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1節 経済基盤としての州

16年11月から勤務地が変わり、通勤電車の時間が長くなったので、やっと読めました。今年の『三国志研究』。柿沼先生のご論文がおもしろかったので、自分で史料を確認して、追いかけてみます。

柿沼陽平「漢末群雄の経済基盤と財政補填策」(『三国志研究』第十一号、三国志学会、2016年)

ご論文に対して、なにか意見があるとかではなく、自分の史料の読み方に、けっこう見落としが多いような気がするので、「新事実」に気づいたことを、メモっていきます。紀伝体や、本文と注釈があるという複雑な構成って、こういう「見落とし」が起きやすい記述形式なので、自分にとっての「新発見」が起きるものです。あわせて、先生の思考の推移を追いかけることで、勉強になればいいなあと思います。
161120時点で、まだ『三国志研究』十一号は、ネット(中国・アジア論文データベース)に上がってないみたいです。つたない&ミスばかりの抜粋ではありますが、ご論文の内容に、このページを通じて、触れていただく方が増えればとも思います。

はじめに

董卓と反董卓の対立が鮮明化した中平六(189)年末から、曹操が河北を統一した建安十二(207)年は、群雄から曹操が突出し、中原を再統一する過渡期。便宜的に「群雄割拠期」とよぶ。
群雄が士人や軍隊を擁するには、金銭・穀物・衣料の定期収入の見こめる経済基盤が必要不可欠。群雄のおもな経済基盤は、州に求められるが、州長官でなくとも、しだいに台頭したものもいる。

1節 経済基盤としての州

王朝安定期には、中央高官が政治を左右する。しかし中央高官は、人口・土地を委ねられておらず、乱世には有利でない。189年の時点で、中央軍はすでに形骸化していた。石井仁「無上将軍と西園軍 後漢霊帝時代の「軍制改革」」(『集刊東洋学』第七六号、1996年)。并州牧の董卓の軍事力に抗しうる中央高官はいない。
188年以後、州長官が、軍事・司法・民政の実務や、郡県の税収を管掌。
石井仁「漢末州牧考」によれば、後漢末の州牧は、州刺史の行政監察権と、監軍使者(=使持節・督(監)州軍事)の軍事監察権をあわせもち、さらに軍政・軍令権(将軍号)を帯びて、軍事機構を形成した。
植松慎悟「後漢末の州牧と刺史について」によると、後漢末には、州刺史も人事・財政・軍事(徴兵権など)の権限を有した。

188年以後は、と限定するのは、劉焉による州牧設置の献策の時期か。

州の軍事について、かりに「節」を帯びたものが中央から派遣されると、兵権が一時的に委譲される場合もあったはず。大庭脩「後漢の将軍と将軍仮節」(『秦漢法制史の研究』)。そのときも、州長官の経済的自立性は、失われなかった。州の税収こそ、群雄の継続的かつ合法的な経済基盤たりえた。
万斯同「三国漢季方鎮年表」、厳耕望『両漢太守刺史表』に整理がある。

董卓による政権掌握

後漢末の群雄が、いかに州を支配するにいたったか。
後漢には察挙と辟召があり、おもに儒学的素養や能力を審査基準とする。こうして得られる官途の先に、州長官もある。後漢中期以降、州郡長官は、とくに尚書の意向に左右された。紙屋正和「後漢時代における地方行政と三公」(『漢時代における郡県制の展開』)。売官も横行した。儒学的な素養よりも、金銭の多寡が評価基準となった

189年、并州牧の董卓が実権を握ると、董卓が人事を専断した。『范書』董卓伝・『陳志』董卓伝。こうして、儒学的素養のないものも着任できるようになった。董卓に従順なものが抜擢された。
万単位の正規兵を動員できたのは、一部の持節領護官をのぞけば、州郡長官に限られる
。董卓の命令で州長官になったものが、群雄割拠期への道をひらく。州長官の地位をめぐって争い、基本的に支配下の郡県による軍糧補給を支えに、軍事行動をとる。
州長官と郡長官は、制度上、君臣関係にない。状況次第で、離合集散する。たとえば、兗州牧の曹操が、陳留太守の張邈に裏切られたとき、3県をのぞいて降伏。范県令は、曹操と君臣関係になく、曹操を裏切っても非難される謂われはなかった。『陳志』程昱伝と同注引『評』。

程昱伝は、程昱が3県をめぐり、范県令の靳允を説得した。注引に「徐衆評曰。允於曹公、未成君臣」と、徐衆によるコメントがついている。

州長官の任命権は、尚書などの中央官がもった。実際には、群雄が推挙し、中央の承認をへずに赴任させる例がおおい。複数の任官者が競合する結果をまねいた。

州長官たちの動向

189年、并州牧の董卓が皇帝を擁した。司隷校尉の宣播は、董卓の命に服した。『范書』袁紹伝 注引『献帝春秋』。

史料を探してると、「宣播」「宣璠」と表現が揺れていて、ちょっと大変。『范書』袁紹伝に「獻帝春秋曰、太傅袁隗・太僕袁基、術之母兄、卓使司隸宣璠盡口收之」とあり、董卓の命令にしたがって、袁紹・袁術の親族を捕らえている。『范書』楊彪伝に「卓使司隸校尉宣播以灾異奏免琬、彪等,詣闕謝,即拜光祿大夫。」とあり、董卓による東遷に反対した黄琬・楊彪を、宣播が罷免した。『范書』董卓伝によると、長安で「卓諷朝廷使光祿勳宣璠持節拜卓為太師,位在諸侯王上」とあり、光禄勲の宣璠が、持節して董卓を太師とする。
つまり、董卓の意向に逆らう高官をしばく=州長官として、司隷校尉の治安を守る、というのが、宣播が董卓のために担っている役割である。
なお、『范書』献帝紀 興平二年に、長安からの西遷に「廷尉宣播」が同行した。董卓の没後も、献帝のそばにいた。
……と、この枠内の宣播のことは、ぼくが派生して検索し、メモったことでした。

幽州牧の劉虞も、董卓と敵対しない。涼州刺史(万斯同は韋端とする)と、交州刺史の朱符の動向は不明。だが、中平六年十一月に董卓が任命した、豫州刺史の孔伷・冀州刺史の韓馥・兗州刺史の劉岱・陳留太守の張邈(『後漢紀』霊帝紀下)は、内心は服さず、反董卓となる。

反董卓同盟の構成員は、A『三国志』臧洪伝・B『三国志』武帝紀・C『後漢書』袁紹伝・D『三国志』袁紹伝・E『後漢紀』献帝紀・F『資治通鑑』がある。
A臧洪伝によると、広陵郡功曹の臧洪が画策し、張超・張邈の兄弟を筆頭に、臧洪の友人(劉岱・孔伷)をとりこんだ。酸棗の壇上で宣言したのは臧洪であるが、郡功曹にすぎない。『三国志』張邈伝によると、最初に張邈・曹操が義兵をあぐ。武帝紀では189年12月、陳留郡己吾県で挙兵した。『三国志』典韋伝は、張邈が190年に己吾県で挙兵したという。

典韋伝に「初平中、張邈舉義兵、韋爲士、屬司馬趙寵」とある。190年とまでは言っていないが、191年以降だと遅すぎる。少なくとも、中平六(189)年のうちではないことは分かる。

べつに、189年末に河内太守の王匡が、先んじて董卓に敗れた。

『三国志』董卓伝に「河內太守王匡遣泰山兵、屯河陽津。將以圖卓。卓遣疑兵、若將於平陰渡者。潛遣銳衆、從小平北渡、繞擊其後。大破之津北、死者略盡。卓、以山東豪傑並起、恐懼不寧。初平元年二月、乃徙天子都長安。」とある。王匡が泰山兵をつかって、董卓をねらった。董卓がこれを退けた後、山東の豪傑がならびたつ。そして、初平元(190)年2月に遷都を考える、、という話の流れ。189年内に戦ったと、明記されてはいないが、山東の豪傑よりも、王匡が早いのは確実。

各地で複数の集団が、ほぼ同時期に挙兵し、190年正月ごろに、大規模な同盟に発展したか。
大原信正「反董卓同盟の成立」(『様々なる変乱の中国史』2016年)は、酸棗の盟・漳河の盟・反董卓同盟の三者を区別した。史料に、誤記や情報操作が含まれ、出土文字資料による傍証が期待される。大原氏は、日にち単位で編年をくむが、郵便制度と文書作成手順に照らして、現実的想定か否かの検証も必要。

『范書』袁紹伝にひく『英雄記』によると、劉岱が韓馥に挙兵を促した。

英雄記曰:「劉子惠,中山人。兗州刺史劉岱與其書,道『卓無道,天下所共攻,死在旦暮,不足為憂。但卓死之後,當復回師討文節。擁強兵,何凶逆,寧可得置』。封書與馥,馥得此大懼,歸咎子惠,欲斬之。別駕從事耿武等排閤伏子惠上,願并見斬,得不死,作徒,被赭衣,埽除宮門外。」
まず兗州刺史の劉岱が、劉子恵に董卓の無道を説いた。劉子恵から韓馥に、劉岱の文書をわたした。韓馥は(董卓に逆らうことを)おそれて、劉子恵を斬ろうとした。別駕従事の耿武が、劉子恵をかばった。という、かなり複雑なプロセス。

東郡太守の橋瑁が「三公の移書」を偽造し、それに基づく檄文を受けた韓馥が、袁紹の挙兵を許可した。

武帝紀 注引『英雄記』に「東郡太守橋瑁詐作京師三公移書與州郡、陳卓罪惡……、馥然之。馥乃作書與紹、道卓之惡、聽其舉兵」とある。


『范書』袁紹伝・『資治通鑑』を参考にすると、臧洪らがまず酸棗で盟約をむすび、三公(「後漢三公年表」によれば、太尉の黄琬・司徒の楊彪・司空の荀爽)の名を借りた檄文をつくる。これを受けた韓馥や袁紹が、盟約に加わったか。

構成員は、臧洪伝に「広陵太守の張超ら」とあり、酸棗の構成員は、ほかにいる。

臧洪は「兗州刺史岱、豫州刺史伷、陳留太守邈、東郡太守瑁、廣陵太守超等、糾合義兵、並赴國難」と述べる。劉岱・孔伷・張邈・張超のほかにもいる。

武帝紀は臧洪伝よりも人名が多いが、張超を欠き、完全無欠の人名録でない。

武帝紀のほうが多いのは、袁術・韓馥・王匡・袁紹・橋瑁・袁遺・鮑信、そして曹操。しかし、駐屯した地域がまったく無視されており、順序も適当なので、『資治通鑑』では骨組みの史料に選ばれなかった。
拙稿で検討したことがある(とか書くと、それっぽいなー)。8頁あたり。
https://www.spc.jst.go.jp/cad/literatures/2350
佐藤大朗「『資治通鑑』編纂手法の検証(中平五年~建安五年)」


また、『陳志』任峻伝によると、行河南尹事の楊原が曹操と同時期に挙兵し、のちに曹操に合流した。

任峻伝:漢末擾亂、關東皆震。中牟令楊原愁恐、欲棄官走。峻說原曰「董卓首亂、天下莫不側目。然而未有先發者、非無其心也、勢未敢耳。明府若能唱之、必有和者」原曰「爲之奈何?」峻曰「今關東有十餘縣、能勝兵者不減萬人。若權行河南尹事總而用之、無不濟矣」原從其計、以峻爲主簿。峻乃爲原、表行尹事、使諸縣堅守、遂發兵。會太祖起關東、入中牟界。
中牟県令の楊原は、官職を捨てて逃げようとしたが、同県の任峻に説得されて、行河南尹事となって(自称して)諸県とともに起兵した。曹操と結んだ。

