蜀漢 > 孟達の説得を聞かず、成都に帰った劉封伝

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巻四十 劉封伝(付_申耽・申儀伝)

自作して「孟達伝」をまとめてみようと思ったとき、劉封伝が必要となった。ついでだから、読んでしまおうと思った。やります。
後継者問題で迷走する劉備を知る、材料にもなるはず。

蜀地を平定する

劉封者、本羅侯寇氏之子、長沙劉氏之甥也。先主至荊州、以未有繼嗣、養封爲子。及先主入蜀、自葭萌還攻劉璋。時、封年二十餘、有武藝、氣力過人。將兵俱與諸葛亮張飛等、泝流西上、所在戰克。益州既定、以封爲副軍中郎將。

劉封は、本は羅侯の寇氏の子なり、

『左伝』桓公十三年に、「楚の屈カ 羅を伐つ」とある。羅県ないしは羅国について、上海古籍2613頁。

長沙の劉氏の甥なり。先主 荊州に至り、未だ繼嗣有らざるを以て、封を養ひて子と爲す。先主 入蜀するに及び、葭萌自り還りて劉璋を攻む。時に、封 年は二十餘、武藝有り、氣力 人に過ぐ。

この長所が、あとからアダになる。

兵を將ゐ、俱に諸葛亮・張飛らと、泝流し西上し、在る所 戰克す。益州 既に定め、封を以て副軍中郎將と爲す。

あとから、劉封を「副将、副将」と呼ぶことになる。
洪飴孫はいう。副軍中郎将は、定員一人、蜀が置く。


初、劉璋遣扶風孟達、副法正、各將兵二千人、使迎先主。先主、因令達幷領其衆、留屯江陵。蜀平後、以達爲宜都太守。建安二十四年、命達、從秭歸北攻房陵。房陵太守蒯祺、爲達兵所害。達將進攻上庸、先主陰恐達難獨任、乃遣封、自漢中乘沔水下、統達軍、與達會上庸。上庸太守申耽、舉衆降、遣妻子及宗族詣成都。先主、加耽征北將軍、領上庸太守、員鄉侯、如故。以耽弟儀、爲建信將軍、西城太守、遷封爲副軍將軍。自關羽圍樊城襄陽、連呼封達、令發兵自助。封達、辭以山郡初附未可動搖、不承羽命。會羽覆敗、先主恨之。又、封與達忿爭不和、封尋奪達鼓吹。達、既懼罪、又忿恚封、遂表辭先主、率所領降魏。

初め、劉璋 扶風の孟達を遣はし、法正を副とし、各々兵二千人を將ゐ、先主を迎へしむ。先主、因りて達をして其の衆を幷領し、留めて江陵に屯せしむ。蜀 平らぐの後、達を以て宜都太守とす。

宜都は、先主伝の章武元年にある。張勃『呉録』に、劉備は南郡を分けて宜都郡とした、宜都郡は、夷道・很山・夷陵の三県を領した、とある。
先主伝を見たが、見つからないんですけど。

建安二十四年、達に命じ、秭歸より房陵を北攻す。

『史記』は、劉璋伝にある。房陵は、文帝紀の延康元年の注にある。ぼくは、自作の「孟達伝」のために、文帝紀の注釈を読み直したとき、すでにやった。

房陵太守の蒯祺、達の兵の害する所と為る。

胡三省はいう。房陵県は、もとは漢中郡に属する。この郡は、疑ふらくは劉表が設置して、蒯祺を太守とした。さもなくば、蒯祺が自ら立てた。
ぼくは思う。劉表が設置して、曹操が追認した、で良いだろう。

達 將に上庸に進攻せんとするに、

上庸は、武帝紀の建安二十年の注釈にある。「孟達伝」でやった。

先主 陰かに達 獨任すること難きを恐れ、乃ち封を遣はし、漢中より沔水に乘じて下り、達の軍を統べしめ、達と與に上庸に會す。上庸太守の申耽、衆を舉げて降り、妻子及び宗族をして成都に詣でしむ。先主、耽に征北將軍を加へ、上庸太守を領せしめ、員郷侯とすること、故の如し。

