読書 > 『全訳後漢書』で訓読を練習する

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『范書』列伝第六十一 皇甫嵩伝

『全訳後漢書』どおりに訓読(書きくだし)ができるように練習してます。訓読には、唯一の正解がないものの、とりあえず『全訳後漢書』と同じように訓読できるようになるための修行です。

自分から何かを働きかける・つくる気が起きないときは、読書と語学。語学とは、『後漢書』を訓読したあと、『全訳後漢書』で答え合わせして、自分の訓読のダメなところを直すという遊びです。
人造の自然言語は、たいていは定着しないけど(すでに形容矛盾してるし)、訓読の文体はすごいと思う。さまざまな試行錯誤をふくめると、日本語と同じながさの歴史をもってるから、すごいのは当然なのかも。完成されたのは近代ですし。『漢文脈と近代日本』もおもしろかったです。


皇甫嵩の出自

皇甫嵩 字は義真、

「嵩」と「字」のあいだは半角スペース。

安定朝那の人、度遼将軍規の兄子なり。

郡名と県名のあいだに「の」は不要。官名と諱のあいだは半角スペース。日本語に「兄子」という語はないから、「兄の子」とする。

父の節、鴈門太守なりたり。

官名+たり。雁門太守たり。

少きとき文武の志介有り、詩書を好み、弓馬を習ふ。

少は「少くして」と。「詩書」は、ふたつの書名の並記なので、あいだに「・」がいる。

初め孝廉、茂才に挙げらる。

孝廉と茂才はべつものなので「孝廉・茂才」でなく「孝廉、茂才」とする。

太尉の陳蕃・大将軍竇武 連ねて連りに辟し辟すも、並びに到らず。

「連」は「しきりに」。内容が逆接なら「辟すも」とする。

霊帝 公車徴もて議郎と為し、北地太守に遷る。

補注十三:公車は、洛陽南闕門。皇帝による察挙である「公車徴」を受けた人物が至る場所であった。


張角伝

初め、鉅鹿の張角 自ら大賢良師と称し、黄老の道に奉事し、弟子を畜養し、跪拝し過を首せしめ 跪拝して首過し、

動詞の熟語が並んだら、「AAしてBBす」として、「跪拝して首過し」で可。「首過」をむりに開かずに、現代語訳でおぎなう。「跪き拝礼して罪を悔い」

符水・呪説もて 以て病を療せば、病は 病む者 頗る愈え、百姓 之を信向す。

「符水・呪説、以て病をし」で可。「もて、以て」はウルサイか。

角 因て弟子八人を遣はして四方に使せしめ、以て天下を善道して教化し 善道を以て天下を教化し、転た相誑惑せしむす。

「因」の送り仮名は「りて」で。「遣」は使役のなかに埋没させて消さずに、「遣はして」と見せる。「使せしめ」、つまり動詞「使(つかい)す」をつかう。
「善導」ではなく「善道」なので、動詞にならない。「転(うた)た」は、「いよいよ」と約す。「相」に送り仮名「ひ」は不要。

十餘年、衆徒数十萬、連りに郡国を結び郡国に連結し、青・徐・幽・冀・荊・楊・兗・豫 八州の人自りより、畢に畢く畢応ぜざる莫し。

「十余年間」で放置したら意味が分からないので「十余年の間に」と補う。「自(よ)り」は、ひらがなに。「畢(ことごと)く」と読む。


遂に三十六方を置く。方は猶ほ将軍號のごときなり。

「猶ほ」ときたら「ごとし」で呼応させる。

大方は萬餘人、小方は六七千、各々渠帥を立つ。

「六七千人」で可。

訛言すらく、「蒼天 已に死す、黄天 当に立つべし、歳は甲子に在り、天下 大吉なり大いに吉ならん」と訛言す

迷ったけど、「訛言すらく、「…」と。」のほうで。

白土を以て京城の寺門及び州郡の官府に書き書し、皆「甲子」の字を作る。

「皆」は「な」を後ろにつけない。


中平元年、大方の馬元義らは先に先づ荊・楊の数萬人を收め、鄴に發するを期会す期会して鄴より發す。

「等」は「ら」に開いてよい。「先に」ではなく「先づ」。

元義 数々京師に往来し、中常侍の封諝・徐奉らの内応を為すを以てを以て内応を為さしめ、約するに三月五日を以て内外 俱に起つことを約す起たんと。
未だ乱を作すに及ばざるにずして、張角が弟子のの弟子たる済南の唐周 上書して之を告ぐ。是に於て元義を洛陽に車裂す。

名詞の修飾で「の」が続くときは「たる」で解消。


黄巾の乱

霊帝 周章を以て三公・司隸に下し、鉤盾令の周斌をして三府掾屬を将ゐしめ、宮省の直衛及び百姓を案験し、角の道に事ふる者有らば、 の角の道に事ふること有る者を案験せしめ、

