読書 > 李卓吾本『三国演義』第10回の訓読

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第10回上_李傕・郭汜 樊稠を殺す

李傕が董卓を葬る

李・郭の二賊 献帝を殺さんと欲す。張済・樊稠 諌めて曰く、
「不可なり。今日 若し便ち之を殺さば、衆諸候の服せざるを恐る。且つ留めて主と為せ。諸侯を賺〈なだめすか〉し入関せしめ、先に其の手足を去りて之を殺すとも、未だ遅からず。天下 自然、我らに属すなり」
李・郭曰く、「兵を按じて動かず、縦ままに軍士に城中に在りて擄掠するを容〈ゆる〉せ」
帝 楼上に在り、李郭に曰く、
「王允 既巳に伏誅す。軍馬 何故に退かざる」
李郭曰く、「已に報讐すると雖も、未だ恩赦を蒙らず。故に軍 退かず」
帝 又 李・郭に問ふ。
李郭曰く、「臣ら漢朝を力扶するに、未だ賜爵を蒙らず」

もう「李郭」が、ひとつの人格みたいになってる。

帝曰く、「卿の欲する所を任ず。寡人 之を封ぜよ」
李郭 職を写して入朝に御し、此の如き官品を勒要す。帝 即ち之に従ふ。
李傕 車騎将軍・池陽侯と為り、司隷校尉を領し、節鉞を假せらる。郭汜 後将軍と為り、節鉞を假せらる。其の行事するを任ず。朝政を同秉する樊稠 右将軍・万年侯と為り、張済 驃騎将軍・平陽侯と為り、領兵して弘農に屯す。
其の余、李蒙・王方ら各々校尉と為る。
然る後、謝恩す。方始、領兵して城を出でしめ、〈長安の城内に〉住まりて刼掠するを禁ず。

李郭ら追いて董卓の屍首を尋ぬ。但だ獲得す、些小の皮骨のみを。香木を用ゐて董卓の形体を雕成し、大いに祭祀を設く。功徳を修陳し、王者の衣冠を用ゐ、棺槨の富盛たること、言を尽す可からず。良辰・吉日を選び、遷して郿塢に葬る。
葬に臨むの夜、天 大いに雷雨を降らしめ、地を平らぐ。水の深きこと数尺なり。霹靂 卓の墓を震開し、棺外に皮肉を提出せしめ、皆 粉碎す。
李傕 晴るるときを候ちて再び葬る。是の夜、又復た是の如し。三葬するも皆 廃す。豈に天地・神明無けんや。

なんか、李卓吾先生の感想が入ったw


李傕 既に大権を掌し、百姓を残虐す。史官 詩有りて曰く、
「珪・譲〈段珪・張譲〉 誅夷せられ、卓 又 諸侯を獰し、還りて卓を以て君と為す。九州 鼎沸し、卓を誅すと言ふ。卓 死して何ぞ曽て兵を罷むるを肯んずるや。

馬騰と韓遂が献帝を助けにくる

二賊 心腹の人を分付し、帝の左右に侍らしめ、其の動静を看る。如し順はざる者有れば、皆 之を斬る。献帝 此時、日を度すること年の如し。朝廷の官員 並せて李郭に由りて陞降す。
当年、李郭 朱雋に宣して入朝せしめ、封じて大僕と為し、同に朝政を領せしむ。一日、人報ず。
「西自り一路の軍馬あり。鎗刀 雪霜の如く、旗旙 錦繡を飛す。兵 約有十余万、長安に飛奔して来る」と。
李郭 探知するに、乃ち西凉太守・伏波将軍が馬援の後、姓は馬、名は騰、字は寿成・并州剌史の韓遂なり。二将 引軍して来りて李郭を誅せんとす。
密かに人をして地に暗れ長安に入らしめ、侍中の馬宇・諌議大夫の种邵・左中郎将の劉範の三人と与に内応を為し、共に李郭を謀らんとす。
三人 献帝に密奏す。馬騰を封じて征西将軍と為し、韓遂 鎮西将軍と為し、勅して力を併せて賊を討てとす。

