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- 長水校尉で納得できずに腐った廖立伝
20代で長沙太守になり、呂蒙から逃げる
廖立、字公淵、武陵臨沅人。先主領荊州牧、辟爲從事、年未三十、擢爲長沙太守。
先主入蜀、諸葛亮鎭荊土、孫權遣使通好於亮。因問士人皆誰相經緯者、亮答曰「龐統、廖立、楚之良才。當贊興世業者也」建安二十年權遣呂蒙、奄襲南三郡。立、脫身走、自歸先主。先主、素識待之、不深責也、以爲巴郡太守。二十四年先主爲漢中王、徵立爲侍中。後主襲位、徙長水校尉。廖立は、あざなを公淵。武陵の臨沅のひと。
無聊の郡治は臨沅。先主伝に見える。先主は荊州牧を領すると、辟して從事とする。年はまだ30前なのに、抜擢して長沙太守とする。
孫権から荊州を借りているような状態で、しかも魏の文聘もいるとき、劉備の長沙太守はどこを治所として、どれほどの権限を持ったのか。軍事的に期待される役割はなにか。などを考えて、魏呉との接点を妄想すると、廖立のお話は分厚くなるだろう。先主が入蜀すると、諸葛亮は荊土に鎮する。孫權は使者をやり、諸葛亮とよしみを通じる。呉の使者が、士人のなかで誰が経緯を相する(政治に役立つ?)か聞いた。諸葛亮「龐統・廖立は、楚の良才です。世業を贊興するでしょう」と。
建安二十年、孫権は呂蒙をやり、南三郡(長沙・零陵・桂陽)を奄襲した。廖立は、身を脱して走げ、先主に帰した。
呂蒙が零陵をだまして奪い、このあと単刀会をやって湘水を境界にして……という情勢です。先主は、廖立のことを識るために待し、深く(逃げたことを)責めなかった。巴郡太守とした。二十四年、先主が漢中王となると、廖立を徵して侍中とする。後主が襲位すると、長水校尉に徙る。
劉備の戦略・今日の人事配置を批判する
立、本意、自謂才名宜爲諸葛亮之貳、而更游散在李嚴等下、常懷怏怏。後、丞相掾李郃蔣琬至、立計曰「軍當遠出、卿諸人、好諦其事。昔、先主不取漢中、走、與吳人爭南三郡、卒以三郡與吳人、徒勞役吏士、無益而還。既亡漢中、使夏侯淵張郃深入于巴、幾喪一州。後、至漢中、使關侯身死無孑遺、上庸覆敗、徒失一方。是、羽怙恃勇名、作軍無法、直以意突耳。故、前後數喪師衆也。廖立は、本音では自らの才名が諸葛亮につぐべきと思った。しかし(官職が変わって)散に游び、
「散官」とは、固定的な職務をもたない官員。散騎常侍などがこれとか。長水校尉が「職務を持たない」のか。漢制で職務がない場合と、蜀漢の制度では職務がない場合と、蜀漢のこのときの都合で職務がなかった場合と、廖立がかってに「もっと仕事がほしい」と思った場合がある。一概に言えないが、少なくとも李厳よりも重要でない地位に(不当に)置かれたと廖立が考えたのは、本当とせねばならない。つねに怏怏とした気持ちを懐く。のちに丞相掾の李郃・蔣琬がくると、
盧明楷はいう。『輔臣賛』によると、李『邵』はあざなを永南。建興元年、諸葛亮が辟して西曹掾となる。ここにある李『郃』の事績は不明。趙一清は李邵のことと見ればよいと。
@Jominian 氏はいう。廖立が不満を述べた時、それを聞いていた相手は李邵と蒋琬である。彼はそれぞれ、丞相西曹掾と東曹掾である。これを図るに、廖立の不満が誰からも明らかであり、不満が外に出ていたため、丞相府の人事を司る李邵、蒋琬を派遣したのであろう。ところが廖立は更に不満を述べたため、諸葛亮の不興を買った。廖立が不満を述べ免官になった頃、李邵は治中従事に、蒋琬は参軍に移った。彼ら二人が廖立のもとに派遣されたことを考えると、或いは参軍領治中従事が、不満を漏らす廖立のために諸葛亮が用意したポストだったのかもしれない。廖立はそれすら拒み、庶民となるに至ったと。廖立は計った。「軍が遠出するにあたり、卿ら諸人は、よく事実を見きわめろ。先主は漢中を取らず(劉璋の客将として年数を費やし)呉人に荊州の南三郡を奪われた。
ぼくは思う。これは単なる批評ではない。荊州の前線に残され、呂蒙の攻撃を受けた経験に基づいて、劉備の戦略に文句をつけている。では代案があるかといえば、あるはずもない。ただ現状に不満を持って、感情をぶちまけただけ。内容の吟味よりも、「オレのことを重用してくれ」というメタメッセージを伝えたい。
劉咸キはいう。「先主」でなく「帝」につくるべき。漢中は夏侯淵・張郃に奪われ、巴に深入され、あやうく益州を失うところだった。
当事者のひとりである廖立の認識として、魏が巴蜀をすべて獲得するには、漢中を奪ったときチャンスが最大であった。逆に劉備にとって、ピンチが最大であったと。戦況理解に関する貴重な証言。いきなり夏侯淵・張郃の矛先にさらされた、当時の巴郡太守がいうのだから、本当である。のちに劉備が漢中に至れば、関羽に援軍をおくれず、上庸(孟逹・劉封)は覆敗し、いたずらに一方面をうしなった。これは関羽が勇名に怙恃し、軍を作すこと無法、直だ意を以て突すればなり。ゆえに前後に師衆を喪失した。
盧弼はいう。これは怒り任せの発言だが、情勢をよく表す。
何焯はいう。(廖立の発言を裏返して、蜀が勝つプランを立てれば)呂蒙が三郡を奪ったとき、呉との旧怨をわすれて、(単刀会をするために荊州に戻らず)先に漢中を収め、関隴を図るべきだった。そうすれば蜀漢の領土・兵士・声望は10倍した。
如向朗文恭、凡俗之人耳。恭、作治中、無綱紀。朗、昔奉馬良兄弟謂爲聖人、今作長史、素能合道。中郎郭演長、從人者耳、不足與經大事、而作侍中。今弱世也。欲任此三人、爲不然也。王連流俗、苟作掊克、使百姓疲弊、以致今日」向朗・文恭のごときは、凡俗の人である。文恭は治中となり、綱紀なし。向朗は、むかし馬良の兄弟を奉って『聖人』といい、長史となれば素より能く道に合ふ。
銭大昭はいう。『華陽国志』によると、丞相参軍の文恭は、あざなを仲宝といい、梓潼のひと。沈家本はいう。文恭とは、杜微伝にある「文仲宝」と同一人物。
ぼくは思う。向朗は、のちに馬謖が失敗したとき、逃亡を助けたという話がある。馬良の兄弟を『聖人』として不当に奉り、国家を誤らせたと。過去のクレームをいうだけでなく、未来の課題まで見抜ける。
中郎の郭演は、人に従うことに長じるだけ。ともに大事をやるに足らないが、侍中となった。
郭演もしくは郭演長について、このページの下部参照。この3人(向朗・文恭・郭演)を用いるな。王連は俗に流れ、搾取して百姓を疲弊させ、
向朗・文恭・郭演は、中央官のこと。王連は地方官のこと。地方官について、文句を付けられる人物が少なかったというのが、へんな感じがする。ただ廖立の人脈が中央に偏っていたのか、もしくは地方の統治は(廖立から見ても)うまくいっていたのか。今日のように(国土が荒廃して)しまった」
