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三国志研究会(全国版)

三国志研究会(全国版)で、発表準備しながら考えたことと、当日にお話したことの一部と、あとから考えたことなどを、メモしていきます。
http://3594rm.hatenablog.jp/
この研究会は、竹内真彦龍谷大学教授が主催するもので、アカデミズムの枠に縛られず「三国志について知りたい」「三国志について語りたい」方であれば、どなたでも自由にご参加できます(参加費無料)。……だそうです。
教団さんが作ってくださった、非公式公認サイトより。

私は、"『三国志集解』のつかいかた" と題して、魯粛伝を題材として、過去に3回、お話をさせていただきました(2017年4月時点)。
『三国志』魯粛伝・『三国志集解』魯粛伝がおもしろいのは、分かっているので(もちろん反論は大いに歓迎ですけれど)、そのおもしろさに便乗して、『三国志集解』という本が、いかに三国志の勉強に有益か、お伝えしたいという態度です。魯粛そのものを掘り下げるというより(結果的に、掘り下げるんですけど)、魯粛を題材として、『三国志集解』のおもしろさをご紹介するというのが目的です。
なぜ、こんな屈折した態度を取るかというと、話を聴いて下さった皆さまが、自発的に、いろいろな調べ物をする、キッカケになればと思うんです。私の話の内容(例えるなら、私が釣った魚)を、「あーおもしろかった」と、持って帰って終わりではなく、探求の方法(私も使っている、釣り竿)を共有したい、というわけです。しかし、釣った魚が不味ければ、釣り竿を持つ気にもならない、というのも真理ですから、せっかくなら、中身もおもしろくあれ!と願い、準備および本番をやっています。
おもしろくするのは、かんたんです。なぜなら、『三国志集解』がおもしろいからです。私が不当にジャマをしなければ、ふつうに読むだけで、充分に刺激的な内容となる。ここに、私の手柄は、ほぼ介在しないんですけど、それがいいと思っています。

研究会そのものが、「アカデミズムの枠に縛られず」ですので、私のような、大学で三国志をやったわけでもない、在野?横好き?の人間が、お話をさせて頂いています。そして、想定している(=実際にいらっしゃっている)聞き手は、やはり、アカデミズムの外部。大学で三国志をやっていない方々です。
三国志のおおよそのストーリーは分かっている(もしくは、知識に自信がある)、もっと三国志について読みたい、しかし、あまり読む物が残っていない(興味を持てそうな、日本語のものは、読み尽くしてしまった)という層が、ターゲットだと思って、お話をしています。

5年以上前に、漢文勉強会として、こういう会を開いてました。そのときは、現在のように、私ひとりが前に立って一方的にしゃべるのではなく、参加者みんなで原文を読んでいこうという方式にしていました。しかし、恐らく、万人がそういう参加型を歓迎するわけじゃないと思うんですよね(反省)。参加型になると、学校の古典や漢文の授業がフラッシュバックするのかも。
そういうわけで、研究会では、基本的には、すべて資料を訓読したものを、お配りしています。そして、私が読んでいます。そのため、私のアラが出まくるわけですが。
漢字の読みが我流になっていて、ちょっとした読み間違いに、教養のなさが露見するという。これは、書き物を経由して、三国志について論じていれば、晒されることのない部分でした。恐ろしい反面、がんばらねばなーと。

自ら設定したゴールが、話を聴いた人に、『三国志集解』を独自に読み進めていただくことなのに、訓読を配っていれば、「けっきょく、自分じゃ読めないままでは?」というジレンマに至ることは、認識しております。しかし、食らいついてでも読んでみたら、おもしろいようだぞ、という感触は、モチベーションになると思うんです。くり返しになりますが、最初は、調理ずみの魚を振る舞ってもらわないと、自分で釣ろうという気にもならないと思います。
清岡さんの指摘で、『三国志集解』の原文もあわせて配布しないと、ステップアップに繋がらない、と言われました。そのとおり。ですので、2回目のとき、配りました。3回目のとき、サボりました。ごめんなさい。

