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- 東晋の安皇帝_隆安三年(399年)
春正月
春,正月,辛酉,大赦。
戊辰,燕昌黎尹留忠謀反,誅,事連尚書令東陽公根、尚書段成,皆坐死;遣中衛將軍衛雙就誅忠弟幽州刺史志於凡城。以衛將軍平原公元為司徒、尚書令。春正月の辛酉、(東晋で)大赦した。
正月の戊辰、燕の昌黎尹である留忠が謀反して誅された。謀反のことに、尚書令の東陽公の司馬根、尚書の段成が連なり、みな坐死した。中衛將軍の衛雙をつかわし、留忠の弟である幽州刺史の留志を凡城で誅させた。衛將軍である平原公の司馬元を、司徒・尚書令とした。
庚午,魏主珪北巡,分命大將軍常山王遵等三軍東道出長川,鎮北將軍高涼王樂真等七軍從西道出牛川,珪自將大軍從中道出駮髯水以襲高車。
壬午,燕右將軍張真、城門校尉和翰坐謀反誅。
癸未,燕大赦,改元長樂。燕主盛每十日一自決獄,不加拷掠,多得其情。正月庚午、北魏主の拓跋珪は北巡した。拓跋珪は、大將軍である常山王の拓跋遵ら三軍に分命して、東道から長川に出させた。鎮北將軍である高涼王の樂真ら七軍に、西道から牛川に出させた。拓跋珪は、みずから大軍をひきいて中道から駮髯水に出て、高車を襲った。
正月壬午、後燕の右將軍である張真、城門校尉である和翰が、謀反に坐して誅された。
癸未、後燕は大赦して「長樂」と改元した。燕主の慕容盛(慕容垂の孫)は、10日に1度、みずから獄で判決をくだし、拷掠を加えないから(刑罰を軽くしたから)おおいにその情を得た。
武威王烏孤徙治樂都,以其弟西平公利鹿孤鎮安夷,廣武公辱檀鎮西平,叔父素渥鎮湟河,若留鎮澆河,從弟替引鎮嶺南,洛回鎮廉川,從叔吐若留鎮浩亹;夷、夏俊傑,隨才授任,內居顯位,外典郡縣,鹹得其宜。
烏孤謂群臣曰:「隴右、河西,本數郡之地,遭亂分裂至十餘國,呂氏、乞伏氏、段氏最強。今欲取之,三者何先?」楊統曰:「乞伏氏本吾之部落,終當服從。段氏書生,無能為患,且結好於我,攻之不義。呂光衰耄,嗣子微弱,纂、弘雖有才而內相猜忌,若使浩亹、廉川乘虛迭出,彼必疲於奔命,不過二年,兵勞民困,則姑臧可圖也。姑臧舉,則二寇不待攻而服矣。」烏孤曰:「善。」武威王の烏孤は、治所を樂都にうつした。弟の西平公の利鹿孤が安夷(漢の金城郡・晋の西平郡)に鎮し、廣武公の辱檀が西平に鎮し、叔父の素渥が湟河に鎮し、若留が澆河に鎮し、從弟の替引が嶺南に鎮し、洛回が廉川に鎮した。從叔の吐若留が浩亹に鎮した。夷族・夏族の俊傑な人材は、才に随って任を授けられ、内では顯位にあり、外では郡縣を典し、みな適任の役職を得た。
原文の「夷・夏」は、民族の呼称であってる?烏孤は群臣にいう。「隴右・河西は、もとは数郡の地であった。乱にあって、10余国に分裂した。呂氏・乞伏氏・段氏が最も強い。いま3国を取ろうと思うが、どれを先にするか」
楊統はいう。「乞伏氏の本吾の部落は、最後に服従させるべきです。
胡三省はいう。乞伏と禿髪氏は、どちらも鮮卑である。段氏は書生に過ぎず、患いとするほどではない。しかもわが国と親交があるから、これを攻めたら不義です。
(最初に攻めるなら呂氏です)呂光は衰耄して、嗣子は微弱です。纂・弘は、才はあるが内では互いに猜忌しています。もし浩亹・廉川が、虚に乗じて迭出すれば、彼らは必ず奔命に疲れ、2年も過ぎずに、兵は勞れ民は困するでしょう。そうすれば姑臧(呂光の都)を図ることができます。姑臧が降伏すれば、二寇(乞伏氏・段氏)は、わが国の攻撃を待たずに、服するでしょう」
烏孤は「善し」といった。
春二月
二月,丁亥朔,魏軍大破高車二十餘部,獲七萬餘口,馬三十餘萬匹,牛羊百四十餘萬頭。衛王儀別將三萬騎絕漠千餘里,破其七部,獲二萬餘口,馬五萬餘匹,牛羊二萬餘頭。高車諸部大震。
2月の丁亥朔、北魏軍は高車の二十餘部を大破して、7萬餘口・馬30餘萬匹・牛羊140餘萬頭を獲た。衛王の儀は、將の3萬騎を分けて、漠100餘里を踏破して、その7部を破り、2萬餘口・馬5萬餘匹・牛羊2萬餘頭を獲た。高車の諸部は、大いに震えた。
林邑王范達陷日南、九真,遂寇交趾,太守杜瑗擊破之。
庚戌,魏徵虜將軍庾岳破張超於勃海,斬之。
段業即涼王位,改元天璽。以沮渠蒙遜為尚書左丞,梁中庸為右丞。林邑王の范達が、日南・九真を陥落させ、ついに交趾を寇した。交趾太守の杜瑗は、これを撃破した。
2月庚戌、北魏の征虜將軍の庾岳は、張超を勃海で破り、これを斬った。
張超が南皮に拠ったのは、上巻上年にある。段業は涼王の位に即き、天璽と改元した(北涼の成立)。沮渠蒙遜を尚書左丞として、梁中庸を右丞とした。
春三月
魏主珪大獵於牛川之南,以高車人為圍,周七百餘里;因驅其禽獸,南抵平城,使高車築鹿苑,廣數十里。三月,己未,珪還平城。
甲子,珪分尚書三十六曹及外署,凡置三百六十曹,令八部大夫主之。吏部尚書崔宏通署三十六曹,如令、僕統事。置五經博士,增國子太學生員合三千人。魏主の拓跋珪は、牛川の南で大獵した。高車を包囲して、周囲は7百餘里である。その禽獸を駆り、南して平城に抵て、高車に鹿苑を築かせた。広さは數十里である。3月己未、拓跋珪は平城に還った。
3月甲子、拓跋珪は尚書三十六曹 及び外署を分けて、全部で三百六十曹を置き、八部大夫にこれを主幹させた。吏部尚書の崔宏は三十六曹に通署して、令・僕統事のようであった。五經博士を置き、國子太學生の定員を増員して、あわせて三千人とした。
珪問博士李先曰:「天下何物最善,可以益人神智?」對曰:「莫若書籍。」珪曰:「書籍凡有幾何,如何可集?」對曰:「自書契以來,世有滋益,以至於今,不可勝計。苟人主所好,何憂不集!」珪從之,命郡縣大索書籍,悉送平城。拓跋珪は博士の李先に問う。「天下ではどんなものが最善であり、人の神智に益するだろうか」と。李先「書籍がベストです」と。拓跋珪「書籍とは、全部でどれだけある。集められるか」と。李先「書契より以来、世々増えてきました。いまでは数えきれません。もしも人主(北魏の君主として)書物を好むにしても、全ての書籍が集められないことを憂う必要はない」と。
拓跋珪はこれに従い、郡縣に命じておおいに書籍を探索させ、すべて平城に送らせた。
胡三省はいう。北魏の拓跋珪は、このように文を崇んだ。しかし北魏の儒風は、涼州を平定した後に、初めて振興する。けだし代北の地域では、文よりも武を尊ぶから(まだ拓跋珪の時代には)文が振興しなかった。ただし、のちに涼を平定した後も、北魏の孝文帝が洛陽に遷都したときも、まだ文の振興はいまひとつだった。異民族が漢民族の文になじむのは難しいなあ。
南燕の遷都
初,秦王登之弟廣帥眾三千依南燕王德,德以為冠軍將軍,處之乞活堡。會熒惑守東井,或言秦當復興,廣乃自稱為秦王,擊南燕北地王鐘,破之。是時,滑台孤弱,土無十城,眾不過一萬,鐘既敗,附德者多去德而附廣。德乃留魯陽王和守滑台,自帥眾討廣,斬之。
はじめ、秦王の登の弟である廣は、帥衆三千をつれて南燕王の德のもとを頼っている。德は冠軍將軍となり、乞活堡に拠る。たまたま熒惑が東井を守した。あるひとが「秦は復興する」といった。廣は自称して秦王となり、南燕の北地王である鐘を撃破した。
このとき、滑台(南燕王の都)は孤弱であり、土地には十城もなく、軍勢は1萬もいない。鐘がすでに敗れると、多くが南燕王の德を去って、廣を頼った。德は魯陽王の和を留めて滑台を守らせ、みずから衆を帥して廣を撃ち、これを斬った。
燕主寶之至黎陽也,魯陽王和長史李辨勸和納之,和不從。辨懼,故潛引晉軍至管城,欲因德出戰而作亂。既而德不出,辨愈不自安。及德討苻廣,辨復勸和反。和不從,辨乃殺和,以滑台降魏。魏行台尚書和跋在鄴,帥輕騎自鄴赴之。既至,辨悔之,閉門拒守。跋使尚書郎鄧暉說之,辨乃開門內跋,跋悉收德宮人府庫。德遣兵擊跋,跋逆擊,破之,又破德將桂陽王鎮,俘獲千餘人。陳、穎之民多附於魏。燕主の寶が黎陽に至ると、魯陽王の和の長史である李辨は、和にこれ(燕主)を受け入れることを勧めたが、和不は従わない。李辨は懼れて、ひそかに晉軍を管城に引き入れ(上巻参照)、德を出戰させ作亂させたい。しかし德が戦さに出ないから、李辨はいよいよ不安になった。
德が苻廣を討つに及び、李辨はふたたび和に反乱を勧めた。和が従わないので、李辨は和を殺して、滑台の城ごと北魏に降った。
北魏の行台尚書である和跋は鄴におり、輕騎を帥して鄴から滑台に赴いた。和跋が滑台につくと、李辨は後悔して、門を閉じて拒守した。和跋は尚書郎の鄧暉を説得にゆかせた。李辨は開門して、和跋を城内に入れた。和跋は、ことごとく德の宮人・府庫を接収した。德は、兵をやって和跋を撃ったが、和跋が迎撃して破った。また德の將である桂陽王の鎮を破り、千餘人を俘獲した。陳・穎の民は、おおくが北魏に附した。
南燕右衛將軍慕容雲斬李辨,帥將士家屬二萬餘口出滑台赴德。德欲攻滑台,韓范曰;「向也魏為客,吾為主人;今也吾為客,魏為主人。人心危懼,不可復戰,不如先據一方,自立基本,乃圖進取。」張華曰:「彭城,楚之舊都,可攻而據之。」北地王鐘等皆勸德攻滑台。尚書潘聰曰:「滑台四通八達之地,北有魏,南有晉,西有秦,居之未嘗一日安也。彭城土曠人稀,平夷無險,且晉之舊鎮,未易可取。又密邇江、淮,夏秋多水。乘舟而戰者,吳之所長,我之所短也。青州沃野二千里,精兵十餘萬,左有負海之饒,右有山河之固,廣固城曹嶷所築,地形阻峻,足為帝王之都。三齊英傑,思得明主以立功於世久矣。辟閭渾昔為燕臣,今宜遣辨士馳說於前,大兵繼踵於後,若其不服,取之如拾芥耳。既得其地,然後閉關養銳,伺隙而動,此乃陛下之關中、河內也。」南燕の右衛將軍の慕容雲は、李辨を斬って、將士・家屬2萬餘口を帥ゐて滑台を出て、德のところに赴く。德は滑台を攻めたい。
韓范「(滑台の住民から見れば)かつて北魏が客で、われら南燕が主人でした。しかし、いまや南燕が客で、北魏が主人です。人心は危懼し、復た戰えない。先に(滑台とは別の地点に)一方を確保してから、自ら拠点をつくって、滑台に進んで攻め取りましょう」
胡三省はいう。韓範がいうには、もし慕容徳が(別に拠点を作らずに)滑台に進めば、必ず敗れるだろう。もとより慕容超のとき(後の南燕の敗戦)を待つまでもない。張華「彭城は、楚の旧都である。攻めれば、拠ることができる」
