曹魏 > 『資治通鑑綱目』魏文帝期を、『通鑑』と比較して読む

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延康元年、魏主の丕が、帝から簒位する

『資治通鑑綱目』を読みます。
朱子サマの書いた「綱」を、大文字で太字とします。「目」をふつうの文字。割り注やぼくのコメントは、灰色のワクに囲んでいます。
『資治通鑑』は『通鑑』、『資治通鑑綱目』は『綱目』、陳寿『三国志』は陳志、范曄『後漢書』は范書、と略称で書いています。

二十五年

魏文帝の曹丕、黄初元年である。この歳、(曹丕が)僭国す。
【考異】別の版本では、「二十五年」を「延康元年」につくる。この歳が改元されるからであり、范書・陳志にある。もし曹丕が王を嗣いだときに改元するなら、(年初時点では、曹操が存命だから)「二十五年」とすべきである。
(歴史を記述する)例によれば、(曹魏にように)僭国の大なる者は、(『資治通鑑綱目』に)朱色で国名・諡号・姓名・年号を注記する。もしも、墨色で「元年」と書くなら(漢の延康元年を意味するはずなので)、「魏文帝曹丕黄初」の七字を、分けて注釈すべきである。のちの呉・晋(孫呉・西晋)は、朱書きなのだから、魏も斉しくすべきだ。
ぼくは思う。この歳は、建安二十五年=延康元年=黄初元年である。この「元年」が、漢の延康なのか、魏の黄初なのかで、書き方が代わるべきである。『綱目』では、曹魏が正統ではない。だから、魏のために「黄初元年」と、朱子サマが地の文を書くはずがないのだ。


春正月、丞相・冀州牧・魏王の曹操が、洛陽に還り至るや、卒す。太子の丕 立つ。

【考異】即位の例によれば、凡そ僭国する者は、始めて「王」を称して世を継ぐとき、「嗣」と記すべきである。(曹魏末の)咸熙二年、魏の晋王である司馬昭が卒すると、太子の司馬炎が「嗣」いだとある。いま曹丕の場合、「立」と書いて「嗣」と書かない。蓋し伝誤である。
文帝紀には、「二十二年、為魏太子。太祖崩、嗣位為丞相魏王」とある。これを見て、目が滑って、朱子サマは「立」をひろったのだろう。

自ら丞相・冀州牧と為る。

曹操は人を知り、善く察し、…是に至り、薨ず。

曹操の人物評が述べられる。はぶく。

太子の丕 鄴に在り。鄢陵侯の曹彰

鄢陵は、周郝王の三十六年の注に見える。

長安より来趣して、璽綬の所在を問ふ。諌議大夫の賈逵 色を正して曰く、「国に儲副有り。先王の璽綬 君侯の宜しく問ふべき所に非ず」と。
凶問 鄴に至り、群臣 聚まりて泣き、復た行列すること無し。

「行列」とは、「班行序列 旧儀を按ぜざる」を謂ふ。
ぼくは思う。『通鑑』は、群臣ではなく、「太子 号哭して已まず」とする。曹丕の「孝」を表現しない。つぎの司馬孚の発言を、曹丕ではなく、群臣の収拾を付けるものとして読み換える。

太子中庶子の司馬孚

古には太子には、「庶子」の官があった。秦は「中庶子」を置いた。のちの『百官志』によると、太子中庶子は、三署中郎の如し。
ぼくは思う。『通鑑』は「中庶子」とだけあり、『綱目』が補う。