李傕軍と馬超が戦う

却説 李傕・郭汜・張済・樊稠 一同 商議するも、未だ良策有らず。謀士の賈詡曰く、
「馬・韓の二軍 遠来す。利は速戦に在り。若し深溝・高塁し堅守して之を拒めば、彼の兵 百日を過ぎず糧食 尽く絶へ、自然、遁去し却りて引兵せん。自後、之を追はば、二将 擒ふ可し」
李蒙・王方 出でて曰く、「此れ好計に非ず。願ふ、精兵万人を借り、立ちどころに馬騰・韓遂の頭を斬り、麾下に献ぜん」
賈詡曰く、「若し戦はば必ず敗る」
李蒙・王方曰く、「若し吾二人 敗るれば、願はくは六陽・魁首を献ぜよ」

「六陽・魁首」って、なんじゃこりゃ。毛本では、「若吾二人敗,情願斬首;吾若戰勝,公亦當輸首級與我」とあり、分かりやすい。

賈詡曰く「汝 若し戦ひて勝ちて回〈かへ〉れば、吾 却りて首級を輸して汝に与ふ」

李本では、賈詡が「オレの首をやるよ」という。しかし、正史の賈詡は、そんな危険なことを言わない。だから毛本では、李蒙のようなザコに、「賈詡の首をよこせよ」と言わせたのだろう。

各々軍の令状を納下す。

詡曰く、「長安の西 二百里に、盩厔といふ山険あり。路は峻にして、以て軍を屯す可し。張・樊の両将軍 壁を堅めて之を守れ。李蒙・王方 此の隘口に引兵し、敵を迎へよ。長安の城中より軍馬・銭糧を撥して、応付せよ」
李郭 大喜し、一万五千の人馬を點起し、李蒙・王方に与ふ。二人 忻喜して長安を去離すること二百八十里。大寨に扎住す。

西凉の州兵 到る。両箇 引軍して西涼の軍馬を迎至す。路を欄し、陣勢を擺開す。馬騰・韓遂 轡を連ねて出づ。
李蒙・王方 門旗の下に在りて馬騰を大罵して曰く、
「反国の賊、誰か去きて之を擒へよ」
言 未だ絶へざるに、一将軍 陣中より飛去す。這箇の少年なる将軍、面は琢玉の如く、眼は流星の若く、虎体・猿臂、彪腹・狼腰、扶風の茂陵の人なり。姓は馬、名は超、字は孟起なり。

既出の馬騰の息子として紹介されるのでなく、あくまで新キャラとして、くわしく描写してもらえる。優遇されている。

時に年は一十七歳、手に長鎗坐を執り、駿馬に騎り、陣前に跑出す。
王方 馬超の年幼なるを明欺し、躍馬・横鎗し、逕来・迎敵す。両般 兵器もて挙げて戦ふ処、数合に到らず、馬超の一鎗 王方を馬下に剌す。便ち馬を勒して陳に回る。
李蒙 王方の剌死せらるを見るに、一騎馬 馬超の背後従り赶来す。超 已に知道〈し〉る。故意に俄かに蒙を延べ、鎗を挙げて搠入せしむ。馬超の一頭閃 側邉にあり。李蒙 搠箇の空馬 奔入す。両鞍 相ひ並び早に挾して過去す。

アクションシーンは、やっぱり分からない。

初め李蒙 王方の搠死せらる見て、蒙 超の陣に回るを見て、随後・赶来す。馬騰 大叫し、「人 暗かに吾児に算する有り」と。
声 猶ほ未だ絶へざるに、李蒙 早に馬上に馬超に生け擒らる。

王方を討った馬超が、自陣に引き返すときに、李蒙はこっそり付いてきた。馬騰が「ついてきてる、危ないぞ」と言う前に、馬超はじつは尾行に築いており、かえって不意を突いて李蒙を生け捕った。