読みが違った。使役の文字が1回でも、内容が使役なら、何回も「せしめ」として可。

千餘人を誅殺し、冀州を推考し、逐に角らを捕ふ角らを逐捕せしむ。

「逐捕」で、逮捕すること。

角ら事の已に露はるること露るを知り、晨夜諸方に馳勑し馳せて諸方に勑し、

返り点はシンプルがいい。動詞A+動詞B+補語なら、動詞Aし、補語に動詞Bす、とする。補語に動詞A+B(熟語)す、だと返り点が複雑。

一時に俱に起つ。皆 黄巾を著してけて摽幟と為し、時人 之を黄巾と謂ひ、亦 名づけて蛾賊と為す。人を殺して以て天を祠り、

Aして以てBし、というリズム。

角は天公将軍と称し、角の弟たるの宝は地公将軍と称し、宝の弟たるの梁は人公将軍と称し、所在に官府を燔焼し、聚邑を劫略し、州郡は拠を失ひ、長吏 多く逃亡す。旬日の間、天下 嚮応し、京師 震動す。

皇甫嵩が黄巾の討伐にむかう

詔勑して州郡に詔して州郡に勅して攻守を修理せしめ、器械を簡練し、函谷・大谷・廣城・伊闕・轘轅・旋門・孟津・小平津の諸関より、並せて並びに都尉を置く。
羣臣を召して会議す。嵩 以為らく、「宜しく党禁を解き、益々中蔵銭・西園廐馬を出し、以て軍士に班(わか)つべしと。帝 之に従ふ。是に於て天下の精兵を発し、博ひ将帥を選ぶ。嵩を以て左中郎将と為し、持節せしめして、右中郎将の朱儁と与に、共に五校・三河の騎士を発し、及び精勇を募らしめ、合せて四萬餘人なり。嵩・儁 各々一軍を統べ、共に潁川の黄巾を討つ。

前に前(すす)みて賊の波才と戦ふも、戦ひ敗れ、嵩 因りて進み長社に保(とりで)す。波才 大衆を引ゐて城を囲む。嵩の兵 少なく、軍人 皆 恐る。乃ち軍吏を召して謂ひて曰く、「兵奇変有り、衆寡に在らず。今 賊 草に依りて営を結び、易く風火と為る風火を為すに易し。若し夜に因りて縦に縦(はな)ち焼けば、必ず大いに驚乱せん。吾 兵を出して出兵して之を撃ち、四面 俱に合はせば、田単の功 成る可きなり」と。其の夕 遂に大いに風ふき大風あり、嵩 乃ち約して軍士に勑し軍士を約勅して、皆 苣を束ねて城に乗(のぼ)らしむ。鋭士をして間より間(ひそ)かに囲の外に出でしめ、火を縦ち大呼せしむ。

どこまで使役をひっかけるか。

城上は燎を挙げて之に応ず。嵩 因りて鼓して其の陳に奔るや、賊 驚乱して奔走す。会々帝 騎都尉の曹操を遣はし、兵を将ゐて適(まさ)に至らしむ。嵩・操 朱儁と与に兵を合せて更(あらた)めて戦ひ、大いに之を破る。斬首すること数萬級。嵩を都郷侯に封ず。嵩・儁 勝に乗じて進み、汝南・陳国の黄巾を討ち、波才を陽翟に追ひ、彭脱を西華に撃ち、並びに之を破る。餘賊 降散し、三郡 悉く平ぐ。

又 進みて東郡の黄巾の卜己を倉亭に撃ち、卜己を生禽し、斬首すること七千餘級。時に北中郎将の盧植及び東中郎将の董卓張角を討つも、並びに功無くして還る。乃ち嵩に詔して兵を進めて之を討たしむ。嵩角の弟の梁と広宗に戦ふ。梁の衆は精勇たりにして、嵩 剋つこと能はず。明日、乃ち営を閉めて閉ぢて士を休め、以て其の変を観る。

休めて、以て、のリズム。

賊の意 稍(ようや)く懈(おこた)るを知り、乃ち夜に潛(ひそ)かに兵を勒(ととの)へ、雞鳴に馳せて其の陳に赴く。戦ひ晡時に至りて、大いに之を破り、梁を斬り、首を獲ること三萬級、河に赴きて死せる者五萬許人、車重三萬餘兩を焚焼し、車重を焚焼すること三萬餘兩、悉く其の婦子を虜虜(とり)とし、繋獲するもの繋ぎ獲ふこと甚だ衆し。角 先に已に病死すれば、乃ち棺を剖きて屍を戮し、首を京師に傳ふ。

嵩 復た鉅鹿太守たる馮翊の郭典と与に、角の弟の宝を下曲陽に攻め、又 之を斬る。首獲すること十餘萬人、京観を城南に築く。即ち嵩を拝して左車騎将車と為し、冀州牧を領せしめ、槐里侯に封じ、槐里・美陽の兩縣を食ましめ、合せて八千戸なり

