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津田資久「劉備出自考」より

はじめに

劉備の出自は、『陳志』先主伝の「母とクツをあきなひ、ムシロをおりて業となす」という貧困さの記載と、群雄のもとを転々とした軍事集団の領袖であるため、社会の下層に出自する傭兵隊長と理解されることがおおい。

概説書では、没落士人や下層民、ないしは無頼のごとく捉えられる。
岡崎文夫『魏晋南北朝通史』では、貧困であるが、挙動がひとと違うので、信頼を得て、地方の商人がカネをあたえて治安を維持させたという。宮崎市定『世界の歴史(七)』では、祖父はやっと県令だが、父が早く死んだので、孤児となった。吏と民のあいだのスレスレの階級。もう少し上流なら、一族ののものがもっと経済的に援助してくれたはず。
渡邉義浩『図解雑学三国志』は、漢の一族と称するが、一族の力は弱い。学費を出してくれる劉元起がおり、まったく一族がいないわけではない。実態は、武力だけを頼りにした傭兵隊長に過ぎなかったと。
金文京『中国の歴史01 三国志の世界』は、父は無官、同郷の盧植に支持したが、勉強ギライで、犬と馬・音楽・服が好き。要するに遊び人。人望があって、若者のちょっとした親分。

徐徳嶙『三国史講話』1955は、「劉備は幼年のとき貧民の生活をあじわったが、基本的には、官僚・地主階級の人物であり、劉備がやったのは農民革命ではない」とする。 高島俊男『三国志きらめく群像』2000で、祖父の経歴をみれば、地方豪族の家柄だった。豪族といっても下のほう、豊かではなく、庶民と同じように生計を立てることもあった。
上谷浩一「劉備玄徳の青年時代―『三国志』研究ノート(一)」によると、県レベルではかなりの家柄で、貧困は、孝廉に選ばれるため、家庭状況を清貧に装うことがあったとし、盧植への入門は、公孫瓚の兄事のほかに、当時の知識人との交流経験を得たことに意義がある。諸葛亮の心を捉えることにつながると。

1 漢宗室世系問題

◆先主伝と、『漢書』王子侯表との不整合
『陳志』先主伝に「漢景帝子中山靖王勝之後也。勝子貞、元狩六年封涿縣陸城亭侯」とある。
『漢書』巻十五上 王子侯表上 陸城侯貞の条によれば、先主伝にある「元狩六年(前117)」は、「元朔二年(前127)」の誤りであり、「陸城亭侯」は「陸城侯」の誤りである。この表によれば、劉貞は、元鼎五年(前112) に爵位を失った。
劉貞が陸城侯にはじめて封じられたとき、陸城県は涿郡に属する。成帝の綏和元年(前8) 中山国に徙された。だから先主伝の「涿県」は「涿郡」の誤りであろう。周振鶴を参照。

ぼくは思う。劉備の出自は、蜀漢の政権の存在意義を決めるわりには、陳寿は『漢書』との照合すらできてない。ほんとうに正統化するつもりか? 孫堅の出自は「けだし」孫子の後裔だと、わかるように疑問を呈しているから、素直である。劉備の出自を、わざとミスって信憑性を下げたなら、かなり悪質で巧妙に、劉備を貶めている。
……と思ったけど、『漢書』を(前漢の爵制の理解不足を含みつつも)改変して、劉備を皇族の系譜に接続させるという、トリックが劉備集団で行われた、というのが津田論文の結論。改変したんだから、『漢書』と整合しなくて当然。しかし、理解不足により「糊が剥がれた部分」が見えてしまったという。順に論文をひきます。

「劉勝の後なり」とは、おなじ先主伝で、皇帝即位を勧進する上言に「中山靖王の胄」とある。

◆臨邑侯の末裔(ではない)
魚豢『典略』には「もとは臨邑侯の枝属」とある。後漢の臨邑侯の劉復の末裔とする。ただし胡三省によると、祖父より前は分からんと。
『范書』巻十四 劉縯伝にふす劉興伝によれば、劉復とは、光武帝の兄の劉縯の孫・北海王の劉興の子。

臨邑侯の劉復とは別に、臨邑侯の劉譲が史料に見える。
『范書』光武帝紀 建武二年に、「真定王の劉楊・臨邑侯の劉譲が謀反した。前将軍の耿純が誅した」とある。李賢注は、「劉楊は、景帝の七代孫で、劉譲とは劉楊の弟である」とする。
『漢書』巻十四 諸侯王表 常山憲王の劉舜の条によると、劉楊・劉譲は、王莽の簒奪によって公爵におとされ(008) 翌年に廃された。『范書』と整合させるなら、劉譲・劉楊とも、このとき前漢期の爵位に戻されていたことになる。しかし、……

