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- 第11回上_劉玄徳 北海に囲を解く
麋竺と陳登が青州に使者す
却説 計を献くるの人 乃ち東海の朐県の人、淮安に居る、姓は糜、名は竺、字は子仲なり。
此の人が家 世々富豪なり。荘戸の僮僕ら万余人あり。毛本は「此人家世富豪」のみ。地味に改変されてる。糜竺 嘗て洛陽に往き、買売して回帰す。竺 車路に坐し、傍らに見る、一婦人を。甚だ顔色有り、来求して同載す。竺 乃ち下車し歩行し、車を婦人に譲る。婦人 再拝して竺に同載を請ふ。竺 上車す。目に邪視なく、並せて調戯の意無し。行くこと数里に及び、婦人 辞去す。別に臨み竺に曰く、
「我 天使なり。上帝の勅を奉じ、往きて汝の家を焼く。君の待するに礼を以てするに感ず。故に私 告ぐのみ」
竺曰く、「娘子、何なる神や」
婦曰く、「吾 乃ち南方の火徳星君なり」
竺 拝して之に祈る。婦曰く、
「此の天命なり。敢へて焼かずんばあらず。君 速やかに往き財物を搬出す可し。吾 当に夜に来るべし」
竺 飛奔・到家し、財物を搬出す。日中、厨下より果然、火 起り、尽く其の屋を焼く。竺 此に因り、貧を済ひ苦を抜き難を救ひ危を扶く。
後に陶謙 請ひて別駕従事と為す。
謙 問ふ、解きて之を救ふの策を。竺曰く、
「某 当に親ら北海郡に往き、孔融に投托し、起兵・救援せしむべし。更めて一人を得て、青州の田楷の処に往き、求救す。二路の軍馬 前来し夾攻すれば、操 必ず兵を退けん」
謙 大喜し、遂に告急の書 二封を写す。商量す、青州に誰人をして去かしむ可きか。一人 出でて曰く、
「某 願はくは往かん」
衆 之を視るに、乃ち是れ広陵の謀士、姓は陳、名は登、字は元龍なり。
呂布を撹乱する陳登は、ここが初登場。謙 喜びて先に陳元龍を青州に送かしめ、然る後、糜竺に命じて行かしむ。
謙 衆を率ゐて城を守りて以て攻撃に備ふ。操 亦 未だ敢へて軽々しく城下に逼らず。且に四下に築城して以て徐州の勢を孤せしむ。
北海太守の孔融が登場
却説 北海の孔融、字は文挙、魯国の曲阜の人なり。孔子の二十世孫なり。泰山都尉の孔宙の子、小自り聡明なり。人 皆 敬仰す。
年十歳の時、去きて河南尹の李膺に謁す。膺 乃ち漢代の人物なり。等閑、勾し相見する能はず。是れ当世の大賢・通家の子孫に非ざれば、方に能く勾し堂上に到らず。毛本は、李膺の会いにくさを、「閽人難之」とだけする。時に融 門に到り、門吏に告げて曰く、
「我 李と相ひ通ずる家の子孫なり、至りて入見するに及ぶ」
膺 問ひて曰く、「汝の祖と吾が祖と、何に親なるや」
融曰く、「先君の孔子と君の先尊の李老君と、同徳比義して相ひ師友なれば則ち融と君と累世の通家なり」
膺 大いに之を奇とす。
少頃、太中大夫の陳煒、後に膺に至る。〈李膺は〉融を指して曰く、
「此れ異〈い〉なる童子なり」
煒曰く、「小時に聡明なるとも、大のとき未だ必ずしも聡明ならず」
融 即ち声に応じて曰く、「如し君の言ふ所なれば、幼時、必聡明なるや」
煒ら皆 笑ひて曰く、「此の子、長成せば、必ず当代の偉器とならん」
此自り名を得て、書は覧ぜざる無く、海内に称せらるること冠冕為り。
後に中郎将と為り、累々遷りて北海太守となる。極めて賓客を好み、常に曰く、
「座上の客 常に樽中を満す。酒 空しからざること、吾の願ひなり」と。
北海に在ること六年、甚だ民心を得たり。
当日、正に客と、曹操の起兵し報讐するを論ず。侍人 禀す、徐州の糜竺 至ると。融 請入して見ひ、動々問ひて云く、
「故人 此に行くは、必ず焉に事有り」と。
竺 陶謙の書を出し、言ふ、「曹操 攻囲すること甚だ急なり。望む、明公 垂救せよ」
上項の事 説き了はり、融曰く、
「吾と陶恭祖と、最も是れ厚交なり。子仲 又 親ら此に到る。去かざれば如何。只 一件、曹孟徳 亦 我と讐無し。若かず、先に人を遣りて一封書を送り、解和せしむに。如し其れ准随せざれば、即ち起兵せん」
竺曰く、「曹操 兵威に倚仗じ、必ず義を以て、重しと為さず」
これが奸雄の正体だと。曹操の軍事行動は、つねにこういう意味づけをされ、『三国演義』に批判される。融 一面をして點軍せしめ、一面をして人を差はして書を送らしむ。言 未だ畢はらざるに、忽ち報ず、黄巾の賊党の管亥群寇の約十余万を部領して飛奔し前来すと。
黄巾が孔融を囲み、太史慈が現れる