帝位を勧められる

黄巾の既に平らぐを以て、故に年を改めて中平と為す。
奏して請ふらく奏請すらく、冀州の一年の田租もて、以て飢民に贍(めぐ)まんと。帝 之に従ふ。百姓 歌ひて曰く、「天下 大いに乱れ、市は墟と為り、母は子を保(やす)んぜず、妻は夫を失ひ、頼(さいは)ひに皇甫を得て復た安居す」と。嵩は士卒を温卹し、甚だ衆情を得て、軍行して頓止する毎に、営幔 修立するを須ちて、然る後に舍帳に就く。軍士 皆 食らひ己(や)みて乃ち飯を嘗(や)む。吏 事に因りて賂を受くる者有れば、嵩 更に更(あらた)めて銭物を以て之に賜ふ。吏 慙を懐き、或ひと或いは自殺するに至る。

嵩 既に黄巾を破り、天下を威震す威は天下を震はすも、朝政は日ごとに乱れ、海内は虚困す。故に信都令たる漢陽の閻忠 干(おか)して嵩に説きて曰く、「得ることは難くとも失ふことは易き者 得難くして失ひ易き者は、時なり。時 至りて踵を旋(めぐ)らさざる者は、幾なり。故に聖人は時に順ひて以て動き、智者は幾に因りて以て発す。今 将軍 得難きの運に遭ひ、駭(おどろ)き易きの機を踏むも、運を践みて撫せず、機に臨みて発せず。将た何を以て大名を保つや保たんか」と。嵩曰く、「何の謂ぞや」と。

「謂」だけで「いひ」と読める。

忠曰く、「天道は親無く、百姓も与に能す能に与(あずか)る。今 将軍 鉞を暮春に受け、功を末冬に收む。兵の動くこと神の若く、謀は再び計らず、強きを摧(くじ)くこと枯(かれき)を折るよりも易く、堅を消すこと雪を湯(ゆそそ)ぐよりも甚し。旬月の間に、神兵 電のごとく埽ひ、尸を封じて石に刻み、南して向ひて南に向ひて以て報ひ報ず。威徳は本朝を震はせ、風声は海外を馳す。湯武の挙と雖も、未だ高きこと将軍に将軍より高き者有ざるなり。

原文は「未有高将軍者也」と。将軍より高き…、なるほど。

今 身に不賞賞せられざるの功を建て、体に高人人に高きの徳を兼ぬるも、而るにれども庸主に北面するは、何を以て安を求めんや」と。
嵩曰く、「夙夜 公に在りて、心は忠を忘れずして、何の故に安からざる」と。

忠曰く、「然らず。昔 韓信一餐の遇を忍びずして、而して三分の業を弃て、利剣 已(もっ)て其の喉に揣り、方に悔毒の歎を発する発せし者は、機 失ひてはれて、謀 乖るれば乖(たが)へばなり。今 主上の埶ひ劉・項より弱く、将軍の権は淮陰より重し。撝を指せば指撝すれば以て風雲を振はす振ふに足り、叱咤すれば以て雷電を興す可し。赫然として奮発すればし、危に因りて穨れたるを扺(うち)崇恩恩を崇(さか)んにして以て先附を綏で先んじて附けるを綏(やす)んじ、武を振ひて以て後に服せるに臨み、冀方の士を徴し、七州の衆を動かし、羽檄 先づ前に馳せ、大軍 響きて後に振はば振るひ、流れを漳河に踏み、馬を孟津に飲ませ、

原文は、「踏流漳河、飲馬孟津」。ちょっと難しい。

閹官の罪を誅し、羣凶の積を除かば、僮兒と雖も拳を奮ひて以て力を致さしむ可く、

「力を致す」「力を致さしむ」になじみましょう。

女子も裳を褰(かか)げて以て命を用ゐせしむ用ゐしむ可し。

受験生か。バカか。

況んや熊羆の卒を厲まし、迅風の埶に因らんか因るをや。

受験生か。バカか。その2。

功業 已に就き、天下 已に順ひ、然る後に請ひて上帝に呼ばひ上帝に請(まね)き呼び、以て天命を示し、六合を混斉し、南面して称制し制を称し、

ここは「称制」ではなくて、ひらく。

宝器を将興将に興らんとするに移し、亡漢を已に墜ちたるに推せば、実に神機の至会、風発の良時なり。夫れ既に朽ちて朽ちたれば雕らず、衰世佐け難し。若し佐け難きの朝を輔けんと欲し、朽敗の木を雕らば、是れ猶ほ坂に逆らひて坂を逆にして丸に走り丸を走らせ、風を迎へて棹を縦つがごとし。豈に易きと云へんや易しと云はんや。且つ今豎宦は羣居し、同に悪むこと同悪は市の如く、上命は行はれず、権は近習に帰す。昏主の下、以て久しく居り難く、賞せざる功、讒人 目を側だて側む。如し早く早に図らざれば、後に悔いても及ぶ無し後悔するとも及ぶこと無からん

嵩 懼れて曰く、「非常の謀、有常の常有るの埶に施さず。創図の大功大功を創め図ること、豈に庸才の致る所や到す所ならんや。黄巾の細孽、敵すること秦・項に非ず、新たに結ぶもの結びて散り散じ易く、以て業を済ひ業と済すに難し。且つ人は未だ主を忘れず、天は逆を祐けず逆に祐ひせず。若し虚しく冀まざる不冀の功を造り造(な)して、以て朝夕の禍を速むれば速(まね)くがごときは、忠を本朝に委(ゆだ)ね、其の臣節を守るに孰与(いずれ)ぞや。多讒を云ふと雖も、放廢を過たずに過ぎず、猶ほ令名有らば、死して且に朽ちざるがごとし。死するとも且つ不朽なり。反常の常に反(そむ)くの論、敢へて聞かざる所なり」と。忠 計の用ゐられざるを知り、因りて亡去す亡れ去る。