声を励まして朝に曰く、

ぼくは思う。『通鑑』も、『晋書』司馬孚伝も、まず政務が手につかない曹丕を諌めてから、つぎに朝臣に諭す。曹丕を相手にしたセリフが省略されてる。

「君王 晏駕し、

ぼくは思う。「君王 晏駕し」だけは、司馬孚が曹丕に向けたセリフから借りている。確信犯的に、曹丕の孝子としての哀しみと、司馬孚から曹丕への諫言をカットしている。

天下 震動す。当に早く嗣君に拝し、以て万国を鎮むべし。但だ哭くのみならんや」と。乃ち群臣を罷めしめ、禁衛を備へ、喪事を治めしむ。孚は、懿の弟なり。

群臣 以為へらく、「太子 即位するに、当に詔命を俟つべし」と。

ぼくは思う。「まつ」は、『通鑑』の「須」から「俟」に書き換えてある。

尚書の陳矯曰く、「王 外に薨ずれば、

ぼくは思う。ここで、『通鑑』にある「天下 惶懼す。太子 宜しく哀を割して即位し、以て遠近の望を系ぐべし。且つ又」をストンと抜き、文章をつなぐ。

愛子 側に在り。彼此 変を生ずれば、則ち社稷の危なり」と。即ち官を具へ礼を備へ、一夕にして弁ず。明旦、王后の令を以て、太子に策して王位に即け大赦す。

ぼくは思う。『通鑑』は「漢帝」とある。すでに魏紀に章が変わっているから。しかし『綱目』は、まだまだ漢代だから、「漢」とわざわざ修飾する必要がないのだ。

尋いで御史大夫の華歆を遣りて策詔を奉ぜしめ、太子に丞相の印綬・魏王の璽綬を授け、冀州牧を領せしむ。王后を尊びて王太后と曰ふ。武王を高陵に葬る。

『通鑑』は、「延康と改元す」とある。これは、漢の改元だから、『綱目』でも書いても良さそうだが、書かれない。
ぼくは思う。『通鑑』では、武王(曹操)を葬るのは、二月である。いま、面倒くさいから、『綱目』は記事を合わせて、つっこんだ。曹魏への悪意に溢れているw


二月朔、日食あり。魏 賈詡を以て太尉と為し、華歆を相国と為し、王朗を御史大夫と為す。魏王丕、其の弟たる鄢陵侯の彰らをして、皆 国に就かしむ。
丕 其の弟をして、皆 国に就かしむ。

ぼくは思う。曹丕が呼びすて。目新しいw

臨菑の臨国謁者の灌均、

謁者は、高帝七年の注に見える。

希指して奏すらく、「臨菑侯の植 酒に酔ひて悖慢たり、使者を劫脅す」と。丕 植を貶めて安郷侯と為し、其の党たる丁儀・丁廙 並びに其の男口を誅す。

『通鑑』に、「右刺奸掾たる沛国の丁儀及び弟の黄門侍郎の廙 並びに其の男口を誅す。皆 植の党なり」とある。これを短くまとめてる。


魏 法を立つ。自今、宦者 官は諸署令を過ぐるを得ず。
金策を作り、之を石室に蔵す。

魏 九品法を立て、州郡に中正を置く。
尚書の陳羣、天朝の選用 人才を尽さざるを以て、乃ち九品官人の法を立つ。州郡 皆 中正を置く。識鑑有る者を択びて之と為し、人物を区別し、其の高下を第す。

夏六月、

『通鑑』は涼州の戦果を記すが、『綱目』はガン無視する。

魏王丕、南巡して譙に至り、軍士・父老を大饗す。
丕 譙に至り、六軍及び譙の父老を邑東に大饗し、伎楽・百戯を設け、吏民 寿を上り、日夕して罷む。
孫盛曰く、三年の喪、天子より庶人に達す。三季の末、

世の末を「季」という。三季とは、夏・殷・周の末期のこと。
ぼくは思う。「三季の末」は、馬から落馬してるじゃないか。

七雄の敝(戦国時代)、未だ廃るること有らず。漢文の古制を変易するに逮び、

(前漢)文帝の後七年、喪を短くするを遺詔し、日を以て月に易ふ。

人道の紀、一旦にして廃る。固より已に道 薄し。当年、風 頽れて百代なり。魏王 哀に処して宴楽を設け、(治世の)始に居りて基を堕化せしむ。受禅に至るに及び、二女を顕納す。是に以て、王齢の遐ならず、卜世の期 促なるを知るなり。

裴注に基づき、分かりやすく改めてある。孫盛は、何を言ってるか分かりにくいから、『綱目』のお手柄である。
曹丕が、ろくに曹操の死を悲しまない、という批判をするために、上の司馬孚の諫言を省いたのだ。群臣は悲しんでいるが、曹丕はドンチャンと騒いでる。早死にして当然だろ、と。


漢中の将 孟達、上庸を以て魏に降る。
益州将軍の孟達

『通鑑』は、「蜀の将軍」孟達である。献帝が在位のあいだ、劉備の政権は、「益州」と呼ばれる。朱子サマは、孟達の属性を「漢中の将」とする。孟達は扶風の出身だから、これは出身を言ったのではなく、「漢中王の将」の意味である。蜀漢の正統論者も、苦労するなw