周寿昌はいう。員郷は、[員β]郷県である。ぼくは漢字が出ないので、「員郷」で通す。『水経』沔水注にいう。漢水は東に流れ、長利谷の南で谷に入り、長利の故城旧県がある。また漢水は東に流れ、員郷県の故城の南を流れる。ゆえに員郷灘という。員郷県は、もとは黎だったと。けだし長利は、前漢の漢中郡に属し、後漢では省かれて、錫県に合わされた。西晋の太康五年、はじめて員郷県が置かれた。後漢末の時点で、すでに〈県が置かれなくとも〉員郷郷侯の邑としては存在した。

耽の弟たる儀を以て、建信將軍・西城太守と為す。

西城郡は、漢代の西城県である。武帝紀の建安二十年にある。
趙一清はいう。『方輿紀要』巻79に、員陽府の房県は、秦代の房陵県で、漢代は漢中郡に属した。先主は、房陵郡をここに置いた。あるいは、房陵郡は劉表が置いたという。竹山県は、秦代の上庸県の地で、建安末に上庸郡が置かれた。建安24年、上庸太守の申耽が蜀に降り、蓋しこのとき、すでに漢中郡から分けて、上庸郡が置かれていたのだろう。
『水経』沔水注に、員郷県とは、即ち長利の員郷である。西晋の太康5年、県として立てられた。西城は、もとは漢中郡の属県だったが、漢末に〈県から格上げして〉西城郡となった。……以上、趙一清が言ってる。

封を遷して副軍將軍と為す。關羽 樊城・襄陽を圍みてより、封・達を連ねて呼ぶも、兵をして發し自助せしめず。封・達、辭するに、山郡 初附し、未だ動搖す可からざるを以て、羽の命を承けず。會 羽 覆敗し、先主 之を恨む。又、封と達 忿爭して不和たり。封 尋いで達の鼓吹を奪ふ。

『資治通鑑』巻68 建安22年の胡注。「樂纂曰:《司馬法》:軍中之樂,鼓笛爲上,使聞之者壯勇而樂和;細絲、高竹不可用也,慮悲聲感人,士卒思歸之故也。唐紹曰:鼓吹之樂,以爲軍容。昔黃帝涿鹿有功,以爲警衞。劉昫曰:鼓吹,本軍旅之音,馬上奏之。自漢以來,北狄之樂,總歸鼓吹署。余按漢制,萬人將軍給鼓吹。吹,昌瑞翻」と。盧弼のマネしてコピペ。

達、既に罪を懼れ、又 封に忿恚し、遂に表して先主に辭し、所領を率ゐて魏に降る。

魏略載達辭先主表曰「伏惟殿下將建伊、呂之業、追桓、文之功、大事草創、假勢吳、楚、是以有爲之士深覩歸趣。臣委質已來、愆戾山積、臣猶自知、況於君乎!今王朝以興、英俊鱗集、臣內無輔佐之器、外無將領之才、列次功臣、誠自愧也。臣聞范蠡識微、浮於五湖。咎犯謝罪、逡巡於河上。夫際會之間、請命乞身。何則?欲絜去就之分也。況臣卑鄙、無元功巨勳、自繫於時、竊慕前賢、早思遠恥。昔申生至孝見疑於親、子胥至忠見誅於君、蒙恬拓境而被大刑、樂毅破齊而遭讒佞、臣每讀其書、未嘗不慷慨流涕、而親當其事、益以傷絕。何者?荊州覆敗、大臣失節、百無一還。惟臣尋事、自致房陵、上庸、而復乞身、自放於外。伏想殿下聖恩感悟、愍臣之心、悼臣之舉。臣誠小人、不能始終、知而爲之、敢謂非罪!臣每閒交絕無惡聲、去臣無怨辭、臣過奉教於君子、願君王勉之也。」

『魏略』達の先主に辭する表を載せて曰く、「伏して惟るに、殿下 將に伊・呂の業を建て、桓・文の功を追はんとす。大事 草創し、勢は吳・楚に假る。是を以て有為の士 深く歸趣を覩る。臣 委質して已來、愆戾 山積す。臣 猶ほ自ら知る、況んや君をや。今 王朝 興るを以て、英俊 鱗集す。
臣 内に輔佐の器無く、外に將領の才無し。功臣に列次するとも、誠に自ら愧づ。
臣聞く、范蠡 微を識り、五湖に浮く。

