読書 > 李卓吾本『三国演義』第79回の訓読

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第79回上_曹子建 七歩にして章を成す

曹彰の兵を取りあげる

班より出でて奏する者 乃ち河東の襄陵の人なり。姓は賈、名は逵、字は梁道なり。諫議大夫たり。
曹丕 大喜して、就ち賈逵に命じて之を説かしむ。

曹彰は、もう到着しちゃってるのかw

逵 城門を出でて下り、曹彰を迎見す。
彰 問ひて曰く、
「先王の璽綬 安くにか在る」
逵 色を正して言ひて曰く、
「家に長子有り、国に儲君有り。先王の璽綬 君侯の有す所に非ず。某を問ふ、何の意あるや」

毛本は、正史なみに「非君侯之所宜問也」にもどってる。

彰 黙然として、語行する無し。宮門の前邉に至り、逵 彰に問ひて曰く、
「君侯 此に来り、喪に奔らんと欲するや、王位を争はんと争するや。忠孝の人と為らんと欲するや、大逆の人と為らんと欲するや」

すげえ二択の問答を仕掛けるなあ!

彰曰く、「吾 喪に奔り、並びに異心無し」
逵曰く、「既に異心無くば、何に因りて兵を提げて此に至る。王上をして群臣に相ひ疑はしむ

すごいなあ!名言を連続。

彰 即時 左右の将士を叱りて退かしめ、隻身 入内し、曹丕に拝見す。兄弟 二人、相ひ抱く。哭き罷み、方に始めて〈曹彰が曹丕の臣下として〉服を成し、本部を将ゐる。軍馬 尽く曹丕に交す。

曹彰が連れてきた軍馬を、すべて曹丕の指揮下に入れた。

丕 彰をして鄢陵に回り、自守せしむ。彰 拝辞して去る。

曹丕 魏王を受け、即ち令旨を伝へ、建安二十五年を改めて延康元年と為す。

曹丕の意思で、改元が行われたと。正史には、直接は書いてない。べつにウソではなかろうが、正史に記載がない。

賈詡を封じて太尉と為し、華歆を相国と為し、王朗を御史大夫と為す。大小の官僚 尽く皆 賞に陞る。
曹操を高陵に葬り、「武祖」と謚号す。

曹丕が、曹熊と曹植を咎める

華歆 奏して曰く、
「鄢陵侯の曹彰 軍馬を交割し、已に本国に赴く。臨淄侯を有する所の曹植、蕭懐侯の曹熊 此の二人、坐視して喪に来奔せず。理は、当に罪を問ふべし。

曹操の死体をしたって、鄴県に駆けつけても脅され(曹彰)、駆けつけなくても罪となる(曹植・曹熊)。

丕 之に従ふ。
即ち令旨を伝へ、二使を差はし、二処に往き、罪を問はしむ。訖はりて、忽ち一使 回報す。
「蕭懐侯の曹熊 罪を懼れて自ら身を縊して死す」と。 丕 厚葬して「蕭懐王」と追謚せしむ。

丕 一日 命じて回報せしむ。
「臨淄侯の曹植、常に丁儀・丁廙と酣飲し、並びに喪に奔らずと」
臣 王旨を伝ふる時、植 端坐して動かず。
丁儀 罵りて曰く、
「且に胡説を休めよ。昔日 先主〈曹操〉在る時、吾が主を立てて太子と為さんと欲するも、讒臣・賊子に阻まる。今 王の喪 未だ旬日に及ばざるも、便ち罪を骨肉に問ふや」

さすが丁儀さ、、正論だな!

丁廙 又 曰く、
「吾が主 聡明なるに拠り、世に冠す。筆を下せば章を成し、自ら然り、王者の大体有り。今 反りて其の位を得ず。汝 那の〈曹丕の〉廟堂の臣なり。皆 是れ肉眼・愚夫なり。聖賢を識らずんば、禽獣と何をか異ならんや」
植 遂に大怒して叱る。
「武士・将臣 乱捧す。打出せよ」

曹植が、ムチャを言う群臣を叱った。曹植は、あくまで、曹丕と争う気がないというキャラで。


卞氏が曹植を助命する

丕 之を聞き、大怒して、即ち許褚をして三千の虎衛軍を領せしめ、火速 擒来す。褚 領軍して臨淄に飛奔す。郡に及到する比、先に守関に遇ふ。偏将 褚に立ちどころ斬らる。

許褚、マジで攻めこんでいる!