北地王の慕容鐘らは、みな慕容徳に滑台を攻めよと勧めた。
尚書の潘聰「(郡臣が攻撃目標として提案した)滑台は、四通・八達の地である。北に魏、南に晋、西に秦がいる。滑台にいても、1日とて安心できない。(張華が提案した)彭城は、土地が広いが人口が少ない。平夷で無險であり、かつ晋の舊鎮である。攻め取るのは易しくない。また長江・淮水に近すぎて、夏秋には多水である。船に乗って戦うのは、呉が得意であり、われらは苦手である。
(代案を提案しますと)青州の沃野は2千里、精兵は10餘萬。左は負海の饒があり(海から富みがあがり)、右は山河の固がある(山を守りに使える)。廣固城は、曹嶷が築いた城で、地形は阻峻であり、帝王の都とするに足りる。三齊の英傑は、明主を得て、世に立功したいと願って久しい。辟閭渾は、むかし燕臣となった。
孝武太元十九年、辟閭渾は、慕容農に破られて、ついに燕臣となった。いま辨士をつかわし、(広固城の人々に南燕に従えと)説得させ、大兵が後につづけ。もし服従しなければ、攻め取るのはゴミを拾うように易しい。もし広固城の地を得れば、閉門して精鋭を養え。隙をうかがって動けば、(劉邦・劉秀の故事のように)関中・河内に行くことができる」
胡三省はいう。「関中・河内」は、荀彧が曹操にいった台詞より。
德猶豫未決。沙門竺朗素善占候,德使牙門蘇撫問之,朗曰:「敬覽三策,潘尚書之議,興邦之言也。且今歲之初,彗星起奎、婁,掃虛、危;彗者,除舊布新之象,奎、婁為魯,虛、危為齊。宜先取兗州,巡撫琅邪,至秋乃北徇齊地,此天道也。」撫又密問以年世,朗以《周易》筮之曰:「燕衰庚戌,年則一紀,世則及子。」撫還報德,德乃引師而南,兗州北鄙諸郡縣皆降之。德置守宰以撫之,禁軍士無得虜掠。百姓大悅,牛酒屬路。慕容徳は、なおも(攻撃目標を)決められない。沙門の竺朗は、もとより占候がうまい。慕容徳は、牙門の蘇撫をゆかせ、竺朗に問う。
竺朗「三策を敬覽するに、潘尚書の議(広固城を本拠とせよ)は、興邦の言です。しかも今年の初め、彗星が奎・婁に起ち、虛・危を掃した。彗とは、舊を除き新を布くの象です。奎・婁は、魯の地方のこと。虛・危とは、斉の地方のこと。先に兗州を取り、琅邪を巡撫しなさい。秋に至れば、齊地を北徇せよ。此れが天道である」
蘇撫は、ひそかに年世(南燕の寿命)も問うた。竺朗は『周易』で筮した。「燕は庚戌の歳に衰える。年とは一紀(12年後)である。世は子の代に及ぶ。」と。のちに南燕は、義熙六年に滅びた。蘇撫はもどって慕容徳に報せた。慕容徳は師を引いて南した。兗州の北鄙にある諸郡県は、みな降った。慕容徳は守宰を置いて(郡県を)撫した。禁軍の士は、虜掠を禁じられた。百姓は大悅し、牛酒が路に属した(手土産をさげて歓迎された)。
丙子,魏主珪遣建義將軍庾真、越騎校尉奚斤擊庫狄、宥連、侯莫陳三部,皆破之,追奔至大峨谷,置戍而還。 己卯,追尊帝所生母陳夫人為德皇太后。3月丙子、魏主の拓跋珪は、建義將軍の庾真・越騎校尉の奚斤をつかわし、庫狄・宥連・侯莫陳の3部を撃ち、みな破った。追って大峨谷に至り、戍(駐屯の拠点)を置いて還った。
胡三省はいう。その後、庫狄・侯莫陳の2姓は、どちらも貴顕となった。宥連だけが衰微した。3月己卯、東晋の皇帝の生母である陳夫人を追尊して、「德皇太后」とした。
夏4月
夏,四月,鮮卑疊掘河內帥戶五千降於西秦。西秦王乾歸以河內為疊掘都統,以宗女妻之。
甲午,燕大赦。
會稽王道子有疾,且無日不醉。世子元顯知朝望去之,乃諷朝廷解道子司徒、揚州刺史。乙未,以元顯為揚州刺史。道子醒而後知之,大怒,無如之何。元顯以廬江太守會稽張法順為謀主,多引樹親黨,朝貴皆畏事之。
夏4月、鮮卑の疊掘河内は、戸5千を帥ゐて西秦に降った。西秦王の乾歸は、河内を疊掘都統として、宗女を妻とした。
胡三省はいう。疊掘とは鮮卑の一種で、河内は名である。甲午、燕が大赦した。
會稽王の司馬道子は有疾で、しかも酔わない日がない。世子の司馬元顯は、朝望が道子から去ったのを知る。朝廷に諷って、道子を司徒・揚州刺史から解任した。4月乙未、司馬元顯を揚州刺史とした。道子は醒めた後にこれを知り、大怒したがどうしようもない。元顯は廬江太守である會稽の張法順を謀主にした。おおくの人を引きこみ親黨を樹てた。朝貴は、みな畏れて司馬元顕に仕えた。
燕散騎常侍餘超、左將軍高和等坐謀反誅。
涼太子紹、太原公纂將兵伐北涼,北涼王業求救於武威王烏孤,烏孤遣驃騎大將軍利鹿孤及楊軌救之。業將戰,沮渠蒙遜諫曰:「楊軌恃鮮卑之強,有窺窬之志,紹、纂深入,置兵死地,不可敵也。今不戰則有泰山之安,戰則有累卵之危。」業從之,案兵不戰。紹、纂引兵歸。燕の散騎常侍の餘超・左將軍の高和らが謀反に坐して誅された。
涼の太子である紹と太原公の纂は、兵をひきいて北涼を伐つ。
河西4郡について、張掖は北にあり、ゆえに北涼という。北涼王の業は、武威王の烏孤に救いを求めた。烏孤は、驃騎大將軍の利鹿孤および楊軌をつかわして北涼を救う。業が戦おうとすると、沮渠蒙遜が諌めた。
「楊軌は鮮卑の強さを恃み、窺窬の志がある。紹・纂が深く入れば、兵を死地に置くことになり、敵わない。いま戦わねば泰山の安があり、戦えば累卵の危がある」
業はこれに従い、兵を按じて戦わず。紹・纂は兵をひきて帰る。
夏6月
六月,烏孤以利鹿孤為涼州牧,鎮西平,召車騎大將軍辱檀入錄府國事。
會稽世子元顯自以少年,不欲頓居重任;戊子,以琅邪王德文為司徒。
6月、烏孤は利鹿孤を涼州牧にして、西平に鎮させる。車騎大將軍の辱檀を召して錄府國事に入れる。
會稽世子の司馬元顯は、自分が若いので、すぐに重任に就くことを欲さない。6月戊子、琅邪王の司馬德文を司徒とした。
秋7月
魏前河間太守范陽盧溥帥其部曲數千家,就食漁陽,遂據有數郡。秋,七月,己未,燕主盛遣使拜溥幽州刺史。
辛酉,燕主盛下詔曰:「法例律,公侯有罪,得以金帛贖,此不足以懲惡而利於王府,甚無謂也。自今皆令立功以自贖。勿復輸金帛。
西秦丞相南川宣公出連乞都卒。魏の前の河間太守である范陽の盧溥は、その部曲の數千家を帥ゐて、漁陽を食し(占拠し)、ついに拠って数郡をたもつ。秋7月の己未、燕主の盛は、使をつかわし盧溥を幽州刺史にした。
7月辛酉、燕主の盛は、詔を下した。
「例律によると、公侯に罪があれば、金帛であがなえる。これは悪を懲らしめるに足らず、王府を(経済的に)利するだけで、甚だ謂はれの無いことだ。これより立功で罪をあがなえることにする。もう金帛を支払っても罪を許すな」
裴松之がないようについてがんばる。蕭何・賈充のことなど。3492ページ。西秦の丞相である南川宣公の出連乞都が卒した。
南川は地名で、宣はおくりな。
8月
秦齊公崇、鎮東將軍楊佛嵩寇洛陽,河南太守隴西辛恭靖嬰城固守。雍州刺史楊佺期遣使求救於魏常山王遵,魏主珪以散騎侍郎西河張濟為遵從事中郎以報之。佺期問於濟曰:「魏之伐中山,戎士幾何?」濟曰:「四十餘萬」。佺期曰:「以魏之強,小羌不足滅也。且晉之與魏,本為一家,今既結好,義無所隱。此間兵弱糧寡,洛陽之救,恃魏而已。若其保全,必有厚報;若其不守,與其使羌得之,不若使魏得之。」濟還報。八月,珪遣太尉穆崇將六萬騎往救之。秦の齊公崇と、鎮東將軍の楊佛嵩は、洛陽を寇した。(東晋の)河南太守である隴西の辛恭靖は、城を嬰して固守した。(東晋の)雍州刺史の楊佺期は、使をつかわし北魏の常山王の遵に救いをもとめた。魏主の拓跋珪は、散騎侍郎である西河の張濟を遵のために從事中郎として、これに報ゐた。楊佺期は張済に問う。
「北魏が中山を伐ったとき、戎士の人数はどれほどか」と。
張済「40餘萬だった」
『通鑑』巻108にある、孝武帝の太元21年のこと。楊佺期「北魏の強さを以てしても、小羌(中山)を滅ぼすに足らなかった。かつ(むかし)西晋は北魏とともにあり、もとは一家であり、
拓跋猗廬が、劉昆を救ったときのこと。現在すでに結好して、義は隠すところがない。いま兵は弱く糧は少なく、洛陽を救うには、魏を恃むしかない。もし洛陽を保全できたら、必ず厚く報ゐよう。もし守れねば、洛陽は羌族(秦)に取られる。それなら北魏が洛陽を得たほうがマシだ(だから兵をもっと出して)」と。
張済は(北魏の都に)還って報せた。8月、拓跋珪は、太尉の穆崇に6萬騎をひきいさせて、洛陽を救いにゆく。
燕遼西太守李朗在郡十年,威行境內,恐燕主盛疑之,累征不赴。以其家在龍城,未敢顯叛,陰召魏兵,許以郡降魏;遣使馳詣龍城,廣張寇勢。盛曰:「此必詐也。」召使者詰問,果無事實。盛盡滅朗族,丁酉,遣輔國將軍李旱討之。燕の遼西太守である李朗は、郡にあること十年、威は境内に行われる。(李朗は)燕主の盛に疑われるのを恐れ、しきりに徴されても(燕の都に)赴かず。李朗の家は龍城にある。(李朗は家属に命じて)まだ敢えてロコツに燕に叛かず、ひそかに魏兵を召して、郡ごと北魏に降ることを許した。使者を龍城にゆかせ、寇勢を広張(燕の敵と戦う姿勢を強化)させた。
燕主の盛「これは必ず詐である("燕の敵"でなく、"燕"と戦うつもりだ)」
使者を召して詰問すると、果して事実(燕の敵と戦う計画)がなかった。盛は、ことごとく李朗の族を滅ぼした。8月丁酉、輔國將軍の李旱に(李朗を)討たせた。
初,魏奮武將軍張袞以才謀為魏主珪所信重,委以腹心。珪問中州士人於袞,袞薦盧溥及崔逞,珪皆用之。
珪圍中山,久未下,軍食乏,問計於群臣。逞為御史中丞,對曰:「桑椹可以佐糧。飛鴞食椹而改音,詩人所稱也。」珪雖用其言,聽民以椹當租,然以逞為侮慢,心銜之。秦人寇襄陽,雍州刺史郗恢以書求救於魏常山王遵曰:「覽兄虎步中原。」珪以恢無君臣之禮,命袞及逞為復書,必貶其主。兗、逞謂帝為貴主,珪怒曰:「命汝貶之,而謂之『貴主』,何如『賢兄』也!」逞之降魏也,以天下方亂,恐我復遺種,使其妻張氏與四子留冀州,逞獨與幼子賾詣平城,所留妻子遂奔南燕。珪並以是責逞,賜逞死。盧溥受燕爵命,侵掠魏郡縣,殺魏幽州刺史封沓干。珪謂袞所舉皆非其人,黜袞為尚書令史。袞乃闔門不通人事,惟手校經籍,歲餘而終。はじめ魏の奮武將軍の張袞は、才謀により魏主の拓跋珪から信重され、腹心を委ねられる。拓跋珪は、中州の士人について張袞に問う。張袞は、盧溥および崔逞を推薦した。どちらも拓跋珪が用いた。
拓跋珪は、中山を囲むが、久しく下らず、軍食が乏しい。計を群臣に問う。(張袞に推薦された)崔逞は御史中丞として答えた。