『国語』に曰く、「越 呉を滅し、范蠡 軽舟に乗りて以て五湖に浮く。其の終極する所を知るもの莫し」と。へえ。

咎犯 罪を謝し、河上に逡巡す。

『左伝』僖公二十四年、「二十四年,春,王正月,秦伯納之,不書,不告入也,及河,子犯以璧授公子曰,臣負羈絏,從君巡於天下,臣之罪甚多矣,臣猶知之,而況君乎,請由此亡」とある。盧弼は抜粋してたけど。

夫れ際會の間、命を請ひ身を乞ふ。何となれば則ち、去就の分を絜せんと欲すればなり。況んや臣 卑鄙なり、元功・巨勳無く、自ら時に繫ぎ、竊かに前賢を慕ひ、早く遠恥を思ふ。昔 申生 至孝なるとも親に疑はれ、子胥 至忠なるとも君に誅せられ、蒙恬 拓境するとも大刑を被り、樂毅 齊を破るとも讒佞に遭ふ。臣 每に其の書を讀み、未だ嘗て慷慨し流涕せずんばあらず。而して親ら其の事に當り、益々以て傷絶す。何者ぞや。荊州 覆敗し、大臣 節を失ひ、百に一も還る無し。惟 臣 事に尋り、自ら房陵・上庸に致り、而るに復た身を乞ひ、自ら外に放ぜず。伏して想ふ、殿下の聖恩・感悟、愍臣の心、臣の舉を悼む。臣 誠に小人なり。始終を能くせず、知りて之〈関羽の見殺し〉を為す。敢へて罪に非ざると謂ふや。臣 每に聞交す、絕に惡聲無く、去臣に怨辭無し、臣の過 君子に奉教す、願はくは君王 之に勉めよ」と。

孟達が劉封に、魏への投降を勧める

魏文帝、善達之姿才容觀、以爲散騎常侍、建武將軍、封平陽亭侯。合房陵、上庸、西城、三郡、達領新城太守。遣征南將軍夏侯尚、右將軍徐晃、與達共襲封。達與封書曰。

魏文帝、達の姿才・容觀を善しとし、以て散騎常侍・建武將軍と為し、

洪飴孫はいう。建武将軍は、定員一人、第四品、曹魏が置く。

平陽亭侯に封ず。

趙一清はいう。『方輿紀』巻56にある。曹魏は平陽県をおき、魏興郡に属させる。
謝鍾英はいう。平陽は、『沈志』では、曹魏が立て、西晋が興晋と改めた。『一統志』では、員西県の済北にあると。
盧弼はいう。山西の平陽と、同名異地である。

房陵・上庸・西城の三郡を合はせ〔新城郡と為し〕、

『水経』沔水注、『通鑑』にもとづき、四字を補う。

達に新城太守を領せしむ。征南將軍夏侯尚・右將軍の徐晃を遣はし、達と共に封を襲はしむ。達 封に書を與へて曰く、

古人有言『疏、不閒親。新、不加舊』此謂、上明下直、讒慝不行也。若乃權君譎主、賢父慈親、猶有忠臣蹈功以罹禍、孝子抱仁以陷難、種商白起孝己伯奇、皆其類也。其所以然、非骨肉好離、親親樂患也。或有恩移愛易、亦有讒閒其閒、雖忠臣不能移之於君、孝子不能變之於父者也。勢利所加、改親爲讎、況非親親乎。故、申生、衞伋、禦寇、楚建、稟受形之氣、當嗣立之正、而猶如此。今足下、與漢中王、道路之人耳。親非骨血而據勢權、義非君臣而處上位、征則有偏任之威、居則有副軍之號、遠近所聞也。自立阿斗爲太子已來、有識之人相爲寒心。如使申生從子輿之言、必爲太伯。衞伋聽其弟之謀、無彰父之譏也。且、小白出奔、入而爲霸。重耳踰垣、卒以克復。自古有之、非獨今也。

古人に言有り、『疏は、親を間〈さ〉かず。新は、舊に加へず』と。此の謂ひ、上は明なれば下は直なり、讒慝 行はず。若し乃ち權君・譎主あれば、賢父・慈親あるとも、猶ほ忠臣 功を蹈むとも以て罹禍し、孝子 仁を抱くとも以て陷難する有り。種・商・白起・孝己・伯奇、皆 其の類ひなり。