城中に直入し、令旨を口伝す。一人として敢へて鋒鋭に当たる無し。府堂に逕到し、只だ見る、曹植と丁儀・丁廙ら、尽く皆 酔倒するを。報する者 能く見る得はず。
褚 一例 之を縳り、車上に載す。将府の下に仍る。大小の属官 尽く解を行ひ〈解任して〉鄴郡に赴かしめ、曹丕に入見す。
丕 大怒して、即ち令旨を下し、丁儀・丁廙らを将て、尽く皆 之を誅す。
丁儀、字は正礼。丁廙、字は敬礼。沛郡の人、乃ち親なる弟兄なり。当時の文章の士なり。

却説 宣武皇后の卞氏 曹植を生擒するを聴得し、心は驚き肝は顫へ、挙止 失錯す。急ぎ救ふ。時に已に将に心腹の人をして、〈曹植を〉殺さしめんとす。曹丕 母の出殿て慌てるを見て、後宮に回〈かへ〉れと請ふ。卞氏 哭きて丕に謂ひて曰く、
「汝の弟 曹植、平生 酒を嗜み、酔ふる後、疎狂なり。盖し胸中の才に因り、故に放肆するなり。

母として、曹植をかばってるなあ!

同胞・共乳の情を念じ、此の一命を憐す可し。吾 九泉に至りても亦 瞑目するなり」
丕曰く、
「愚児、其〈曹植〉の才を深愛す。安にか造次して之を廃するを肯ずるや。惟だ、其の性を戒めんと欲するなり。母 親ら憂ふ勿れ」
卞氏 泣涙し、之に謝す。

丕 偏殿に出でて朝せず。 華歆 問ひて曰く、「適来、莫非太后勧王上勿廃子建乎 丕曰く、「然り」
歆曰く、「子建 才を懐き智を抱へ、池中の物に終ること非ざるなり。若し早く除かざれば、必ず後患と為る」
丕曰く、「已に母を許す」
歆曰く、「人 皆 言ふ、子建 『口を出れば章を成すと』。臣 未だ深く信ぜず。王上 召入れて才を以て之を試す可し。若し能はずんば、即ち之を殺せ。若し果して能うれば、則ち之を貶め、以て天下の文人の口を絶やせ」
丕 之に従ひ、遂に子建を召して入内せしむ。

子建 惶恐として拝伏し、罪を請ふ。
丕曰く、「汝 文才に𠋣仗し、安ぞ敢へて無礼なるや。家法を以てすれば則ち、兄弟なるとも、国法を以てすれば則ち君臣なり。昔 先君の在りし日、汝 常に文章に恃む。吾 深く疑ふ、汝 必ず他人を用て代筆せしむと。吾 今 汝をして七歩にて章を成さしむ。若し果たして能ふれば、則ち一死を免る。若し能はずんば、則ち二罪 俱に、罰は決し、軽恕せず」
子建曰く、「願はくは題目を乞ふ」
是の時、殿上に一水墨画を懸く。画 両隻を着け、牛 土墻の下に閗ひ、一半 井に墜して亡す。丕 指して言ひて曰く、
「此の画を以て題と為せ。詩中に、『着二牛閗墻下一牛墜井死』の字様を犯すことを許さず
植 行くこと七歩、其の詩 已に成る。詩に曰く、

うまくやれないのではぶく。「両肉斉道行頭上帯凹骨相遇由山下□起相搪突二敵不俱剛一肉𥃨士窟非是肉不如盛気不泄畢」

曹丕及び群臣 皆 驚く。
丕 又 曰く、「此れ七歩にて章を成すは遅し。汝 声に応へて詩一首を作る可きや、否や」
子建曰く、「題目を聞くことを願ふ」
丕曰く、「吾と汝 乃ち兄弟なり。此を以て題と為せ
子建 聴き畢はり、遂に小詩を占して曰く、
「煑豆燃豆箕豆在釜中泣本是同根生相煎何太急」
曹丕 之を聞き、澘然と涙下す。

横暴でムチャな権力者を、智恵や芸術センスによって、圧倒する。おもしろい話です。


其の母たる卞氏 殿後に於いて曰く、
「兄 何ぞ弟に逼ること甚しきや」
丕 慌忙と離座して、告げて曰く、
国法 廃す可からず。然らば則ち、孤 天下に容れざる所無し。何んや骨肉の親をや」

