孫呉 > 甘寧の半州赴任はいつか(史料の調べ方のてびき)

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1.陳寿と裴松之を検索する

知人から、「甘寧が半州に赴任したのはいつですか」と質問を頂きました。どこまで特定できるか(どこまでしか特定できないのか)、どのような方法によって特定するのか、調べ方の筋道を、ぼくなりに書いてみます。
赴任した時期を特定するよりも(ひょっとしたら特定できないかも知れませんが)、どういう筋道で調べるのか、思考のプロセスを追って頂ければと思います。

甘寧伝をさがす

この質問を受けたとき、ぼくは、甘寧が半州に赴任したことを知らなくて(もしくは忘れておりまして)とりあえず、甘寧の話なんだから、甘寧伝を見ようと、目を通しました。列伝がある人物は、この方法がいちばん早い。

列伝があるかの確認、列伝がなかったときの方法は、別に記します。

甘寧伝の本文から、その記述を探すわけですが、「半州」と検索したら早いでしょう。信頼性がたかく、原文が見られる日本語のサイト(原文が見られるのに「日本語」というのは、形容矛盾ですが)は、こちらです。よく使います。
http://www.seisaku.bz/sangokushi.html

このサイトは、巻ごとにタイトルが表示されております。どの巻を見れば(どこをクリックすれば)甘寧伝に行けるのか、という問題に突き当たります。
答えをいうと、甘寧伝は、『呉書』第十です。列伝のタイトルは、姓だけを羅列してあることが多いので、トップページで「甘寧」と入力しても、ヒットしません。「甘」だけで検索すると、わかります。「程黃韓蔣周陳董甘淩徐潘丁傳第十」という、たくさんのひとを突っこんだ列伝です。

ひとつの巻に採録された人物が少ないと、姓名をどちらも記してあることがあります。たとえば、『魏志』巻十は、「荀彧荀攸賈詡傳第十」となっており、荀彧・荀攸・賈詡の姓名が、巻のタイトルになっています。おそらく陳寿に政治的な作為はなく、字数の都合でしょう。長すぎるときは削ると。
いわゆる「君主」は名前がタイトルになりません。曹操は「武帝紀」とか、劉備は「先主伝」とか、孫堅は「孫破虜伝」とか。覚えるしかありませんが、「君主は例外的」と頭に入れましょう。君主なら、それぞれの始まりのほうにあるので、探せるはずです。


今回は、甘寧のことを調べたいから良かったものの、黄蓋について調べたかったら、別のことで困ります。「黄」と入力しても、ヒットしません。黄蓋伝は、甘寧と同じく『呉書』第十なんですが、漢字が「黃」となっており、字形が微妙にちがう。
字形の問題はやっかいなので、また後日。ともあれ、字形のちがいが、検索作業のネックになるというのは、ぜったいに覚えておいて下さい。明らかに載ってるはずなのに、検索でヒットしないとき、こういうことが起きます。

べつの困りごとは、たとえば「劉曄伝がみたい」とき。「劉曄」で検索してもヒットしない。「劉」で検索したら、ヒットしまくる。順番にクリックしていくのは、骨が折れます。この場合、つぎに書く方法が使えます。
劉曄のように見つけにくいとか、そもそも列伝があるかどうかのチェックは、ちくま訳の目次を全部みるのが、じつは一番はやいと思っております。慣れてくると、だいたい分かるようになるんですが。
信頼性は落ちますが、Wikipediaの「三国志 (歴史書)」のところで、巻ごとに列伝がある人物が、書き出されています。ここで検索して解決すれば、ラッキーです。

これで「列伝があるかのチェック」は、方法を書きました。列伝がない場合の調べ方は、おいおい解き明かしてゆきます。


甘寧伝の裴注をよむ

甘寧伝の本文に行き着いたわけですが、「半州」がヒットしない。おなじ巻に列伝をもつ潘璋伝にヒットするのみ。質問者の誤認か?と疑うのは、まだ早いです。
つぎは、同伝の裴松之の注釈から、「半州」を検索。ありました。

『呉書』曰:淩統怨寧殺其父操、寧常備統、不與相見。權亦命統不得讎之。嘗於呂蒙舍會、酒酣、統乃以刀舞。寧起曰「寧能雙戟舞。」蒙曰「寧雖能、未若蒙之巧也。」因操刀持楯、以身分之。後權知統意、因令寧將兵、遂徙屯於半州。

凌統は、甘寧に父を殺されたから、甘寧を怨んだ。甘寧は凌統にそなえて、会わなかった。孫権もまた、アダウチを禁じた。かつて呂蒙のところに集まり、酒席で凌統が刀舞をした。甘寧が双戟で舞うと、呂蒙がわりこんで、凌統・甘寧をひきはなした。のちに孫権は凌統の気持ちを知り、甘寧を半州に駐屯させた。

よくある話ですが、すべての記事に「何年何月」と記載があるわけじゃない。むしろ、それがあるのは、君主の記事くらい。先後関係を、読み手に推測させる(ことを強いる)というのが、紀伝体(本紀・列伝からなる歴史書)の形式です。
この一文を読んで分かるのは、甘寧・呂蒙・凌統の3名が生きている時期だなー、ということくらい。あと半州が孫呉の領土なんだなとか。

とりあえず(ウラはあとで取るとして)彼らの没年を調べてみる。
アタリをつけるには、Wikipediaで充分です。甘寧については、没年は不詳。凌統は、史書のあいだで矛盾があると。237年とか、217年とか。この問題に入りこむと、テーマが逸れてしまうので、ワキにおきます。メドをつけたくて、没年を調べているわけですから。呂蒙は219年。なるほど。
呂蒙が生きているから、219年より前だと分かりました。

『呉書』は、呂蒙が仲裁したあと、「のちに孫権が」と書いてあります。このタイムラグを長く(数年後とかで)見積もると、サッパリ答えが出なくなるので、その可能性は捨てましょう。まあ呂蒙による仲裁の記憶が薄れないうち、因果関係が崩れないうちに、孫権が処置をしたと考えましょう。


余談ですが、
後漢の暦と、現在の西暦では、ズレが生じます。このあたり、西暦2016年1月1日~12月31日が、平成28年1月1日~12月31日とピッタリ一致する、今日の和暦とは違います。建安二十四年の期間は、だいたい西暦219年と重なりますが、建安二十四年でも、西暦219年ではない期間があります。
ともあれ、三国時代は暦が並立して、分かりにくくなるので、西暦で「なんとなく・だいたい」抑えることは、メリットがあります。

史料中、人物の没年は、記述がないことがあります。甘寧は、没年も享年(死んだときの年齢)も分からない。
この時代、「何年に生まれた」と記述があるのはマレです。「何年に死んだ、何歳だった」がもっとも恵まれたパターンで、ここから生年を逆算できます。

逆に、没年と享年の両方で、記述が完備されているがゆえに、素性を疑われる、曹叡のようなひともいます。ヤブヘビです。

甘寧については、情報がないから、年齢が分からない。そういうとき、順調に就官しそうな体制内の人物なら、「初めて官職を得た」時期から推測するなど、苦肉の策が取れますが、、甘寧の場合は、体制外のひとなので、その方法もムリ。
没年から探るのは、ここまで。

『三国演義』などの物語は、没年の記述が少ないことから、それを活かして(逆手にとって)印象的な場面で、印象的な死ニザマを演出して与えることがある。このイメージに引きずられると、没年の特定が難航するので、危険です。

甘寧伝の本文を読む

裴松之の『呉書』は、キレッパシなので、時期がよく分からない。そこで、裴松之が注釈をつけた先である、陳寿の本文を見てみる。

ちくま訳を見ていれば、本文のほうが先に目に飛びこんでくるかも知れませんが、検索の順序としては、このようになるはずです。


建安二十年、從攻合肥。會疫疾、軍旅皆已引出、唯車下虎士千餘人、幷呂蒙、蔣欽、淩統及寧、從權逍遙津北。張遼、覘望知之、卽將步騎、奄至。寧、引弓射敵、與統等死戰。寧厲聲問、鼓吹何以不作、壯氣毅然、權尤嘉之。

建安二十年、甘寧は、孫権に従って合肥を攻めた。疫病により、すべて軍旅はひきあげた。ただ孫権の車のもとに、虎士が千余人と、呂蒙・蒋欽・凌統および甘寧がおり、逍遙津にいる。張遼につっこまれ、甘寧・凌統が死戦してふせいだ。

ここに、さきの『呉書』の注釈がつく。
覚えておきたいのは、裴松之は、すでに完成した陳寿を見ながら、任意に(裴松之の判断で)注釈を、切って貼ったということ。つまり、べつの編者による作業なので、本文→注釈の順序で、時間が流れているとは限らない関連性が深そうなところに、挿入しただけ。
本文→注釈の順序で読むと、あたかも、本文→注釈の順序で、できごとが起きているように錯覚しがち。「そんなことはない、分かっているよ」と思うでしょうが、危険なワナなので、あえて書きました。

裴松之が、なぜここに注釈したのかな、と考えると、甘寧伝で、①甘寧と凌統の両方が出てくるからです。あとは、編集の都合で、②甘寧伝のほうが、凌統伝より先だから(凌統伝はこの次)、③凌統伝に甘寧に関する記述がないから、これを注釈する場所がない、などが考えられます。
甘寧・凌統の名前がセットで出てくるから、「ここに注釈しよう」と裴松之が踏み切ったわけです。つまり、逍遙津の戦いと、甘寧の半州赴任の先後関係は、これだけ(裴松之が注釈した場所)では分からない。また、逍遙津の戦いによって、甘寧と凌統が和解したのかも分からない。少なくとも、陳寿・裴松之とも書いていない。
裴松之注の位置が、時期の特定には、あまり役立たないと。

呉主(孫権)伝をよむ

『呉志』の背骨は、あたかも「本紀」のようである、君主について書かれた巻です。時期的には、孫権を記した呉主伝となる。
呉主伝で、「寧」「統」を検索してみる。人名は、二度目以降は、姓を省いて書かれることがおおいので、「甘寧」「凌統」で検索したら、ひろいそびれることがある。
ただし、「寧=むしろ」とか「統=すべる」の用法で使われることもあり、ヒットしすぎてウザイことがある。その場合は、「甘寧」「凌統」で検索して(一度目は、姓を省かれずに書くことがおおい)その周囲を、くまなく見渡すのが、現実的かも知れない。

応用編として、官職・爵位・諡号・廟号・敬称・通称などで書いてある場合がある。これは、おもに君主や、それに準ずる偉いひとの場合。残念ながら/嬉しいことに、甘寧・凌統の場合は、その心配がない。
あざなで書いてあることもある。しかし、地の文でいきなり、あざなで書くことは、原則としてない。あるのは、史書を書いた人が、名の文字を使えない場合。史書を書いたひとの父と文字がかぶる、史書を書いたひとが仕える王朝の君主と名がかぶるなど。甘寧・凌統の場合は、心配ない。
あざなは、直接話法で登場することがある。『呉志』呂蒙伝で、「蒙謂瑜普曰『留淩公績、蒙與君行。解圍、釋急、勢亦不久。蒙保、公績能十日守也』」とある。ここでは凌統を「公績」と呼んでいる。しかし、すぐ前の周瑜伝に「寧、告急於瑜。瑜、用呂蒙計、留淩統以守其後、身與蒙、上救寧」とあり、同じできごとが多面的に描かれている。「淩統」の検索で、手掛かりは得られる。あざなだけが、直接話法という形で、孤立して用いられることは、基本的にはないはずです。

