蜀漢 > 『華陽国志』和訳/劉二牧志・劉先主志・劉後主志

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『華陽国志』巻五 劉二牧志より劉焉

テキストは、維基文庫をつかってるので、違ってたらすみません。

劉焉が益州牧となる

漢二十二世孝靈皇帝,政治衰缺,王室多故;太常竟陵(吳、何、王、石本無此二字,其他各本有。浙本剜補。)劉焉字君朗(元豐本、廖本、浙本作朗。其他各本並作郎。此下,張、吳、何、王、石本有「江夏竟陵人,漢魯恭王之裔」十一字。他各本無。蓋張佳胤妄增也。浙本剜去,空十一格。)建議言:「刺史太守,貨賂為官,割剝百姓,以致離叛。可選清名重臣,以為牧伯,鎮安方夏。」焉內求州牧,以避世難。

漢22世の霊帝のとき、政治がおとろえ、王室には政変がおおい。太常である竟陵の劉焉(あざなは君朗)は、建議した。「刺史・太守は、賄賂によって官職につき、百姓から搾取するから、百姓が離反するのだ。清名ある重臣を選んで、牧伯にすべきだ。国土が鎮安するだろう」と。劉焉は、むねの内では、州牧の官職を求め、世の難を避けようとした。

范書 劉焉伝:時靈帝政化衰缺,四方兵寇,焉以為刺史威輕,既不能禁,且用非其人,輒增暴亂,乃建 議改置牧伯,鎮安方夏,清選重臣,以居其任。焉乃陰求為交阯,以避時難。
蜀志 劉焉伝:焉、覩靈帝政治衰缺、王室多故、乃建議言「刺史太守、貨賂爲官、割剝百姓、以致離叛。可選清名重臣以爲牧伯、鎭安方夏」焉、內求交阯牧、欲避世難。


侍中廣漢董扶私於(吳、何、王、石本字作謂。浙本剜改。)焉曰:「京都將亂。益州分野有天子氣。」焉惑之,意在益州。會刺史河南□(《三國志》作郤,見《郤正傳》。)儉賦歛繁擾,流言遠聞。而并州殺刺史張壹〔懿〕,《後漢書》作懿。《三國志》作益。張、吳、何、王、浙本與《函海》本有小注。)涼州殺刺史耿鄙,焉議得行。漢帝將徵儉加刑,以焉為監軍使,尋領益州牧。董扶亦求為蜀西部都尉。太倉令巴郡趙韙,去官從焉來西。(宋本與錢、劉、李、《函》、廖本並有「來西」二字。張、吳、何、王、石本無。浙本擠添。)

侍中である広漢の董扶は、ひろかに劉焉にいう。「洛陽はいまにも乱れそうだ。益州の分野には、天子の気がある」と。劉焉はこれに惑わされ、気持ちが益州にむいた。
たまたま益州刺史である河南の郤倹は、課税がおもくて煩わしく(益州の政情不安を伝える)流言が遠くまで聞こえた。しかも并州刺史の張壹が殺された。

『後漢書』では張懿、『三国志』では張益とかかれる。

涼州刺史の耿鄙も殺された。ゆえに劉焉の意見は、採用された。
漢帝は、郤倹を中央にめして刑を加えるため、劉焉を監軍使にして(益州にゆかせ)、そして益州牧を領させた。董扶もまた、蜀西部都尉を求めた。太倉令である巴郡の趙韙は、官職を捨てて、劉焉に従って西にいった。

范書 劉焉伝:議未即行,會 益州刺史郗儉在政煩擾,謠言遠聞,而并州刺史張懿、涼州刺史耿鄙並為寇賊所害,故焉 議得用。出焉為監軍使者,領益州牧,太僕黃琬為豫州牧,宗正劉虞為幽州牧,皆以本 秩居職。州任之重,自此而始。
蜀志 劉焉伝:議未卽行、侍中廣漢董扶、私謂焉曰「京師將亂。益州分野、有天子氣」焉聞扶言、意更在益州。會益州刺史郤儉、賦斂煩擾、謠言遠聞、而幷州殺刺史張壹、涼州殺刺史耿鄙。焉、謀得施。出爲監軍使者、領益州牧、封陽城侯、當收儉治罪。扶、亦求爲蜀郡西部屬國都尉、及太倉令會巴西趙韙去官、俱隨焉。