引用してて、ワケが分からんのですが、「分からん」でいい。津田氏も、この接続はできないと言うのだから。

津田氏いわく、李賢注のとおりではない。『漢書』にみえる前漢末の「臨邑侯の劉譲」と、『典略』の「臨邑侯」を同じとすることはできない。

『典略』と、『范書』とその李賢注は繋がらなくなったが、『典略』が正しいのかどうかは、ぼくは論文だけを見て、よく分からなかった。


◆涿県の劉氏
涿郡劉氏といえば、『陳志』巻十四 劉放伝に、
劉放、字子棄、涿郡人、漢廣陽順王子西鄉侯宏後也。歷郡綱紀、舉孝廉。……景初二年遼東平定。以參謀之功、各進爵、封本縣。放方城侯、資中都侯。とある。
涿県の東南に隣接する、方城県の劉氏である。洪适『隷続』巻十二「劉寛碑陰門生名」に、「□邑長涿郡方城劉播叔□」とある。方城劉氏はこのように見えるが、涿県劉氏は、劉備のほかに見えない。

先主伝は、陸城侯とするが、中山国の陸城県は、涿郡の涿県とちがう。

そりゃそうじゃ。

どうして劉備は、陸城侯の末裔だと想定されたか。
『漢書』巻十五 陸城侯の劉貞の条に「玄孫」には「涿」と記される。「涿郡」と「涿」のかき分けがあるから、単なる「涿」は涿県のことを指すと見なして、
先主伝をつくるとき、『漢書』の「陸城県の県侯」という記載を、あえて「涿県の陸城亭の亭侯」と変更した(陸城を県から亭に降格させた)のだろうか。この変更により、「涿郡劉氏」が『漢書』と繋がって存在できる。

変更しないと、劉備は劉勝の末裔になれない。


『陳志』巻三十一 劉璋伝にひく裴松之は、「漢高祖のときの列侯は、郷侯・亭侯はいなかった(県侯よりも上にしか、侯の設定がなかった)」という。
『漢書』には、郷侯・亭侯はない。
『続漢志』巻二十八 百官五 列侯の条には、「列侯とは、県をはんで侯国となる」とある。「本注」にいわく、「功績が大きいと県をはみ、小さいと郷・亭をはむ」とある。
楊光輝『漢唐封爵制度』によると、後漢になって列侯が三等級に分けられ、県侯(国侯)・郷侯・亭侯となった。陳寿もしくは陳寿の元ネタの考案者(蜀漢の公式見解を発案したスタッフ)は、「陸城郷侯」を想定してもよかった。あるいは「陸城亭」が涿県にあったか。
杜佑『通典』巻十九 職官一 封爵の条には、「漢には、国王・国侯・亭侯の三等がある」「後漢もまた三等なり」とある。『通典』と同じ認識があって、劉備の祖先は、国侯につぐ亭侯と(設定・創作)されたのかも知れない。

いずれも前漢の記述としては明らかな誤りで、後漢の爵制だけの理解に基づいて、劉備の祖先をでっちあげたということは変わらない。


真偽は別として(というか、おそらく偽であるにせよ)
由緒ある宗室であることを強調した。漢の皇統が、景帝-武帝から、武帝の弟である劉発にはじまる後漢につがれ、劉発の弟である劉勝にはじまる劉備につがれた、という「兄弟相続」の関係を明らかにすることが目的であった。

@TAKEUTIMasahiko さんはいう。「陳寿が何を参照して此処を書いたか」が確定できないと、色々と難しいですが、『漢書』を参照していれば「元狩六年」という年号は出て来そうにないですね……。ただ、曹操の出自を記す際、曹嵩の出自を「審らかでない」と書いてしまう人間が「言外に貶める」ようなことをするかな……という気はします。むしろ、先主伝は、劉貞から劉弘の間について一切言及しないことで、景帝と疑いなく繋がっていると「見せかける」意識があるような。
ぼくは思う。蜀臣でも、気の利いた『漢書』の読者なら、政府が「劉備は景帝の子孫」と論証できなかったとクールに気づけます。系図を舜に繋げたり(昔すぎて論証できなくても可)、感生帝説に託したり(論証は不要)せず、有史時代に政権の根拠を求めた副作用です。というか、有史時代(比較的さいきんの漢代)に根拠があるからこそ、劉備は王・帝になれたのですが。「副」作用は不可避です。
ぼくは思う。「魏王の曹操が誕生」と誕生に立ち会った人は記述できない。眼前の赤子が魏王になるとは知り得ないから。歴史叙述をするとき、遡及的に情報を付与することを避けられない(付与しないと、記述が成り立たないか、ひどく非効率になる)。同じことが、劉備の血筋でも起こる。劉備が景帝の子孫と決まるのは入蜀後。それ以前、劉備ですら、自分が景帝の子孫だと知らない。
曹操が魏王「になる」のは誕生より後。劉備が景帝の子孫「である」のは誕生より前。この違いにより、曹氏の赤子が「生まれながらに魏王」と自覚していた……とする誤解は起きにくいが、劉備を「生まれながらに景帝の子孫」と誤解しがち。誤解に基づいて、史書・物語が作られる。つまり、入蜀以前に、劉備が景帝の子孫であることを、知っているかのように振る舞わせてしまう。この誤解が大いに伝染する!


