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『三国志』武帝紀・文帝紀より

『三国志』巻一 武帝紀より

二十年……秋七月公至陽平。張魯使弟衞與將楊昂等據陽平關、橫山築城十餘里、攻之不能拔、乃引軍還。賊見大軍退、其守備解散。公乃密遣解𢢼高祚等乘險夜襲、大破之、斬其將楊任、進攻衞、衞等夜遁、魯潰奔巴中。公軍入南鄭、盡得魯府庫珍寶。巴漢皆降。復漢寧郡爲漢中。分漢中之安陽西城爲西城郡、置太守。分錫上庸郡、置都尉。

巴漢 皆 降る。漢寧郡を復して漢中と為す。漢中の安陽・西城を分けて西城郡と為し、太守を置く。

『宋書』州郡志はいう。安康令は、漢の安陽県であり、漢中に属す。漢末に省かれ、魏が復た立て、魏興郡に属す。晋の太康元年、安康と改名した。
『一統志』はいう。安陽の故城は、いまの漢中府の城固県の東にある。『水経注』を按ずるに、漢水は、城固県から東に流れ、安陽県の南を過ぎる。乃ち、漢の安陽は、いまの城固の東界にあった。魏晋より、分けられて西城郡に属し、安康と改名され、漸くして東に移る。
馬與龍はいう。漢の安陽県は、蜀漢に属して、曹魏の勢力が及ばない。曹魏は、あらためて魏興郡の管轄下に、新しく(漢代とは同名だが異地の)安陽県をつくった。曹魏の安陽県が、晋の安康県となる〈南朝に伝わる〉。漢代の安陽県とは遠い。『宋書』が、漢の安陽県と、南朝の安康を〈この注釈の冒頭にあるように〉同一とするのは、誤りである。
結論でたかな。
『水経』沔水注はいう。漢水は、また東を流れて西城の故城の南を徹。『地理志』は西城を渦中の属県とする。漢末に西城郡とする。建安24年、劉備は、申儀を西城太守とした。申儀は、西城郡に拠って、魏に降った。曹丕は、西城郡を魏興郡と改めた。魏興郡の治所は、西城県の故城である。イイネ!
謝鍾英はいう。建安20年、曹操は、安陽・西城を分けて、西城郡をつくった。これが〈曹魏の〉西城郡の始まりである。建安24年、劉備は〈西城郡を攻めとって〉申儀を西城太守としたが、これは西城郡が蜀漢に属する始まりである。黄初元年、申儀は魏に降り、曹丕は申儀を魏興太守に仮した。これは、西城郡が〈蜀漢から〉曹魏に還った始まりであり、魏興郡の始まりである。スゴクイイネ!!
ぼくは補う。このあと、司馬懿が固守したから、魏興郡が蜀漢に移ることはなかった。

錫を分けて上庸郡と為し、都尉を置く。

潘眉はいう。「郡」は衍字である。蓋し、安陽・錫・上庸は、いずれも漢中郡の属県である。曹操は、安陽・西城の2県を分けて、西城郡を置いた。また、錫県・上庸の2県を分けて、都尉を置いたのだ。
潘眉はつづく。
『銭氏考異』には、「上庸太守の申耽は、衆を挙げて降る、とあり、上庸には『太守』が置かれる〈から上庸は郡だ〉」とある。潘眉が考えるに、劉封伝にひく『魏略』は、「申耽は、使者を遣りて曹操に詣でしめ、曹操は申耽に上庸都尉を領せしむ」とある。これが上庸に都尉が置かれた始めである。建安末に至り、上庸太守の申耽は、衆を挙げて降るが、申耽は初めは都尉だったのだ。建安末にいたって、都尉から太守に改まり、上庸郡が設けられたとわかる。劉備は、申耽に命じて、上庸太守をもとのとおり領させた。これは、蜀漢が上庸を郡として扱ったということ。
潘眉はつづく。
黄初元年、〈上庸郡は〉新城に併合された。太和二年、また立てられ、太和四年に省かれた。景初元年、また立てられ、しばらくして廃された。甘露四年、新城郡を分けて、また上庸郡を置いた。これが、曹魏が上庸を廃置してきた顛末である。
この建安二十年の時点では、錫と上庸は、どちらも県である。「郡」とする武帝紀の本文は、誤りである。
潘眉おわり。
盧弼は按ず。呉増僅も、潘眉と同じことをいう。
沈家本はいう。『続漢書』劉昭注は、袁山松書をひき、「建安二十年、錫と上庸を分けて、上庸郡として、都尉を置いた。武帝紀は、正しくは、「分錫上庸”為上庸”郡、置都尉〈錫・上庸を分けて上庸郡と為し、都尉を置く〉」とすべきであるか。郡には本来は太守が置かれるが、上庸は郡であっても、ただ都尉だけが置かれた。ゆえに、「西城郡と為す」と書いてから、わざわざ「太守を置いた」と書いた。太守でなく、都尉が置かれる場合もあると、示したのであると。
盧弼が按ずるに、沈家本の説も成り立つ。『郡国志』に、「辺境の郡は、往々にして都尉を置いて、郡と同じように県を統括し、民を統治する」とあるからだ。
ぼくは思う。上庸は辺境じゃないから、沈家本はおかしくない?
盧弼は、つぎに『左伝』には、、と、地名が記される例を載せる。儒家経典に出てくる地名が、辺境なわけないじゃん。


『三国志』巻二 文帝紀より

(延康元年)秋七月、孫權遣使奉獻。蜀將孟達率衆降。

蜀将の孟達、衆を率ゐて降る。

盧弼はいう。孟達は、副軍将軍の劉協と協はず。部曲四千余家を率いて魏に降る。明帝紀に詳しい。_239


魏略載王自手筆令曰「(吾)[日]前遣使宣國威靈、而達卽來。吾惟春秋褒儀父、卽封拜達、使還領新城太守。近復有扶老攜幼首向王化者。吾聞夙沙之民自縛其君以歸神農、豳國之衆襁負其子而入豐、鎬、斯豈驅略迫脅之所致哉?乃風化動其情而仁義感其衷、歡心內發使之然也。以此而推、西南將萬里無外、權、備將與誰守死乎?」