益州の現地勢力を弾圧する

中平元年,涼州黃巾逆賊馬相、趙祗等聚眾綿竹,殺縣令李升,募疲役之民,一二日中得數千人;
遣王饒、趙播等進攻雒(元豐本作。城,殺《函海》從劉本作役,而注云「李本作殺」。)刺史儉;并下蜀郡、犍為。旬月之間,破壞三郡。
相自稱天子,眾以萬數。又別破巴郡,殺太守趙韙(舊各本俱誤衍韙字。茲刪。)部。州從事賈龍,素領家兵在犍為。(句斷,說詳注釋。)
乃之青衣,率吏民攻相,破滅之。州界清淨,龍乃(此舊傳寫者誤移而衍。)選吏卒迎焉。焉既到州,移治綿竹,撫納叛離,務行小惠。

中平元年、涼州の黄巾の逆賊である馬相・趙祗らは、兵をあつめて綿竹(にきて)県令の李升を殺した。公役につかれた民をつのると、1・2日のうちに数千人が集まった。(馬相は)王饒・趙播らをつかわし、雒城に進攻して、刺史の郤倹を(殺した)。さらに蜀郡・犍為に攻め下り、旬月の間に、3郡を破壊した。
馬相は天子を自称して、兵は万を数えた。また別に、巴郡を破って、巴郡太守の趙韙の部下を殺した。州從事の賈龍は、もとより家兵を領して、犍為にいた。(文章に断絶あり)青衣をきて?、吏民を率いて、馬相を破り滅ぼした。州界は清浄となり、治安がもどった。吏卒を選んで、劉焉を迎えた。劉焉が益州にいたると、綿竹に治所を移して、反乱勢力をなつけ、わずかな恵みを施した。

范書 劉焉伝:是時益州賊馬相亦自號「黃巾」,合聚疲役之民數千人,先殺綿竹令,進攻雒縣, 殺郗儉,又擊蜀郡、犍為,旬月之閒,破壞三郡。馬相自稱「天子」,眾至十餘萬人,遣兵破 巴郡,殺郡守趙部。州從事賈龍,先領兵數百人在犍為,遂糾合吏人攻相,破之,龍乃遣 吏卒迎焉。焉到,以龍為校尉,徙居綿竹。(龍)撫納離叛,務行寬惠,而陰圖異計。
蜀志 劉焉伝:是時、涼州逆賊馬相、趙祗等、於綿竹縣、自號黃巾、合聚疲役之民。一二日中得數千人、先殺綿竹令李升。吏民翕集、合萬餘人。便前、破雒縣、攻益州、殺儉。又到蜀郡犍爲、旬月之間、破壞三郡。相、自稱天子、衆以萬數。州從事賈龍、素領兵數百人在犍爲東界、攝斂吏民、得千餘人、攻相等、數日破走、州界清靜。龍、乃選吏卒、迎焉。焉、徙治綿竹、撫納離叛、務行寬惠、陰圖異計。


時南陽、三輔民數萬家避地入蜀,焉恣(《函海》本有小註云:「恣似資。劉、吳、何、李本亦作恣。」)饒之,引為黨與,號「東州士」。遣張魯斷北道。枉誅大姓巴郡太守王咸、李權等十餘人,以立威刑。〔設〕前、後、左、右部司馬,擬四軍,統兵,位皆二千石。(「漢」舊各本有漢字,當衍。)

ときに南陽・三輔の民は、数万家が、避難して蜀に入った。劉焉はほしいままに(避難民を)厚遇して、じぶんの党与に引きよせ、「東州士」と呼んだ。張魯に北道を断たせた。罪を着せて、現地の大姓である巴郡太守の王咸・李権ら、10余人を殺して、(州牧として)威刑を立てた。前・後・左・右部司馬を設けて、(漢の)四軍になぞらえた。(4人の司馬は)兵をすべ、官位はみな二千石である。

范書 劉焉伝:沛人張魯,母有恣色,兼挾鬼道,往來焉家,遂任魯以為督義司馬,(遂)與別部司馬張脩 將兵掩殺漢中太守蘇固,斷絕斜谷,殺使者。魯既得漢中,遂復殺張脩而并其眾。焉欲立威刑以自尊大,乃託以佗事,殺州中豪彊十餘人,士民皆怨。
蜀志 劉焉伝:張魯母、始以鬼道、又有少容、常往來焉家。故、焉遣魯爲督義司馬、住漢中、斷絕谷閣、殺害漢使。焉上書言「米賊斷道、不得復通」又、託他事、殺州中豪強王咸、李權等十餘人。以立威刑。