◆劉表のところで喧伝し、魚豢が採録
では『典略』の臨邑侯の劉復の「枝属」は、なぜ書かれたか。
『陳志』巻三十一 劉焉伝に見えるように、本宗と支属は、おなじ地域に居住して、おなじ本貫となるはず。劉備は、東郡の臨邑県のひとでなければおかしい。『典略』や『魏略』に、魚豢が劉備を「涿郡のひと」と認識していた記載はない。魚豢は劉備を「東郡のひと」と認識していたかも知れない。
魚豢は劉備を、漢室の宗族としているのだから、貶めにもなっていない。

劉備を宗室とする言説は、『陳志』諸葛亮伝の隆中対で「帝室の冑」とあるのが初出。荊州に亡命する以前には見られない。以後、赤壁の前に諸葛亮が「王室の冑」といい、劉璋伝で張松が「使君の肺腑」という。漢中王に推戴するとき「肺腑・枝葉、宗子・藩翰」とある。
劉備を宗室と見なすのは、荊州に亡命したあと。さらに、劉備が劉勝の子孫であることは、皇帝即位を勧進するとき、はじめて出てくる。

京兆の魚豢は、同郷の陳キに師事した。『魏略』儒宗伝にある邯鄲淳と面識がある。魚豢・邯鄲淳は、劉表のもとに避難した。『陳志』巻十三 王粛伝にひく『魏略』儒宗伝および「魚豢曰く」のところ、『陳志』巻二十一 王粲伝にひく『魏略』邯鄲淳伝。
『陳志』巻二十一 王粲伝にひく「魚豢曰く」に、魚豢は王粲と面識があり、同郷の韋端に取材をした。韋端とは、『魏略』の藍本と見られる曹魏「国史」である『大魏書(散騎書)』の編纂をした。魚豢のの先輩である。
魚豢が、劉表のもとで、劉備に関する情報を入手したのでは。
『陳志』巻二十三 裴潜伝では、北にかえった裴潜が、劉備について曹操から質問を受けている。聞き取りは行われていた。

荊州で、劉備は「臨邑侯の枝属」を自称したのだろう。これは、劉表との近しさを演出するため。
武帝紀にひく『魏武故事』によると「劉表は宗室」であり、劉表伝にひく『零陵先賢伝』で劉先が劉表を「漢室肺腑」という。陳寿は劉表の出自を本文で書かないが、そう認識されていたよう。
『蔡邕集』巻三の「劉鎮南碑」に「これを伯父と謂ふ」とあり、献帝から「伯父」と認識されている。

ぼくは思う。荊州に行く前、まだ献帝と接点のあったころの劉備が「皇叔」であるはずがない。『蔡邕集』にひく『劉鎮南碑』によると、献帝から「伯父」といわれたのは劉表。物語の劉備のモデルは、劉表でしたと。

『范書』劉表伝は、「魯恭王の後」とする。景帝の子・劉餘の末裔とする。この世系は、劉焉と同じである。劉表・劉備は、魯恭王の劉餘・長沙定王の劉発の兄弟の子孫である。また、劉備が「発見」した祖先は、東郡の臨邑県に封建され、山陽郡の高平県の劉表とおなじ兗州。「州里」の関係になる。

津田氏曰く、「州里」とは、『陳志』呂布伝にひく『英雄記』で、呂布が「州里」である張楊に保護を訴える。政治的利害を超越しても、便宜を図らねばならぬ社会的規範である。


劉備は、曹操のところから逃げるため、「臨邑侯の枝属」とする世系が創作され、劉表との亡命交渉で使われたのでは。『陳志』劉表伝で、劉表は劉備を政治的には用いないが、礼遇してもらった。漢の宗室・「州里」が喧伝された結果。

ぼくは思う。劉備は最下層の貧民ではく、下級官僚・豪族の家柄であったにせよ、それだけで群雄を圧倒できない(汝南袁氏レベルで初めて有効)。しかし、これまで群雄闘争で「資本」だと認識されたことのない「宗室」を切り札に、劉表・劉璋を味方にした。ふたりとも「宗室」という新種の「資本」の価値を認めて、市場に取引銘柄として登録してもらえば、自分にもメリットがあった。利害が一致。
劉備が新たに発行した「宗室」という株券の価値を、みごとに宣伝・運用によって高めたのが諸葛亮。赤壁の前、孫権に「劉備は宗室」をアピール。宗室だから強い、宗室だから信頼できる、なんてことは、前例も根拠もないのに。株券そのものに使用価値があるのでなく、みなが有効と認めるから(交換価値があるから)価値が生じた。雪だるま式に「宗室」の価値を水増しした。
あげく「宗室」という紙切れ・空文は、劉備が漢中王・皇帝になる原資となる。