魏略 王の自ら手筆する令を載せて曰く、「吾 前に使を遣はし国の威霊を宣べて、達 即ち來る。吾 春秋の儀父を褒むることを惟〈おも〉ふに、

『左伝』隠公四年に、「公及邾儀父盟于。曰儀父、貴之也」とあるらしい。

即ち達を封じて拜し、還りて新城太守を領せしむ。

『郡国志』はいう。孟達がいたのは、益州の漢中郡の房陵である。注引『巴漢志』はいう。建安13年、房陵は漢中郡から別けて、新城郡に属した。ぼくは補う。建安13年の説は、あとで退けられる。
『水経』沔水注はいう。堵水は東して新城郡を歴す。この新城郡は、もとは漢中郡の房陵である。漢末に(漢中郡から切り取って)房陵郡とした。曹丕は、房陵・上庸・西城を合わせて、新城郡をつくり、孟達を太守とした。房陵を郡治とした。
ぼくは思う。孟達は、房陵にいながら曹丕にくだり、房陵を郡治とする新城郡をつくってもらい、房陵にいながら、新城太守となった。この延康元年のできごとである。ここまでは分かるが、盧弼は、もうちっとだけ続く。
『太平寰宇記』巻143はいう。孟達が魏に降ると、曹丕は三郡を合わせて新城郡とし、上庸を理〈郡治〉とし、のちに移して房陵を郡治とした。ぼくは思う。はじめ郡治は上庸だったの?
謝鍾英はいう。劉封伝を按ずるに、建安24年、劉備は孟達に命じて、秭歸から北にゆき、房陵を攻めさせた。孟達は、〈魏の〉房陵太守の蒯祺を殺した。陸遜伝はいう。建安24年、〈陸遜は、曹魏の〉房陵太守の劉輔を攻めた。ぼくは思う。おなじ建安24年、劉封伝では孟達が房陵太守の蒯祺を殺し、陸遜伝では房陵太守の劉輔を殺す。そもそも魏の房陵太守が誰だったのか。
謝鍾英はいう。劉封伝では、孟達がくだり、曹丕は、房陵、上庸、西城の3郡をあわせて新城郡をつくり、孟達を太守とした。このとき新城郡がはじめて作られたのであり、〈建安13年に新城が作られたとする〉『巴漢志』は誤りである
『晋書』宣帝紀で、孟達がそむいたときい、呉蜀の将はそれぞれ、西城の安橋・木欄塞にむかって、孟達を救った。新城太守の孟達は、西城を郡治としたと分かる。ゆえに呉兵は、房陵・上庸を通過して、〈西城に〉北上した。酈注(『水経注』)は、治所を房陵と謂ひ、楽史(『寰宇記』)は、治所を上庸という。どちらも誤りである(西城が治所である)。
つかれた。
呉増僅はいう。曹丕が、上庸・西城・房陵の3郡を合わせて新城郡を置いたとき、まだ3郡は蜀漢に属した。曹丕は、孟達を名前だけ新城のトップとした。この年の冬〈黄初元年〉、夏侯尚が劉封を襲い破り、3郡〈上庸・西城・房陵〉9県を平らげた。ここにおいて、申儀を魏興太守として、孟達を新城太守とした。これにより、もと西城の地に魏興郡をおき、上庸と房陵を新城郡とした。すべて黄初元年の冬のことである。
馬與龍はいう。『水経注』が、新城の治所が房陵というのは、後から遡った記述である〈リアルタイムで孟達が房陵を治所としたのでなく、夏侯尚の平定まで待たねばならなかった〉。
盧弼はいう。新城、魏興、上庸は、いずれも武帝紀の建安20年の注釈にある。新城は、明帝紀の太和元年の注釈にある。
ぼくは思う。武帝紀の建安20年、陸遜伝、も見ねばならなくなった!

近ごろ復た老を扶け幼を攜へ、首めて王化に向ふ者有り。吾 夙沙の民は自ら其の君を縛りて以て神農に帰し、豳國の衆は其の子を襁負して鄷・鎬に入ると聞く。斯れ豈に駆略・迫脅の致す所ならんや。乃ち風化は其の情を動かして、仁義は其の衷を感ぜしめ、歓心 内より發し之を然らしむなり。此を以て推し、西南 将に万里の外と無からしめんとすれば、権・備 将〈は〉た誰と与に守死せんか」と。

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『三国志』巻三 明帝紀より

太和元年、孟達が反す

(太和元年)十二月、封后父毛嘉爲列侯。新城太守孟達反、詔驃騎將軍司馬宣王討之。

十二月、后父の毛嘉を封じて列侯と爲す。新城太守の孟達 反す。

盧弼はいう。新城郡は、文帝紀の延康元年に注した。ぼくは補う。地理については、上に武帝紀と文帝紀を、『三国志集解』をつかって読み、充分にわかった。


孟達の父・孟佗のこと

三輔決錄曰。伯郎、涼州人、名不令休。其註曰。伯郎姓孟、名他、扶風人。靈帝時。中常侍張讓專朝政、讓監奴典護家事。他仕不遂、乃盡以家財賂監奴、與共結親、積年家業爲之破盡。衆奴皆慚、問他所欲、他曰「欲得卿曹拜耳。」奴被恩久、皆許諾。時賓客求見讓者、門下車常數百乘、或累日不得通。他最後到、衆奴伺其至、皆迎車而拜、徑將他車獨入。衆人悉驚、謂他與讓善、爭以珍物遺他。他得之、盡以賂讓、讓大喜。他又以蒲桃酒一斛遺讓、卽拜涼州刺史。他生達、少入蜀。其處蜀事迹在劉封傳。

『三輔決錄』曰く、伯郎、涼州の人。名は不令休なり。
其の註に曰く、伯郎、姓は孟、名は他、扶風の人なり。

『范書』宦者伝は「孟佗」につくる。

靈帝の時、中常侍の張讓 朝政を專らにす。

『范書』宦者伝は、以下と、だいたい同じ。
靈帝時,讓、忠並遷中常侍,封列侯,與曹節、王甫等相為表裏。節死後,忠領大長秋。 讓有監奴典任家事,交通貨賂,威形諠赫。扶風人孟佗,資產饒贍,與奴朋結,傾竭饋 問,無所遺愛。奴咸德之,問佗曰:「君何所欲?力能辦也。」曰:「吾望汝曹為我一拜耳。」 時賓客求謁讓者,車恆數百千兩,佗時詣讓,後至,不得進,監奴乃率諸倉頭迎拜於路,遂共轝車入門。賓客咸驚,謂佗善於讓,皆爭以珍玩賂之。佗分以遺讓,讓大喜,遂以佗為涼州刺史。

讓の監奴 家事を典護す。他 仕ふるとも遂げず、乃ち盡く家財を以て監奴に賂〈まかな〉ひし、共に結親す。積年の家業 之の為に破盡す。衆奴 皆な慚れみ、他に欲する所を問ふ。
他曰く、「卿曹に拜するを得ることを欲するのみ」と。
奴 恩を被ること久しく、皆 許諾す。
時に賓客 讓に見を求むる者、門下の車 常に數百乘なり。或いは日を累ぬれども通ずるを得ず。他 最後に到る。衆奴 其の至るを伺ひ、皆 車を迎へて拜し、他の車を徑將して獨り入らしむ。衆人 悉く驚き、「他 讓と善し」と謂ひ、爭ひて珍物を以て他に遺る。他 之を得て、盡く以て讓に賂ふ。讓 大喜す。
他 又 蒲桃酒の一斛を以て讓に遺り、

『漢書』西域伝上 大宛国に、「大宛左右以蒲陶為酒,富人藏酒至萬餘石,久者至數十歲不敗。俗耆酒,馬耆目宿。」とある。
『太平御覧』巻972 果部九 蒲萄は、曹丕の詔を載せる。「魏文帝詔群臣曰:中國珍果甚多,且復為說蒲萄。當其朱夏涉秋,尚有餘暑,醉酒宿醒,掩露而食。甘而不饣肙,脆而不梳,冷而不寒。味長汁多,除煩解饣肙。烏縣切。又釀以為酒,甘於麹蘗,善醉而易醒。道之固以流涎咽唾,況親食之耶?他方之果,寧有匹之者」
盧弼はいう。曹丕の書きぶりを見ると、閉じは葡萄酒が珍奇だったことが知れる。ぼくは思う。孟達も、父が入手した経路を確保しており、蜀漢の時代も交易をつづけ、曹丕に謙譲して、愛されたとか。たのしい妄想です。

即ち涼州刺史を拜す。

『范書』列伝78 西域伝:至靈帝建寧元年,疏 勒王漢大都尉於獵中為其季父和得所射殺,和得自立為王。(五)〔三〕年,涼州刺史孟佗遣從 事任涉將敦煌兵五百人,與戊(己)司馬曹寬、西域長史張晏,將焉耆、龜茲、車師前後部,合三 萬餘人,討疏勒,攻楨中城,四十餘日不能下,引去。其後疏勒王連相殺害,朝廷亦不能禁。

他 達を生み、少きとき蜀に入る。其の處に、蜀に事ふる迹 劉封伝に在り。

盧弼はいう。『太平御覧』にひく司馬彪の『続漢書』は、孟佗のことを載せるが、ここと同じである。
ぼくは思う。『太平御覧』を検索してみると、《人事部一百四十一 奴婢》、《禮儀部二十一 拜》、《飲食部一 酒上》、《果部九 蒲萄》と、よく出てくるが、張譲のエピソードの切り取りである。


曹丕が孟達を厚遇する

魏略曰。達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。文帝時初卽王位、既宿知有達、聞其來、甚悅、令貴臣有識察者往觀之、還曰「將帥之才也」、或曰「卿相之器也」、王益欽達。逆與達書曰「近日有命、未足達旨、何者?昔伊摯背商而歸周、百里去虞而入秦、樂毅感鴟夷以蟬蛻、王遵識逆順以去就、皆審興廢之符效、知成敗之必然、故丹青畫其形容、良史載其功勳。聞卿姿度純茂、器量優絕、當騁能明時、收名傳記。今者翻然濯鱗清流、甚相嘉樂、虛心西望、依依若舊、下筆屬辭、歡心從之。昔虞卿入趙、再見取相、陳平就漢、一覲參乘、孤今於卿、情過於往、故致所御馬物以昭忠愛。」