種については、『史記』巻41 越王勾践世家に、「范蠡遂去,自齊遺大夫種書曰:「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。越王為人長頸鳥喙,可與共患難,不可與共樂。子何不去?」種見書,稱病不朝。人或讒種且作亂,越王乃賜種劍曰:「子教寡人伐吳七術,寡人用其三而敗吳,其四在子,子為我從先王試之。」種遂自殺。」とある。
商は、『史記』巻68 商君列伝に、「商君者,衛之諸庶孽公子也,名鞅,姓公孫氏,其祖本姬姓也。……後五月而秦孝公卒,太子立。公子虔之徒告商君欲反,發吏捕商君。商君亡至關下,欲舍客舍。客人不知其是商君也,曰:「商君之法,舍人無驗者坐之。」商君喟然嘆曰:「嗟乎,為法自斃一至此哉!」去之魏。魏人怨其欺公子卬而破魏師,弗受。商君欲之他國。魏人曰:「商君,秦之賊。秦彊而賊入魏,弗歸,不可。」遂內秦。商君既復入秦,走商邑,與其徒屬發邑兵北出擊鄭。秦發兵攻商君,殺之於鄭黽池。秦惠王車裂商君以徇,曰:「莫如商鞅反者!」遂滅商君之家。
白起は、『史記』巻73 白起伝に、秦王使王齕代陵將,八九月圍邯鄲,不能拔。楚使春申君及魏公子將兵數十萬攻秦軍,秦軍多失亡。武安君言曰:「秦不聽臣計,今如何矣!」秦王聞之,怒,彊起武安君,武安君遂稱病甐。應侯請之,不起。於是免武安君為士伍,遷之陰密。武安君病,未能行。居三月,諸侯攻秦軍急,秦軍數卻,使者日至。秦王乃使人遣白起,不得留咸陽中。武安君既行,出咸陽西門十里,至杜郵。秦昭王與應侯群臣議曰:「白起之遷,其意尚怏怏不服,有餘言。」秦王乃使使者賜之劍,自裁。武安君引劍將自剄,曰:「我何罪於天而至此哉?」良久,曰:「我固當死。長平之戰,趙卒降者數十萬人,我詐而盡阬之,是足以死。」遂自殺。とある。
孝己・伯奇は、『孔子家語』巻78 弟子解に、曾參,南武城人,字子與。少孔子四十六歲,志存孝道,故孔子因之以作《孝經》。齊嘗聘,欲以為卿而不就。曰:「吾父母老,食人之祿,則憂人之事。故吾不忍遠親而為人役。」參後母遇之無恩,而供養不衰。及其妻以藜烝不熟,因出之。人曰:「非七出也。」荅曰:「藜烝小物耳。吾欲使熟,而不用吾命。況大事乎?」遂出之,終身不娶妻。其子元請焉,告其子曰:「高宗以後妻殺孝己,尹吉甫以後妻放伯奇。吾上不及高宗,中不比吉甫,庸知其得免於非乎?」とある。
ぼくは思う。『孔子家語』の成立は、もうちょい後では?

其の然る所以は、骨肉 離を好しみ、親親 患を樂しむに非ざるなり。或いは恩は移り愛は易はる有り、亦 其の間を讒間する有れば、忠臣と雖も能く君を移し、孝子 能く父を變ふる能ふ。勢利 加ふる所、親を改めて讎と爲す。況んや親親に非ざるをや。故に、申生・衞伋・禦寇・楚建、受形の氣を稟け、嗣立の正に當るとも、猶ほ此の如し。