上庸に屯し、副軍中郎将の劉封と協はず。部曲を率ゐて来降す。達 容止・才観有り、曹丕 之を愛し、引きて与に同輦し、房陵・上庸・西城の三郡より合せて新城と為し、達を以て新城太守を領せしむ。

『通鑑』のテキストを、ざくざく削ってるが、内容は同じ。

劉曄曰く、「達 苟得の心有り、而るに才を恃みて術を好み、必ず恩を感じて義を懐くこと能はず。新城 孫・劉と接連す。若し変態有れば、国の為に患を生まん」と。王 聴かず。将軍の夏侯尚・徐晃を遣はし、達とともに劉封を襲はしむ。封 敗走して成都に還る。
封 本は寇氏の子なり。漢中王の備 荊州に至り、未だ継嗣有あらざるを以て、之を養ひて子と為す。諸葛亮 其の剛猛たるを慮り、易世の後、終に制御し難しとす。に勧め、此に因り之を除く。遂に封に死を賜はる。

いま『綱目』は、赤字のところを「備」とするが、『通鑑』は「漢中王」となっている。名分をキッチリ正している朱子学では、献帝が在位するうちは、劉備はただの地方政権で、正統性とは無縁。献帝が退位した瞬間から、劉備は正統な人物となる。
『通鑑』のほうが、フラットに、変なコダワリがなく書いていて、すんなり読める気がする。


賈逵を以て、豫州刺史と為す。
時に天下 初めて定まり、刺史 多く郡を摂る能はず。
逵曰く、「州 本は六條の詔書を以て

六条の内容、刺史の勤務ルールが書かれている。ここを見れば分かる、というメモだけを残しておきます。

二千石より以下を察す。故に其状 皆 厳能・鷹揚を言ひ、

漢帝の延熹元年の注に見えるそうです。

督察の才有り。……丕曰く、「逵こそ真の刺史なり」と。天下に布告し、当に豫州を以て法と為すべしと。逵に爵 関内侯を賜ふ。

『通鑑』を抜粋なので、はぶきます。


冬十月、魏王の曹丕 皇帝を称し、帝を廃して山陽公と為す。
左中郎将の李伏・太史丞の許芝 言く、「魏 当に漢に代はるべきこと、図緯に見はる。

注は順帝の陽嘉三年に見える。

魏の群臣 因りて表し、丕に簒位を勧む。

『通鑑』は、「王に天人の望に順はんことを勧む」とある。この改変は、笑ふ可し、笑ふ可しw

是の至り、帝 乃ち高廟に告祠し、使をして持節して璽綬・詔冊を奉ぜしめ、魏に禅位せしむ。魏王 上書して三たび譲し、乃ち壇を繁陽に為る。

史□『通鑑釈文』には、繁陽とは魏の郡邑とある。
徐広曰く、頓丘にある。
或ひと曰く、曹丕が即位したのは、ここではない。『左伝』襄公四年、樊師が繁陽に在った。『左伝』の注釈に、繁陽とは汝南の□陵県の南とする。この『左伝』の注釈が正しいだろう。
ぼくは思う。ほんとうにそうか?

升りて璽綬を受け、皇帝の位に即き、天地を燎祭し、黄初に改元して大赦す。

『通鑑』では、ここで十一月に変わる。陳志も同じ。


漢帝を奉じて山陽公と為し、天子の礼楽を用ゐしむ。武王に追尊して武皇帝と曰ふ。廟を太祖を号す。王太后を尊びて皇太后と曰ふ。相国を改めて司徒と為し、御史大夫を司空と為す。山陽公 二女を奉じて以て魏に嬪せしむ。

『尭典』で、二女を虞舜に嫁がせるのに基づく。
革命にあたる制度改革などは、『通鑑』をザクザク削ってある。


魏主の丕 正朔を改めんと欲す。

出た!革命後は、曹丕は「魏主」と呼ばれますw
『公羊伝』に「隠公元年、王正月」とある。何休学はいう。王者が受命したら、必ず正朔を改めて、天より受けたことを明らかにす。もし(天より)受ければ、人より受ける。夏が斗建(北斗七星の指し示す方角)の寅なる月を以て正(正月)とし、平旦(の時刻)を朔とした。殷は、斗建の丑なる月を以て正とし、鶏鳴(の時刻)を朔とした。周は、斗建の子なる月を以て正とし、夜半(の時刻)を朔とした。
勉強しないと、意味ちゃんと分かってないです。