『太平御覧』巻644「鎖」所引 華嶠『後漢書』によると、并州の西河太守の崔鈞は、袁紹と挙兵した。

華嶠《後漢書》曰:崔鈞為西河太守,與袁紹起兵,董卓收鈞父烈,下之郿獄,銀鐺。卓誅,烈得歸長安也。
崔鈞が起兵したから、董卓は、崔鈞の父である崔烈を下獄した。董卓が誅されると、崔烈は長安に帰ることができた。銀の鐺=クサリで、繋がれた。

崔鈞について類似の文が、『范書』崔駰伝 附崔寔伝にある。

崔寔伝に「鈞少交結英豪,有名稱,為西河太守。獻帝初,鈞與袁紹俱起兵山東,董卓以是收烈付郿獄,錮之,鋃鐺鐵鎖。卓既誅,拜烈城門校尉。及李傕入長安,為亂兵所殺」とある。やはり、崔鈞が袁紹とともに起兵して、崔烈は捕らわれた。董卓が死ぬと、崔烈は城門校尉となったが、李傕に殺された。
注釈に「說文曰:「鋃鐺,鎖也。」前書曰:「人犯鑄錢,以鐵鎖鋃鐺其頸。」とあり、銀のクサリと分かる。


その他の州長官の動向

青州刺史の焦和や、荊州刺史の王叡も同盟に関与した。

『陳志』臧洪伝 注引『九州春秋』に、「九州春秋曰:初平中, 焦和為青州刺史。是時英雄並起,黃巾寇暴,和務及同盟,俱入京畿,不暇為民保障,引軍踰河而西」とある。
『陳志』孫堅伝 注引『呉録』に「及叡舉兵欲討卓」とある。孫堅に殺されたが。

揚州刺史の陳温も、曹操に兵を供出した。

武帝紀に「太祖兵少。乃與夏侯惇等、詣揚州募兵。刺史陳溫丹楊太守周昕、與兵四千餘人」とある。


益州牧の劉焉は事態を静観したが、董卓の指令を受けた、犍為太守の任岐・賈龍の攻撃を受け、一戦させられた。

『陳志』劉焉伝に「犍爲太守任岐及賈龍、由此反攻焉。焉、擊殺岐龍」とあり、董卓の関与は分からない。その注引『英雄記』に「劉焉起兵、不與天下討董卓、保州自守。犍爲太守任岐自稱將軍、與從事陳超舉兵擊焉、焉擊破之。董卓使司徒趙謙將兵向州、說校尉賈龍、使引兵還擊焉、焉出青羌與戰、故能破殺。岐、龍等皆蜀郡人。」と、董卓が司徒の趙謙を益州に差し向け、劉焉と戦えと、校尉の賈龍に説いた。

徐州刺史の陶謙は、190年には参加しないが、192年正月、董卓軍と戦う。初平三年、朱儁を太師にかつぎ、献帝を奉迎する計画をたてた。『後漢書』朱儁伝で、陶謙が「起兵してより已来、ここに三年」とのべるから、反李傕同盟を、反董卓同盟に連なる抵抗運動と位置づける。

反董卓同盟のまとめ

以上を踏まえると、190年正月の盟主は袁紹。序列2位は袁術。
袁紹の優れた個人的能力に求める説もあるが(矢野主税)、四世三公の家柄、門生故吏の人脈に求めるのが有力。故吏の性格には諸説があるが、州郡長官・大官に起用された後、長官のもとを去ったもので、もと長官に忠義を尽くす、後漢魏晋南朝に特有の人格的な主従関係を指す。鎌田重雄「漢代の門生・故吏」、東晋次『中国中世史研究』続編。
むろん、故吏よりも現行の属吏のほうが、上官との絆は強い。『陳志』劉表伝 注引『傅子』の韓嵩の事例。

袁術は、南陽郡を手に入れた。後漢中期の南陽郡は、人口が荊州の4割。1郡のみで、幽州・交州・并州・涼州を凌駕する。徐州に匹敵する。後漢末の南陽は、流民の主たる逃亡先なので、さらに人口が多かったはず。実質的には、州クラスの経済基盤を有した。

州郡の長官でないもの

兵を供出した者のうち、州郡長官でないものは。
鮑信と曹操がいる。武帝紀・『范書』袁紹伝・『後漢紀』・『資治通鑑』は、「済北相の鮑信」に作るが、誤り。東郡太守の曹操(初平二年七月以降)の上表で、済北相となった。それ以前の鮑信は、曹操・袁紹の上表により、行破虜将軍にすぎない。鮑信は、旗を掲げ、地元の泰山軍で私財を投じた。『陳志』鮑勛伝にひく『魏書』に「信乃引軍還鄉里、收徒衆二萬、騎七百、輜重五千餘乘」を準備したため、盟約に加われた。

それほど「天下」および「曹操」に貢献度の高い鮑信の子を、気にくわないから殺すって、曹丕さん、どうなんだ。

曹操も、武帝紀・衛臻伝や同注引『先賢行状』によると、家財や資金援助(張邈の推薦)をもとに「義兵」をつのった。曹操は、まだ行奮武将軍で、公的な経済基盤(州郡)と、州郡兵を有さなかったから。

衛臻伝:太祖之初至陳留、茲曰「平天下者、必此人也」太祖亦異之、數詣茲議大事。從討董卓、戰于滎陽而卒。
同注引『先賢行状』:董卓作亂、漢室傾蕩、太祖到陳留、始與茲相見、遂同盟、計興武事。茲答曰「亂生久矣、非兵無以整之。」且言「兵之興者、自今始矣」。深見廢興、首讚弘謀。合兵三千人、從太祖入滎陽、力戰終日、失利、身歿。


反董卓の主力は、州郡の兵。私兵を主としたのは、鮑信と曹操。じつは曹操も、陳留・揚州の兵を借りた。鮑信も、泰山の郡兵に支えられた可能性がある。
群雄にとって、経済基盤の公的確保が、いかに重要であったかを物語る。
群雄割拠期を通じて、州長官の位を保ったのは、益州劉氏と、荊州劉氏のみ。袁術・袁紹・公孫瓚・曹操・劉備・孫策・呂布は、189年の時点で州長官ではない。


ここまで読んで思ったこと

後漢末の群雄割拠期の動向は、州長官という制度に規定されている。ゆえに「不自然」な展開を見せる。
①~③まで、整理してみます。

①州長官は、太守・令長と君臣関係がない。自派の人を太守にするときも、皇帝に上表して推薦して任官させるという「ポーズ」が不可避。太守になれたのは、実際には州長官のおかげでも、制度上は「皇帝のおかげ」となる。州長官は、恩徳と威信が削がれる。太守が離反しても、「不忠」と言えない。こういうタテマは、じつは人間の思考に、重大な影響を与えると思います。
袁術と孫策の関係は、孫呉の王朝の都合で歪めて記された。そうでなくとも、事実として、袁術と孫策の関係は、きちんと君臣に収まらなかったかも。袁術が皇帝になったのは、きちんと君臣関係を結び、権力の構造を整理したかったからかも。すなわち、州長官のもと限界性&弱点を、克服するためとか。袁術については、この柿沼論文で、まだまだ出てくるので、抜粋するのが、楽しみです。

複数の州を兼任するポストが、制度上ない。劉焉・劉表は「保守的にしか振る舞えなかったバカ」ではなく、制度に忠実なだけ。ぎゃくに、制度の限界を超えなかったからこそ、ぶじに勢力を安定させることができた、と思えるほど。
袁紹のように複数の州を得ても、一元支配する方法がなく、(もっとも己の意向に逆らいにくいと思われる)子供たちを並立させるのが精一杯。世代が進めば、必然的に、勢力分裂の危機をまねく。
後期の曹操ですら領域的な正統の支配権は「冀州牧」だけ。県を冀州に編入して戸数を増やし、強がって見せたけれど、かなりムリがある。九州制を持ち出したのも、同じ理由。やはり、ムリをしている。要らんことで、荀彧に反発された。

劉備は益州牧に過ぎず、曹操は冀州牧に過ぎず。これより上に行く(君主権力を確立する)には、官職ではムリなので、公や王といった爵位を使うしかない。
曹操のように、複数の州を支配するようになると、自分以外の州長官を任命するしかない(事情は、袁紹と同じ)。すると、州長官を任せている有力な臣下は、官制において「同輩」になってしまう。自己の差別化を図れなくなる。
いちど爵位に手を出すと、革命の足音が聞こえてくる。革命が、勢力を安定させるために、絶対的に有利な手段なら、それは構わないが、どうやらそうではない「ひとりの州長官」から、頭ひとつ抜きんでるには、爵位を上げるしかないが、革命を試みるのはリスクが高すぎ。進んでもダメ、止まってもダメという。
のちに「都督、これこれ、N州軍事」が出てくるが、これも、州長官がベースになっている。州長官の限界を、完全に克服したものでなく、場当たり的な感じがする。

③群雄は、本籍地の州牧になれない。群雄たちは申し合わせたように、本籍地以外で州長官となり(もしくは名乗り)、勢力を築く。これは「民族誌的奇習」と言えるレベル。在地に影響力があっても、直接は利用できないという。
孫権が揚州牧になれなかったのは、支配権をいびつにしたと思う。はぐらかしたように、会稽太守になるしかなかった。劉焉・劉表も、ポツンと赴任するところから、勢力の物語が始まる。袁紹・袁術も、他人のポストを略奪(継承ともいう)するところから、勢力を始めるしかない。
たしかに不便だけど、「戦略的に、どこが有利か」という選択行動が、最初に行われるので、物語を面白くする要素ではあるかも知れない。

州長官は、①郡県の長官の直接の「主君」となれず、②複数の州を支配する正当な制度がなく、③本籍地の長官となれない、という制約がある。これが群雄割拠の推移をイビツにしたし、三国の成立を迂回的にしたと思う。
あくまで思考実験ですけど、普通?なら、在地の有力者が、順調に周囲を併呑し、、という直線的な過程になりそう。しばらく三国志を読んでると、彼らの動きが当然に思えてきてしまう。すると、州長官という制約&特殊性を見落としてしまうのでは、ないでしょうか。じつは群雄たちは、かなり「奇妙」なプロセスで、勢力を拡大させているのです。
とりあえず、第一節の抜粋と後追いは、ここまでです。161120

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2節 州をめぐる群雄の争い

益州牧の劉焉

後漢西晋期、州の人口の多さは、益州・荊州の順。189年、経済基盤は、1位は益州牧の劉焉、2位は荊州刺史の劉表。しかし州外進出を果たせなかった。それは、なぜか(太守に離反されたから)。
『陳志』劉焉伝によると、侍中の董扶に「天子の気」と聞いて、益州に赴任。前任の益州刺史の郤倹が殺害され、益州従事の賈龍が劉焉を迎えた。
一般に、中平元(184)年、南陽・三輔の数万戸が安寧をもとめ、劉焉のもとに集まり、劉焉が彼らの力を借りたとされるが、疑問あり。『華陽国志』劉二牧志 任乃強 校補を参照。