孔融 大いに驚きて本部の人馬を點し、城を出て賊を相迎す。管亥 馬を出して曰く、
「吾 知る、汝の本州 糧は広しと。一万石を借す可し。便ち軍士を退けん。然らずんば城池を打破し、老幼を留めず」
孔融 之を叱りて曰く、
「吾 乃ち大漢の臣僚なり、大漢の城池を守る。
『三国演義』の善玉系は、大漢、大漢という。自分の立場も、行動原理も、大漢にもとづく。豈に糧米有りて応付して賊に与ふや」
管亥 大怒し、拍馬・舞刀し、孔融に直取す。融の背後より一匹馬 出迎す。乃ち北海の驍将 宗宝なり。挺鎗して迎ふ。両馬 相ひ交戦すること数合に到らず、宗宝 管亥の一刀により馬下に砍らる。
孔融の兵 大いに乱れ、城中に奔入す。
管亥 兵を四面に分けて城を囲ふ。孔融 一員の上将を見折す。心中 鬱悶たり。糜竺 愁を懐きて更めて言ふ可からず。此の時、孔融 登城して遥かに望む、賊勢 浩大なるを。憂惱を倍添す。
忽ち見る、城外の一人、挺鎗・躍馬して賊陣に殺入し、左冲・右突すること無人の境に入るが如し。城下に直到し、開門せよと大叫す。孔融 其の人を識らず、敢へて開門せず。賊の首将 壕邉に赶到す。那員の将 回身して十数人を下馬に連搠す。
門が開かないから、賊が集まってきた。仕方がないから、追っ手を切り伏せたら、やっと孔融が門を開けてくれた。融 急ぎ開門せしめ、鉄騎に命じて接引せしむ。城門内に到り、其の人 下馬して鎗を棄て、城上に徑到し、孔融に拝見す。
融 其の人を視るに、身長七尺五寸、美しき髭髯、猿臂 射を善くし、射せば虚発せず。其の姓名を問ふ。対へて曰く、
「老母 重ねて恩顧を蒙る。某 昨夜、遼東自り回家し省親す。金鼓の声を聞き、賊 城を寇する知る。老母 説く、『屢々府君の深恩を受くるも、未だ嘗て你に識らしめず。今 難有り。你 何ぞ之に報いざる』と。某 故に単馬にて来り、府君の養母の恩に報ゆ。吾 乃ち東萊の黄県の人なり。覆姓は太史、名は慈、字は子義なり」
孔融 大喜す。
原来、孔融 太史慈の英雄たるを知る。他の母 城を離るること二十里、都昌に住む。融 常に人をして米麥・匹帛を送らしむ。此に因り、母 慈をして孔融に来らしむ。太史慈を重待し、衣甲・鞍馬を贈る。
慈曰く、「賊 城を囲ふ。如何に得て退かしめん。願ふ、精兵一千人を借り、城を出でて賊を殺すを」
曹操なら、これを降伏させるだろうに。太史慈は、これを殺すという発想しかない。融曰く、「汝 英雄たると雖も、賊は衆し。軽々に出づ可からず」
慈 再三に請ひて曰く、
「老母 君の厚徳に感じ、特遣せしむ。慈 如し此の囲を解くこと能はずんば、慈 亦 老母に見ふ顔無し。
孔融が太史慈の母を援助する、キッカケが不明、動機が不明。「太史慈が英雄と知るから」援助してたとあるが、この説明では孔融がちっさい人物になる。見返りを求めているのが見え過ぎる。そのわりには、太史慈が単騎で駆けつけたとき、「誰だか分からないから、開門するな」という。粗忽だ。願はくは一死を决して敵せん」
融曰く、「此より遠からず、吾 劉玄徳を聞く。乃ち当世の英雄なり。若し他の来るを得て、内外より夾攻せば、此の囲 自ら解けん」
慈曰く、「府君 書を修めよ。某 当に急ぎ往く」
融 喜びて書を作り、慈に付し收めしむ。擐甲・上馬し、腰に両弓を帯び、手に鉄鎗を持ち、飽食・厳装す。城門 開く処より、一騎 飛出す。近壕の賊将 数百騎、来戦す。
慈 三十人を下馬に搠するや。余 皆 退走す。慈 群賊を殺開し、囲を透けて出づ。
管亥 人の城を出づる有るを知り、「是れ求救す」と度料す。数百騎をして赶来せしめ、八面 囲定す。慈 倚鎗・拈弓し、八面に搭箭し、皆 之を射る。数百人を射死せしむ。弦に応じて馬より落つ。賊 皆 退き回る。
太史慈が劉備に助けを求める
太史慈 得て脱す。星夜、平原県に投じ、県に来到す。劉玄徳に見ひ、施礼し罷む。孔北海 囲を受くるの事、慈をして〈劉備に〉来らしめ求救することに言を尽し、書信を呈上す。
玄徳 看畢はりて慈に問ひて曰く、
「汝 何なる人や」
太史慈は、知名度がないなー。慈曰く、「太史慈、東海の鄙人なり。孔融と親ら骨肉に非ず、比に郷党に非ざるも、特に名志を以て相好し、分憂・共患の意有り。