侍中の辛毗曰く、「孔子曰く、『夏の時を行ふ』と、『左氏伝』に曰く、『夏数 天を得たり』と。何ぞ必ず相反するを期すか」と。丕 之に従ふ。

『通鑑』で辛毗は、「魏氏 舜・禹の統に遵ひ、天に応じて民に順ふ。湯・武に至るまで、戦伐を以て天下を定め、乃ち正朔を改む。孔子曰く、『夏の時を行ふ』と、『左氏伝』に曰く、『夏数 為に天正を得たり』と」という。
『綱目』ほどに省略しても、同じ内容のことを言えるのなら、省略のお手本のような記事。


魏主 太后の父母を追封せんと欲す。陳羣 曰く、「創業・革制し、当に後式と為るべし。礼典を案ずるに、婦 夫の爵に因り、分土無しと。命爵の制、秦 古法に違ひ、漢氏 之に因る。先王の令典に非ざるなり」と。丕曰く、「尚書の議 是なり。其れ定制を著し、之を台閣に蔵せ」と。

『通鑑』で地の文になってることが、曹丕の命令のセリフのなかに組み込まれていたり、ちょいちょい改変がある。だが内容は同じ。「内容の同一性を最低限は担保しながら、簡潔となるよう、要約しながら書き写す」という作業をしてることが分かる。


魏主丕 侍中の蘇則に謂ひて曰く、「西域 前に徑寸の大珠を献ず。復た市に求めよ。得るや不や」と。対へて曰く、「化 中国に洽く、

『通鑑』に「陛下の化」とあるが、曹丕を「陛下」と呼びたくない。かと言って、直接話法を改変するのはおかしい。魏のなかでは、たとえそれが僭称でも、臣下が曹丕を「陛下」と呼ぶだろう。。という葛藤を経て『綱目』は、「陛下の」を切り取った。

徳 沙幕に流るれば、即ち求めずとも自ら至る。求めて之を得れば、貴とするに足らず」と。帝 嘿然たり。

このあたり、曹丕に関するエピソードを、『通鑑』から増やすことなく、『通鑑』から減らしながら、箇条書きのように紹介してゆく。曹丕が、僭越だったり、礼制を破ったり、政治の判断を誤ったりする話がおおい。
というか、『通鑑』が選択的にそういう話を引いてる。だから、とくに『綱目』が作為を振るわなくても、曹丕が残念な君主の印象になる。というか、陳志の時点で、すでに曹丕は、残念な君主として描かれてるのかも。文飾が難しいから気づかないが、『綱目』までシンプルにすると分かる。


魏王丕 蒋済を召して散騎常侍と為す。時に詔 征南将軍の夏侯尚に賜るもの有りて曰く、「卿 腹心の重将なり。特に当に使に任じ、威を作して福を作し、人を殺して人を活かすべし」と。尚 以て済に示す。済 至り、丕 以て聞見する所を問ふ。対へて曰く、「未だ他善有らず。但だ亡国の語を見るのみ」と。丕 忿然として色を作して其の故を問ふ。済 具さに以て答へ、因りて曰く、「夫れ『威を作して福を作す』とは、『書』の明誡なり。天子に戯言無し。惟だ陛下 之を察せよ」と。丕 即ち遣はして前詔を追取す。

十二月、魏主丕、洛陽宮に如き、宮室を営す。魏 冀州の士卒の家を徙し、河南を実たしむ。 魏主丕 冀州の士卒 家十万戸を徙して河南を実たさんと欲す。時に天 旱・蝗あり、民 飢え、群司 以為へらく不可なりと。而るに丕の意 甚だ盛んなり。
侍中の辛毗 見ゆるを求む。丕 色を作して以て之を待たしめて曰く、「卿 我 之を徙すこと非なりと謂ふや」と。毗曰く、「誠に以為へらく非なり」と。

『通鑑』のセリフを削りながら、内容の同一性は担保。

帝曰く、「吾 卿と与に議せず」と。毗曰く、「陛下 臣を謀議の官に置く。安にか能く臣と与に議せざるや。臣の言ふ所 私に非ず、乃ち社稷の慮なり。安んぞ臣を怒らしむを得るか」と。丕 答へず、内に入る。毗 隨ひて其の裾を引き、丕 遂に衣を奮ひて還らず。……141010