『魏略』曰く、達 延康元年を以て、部曲四千餘家を率ゐて魏に歸す。文帝 時に初めて王位に卽く。既に達有るを宿知し、其の來るを聞き、甚だ悅ぶ。

これは、あれか。「名士」だからか。

貴臣の識察有る者をして往きて之を觀しむ。還りて曰く、「將帥の才なり」と。或いは曰く、「卿相之器也」と。王 益々達を欽ぶ。
逆〈むか〉へて達に書を與へて曰く、「近日、命有るも、未だ達の旨に足らざるは、何ぞや。昔、伊摯〈伊尹〉商に背きて周に歸し、

盧弼はいう。伊摯は、夏に背いて商にきたのだから、誤りである。『史記』殷本紀を見よ。

百里 虞を去りて秦に入る。

百里奚は、『孟子』にある。盧弼がひくのは、萬章上の「百里奚 。虞人也。晉人以 垂棘之璧。與屈產之乘。假道於虞以伐虢。宮之奇諫。 百里奚不諫。知虞公之不可諫。而去之秦。年已七十矣。」と。
盧弼はいう。百里奚のことは、『左伝』『史記』『説苑』『論衡』にあるが、それぞれ逸話が異なる。『孟子』とは異なる話が伝わっていた。

樂毅 鴟夷に感じて以て蟬蛻し、

『史記』巻80 楽毅列伝にある、「報燕恵王書」として盧弼が引くのは、「臣聞之,善作者不必善成,善始者不必善終。昔伍子胥說聽於闔閭,而吳王遠跡至郢;夫差弗是也,賜之鴟夷而浮之江。吳王不寤先論之可以立功,故沈子胥而不悔;子胥不蚤見主之不同量,是以至於入江而不化」と。

王遵 逆順を識りて以て去就するは、

『范書』列伝三 隗囂伝にある。盧弼は、ひとまとめの列伝を引用しているのではない。盧弼曰く、王遵は、あざなを子春といい、覇陵の人。隗囂とともに挙兵するとも、常に漢に帰するの意有り、しばしば隗囂に子を〈漢に〉入侍せしむるを勧む。隗囂 従はず、故に焉を去る。

皆 興廢の符效を審らかにし、成敗の必然を知ればなり。故に丹青 其の形容を畫い、、良史 其の功勳を載す。聞くに卿、姿度は純茂、器量は優絶なり。當に騁して能く時を明し、名を傳記に收むべし。
今者 翻然と清流に濯鱗し、甚だ相ひ嘉樂し、虛心して西望す。依依と舊の若く、筆を下さば辭を屬り、歡心 之に從ふ。昔 虞卿 趙に入り、再び見へて相〈国相〉を取る。

『史記』巻76 虞卿列伝に、「虞卿者,游說之士也。躡蹻檐簦說趙孝成王。一見,賜黃金百鎰,白璧一雙;再見,為趙上卿,故號為虞卿」とある。

陳平 漢に就き、一覲にて參乘す。

『史記』陳丞相世家にある。

孤 今 卿に於いて、情は往〈前例〉に過ぎ、故に馬物を御する所に到り、以て忠愛を昭らかにす」と。

又曰「今者海內清定、萬里一統、三垂無邊塵之警、中夏無狗吠之虞、以是弛罔闊禁、與世無疑、保官空虛、初無(資)[質]任。卿來相就、當明孤意、慎勿令家人繽紛道路、以親駭疎也。若卿欲來相見、且當先安部曲、有所保固、然後徐徐輕騎來東。」

又〈曹丕は〉曰く、「今者 海內は清定し、萬里は一統し、三垂に邊塵の警無く、中夏に狗吠の虞無し。是を以て弛罔闊禁、世に疑ひ無く、保宮は空虛にして、初め(資)〔質〕任無し。

陳景雲はいう。「資」は「質」につくるべきだ。魏制では、およそ鎮守・部曲将および外州の長吏は、いずれも質任を納れた〈人質を中央に預けた〉。このとき曹丕は、孟達が帰順したばかりで、撫順したいと思ったから、こんな華言〈かっこつけた物言い〉をした。
『官本攷證』では、陳景雲の説を、何焯の説として引く。
ぼくは思う。恐らく実態としては、曹魏は人質はきっちり取っており、国境で謀反がきても、仕方がない状況だった。だって、呉蜀が残っているし。だが曹丕は、かっこをつけて、「曹魏は人質を取らないんだよ」としゃれ込んだw
李慈銘はいう。「保官」は「保宮」につくるべきだ。『漢書』百官公卿表には、少府の属官に「居室」という官職があり、武帝はこれを「保宮」と改めた。『漢書』蘇武伝に、「老母 保宮に繋ぐ」とある。また魏制では、郡県のランクは、「劇」「中」「平」の三等に分けられ、ただ外州の劇郡の長吏だけが、質納〈人質〉を納れた。中郡・平郡は、そうでなかった。王観伝にある。
ぼくは思う。統治が難しく、人口や農作物の豊かな県では、長吏が謀反するリスクがあった。劉備ぐらいには、なれるからw

卿 來りて相ひ就き、當に孤が意を明らかにすべし。慎んで家人をして道路に繽紛とし、親を以て駭疎する勿れ。若し卿 來り相ひ見はんと欲すれば、且つ當に先に部曲を安じ、保固する所有り、然る後、徐徐 輕騎もて來東すべし」

達既至譙、進見閑雅、才辯過人、衆莫不屬目。又王近出、乘小輦、執達手、撫其背戲之曰「卿得無爲劉備刺客邪?」遂與同載。又加拜散騎常侍、領新城太守、委以西南之任。時衆臣或以爲待之太猥、又不宜委以方任。王聞之曰「吾保其無他、亦譬以蒿箭射蒿中耳。」

達 既に譙に至り、

ときに曹丕は、譙県に軍を駐屯させている。

進見するに、閑雅にして、才辯は人に過ぎ、衆 屬目せざる莫し。又 王 近く出づるに、小輦に乘り、

趙一清はいう。『晋書』輿服志によると、「輦」とは、漢代より以来、人君が乗るものである。魏晋〈の君主〉は、小輦を御して、乗って外出した。

達の手を執り、其の背を撫でて戲れて曰く、「卿 得て劉備の刺客為ること無きや」と。遂に與に同載す。
又 加へて散騎常侍を拜せしめ、新城太守を領し、西南の任を以て委ぬ。
時に衆臣 或いは以爲へらく、「之を待すること太だ猥なり。又 宜しく方任を以て委ぬべからず」と。

『三国志』劉曄伝で、孟達への警戒を促す。延康元年、蜀將孟達率衆降。達有容止才觀、文帝甚器愛之。使達爲新城太守、加散騎常侍。曄以爲「達有苟得之心、而恃才好術、必不能感恩懷義。新城與吳蜀接連、若有變態、爲國生患」文帝竟不易、後達終于叛敗。
同注引『傅子』:傅子曰。初、太祖時、魏諷有重名、自卿相以下皆傾心交之。其後孟達去劉備歸文帝、論者多稱有樂毅之量。曄一見諷、達而皆云必反、卒如其言。

王〈曹丕〉 之を聞きて曰く、「吾 其の他無きを保つは、亦 譬ふるに、蒿箭を以て蒿中を射るのみ。と。

曹丕の死後、孟達が反する

達既爲文帝所寵、又與桓階、夏侯尚親善、及文帝崩、時桓、尚皆卒、達自以羈旅久在疆埸、心不自安。諸葛亮聞之、陰欲誘達、數書招之、達與相報答。魏興太守申儀與達有隙、密表達與蜀潛通、帝未之信也。司馬宣王遣參軍梁幾察之、又勸其入朝。達驚懼、遂反。