2 涿郡涿県劉氏

劉備について信頼できるのは、祖父以降。
父の劉弘が早世した。劉備の母子が「貧窮」するなら、祖父の劉雄も死んでいただろう。そんな劉雄が「孝廉」に挙げられ、劉備が『論語』為政篇どおり十五歳で遊学したなら、同県では儒学にいそしむ「諸生」の家。
『范書』巻八十一 独行 劉茂伝に、永初二年(108) 平原令であった本貫不明の劉雄がいる。劉備の祖父と同一人物であれば、范県令となる前に平原令だったことになる。

福井重雅『漢代官吏登用制度の研究』によれば、孝廉には、経学を履修する儒生を対象としたものと、法令を遵守する文吏を対象としたものの、2種類の試験区分があった。
劉備と同宗の劉徳然も、儒者である盧植にまなんだ。儒学を学ぶ家風は、祖父の代からあったのだろう。儒生の試験区分で、孝廉に挙げられたのでは。

『水経注』巻十二 巨馬水の句注に、劉備の生家がある。「楼桑里」が記憶されていることから、庶民の家族ではない。
巨馬水又東,酈亭溝水注之。水上承督亢溝水于逎縣東,東南流,歷紫淵東。余六世祖樂浪府君,自涿之先賢鄉爰宅其陰,西帶巨川,東翼茲水,枝流津通,纏絡墟圃,匪直田漁之贍可懷,信為遊神之勝處也。其水東南流,又名之為酈亭溝。其水又西南轉,歷大利亭南入巨馬水。又東逕容城縣故城北。又東,督亢溝水注之,水上承淶水于淶谷,引之則長津委注,遏之則微川輟流,水德含和,變通在我。東南流逕逎縣北,又東逕涿縣酈亭樓桑里南,即劉備之舊里也。又東逕督亢澤,澤苞方城縣,縣故屬廣陽,後隸于涿。

津田論文を読んでますと、「劉備は、食うや食わずの貧困層から成り上がった」という先入観と戦っているようです。いまいち、その仮想敵が共感できません。 先主伝を読んで、極貧!とは思わなかったし、物語でも最下層!が強調されるわけじゃないと思う。貧困の最下層!って、どこから湧いたイメージ? 朱元璋とか、豊臣秀吉とか、いろんな英雄譚がまざって、ワケが分からなくなったのだろうか。

『宮崎市定全集〈七〉』の「漢末風俗」によると、孝廉には学問が必要。ぎゃくに学問に就くとは、選挙に応ずるという意思表示であると社会から見られたと。劉雄も、選挙に応ずる前提だった。
「世よ州郡に仕ふ」というのも、劉雄・劉弘の父子だけでなく、文字どおり涿郡劉氏が、属僚を輩出したことを示す。

『陳志』巻三十三 後主伝の263年、鮮于輔がでてくる。劉禅と「州里」の関係にある漁陽の鮮于輔が、劉備が没した直後に使者にきた。鮮于輔は、かつて幽州従事である。漁陽鮮于氏が、州郡の属僚を輩出しているから、涿郡劉氏と親交のあった家として、派遣されたのかもしれない。漁陽鮮于氏は、張伝璽を参照。

孟達は、劉備の叔父の劉敬をはばかり、改名した。叔父と劉備の関係は、近かった。劉備の叔父が益州にいたと推測する。
劉備は、緊密な宗族の聚落のなかで成長したのであり、同族的な支援は大切である。非凡な子を学者につけ、同宗に還元させる仕組みである。五井直弘「豪族社会の発展」(『漢代豪族社会と国家』)
宗族は、劉備と「豪侠」の交際や、政治的活動に、協力的だったかも。

3 劉備における盧植の存在

◆盧植に師事して、洛陽で社交する
劉備は15歳=熹平四年(175) 盧植に師事。劉知幾『史通』巻十二に「熹平中(171-177) 光禄大夫(『范書』盧植伝では諌議大夫)の馬日磾・議郎の蔡邕・楊彪・盧植は、東観に著作し、紀伝の成るべきを接続す」とある。
『范書』盧植伝とあわせると、盧植は九江太守を辞してから、まもなく廬江太守となり、「歳余」とある「熹平中」に議郎に召還された。廬江太守に熹平五年(176) より赴任して、翌年に議郎になった。先主伝に「もと九江太守の同郡の盧植」と書かれるなら、熹平四年(175) となる。ツジツマがあう。
『范書』公孫瓚伝に、盧植に学んだのは、洛陽の東方にある[糸侯]氏県の山中である。上谷氏によれば、盧植が洛陽のそばにいたのは、執政の竇武に献策するなど、中央政界とコネを保つため。

盧植は、馬融の「門人冠首」(『世説新語』文学篇にひく『鄭玄別伝』)といわれ、豪快な「任骨の武人」「武人型人間」であった(杉浦豐治「鄭玄と盧植―礼記注をめぐって―」、池田秀三「盧植とその『礼記解詁』)。儒学と官僚生活をつうじて、広範な人脈を有した。
洛陽の社交界を意識して遊興する劉備であるが、盧植の名声は、有利な政治的条件を与えた。宮崎市定「漢末風俗」によれば、贄を贈って師事すると、門弟の名簿に登録され(著録≒キリスト教の洗礼)これにより社交界はその青年に注目し、批判したり優劣を論じたりする。汝南の月旦表のごときもの。
ただし現存する史料で、盧植の門生は、劉備・劉徳然・公孫瓚のほかに、高誘(『戦国策』『呂氏春秋』『淮南子』に注釈した)しか確認できない。幽州を「州里」とするものが多かった。