本当のことを言うなあ。太史慈ほど、英雄のはずなのに、「お前だれ」と聞かれる人は、初登場です。そして、孔融とは血縁でもなければ、旧縁でもない。今、管亥 暴乱し、北海 囲まれて孤窮し、処無く、救を告ぐ。危 旦夕に在り。君 仁義の名有るを以て、能く人の危急を救ふ。故に北海 区区と延頸して〈私を劉備に〉恃仰せしむ。慈 白刃を冐し囲を突し、万死の中従〈よ〉り来り、自ら君に託す。惟だ君 之を察せ」
太史慈は、武力もあるが、よく喋る。「更に言語にも長ず」と、李卓吾先生がほめてる。たしかに、性格はまっすぐで、力が強くて、弁舌もできる。孫呉のライバルの君主として、立伝されるだけはある。玄徳 言を聞きて大驚し、歛容して答へて曰く、
「孔北海 世間に劉備有るを知るや」
名言、いただきました。乃ち雲長・張飛を喚び、精兵三千を點し、北海郡に往き進発す。
劉備が管亥を破る
管亥 救軍の来到するを望見し、親ら勇壮の士を引きて前来し迎敵す。両邉 分布す。管亥 玄徳の兵 少なきを見て、心中に懼れず。親自ら披掛・持刀し、陣前に立馬す。
玄徳・関張・太史慈 出づ。玄徳 罵りて曰く、
「無端の逆寇。去るを思はざるや。正更従り何時を待つ」
管亥 忿怒して太史慈に直出す。却待 向前する一匹の馬、早先して飛出す。蒲州の解良の人なり。文は春秋左氏伝を読み、武は青龍偃月刀を使ふ。
「文は春秋左氏伝を読み、武は青龍偃月刀を使ふ」と、『三国演義』第11回で関羽が久しぶりに登場するシーンで対句の修飾語がある。「春秋左氏伝」と「青龍偃月刀」という5文字の特技を、言わば両刀遣いとして扱う。これは李卓吾本にあるが、毛宗崗本ははぶく。惜しいなあ。雲長 管亥に逕取し、両馬 相交す。衆軍 大喊す。正に燕雀の物 冲天の栖を慕ひ、犬羊の蹄 近日の歩に移るが如し。
よく分からん比喩です。例によって毛本では、全カット。どうせ関羽が圧倒的に勝つのである。勢 為す可からず。管亥を量り、怎敵し、雲長 数十合の中、青龍刀 管亥を馬下に起劈す。
太史慈・張飛 両騎 斉しく出で、双鎗 並びて挙ぐ。賊陣に殺入す。玄徳 軍を駆り、譟鼓して掩殺す。
城上の孔融 望見す、太史慈 関張を引きて賊を赶殺し、城邉に到ること、猛虎 犬羊の群に入るるが如し。縦横して当たる可からず。
孔融 兵を駆りて各門より突出し、群賊を大敗せしむ。降る者 無数なり。余党 潰散す。
孔融が、劉備を徐州に駆りたてる
孔融 玄徳を迎接す。入城し、礼を叙し畢はり、大いに筵宴を設く。孔融 糜竺を引きて玄徳に来見せしむ。具さに言ふ、張闓 曹嵩を殺すの事を。
そうだった。管亥とか、どうでもよくて、本題は曹操だった。もし管亥がなくても、劉備はここに来ただろう。ということは、太史慈の見せ場をつくるためだけに、管亥を出したのか。そのわりには、老母を養うとか、おもしろい因縁ではないし。吉川英治がカットするわけだ。「今、曹操 兵を縦し、大掠して徐州を囲住す。特来し求救す」と。
玄徳曰く、「吾 知る、陶恭祖 乃ち誠実・仁人の君子なるを。今 乃ち此の無辜の冤を受く」
孔融曰く、「玄徳公 乃ち漢室の宗親なり。今、曹操 不仁にして百姓を残害す。強に𠋣り弱をを欺き、陶使君に逼勒すること至急なり。聖人云はく、『義を見て為さざるは勇無きなり』と。
孔融が、劉備ごときを「公」と敬称するのは、かわりに兵を動かして欲しいからだ。劉備を尊敬しているわけではない。所詮は、傭兵のような扱いである。傭兵をタダで使うために、大義を説いているw公 何ぞ一同せざる。孔融 去きて徐州の難を救ふ。心下 若何」
玄徳曰く、「劉備 是れ推辞に非ず。争ふにも奈に兵は微、将は寡なり。敢へて軽動せざる」
傭兵としては、タダじゃ請け負わないぞと。孔融曰く、「吾 陶恭祖と一面の旧有り。自ら城郭の銭糧を傾けて去きて此の難を救はん。玄徳公 乃ち当世の豪傑なり。何ぞ仗義の心無きや」
教養層のいう「豪傑」「英雄」のおだては、ほんとうに信用できない。孔融や劉備を(曹操の敵だから)善玉として描く『三国演義』ですら、いやらしさが見えてしまう。いはんや、史実をやw玄徳曰く、「劉備 願はくは往かん。文挙に請ひて先に行容す。備 公孫瓚の処に去き、再三、五千の人馬を請ひ、随後、便ち去く」
融曰く、「玄徳公 切に信を失なふ勿れ」
玄徳曰く、「公 備を以て何等の人と為すや。聖人云く、『古自り、皆 死有りり。人 信無くば立たず』と。劉備 借りて軍を得たらば、或いは借りて軍を得ざるも、必然、至るなり」