呉主伝を見ていくと、
建安十三年春、「權、復征黃祖。祖、先遣舟兵拒軍。都尉呂蒙、破其前鋒。而淩統、董襲等、盡銳攻之、遂屠其城」とある。孫権が黄祖を攻め、都尉の呂蒙が先鋒をやぶった。凌統・董襲らが、黄祖の城をほふったと。

同じ建安十三年、「時、甘寧、在夷陵、爲仁黨所圍。用呂蒙計、留淩統以拒仁、以其半救寧、軍以勝反」とある。赤壁のあと、甘寧は夷陵におり、曹仁に囲まれた。呂蒙の計略をもちい、凌統をとどめて(江陵の)曹仁をふせがせておき、呂蒙は軍の半分をひきいて甘寧を救った。

建安十九年、「合肥未下、徹軍還。兵皆就路、權與淩統甘寧等在津北、爲魏將張遼所襲。統等以死扞權、權乘駿馬越津橋得去」とある。さっき甘寧伝で見た、逍遙津の戦い。孫権は、凌統・甘寧らとともに津北におり、張遼に襲われたと。ここに裴注があるが、甘寧の話ではないのでスルー。

この3箇所が、呉主伝に見える、甘寧と凌統です。
2つめの記事、甘寧が夷陵で囲まれたとき、呂蒙は(凌統に甘寧を救いにいかせず)みずから甘寧を救いました。甘寧と凌統の相性の悪さを知ってか知らずか、それに配慮する呂蒙、、というのは、剣舞に割って入ったエピソードに通じますが、、半州に赴任した、時期の特定とは、あまり関係がない。
呉主伝に、「いついつ、甘寧を半州にゆかせた」と書いてあれば、一発で問題解決だったのに。というか、その程度のことなら、こんなに、ゴチャゴチャ史料を探さないわけですが。
念のために呂蒙伝を見ても、半州のことはでてこない。

「半州」について記事を集める

そろそろ、盧弼『三国志集解』に進みたいのですが、まだです。
『三国志集解』というのは、清朝考証学者たちの研究成果(それぞれ、各人の著作として成立)を、いちどバラバラにしてから、関連する(と盧弼が思った)陳寿・裴松之のテキストのところに、注釈したものです。「陳寿:裴松之=(陳寿+裴松之):盧弼」という図式です。
『三国志集解』を頭から読むと、とても時間がかかるので、今回の問題に関係しそうなところを、拾い読みしたい。そのためには、陳寿・裴松之のテキストのうち、関係がありそうなところ(盧弼が、ぼくらの問題関心にとって「有益」な注釈してくれそうなところ)を、なるべく多く、最初に特定しておいたほうがいいです。
甘寧伝・呉主伝の『三国志集解』を見に行くのは当然として、「半州」というキーワードで、盧弼がどこかに注釈してないか、ヒントを探します。

台湾の中央研究院で、テキストを検索できます。さっき日本語のサイトを紹介しましたが、文字の検索といえば、こちらがスタンダードでしょう。
http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm
「免費使用」を押します。無料で使わせてもらえるかわりに、時間制限があるようです。定期的に、トップから入り直せば、途切れることなく使えます。

「【基本檢索】」のところに、「半州」と入力。
検索結果では、『三国志』『晋書』あたりで、手掛かりが見つかりそうです。ただし、『晋書』の検索結果は1件で、琅邪悼王の司馬煥の列伝。上疏のなかに、ちらっと見えるだけで、交通事故みたいなものなので、スルー。

◆『呉志』巻七 張昭伝

昭弟子奮年二十,造作攻城大攻車,為步騭所薦。昭不願曰:「汝年尚少,何為自委於軍旅乎?」奮對曰:「昔童汪死難,子奇治阿,奮實不才耳,於年不為少也。」遂領兵為將軍,連有功效,至(平州)〔半州 〕都督,封樂鄉亭侯。

張昭の弟の子の張奮のこと。官職は、最終的には「(平州)〔半州 〕都督」になったと。これは、中央研究院がみた原本では「平州」と書いてあったが、内容について吟味した結果、「半州」と改めるべき、という意味の記号です。
この作業を「校勘」といいます。「(校)」の赤い文字をクリックすると、「據三國志辨誤下」と出てきます。これは『三国志弁誤』という本の下巻で、「原典は『平州』となっているが、『半州』とするのが正しい」という指摘があり、それに基づいて、中央研究院が、カッコをつけて、文字を「見せ消し」したことを意味します。

たまたま、こういう副次的なネタにヒットする。運が良い。


◆『呉志』巻八 薛綜伝

黃龍三年,建昌侯慮為鎮軍大將軍,屯半州,以綜為長史,外掌眾事,內授書籍。

黄龍三年(231) 建昌侯の孫慮が鎮軍大将軍となると、半州に屯した。

盧弼もヒマではないので、ある言葉への注釈は、初出したときに付けます。

だから、『三国志』巻一 武帝紀の注釈が、バケモノみたいになってます。二回目以降は、「武帝紀に注釈したから、そっちを見てね」と、リンクを貼って終わる。

さて、もしも『三国志集解』が、『三国志弁誤』をふまえ、張昭伝を「はじめて『半州』が出るべき場所」と見なせば、張昭伝の「半州」に、ありったけの盧弼の注釈が叩き込まれているはずです。しかし、万が一、スルーして、張昭伝を「平州」のままで読んでおれば、この薛綜伝が、「はじめて『半州』が出た場所」になります。
『三国志集解』を開いてのお楽しみです。

◆『呉志』巻十 甘寧伝にひく『呉書』

後權知統意,因令寧將兵,遂徙屯於半州。

さっき見ました。

中央研究院のサイトは、上部の「註」ボタンを押すことで、裴松之を表示したり消したりできます。
ときどきページ?の区切りにより、註釈だったテキストがあふれ出して、本文に混入したりします。こまったときは、印刷された『三国志』と突合することをオススメします。日本語の原文サイトと照合するのもいいです。


◆同じく『呉志』巻十 潘璋伝

合肥之役,張遼奄至,諸將不備,陳武鬭死,宋謙、徐盛皆披走,璋身次在後,便馳進,橫馬斬謙、盛兵走者二人,兵皆還戰。權甚壯之,拜偏將軍,遂領百校,屯半州。

合肥で張遼に襲われたとき、陳武は戦って死に、宋謙・徐盛はにげた。潘璋は宋謙・徐盛のにげる兵を斬った。兵たちはもどって戦った。潘璋は、偏将軍となり、百校を領して、半州に屯した。

合肥での活躍と、その後の半州への赴任。参考になりそう!
「半州」は初出ではないので、ここで盧弼がたっぷり注釈することは見込めません。しかし、潘璋の経歴を、甘寧と比較することに意味がありそうです。
『三国志集解』潘璋伝も読もう、と見当をつけるわけです。

◆『呉志』巻十一 朱績伝

建興元年,遷鎮東將軍。二年春,恪向新城,要績并力,而留置半州,使融兼其任。

建興二年のことなので、関係性は薄いかも。半州の軍事・戦略的な価値について、なにか言えるかも知れない。関心が拡散したときのために、いちおう「朱績伝にも、半州があるのだな」とは、記憶しておく。

◆『呉志』巻十四 呉主五子 孫慮伝

權乃許之,於是假節開府,治半州。慮以皇子之尊,富於春秋,遠近嫌其不能留意。

一周まわって、薛綜伝の内容につながりました。孫権の後継者問題は、また別の問題群があるので、あまり深入りしないほうが良さそうだな、とか。

だいたい目星がつきました。『三国志集解』をチェックするプロセスは、また後日。仕事にいかねば。160602

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2.列伝の記述する順序を疑う

三国志に関する調べ方のこと、その2。

句読点つきがオススメ

盧弼『三国志集解』ですが、近年(といっても、5年以上 経ちますが)句読点が入ったものが出版されました。学校の図書館には、句読点がないものが入っているかも知れませんが、それを使うのは、ヤミクモに大変なので、句読点が入ったものを使ってください。

これが出版される前から『三国志集解』を読んでいたので、ぼくは、じぶんで句読点を付けてました。けっこう分からないところが多くて、精度が落ちます。

銭剣夫氏が句読点をつけて、上海古籍出版社から出ています。2万円ちょいです。自分で句読点を付けて、ウンウンと唸る&誤読するコストに比べたら、ぜんぜん安いと思いますが、感じ方はそれぞれだと思います。

銭剣夫氏の整理に疑問があれば、句読点がないほうを見ればいいのです。

『三国志集解』に進もうと思いましたが、、
もうちょい甘寧伝の本文を読んでから、『三国志集解』にいきましょう。

『三国志集解』がなくても、わりと多くのことを読み取れる。というか、『三国志集解』に入る前に抑えて置かないと、とても効率が悪い、、ということが、けっこうあります。


甘寧伝の構成を再確認

紀伝体は、本紀は時系列だが、列伝は時系列とは限らないと、前に言いました。さらに、ひとつの列伝のなかでも、時系列とは限らないことを覚えておきましょう。
つまり、「甘寧伝」という、ひとまとまりの文章ですら、陳寿が時系列を入れ替えて書くことがあり得る、ということです。陳寿によるヤマカン・錯誤があるなら、検出しておきたい。そうでなく、「いかにも人柄をよく表すエピソード」が、死亡記事の直前に置かれることもある。
当然ながら、裴松之の注釈も、陳寿の叙述の順序に引きずられる。列伝のおわりのほうなのに、若いころの話+その話から連想されるエピソードが、乗っていることがある。「年表のように」列伝を読んではいけません。
甘寧伝の構成は、どうか。

◆甘寧が呉に帰した時期
益州に生まれ、黄祖に使われたところまで(いまの関心に関係しそうな)時系列の前後はない。「於是歸吳」に区切りがある。陳寿が「於是」という接続詞で ゴマかして つなげているように、時期が分からない。
甘寧伝では、呉にくると、「周瑜、呂蒙、皆共薦達。孫權、加異、同於舊臣。寧、陳計曰……」と、甘寧が戦略をのべ、黄祖を撃てという。
孫権が黄祖を撃つのは、建安十三年なので、甘寧が孫権に帰したのは、建安十三年までと分かる。これは確定できるわけだが、それ以上は確定できない。

時系列について考えるとき、もっとも有力な「先行研究」は、司馬光『資治通鑑』だと思います。

三国志学会の大会で、渡邉義浩先生が「わりと当たるんですよ」と仰っていました。発表の本題ではなく、行間にちょこっと呟いたくらいですが。

司馬光は『資治通鑑』で、建安十三年の「春」の字より後、「夏」の字より前に、「初」と断ってから、甘寧が戦略を述べる記事をおく。ぼけっと見ると、建安十三年の春のできごとだと思いがちですが、
司馬光はそんな意図では書いていない。
呉主伝に「十三年春權、復征黃祖」とあるから、孫権が黄祖を撃ったのは、建安十三年の春と決まる。これはカタイ。だから、もしも甘寧が「黄祖を撃て」と孫権に進言するなら、それより前のはず。しかし、時期が特定できない(重要なことなので、また書きました)。だから「初」と ゴマかして 断ってから、黄祖を征伐する記事の前日譚として、関連する話として、仕方なく挿入した。そう読むべきでしょう。

司馬光は、編集のとき迷ったことを、『資治通鑑考異』にメモとして残してある。甘寧が呉に帰した時期は不明としている。
もしも司馬光が、すべての推測・恣意的な判断について、もれなく『通鑑考異』を残してくれたら嬉しいですが、そうとも限らない。分量が膨大になるから。しかし甘寧のことは、たまたま書き残してある。