申生は、『左氏伝』荘公二十八年に、晉獻公娶於賈,無子。烝於齊姜,生秦穆夫人及大子申生」とあり、僖公四年に、冬.叔孫戴伯帥師.會諸侯之師侵陳.陳成.歸轅濤塗.初.晉獻公欲以驪姬為夫人.卜之不吉.筮之吉.公曰.從筮.卜人曰.筮短龜長.不如從長.且其繇曰.專之渝.攘公之羭.一薰一蕕.十年尚猶有臭.必不可.弗聽.立之.生奚齊.其娣生卓子.及將立奚齊.既與中大夫成謀.姬謂大子曰.君夢齊姜.必速祭之.大子祭於曲沃.歸胙於公.公田.姬寘諸宮.六日.公至.毒而獻之.公祭之地.地墳.與犬.犬斃.與小臣.小臣亦斃.姬泣曰.賊由大子.大子奔新城.公殺其傅杜原款.或謂大子.子辭.君必辯焉.大子曰.君非姬氏.居不安.食不飽.我辭.姬必有罪.君老矣.吾又不樂.曰.子其行乎.大子曰.君實不察其罪.被此名也以出.人誰納我.十二月.戊申.縊於新城.姬遂譖二公子曰.皆知之.重耳奔蒲.夷吾奔屈.とある。
衞伋は、『史記』巻三十七 衛康叔世家に、十八年,初,宣公愛夫人夷姜,夷姜生子伋,以為太子,而令右公子傅之。右公子為太子取齊女,未入室,而宣公見所欲為太子婦者好,說而自取之,更為太子取他女。宣公得齊女,生子壽、子朔,令左公子傅之。太子伋母死,宣公正夫人與朔共讒惡太子伋。宣公自以其奪太子妻也,心惡太子,欲廢之。及聞其惡,大怒,乃使太子伋於齊而令盜遮界上殺之,與太子白旄,而告界盜見持白旄者殺之。とある。これは『左伝』桓公十六年にもある。
禦寇は、『史記』巻六 陳杞世家に、二十一年,宣公後有嬖姬生子款,欲立之,乃殺其太子禦寇。とある。これは『左伝』荘公二十二年にもある。
楚建は、『史記』巻四十 楚世家に、平王二年,使費無忌如秦為太子建取婦。婦好,來,未至,無忌先歸,說平王曰:「秦女好,可自娶,為太子更求。」平王聽之,卒自娶秦女,生熊珍。更為太子娶。是時伍奢為太子太傅,無忌為少傅。無忌無寵於太子,常讒惡太子建。建時年十五矣,其母蔡女也,無寵於王,王稍益疏外建也。/六年,使太子建居城父,守邊。無忌又日夜讒太子建於王曰:「自無忌入秦女,太子怨,亦不能無望於王,王少自備焉。且太子居城父,擅兵,外交諸侯,且欲入矣。」平王召其傅伍奢責之。伍奢知無忌讒,乃曰:「王柰何以小臣疏骨肉?」無忌曰:「今不制,後悔也。」於是王遂囚伍奢。[而召其二子而告以免父死]乃令司馬奮揚召太子建,欲誅之。太子聞之,亡奔宋。とある。これは『左伝』昭公二十年にもある。

足下、漢中王と、道路の人なるのみ。親は骨血に非ずして勢權に據り、義は君臣に非ずして上位に處る。征せば則ち偏任の威有り、居れば則ち副軍の號有るは、遠近 聞く所なり。阿斗を立てて太子と為してより已來、有識の人 相ひ寒心を為す。

潘眉はいう。漢中王の太子であり、〈漢帝の〉皇太子ではない。武帝紀・呉主伝には、太子を立てる記述があるが、先主伝には書かれない。だが劉禅の立太子は、ここに見える。

如し申生をして子輿の言に從はしむれば、必ず太伯と為らん。

『左伝』閔公元年に、晉侯作二軍,公將上軍,大子申生將下軍。趙夙御戎,畢萬為右,以滅耿、滅霍、滅魏。還,為大子城曲沃。賜趙夙耿,賜畢萬魏,以為大夫。/士蒍曰:「大子不得立矣,分之都城,而位以卿,先為之極,又焉得立?不如逃之,無使罪至。為吳大伯,不亦可乎?猶有令名,與其及也。且諺曰:『心苟無瑕,何恤乎無家?』天若祚大子,其無晉乎?」とある。士蒍はあざなを子輿という。