劉備は、孔融の口車に乗った。太史慈も孔融も、弁舌を駆使して、劉備をたぶらかして、使い走らせる役割なのか。しかし、第11回で、久しぶりに劉備を登場させるには、これだけの導き役が必要だった。さもなくが、劉備を表舞台に出すべき史実がない。孔融・糜竺 拝謝す。
融 糜竺をして先に徐州に回り、「融 便ち收拾して起程す」と報ぜしむ。
太史慈 拝謝して曰く、
「慈 老母の厳命を奉り、前来して難に赴く。今 幸にも虞れ無し。楊州剌史の劉繇有り、慈と同郡なり。書有りて呼喚す。マザコンのせいで、母親のムリな要求を飲み、乱世に出て行くという点では、吉川三国志の劉備に共通する。君主として、太史慈は劉備のアナザーバージョンなのかも知れない。敢へて去かずんばあらず。再見を容図せよ」
融 金帛を以て相酧す。慈 受くるを肯ぜず、帰りて老母に見ふ。母曰く、
「我 汝の北海に報ゆる有るを以て喜ぶ」
遂に慈を遣りて楊州に往かしむ。
劉備が公孫瓚から趙雲を借りる
説かず、孔融 起兵するを。
且つ説く、玄徳 北地に投じ、公孫瓚に来見す。礼畢はり、瓚曰く、
「賢弟 何ぞ来る」
玄徳 説く、徐州を救ふの事を。
瓚曰く、「曹操 汝と冤無し。何故、人に替りて力を出す」
孔融も劉備も、この時点では、曹操と関係がないことが、わざわざ『三国演義』本文で語られる。少しずつ、因縁を結び、濃くなってゆくのです。孔融は、やがて曹操に殺されるとか。玄徳曰く、「備 去きて善言を以て之を解かしむ」
瓚曰く、「操 豪強に𠋣恃す。安んぞ汝の善言を聴くを肯ずるや」
玄徳曰く、「備 巳に人に許諾す。豈に敢へて信を失なふや」
瓚曰く、「借して汝に馬歩軍二千を与ふ」
玄徳曰く、「更に望む、趙子龍の一行を借せ」
瓚 之を許す。
玄徳 遂に関張と本部の三千人を引きて前部と為す。子龍 二千軍を引きて随後す。迤𨓦 徐州に往く。
劉備と曹操が戦闘を始める
却説 糜竺 回りて陶謙に報じて言ふ、「北海 又 請ひて劉玄徳の来助を得たり」
陳元龍も回りて報ず、「青州の田楷 欣然と領兵して来救す」と。
何が嬉しいんでしょうかね。バカですね。陶謙の心 安ず。
原来、孔融・田楷 両路の軍馬 曹操を懼怯す。遠遠に山に依り岩に傍る。営寨を結下し、未だ敢へて軽進せず。
曹操 両路の軍 到るを見て、亦 軍勢を分け、敢へて向前・攻城せず。
すごいじゃん。曹操を抑止できてる。
却説 劉玄徳の軍 到り、孔融に見ふ。融曰く、
「曹操 智に足り、謀多し。行軍するも、或いは進み或いは退き、未だ敢へて進戦せず。且に其の動静を観て、然る後に之に行くべし。
玄徳曰く、「但だ城中の糧無く、以て持久し難きを恐る」
備 雲長・子龍をして四千軍を領せしめ、融の部下に在りて相助せしむ。備 張飛と与に曹営に殺奔し、徐州に逕投す。
去きて陶使君に見ひ、商議す。融 大喜し、田楷と会合して犄角の勢を為し、首尾 連接す。左に孔融の兵、右に田楷の兵、中に雲長・子龍 四千兵を領し、両邉 救応す。
是の日、玄徳・張飛 披掛・上馬し、曹操の寨邉に殺入す。背後に一千の人馬 跟着す。曹操 二十余万の大軍 一処の寨子に下らず。
当日 張飛 前に在り、丈八蛇矛を挺し、飛馬して来る。伏路の軍兵 影を望みて逃ぐ。正行の間、寨内に一棒の皷声 響く処、馬軍・歩軍 潮の如く浪に似て、将を擁す。出来、当に頭一員の大将 勒馬・大喝す。
「何処にあるや匹夫」
口語の書き下しは、もうムリっす。却りて那裡に去くは、泰山の鉅平の人なり。姓は于、名は禁、字は文則。
張飛 見て更めて打話せず、于禁に直取す。両馬 相交す。衆 吶喊す。玄徳 勒馬して勝負を観看るに、如何。141024閉じる
- 第11回下_呂温侯 濮陽に大戦す
陶謙が劉備に徐州を譲りたい
于禁と張飛と戦ふこと数合に到り、玄徳 双股の剣を掣し、兵士を喝して大進す。于禁 敗走す。張飛 当前し追殺して、徐州の城下に直到る。
城上より望見す、紅旗・白字あり、「平原 劉玄徳」と大書するを。陶謙 急ぎ健将をして開門せしめ、玄徳の一軍を迎へて入城せしむ。
陶謙 接着し、共に府衙に到る。礼 畢はり、宴を設けて相待し、一壁に労軍す。陶謙 玄徳の儀表は俗に非ず、語言は鐘の如くあるを見て、心中に大喜し、糜竺に急命し、徐州の牌印を取りて玄徳に譲らしむ。
展開が早いよ。でも州牧だって、定期的に異動するものである。べつに、「国ゆずり」のような大げさなものではない。玄徳曰く、「公 何なる意なるや」