獻帝初平二年,犍為太守任岐,與賈龍惡焉之陰圖異計也,舉兵攻焉,燒成都邑下。焉禦之,東州人多為致力,遂克岐、龍。焉意盛,乃造乘輿車服千餘,僭擬至尊。

献帝の初平二年、犍為太守の任岐は、賈龍とともに、劉焉をにくんだ。劉焉が(益州の在地勢力を虐げる)ひそかな陰謀を懐くからである。任岐と賈龍は挙兵して劉焉を攻め、成都の邑下を焼いた。劉焉はこれを防ぎ、東州人がおおいに力を発揮して、ついに任岐と賈龍に勝った。劉焉の気持ちは盛んになり、乗輿・車服を千あまり造らせ、天子のふりをした。

范書 劉焉伝:初平二年,犍 為太守任岐及賈龍並反,攻焉。焉擊破,皆殺之。自此意氣漸盛,遂造作乘輿車重千餘 乘。
蜀志 劉焉伝:犍爲太守任岐及賈龍、由此反攻焉。焉、擊殺岐龍。焉意漸盛、造作乘輿車具千餘乘。
ぼくは思う。劉表が、赴任直後に、在地豪族を一網打尽にしたのに似ている。つぎに、長安にいる息子たちを使って、長安の政局に介入するが、このように在地勢力を片づけるという、地ならしをした後でなければ、できないことだった。


長安を攻めようとして失敗する

焉長子範為左中郎將,仲子誕治書御史,季子璋奉車都尉,皆從獻帝都(廖本注云「當作在」)。〔在〕長安,惟叔子別部司馬瑁隨焉。焉聞相者相陳留吳懿妹當大貴,為瑁聘之。荊州牧山陽劉表,上焉有「子夏在西河疑(當讀如儗。說具注釋。)聖人論」。帝遣璋曉諭焉。焉留璋不遣「反」。

劉焉の長子である劉範は、左中郎将である。次男の劉誕は治書御史である。末子の劉璋は、奉車都尉である。みな献帝に従って、長安にいる。ただ、叔子である別部司馬の劉瑁だけが、劉焉にしたがう(益州にいる)。劉焉は、相をみる者が「陳留の呉懿の妹は、大貴となるだろう」というのを聞き、劉瑁にめとらせた。荊州牧である山陽の劉表は、上表した。「劉焉は、『子夏が西河で聖人を疑ったことの議論』をしている」と。献帝は、劉璋を(長安から益州にゆかせ)劉焉を諭し教えた。劉焉は、劉璋を留めて(長安に)帰さなかった。

范書 劉焉伝:焉四子,範為左中郎將,誕治書御史,璋奉車都尉,並從獻帝在長安,唯別部司 馬瑁隨焉在益州。朝廷使璋曉譬焉,焉留璋不復遣。
蜀志 劉焉伝:焉意漸盛、造作乘輿車具千餘乘。荊州牧劉表、表上「焉有似子夏在西河疑聖人之論」時、焉子範爲左中郎將、誕治書御史、璋爲奉車都尉、皆從獻帝在長安。惟小子別部司馬瑁、素隨焉。獻帝使璋、曉諭焉。焉、留璋不遣。


四年,征西將軍馬騰,自郿(《後漢書》作「霸橋。」)與焉、範通謀襲長安。治中從事廣漢王商亟諫,不從。謀泄,範、誕受誅。議郎河南龐羲,以通家,將範、誕諸子入蜀。而天火(元豐及張、吳、何、王、浙本作「夭火」。)燒焉車乘蕩盡,延及民家。

初平四年、征西將軍の馬騰は、郿城から、劉焉・劉範とともに通謀して、長安を襲おうとした。治中從事である廣漢の王商は、きびしく諌めたが(馬騰らは)従わない。謀略がもれて、劉範・劉誕は誅殺された。
議郎である河南の龐羲は、家に出入りしていたから、劉範・劉誕の諸子をつれて、蜀に入った。しかし雷がおちて、劉焉の車乗が燃え尽き、民家にも延焼した。

范書 劉焉伝:興平元年,征西將軍馬騰與範謀誅李 傕,焉遣叟兵五千助之,戰敗,範及誕並見殺。焉既痛二子,又遇天火燒其城府車重, 延及民家,館邑無餘。
蜀志 劉焉伝:時、征西將軍馬騰、屯郿而反。焉及範、與騰通謀、引兵襲長安。範、謀泄、奔槐里。騰敗、退還涼州。範、應時見殺。於是收誕、行刑。議郎河南龐羲、與焉通家、乃募將焉諸孫、入蜀。時、焉被天火燒城車具蕩盡、延及民家。


興平元年,焉徙治成都。既痛二子,又感祅災,(元豐本作。)疽發背卒。
州帳下司馬趙韙、治中從事王商等貪璋溫仁,共表代父。(元豐本與廖本作父。他各本作又,句下屬,非。)京師大亂,不能更遣,天子除璋監軍使者,領益州牧。以韙為征東中郎將,率眾征(李本依《三國志》改作擊。)劉表。