長安に鎮し、宦官に讒言せらる

会々邊章・韓遂 乱を隴右に作す。明年春、嵩に詔して迴りて長安に鎮し、以て園陵を衛らしむ。章ら遂に復た三輔に入寇し入りて三輔を寇するや、嵩をして因りて之を討たしむ。

初め嵩 張角を討ち、路 鄴に由る。中常侍の趙忠の舍宅の制を踰ゆるを見、乃ち奏して之を沒入せんとす。又 中常侍の張譲 私かに銭五千萬を求むれどもむるも、嵩 与へず。二人 此に由り憾を為す。嵩 連りに戦へどもふも功無く、費す所の者多しと奏す。其の秋 徴し還、左車騎将軍の印綬を收め、戸六千を削り、更めて都郷侯に封ず。二千戸に封ぜらるなり。

「都郷侯、二千戸に封ぜらる」とはいわない。都郷侯に封ず、でひとつ。


陳倉で董卓と共闘する

五年、涼州の賊たるの王国 陳倉を囲むや、復た嵩を拝して左将軍と為し、前将軍の董卓を督し、各々二萬人を率ゐて之を拒ぐ。卓 速く進み陳倉に赴かんと欲するも、嵩 聴さず。卓曰く、智ある者は時に後れず、勇ある者は決を留めず。速かに救はば則ち城く、救はざれば則ち城滅せん。全との埶、此に在るなり」と。

並列なので「全・滅の」としようと思ったが、正解は「全と滅との」


嵩曰く、「然らず。百戦して百勝するは、戦はずして人の兵を屈するに如かず。是を以て先づ勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ。勝つ可からざる我に在らばり、勝つ可きは彼に在り。彼 守ることるに足らざればず、我 攻むるに餘り有り。餘り有る者は九天の上を動き、足らざる者は九地の下に陷つ。今 陳倉 小さきなりと雖も、城の守りは固備にして固く備はり、九地の陷に非ざるなり。王国 強きと雖も、而るに我の救はざる所を攻め、九天の埶に非ざるなり。夫れ埶 九天に非ざれば、攻むる者は害を受く。陷 九地に非ざれば、守もる者は抜けず。国 今 已に受害の地に陷り、而るに陳倉 抜けざるの城を保つ。我は兵を煩はし衆を動かさざる可しずして、而して全勝の功を取る可し。

どこまで「可」がかかるか。ぼくは狭すぎた。
「兵を煩はし衆を動かさず」とあり、原文でも「不」は一回しかないが、意味を確定させるなら「兵を煩はさず&衆を動かさず」としたい。

将た何ぞ焉を救はんか将に何をか救はんとす」と。遂に聴さず。

王国 陳倉を囲むこと、冬より春迄春に迄るまで

「迄」を「まで」と読まず、「迄(いた)る」とすると、訓読が明解。

八十餘日、城は堅く守りは固く、竟に抜くこと能はず。賊衆 疲敝し、果して自ら解き去る。嵩 兵を進めて之を撃たんとす。

意味から「撃たんとす」がいい。

卓曰く、「不可なり。兵法に、『窮寇 追ふ勿かれ、帰衆 迫る勿かれ』と。今 我 国を追はば、是れ帰衆に迫り、窮寇を追ふなり。困獣すら猶ほ闘ひ、蜂蠆にも毒有り。況んや大衆をや」と。

「すら」は「猶」から導かれるが、「にも」は意味からか。

嵩曰く、「然らず。前に吾 撃たざりしは、其の鋭を避くればなり。今 而してにして之を撃つは、其の衰ふるを待てばなり。撃つ所は疲れたる師にして、帰衆に非ざるなり。国の衆 且に走げんとし走(のが)れ、闘志有る莫し。整を以て乱を撃つは、窮寇に非ざるなり」と。遂に独り進み之を撃つ。卓をして後拒と為さしむ。連りに戦ひて大いに之を破り、斬首すること萬餘級。国 走れて死す。卓 大いに慙ぢ恨み、是に由り嵩を忌む。