謙曰く、「今、天下は擾乱し、帝王 懦弱たり。姦臣 権を弄す。公 乃ち漢室の宗親なり。正に宜しく社稷を力扶すべし。老夫 六旬の上、無徳・無能、朝夕も保たず。公の名 海宇に聞こゆ、世の豪傑なりと。徐州を領す可し」
劉備は、血筋と、関張というチートな仕様により、はじめから万能である。やはり、劉備物語としての『三国演義』は、おもしろくない。もうちょい、ちゃんと苦労してくれないと。謙 自ら表文を写し、申奏す。
「望む、公 得て推阻する弗し」
玄徳 地に俯伏して言ひて曰く、
「劉備 漢朝の苗裔なると雖も、功は微、徳は薄。今、平原相を受くるも、亦 職に称はず。今、特に大義の為に、暫来して相助す。何ぞ此の言を出す。疑ひ非ざる莫し、劉備 吞併の心有るやと。若し此の念を挙ぐれば、皇天 祐けず」
謙曰く、「此れ実なる情なり」
再三 牌印を玄徳に譲る。玄徳 那裏 受くるを肯ずるや。
また、李卓吾先生のオハヤシが入った。玄徳曰く、「今 曹兵 已に此に至る。人 解分する無し。備 一書を作り、人をして操に送らしむ。若し従はずんば、厮殺するとも、未だ遅からず。檄を三寨に伝へ、兵を按じて動かず。人を遣りて書を齎らしめ、以て曹操に達せよ」と。
はぐらかした。まあ、曹操が兵を引いてくれれば、陶謙の自己嫌悪のポーズも意味がなくなる。陶謙が徐州を手放す理由もなくなる。
曹操が劉備の書で兵を引く
却説 曹操 軍中に在り、諸将と商議す、徐州を取るの策を。人 報ず、徐州 戦書有りて到ると。操 笑ひて折簡して之を観るに、劉備の書なり。其の書に曰く、
「備 関外自り得て君の顔を拝すること各天。一方に趨侍して向かふに及ばざるなり。尊父の曹侯〈が殺された責任は〉皆 張闓の不仁に因るなり。陶恭祖 乃ち誠実の君子なり。聞知すれば則ち肝肝 皆な裂く。万望す、明公 俯察・𠂻情して、百万の雄兵を回して、天下の大患を掃くことを。帝主を匡扶し、黎民を拯救すれば、乃ち社稷・生霊の幸甚なり。
徐州攻めなんかに兵をつかわずに、献帝のために兵を使えと。正し過ぎる。この時点の曹操の戦略(のなさ)を、かえって正史よりも浮き彫りにするかも知れない。願はくは明公、焉を垂察せよ」
曹操 書を看て大罵す。
「劉備 何等の人なるや。敢へて書を以て来らしめ我に中間を勧む。譏諷の意有り。来使を斬りて、便ち攻城す可し」
謀士の郭嘉曰く、「主公 怒を息めよ。劉備 遠来し救援す。礼を先にし、兵を後にす。主公 亦 好言を以て之に答へて、以て備の心を慢めよ。然る後、兵を進めて攻城すれば、破る可し」
操 嗔を回め喜を作して曰く、
「悞れり。劉玄徳 早く来りて我に与せざるを怪しむ。相見するに既に書を以て到らしめ、我が裁答を容れよ。来使を営中に留めて相待せよ」
正に商議して回書せんと欲す。
流星馬 禍事を飛報す。操 之を問ふに、報じて曰く、
「呂布 武関を出て自り、袁術に去投す。術 呂布ノ反覆にして定らざるを怪しみ、拒みて納れず。袁紹に投ず。紹 之を納れ、布と共に張燕を常山に破る。布 自ら以て志を得るを以て、傲慢たり。紹 将士に手下し、紹 之を殺さんと欲す。布 兵を引きて張揚に投ず。揚 之を納る。
龐舒 長安の城中に在り、私かに呂布の妻小を蔵し、呂布に送還す。李傕・郭汜 之を知り、遂に龐舒を斬り、書を写して張揚に与へ、〈張楊に〉呂布を殺さしむ。呂布 張楊を棄てて、張邈に投ず」と。
呂布と陳宮が起兵してる
是より先、張邈の弟たる張超 陳宮を引きて張邈に見ふ。宮 邈に説きて曰く、
「今 雄傑 天下に並起し、君を分崩せしむ。千里の衆を以て、四戦の地に当り、撫剣し顧盼して亦 以て人傑と為るに足る。張邈をほめた。いいほめ言葉!而るに反りて人より制を受く。亦た鄙ならずや。今 曹軍 征東し、其の処 空虚なり。而〈しか〉も、呂布 乃ち当世の英雄、無比の士なり。若し権〈か〉りに之を迎へ、共に兗州を取り、天下の形勢を観れば、時変に随ひ霸業に通ずること図る可し」
張邈 大喜して呂布を迎ふ。
今 布 巳に之に投じ、以為へらく天をして機会せしむ。呂布をして兗州牧〈曹操〉に潜住せしめ、以て濮陽に拠る。
曹操が徐州から兗州に帰る
〈いまだに曹操のものとして〉止〈とど〉めて有るは、堙城〈鄄城〉・東阿・范県の三処のみ。荀或・程昱 謀を設け計を定め死守し、得て住む。其の余 皆 休めり。
曹仁 屢々戦ひ、皆 勝つ能はず。特に此れ〈曹仁が〉告急し、操に曰く、
「兗州 失有り。吾をして家の帰る可きを無からしむ。」