「桑椹は(食べられるので)軍糧の助けになる。飛鴞は椹を食して音(鳴き声)を改むると、詩人が称しています」と。
拓跋珪はこの提案を用いて、民が『椹』を租として納めることを許した。だが崔逞が(北方人の拓跋珪を)侮慢するので、拓跋珪は崔逞を信頼しきれない。
秦人が襄陽を寇した。(東晋の)雍州刺史の郗恢は、文書で魏の常山王の遵に救いを求めた。「賢兄(拓跋珪)は虎のごとく中原を歩け」と。
助けを求めているのに、偉そうだなと。拓跋珪は、郗恢に君臣の禮が無いから、李袞および崔逞に命じて、郗恢への返事を書かせ、必ず(返事の書面中で東晋の)君主を貶らせた。李袞・崔逞は、東晋の皇帝を「貴主(あんたの国の主君)」と表現した。
拓跋珪は怒った。「李袞・崔逞には、東晋の君主を貶れと命じた。しかし『貴主』と書いた。オレのことを『賢兄』と書いてよこした(東晋の雍州刺史と比べて)どうだろうか」
東晋の刺史は、北魏の君主を「賢兄」と書いて、あまり尊敬してない。李袞・崔逞は、北魏に臣従しているくせに、漢族王朝の東晋にシンパシーを残しているため、東晋の君主を「貴主」と書いて敬った。拓跋珪としては、東晋の刺史が北魏をあなどるなら、北魏も東晋をあなどりない。崔逞が北魏に降ったとき、天下は乱れ、子孫を遺せないことを恐れ、妻の張氏と4子を冀州に留め、崔逞は幼子の崔賾だけを連れて平城にきた。留めた妻子は、南燕に奔った。拓跋珪は、このこと(妻子を北魏に連れてこなかったこと)もあわせて崔逞を責め、死を賜った。
盧溥は燕の爵命を受け、魏の郡県を侵掠した。魏の幽州刺史の封沓干を殺した。拓跋珪は、李袞が挙げた人材が、どちらも不適切なので、李袞を降格して尚書令史した。李袞は門を閉ざして人事と通ぜず、ただ手ずから經籍を校して、歲餘にして終す。
李袞が悪いのではなく、北魏が漢族を従わせるのは、文化的に/民族意識的に難しいというお話。この手の摩擦は、量産されてゆく。
燕主寶之敗也,中書令、民部尚書封懿降於魏。珪以懿為給事黃門侍郎、都坐大官。珪問懿以燕氏舊事,懿應對疏慢,亦坐廢於家。
武威王禿髮烏孤醉,走馬傷脅而卒,遺令立長君。國人立其弟利鹿孤,謚烏孤曰武王,廟號列祖。利鹿孤大赦,徙治西平。燕主の寶が敗れると、中書令・民部尚書の封懿は、魏に降った。拓跋珪は封懿を給事黃門侍郎・都坐大官とした。
胡三省はいう。北魏には、三都大官がある。都坐大官・外都大官・内都大官である。拓跋珪は封懿に燕氏の舊事を問う。封懿の応対が疏慢であるから(官職を辞めさせ)家に帰した。
胡三省はいう。拓跋珪は、けだし自疑した。衣冠の士に慢(あなど)られていると。ぼくは補う。「拓跋珪なんかに、難しい話しても分からないだろうから、適当に答えておけばいいよな」という態度を取られたと思ったのだ。武威王の禿髮烏孤が醉って、走馬し傷脅して卒した。長君を立てよと遺令した。国人は(遺令にそむき)弟の利鹿孤を立た。烏孤に謚して「武王」といい、廟號を「列祖」とする。利鹿孤は大赦し、治を西平に徙した。
南燕が広固に都を定める
南燕王德遣使說幽州刺史辟閭渾,欲下之,渾不從。德遣北地王鐘帥步騎二萬擊之,德進據琅邪,徐、兗之民歸附者十餘萬。德自琅邪引兵而北,以南海王法為兗州刺史,鎮梁父。進攻莒城,守將任安委城走。德以潘聰為徐州刺史,鎮莒城。蘭汗之亂,燕吏部尚書封孚南奔辟閭渾,渾表為勃海太守;及德至,孚出降,德大喜曰:「孤得青州不為喜,喜得卿耳!」遂委以機密。南燕王の德は、使者をやって(東晋の)幽州刺史の辟閭渾を説き、下したい。
胡三省はいう。晋王朝が南渡すると、幽州・冀州・青州・并州を、江北に僑立した。秦が幽州刺史の田洛を、(漢代の司隷の地でなく、江北の)三阿で囲んだのが、その証である。孝武の太元期末、東晋は斉地を奪還したから、幽州・冀州を斉地に移した。これ以降、斉地を鎮するものは、青・冀二州刺史を領した。辟閭渾が幽州刺史を領するが、けだし北から南にゆき、まだ東晋の臣として確定せず(純ならず)、幽州刺史として広固に鎮していた。辟閭渾は従わず。
德は北地王の鐘に步騎2萬を帥ゐて、辟閭渾を撃たせた。德は進んで琅邪に拠る。徐・兗の民で、南燕に歸附するものは10餘萬。德は琅邪から兵を引き、北にゆく。南海王の法が兗州刺史として、梁父に鎮する。進んで莒城を攻めた。守將の任安は城をすてて走げた。德は潘聰を徐州刺史として、莒城(前漢の城陽国、後漢の瑯邪郡、晋は東莞郡に分属させる)に鎮せしむ。
蘭汗が亂れると、燕の吏部尚書の封孚は、南して辟閭渾に奔りる。辟閭渾は表して(封孚を)勃海太守とする。德が至ると、封孚は出でて降る。德は大喜した。「孤は青州を得ても喜ばないが、卿を得たのが喜びだ」と。曹操か……。慕容徳さんは重要なキャラだな。ついに(封孚に)機密を委ねる。
北地王鐘傳檄青州諸郡,諭以禍福,辟閭渾徙八千餘家入守廣固,遣司馬崔誕戊薄荀固,平原太守張豁戌柳泉;誕、豁承檄皆降於德。渾懼,攜妻子奔魏,德遣射聲校尉劉綱追之,及於莒城,斬之。渾子道秀自詣德,請與父俱死。德曰:「父雖不忠,而子能孝。」特赦之。渾參軍張瑛為渾作檄,辭多不遜,德執而讓之。瑛神色自若,徐曰:「渾之有臣,猶韓信之有蒯通。通遇漢祖而生,臣遭陛下而死。比之古人,竊為不幸耳!」德殺之。遂定都廣固。北地王の鐘は、檄を青州の諸郡に傳へ、禍福を諭す。辟閭渾は8千餘家を徙して、廣固に入って守る。司馬の崔誕をつかわし薄荀固を守らせ、平原太守の張豁に柳泉を守らせる。崔誕・張豁は、檄を承けて2人とも慕容德に降った。辟閭渾は懼れ、妻子を攜てて北魏に奔った。慕容徳は射聲校尉の劉綱に追わせ、莒城で追いついて斬った。
辟閭渾の子の道秀は、みずから慕容徳にいたり、父とともに死にたいと請う。
慕容徳「父は不忠だったが、子は孝ができる」
辟閭渾は南燕に対して不忠であった。特別に赦した。辟閭渾の参軍の張瑛は、辟閭渾のために作檄したが、辞は多くが不遜である。慕容徳は執へて咎めた。
曹操と陳琳である。張瑛の神色は自若として、徐ろに曰く、
「辟閭渾には私がおり、韓信には蒯通がいた。蒯通が漢祖に遇ったとき生かされ、私は陛下に遭って死ぬ。これを古人と比べると(慕容徳の度量が、漢祖より小さいから)私は不幸だと思うわ」
慕容徳はこれを殺した。ついに広固を南燕の都と定めた。
9月
燕李旱行至建安,燕主盛急召之,君臣莫測其故。九月,辛未,復遣之。李朗聞其家被誅,擁二千餘戶以自固;及聞旱還,謂有內變,不復設備,留其子養守令支,自迎魏師於北平。壬子,旱襲令支,克之,遣廣威將軍孟廣平追及朗於無終,斬之。
燕の李旱は、建安に至る。燕主の盛は、急ぎを召した。郡臣は急ぐ理由がわからない。9月の辛未、また李旱をつかわす。李朗は、家族が誅されたと聞き、2千餘戸を擁して自ら固めた。李旱が還ったと聞くに及び、李朗は「燕に内変があったようだ」といい、防備を行った。子の李養を留めて令支を守らせ、みずから魏師を北平で迎えた。9月壬子、李旱は令支を襲って勝ち、廣威將軍の孟廣平をやって李朗を追い、無終で斬った。
秦主興以災異屢見,降號稱王,下詔令群公、卿士、將牧、守宰各降一等;大赦,改元弘始。存問孤貧,舉拔賢俊,簡省法令,清察獄訟,守令之有政跡者賞之,貪殘者誅之,遠近肅然。秦主の興は、災異がしばしば現れるので、爵号を「王」に下し、詔して群公・卿士・將牧・守宰の称号を1等ずつ下げた。大赦して「弘始」と改元した。孤貧を存問し、賢俊を舉拔し、法令を簡省し、獄訟を清察した。守令に政跡があれば賞し、貪殘ならば誅した。遠近は肅然とした。
冬10月
冬,十月,甲午,燕中衛將軍衛雙有罪,賜死。李旱還,聞雙死,懼,棄軍而亡,至板陘,復還歸罪。燕主盛復其爵位,謂侍中孫勍曰:「旱為將而棄軍,罪在不赦。然昔先帝蒙塵,骨肉離心,公卿失節,惟旱以宦者忠勤不懈,始終如一,故吾念其功而赦之耳。
辛恭靖固守百餘日,魏救未至,秦兵拔洛陽,獲恭靖。恭靖見秦王興,不拜,曰:「吾不為羌賊臣!」興囚之,恭靖逃歸。自淮、漢以北,諸城多請降,送任於秦。
魏主珪以穆崇為豫州刺史,鎮野王。冬10月の甲午、燕の中衛將軍の衛雙は罪があり死を賜る。李旱は還るや、衛雙の死を聞き、懼れて軍を棄てて逃亡して板陘に至る。また還って罪に歸す。燕主の盛は、李旱の爵位を復し、侍中の孫勍に謂ふ。
「旱は將となるが軍を棄てた。罪は赦せるものでない。しかし昔、先帝が蒙塵して、骨肉が心を離し、公卿が節を失したとき、ただ李旱だけが宦者として忠勤して懈まず、終始一貫、態度を変えなかった。ゆえに彼の功績を思って、赦したのである」
(東晋の将の)辛恭靖は、固守すること百餘日。魏の救いは至らず、秦兵が洛陽を抜き、恭靖を捕らえた。恭靖は秦王の興にまみえ、拜せず。「吾は羌賊の臣にならん」と。興は恭靖を囚えたが、恭靖は逃歸した。淮・漢より以北は、諸城が多く(東晋から秦に)降らんことを請ひ、人質を秦に送った。
魏主の拓跋珪は、穆崇を豫州刺史として、野王に鎮せしむ。
秦がすでに洛陽を得たから、北魏は野王に鎮をおき、秦が渡河して侵略するのに備えたのである。
孫恩の乱@東晋
會稽世子元顯,性苛刻,生殺任意;發東土諸郡免奴為客者,號曰樂屬,移置京師,以充兵役,東土囂然苦之。 孫恩因民心騷動,自海島帥其黨殺上虞令,遂攻會稽。會稽內史王凝之,羲之之子也,世奉天師道,不出兵,亦不設備,日於道室稽顙跪咒。官屬請出兵討恩,凝之曰:「我已請大道,借鬼兵守諸津要,各數萬,賊不足憂也。」及恩漸近,乃聽出兵,恩已至郡下。會稽世子の司馬元顯は、性が苛刻で、生殺は意に任す。東土の諸郡から(奴を)徴発し、奴を免じて(解放して)客となし、「楽属」と号した。移して京師に置き、兵役に充てた。東土は囂然となって苦しんだ。
孫恩は民心の騒動に因り、海島からその黨を帥ゐ、上虞令を殺して、ついに會稽を攻めた。會稽內史の王凝之は、王羲之の子である。世々天師道(張道陵の宗教)を奉り、出兵せず、また防備もせず、日に道室で跪咒を稽顙した。官属が王凝之に「出兵して孫恩を討とう」と請う。
王凝之「我はすでに大道に請ひ、鬼兵を借りて諸津の要を守れり。各々數萬なり。賊 憂ふに足らず」と。孫恩が接近するまで出兵を命ぜず。孫恩はすでに郡下に至る。