曹丕は、英雄の父、鬼才の弟、家族思いの母に挟まれて、君主のくせに、あわわ、あわわ、とする役目なのだ。

是に於て子建を貶めて安郷侯と為す。
子建 拝辞して上馬して去る。
後人 詩有りて曰く(はぶく)
又詩 子建の七歩の才 以て其の禍を免るを讃へて(はぶく)

劉備が、孟達・劉封の殺害を図る

曹丕 魏王の位に即きて自り、法令 一新し、漢帝を威逼すること、其の父よりも甚し。

曹操よりも曹丕のほうがひどい。この記述は、正史からは読み取れないこと。でも、ありそうな話です。権力が弱いからこそ、あえて権力的に振る舞うのだ。


却設 細作人 成都に入り、漢中王に報す。
王 大驚して即ち文武と商議して曰く、
「曹操 巳に死し、曹丕 王位を僣称し、漢帝に威逼すること、其の父よりも甚だし。東呉の孫権 拱手して、〈曹丕に〉臣を称す。

このあたり、正史も微妙だが、きっと孫権は、まだ曹魏に従っていない。まあ、口先では従っているだろうが、孫権がマジに曹丕に従属するのは、夷陵の戦いのとき。

孤 先に東呉を伐ち、以て孤弟の仇を雪がんと欲す。次に中原を討ち、以て群党の兇を除かん」
言 未だ必せざるに、廖化 班より出でて地に拝哭して曰く、
「昨日 関公父子の命を送る。実に劉封・孟逹の悞なり。乞ふ、此の二人の罪悪を討つこと、可なり」
玄徳曰く、「孤 幾ぞ忘るるや」

便ち人を差はし、孔明を召さしむ。
〈孔明〉諫めて曰く、「〈劉封・孟達を〉急ぎ召す可からず。宜しく緩やかに之を図れ。急がば則ち変を生ず。此の二人を陞らしめ、郡守と為す可し。然る後、之を擒へよ。此れ上策と為る」と。

わざわざ太守にしてから、捕らえると。回りくどくて、危険である。いつ、曹魏に寝返って、蜀漢のリアルな脅威になるか分からないのに。

玄徳 之に従ふ。遂に使を遣はし、劉封を陞して綿竹を守らしむ。

彭羕が孟達を救い、馬超を誘う

彭羕なるもの有り、孟逹と甚だ厚し。此の事を聴知し、急ぎ家に回りて、書を作り、心腹の人を遣はし、孟逹に報せんと欲す。

彭羕は、孔明の策略を見抜く人。孟達の味方。わりにおいしい位置のキャラです。曹操末期の、蜀漢の人士と、曹魏の人士のつながりについて、見ておかねば。孟達を中心に、まとめればよかろう。

其の人 方に南門外に出づるに、馬超 軍を巡視す。促来し、超に見ひひて、審さに此の事を出す。即ち本部の士卒に引き、彭羕に来見す。

巡察している馬超に会ったので、事実を話した。「彭羕は、諸葛亮が孟達を殺すつもりだと気づいた。私は孟達を助けるために、文書を運んでる。馬超さんも、作戦に関わりませんか」と。
馬超は、さっさと「怪しいやつめ」と捉えるのではなく、泳がせて、つぎに言葉で探りを入れる。武力の一辺倒ではなく、反逆者をあぶりだすという捜査をやる。馬超のくせに。


羕 接入し、酒を以て之〈馬超〉を待す。酒 数巡に至り、超 言を以て之〈彭羕〉に挑みて曰く、
「昔 見るに、漢中王 公を待すること甚だ厚し。今日、何ぞ薄きや」
羕 酒酔に乗じ、指して罵りて曰く、
「老革〈老いぼれ〉 慌悖たり。豈に道ふに足るや」
超 又 探りて曰く、
「某 怨心を懐くこと久し」
羕曰く、「公〈馬超〉 本部の軍を起し、孟逹と結連して外合と為れ。某 川兵〈四川の兵〉を領して内応を為す。天下 定むるに足ざるや」
超曰く、「先生の言 当に来日 再議しべし」
超 彭羕に辞して、即ち人書を将て漢中王に来見し、其の事を細言す。

