚州牧・刺史を獲得する機会は永久に失われた。
208年に劉馥が死ぬと、曹操は「軍事に暁達」する丞相主簿の温恢を刺史とする。216年頃から、伏波将軍の夏侯惇が「二十六軍を都督」し、居巣・寿春に駐屯。220年の夏侯惇の死後、曹休が鎮南将軍・都督となる。寿春に揚州都督が常駐する体制が整えられた

揚州牧を曹操に奪われたのは、政治的敗北。孫策が揚州牧となれば、実質的に六郡の支配者、名目的には会稽太守、いずれから見ても盤石。州牧は、地方に派遣された三公。強力な軍鎮の樹立を前提として、公府に準じた官員の設置を認められていた。
張昭は「撫軍中郎将」、張紘は「正議校尉」を拝受。撫軍は、留守を預かる「監国」の対語で、君主の出征に随行する嗣子を指す言葉を語源とする。『春秋左氏伝』閔公二年。「正議」とともに参謀を示す雅号。名号には工夫があるが、参謀に似つかわしくない中郎将・校尉の肩書きは、このような手段でしか組織の拡大を図れなかった、初期孫呉政権の苦渋の選択を物語る。

3_討逆将軍 孫策の誕生

初期、孫策・孫権から「授兵」された将帥の多くが、中郎将以下の軍号を拝受。井上晃「三国呉の授兵制について」1960年。孫策伝 注引『呉録』の上表に、建安四年十二月に黄祖を戦い、名が見える呉将は、後漢末以前に見えない雑号中郎将・校尉の肩書きを有する。建威中郎将の周瑜・征虜中郎将の呂範・蕩寇中郎将の程普・奉業校尉の孫権・先登校尉の関東・武鋒包囲の黄蓋。
都督・領軍・護軍・参軍などの武官職が新設され、加えて多数の雑号・中郎将・校尉・都尉が登場したのも、後漢末の特色。大庭脩『秦漢法制史の研究』1982年。孫呉が設置した軍号は、曹魏・蜀漢より遥かに多い。洪飴孫『三国職官表』。
単なる史料上の偏りでなく、実際に多数の中郎将・校尉を、設置しなければならない状況を抱えた。

孫策伝によると、渡江の前の孫策は「折衝校尉・行殄寇将軍」である。同注引『呉録』に興平二年十二月二十日、袁術が上表したとあるように、劉繇を駆逐して曲阿に入城したときの任官。
殄寇将軍は、漢魏の間に設置された四十号将軍のひとつ。南北朝に継承された。『宋書』巻三十九 百官志上。孫策が最初の任官者。
『呉志』宗室 孫秀伝 注引 干宝『晋紀』に、西晋に降伏した孫秀が「むかし討逆(孫策)は弱冠にして一校尉として創業し」と回顧する。二千たらずで江東に参入した孫策は、袁術の「一校尉」に過ぎない。『魏志』袁術伝に「孝廉に挙げ、郎中に除し、職を内外に歴し、のちに折衝校尉、虎賁中郎将となる」とある。袁術自身が任官した「折衝校尉」は、孫策に対する期待と好意。
「行殄寇将軍」の進号はいかなる政治的な意味か。
孫策伝 注引『江表伝』に、建安二年夏、曹操は袁術包囲網を構築するため、徐州牧の呂布・呉郡太守の陳瑀と連携させ、孫策を「会稽太守・烏程侯」を承認し、「騎都尉」を授ける。しかし、孫策は「騎都尉・領軍を以て軽しと為し、将軍号を得んと欲す」。使者の王誧から、「明漢将軍」を承制仮授するという譲歩を引き出す。
「明漢」は、中郎将・校尉・都尉に広げても、唯一の事例。
『後漢書』王常伝に、両漢交替期、群雄は「漢室を輔翼する」名号将軍が流行した。『後漢書』劉永伝に、輔国将軍・翼漢将軍・輔漢将軍が見える。後漢末、劉寵が輔漢大将軍を称した。蜀漢の麋竺伝「安漢将軍」に受けつがれる。
成り行きではなく、用意周到な孫策側の要求。孫策伝 注引『江表伝』に、建安三(ママ)年、討逆将軍を拝受し、孫策の極官。『後漢紀』献帝紀 建安四年六月、「孫策を拝して会稽太守・討逆将軍となし、呉陽(ママ)侯に封ず」とある。張紘伝にも、建安四年の許昌への遣使が記される。袁術の滅亡と同月にあたる『後漢紀』の繋年が、討逆将軍の拝命時期として妥当。討逆将軍は、孫策の任官が最初。『魏志』文聘伝の文聘・『蜀志』楊戯伝 所載『季漢輔臣賛注』の呉壱も任命されたが、『宋書』百官志上 四十号将軍に見えず、晋代以降、廃止されたらしい。