甲寅,恩陷會稽,凝之出走,恩執而殺之,並其諸子。凝之妻謝道蘊,弈之女也,聞寇至,舉措自若,命婢肩輿,抽刀出門,手殺數人,乃被執。吳國內史桓謙、臨海太守新秦王崇、義興太守魏隱皆棄郡走。於是會稽謝金鹹,吳郡陸瑰、吳興丘尪、義興許充之、臨海周冑、永嘉張永等及東陽、新安凡八郡人,一時起兵,殺長吏以應恩,旬日之中,眾數十萬。吳興太守謝邈、永嘉太守司馬逸、嘉興公顧胤、南康公謝明慧、黃門郎謝沖、張琨、中書郎孔道等皆為恩黨所殺。邈、沖,皆安之弟子也。10月甲寅、孫恩は會稽を陥とし、王凝之は出でて走げた。孫恩は王凝之を執へて、諸子ごと殺した。凝之の妻の謝道蘊は、弈の娘である。寇が至ると聞くも、舉措は自若たり。婢に肩輿を命じ、刀を抽き門を出で、手ずから數人を殺し、乃ち執へらる。吳國內史の桓謙・臨海太守の新秦王たる司馬崇、義興太守の魏隠は、みな郡を棄てて走ぐ。
ここにおいて會稽の謝金鹹・吳郡の陸瑰・吳興の丘尪・義興の許充之・臨海の周冑・永嘉の張永ら、および東陽・新安など、およそ(全体で)8郡のひとは、一斉に起兵し、長吏を殺して孫恩に応じた。旬日の中、衆は數十萬。
吳興太守の謝邈・永嘉太守の司馬逸・嘉興公の顧胤・南康公の謝明慧・黃門郎の謝沖・張琨・中書郎の孔道らは、みな孫恩の党に殺された。邈・沖は、どちらも謝安の弟の子である。
王羲之や謝安など、東晋の名臣の子弟が、アホみたいな死に方をするのが、孫恩の乱。東晋が終わりに向けて動き出す。
時三吳承平日久,民不習戰,故郡縣兵皆望風奔潰。恩據會稽,自稱征東將軍,逼人士為官屬,號其黨曰「長生人」,民有不與之同者,戮及嬰孩,死者什七、八。醢諸縣令以食其妻子,不肯食者,輒支解之。所過掠財物,燒邑屋,焚倉廩,刊木,堙井,相帥聚於會稽;婦人有嬰兒不能去者,投於水中,曰:「賀汝先登仙堂,我當尋後就汝。」恩表會稽王道子及世子元顯之罪,請誅之。ときに三吳は、承平して日は久しく、民は戰に習はず、ゆえに郡縣の兵は、みな風に望みて奔潰す。孫恩は会稽に拠り、「征東將軍」を自称した。人士に逼って官屬とし(臣従させ)、その党を「長生人」と呼ぶ。同調しない民がいれば、殺戮は嬰孩に及び、死者は7・8割に及ぶ。諸縣令を塩漬けにして、その妻子に食べさせた。食べるのを拒むなら、(妻子の手で、県令の)関節をバラさせた。
「醢」「支解」が難しいです。
@GiShinNanBoku さんはいう。「支解」はおそらく四肢をバラバラにすること。対象は不肯食者(妻子)のほうですね。
ぼくは補う。「支解」は胡三省が解説してくれてます。通過したところで財物を掠め、邑屋を燒き、倉廩を焚く。木を刊し、井を堙ぐ。(住めなくなった土地から)聚を会稽に連れてくる。嬰兒がいる婦人で、会稽に移動できなければ、水中に投じた。
「汝の先に仙堂に登るを賀す。我 當に尋て後に汝に就くべし」と。
孫恩は、會稽王の司馬道子および世子の司馬元顯の罪を表し、誅さんことを請ふ。
自帝即位以來,內外乖異,石頭以南皆為荊、江所據,以西皆豫州所專,京口及江北皆劉牢之及廣陵相同雅之所制,朝廷所行,惟三吳而已。及孫恩作亂,八郡皆為恩有,畿內諸縣,盜賊處處蜂起,恩黨亦有潛伏在建康者,人情危懼。常慮竊發,於是內外戒嚴。加道子黃鉞,元為領中軍將軍,命徐州刺史謝琰兼督吳興、義興軍事以討恩;劉牢之亦發兵討恩,拜表輒行。
西秦以金城太守辛靜為右丞相。東晋の安帝は、即位して以来、内外は乖異た。石頭より南は、みな荊州・江州の(官僚が)拠る。石頭より西はみな豫州が専管する。京口および江北は劉牢之と廣陵相の高雅之が制する。
胡三省が地理について述べる。3498ページ。東晋の朝廷の管轄は、ただ三吳だけである。孫恩が乱をおこすと、8郡は孫恩の所有となり、畿內の諸縣は、盜賊が處處に蜂起した。孫恩の党は、建康にも潜伏しており、人情は危懼たり。つねに潜伏者の決起を警戒して、内外は戒厳した。司馬道子に黃鉞を加へ、司馬元を領中軍將軍と為し、徐州刺史の謝琰に命じて、督吳興・義興軍事を兼ねしめ、孫恩を討たせる。劉牢之もまた兵を発して、孫恩を討つ。劉牢之は、表を拜して輒ち行く。
西秦は、金城太守の辛靜を右丞相とした。
12月
十二月,甲午,燕燕郡太守高湖帥戶三千降魏。湖,泰之子也。
丙午,燕主盛封弟淵為章武公,虔為博陵公,子定為遼西公。
丁未,燕太后段氏卒,謚曰惠德皇后。
謝琰擊斬許允之,迎魏隱還郡,進擊丘尪,破之,與劉牢之轉斗而前,所向輒克。琰留屯烏程,遣司馬高素助牢之,進臨浙江。詔以牢之都督吳都諸軍事。
12月の甲午、燕の燕郡太守の高湖は、戸3千を帥ゐて魏に降る。湖とは、高泰の子である。丙午、燕主の盛は、弟の淵を封じて章武公とし、虔を博陵公、子の定を遼西公とした。
丁未、燕太后の段氏が卒し、謚して「惠德皇后」といふ。
謝琰は、許允之を撃斬し、魏隱を迎へて郡に還る。丘尪に進撃して破り、劉牢之とともに転闘して進む。進めば、たちどころに勝つ。謝琰は留って烏程に屯り、司馬の高素をやって劉牢之を助けさせ、進みて浙江に臨んだ。
詔して劉牢之を都督吳都諸軍事とした。
劉裕の登場・孫恩の潰走
初,彭城劉裕,生而母死,父翹僑居京口,家貧,將棄之。同郡劉懷敬之母,裕之從母也,生懷敬未期,走往救之,斷懷敬乳而乳之。及長,勇健有大志。僅識文字,以賣履為業,好樗蒲,為鄉閭所賤。劉牢之擊孫恩,引裕參軍事,使將數十人覘賊。遇賊數千人,即迎擊之,從者皆死,裕墜岸下。賊臨岸欲下,裕奮長刀仰斫殺數人,乃得登岸,仍大呼逐之,賊皆走,裕所殺傷甚眾。劉敬宣怪裕久不返,引兵尋之,見裕獨驅數千人,鹹共歎息。因進擊賊,大破之,斬獲千餘人。はじめ彭城の劉裕は、生まれてすぐに母が死に、父の劉翹は京口に僑居した。家は貧しく、棄てられそう。同郡の劉懷敬の母は、劉裕の從母である。懷敬を生んだ直後だが、劉裕を救ってくれた。懷敬に乳をやらず、劉裕に乳を与えた。
長ずると、勇健で大志あり。わずかに文字を識り、賣履を業とした。樗蒲を好み、鄉閭に賤まれた。劉牢之が孫恩を撃つと、裕を引きて参軍事とし、數十人をひきいて賊を偵察させた。
晋宋の制度で、参軍しても署曹しないものは、定員がない。劉裕は賊の數千人とあい、すぐに迎へ撃つ。従者はみな死んだが、劉裕は岸下に墜りた。賊は岸に臨みて下りようとした。劉裕は長刀を奮ひ、仰ぎて(下から上方向に)數人を斫殺し、岸に登れた。大呼して賊を逐ふ。賊は皆にげ、劉裕は甚だ多くを殺した。劉敬宣は、劉裕が久しく返らないのを怪しみ、兵を引いて探した。劉裕が1人で数千人を駆るのを見て、みなで嘆息した。(劉裕の作った状況を生かして)進撃し、賊を大破して、千餘人を斬獲した。
初,恩聞八郡響應,謂其屬曰:「天下無復事矣,當與諸君朝服至建康。」既而聞牢之臨江,曰:「我割浙江以東,不失作句踐!」戊申,牢之引兵濟江,恩聞之,曰:「孤不羞走。」遂驅男女二十餘萬口東走,多棄寶物、子女於道,官軍競取之,恩由是得脫,復逃入海島。高素破恩黨於山陰,斬恩所署吳郡太守陸瑰、吳興太守丘尪、餘姚令吳興沈穆夫。はじめ孫恩は、8郡が響應すると聞き、部下にいった。
「天下 復た事ふること無し。當に諸君と朝服にて建康に至るべし」
孫恩が皇帝になる決意を語った。既に(劉裕の上官である)劉牢之が長江に臨むと聞き、
「浙江の東を割けば(天下は無理でも、領土を限定すれば)句踐となるを失わず(越王の句践ぐらいにはなれるだろう)」
12月の戊申、劉牢之は兵を引いて長江を渡る。孫恩はこれを聞いて、
「孤 走ぐることを羞ぢず」
『江表伝』で、曹操が周瑜から逃げるときの言葉らしい。ついに男女20餘萬口を驅り、東に逃げた。多く宝物・子女を道に棄てた。官軍が競って取ったので、おかげで孫恩は逃げることができた。復た逃げて海島に入る。高素は孫恩の党を山陰で破った。孫恩が任命した、吳郡太守の陸瑰・吳興太守の丘尪・餘姚令である吳興の沈穆夫を破った。
東土遭亂,企望官軍之至,既而牢之等縱軍士暴掠,士民失望,郡縣城中無復人跡,月餘乃稍有還者。朝廷憂恩復至,以謝琰為會稽太守、都督五郡軍事,帥徐州文武戍海浦。
東土が乱に遭うと、官軍の至るのを企望した。しかし、劉牢之らが軍士に暴掠させると、士民は失望した。郡県の城中は、人跡がなく、月餘して少しずつ還ってきた。朝廷は孫恩の再来を憂いて、謝琰を會稽太守・都督五郡軍事として、徐州の文武を帥ゐて海浦を戍らせた。
司馬元顕の専権
以元顯錄尚書事。時人謂道子為東錄,元顯為西錄;西府車騎填湊,東第門可張羅矣。元顯無良師友,所親信者率皆佞諛之人,或以為一時英傑,或以為風流名士。由是元顯日益驕侈,諷禮官立議,以己德隆望重,既錄百揆,百揆皆應盡敬。於是公卿以下,見元顯皆拜。時軍旅數起,國用虛竭,自司徒以下,日廩七升,而元顯聚斂不已,富逾帝室。司馬元顯を錄尚書事とした。ときの人は、「道子が東錄となり、元顯が西錄となる。西府の車騎は湊を填め、東第の門は羅を張れた」という。
すみません。「東第門可張羅矣」がわかりません。
@GiShinNanBoku さんはいう。「張羅」は「鳥網」? 晋書原文は「西府車騎填湊,東第門下可設雀羅矣。」ですから、「(元顕の)西府には来客があふれ、(道子の)東第には全くいない」という内容でしょうか。
ぼくは思う。『通鑑』は中華書局で「張羅」なので、司馬光の改変なのでしょう。『晋書』まで遡れば、スズメを捉えるための網を張れるほど(来客がいない)と。元顯は良き師友がおらず、親信する者は、みな佞諛の人である。(しかし元顕は身近なひとの真価を見誤り)あるものは一時の英傑と見なし、あるものは風流の名士と見なす。
これにより元顯は、日ましに驕侈となり、禮官に諷して立議させ、己の德が隆く望が重いので、「すでに(舜・禹のように)百揆を錄し、百揆はみな応じて敬を尽くしている」といわせた。
百揆が……というのは、禹・舜の経書から。ここにおいて公卿より以下は、元顯にあえば皆が拜した。時に軍旅がしばしば起り、國用は虛竭し(財政は枯渇し)、司徒より以下は、日に七升だけをを廩するが、元顕は財物の徴発をやめず、富は帝室を越えた。
元顕が亡国の原因をつくる張本である。
殷仲堪恐桓玄跋扈,乃與楊佺期結昏為援。佺期屢欲攻玄,仲堪每抑止之。玄恐終為殷、楊所滅,乃告執政,求廣其所統;執政亦欲交構,使之乖離,乃加玄都督荊州四郡軍事,又以玄兄偉代佺期兄廣為南蠻校尉。佺期忿懼。楊廣欲拒桓偉,仲堪不聽,出廣為宜都、建平二郡太守。楊孜敬先為江夏相,玄以兵襲而劫之,以為咨議參軍。