◆盧植・劉寛に師事した公孫瓚
劉備と親交のあった公孫瓚は、劉寛の「門生」でもある。劉寛は、霊帝に「講経」した「通儒」であり、その時期は、盧植に師事して「読経」した時期に重なる。
『陳志』公孫瓚伝、『范書』巻二十五 劉寛伝とそれにひく謝承『後漢書』。また『隷続』巻十二「劉寛碑陰門生名」は中平二年ごろ立てられたが、「涿令・遼西令支の公孫瓚伯圭」と見える。方詩銘『曹操・袁紹・黄巾』によると、『范書』『陳志』公孫瓚伝に、劉寛に師事したと見えないから、名を連ねたに過ぎないとするが、そうとは限るまい。
『太平御覧』巻五百八十九 碑篇にひく『述征記』によると、「下相城の西北、漢の太尉たる陳球の墓に三碑があり、墓に近い碑には、弟子の盧植・鄭玄・管寧・華歆ら六十人を記す」とある。盧植や鄭玄は、馬融に師事する前に、陳球に入門した。
劉寛の碑を立てるとき、公孫瓚は「千銭」を出した。ほかと比べて、比較的高額である。公孫瓚は劉寛と密接であった。公孫瓚がのちに商人を優遇しても、儒学を媒介とした繋がりを否定すべきでない。

劉備は、遊興のために公孫瓚と交際したと思われがちだが、『范書』本伝で「世よ二千石」の子弟として、大儒(盧植・劉寛)のそばにいた。劉備も政治目的で接近したのだろう。
潘民中「劉備が『陳元方・鄭康成のあいだを周旋する』考」(『許昌師専学報』2000年6期)によると、劉備が読書を楽しまないのは、同学との比較である。向学心が低いとはいえない。先主伝にひく『諸葛亮集』が載せる遺詔には、いつ修得したか分からないが、『易経』繋辞下伝からの引用が見られる(何焯『義門読書記』巻二十六)。劉禅には、『漢書』『礼記』と諸子を勧めるが、自分が読んだような口ぶり。『范書』盧植伝によれば、盧植は「よく古今の学に通ず」で、『礼記解詁』をつくり、「史才」が求められる『東観漢記』にも従事した。
劉備の兄弟弟子の高誘は、諸子を注釈した。劉備も、学問してた。

◆有力豪族との交際
劉備は、盧植とおなじ気質があったのか、「豪侠」と称せされる地方有力者や、「年少」と親密にした。
豪侠とは、『陳志』巻十一 王脩伝に「高密の孫氏は、もとより豪侠」とあり、巻十二 司馬芝伝に「郡主簿の劉節は、旧族にして豪侠」とある。不法行為も辞さない賓客をおおく蓄え、所有地に官憲が介入できない、勢力のある豪族のこと。劉備が交際したのは、こういう人々。関羽・張飛ばかりではない。

『太平御覧』巻四百九 交友篇にひく「牽招碑」によれば、牽招と劉備の関係が、
《孫楚牽招碑》曰:初,君與劉備少長河朔,英雄同契,為刎頸之交。有橫波截流、柎翼橫飛之志。俄而委質於太祖,備遂鼎足於蜀漢。所交非常,為時所忌,每自酌損乎季孟之間。とある。
『陳志』巻二十六 牽招伝には、儒者の楽隠から学問を習った。楽隠が車騎将軍の何苗の長史になると、牽招は洛陽についていった。学問のために洛陽にいった牽招が、面識がなかったであろう劉備と「刎頸の交」を結んでいる。ふたりの共通点は学問だけ。
たんなる侠客の交流だけでなく、盧植の門生として、儒学を媒介に交際した。盧植の門生であることが、最大の資本になった。
『范書』何進伝によれば、何苗が車騎将軍になったのは、中平四年(187) で、楽隠が長史になったのも同じころ。劉備と牽招は「少」きときから付き合いがあり、「刎頸」となったので、これより前、かつ劉備の出仕以前。

中山の大商の張世平が出資したのは、盧植の門生だから。
このとき公孫瓚が涿令。『范書』公孫瓚伝は、涿令になったあと「光和(178-184)」に涼州が反乱する。『范書』霊帝紀にある中平元年十一月の義従胡の反乱のこと。光和期より前に、公孫瓚は涿令であった。劉寛の碑を建てる中平二年までには、もう涿令に就いていた。
張世平の出自は分からないが、中山張氏は、『隷釈』巻十二「太尉楊震碑」(168年に立つ)に、楊震の孫・楊統の門生として2名みえる。西晋「辟雍碑」(267年に立つ)に5名みえる。儒学の教養がある豪族で、張世平の出資金もここから。
「世平」は、『漢書』巻六十四 王褒伝にひく頌や、『論衡』巻十七に見える。儒家に基づいた名だから、学問があるよねと。