だが劉焉は、すぐに賈龍や、犍為太守の任岐と対立。董卓に攻撃され、劉表と対立し、内政に専心。『范書』献帝紀によると、興平元年、李傕の討伐を試みた。対外進出を諦めなかったが、194年に病死。劉璋は、漢中の張魯と対立し、対外進出は阻まれた。
後漢中期の永和五(140)年、漢中郡が6万戸、益州は152万戸。劉璋のほうが強そうだが、後漢末に漢中は人口が流入して10万戸を越えた。『陳志』張魯伝に「漢川之民戸出十萬、財富土沃、四面險固」とある。逆に221年の益州の人口(漢中を含む)は、20万戸に落ちこむ。梁方仲編著『中国歴代戸数・田地・田賦統計』(中華書局、2008年)。張魯が10万戸、劉璋が最大で10万戸しかなく、劉璋は張魯を破れない。

経済基盤(課税できる戸数)で、強弱を論じるのが特徴です。


荊州刺史の劉表

『陳志』劉焉伝にひく『続漢志』、『陳志』劉表伝によると、190年よりも前に、劉表が刺史を拝命したように読める。しかし、『范書』劉表伝・『陳志』劉焉伝注・「劉鎮南碑」によれば、189年11月の着任。

「劉鎮南碑」に「以賢能特選拜刺史荊州。永漢元年十一月、到官」とある。永漢元年=中平六年。

益州につぐ経済基盤があり、勝ち抜く自信があったようで、「職貢」(郡国の貢献物)をおさめず、天地を郊外で祭り、列侯を殺し、みずからを天子に準えた。『范書』孔融伝。

孔融伝に「是時荊州牧劉表不供職貢,多行僭偽,遂乃郊祀天地,擬斥乘輿。詔書班下其事。……案表跋扈,擅誅列侯,遏絕詔命,斷盜貢篚」とある。


地方政府は中央政府に、賦税のうち中央に上供する分と、郡国の貢献物(上計吏が運搬するとは限らない)を上納すべき義務を負った。柿沼氏「戦国秦漢時代における塩鉄政策と国家的専制支配の機制」(『中国古代貨幣経済史研究』2011年)。劉表は、どちらも上納していなかったと思われる。

劉表は、193年に荊州牧・安南将軍となる。李傕の主宰する朝廷と、仲直りしたかと思いきや。このような財物の動きに着目すれば、劉表が、まったく献帝-李傕を尊重する気がなかったことが分かる。

196年、献帝が許県にくると、「貢献」の使者を送り、袁紹とも盟約した。『陳志』劉表伝にひく『漢晋春秋』に「表答羲曰、内不失貢職、外不背盟主、此天下之達義也。治中獨何怪乎?」と、曹操・袁紹との両面外交を、自ら肯定する。しかし、196年に張済を破り、宛県・南陽に張繍を置いたから、曹操-献帝への貢献は、すぐに途絶えたと思われる。

勢威を伝えるのが「劉鎮南碑」で、「御史中丞の鍾繇を遣はし、即ち鎮南將軍に拜し、鼓吹・大車を錫ひ、策命して襃崇し、之を伯父と謂ふ。長史・司馬・從事中郎を置き、開府して辟召せしめ、儀は三公の如し。上は復た左中郎將の祝耽を遣はし、節を授け、以て威重を増し、并せて交・揚二州を督せしめ、委ぬるに東南を以てす」とする。

遣御史中丞鍾繇即拜鎮南將軍,錫鼓吹大車,策命襃崇,謂之伯父。置長史司馬從事中郎,開府辟召,儀如三公,上復遣左中郎將祝耽授節,以增威重。并督交揚二州,委以東南,

鍾繇が御史中丞になるのは、196年ごろ。劉表が鎮南将軍となるのは、それ以後。献帝は劉表を「伯父」といい、鍾繇が使者として赴いている。
献帝は「鼓吹」「大車」を拝受したとあるが、後漢皇帝が、存命する功臣に鼓吹を与えた実例はない。増田清秀『楽府の歴史的研究』1975年。『陳志』方士 杜夔伝によると、劉表は、杜夔・孟曜に、天子用の楽曲を作成させた。鼓吹の(献帝からの)賜与は、自作自演かも知れない。
劉表の非礼は、朝廷でも話題になったが、朝廷の体面のために、おおっぴらにしなかった。『范書』孔融伝。
劉表が、頼恭を交州刺史に任じたのは、『陳志』士燮伝。士燮が交州を、孫策が揚州を実効支配するが、劉表が勝手に任命したのであろう。

198年、長沙太守の張羨・張懌の親子が、四郡(盧弼は、長沙・零陵・桂陽・武陵とする)に背かれた。199年、張繍が曹操に降伏すると、経済基盤の大半を失った。『范書』劉表伝・『陳志』桓階伝。孫堅の故吏である桓階が、張羨に提言したことによる。孫堅の仇を取ろうとした。以後、劉表は対外進出をしない。

益州の劉焉・荊州の劉表は、190年、他の群雄に先駆けて経済基盤を有したが、内部離反(郡守による)により、対外進出を逃した。

郡守が、対外進出の足かせになる、というのがおもしろい。


兗州牧の曹操

州郡の長官が並立すると、郷(徴税・徴兵の単位)をたばねる「県」は、どの太守につくかを悩んだ。太守は、どの州長官につくか悩んだ。これが州支配の困難さであり、群雄の新規参入の余地がある。
資金と人脈があれば、州長官は郡長官に信頼され、郡長官は県長官に信頼される。長官になる前から、資金・人脈を有したのが、曹操・袁紹・袁術。

張邈に進められた衛茲は、曹操に家財を投資(『陳志』張邈伝)。曹操は、5千の兵を養って挙兵。曹洪のコネで、揚州刺史の兵を借りた。『陳志』曹洪伝、『陳志』宗室 孫静伝にひく『会稽典録』。

反董卓の群雄、史料で時期が明らか&最速なのは、曹操(中平六年十二月)らしい。だが具体的に「挙兵」って、何をしたのか不明。ぱっと思いつくのは、郡県の役所に攻めかかることだが、ちがう(張邈が太守をつとめる陳留郡のなかの己吾で「挙兵」したから)。これって、ただ武帝紀が自己宣伝してるだけ? 大原信正氏の「反董卓同盟の成立」は、同盟の成立過程を、年月を特定しながら編年体で特定していきますが、最初が中平六年十二月の曹操・鮑信の「挙兵」で、閏十二月に河内太守の王匡が挙兵?とする。王匡は、実際に董卓軍と戦っているのだが、曹操は「かけごえ」だけで、信じていいのか疑問、、。


兗州支配は不安定であったが、黄巾を許県の典農部屯田で半強制的に労働させ、付加的財源(および3万の付加的兵力)を有した。呂布・袁術・袁紹との抗争で有利に。
永和五(140)年の人口統計を基準とし、三国時代の総人口(760万人)を、後漢中期(5000万人)の15%と過程とする。曹魏の兵力を、総人口の5%とすると(西晋の泰始五年「河南南郷太守□休碑陰」参照)、兗州兵は30千、徐州兵は21千と推定される。徐州を、呂布・袁術が争っているから、曹操は有利。

南陽太守・徐州伯の袁術

周建『三国潁川郡紀年』人民出版社、2013年によると、袁術は河南尹・後将軍に達したが、南陽に逃亡。190年、南陽太守の張咨が孫堅に殺されたので、南陽を支配。孫堅を豫州刺史に推薦して、恩を与えると同時に、豫州に据えた。ゆえに、太守が不在の南陽に、すべりこむことができた。
189年11月に荊州刺史となった劉表は、州内の宗族が袁術と連携することを恐れ(『范書』劉表伝)、おそらくは袁術を懐柔するため、袁術を南陽太守にせざるを得なかった(『范書』袁術伝)。

南陽の人口は、荊州の4割に相当する。経済力は、劉表に匹敵した。故吏が各地にいた。公孫瓚・黒山・於夫羅と連携した。袁紹・劉表と対立すると、遠交近攻であれ、袁氏の故吏が分裂せざるを得なかった。
袁術は、袁紹と雌雄を決すべく、193年春、陳留へ北上。だが劉表に糧道を断たれ、3万の付加的兵力をもつ曹操に破れた。

このへんの因果関係は、頭のモヤモヤが晴れるようです。袁術は、劉表に糧道を断たれて、仕方なく(目標もなく)北上したのではない。袁紹と戦うために北上したら、糧道を断たれたのだと。袁術は、南陽を荒廃させたと史料にあるが、ともあれ、南陽にいる限り、自活できるのだから、「劉表に糧道を断たれる」、「困窮して北上するしかない」ことはない。


おりしも揚州刺史の陳温が病死。袁紹は、袁遺を後任とした。袁術は、鄭泰を揚州刺史にしようとして(『陳志』鄭渾伝にひく張璠『漢紀』)、実際には、陳瑀を揚州刺史として、自らは徐州伯をなのる(『陳志』袁術伝にひく『英雄記』)

鄭渾伝にひく張璠『漢紀』:後又與王允謀共誅卓、泰脫身自武關走、東歸。後將軍袁術以爲揚州刺史、未至官、道卒、時年四十一。


李傕が懐柔のために馬日磾を派遣し、袁術を左将軍とした。馬日磾を軟禁して「節」を奪い、馬日磾の名をも借りて、自軍の十余人を三公の掾に推薦させた。『陳志』袁術伝にひく『献帝春秋』・『范書』孔融伝。これも、人的資本を重視する、袁術特有の戦略と評せる
しかも「節」をもつものは、複数州の兵権を専断できた。大庭脩「後漢の将軍と将軍仮節」(『秦漢法制史の研究』、創文社、1982年)。とくに馬日磾は、「直指(繍衣直指の略)」したとされた。繍衣直指は、州郡のまつろわぬ勢力を武力討伐する権限をもつ。『北堂書鈔』巻六十二 設官部を参照。袁術は、この「節」を入手した。

『北堂書鈔』巻六十二に「繡衣直指武帝所制、討奸獵治大獄」とあり、注釈に「漢書雋不疑傳云武帝末郡國盜賊群起暴勝之為直指使者衣繡衣持斧逐捕盜賊督課郡國東至渤海以軍興誅不從命者威震州郡暴勝之素聞不疑賢至渤海欲相見之。」などとある。


故吏の恵衢を揚州刺史に、故吏の陳紀を九江太守、故吏の劉勲を廬江太守、周尚(袁氏故吏の廬江周氏)を丹陽太守、江東孫氏(孫堅は故吏に相当)を州郡長官にした。

孫策が太守になれなくて恨むとか、孫策が同族を太守に任命して「自立」するとか、そういう『呉志』の記述は、孫呉の王朝の要請による、歴史の書き換えでしょう。マクロで見れば、孫氏も袁氏故吏に編入され、袁術の支配を支えた。

『後漢紀』興平二(195)年条に、「袁術の江淮に依拠するより、帯甲は数万。加へて累世公侯たりて、天下の豪傑、故吏に非ざるなし」とある。故吏を活用したのが、袁術の特長。故吏の治める州の収入を頼りに、みずから部曲をひきい、台頭した。部曲は、病死後に劉勲に受けつがれ、孫策が奇襲して、孫氏に吸収された。

冀州牧の袁紹

中平六年八月末、雒陽から逃亡。董卓は、袁紹を勃海太守に任命。『資治通鑑』では189年12月、『後漢紀』では190年1月のこと。あくまで、董卓は、袁紹に州全体を握らせない。だが191年、韓馥が袁紹に州長官を譲る。『後漢書』臧洪伝にひく『英雄記』。