達 既に文帝の寵する所と為り、又 桓階・夏侯尚と親善す。文帝の崩ずるに及び、時に桓・尚 皆な卒す。達 自ら羈旅を以て久しく疆埸に在り、心 自安せず。諸葛亮 之を聞き、陰かに達を誘はんと欲し、數々書もて之を招ふ。

諸葛亮が孟達に与えた文書は、費詩伝にある。盧弼がテキストを引用しない。あとでやろう。
『華陽国志』巻7に、〈建興三年〉冬,亮還,至漢陽,與魏降人李鴻相見,說新城太守孟達委仰於亮無已。亮方北圖,欲招達為外援,謂參軍蔣琬、從事費詩曰:「歸,當有書與子度相聞。」詩一人。曰:「孟達小子,昔事振威,不忠;後奉《詩傳》云:「後又背叛先帝。」先帝,背叛;反覆之人,何足與書。」亮不答。詩數率意而言,故凌遲於世。
『華陽国志』巻2 新城郡に、「蜀丞相諸葛亮將北伐,招達為外援,故貽書曰:「嗟乎,孟子度!邇者,劉封侵凌足下,以傷先帝待士之望。慨然永嘆!每存足下平素之志,豈虛託名載策者哉!」都護李嚴亦與書曰:「吾與孔明,並受遺詔,思得良伴。」吳王孫權亦招之。達遂背魏,通吳、蜀。表請馬、弩於文帝,撫軍司馬宣王以為不可許。帝曰:「吾為天下主,義不先負人。當使吳、蜀知吾心。」乃多與之,過其所求。明帝太和初,達叛魏歸蜀。時宣王屯宛,知其情,乃以書喻之曰:「將軍昔棄劉備,託身國家。……なんか維基文庫の『華陽国志』って、ちらかってて引用しにくい。やり直そう。。
『太平御覧』巻359 にひく司馬彪『戦略』兵部十 防汗に、司馬彪《魏略》曰:孟達將蜀兵數百降魏。魏文帝以達為新城太守。太和元年,諸葛亮從成都到漢中,達又欲應亮。遺亮玉玦、織成、障汗、蘇合香。亮使郭摸詐降過魏興。太守申儀與達有隙,摸語儀亮言:玉玦者,已決;織成者,言謀已成;蘇合香者,言事已合。

達 與に相ひ報答す。魏興太守の申儀 達と隙有り、密かに表して達 蜀と潛通すと。帝 未だ之を信ぜず。司馬宣王 參軍の梁幾を遣はし、之を察す。又 其に入朝を勸む。達 驚懼し、遂に反す。

干寶晉紀曰。達初入新城、登白馬塞、歎曰「劉封、申耽、據金城千里而失之乎!」

干寶『晉紀』曰く、達 初め新城に入るや、白馬塞を登り、歎じて曰く、「劉封・申耽、金城に據るも、千里にして之を失ふや」と。

毛本では、「白雲塞」につくる。
『水経』沔水注はいう。曹丕は、孟達を新城太守にし、房陵の故県と治所とした。粉水県というところがあり、房陵の上にあたるので、「上粉県」とよんだ。堵水の傍らに、白馬山があった。山石が馬に似ており、これを望むと真に逼った。側の水〈河〉を、白馬塞といい、孟達は守りと為した。ここに登って、嘆じて曰く、「劉封・申耽、金城に據るも、千里にして之を失ふや」と。上堵賦をつくった。音韻は哀切で、惻人の心があった。今も、この地で歌われている。
『隋書』経籍志に、『孟達集』巻三がある。ぼくは思う。孟達は、文武ができる、この時代の全方位的なエリートの官僚であり、文化人であった。だから、孟達伝が書かれるべきなんだ。


太和二年、司馬懿が孟達を斬る

二年春正月、宣王攻破新城、斬達傳其首。分新城之上庸武陵巫縣爲上庸郡、錫縣爲錫郡。

驃騎將軍の司馬宣王に詔して之を討たしむ。二年春正月、宣王 新城を攻破す。達を斬り、其の首を傳ふ。新城の上庸・武陵・巫縣を分けて、上庸郡と為し、錫縣を錫郡と為す。

盧弼によれば、「武霊」が正しく、「武陵」は誤り。
何焯はいう。宋刻の版本だけは、「巫」の字がない。だが、『宋書』は、「武陵・巫県」につくる。巫県も含めるべきである。
銭大昕はいう。黄初元年、西城・房陵・上庸をあわせて新城郡をつくり、孟達を太守とした。是において孟達を誅し、復た其の地を三と為した。「武霊」は「武陵」とつくるべきで、前漢の旧県で、漢中に属し、後漢に並省された。疑ふ、劉備が更めて置いたか。巫県は、これも蜀漢が置いたかと疑われる。『晋志』は、これを「北巫」といい、南郡には巫県がある。
趙一清はいう。『晋書』地理志では、上庸郡は、北巫県を統べるとする。けだし、孫呉が建平郡に巫県を立てたので、対立〈対抗して設置〉したのだろう
呉増僅はいう。洪志は、上庸郡に、北巫県があるとする。けだし『晋志』に拠ったのだろう。按ずるに、太和二年、魏が新城を分けたとき、「北」巫とは書かない。孫呉に巫県があっても、魏と分立したのであり、南北に分けあったのではなく、識別のために「北」を付けただけ。司馬炎が孫呉を平定したとき、曹魏の巫県を「北巫」とし、孫呉の巫県と区別しただけ。イイネ!


魏略曰。宣王誘達將李輔及達甥鄧賢、賢等開門納軍。達被圍旬有六日而敗、焚其首于洛陽四達之衢。

『魏略』曰く、宣王 達の將たる李輔、及び達の甥たる鄧賢を誘ふ。賢ら開門して軍を納る。達 圍はるること旬有六日にして敗れ、其の首を洛陽 四達の衢に焚かる。

ぼくは思う。鄧賢の血筋について、盧弼は何も書かない。検索してみるべきだな。
盧弼は、『晋書』宣帝紀をひくが、このページで本文を読む。

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『三国志』巻五十八 陸遜伝より

遜、遣將軍李異、謝旌等、將三千人、攻蜀將詹晏、陳鳳。異、將水軍。旌、將步兵。斷絕險要、卽破晏等、生降得鳳。又、攻房陵太守鄧輔、南鄉太守郭睦、大破之。秭歸大姓文布、鄧凱等、合夷兵數千人、首尾西方。遜、復部旌、討破布凱。布凱脫走、蜀、以爲將。遜、令人誘之。布、帥衆還降。前後、斬獲招納、凡數萬計。權、以遜爲右護軍、鎭西將軍、進封婁侯。

遜、將軍の李異・謝旌らを遣はし、三千人を將ゐ、蜀將の詹晏・陳鳳を攻む。異、水軍を將ゐる。旌、步兵を將ゐる。險要を斷絕し、、即ち晏らを破り、生降せしめ鳳を得る。
又、房陵太守の鄧輔、

呉増僅はいう。房陵県は、漢代は漢中郡に属する。『華陽国志』『元和志』は、いずれも漢末に郡となるという。
『通鑑』はいう。劉備が孟達を派遣して房陵を攻め、太守の蒯祺を滅ぼしたと。胡注に、この郡は劉表が置いて、蒯祺が太守だったのだろうか、とする。いま考ふるに、劉表は「荊州八郡」に拠ったが、房陵はない。建安二十年、張魯が来降したとき、曹操が置いたのだろうか。黄初元年に至り、房陵郡は新城に合わされた。
ぼくは思う。文脈からすると、陸遜が攻めた鄧輔とは、蜀が設置した太守だろうか。蜀将の孟達が攻めおとし、その地に鄧輔を置いたところ、すぐに陸遜にやられた。