袁術の推薦による折衝校尉から殄寇将軍への進号、曹操が用意した騎都尉を蹴っての明漢将軍、最後に討逆将軍。渡江後の孫策は、一貫して将軍任官に固執した。明漢将軍に象徴されるように、尊皇の姿勢を示し、漢王朝の権威を利用するため(大川氏)。しかし、さらに現実的で巧妙な意図がある。
朱治伝 注引『江表伝』に、赤壁の直前、曹操との単独講和をねらう孫賁を説得した朱治は、「討逆 世を継ぎ、六郡を廓定し、特に君侯の骨肉至親なるを以て、時生の為に器とし、故に漢朝に表して、大郡を剖符し、兼せて将校を建て、仍て両府を関綜せしむ」とある。孫賁は、征虜将軍・豫章太守であった。
孫賁は袁術の推薦で「行征虜将軍」を名のり、孫策によって豫章太守に任ぜられた。208年、漢の使者の劉隠を迎えて「征虜将軍・豫章太守」を拝受。孫賁が曹操と単独で交渉を進めた証拠。孫策伝 注引『志林』は、「孫賁 長沙を以て、業張津 零陵・桂陽を以てす」という夏侯惇の手紙が引用され、帰順したのち長沙太守が約束されていたのかも。
朱治が孫賁にいった「大郡を剖符」は、豫章太守。「兼せて将校を建つ」は征虜将軍の言い換え。太守と将軍を兼任する孫賁は、郡府と将軍府を同時に統括する立場。当時、将軍は「府」を開設して「将校」つまり中郎将・校尉以下の武官を設置できる官職と認識されていたことを、端的に示す。

ここの「府」は、大将軍以下の「従公将軍」や、「開府辟召・儀同三司」の特権がある将軍が開設する「幕府」とは異なる。幕府が、公府に準じて長史・司馬・従事中郎・掾属以下を辟召できたのに対して、一般の将軍には、軍事編成に位置する校尉・軍司馬・別部司馬などの設置しか認められない。しかし張昭が孫策の長史(張昭伝)、荀彧が曹操の奮武司馬(『魏志』荀彧伝)を授けられたように、後漢末期、幕府の組織に接近した可能性もある。
中郎将は、光禄勲に属する近衛武官。将軍に次ぐ軍号として位置づけられた経緯は不明。ただし後漢以降、征討軍の主将が将軍、副将が中郎将という組み合わせが多い。この軍事編成の普遍化が、将軍号に次ぐとされた契機か。

孫策が将軍を熱望した理由は、これ。曲阿で恩赦した劉繇軍の二万により、孫策軍は膨張(孫策伝 注引『江表伝』)。将軍の統帥下に置かれるしかない校尉の地位で、数万を効率的に組織化することは困難。曹操が最初に提示した、騎都尉でもムリ。
騎都尉は、漢代で、奉車都尉・駙馬都尉とともに「三都尉」として重んぜられた。だが後漢末、中郎将よりも下級の武官として濫授された。竹園卓夫「後漢・魏における地方鎮撫に関する一考察」1986年。『魏志』巻十八 呂虔伝に「太祖 呂虔を以て泰山太守となす。……茂才に挙げ、騎都尉を加え、郡を典ること故の如し」と、騎都尉・領郡の例もある。
孫策は、将軍号を獲得し、配下の参謀・将帥を中郎将以下とし、組織の整備・再編を図った。宗室 孫静伝に「遂に会稽を定むるや、表して孫静を拝して奮武校尉となし、これに重任を授けんと欲す」とあり、幹部に中郎将・校尉が授けられた。