司馬光によると、
『呉志』孫権伝で、建安八年・建安十二年に、どちらも黄祖を撃つ。『呉志』凌統伝で、父の凌操が死んだとき、凌統は十五歳で、父の兵を嗣いだ。のちに麻保の屯を撃ち、陳勤を刺殺した。按ずるに、周瑜伝・孫権伝では、建安十一年に麻保の屯を撃つ。つまり凌操の死は、建安八年であろう。

黄祖を撃って凌操が死ぬ→建安十一年に麻保の屯を撃つ、という順序が成り立つためには、凌操が建安十二年に死んだのでは、おかしくなってしまうと。

凌操が死んだ五年後(建安十三年ごろ)甘寧が孫権のもとに奔ったとするなら、(『資治通鑑』において記事をおく位置が)遅いのかも知れない。いま年月の手掛かりがないから、ここ(建安十三年)に記事を置いておく。

◆呉における甘寧の動き
脱線してしまいましたが、甘寧伝の続き。
建安十三年春、黄祖を破ると、「權遂西、果禽祖、盡獲其士衆。遂授寧兵、屯當口」と、当口に屯した。この状態で、赤壁の戦いを迎える。
「後、隨周瑜、拒破曹公於烏林」とあるのが、いわゆる赤壁。
さきに夷陵を取ると、曹仁軍に包囲されたので、呂蒙に救われた。
呉主伝に「十四年。瑜、仁、相守歲餘所殺傷甚衆。仁、委城走」とある。曹仁と周瑜の戦いは、建安十四年まで行われているから、甘寧が夷陵で戦ったのもこのとき。時系列に混乱はない。

甘寧が曹仁軍から死守した夷陵は、劉備が借りパクをしたから、もう甘寧は、ここに居られないでしょう。つぎに「後、隨魯肅鎭益陽拒關羽」とある。
「後」っていつ?
関羽と荊州をめぐって軍事行動が起こるのは、建安二十年。『資治通鑑』は建安二十年に置いている。6年間も記述が飛ぶ。

先主伝では「二十年、孫權以先主已得益州、使、使報、欲得荊州。先主言「須得涼州、當以荊州相與」權忿之、乃遣呂蒙、襲奪長沙、零陵、桂陽三郡。先主引兵五萬、下公安、令關羽入益陽」と、建安二十年に劉備が益州を得てから、荊州の問題が表面化して、軍を動かす。
呉主伝では「十九年」より後、「二十一年」より前に、「遂分荊州、長沙、江夏、桂陽以東屬權。南郡、零陵、武陵以西屬備」と、荊州をめぐるゴタゴタを記し、「備歸、而曹公已還。權反自陸口、遂征合肥。合肥未下、徹軍還。兵皆就路、權與淩統甘寧等在津北、爲魏將張遼所襲。統等以死扞權、權乘駿馬越津橋得去」と、孫権が合肥で張遼に襲われた記事がつづく。
武帝紀では、建安二十年「八月、孫權圍合肥、張遼李典擊破之」とある。すると甘寧は、建安二十年中に、関羽と睨みあった直後、呉蜀の講和が成ったので、合肥に移ったと。……空白の6年間は、次に少し埋めることができます。

関羽を防いだ功績により、「西陵太守、領陽新、下雉、兩縣」となる。西陵ってどこか、陽新・下雉はどこか、というのは『三国志集解』を読めばきっと分かるので、ここでは深入りしない。

つぎに「後、從攻皖、爲升城督。寧、手持練、身緣城、爲吏士先、卒破、獲朱光。計功、呂蒙爲最、寧次之、拜折衝將軍」とある。
これは建安十九年のこと。呉主伝に「十九年五月、權征皖城。閏月、克之、獲廬江太守朱光及參軍董和、男女數萬口」とあるから、まちがいない。皖城を攻めて、朱光を捕らえたのは、建安十九年である。

朱光が逃亡!して、再び捕縛!とならない限りは。

さっき関羽をふせぐ記事があったが、あっちは建安二十年。
甘寧伝だけを読むと、記事を入れ替える必要があるように見えてくる。
建安十九年五月、甘寧は、孫権に従って皖城を攻め、閏月に朱光を捕らえた。建安二十年、関羽をふせぎ、呉蜀の講和が成ると、八月、孫権に従って合肥を攻め、帰りに張遼の襲撃をうけた。

◆濡須で曹操軍を襲撃する
つぎに「後、曹公出濡須。寧、爲前部督、受敕、出斫敵前營」とある。前部督として、曹操軍の前営を襲撃した。
「後」が3回も連続で出てくる。
陳寿も「つながりが悪い」と思いつつ、記事を置いた。こんなふうに作業をするから、呉主伝・武帝紀と整合性がとれない。
曹操が濡須に現れるのは、呉主伝・武帝紀によると、建安十八年と、建安二十一年の2回である。

呉主伝に、「十八年正月、曹公攻濡須、權與相拒月餘」、「二十一年冬、曹公次于居巢、遂攻濡須」とあるから特定できる。
武帝紀に「十八年春正月、進軍濡須口、攻破權江西營、獲權都督公孫陽、乃引軍還」、「二十二年春正月、王軍居巢、二月進軍屯江西郝谿。權在濡須口築城拒守、遂逼攻之、權退走」とあるから、呉主伝と武帝紀が一致。

関羽(建安二十年)と朱光(建安十九年)の後にあるから、建安二十一と読むのが自然か。

満田剛監修『図解三国志 群雄勢力マップ』は便利です。最近「詳細版」が出ましたが、片方もっていれば充分だと思います。
詳細版の65頁では、甘寧が濡須で戦ったのは、建安十八年としている。


甘寧が前部督として活躍した記事に、
裴注『江表伝』がつき、「權曰:孟德有張遼、孤有興霸、足相敵也」とある。孫権が「曹操に張遼がいれば、うちには甘寧がいるぞ」と言ったそうです。すなおに読むなら、建安二十年に張遼に襲われた孫権が、建安二十二年に甘寧に復讐させた、ウサが晴れたぞと。
「やっぱり、甘寧が曹操軍を襲撃したのは、建安二十二年だったのか、ほらね」と、なめらかに読み飛ばしてしまいそうですが、
『江表伝』が既存の史料(陳寿など)を読み、もっともらしいセリフを捏造し、裴松之がそれに加担した可能性をカウントすべきでしょう。少なくとも『江表伝』は、建安二十二年という設定で、このセリフを書いた。裴松之はその信憑性・史料的価値・おもしろさを認めて、『江表伝』の思惑どおりに建安二十二年の記事につなげた。
しかし、『江表伝』と裴松之の共同作業は、甘寧伝にみえる「甘寧が前部督として曹操を襲撃したこと」が、建安二十二年であることの裏づけにはならない陳寿と裴松之を、なんとなく繋げて読んで、ぼんやりとした歴史像をつくるのは、思考停止です。生産的ではありません。
もしも前部督としての仕事が、「建安十八年でなく、建安二十二年である」としたければ、この裴注『江表伝』に頼らずに証明しなければいけません。

つぎに甘寧伝は「建安二十年、從攻合肥。會疫疾、軍旅皆已引出、唯車下虎士千餘人、幷呂蒙、蔣欽、淩統及寧、從權逍遙津北」とある。凌統とともに孫権を守るところ。列伝のこの部分よりも前に、濡須(建安十八年もしくは二十二年)の記事があって、そのつぎに「建安二十年」と明示した記事をおく。
すると、さっきの濡須の戦いは、建安二十年より前なのか?という疑問が再燃する。すなわち甘寧が前部督になって、濡須で曹操軍を襲撃するのは、建安十八年のほうか?(満田先生の本のほうが正しい?)
残念ながら『資治通鑑』は、甘寧のこの活躍を記さない。

おわりに甘寧伝は「寧廚下兒、曾有過、走投呂蒙」と、廚下兒(ちくま訳で「料理番」)のトラブルを記す。これこそ、時期の特定が不可能!な記事です。人柄とか、関係性を表しそうなエピソードして、ポーンと置かれたのでしょう。
合肥の戦い(建安二十年)のあととは限らない。

なぜ甘寧伝は混乱してるのか

甘寧伝が乗っている『呉志』巻十は、「程普・黄蓋・韓当・蒋欽・周泰・陳武・董襲・甘寧・凌統・徐盛・潘璋・丁奉」がセットです。いわゆる「武将」の記録を、人物ごとに切り分けて、時系列に並べるという、クソ作業が必要です。
ほとんどの武将は、ひとりで行動しません。孫権は、同時に何人もの将軍・校尉を動かして、曹操や劉備と戦います。この作業が、ノーミスで出来るはずがない。
ふせんも、パソコンもないし。

陳寿は苦労したでしょう。もしくは、陳寿が旧呉が編纂した『呉書』を丸写しにしたなら、その原本『呉書』の編纂者が、やはり同じ苦労をしたはずです。
しかも、魏と衝突する場所は「合肥」とか「濡須」とか、かなり反復がおおい。いくら呉の通史がアタマに入っていても、史料を切り貼り・転写をしていくうちに、「区別できるか!知るか!」となりそう。
甘寧伝の時系列が、なんだか疑問たっぷりなのは、こういう作業環境のせいかな、、とぼくは思っています。

裴注『呉書』に見える、半州に赴任した時期は、もちろん考えたいことですけど、それ以前に、甘寧の基本的なタイムテーブルすら、ふらついているようでは、答えが出るのは、いつのことか。

ほかの列伝と比較してみる

陳寿が紀伝体にするために、もとの記録を、分割・再構成したなら、その形跡が、ほかの列伝に残っているはずです。
「甘寧の事績もふくめた、一連の記述」を復元するために、ほかの列伝と見比べるのは、有効なことでしょう。

◆呂蒙伝
建安十三年、黄祖を破る。
建安十三年、烏林で曹操を破り、南郡に曹仁を包囲。夷陵で孤立した甘寧を救い、建安十四年までに曹仁を退けた。
建安十五年、周瑜が死に、後任の魯粛が通りかかる。
建安十六年、呂蒙が濡須に堡塁をつくれと提案。
建安十八年、曹操が濡須を攻めきれず。呂蒙のおかげ。
建安十九年、甘寧を升城督として、皖城を攻め落とす。
建安二十年、劉備から荊州を奪還しようとして、関羽と衝突。
建安二十年、合肥に遠征し、張遼に襲撃される。
建安二十二年、曹操が濡須にきて、呂蒙が撃退。
建安二十二年、魯粛が死去して、荊州に赴任。
建安二十四年、関羽が曹仁を攻め、呂蒙が背後をうつ。

◆凌統伝
建安十三年、黄祖を破る。
建安十三年、烏林で曹操を破り、南郡に曹仁を包囲。
建安十九年、皖城を攻め落とし、3郡を平定。
建安二十年、益陽にいく(魯粛・甘寧とともに関羽と対峙?)
建安二十年、合肥に遠征し、張遼に襲撃される。
(時系列の記事はこれで終わり)

◆潘璋伝
建安二十年、劉備から荊州を奪還すべく、関羽と衝突(呉主伝)
建安二十年、合肥に遠征し、張遼に襲撃される。半州に駐屯。
建安二十四年(219)、関羽が曹仁を攻め、その背後をうつ。
?年、甘寧が死ぬと、配下の兵をあずかる

丁奉伝に「少以驍勇為小將,屬甘寧、陸遜、潘璋 等。數隨征伐,戰鬭常冠軍」とあり、甘寧・陸遜・潘璋と、上司をわたり歩いた。甘寧の死後、潘璋に移っていく兵に、丁奉がいたのかも。