廖立は、関羽・劉備をそしっているのでも、向朗・文恭・郭演をそしっているのでもない。前半は自分の職務の失敗を言い訳している。関羽のせいで長沙太守に失敗し、劉備のせいで巴郡太守に失敗したから、オレの責任ではないと。後半は、諸葛亮の人事配置に異議を唱えている。これまでの失敗に責任のないオレをさしおき、くだらん人物を要職につけた諸葛亮は、誤っていると。意図は明確。これを、関羽らをそしっていると読むと、意味不明になる。
諸葛亮が廖立を罰する
郃琬、具白其言於諸葛亮。亮表立、曰「長水校尉廖立、坐自貴大、臧否羣士。公言、國家不任賢達而任俗吏。又言、萬人率者皆小子也。誹謗先帝、疵毀羣臣。人有言、國家兵衆簡練、部伍分明者。立、舉頭視屋、憤咤、作色曰『何足言』凡如是者不可勝數。羊之亂羣猶能爲害、況立託在大位、中人以下識真偽邪」李郃・蒋琬は、諸葛亮に伝えた。諸葛亮は、先帝・郡臣を誹謗して、郡臣の和を乱すような発言をする廖立のことを怒った。
@Jominian さんはいう。廖立が批判している連中は、関羽にしろ向朗にしろ王連にしろ、費禕や董允とは世代が違う連中。一方で郭攸之は、費禕や董允と同世代のような扱われ方が出師の表でされている。郭演(演長)は郭攸之より上の世代で、別人だって方が良いような気もするな。
@HAMLABI3594 さんはいう。世代が上なのは偶然というか年功序列というか。で、世代でいえば廖立は「朗昔奉馬良兄弟謂為聖人」と向朗は馬良や馬謖のような(俗物を)聖人扱いして云々と言って軽く馬謖を貶しているので世代で区分するのはどうかなと思ったんだよね。ただ馬謖もそんなに若くない。
亮集有亮表曰「立奉先帝無忠孝之心、守長沙則開門就敵、領巴郡則有闇昧闟茸其事、隨大將軍則誹謗譏訶、侍梓宮則挾刃斷人頭於梓宮之側。『諸葛亮集』はいう。「廖立は先帝を奉るとき忠孝の心がなく、長沙を守れば開門して敵を迎え、巴郡を領しては職務に暗く、大軍に随っては誹謗ばかりした。
原文「大将軍」だが、李慈銘のいうとおり「大軍」だろう。梓宮(天子の棺)に侍せば則ち刃を挾み人頭を梓宮の側に断たんとした。
劉備が死んだばかりで、蜀漢が団結しなければならない非常時に、仲間を批判して(殺すかのような振りをした)。それを諸葛亮は怒っているのです。
思うに、劉備のもとでは、良くも悪くも、みなが納得していた。しかし諸葛亮の指導体制になって、人事に関する不満が出てきた。廖立の不満は、ここに起源があるだろう。
陛下卽位之後、普增職號、立隨比爲將軍、面語臣曰『我何宜在諸將軍中!不表我爲卿、上當在五校!』臣答『將軍者、隨大比耳。至於卿者、正方亦未爲卿也。且宜處五校。』自是之後、怏怏懷恨。」詔曰「三苗亂政、有虞流宥、廖立狂惑、朕不忍刑、亟徙不毛之地。」後主が即位してから、みんなの職号を増やし、廖立は比に随い(全体の横並びで)将軍にした。だが私(諸葛亮)に面とむかって、「私(廖化)は諸将の軍中にいるべき。なぜ諸葛亮は、私を『卿』にせよと上表せず、五校にせよと上表したのか」といった。
序列を決める権限は、すべて諸葛亮が握っていたことが、改めてわかる。そして諸葛亮なりに、比に随い(全体に横並びでバランスを見て)官職を決めたというあたり、苦労のあとが見える。なんか、言い訳めいても聞こえる。私(諸葛亮)は「将軍(あなた)の官位は、横並びのバランスで決めました。『卿』といえば、正方(李厳)ですら『卿』ではない。五校(長水校尉)で居りなさい」と。のち廖立は、恨みを懐いたと。
潘眉はいう。漢制では、歩兵・屯騎・越騎・長水・射声の五校がある。魏制も同じ。郡臣は永寧宮で奏したとき、五校は名を連ねたという記述があるから、蜀制も同じ。任命の例は、上海古籍2628頁。ときに廖立は長水校尉だから、諸葛亮が「五校に居りなさい」といった。
ぼくは思う。20代の太守になった有為の人材・廖立。劉備の死後、諸葛亮が決めた長水校尉という地位に納得できず、クレーム発動。諸葛亮は「天子の交替を受け、全体のバランスを取って横並びで(比に随い)昇進させた。李厳と比べても、あなたの地位は適切でしょ」と説明する。諸葛亮の苦心が見えてかわいい。廖立の一連のクレームは、向朗や王連に向けられたものではなく、彼らに今日の地位をあたえた、諸葛亮をターゲットとしたもの。みんなを納得させる人事って、むずかしいな。
廖立が汶山に徙され、人生を持て余す
於是、廢立爲民、徙汶山郡。立、躬率妻子耕殖自守、聞諸葛亮卒、垂泣歎曰「吾終爲左袵矣」後、監軍姜維率偏軍、經汶山、詣立。稱、立意氣不衰言論自若。立遂終徙所。妻子還蜀。ここにおいて廖立を廃して民とし、汶山郡にうつす。
汶山郡は、後主伝の延熙十年に。
@Jominian さんはいう。 多分、廖立の事件自体は建興二年のことだと思うよ。秦宓が建興二年に長水校尉になっているから、この時点で廖立は免官。翌建興三年春に汶山へということだろう。建興二年時点で郭攸之は侍郎なので、侍中郭演とは微妙に合わない。
@HAMLABI3594 さんはいう。廖立伝「軍當遠出」とあるから、建興三年(225年)の南征に際しての事じゃないかな。二年は記録からは軍隊を動かして記録がみえないし。秦宓伝「建興二年丞相亮領益州牧、選宓迎為別駕、尋拜左中郎將長水校尉」は「尋」とあるから二年ではない可能性があるんじゃないかな。
@Jominian さんはいう。確かに「尋」とあるな。建興三年の免官でもいいのか。廖立が王連を批判しているのも気になる。王連生前は、軍を動かそうにも動かせなかったわけだから、王連存命なら「軍当遠出」は計画を練ってるだけの時期はありかなと。ただ、関羽も批判されているし、王連死後かもしれん。王連死後に長史になった向朗を長史としているから、廖立の言葉は王連死後で確定なんだな。建興三年で良さそう。廖立は妻子をつれ耕殖・自守す。諸葛亮の卒するを聞き、垂泣して歎じた。「吾 終に左袵(蛮民)となる」と。のちに監軍の姜維が偏軍を率い、汶山をとおって廖立にあった。「廖立の意氣は衰えず、言論は自若たり」と称えた。
もっと活躍の場があればあ……という惜しい人材。活かしきれなかった。せっかくの人材を腐らせてしまったので、諸葛亮の失敗にカウントすべきだ。もっとも、諸葛亮に完璧を求めた場合、というファン心理を働かせた上でのお話。廖立はついに本貫をうつし、妻子は蜀に還った。150826
ぼくなりに、人間として廖立を見てみれば。若くして抜擢され、調子の乗ったところがあり(調子に乗ったために)官僚としての成熟が後れた。これが後の悲劇の始まり。