衞伋 其の弟の謀を聽かば、彰父の譏無からん。

盧弼はいう。衞伋の弟 衛寿は、之に告げて行かしむも、衞伋 従はず。

且つ、小白〈斉桓公〉 出奔し、入りて霸と為る。

『左伝』荘公八年に、初、〈斉〉襄公立,無常。鮑叔牙曰:「君使民慢,亂將作矣。」奉公子小白出奔莒。亂作,管夷吾、召忽奉公子糾來奔。とある。

重耳 垣を踰へ、卒に以て克復す。

『左伝』僖公五年に、公使寺人披伐蒲(蒲は重耳の居城).重耳曰.君父之命不校.乃徇曰.校者.吾讎也.踰垣而走.披斬其袪.遂出奔翟.とある。

古より之有り、獨り今に非ざるなり。

夫、智貴免禍、明尚夙達。僕揆、漢中王慮定於內、疑生於外矣。慮定則心固、疑生則心懼。亂禍之興作、未曾不由廢立之間也。私怨人情、不能不見。恐左右必有以閒於漢中王矣。然則疑成怨聞、其發若踐機耳。今足下在遠、尚可假息一時。若大軍遂進、足下失據而還、竊相爲危之。昔、微子去殷、智果別族、違難背禍、猶皆如斯。

夫れ、智貴 禍を免れ、明尚 夙達す。僕揆、漢中王 内を定むるを慮り、疑ひ外に生ず。慮 定むれば則ち心 固く、疑 生ずれば則ち心 懼る。亂禍の興作、未だ曾て廢立の間に由らずんばあらず。私怨・人情、能く見ずんばあらず。恐る、左右 必ず以て漢中王に間〈さ〉くもの有るを。然れば則ち、疑ひ成り怨み聞き、其の發 機を踐むが若し。今 足下 遠に在り、尚ほ一時に假息すべし。若し大軍 遂に進まば、足下 據を失ひて還る。竊かに相ひ之を危と為す。昔、微子 殷を去り、智果 族を別ちて、難に違ひ禍に背く。猶ほ皆 斯の如し。

國語曰。智宣子將以瑤爲後、智果曰「不如霄也。」宣子曰「霄也佷。」對曰「霄也佷在面、瑤之賢於人者五、其不逮者一也。美鬚長大則賢、射御足力則賢、技藝畢給則賢、巧文辯惠則賢、彊毅果敢則賢、如是而甚不仁。以五者賢陵人、而不仁行之、其誰能待之!若果立瑤也。智宗必滅。」不聽。智果別族于太史氏爲輔氏。及智氏亡、惟輔果在焉。

『國語』に曰く、智宣子 將に瑤を以て後と為さんとす。

韋昭の注。智宣子は、晋卿の荀[足楽]の子である甲である。瑤は、宣子の子である襄子の智伯である。

智果曰く、「霄に如かず」と。

「霄」を、『国語』は「宵」につくる。韋昭注に、「智果は、晋の大夫である。智氏の族である。宵は、宣子の庶子である」と。ぼくは補う。いま庶子で、ぱっと見ではハデなほうを、後嗣にしようとしてる。

宣子曰く、「霄 佷たり」と。

韋昭注に、『佷』とは、佷戻で人に従わないことをいう。

對へて曰く、「霄 佷るは、面に在り。

『国語』では、ここに十三字が挟まっており、沈家本は、この十三字がないと意味が通じないとする。十三字を補うと、「宵の佷は面に在り、瑤の佷は心に在り。心は佷なれば国を敗り、面は佷なるとも害あらず」となる。

瑤の人より賢なるは五なり、其の逮ばざるは一なり。

韋昭注。不仁である。

美鬚の長大なるは則ち賢、射御の足力なるは則ち賢、技藝の畢給なるは則ち賢、巧文の辯惠なるは則ち賢、彊毅の果敢なるは則ち賢、是の如くとも甚だ不仁なり。五の賢を以て人に陵ぐも、而るに不仁 之を行はば、其れ誰ぞ能く之を待するや。若し果して瑤を立つれば、智宗 必ず滅せん」と。聽かず。智果 太史氏に族を別ちて輔氏と為る。

韋昭注。太史は、氏姓を掌るなり。

智氏 亡ぶに及び、惟だ輔果のみ在り。

韋昭注。輔果は、善く其れ人を知る。
ぼくは思う。わかりやすい才能があるが、ちょっと人格に問題がある庶子と、あまり特徴のない嫡子。才能に目を奪われ、嫡子を後嗣にしたい。だが、なまじっか才能があるばかりに、人格の問題が裏目にでる。
庶子:10*10*10*10*10*(-1)=(-100,000)
嫡子:2*2*2*2*2=32 というわけで、嫡子のほうがマシ。