南郷太守の郭睦を攻め、之を大破す。

南郷郡について、3455頁にある。盧弼注がとても長く、おそらく新城郡に負けず劣らず難しいのだが、また後日やる。

秭歸の大姓たる文布・鄧凱ら、夷兵數千人を合せ、首尾 西方す。遜、復た〈謝〉旌を部し、〈文〉布・〈鄧〉凱を討破す。布・凱 脫走す。蜀、以て將と為す。

陸遜に攻められた秭歸の大姓は、蜀の味方にも等しい。

遜、人をして之を誘はしむ。布、衆を帥ゐ還り降る。前後、斬獲・招納するもの、凡そ數萬を計ふ。權、遜を以て右護軍・鎭西將軍と為し、進めて婁侯に封ず。

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巻九 夏侯尚伝、巻二十二 桓階伝より

孟達は、夏侯尚・桓階が死んで、曹魏のなかでの立場が危うくなり、諸葛亮にたぶらかされた。孟達の立場を保証した人たちの列伝の、該当部分を見ておく。
おそくら、曹丕-夏侯尚-桓階、という強い人脈があり、孟達はこれに組み込まれていたのだが、(曹丕も含めて)みんな死んでしまい、不安になったのだ。

夏侯尚伝(曹丕の親友、荊州の長官)

夏侯尚、字伯仁、淵從子也。文帝與之親友。
魏書曰。尚有籌畫智略、文帝器之、與爲布衣之交。
太祖定冀州、尚爲軍司馬、將騎從征伐。後、爲五官將文學。魏國初建、遷黃門侍郎。代郡胡叛、遣鄢陵侯彰、征討之、以尚參彰軍事。定代地、還。
太祖崩于洛陽、尚持節奉梓宮還鄴。幷錄前功封平陵亭侯、拜散騎常侍、遷中領軍。


文帝踐阼、更封平陵鄉侯、遷征南將軍、領荊州刺史、假節都督南方諸軍事。尚奏「劉備別軍在上庸、山道險難、彼不我虞。若以奇兵潛行、出其不意、則獨克之勢也」遂勒諸軍擊破上庸、平三郡九縣、遷征南大將軍。孫權雖稱藩、尚、益脩攻討之備。權、後果有貳心。

孟達が名目だけで治めていた、上庸を撃破したのは、夏侯尚のおかげ。荊州にあって、蜀漢や孫呉とのバランスをとったのも、夏侯尚。当然のこと、孟達は夏侯尚との関係性に依拠して、曹魏のなかの立場を固める。


黃初三年車駕幸宛。使尚率諸軍、與曹真共圍江陵。權將諸葛瑾、與尚軍對江。瑾渡入江中渚、而分水軍于江中。尚、夜多持油船、將步騎萬餘人。於下流潛渡、攻瑾諸軍、夾江燒其舟船、水陸並攻破之。城未拔、會大疫、詔敕尚引諸軍還。益封六百戶、幷前千九百戶、假鉞、進爲牧。
荊州殘荒、外接蠻夷、而與吳阻漢水爲境、舊民多居江南。尚、自上庸通道。西行七百餘里、山民蠻夷多服從者、五六年間、降附數千家。五年徙封昌陵鄉侯。

荊州刺史・都督として、孟達の上司のような位置づけで、しかも善政をする夏侯尚。夏侯尚の傘下にいれば、孟達は安全なのだ。


尚有愛妾嬖幸、寵奪適室。適室、曹氏女也、故文帝遣人絞殺之。尚悲感、發病恍惚。既葬埋妾、不勝思見、復出視之。文帝聞而恚之曰「杜襲之輕薄尚、良有以也」然以舊臣、恩寵不衰。六年尚疾篤、還京都、帝數臨幸、執手涕泣。尚薨、諡曰悼侯。

夏侯尚が死んだのは、黄初六年。曹丕が死ぬのが、この翌年。いきなり孟達は、人脈のよりどころがなくなる。


桓階伝(劉表を捨てて荊州を曹氏に与える)

桓階、字伯緒、長沙臨湘人也。……久之劉表辟爲從事祭酒、欲妻以妻妹蔡氏。階自陳已結婚、拒而不受。因辭疾告退。
太祖定荊州。聞其爲張羨謀也、異之、辟爲丞相掾主簿、遷趙郡太守。

荊州の出身者だが、劉表の招きを断って、(張羨をあおって、荊州を曹氏に売り渡すのに協力して)荊州に曹操を迎え入れた。これは孟達の経歴に似てる。孟達は、劉璋を見限って、劉備を迎え入れた。


時太子未定而臨菑侯植有寵。階數陳、文帝德優齒長、宜爲儲副。公規、密諫、前後懇至。魏書稱階諫曰「今太子仁冠羣子、名昭海內、仁聖達節、天下莫不聞。而大王甫以植而問臣、臣誠惑之。」於是太祖知階篤於守正、深益重焉。

曹丕を太子に勧めた。曹丕と、個人的な関係が極めて濃いのが、夏侯尚と共通してる。孟達は、この人脈に加わったのだ。


曹仁爲關羽所圍、太祖遣徐晃救之、不解。太祖欲自南征、以問羣下、羣下皆謂「王不亟行、今敗矣」階獨曰「大王、以仁等爲足以料事勢、不也?」曰「能」「大王恐二人遺力邪?」曰「不」「然則何爲自往?」曰「吾恐虜衆多而晃等勢不便耳」階曰「今仁等處重圍之中而守死無貳者、誠以大王遠爲之勢也。夫居萬死之地、必有死爭之心。內懷死爭、外有彊救。大王案六軍以示餘力、何憂於敗而欲自往?」太祖善其言、駐軍於摩陂。賊遂退。

関羽の情勢について、曹操に意見するだけの見通しを持っていた。当然、孟達の動向も見守っていたはずで。荊州の戦局について通じている、という点で、夏侯尚にも繋がる。


文帝踐阼、遷尚書令、封高鄉亭侯、加侍中。階疾病、帝自臨省、謂曰「吾方託六尺之孤、寄天下之命於卿、勉之」徙封安樂鄉侯、邑六百戶。……後階疾篤、遣使者卽拜太常、薨。帝爲之流涕、諡曰貞侯。

曹丕が即位してからは、病気になってしまい、活躍は見られない。曹丕の生前に死んでいることは、少なくとも確認できた。


巻17 徐晃伝

文帝卽王位、以晃爲右將軍、進封逯鄉侯。及踐阼、進封楊侯。與夏侯尚、討劉備於上庸、破之。以晃鎭陽平、徙封陽平侯。明帝卽位、拒吳將諸葛瑾於襄陽。增邑二百、幷前三千一百戶。病篤、遺令斂以時服。

文帝 王位に即き、晃を以て右將軍と為し、進めて逯郷侯に封ず。

『上尊号奏』で、「使持節・右将軍・建郷侯の臣 晃」とあり、徐晃伝と異なる。

踐阼に及び、進みて楊侯に封ず。

本籍の県に封じたのである。

夏侯尚と与に、劉備を上庸に討ち、之を破る。

林国賛はいう。このとき劉封が上庸におり、先主は成都にいた。この文を見ると、先主が上庸にいたように読める。夏侯尚伝によると、夏侯尚は、「劉備の別軍が上庸にいる」と言っている。この徐晃伝も「劉備の別軍」とすべきか。曹真伝では、「劉備の別将が下弁にいた」とある。また「劉備の別将の高詳を陽平で破った」とある。ここは、別将が正しい。

徐晃 陽平に鎮し、徙して陽平侯に封ぜらる。

『郡国志』は、兗州の東郡の陽平という。曹魏は、改めて陽平郡に属させた。謝鍾英は、徐晃がここに封じられたとする。
盧弼は按ず。如置くが鎮したのは、兗州の東郡ではない。謝鍾英は誤りである。曹蕤伝を見よ。えー。

明帝 卽位するや、吳將の諸葛瑾を襄陽に拒む。……

ぼくは思う。荊州で戦いがあれば、駆けつけられる場所にいたことが分かる。

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巻三十七法正伝、巻四十一費詩伝より

法正伝(同郷から共に蜀入り)