郭嘉曰く、「主公 正に好く箇人に情を売り、劉備に善を与へ、軍を退けよ。復た兗州 免へば、天下の耻笑するに致る。」
劉備の手紙に納得させられた振りをして、兵を引け。ほんとうは、兗州を呂布から奪回にいくんだけど。もし兗州を失えば、天下に恥を笑われるよと。操 之を然りとし、即時 劉備に答書す。書に曰く、
「操 累世の名家なり。父 荼毒に遭ひ、安にか得て報ぜざる。故に勒兵して罪を陶謙に問ひ、族滅して以て大冤を雪がんと図る。玄徳 帝室の胄なり。才徳 兼全し、特に書を遣はし、我を慰さむ。天下は重し、即日 師して回守せん。畧々此に以て別を聞ゆ。後会を図る」
曹操 寨を抜き、皆 起つ。
陶謙が劉備に徐州を譲る
且説 〈劉備から曹操への〉使 徐州に回る。入城して謙に見え、書劄を呈上し、「曹操の兵 退く」と言ふ。
謙 大喜して人を差はして分投せしめ、孔融・田楷・雲長らに請ひ、軍 をして城に赴きて大会せしむ。
各方面で曹操軍を待ち受けてた。もう待ち受ける必要がないから、城内に呼びよせたのだ。衆なる官軍 城外に屯し、将に入りて席に赴かんとするに、謙 命じて玄徳に高座を請ふ。玄徳 再三、辞譲す。
酒 数巡に至るや、謙曰く、
「老夫 年邁に精力 衰乏す。二子は不肖なり、国家の重任に堪へず。劉玄徳 帝室の胄なり。徳は広く才は高く、徐州を領す可し。老夫 閑を乞ひ病を養はん」
玄徳曰く、「孔文挙 備をして徐州を救援せしむは、義の故を以てなり。今 却りて拠守せば、人 知らざる者は以て大なる不義と為す」
糜竺曰く、「今、漢室 陵遅し、海宇 顚覆す。功を樹て業を立つるは、正に此の時に在り。徐州は殷富なり、戸口は百万なり。君をして此を領せしむ、辞す可からず」
玄徳曰く、「此の事 决するに、敢へて当たるべからず」
李卓吾先生は、これを見た衆人は、みな玄徳が受けないことを、「大奸・大詐」でもあると思ったろう、という。陳登 進みて曰く、「陶府君 多病なり、能く署事せず。明公 辞する勿れ」
玄徳曰く、「袁公路は四世三公、海内の帰する所なり。近く寿春に在り。何ぞ以て州を之に与へざる」
陳登曰く、「袁公路 驕奢なり、治乱の主に非ず。今 徐州の軍兵馬歩 十万を以てす。上は以て君を匡し民を済ふ可し。下は以て地を轄り境を守る可し。使君 若し聴従せずんば、登も亦た未だ敢へて使君を聴かざるなり」
陳珪・陳登は、袁術がきらい、という立場で一貫している。この分かりやすさは、読者を救うなあ。孔融曰く、「袁公路 塚中の枯骨なり。
名言、いただきました。ありがとうございました。豈に国を憂へ家を忘るる者や。何ぞ介意するに足る。今日の事、天与なり。取らず悔ふとも追ふ可からず」
玄徳 堅執し肯ぜず。
陶謙 玄徳を抱き痛哭して曰く、
「君 若し我を捨てて去れば、吾 死して瞑目せず」
関羽曰く、「既に君 相ひ譲る。兄 且に権りに州事を領せ」
張飛曰く、「又 是れ他州を強要せず。郡将 牌印もて我に收めよ。由しとせず、我が哥哥 肯ぜざるを」
玄徳曰く、「汝等 我を不義に陥るるなり。吾 身づから死せん!」
言 訖はり、掣剣し自刎す。趙雲 佩剣を奪ふ。
謙曰く、「如し玄徳 従はざれば、此間、近邑あり、名を小沛と曰ふ。玄徳 若し我を念ずるを肯ずれば、小沛に屯軍して以て徐州を保て。始終 救援せよ。未だ台意を知らざるや、若何」
衆 皆 玄徳に小沛に留るを勧む。玄徳 之に従ふ。
席 散じ、趙雲 辞去す。玄徳 相ひ離るること忍びず、更に二日留む。陶謙 軍を賞労して已に畢はる。
孔融・田楷 相ひ別れ、各自 引軍して去る。
玄徳 子龍と与に手を執り、期に臨む。意は猶ほ子龍を捨てざるがごとし。
李卓吾先生はいう。劉備は奸雄である。自ら会して子龍を拾い収む。ぼくは思う。そうだよね。公孫瓚から、ぬすんだのだ。地に拝して曰く、「〈趙〉雲 終に敢へて公の顧恋の徳に背かず」
洒涙し上馬す。二千軍を引きて去る。
関羽と張飛は、望まないけど、劉備が手に入れたもの。レベル1のときからの支給品。趙雲は、他人のものだから、手に入れるプロセスを楽しめる。玄徳 関張と共に小沛に来り、城垣を修葺し、居民を招諭す。
呂布が曹操を待ち伏せる機会を失す
却説 曹操 軍を引きて兗州に投ず。曹仁 接着して言ふ、
「呂布の勢 大なり。更に陳宮・高順有りて輔と為る。健将の八人 已に濮陽らの処を有つ。其の鄄城・東阿・范県の三処のみ、未だ得ざる。乃ち是れ、荀彧・程昱 二人の計を設け、相ひ連ねて城郭を死守するなり」