尋陽令など九県を歴任した「武鋒中郎将」黄蓋、楽安長を領した「先登校尉」韓当、春穀長や宜春長の「別部司馬」周泰など、中郎将以下の将帥は、制圧した地域の県令・県長となる。1郡太守の枠を越え、将軍と将校との統帥関係を援用し、他5郡の域内における統治権を行使する意図。すでに袁術のもとで高官を歴任した丹陽太守の呉景が「揚州将軍」であるのを例外として、孫策の6郡支配の根底には、将軍を頂点に、中郎将・校尉・司馬が配置される、漢代軍制に基づく秩序が貫徹した。
ただし将軍号は、孫策・孫権だけでなく、
孫輔は廃徙の直前に「平南将軍」、朱治は孫権から202年に「行扶義将軍」を授けられた。孫賁とあわせ、5郡太守は将軍号を帯びた可能性が高い。徐琨は孫堅に従軍して「偏将軍」を拝受し、孫権のとき202年「平虜将軍」に進号。孫権の初期203年、丹陽太守の孫翊(孫権の弟)が偏将軍となり、204年に後任の孫瑜が綏遠将軍となり、京下督の孫河も将軍(名号は不明)となった。

4_孫権の州牧任官と孫呉王朝への道

揚州牧の望みを絶たれた孫策は、『建康実録』巻一 太祖上注引『江表記』に「(孫権)兄の策の征伐に随い、つねに奇謀を立つ。策 権を顧みて衆に謂ひて曰く、此 真に諸君の将軍なり」と公言。将軍の任官は、揚州六郡の支配を保障する、唯一の手段に矮小化。
同一記事の引用と考えられる、孫権伝 注引『江表伝』に、「つねに賓客を請会し、つねに孫権を顧みて曰く、此の諸君、汝の将なり」と孫策がいう。『建康実録』とはニュアンスが違うが、どちらが原文のニュアンスを伝えるかは不明。孫権の初陣は、建安四年の劉勲・黄祖との戦い(呉主伝)。孫策の晩年のエピソード。

張紘伝、張紘は曹操に、孫策が死んだ呉への攻撃をやめさせ、具体的な代替案が、孫権の「討虜将軍・会稽太守」の就任に繋がった。張紘を含む政権の幹部は、後継者の将軍任官が、政権の維持に不可欠と強く自覚した。
討虜将軍は、『後漢書』王覇伝に、29年、光武帝のときに王覇が任命された。後漢末以降、四十号将軍のひとつ(『宋書』百官志上)、蜀の黄忠も任命。

孫呉政権のアキレス腱は、孫策と同じく、討虜将軍・会稽太守の地位しか認められなかった孫権に、負の遺産となる。周瑜伝に、周瑜は南郡太守となるが「偏将軍」で、江夏太守の程普は「裨将軍」」である。偏将軍・裨将軍とも、将軍号の最下位。『宋書』巻三十九 百官志上。
梁の陶弘景『古今刀剣録』呉将刀の条で、周瑜は「盪寇将軍」と刻む。同条に、別部司馬の蒋欽が「司馬」、固陵太守の潘璋が「固陵」、安国将軍の朱治が「安国」と銘した。周瑜の極官は「盪寇将軍」となるが、『呉志』では裨将軍である。

会稽南部を委任された賀斉は、203年頃「平東校尉」。交州刺史の歩隲は、210年頃「征南中郎将」である。一方面の軍事を委任されても、四征将軍ならぬ、変則的な「四征」中郎将・校尉に留まった。公式には「討虜将軍」という雑号将軍に過ぎない孫権の地位を、保全しようという配慮。
孫権の初期にあって、将帥への将軍加号は、きわめて慎重。孫策以来の体制が堅持された。
呂蒙が208年頃「平北都尉」、孫桓が219年頃「安東中郎将」、248年頃に陸胤が「安南都尉」となる。孫呉以外では、車騎将軍の鄧隲の西羌征伐107年に従軍した任尚が「征西校尉」となり(『後漢書』西羌伝)、益州牧の劉璋の将の趙韙が194年に「征東中郎将」(『蜀志』劉二牧伝)、交趾太守の士燮が「綏南中郎将」、蜀の庲降都督の趙翼が231年「綏南中郎将」となった四例に留まる。