黄武元年(222) 夷陵で劉備をふせぐ

◆凌統・甘寧の活躍時期
以上から見えてくるのは、
呉将たちは、だいたい全部の戦いに同じように参加している。将軍レベルの人員に余裕があるはずがなく、「荊州の要員」とか、「曹操を防ぐ要員」とかいう形で、固定されていない。どっちもやる。

こうやって全員を動かせたのは、孫権の外交のうまさと、曹操・劉備のそれぞれの事情によるのでしょう。

逆に、主要な戦闘に参加していなければ、年齢が足りない・まだ呉に仕えず、などが理由として考えられる。「(史料に見えないが)べつの戦線に掛かりきりだった」という理由は、ここにあげた人たちには、当てはまらなさそう。

とすれば、凌統は、建安二十年に合肥で張遼に負傷させられ、建安二十二年の濡須には参加していないから、死んだのもその頃か。

べつに史料を検討しますが、凌統の死は、建安二十二年(217) が有力だと思います。あと20年間、なにもせずに過ごせたとは思えない。

張遼に傷つけられて以降、剣舞なんかできないから、『呉書』に見られた酒席での衝突と、甘寧の半州赴任は、建安二十二年より前。

甘寧は、建安二十二年の濡須まで参加して、建安二十四年の関羽攻めには出て来ないから、引退したのはこの頃か。

甘寧が関羽攻めに参加しない理由を「魏の防衛に専念したから」とはいえない。引退だろう。なぜなら、半州にいた潘璋は、関羽攻めに駆り出されているから。

潘璋伝の記述の順序を信じると(これが信じられないと、散々書いてきたわけですが)、甘寧が死んだのは、建安二十四年よりも後。つまり、関羽・曹操・呂蒙・張飛ら、英雄の死亡ラッシュにあわせ、甘寧も死んだと分かる。

◆甘寧伝を並べ直す
甘寧伝は、時系列で記述されてないことが分かる。
①建安十三年、黄祖を破る。
②建安十三年、烏林で曹操を破り、南郡に曹仁を包囲。夷陵で孤立したが呂蒙に救われ、建安十四年までに曹仁を退けた。
③「後に」劉備から荊州を奪還しようとして、関羽と衝突(建安二十年)
④「後に」甘寧が升城督となり、皖城を攻め落とす(建安十九年)
⑤「後に」曹操が濡須にきて、呂蒙・甘寧が撃退(建安二十二年)
⑥建安二十年、合肥に遠征し、張遼に襲撃される。

建安十八年の濡須の戦いは、あまり激戦の記述がないし、少なくとも甘寧がこちらに関与したという記述がないことから、呂蒙伝にひきずられ、建安二十二年のことと考えました。また覆るかも。


①黄祖→②曹仁→④皖城→③関羽→⑥張遼→⑤濡須とすべき。
こんなの、甘寧伝だけ見て、正しい略歴をつかむなんて、ムリでしょ。

『三国志集解』の話をすると言っていましたが、まだ陳寿の本文だけで、あれこれ考えてしまいました。
伝えたかったのは、陳寿の編纂は、ときどきボロボロなので、自分なりに整合性を取っていかないと、問題解決のスタート地点にも立てないということです。
現有の甘寧伝を見ながら、「どこで半州に赴任するのかな」と、カードを差し込む場所を探したとしても、それは不可能というもの

『三国志集解』には、こういう時系列の検証作業などの結果も、(ときどき)含まれます。もちろん人間のやることで、問題関心の所在はマチマチなので、網羅的に検証されているとは限りません。
いちど、自分なりに、本文・裴注だけで、考えてみるのは、有効なことだと思います。次回こそ、『三国志集解』を閲覧する話をします。160605

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3.『三国志集解』を読む

『三国志集解』甘寧伝

甘寧伝の問題点などを、あらかた頭に入れたら、『三国志集解』をチェックしていきましょう。
べつに『三国志集解』は、「とっておきの最後の手段」ではない。今回は、『三国志集解』に行く前に、陳寿・裴松之だけで、あれこれ考えたけれど、慣れてきたら、『三国志集解』を見ながら考えたほうが早いかも。

◆甘寧が呉に帰す
話題の甘寧伝の「於是帰呉」に盧弼が注釈している。
『資治通鑑』建安十三年に、追って甘寧が呉に入るのことを記す。
『通鑑考異』によると、「『呉志』孫権伝の建安八年・十二年、どちらも黄祖を討つ。凌統伝によると、父の凌操が死んだとき、凌統は15歳で、父の兵をひきつぎ、麻・保の屯を撃ち、陳勤を刺殺した。周瑜伝・孫瑜伝をみると、建安十一年に、麻・保の屯を撃った。つまり凌操の死は、建安八年と思われる。その5年後、甘寧が孫権のもとに奔ったというのは、遅いだろうか。いま年月の根拠がないので、追ってここ(建安十三年の条に)記す。

今回、たまたまぼくが「さきに『資治通鑑』を見ましょう」といい、ぼくが『通鑑考異』をチェックしたことがあったので、この司馬光の言い分を、紹介できました。
しかし、つねに『通鑑考異』の内容を思い出せるとは限らない。というか、そんなことは知らないのが普通です。その場合、『三国志集解』によって『通鑑考異』に考察があることを知り、そこから『通鑑考異』の原文のチェックにいくという順序になるでしょう。というか、そっちのほうが普通です。
厳密にいえば、盧弼が『通鑑考異』を引用するとき、省略することがある。省略によって意味が変わったり、盧弼が意味を変えていなくても、ちがう意味に見えてしまうことがある。できるだけ、盧弼の引用元に遡るのが、ほんとうです。まあ、時間かかるから、『三国志集解』だけに拠っても、充分だと思いますが。

◆甘寧が当口に屯する
甘寧の進言で、黄祖を討った後、「ついに甘寧に兵を授け、当口に屯せしむ」とある。赤壁の直前ことととして、すでに読みました。ここに盧弼が注釈する。
『資治通鑑』によると、凌統は甘寧に父の凌操を殺されたことを怨み、つねに甘寧を殺そうとした。孫権は甘寧に、他所に屯せしめた。
盧弼が考えるに、のちに裴注『呉書』で「孫権は甘寧を徙して、半州に屯せしめた」とある。いま先に当口に屯せしめ、のちに半州に屯せしめた。(凌統と甘寧をひきはなす施策は、後者のことであり)『資治通鑑』は混同した(甘寧を当口に屯させたのは、凌統からひきはなすための施策ではないのに)
趙一清はいう。甘寧ははじめ孫皎のもとに属し、孫皎は夏口を督した。のちに酒により(甘寧は孫皎と対立し)呂蒙のもとに属したいと求めた。呂蒙は濡須を督したが(呂蒙・濡須との関わりは)甘寧伝の後ろに出てくる。「当口」は、かならず(上官である孫皎が督した)夏口のそばのはず。あるいは「当口」は「当利口」のことか。

えー、考証学者の趙一清によると、甘寧は孫皎の部下だったようです。
『呉志』巻六 宗室 孫皎伝によると、たしかに孫皎と甘寧がケンカしています。
調べ方の順序は、どちらでもいいんですが、
さきに『中央研究院』のサイトで「甘寧」を検索しておけば、孫皎伝の本文に、甘寧の記事があったことは、かんたんに分かりました。しかし今回、それをせずに『三国志集解』に移りました。すると、『三国志集解』によって、「孫皎伝にも甘寧の記事があるらしいぞ」と気づくことができました。
ほかにも、ちくま訳の第8巻の巻末の索引で、網羅的に甘寧を拾っていくという方法もありました。ただし、文庫本8冊を駆使するのは疲れるし、索引の精度を確かめたことがないので、原文に抵抗がなければ、『中央研究院』の検索のほうが、よいと思います。

趙一清が、甘寧が屯したのは「当口」=「当利口」ではないか、と言うので、『中央研究院』で「當利口」を検索します。

現代日本語では「当」ですが、検索するときは「當」で。注意すべき字形のちがいは、個別に覚えていくしかないのかも。

すると、『呉志』巻二 孫策伝と、『呉志』巻六 妃嬪 徐夫人伝がヒットします。そこで、孫策伝の『三国志集解』を見ると(このように、関連する情報を、縦横にひろってくるのが調査のポイント)
盧弼がひく、胡三省の(『資治通鑑』に対する)注釈によると、当利浦は、いまの和州の東12里にあると。

この「いま」とは、胡三省の時代(13世紀)であり、ぼくらにはピンとこない。

洪亮吉によると、歴陽には当利浦がある。『晋書』によると、(280年) 王濬が呉を平定するとき、風が利(つよい?)のため、停泊できない場所だったので、「利」なる風に「当」たるから、「当利口」と名づけたと。
謝鍾英によると、周瑜伝に「横江・当利を抜いた」とある。つまり、周瑜の時代にすでに「当利」という地名があり、『晋書』が記した地名の由来は、デタラメである。

なるほど……。
場所については、南宋のときの「和州の東12里」で決着がついている。
譚其驤 主編『中国歴史地図集』という本があって、とても便利です。三国志へのハマり具合によって、徐々に揃えていけばいいと思います。南宋期の地図を見て「和州」の位置を知り、それを東漢(後漢)の地図にもどって参照しなおし、ズレがないことを確認……というのが、ほんとうです。
いまは取りあえず、満田先生の本で済ませましょう。
孫策伝の文脈から、孫策が加わった戦いと目星をつけ、そのあたりの地図が載っていそうなページをさがす。本来なら地名の索引が欲しいのですが、人名しかありませんでした。詳細版27頁に見えます。歴陽と秣陵(のちの建業)のあいだぐらいに「当利」があります。
ぼくが思うに、当利は、荊州の夏口とは、ぜんぜん近くないので、孫皎の部下として、ここにいるとは思えません。

荊州の夏口のそばに、「当利口」ではない「当口」という場所がある。小さな地名なので、地図で見つけるのは難しい。「当口とは当利口のことだ」とか曲解されるほど、マイナーである。ともあれ、ここに甘寧が屯したと。
甘寧は、荊州にいたから、地の利がある。その甘寧を、揚州の当利口(建業のそば)に移すのは、まったく旨味がない。やはり、荊州の夏口のそばに屯して、劉表に備えたのでしょう。

◆関羽と朱光の順序
甘寧伝の関羽を防いだところに、注釈して、
盧弼が考えるに、孫権伝・呂蒙伝では、さきに朱光をやぶり、のちに関羽をふせぐ。しかし甘寧伝は異なると。

ものすごくアッサリした記述ですが、すでに検討したように、朱光を捕らえるのは建安十九年、関羽を防ぐのは建安二十年。つまり盧弼は、おおくを語りませんが、甘寧伝の叙述の順序が、おかしいとほのめかしている。

◆西陵太守となり、陽新・下雉県を領す
『三国志集解』甘寧伝において、陽新・下雉があらわれる。関羽をふせいだ功績によって、領地を与えられた。この地名について、盧弼は「孫権伝 黄初二年」に見えるとする。
というわけで、孫権伝(呉主伝)の黄初二年の『三国志集解』にとぶ。