毎度のことですが、準備した分量を、ちっとも消化できません。極論、それでもいいと思ってるんですよね。
『三国志集解』をめぐる、史料と史料の関係、テキストのあいだを縦横無尽に飛びまくる注釈のスタイル、派生する問題群、意外なマメ知識、、などの「温度感」や「空気感」を、ライブで再現する?ことが目標ですから、史料を読み進められなくても、ちっとも気にしていません。決められた時期までに、決められた分量をこなす、受験勉強ではないので。
竹内先生には、「こういうのは、進まないのがイイところ」と言って頂いたので、開き直って寄り道をするつもりです。むしろ、先を急ぐあまり、紆余曲折を省略してしまったら、『三国志集解』を読む必要がないと思うんです。立ち止まって、あーでもない、こーでもない、というのが、『三国志集解』に垣間見える、学問の楽しさだと思います。ぼくに学問を語る資格はないですが、だいじょうぶです。『三国志集解』をなぞるだけ。性能の悪さが気になるものの、レコードプレーヤーみたいなものです。だれも、レコードプレーヤーに、音楽の才能を求めたりしません。

大人になって思うんですけど、まず、人前で、漢字を書くことがない。そのため、書けない字は、絶対に書けない。
前回は、「習鑿歯」が書けなかった。「習_之」と書いて、バカを暴露しました。また、「漢」という字を、サンズイに又と書くようになって、15年とかが経過しており、ツクリを正しく書けない。草かんむり?廿みたいなやつ?とか。書いたこともない、正字が、ごっちゃになっている。仕事で、手書きでメモを取ることがあっても、あとでパソコンで打ってから提出するか、自分が見て分かればよい、という環境なので、人前で書ける、日本の常用漢字が書けなくなっている。
しゃべりながら行う板書は、私の漢字テストになっております。

以上、ご紹介でした。研究会では、今後の予定は分かりませんけど、隔月ぐらいのペースで、お話のチャンスを頂いております。上記のサイトに、順次、更新されていくようです。つぎは、17年6月くらいでしょうか。170420

引用されているテキストのこと

『三国志集解』って、どれぐらい「だいじょうぶ」なんですか?と、質問をいただきました。こういう、編纂物に対する、基本的なスタンスについてです。

原理・原則を述べるなら、こういう引用先から、孫引きするのは、辞めておきたいです。『三国志集解』を、関連書籍・先行研究のダイジェスト版、発見のための目録・ガイドだと思ってください。なぜなら、全文が引用されていないからです。
物理的な制約がありますし(『三国志集解』が、長くなり過ぎる)、要約するとき、編者なりの価値判断が挟まります。
学校教育では教わりませんけど(テストが成立しなくなるから)ある文章のなかで、なにが重要かは、自明的に1つに決まりません。読者(この場合は、『三国志集解』編者である盧弼)の関心の所在によって決まります。編者が重要と認めなかったところは、省略されているでしょう。また、編者が、誤読をしているかも。単純な教養不足ではなく、見解の相違による誤読・曲解は、いくらでも起きることです。筆写のとき、ミスったかも知れない。だれにも悪気がなくても、文脈が削ぎ落とされ、見かけの意味が変わっているかも知れない。
というのが、
原理・原則ですけど、
大学に所属していないと、引用元の原典に、いつだってアクセスできるとは限らないです。「100点の読み方ができないから、読むことを諦める」よりは、「60点の読み方でもいいから、読んでみよう」というほうが、現実的には有効な態度だと思います。ですから、『三国志集解』のなかで、読めばいいんじゃないでしょうか。
前後で矛盾したことを言いましたけど、『三国志集解』に引かれた説のみに立脚して、もしくは、その説への批判を主な目的にして、なにか論文でも書くのでもない限り、「『三国志集解』に引く誰々の説によれば、、」という言い方をすれば、孫引きでも、いちおうはOKだと思います。

竹内先生から、『三国志集解』に引かれている本は、書名が特定できるのか?と、ご質問を頂きました。
『三国志集解』は、著者の名前しか書かなかったり(書名がない)、オリジナル・ルールで、著者と書名をドッキングさせます。陳寿『三国志』は、「陳志」です。『国志』とあるのは、『三国志』ではなく、『続漢書』郡国志だったり。かと思ったら、『続漢書』郡国志が、『続志』と書かれていたり。すぐそばなのに、表記がちがう。前後の傾向から判断するしかないですし、前後の傾向から判断できないこともあります。なぜなら、『三国志集解』編者である盧弼が、なにかから記述を引用すれば、引用元の省略ルールのままになっていることがあるからです。