操曰く、「吾 呂布を料るに、勇有りて謀無きの輩なり。慮るに足らず」
嘉曰く、「主公 亦 敵を欺く可からず」
遂に営を安し、下寨す。
呂布 曹操の回兵し、已に滕県を過ぐるを知り、副将の薛蘭・李封を召して曰く、
「吾 汝二人を用ゐんと欲すること久し。汝 兵一万を領して兗州を堅守す可し。吾 操を破らん」
二人 応諾す。
陳宮 知りて急入し見へて曰く、
「将軍 兗州を棄て、将た何へ往かんと欲するや」 布曰く、「吾 濮陽に屯兵して以て鼎足の勢を成さんと欲す」
宮曰く、「非なり。薛蘭 必ず兗州を守りて住らず。此を去ること正に南に一百八十里、泰山 路は険なり、精兵万人を彼〈泰山〉に伏す可し。曹操 兗州を失なふと聞き、必然、倍道して進む。其の過半するを待ちて一撃すれば、擒とす可し。
昔 韓信は趙兵を破らんと欲して、井陘口を渡る。広武君・李左車は成安君の陳余に説きて曰く、『今 聞く、韓信 勢に乗ず。遠聞す、其の鋒 当たり可からず。今、井陘の道 車 得て方軌せず、騎 得て成列せず。其の勢を量るに、糧食 必ず其の後に在り。願はくは、臣に奇兵三万を假し、其の間道より其の輜重を絶たしめよ。足下 溝を深くし塁を高くして与に戦ふ勿れ。彼 前むとも得て闘はず、退くとも得て還らず、野に掠す所無ければ、十日とせず両将の頭 麾下に懸く可し。否らずんば則ち必ず二子の擒とする所と為る。余曰、吾 義兵の二十万を掌して、並せて詐謀・奇計を用ゐず』と。
この昔話を、毛本は全てカット。ちょっとしんどいが、まだ続きます。李左車の言を聴かず。
韓信 間に之を視知して大喜し、乃ち敢へて遂に下る。未だ井陘口に至らざるに、舍を止む。夜半、伝発し軽騎二千人を選び、人ごとに一赤幟を持し、間道従り箄山して趙軍を望む。戒めて曰く、『趙 壁を空とし我を逐ふ。疾く趙壁に入れ。其の幟を抜きて之に易へん』と。
裨将をして伝飱しめて曰く、『今日 趙を破りて会食せん。乃ち万人をして先行せしめ、背水の陣を出す』と。
趙軍 見て皆 大笑す。平旦、韓信 大将旗を建て、鼓行して井陘口に出づ。趙 壁を開きて之を撃つ。大戦すること良に久し。是に于て韓信・張耳 半ば旗鼓を棄て水上の軍に走ぐ。趙 果して壁を空とし、之を逐ふ。韓信 遣る所の騎 趙壁に馳入し、趙幟を抜きて漢幟を立つ。水上の軍 皆 殊に死戦す。趙軍 已に失す。余ら壁に帰らんと欲し、幟を見て大驚し、遂に乱れて遁走す。漢兵 夾攻し之を大破し、遂に陳余を斬り、敗兵の二十余万を收めて擒とす。趙王 歇す。
はー。昔話が終わったよ。今日 正に此の断糧の計を用ゐよ。将軍 焉を察せ」
布曰く、「吾 濮陽に屯するは、別に良謀有ればなり。汝 豈に之を知る」
遂に陳宮の言を用ゐず。
これだけ、陳宮が長いこと喋ったのに。きっと、理解できなくて、飽きたのである。而して薛蘭を用て兗州を守らしめて行く。
曹操の兵 泰山の険路に行至す。郭嘉曰く、
「且に進む可からず。若し此処に伏兵有れば、之をいかんせん」
曹操 笑ひて曰く、「呂布 無謀の輩なり。故に薛蘭をして兗州を守らしめ、濮陽に往く。安んぞ得て此処に埋伏する有るや。
ここで曹操が笑っても、伏兵は現れないw
曹操は、まんまと呂布が留守にした、兗州の城を囲む。曹仁をして一軍を領せしめ、兗州を囲へ。吾ら濮陽に進兵し、呂布を速攻す」と。
人〈呂布に〉報ず、曹兵 近に至ると。
陳宮 呂布に説く、
「今、曹兵 速来し、疲困す。利は速戦に在り。気力を養成せしむ可からず。急難して退けよ」
布曰く、「吾 自ら匹馬もて天下を縦横す。何ぞ曹操を愁ふや。其の下住し寨柵するを待ち、吾 自ら之を擒へん」
呂布と曹操が濮陽で戦う
却説 曹操の兵 濮陽に近づき、下住し寨脚す。
次日、衆将を引き陳兵を野に出す。操 門旗の下に立馬し、呂布の兵 到るを遥望す。
陣圓する処、呂布 当に先んじて出馬す、左に陳宮有り、右に高順有り、両邉 擺開す。
八員の健将、頭を為すは面は紫玉の如く、目は朗星の若し、年は二十歳、官は騎都尉を授けらる、雁門の馬邑の人なり、姓は張、名は遼、字は文遠なり。勒馬し上に居る。
この調子で、1人ずつ、紹介するのかい。首第の二箇、姓は烈火の如く、体は奔狼の若し。官は騎都尉を授けらる、泰山の華陰の人なり。姓は臧、名は霸、字は宣高なり。腰に双簡を懸け、躍馬し横鎗す。両将 斉出し、各々三員の健将を引く。郝萌・曹性・成廉・魏続・宋憲・侯成なり。