はじめて出世したとき、孫権と境界を接する長沙を守るなんて、いかなる名将でも無理ゲーに近いのに、それを若い廖立に任せた。「ダメ元」のチェンレンジングな人事だった。むしろ呉との外交に失敗した、関羽・諸葛亮らの失敗だろう。
「呂蒙に負けたのは仕方がない」は事実であり、劉備がそう言ってくれたとしても、若い廖立の主観はそうではないだろう。功績を焦って性格が歪みそう。周囲の廖立に対する見方も「無理ゲーをよくがんばった」という温かいものにはならない。「若いくせに」という嫉妬から転じて、「ザマミロ」という態度で接するだろう。廖立は、自他ともにギクシャクして、その後の官職で失敗を重ねた……というのは、ありそうな話。
もしも(は無いのだが)蜀が外征に成功して、領土・ポストが広がり、もっと人材が必要になれば、廖立が呼び戻され、再チャレンジするチャンスがあったかも知れない。長沙・巴郡の太守を経験して、孫権を境を接したというのは、貴重な人材なので。抜擢のされ方といい、蜀バージョンの呂蒙として、周囲を見返すのではなかろうか。ちょうど呂蒙とは、国境を距てて戦っており、ペアと認識するにはちょうどいい。
メモ:『反反三国志』では「蜀の呂蒙」として復帰してもらおう。閉じる
- 孔明に敗戦の責任をなすられた李厳伝
劉表・劉璋・劉備のもとの有能な官僚
李嚴、字正方、南陽人也。少爲郡職吏、以才幹稱。荊州牧劉表、使歷諸郡縣。曹公入荊州時、嚴宰秭歸、遂西詣蜀。劉璋、以爲成都令、復有能名。建安十八年署嚴、爲護軍、拒先主於緜竹。李厳は、あざなを正方といい、南陽のひと。少きとき郡の職吏となり、才幹を称えられた。
趙一清はいう。『太平御覧』496がひく『江表伝』はいう。李厳は郡の職吏となり、情を用いれば深刻、その身を利せしむことを苟しむ。郷里は諺した。「狎(な)れる可きこと難し、李鱗甲」と。
ぼくは思う。まったく賄賂が通用しない、厳格が役人さんが思い浮かぶ。あだな(あざなではない)は、李鱗甲というのだ。荊州牧の劉表は、郡県を歴任させた。曹公が荊州に入るとき、李厳は秭歸を宰り、遂に西して蜀に詣る。
曹操による荊州進攻のとき、シャッフルが起きた。李厳のように、このタイミングで劉璋を頼ったひとは、劉璋に対する思い入れが薄そう。劉備が益州を奪う伏線となった。乱世の安全地帯である益州は、「寄り合い所帯」となって、不安定になる。この弱点は、蜀漢のときも同じであることに注意。
劉備が長阪で曹操に追撃されたとき、随従した大量の民。彼らはどこに行ったか。一部は益州にいそう。曹操が荊州を攻めると、劉表の部下として秭歸を治める李厳は、劉璋を頼る。南郡の董和は、漢末に劉璋を頼る(時期は不明だが劉表の死後の混乱期か)。李厳・董和のような指導者に従って、荊州から益州に移った民がいたと考えても、不自然ではない。入蜀後、劉備が民と合流したと考えると熱い。無双ではすぐ全滅するけど。劉璋は李厳を成都令にして、ここでも名を知られた。建安十八年、李厳を護軍とし、先主を緜竹で拒む。
嚴、率衆降先主、先主拜嚴裨將軍。成都既定、爲犍爲太守、興業將軍。二十三年盜賊馬秦高勝等、起事於郪、合聚部伍數萬人、到資中縣。時先主在漢中、嚴不更發兵、但率將郡士五千人討之、斬秦勝等首。枝黨星散、悉復民籍。又、越嶲夷率高定、遣軍圍新道縣。嚴馳往赴救、賊皆破走。加輔漢將軍、領郡如故。章武二年先主徵嚴詣永安宮、拜尚書令。李厳は、衆をひきいて劉備に降り、裨將軍を拝する。成都が定まると、犍爲太守・興業將軍となる。
『華陽国志』はいう。むかしのひとが作った漢安橋があり、広さは一里半。秋夏に増水すると、橋が流れてしまう。毎年、修理するけれど百姓の負担である。建安二十一年、太守の李厳が、天社山をうがち、長江に尋って車道をとおし、橋梁・三津をはぶいた。吏民はよろこんだ。二十三年、盜賊の馬秦・高勝らが、郪(せい)で起事した。部伍を合聚して、数百人で資中県にいたる。
郪は『魏志』鍾会伝に見える。資中は法正伝に見える。ときに先主は漢中にいて、李厳はさらに兵を出せない。ただ郡士5千人をひきい、馬秦・高勝らの首を斬った。枝黨は星散し、悉く民籍に復した。
劉備が漢中で、魏軍と戦っているとき、巴蜀の後方は、わりと治安が危なかった。李厳らがいたから(いちおう廖立もいたから)保つことができた。曹操が「隴を得て……」というとき、劉備はとても危なかったのだ。「劉備は蜀を根拠地とする」という遡及的なイメージで、捉えてはいけない。また越嶲夷が高定をひきい、新道縣をかこむ。李厳が救う。
潘眉はいう。両漢には、新道県はなく……2630頁。輔漢將軍を加えられ、犍為太守はもとのまま。章武二年、先主が李厳を永安宮に徴し、尚書令を拝する。
「空回りしなかったほうの廖立」が李厳である。劉備が入蜀してから、廖立を巴郡太守とした。李厳のように、劉備が魏軍と戦うために漢中に出ている間、後方を固めてほしかったのだろう。まして巴郡は、
劉備に託孤され、諸葛亮に九錫を勧める
三年先主疾病、嚴與諸葛亮並受遺詔輔少主。以嚴爲中都護、統內外軍事、留鎭永安。三年、先主が疾病となり、李厳は諸葛亮とともに遺詔を受けて、少主を輔ける。
諸葛亮が託孤されるシーンに、李厳がいたことから、いろいろな論者が分析を加えたくなった。劉備から見れば、荊州閥とか益州閥とか、そういう派閥のバランスゲームとは関係なく、有能で信頼できる官僚といえば、諸葛亮・李厳の2人が同率一位だったのだろう。仕えた時期は、諸葛亮のほうが前だから、諸葛亮が上にいるけれど。
「諸葛亮と李厳の潜在的な対立」というのは、劉備の再末期から、ずっと最大の課題でありつづけた。それが北伐の途中で露呈するとか、蜀漢は悲劇すぎる。李厳を中都護として、内外の軍事を統べしめ、留まり永安に鎮す。
孫呉との国境である。この時点で、魏とは開戦してない。呉とは夷陵で戦ったばかり。つまり蜀が抱えるメインの戦線は(いちおう使者を往来は回復しているものの)呉である。諸葛亮が「内」を、李厳が「外」を守ったと図式的に捉えてもいいかも。
何焯がこの体制についてコメントする。2631頁。
建興元年、封都鄉侯、假節、加光祿勳。四年、轉爲前將軍。以諸葛亮欲出軍漢中、嚴當知後事、移屯江州。留護軍陳到、駐永安、皆統屬嚴。嚴、與孟達書曰「吾與孔明俱受寄託、憂深責重。思、得良伴」亮亦與達書曰「部分如流、趨捨罔滯。正方性也」其見貴重如此。建興元年、都卿侯に封じられ、假節、光祿勳を加える。四年、転じて前將軍となる。諸葛亮が漢中に出るとき、李厳は後事を知するため、移って江州に屯する。
諸葛亮が「外」で、李厳が「内」に交替した。ふたりは補いあうように、スライドしてる。劉備が期待したとおり、連動している。護軍の陳到を永安にとどめた。陳到は、すべて李厳の指示にしたがう。