また、ひとりの著者が、複数の『三国志』に関する著作があるとき、『三国志集解』にどちらが引かれているのか、ちょっと特定に苦労することがあります。趙一清という学者がいるんですけど、『水経注』という地理書に関する研究と、『三国志注補』という三国志に関する研究があります。『三国志集解』文帝紀では、「趙一清曰く」として、複数の著作をまぜて繋いで、引用(というかアレンジ)していることがありました。
内容に問題がない(引用によって、意味が変わっていない)としても、こういうことをされると、原典に当たることの大切さを、痛感したりします。

『三国志集解』は、20世紀の本なので、あまり起こらないことかも知れませんが、「引用された形によってのみ、現存するテキスト」というのもあります。代表例が、『三国志』裴松之注です。裴松之注のなかでしか見ることができないテキストがあり(原典は失われ)、それを集め直したもの(「輯本」といいます)が作られています。
引用元を見ておこう!と意気込んで、その引用先に基づいて作られた輯本を見ていたのでは、あまり実りがない。
とか、テキストの引用に関しては、おおくの問題があるんですけど、そういう問題があるんだなー、と踏まえるのが、『三国志集解』に目を通すねらいです。唯一絶対の燦然と輝くテキストがあるわけじゃないのです。170420

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魯粛が、劉備に荊州を貸すこと

順番は、めちゃめちゃ(ここにメモをしようと思った順)ですけど、先週日曜は、魯粛が劉備に、荊州を貸すところを読みました。
その準備をしながら、思ったこと。ツイートから加筆。

レジュメを作りながら

三国志研究会のレジュメ作ってます。テーマは、魯粛と関羽の単刀会。ですが、単刀会そのものに、それほど意義はないと思います。さまざまな戦略の結末、落としどころが単刀会。そこに至るまで、もしくはそれ以後が大切ですという話になりそう。
諸葛亮・魯粛は、世に出た時点で、「曹操が最強」は所与の条件。
すぐに曹操に勝てないから、①主に天下を取らせる、②曹操に対抗するために同盟勢力を作る、を並行せざるを得ない。しかし、②を推し進め過ぎると、①に支障が出るから、サジ加減が必要。サジ加減でモメたのが、荊州の支配権の問題。

「②は①の手段」とはいえ、①と②は、矛盾して見える。論理的・時間的な順序のなかで「いまどこ」なのか、位置づけるのは難しい。自国内・同盟者の動向も変数となる。②同盟者の育成をやり過ぎると、他勢力を利する裏切り者だし、①を求めて同盟者の力を削ぐと、曹氏に臣従せざるを得ず、本末転倒。
魯粛が劉備に領地を貸し、後年、諸葛亮が孫権の皇帝即位を承認した。最強の曹氏を与件とすると、①天下統一と②同盟者との協調は、矛盾する。しかし、②から①に移る、論理的・時間的な境界線がない。諸葛亮は①、魯粛は②が強調されがちだが、矛盾しがちな戦略の遂行者を、矛盾なく評するのは無理っ。

『三国志集解』魯粛伝に引く袁枚の説から考えると、夷陵の戦いのとき、もしも曹丕も孫権を攻めていれば、孫権は、魯粛という見識者の意見に叛き、関羽を殺して、曹氏への唯一の対抗手段である劉備との同盟を壊し、魏に臣従して呉の君臣を侮辱に晒し、魏蜀に袋だたきされて滅亡したバカ、となります。
夷陵の戦いの頃、曹丕の発揮した孫権に対するナゾの寛大さのおかげで、孫権は生き存えたし、魯粛の戦略の正しさが見えにくくなった。歴史の結果が、「魯粛の意見にそむいて、劉備と敵対しても、わりと孫権は平気じゃん。国が存続するじゃん」となったので、魯粛の正しさがかすんだ。

魯粛と孫権、関連年表

魯粛および孫権が、どういう戦いを戦ったのか。それを見た渡すためには、まずは年表をつくって見よう。というわけで、孫権と劉備の関係、孫権と曹氏の関係に着目して、孫権の態度の変わりぶりを整理してみました。