軍士 主無し〈大将の王方・李蒙がいなくなった。望風して奔迯〈に〉ぐ。韓遂 散軍の士将を殺す。
李蒙 斬首せられ、此れ是に馬超の第一塲、厮殺するなり。史官 詩有りて曰く、
「威は西京を鎮し、大功を立つ。渭橋に六戦し、最も英雄たり。鋼鎗の挙ぐる処、王方 死す。手 到るの時、李蒙を喪す」

西涼軍が敗れる

西凉の州 勝を得て、雄兵 隘口に直逼し、下寨す。
李傕・郭汜 李蒙・王方の皆 馬超に殺さるを聴知し、方に賈詡に先見の明有るを信じ、其の計を重用す。只だ理会し関を緊守して防ぐ。他に従ひ搦戦し、並然、出でず。
果然、西凉の州軍 未だ両月に及ばず、糧草 俱に乏し。軍を〈西涼に〉回すを商議す。
長安の城中、馬宇の家僮 変を〈李郭に〉告ぐ。言はく、「馬宇ら、外に馬騰・韓遂と連なり、内応・外合を謀らんと欲す」と。
李傕・郭汜 大怒し、尽く馬宇・劉範・种邵の三家の老小・良賤を收め、尽く市に斬り、三顆の首級を把して、馬韓の寨前に直来し、号令す。

「お前らが内応していた、長安のなかの仲間は、このとおり死んだ。長安を攻めるのは、さっさと諦めろよ」と。

馬騰・韓遂 計議す、「糧は尽きて軍は慌る。内応 已に泄る。如かず、早く回り、一面 軍を退くるに」
李傕・郭汜 張済の一軍をして馬騰に赶せしむ。樊稠の一軍をして韓遂に赶せしむ。
〈西涼軍は〉兵を分けて身を起つ。前兵 已に遠く、後軍 曽て隄防せず。張済 生兵を力して赶来す。西凉の軍 大敗す。

韓遂が、樊稠と単馬会語する

馬超 後に在りて死戦す。張済 敢へて〈馬超を〉去追せず。
樊稠 韓遂に去赶し、看看 赶上す。陳倉に相ひ近く、遂に勒馬して樊稠を回迎して〈韓遂から樊稠に〉言ひて曰く、
故郷の人 何ぞ此の如く情無きや」
樊稠も馬を勒住して答へて曰く、
「上命 違ふ可からず」
韓遂曰く、「天地 反覆し、未だ知る可からず。吾 此に国家の為に来る。吾と汝と同州の人なり。今 小失あると雖ども、後に大会を図れ。万一 意の如くならざること有らば、時に還りて相見す可きや」
樊稠 回心し、拍馬して向前し、韓遂に答話して別る。

韓遂「なんで同郷の私を攻めるのか」、樊稠「献帝というか李郭の命令だから、逆らえない」、韓遂「現在の政権は、すぐに転覆するかも知れない。その日がきたら、協力しよう。今日は見逃してくれないか」、樊稠「わかったよ」という感じ。

樊稠 兵を收めて寨に回る。
馬騰・韓遂 復た凉州に回る。

李傕の兄の子たる李別 樊稠の韓遂と耳語するを見て恨み、其の叔〈李郭〉に回報して曰く、
「樊稠 韓遂を追ひて陣倉に到り、韓遂に『郷人』と叫声せられ、稠 立馬して遂に共語す。知らず、甚〈なに〉を説るやを。但だ見る、喜愛すること甚だ密なり」

韓遂は、いつも単馬会語するからw

李傕 大怒して便ち興兵して稠を討たんと欲す。
賈詡曰く、「目今、人心 未だ寧ならず。頻りに刀兵を動かさば、深く不便と為る。但だ一宴を設け、張済・樊稠に請ひ、功を言へ。只だ就席の間に消し、擒へて之を斬れ