すぐに見つけられなければ、『中央研究院』で「陽新」を検索。呉主伝に「權自公安都鄂,改名武昌,以武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨六縣為武昌郡」とあることに気づく。
……ぶじに『三国志集解』呉主伝にたどり着いた。
下雉について、『郡国志』によると、江夏郡に下雉県がある。『一統志』によると、いまの武昌府の興国州の東南に下雉潭というところがある。
陽新について、『水経注』江水によると、富水は西北に流れ、陽新県をめぐる。もと豫章郡に属した。宋本の『寰宇記』によると、孫権は鄂県を分けて陽新県をつくった。武昌郡をつくる前は、豫章郡に属した。
洪亮吉によると(陽新県は)呉が鄂県を分けて立てた。甘寧伝にみえる。
呉増僅によると、陽新県は、建安末は西陵郡に属して、のちに武昌郡に属した。

ぼくは思う。呉増僅の意見は、甘寧が西陵太守として陽新県を立てたことからの推測か。甘寧伝をコネ回しただけで、新しい情報は加わっていない。


要するに、このへんです。時代によって、区画がコロコロ変わるけれど、要するに荊州方面を守っていたと。たまたま地図中に、朱光を捕らえた皖城も見えます。


甘寧が太守となった「西陵」については、また話すと長くなるが、甘寧がいた場所に、疑問は残っていないので、次に行きましょう。
『三国志集解』によると、この「西陵」は、のちに夷陵を改名した「西陵」とは、同名であるが場所が異なる。建安二十年(甘寧を太守とするために、漢代には江夏に属した)陽新・下雉県につき、これを治める西陵郡を置いたが、黄初二年に武昌郡を置くとき、西陵郡を廃した。

忘れちゃいけない、今回のメインテーマ。甘寧が半州に赴任したのはいつか。そろそろ、大詰めです。

◆半州に屯する
建安二十年、張遼に襲われた。その裴注『呉書』に、半州のことが見える。
『三国志集解』によると「半州」は張昭伝・薛綜伝に見える。甘寧・凌統は、わかれて兵をひきいた。それぞれ名将となった(功績があった)。魏延・楊儀は(甘寧と凌統と同じく)不仲であり、ついに秩序をみだした。諸葛亮は、どちらか片方を廃するのは忍びなかった。蜀漢には人材が乏しかったからか。

えー、盧弼は、魏延・楊儀のことを思い出したらしく、蜀漢はトバッチリを受けました。こういうコメントも、『三国志集解』を読むおもしろさですが。
半州に赴任した時期を、いよいよ考えましょう。

とりあえず『三国志集解』張昭伝にいく。

張昭伝・薛綜伝にも「半州」が見えることは、検索によって調査ずみ。潘璋伝・朱績伝・孫慮伝にも「半州」があることを把握しているから、『三国志集解』よりも検索のほうが優れていた。もっとも、盧弼が、重要性に鑑みて、張昭伝・薛綜伝と書くに留めただけかも知れません。

張昭伝では、張昭の弟の子・張奮が「平州都督」になったという。
趙一清はいう。平州とは遼東のことだから、遙領(現地に赴任しないで、肩書だけをもらう)である。

これは原文を尊重する立場。

紀昀はいう。平州は『晋書』では「半洲」とつくる。庾懌伝・褚裒伝にみえる。『元和郡県志』によると、西晋の太康元年、豫章・鄱陽・廬江らの郡をわけて「江州」をおいた。恵帝は廬江の尋陽・武昌の柴桑をわけて尋陽郡をおいた。東晋のとき、尋陽郡の郡治は半州であった。褚裒が江州刺史となると、半州に屯した。

位置の特定が、晋代の地名によって確定された。これに疑問はないらしく、盧弼の注釈はクールダウンする。仕方がないから、『歴史地図集』東晋を見ると、下雉より少し下流、柴桑のそばに「半州」が見える。

陳景雲はいう。呉には「平州」がない。「半州」とすべき。孫慮は半州に鎮し、甘寧・潘璋もここに屯した。中流の重地であり、だから特別に都督が置かれた。西陵・濡須に都督があるのと同じである。
洪飴孫はいう。半州とは蘄春の尋陽県にある。『通典』に見える。

『三国志集解』薛綜伝も見ておく。
半州は張昭伝に見える。趙一清はいう。半州とは「半洲城のことで、九江府の西90里にある。
銭大昭はいう。半州は、孫慮伝・甘寧伝の注・潘璋伝・朱績伝に見えると。

このように循環しはじめたら、もう『三国志集解』でも潮時です。
地図を見ると気づくのですが、甘寧が「西陵太守」として、陽新・下雉の2県を領したときの守備範囲と、尋陽の「半州」は、きわめて近い。

推測をたくましくすれば「西陵太守」として、半州に駐屯しても、おかしくない。
地理的に、あまり動いていない。メインの戦いがあれば、ここから出動して戦地に行く。つまり、戦いの年表に基づいて、甘寧の赴任時期を推測するのは難しい。まずいぞ(笑)

建安十九年、皖城を攻める。そのときまでは、皖城に魏将がいた。甘寧が重要な地点を担うとしたら、まだ魏将がいる時期(建安十九年より前)に、半州に赴任していそうだが……、


半州の赴任時期を推測する

呂蒙が濡須に堡塁を築いたのは、建安十六年から。甘寧がその後に、孫皎から呂蒙に配属が変わる。凌統の剣舞を呂蒙が仲裁する、、という流れ。いや、情報が増えてない。
甘寧を凌統から引き離すという目的で見るなら、凌統伝によると、「又從破皖、拜盪寇中郎將、領沛相。與呂蒙等、西取三郡」とある。凌統は、建安十九年に皖城をやぶってから「沛相」になった。このとき、沛国は呉領ではないから、これも遙領と見なすべきか。

つまり孫権・呂蒙の配慮により、皖城を足がかりに北伐する部隊と、留守番をする部隊に分けた。凌統には、攻略目標である北方の国の長官をわりあて、甘寧には、留守番として半州を任せた。

おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは……、みたいな。

甘寧・凌統をべつべつに使うことが確定するのが、建安十九年の皖城攻めのあとだから、甘寧伝にひく『呉書』が伝える剣舞のことは、建安十九年ではないかと。

こうして留守番を任された甘寧は、建安二十年、関羽と魯粛が対峙したとき、留守番としての役割を果たして、関羽を防ぐ。同年、合肥を攻めたときは、総力戦なので、凌統・甘寧は同じ戦場にいて、孫権を守った。

既存の情報では、かなり苦しいですが、こんなところが限界かと。あとは、べつの軸から(孫権や呂蒙の戦略とか、曹操との絡みとか)大局的な視点で、ストーリーを組み立てて、甘寧の事績を振り分けていくと、新しいことが言えるかも知れません。

以上、答えはもやっとしてますが、思考・調査のプロセスを参考にしてもらえればと思います。おわり。160606

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4.『三国志集解』甘寧伝の抄訳【新】

蜀郡で劉璋を拒否する

甘寧、字興霸、巴郡臨江人也。
吳書曰。寧本南陽人、其先客於巴郡。寧爲吏舉計掾、補蜀郡丞、頃之、棄官歸家。

甘寧は、あざなを興霸、巴郡の臨江のひと。

『郡国志』によれば、益州の巴郡の臨江である。

『呉書』はいう。甘寧は、もとは南陽のひとで、祖先が巴郡に客した。

『史記』甘茂伝はいう。甘茂は下蔡のひと。『晋書』甘卓伝に、甘卓は秦の丞相の甘茂の子孫である。曽祖父の甘寧は、呉将であったと。これらを見ると、甘寧は甘茂の子孫で、かつて下蔡のひとだった。
『続漢志』郡国志によれば、下蔡県は九江郡であり、もと沛国に属した。『范書』列伝巻四十二 達旨伝に「甘羅」がおり、李賢注に「甘羅,下蔡人,甘茂孫也。年十二,事秦相呂不韋。秦使張唐往相燕……」とつづく。

甘寧は吏となり計掾に挙げられ、蜀郡の丞に補された。しばらくして官位を棄てて家に帰った。

趙一清はいう。『蜀志』劉焉伝にひく『英雄記』に、(劉焉の死後)沈弥・婁発・甘寧らが劉璋に反したが、勝てずに荊州ににげたと。甘寧が蜀郡の丞のときのこと。
ぼくは思う。秦の丞相を祖先にもつ甘寧は、郡吏となって、劉焉・劉璋の交替期に反乱を起こした。つまり「だれに益州を任せるか」をリクエストでき、主君を選ぶ側の在地豪族であった。劉焉には従っていたが、劉璋ではムリだと思った。「劉璋では心許ない」と内反したのだから、張松・法正のセンパイにあたる。
ぼくは思う。劉璋も、父を嗣いですぐに支配を確立したのではない。政敵と戦って、年数がかかる。劉焉は194年に死ぬが、『華陽国志』で劉璋が201年に有力豪族と戦う。劉璋の体制が固まるのが、このとき。甘寧が「劉璋を拒否してから、劉表を頼るまで」には、時間がある。以下の甘寧の豪快エピソードは、この期間であろう。


少有氣力、好游俠、招合輕薄少年、爲之渠帥。羣聚相隨、挾持弓弩、負毦帶鈴。民聞鈴聲、卽知是寧。
吳書曰。寧輕俠殺人、藏舍亡命、聞於郡中。其出入、步則陳車騎、水則連輕舟、侍從被文繡、所如光道路、住止常以繒錦維舟、去或割棄、以示奢也。

若くから気力があり、游俠をこのみ、軽薄の少年を招合し、渠帥となる。群聚は甘寧に随い、弓弩を挾持し、毦を負い鈴を帯びた。民は鈴音を聞けば、甘寧がきたと知った。

「毦」は『蜀志』諸葛亮伝にひく『魏略』にみえる。劉備がいじってた、ハネ飾り。『国語』で晋の叔虎が背中につけていたハネ飾りで、韋昭が語釈する。

『呉書』はいう。甘寧は軽俠で殺人したり、亡命者をかくまったりして、郡中に聞こえた。甘寧が出入するとき、陸路なら車騎をならべ、水路なら軽舟をつらね、侍従は文繡をまとい、行く先々で道路に輝き、停泊するときは繒錦で舟をつなぎ、去るときに(繒錦を)割棄して、奢ぶりを示した。

人與相逢、及屬城長吏、接待隆厚者、乃與交歡。不爾、卽放所將奪其資貨。於長吏界中、有所賊害、作其發負、至二十餘年。

ひとと会うときは、属城の長吏であろうと、接待して隆厚した者とは、ともに交歓した。

ぼくは思う。甘寧は劉璋の指導力にダメ出しして下野した。長吏は、劉璋の部下のはずである。しかし、劉璋との関係を無視して、独自の好き嫌いの基準で、交際した。劉璋=政府の側から見れば、政府のことを無視して、独自に人脈を築かれるのが、いちばん厄介なわけで。長吏もまた、「甘寧と交際したら、劉璋に睨まれて困る」とは考えないわけで。劉璋は、ナメられている。

そうでない(接待せず隆厚しない)相手には、手下に資貨を奪わせた。長吏の界中(管轄地域)で、賊害があれば、甘寧が「発負」をなした。

あるいは「廃負」とすべきか。廃負とは、呂蒙伝にみえる。胡三省はいう。「廃」とは職事を廃すること、「負」とは罪の責任を負わすこと(官僚の任免や査定のこと?)。ちくま訳では、摘発と制裁にあたって(傍若無人であった)と。
ぼくは思う。益州では、「長吏である」ことでは実効支配が成り立たず、在地豪族の「自治」が行われた。甘寧のキャラが(ちくま訳がイメージをミスリードするように)「傍若無人」なのではなく、劉璋政権の前半は、ほったらかしにせざるを得なかったのでは。天下で群雄が競っているとき、益州だけは、劉焉-劉璋のバトンタッチが円滑にすみ、劉璋は二十年の安定政権だった、、というのは実態を見ていない。

甘寧の「自治」は、二十余年に至る。

盧弼はいう。劉璋は興平元年(194) に益州刺史となった。甘寧が劉璋を撃ち、荊州に奔ったのは、建安初年である。どうして二十余年もあるか。「二年」とすべきか、もしくは誤記である。
ぼくは思う。甘寧が荊州にいるのは、遅くとも建安八年(203) の3年前。劉璋が州内豪族と戦うのが、建安六年(201)。すると甘寧は、201年に益州に居づらくなり、荊州にゆき、荊州での3年目=203年に孫権と戦った。どうでしょ。「二十余年」とは会わないが、誤記と考えて気にしない。


荊州で劉表に拒否される?