建安十三年:荊州牧の劉表が卒し、魯粛が弔問に訪れる。劉備と同盟を結び、曹操を赤壁で破る。劉備が、南部四郡(武陵・長沙・零陵・桂陽)を平定。周瑜が、曹仁と江陵を争う。
建安十四年:曹仁が江陵から撤退し、周瑜が南郡太守として屯す。孫権が劉備を公安に屯せしむ。
建安十五年:劉備が京を訪れ、孫権に領土を交渉。周瑜が卒し、魯粛が兵を継ぎ、程普が南郡太守に。
建安十六年:法正・張松に誘われ、劉備が益州に入り、張魯を防ぐ。
建安十八年:曹操が濡須で孫権を攻める。劉備は孫権からの救援要請を受け、劉璋に増兵を要求。
建安十九年:劉備が雒城を陥落させ、諸葛亮・張飛・趙雲を荊州から召し、成都を得る。
建安二十年:益州を得た劉備に、孫権が荊州を要求するが決裂。呂蒙が、長沙・零陵・桂陽を攻略。関羽と魯粛が単刀会。曹操の漢中進攻により、湘水にて領土を区切ることで妥結。
建安二十二年 孫権が都尉の徐詳を派遣し、曹操に降る。魯粛が卒して、呂蒙が漢昌太守となる。
建安二十四年 関羽が江陵から樊城に北伐すると、呂蒙が江陵を奪い、朱然が関羽を捕らえる。孫権が曹操に皇帝即位を勧進、驃騎将軍・仮節・領荊州牧、南昌侯となる。
黄初元年:正月、曹操が薨じ、曹丕が魏王を嗣ぐ。七月、孫権が曹丕に奉貢。十月、漢魏革命。
黄初二年:七月、劉備が荊州を攻撃。八月、孫権が魏に称臣し、呉王に封建される。
黄初三年:陸遜が劉備を破ると、孫権は魏に叛逆。劉備が崩ずると、呉と蜀が使者を往来させる。

『三国志集解』に引く袁枚の説

袁枚は、②天下を取るためには、①第三勢力を同盟者として設けることが重要である、という論を展開しております。

(以下、作成中)

袁枚曰く、「孫権 荊州を以て劉備を資(たす)くるは、粛 実に之を勧むればなり。荊州 還らず、権 深く粛の為に病む。或(あるひと)曰く、「粛の心 漢を忘れず、故に蛟龍を資くるに風雲を以てす」と。或曰く、「是れ粛の失計にして、公瑾在らば必ず此を為さざり」と。

袁枚は、2つの意見を並べる。袁枚の身近な誰かが言ったのかも知れない。もしくは、自説を展開するにあたり、とりあえず、否定する「ために」書いただけのこと、もしくは、コレジャナイと否定することを通じて、自説の妥当性を浮き上がらせる「ために」書いただけのことかも知れない。
いちおう突っこむと、孫権が劉備に荊州を貸したのは、たしかに魯粛が勧めたことだが、当時、周瑜は存命でした。周瑜がいれば、こんなことしなかったのに!という説は、すでに現実に背いている。でも、いいんです。すぐに否定するんで。
『三国志集解』編者の盧弼は、自分の本音を、「或(あるひと)」の意見として載せることがある。しかし袁枚の場合、この「或」の意見は、彼自身のものではない。

是の二説は、皆 天下の明計を明らかにせず、而れども夫の当日の形勢に熟籌する者なり。粛 果たして漢に忠たれば、則ち孫を去り劉に帰すれば可(よ)し。何ぞ必ずしも二心を懐きて以て君に事(つか)へんや。

魯粛が漢に忠だから、孫権の「獅子身中の虫」にワザとなって、劉備に利益があるように欺いたのではないか。こういう想定が出てくる時点で、かなり『演義』脳に冒されております。竹内先生曰く、清代は『三国演義』を通じて三国志を知り、それを正史で検証する、、という、今日のわれわれに近い?三国志の読み方がされていたかも、とのことでした。そもそも、漢に忠ならば、劉備でなく、献帝のところに行けよ、と思うわけです。これは、歴史の分析でもなんでもない。

若し以て計を失ふと為さば、則ち当日の呉の為に深くして計を得る者は、粛に如(し)くは莫く、呉の為に浅くして計を失ふ者は、呂蒙・陸遜に如くは莫し。孫権 智は短く量は小さく、用ふ能はざるを惜しむ。