興平元年、劉焉は州治を成都にうつした。すでに二子を失い、また天災にもあったので、背中にできものを発して死んだ。
州の帳下司馬の趙韙、治中從事の王商らは、劉璋が温仁であることに漬けこみ、ともに上表して、劉焉の後任にしようとした。長安はおおいに乱れ、べつのものを任命する余裕がないから、天子は劉璋を、監軍使者に除して、益州牧を領させた。趙韙を征東中郎將として、兵をひきいて劉表を征伐させた。

范書 劉焉伝:於是徙居成都,遂〔疽〕發背(疽)卒。州大吏趙韙等貪璋溫仁,立為刺史。詔書因以璋為監軍使者,領益州牧,以韙為征東 中郎將。先是荊州牧劉表表焉僭擬乘輿器服,韙以此遂屯兵朐忍備表。
蜀志 劉焉伝:焉、徙治成都、既痛其子、又感祅災、興平元年、癰疽發背而卒。州大吏趙韙等、貪璋溫仁、共上、璋爲益州刺史。詔書因以爲、監軍使者、領益州牧。以韙爲征東中郎將、率衆擊劉表。

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『華陽国志』巻五 劉二牧志より劉璋

劉璋が、龐羲・趙韙とぶつかる

璋字季玉,既襲位,懦弱少斷。張魯稍驕於漢中,巴夷杜濩、朴胡、袁約等叛詣魯。璋怒,殺魯母弟,遣和德中郎將龐羲討魯。不克。巴人日叛。乃以羲為巴郡太守,屯閬(元豐本作朗。李改閬。)中禦魯。羲以宜須兵衛,輒召漢昌賨民為兵。或構羲於璋,璋與之情好攜隙。趙韙數進諫,不從,亦恚恨也。

劉璋は、あざなを季玉といい、益州牧をついだが、懦弱で判断力にとぼしい。張魯は漢中でおごるようになり、巴夷の杜濩・朴胡・袁約らが、張魯のもとを訪れて、劉璋にそむいた。劉璋は怒って、張魯の母・弟を殺した。和德中郎將の龐羲をやって、張魯を討ったが、勝てない。巴人は、日に日に、劉璋にそむく。龐羲を巴郡太守として、閬中に屯させ、張魯を防いだ。龐羲は、兵力を強化すべきと考え、漢昌の賨民をあつめて守備兵とした。
あるひとが、龐羲と劉璋が対立するように仕向け、劉璋は龐羲を疎むようになった。趙韙は、しばしば劉璋を諌めたが、聞き入れられず、怒りと怨みを懐いた。

范書 劉焉伝:璋性柔寬無威略,東 州人侵暴為民患,不能禁制,舊士頗有離怨。趙韙之在巴中,甚得眾心,璋委之以權。韙因 人情不輯,乃陰結州中大姓。
蜀志 劉焉伝:璋、字季玉、既襲焉位、而張魯稍驕恣、不承順璋。璋殺魯母及弟、遂爲讎敵。璋累遣龐羲等、攻魯、所破。魯部曲多在巴西、故以羲爲巴西太守、領兵禦魯。後、羲與璋情好攜隙。
ぼくは思う。劉焉が、強引につなぎとめた益州の有力者たちが、劉璋が頼りにならないせいで、離反しはじめた。自然な揺れ戻しである。


建安五年,趙韙起兵數萬,將(此將字作率字解。)以攻璋。璋逆擊之。明年,韙破(元豐本有破字。錢、《函》本並空格。吳、何諸本無破字。)敗。 羲懼,遣吏程郁宣旨於郁父漢昌令畿,索益賨兵。畿曰:「郡合部曲,本不為亂。縱有讒「諛」(〔●〕,各舊本作諛或謏,於義不協。當作●,以言相犯也。)要在盡誠。遂懷異志,非所聞也。」羲令郁重往。

建安五年、趙韙が数万で起兵して、劉璋を攻めようとした。劉璋は迎撃した。
翌年、趙韙は敗北した。龐羲は(趙韙が敗れたのを見て、劉璋を)懼れて、吏の程郁をつかわし、程郁の父で漢昌令である程畿に命じて、賨兵を増員させようとした。程畿は、「郡に部曲を合わせるのは、もとより乱を起こすためではなかった(張魯を防ぐためだった)。もし龐羲が乱を起こすなら、命令は聞けません」と。龐羲は、かさねて程郁を(程畿の説得に)行かせた。