法正、字孝直、右扶風郿人也。祖父真、有清節高名。建安初、天下饑荒。正、與同郡孟達、俱入蜀依劉璋。久之爲新都令、後召署軍議校尉。

法正、字は孝直、右扶風の郿の人なり。

「右」は衍字だと、馬超伝に注釈あり。郿は諸葛亮伝にある。

祖父の真、清節にして高名有り。

法正の家系については、かなり前にやりました。
法正の先祖は列伝あり、法雄・法真伝
裴注『三輔決録』があるが、はぶく。

建安初、天下 饑荒す。正、同郡の孟達と与に、俱に入蜀し劉璋に依る。久之、新都令と為り、後に召され軍議校尉に署す。

軍議校尉とは、軍事を議する。けだし時議は、法正の善謀を推して、着任させたのだろう。劉璋は、官職を与えたものの、法正の意見を用いられなかった。
法正伝に、孟達が出てくるのは、これだけ。『演義』では、劉璋と劉備のゴタゴタで、いろいろ立ち回るみたいだけど。
『華陽国志』によると、扶風の法正は、張松に推挙されて、劉備への使者に立った。法正は、同郡の孟達に兵をひきいさせ、劉備を助けて守らせた。前後で賂遺は限りがなかった。
ぼくは思う。孟達をやるには、『華陽国志』も読んでおかねば。


費詩伝(諸葛亮から孟達への手紙に反対する)

建興三年、隨諸葛亮南行、歸至漢陽縣。降人李鴻、來詣亮。亮見鴻、時蔣琬與詩在坐。鴻曰「閒過孟達許、適見王沖從南來。言、往者達之去就、明公切齒、欲誅達妻子、賴先主不聽耳。達曰『諸葛亮、見顧有本末。終不爾也』盡不信沖言。委仰明公、無復已已」亮、謂琬詩曰「還都、當有書與子度、相聞」詩進曰「孟達、小子。昔、事振威不忠、後又背叛先主。反覆之人、何足與書邪」亮默然不答。

建興三年、諸葛亮に隨ひて南行し、歸りて漢陽縣に至る。

漢陽について、2667頁。

降人の李鴻、亮に來詣す。亮 鴻に見ひ、時に蔣琬 詩と与に坐に在り。鴻曰く、
「〈わたくし李鴻が〉孟達の許を間過するに、適々王沖の南より來るに見ふ。〈王沖が〉言はく、往者 達 去就し〈魏に降り〉、明公〈孔明〉 切歯して、達の妻子を誅せんと欲るも、先主 聽さざるに賴るのみ。達曰く、『諸葛亮、見顧 本末有り。終に爾らず』と。盡く沖の言を信ぜず。

孟達は、「諸葛亮の見識には一貫性がある。諸葛亮が孟達の妻子を殺さないのは、劉備に止められたからではない。孟達のことを、じつは思ってくれているから、妻子を殺さないのだ」と述べたのだろう。

明公を委仰すること、復た已已無し」と。
亮、琬・詩に謂ひて曰く、「都に還り、當に書 子度〈孟達〉に与ふる有り、相聞せん」と。
詩 進みて曰く、「孟達、小子なり。昔、振威〈劉璋〉に事へて不忠、後に又 先主〈劉備〉に背叛す。反覆の人、何ぞ書を与ふるに足らん」と。亮 默然として答へず。

盧弼は、とくに注釈なし。


亮、欲誘達以爲外援、竟與達書、曰「往年南征、歲未及還。適與李鴻、會於漢陽、承知消息、慨然永嘆、以存足下平素之志。豈徒空託名榮、貴爲乖離乎。嗚呼孟子、斯實劉封侵陵足下、以傷先主待士之義。又鴻道、王沖造作虛語、云足下量度吾心不受沖說。尋表明之言、追平生之好、依依東望、故遣有書」達得亮書、數相交通、辭欲叛魏。魏遣司馬宣王征之、卽斬滅達。亮亦以達無款誠之心、故不救助也。

亮、達を誘ひて以て外援と為さんと欲し、竟に達に書を與へて、曰く、
「往年 南征し、歲 未だ還るに及ばず。

姜宸英は「歳末に還るに及ばず」とすべきとする。後主伝によると、諸葛亮は建興三年二月、南征して、十二月に成都に還った。間に合ったやないか。

適 李鴻と与に、漢陽に會し、消息を承知す。慨然と永嘆し、以て足下に平素之志を存す。豈に徒らに名榮を空託し、貴にして(乖)〔華〕離と為るや。嗚呼 孟子、斯れ實に劉封 足下を侵陵し、以て先主 待士の義を傷つくればなり。又 鴻〈李鴻〉 道はく、王沖 虛語を造作し、足下の量度を云ふ。吾が心 沖の說を受けず。表明の言を尋ぎ、平生の好を追ひ、依依と東望す。故に書有りて遣る」と。

盧弼はいう。書詞は、人を動かす。諸葛亮もまた、手紙をつかって孟達を「譎」した。費詩に〈孟達への手紙を〉反対されたとき、黙っていたが、費詩には〈諸葛亮の真意は〉知ることができないよ。

達 亮の書を得て、數々相ひ交通す。

しばしば、文通したら、曹魏にバレるじゃないか。

辭 魏に叛かんと欲す。魏 司馬宣王を遣りて之を征し、卽ち達を斬滅す。亮 亦 達の款誠心無きを以て、故に救助せず。

趙一清はいう。『水経』沔水注には、木蘭塞は、呉が孟達を救うために軍を派遣したところとする。『晋書』宣帝紀に、呉蜀が孟達を救おうとしたとある。どうして、費詩伝に「救わず」とあるのか。
ぼくは思う。諸葛亮の失敗をごまかしたんだろ。


王沖者、廣漢人也。爲牙門將、統屬江州督李嚴。爲嚴所疾、懼罪、降魏。魏、以沖爲樂陵太守。

王沖なる者、廣漢の人なり。牙門將とり、、江州督の李嚴に統屬す。嚴の疾む所と為り、罪を懼れ、魏に降る。魏、沖を以て樂陵太守と爲す。

盧弼にはめぼしい注釈なし。

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『晋書』巻一 宣帝紀より

司馬懿が孟達を殺す

太和元年六月,天子詔帝屯于宛,加督荊、豫二州諸軍事。
初,蜀將孟達之降也,魏朝遇之甚厚。帝以達言行傾巧不可任,驟諫不見聽,乃以達領 新城太守,封侯,假節。達於是連吳固蜀,潛圖中國。蜀相諸葛亮惡其反覆,又慮其為患。 達與魏興太守申儀有隙,亮欲促其事,乃遣郭模詐降,過儀,因漏泄其謀。達聞其謀漏泄, 將舉兵。

太和元年六月、天子 詔して、帝 宛に屯し、加へて荊・豫二州諸軍事を督す。
初め、蜀將 孟達の降るや、魏朝 之を遇すること甚だ厚し。帝 達の言行 傾巧なるを以て任ず可からずとす。驟 諫むれども聽かれず。乃ち達を以て新城太守を領せしめ、侯に封じ、節を假す。
達 是に於いて吳と連なり蜀と固び、潛かに中國を図る。蜀相 諸葛亮 其の反覆なるを惡み、又 其れ患と為るを慮る。 達 魏興太守の申儀と隙有り、亮 其の事を促さんと欲す。乃ち郭模を遣りて〈蜀から魏に〉詐降せしむ。儀を過り〈よぎり=たずね〉、因りて其の謀〈孟達の魏に対する謀反〉を漏泄す。達 其の謀 〈申儀に〉漏泄するを聞き、將に兵を舉げんとす。

帝恐達速發,以書喻之曰:「將軍昔棄劉備,託身國家,國家委將軍以疆埸之任,任 將軍以圖蜀之事,可謂心貫白日。蜀人愚智,莫不切齒於將軍。諸葛亮欲相破,惟苦無路 耳。模之所言,非小事也,亮豈輕之而令宣露,此殆易知耳。」達得書大喜,猶與不決。帝乃 潛軍進討。諸將言達與二賊交構,宜觀望而後動。帝曰:「達無信義,此其相疑之時也,當 及其未定促決之。」乃倍道兼行,八日到其城下。吳蜀各遣其將向西城安橋、木闌塞以救達,帝分諸將以距之。