しかし、孫権への政権交代に際し、烏程に駐屯した定武中郎将の孫暠(孫静の子)が、会稽郡の攻略を図り(虞翻伝 注引『呉書』)、孫輔も曹操と通じて政権奪取をねらう。後継者をめぐる内紛がある。
首班の将軍任官という苦肉の策の危うさ。会稽さえ奪えば政権を掌握できると思い込んだ孫暠は、当時の孫呉の権力構造をまったく理解していなかった。?
孫輔の極官は「使持節・平南将軍・交州刺史」とされるが、内部分裂を誘発させる、曹操の平和攻勢。赤壁直前、孫賁を叙任したのも同じ。

孫権の課題は、合法的な地方政府の樹立の名分=州牧の獲得。父の報復を名分とした江夏太守の黄祖への攻撃は、戦略的な動機とされる。他方、孫権伝 建安十四年に、劉備との互薦で「行車騎将軍・徐州牧」を称した。実効支配する揚州六郡・荊州の領有にもこだわらない「徐州牧」は、実を捨てて名を取る決断。曹操はすでに冀州牧で、劉備はかつての豫州牧を名のり続ける。遅れた孫権は、「徐州牧」で魏・蜀と同じ土俵に立てた。
張昭伝によると、劉備は孫権を行車騎将軍に表し、張昭を「軍師」とした。孫呉政権には、軍師(張昭伝)・左司馬(顧雍伝)・長史→中司馬(諸葛瑾伝)・右司馬(滕胤伝 付滕耽伝)・従事中郎(厳畯伝)・東曹掾(歩隲伝)などの幕僚がいる。
州牧の自称にともなう組織力の強化。徐州牧の自称は、本格政権への第一歩となる大胆な政治戦略の転換点。呉主伝 建安二十四年十二月に、曹操と同盟して関羽を攻めた見返りに「使持節・驃騎将軍・荊州牧・南昌侯」を拝受。曹丕により、「使持節・大将軍・督交州・荊州牧・呉王」となる。荊州牧は、荊州南部の既得権益の保障であるが、漢・魏からの拝受は、より合法的な州牧政府の樹立を約束した。呉王即位にともなう「開国」=三公・九卿以下の設置と合わせ(大川氏)ようやく揚州六郡政権のクビキから開放された。

おわりに

地域間の社会・経済状態の不均衡は、十三州を単位とした地方分権体制に移行。牧伯制は、州の軍事・警察権を完全掌握するために加えられた将軍号。将軍号は「不常置」という臨時職で、稀少であったが、それを根底から覆した。
『魏志』張楊伝に「董卓 張楊を建義将軍・河内太守となす」とある。『蜀志』劉巴伝 注引『零陵先賢伝』で、劉巴の父の劉祥は江夏太守・盪寇将軍となる。『後漢書』陸康伝に、廬江太守の陸康に忠義将軍を加える。献帝初期、太守クラスでも次々と将軍号を加えられた。孫策・孫権が、太守・将軍を兼任したのも、牧伯制への移行にともなう地方の軍制支配体制に位置する。

冀州牧から魏王朝を創始した曹操・曹丕。豫・荊・益州牧を足がかりに漢中王を称した劉備。州牧には、皇帝位の有資格者という新たな性格が付与されつつあった。229年、孫権は皇帝を名のるが、名分ある覇業である。
孫策伝 注引『九州春秋』は、孫策が許都を襲うという。江東を制圧したら、孫策が華北にくるという曹操陣営の情報分析を反映する。郭嘉伝は、孫策の北上をウワサする。同注引『呉歴』に、張紘が中原を攻めよという。孫呉の国是は、あくまでも北伐からの天下統一。漢朝の支配体制を崩さないし、「偏覇」も狙わない。170103

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