畿曰:「我受牧恩,當為盡節。汝自郡吏,宜念效(錢、劉、李、《函》本作效。)力。不義(元豐本訛作羲。)之事,莫有二意。」羲恨之,使人告曰:「不從太守,家將及禍。」畿曰:「昔樂羊食子,非無父子之恩,大義然也。今雖羹子,畿飲之矣。」羲乃厚謝於璋。璋善畿,遷為江陽太守。

程畿は、「私は州牧(劉焉・劉璋)に恩を受け、節を尽くさねばならない。あなた(龐羲)は郡吏なのだから、(州牧のために)力を尽くさねばならない。不義のことを考え、二心を懐いてはいけない」という。
龐羲は、程畿をうらみ、人をつかって(程畿に)告げた。「太守(龐羲)に従わねば、家に禍いが及ぶぞ」と。程畿は、「むかし楽羊は、子を食べたが、父子の恩がなかったのではない。大義のために正しいことをした。いま、わが子(程郁)を料理されたら、私は食ってやろう」と。龐羲は、劉璋に厚く謝まった。劉璋は、程畿を評価して、江陽太守に遷した。

范書 劉焉伝:建安五年,還共擊璋,蜀郡、廣漢、犍為皆反應。東州人畏 見誅滅,乃同心并力,為璋死戰,遂破反者,進攻韙於江州,斬之。
蜀志 劉焉伝:後、羲與璋情好攜隙。趙韙、稱兵、內向、衆散見殺。皆由璋明斷少而外言入故也。


曹操に使者を送る

十年,璋聞曹公將征荊州,遣中郎將河內陰溥致敬。公表加璋振威將軍,兄瑁平寇將軍。十二年,璋復遣別駕從事蜀郡張肅,送叟兵三百人并雜御物。公辟肅為掾,拜廣漢太守。十三年,仍遣肅弟松為別駕,詣公。公時已定荊州,追劉主,不存禮松;加表望不足,但拜越嶲(當作「永昌」。)比蘇令。松以是怨公。會公軍不利,兼以疫病,而劉主尋取荊州。松還,疵毀曹公,勸璋自絕,因說璋曰:「劉豫州,使君之肺腑,更可與通。」

建安十年、劉璋は、曹操が荊州にきたと聞いて、中郎將である河内の陰溥に、曹操を表敬訪問させた。曹操は表して、劉璋に振威將軍をくわえ、兄の劉瑁に平寇將軍をくわえた。
建安十二年、また劉璋は、別駕從事である蜀郡の張肅をつかわし、叟兵300人と雜御物を曹操にとどけた。曹操は張肅を辟して(丞相)掾として、広漢太守を拝させた。建安十三年、張肅の弟の張松を別駕として、曹操を詣させた。ときに曹操は、荊州を平定して、劉主(劉備)を追ったところなので、張松に礼を施さない。表する官位も(張肅のときより)低く、ただ越巂(正しくは永昌)の比蘇令にしただけである。張松は、曹操を怨むようになった。
たまたま、曹操が(赤壁で)利がなく、疫病もおきた。劉備が荊州をとった。張松が(成都に)還ると、曹操をけなし、劉璋に絶縁を勧めた。「劉豫州は、あなたの肺腑である。通交しなさい」といった。

范書 劉焉伝:十三年,曹操自將征荊州,璋乃遣使致敬。操加璋振威將軍,兄瑁平寇將軍。璋因遣別 駕從事張松詣操,而操不相接禮。松懷恨而還,勸璋絕曹氏,而結好劉備。璋從之。
蜀志 劉焉伝:璋聞曹公征荊州已定漢中、遣河內陰溥、致敬於曹公。加璋振威將軍、兄瑁平寇將軍。瑁、狂疾、物故。璋復遣別駕從事蜀郡張肅、送叟兵三百人幷雜御物於曹公。曹公拜肅爲廣漢太守。璋復遣別駕張松、詣曹公。曹公時已定荊州、走先主、不復存錄松。松、以此怨。
ぼくは思う。劉璋から曹操を訪問した年号が、毎回、きちんと書かれている点で、『華陽国志』は正史よりも詳しい。


時扶風法正字孝直,留客在蜀,不見禮,恨望。松亦以身抱利器,忖璋不足與有為,常與正竊嘆息。松舉正可使交好劉主。璋從之,使正將命。正佯為不得已(廖本註云:「當有而字。」)行。又遣正同郡孟達將兵助劉主守禦。前後賂遺無限。
時扶風法正字孝直,留客在蜀,不見禮,恨望。松亦以身抱利器,忖璋不足與有為,常與正竊嘆息。松舉正可使交好劉主。璋從之,使正將命。正佯為不得已(廖本註云:「當有而字。」)行。又遣正同郡孟達將兵助劉主守禦。前後賂遺無限。