今足下、棄父母而爲人後、非禮也。知禍將至而留之、非智也。見正不從而疑之、非義也。自號爲丈夫、爲此三者、何所貴乎。以足下之才、棄身來東、繼嗣羅侯、不爲背親也。北面事君、以正綱紀、不爲棄舊也。怒不致亂、以免危亡、不爲徒行也。加、陛下新受禪命、虛心側席、以德懷遠。若足下翻然內向、非但與僕爲倫、受三百戶封繼統羅國而已、當更剖符大邦、爲始封之君。陛下大軍、金鼓以震、當轉都宛鄧。若二敵不平、軍無還期。足下、宜因此時、早定良計。易有『利見大人』詩有『自求多福』行矣。今足下勉之、無使狐突閉門不出。封、不從達言。

今 足下、父母を棄てて人の後と為る、禮に非ざるなり。禍の將に至らんとするを知りて之に留まる、智に非ざるなり。正を見て從はず之を疑ふ、義に非ざるなり。自ら號して丈夫と爲す。此の三者を為すは、何ぞ貴ぶ所なるや。
足下の才を以て、身を棄てて來東し、羅侯を繼嗣すれば、親に背くを為さず。北面して君に事へ、以て綱紀を正さば、舊を棄つるを為さず。怒れども亂に致らざれば、以て危亡を免れ、徒行を為さず。

蜀漢にいると3つのミスがあるが、蜀漢から離れれば、全て是正できる。美しい論法。孟達って、すごく優れた人物だなあ!無双7エンパで、自作せねば。

加へて、陛下 新たに禪命を受け、虛心側席、德を以て遠を懷かしむ。若し足下 翻然と內に向かば、但だ僕と倫を為すに非ず、三百戶の封を受け、羅國を繼統す。當に更めて大邦に剖符し、始封の君と為れ。

ぼくは思う。異姓養子というのが、そもそもの劉封の不幸の始まり。それを正して、曹氏の藩国として、羅氏の始祖になれと。魅力的な申し出!きっと曹丕なら、寛大にやってくれる。孫権に寛大で、曹彰・曹植に告白な人だから。

陛下の大軍、金鼓 以て震へ、當に都より宛・鄧に轉ず。

『郡国志』はいう。荊州の南陽郡には、宛県と鄧県がある。
盧弼はいう。魏将が西南に向けて兵を進めることをいう。

若し二敵 平らがずんば、軍 還る期無し。足下、宜しく此の時に因り、早く良計を定めよ。易に『利 見るは大人なり』と有り、詩に『自ら多福を求む』と有るを行なへ。今 足下 之に勉めよ。狐突して閉門・不出せしむる無かれ」と。

『国語』晋語一にある。
十七年冬,公使太子伐東山。……至于稷桑,狄人出逆,申生欲戰。狐突諫曰:「不可。突聞之:國君好艾,大夫殆;好內,適子殆,社稷危。若惠于父而遠于死,惠于眾而利社稷,其可以圖之乎?況其危身于狄以起讒于內也?」申生曰:「不可。君之使我,非歡也,抑欲測吾心也。是故賜我奇服,而告我權。又有甘言焉。言之大甘,其中必苦。譖在中矣,君故生心。雖蝎譖,焉避之?不若戰也。不戰而反,我罪滋厚;我戰死,猶有令名焉。」果敗狄于稷桑而反。讒言益起,狐突杜門不出。君子曰:「善深謀也。」

封、達の言に從はず。

やべー。ぼくが劉封なら、孟達に説得されちゃうわ。経書の引用が、あまり難しすぎることなく、よく理解できる。自分の状況についての認識を、正してくれる感じ。


付_申儀・申耽のこと

申儀叛封。封、破走、還成都。申耽降魏、魏假耽懷集將軍、徙居南陽。儀、魏興太守、封真鄉侯、屯洵口。

申儀 封に叛く。封 破り、成都に走還す。申耽 魏に降る。魏 耽に懷集將軍を假し、徙して南陽に居せしむ。儀、魏興太守、真郷侯に封ぜられ、洵口に屯す。

洪飴孫はいう。懐集将軍は、定員一名、第五品。
洵口について、趙一清はいう。『水経』沔水注に、漢水は東に流れ、旬水とあわさる。北に流れて旬山に出る。東南に流れ、漢水に注ぎ、その合流地点を旬口という。一清が按ずるに、申儀は兄の員郷侯をついだ。「真」でなく「員」とすべきであろう。