「慙」は「はづ」。受験生か。アホか。


董卓と対立する

明年、卓 拝してせられて并州牧と為り、詔して兵を以て嵩に委ねしむるも委ねしめんとするも、卓 従はず。

兵を委ねるのは失敗したから、「しめんとす」となる。

嵩の従子の酈 時に軍中に在り、嵩に説きて曰く、「本朝 政を失ひ、天下 倒懸し、安危を能くし能く危を安んじて傾けるを定むる者は、唯だ大人と董卓なるのみ。今 怨隙 已に結ばれ、埶として俱に存せず。卓 詔を被り兵を委ねしめんとするも、而るに上書して自ら請ふ、此れ命に逆らふことなり。又 京師を以て昏乱し、躊躇して進まざるは、此れ姦を懐けるなり。且つ其の凶戻にして親無く、将士 附(なつ)かず。大人 今 元帥と為り為れば、国を杖つきてに杖りて以て之を討たば、上は忠義を顕はし、下は凶害を除く。此れ桓・文の事なり」と。
嵩曰く、「命を専らにするは罪なりと雖ども、誅を専らにするも亦 責有るなり。如かず、其の事を顕らかに奏して、朝廷をして之を裁しむるめんとするに」と。
是に於て上書して以て聞す。帝 卓を譲(せ)め、卓 又 増々嵩を怨む。後に政を秉るに及び、初平元年、乃ち嵩を徴して城門校尉と為し、因りて之を殺さんと欲す。嵩 将に行かんとするや、長史の梁衍 説きて曰く、「漢室 微弱にして、閹豎 朝を乱し、董卓 之を誅すと雖も、而れども忠を国に尽すこと能はず。遂に復た京邑を寇掠し、廃立は意に従ふ。今 将軍を徴し、大なればにしては則ち危禍あり、小なればにしては則ち困辱あらしむ。今 卓 洛陽に在り、天子 西に来れば、将軍の衆、精兵三萬を以て、迎へて至尊に接し至尊を迎接し、令を奉じて逆を討ち、命を海内に発し、兵を羣帥より徴し、袁氏は其の東に逼り、将軍 其の西に迫れば、此れ禽と成るなりらん」と。
嵩 従はず、遂に徴に就く。有司 旨を承け、嵩を下吏に奏して吏に下し、将に遂に之を誅せんとす。

嵩の子の堅寿 卓と素より善く、長安より亡れて洛陽に走り、帰りて卓に投ず卓に帰投す。卓 方に置酒して酒を置きて歓会せんとするや、堅寿 直ちに前みて質譲し質(ただ)し譲(せ)め、大義を以て責め、叩頭し流涕す。坐する者 感動し、皆 席を離れて之を請ふ。卓 乃ち起ち、牽きて与に共に坐す。嵩の囚を免ぜしめ、復た嵩に議郎を拝せしめを議郎に拝し、御史中丞に遷る。卓 長安に還るに及び、公卿百官 道次に迎謁す。卓 風して御史中丞より已下をして皆 拝してせしめて以て嵩に屈せしめす。既にして手を扺(う)ちて言ひて曰く、「義真 犕(ふく)せしや未だしや」と。嵩 笑ひて之に謝し、卓 乃ち解き釈つ解釈す。

卓の誅せらるるに及び、嵩を以て征西将軍と為し、又 車騎将軍に遷る。其の年の秋、太尉を拝し、冬、流星を以て策免せらる。復た光禄大夫を拝し、太常に遷る。尋いで李傕 乱を作し、嵩も亦た病にてみて卒す。驃騎将軍の印綬を贈り、家の一人を拝して郎と為す。

嵩の人と為りは愛慎にして勤を尽くし、前後 上表して補益有る者を陳諌すること五百餘事、皆 手書して草を毀(やぶ)り、外に宣(の)べず。又 節を折りて士に下り、門に留まれる客無し。時人 皆 称してへて之に附つく。

たたへてつく

堅寿 亦 名を顕はし、後に侍中と為るも、辞して拝せず、病みて卒す。

内容について

『後漢書』皇甫嵩伝に、ふつうに黄巾の別称として「蛾賊」が出てくるが、ネタに使われているのを見たことがない気がする。ぼくがボケてるだけかも知れませんが。「時人 之を黄巾と謂ひ、亦 名づけて蛾賊と為す」と。

黄巾の平定で曹操が活躍したことは、『後漢書』皇甫嵩伝にある。これも、のちに曹氏が魏王朝をつくることから遡及的に功績が認定されたのか(「あったことにされた」のか)。もしくは、ほんとうに活躍が抜群で、(中郎将より下位のひとでは唯一)皇甫嵩伝に特別に書かれるレベルだったのか。できたら、後者であってほしいです。

皇甫嵩に帝位をすすめた閻忠も、後漢を打倒するために「冀州の兵をあつめろ」という。すぐ前に、黄巾の本拠地だったのも冀州で、盧植が手こずった。光武帝と袁紹のあいだに、「群雄」の一員である張角・皇甫嵩を位置づけることができる。皇甫嵩は未遂でしたが。160429

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『范書』列伝第六十一 朱儁伝

財を軽んじて、恩人を救う

朱儁 字は公偉、会稽上虞の人なり。少くして孤となり、母 嘗に繒を販りて業と為す。儁 孝養を以て名を致し、県の門下書佐と為る。義を好み財を軽んじ、郷閭 之を敬ふ。時に同郡の周規 公府に辟され、当に行かんとするに行くに当たりて、郡庫の銭百萬を假り、以て冠幘の費と為す。而して後に倉卒督責するも、規の家 貧にして貧しくして以て備へ備ふること無く、儁 乃ち母の繒帛を竊み、規の為に対を解く。母 既に産業を失ひ、深く恚りて之を責む。儁曰く、「小損は大益に当り、初め貧しくとも後に富むは、必然の理なり」と。