陳到、あざなは叔至。『季漢輔臣賛』にみえる。汝南のひと。官は征西将軍。『華陽国志』にみえる。李厳は孟逹に文書を与えた。「私と孔明は、ともに寄託を受け、憂は深く責は重い。協力者になってくれたらな」と。諸葛亮も孟逹に文書を送る。「各部署・部隊は流れるがごとく(機能して)、円滑で遅滞がない。李厳の性質のおかげだ」と。李厳が(諸葛亮から)貴び重んじられたのは、このようであった。
なぜ諸葛亮は、外にいる(裏切った)孟逹にむけて、李厳をほめたのか。「蜀ってば、働きやすい環境だし、勝つのは蜀なんだよ」というアピール、というのが基本的な見方。それ以外にも、第三者にむけて李厳を賞賛し、間接的に自分の言葉が李厳の耳に入れば、もっと仲良くなれるという効果もねらえる。諸葛亮も、気苦労がたえない。
孟逹は曹丕に絶賛された「名士」なので、「名士」にむかって「名士」が「名士」をアピールすれば、みんな「名士」「名士」して、幸せになれる。
何焯はいう。李厳の胸から、鱗甲(荊州時代の俚諺を参照)を取り除いたのは、費禕の匹(なかま)である。ぼくは思う。ただの堅物だった李厳が、心の防具をはずして、蜀のために働き、蜀臣たちと仲良くなったのは、費禕のおかげ?(費禕と同じくらい?)と。なんで費禕なんだっけ。
諸葛亮集有嚴與亮書、勸亮宜受九錫、進爵稱王。亮答書曰「吾與足下相知久矣、可不復相解!足下方誨以光國、戒之以勿拘之道、是以未得默已。吾本東方下士、誤用於先帝、位極人臣、祿賜百億、今討賊未效、知己未答、而方寵齊、晉、坐自貴大、非其義也。若滅魏斬叡、帝還故居、與諸子並升、雖十命可受、況於九邪!」
『諸葛亮集』に、李厳が諸葛亮におくった文書があり、九錫を受けよと勧める。諸葛亮の返答「あなたと知り合って久しいが、ちっとも私を理解してくれない。いま賊を討たずに九錫を受けたら、正しくない。もし義を滅ぼして曹叡を斬り、劉禅を故居(洛陽?幽州?)に還せば、十錫でも受けましょう」
何焯はいう。諸葛亮は恭遜だから「十錫」なんて軽口を叩くはずがない。また九錫は九錫であって、これに加えて1つ特権が増やせるわけじゃない。
ぼくは思う。九錫を勧めたタイミング(裴松之が注釈を置くべき場所)はここだろうか。これから諸葛亮は外征にいくのに。せめて何らかの功績を立てたとき、もしくは蜀臣の官途が渋滞してきたときだ。少なくとも「李厳よりも諸葛亮の功績がでかい」という局面になるまで、李厳はこれを言わない。なぜなら、ブーメランが帰ってくるから。
思うに李厳は、諸葛亮にへつらったのでない。へつらう必要がなく、むしろ諸葛亮から気を遣われている。蜀漢の官爵の渋滞を解消するために、お前が先頭を切り開け、と言ったのだろう。「蜀臣らを満足させるため、諸葛亮は危険に身をさらせ」と、無二の理解者として進言したのだ。そして、諸葛亮がすっとぼけた。
八年、遷驃騎將軍。以曹真欲三道向漢川、亮命嚴將二萬人赴漢中。亮、表嚴子豐、爲江州都督督軍、典嚴後事。亮、以明年當出軍、命嚴以中都護署府事。嚴、改名爲平。八年、李厳は驃騎將軍に遷る。曹真が三道から漢中に向かうと、諸葛亮は李厳に命じて(江州から)二万をひきいて漢中に来させる。
全軍の動員体制だ。興奮する。「内」と「外」のすべてを集中しないと、魏軍を防ぐことができない。李厳と諸葛亮が、ふたりとも同じ漢中に集まった。これまでの連携に、もちろん齟齬なし。諸葛亮は上表して、李厳の子の李豊を江州都督として督軍させ(もとの李厳の任地に置き)李厳の後事を典せしめた。
ぼくは思う。諸葛亮は、李厳・李豊の世襲を、かってに許している。遠隔地での世襲なんて、「自立してください」と言わんばかりの破格の待遇。つまり諸葛亮は、そこまでの待遇を与えてまで、李厳を漢中に呼びたかった。さもないと蜀が滅びると、危機感を懐いたということでは。諸葛亮は、翌年に出軍するに当たり、李厳を中都護署府事とした。
胡三省はいう。蜀には左・右・中の都護署府事があった。漢中に留守府事を置いた。李厳は、李平と改名した。
ぼくは思う。もしこの時点で改名するなら、魏を平定するという意気ごみだ。
康発祥はいう。列伝のなかで(この李厳伝のように)名前を途中で書き換えるのは、よくない。ずっと「李平」と書いておけばよかった。馬忠・陸遜のように。
北伐の後方で群僚を担当する
九年春、亮軍祁山。平、催督運事。秋夏之際、值天霖雨、運糧不繼。平、遣參軍狐忠、督軍成藩、喻指呼亮來還。亮承以退軍。平、聞軍退、乃更陽驚、說「軍糧饒足、何以便歸」九年春、亮は祁山に軍をおく。李平は、運事を催督す。秋夏の際、天は霖雨で、運糧は継がず。李平は、参軍の狐忠・督軍の成藩をつかわし(喻指;後主の意思として?)亮を還らせた。
「喻指」を「後主の意思を説明して」と理解するのは、胡三省である。本当にそうか。史料の字義だけ拾っても、べつにそこまでは読み取れない。亮は(狐忠・成藩から連絡を)承けて軍を退く。李平は軍が退くと聞き、いつわって驚き「軍糧は饒足する。なんで帰るのか」という。
狐忠とは馬忠である。馬忠伝にみえる。
欲以解己不辦之責、顯亮不進之愆也。又、表後主、說「軍、偽退、欲以誘賊與戰」亮、具出其前後手筆書疏本末、平違錯章灼。平、辭窮情竭、首謝罪負。己の不辦の責(輸送の管理に失敗した責任)を解き、諸葛亮の不進の愆(軍を撤退させた過ち)を顕らかにしようとした。
これは、李平の意図を陳寿が「解説」したものである。べつに既存の上表などを引用したものではない。信じる必要はない。李平の意図を推測するという意味では、陳寿とぼくらは等距離にいる。等しく「分からないから想像するしかない」のだ。また後主に上表して、「軍は偽って退き、賊を誘って戦おうとした」という。
胡三省の読み方を継承するなら、後主の意図をでっちあげた罪を帳消しにしようとした、という理解である。しかし、本当にそうだろうか。ぼくは「分かりにくい説明をして、諸葛亮に誤解をさせた」のが李平の(本人もコントロールできなかった)罪だと思う。後主は関係ない。諸葛亮に誤解を与えたから驚き、事後的に、後主にツジツマがあう説明を行った。
きっと李平の連絡は、「××な状況なので、兵糧の輸送がきつい」と事実だけを書いたもの。「撤退されたし」とは言わない。しかし諸葛亮は、李平を信頼しており、真摯に受け止めて、「あの李厳が『きつい』というのだから、撤退せざるを得ないのだろうと誤解した。誤解なのだから、2人とも悪くない/2人とも悪い。
諸葛亮は、前後にわたる手筆の書疏の本末を提出した。李平の違錯は章灼となった。李平は、辭は窮し情は竭き、罪負を首謝した。