佺期勒兵建牙,聲雲援洛,欲與仲堪共襲玄。仲堪雖外結佺期而內疑其心,苦止之;猶虎弗能禁,遣從弟遹屯於北境,以遏佺期。佺期既不能獨舉,又不測仲堪本意,乃解兵。
仲堪多疑少決,咨議參軍羅企生謂其弟遵生曰:「殷侯仁而無斷,必及於難。吾蒙知遇,義不可去,必將死之。」殷仲堪は、桓玄が跋扈するのを恐れ、楊佺期とともに結盟して援けにしたい。佺期はしばしば桓玄を攻めようとするが、仲堪がいつも抑止した。
桓玄は、殷仲堪・楊佺期に滅ぼされるのを恐れ、執政者(司馬元顕)に告げて、(自分が)統御する範囲を広げたいと申請した。執政者(司馬元顕)は、桓玄と友好関係を結んでおき、かつ桓玄を殷仲堪・楊佺期と対立させようと考え、桓玄に都督荊州四郡軍事を加えた。また桓玄の兄の桓偉を、楊佺期の兄の楊廣の代わりに南蠻校尉とした。
楊佺期は忿懼した。楊廣は、桓偉との交替をいやがったが、殷仲堪は(桓玄が政敵であるが、桓玄の決定に逆らうことを)ゆるさない。楊広を出して宜都・建平二郡太守とした。楊孜敬は、先に江夏相となったが、桓玄は兵を襲って劫し、(楊孜敬から江夏の権限を剥奪して、楊孜敬を)咨議參軍とした。
楊佺期は、兵を勒し牙を建て、名目では「洛陽を援ける」と声明を出し、殷仲堪とともに桓玄を襲おうとした。殷仲堪は、外では楊佺期と結ぶが、内では楊佺期の心を疑う。だから桓玄の襲撃を止めた。しかし楊佺期を制止できない場合も考えて、從弟の殷遹を北境に屯させ、佺期を遏そうとした。佺期は、単独では挙行できず、また殷仲堪の本意が分からないから、(桓玄の襲撃をあきらめて)兵を解いた。
殷仲堪は、疑が多くて決が少ない。咨議參軍の羅企生は、弟の羅遵生にいう。
「殷侯(殷仲堪)は、仁にして断なし。必ず難に及ぶ。吾は知遇をこうむる。義は去る可からず(運命共同体である)。必ず將に之に死せんとす」
桓玄が殷仲堪を殺す
是歲,荊州大水,平地三丈,仲堪竭倉廩以賑饑民。桓玄欲乘其虛而伐之,乃發兵西上,亦聲言救洛,與仲堪書曰:「佺期受國恩而棄山陵,宜共罪之。今當入沔討除佺期,已頓兵江口。若見與無貳,可收楊廣殺之;如其不爾,便當帥兵入江。」
時巴陵有積穀,玄先遣兵襲取之。梁州刺史郭銓當之官,路經夏口,玄詐稱朝廷遣銓為己前鋒,乃授以江夏之眾,使督軍諸軍並進,密報兄偉令為內應。偉遑遽不知所為,自繼疏示仲堪。仲堪執偉為質,令與玄書,辭甚苦至。玄曰:「仲堪為人無決,常懷成敗之計,為兒子作慮,我兄必無憂也。この歳、荊州で大水があり、平地では3丈(浸水した)。殷仲堪は、倉廩をカラにして饑民に施した。桓玄はその虚に乗じて、殷仲堪を伐つため、兵を発して西上した。桓玄もまた(楊佺期と同じく)名目では「洛陽を救う」と声明を出し、殷仲堪に文書を送った。
「楊佺期は國恩を受けたが、山陵を棄てた。ともに彼の罪を罰しよう。
胡三省はいう。東晋は洛陽を復して、雍州の管轄とした。ゆえに桓玄は、(洛陽を失って)山陵を捨てた罪を(雍州を管轄する)楊佺期の罪と認定した。いま(殷仲堪は)沔水に入って、佺期を討ち除け。兵を長江の口に頓させよ。もし両端を持する(楊佺期に味方する)つもりがないなら、楊広を收めて殺せ。もし楊広を殺さないなら、兵をひきいて長江に入れ」
胡三省はいう。長江に入るとは、江陵を攻めよという意味である。ときに巴陵には積穀がある。桓玄は先に兵をやり、これを襲取した。梁州刺史の郭銓は、着任するために、夏口を通っている。桓玄は朝廷の命令だといつわって、郭銓を自軍の前鋒として、江夏の衆を授けた。
桓玄は、諸軍を督して並進する。ひそかに兄の桓偉に報せて内応させた。あわてた桓偉は、どうしていいか分からず、みずから上疏をもたらして殷仲堪に示した。殷仲堪は、桓偉をとらえて人質として、桓玄にむけて手紙を書かせた。文辞はひどく苦しそう。
桓玄「殷仲堪の人となりは、決がない。つねに成敗の計を懐き、児子のために心配ばかりしている。わが兄(桓偉)は殺される心配がない」
仲堪遣殷遹帥水軍七千至西江口,玄使郭銓、苻宏擊之,遹等敗走。玄頓巴陵,食其谷;仲堪遣楊廣及弟子道護等拒之,皆為玄所敗。江陵震駭。
城中乏食,以胡麻廩軍士。玄乘勝至零口,去江陵二十里,仲堪急召楊佺期以自救。佺期曰:「江陵無食,何以待敵!可來見就,共守襄陽。」仲堪志在全軍保境,不欲棄州逆走,乃紿之曰:「比來收集,已有儲矣。」佺期信之,帥步騎八千,精甲耀日,至江陵,仲堪唯以飯餉其軍。佺期大怒曰:「今茲敗矣!」不見仲堪,與其兄廣共擊玄。玄畏其銳,退軍馬頭。殷仲堪は、殷遹に水軍7千をひきいさせ、西江口に至らせる。桓玄は、郭銓・苻宏に撃たせ、殷遹らは敗走した。桓玄は巴陵に頓し、そこの穀物を食べる。殷仲堪は、楊廣および弟の子の道護らに、桓玄を拒ませるが、桓玄に敗れた。江陵が震駭した。
城中は食に乏しく、胡麻を軍士に食わせた。桓玄は勝ちに乗じて零口に至る。江陵から20里のところ。殷仲堪は、急ぎ楊佺期を召して救ってもらいたい。
楊佺期「食料がない江陵で、なぜ敵を待ち受けたか。(江陵を捨てて)合流し、ともに襄陽で守ろう(桓玄を迎え撃とう)」
殷仲堪の志は、軍と国境を保全することにあるから、江陵を捨てたくない。(楊佺期を)欺いて、「江陵にあつまれ。食料があるから」と。
楊佺期はこれを信じて、步騎八千を帥ひ、精甲は日を耀かせ、至江陵に至った。殷仲堪は、ただ飯だけで楊佺期の軍をもてなす。楊佺期は大怒した。「いまココに敗れたぞ」と。殷仲堪にあわず、兄の楊広とともに桓玄を撃つ。桓玄は楊氏の精鋭ぶりを怖れ、軍を馬頭に退ける。
明日,佺期引兵急擊郭銓,幾獲之。會玄兵至,佺期大敗,單騎奔襄陽。仲堪出奔酇城。玄遣將軍馮該追佺期及廣,皆獲而殺之,傳首建康。佺期弟思平、從弟尚保、孜敬逃入蠻中。仲堪聞佺期死,將數百人將奔長安,至冠軍城,該追獲之,還至柞溪,逼令自殺,並殺殷道護。仲堪奉天師道,禱請鬼神,不吝財賄,而嗇於周急。好為小惠以悅人,病者自為診脈分藥,用計倚伏煩密,而短於鑒略,故至於敗。翌日、楊佺期は兵をひき、いそぎ郭銓をうち、捕獲しかける。たまたま桓玄の兵がきて、楊佺期は大敗して、単騎で襄陽に奔る。仲堪は酇城に出奔した。桓玄は、將軍の馮該に楊佺期・楊広を追わせ、どちらも捕らえて殺し、首を建康に送った。
佺期の弟の楊思平・從弟の楊尚保・楊孜敬は、蠻中に逃げ入る。
仲堪は、佺期の死を聞き、數百人をひきいて長安に奔ろうとして、冠軍城に至る。(桓玄の将軍の)馮該は追って獲らえて、柞溪に連れもどし、逼って自殺させた。殷道護も殺した。
仲堪は天師道を奉じ、鬼神に禱請するとき、財賄を吝まない。しかし周急を嗇む。小恵(こまかい恩を施す)をして人を悦ばせるのが好きで、病者がいれば自ら脈を診て薬を分けた。用計は倚伏・煩密であるが、鑑略(大局的に見ること)が苦手であり、ゆえに敗れた。
◆おまけ:羅企生の美談
仲堪之走也,文武無送者,惟羅企生從之。路經家門,弟遵生曰:「作如此分離,何可不一執手!」企生旋馬授手,遵生有力,因牽下之,曰;「家有老母,去將何之?」企生揮淚曰:「今日之事,我必死之,汝等奉養,不失子道。一門之中,有忠與孝,亦復何恨!」遵生抱之愈急,仲堪於路待之,見企生無脫理,策馬而去。仲堪がにげると、文武の官で送るものがいない。ただ羅企生だけが殷仲堪に従った。家門を通過するとき、弟の殷遵生がいう。「このように分離して(だれも殷仲堪についてこず)、1人も手をとる(逃亡を手伝ってくれる)者がいないのか」
羅企生は馬を返して、殷遵生の手をとった。殷遵生は力をこめて、羅企生を馬から引き下ろした。「家に老母(殷仲堪・殷遵生の母)がいる。助けてくれないか」
殷遵生は、誰かを引き留めるために、「手をとってほしいな」と言ったのだ。羅企生は涙を揮った。「今日の事で、私は必ず死ぬでしょう。あなた方が老母を養えば、子の道を失わない。殷氏の一門の中には、忠(殷仲堪)と孝(殷遵生)がいる。また何を恨むことがあるか」
殷遵生が羅企生をきつく抱く。殷仲堪は道で(弟と羅企生のやりとりを)待っている。羅企生が脱理しない(老母の面倒をみて、殷氏の邸宅に残ること)を見届けて、馬にムチうって去った。
及玄至,荊州人士無不詣玄者,企生獨不往,而營理仲堪家事。或曰:「如此,禍必至矣!」企生曰:「殷侯遇我以國土,為弟所制,不得隨之共殄丑逆,復何面目就桓求生乎!」玄聞之,怒,然待企生素厚,先遣人謂曰:「若謝我,當釋汝。」企生曰:「吾為殷荊州吏,荊州敗,不能救,尚何謝為!」玄乃收之,復遣人問企生欲何言。企生曰;「文帝殺嵇康,嵇紹為晉忠臣。從公乞一弟以養老母!」;玄乃殺企生而赦其弟。桓玄が至ると、荊州の人士は、桓玄に詣でない者がいないが、羅企生だけが詣でず、殷仲堪の家事を営理した。あるひとが「そんなことしてると、禍いをまねく」というと、羅企生は、「殷侯は私を国士として待遇してくれた。弟(殷遵生)に制されて、ここに残った(殷仲堪の最期に従軍しなかった)。なんの面目があって、桓玄に命乞いをしようか」といった。
桓玄はこれを聞いて怒り、しかし元のとおり羅企生を厚遇した。さきに人をやり、「もし私に謝るなら、許してやる」といった。羅企生「私は殷荊州の吏となった。荊州が敗れたら、救われなくて当然だ。なにを謝ることがある」と。桓玄は羅企生をとらえ、人をやって「言いたいことは?」と問う。
羅企生「文帝(司馬昭)は嵇康を殺したが、嵇紹は晋の忠臣であった。桓玄へのお願いとして、弟に老母を養わせてほしい」と。桓玄は羅企生を殺して、羅企生の弟を赦した(羅企生の老母の面倒を見させた)。
後涼の呂氏の代替わり
涼王光疾甚,立太子紹為天王,自號太上皇帝,以太原公纂為太尉,常山公弘為司徒,謂紹曰;「今國家多難,三鄰伺隙,吾沒之後,使纂統六軍,弘管朝政,汝恭己無為,委重二兄,庶幾可濟。若內相猜忌,則蕭牆之變,旦夕至矣。」又謂纂、弘曰:「永業才非撥亂,直以立嫡有常,猥居元首。今外有強寇,人心未寧,汝兄弟緝睦,則祚流萬世;若內自相圖,則禍不旋踵矣。」纂、弘泣曰:「不敢。」又執纂手戒之曰:「汝性粗暴,深為吾憂。善輔永業,勿聽讒言!」是日,光卒。涼王の呂光が疾が甚しく、太子の呂紹を立てて天王として、自ら「太上皇帝」を号した。太原公の呂纂を太尉、常山公の呂弘を司徒にした。呂光は呂紹に(先代は次代の天王に)いう。
「いま國家は多難であり、三鄰は隙をうかがう。