ときに扶風の法正(あざなは孝直)は、客として蜀に留まった。劉璋から礼遇されず、恨みがあった。張松もまた、劉璋にものたらず、つねに法正とともに嘆息した。張松は法正を推薦して、劉備への使者にした。法正は、しぶしぶ行くふりをした。また法正と同郡の孟達は、兵をひきいて劉備をたすけにゆく。(劉備に送る)賄賂は、限りなし。

范書 劉焉伝:該当なし
蜀志 劉焉伝:尋又令正及孟達、送兵數千、助先主守禦。正、遂還。
ぼくは思う。このあたりから、先主伝・龐統伝・法正伝などを比較しなければならない。面倒になってきたので、比較はまた後日。


劉備に、張魯を伐たせる

十六年,璋聞曹公將遣司隸校尉鍾繇伐張魯,有懼心。松進曰:「曹公兵強,無敵天下;若因張魯之資以向蜀土,誰能禦之者乎?」璋曰:「吾固憂之,而未有計。」松對曰:「劉豫州,使君之宗室,而曹公之深讎也。善用兵,使之伐魯,魯必破。破魯,則益州強,曹公雖來,無〔能〕為也。(《三國志先主傳》文同。此句作「無能為也」。)且州中諸將龐羲、李異等,皆恃功驕豪,欲有外意。不得豫州,則敵攻其外,民叛於內,必敗之道也。」璋然之,復遣法正迎劉【先】主。

建安十六年、劉璋は、曹操が司隸校尉の鍾繇に張魯を討たせると聞いて(曹操軍を)懼れた。張松「曹操軍は、天下に敵なし。もし張魯の軍資を手に入れて、蜀土に向かってきたら、だれが防げましょうか」と。劉璋「それが心配なんだよ。まだ計略もない」と。張松「劉豫州は、あなたの宗室で、曹操の深讎です。用兵がうまいから、劉備に張魯を伐たせれば、必ず勝てる。張魯を破れば、益州(劉璋政権)は強くなり、曹操が来ても負けない」と。
さらに張松がいう。「州中の諸将である龐羲・李異らは、功績をたのみにして驕豪となり、外意(劉璋に従わない心)がある。劉備を招かねば、外から(曹操・龐羲・李異)に攻められ、内では民が叛くだろう。敗れるしかない」と。

ぼくは思う。曹操や劉備にばっかり注目してると、忘れるけれど。劉璋にとっての現実的な脅威は、龐羲や李異なんだろうな。

劉璋は合意して、ふたたび法正をやり、劉備を迎えさせた。

主簿巴西黃權諫曰:「左將軍有驍(《後漢書‧劉焉傳》作梟。)名,今請到,欲以部曲遇之,則不滿其心;欲以賓客待之,則一國不容二君。客有太山之安,則主有累卵之危。」璋不聽。
從事廣漢王累,倒懸於州門,以死諫璋。璋壹無所納。正既宣旨,陰獻策曰:「以明將軍之英才,乘劉牧之懦弱,張松(《三國志》此有州字。)之股肱以響應於內,然後資益州之富,憑天設之險,以此成帝(《三國志》無帝字。)業,猶反手也。」劉主大悅,乃留軍師中郎將諸葛亮、將軍關羽、張飛鎮荊州,率萬人泝江西上。(《三國志‧先主傳》作「將步卒數萬人入益州」。)

主簿である巴西の黄権が諌める。「左将軍は驍名がある。彼をよび、部曲として処遇しようとしても、満足しない。賓客として待遇しようとしても、1国に2君は居られない。客の劉備は太山之安であり、主の劉璋は累卵之危である」と。劉璋は聞かない。
從事である広漢の王累は、さかさまに州門に懸かり、死をもって劉璋をいさめた。劉璋は、ひとつも聞き入れない。
法正は(劉備に)公式の(劉璋からの)伝言を告げてから、ひそかに献策した。「明将軍の英才をもって、劉牧の懦弱に乗ぜよ。張松は、州の股肱として内応する。その後、益州の国富を元手に、天設の険に拠れば、帝業をやるのも、手のひらを返すようなもの」と。
劉備はおおいに悦び、軍師中郎將の諸葛亮、將軍の関羽・張飛を留めて荊州に鎮せしめ、萬人をひきいて長江をさかのぼり、西上した。