以下、『通鑑』をより短くしてるだけ。

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章武元年、漢中王が帝に即位する

昭烈皇帝の章武元年

魏の黄初元年。
【考異】歳年の例を案ずるに、凡そ正統を大書す。この歳の四月に、昭烈皇帝が即位するから、歳の記事の初めに、「章武元年」と大書しているのである。

春正月、魏 孔羨を宗聖侯に封ず。
孔子の祀を奉ぜしむ。
魏 五銖銭を復す。

夏四月、漢中王 皇帝の位に即く。

蜀中 伝言す、「帝 已に害に遭ふ」と。是に於て漢中王 喪を発して服を制し、謚して孝愍皇帝と曰ふ。群下 競ひて王に尊号を称へよと勧む。
司馬の費詩 上疏して曰く、「殿下 曹操の父子 位を篡ふを以て、故に乃ち万里を羈旅し、士衆を糾合し、将に以て賊を討たんとす。今 大敵 未だ克たずして先に自ら立てば、人心の疑惑するを恐る」と。

『通鑑』は、「昔 高祖 楚と約し……」とつづく。

王 悦ばず、之を左遷す。

『通鑑』の「部永昌従事と為す」をはぶく。というか、費詩に限らず、臣下が登場するとき、『通鑑』は官名を記すが、『綱目』は省くことがおおい。

遂に皇帝の位に武担の南に於いて即く。

武担は、山の名であり、もとの名を武都。成都の北 二百歩にある。『蜀記』によると、、とか、地名の説明がある。

大赦し、章武と改元す。諸葛亮を以て丞相と為し、許靖を司徒と為す。

司馬公曰く、

ここから、歴史叙述はいちど措いて、正閏論について述べられる。『綱目』の重要なポイントなので、やや丁寧に読みます。司馬光からの引用が、どのように取捨選択されているか、のほうが見たいので、『通鑑』から省かれた部分を、見えるように消します。

臣光曰:天生烝民,其勢不能自治,必相與戴君以治之。苟能禁暴除害以保全其生,賞善罰惡使不至於亂,斯可謂之君矣。是以三代之前,海内諸侯,何啻萬國,有民人・社稷者,通謂之君。合萬國而君之,立法度,班號令,而天下莫敢違者,乃謂之王。王德既衰,(強大之國)〔方伯・連帥〕、

『綱目』は、『王制』によると、方伯とは、、連帥とは、、と注釈が入ってる。もともと司馬光が「強大の国」としか言わないのに、「方伯・連帥」と言い換えて、しかも長々と説明をつける。よほど、『王制』をひいて、わざわざ説明を加えたかったに違いない。マッチポンプという言葉を、これからは別名で、「追記・注釈」とよぼう。

能帥(諸侯)〔其属〕以尊天子者,則謂之霸。古天下無道,諸侯力爭,或曠世無王者,固亦多矣。秦焚書坑儒,興,(學者始)〔儒雅〕推五德生勝,以秦為閏位。

【考察】秦はもとは西戎であり、閏位なので、周を継がない。周は木徳で、漢は火徳である。『漢書』律暦志によると、共工氏は水徳であり、火徳と木徳の間にあるが、順序が正しくない。秦は水徳であり、周の木徳と漢の火徳にあり、やはり(共工氏と同じく)五徳の序列に正しくない。ゆえに秦は閏位なのである。
『漢書』王莽伝の賛に、「秦と王莽は、どちらも竜を穴うめ、気を絶やして、命運は紫色としたから、閏位である」とある。注釈に、「呂氏(呂不韋)の秦、主は、どちらも徳がなく、高い位にあっても、天命の運を受けていなかった」とする。どちらも正統の位を得ていない。歳月の余分のようなもので、閏位なのである。
ぼくは思う。以上が、司馬光に対する『綱目』の解説。


在木火之間,霸而不王,於是正閏之論興矣。及漢室顛覆,三國鼎跱。晉氏失馭,五胡(雲擾)〔乱〕。

三国とは、漢・魏・呉である。漢!