李平は何をしたのか。「李平は益州閥だから、益州に負担をかける北伐に反対しており、諸葛亮を撤退させてやった」という解釈を聞きかじったことがある。違うと思う。なぜなら、北伐を辞めさせたいなら、事前に口で主張すれば、諸葛亮に聞いてもらえた。諸葛亮を重んじる物語の影響で、李厳は「託孤の場に居合わせたなんて驚き」「劉備が諸葛亮の簒奪を防ぐために、証人・牽制役として招いた」という扱いを受ける。ちがう。北伐をしたころの蜀漢は、諸葛亮・李厳の二頭政治である。諸葛亮は、李厳に気を遣いまくっている。
そりゃ、丞相である諸葛亮のほうが官位が高い。しかし1人が官職のトップにいるからといって、独裁体制だとは言い切れない。
まして李厳の経歴を見れば、益州閥として「地元の保全を優先する」ことに特別な利益がなさそう。劉璋の将になったのは、208年以降で、もっとも遅い部類だ(法正はもっと早いから、ぼくは涼州出身の彼を益州閥だと思っている)。李厳は益州に地盤を持たず、「劉備の占領軍の一員」の色彩が濃い。戦わずに劉備に降った。その点で、諸葛亮に近い。だからこそ託孤を受けた。
諸葛亮が李厳を弾劾し、責任をなする
於是、亮表平、曰「自先帝崩後、平所在治家、尚爲小惠、安身求名、無憂國之事。臣當北出、欲得平兵以鎭漢中。平、窮難縱橫、無有來意、而求以五郡爲巴州刺史。諸葛亮は李平について表した。「先帝が崩じて後、李平は小恵をなし、身を安んじ名を求め、憂国することがない。私が北出すると、李平に漢中に鎮してほしいかったが、できない理由をつけ、来るつもりがなかった。ぎゃくに5郡を割いて巴州刺史になりたいといった。
ぼくは諸葛亮と李平は、兵糧の状況の連絡に誤解があって、せっかく魏に勝つチャンスを棒に振ったと思う。誤解した後、李平は李平なりにツジツマを会わせた(魏軍を誘う作戦さった)が、諸葛亮も諸葛亮なりにツジツマを会わせた。それは、遡及的に、李平が北伐に非協力的だったことにした。
諸葛亮が漢中、李厳が永安にいるのは、上で書いたように納得ずくで決めた2人の分担である。二頭体制で、課題に取り組んだ結果。魏軍の南下があれば、李平が漢中にいくなど、連携して柔軟に動いていた。
巴州を設立することも、李平がかってに言ったのではなく、諸葛亮が勧めたことかも知れない。李厳が諸葛亮に九錫を勧めるなら、バランスを取って李厳に世襲できる州職を勧めた。どちらも辞退したけど。
李厳は北伐に非協力的だ、という諸葛亮のデッチアゲを真に受けて、後世の読者であるぼくらまで諸葛亮の幻術にだまされて、李厳は益州閥だから……と幻術に協力するような言説をつくるなんて、バカげている。
去年臣欲西征、欲令平主督漢中。平、說司馬懿等開府辟召。臣知平鄙情、欲因行之際偪臣取利也。是以、表平子豐督主江州、隆崇其遇、以取一時之務。平至之日、都委諸事、羣臣上下皆怪臣待平之厚也。正以大事未定、漢室傾危、伐平之短、莫若褒之。然、謂平情在於榮利而已、不意平心顛倒乃爾。若事稽留、將致禍敗。是臣不敏、言多增咎」昨年、私が西征するとき、李平に漢中を主督させようとした。李平は、司馬懿らが開府・辟召することを説きました。私は李平の鄙情を知りました。北伐に際して、己の利益を欲しています。
諸葛亮は開府している。廖立のとき、後主の即位時の序列は、すべて諸葛亮が決めたことが分かった。諸葛亮は、「李平の協力がないと蜀が成り立たない。李平に気を遣おう」という心と、「しかし主導権は自分がもちたい。李平の権限が大きくなり過ぎても困る」という心があり、「李平を最大限に尊重しつつ、自分とは差をつける」というバランスを(自分のために)取ろうとした。
李厳は、諸葛亮とともに託孤されたという認識があるから、開府くらいはしたい。司馬懿を引き合いに出したから感じが悪くなったが、べつに開府のことは、異常な僭越とはいえない。仕事を円滑に進めるために、自前の役所・人材を持ちたいというのは、普通のこと。そこで李平の子の李豊を表して江州を主らしめた。彼の待遇を隆崇するのは、一時の務を取るため(暫定的に仕事を回すため)。
『華陽国志』はいう。李厳ははじめ5郡を巴州にしたいと求めた。また諸葛亮に書面で、陳羣・司馬懿が2人とも開府することを継げた。そこで諸葛亮は、李厳に中護軍を加え、李豊を江州都督とした。
ぼくは思う。諸葛亮は司馬懿の名だけを出して、感じが悪くなったが、これは悪意を含む引用である。司馬懿・陳羣と、複数の臣下が開府して、二頭で天子を支えている事例として、司馬懿の名が出たのでは。曹丕が、司馬懿・陳羣を信任したように、諸葛亮・李厳の体制をつくりたいと言ったのだ。そのほうが諸葛亮の負担も軽くなるし、内政・軍事でやれることが増える。
巴州・開府の要請を、中護軍・李豊のことにすり替えたのは、諸葛亮の詐術である。全然、要求が叶えられていないが、なしのつぶてでもないよと。李平の厚遇を、みなが怪しんだ。なぜか。漢室が傾危し、李平を罰する余裕がないからだ(李平の手も借りたい)。しかし李厳は、己の栄利ばかりもとめた。彼を残せば、禍敗をまねく。
諸葛亮ファンには不愉快な解釈だと思いますが、読んだ印象としては……。前に諸葛亮は、街亭で敗れた責任を馬謖に押し付けて殺した。馬謖を任命した、諸葛亮の責任はどこにいったの?という史論がある。
いま諸葛亮は、不幸な誤解によって撤退(実質的に敗戦)した責任を、李厳に押し付けて左遷した。二頭体制のなかで順当な待遇・要求を、李平の野心・利己心だったと読み変えた。李平が野心・利己心で動いたのではなく、諸葛亮がそう決めつけて、政治的圧力によって「そうだったことにする」と決めた。李平の内面を、諸葛亮が公式見解として発表した。
馬謖は、諸葛亮の格下だから殺せば済んだ。しかし李厳は二頭の片割れ。敗戦を受けて(諸葛亮が責任を回避するために)先手をとって政争を開始し、火のない所に煙をつくり、李平を失脚させた。李平にしてみれば、二頭体制の協力こそあれ、政争のタネなんかないのだから、奇襲を受けて敗退するしかない。
己の栄利を求め……て、じつは諸葛亮のことではないか。
亮公文上尚書曰「平爲大臣、受恩過量、不思忠報、橫造無端、危恥不辦、迷罔上下、論獄棄科、導人爲姦、(狹情)[情狹]志狂、若無天地。自度姦露、嫌心遂生、聞軍臨至、西嚮託疾還沮、漳、軍臨至沮、復還江陽、平參軍狐忠勤諫乃止。今篡賊未滅、社稷多難、國事惟和、可以克捷、不可苞含、以危大業。輒與行中軍師車騎將軍都鄉侯臣劉琰、使持節前軍師征西大將軍領涼州刺史南鄭侯臣魏延、前將軍都亭侯臣袁綝、左將軍領荊州刺史高陽鄉侯臣吳壹、督前部右將軍玄鄉侯臣高翔、督後部後將軍安樂亭侯臣吳班、領長史綏軍將軍臣楊儀、督左部行中監軍揚武將軍臣鄧芝、行前監軍征南將軍臣劉巴、行中護軍偏將軍臣費禕、行前護軍偏將軍漢成亭侯臣許允、行左護軍篤信中郎將臣丁咸、行右護軍偏將軍臣劉敏、行護軍征南將軍當陽亭侯臣姜維、行中典軍討虜將軍臣上官雝、行中參軍昭武中郎將臣胡濟、行參軍建義將軍臣閻晏、行參軍偏將軍臣爨習、行參軍裨將軍臣杜義、行參軍武略中郎將臣杜祺、行參軍綏戎都尉盛勃、領從事中郎武略中郎將臣樊岐等議、輒解平任、免官祿、節傳、印綬、符策、削其爵土。」諸葛亮は尚書に文書を提出して、連名した。