止、不攻劫、頗讀諸子、乃往依劉表、因居南陽。不見進用、後轉托黃祖。祖又、以凡人、畜之。

甘寧は(自治的な振る舞いを)やめて攻劫せず、諸子を読み、荊州にいって劉表に依り、南陽に居す。進用されず、のちに転じて黄祖に託された。

ぼくは思う。劉璋と劉表は、同型の政権である。どちらも皇族の末裔であり、州牧になって、領内の地方豪族がライバル。劉璋の君主権力の確立にともない、流れてきたようだが、この官渡の戦い後は、劉表も君主権力の確立期。劉璋と劉表は、シンクロしている。甘寧のことを、厄介者扱いするのは当然である。

黄祖は、甘寧を凡人として、畜った。

吳書曰。寧將僮客八百人就劉表。表儒人、不習軍事。時諸英豪各各起兵、寧觀表事勢、終必無成、恐一朝土崩、幷受其禍、欲東入吳。黃祖在夏口、軍不得過、乃留依祖、三年、祖不禮之。權討祖、祖軍敗奔走、追兵急、寧以善射、將兵在後、射殺校尉淩操。祖既得免、軍罷還營、待寧如初。

『呉書』はいう。甘寧は僮客800人をひきいて劉表に就く。劉表は儒人なので、軍事に習わず。ときに英豪たちが起兵し、甘寧は劉表の事勢を観るに、ことを成せず、一朝にして土崩し、その禍を受けることを恐れ、呉にゆきたい。

ぼくは思う。800人の僮客までは、本当でしょう。以後、劉表政権の分析といい、未来予測といい、『呉書』のアトヅケである。まったく下らん歴史書である。確かに「一朝にして土崩」するが、それは結末ありきの遡及的な描写である。なぜ甘寧が、劉表をそこまで評価しないなら、劉表を頼るものか。

黄祖が夏口におり、甘寧はそこを通過できないから(仕方なく)留まって黄祖に依った。3年たっても、黄祖は甘寧を礼せず。

黄祖は、呉の宿敵である。孫堅を殺したから。そういった黄祖のもとに、3年も仕えたことは、経歴上、致命的な汚点でしかない。だから、ウダウダ言い訳をしている。陳寿はこの欺瞞性を読みとり「凡人たるを以て畜ふ」と要約したのだろう。
『呉書』は、いずれ呉将になる甘寧は、予定調和的に、呉に吸い寄せられるべきである。それ以外のところで「活躍の場を得た」らダメなのである。実際は、ふつうに劉表から武力を認められ、要衝の夏口に赴任したのでは。

(建安八年)孫権が黄祖を討つと、黄祖の郡は敗れて奔走した。孫権軍が追うと、甘寧は射に善く、兵をひきいて後ろにおり、校尉の淩操を射殺した。

ぼくは思う。「甘寧が凌操を殺した」というのは、甘寧が呉に入ってから、凌統が言い出したことではないか。たしかに甘寧は、この戦いに参加していた。だが『呉書』の書きぶりでは、甘寧そのひとの矢が、凌操を殺したように書かれる。「甘寧のひきいる軍が」が主語なら、まだ客観性があったのに。凌操伝によると、先陣をきって矢石の雨に突っこむのようなひと。どうして、その矢が甘寧のものだと分かるものか。
凌統は、父を失ったことを(同時代の横並びで見ても過剰に)気に病んでいる。怨みを転嫁できる相手を「創出」し、トラウマの質を変えたかった。東日本大震災への恐怖を、「あのCMが気持ち悪いよね」「あのCMを見たら震災を思い出すから、やめてほしい」という感情にすり替えることで、トラウマが薄れていくらしいですよ。甘寧は、ポポポポーンと同じスケープゴートです。代理的な犠牲です。

黄祖は逃げることができ、軍をやめて営に還るが、甘寧の待遇はかわらず。

これだけ読むと、「黄祖は、ひとを用いる才覚がない」となる。しかし、黄祖が甘寧を昇進させないのは、普通のことだと思われる。
乱戦のなか、だれが凌操を殺したか分からない(甘寧でないかも知れない)。しかも孫権を殺したならまだしも、多数いる校尉を殺したのは「通常の戦果」に含まれる。黄祖がやったのば防戦であり、『呉書』が事実ならば、黄祖にとって負け戦である。どうして甘寧だけが昇進できるものか。


祖都督蘇飛數薦寧、祖不用、令人化誘其客、客稍亡。寧欲去、恐不獲免、獨憂悶不知所出。飛知其意、乃要寧、爲之置酒、謂曰「吾薦子者數矣、主不能用。日月逾邁、人生幾何、宜自遠圖、庶遇知己。」寧良久乃曰「雖有其志、未知所由。」飛曰「吾欲白子爲邾長、於是去就、孰與臨版轉丸乎?」寧曰「幸甚。」飛白祖、聽寧之縣。招懷亡客幷義從者、得數百人。

黄祖の都督の蘇飛は、しばしば甘寧を推薦したが、黄祖は用いない。黄祖は、甘寧の客を化誘し、人数が減った。

蘇飛は孫権から「首おけ」を用意されたように、黄祖軍のナンバー2でしょう。その蘇飛が甘寧を薦めたのだから、かなり「恵まれた環境」である。しかし黄祖は、甘寧集団が独自に力を持つのを警戒して、解体を試みた。軍内に別集団がいるのは、危険である。まして、トップの自分をしのぐ実力・魅力がある甘寧なら、牽制しないと。黄祖は、ごく常識的な組織の力学にそって行動している。
甘寧にとっての正解は「黄祖集団を乗っとる」である。しかし、黄祖に敗れた。劉璋に敗れ、黄祖に敗れて、呉まで流れついたというのが実際であろう。甘寧は、「組織内のガン」にはなれても、新しい組織をつくり、成り代わることはできなかった。

甘寧は去りたいが、逃げられないことを恐れ、どうしようもない。蘇飛はその意思を知り、置酒してアドバイスした。「私はあなたを何度も推薦したが、主の黄祖は用いない。日月は逾邁、人生は幾何ぞ、宜しく自ら遠く図り、知己に遇はんことを庶ふ」と。しばらくして甘寧は「志があるが、行く所がない」と。蘇飛「きみを邾長にすると提案する。邾県に行くため(夏口を出れば)どこにでも行ける」と。甘寧「幸甚」と。蘇飛は黄祖にいい、甘寧が赴任する許可をもらった。甘寧は(黄祖に移籍した)亡客ならびに義從を招懐し、数百人を得た。

邾県は、孫権伝 赤烏四年にある。胡三省はいう。邾県は江夏郡に属する。『地道記』によると、楚が邾を滅ぼし、君主をそこに移した。
ぼくは思う。位置から見ると「最前線で働かせてください。死んで来ます」である。黄祖は、甘寧が孫権に受け入れられると思わず、許したのだろう。黄祖の判断は常識的である。つまり甘寧は、孫権におのれを売りこむとき、ナミの理由づけでは認められない。「まんまと黄祖の将が来たわ。殺して、黄祖の戦力を削ごう」で終わりである。孫権との出逢いが、甘寧伝のクライマックスだなあ!



甘寧が孫権に戦略を説く

於是歸吳。周瑜、呂蒙、皆共薦達。孫權、加異、同於舊臣。寧、陳計曰、

ここにおいて甘寧は呉に帰した。

『通鑑考異』はいう。『呉志』孫権伝で、建安八年・建安十二年に、どちらも黄祖を撃つ。『呉志』凌統伝で、父の凌操が死んだとき、凌統は十五歳で、父の兵を嗣いだ。のちに麻保の屯を撃ち、陳勤を刺殺した。按ずるに、周瑜伝・孫権伝では、建安十一年に麻保の屯を撃つ。つまり凌操の死は、建安八年であろう。 凌操が死んだ五年後(建安十三年ごろ)甘寧が孫権のもとに奔ったとするなら、(『資治通鑑』において記事をおく位置が)遅いのかも知れない。いま年月の手掛かりがないから、ここ(建安十三年)に記事を置いておく。

周瑜・呂蒙は、ともに甘寧を推薦した。孫権は異を加え、旧臣と同列にあつかう。甘寧は計を陳べた。

「周瑜と呂蒙が」というのも、適当に書かれた感じ。当時、周瑜と呂蒙では、格が違う。呂蒙が(当時としては)差し出がましく、外来の甘寧を推薦するだろうか。周瑜と呂蒙が「見る目のある賢者」として登録された後、遡及的に甘寧伝が書かれ、この記述ができたようである。


「今漢祚日微、曹操彌憍、終爲篡盜。南荊之地、山陵形便、江川流通、誠是國之西勢也。寧已觀劉表、慮既不遠、兒子又劣、非能承業傳基者也。至尊、當早規之、不可後操。圖之之計、宜先取黃祖。祖今年老、昏耄已甚、財穀並乏、左右欺弄、務於貨利、侵求吏士、吏士心怨、舟船戰具、頓廢不脩、怠於耕農、軍無法伍。至尊、今往、其破可必。一破祖軍、鼓行而西、西據楚關、大勢彌廣、卽可漸規巴蜀」權深納之。張昭時在坐、難曰「吳下業業、若軍果行、恐必致亂」寧謂昭曰「國家、以蕭何之任付君。君、居守而憂亂、奚以希慕古人乎」權舉酒屬寧曰「興霸、今年行討、如此酒矣。決、以付卿。卿但、當勉建方略。令必克祖、則卿之功。何嫌張長史之言乎」權遂西、果禽祖、盡獲其士衆。遂授寧兵、屯當口。

「いま漢祚は日におとろえ、曹操は篡盜しそう。南荊の地は、山陵は形便で、江川は流通し、国が西をねらえる。劉表を見たが、思慮はせまく、児子は劉表にも劣り、荊州を継げない。孫権は早く荊州を取り、曹操に遅れるな。

甘寧という「劉表をみた証言者」の口を借りて、『呉書』が天下の戦略を書きたかっただけでは。曹操の分析とか、『呉書』巻十の流れからしても唐突すぎるし。甘寧が『呉書』巻十に入っているのも、唐突な感じ。すでに完成していた『呉志』巻十があり、凌統の前に、エイヤッと挿入したように見える。

黄祖は老い、財穀は乏しく、左右は欺弄して貨利に務め、吏士に侵求し、吏士は心に怨む。舟船・戦具は、頓廃して脩めず、耕農を怠り、軍は法伍なし。勝てます。

そこまで黄祖がボロボロなら、なぜ数年前、孫権は黄祖を討てなかったか。なぜ甘寧は黄祖を乗っ取れなかったか。なぜ凌統・董襲が潜水してロープを切って、やっと進むことができたか。
甘寧がウソをついているのではなく、甘寧伝がウソをついているのであろう。甘寧に「隆中対のような戦略」を述べさせたく、「容易に得られるものを、ただちに得よ」と言わせたい。だから黄祖がボロボロであることにした。実際、史実では、劉表の後嗣はコロッと曹操に帰順する。ボロボロに等しい。それを投影して、これが書かれている。