三国の時、最も強き者は操のみ、赤壁の戦に、権 能く独力にて以て曹を破るや、抑(そもそも)劉と合力して共に曹を破るや。荊州 得て、権 蜀を兼取して以て独立する能ふや、抑(そもそも)終(つひ)に草に依り木に附きて以て自立するを免ぜざるや。孔明の蜀に謀るや、先に孫権と結び、而る後に魏を攻む。魯粛の呉に謀るや、先に劉備と結び、而る後に魏を攻む。魏 滅す可く、操 誅す可きか、天下の事 未だ量る可からず。魏 未だ滅す可からず、操 未だ誅す可からざれば、唇歯 已に固なれば、外難 侵さず。大丈夫 将に三分して鼎足し、南面して称帝せんとするのみ。安んぞ人の封拝を受け、節を一朝に屈し、局促に轅(ながえ)に如(ゆ)き駒を下るを肯んぜんや。 英雄の見る所、大抵 同じなり。惟(ただ) 孫権 此に及ばざるを見て、然る後に荊州を襲ひ取り、和を魏に通じ、而して此に従ひて臣を称し子を質とし、日を虚くすること無し。亦(また) 惟(ただ) 昭烈 此に及ばざるを見て、然る後 荊州の故に因り、而して白帝に兵を称へ、一敗して嘔血す。 特(ただ) 此のみか、曹操 形勝の地に拠り、百万の衆を擁し、又 孫権 之の為に外応するを得て、宜しく却顧する所無きが若(ごと)くあるべし。然るに趙儼の襄陽の役、関羽を窮追するを肯んぜず、之を留めて権の為に害とすることを勧め、操 深く其の説を然りとす(四)。権 関羽を擒へて自ら効とせんことを請ひ、操 其の奏を発露して、射て以て羽に示し、之を走らしむ。夫れ操の強を以て、猶ほ戦国の両利ありて倶に存するの説に学び、自ら其の敵を樹てんと欲す。 而るに区区たる呉、乃ち外に蜀の援を絶ち、孤軍もて操に当たるは、悖に已まざるや。力は能く操に当たらず、勢は得て臣を称するを得ず。既に臣を称さば、勢は得て貢を納れざるを得ず、而して封爵を受く。心 甘からざる所有り、又 詞を詭くして阿諛し、而して陰かに反復を為す。邢貞は一匹の夫なるのみ、敢へて詔を称して倨傲たり、車に坐して自若たり。而して権は江東の両世の王業を以て、首を都亭に俯け、羣臣は流涕す(五)。此 皆 伯符の父子の地下に傷心する所にして、魯粛の逆(むか)へて料る所なり。十に荊州を得て、其の辱を償ふに足るや否や。 粛の言に曰く、「宜しく相ひ輔協し、之と仇を同じくすべし」と。曰く、「九州を総括し、先に帝業を成せ」と(六)。権 此の言に負(そむ)くこと有ると雖も、然るに黄初以後、魏の好 継がず、蜀使 仍りて通じ、事 奈何にす可き無きに到るも、終に粛の料る所を出でず、徒然と叛名を魏に挂(か)け、窃かに暮年に尊号す。先王の姉妹 終へず、合肥の号令 遠からず。自ら埋めて自ら搰(ほ)り、形は狐鼠に同じく、良謀を用ひず、辱を取るに袛(あ)たる(七)。且つ権 蜀と好を絶つの後、魏に亡ぼされざるは幸なり。蜀 関羽の怨を修めて呉を伐ち、呉 救ひを魏に求むるや、劉曄 之を襲ふことを勧む。魏主 従わざるに頼(よ)り、以て出兵を免かる(八)。後に魏 備を討つを助くと偽り、仍りて之を襲わんと欲せども、陸遜 兵を収むるに頼り、以て免ず(九)。鍾会の蜀を伐つに至るに及び、呉 力(つと)めて救わず、遂に両亡に致る。此 皆 日後の明験なる。然らば則ち此を知る者は、孔明・子敬のみにして、外に人無きや。曰く史の称すらく、曹操 方に書を作るに、権 荊州を以て劉備を資くと聞き、覚えず筆を手より落つと。夫れ荊州 已に曹の有に非ず。一家の物を一家に与ふるは、操と何ぞや。而るに乃ち駭然と震驚するは、正に魯粛の計の行はるるを恐れ、両雄 相ひ倚(よ)らば、天下 争ひ難きが故なり。嗚呼、操の才 終に孫・劉の上に出でし所以なるかな」と。

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