帝 達の速く發するを恐れ、

この戦いは、魏のなかの孟達、もっと言えば、劉璋・劉備の時代から、孟達がどういう人生を歩んできたか、司馬懿が把握している時点で、決着がついてる。今日の断面だけじゃなく、これまでの経緯や人間性を踏まえて、司馬懿は作戦を立てている。

書を以て之に喻して曰く、
「將軍 昔 劉備を棄て、身を國家に託す。國家〈曹丕〉 將軍に疆埸の任を委ぬ。將軍に任じて以て蜀を圖るの事、心は白日を貫くと謂ふ可し。蜀人 愚・智とも、將軍に切歯せざる莫し。諸葛亮 相ひ破らんと欲するも、惟だ路無きを苦しむのみ。〈郭〉模の言ふ所、小事に非ざるなり。亮 豈に之を輕じて、宣露せしむや。此れ殆ど知ること易し」

諸葛亮が、郭模をつかって申儀に暴露したことは、重大事である。軽々しく申儀に暴露するのは、諸葛亮が曹魏を攻める道を作りたいから。孟達が動揺したら、諸葛亮の思うツボである。孟達は、諸葛亮が申儀に何を吹きこもうと、無視していればよい。司馬懿(曹魏)は、孟達が謀反をするなんて思ってないし、動かなくていいよ。

達 書を得て大いに喜び、猶ほ與に決せず。帝 乃ち軍を潛めて進討す。
諸將 言はく、「達と二賊 交構す。宜しく觀望して、後に動くべし」と。帝曰く、「達 信義無し。此れ其の相疑の時なり。當に其れ未だ定らざるに及び、促かに之を決すべし」と。乃ち倍道・兼行し、八日にて其の城下に到る。吳蜀 各々其の將を遣はし、西城の安橋・木闌塞に向ひ、以て達を救ふ。帝 諸將を分けて以て之を距む。

初,達與亮書曰:「宛去洛八百里,去吾一千二百里,聞吾舉事,當表上天子,比相反覆, 一月間也,則吾城已固,諸軍足辦。則吾所在深險,司馬公必不自來;諸將來,吾無患矣。」 及兵到,達又告亮曰:「吾舉事八日,而兵至城下,何其神速也!」上庸城三面阻水,達於城外 為木柵以自固。
帝渡水,破其柵,直造城下。八道攻之,旬有六日,達甥鄧賢、將李輔等開門出降。斬達,傳首京師。俘獲萬餘人,振旅還于宛。乃勸農桑,禁浮費,南土悅附焉。
初,申儀久在魏興,專威疆埸,輒承制刻印,多所假授。達既誅,有自疑心。時諸郡守 以帝新克捷,奉禮求賀,皆聽之。帝使人諷儀,儀至,問承制狀,執之,歸于京師。又徙孟達 餘眾七千餘家於幽州。蜀將姚靜、鄭他等帥其屬七千餘人來降。

初、達 亮に書を與へて曰く、「宛 洛を去ること八百里、吾〈宛城〉を去ること一千二百里なり。吾が舉する事を聞き、當りて天子に表上し、相ひ反覆する比、一月の間なり。則ち吾が城 已に固く、諸軍 足辦す。則ち吾 深險に在る所、司馬公 必ず自ら來たず。諸將 來り、吾 患ひ無し」と。
兵 到るに及び、達 又 亮に告げて曰く、「吾 事を舉げて八日、而れども兵 城下に至る。何ぞ其れ神速なるや」と。上庸城 三面 水に阻まれ、達 城外に木柵を為り、以て自ら固む。
帝 水を渡り、其の柵を破り、城下に直造す。八道 之を攻むること、旬有六日〈十六日〉、達の甥たる鄧賢、將たる李輔ら、門を開きて出降す。達を斬り、首を京師に傳ふ。俘獲すること萬餘人、旅を振し、宛に還す。乃ち農桑を勸め、浮費を禁じ、南土 悅附す。

司馬懿は、戦後の処置まで完璧と。生産力(捕虜)を、土地から切り離すことなく、経済の回復まで行った。
つぎは、おまけの申儀の話。孟達伝をつくるなら、「付申儀伝」なんて感じになるのかな。

初め、申儀 久しく魏興に在り、專威・疆埸す。輒ち承制・刻印し、多く假授する所なり。達 既に誅せられ、自ら疑心有り。時に諸々の郡守 帝 新たに克捷するを以て、禮を奉り賀せんと求め、〈司馬懿は〉皆 之を聽す。帝 人をして儀に諷せしむ。儀 至るや、承制の狀を問ひ、之を執へ、京師に歸す。又 孟達の餘眾七千餘家を幽州に徙す。蜀將の姚靜・鄭他ら、其の屬七千餘人を帥ゐて來降す。141013

司馬懿が孟達戦を振り返る

遼東で、陳珪の質問にこたえます。

司馬陳珪曰:「昔攻上庸, 八部並進,晝夜不息,故能一旬之半,拔堅城,斬孟達。今者遠來而更安緩,愚竊惑焉。」帝 曰:「孟達眾少而食支一年,吾將士四倍于達而糧不淹月,以一月圖一年,安可不速?以四 擊一,正令半解,猶當為之。是以不計死傷,與糧競也。今賊眾我寡,賊飢我飽……

司馬の陳珪曰く、「昔 上庸をめ、八部 並進す。昼夜 息まず、故に能く一旬の半にして、堅城を拔き、孟達を斬る。今者 遠來して更に安緩とす。愚 竊かに焉に惑ふ」と。
帝曰く、「孟達の眾は少なく、食は一年を支ふ。吾が將士 達に四倍して、而るに糧 月を淹せず。一月を以て一年を圖る。安にか速からざる可きや。四を以て一を擊つ、正に半解なるとも、猶ほ當に之を為す可し。

4人の兵で1人の兵を撃つのだから、だいたい勝てる。【解】は、ほどける、分かれる、達する、おこたる。4人のうち、半分の2人が到達しない、もしくは戦闘態勢に入れなくても、生半可な状況でも、なおも勝てる。

是を以て死傷を計らず、糧と競ふなり。

死傷者の数が優劣を決めないのだから、取りあえず突っこんでおけばいい。それよりも、大軍ゆえに兵糧が足りなくなるほうが、決定的な不利をつくる。時間をかけないことに価値がある。

今 賊〈公孫越〉は眾く我は寡なし、賊は飢え我は飽き……141014

あとは「今日」の遼東攻めの話。はぶく。

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補)州泰伝・先主伝・李厳伝・郤正伝

州泰伝(巻28 鄧艾伝に伏される)

艾州里時輩南陽州泰,亦好立功業,善用兵,官至征虜將軍、假節都督江南諸軍事。景 元二年薨,追贈衞將軍,諡曰壯侯。
世語曰:初,荊州刺史裴潛以泰為從事,司馬宣王鎮宛,潛數遣詣宣王,由此為宣王所知。及征孟達,泰又導軍, 遂辟泰。泰頻喪考、妣、祖,九年居喪,宣王留缺待之,至三十六日,擢為新城太守。宣王為泰會,使尚書鍾繇調 泰:「君釋褐登宰府,三十六日擁麾蓋,守兵馬郡;乞兒乘小車,一何駛乎?」泰曰:「誠有此。君,名公之子,少有 文采,故守吏職;獼猴騎土牛,又何遲也!」眾賓咸悅。後歷兗、豫州刺史,所在有籌算績效。

艾 州里の時の輩 南陽の州泰、亦た功業を立つるを好み、用兵を善くす。官 征虜將軍に至り、假節・都督江南諸軍事なり。景元二年 薨じ、衞將軍を追贈せられ、諡して壯侯と曰ふ。
『世語』曰く、初め、荊州刺史の裴潛 泰を以て從事と為す。

夏侯尚の後任の荊州刺史か。裴潛伝を読まねば。

司馬宣王 宛に鎮し、潛 數々〈州泰を〉遣はして宣王に詣でしむ。此に由り、宣王の知る所と為る。孟達を征するに及び、泰 又 軍を導き、遂に〈司馬懿が〉泰を辟す。泰 頻りに考・妣・祖を喪ひ、九年 喪に居り、宣王 缺を留めて〈欠員のままとして〉して之を待つ。三十六日に至り、擢して新城太守と為す。