英雄記云,袁紹使張景明、郭公則、高元才等說韓馥,使讓冀州與紹。然則馥之讓位,景明亦有其功。其餘未詳也。

冀州牧となった袁紹は、さっそく公孫瓚と対立。袁紹は、勃海太守の印綬を、公孫範に献上して懐柔。だが公孫範は、勃海兵をひきいる。公孫瓚も青州・冀州・兗州の刺史(田楷・厳綱・単経)と郡県の守令をおく。界橋の戦いで、袁紹が騎馬を弩兵で迎撃すると、形成は逆転。

公孫瓚は、初平四年十月、劉虞を殺した。袁紹は、烏桓・鮮卑に恩信を施す。199年、公孫瓚を破り、冀州・幽州・青州・并州を支配。袁紹は、袁術のように故吏でなく、子や外甥に複数州を支配させた。袁紹が冀州(191年-)、袁煕が幽州(195年-)、高幹が并州、袁譚が青州(199-)を支配した。
これは、袁紹の野望に沿うもの(『陳志』袁紹伝にひく『九州春秋』)

汝南袁氏は、強大な人的資本を有した。袁術は、故吏・直参の臣に州をゆだね、「節」を用いて束ねた。袁紹は親族に州を委ねた。群雄は、制度上は2州以上の長官を兼ねず。袁紹と袁術は、国づくりに明確な相違があった。161120

群雄割拠期に台頭した劉備

劉備には、中山の馬商人の張世平・蘇双が投資した。おそらく当時の涿県令が公孫瓚で、かつ劉備は競馬(犬馬の競争)に関与したため、馬商人と繋がったのであろう。劉備が、馬商人の融資で、関羽・張飛を雇用できた以上、劉備と関張のあいだに金銭関係が介在した。
公孫瓚のコネで県級の官位を転々とし、平原国相となる。公孫瓚(献帝支持派)に味方して、袁紹(劉虞支持派)と敵対した。北海相の孔融を救援した(『范書』孔融伝・『建康実録』太祖上)。

陶謙は、曹操が恐れるほど兵力を有した。『陳志』陶謙伝にひく『呉書』に「曹公父於泰山被殺、歸咎於謙。欲伐謙而畏其彊、乃表令州郡一時罷兵」とあり、曹操が陶謙の強さを畏れたとある。
しかし陶謙は、同郷出身の笮融に、広陵・下邳・彭城の食糧輸送を管掌させた。笮融が職権を濫用して、仏事を営んだ。陶謙は、3郡の収入を欠いたので、徐州の経済基盤は脆弱。任継愈主編『定本 中国仏教史Ⅰ』柏書房、1992年。

194年、陶謙は劉備に徐州を委ねる。陶謙の子は未仕官。袁紹・曹操は敵対者。本籍地回避原則のため、徐州の人士も、徐州牧になりにくい。濱口重國「漢代に於ける地方官の任用と本籍地との関係」(『秦漢隋唐史の研究』1966年)、窪添慶文「魏晋南北朝における地方官の本籍地任用について」(『魏晋南北朝官僚制研究』2003)によれば、霊帝期以降は、本籍地任用も絶対不可能というわけでないが、なお類例は少ない。
劉備は、孔融の推薦も受けた。孔融は鄭玄と関係が密。鄭玄は、劉備に弟子の孫乾を推薦し、鄭玄は劉備の師である盧植の旧友。陳羣は袁術を招聘すべきと説いたが、陳登・孔融があくまで劉備を支持。なお、孔融に関する出来事の時系列に、史料上混乱が見られる。間嶋潤一「鄭玄の晩年とその学問」(『鄭玄と『周礼』―周の太平国家の構想』2010年)。

孔融・鄭玄といった名儒に推された系統の人物としての劉備。

194年時点、対袁術包囲網の結成を優先する袁紹・曹操も、劉備を支持せざるを得ず。

『陳志』先主伝にひく『献帝春秋』に「答曰「劉玄德弘雅有信義、今徐州樂戴之、誠副所望也」と、袁紹が劉備を支持する。先主伝に、袁術が徐州に攻めてくると、「袁術來攻先主。先主拒之於盱眙、淮陰。曹公表先主、爲鎭東將軍、封宜城亭侯」と、曹操は劉備に官位を斡旋した。
袁紹・曹操の利害は「袁術を包囲する」で一致しており、劉備を支持したと。ぎゃくに陳羣は、徐州を袁術に委ねようとし、袁紹・曹操と利害が対立している。陳羣は、劉備のもとを去ったこともあった。その陳羣が、のちに曹魏で、荀彧に次ぐ重鎮になるのだから、複雑です。

しかし生前の陶謙が、「諸寓士」を捕らえ(『范書』許劭伝)、笮融3郡の収入を取られていたので、劉備が継いだ徐州は、確固不抜でない。袁術に来寇され、呂布に奪われた。

徐州牧の呂布

董卓を殺した呂布は、反董卓を主唱した張邈・張超という太守の力を借り、

呂布・張邈が結びついたのは、董卓を討つという点が一致した、という書きぶり。なるほど。もはや董卓のことを、群雄たちは忘れたかのように振る舞うが、呂布にとって「己の価値」は、董卓を討ったこと。なんども史料中で強調していた。

呂布は財政補填策を持たず、持久戦に弱く、徐州に逃げた。

徐州を劉備から奪ったが、袁術の食糧援助をあてにした。『陳志』呂布伝にひく『英雄記』、『范書』呂布伝。徐州の5郡の完全支配に及ばず、2倍の兵をもつ曹操に包囲殺害された。『孫子』謀攻篇注。人口比に基づく税収比をみれば、当然の帰結

群雄割拠期に台頭した孫氏

孫堅は若いとき「賈人財物」を略奪する海賊を破った。沿岸部の賈人が、資金援助を申し出た可能性あり。中平元年、下邳丞として黄巾討伐に加わると、「募諸商旅及淮泗精兵、合千許人」と、商人の援助を受けた(孫堅伝)。重近啓樹「商人とその負担」(『秦漢税役体系の研究』1999年)によれば、賈人は原則として繇役・兵役に従事しない。よって「商旅」は、孫堅の臨時募兵によるものであろうと。
中郎将の朱儁は、孫堅を佐軍司馬、別部司馬とした。別部司馬は、県令・校尉レベル以下の軍官で、上官より兵を預かる形を取り(上官の裁量で兵数は増減)、日常的に練兵・人数把握を行い、節度府や督軍糧都尉を通じて、政府から軍糧を支給された。柿沼氏の論文参照。
よって、孫堅がひきいたのは私兵でなく、軍糧を「商旅」に依存しない。とはいえ「商旅」の支援があれば、支給額以上の軍糧を、兵士に分配できる。士気が高く、軍功を重ねた理由も納得がいく。

孫堅は、自らを「征伐を以て功を為す」(孫堅伝にひく『呉録』)という存在、つまり非人士的な存在と位置づけ、郡兵を郡外に出す禁をおかして名声を高めた。つまり、廬江太守の陸康を救った。初平元年、反董卓のとき、郡境を越えて北上。同じ考えがあった。袁術は、孫堅に官職を与えた。
孫堅は、もとは臧旻の故吏。臧旻は、匈奴中郎将として前線で大敗し下獄されると、太尉の袁逢に再び抜擢された。『後漢書』南匈奴伝、『范書』臧洪伝にひく謝承『後漢書』。

『范書』南匈奴伝:六年,單于與中郎將臧旻出鴈門擊鮮卑檀石槐,大敗而還。是歲,單于薨,子呼徵立。とある。延熹六(163)年、臧旻は檀石槐に大敗した。
『范書』臧洪伝によると、臧洪の父は臧旻で、注引 謝承『後漢書』によると、「謝承書曰:「旻達於從政,為漢良吏,遷匈奴中郎將。還京師,太尉袁逢問其西域諸國土地風俗人物種數,旻具荅言西域本三十六國,後分為五十五,稍散至百餘國。大小,道里近遠,人數多少,風俗燥溼,山川草木鳥獸異物名種不與中國同者,口陳其狀,手畫地形。逢奇其才,歎息言:『雖班固作西域傳,何以加此乎?』」とあり、太尉の袁逢が西域のことを尋ねると、臧旻が答えた。

袁術が孫堅を抜擢し、袁術が応じたのは、孫堅-(故吏)-臧旻-(再抜擢)-袁逢-(父子)-袁術という人脈的にも当然。
孫堅は、事前に光禄大夫の檄(じつは武陵太守の曹寅による偽作)によって、荊州刺史の王濬を殺害しており(孫堅伝にひく『呉録』)、後任者に処罰される恐れがあり、袁術の後ろ盾を必要とした。

劉表は「劉鎮南碑」によると、189年11月に荊州刺史となった。孫堅が郡境をこえて北上し、荊州刺史の王叡を殺したのは、史料によると、初平元年らしい。すると、劉表と王叡が重複してしまう。董卓が「王叡はオレに逆らったから、べつのものを送りこむ」という処置をした様子は、史料にない。
というか董卓は、あれだけ自ら任命した州郡の長官に「反董卓」同盟を組まれても、後任者を送りこむことで、州郡の兵を取り上げる!という、解決をしようとしていない。荊州刺史だけ、特別な処置をするのは、おかしい。いや、189年のうちは、まだ反董卓の気配だけだったから、後任者を送りこむことができた。190年になると、そういう任免の小手先でなく、軍事的な衝突をせざるを得なくなったか。
もしくは、孫堅の軍事行動は、189年冬のうちで、王叡は189年11月以前に殺されたか。すると、189年12月に己吾で「挙兵」したという曹操よりも、孫堅のほうが早くなる。しかし、孫堅のこの早さは、2つの理由で抹消された。1つ、曹操を先駆者としたいという魏晋の王朝のニーズ。2つ、反董卓の時系列が混乱しており、すべてを初平元年に丸めてしまったという、史料記録の限界。きっと、2つめが重い。
としても、孫堅の北上→王叡の死→劉表の着任、という順序ならば、「劉鎮南碑」1つにより、孫堅の反董卓の軍事行動が、189年秋だったことが判明し、曹操よりも孫堅のほうが「漢朝に対して忠」ということになる。
以上、柿沼論文からの脱線でした。


孫堅は袁術により、行破虜将軍・領豫州刺史となり、「豫州諸郡兵」をひきいて董卓と戦った(『陳志』董卓伝)。孫堅は劉表と戦って死に、孫氏の軍勢は「節」をもつ袁術に随ったが、一部が孫策に戻され、袁術の命令で揚州の獲得にのりだした。
孫策は、袁術の経済基盤・人脈によるだけでなく、居巣県令の周瑜を通じて、魯粛から食糧援助を受けるなど、地方土豪の経済支援を受けた。袁術の死後、奇襲により劉勲を破り、版図の大半を継承した。161112