三隣とは、禿髪・乞伏・段業のことである。私の死後、(太尉の)呂纂に六軍を統べさせ、(司徒の)呂弘に朝政を管させよ。汝は己を恭しくて何もせず、二兄に委ねて、政権を保てるだろう。もし猜忌しあえば、蕭牆の變(外敵からの進攻)が、旦夕に至る」
また光は、纂・弘にいう。「永業(新たな天王たる呂紹の字)の才は乱を防ぐものではない。ただ嫡子を立てるという原則に従い、元首にしただけ。いま外に強寇があり、人心は寧でない。汝ら兄弟が緝睦すれば、祚は萬世に流れる。若し内に自ら相ひ圖れば、禍いは踵を旋さない」
呂纂・呂弘は泣いた。「敢へて(自ら天王になろうと)せず」
また呂纂の手を執って戒めた。「汝の性は粗暴で、深く吾を憂はせた。善く永業(呂紹)を輔け、讒言を聽くなかれ」と。この日、呂光が卒した。
紹秘不發喪,纂排閣入器,盡哀而出。紹懼,以位讓之,曰:「兄功高年長,宜承大統。」纂曰:「陛下國之塚嫡,臣敢奸之?」紹固讓,纂不許。驃騎將軍呂超謂紹曰:「纂為將積年,威震內外,臨喪不安,步高視遠,必有異志,宜早除之。」紹曰:「先帝言猶在耳,奈何棄之!吾以弱年負荷大任,方賴二兄以寧家國,縱其圖我,我視死如歸,終不忍有些意也。卿勿復言!」纂見紹於湛露堂;超執刀侍側,目纂請收之,紹弗許,超,光弟寶之子也。呂紹は秘して喪を發せず,呂纂は閣を排して(誰にも見られないように人払いして)哭に入り、哀を盡くしてから出る。呂紹は(呂纂が何をしているか分からないから)懼れ、位を呂纂に譲ろうとした。
「兄の功は高く年は長なり。宜しく大統を承げ」
呂纂「陛下は國の塚嫡である。臣は敢て之を奸せんや」
呂紹は固く讓るも、呂纂は許さず。
驃騎將軍の呂超は呂紹にいう。「呂纂は將たること積年、威は内外を震はし、喪に臨みて安ぜず、高みを歩き遠きを視る。必ず異志あり。宜しく早く除くべし」
呂紹「先帝の言 猶ほ耳に在り。なんぞこれを棄てん。吾は弱年で大任を負荷し、方に二兄を頼りて以て家國を寧んず。縱ひ其れ我を圖るとも、我 死を視ること歸するが如し。終に些意あるを忍びず。卿よ復た言ふなかれ」と。
呂纂は、呂紹と湛露堂であう。呂超は刀を執りて側に侍り、呂纂を目して之を收めんことを請ふ。紹は許さず。呂超は、呂光の弟である呂寶の子である。
弘密遣尚書姜紀謂纂曰:「主上闇弱,未堪多難。兄威恩素著,宜為社稷計,不可徇小節也。」纂於是夜帥壯士數百逾北城,攻廣夏門,弘帥東苑之眾斧洪範門。左衛將軍齊從守融明觀,逆問之曰:「誰也?」眾曰:「太原公。」從曰:「國有大故,主上新立,太原公行不由道,夜入禁城,將為亂邪?」」因抽劍直前斫纂,中額,纂左右禽之。纂曰:「義士也,勿殺!」;紹遣虎賁中郎將呂開帥禁兵拒戰於端門,呂超帥卒二千赴之;眾素憚纂,皆不戰而潰。纂入自青角門,升謙光殿。紹登紫閣自殺。呂超奔廣武。呂弘は密かに尚書の姜紀をつかわし、呂纂にいう。
「主上は闇弱で、未だ多難に堪へず。兄の威恩 素より著たり。宜しく社稷のために計れ。小節に徇るべからず」と。
呂纂はここにおいて夜に壯士數百を帥ゐ、北城を逾へ、廣夏門を攻めた。呂弘 東苑の衆を帥ゐ、洪範門を斧でたたく。
涼州城の構成や門の名について、胡三省が3503ページ。左衛將軍の齊從は、融明觀を守り、逆に問ふ「誰だ」。衆「太原公(呂纂)である」。斉従「國に大故あり。主上 新らたに立つ。太原公 行くに道に由らず、夜に禁城に入る。乱を起こそうというのか」と。
剣県を抽き、まっすぐ進んで呂纂を斬った。額に中たる。呂纂の左右は、斉従を禽へた。呂纂「義士なり、殺すなかれ」と。呂紹は虎賁中郎將の呂開をつかわし、禁兵を帥ゐて端門を防がせる。呂超は卒2千を帥ゐて赴く。衆はふだんから呂纂をはばかり、戦わずに潰ゆ。呂纂は青角門から入り、謙光殿に升る。呂紹は紫閣に登り、自殺した。呂超は廣武に奔る。
纂憚弘兵強,以位讓弘。弘曰:「弘以紹弟也,而承大統,眾心不順,是以違先帝遺命而廢之,慚負黃泉!今復逾兄而立,豈弘之本志乎!」纂乃使弘出告眾曰:「先帝臨終,受詔如此。」群臣皆曰:「苟社稷有主,誰敢違者!」纂遂即天王位。大赦,改元咸寧,謚光曰懿武皇帝,廟號太祖;謚紹曰隱王。以弘為大都督、督中外諸軍事、大司馬、車騎大將軍、司隸校尉、錄尚書事,改封番禾郡公。呂纂は、呂弘の兵の強さをはばかり、位を呂弘の譲ろうとした。
呂弘「私は呂紹の弟である。しかし大統を承ければ、衆心は順はず。先帝の遺命にそむいて呂紹を廃したから、黄泉で慚負する。いままた兄をこえて君主になるのが、どうして私の本志だろうか」
杜預はいう。地中の泉を黄泉という。呂纂は、呂弘を出して衆に告げさせた。「先帝は臨終のとき、このように詔を受けた」と。群臣はみな、「いやしくも社稷に主がいるのに、だれが違うものか」と。
遺詔よりも、目の前にいる呂纂というナマミの君主のほうが優先と。呂纂はついに天王の位に即く。大赦して「咸寧」と改元した。呂光に謚して「懿武皇帝」とし、廟號は「太祖」とする。呂紹に謚して「隱王」という。呂弘を大都督として、中外諸軍事を督せしめ、大司馬・車騎大將軍・司隸校尉・錄尚書事とした。改封して番禾郡公とする。
纂謂齊從曰:「卿前斫我,一何甚也!」從泣曰:「隱王,先帝所立;陛下雖應天順人,而微心未達,唯恐陛下不死,何謂甚也!」纂賞其忠,善遇之。
纂叔父征東將軍方鎮廣武,纂遣使謂方曰:「超實忠臣,義勇可嘉,但不識國家大體,權變之宜。方賴其用,以濟世難,可以此意諭之。」超上疏陳謝,纂復其爵位。
呂纂は斉従にいう。「卿は前に我を斫る。一に何ぞ甚なるや」と。斉従は泣いた。「隱王(呂紹)は、先帝が立てた。陛下は天に應じ人に順ふも、微心(私の心は)未だ達せず。唯だ恐るるは、陛下の死せざるを。何ぞ甚と謂ふや」と。呂纂はその忠を賞して、善遇した。
呂纂の叔父である征東將軍の呂方は、廣武に鎮す。呂纂は死者を呂方にやる。「呂超は、まことに忠臣である。義勇は嘉すべし。但だ國家の大體・權變の宜を識らず。方に其の用に賴りて、以て世難を濟へ。この意を以て之に諭すべし」と。呂超は上疏し陳謝して、呂纂は其の爵位を復す。
是歲,燕主盛以河間公熙為都督中外諸軍事、尚書左僕射,領中領軍。
劉衛辰子文陳降魏;魏主珪妻以宗女,拜上將軍,賜姓宿氏。この歲、燕主の盛は、河間公の熙を都督中外諸軍事・尚書左僕射・領中領軍とする。
劉衛辰の子の劉文陳は、北魏に降った。魏主の拓跋珪の妻は(劉文陳の)宗女である。上將軍を拜し、姓「宿」氏を賜はる。
北魏のなかで、「宿六斤氏」は「宿」氏に改めた。けだし劉文陳は、この宿氏の一族に合わせられたのだろう。閉じる
- 東晋の安皇帝_隆安四年(400年)
正月
春,正月,壬子朔,燕主盛大赦,自貶號為庶人天王。
魏材官將軍和跋襲盧溥於遼西,戊午,克之,禽溥及其子煥,送平城,車裂之。燕主盛遣廣威將軍孟廣平救溥,不及,斬魏遼西守宰而還。
乙亥,大赦。西秦王乾歸遷都苑川。禿髮利鹿孤大赦,改元建和。春正月の壬子朔、燕主の盛は大赦し、自ら號を貶め「庶人天王」とした。
魏の材官將軍の和跋は、盧溥を遼西で襲う。戊午、勝って盧溥および子の盧煥をとらえ、平城に送って車裂にした。燕主の盛は、廣威將軍の孟廣平をつかわして盧溥を救おうとするが、間に合わず、魏の遼西の守宰を斬って還った。
乙亥(東晋が)大赦した。西秦王の乾歸は、苑川に遷都した。禿髪の利鹿孤は大赦し、「建和」と改元した。
2月・3月
高句麗王安事燕禮慢;二月,丙申,燕王盛自將兵三萬襲之,以驃騎大將國熙為前鋒,拔新城、南蘇二城,開境七百餘里,徙五千餘戶而還。熙勇冠諸將,盛曰:「叔父雄果,有世祖之風,但弘略不如耳!」
初,魏主珪納劉頭眷之女,寵冠後庭,生子嗣。及克中山,獲燕主寶之幼女。將立皇后,用其國故事,鑄金人以卜之,劉氏所鑄不成,慕容氏成,三月,戊午,立慕容氏為皇后。高句麗王の安は燕につかえるが、禮が慢である。2月の丙申、燕王の盛は、自ら兵三萬を將ゐて(高句麗を)襲ふ。驃騎大將軍の熙を前鋒として、新城・南蘇の2城を拔く。境を開くこと7百餘里、5千餘戸を徙して還る。熙の勇は諸將に冠たり。盛は、「叔父の雄果は、世祖(慕容垂)の風あり。ただ弘略が及ばないだけ」という。
初め、魏主の拓跋珪は、劉頭眷の女を納れ、寵は後庭に冠たり(もっとも寵愛された)。子の拓跋嗣を生んだ。中山に克つと、燕主の慕容寶の幼女を獲えた。皇后を立てるとき、その国(鮮卑)の故事を用ゐ、金人を鋳して卜した(占った)。劉氏が鋳すると成らず、慕容氏を鋳すると成った。3月の戊午、慕容氏を立てて皇后とした。
『北史』はいう。北魏の故事では、皇后を立てるとき、かならず手ずから金人を鋳して、うまく形ができれば吉、できねば皇后に立てられない。
桓玄既克荊、雍,表求領荊、江二州。詔以玄為都督荊、司、雍、秦、染、益、寧七州諸軍事、荊州刺史,以中護軍桓修為江州刺史。
玄上疏固求江州,於是進玄督八州及揚、豫八部諸軍事,復領江州刺史。玄輒以兄偉為雍州刺史,朝廷不能違。又以從子振為淮南太守。桓玄が既に荊・雍に克ち、表して荊・江二州を領することを求めた。詔して桓玄を都督荊、司、雍、秦、染、益、寧七州諸軍事、荊州刺史とした。中護軍の桓修を江州刺史とした。
桓玄は上疏して、固く江州を求めた。ここにおいて桓玄を「督八州」および揚・豫8部諸軍事に進め、復た江州刺史を領せしめた。すぐに桓玄は、兄の桓偉を雍州刺史とした。朝廷は反対できない。また從子の桓振を淮南太守とした。
涼の呂氏の内紛
涼王纂以大司馬弘功高地逼,忌之。弘亦自疑,遂以東苑之兵作亂,攻纂。纂遣其將焦辨擊之,弘眾潰,出走。纂縱兵大掠,悉以東苑婦女賞軍,弘之妻子亦在中。纂笑謂群臣曰:「今日之戰何如?」侍中房晷對曰:「天禍涼室,憂患仍臻。先帝始崩,隱王廢黜;山陵甫訖,大司馬稱兵;京師流血,昆弟接刃。雖弘自取夷滅,亦由陛下無棠棣之恩,當省己責躬謝百姓。乃更縱兵大掠,囚辱士女,釁自弘起,百姓何罪!且弘妻,陛下之弟婦,弘女,陛下之侄也,奈何使無賴小人辱為婢妾!天地神明,豈忍見此!」遂歔欷流涕。纂改容謝之,召弘妻子寘於東宮,厚撫之。涼王の呂纂は、大司馬の呂弘が、功が高く地が逼るので、忌んだ。呂弘もまた自疑して、遂に東苑の兵をつかって乱を起こして呂弘を攻めた。呂纂は、將の焦辨に撃たせ、呂弘軍は潰えて出で走げた。呂纂はほしいままに兵に大掠させ、悉く東苑の婦女を軍に賞与した。呂弘の妻子もまた、そのなかにあった。
呂纂は笑って郡臣にいう。「今日の戦いはどうだった?」