張遼と臧覇がツートップで、あとはおまけ。2+2×3で、8将というわけ。布の軍五万 鼓声は大いに振ふ。
操 呂布を見るに、貌は天神の若く、馬は獅子の如し。左右の戦将 威風は凛凛たり。
操 呂布を指して言ひて曰く、
「吾 汝と自来、讐無し。何ぞ得て吾が州郡を奪ふや」
曹操は、みんなと旧縁がありませんねw布曰く、「漢家の城池もて、諸人 分偏する有り。爾 合すに得て何人なるや。曹操を擒へよ」
言 未だ畢らざるに、臧霸 出馬し搦戦す。
曹軍内の楽進 出でて迎ふ。両馬 相交し、双鎗 斉挙す。戦ふこと三十余合に到り、勝負 分たず。
夏侯惇 拍馬して便ち出でて助戦す。呂布の陣上、張遼 截往す。両対の陣前 厮殺す。勝負 未だ分惱せざるに、得て呂布 性起し、挺戟し驟馬して、衝出し陣来す。夏侯惇・楽進 皆 走ぐ。
呂布 掩殺す。曹軍 大敗して退くこと三・四十里。
布 自ら軍を收む。
于禁の奇襲を、陳宮が見破る
却説 曹操 一陣を輸し、謀士の郭嘉らと商議す。
于禁曰く、「某 今日、山に上り濮陽の西を観望す。呂布 一寨有り、約そ多軍無し。今夜、彼の将 我が軍の敗走するを謂ひ、必ず准備せず。一半を引兵し、之を刼す可し。若し寨を得れば、布の軍 必ず両下し夾攻せらるを懼る。此れ上策と為せ」
操 其の言に従ひ、曹洪・李典・毛玠・呂虔・于禁・典韋の六将を帯び、馬歩二万人を選び、連夜、小路より進発す。
却説 呂布の寨中 軍を労ふ。
陳宮曰く、「西寨 是箇は緊要の処なり。倘し或いは曹操 之を襲はば奈何」
陳宮は、いつも正しいことを言う役割。布曰く、「今日 一陣を輸す。如何にして敢へて来るや」
宮曰く、「曹操 是れ能く用兵を極むるの人なり。須らく防ぐべし。他 其の不備を攻めん」
布 高順を撥し、魏続・侯成を并せ、西寨を守らしむ。
呂布が、言うことを聞いた!
却説 曹操は、西寨 果然、兵の少なきを見て、四面より突入して寨柵を奪ふ。寨中の兵 四散し奔走す。四更より已後、高順 却好し引軍して到り、西寨に殺入す。
曹操 敗軍の復た来るを見て、自ら人馬を引きて来迎す。高順の三軍に正逢し、混戦す。将に天明に及ばんとし、正西より皷声 大震す。人 報ず、「呂布の救軍 已に到る」と。
操 寨を棄てて走ぐ。
呂布が陳宮の言うことを聞き、西塞に援軍を送った。そのせいで、曹操が敗れた。まあ、立案したのが于禁だから、この程度の結果でも、仕方ないのだろう。背後より高順・魏続・侯成 赶来し、頭に当る。呂布 親自ら飛馬し西寨に来到す。于禁・楽進 呂布と双戦して住らず。
曹操が逃げ、典韋が距離を測って守る
操 北を望みて行く。
山後より一彪の軍 出づ。左に張遼有り、右に臧霸有り。操 呂虔・曹洪をして之と戦はしむるも不利なり。操 西して走ぐ。喊声 大震し、一彪の軍 至る。郝萌・曹性・成廉・宋憲の四将 路に欄住す。操 四面・八方を見る。囲褁 将来す。衆将 皆 後面に在り、死戦す。操 当先し、陣を衝く。梆子 響く処、箭 驟雨の如く射て将来す。
曹操 急回するも、脱す可きの計無し。大叫す、「誰人か我を救へ」と。
馬軍隊裏より、一将 踴出す。陳留の巳吾の人なり。姓は典、名は韋、馬上に双鉄戟を挺し、重さ八十斤なり。大叫す、
「主公 慮る勿れ。下馬して挿す。双戟を住め、短戟の十数枝を取り、手に挾住す。従人を顧みて曰く、
「賊 来ること十歩なれば、乃ち之を呼へ」
典韋 歩行し、低頭して箭を冐して去く。布の軍 射を能くする者 数十騎、近前す。従人 大叫して曰く、
「十歩なり」
又 曰く、「五歩なれば、乃ち之を呼へ」
従人曰く、「賊 至る」
典韋 戟を飛して之を剌す。
一戟もて一人 馬より墜ち、並せて虚発する無し。立ちどころに数十余人を殺す。衆 皆 奔走す。
典韋 復回し飛身して、上馬し二鉄戟を挾み、衝殺して郝・曹・侯・宋の四将に入る。能く当抵せず、各自 迯ぐ。
典韋 散軍を殺し、曹操を救出す。
後人 詩有りて讃じて曰く、
「鉄戟双提八十斤、濮陽城外建功勲、典韋救主伝天下、勇猛当先第一人」
たいしたこと言ってないわ。典韋 曹操を救ふ。衆将 随後す。到りて路を尋ね寨に帰る。看看、天色 傍晩なり。背後に喊声 起る処、呂布 赤兎馬を驟し、方天戟を提し、赶来して大叫す。
「操賊 走ぐる休かれ」
此の時、人は困し馬は乏し、口内 烟生し、面面 相覷る。各々逃生せんと欲す。曹操の性命や如何。且聴下回分解。141024閉じる