劉備にとっての張世平・蘇双は、孫策にとって魯粛と。新たに州を確保するには、死罪もしくは、商人・豪族からの援助を元手として、軍勢を整える必要があったと。

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3節 群雄の財政補填策

群雄は、州の正規税収に頼っただけでない。合従連衡に勝ち残るため、軍事費・外交費を捻出せねばならない。

1 献費・献御の接収

後漢には「算賦」とよばれる課税制度がある。建前では、成年男女一人ずつに一律同額の税を課すものとされた。実際には、事前に課税対象の人口を把握しておき、人口をもとに算出された賦税の総額を、郷ごとに割り振る。郷内では、戸貲に応じて、差等をつけて課税額が決定された。
後漢の賦税が、建前は一律の人頭税だったのに対し、実際には戸貲に応じて差等が付けられ、個々人に課された点は、唐長孺「魏晋戸調制及其演変」(『魏晋南北朝史論叢』2001年)参照。重近啓樹「算賦制の起源と展開」(『秦漢税役体系の研究』1999年)は、出土文字資料を踏まえ、後漢の賦税の実態を、郷単位の不均等課税とする。
徴税額は、結果的に成年男女1人あたり120銭で、これに田租・更賦が加算された。柿沼氏「孫呉貨幣経済的結構和特点」。

かかる徴税の総額のうち、1人あたり63銭分が「献費」とよばれ、京師洛陽の大司農に上供され、中央朝廷の運営費・人件費に充てられた。
渡邊信一郎「漢代の財政運営と国家的物流」(『中国古代の財政と国家』2010年)。ちなみに諸侯国では、諸侯に献費が献上されたと見られる。
『太平御覧』巻八百三十五 所引『東観漢記』に「趙勤,字益卿,劉賜姊子。勤童幼有志操,往來賜家,國租適到,時勤在旁,賜指錢示勤曰:「拜,乞汝三十萬。」勤曰:「拜而得錢,非義所取。」終不肯拜。」とある。侯国を治める劉賜は、自身の国租を自由にできた。劉賜は、建武二年に慎侯、建武十三年に安成侯に封じられた。前任の安成侯の銚期は、食邑5千戸であったので、劉賜も同等以下であろう。その国租が30万銭ということは、5千人で割ると、1人あたり60銭以上の献費を上納した計算になる。

食邑「5千戸」だと、5千人で計算するのは、なぜでしょうか。1戸には、核家族としても、成人男子が2人いそうな気も。すみません、分かりません。とりあえず、渡邊論文を読まないことには、何も言えません。


地方政府は、特産物を「献御」として、中央政府に上供せねばならない。品々がお披露目されるが、年初の元会儀礼。ほかの時期にも、適宜 献上された。上掲 柿沼論文。
董卓が献帝を奉戴して以後、各地の州郡長官は、献御(貢献)のみを上納するか(『陳志』張魯伝)

張魯伝:遂就寵魯爲鎭民中郎將、領漢寧太守。通貢獻而已。

あるいは、道路の不通などを理由に、献費・献御の両方をおこたる。なかには、貢献を試みるものもいた。
『陳志』公孫瓚伝にひく『呉書』で、劉虞が「虞於是奉職脩貢、愈益恭肅」とする。『陳志』陶謙伝に「謙、遣使閒行致貢獻、遷安東將軍徐州牧、封溧陽侯」とあり、陶謙が官爵をあげた。『陳志』士燮伝に「燮遣吏張旻、奉貢詣京都。是時、天下喪亂、道路斷絕、而燮不廢貢職。特復下詔、拜安遠將軍、封龍度亭侯」とあり、士燮が官爵をあげた。
貢献する者は、例外中の例外で、実際には献帝のもとに「委輸」「職貢」はほとんど届かなかった。
『范書』献帝紀 建安元年六月に「州郡各擁彊兵,而委輸不至,羣僚飢乏」とある。『陳志』陶謙伝にひく『呉書』に「職貢多闕、寤寐憂歎、無日敢寧」とある。
逆にいえば、群雄は、献費・献御を接収して、自領の軍事費・外交費に充てたと思われる。

2 救荒食の栽培と活用

岡崎文夫氏が「魏晋の文明」(『魏晋南北朝通史』1932年)で指摘している。
興平末年の飢饉のとき、楊沛は、賈逵伝にひく『魏略』によると、「興平末、人多飢窮、沛課民益畜乾椹、收䝁豆、閱其有餘以補不足、如此積得千餘斛、藏在小倉。會太祖爲兗州刺史、西迎天子、所將千餘人皆無糧。過新鄭、沛謁見、乃皆進乾椹。太祖甚喜」とある。「乾椹」乾燥した桑の実を貯蔵させ、「䝁豆」野生の豆を収穫させ、救荒食として準備し、曹操に提供した。
冀州は、戦乱・寒波に襲われ、武帝紀にひく『魏書』に「袁紹之在河北、軍人仰食桑椹」と、桑の実を食べた。
三国時代後期には、『太平御覧』巻三十五にひく『魏名臣奏』に「太尉司馬懿奏云,秋澇傷五穀,又無菜蔬,北方民已有食桑皮者」と、桑の皮を食べたと司馬懿がいう。
賈逵伝にひく『魏略』に、袁尚の配下の李孚が、ニラを植えた。「孚字子憲、鉅鹿人也。興平中、本郡人民饑困。孚爲諸生、當種薤、欲以成計」とある。

幽州でも、連年不作で、人間同士が食み、蝗害にあうと、『太平御覧』巻三十五にひく『英雄記』によると、「又曰:幽州歲歲不登,人相食,有蝗旱之災,民人始知采稆,以棗椹為糧,穀一石十萬錢。公孫伯圭開置屯田,稍稍得自供給」とある。はじめて稆(くろびき)を採取して、棗椹を食糧とした。
袁術は、上層部は奢侈で、士卒は飢え凍えたとされるが(『陳志』袁術伝)蒲や蛤を臨時食糧とする対応策をとった。武帝紀にひく『魏書』に「袁術在江、淮、取給蒲蠃。民人相食、州里蕭條」とある。
程昱は食糧に人肉を混ぜたといわれるが(程昱伝にひく『魏書』)実話か否かはともかく、群雄期の曹操が、いかに飢えていたかを物語る。

3 豪族・商人の投資

徐州牧の劉備は、呂布のせいで徐州を失うと、麋竺に経済的援助を請うた。麋竺は、『捜神記』巻四や、『太平寰宇記』海州東海県条『水経注』逸文に伝説の残るほど、大荘園の主。麋竺伝に「祖世貨殖、僮客萬人、貲產鉅億。……先主轉軍廣陵海西、竺於是進妹於先主爲夫人、奴客二千、金銀貨幣以助軍資」とある。一万人に達する小作人を抱え、劉備に奴僕2千人・金銀貨幣を提供し、妹を劉備夫人とした。ひとの統率が不得手で、軍の統率経験もない麋竺が、劉備にもっとも愛された一因は、このときの投資にあろう。

麋竺伝に「竺、雍容敦雅、而幹翮非所長。是以、待之以上賓之禮、未嘗有所統御。然、賞賜優寵、無與爲比」とある。


明の楊時偉『諸葛忠武書』巻九 遺事によると、劉備は諸葛亮を連帯保証人とし、保券(借金証書。石券として宋代まで残存)まで作って、南陽の大姓である晁氏から借金したという伝説がある。劉備が経済的信用を欠いたことと、諸葛亮が信用を有したことを物語る。
瑯邪諸葛氏への信用と、諸葛亮の閨閥(蔡氏に連なる)の名声があった(『天中記』所引の習鑿歯『襄陽伝』、正しくは『襄陽記』)。加えて、劉備が各地で、なんども借金を踏み倒してきた事実が、すでにウワサになっていたか。

公孫瓚は、卜数師や絹商人や賈人と義兄弟となった。『陳志』公孫瓚伝にひく『英雄記』。これは、公孫瓚が微賤な母をもつゆえに、大姓を弾圧して、富室の財力に依存した(方詩銘「従『漢末英雄記』看公孫瓚」(『史林』1986年、第二号))という説や、「名士」と異なる価値基準(商人の尊重、任侠的紐帯の重視)に権力基盤を求めたという説がある。ともあれ、商人の財力を活用した。
劉備に投資した、中山の馬商人の張世平・蘇双が、公孫瓚と関係した。州郡長官でない公孫瓚は、つねに商人の支援に頼らざるを得なかったことになる。

4 発丘中郎将・摸金校尉の設置

曹操に固有の官名。大庭脩氏によれば、濫造の傾向にあった、中郎将・校尉の一種。ハカホリ中郎将・カネサグリ校尉くらいの意味。大庭脩「漢の中郎将・校尉と魏の率善中郎将・率善校尉」(『秦漢法制史の研究』1982年)
袁紹がこれを『陳志』袁紹伝で非難しているから、当時としても受容しがたい役割。董卓も墳墓を盗掘し、上谷浩一「董卓事蹟考」で再評価されているが、曹操はこれを受けたものでは。

5 黄巾・塢・異民族の吸収

自衛措置として、数十人~数千人単位で塢に立て籠もり、黄巾にも加わった。曹操・劉焉・孫堅は、黄巾の残党を吸収した。
満寵は、袁紹側に味方する塢を攻略した。曹操は、李典・李通・許褚・臧覇・田畴らの塢や宗族を吸収した。劉虞は、烏桓・鮮卑に恩徳をほどこし、袁術も於夫羅と連携した。渡邉義浩「後漢の匈奴・烏桓政策と袁紹」(『三国志よりみた邪馬台国』2016年)

6 略奪や臨時徴税

董卓は、洛陽周辺で略奪して「牢捜」とよばれたが、董卓なりの財源確保策。上谷論文。
公孫瓚は、袁紹の罪状をあげたとき、富裕な家から銭を没収し、郡県を寇掠したことをあげた。『陳志』公孫瓚伝にひく『典略』に「紹又上故上谷太守高焉、故甘陵相姚貢、橫責其錢、錢不備畢、二人幷命、紹罪八也」と、もと太守・国相から、銭を不法に取り立てたことをいう。

『陳志』巻十一 王脩伝に「袁氏政寬、在職勢者多畜聚」とあり、私財の貯蓄にはげむものが多かった。
武帝紀 建安九年九月にひく『魏書』が載せる公令によると、袁紹支配下の「下民」は、「豪強」の「租賦」を肩代わりさせられた。袁氏を滅ぼした曹操は「強民」による「隠蔵」を取り締まり、「弱民」へ「兼賦(二倍の賦をかける)」することないように、郡国の守相に指令した。

袁氏之治也、使豪彊擅恣、親戚兼幷。下民貧弱、代出租賦、衒鬻家財、不足應命。審配宗族、至乃藏匿罪人、爲逋逃主。欲望百姓親附、甲兵彊盛、豈可得邪!其收田租畝四升、戶出絹二匹、綿二斤而已、他不得擅興發。郡國守相明檢察之、無令彊民有所隱藏、而弱民兼賦也。

袁紹は「富室」と「弱民(下民)」に課税し、「富室」はさらに「弱民」から搾取したようである。

後漢は郡県の民に、一定の田租・賦税を課す以外に、対外戦争の出費にともない、臨時追加税(いわゆる調)を課した。孫呉は後漢税制を継受し、臨時追加諸税「調」を課した。柿沼論文。
曹操は、戸単位で定額の布帛を「調」する税制(実態は家貲に応じた不均等課税制)を、毎年 課した。史料では「賦」「調」と称され、正税と臨時徴税の境目は、曖昧になっていたようである。唐長孺「魏晋戸調制及其演変」上掲。