兵ばっかり動かしてると、収集が付かなくなる。この賈詡の正しさが、李郭に力を与える。功罪は評価がわれるなー。

李傕 深く喜び、便ち人を遣りて、張済・樊稠に請ふ。二将 忻然と宴に赴き飲酒す。将に半闌せんとするや、李傕曰く、
韓遂より近く書の来る有り。言はく、樊稠 造反せんと欲すと。何ぞ此に就きて之を擒へざる」
稠 大驚・失色。口 未だ言に及ばざるに、刀斧手 擁出して頭を案下に斬る。張済 地に俯伏す。李傕 扶け起こして言ひて曰く、
「樊稠 吾を害せんと図らんと欲す。故に先に手を下す。汝〈張済〉 乃ち心腹の人なり。何ぞ驚懼するや」
就ち樊稠の軍を将て、撥して張済に管領せしむ。懽を尽くして別く。後人 詩有りて曰く、
「龍は争ひ虎は闘ふ。甚なる時に休むや。朝に若し賓朋たるとも、暮に寇讎なり。逓互 相吞す。何日か、天 李傕をして樊稠を殺さしむは

めずらしく、おもしろい詩だった!


賈詡が、李郭を善導する

張済 弘農に回る。李傕 賈詡を用て尚書僕射と為す。詡 字は文和、武威の姑臧の人なり。後に魏臣と為る。
李傕・郭汜 西凉の州兵を戦敗せしめて自り、諸侯 敢へて兵を興すもの莫し。賈詡 屢々李郭を諌め、仁義をして天下の賢士と結納せしむ。李郭 之に順従ふ。
是自り朝廷 微かに生意有り。

賈詡は、李郭という猛獣のなかに敢えて入り込んで、秩序の再建に努めたと。魏臣になるという結末を見据えて、賈詡の評価を調整している。

献帝 方始、稍々安ず。

青州の黄巾 又 起つ。衆百万を聚め、頭目 等〈ま〉たず。兗州收の劉岱を将て殺し訖はり、良民を刼掠す。
太僕の朱雋 一人を保挙し、群賊を破る可しとす。李傕・郭汜 雋に問ひて曰く、
衝要の地当世の英雄に非ずんば能く拠る莫し。今 黄巾 鼎沸す。誰か之を安ず可きか」
雋 言ひて此の人を出し、天下の人をして炎漢に属せしめず。此の人、是れ誰ぞ。141023

すげえアオリ。アオリ史上、ナンバーワン!

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第10回下_曹操 兵を興して父の讐に報ず

曹操が青州兵をつくる

朱雋曰く、「山東の群賊を破るを要す。必ず須らく曹孟徳を得れば、方に可なるべし」
李傕曰く、「今 何処に在る」

曹操は、中央政界から見たら、行方不明だったんだ。

雋曰く、「自ら楊州に募兵し、濮陽にて賊を破りて〈黒山賊〉于毒を武陽に攻む。匈奴を内黄に撃ち、皆 全勝を獲る。東郡に引兵せしめよ。州事を権れ。人を差はし就ち曹孟徳に命じ、方に兗州牧を領し、山東の群寇を破らしむ可し。可尅の日 定まらん」
李傕 大喜して、星夜、人を差はし賞賜を賫らし、東郡太守の曹操に命じて、済北相の鮑信と与に一同して破賊せしむ。

操 聖旨を領して、鮑信と会合し、一同に兵を興して賊を寿陽に撃つ。鮑信 重地に殺入し、賊の害する所と為る。屍首 何処なるかを知らず。操 賊兵を追赶し、済北に直到す。降る者 万を数ふ。
操 因りて賊を得へて前駆と作す。馬の到る処 賓服せざる無く、百余日を過ぎず、操 招安して到降する兵は三十余万、男女百万余口なり。精鋭なる者を收到し、青州兵と号す。其余 百姓とす。尽く皆 屯旧す。
曹操 此自り威権 日に重し。四方の士 帰順する者 多し。此に是れ初平三年冬十二月なり。

曹操が、荀彧・荀攸を得る

捷書 長安に報到す。李傕 曹操に加へて鎮東将軍と為す。操 表を馳せて称謝す。
操 兗州に在り、賢納の士を招く。叔姪の二人 操に来投する有り。乃ち頴川の頴陰の人なり。

もったいぶるなあ!