魏略曰。申儀兄名耽、字義舉。初在西平、上庸間聚衆數千家、後與張魯通、又遣使詣曹公、曹公加其號爲將軍、因使領上庸都尉。至建安末、爲蜀所攻、以其郡西屬。黃初中、儀復來還、詔卽以兄故號加儀、因拜魏興太守、封列侯。太和中、儀與孟達不和、數上言達有貳心於蜀、及達反、儀絕蜀道、使救不到。達死後、儀詣宛見司馬宣王、宣王勸使來朝。儀至京師、詔轉拜儀樓船將軍、在禮請中。

『魏略』曰く、申儀の兄 名は耽、字は義舉なり。初め西平・上庸の間に在り。

趙一清はいう。西平は、西城とつくるべきだ。
ぼくは思う。劉表・曹操・劉備のいずれにも味方しない、在地勢力である。ゆえに、魏と蜀のあいだをウロウロする。蜀に派遣された孟達が魏につくのは、明確な裏切りである。だが、在地の申氏がどちらに味方しようが、自由である。というか、こういう在地勢力を味方につける努力こそ、魏・蜀はすべきである。

衆數千家を聚め、後に張魯と通じ、又 使を遣はして曹公に詣づ。曹公 其に號を加へて將軍と為し、因りて上庸都尉を領せしむ。
建安末に至り、蜀の攻むる所と為り、其の郡を以て西屬す〈蜀に属した〉。黃初中、儀 復た〈魏に〉來還す。詔して卽ち兄の故號を以てて儀に加へ、因りて魏興太守を拜し、列侯に封ぜらる。
太和中、儀と孟達 不和なり。數々上言すらく、達 蜀に〈味方するという〉貳心有ると。達 反くに及び、儀 蜀〈からの〉道を絶ち、救ひ到らしめず。

諸葛亮にとっては、これが一番の痛撃だろう。

達の死後、儀 宛に詣で司馬宣王に見ふ。宣王 勸めて來朝せしむ。儀 京師に至り、詔にて轉じて儀に樓船將軍を拜せしめ、禮請中に在り。

盧弼はいう。禮請とは、即ち後世の謂ふ所の「朝請を奉る」である。


諸葛亮が劉封を殺す

封既至、先主責封之侵陵達、又不救羽。諸葛亮、慮封剛猛、易世之後終難制御、勸先主因此除之。於是、賜封死、使自裁。封歎曰「恨不用孟子度之言」先主爲之流涕。達、本字子敬、避先主叔父敬、改之。

封 既に至るや、先主 封の達を侵陵し、又 羽を救はざるを責む。諸葛亮、封の剛猛にして、易世の後 終に制御し難きを慮り、先主に此に因りて之を除けと勸む。是に於て、封に死を賜ひ、自裁せしむ。

何焯はいう。或ひとが言うには、劉封には罪があったが、孟達に誘われただけで、終に二心が無かった。蜀に逃げ還ったのも、忠を失っていない。諸葛亮が劉備に、劉封の殺害を命じたのは、誤りである。
とか、関羽を救わず、孟達にそそのかされ、成都に逃げ還った孟達を、諸葛亮が殺したのは是か非か、という話が、2621頁に載ってる。

封 歎じて曰く、「恨む、孟子度の言を用ゐざるを」と。先主 之の為に流涕す。
達、本字は子敬、先主の叔父の敬を避け、之を改む。

劉咸キはいう。尚が云うには、孟達は反復・無恥の小人である。ゆえに事績を、劉封伝と費詩伝に分けられた。而して、其の款誠の心無きを譏るなり。按ずるに、孟達を譏るのは是だが、もし立伝しなければ、別のところに記述すべきでない〈一貫性がないから〉。もし孟達が小人だから立伝しないというなら、立伝された者はみな君子だろうか〈いや違う〉。


封子林爲牙門將、咸熙元年內移河東。達子興爲議督軍、是歲徙還扶風。

封の子は林、牙門將と為り、咸熙元年、河東に内移す。達の子の興 議督軍と為り、是の歲 徙りて扶風に還る。

孟達のことは、あとは費詩伝にある。
何焯はいう。孟達の家は、誅されなかった。いはんや黄権の家をや。黄権が王沖の言を信じなかったというのは、ウソではない。

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