黄祖を破ったら、西にゆき楚関に拠り、巴蜀をはかれ」

胡三省はいう。楚関とは「扞関」のこと。蜀が楚を伐つとき、楚は扞関でふせいだ。ゆえに「扞関」という。盧弼はいう。扞関は『魏志』文帝紀 黄初三年にひく『魏書』にみえる。「扞」は、ふせぐと読めるので、形容詞+名詞であった。
ぼくは思う。黄祖を破ったら、劉表を攻めろとは言わない。劉表を素通りしてよいというのか。ひどく不自然である。これは、襄陽・南陽あたりを、曹操に奪われた状況を念頭において書かれたか。だとしたら、やはり甘寧は、当時、戦略を語っていない。
盧弼はいう。これは周瑜が蜀を図る策と一致する。周瑜が推薦するはずだ。

張昭はときに坐におり、甘寧を難じた。「呉下は業業としており、もし軍が巴蜀にゆけば、必ず乱が起こる」と。

胡三省はいう。「業業」とは「危懼」の意味である。

甘寧は張昭にいう。「国家は、蕭何の任をきみに付す。きみが守るのに乱を憂うのは、古人(蕭何)を慕っていない(蕭何の任が務まっていない)ね」と。孫権は甘寧に酒をそそぎ、「興霸、今年の行討は、この酒のように、あなたに任せる。張長史の言なんて気にするな」と。

これを読むと、甘寧は建安十三年に孫権に移り、その勢いで孫権が黄祖を破ったように見える。実態は、孫権・黄祖のあいだの県を守る甘寧が、裏切ってはじめて、黄祖討伐が可能になったのでは。しばらくは、孫権から見て「甘寧が邾県にいるから、黄祖に手が出ない」という時期があったのでは。

孫権は西して、黄祖をとらえ、士衆を捕らえた。ついに孫権は、甘寧に兵を授け、當口に屯させた。

『通鑑』によると、凌統は甘寧に父の凌操を殺されたことを怨み、つねに甘寧を殺そうとした。孫権は甘寧に、他所に屯せしめた。
盧弼が考えるに、のちに裴注『呉書』で「孫権は甘寧を徙して、半州に屯せしめた」とある。いま先に当口に屯せしめ、のちに半州に屯せしめた。(凌統と甘寧をひきはなす施策は、後者のことであり)『資治通鑑』は混同した(甘寧を当口に屯させたのは、凌統からひきはなすための施策ではないのに)
趙一清はいう。甘寧ははじめ孫皎のもとに属し、孫皎は夏口を督した。のちに酒により(甘寧は孫皎と対立し)呂蒙のもとに属したいと求めた。呂蒙は濡須を督したが(呂蒙・濡須との関わりは)甘寧伝の後ろに出てくる。「当口」は、きっと(上官である孫皎が督した)夏口のそばのはず。あるいは「当口」は「当利口」のことか。
ぼくは補う。上記で検討した結果、荊州の夏口のそばに、「当利口」ではない「当口」という場所がある。小さな地名なので、地図で見つけるのは難しい。「当口とは当利口のことだ」とか曲解されるほど、マイナーである。ともあれ、ここに甘寧が屯したと。


吳書曰。初、權破祖、先作兩函、欲以盛祖及蘇飛首。飛令人告急於寧、寧曰「飛若不言、吾豈忘之?」權爲諸將置酒、寧下席叩頭、血涕交流、爲權言「飛疇昔舊恩、寧不值飛、固已損骸於溝壑、不得致命於麾下。今飛罪當夷戮、特從將軍乞其首領。」權感其言、謂曰「今爲君致之、若走去何?」寧曰「飛免分裂之禍、受更生之恩、逐之尚必不走、豈當圖亡哉!若爾、寧頭當代入函。」權乃赦之。

『呉書』によると、孫権が黄祖を破ると、2つハコをつくり、黄祖・蘇飛の首を入れるつもり。甘寧が哀願して、蘇飛は救われた。

ぼくは思う。蘇飛は、呉将として活躍しない。赦されたのち、官職につかなかったか。位置づけとしては、甘寧と同じである。いや、黄祖の片腕だったのだから、甘寧よりも優秀である可能性がある。引退者・観察者としての蘇飛は、キャラとしておもしろい。


夷陵を攻め、曹仁を追い出す

後、隨周瑜、拒破曹公於烏林。攻曹仁於南郡、未拔。寧、建計、先徑進取夷陵。往卽得其城、因入守之。時、手下有數百兵、幷所新得、僅滿千人。曹仁乃令五六千人圍寧。寧受攻、累日、敵設高樓、雨射城中、士衆皆懼、惟寧談笑自若、遣使報瑜。瑜用呂蒙計、帥諸將、解圍。

(建安十三年)周瑜に随い、曹操を烏林で破る。曹仁を南郡(江陵)に攻めるが、抜かず。甘寧は計略をたて、さきに夷陵を取って、入って守った。

夷陵は、漢は南郡に属し、呉は西陵と改めて宜都郡に属す。『魏志』文帝紀 黄初元年にある。
趙一清はいう。『方輿紀要』巻七十八によると、夷陵州はもと楚地で、秦代は南郡に属した。両漢も同じ。曹操が荊州を平らぐと、臨江郡を置いた。蜀は宜都郡と改めた。呉の黄武元年、夷陵を改めて西陵といい、重鎮となったと。
何焯はいう。夷陵をとれば、長江の水路が抑えられ、進めば戦えて、退けば守れる。

ときに手下に数百の兵と、新たに得た兵をあわせても千人だけ。曹仁は5-6千で囲む。甘寧は連日に攻められた。曹仁軍は高楼を設け、高みから城中に矢を降らせる。士衆は懼れたが、甘寧だけが談笑して自若とし、周瑜に使者を出した。

ぼくは思う。西暦383年、淝水の戦いで、前秦と東晋が戦う。東晋の謝安は、囲碁を打っていた。非常時に、日常と同じことができるのが、胆力があり、事態に対処できる人間。「大変だ!」と騒ぐと、人間のパフォーマンスは下がるだけ。非常時に「平常なみ」のパフォーマンスが発揮できれば、大抵の危難は解決することができる。

周瑜は呂蒙の計をもちい、諸将をひきい囲みを解く。

益陽で関羽をふせぐ

後、隨魯肅鎭益陽拒關羽。羽、號有三萬人、自擇選銳士五千人、投縣上流十餘里淺瀨、云、欲夜涉渡。肅、與諸將議、寧時有三百兵、乃曰「可復以五百人益吾、吾往對之。保、羽聞吾欬唾不敢涉水。涉水卽是吾禽」肅便選千兵益寧、寧乃夜往。羽聞之、住不渡、而結柴營。今遂名此處、爲關羽瀨。

(時系列は前後するが、建安二十年)甘寧は魯粛に随って益陽に鎮し、関羽を拒ぐ。関羽は3万人と号し、自ら鋭士5千人を選抜し、益陽県の上流の10余里の浅瀬におり、夜に渡るらしい。魯粛が諸将と議した。ときに甘寧は3百人を有し、「5百人を私に増やしてくれたら、私が行こう。関羽は私の欬唾を聞けば、渡るまい。渡れば、私の禽だから」と。魯粛は千人を選び、甘寧に増やした。甘寧や夜にゆく。関羽はこれを聞き、とどまって渡らず、

ぼくは思う。甘寧伝で甘寧は「関羽が私のセキバライを聞けば、川を渡ってこない」という。これはレトリックで、「対岸に呉軍がいれば、関羽は警戒して川を渡るまい」くらいの意味か。だが『水経』資水注では、描写が具体化しており、関羽が「興覇の声がする」といって、川を渡るのをやめる。小説化の萌芽である。

柴営を結んだ。ここを「関羽瀬」という。

『水経』資水注に、益陽県に関羽瀬がある。関羽灘ともいう。南に甘寧に対した故塁がある。むかし関羽が北岸に屯し、孫権が魯粛・甘寧に拒がせたのがここである。関羽は夜に「甘寧の声だ」といい、渡らず。


權嘉寧功、拜西陵太守、領陽新、下雉、兩縣。

孫権はこの功績により、甘寧を西陵太守とし、

盧弼はいう。この「西陵」は、のちに夷陵を改名した「西陵」とは、同名であるが場所が異なる。建安二十年(甘寧を太守とするために、漢代には江夏に属した)陽新・下雉県につき、これを治める西陵郡を置いた。孫権伝によると、黄初二年に武昌郡を置くとき、西陵郡を廃した。
銭大昕はいう。陸抗は鎮軍将軍を拝して、西陵を都督する。歩闡は西陵督となる。この西陵は、漢の夷陵県のことで、黄武元年に改称された。甘寧が太守となった場所と異なる。
趙一清はいう。『方輿紀要』巻二十八によると、甘公城が寧国府の南陵県の北7里にあり、数千人が入る。四旁の門址がまだある。呉将の甘寧が屯したといわれ、なまって「甘羅城」という。

陽新・下雉の2県を領せしむ。

『三国志集解』孫権伝より、
『郡国志』によると、江夏郡に下雉県がある。『一統志』によると、いまの武昌府の興国州の東南に下雉潭というところがある。
陽新について、『水経注』江水によると、富水は西北に流れ、陽新県をめぐる。もと豫章郡に属した。宋本の『寰宇記』によると、孫権は鄂県を分けて陽新県をつくった。武昌郡をつくる前は、豫章郡に属した。 洪亮吉によると(陽新県は)呉が鄂県を分けて立てた。甘寧伝にみえる。呉増僅によると、陽新県は、建安末は西陵郡に属して、のちに武昌郡に属した。



皖城で朱光をとらえる

後、從攻皖、爲升城督。寧、手持練、身緣城、爲吏士先、卒破、獲朱光。計功、呂蒙爲最、寧次之、拜折衝將軍。

(建安十九年)従って皖城を攻め、升城督となる。甘寧は、手に練(ねりぎぬ)を持ち、城壁をのぼって、吏士に先んじ、(曹操の廬江太守の)朱光を捕らえた。計功は、呂蒙がトップで、甘寧がそれに次ぐ。折衝将軍となった。

この戦いは呂蒙伝にある。
洪飴孫はいう。折衝将軍は、定員1名、第五品。


濡須で曹操をおそう

後、曹公出濡須。寧、爲前部督、受敕、出斫敵前營。權特賜米酒衆殽、寧乃料、賜手下百餘人食。食畢、寧先以銀盌酌酒、自飲兩盌、乃酌與其都督。都督伏、不肯時持。寧、引白削置膝上、呵謂之曰「卿見知於至尊、熟與甘寧?甘寧尚不惜死、卿何以獨惜死乎?」都督、見寧色厲、卽起拜、持酒、通酌兵各一銀盌。至二更時、銜枚出斫敵。敵、驚動、遂退。寧益貴重、增兵二千人。

(建安二十二年)曹操が濡須に出る。甘寧は前部督となり、敕を受け、出て敵の前営をうつ。孫権はとくに米酒・衆殽を賜り、甘寧は料して、手下1百余人に食わせた。食べ終わると、甘寧は銀盌で酒を酌し、自ら2杯のむ。都督に酌した。都督は伏せ、受けとらず。