公孫瓚は、張世平ら馬の交易権の利権に関心を持った。地元の事情につうじた弟の劉備に私兵集団をつくらせ、敬語させたのだろう。
劉備への信頼は、『陳志』後主伝にひく『華陽国志』に見える。
丞相亮時、有言公惜赦者、亮答曰「治世以大德、不以小惠、故匡衡、吳漢不願爲赦。先帝亦言吾周旋陳元方、鄭康成閒、每見啓告、治亂之道悉矣、曾不語赦也。若劉景升、季玉父子、歲歲赦宥、何益於治!」
「清流人士」陳紀や、盧植の同門である鄭玄との交際が記される。
『陳志』巻二十二 陳羣伝で、陳紀の子・陳羣が、劉備の豫州別駕従事に辟召された。『陳志』孫乾伝と同注引『鄭玄伝』によると、鄭玄の推挙により孫乾が徐州従事史になった。

興平元年、劉備が徐州牧になったとき、「州人」をひきいて劉備を推戴した麋竺は、『春秋』学に通じる名門。麋竺を「商業を兼業した大土地所有者であって「名士」ではない」とする渡邉義浩氏には首肯しがたいと。
東海麋氏は、唐代まで続く。陸徳明『経典釈文』に、曹魏の楽平(正しくは平楽)太守の麋信による注釈がある。麋竺と同族であり、学問の家である。
徐州牧に就けと劉備に懇願した陳登は、大伯父が、盧植が鄭玄らとともに師事した陳球である。『陳志』巻二十二は、陳登が敬う人物として、陳紀・陳諶の兄弟(ともに徳行あり)、華歆(盧植・鄭玄と同じく陳球の門生)・趙昱・孔融らとともに、劉備があげられる。
陶謙も「学を好み諸生となる」とあり、学者に支持している。光和六年(183) 以前、幽州刺史となった陶謙は、張世平の警護をする劉備と、接触したのかも。厳耕望『両漢太守刺史表』を見よ。

鄭玄と親交のある孔融も、劉備に援軍を求め、州牧を勧めた。『范書』巻七十 孔融伝に、劉備に援軍を求めた時期は書かれない。武帝紀に初平三年冬には曹操が青州黄巾を降伏させており、『袁紀』巻二十六 初平二年七月に、「公孫瓚が劉備を平原相とした」とある。初平二~三年のことか。

先主伝にひく『献帝春秋』によれば、劉備が徐州牧となると、袁紹が陳登を派遣して、劉備に「信義」があり、袁紹がこれを歓迎すると伝える。初平四年(193) 十月に、公孫瓚が劉虞を殺害したことが聞いている。劉虞が死ぬと、故吏の鮮于輔らが蜂起し、公孫瓚は本拠を、広陽郡の薊県から、冀州の河間国の易京に移さざるを得なくなった。
『陳志』巻八 公孫瓚伝と裴注、『范書』も参照。『陳志』巻二十五 楊阜伝によると、涼州刺史の韋康を殺した馬超も、故吏から蜂起され、張魯に亡命した。故吏らは「一州の大夫 みなその恥をこうむる」である。
初平二年、すでに盧植は公孫瓚ではなく、袁紹の軍師になっていた。『袁紀』巻二十六 初平二年七月、および『范書』盧植伝を参照。盧植は翌年に没した。
劉備が公孫瓚のもとに留まれば、同郷の恩師の盧植(しかも済世の志の持ち主)と敵対することになる。公孫瓚が劉虞を殺すと、「州民」の一員である劉備は、輿論を考慮して、公孫瓚から離れた。興平元年二月ごろである。

武帝紀の興平元年夏、劉備は陶謙の部将として見える。袁紹に攻められて平原国を失い、東方の斉国に後退したのち、劉備は徐州に向かった。これを『資治通鑑』は興平元年二月ごろにつなぐ。
巻二十六 田豫伝によれば、漁陽の田豫は、劉備に随行したが、劉備が陶謙配下の豫州刺史になると、あえて公孫瓚のもとに戻った。田豫は「州里」の「兄」公孫瓚を裏切った、劉備に憤ったのでは。東晋次「東漢名節考」で、複数の上位者に対応した節を、矛盾なく実践することは至難といっている。
劉備は、公孫瓚よりも盧植への「信義」を優先させた。少なくとも徐州牧になるまで、盧植の門生という立場に由来する、人脈・声望によってきた。盧植の門生と、郷里の輿論とが、劉備の政治行動を規定した。

劉備の声望は、呂布に徐州を乗っ取られ、曹操をうらぎり、公孫瓚を殺した袁紹・黄巾と共闘した時点(『范書』巻九 献帝紀 建安四年三月の条)で、新しい声望が必要になった。それが「漢朝を護持する皇族」である。