本県長たる山陽の度尚 見て之を奇とし、太守の韋毅に薦め、稍く郡職を歴せしむたり。後に太守の尹端 儁を以て主簿と為す。熹平二年、端 賊の許昭を討つもち利を失ふことに坐し、州の奏する所と為り、応に罪は弃市に応ずせらるべし。

「応」、まさに…すべし。

儁 乃ち羸服して間行し、軽々しく数百金を齎らし京師に到る。主章の吏に賂し、遂に州奏を刊定することを得、故に端 左校に輸作するを得たり。端 降免に喜ぶれども其の由を知らず、儁 亦た終に言ふ所無し。

交州を平定する

後に太守の徐珪 儁を孝廉に挙げ、再び遷りて蘭陵令に除せらる。政に異能有り、東海相の表する所と為る。会々交阯部の羣賊 並び起ち、牧守輭弱にして禁ずる能はず。又 交阯の賊の梁龍ら萬餘人、南海太守の孔芝と与に反叛し、攻めて郡県を破る。光和元年、即ち儁を交阯刺史に拝せしめし、令本郡を過ぎりて家兵を簡募せしめ、及び調する所 合せて五千人に及び、分けて両道より入る。既に州界に到るや、甲を按じて前まず、先に先づ使を遣りて郡に詣らしめ、賊の虚実を観(うかが)はしめ、威徳を宣揚し、以て其の心を震動せしむす。既にして七郡の兵と与に俱に進み之に逼り、遂に梁龍を斬る。降る者 数萬人、旬月にして尽く定まる。功を以て都亭侯に封じ、千五百戸、黄金五十斤を賜り、徴して諌議大夫と為る。

黄巾を平定する

黄巾 起つに及び、公卿 多く儁は才略有るを有りと薦め、拝して右中郎将と為し、持節して、左中郎将の皇甫嵩と与に潁川・汝南・陳国の諸賊を討ち、悉く破り之を平らぐ。嵩 乃ち其の状を上言し、而して功を以て儁に帰せしむす。是に於て進みて西郷侯に封ぜられ、鎮賊中郎将に遷る。

時に南陽の黄巾の張曼成 兵を起こし、神上使と称す。衆は数萬、郡守の褚貢を殺し、宛下に屯すること百餘日。後に太守の秦頡 撃ちて曼成を殺すや、賊 更めて趙弘を以て帥と為し、衆 浸(やうや)く盛んにして、遂に十餘萬となりもて、宛城に拠る。

「遂に十余万、」だけでは気持ち悪いというのは良い。正解は「もて」

儁 荊州刺史の徐璆及び秦頡と与に兵萬八千人を合はせて弘を囲むこと、六月より八月に至るまで抜ず。有司 奏して儁を徴さんと欲す。
司空の張温 上疏して曰く、「昔 秦は白起を用ひ、燕は楽毅を任じ、皆 年を曠(ひさ)しく載を歴(かさ)ねて、乃ち能く敵に克つ。儁 潁川を討ち、功效有るを以て、師を引きて南を指(めざ)し、方略 已に設く。軍に臨みて将を易ふるは、兵家の忌む所なり。宜しく日月を假り假し、其の成功を責(もと)むべし」と。霊帝 乃ち止む。
儁 因りて急ぎ弘を撃ち、之を斬る。

賊の餘帥の韓忠 復た宛に拠り儁を拒ぐ。儁の兵 少なくして敵はず敵(てき)せず、乃ち囲を張りて壘を結び、土山を起して以て城内に臨み、因りて鼓を鳴らして其の西南を攻め、賊 衆を悉くして之に赴く。儁 自ら精卒五千を将ゐ、其の東北を掩(つ)き、城に乗(のぼ)りて入る。忠 乃ち退きて小城を保ち、惶懼して降らんことを乞ふ。司馬の張超及び徐璆・秦頡 皆 之を聴さんと欲す。
儁曰く、「兵 形 同じくして埶 異なる者有り。昔 秦項の際、民は定主無し。故に賞附附(なつ)けるを賞し、以て来らんことを勧むるのみ。今 海内は一統せられ、唯 黄巾のみ寇を造す。

「唯」ときたら「のみ」

らんことを納るれば以て善を勧むる無しく、之を討てば以て悪を懲すに足る。今 若し之を受くれば、更めて更に逆意を開かん。賊は利すればなれば則ち戦ひを進め進み戦ひ、鈍すればなれば則ち降を乞ふ。敵を縦(ゆる)し寇を長ぜしむるは、良計に非ざるなり」と。
因りて急りにぎ攻め、連りに戦ふも剋たず。

儁 土山に登りて之を望み、顧みて張超に謂ひて曰く、「吾 之を知れり。賊 今 外囲は周固にして、内営は逼急、降らんことを乞ふも受けず、出でんと欲すれども得られず、死戦する所以なり。萬人 心を一にせばしてすら、猶ほ当る可からず。況んや十萬をや。其の害は甚し。囲徹(のぞ)き、兵を并せて城に入るに如かず。忠 囲の解けるを見れば、埶として必ず自ら出でん。出づれば則ち意は散じ、破り易きの道なり」と。