馬超から劉備に、「彭羕・孟達が蜀漢にそむく計画を聴きました」と、チクった。馬超のくせに、腰が抜けた、中途半端な謀略戦である。

玄徳 大怒して、即ち彭羕を捉獲せしめ、入獄し其の情を拷問す。羕 獄中に在り、之〈謀反〉を悔ゆること無及なり。遂に書一封を作し、人をして孔明に送らしむ。
孔明 封を折り、之を視る。書に曰く、

「僕 昔 諸侯に事ふる有り。以為へらく、曹操は暴虐、孫権は無道にして、振威・闇弱たり。其れ惟だ主公〈劉備〉 王霸の器有り。与に興業・致治す可し。故に乃ち翻然と、軽挙の志有り。会 公〈孔明〉 西僕に来り、法孝直〈法正〉に因る。自ら衒鬻〈売り込み〉し、龐統 斟酌す。其の間、遂に公に、葭萌に詣るを得たり。指掌して治世の務を談論し、王霸の義を講ず。

彭羕が半生をふりかえっている。劉備とのご縁、蜀漢とのご縁について、あえて確かめている。

益州を取るの策建つ。公 亦 相ひ慮し、明らかに定む。即ち相然と賛す。遂に事を挙ぐ。
僕 故州に於いて凡庸を免れず、罪に罔きを憂ふ。遵風を得て、激天の会と云ふ。君を求むれば君を得り。志は行はれ名は顕はる。布衣の中従り擢され国士と為り、茂才・分子の厚を盗𥨸す。誰ぞ復た此に過ぐるや。

蜀漢で抜擢してもらい、過大評価をしてもらって、ほんとに嬉しいんですよ。こんな嬉しい蜀漢なのに、じつに仕方がない事情によって、裏切らざるを得ないのです。この胸中、察してくれますよね、という話がつづく。

羕 一朝にして狂悖し、自ら𦵔𫒹を求め、不忠・不義の鬼と為るや。先民に言有り、左手 天下の国に拠り、右手 咽㗋を刎ること、愚夫 為さざるなりと。况んや僕……。

むずかしくなってきたので、はぶく。これは、『三国志』巻40 彭羕伝から、ずるずると引用しているだけ。孔明に助けてもらいたいのか、話を聞いてもらいたいのか、何だか要領を得ない手紙である。
毛本は、すべて彭羕の手紙をはぶく。正史と同じなのだから、李卓吾本『演義』に独特のアレンジを見出すことはできない。


彭羕が獄死し、孟達があせる

孔明 看畢はり、掌を撫して大笑し、即ち殿前に入り、奏を啓く。漢中王の玄徳 問ひて曰く、
「此の人〈彭羕〉、いかん」
孔明曰く、「狂士なり。久しからしめば必ず禍を生す」
玄徳 即ち獄内に彭羕を将ゐしめ、之を誅す。羕 死して後、人の孟逹に報す有り。逹 大驚し、挙止 失錯たり。
忽ち命を至らしめ、劉封を調して、回りて綿竹を守らしむ。去き訖はり、孟逹 慌てて上庸都尉の申耽・申儀なる弟兄二人に請ひ、商議す。
耽曰く、「某 一計有り。漢中王をして公に害を加ふること能はざらしむ」と。
逹 大喜す。未だ此の計を知らず。如何且聴下回分解。141012

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第79回下_漢中王 怒りて劉封を殺す

孟達が曹丕に降る

却説 孟逹 申耽に問ひて曰く、
「将軍 当に何なる策を用ゐ、以て其の禍を避くべきや」
耽曰く、「吾が弟兄 亦 魏に投ぜんと欲し、心に立つること久し。公〈孟達〉 一表を作る可し。漢中王を辞して魏王の曹丕に投ぜよ。丕 必ず〈孟達を〉重用せん。後に続き、吾ら二人 亦 去きて降る」
逹 猛然と省悟し、即ち表一通を写き、付与し来使す。当晩、五十余騎を引き、魏に投ず。

劉封 聴知し、急追するも止めず。自ら回り上庸を守る。命じて表を持せしめ、成都に回り、漢中王に奏す。呈上する表章、孟逹の魏に投ずるの事を細言す。

劉封が劉備に言い訳する

玄徳 大怒して、其の〈孟達による〉表を覧じて曰く、
「臣逹 伏して惟るに、殿下 将に伊・呂の業を建て、桓文の功を追ひ、大事 草創せんとす。勢を呉・楚に假り、是を以て有為の士 深く帰趣を覩る。臣 委質して以来、愆戻 山積す。臣 猶ほ知ること在り。况んや君をや。