これを受け取ったら、「一緒に死のう」ということになる。孫権がとくに米酒をくれたのは、「ここで曹操を必ず殺す。そのために甘寧は、文字どおり死ね!」と伝えるため。曹操が深入りしてきたチャンスは、めったにない。事実、孫権と曹操の直接対決は、これが最後である。有能かつ死んでもいいのが、甘寧であった。

甘寧は、白削をひざに乗せ、呵った。

盧弼はいう。「削」には2つ意味がある。簡札と、刀剣である。(用例をたくさん引いて;ここでは省く)どちらでも意味が通じるが、刀剣のほうが、話が繋がりそうか。ちくま訳は「抜き身の刀」とする。

キミと私とで、どちらが至尊に見知されて(認知・理解されて)いるか(=てめえら都督より、この甘寧のほうが重用されているぞ)。その甘寧サマですら、死を惜しまないのに、なぜキミらは死を惜しむのか」と。都督らは起拜して持酒し、酌を兵にまわした。二更になり、枚を銜え、出で敵をうつ。敵は驚動し、遂に退いた。甘寧は貴重せられ、兵2千人を増やされた。

何焯はいう。甘寧は特将のキャパがあり、1万人を督せるのに、呉人はそういう使い方をしない(甘寧を活かしきれる見識と度量がない)
ぼくは思う。10年くらい前、はじめて甘寧伝を読んだとき、甘寧が突撃ばかりさせられるので、冷遇されていると思った。
使い捨て!惨めな呉の老将、甘寧伝
しかし『呉志』巻十の人たちは、ずっと先頭をきって突入!をしている。というか、呉における将軍の役割って、それ以外になかったのではないか。孫権のところは、官僚機構が、横に広く、縦に浅い。所詮は、州牧府か将軍府に毛が生えたようなものだから、どの指揮官も、つねに戦場にいる。
その点で、ぎゃくに蜀漢は、官僚機構が、横に狭く、縦に深い。領地が狭い上に、複雑そうな朝廷の機構を、フェチ的につくっていそうな伝統政権。


江表傳曰「曹公出濡須、號步騎四十萬、臨江飲馬。權率衆七萬應之、使寧領三千人爲前部督。權密敕寧、使夜入魏軍。寧乃選手下健兒百餘人、徑詣曹公營下、使拔鹿角、踰壘入營、斬得數十級。北軍驚駭鼓譟、舉火如星、寧已還入營、作鼓吹、稱萬歲。因夜見權、權喜曰「足以驚駭老子否?聊以觀卿膽耳。」卽賜絹千疋、刀百口。權曰「孟德有張遼、孤有興霸、足相敵也。」停住月餘、北軍便退。

『江表伝』はいう。曹操が濡須にきて、歩騎40万と号す。孫権は7万で応ず。甘寧は3千人で前部督となる。曹操を夜襲した。孫権は喜び、「孟徳に張遼がいるが、わたしには興覇がいる」と。1ヶ月余、曹操はとどまり、北に退いた。

『三国志集解』には特に注釈なし。
ぼくは思う。建安二十二年、曹操が濡須に出ると、甘寧は孫権から特別に米酒を賜る。つまり「曹操を殺して甘寧も死ね」ということ。甘寧伝で、彼の部下が酒杯をためらうのは「死ね」という命令を怖がったから。結果、曹操を殺せず、甘寧は死なず。単なる失敗である。これを『江表伝』は美談にする。台なしである。
『江表伝』は、孫権に「曹操に張遼がおれば、私には甘寧がいる」と言わせ、甘寧の襲撃を、痛快な成功のように錯覚させる。「いかにも孫権がいいそう」で、読者の記憶に残るセリフなので、創作としてはうまい。だが、甘寧の作戦の目的を見失わせる。


合肥にゆき、友将とモメる

寧、雖麤猛好殺、然開爽有計略、輕財敬士、能厚養健兒、健兒亦樂爲用命。
建安二十年、從攻合肥。會疫疾、軍旅皆已引出、唯車下虎士千餘人、幷呂蒙、蔣欽、淩統及寧、從權逍遙津北。張遼、覘望知之、卽將步騎、奄至。寧、引弓射敵、與統等死戰。寧厲聲問、鼓吹何以不作、壯氣毅然、權尤嘉之。

甘寧は麤猛だが殺を好み、開爽で計略がある。財を軽んじ士を敬ひ、能く健児を厚養し、健児も甘寧のために命がけを楽しむ

こういう定型文よりも、「甘寧の酒杯を、部下が受け取らない」という、命を惜しむギリギリの描写のほうが、リアリティがある。甘寧の働きぶりを書きたかったのだろうが、甘寧こそ、孫権からの米酒(=捨て身の突撃命令)を受けたくなかった。だから甘寧は、部下と自分を等置して、比較して見せたのだ。鏡像である。

建安二十年、従って合肥を攻める。病気がはやり、軍旅はすでに引いたが、孫権の車下に虎士1千余人だけと、呂蒙・蔣欽・淩統・甘寧が、孫権に従って逍遙津の北にいた。張遼は(孫権が手薄なのを)見て知り、歩騎をひきい、にはかに至る。甘寧は弓を引き敵を射て、凌統らと死戦する。甘寧は声を励まして問う。「鼓吹をなぜ演奏しないか」と。気を壮んに毅然として、孫権に嘉された。

杭世駿はいう。『江表伝』によると、張遼が来ると、鼓吹は驚き怖れ、鳴らせず。甘寧は刀で(演奏者を)斬ろうとし、演奏が再開された。


凌統・呂蒙とトラブル

吳書曰。淩統怨寧殺其父操、寧常備統、不與相見。權亦命統不得讎之。嘗於呂蒙舍會、酒酣、統乃以刀舞。寧起曰「寧能雙戟舞。」蒙曰「寧雖能、未若蒙之巧也。」因操刀持楯、以身分之。後權知統意、因令寧將兵、遂徙屯於半州。

凌統は、甘寧に父を殺されたから、甘寧を怨んだ。甘寧は凌統にそなえて、会わなかった。孫権もまた、アダウチを禁じた。

凌統の行為の不適切さについては、こちらで書きました。
『呉志』巻十:父を罵れば友将すら殺す、凌統伝

かつて呂蒙のところに集まり、酒席で凌統が刀舞をした。甘寧が双戟で舞うと、呂蒙がわりこんで、凌統・甘寧をひきはなした。のちに孫権は凌統の気持ちを知り、甘寧を半州に駐屯させた。

盧弼はいう。「半州」は張昭伝・薛綜伝に見える。甘寧・凌統は、わかれて兵をひきいた。それぞれ名将となった(功績があった)。魏延・楊儀は(甘寧と凌統と同じく)不仲であり、ついに秩序をみだした。諸葛亮は、どちらか片方を廃するのは忍びなかった。蜀漢には人材が乏しかったからか。
半州の位置・時期については、上で書きました。


寧廚下兒、曾有過、走投呂蒙。蒙恐寧殺之、故不卽還。後、寧齎禮禮蒙母、臨當與升堂、乃出廚下兒還寧。寧許蒙不殺。斯須還船、縛置桑樹、自挽弓射殺之。畢、敕船人更增舸纜、解衣臥船中。蒙大怒、擊鼓會兵、欲就船攻寧。寧聞之、故臥不起。蒙母、徒跣出諫蒙曰「至尊待汝如骨肉、屬汝以大事。何有以私怒而欲攻殺甘寧。寧死之日、縱至尊不問、汝是爲臣下非法」蒙、素至孝、聞母言、卽豁然意釋、自至寧船、笑呼之曰「興霸、老母待卿食、急上」寧涕泣歔欷曰「負卿」與蒙俱還見母、歡宴竟日。

甘寧の厨下児がミスをして、呂蒙のもとに逃げた。呂蒙は、甘寧が殺すのを恐れ、かくまった。のちに甘寧は呂蒙の母にプレゼントし(礼儀どおり手順をふみ)呂蒙母にあいさつした。(呂蒙母の取りなしで)呂蒙は厨下児を甘寧に返した。

「呂蒙の母」は重要人物かも知れない。鄧當が呂蒙母に「呂蒙が(少年のくせに)戦場にきた」とチクり(呂蒙伝)、魯粛が呂蒙を認めると呂蒙母にあいさつし(呂蒙伝)、呂蒙が甘寧を殺そうとすると呂蒙母が制止(甘寧伝)。
教育に関する「先天的」原体験って、母と関係しそう。呂蒙の学力も、母のおかげか。現代日本で「母の学歴と、子供の学力は相関する」という。父の学歴ではない。呂蒙の家にも、同じことがありそう。

甘寧は厨下児を殺さぬと、呂蒙にいった。しかし甘寧は船にもどると、桑樹にしばって厨下児を射殺した。

「甘寧は麤猛だが殺を好む」一例であると。

呂蒙が怒って、甘寧の船を攻めようとすると、呂蒙母が呂蒙を止めた。「孫権から骨肉のように待遇され、大事を任されているのに、私怨で甘寧を殺すな」

この母の導きによって、呂蒙は『呉志』巻十の武将(先陣で突撃して死にやすい)から、『呉志』巻九の司令官(国家の戦略を掌る)に進化したのだ。甘寧と凌統は、同レベルで潰しあうだけ。呂蒙は、いちだん高いところから、彼らを仲裁する立場。

呂蒙は至孝なので、母の言をきき、「興覇、老母が食事に呼んでます」と笑った。甘寧・呂蒙は、呂蒙母とともに歓宴した。

寧卒、權痛惜之。子瓌、以罪徙會稽、無幾死。

甘寧が卒すると、孫権は痛惜した。

潘眉はいう。甘寧は勇烈で功績があり、魏の典韋なみなのに、典韋も甘寧も侯爵でない。『呉志』は巻十は、程普・黄蓋・韓当・蒋欽・周泰・陳武・董襲・甘寧・凌統・徐盛・潘璋・丁奉がまとめられる。このうち(子への追録も含めて)侯爵がないのは、董襲・甘寧である。董襲伝は子が記されず、後嗣がいなかったか。甘寧そのひとに封爵がなく、子の甘瓌にも(罪を犯すまでに)封爵がないから、甘寧の扱いがひどい。
ぼくは思う。爵位のことで、浮き彫りになったように。甘寧は、ほかの『呉志』巻十のひとと異質である。つまり、列伝の置きどころがなくて、凌統の直前にブチこんだのだろう。おそらく、実際の呉の朝廷のなかで、甘寧の扱いは(爵位の追録のギャップに見られるように)ほかと異なる。孫堅・孫策・孫権に初めから仕えた人々に比べると、トザマとしての扱いの悪さがあっただろう。

子の甘瓌は、罪により会稽に徙され、すぐ死んだ。160615

潘眉はいう。『晋書』甘卓伝には、甘寧の子は甘述といい、呉に仕えて尚書となる。甘述の子は甘昌で、太子太傅となった。甘述は、甘瓌の弟とすべきで、史書にモレがある。
ぼくは思う。晋代にも甘寧の子孫がいる。なぜ韋昭『呉書』や、陳寿『呉志』がもらしたか。呉臣の子孫であることが、必ずしも官界でプラスにならなかったか。もし晋代に「甘寧の子孫」であることが名誉だと諒解されていれば、書く側だって、当事者(甘氏)からのクレームを予期して、モレを防いだはず。ということは「甘寧の子孫」とは、ことさらに強調しても、官界で有利にならないと、諒解されていたか。
「孫権は功臣の子孫を冷遇した」という印象に操作されている。結果的に。

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