宋、魏以降,南北分治,各有國史,互相排黜,

「彼此 貶斥す」といい、司馬の原文を、割り注として引用。
「南謂北為索虜,北謂南為島夷」と。

朱氏代唐,

後梁の朱晃(朱全忠) 唐の禅を受く。

四方幅裂,朱邪入汴,

後唐の荘宗たる李存勗は、本姓を「朱耶」という。汴城に入城して後梁を滅ぼした。

比之窮・新,

「窮」の注釈は、晋成帝の咸康七年にある。「新」は王莽の国号である。

運歷年紀,皆棄而不數,此皆私己之偏辭,非大公之通論也。

正統性がない王朝は、年号を記さない。
ぼくは思う。司馬光は、これゆえに、蜀漢の年号を無視して、曹魏の年号をつかって『通鑑』を書いた。しかし『綱目』は、おなじ考え方に基づき、曹魏の年号を無視した。その態度の表明が、つぎに始まる。


臣愚誠不足以識前代之正閏,竊以為苟不能使九州合為一統,皆有天子之名,而無其實者也。雖華夷仁暴,大小強弱,或時不同,要皆與古之列國無異,豈得獨尊獎一國謂之正統,而其餘皆為僭偽哉!若以自上相授受者為正邪,則陳氏何所受?拓跋氏何所受?若以居中夏者為正邪,則劉、石、慕容、苻、姚、赫連所得之土,皆五帝、三王之舊都也。若有以道德者為正邪,則蕞爾之國,必有令主,三代之季,豈無僻王!是以正閏之論,自古及今,未有能通其義,確然使人不可移奪者也。臣今所述,止欲敘國家之興衰,著生民之休戚,使觀者自擇其善惡得失,以為勸戒,非若《春秋》立褒貶之法,拔亂世反諸正也。正閏之際,非所敢知,但據其功業之實而言之。周、秦、漢、晉、隋、唐,皆嘗混壹九州, ゆえに今、この書物では、周・漢・晋・隋・唐を「正統」となす。

ざっくり削った上に、司馬光を無視して、『綱目』が「正統」の語を持ち出した。

傳祚於後,子孫雖微弱播遷,猶承祖宗之業,有紹復之望,四方與之爭衡者,皆其故臣也,故全用天子之制以臨之。其餘地丑德齊,莫能相壹,名號不異,本非君臣者,皆以列國之制處之,彼此鈞敵,無所抑揚,庶幾不誣事實,近於至公。然天下離析之際,不可無歲、時、月、日以識事之先後。

『綱目』が『通鑑』を抜粋したところを和訳する。
子孫が微弱であって、遷都しても、なお祖宗の業を承けているなら、四方でこれ(正統な王朝の天子)と争衡する(閏統の)者は、もとはその(正統な王朝の天子の)臣である。ゆえに、(閏統の者も、もとの君主と同じく)天子の制を用いて、本(もとの君主)から離折する。はじめから君臣という関係になければ、列国の制という形態をとる。
ゆえに、歳時・月日で(列国が並列されれば)、事の先後を識ることができない。

據漢傳於魏而晉受之,晉傳於宋以至於陳而隋取之,唐傳於梁以至於周而大宋承之,故不得不取魏、〔晉〕、宋、齊、梁、陳、後梁、後唐、後晉、後漢、後周年號,以紀諸國之事,非尊此而卑彼,有正閏之辨也。昭烈之漢,雖云中山靖王之後,而族屬疏遠,不能紀其世數名位,亦猶宋高祖稱楚元王後,南唐烈祖稱吳王恪後,是非難辨,故不敢以光武及晉元帝為比,使得紹漢氏之遺統也。

『綱目』に残ったところを和訳する。
漢は魏に、魏は晋に、晋は南朝宋に譲った。隋は南朝陳を取り、唐は梁に伝え、(五代十国を経て)周に到り、大宋は周から譲られた。ゆえに、その年号を記述につかい、その国の事非を記す。
ある一方を尊び、もう一方を卑しむのが、正閏の弁である。昭烈(劉備)は、中山靖王の子孫であるが、その世次(系譜)を記すことができない。これは、南唐が、呉王恪の子孫を称したのと同じである。ゆえに敢えて、これ以後、後漢・東晋と比較することなく、(後漢・東晋のように系譜が明らかな王朝と同じように、『資治通鑑綱目』では、劉備が)漢氏の遺統を継承したとする
ぼくは補う。劉備の血筋が不明確だが、後漢の劉秀や、東晋の司馬睿と同じように扱うと。劉備と南唐の烈祖は、『綱目』では「異なること無し」とする。これは、わざわざ断わる必要があったことだ。『通鑑』では、「弁じ難し」とする。『通鑑』が持っていた、血筋を否定する言葉をけずり、やんわり肯定する。
『通鑑』の原義では、これ以後、後漢・東漢と比較することなく、(後漢・東晋のように系譜が明らかな王朝と同じように、せいぜい蜀漢の当事者たちは、劉備が)漢氏の遺統を継承したとする。下線部は、上と対応してます。
さっき『綱目』の筆者は、史実としては、後漢から曹魏に禅譲が行われた、と書いた。しかし、『綱目』の論法では、漢魏革命は劉備によって漢氏の遺統が継承されているから、無効である。