其の叔 済南の荀昆の子、姓は荀、名は彧、字は文若なり。人に王佐の才と称せられ、時に年二十九歳なり。旧は袁紹に従ひ、紹の大事を成す非ざるの人なるを見て、此に因り曹 操に投ず。曹操 一見し、遂に与に兵書の戦策・当世の急務を談論す。
曹操 大喜して曰く、「吾の子房なり」

名言、いただきました。

彧を以て行軍司馬と為す。

其の姪 乃ち漢末の海内の名士なり。何進 黄門侍郎に拝せしめ、董卓の専権するを見るや、官を棄てて帰郷す。後に叔と与に曹操に事ふ。
姓は荀、名は攸、字は公達。
操 以て行軍教授と為す。曹操 此の二人を得て、朝暮、講論して倦まず。

曹操が、程昱・郭嘉を得る

荀彧 操に士を納れ賢を招くを勧む。畢礼・厚幣し、四方に之を求む。彧曰く、
「某 聞く、劉岱に一賢士有り。勝ること某に十倍す。岱 亡く、今日 何くに在るやを知らず」
此の人 乃ち東郡の東阿の人なり。身長八尺三寸、美鬚・眉清・目秀。姓は程、名は昱、字は仲徳なり。
操曰く、「吾 亦た名を聞くこと久し」
遂に人を郷中に遣り、尋問す。果して山中に読書すると消息を得る。操 拝して之に請ふ。程昱 曹操に来見し、大喜す。
昱 荀彧に謂ひて曰く、
「某 乃ち孤陋・寡聞の士なり。何ぞ錯りて明公に薦むや。公の郷中 一大賢有り。何ぞ来ること請ふて以て明公を助けざるや」
彧、「是れ誰なるか」と問ふ。
昱曰く、「穎川の陽翟の人なり」
姓は郭、名は嘉、字は奉孝。
彧 乃ち猛省して曰く、「吾 算計を失す」
遂に操に啓きて郭嘉を徵聘す。兗州に到り、共に天下の事を論ず。操言はく、
「吾をして大事を成さしむるは、必ず此の人なり」と。 嘉 亦 人に対へて曰く、此れ真に吾が主なり」と。

曹操がさらに人材を得る

郭嘉 光武の嫡泒の子孫を薦む。淮南の成徳の人なり。智謀 文武を兼全して足備す。十三歳のとき、母の与に讐に報い、手づから讐人を殺し、墓前に投拝す。二十余歳のとき、楊州に在りて、席間に剛強の鄭宝を砍殺し、名 淮海に聞こゆ。

劉曄が合流するのは、もうちょい後。鄭宝を殺すのも、正史では、もうちょい後では。

姓は劉、名は曄、字は子陽。操 一見して大喜す。

曄 二人を薦出す。一箇 是れ山陽の昌邑の人なり。姓は満、名は寵、字は伯寧なり。一箇 是れ武城のなり。姓は呂、名は虔、字は子恪なり。
曹操 亦 素より這の両箇の名譽を知る。就ち以て軍中従事と為す。
満寵・呂虔 共に一人を薦む。乃ち陳留の平丘の人なり。旧は劉表に依り、表の不明なるを見て魯陽に隠る。姓は毛、名は玠、字は孝先なり。曹操 以て従事と為す。

曹操が于禁・典韋を得る

一将有り、軍の数百人を引きて曹操に来投す。乃ち泰山の鉅平の人なり。姓は于、名は禁、字は文則なり。
操 其の人を見るに、弓馬は熟閑にして、武芸 衆より出づ。命じて點軍司馬と為す。操 毎日、于禁の能を称す。
夏侯惇 一大将を引き参見す。礼畢はり、操 諸官と与に皆 大驚す。其の人 形貌は魁梧、身材は雄偉なり。操 之を問ふに、惇曰く、
「此の人、乃ち陳留の人なり。姓は典、名は韋、旧は張邈とともにあり。帳下の人と和せず、手づから十数人を殺して山中に迯𥨥す。

張邈の下でトラブルを起こして、曹操のところに移ってきたのか。知らなかったw

惇 射獵を出し、一大漢の虎を逐ひて澗を過ぐるを見る。典韋なり。收めて軍中に留むること久し。今 主公に見ひ、将才を誇逞す。某 故に献上す」
操曰く、「吾 此の人を観るに、一に俗に非ざるを表す。必ず智力有らん」
惇曰く、「幼年、友人の劉氏と報讐し、李永の全家を殺し、頭を提げて鬧市に直出す。数百人 皆 敢へて近づきて視ず。

典韋にそんな過去があったのか。どこが出典?