私が劉備に仕えてから、失点がいくらでもあった。私が失点を自覚しているのだから、主君の劉備サマから見たら、もっと失点を数えているでしょう。おお、私には、劉備サマにお仕えする権利は、もはやありませんw

今、王朝 以て英俊を鱗集す。臣 内に輔佐の器無く、外に将領の才無し。功臣を列次するに、誠に自ら愧ずるなり。
臣聞く、范蠡 誠に微にして、五湖に浮き、咎犯・謝罪し、河上に逡巡す。夫れ際会の間、命を請ひ身を乞ふ。何となれば則ち、去就の分を潔くせんと欲すればなり。况んや臣、卑鄙にして、元功無し。臣の勲 自ら時に繋ぐのみ。𥩈かに、前賢を慕ふ。早く思ひ遠く恥づ。

私は劉備サマのために、功績がない。私がいないほうが、劉備サマはすっきりするでしょう。私は、引き際が分かっていたのですよ。と。
つぎは、裏切りを正当化しはじめるw

昔 申生 至孝たるとも、親に疑はる。子胥 至忠たるとも、君に誅せらる。蒙括 境を拓くとも、大刑を被る。楽毅 斉を破るとも、𦆵佞に遭ふ。

功績を立てて尽くしても、報われない事例は、いくらでもある。功績にたいして、処罰で報いられるくらいなら、逃げたほうがマシやと。

臣 毎に其の書を読む。未だ嘗て感慨・流涕せずんばあらず。而して親ら其の事に当て、益々已に傷絶す。

私も、劉備サマによって、理不尽な仕打ちを受けるかも知れない。他人事じゃないなあ!と思って、子胥や楽毅の話を読んでましたと。劉備を怒らせる系の言い訳であるw

何者〈いか〉にして荊州 覆敗す。大臣 節を失ひ、百するとも一還する無し。

関羽を批判しちまった!

惟だ臣 事を尋ぬるに、自ら房陵・上庸に致り、復た身を乞ひ、自ら外に放つ。

関羽に越度があるのに、劉備に殺されたら、釣り合いがとれない。だから、曹魏に逃げたんだよと。けっきょく、自己正当化である。まあ、逃げ終わったあとの文章だから。

伏して殿下の聖恩を想ふに、憨臣の心・悼臣の挙を感悟す。臣 誠に小人なり。始終 〈関羽の危機を〉知りて之を〈関羽の救出を〉為す能はず。敢へて謂ふ、罪に非ざると。臣 毎に聞く、交絶は、悪声無くして去ると。臣 恕辞無し。臣の過 君子に奉教す。願はくは君王 之に勉めよ。臣 勝げて惶恐せざるの至なり。

『三国志』巻四十 劉封伝 注引『魏略』に、「魏略載達辭先主表曰……」とあり、これである。
『演義』の蜀漢びいきとは、蜀漢をもちあげる記事をたくさん載せることではなく、蜀漢に関する(どうでもいい)正史の記事を、たくさん載せること。孟達の離縁状なんて、マジでどうでもいい。むしろ、劉備を貶めるんじゃないか。


孔明が、劉封と孟達をぶつける

玄徳 看畢はり、大怒して曰く、
「匹夫 吾に叛して、安にか敢へて文辞を以て相ひ戯るるや。孔明に送りて曰く、
「汝即 起兵し、此の国賊を擒へよ」
孔明曰く、
「不可なり。但だ就ち劉封を遣はして兵を進め、二虎 相ひ併せしめよ。若し劉封 或るいは功有り、或いは敗績すれば〈勝っても負けても〉、必ず成都に帰る。就ち之〈劉封〉を除け。両害を絶つ可し」

このあたり、諸葛亮は嫌らしいなあ!