「埶として」は、現代語訳で「勢いとして」

既にして囲みを解くや、忠 果して出でて戦ひ、儁 因りて撃ち、大いに之を破る。勝ちに乗じて北に北(に)ぐるを逐ふこと数十里、斬首すること萬餘級。
忠ら遂に降る。而るに秦頡 忿を忠に積み、遂に之を殺す。

餘衆 懼れて自ら安ぜず、復た孫夏を以て帥と為し、還りて宛中に屯す。儁 急ぎ之を攻む。夏は走(のが)れ、追ひて西鄂の精山に至り、又 之を破る。復た萬餘級を斬り、賊 遂に解り散ず。
明年の春、使者を遣はして持節して儁に右車騎将軍を拝せしむ。振旅して京師に還り、以て光禄大夫と為あり、邑五千を増して、更めて銭塘侯に封じ、位特進を加ふ。母の喪を以て官を去る。起家し家より起ちて、復た将作大匠と為り、少府・太僕に転ず。

黒山賊の張燕伝

黄巾賊より後、復た黒山・黄龍・白波・左校・郭大賢・于氐根・青牛角・張白騎・劉石・左髭丈八・平漢・大計・司隸・掾哉・雷公・浮雲・飛燕・白雀・楊鳳・于毒・五鹿・李大目・白繞・畦固・苦唒の徒有り、並びに山谷の間に起ち、勝げて数ふ可からず。其の大なるなる者は雷公を称し、白馬に騎する者は張白騎と為し、軽便なる者を飛燕と言ひ、髭多き者を于氐根と号し、大眼なる者を大目と為す。此の如き称号、各々因る所有り。大なる者は二三萬、小なる者は六七千なり。

賊帥たる常山の人の張燕、軽勇にして趫捷、故に軍中 号して曰く飛燕と。善く士卒の心を得て、乃ち中山・常山・趙郡・上党・河内の諸々の山谷の寇賊と更々_交通し、衆は百萬に至り、号して黒山賊と曰ふ。河北の諸々の郡県、並びに其の害を被り、朝廷 討つこと能はず。燕 乃ち使を遣はして京師に至らしめ、書を奏して降らんことを乞ふ。遂に燕を平難中郎将に拝し、河北の諸々の山谷の事を領せしめ、歳ごとに孝廉・計吏を挙ぐることを得しむ。
燕 後に漸く河内を寇し、京師に逼近す。是に於て儁を出でしめ出して河内太守と為し、家兵を将ゐて撃ち之を却(しりぞ)けしむ。其の後、諸賊 多く袁紹の定むる所と為る。事は紹伝に在り。復た儁を拝して光禄大夫と為し、屯騎に転じ、尋いで城門校尉・河南尹を拝

董卓との対立

時に董卓 政を擅にするや、儁は宿将たるを以て、外は甚だ親しく納れ親納するも、而れども心は実に之を忌む。関東の兵 盛んなるに及び、卓 懼れ、数々公卿を請(まね)きて会議し、都を長安に徙さんとす。儁 輒ち之を止む。卓 儁の己に異なるを悪むと雖も、然れども其の名の重きを貪り、乃ち表して太僕に遷し、以て己の副と為す。使者 拝すれども、儁 辞して受くるを肯ぜず。因りて曰く、「国家 西のかたに遷らば、必ず天下の望に孤(そむ)き、以て山東の釁(すき)を成さん。臣 其の可しき可なるを見ざるなり」と。
使者 詰りて曰く、「君を召して拝を受けしめんとするも、君は之を拒む。徙さんこと事を問はずしてざるも、君 之を陳ぶ。其の故 何ぞや」と。
儁曰く、「相国に副たるとなるは、臣の堪ふる所に非ざればなり。遷都の計、事の急とする所に非ざるなり。堪へざる所を辞し、急に非ざる所を言うは、臣の宜しきなり」と。
使者く、「遷都の事、其の計を聞かず、就て就(たと)ひ有れども未だ露ならず露はれず何ぞ承受する所なるや何れの所にか承受す」と。儁曰く、「相国の董卓 具さに臣の為に説く、知る所以なるのみ」と。使人 屈する能はず、是に由りて止めて副と為さず。

卓 後に関に入り、儁を留めて洛陽を守らしめ、而るに儁 山東の諸将と謀を通じて内応を為さんとす。既にして卓の襲ふ所と為るを懼れ、乃ち官を弃て荊州に奔る。卓 弘農の楊懿を以て河南尹と為し、洛陽を守らしむ。儁 聞き、復た兵を進めて洛に還るや、懿 走す。儁 河南の残破して資する所無きを以て、乃ち東のかた中牟に屯し、書を州郡に移し、師を請ひて請(まね)き卓を討たんとす。徐州刺史の陶謙 精兵三千を遣はし、餘の州郡稍く給する所有り。謙 乃ち儁を上して行車騎将軍とす。董卓 之を聞き、其の将の李傕・郭汜ら数萬人をして河南に屯して儁を拒がしむ。儁 逆(むか)へ撃つも、傕・汜の破る所と為る。儁 自ら敵せざるを知り、関下に留まりて敢て復た前まず。