この連名を見るに、諸葛亮によるクーデターという気がする。ライバルを倒すために、できるだけ多くの味方をつくって、突きつける。発端は、諸葛亮が失敗をごまかすことだった。動機としては弱い。しかし、クーデターが保身から始まり、やがて独裁体制をつくって、事後的に正当化される……というのは、司馬懿の正始の変にも見られたこと。
そうか。諸葛亮は、のちの司馬懿と同じことをやったんだなあ。
李厳が失脚する
乃廢平爲民、徙梓潼郡。李平を廃して民として、梓潼郡にうつした。
諸葛亮又與平子豐教曰「吾與君父子戮力以奬漢室、此神明所聞、非但人知之也。表都護典漢中、委君於東關者、不與人議也。謂至心感動、終始可保、何圖中乖乎!昔楚卿屢絀、亦乃克復、思道則福、應自然之數也。願寬慰都護、勤追前闕。今雖解任、形業失故、奴婢賓客百數十人、君以中郎參軍居府、方之氣類、猶爲上家。若都護思負一意、君與公琰推心從事者、否可復通、逝可復還也。詳思斯戒、明吾用心、臨書長歎、涕泣而已。」諸葛亮は、李豊に文書を与えた。「きみの父は漢室に非協力的なので失脚したが、きみは官職を失ったわけじゃない。蒋琬に協力してがんばれ」
諸葛亮は、李平を失脚させておきながら、その子供をフォローすることを忘れない。諸葛亮の人格が優れているからではなく、復讐・逆転を恐れたのだろう。だから、善意の指導者として振る舞った。
もちろん目的は、北伐を成功させるためである。邪悪な意図はないだろう。しかし、北伐を継続すべく、自分に権限を集中させた状況を保つためには、何をやってもいいのか。とぼくは疑問をもつ。
李豊を官職に残したのは、実際には李平にそれほど罪がなく、子を連座させるほどの理由を作れなかったからだ。だからなおのこと、李豊が「父は冤罪だ。敗戦の原因をつくったから無罪とは言えないが、罰が重すぎる。諸葛亮が責任をなすりつけた」と告発するのを警戒している。事実を唱えられると、いかに諸葛亮でも分が悪い。
十二年、平聞亮卒、發病死。平常冀亮當自補復。策後人不能、故以激憤也。豐、官至朱提太守。十二年、李平は諸葛亮の死を知り、發病して死んだ。李平は、つねに諸葛亮が補復してくれるのを願った。後任者にはできないことだと思い、激憤したのだ。李豊は、官は朱提太守に至る。150826
朱提については、2635頁。
習鑿齒曰。昔管仲奪伯氏駢邑三百、沒齒而無怨言、聖人以爲難。諸葛亮之使廖立垂泣、李平致死、豈徒無怨言而已哉!夫水至平而邪者取法、鏡至明而醜者無怒、水鏡之所以能窮物而無怨者、以其無私也。水鏡無私、猶以免謗、況大人君子懷樂生之心、流矜恕之德、法行於不可不用、刑加乎自犯之罪、爵之而非私、誅之而不怒、天下有不服者乎!諸葛亮於是可謂能用刑矣、自秦、漢以來未之有也。習鑿歯はいう。諸葛亮は、彼が罰した廖立・李平に、死を悲しまれた。諸葛亮の刑罰は正しかったのだ。
後世の美化・諸葛亮論がどのように展開するか、という史料として見ておきます。べつに、廖立・李平の涙の理由を、習鑿歯のように捉える義務はない。閉じる
- 蜀における文化資本の貯蔵庫:劉琰伝
劉備と同姓の文化人として、厚遇される
劉琰、字威碩、魯國人也。先主在豫州、辟爲從事、以其宗姓、有風流、善談論、厚親待之。遂隨從周旋、常爲賓客。先主定益州、以琰爲固陵太守。劉琰は、あざなは威碩、魯國のひと。先主は豫州にあり、辟して從事とする。宗姓であり、風流があり、談論を善くするので、厚く親待した。
ぼくは思う。劉備は陳羣を扱い切れずに、別れているが、劉琰は別れなかった。「風流あり」「談論をよくす」と書かれる程度の文化人であり、たいした文化資本の持ち主ではないから、劉備に付いてきてくれた(劉琰から見れば劉備よりも有力な群雄に採用してもらえず、劉備に付いていくメリットがあった)のだろう。徐州時代からといえば、麋竺を思い出すが、古参の部類である。
劉備が同姓を厚遇したという記述は、管見では知らないので、劉備の軍閥としての性格を考えるとき、けっこう気になる。『演義』で劉備は、作者が意図的に「劉姓によって助けられる」という演出をしてると、竹内先生が仰ってた。
周旋に随従して、つねに賓客となる。先主が益州を定めると、劉琰を固陵太守とした。
『華陽国志』はいう。献帝の初平元年、益州牧の劉璋は故陵郡を立てた。建安六年、故陵郡を巴東郡に改めた。またいう。巴東郡は、先主が益州に入ったとき、江関問いに改められた。……など、巴東と固陵は、郡名がなんども入れ替わる。上海古籍2636頁。
後主期、位は李厳につぎ、魏延と衝突
後主立、封都鄉侯。班位每亞李嚴、爲衞尉中軍師後將軍、遷車騎將軍。然、不豫國政、但領兵千餘、隨丞相亮、諷議而已。車服飲食、號爲侈靡。侍婢數十、皆能爲聲樂。又、悉教誦讀魯靈光殿賦。建興十年、與前軍師魏延不和、言語虛誕、亮責讓之。後主が立つと、都郷侯に封ぜらる。班位はつねに李厳につぎ、衛尉・中軍師・後將軍となり、
『集解』は「衛尉中軍師後將軍」と、あいだに点を打たない。どこで切れるのか。直前の李厳の官位と比べて、それに次ぐように読解すればよいのでしょう。劉禅が立った直後、李厳が都郷侯になるので、李厳伝の「三年先主疾病……以嚴爲中都護、統內外軍事、留鎭永安。建興元年、封都郷侯、假節、加光祿勳」と対応して、これが劉琰のすぐ上と考えればいいのか。
益州閥の李厳と、荊州閥(劉備の入蜀前から仕える)の劉琰を、ペアで捉えて、益州閥の顔を立てつつ、「名士」めいた劉琰をすぐ下に付けて牽制?対抗?させたという人事なのだろうか。あえて李厳との関係を引きあいに出したのは。
車騎將軍に遷る。しかし、国政にあずからず、但だ兵1千余を領し、丞相の亮に随い、諷議するのみ。
「諷議」は、ちくま訳では、批評や建議。
ぼくは思う。荊州閥の政治権力は、諸葛亮に集約してある。劉琰の役割は、荊州閥として官職の頭数を埋めて、朝廷の雰囲気を荊州閥に流すため。べつに多数決制ではないが(諸葛亮の独裁に近いが)荊州閥が、一定程度は官位を占めていないと、諸葛亮はやりにくい。車服・飲食は、号して侈靡となす。侍婢は數十おり、みな声楽ができた。また、全員が『魯靈光殿賦』を誦読できるようにした。
『文選』巻11にある。その序によると、魯の霊光殿とは、けだし漢の景帝の程姫の子である共王余が立てたものである。漢が衰微すると、長安の未央宮・建章殿が壊れたが、霊光殿だけは存続した。