7 典農部屯田の拡大

柿沼氏の「魏晋時代の人びととそのつながり―臨沢県黄家湾村出土晋簡等よりみた民衆社会」にあるように、曹操は、劉表・袁紹にない長久策として、毛玠の上言を聞き、羽林監の棗祗や韓浩の立案による形で、漢代の農都尉(大司農に属す)による公田耕作制度をうけた典農部屯田を、許に開設した。毛玠を幕府功曹、任峻を典農中郎将、韓浩を中央軍の護軍とした。司空の曹操は、大司農の上位におり、実際には、司空掾属の国淵を通じて、屯田を掌握した。
初年度に穀物百万石の収入があり、次年度から州郡に拡大され、田官が管理した。

屯田は、同時期に公孫瓚(『范書』公孫瓚伝)が行い、『太平御覧』巻三十五 所引『英雄記』に「公孫伯圭開置屯田,稍稍得自供給」とある。『陳志』巻七 陳登伝にひく『先賢行状』に「世荒民飢、州牧陶謙表登爲典農校尉、乃巡土田之宜、盡鑿溉之利、秔稻豐積」とある。
曹操の典農部都尉は、青州黄巾を討伐したときに設置された点に、黄巾残党(青州からの流民)を強制移住させ、地着させる政策であるという特徴がある。黄巾を吸収した群雄は、孫堅・劉焉がいるが、これを一般の郡県の民と別扱いにして、屯田に半強制的に移住させたのは、曹操だけ。
斬首・捕虜を10倍に報告するのが通例なので、曹操がくだした黄巾は、降兵3万、男女10余万であろう。穀物の収穫高から逆算しても、この程度になる。勢力を、過大評価してはならない。

8 塩官設置による耕牛準備

官渡の前後、曹操は衛覬の上言で、塩官を設置した。これで耕牛を購入した。荊州に逃げた流民のうち、関中に帰郷したいものに与え、農業を奨励した。流民を取りこみ、他の群雄の力を削った。

『陳志』巻二十一 衛覬伝に、時四方、大有還民。關中諸將多引、爲部曲。覬書與荀彧曰「關中膏腴之地。頃遭荒亂人民流入荊州者、十萬餘家、聞本土安寧、皆企望思歸。而歸者無以自業、諸將各競招懷以爲部曲。郡縣貧弱、不能與爭、兵家遂彊。一旦變動、必有後憂。夫、國之大寶也、自亂來散放。宜如舊置使者監賣、以其直益巿犁牛、若有歸民以供給之。勤耕積粟、以豐殖關中。遠民聞之、必日夜競還。又使司隸校尉留治關中以爲之主、則諸將日削官民日盛。此彊本弱敵之利也」彧以白太祖。太祖從之、始遣謁者僕射監鹽官、司隸校尉治弘農。關中服從。


おわりに

189年、董卓がさっそく州長官の人事に介入した。反董卓の中心となったは州長官。群雄は州長官をめぐって争い、財政を補填した。
群雄の勝利は、親族・故吏や、(先行研究のいう)名望家・士人・士大夫・貴顕・名士などの意向だけに左右されたのではない。勝敗を左右したのは兵力と、それを支えた経済力。寡兵で大軍をやぶった赤壁は例外。群雄の個人、血縁・地縁・文化資本、士人層との関係性だけでなく、軍事力を支える税収の多寡が、勝敗を決めた。

199年以前において、袁紹・袁術にまさる勢力はない。士人層が指摘する、袁紹・袁術の敗因は、あとづけ。
袁術は、皇帝戦勝後に戦敗を重ね、孫策に離反され、みじめに病死したといわれる。実際には、袁術が経済都市の寿春を失ったことはなく、遺族は故吏の廬江太守の劉勲につどう。劉勲は孫策と懇意。孫権は、袁術の娘を側室にした。子の袁燿を郎中に迎えた。かりに孫策が生前の袁術に叛いておれば、劉勲と孫策は仇敵のはず。孫策が袁術と断交したことは、『陳志』呉書にみえ、典拠の韋昭『呉書』は、孫呉を後漢の後継者とするので、孫氏が袁術の王朝に仕えた過去を消そうとした可能性がある。孫策は、のちに劉勲の強大化を恐れたが、これももと袁術の部曲が、なお強大であったことを物語る。
複数州を擁する袁術に、本来 死角はなく、敗因は袁術の病死にともなう内部分裂にあったとみるべき。

袁紹の官渡敗戦は、曹操側の士人が指摘するほど必然的でない。郭図の囲魏救趙がウラメに出て、食料庫を焼かれたという、戦術的な敗北に過ぎない。曹操側にも袁紹への内通者がいた。官渡ののち、袁紹はすぐに滅びない。河北袁氏の敗因は、袁紹が病死し、親族が分裂し、曹操が各個撃破したから。
曹操は、数年前から黄巾を吸収し、典農部屯田で労働させ、塩官を設置して耕牛を準備するなど、財政補填策をうちだし、複数州の支配を確実にしていった。ここに曹操の勝因を求めると。161123

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大原信正「反董卓同盟の成立」を読む

大原信正「反董卓同盟の成立」(『様々なる変乱の中国史』2016年)を、抜粋しながら読みます。

さっそくですが、50p 表四に結論があり、反董卓同盟の成立過程です。
中平六年十二月、曹操・鮑信が挙兵。
閏十二月、王匡が挙兵?
初平元年正月辛亥(十日)、大赦。
正月癸丑(十二日)、弘農王が殺害される。
この間に、董卓が関東への討伐を模索。弘農王の殺害を受けて、酸棗の盟が成立(臧洪・張邈・張超・劉岱・孔伷・橋瑁、曹操・鮑信)。
二月庚辰(十日)、州郡官を推薦した責任を問われ、周毖・伍瓊が、董卓に処刑される。
二月丁亥(十七日)、長安への遷都を開始。
三月乙巳(五日)、献帝が長安に到着。
三月己酉(九日)、洛陽宮が焼失。
この間に、漳河の盟が成立(袁紹・韓馥、冀州諸郡)。反董卓同盟成立(酸棗の盟・漳河の盟があわさり、袁術・袁遺・王匡も追加)
三月戊午(十八日)、袁紹・袁術の動きを受けて、太傅の袁隗・太僕の袁基および袁氏一族が誅滅される。

はじめに

中平五(188)年、州牧が設置された。これは、軍閥が割拠する条件を用意したに過ぎない。直接の原因は、反董卓同盟。
初平二年四月、董卓が長安に入ったことを契機に、反董卓同盟は内部抗争による、瓦解する。董卓が洛陽を去るや否や、同盟が崩壊した。この脆弱性・分裂性はどこに由来するか。

1 同盟成立に関する史料

『魏志』武帝紀によると、初平元年正月、袁術ら10名が同時に挙兵し、袁紹が盟主となったと。曹操の挙兵は、前年の十二月とする。『魏志』袁紹伝は、袁紹が車騎将軍を自号したと分かる。
『後漢紀』は、武帝紀を継承。冀州牧の韓馥を冀州刺史とし、河内太守の王匡を河南太守とし、東郡太守の橋瑁を東海太守とするなどの誤りあり。

『范書』孝献帝紀には、挙兵した人名をあげず「山東州郡」とする。
『范書』列伝六十四上 袁紹伝は、広陵太守の張超を加え、駐屯した地を記す。そのため、袁紹を盟主に「遥推」した、つまり、それぞれの地域から袁紹を推挙したことが知られる。袁紹が司隷校尉を領したことも、新たな情報。

『資治通鑑』巻五十九 漢紀五十一によると、先に盟約が行われ、その後に郡守が各地に駐屯したと述べる。

『資治通鑑』の記述順は、盟約→駐屯ですが、司馬光はここに時系列(先後関係)を込めた意図はないような気がしますが…。
それから『資治通鑑』は、初平元年について、季節・月を判定することを諦めている、という特徴があります。これは、『資治通鑑』にしては珍しいことでした。

袁紹が「官号を板授」したとする。仮の措置として、名目のみの官職を授けた。

反董卓の前後にある事件は、初平元年正月癸丑(十二日)の弘農王殺害、二月丁亥(十七日)の長安遷都。
『魏志』と『後漢紀』は、弘農王殺害→同盟成立→長安遷都。『後漢書』と『資治通鑑』は、同盟成立→弘農王殺害→長安遷都。違いは、弘農王を殺害してから同盟が成立したか、同盟が成立してから弘農王が殺害されたか。
先学は、史料のとおり、初平元年正月に、一斉にもしくは徐々に軍勢が集まったとする。しかし先学は、弘農王の殺害との前後関係を問題にしない。

もしも正月に同盟が成立したなら、その後、二ヶ月くらい、同盟がなにをしていたのか不明。
武帝紀に、「二月卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室。是時、紹屯河內、邈岱瑁遺屯酸棗、術屯南陽、伷屯潁川、馥在鄴。卓兵彊、紹等莫敢先進。……遂引兵西、將據成皋。邈、遣將衞茲、分兵隨太祖。到滎陽汴水、遇卓將徐榮」とある。二月条に掛けられるが、董卓が「遂焚宮室」するのは、三月己酉(九日)なので、戦いは三月以降のできごと。

武帝紀に「是時」が出てきた時点で、紀伝体の時系列は、かなり怪しくなる。


2 皇帝の廃立と曹操の挙兵

八月、董卓が少帝とともに洛陽に帰還。
董卓が洛陽に到着する前、鮑信が募兵先の泰山軍から洛陽にかえり、袁紹に董卓の打倒を進めた。袁紹が董卓を恐れて聞き入れないため、鮑信は郷里に帰った。『魏志』巻六 董卓伝、巻十二 鮑信伝にひく『魏書』。同じく、何進によって徐州に派遣されていた王匡も、派遣先で何進の凶報を知り、泰山に帰郷した。武帝紀にひく『英雄記』。

董卓は、洛陽に袁紹に廃立を誘ったが、袁紹は仮された節を、洛陽城の東側北端の上東門(建春門)にかけて、冀州に出奔。虎賁中郎将の袁術に、後将軍の位を与えて誘うが、魯陽県に出奔。
袁紹が冀州をめざしたのは、許攸の建議と思われる。冀州刺史の王芬とともに霊帝暗殺を計画した許攸は、冀州の地理に詳しく、人士と交流があった。
袁術が荊州をめざしたのは、反乱・災害から避難する候補地であったから。谷[雨齋]光「漢末魏晋的流民」、賀昌群「漢末大乱中原人民之流徙与文化之伝播」、劉汝霖「漢末魏晋流人考」。
洛陽から荊州に向かう経路に、伊闕関をとおるルートがある。八関都尉は、『范書』霊帝紀 中平元年三月に置かれたが、李賢注に伊闕関が見える。伊闕都尉の張承の属する河内張氏は、汝南袁氏と家族ぐるみの付き合い。このことが袁術を荊州に向かわせた。
張承の祖父の張歆が、建和三(149)年十月に大司農から司徒となったとき、袁術の祖父の袁湯も、司徒から太尉になった。

『陳志』巻十一 張範伝に「弟承,字公先,亦知名,以方正徵,拜議郎,遷伊闕都尉。董卓作亂,承欲合徒眾與天下共誅卓」とある。
遡って、『范書』桓帝紀に「冬十月,太尉趙戒免。司徒袁湯為太尉,大司農河內張歆為司徒」、李賢注に「歆字敬讓」とある。

元嘉元(151)年、張歆が罷免されるまで、2年間、ともに三公であった。時期は重ならないが、張延(張歆の子、張承の父)と、袁隗・袁逢がともに三公となった。太傅の袁隗は、中平六年前半、張範に娘を娶せようとして断られた。