陶謙にかつがれる

董卓 誅せられ、傕・汜 乱を作すに及び、儁 時に猶ほ中牟に在り。陶謙 儁の名臣にして、数々戦功有るを以て、委ぬるに大事を以て委ぬる可しとす。乃ち諸々の豪桀と共に儁を推して太師と為し、因りて檄を牧伯に移し、同に李傕らを討ち、天子を奉迎せんとす。乃ち儁に奏記して曰く、
「徐州刺史の陶謙、前の楊州刺史の周乾、琅邪相の陰徳、東海相の劉馗、彭城相の汲廉、北海相の孔融、沛相の袁忠、太山太守の応劭、汝南太守の徐璆、前の九江太守の服虔、博士の鄭玄ら、敢て之を行車騎将軍・河南尹の莫府に言ふ。国家 既に董卓に遭ひ、重ねて李傕・郭汜の禍を以て、幼主 劫執せられ劫され執へられ、忠良は残敝し、長安は隔絶し、吉凶を知らず。是を以て官に臨み尹人たると、搢紳の有識と、憂懼せざる莫し。以為へらく、自ら明哲雄霸の士に非ざればざるよりは、曷ぞ能く禍乱を剋済せんか剋(をさ)め済(すく)はんと。兵を起してより已来、茲に于て三年、州郡 転々相 顧望し、未だ奮撃の功有らず、而るに互いに私変を争ひ、更々相 疑惑す。謙ら並びに共に諮諏し、国難を消さんことを議す。僉(み)な曰く、『将軍君侯、既に文にして且つ武、運に応じて出づ。凡百の君子、顒顒とせざるたらざるは靡(な)し』と。故に相 率ゐ厲まし、精悍にして、能く深く入るに堪へたるを簡選し、直ちに咸陽を指し、多く資糧を持し、半歳を支ふるに足らしむ。謹みて心腹を同じくし、之を元帥に委ねんぬ」と。
会々李傕 太尉の周忠・尚書の賈詡の策を用ゐ、儁を徴して入朝せしむ。軍吏 皆 関に入ることを憚り、陶謙らに応ぜんと欲す。
儁曰く、「君を以て臣を召さば、義として駕を俟たず。況んや天子の詔をや。且つ傕・汜は小豎なり、樊稠は庸兒にして、他の遠略無し。又 埶力 相 敵し、変難 必ず作らん。吾 其の間に乗ずれば、大事 済す可し」と。遂に謙の議を辞して傕の徴に就き、復た太僕と為る。謙ら遂に罷む。

李傕・郭汜に殺される

初平四年、周忠に代はりて太尉・錄尚書事と為る。明年の秋、日食を以て免ぜられ、復た行驃騎将軍事となりたりて、持節して関東を鎮す。未だ発せざるにずして、会々李傕は樊稠を殺し、而して郭汜も又 自疑し、傕と相 攻め、長安中_乱れ、故に儁 止まりて出でず、留まりて大司農を拝す。献帝 詔して儁と太尉の楊彪ら十餘人をして郭汜を譬し、李傕と和せしむ。汜 肯ぜず、遂に留めて儁らを質とす。儁 素より剛にして、即日 病を発して卒す。
子の晧、亦才行有り、官は豫章太守に至る。

論・賛

論に曰く、皇甫嵩・朱儁 並びに上将の略を以て、脤を倉卒の時に受く。其の功 成り 剋つに及び、威声は天下に満つ。弱主の塵を蒙り、獷賊 命を放にするに値り、斯れ誠に葉公袂を投ずるの幾、翟義に鞠(つ)ぐるの日、故に梁衍は規を献じ、山東は盟を連ぬるも、而れども格天の大業を舍て、匹夫の小諒を踏み、卒に虎口に狼狽し、智士に笑はる笑ひと為る。豈に天の斯の乱を長ぜしめんとするや。何ぞ智勇の終はらざること甚しや。前史に、晋の平原の華嶠 称すらく、其の父の光禄大夫たる表、毎に其の祖たる魏の太尉の歆を称せりと言ふ。
「時人は皇甫嵩の伐たず伐(ほこ)らざるを説き、汝豫の戦、功を朱儁に帰し、張角の捷、之を盧植に本づけ、名を斂策に收め、而して己は有せずと。蓋し功名は、世の甚だ重んずる所なり。誠に能く天下の所甚だ重しとする所を争わざれば、則ち怨禍 深からず」と。如し皇甫公の赴きて危乱を履みて、而して能く終はりて以て終に以て全に帰すればる者の如きは、其の致 亦た貴からざるや。故に顔子 善に伐らざるを先と為さんことを願ふ。斯れも亦た行身身を行ふの要なるか。

賛曰:黄妖 衝発し衝きて発し、嵩 乃ち鉞を奮ふ。孰か是れ振旅せる。居らず伐たず。儁 陳・潁に捷ち、亦た於越を弭(とど)む。言に王命を肅み、並びに屯蹷に遘ふ。160430

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