今 使ふ所の軍器 両枝の鉄戟、重さ八十斤なり。臂上に之を挾み、飛馬して人を剌すこと、同に物無きが如し。
操 信ぜず。惇をして韋をして之に挾戟・驟馬せしむれば、上下すること飛ぶが如し。操 愕然として曰く、
「真に天神なり。豈に沉溺を肯ぜんや」
帳下の一面、大旗 上下し、絨縄をして之を牽きしむ。中に大漢有り、旗桿を挾執す。時に大風に値ひ、旗竿 倒れんと欲す。典韋 向前して喝し、衆軍を退け、一手もて執り、旗桿を定めて風中に立たしむ。操曰く、「此れ古の悪来なり」

名言、いただきました。
李本は、典韋の描写が、とても丹念でした。出典を知りたい。

遂に命じて帳前都尉と為す。身上より解き、細白錦襖の駿馬、鞍を雕りて以て之を賜ふ。

曹操の人材のまとめ

是に因り、曹操の勢は大きく、威は山東を鎮む。文は謀臣有り、武は猛将有り、左右を翼衛し、共に進取を図る。謀士は荀彧・荀攸・程昱・郭嘉有り。文武 兼全するは劉曄・毛玠・満寵・呂虔・楽進・李典有り。

文武をどちらも兼ね備える人材だったのか!

武将は夏侯惇・夏侯淵・曹仁・于禁・典韋有り。多く部下の人有り、一一名を書すに及ばず。
青州の精兵三十万有り、一応の銭粮を管領す。旧より一人有り、乃ち河南の中牟の人なり。姓は任、名は峻、字は伯達。曹操 既に大軍を領し、兗州の営寨に屯銜す。掌る所 尽く皆 完備す。

陶謙が曹操父に「父事」する

〈曹操は〉乃ち泰山太守の応劭を遣はし、瑯琊郡に往かしめ、父の曹嵩を取る。
陳留自り避難して此の郡に隠居す。弟の曹徳と与に、一家の老小 四十余人、帯従する者 百余人、車乗 百余輌、驢騾馬匹は極めて多し。兗州を逕望して来る。
徐州の界を経過するや、太守の陶謙、字は公祖、丹陽の人なり。平生 温厚・純篤の人なり。皆 之を敬ふ。謙 曹操の勢 大なるを知り、意に結識せんと欲す。正に其の由無く、操の父 経過するを聴知し、

陶謙は「温厚・純篤」であり、曹操の父のことも、たまたま知ったのだと、わざわざ断ってある。陶謙に、なんの責任もないことが強調されている。

遂に境を出でて迎接す。再拝して致敬すること、之に父事するが如し。

曹操の父に、擬似的な息子として仕える陶謙。すごい表現だなあ。その発想はなかった。

大いに莚会を設けて、住むること両日なり。

謙 都尉の張闓を差はし、部兵五百を将ゐて曹嵩を護送せしむ。老小 前去し、闓 車に随ひて謙に仗り、送りて郭を出づ。自ら嵩の前に回り、華・費の間に行到す。
時に夏末・秋初、大雨驟 至る。華・費の間を望み、一古寺に投じて宿歇す。寺僧三・五人、方丈に邀〈むか〉へ、宅眷に安頓す。張闓の軍馬 両廊に屯し、雨 衣裝に濕む。軍士 皆 張闓を怨む。手下・頭目を喚び、静処にて商議して曰く、
「我 本は是れ黄巾の余党なり。如し今、陶謙の処に依傍すれば、銭物を採取すること無し。你們 見よ、車乗 得んと欲せば、富貴 難からず。今夜の三更、只だ賊の到来するを推し、曹嵩の一家を把て殺し、許多の銭物を取り、同に山中の落草に往かん」