『陳志』巻十一 張範伝に「張範,字公儀,河內脩武人也。祖父歆,為漢司徒。父延,為太尉。太傅袁隗欲以女妻範,範辭不受」とある。あとに「袁術備禮招請,範稱疾不往,術不彊屈也」とあり、袁術が拒否られたことは、『范書』袁術伝にも見える。
大原氏が「中平六年前半」とするのは、袁隗が太傅になった時期(中平六年四月)より後で、かつ、張範伝の「董卓作乱」よりも前に記事があるからでしょうか。董卓が「作乱」するのは、中平六年後半と。


董卓は廃立した後、典軍校尉の曹操も取りこもうとし、驍騎校尉を与えようとする(武帝紀)。しかし、『太平御覧』巻二百三十八 驍騎将軍の条にひく『魏志』に「董卓立獻帝,表太祖為驍騎將軍,欲與計事。太祖乃變姓名,間行東歸」とある。石井氏はこれに基づいて、董卓は曹操を、驍騎校尉でなく、驍騎将軍にしようとしたとする。
曹操が逃亡する前に、何太后殺害のことが見える。曹操が董卓に誘われたのは、廃立後まもなくか。『資治通鑑』は中平六年十二月に、袁術・曹操が逃亡したとするが、誤り
曹操は中牟県を過ぎて、亭長(県に属する)に捕らわれた。『続漢志』郡国志一 河南に「中牟有圃田澤。有清口水。有管城。有曲遇聚。有蔡亭」とある。中牟県のもとの亭として見えるのは「蔡亭」であり、曹操を捕らえたのは蔡亭の長か。
曹操を逃がしたのは県功曹。名は伝わらないが、このとき中牟県にいた任峻は、のちに県主簿となって、県令の楊原とともに挙兵し、曹操の指揮下に入る。中牟県では、反董卓の動きが起こり、曹操を支持する勢力がいた。『陳志』任峻伝。

曹操が東行したのは、故郷の譙県をめざした。陳留郡の襄邑県で衛茲に合い、同盟を結んだ。『陳志』巻二十二 衛臻伝および注引『先賢行状』。

◆董卓による州郡の人事
董卓が、荀爽・勧誘・陳紀を登用したのは、列伝の記述により九月と推測できる。周健『三国潁川郡紀年』2013年によると、荀爽が司空となった十二月から逆算して、荀爽・韓融・陳紀の任官を、中平六年九月二十一日と推定する。
韓馥ら州郡長官の任命は、時期が不明。ただし、孔伷の前任と思しき、豫州牧の黄琬が、九月庚午(二十一日)に司徒に転じている。『范書』献帝紀。孔伷の豫州刺史がこれに続くなら、荀爽らと同じく九月中に、一斉に行われたか。

同じころ、泰山郡に帰っていた王匡が、河内太守に任命された。武帝紀にひく『英雄記』に「會進敗、匡還州里。起家、拝河内太守」とある。周毖・伍瓊の推挙であるかは不明だが、当時の人事は彼らが主導した。
任官時期は分からないが、すでに張超が広陵太守に、袁遺が山陽太守だった。

董卓は、宦官の誅滅をおぎない、定員のなかった侍中・黄門侍郎を定員6名とし、侍中・黄門侍郎に政策決定過程に参与できる「省尚書事」を付与した。下倉渉「後漢末における侍中・黄門侍郎の制度改革をめぐって」(『集刊東洋学』七二、1994年)。下倉氏は、改革の時期を九月三日から十二日のあいだとする。

董卓は、周毖・伍瓊・何顒に従って、袁紹を勃海太守とした。時期は不明。『後漢紀』は初平元年正月、『資治通鑑』は中平六年十二月とする。武帝紀にひく『英雄記』の韓馥の伝によると、韓馥を冀州牧にした後で、かつ初平元年の反董卓同盟より前。『資治通鑑』のように中平六年末とすべき。万斯同「三国漢季方鎮年表」も十二月とする。
周毖らの発言は、袁紹を懐柔することで、諸軍勢の連携を阻止することを目的とする。士人への譲歩だけでなく、董卓の利益も考慮した。反董卓が成立すると、周毖らは処刑されており、反董卓の成立まで想定して、推薦を行ったとは考えにくい。

◆曹操らの挙兵
武帝紀によると、中平六年十二月、曹操が陳留で、衛茲とともに挙兵。史料で確認できる限り、最も早い。曹操が挙兵できたのは、私財+衛茲と、陳留太守の張邈のおかげ。曹操が挙兵した己吾県は、張邈の居所である陳留郡府とのあいだに距離がある。張邈は、群下での挙兵を容認した、というかたち。己吾県なら、郷里の譙県と連携を図れる。
曹操には、夏侯惇・曹洪が従う。
曹真伝にひく『魏書』によると、曹真の父の秦邵が、曹操に応じて兵を集めたが、豫州刺史の黄琬に殺害された。堀敏一氏は、曹操が十二月に挙兵する前、曹操が譙県に戻っていたとする。しかし黄琬は、九月二十一日に司徒に転じた。疑問が残る。

曹操が十二月に「挙兵」したのは、武帝紀の自己申告。具体的に何かをしたわけではない。董卓側の郡県の府を襲うとか、董卓軍の幕営を襲うとか。つまり、九月までにも、逃亡した曹操が、じんわり兵を集めており、秦邵がこれに呼応した、と理解してもムリではない。


郷里の泰山に帰っていた鮑信が、二万を引きつれて、鮑勛とともに曹操に参加。『陳志』鮑勛伝にひく『魏書』。堀氏は、泰山は遠いので、十二月に合流しないとする。しかし大原氏は、中平六年末には合流したと考える。
会稽の周喁が、二千で加わり、曹操の軍師となった。孫堅伝にひく『会稽典録』。

『会稽典録』:初曹公興義兵、遣人要喁、喁卽收合兵衆、得二千人、從公征伐、以爲軍師。後與堅爭豫州、屢戰失利。會次兄九江太守昂爲袁術所攻、喁往助之。軍敗、還鄉里、爲許貢所害。


同じころ、河内太守の王匡も、挙兵。河陽津で董卓に大敗。
このとき河内郡の韓浩が、王匡の従事として、董卓と盟津で戦った。韓浩の舅である、河陰令の杜陽が捕縛された。『陳志』巻九 韓浩伝にひく『魏書』。
『陳志』董卓伝の記述の順序から、初平元年正月か、それ以前と理解できる。

『陳志』董卓伝:河內太守王匡遣泰山兵、屯河陽津。將以圖卓。卓遣疑兵、若將於平陰渡者。潛遣銳衆、從小平北渡、繞擊其後。大破之津北、死者略盡。卓、以山東豪傑並起、恐懼不寧。初平元年二月、乃徙天子都長安。
山東の豪傑が並起するのは、初平元年の正月と思われ、天子を移すのは明記があるとおり二月。

王匡の挙兵は、中平六年末に遡る。破れた王匡は泰山に戻り、数千をあつめ、陳留太守の張邈との協力を模索する。武帝紀にひく謝承『後漢書』。

謝承『後漢書』:匡少與蔡邕善。其年爲卓軍所敗、走還泰山、收集勁勇得數千人、欲與張邈合。


曹操の挙兵が十二月。初平元年正月は、翌月なので、挙兵が急速に広がったと理解された。だが中平六年には、閏十二月がある。『春秋戦国秦漢朔閏表』2006年。初平元年正月までは、二ヶ月あった。
中平六年年末の段階で、曹操・鮑信が陳留で、王匡が河内で兵をあげた。その他は、まだ挙兵しない。

3 酸棗の盟

洛陽では、初平元年に改元。これは、霊帝崩御を受けた、踰年改元。中平のあと、何回か改元されたが、中平に戻された。少帝を抹殺し、献帝を霊帝に直接つなげるため。
『陳志』臧洪伝・『范書』臧洪伝によれば、弘農王が殺害されたことをキッカケに、広陵太守の張超に董卓討伐を勧める。張超は、袁綏に広陵郡を託して(『陳志』陸瑁伝注)臧洪とともに陳留郡にゆき、兄の張邈とはかる。

『陳志』巻五十七 陸瑁伝に「廣陵袁迪」とあり、裴注に「迪孫曄,字思光,作獻帝春秋,云迪與張紘等俱過江,迪父綏為太傅掾,張超之討董卓,以 綏領廣陵事」とある。

張邈は酸棗でふたりに会い、臧洪を兗州刺史の劉岱・豫州刺史の孔伷に派遣した。こうして酸棗の同盟が結ばれた。

『范書』列伝四十八 臧洪伝に「乃使詣兗州刺史劉岱、豫州刺史孔伷,遂皆相善。邈既先有謀約,會超至,定議,乃與諸牧守大會酸棗」とある。

「賊臣董卓」を「義兵」をあげて討伐する、というもの。

注意すべきは、酸棗が、弘農王殺害(正月十二日)のあとであること。
先行研究は、『范書』何皇后紀に「山東義兵→弘農王殺害」とあり、董卓伝に「東方の兵→弘農王殺害」とあるから、弘農王殺害より先に、反董卓が起きたとする。しかし、臧洪伝は、董卓が「帝を殺し」たあと。弘農王殺害→酸棗の盟である。

のちに孫策が、張紘に書かせた文書に、「曩日之舉義兵也、天下之士所以響應者、董卓擅廢置、害太后、弘農王」とあり、義兵をあげて、天下の士が饗応したユエンは、董卓が弘農王を殺害したからとする。

すると、『范書』何皇后紀・董卓伝の「山東義兵→弘農王殺害」の順序はどうなるか。
『太平御覧』巻九十二にひく『英雄記』に「廢皇帝史侯為弘農王,立陳留王為皇帝。卓聞東方州郡謀欲舉兵,恐其以弘農王為主,乃置王閣上,薦之以棘,召王太傅責問之,曰:「弘農王病困,何故不白?」遂遣兵迫守太醫致藥,即日弘農王及妃唐氏皆薨」とある。董卓は、東方が挙兵せんと欲すると聞き、弘農王を殺した。挙兵の事実でなく、準備を聞いて、弘農王を殺したのだ。
この『英雄記』は、唐氏が死んだとするが、『范書』何皇后紀によると、郷里の潁川に帰って、献帝により庇護された。これは誤りである。

臧洪を中心とした同盟は「反董卓同盟」でない。
『後漢紀』献帝紀 初平元年三月条は、「是時袁紹屯河內,陳留太守張邈、兗州刺史劉岱、東郡太守喬瑁、山陽太守袁遺屯酸棗,後將軍袁術屯南陽,豫州刺史〔孔□〕(韓馥)〔屯潁川〕 。大會酸棗,將盟諸州郡更相推讓,莫有肯先者。廣陵功曹臧洪升壇」と、臧洪を中心とした「反董卓同盟」のように描写する。しかし、臧洪を中心とした同盟は、臧洪伝で、劉岱・孔伷・張邈・橋瑁・張超だけである。袁紹・袁術・韓馥などはいない。
臧洪の同盟を「酸棗の盟」とよぶ。すでに挙兵した曹操・鮑信は、張邈のもとにあり、酸棗に参加したと思われるが、官位によらず義兵を率いただけで、中心的な存在にならない。兗州に豫州が協力した2州の連合。刺史が参加し、兗州の陳留・東郡、徐州の広陵、豫州の陳国が入るだけ。兗州の他の郡国(済北・済陰・東平・任城・泰山)と、豫州の他の郡国(潁川・汝南・梁国・沛国)の動向は不明。徐州刺史の陶謙もまだ。