『范書』はいう。王逸は、魯に遊んで『霊光殿賦』をつくったと。
何焯はいう。『霊光』を誦したのは、宗姓として劉備に随従した、劉琰だけである。(『范書』王逸伝がいうように)もとは魯国の王逸から出ているが、彼なりにアレンジしたものかも知れず、奢侈のなかでその風流ぶりを輝かせた。
ぼくは思う。漢=劉氏の優れた文化資本を保存するものとして、劉琰は振る舞っている。その文化レベルが、中原と比べてどうなのか分からないが、少なくとも劉備(転じて蜀漢)のなかでは、文化の保存者として、国威を保つのに一役買っている。劉備・劉琰の当事者は、そのつもりだろう。だから諸葛亮の政権下でも、特権的(政治ではなく文化において)に振る舞うことが許された。建興十年、前軍師の魏延と不和になり、言語は虚誕(でまかせ)なので、諸葛亮に責譲された。
きっと魏延は「戦時なのだから、財物・人材はすべて北伐に役立てるべきだ」と軍人として正しいことを言ったのだろう。しかし劉琰は、「ちがう価値コードで動いているの。魏延は無粋ですね」と、徴発したのだろう。劉琰は古参なので、魏延もこれ以上は言えない。諸葛亮は気を遣いつつ、魏延を逆なでされたら北伐に支障が出るので、しぶしぶ苦言を呈したか。
琰、與亮牋謝曰「琰、稟性空虛、本薄操行、加有酒荒之病。自先帝以來、紛紜之論、殆將傾覆。頗蒙明公、本其一心在國、原其身中穢垢、扶持全濟、致其祿位、以至今日。閒者迷醉、言有違錯。慈恩含忍、不致之于理、使得全完、保育性命。雖必克己責躬改過投死以誓神靈、無所用命則靡寄顏」於是、亮遣琰還成都、官位如故。琰、失志慌惚。劉琰は、諸葛亮に牋を送って謝った。「わたし劉琰は、稟性は空虛で、本より操行に薄く、加えて酒荒の病がある。先帝より以来、紛紜の論、殆うく傾覆しそう。泥酔して失言したけど許して。殺さないで」と。諸葛亮は、劉琰を成都に還し、官位はもとのまま。
兵1千余を率いたから、きっと漢中にいたのだ。漢中の駐屯地において、魏延と酒席で言い争ったのだろう。きっと諸葛亮は、同じ席にいた。気まずそうに、諸葛亮のほうを見る諸将。諸葛亮は「劉備に大切にされた文化人ワクだ。扱いにくいな」と思った。きっと面目をつぶさぬように、場を改めてから、劉琰をとがめたのだろう。とか、軍事に集中したいのに、余剰人員を抱えるから面倒くさい。
劉琰のような人を遊ばせるのが「大国の余裕」だと思うのだが、一大事業である北伐の最中に、付き合い切れない。魏延の不満は、諸葛亮自身のものだろう。劉琰は、志を失って慌惚となった。
妻が、劉禅と浮気したと疑う
琰、失志慌惚。十二年正月琰妻胡氏、入賀太后。太后、令特留胡氏、經月乃出。胡氏有美色、琰疑其與後主有私、呼卒五百撾胡、至於以履搏面、而後棄遣。胡、具以告言琰、琰坐下獄。有司議曰「卒、非撾妻之人。面、非受履之地」琰竟棄市。自是、大臣妻母朝慶遂絕。十二(234)年正月、
諸葛亮が最期の北伐をした歳。きっと諸葛亮の主要な人物は、みな北伐に行った。そのとき、劉琰はこんな下らないことやる。もうジイさんだろうに。劉琰の妻の胡氏は、入りて太后に(新年を)賀す。太后は、とくに胡氏を留めおき、月を経ても出ず。胡氏は美色あり、劉琰は妻と後主が私通したと疑い、卒五百を呼び、胡氏を打たせた。
卒が500人で妻を打ったのではない。ちくま訳は「五百(吏卒)」として、五百とは、吏卒と同義とする。
潘眉によれば、「卒」が衍字。もとは500人をひきいた統率者の官名が、官名だけ残って、500人を率いていなくても「五百」と言うようになったと。上海古籍2638頁。
履で面を打つまでして、棄てて放り出した。胡氏はつぶさに劉琰の仕打ちを訴え、劉琰は下獄された。有司が議した。「卒は妻を打つひとではない。面は履を受けるところではない」と。劉琰は棄市された。
おもしろい話だけど、しょーもな。諸葛亮が戦っているときに、何をやっているんだ。北伐でも、決して蜀がひとつにまとまっていなかったことが分かる。逆に、国の大きさや幅を感じさせるので、ぼくはこの話が嫌いではない。徐州時代の劉備から仕えておきながら、こんな最期なんて。これより、大臣の妻母の朝慶は遂に絶えた。150826
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- 郭攸之ないしは郭演もしくは郭演長について
2つの問題を設定する
上海古籍版『集解』廖立伝や、ちくま訳は、廖立が批判したひとを「郭演長」とする。廖立伝を「中郎郭演長、從人者耳、不足與經大事」と読んだ結果です。上海古籍版『集解』董允伝にひく趙一清は、董允伝に出てくる郭攸之の諱を「演」として、その根拠を「中郎郭演、長從人者耳、不足與經大事」と廖立伝を読むことに求めている。
趙一清のおかげで、問題が2つに増殖した。問題1:廖立が批判したのが郭演なのか郭演長なのか。問題2:郭演ないしは郭演長は、出師の表に出てくる郭攸之と同一人物なのか。
ひとつめの問題は、二字名が珍しい時期なので、郭演だと思う。対句で読むなら、「向朗文恭、凡俗之人耳」と釣り合うのは、「中郎郭演、長從人者耳」だろう。というわけで、廖立が批判したのは、郭演(姓+諱)。
ふたつめの問題は、同一人物であってほしい(希望です)。つまり「郭演、あざなを攸之という」であってほしい。官職やキャラクターは一致するのだ。董允伝でも廖立伝でも、侍中となり役立たずだった。
この希望が実現するには、『演』が忌避される必要がある。孔明はそんな親族がいなさそう。出師の表が転記されるプロセスのどこかで、父祖が『演』という人物が複写をおこない、その系統のテキストが、やがて陳寿『三国志』に使われた。陳寿は廖立伝で『演』の字を使っているのだから、陳寿が忌避したのではない。諸葛亮から陳寿のあいだのどこかで、『演』を忌避するひとが挟まってくれないと。
自分で書いておいてナンですが、あまりに確率がひくい。すると、郭演と郭攸之は別人である、という結論になる。それでもいいです。名が『演』といえば、たとえば麹演。涼州の麹演の子が、魏に父を殺された恨みで、蜀に流れてきて、文才を活かし……と、ここまで書くと妄想しすぎ。
郭演か、郭攸之か
@Rieg__Goh さんはいう。(郭攸之の諱を『演』とするのは)面白い説だが、出師の表で「侍中侍郎郭攸之、費禕、董允等」と言ってるのだな。これで郭攸之だけ姓+諱ではないとするのは難しい。袁術配下の張闓陽(張闓と同一の可能性)という諱が二字の例もある。
@Golden_hamster さんはいう。郭攸之の諱が、諸葛亮あるいは収録者などが避ける必要のある字だった可能性もあるんじゃね。むしろ「長従人者」の解釈の方が興味ある。だから件の説は「そんなのありえない」ではなく、「長従人者」と切った方がいいのか、わからなくなるのか、の方を気にするべきじゃないかと思うのですよ。