侍中の房晷は対へた。「天は涼室に禍いして、憂患が至った。先帝が崩じて、隠王が廃された。(先帝を)山陵に葬ったばかりだが、大司馬は兵を称へた。京師は血を流し、昆弟は刃を接した。呂弘はみずから夷滅を取ったが、陛下が棠棣の恩がないせいでもある。
『左氏伝』が出典。3508ページ。己を省みて責め、みずから百姓に謝れ。
さらに(呂纂は)兵に大掠させ、士女を辱めた。トラブルは呂弘から起きたが、百姓に何の罪がある。かつ呂弘の妻は、陛下の弟婦である。呂弘の娘は、陛下の侄です。なぜ無頼の小人に(親族の女を)辱めて婢妾とさせるか。天地・神明、豈に此を見るに忍びざる」
歔欷・流涕した。呂纂は容を改めて謝し、呂弘の妻を召して東宮で厚撫した。
呂弘と呂纂の対立は、亡国しても仕方がないレベル。先代が、死ぬ間際に、あれだけ教訓を残したのに、ちっとも機能しなかった話。
弘將奔禿髮利鹿孤,道過廣武,詣呂方。方見之,大哭曰:「天下甚寬,汝何為至此!」乃執弘送獄,纂遣力士康龍就拉殺之。
纂立妃楊氏為後,以後父桓為尚書左僕射、涼都尹。
辛卯,燕襄平令段登等謀反,誅。
呂弘は禿髮利鹿孤のところに奔ろうとして、道は廣武を過ぎ、呂方に会った。会うと大哭して、「天下は甚だ寛たり(どうにでも逃げられたのに)。汝 何為れぞ此に至るや(会えば殺すしかない)」という。呂弘を執へて獄に送る。呂纂は力士の康龍に、呂弘を拉り殺させた。
呂纂は、妃の楊氏を立てて后とし、后の父の楊桓を尚書左僕射・涼都尹とした。
辛卯、燕の襄平令の段登らが謀反して誅された。
夏4月
涼王纂將伐武威王利鹿孤,中書令楊穎諫曰:「利鹿孤上下用命,國未有釁,不可伐也。」不從。利鹿孤使其弟佺檁拒之,夏,四月,辱檁敗涼兵於三堆,斬首二千餘級。涼王の呂纂は、武威王の利鹿孤を伐ちたい。中書令の楊穎が諫めた。
「利鹿孤は、上下に命を用ゐ、國に未だ隙あらず。伐てない」と。呂纂は從わず。利鹿孤は弟の佺檁に呂纂を拒がせ、夏4月、辱檁は涼兵を三堆で敗り、斬首すること2千餘級。
◆李暠が敦煌太守となる
初,隴西李暠好文學,有令名。嘗與郭□及同母弟敦煌宋繇同宿,□起謂繇曰:「君當位極人臣,李君終當有國家;有騍馬生白額駒。此其時也。」及孟繁為沙州刺史,以暠為效谷令;宋繇事北涼王業,為中散常侍。孟敏卒,敦煌護軍馮翊郭謙、沙州治中敦煌索仙等以暠溫毅有惠政,推為敦煌太守。暠初難之,會宋繇自張掖告歸,謂暠曰:「段王無遠略,終必無成。兄忘郭暠之言邪?白額駒今已生矣。」暠乃從之,遣使請命於業;業因以暠為敦煌太守。はじめ隴西の李暠は文學を好み、令名あり。かつて郭□および同母弟の敦煌の宋繇と同宿した。□は起きて宋繇にいう。
「君は位が人臣を極めるだろう。李君は終に國家を有するだろう。騍馬が白額駒を生む(鳶が鷹を生む)ことがある。これがその時である」
孟繁が沙州刺史になると、李暠を效谷令とし、宋繇は北涼王の業に仕えて中散常侍となった。孟敏が卒すると、敦煌護軍である馮翊の郭謙と、沙州治中である敦煌の索仙らは、李暠が温毅で惠政があることから、推して敦煌太守とした。李暠ははじめ難じたが、たまたま宋繇が張掖から帰って、李暠にいう。
「段王に遠略なし。終に必ず成ること無し。兄 郭暠の言を忘るるや。白額駒が、いま生まれるのだ」と。李暠は従って、使者をやって北涼王の業に請命した。業は李暠を敦煌太守とした。
右衛將軍敦煌索嗣言一業曰:「李暠不可使處敦煌。」業以嗣代日++高為敦煌太守,使帥五百騎之官。嗣未至二十里,移暠犯己;暠驚疑,將出迎之。效谷令張邈及宋繇止之曰:「段王闇弱,正是英豪有為之日;將軍據一國成資,奈何拱手授人!嗣自恃本郡,謂人情附己,不意將軍猝能拒之,可一戰擒也。」暠從之。無遣繇見嗣,啖以甘言。繇還,謂暠曰:「嗣志驕兵弱,易取也。」暠乃遣邈、繇與其二子歆、讓逆擊之,嗣敗走,還張掖。暠素與嗣善,尤恨之,表業請誅嗣。沮渠男成亦惡嗣,勸業除之;業乃殺嗣,遣使謝暠,進暠都督涼興已西諸軍事、鎮西將軍。
右衛將軍である敦煌の索嗣は業にいう。「李暠を敦煌に処くな」
業は索嗣を、李暠の代えて敦煌太守として、五百騎を帥ゐて着任させた。索嗣が(敦煌の郡治から)20里のところに来る前に、李暠を移して己を迎えさせた。李暠は驚疑し、出迎えようとした。效谷令の張邈及び宋繇は、李暠を止めた。
「段王は闇弱であり、正に英豪が必要とされます。李暠將軍は一國に拠る資質があるのに、どうして拱手して(敦煌太守の地位を)人に授けますか。索嗣は出身郡に着任するので、民心が己に集まると思ってます。不意に李暠が着任を拒めば、いちど戦えば擒にできます」
李暠はこれに従う。先に宋繇をつかわして索嗣に会い、甘言を啖せた。宋繇が還ると、李暠にいう。
「索嗣は、志が驕り兵が弱く、取るのは易しい」と。
李暠は、張邈・繇と、その2子である歆・讓に、索嗣を迎え撃たせた。索嗣は敗走して張掖に還る。李暠は、もとより索嗣と仲がよいから、逆にひどく恨んだ。李暠は業に、「索嗣を誅せ」と表した。沮渠男成もまた、索嗣をにくむから、業に「索嗣を除け」と進めた。業は索嗣を殺し、使者を出して李暠に謝った。李暠を進めて、都督涼興已西諸軍事・鎮西將軍とした。
吐谷渾視羆卒,世子樹洛干方九歲,弟烏紇堤立。妻樹洛干之母念氏,生慕瑰、慕延。烏紇堤懦弱荒淫,不能治國;念氏專制國事,有膽智,國人畏服之。吐谷渾の視羆が卒し、世子の樹洛干は9歲なので、弟の烏紇堤が立った。樹洛干の母である念氏を妻とし、慕瑰・慕延を生んだ。烏紇堤は、懦弱・荒淫であり、治國できない。念氏は國事を專制し、膽智あり、國人に畏服された。
5月、
燕前將軍段璣,太后段氏之兄子也,為段登辭所連及,五月,壬子,逃奔遼西。
丙寅,衛將軍東亭獻侯王珣卒。
己巳,魏主珪東如涿鹿,西如馬邑,觀A212源。
戊寅,燕段璣復還歸罪;燕王盛赦之,賜號曰思悔侯,使尚公主,入直殿內。燕の前將軍である段璣は、太后である段氏の兄子である。段登辭に連座して追及され、5月の壬子、遼西に逃奔した。
丙寅(東晋で)衛將軍・東亭獻侯王の司馬珣が卒した。
己巳、魏主の拓跋珪は、東して涿鹿にゆき、西して馬邑に如き、□源を観た。
戊寅、燕の段璣が復た還って罪に歸した。燕王の盛は赦して、「思悔侯」と賜號し、公主をめとらせ殿內に入直させた。
謝琰以資望鎮會稽,不能綏懷,又不為武備。諸將鹹諫曰:「賊近在海浦,伺人形便,宜開其自新之路。」琰不從,曰:「苻堅之眾百萬,尚送死淮南;孫恩小賊,敗死入海,何能復出!若其果出,是天欲殺之也。」既而恩寇浹口,入餘姚,破上虞。進及邢浦,琰遣參軍劉宣之擊破之,恩退走。少日,復寇邢浦,官軍失利,恩乘勝徑進。己卯,至會稽。琰尚未食,曰:「要當先滅此賊而後食。」因跨馬出戰,兵敗,為帳下都督張猛所殺。吳興太守庾桓恐郡民復應恩,殺男女數千人。恩轉寇臨海。朝廷大震,遣冠軍將軍桓不才、輔國將軍孫無終、寧朔將軍高雅之拒之。謝琰は資望があるので會稽に鎮するが、(孫恩を)綏懷できず、また武力の備えもしない。諸將は、みな諌めた。
「賊は近く海浦におり、人の形便(襲うチャンス)を伺っています。宜しく自ら新たな路を開くべし」
謝琰は従わず、「苻堅の衆は百萬いたが、なお淮南に入って死んだ。孫恩は小賊であるから、敗れて入海するだろう。どうして復た出てこられるか。もし出てきたら、天が孫恩を殺すだろう」と。
胡三省はいう。謝琰は、謝玄とともに符堅を破った。この成功体験のせいで、孫恩のことを侮っている。孫恩が浹口を寇して、餘姚に入り、上虞を破った。進んで邢浦に及ぶと、謝琰は参軍の劉宣之をやって撃破し、孫恩を退走させた。
ほどなく、孫恩がまた邢浦を寇した。官軍は利を失ひ、孫恩は進んだ。己卯、會稽に至る。崔遠はまだ食事の前だったが、「先に孫恩の賊を滅ぼして、後で食事しよう」といった。馬に跨って戦い、兵が敗れて、帳下都督の張猛に殺された。
吳興太守の庾桓は、郡民が孫恩に応じるのを恐れて、男女數千人を殺した。孫恩は轉じて臨海を寇した。朝廷は大いに震へ、冠軍將軍の桓不才・輔國將軍の孫無終・寧朔將軍の高雅之に孫恩を防がせる。
秦征西大將軍隴西公碩德將兵五千伐西秦,入自南安峽。西秦王乾歸帥諸將拒之,軍於隴西。 楊軌、田玄明謀殺武威王利鹿孤,利鹿孤殺之。秦の征西大將軍である隴西公の碩德は、兵5千を將ゐて西秦を伐ち、南安峽から入る。西秦王の乾歸は、諸將を帥ゐて拒み、隴西に軍す。
楊軌・田玄明は、武威王の利鹿孤を謀殺しようとした。(謀殺がバレて)利鹿孤が彼らを殺した。
6月
六月,庚辰朔,日有食之。
以琅邪王師何澄為尚書左僕射。澄,准之子也。
甲子,燕大赦。6月の庚辰朔、日有食之。
琅邪王師の何澄を尚書左僕射とする。何澄は、何准の子である。
甲子、燕は大赦す。
涼王纂將襲北涼,姜紀諫曰:「盛夏農事方殷,且宜息兵。今遠出嶺西,禿髮氏乘虛襲京師,將若之何!」不從。進圍張掖,西掠建康。禿髮辱檁聞之,將萬騎襲姑臧,纂弟隴西公緯賃北城以自固。辱檀置酒硃明門上,鳴鐘鼓,饗將士,曜兵於青陽門,掠八千餘戶而去。纂聞之,引兵還。涼王の呂纂は、北涼を襲おうとし、姜紀が諌めた。
「盛夏は農事で忙しいから、兵を休ませよ。いま嶺西に遠征したら、禿髮氏は虚に乗じて京師を襲う」と。
呂纂は従わず。進んで張掖を囲み、西して建康を掠める。
禿髮辱檁はこれを聞き、萬騎で姑臧を襲う。呂纂の弟の隴西公の呂緯は、北城について自ら固めた。
辱檀は硃明門の上で置酒し、鐘鼓を鳴らし、將士を饗した。兵を青陽門に曜かせ、8千餘戸を掠めて去る。呂纂はこれを聞き、兵を引いて還る。
姜紀の言うとおり、出兵をやめとけばよかった。
秋7月
秋,七月,壬子,太皇太后李氏崩。丁卯,大赦。
西秦王乾歸使武衛將軍慕兀等屯守,秦軍樵采路絕,秦王興潛引兵救之。乾歸聞之,使慕兀帥中軍二萬屯柏楊,鎮軍將軍羅敦帥外軍四萬屯侯辰谷,乾歸自將輕騎數千前候秦兵。會大風昏霧,與中軍相失,為追騎所逼,入於外軍。旦,與秦戰,大敗,走歸苑川,其部眾三萬六千皆降於秦。興進軍枹罕。秋7月の壬子、太皇太后の李氏が崩じた。丁卯、大赦。
西秦王の乾歸は、武衛將軍の慕兀らに屯守させ、秦軍の樵采する路が断絶した。秦王の興は、ひそかに兵をひいて救う。乾歸はこれを聞き、慕兀が中軍2萬を帥ゐて柏楊に屯し、鎮軍將軍の羅敦は外軍4萬を帥ゐて侯辰谷に屯する。乾歸は自ら軽騎の數千を将ゐて進み秦兵を候つ。たまたま大風・昏霧があり、中軍とはぐれ、追騎に逼られて外軍に入った。旦、秦戰と戦い、大敗して走げて苑川に帰った。西秦の部衆3萬6千は、みな秦に降った。興は軍を枹罕に進めた。