洛陽の反応は、『陳志』巻十六 鄭渾伝にひく張璠『漢紀』に、
「泰乃詭辭對曰:非以無益、以山東不足加兵也。今山東議欲起兵、州郡相連、人衆相動、非不能也」とあり、鄭泰が関東を征討することを反対した。山東の勢力がしょぼいことを、10の理由で示す。いつのことか。これを『范書』列伝六十は、董卓の長安遷都より前に置く。鄭泰の言葉に、袁紹の名が見えるから、反董卓ができてからとされた。しかし、『范書』が出典とした『漢紀』に「議して起兵せんと欲し」とあるから、まだ起兵してない。山東が起兵する機運が高まっている段階。袁紹は、起兵しそうな人物と、認識されただけ。
ゆえに、鄭泰のことは、挙兵より前。酸棗の盟よりも前。『太平御覧』所引『英雄記』の「謀りて兵を挙げむと欲するを聞き」が実情に近い。「欲す」にこだわる。

4 反董卓同盟の成立

酸棗の盟と前後して、東郡太守の橋瑁は、三公の檄文を送った。武帝紀 注引『英雄記』の韓馥伝のようなところに見える。
勃海に逃亡した袁紹は、起兵を模索した。中平六年の末より早かろう。しかし冀州牧の韓馥は慎重で、州従事に袁紹を監視させた。そこに橋瑁から三公の移書がきて、治中従事の劉子恵の建言に従い、和同して挙兵を許可した。
『英雄記』:袁紹之在勃海、 馥恐其興兵、遣数部從事守之、不得動搖。東郡太守橋瑁詐作京師三公移書與州郡、陳卓罪惡。……治中從事劉子惠曰「今興兵 爲國、何謂袁、董!」馥自知言短而有慚色。……子惠復言「兵者凶事、不可爲首。今宜往視他州、有發動者、然後和之。……馥乃作書與紹、道卓之惡、聽其舉兵。
他州を視よというが、これは兗州・豫州が主体となった、酸棗の盟を指す。移書があったとき、酸棗の盟はまだ動かなかったが、酸棗を待ってから韓馥は動いた。袁紹・韓馥の挙兵は、酸棗とは別に行われた。勃海から酸棗までは遠く、袁紹は酸棗に参加しない。

袁紹が起兵したとき、河内太守の王匡は小平津で敗れ、張邈のもとに向かい、兵を立て直し中。王匡が張邈を頼ったのは、すでに酸棗の盟があったから。張邈が太守である陳留の酸棗が、反董卓の本陣であったから。

袁術の動静は不明だが、孫堅と魯陽で合わさるから、ずっと魯陽にいた。橋瑁の移書で挙兵に踏み切ったと思われるが、酸棗に行かない。山陽太守の袁遺も加わったが、檄文のほかに、山陽の属する兗州刺史の劉岱が同盟の中心者であり、親族の袁紹の影響もある。

『范書』袁紹伝にひく『献帝春秋』に、「紹合冀州十郡守相,眾數十萬,登壇歃血,盟曰……焚燒宮室」とある。袁紹は、冀州10郡(魏郡・鉅鹿・常山・中山・博陵・河間・安平・勃海・清河・趙国)とともに同盟した。文中にある「宮室を焚焼す」は、初平元年三月己酉である。つまりこの同盟は、三月以降。
「十郡の守相を合す」とあるから、袁紹が冀州牧となった、初平二年七月のことにも読める。
しかし、建安元年に袁紹は、許県の献帝に上書して、『范書』袁紹伝で「飲馬孟津,歃血漳河」という。李賢は『献帝春秋』をここに注釈した。「孟津に飲(うまか)ひ」は、河内太守の王匡とともに河内郡に駐屯したことを指す。つまり『献帝春秋』の同盟は、反董卓のときのこと。

袁紹による「漳河の盟」はいつか。『范書』袁紹伝によると、董卓は袁紹が関東を得たと聞き、袁隗らを殺した。『范書』献帝紀によると、袁隗が殺されたのは、三月戊午(十八日)。袁紹が盟主となったのは、三月であり、酸棗の盟から二ヶ月後。

漳河の盟と、酸棗の盟・反董卓同盟との関係は。
漳河の盟は、鄴で行われた。冀州を単位として行われた。のちに袁紹が韓馥から冀州牧を奪うため、高幹・荀諶を派遣した。『陳志』袁紹伝で、荀諶が「袁氏は将軍の旧、且つ盟を同じくす」とある。韓馥と袁紹は、同盟の関係である。これが、漳河の盟のこと。反董卓同盟でない。韓馥は、冀州十郡で袁紹とともに同盟し、矢面に立ちたくないから袁紹を盟主とした。
酸棗・漳河の同盟の宣誓の締めくくりは、似ている。

酸棗:有渝此盟,俾墜其命,無克遺育:『范書』臧洪伝
漳河:有渝此盟,神明是殛,俾墜其師,無克祚國:『范書』袁紹伝 注引『献帝春秋』

「有渝此盟」意向は、『春秋左氏伝』僖公 伝二十八年である。「有渝此盟 。明神殛之。俾隊其師。無克祚國」を受けている。先行する酸棗に対抗して、袁紹が漳河の盟をやった。
すると、酸棗の盟→漳河の盟→反董卓同盟→袁隗の殺害、という順序になる。

『陳志』武帝紀のように、袁紹が盟主となった。袁紹は、車騎将軍・領司隷校尉を自称。曹操に行奮武将軍、鮑信に行破虜将軍、鮑韜に裨将軍を名乗らせた。
この授官は、袁紹が酸棗で行ったと思われる。曹操・鮑信は「行」がつく。鮑韜につかない。曹操・鮑信には、別の官職があり、兼任による将軍の任命か。『後漢紀』は曹操を議郎、鮑信を済北相とするが、議郎はもっと前、済北相はもっと後である。曹操は典軍校尉を自称し、鮑信は騎都尉を自称したか。
鮑信・鮑韜の任命は、『陳志』巻十二 鮑勛伝にひく『魏書』に「太祖與袁紹表信行破虜將軍、韜裨將軍」と、曹操・袁紹がともに上表したように記す。しかし自称だろう。どちらの将軍号も、具体的な管轄領域を持たない。

袁紹が反董卓の盟主になるのは、四世三公の名門、個人の名声と交友関係があるほか、すでに漳河で冀州の盟主になったから。反董卓は、酸棗と漳河が連合して成立し、袁紹が、張邈との関係から盟主を兼ねた。同盟ができたのは、袁紹が曹操・鮑信に官位を授けた、酸棗においてであろう。

袁紹は、勃海で起兵して、河内に進軍した。武帝紀に「このとき袁紹は河内に屯し」とあり、『陳志』巻八 張楊伝に「袁紹 河内に至り、張楊は袁紹と合す」とある。勃海→酸棗→河内と、酸棗に立ち寄ったか。
のちに袁紹が韓馥から冀州牧をうばうとき、河内→延津→朝歌→黎陽ともどる。延津は、酸棗に近い。

『范書』袁紹伝によると、「袁紹は王匡とともに河内に屯し、孔伷は潁川に屯し、韓馥は鄴県に屯す。余軍みな酸棗に屯し、盟約し、遥かに袁紹を盟主に推す」とあるから、袁紹が酸棗に居なさそう。しかし、諸将が各地に駐屯するのは、初平元年三月以降のはず。范曄が、『陳志』武帝紀や『後漢紀』献帝紀にもとづいて誤解し、かってに「遥」の1字を追加して、ツジツマを合わせたのではないか。
袁紹が酸棗で、曹操に官位を授けたことに、こだわりたい。

袁遺と袁術は、袁紹の呼びかけか。袁遺は、兗州の山陽の太守でありながら、酸棗の盟に加わっていなかった。しかし反董卓に加わったのは、袁紹の呼びかけによるか。酸棗・漳河とは別の、反董卓の盟約シーンは、史料に見えない。
曹丕『典論』自叙に、『春秋』の義により、山東の牧守が起兵したとする。隠公四年二月、衛国の石碏が、陳桓公と結び、陳国の濮において、衛公州吁を殺した。かつて衛の公子だった州吁は、石碏の子の石厚とともに州吁の異母兄である衛の桓公を殺して、国君の地位を奪っていた。そのため、石碏は州吁とともに、自身の子である石厚までも殺した。
しかし、『典論』には時間の混乱がある。末尾に、初平元年二月の長安遷都がみえる。『春秋』の義は、酸棗の盟のことか。その前に「兗・豫の師 滎陽に戦い」とあるが、これは曹操と徐栄が戦ったことで、すでに酸棗+漳河=反董卓が成立したあと。当時、まだ5歳だった曹丕は、だいたいを述べただけ。
とすれば、『典論』に見える「山東牧守」が『春秋』の義をのべたのは、酸棗+漳河=反董卓のときか。これで、史料に見えなかった(大原氏の言うところの)反董卓の結成のときの宣誓文を埋め合わせることができる。

反董卓が成立すると、司隷・兗州・豫州・徐州・冀州・荊州にわたる。
もっとも早いのは、河南郡の中牟県の県令である楊原と、その主簿である任峻。「行河南尹事」を称した。曹操が酸棗から中牟にくると、形式上、河南の全域をゆずる。『陳志』巻七 臧洪伝にひく『九州春秋』。
反董卓が成立すると、青州刺史の焦和が起兵。
『陳志』臧洪伝にひく『九州春秋』に「初平中、焦和爲青州刺史。是時英雄並起、黃巾寇暴、和務及同盟、俱入京畿、不暇爲民保障、引軍踰河而西。未久而袁、曹二公卓將戰于滎陽、敗績」とあり、京畿(洛陽)をめざした。
西河太守の崔鈞は、袁紹に呼応した。『范書』列伝四十二 崔寔伝。上掲。
王叡・孫堅も起兵した。孫堅は、参加者に数えられない。袁術が袁術と合流したのは、反董卓の成立ののち、初平元年末と思われるため、周辺勢力としておく。

袁術・孫堅の吟味が、あまりされていないので、後ほど自分でやります。


未遂に終わったが、河内の張承は、『陳志』巻十一に「董卓作亂、承、欲合徒衆與天下共誅卓」と、意思だけはあった。蓋勲・皇甫嵩は、『范書』列伝四十八 蓋勲伝に「徵為議郎。時左將軍皇甫嵩精兵三萬屯扶風,勳密相要結,將以討卓。會嵩亦被徵,勳以眾弱不能獨立,遂並還京師。自公卿以下,莫不卑下於卓,唯勳長揖爭禮,見者皆為失色」と、意思だけはあった。

こうして、司隷・兗州・豫州・徐州・冀州・荊州・并州・青州にひろがった。黄巾が蜂起した地域と重なる。并州は董卓が治め、反董卓ではない。益州牧の劉焉は保守。幽州牧の劉虞・徐州刺史の陶謙・涼州刺史の韋端、交州の朱符は中立か。

おわりに

反董卓は、急激に盛り上がったのでない。曹操が起兵した中平六年十二月から、閏十二月をはさみ、初平元年三月まで、5ヶ月をかけた。
酸棗・漳河の同盟から成ったので、はじめから分散の傾向を有した。161125

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