玄徳 之に従ふ。
遂に使を遣はし、綿竹に到り、劉封に入見せしむ。封 命を受け、奮然と兵を率ゐて孟逹を擒へんとす。不説、孟逹 鄴に入り、魏に降る。

孟達が曹丕に降る

却説 曹丕 文武を聚めて議事す。忽ち近臣 奏して曰く、
「蜀の孟逹 来降す」と。
丕 召入れて問ひて曰く、
「汝 此に来るは、詐降に非ざること莫きや
逹曰く、「臣 関公の危を救はざる為に、漢中王 臣を殺さんと欲す。此に因り、帰降す。別に他意無し」

漢中王は、わりに短慮である。というか、関羽と義兄弟というのが、『演義』劉備のキャラだから、この一貫性をヨシとすべきか。蜀漢の内部で、新旧の臣下による抗争は、みんなの興味のマトとなるほどです。

曹丕 尚ほ未だ准信せず。
忽ち報ず、劉封 五万の兵を引き、襄陽を取り、孟逹を単搦し、厮殺せんとするを。
丕曰く、「汝 既に心を真にす。便ち襄陽に去きて劉封の首級を取る可し。前来、孤 方に准信す」
逹曰く、「臣 利害を以て之を説けば、〈劉封は魏についたほうが利益があるので〉必ず兵を動かさず。劉封をして、亦 来降せしめん」

正史では、孟達の才能を、バカみたいに愛する曹丕ですが。『演義』では、劉封が攻めてきたので、孟達を信じた。曹操のもとから関羽が帰ってきたときの張飛と同じである。

丕 大喜して、遂に孟逹に加へて、散騎常侍・建武将軍・平陽亭侯と為し、新城太守を領して、去きて襄陽・樊城を守らしむ。

孟達の時系列は、文帝紀だけを読むと、よく分からないので、ちょっと正史を読んでくるw
ぼくは思う。関羽が重要視される理由は多いが、『三国演義』という文学だけで見れば、曹操と劉備のどちらにも仕えたから。善玉と悪玉の双方と、濃厚な交渉を持てば、必然的に重要なキャラになる。諸葛亮のキャラを立てたい現代の創作家たちは、諸葛亮と曹操(魏)との接点を、ムリに「発掘」してしまうほどだ。
諸葛亮が、曹操の徐州「虐殺」を見ていたというのは、よく語られるモチーフ。『蒼天航路』では、諸葛亮が、曹操にラブコールを送り続けた。
ところで、魏と蜀と濃厚な交渉を持ち、勝敗のカギとなるという点で、関羽以上に『演義』の文学性において重要なのは、孟達。李卓吾本では、孟達から劉備への言い訳めいた離縁状、孟達が劉封を説得する手紙など、不親切な正史の原文を、長々と引用する。毛宗崗本も前者は踏襲する。諸葛亮の北伐にも効いてくる。
@yunishio さんはいう。もしかしたら順番が逆で、曹操とのエピソードがあるからこそ物語のなかでの地位が上がった…のでは!?
ぼくはいう。フィードバックが相互になされ、循環的に影響しあうものだと思いますが、どちらが(理論上)先(としたほうが魅力的な議論になる)か考えてみるのは、面白そうです。
@baisetusai さんはいう。黄権は演義ではさほど重視されてませんね。
ぼくはいう。ほんとですね、黄権は、あまり活躍しない印象です。これから黄権のところを読み進む予定なので、注意してみます。


孟達が劉封を説得する

原来、夏侯尚・徐晃 先を預かりて此に在り。一同 上庸の諸郡を収取す。
孟逹 襄陽に到り、二将に礼し畢はり、劉封を探得す。城を離るること五十里、寨を下る。逹 即ち書一封を修め、舌辨の士を遣はして、蜀寨に賫赴せしむ。劉封に入見す。封 書を折開し、之を視る。書に曰く、

『演義』は、孟達や劉封の書状を、だらだらと見せるのが好きだ。とくに李卓吾本は。毛本だと、さっきの孟達から劉備への離縁状は引用していたが、彭羕から孔明への申し開きとか、いまの孟達から劉封へのラブレターは、引用しない。
物語を進める上で、孟達は、なにげに魏・蜀をまたがるから、キーマンである。魏・蜀をまたがるという意味では、関羽に通じる。


「逹 書を副将軍の麾下に致す。伏して聞くに、古の人 言有り。『疎は親を間〈さ〉かず。新は旧を加へず』と。此れ謂ふは、上は明にして、下は直なれば、讒慝 行はざると。若し乃ち権君・譎主、賢父・慈親、猶ほ忠臣の蹈功する有るも罹禍を以てし、孝子の抱仁するも陥難を以てするなり」