避ける必要のある文字、というのはぼくも同意見です。しかし、どちらの切り方のほうが、意味が分かるかといえば、判定に苦しむ。対句だろうという期待から、「長従人者」のほうに魅力を感じてます。@darql さんはいう。霊帝代にも、公族進階(公族が姓、進階が諱)というすごい名前の党人がいますね。他にも後漢で二字の諱は、叔孫無忌の無忌、魏斉卿の斉卿、梁不疑の不疑などがありますね。
-------------------------------------------------------------バビさんからのツイートより
@HAMLABI3594 さんはいう。諸葛亮伝と董允伝は「郭攸之」。廖立伝は「郭演」。多数決では郭攸之に分がありそうだが、諸葛亮伝・董允伝は同一資料(出師の表)を使用しているため、実際は1:1。5世紀の「沈攸之仲達」は「郭攸之演長」であることの証拠にはならない。となると、
「出師の表」で姓+字で記すことはありえないので、書いた人間は郭攸之が姓+諱と認識したのである。そして郭演が本名であるならば、同時期に生きた者が郭演を郭攸之と書くわけがないのだから、張一清の指摘は「出師の表」の作者は諸葛亮ではないと言うのと同じである。
@HAMLABI3594 さんはいう。出師の表の元資料は諸葛亮の文であろうが、それを元にして「出師の表」を組み上げた者は別人であろう。諸葛亮の生前に出師の表は存在しなかったのである。蜀魏滅亡後の晋王朝において旧蜀漢人士は冷遇された。彼らの評価を高めるための求心力として選ばれたのが諸葛亮である。「あの諸葛亮に仕えた××の子孫が彼です」といった具合である。出師の表は西晋期に遂行された諸葛亮偶像化キャンペーンの一環であろう。存在したとしても現行の「出師の表」ではなかった、美文ではなかった。
バビさんに向けたぼくのツイート
バビさんの議論が破綻していると思ったので、意見を書きました。
上の結論をまとめる前に(まとめる過程で)書いたものです。よく見ると一貫性がないかも知れませんが、せっかくなので転載しておきます。前提を書きます。ぼくは、郭「攸之」が諱かあざなか分かりません。郭攸之と「郭演」が同一人物か確定できません。また旧蜀の人士が晋で地位の向上を願い、その手段が諸葛亮の顕彰だという結論を否定しません。でも出師の表の検討からこの結論に至る道筋を「破綻」と書きました。
上表は諱を用いるのが規則で、費禕ら列挙された他の者も諱です。出師の表を字面どおり読めば「攸之」は諱。でも王莽が二字名を禁じてから、後漢の人はほぼ一字名です。帰納的に「攸之」はあざなと推測されます。東晋に二字名が復活し、王羲之ら二字目「之」も現れますが。
もちろん二字名の例外があるのは、知っております。しかし、例外を当てはめて終わりではなく、もうちょっと考えます。
「攸之」があざななら、なぜ諱を避けたか。皇帝の諱を忌避したと見るのが最も確率が高いでしょう。避けた時期も、A諸葛亮の作成時、B蜀内で転記したとき、C晋で転記したとき等の候補が想定できます。
Aは郭攸之の生来の諱が(蜀)漢の忌避に抵触する場合。“郭攸之の親が命名したとき忌避の対象でなかったが、後で対象となった”なら、後漢の皇帝でなく「備」「禅」かその父系か。途中で改名しても良さそうですが。Bは同じ事情で、蜀の転記者が忌避のため加工したパターンです。(前述のように諱が「演」で確定ではない前提でこれを書いています)
このツイートをしたときは、忘れてましたが、転記者の親の字を避ける必要もありました。范曄が『泰』を忌避するやつです。Cは例えば「昭」なら「曜」に置換すればよく、可能性は低いかも。バビさんは、出師の表の筆者が「攸之」を諱と認識し、同時代に生きた(本名を知る)者が、諱の「演」を知らぬはずがないとされますが、本名を知る人でも忌避する可能性があり、後世の作と決まりません。
『集解』董允伝は趙一清の「演 豈に攸之の名ならんや」を引き、推量に留まります。Jominian氏が、廖立が批判した郭演は、出師の表に見える郭攸之より上の世代ではと指摘されましたが、郭演と郭攸之が別人の可能性が残り、忌避すべき諱だった可能性は残ります。
ぼくは、郭演と郭攸之が同一人物だったらいいな、と思っていますが、突き詰めて考えれば、「決まらない」と言わざるを得ません。つまらないけど。趙一清に従って郭演と郭攸之を同一人物としても(=忌避でない場合)バビさんの想定する後世人は、何かの原史料で「郭演」を見て「諱は攸之」と書き直したことになります。かなり事情通による作業ですが、想定される後世人は当該人物の諱を知らない人のはず。矛盾します。
あえて別のパターンを想定するなら、
後世人は原史料「郭演」を「郭攸之」と書き換えたのでなく、例えば晋代の郭某から「わが祖先の攸之は、諸葛亮に仕えたという伝承がある。加筆せよ」と頼まれて捏造したなら、明らかに浮く二字名で表記するのは不自然。一族の盛衰に関わる捏造にしては、不注意すぎます。
バビさんの想定する後世人は、旧蜀の名声を高めるため、「郭攸之」を登場させたことになります。二字名が不自然な上に、『三国志』でほぼ事績が不明な(もしも廖立伝に見える郭演と同定されたら、むしろ諸葛亮の人物眼が疑われる不名誉な)人物をなぜ書いたのですか。廖立伝において廖立は、怒りのあまり錯乱して、劉備・関羽すら批判している。つまり、「狂った廖立に批判された郭演は、逆に有能なのだ」という話が、深読みにより、成り立たないわけじゃない。しかし、ひねくれすぎ。
史実の郭演が実際にどういう人物だったかではなく、郭演という(歴史上の人物が)、バビさんのいう出師の表を偽作した後世、周囲の人々からどのように認識されていたか?という受け手側の反応をカウントして、郭演の名を出師の表に入れるメリット・デメリットを考える必要がある。郭演なんて入れないほうが、すんなりと諸葛亮の政治家ぶりを顕彰できる。想定される後世人が、当該人物のことを熟知するのか、もしくは諱すら知らずに「攸之」を諱と取り違えたのか。郭攸之を出師の表に出すことが、なぜ旧蜀の顕彰になると思ったのか。後世人の知識の背景や意図が不明で、もしくは矛盾しており、ぼくには「破綻」に見えます。
郭攸之の名前が、原典を転記・抜粋・拡張・装飾されてゆく途中で混入されたことは想定できますが、出師の表の全体(内容・美しさ)に疑問を呈するのは飛躍しすぎです。以上です。
など、けっきょく結論は出ない話なので、このあたりで。150826閉じる