建安以前の劉備像を津田論文が反転させる。
従来:A社会の最下層の劉備が、B皇族の一員であることに頼って生き抜き、志と人徳により徐州を譲られた。
津田氏:a孝廉・県令を出せる宗族から資金を得られ、盧植に学んで学問・人脈・名声を得た劉備が、士人の支持で徐州を得た。b皇族は無関係。そもそも荊州にいくまで、皇族のことは言及なし。


劉備の「貧困」から派生して考えたこと

ここからは、津田論文ではありませんが、
ぼくらが三国志を読むとき、現代日本との差異を意識したいのは、①社会の上層~下層の差の大きさ、②社会のセーフティネットの厚み、③セーフティネットを補う人脈のネットワークの強さ。
きっと後漢末は、現代日本より、①上下の差は絶望的に大きく、②セーフティネットはないに等しく、ゆえに③人脈が超重要。
ひるがえって、現代日本のような、資本主義の円熟期=末期は、①社会は同質化にむかい、所詮はカネの有無による差別化なので、下位者が上位者を推し量ることは易しくなり、②良いものが安く手に入るから、最下層でもそこそこ生活でき、③人脈による恩恵(同じ現象を裏返せば「しがらみ」)が少なくなってる。

劉備のようにムシロを売れば、現代日本で「貧困」に見えるが、そうでもない。
①本当の最下層は、餓死する奴婢?や小作人?で(現代日本にいない階層なので、意識に上らない)、劉備はそこまで落ちておらず、②国家は助けてくれないが(現代日本は政府が救う制度だけはあり、その制度を使って、安いものを食えば生きられ)、③孝廉を出すレベルの宗族のネットワークは健在(均質な学校教育を受けられる、現代日本にない=必要のない種類の紐帯)

後漢末を想像するなら、資本主義のえげつなさを突き詰め、「かせげないヤツは死ね!」「能力がないなら労働を強化せよ(死ぬまでサビ残)」と変化させてみる。教育は有償、医療保険・生活保護も廃止、税率はあげ放題、政府の言うことは絶対!批判も禁止!という地獄にして、
そこを起点に、どう生き抜くか悩んでみる。
現代のように、個人がそれぞれ、経済的に「自立」して(個別に雇用されて)、しかしカネの獲得だけで人生をすり減らす必要はない……、という態度は、継続できない。なにか代わりに頼りにするものがいる。
共通の祖先を持つひとで中間集団をつくり、「広め」に設定した「同郷人」を同胞に認定し、有力な官僚に仕え、有名な先生に習って人脈を広げ、上司・先生を探す指標である「名声」の情報収集に注力する。だって、上司・先生を選び損ねたら、それだけで滅びだから。そして、理念に共感できる政治家を「本気」で支持する(投票にいくとか、そういう間接的なレベルではなく、生死に関わる)。専制君主が出てくるだろうが、暴虐を防ぐために、理念を持ってもらう。
これらに失敗・絶望したら(というか成功者は少ない。現代日本は「誰でも生きられる」社会に設計されているが、後漢末はそうじゃない)、武力放棄!希望は戦争!となる。救いはないけど、そういうことです。

與那覇潤氏の、新自由主義とは、近世の宋代に始まる「中国化」のことである、というアイディアを受ければ、えげつない資本主義=漢代末期の社会と読み替えることもでき、こんな話ができると思います。
いわゆる高度経済成長・バブル経済など、希望があった先行世代に比べて、「生まれながらの不況」で、「ずっと『失われ』ている」ぼくらは、後漢末のことを、うまく想像できるのではないでしょうか。体験した「ひどさ」を、数倍に濃くする必要がありますが、とっかかりにはなる。160526

◆追記
州吏・郡吏の家柄なのに、父(稼ぎ手)が早死にして貧しい、ムシロやウリでも売ろう、、という場合、「キャッシュフローは苦しいが、バランスシートは余裕がある」とか、そういうことかも?!160612

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石井仁「富春孫氏考」より

石井仁「富春孫氏考―孫呉宗室の出自をめぐって―」(『駒大史学』70号 2008)より、気になったことを抜粋します。

出自・一族に関する論文を読んで思うこと

石井先生の論文に入るまえに、……
「同族」の範囲って、タテにもヨコにも、恣意的に確定できる。最小単位は核家族(親子)で、そこからどれだけ範囲を広げるか。
タテなら「祖父は孝廉で県令、父が早世」の劉備は、父で区切れば貧者だが、祖父に遡れば県レベルの名家。さらに伸ばせば前漢の景帝に届かせることも可能。
ヨコなら、孫堅の場合、石井論文で「富春の孫氏」と、地名と姓まで広げたら、二千石も輩出した前漢~南朝の有力豪族。しかし、ぼくたちの知りたい孫堅と「同族」の範囲に含まれるのかは、どこに視点を置くかによって変わる。

たとえば、官位を向上するため「宰相世系表」でタテに遡り、経済的自立のため「宗族」の概念でヨコに広げて団結したり。ぶっちゃけ、だれにも真偽が分からない。
テレビで三国志の「ご子孫」であることをプレゼンさせ、「認定」する番組があった。もしも出自・一族が、理系的な指標でひとつに決まるなら、プレゼンによって決まるのはおかしい。それだけ、出自・一族が、恣意的であるということ。
タテとヨコ、どこまで広げるか、どこに繋げるかという戦略の問題。広げればよいわけでもない。タテに広げると、「祖先が一緒でしたか」と親戚が増える。ヨコに、県から郡、郡から州に広げると、同郷のひとが増える。助け合わなければならない。
「同族」の概念をうまく操ったものが、政治・経済で、勝つのかも知れない!