これは、『三国志』巻四十 劉封伝の本文。劉備は、劉禅を太子にしてしまったのだから、劉封は曹丕に降れと。劉封伝をやるので、そのときに読みます。はぶく。
ぼくは思う。陳寿は立伝してないが、「孟達伝」を、魏志と蜀志のあいだに置くようなイメージで、編集してみる必要があると思う。孟達を主語にして、通して読んだら、どんな印象になるかという。『三国志』に登場回数は多いから、明帝紀にも字数が割かれるし、下手な蜀志の列伝よりも、充実した内容になる。

劉封 看畢はり、大怒して曰く、
「此賊 吾が叔姪の義を悞らしめんとす。 又 吾が父子の親を間〈さ〉かんとす。吾をして不忠・不孝の人と為らしむ。

李卓吾はいう。劉封は、孝子・忠臣である。
ぼくは思う。劉封が清潔な人間に描かれるほど(というか、正史でその通りなんだけど)、劉備の偏私がきわだつ。劉備は、劉封から継承権を奪って劉禅に付け替えておきながら、諸葛亮に「お前が取れ」とかいう。きっと、深く考えてない人だったんだ、ほんとに。

遂に書を扯〈さ〉き、其の使を斬る。

劉封が魏軍に敗れる

次の日、軍を引き、前来し搦戦す。
孟逹 〈劉封が〉書を扯き使を斬るを知得し、勃然と大怒し、亦 領兵して出迎す。両陣 対圓す。封 門旗下に立馬し、刀を以て指して〈孟達を〉罵りて曰く、
「背国の反賊。安にか敢へて陣前に〈戦闘を開始する前に〉、間諜の計を使ふや」
孟逹 亦 罵りて曰く、
汝の死 已に頭上に臨む。還りて自ら迷ひを執りて省みざるは、禽獣と何ぞ異ならんや」

孟達の優しさ・正しさが溢れるシーンです。


封 大怒して、馬を拍ち刀を輪し、孟逹に直奔す。戦ふこと三合もせず、逹 大敗して走ぐ。
封 虚に乗じて追殺すること二十余里。一声 喊する処、伏兵 尽く起つ。左邉の一軍 衝出し、首を為す大将は、乃ち夏侯尚なり。右邉の一軍 衝出し、首を為す大将は、乃ち徐晃なり。
三軍 夾攻す。封 大敗して走げ、連夜 奔り、上庸に回る。
背後の魏兵 星夜を分かたず赶来して劉封に及至す。城下に到り、叫ぶや、門城上より乱箭 射下す。
申耽 敵 楼上に在れば、〈敵に向けて〉叫びて曰く、
吾 已に魏に降る。封 大怒して、城の背後を要攻せんと欲す。夏侯尚・孟逹の両軍 殺来す。封 立脚して住まらず、只だ房陵に奔るを得たり」と。
而来、城上を見るに、尽く魏旗を挿す。

申儀 敵 楼上に在り、将旗一 颭たり。
城後、一彪軍 旗を出し、「右将軍 徐晃」と上書す。封 敵に抵るも、住まらず、西川を忙望して走ぐ。
晃 勢に乗じて劉封の部下を追殺す。

劉備が劉封を殺して惜しむ

只だ〈劉封は〉百余騎に落ち、成都に到り、漢中王に入見す。地に哭拝し、其の事を細奏す。
玄徳 怒りて曰く、
「辱子 何の面目有りて、敢へて吾に見ふや」
封 対へて曰く、「叔父〈関羽〉の難、非逆児 救はざるに非ず。乃ち孟逹の阻むなり」
玄徳 怒を転じて曰く、
「汝 須らく人の食を食ひ、人の衣を穿くべし。土木の人に非ざれば、安ぞ讒賊の阻む所を聴す可きや」

すげえ、やつあたりw

封 泣きて告げて曰く、
「一時 伊を被り、利害を以て之を説き、大罪を獲るに致る」

「伊を被り」って、よくわかりません。

玄徳 猶ほ豫め未だ决せず。

忽ち孔明 入る。玄徳 問ひて曰く、
「辱子 此の如し。何の法もて之を治めんや」
孔明 耳に附して低言して曰く、
「此の子 極めて其れ剛強なり。今 之を除かざれば、後に必ず禍を子孫に生ず」と。