陶謙のしわざでなく、陶謙に不満をもつ黄巾のしわざであることが、しっかり語られている。こんな闇夜の会話を、だれも拾えるはずがない。つぎに始まる曹操の虐殺が不当であることを、あえて説明的に描写しているのだろう。

衆 皆 応允す。

是の夜、風雨 未だ息まず。曹嵩 方丈の中に在り、忽ち聞く、四壁より喊声 大挙するを。曹徳 提剣して出看し、就ち法堂に搠死せらる。
曹嵩 一妾を引きて方丈の後ろに奔入し、墻を過走せんと欲するも、妾 肥胖たりて、能く出でず。嵩 妾と厠中に躱し、乱軍の殺す所となる。
応劭 数十人を引きて袁紹に去投す。張闓 尽く曹嵩の全家を殺し、財物を取り、放火して寺を焼く。五百人と与に淮南に迯奔す。

袁紹と袁術のもとに、それぞれ逃げたw


曹操が復讐の兵を起こす

応劭の部下 逃命するの軍士有り、操に飛報す。操 全家の殺さるを聴知し、遂に哭して地に倒る。
静軒先生 詩有りて之を断じて曰く、
「曹操の奸雄たること、世に誇る所なり。曽て呂氏〈呂伯奢〉を将て全家を殺す。如し今、闔戸 人殺に逢ふも、天理 循環して報いは差〈あやま〉らず」

うまいところに気づきましたねー


夏侯惇ら救ひて起して曰く、
「此れ陶謙 縦ままに軍士をして此の如くせしむ。人をして罪を問はしむ可し」
曹操 切歯して曰く、「殺父の讐、極天・際地、如何にして報ぜざる。吾 大軍を起し、尽く徐州の所轄の地に赴き、草木 留めしめざること吾の願ひなり」
荀彧・程昱を留めて軍馬の三万人を領して鄄城・范県・東阿の三県を守らしめ、

この3県は、呂布に攻められた結果として残っただけだろう。初めから、3県を防御するつもりだったのではない。

其の余 尽く起つ。夏侯淵・于禁・典韋をして先鋒と為らしむ。
操 但だ城池を得さしめ、尽く皆 殺戮し、以て父の讐を雪ぐ。

城池だけは得るが、人は全て殺せと。


陳宮が曹操を説得する

時に陳宮 東郡従事と為り、陶謙と最も好し。

陳宮に、陶謙と親しいという設定があったとは。

曹操 起兵して報讐し、欲尽く百姓を殺さんと欲するを〈陳宮が〉知り、星夜を慌忙し、前来して曹操に見ふ。操 旧日の恩を想ひ、請ひて帳中に入らしむ。
亦 坐を賜はらず、宮曰く、
「今 聞く、明公 尽く大兵を起して徐州に下り、尊父の讐を報ぜんと。到る所、尽く百姓を殺すと。某 此に因り、特来して進言す。陶謙 乃ち仁人・君子にして、剛強・好利の輩に非ず。中間、必ず縁故有り。且つ州県の民 皆 大漢の百姓なり。明公に何の讐有るや。之を殺すは不祥なり。

そうだ、そのとおりだ。陳宮のこの言論により、曹操の行為が、物語的には全く「漢のため」「百姓のため」でないことが確定された。陳宮は、曹操の性格を規定する、便利かつ重要なキャラです。

〈曹操が〉三思するを望む。然る後、之を行はば幸甚なり」と。
操 大怒して曰く、汝 昔時、我を棄てて去る。今 何の面目有りて、相ひ見ふや。陶謙 吾が一家を殺す。誓ふ、当に肝を摘し心を剜り、以て之を祭ることを。汝 陶謙と旧有り。何ぞ敢へて我が軍の心を阻むや」
宮 黙然として去りて曰く、
「吾 亦 面目無く、漢の官為〈た〉るや」

漢官として、曹操をぶっ殺す!