璋初敕所在供奉,入境如歸。劉主至巴郡,巴郡嚴顏拊心歎曰:「此所謂獨坐窮山,放虎自衛者也。」劉主由巴水達涪。璋往見之。松復令正白劉主曰:「今因此會,便可執璋。則將軍無用兵之勞,坐定一州也。」軍師中郎將襄陽龐統亦言之。劉主曰:「此大事也。初入他國,恩信未著,不可倉卒。」歡飲百餘日。璋推劉主行大司馬,司隸校尉。劉主推璋行鎮西大將軍,領牧如故。益劉主兵,使伐張魯。又令督白水軍,併三萬【軍】〔人〕,(《三國蜀志‧先主傳》文同此作三萬餘人。)車甲精實。璋還州。劉主次葭萌,厚樹恩德,以收眾心。

はじめ劉璋が敕して、劉備がとおる場所に供奉させた。劉備が国境を越えるのは、まるで(自分の領地に)帰るようであった。劉備は巴郡に至ると、巴郡の厳顔は、むねを叩いて嘆いた。「これは、いわゆる『独り窮山(逃げ道のない山)に坐し、虎を放ちて自衛する者なり』である」と。
劉備は、巴水をとおって涪城に達した。劉璋は会いにきた。張松は法正から劉備に言わせた。「いまこの機会をつかい、劉璋を捕らえろ。そうすれば劉備は、兵をつかわずに一州を平定できる」と。
軍師中郎將である襄陽の龐統も、同じことを言った。劉備はいう。「これは大事である。はじめて他人の国に入り、恩信が明らかでない。慌ててはいけない」と。歡飲すること百餘日。劉璋は劉備を、行大司馬・司隸校尉に推した。劉備は劉璋を、行鎮西大將軍に推し、益州牧はもとのままとした。劉備の兵を増やし、張魯を伐たせる。白水の軍を督させ、あわせて3万人である。劉備軍の装備は、充実した。劉璋は、成都に帰った。劉備は葭萌に留まり、あつく恩徳をほどこし、衆心をつかんだ。

劉備が益州をのっとる

十七年,曹公征吳。吳主孫權呼劉主自救。劉主貽璋書曰:「孫氏與孤,本為唇齒。今樂進在清泥,與關羽相拒。不往赴救,進必大克,轉侵州界,其憂有甚於魯。魯自守之賊,不足慮也。」求益萬兵及資實。璋但許四千,他物半給。
張松書與劉主及法正曰:「今大事垂可立,如何釋此去乎?」松兄廣漢太守肅,懼禍及己,白璋,露松謀。璋殺松。劉主歎曰:「君矯殺吾內主乎!」嫌隙始構。璋敕諸關守不内劉主。

建安十七年、曹操は呉を征伐した。孫権は劉備に救いをもとめた。劉備はいつわって劉璋に文書をおくる。「孫権と私は、唇歯の関係です。いま(魏将の)楽進が清泥におり、関羽と向きあっている。もし私が救いに行かねば、かならず楽進が大勝して(益州の)州境を侵略される。劉璋の心配は張魯だろうが、張魯は自守の賊だから、心配いらない」と。
さらに1万の兵と物資を求めた。劉璋は4千だけを与え、物資は半分を与えた。張松は、劉備と法正に文書を送った。「いま大事を立てるべきときです。なぜ益州から去るのか」と。張松の兄である、広漢太守の張肅は、禍いが己に及ぶのを懼れ、劉璋にちくった。劉璋は張松を殺した。劉備は歎じた。「きみ(劉璋)は、わが内主(内応者)を、矯めて(事実を曲げて)殺した」と。劉備と劉璋は、はじめて対立した。劉璋は、諸々の関守に勅して、劉備を(益州から)閉め出した。

以下、またやります……。

龐統說曰:「陰選精兵,晝夜兼行,徑襲成都。璋既不武,又無素豫,一舉而定,此上計也。楊懷、高沛,璋之名將,各仗強兵,據守關頭,數有牋諫璋遣將軍還。將軍遣與相聞,說當東歸,並使速裝。(《 三國志‧龐統傳》作「並使裝束。外作歸形」。謂使高、楊準備接防葭萌也。)二子既服將軍名,又嘉將軍去,必乘輕騎來見將軍,因此執之,進取其兵,乃向【城】〔成〕都。此中計也。退【還】之白帝,(《龐統傳》與他各舊本《常志》無之字。今按:常璩援用舊籍,每存其意而異其文。此當是避重複還字改為「退之白帝」,傳鈔者又因《 統傳》衍「還」字耳。)連引荊州,徐還圖之。此下計也。」劉主然其中計。