「法」が、まったく関係ないじゃん。法家のはずの諸葛亮さん、これは、どういうことでしょうか。

玄徳 遂に左右をして推出せしめ、之を斬る。

又 封に随ふ将士に問ふ。衆 皆の将 孟逹 封を説くの事〈孟達が魏に降れと劉封を説得したこと〉、及び劉封 書を扯き使を斬るの事、一一奏称す。又 将 扯毀するの〈孟達が書いたが劉封が裂いた〉書信 玄徳に呈す。
玄徳 看畢はり、急に回心して曰く、
「吾が児、然りて剛強なると雖も、此の忠義の心有り。凛然と愛す可し」と。
便ち人を留めしむるの時、却りて早く斬り、已に首級を階下に献ず。玄徳 慟哭して曰く、

許そうと思ったが、間に合わなかった、というのは、君主の徳を示す定型文である。孔明が「殺せ」と言っているのだから、劉備は劉封を許せないよ。

「孤 一時 造次し、股肱を廃す」
孔明曰く、「嗣主 久遠ならしめんと欲するの計ありて、之を殺す。何ぞ惜しむに足る。事業を作す者 豈に児女の情を生ず可きや」と。
玄徳曰く、「縦ひ他日 孤の子〈劉禅〉を殺さしむとも、孤 〈劉封を殺すことが〉忍びず。今日 忠義の人を廃す」と。

このへんが、『演義』劉備のキャラの真骨頂である。正史と比較せねば。いま劉封伝を見たが、こんな話はなかった。

文武 之を聞き、下涙せざる無し。
武士 奏して曰く、「劉封 刑に臨みて但だ云ふ、孟子度の言を聴かざるを悔ゆ。果して此の危有り」と。

こっちは劉封伝にある。劉封伝のこの記述に落ち着ける前に、『演義』がちょっと遊びを入れたのだろう。「ああ、劉封を殺すんじゃなかった」と、架空のことを言わせた。

玄徳 泣きて曰く、
「孤児 九泉の下に至り、必ず孤を痛恨す」

偽善者というか、ただの好かれたがりやないか。

漢中王 関公を思想し、更めて劉封を惜む。染に致り病を成し、興る能はず。兵 報仇・雪恨せんとす。時に建安二十五年なり。改めて延康元年とす。夏六月なり。

曹丕が南征し、禅代衆事へ

却説 魏王の曹丕、王位に即きて自り、文武・官僚を将ゐ、尽く皆な陞賞す。遂に甲兵三十万を統べ、南して沛国の譙県を巡る。先塋〈祖先の墓〉を大饗す。郷中の父老、塵を揚げ道を遮り、觴〈さかづき〉を奉り酒を進む。漢高祖 沛に還るの意に効ふ。
是の歳の七月、大将軍の夏侯惇 病ひ危ふきを内聞す。丕 即ち鄴郡に還る。時に惇 已に卒す。丕 孝を掛け、東門の外に殯〈かりもがり〉を送り、以て礼を厚くして之を葬る。

八月、間〈この〉ごろ報称すらく、
「石邑県に鳳凰 来儀し、臨菑城に麒麟 出現し、黄龍 鄴郡に現はる」と。

李卓吾はいう。此の鳳、此の麟、此の龍、胡〈なん〉ぞ来たるや。

丕の手下・百官 商議して曰く、
「今 上天 象を垂るは、乃ち魏 当に漢に代はるべきなればなり。受禅の礼を安排〈手配〉すべし。漢帝をして将に天下を魏王に譲らんとせしめよ」と。

時に有り、侍中の劉廙、字は恭嗣、乃ち南陽の安衆の人なり。侍中の辛毗、字は佐治、乃ち頴州の陽翟の人なり。侍中の劉曄、字は子陽、乃ち淮南の城徳の人なり。尚書令の桓階、字は伯緒、乃ち長沙の臨湘の人なり。尚書令の陳矯、字は季弼、乃ち広陵の東陽の人なり。尚書令の陳羣、字は長文、乃ち頴州の許昌の人なり。
這の一班の文武・官僚 四十余人、皆な来たりて、太尉の賈詡、相国の華歆、御史大夫の王朗に見え、共に此の事を言ふ。
賈詡 笑ひて曰く、
「公等の見る所、正しく吾が機と合ふ」と。 当日、華歆 賈詡・王朗、中郎将の李伏、太史丞の許芝と同〈とも〉に、文武・多官を引き、内殿に直入し、漢献帝に魏王の曹丕に禅位せんことを来奏す。
未だ如何なるやを知らず。且聴下回分解。141013

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