孟達の後任ですね。九年間は喪中だったが、べつに3年×3は理論値であり、ほんとに服喪はしなかろう。司馬懿の属官になって36日で、新城太守になったと思うが、具体的にいつなのか、よく分からない。司馬懿が新城太守を空席にしておき(うっすら司馬懿その人が新城太守の権能も兼ねておき)、わりとすぐに、州泰を送り込んだと思われる。

宣王 泰の為に會す。尚書の鍾繇をして泰を調せしめ、「君 釋褐〈卑賤〉なるも宰府に登り、三十六日にして麾蓋を擁す。兵・馬・郡を守す。乞兒 小車も乘り、一に何ぞ駛せんや」と。泰曰く、「誠に此れ有り。君、名公の子なり。少くして文采有り、故に吏職を守す。獼猴〈サル〉 土牛に騎ること、又た何ぞ遅からんや」と。眾賓 咸 悅ぶ。後に兗・豫州刺史を歷し、所在に籌算・績效有り。

巻31 先主伝(劉備を守り、上庸を攻める)

松還,疵毀曹公,勸璋自絕,因說璋曰:「劉豫州,使君之肺腑,可與交通。」璋皆然 之,遣法正連好先主,尋又令正及孟達送兵數千助先主守禦,正遂還。後松復說璋曰:「今 州中諸將龐羲、李異等皆恃功驕豪,欲有外意,不得豫州,則敵攻其外,民攻其內,必敗之道 也。」璋又從之,遣法正請先主。

〈張〉松 還り、曹公を疵毀し、璋に自絶を勸め、因りて璋に說きて曰く、「劉豫州、使君の肺腑なり、與に交通す可し」と。璋 皆 之を然りとす。法正を遣はし、先主と連好せしめ、尋いで〈劉璋は〉又 正及び孟達をして兵數千を送り、先主を助けて守禦せしむ。

法正と孟達が、ともに兵をひきい、劉備を守ったと。『華陽国志』に同じ。

正 遂に還る。後に松 復た璋に說きて曰く、「今 州中の諸將の龐羲・李異ら皆 功を恃みて驕豪たり、外意有らんと欲す。豫州を得ずんば、則ち敵 其の外を攻め、民 其の内を攻めん。必敗の道なり」と。璋 又 之に從ひ、法正を遣はして先主に請はしむ。

〈建安二十四年〉夏,曹公果引軍還,先主遂有漢中。遣劉封、孟達、李平等攻 申耽於上庸。

〈建安二十四年〉夏、曹公 果して軍を引きて還り、先主 遂に漢中を有す。劉封・孟達・李平らを遣はし、申耽を上庸に攻めしむ。

のちの孟達の管轄する地域は、漢代では、漢中郡に属する。劉備が漢中を領有してはじめて、曹操から奪うことができるのだ。関羽が敗れたとき、孟達は上庸あたりにいた。


巻40 李厳伝(李厳から孟達への手紙)

〈建興〉四年,轉為前將軍。以諸葛亮欲出軍漢中, 嚴當知後事,移屯江州,留護軍陳到駐永安,皆統屬嚴。嚴與孟達書曰:「吾與孔明俱受寄 託,憂深責重,思得良伴。」亮亦與達書曰:「部分如流,趨捨罔滯,正方性也。」其見貴重如 此。

〈建興〉四年、〈李厳は〉轉じて前將軍と為る。諸葛亮 漢中に出軍せんと欲するを以て、嚴 當に後事を知るべしとし、移りて江州に屯し、留護軍の陳到をして永安に駐めしめ、皆 嚴に統屬せらる。嚴 孟達に書を與へて曰く、「吾 孔明と俱に寄託を受け、憂ひは深く責は重し。良伴を得んと思ふ」と。

李厳が孟達に、「任務の重圧を共有してくれる、お友達になってほしいな」と言っている。つぎに李厳は、裴注で諸葛亮に、九錫を受けろと勧めている。託孤された重圧を、孔明に押し上げ、また孟達に押し下げ、自分の荷物を軽くしようと(ポーズ)している。

亮 亦 達に書を与へて曰く、「部分 流るるが如く、趨捨 滯り罔きは、正方〈李厳〉の性あればなり」と。其の貴重せらること此の如し。

ちくま訳:「各部署が流れるように動き、進退に渋滞するところがないのは、正方(李厳)の性格による」と。
ぼくは思う。性格というか、まあ能力によると。


巻42 郤正伝

郤正字令先,河南偃師人也。祖父儉,靈帝末為益州刺史,為盜賊所殺。會天下大亂, 故正父揖因留蜀。揖為將軍孟達營都督,隨達降魏,為中書令史。正本名纂。少以父死母 嫁,單煢隻立,而安貧好學,博覽墳籍。弱冠能屬文,入為祕書吏,轉為令史,遷郎,至令。性 澹於榮利,而尤耽意文章……

郤正 字は令先、河南の偃師の人なり。祖父の儉、靈帝末に益州刺史と為り、盜賊の為に殺さる。天下 大亂するに會ひ、故に正の父 揖 因りて蜀に留まる。揖 將軍の孟達の營都督と為り、達に隨ひて魏に降り、中書令史と為る。

郤正の父、郤揖は、孟達の営都督であったと。へえ!

正 本の名は纂なり。少きとき父は死し母は嫁ぐを以て、單煢隻立、而安貧好學、墳籍を博覽す。弱冠にして能く屬文し、入りて祕書吏と為り、轉じて令史・遷郎と為り、令に至る。

どうやら、孟達についていった父は、早くに死んだらしい。父が魏にゆくとき、蜀に置いてきぼりにされ、そこからゼロベースで学問をしたのだろう。やがて、蜀漢が降伏する文章を書くなんて。

性は榮利に澹く、而るに尤も意は文章に耽り……

正史類にでてくる孟達は、これで網羅です。141015

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補)『華陽国志』

明らかに正史と重複してるところは、ひきません。

巻2 漢中志 7 魏興郡

後漢中數寇亂,縣土獨存。漢季世別為郡。建安二十四年,劉先主命宜都太守孟達從秭歸北伐房陵、上庸。自漢中,又遣副軍中郎將劉封乘沔水會達上庸。以申躭弟儀為建信將軍、西城太守。達、躭降魏。黃初二年,〔魏〕文帝轉儀為魏興太守,封鄖鄉侯。〔住洵口。〕蜀平,還治西城。屬縣六。戶萬。去洛一千七百里。土地險隘。其人半楚。風俗略與荊州、沔中同。

巻2 漢中志 8 上庸郡

上庸郡,故庸國,楚與巴秦所共滅者也。秦時屬蜀。後屬漢中。漢末為上庸郡。建安二十四年,孟達、劉封征上庸。

先主伝と重複かなー。

上庸太守申躭稽服,遣子弟及宗族詣成都。先主拜躭征北將軍,封鄖鄉侯,仍郡如故。黃初中,降魏。文帝拜躭懷集將軍,徙居南陽省上庸,並新城。孟達誅後,復為郡。

申氏について、正史に加えられる情報があるかも?


巻2 漢中志 9 新城郡

新城郡,本漢中房陵縣也。……漢末,以為房陵郡。建安二十四年,孟達征房陵,殺太守蒯祺,進平三郡。與劉封不和,封奪達鼓吹。關羽圍樊城,求助於封、達。封、達以新據山郡,未可擾動為辭。羽為吳所破殺。達既忿封,又懼先主見責,遂拜書先主告叛,降魏。魏文帝善達姿才容觀,以為散騎常侍、建武將軍,〔使〕襲劉封。封敗走,達據房陵。文帝合三郡為新城〔郡〕,以達為太守。……

残念ながら、正史と重複してるな。正史を見て、『華陽国志』を書いたのだろうから、仕方がない。


『華陽国志』独自の情報がなく、不発に終わった。141015

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