龐統は(劉備に)説く。「龐統說曰:「陰選精兵,晝夜兼行,徑襲成都。璋既不武,又無素豫,一舉而定,此上計也。楊懷、高沛,璋之名將,各仗強兵,據守關頭,數有牋諫璋遣將軍還。將軍遣與相聞,說當東歸,並使速裝。(《 三國志‧龐統傳》作「並使裝束。外作歸形」。謂使高、楊準備接防葭萌也。)二子既服將軍名,又嘉將軍去,必乘輕騎來見將軍,因此執之,進取其兵,乃向【城】〔成〕都。此中計也。退【還】之白帝,(《龐統傳》與他各舊本《常志》無之字。今按:常璩援用舊籍,每存其意而異其文。此當是避重複還字改為「退之白帝」,傳鈔者又因《 統傳》衍「還」字耳。)連引荊州,徐還圖之。此下計也。」劉主然其中計。 即斬懷等,遣將黃忠、卓膺、魏延等勒兵前行。梓潼令南陽王連固城堅守,劉主義之,不逼攻也。進據涪城。(此下《龐統傳》有「於涪大會」句。)〔大會〕,置酒作樂。謂龐統曰:「今日之會,可謂樂矣。」統對曰:「伐人之國而以為歡,非仁者也。」劉主曰:「武王伐紂,前歌後舞,豈非仁也?」統退出。劉主尋請還,謂曰:「 向者之談,【何】〔阿〕(《統傳》作阿。)誰為失?」統曰:「君臣俱失。」(《統傳》有「先主大笑,宴樂如初」句。)

十八年,璋遣將劉、冷苞、張任、鄧賢、吳懿等拒劉主於涪,皆破敗,還保綿竹。【縣令】(廖本注云:「當衍此二字」。茲刪。)懿詣軍降,拜討逆將軍。初,劉主之南伐也,廣漢鄭度說璋曰:「 左將軍縣軍襲我,眾不滿萬,百姓(《法正傳》作「士眾」。)未附,野穀是資。計莫若驅巴西、梓潼民,内涪川以南,(《法正傳》作「內涪水以西。」蓋常璩改作南。蜀人以涪以外為北,內為南也。)其倉廩野穀,一皆燒除,高壘深溝,靜以待之。彼(此下《法正傳》有至字。)請戰不許,久無所資,不過百日(此下《法正傳》有「必將自走,走而擊之,則必成禽耳」。)必禽矣。」先主聞而惡之。法正曰:「璋終不能用,無所(法正傳作無可。)憂也。」璋果(《法正傳》此下有「璋果如正言」句。)謂群下曰:「吾聞拒敵以安民。未聞動民以避敵。」絀度不用。(《法正傳》作「於是絀度,不用其計」。)故劉主所至有資。進攻綿竹。璋復遣護軍南陽李嚴、江夏費觀等督綿竹軍。嚴、觀率眾降,同拜裨將軍。進圍璋子循於雒城。十九年,關羽統荊州事。諸葛亮、張飛、趙雲等泝江,降下巴東。入巴郡。巴郡太守巴西趙筰拒守,飛攻破之。獲將軍嚴顏,(《三國志‧張飛傳》作巴郡太守嚴顏,誤。當以本志為正。)謂曰:「大軍至,何以不降,敢逆戰。」顏對曰:「卿等無狀,侵奪我州。我州但有斷頭將軍,無降將軍也。」飛怒曰:「牽去斫頭。」顏正色曰:「斫頭便斫,何為怒也。」飛義之,引為賓客。趙雲自江州分定江陽、犍為。飛攻巴西。亮定德陽。巴西功曹龔諶迎飛。璋帳下司馬蜀郡張裔距亮,敗於柏下。裔退還。夏,劉主克雒城,與飛等合圍成都。而偏將軍扶風馬超率眾自漢中請降。劉主遣建寧督李恢迎超。超徑至,璋震恐。所署蜀郡太守汝南許靖〔將〕踰城出降,璋知,不敢誅。被圍數十日。城中有精兵三萬,穀支二年,眾咸欲力戰。璋曰:「父子在州二十餘年,無恩德以加百姓,攻戰三年,肌膏草野,以璋故也。何以能安!」遂遣張裔奉使詣劉主。主許裔禮其君而安其民。劉主又遣從事中郎涿郡簡雍說璋。璋素雅敬雍,遂與同輿而出,降,吏民莫不歔欷涕泣。劉主復其所佩振威將軍印綬,還其財物。遷璋於南郡之公安。吳主孫權之取荊州也,以璋為益州刺史。(《二牧傳》作「益州牧」。)劉主東征,璋於吳卒也。

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以後、またやります。

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