乾歸奔金城,謂諸豪帥曰;「吾不才,叨竊名號,已逾一紀,今敗散如此,無以待敵,欲西保允吾。若舉國而去,必不得免;卿等留此,各以其眾降秦。以全宗族,勿吾隨也。」皆曰:「死生願從陛下。」乾歸曰:「吾今將寄食於人,若天未亡我,庶幾異日克復舊業,復與卿等相見。今相隨而死,無益也。」乃大哭而別。乾歸獨引數百騎奔允吾,乞降於武威王利鹿孤,利鹿孤遣廣武公辱檀迎之。置於晉興,待以上賓之禮。鎮北將軍禿髮俱延言於利鹿孤曰:「乾歸本吾之屬國,因亂自尊,今勢窮歸命,非其誠款,若逃歸姚氏,必為國患,不如徙置乙弗之間,使不得去。」利鹿孤曰:「彼窮來歸我,而逆疑其心,何以勸來者!」俱延,利鹿孤之弟也。乾歸は金城に奔り、豪帥らにいう。
「吾は不才のくせに、みだりに名號をぬすみ、すでに一紀(12年)を逾えた。このように敗散して、もう敵を待てる状況じゃない。西にゆき允吾に保する。もし国を挙げて去れば、逃げられない。あなたらが留まり、おのおの衆をつれて秦に降れ。宗族を全うできよう。吾に随うなよ」
みな「死生は、陛下に従いたい(運命を共同したい)」
乾歸「吾は人に寄食する。もし天が我を亡さねば、日を改めて克って舊業を復せよう。また卿らと会えるはず。いま我に随って死んでも無益である」
(乾帰の君臣は)大哭して別れた。乾帰は數百騎だけをつれて允吾にゆき、武威王の利鹿孤に降を乞ふ。利鹿孤は、廣武公の辱檀に迎えさせた。乾帰を晉興に置き、上賓の禮で待遇した。
鎮北將軍の禿髮俱延は、利鹿孤にいう。
「乾歸は、もとは吾の属国である。乱によって(わが国を裏切り)自尊した。いま勢が窮まって歸命したのは、彼が誠款だからでない。もし逃げて姚氏に歸せば、必ず國患となる。乙弗(鮮卑の一種で西海に居す)の間に移して、逃げられないようにすべきだ」と。
利鹿孤「彼は窮して我に帰した。しかし逆にその心を疑えば、どうして来降したい者を誘うことができるか」と。
曹丕が孫権に発動した、余計な度量。失敗するパターン。俱延は、利鹿孤の弟である。
8月・9月
秦兵既退,南羌梁戈等密招乾歸,乾歸將應之。其臣屋引阿洛以告晉興太守陰暢,暢馳白利鹿孤,利鹿孤遣其弟吐雷帥騎三千屯捫天嶺。乾歸懼為利鹿孤所殺,謂其太子熾盤曰:「吾父子居此,必不為利鹿孤所容。今姚氏方強,吾將歸之,若盡室俱行,必為追騎所及,吾以汝兄弟及汝母為質,彼必不疑,吾在長安,彼終不敢害汝也。」乃送熾盤等於西平。八月,乾歸南奔枹罕,遂降於秦。
丁亥,尚書左僕射王雅卒。秦兵が既に退き、南羌の梁戈らは密かに乾歸を招く。乾歸は応じようとした。乾帰の臣の屋引阿洛は、晉興太守の陰暢に告げた。陰暢は馳せて利鹿孤に報告した。利鹿孤は弟の吐雷に騎3千を帥ゐて捫天嶺に屯せしむ。乾歸は利鹿孤に殺されるのを懼れ、太子の熾盤にいう。
「わが父子はここに居れば。必ず利鹿孤に容れてもらえない。いま姚氏は方強である。姚氏に帰そう。もし家族を全員つれて行けば、必ず騎に追いつかれる。吾は汝の兄弟および汝の母を(利鹿孤の)人質にする。彼は必ず疑わない。吾が長安にいれば、彼は最後まで汝を殺害しないだろう」
乾帰は、熾盤らを西平に送った。8月、乾歸は南して枹罕に奔り、遂に秦に降った。
丁亥(東晋で)尚書左僕射の王雅が卒した。
九月,癸丑,地震。
涼呂方降於秦,廣武民三千餘戶奔武威王利鹿孤。9月の癸丑、地震。
涼の呂方が秦に降る。廣武の民3千餘戸が武威王の利鹿孤に奔る。
冬11月
冬,十一月,高雅之與孫恩戰於餘姚,雅之敗,走山陰,死者什七、八。詔以劉牢之都督會稽等五郡,帥眾擊恩,恩走入海。牢之東屯上虞,使劉裕戍句章。吳國內史袁崧築滬瀆壘以備恩。崧,喬之孫也。
會稽世子無顯求領徐州,詔以元顯為開府儀同三司、都督揚、豫、徐、兗、青、幽、冀、並、荊、江、司、雍、梁、益、交、廣十六州諸軍事、領徐州刺史,封其子彥瑋為東海王。
冬11月、高雅之は孫恩と餘姚で戦い、高雅之は敗れ、山陰に走げた。死者は什に七・八。詔して劉牢之に會稽ら5郡を都督させ、孫恩を撃つ。孫恩は走げて海に入る。牢之は東して上虞に屯する。劉裕に句章を戍らせる。吳國內史の袁崧は、滬瀆壘を築きて孫恩に備えた。袁崧は、袁喬の孫である。
會稽世子の元顕は、徐州を領したいと求めた。詔して、元顯を開府儀同三司・都督揚、豫、徐、兗、青、幽、冀、並、荊、江、司、雍、梁、益、交、廣16州諸軍事として、徐州刺史を領せしむ。子の司馬彦瑋を東海王とした。
乞伏乾歸至長安,秦王興以為都督河南諸軍事、河州刺史、歸義侯。
久之,乞仗熾盤欲逃詣乾歸,武威王利鹿孤追獲之。利鹿孤將殺熾盤,廣武公辱檀曰:「子而歸父,無足深責,宜宥之以求大度。」利鹿孤從之。
秦王興遣晉將劉嵩等二百餘人來歸。乞伏乾歸が長安に至ると、秦王の興は乞伏乾歸を、都督河南諸軍事・河州刺史・歸義侯とした。
しばらくして、乞仗熾盤は、逃げて(父の)乾歸のところに来たい。武威王の利鹿孤は、追って獲えた。利鹿孤が熾盤を殺そうとすると、廣武公の辱檀がいう。「子が父に帰しただけ。深く責むるに足らず。宜しく之を宥し以て大度を求めよ」と。利鹿孤は従った。
秦王の興は、晉將の劉嵩ら2百餘人を來歸させた。
劉嵩らは、けだし洛陽が陥落してから、秦を頼った。
北涼晉昌太守唐瑤叛,移檄六郡,推李暠為冠軍大將軍、沙州刺史、涼公、領敦煌太守。暠赦其境內,改元庚子。
以瑤為征東將軍,郭謙為軍諮祭酒,索仙為左長史,張邈為右長史,尹建興為左司馬,張體順為右司馬。遣從事中郎宋繇東伐涼興,並擊玉門已西諸城,皆下之。
酒泉太守王德亦叛北涼,自稱河州刺史。北涼王業使沮渠蒙遜討之。德焚城,將中曲奔唐瑤,蒙遜追至沙頭,大破之,虜其妻子、部落而還。北涼の晋昌太守の唐瑤が叛き、檄を6郡に移した。
胡三省はいう。6郡とは、敦煌・酒泉・晋昌・涼興・建康・祁連である。李暠を推して冠軍大將軍・沙州刺史・涼公として、敦煌太守を領せしむ。李暠はその領内を赦し、「庚子」と改元した。
唐瑤は征東將軍となり、郭謙は軍諮祭酒、索仙は左長史、張邈は右長史、尹建興は左司馬、張體順は右司馬となる。從事中郎の宋繇が東して涼興を伐ち、あわせて玉門より西の諸城を撃って、すべて下す。
酒泉太守の王徳もまた、北涼に叛き、河州刺史を自称した。北涼王の業は、沮渠蒙遜にこれを討たせる。王德は城を焚き、中曲を將ゐて唐瑤に奔る。蒙遜は追って沙頭に至り、大いに破り、その妻子を虜とした。(王徳の)配下らは敗れて還った。
12月
十二月,戊寅,有星孛於天津。會稽世子元顯以星變解錄尚書事,復加尚書令。吏部尚書車胤以元顯驕恣,白會稽王道子,請禁抑之。元顯聞而未察,以問道子曰:「車武子屏人言及何事?」道子弗答。固問之,道子怒曰:「爾欲幽我,不令我與朝士語耶!」元顯出,謂其徒曰;「車胤間我父子。」密遣人責之。胤懼,自殺。
壬辰,燕主盛立燕台,統諸部雜夷。12月の戊寅、星孛が天津にある。會稽世子の元顯は、星變によって錄尚書事を解かれ,復た尚書令を加へらる。
吏部尚書の車胤は、元顯が驕恣なので、會稽王の司馬道子に、「元顕を禁抑せよ」と請う。元顯は聞いたが(車胤の発言の内容を)察せず,道子に問う。
「車武子(車胤の字は武子)は、人を屏して何を言ったのか」
道子は答えない。しきりに問うので、道子は怒り、
「お前は私を幽閉して、私と朝士とに語らせないつもりか」といった。
元顯は(父の道子のところを)出て、その徒に「車胤は、わが父子を離間した」といった。
ひそかに人をやって車胤を責めた。車胤は懼れて自殺した。
壬辰、燕主の盛は「燕台」を立て、諸部の雜夷を統べた。
二趙(前趙・後趙)より以来、みな単于は「台」をたてて雑夷(さまざまな種類の異民族)を統べた。慕容盛はこれに倣ったのである。
魏太史屢奏天文乖亂。魏主珪自覽占書,多雲改王易政,乃下詔風勵群下,以帝王繼統,皆有天命,不可妄干。又數變易官名,欲以厭塞災異。儀曹郎董謐獻《服餌仙經》,珪置仙人博士,立仙坊,煮煉百藥,封西山以供薪蒸。藥成,令死罪者試服之,多死,不驗;而珪猶信之,訪求不已。魏の太史は、しばしば天文の乖亂を奏した。魏主の拓跋珪は、自ら占書を覧じた。多くのものが、「王を改め政を易へよ」という。拓跋珪は、詔を下して、群下に風励した。「帝王が繼統するには、みな天命が有る。みだりに(王や政の変更を)すべきでない。しばしば官名を変更するのは、災異を厭塞するためだ」と。
儀曹郎の董謐は、『服餌仙經』を献じた。拓跋珪は仙人博士を置き、仙坊を立て、百藥を煮煉して、西山を封じて薪蒸を供した。藥が成ると、死罪のものに試しに服させた。多くが死に、効果がなかった。しかし拓跋珪はこれを信じて(仙人のところを)訪求してやまず。
珪常以燕主垂諸子分據勢要,使權柄下移,遂至敗亡,深非之。博士公孫表希旨,上《韓非》書,勸珪以法制御下。左將軍李粟性簡慢,常對珪舒放不肅,咳唾任情;珪積其宿過,遂誅之,群下震慄。
丁酉,燕王盛尊獻莊後丁氏為皇太后,立遼西公定為皇太子。大赦。拓跋珪は、つねに燕主の慕容垂の諸子が、勢要に分拠して、權柄によって下移し(権謀にて牽制しあって衰退し)、ついに敗亡したので、深くこれを非難した。博士の公孫表は『韓非書』を上程して、拓跋珪に「法制で臣下を制御せよ」と勧めた。
左將軍の李粟は、性が簡慢であり、つねに拓跋珪の諮問に答えるとき、舒放・不肅であり、咳唾は情に任せた。拓跋珪はずっとこれを根に持ち、ついに誅した。群下は震慄した
北魏が華北の覇者となるためのステップ。丁酉、燕王の盛は、獻莊后の丁氏を尊んで皇太后として、遼西公の定を皇太子に立て、大赦した。
是歲,南燕王德即皇帝位於廣固,大赦,改元建平。更名備德,欲使吏民易避。追謚燕主□曰幽皇帝。以北地王鐘為司徒,慕輿拔為司空,封孚為左僕射,慕輿護為右僕射。立妃段氏為皇后。この歳、南燕王の德は、廣固で皇帝の位に即く。
慕容徳は、あざなを玄明という。慕容コウの少子である。大赦して「建平」と改元した。名を「備德」に改めた。吏民に忌避を易えさせた。燕主の慕容暐に追謚して「幽皇帝」とする。北地王の鐘を司徒、慕輿拔を司空、封孚を左僕射、慕輿護を右僕射とした。妃の段氏を立てて皇后にした。
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