孫権 治を武昌に徙す。
孫権 公安自り徙りて鄂に都し、名を更めて鄂を武昌と曰ふ。

『資治通鑑』の原文を省略して、朱子サマが綱を書く。これに、『通鑑』の原文そのままを引用して、目=注釈とする。二度手間、三度手間、である。


宗廟を立て、高皇帝より以下を祫祭す。五月、立夫人呉氏為皇后。立子禅為皇太子。

【考異】宗廟を立つるは、上は当に□□を以てすべし。
ぼくは思う。【考異】の字がつぶれてて、読めません。『通鑑』には、蜀漢が宗廟を建てる記事がない。後主伝にもない。どこかの、政策提案のなかから、拾ってきたか。

互氏は将軍 呉懿の妹で、もとは劉璋の兄の劉瑁の妻である。

六月、魏 夫人の甄氏を殺す。魏 太祖を建始殿に祀る。是の月の晦、日食あり。

『通鑑』を削りながら、目が書かれるだけ。引用しない。
ぼくは思う。呼吸するように情報量が変動する。諸史料を陳寿が削り、裴松之が増やし、『資治通鑑』が削り、『資治通鑑綱目』がもっと削り、これらに基づき『三国演義』ができる。李卓吾本は正史をもとに情報を増やし、『通俗三国志』や毛宗崗本は、また削る。『通俗三国志』を見た吉川英治は物語を増やし、、と。
『資治通鑑綱目』の特徴として着目したいのは、蜀漢を正統とするところではない。『資治通鑑』よりもさらに情報が整理・精選されてるところ。『三国演義』のような長編を作りたければ、『資治通鑑綱目』を見たほうが便利。朱子学のお墨付きもあり、依拠しない手はない。
蜀漢を正統とする『綱目』は、劉備を讃美する記事があるのではない。あくまで『通鑑』のダイジェスト版である。ただ、年号に蜀漢のものを使い、君主の呼称を改変するだけ(曹丕は「魏主」、劉備は無印の「帝」)で、内容は『通鑑』に準拠する。『演義』の劉備びいきを、『綱目』が由来とするのは難しい。ただ、蜀漢を正統≒主人公とする、という点を強調するのは、ヤリスギだと思う。


秋七月、帝 自ら将ゐて孫権を伐つ。車騎将軍の張飛 其の下に殺さる。孫権 和を請ふとも許さず。遂に陸遜を遣わし、諸将を督して拒守せしむ。

朱子サマによる綱だけを、書き下しています。


魏 陵雲台を築く。
八月、孫権 使を遣はして魏に降る。魏 権を封じて呉王と為す。孫権 武昌を城く。
冬十月、魏 楊彪を以て光禄大夫と為す。魏 五銖銭を罷む。孫権 使を遣はして魏に如かしむ。魏 使を遣はし、珍物を孫権に求む。孫権 子の登を立てて太子と為す。魏 護鮮卑・烏桓校尉を措く。

なんだか、めぼしい記事がなくなってきた。『資治通鑑綱目』を読もうという企画は、もう終わりにしようか。
2年後の記事で、朱子サマは、劉禅を「後主」と書く。目の注によると、「_主」と書くのは、正統でない君主を表現するとき。たとえば、「魏主の丕」とか。朱子は、蜀漢を正統とするはずが、これまでの史書を改めることなく、「後主」と書いたと。劉備を「昭烈」と書いたことと、一貫しない。
ぼくは思う。朱子は、劉備を持ち上げるというよりは、漢魏革命を疑う意図がつよかった。おそらく、曹操への批判が、つよくある。いきなり、曹丕のところだけ読んでも、分からないかも。漢魏革命がすみ、劉備が死んでしまえば、もう蜀漢の年号をつかうという既定路線は固まっており、正閏論から関心がそれたのかも。劉禅が、どうでもいい君主だから、なおのこと、扱いがザツになった。


…後主四年…夏五月、魏主の丕 卒す。141011

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