馳馬して陳留太守の張邈に来投す。邈 宮を待して上賓と為す。且つ説く、
「操の大軍 到る所の処、鶏犬 留まらず、山に樹木は無く、路に人行は絶ゆ」と。

陶謙が曹操に降伏するという

陶謙 徐州に在り、聞く、曹操 大軍馬を起して来り、父讐を報ゆると。仰天・慟哭して曰く、
「我 罪を天に獲たり。徐州の民をして此の大難を受けしむに到る。

陶謙さんは、とても人格が完成されている。

又 聞く、操 尽く徐州の民を殺すと。四下の郡県の百姓 孤を以て徐州の勢とす」
謙 張闓の貪財を大罵す。遂に害 生霊に及び、急ぎ衆官を聚めて商議す。
曹豹 出でて曰く、
「既に曹操の兵 至る。豈に手を束ねて死を待つ可きや。某 願ふ、使君を助けて以て之を破るを」

曹豹ごときが、曹操に勝てるとも思えないが。

衆官 皆曰く、「豹の言は、是なり」と。
陶謙 已むを得ず引兵し、出境・来迎す。謙 操の軍 到るを望み、時に前面 鋪霜・湧雪の如し。白旗を中間に起て、霊旙 二首あり。一に曹嵩の名爵を書き、一に『曹徳の霊魂 大展す、報讐雪恨』と書く。

なんの存在感もない曹徳が「活躍」してるw

二旗・軍馬 列して陣勢を成す。

曹操 縦馬して出陣し、身に縞素を穿し、甲は擐花・銀鎧、涙を含み鞭を揚げ、『無端の賊徒、吾が父と傷す』と大罵す。
陶謙 亦 門旗下に出馬し、馬上 欠身し、操に施礼して曰く、

陶謙にこんなシーンがあったのか!

「謙 本は明公と結好せんとし、故に張闓に托して護送す。賊の心 改めざるを想はず、此の事有るに致る。実に陶謙の干せざることなり。故に明公に幸望す、其の情を憐察して之を恕せ」

陶謙、かっこいい!セリフが削られているが、毛本でも、陶謙が曹操の前に出て、弁明するシーンはある。

操 大罵して曰く、「老匹夫、吾が父を殺し、尚ほ敢へて乱言す。誰ぞ老賊を生擒り、霊魂を享祭す可きや」
夏侯惇 声に応じて出づ。陶謙 慌走して陣に入る。夏侯惇 赶来するや、曹豹 挺鎗・躍馬して前来し、迎敵す。二馬 相交し、狂風 大いに作こる。飛沙・走石・折木・抜樹す。軍 旗幡を執り、尽く皆 括倒す。
曹豹 敵して夏侯惇を住めず、回馬して便ち走ぐ。両軍 皆 乱る。曹操亦 兵を收めて陶謙に屯住す。
将軍 入城し、謙 衆と与に計議して曰く、
「吾 曹操を観るに、勢は大きく、敵し難し。吾が命 該〈ことごと〉く横亡し、迯ぐる可からず。当に自ら縛り、操の営に前往せん。其の剖割に任せ、徐州の一郡・百姓の命を救ふべし」
言 未だ絶へざるに、一人 進前して言ひて曰く、
府君 久しく徐州に鎮し、人民 恩に感ず。今、曹将軍の兵 衆く、広しと雖も、未だ必ずしも便ち城墻に入らず。府君 百官と与に堅守し、勿ち某を出せ。不才なると雖も、願はくは小策を施し、曹操をして死して身を葬るの地無からしめん
衆人 大驚し、便ち計を問ふ。安を将て出し畢はる。竟に斯の人 是れ誰ぞ。

ぼくもびっくりした。そして、これは麋竺です。

起漢霊帝の中平元年甲子歳、至漢献帝初平三年壬申歳。共首尾九年事実。141023

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