はじめに

ここから論文の抜粋。
陳寿は孫堅を「けだし孫武の後ならん」とする。孫武は『史記』巻六十六 孫子伝。孫堅伝の評「孤微發迹」が貞節となり、現代におよぶ。
宮川尚志「孫武の子孫を称するのは、かえって家格の卑微をうらがき」。孫策が、廬江太守の陸康に会いにゆけば、主簿が対応した(孫策伝)から、陸氏から冷遇される寒門であった。劉備が漢室の末裔というよりも、一層うたがわしい。魯粛伝で、魯粛が「郷党に名位なき孫氏は仕官できない」という。名が通らず、乱世にあって、治安と軍事で功を立てた、孫堅から始まった。寒門の武人。

田余慶は、『宋書』巻十六 礼志三に、孫権が七廟を建てず、長沙に父の廟を建てるに留めた。家系を隠蔽するため。「孫呉建国的道路(『秦漢魏晋史探微』中華書局 1993」)。
章映閣によれば、浙江省の桐廬県の白鶴峰に、孫鍾(孫堅の祖父もしくは父)が、母を葬った「天子岡」がある。富陽 (富春)県の南の陽平山に、「孝子孫鍾墓」があり、これも「天子岡」といわれる。孫氏は、孫堅が始めた家である(孫権新伝)。方詩銘もまた、遊興のなかの底辺「軽侠」とする。

孫呉政権論にも影響する。孫堅が卑賎の出身であることを前提に、政治集団の構造・支配体制の特質が論じられてきた。しかし、富春孫氏は、前漢以来、江東に根をおろし、コンスタントに郡県の官吏に採用され、地域の政治に関与し、ときに二千石クラスの高級官僚も輩出する、典型的な地方豪族である。

『新唐書』宰相世系表にみえる孫氏

A姫姓の孫氏。B□姓の孫子。C媯姓の孫子。C1 太原の孫氏。孫資がいる。C2 清河の孫氏。C3 昌黎の孫氏。C4 武邑の孫氏。
唐代に宰相をだした孫氏は、いずれもC媯姓の孫氏であり、かつC6 富春孫氏から派生したとされる。しかし他の文献で裏づけられる部分は少ない。同姓の著名人を繋ぎあわせたような記述である。唐以前の孫氏が、みずからの系譜をどのように主張・伝承していたかは、別の話。

呉王朝と図讖

『陳志』周羣伝に、「『春秋讖』にいわく、漢に代わりし者は当塗高なり」とある。周羣の父の周舒は、「当塗高とは、魏なり」と答える。

ぼくは思う。巻四十二 周羣伝「時人有問『春秋讖曰、代漢者當塗高、此何謂也』」を、石井先生は「漢に代わりし者は…」と過去形で訓読されてた。『春秋讖』て、過去形で読むのか。英語の授業で、「不変の真理・一般的社会通念・ことわざや格言は、過去形でなく現在形をつかう」と習ったから、現在形で読んでた!

これを利用するひとは、他にもいる。
『晋書』巻三十九 王沈伝にふす王浚伝に、王浚は父のあざな「処道」とは当塗高だとする。道=塗だから。
『陳志』巻六 袁術伝にひく『典略』で、当塗高は、あざな「公路」とする。袁術は、土徳の帝舜の子孫とした。『新唐書』巻七十四下 宰相世系表四下に、「袁氏は媯姓より出づ」とある。

孫策・孫権は、袁術の後継者を自認しており、袁術の政治的地位と、政治戦略を継承した。富春孫氏が、袁術とおなじく帝舜を祖先とした。
『呉志』呉主五子伝に、「孫登、あざなは子高」とある。209年に生まれた孫登を「子高」としたのは、当塗「高」により、天子になることを約束された存在。
『范書』光武帝紀 建武二年十一月に、銅馬の集団は「孫登」を皇帝にした。『范書』列伝三十八 翟酺伝に、「図書に、漢の賊 孫登というもの有り」とひく。注引『春秋保乾図』に、「漢の賊臣、名は孫登」と出てくる。
『魏志』巻八 公孫度伝にひく『魏書』で、公孫度が「讖書にいう、孫登 まさに天子となるべしと。公孫度のあざなは升済だから、升=登である」という。

孫登という名づけ、子高というあざなは、皇帝になるため。

まとめ:赤壁の翌年に生まれた孫登。『春秋保乾図』の「漢の賊臣、名は孫登」から名づけ、「漢に代わるものは当塗高」から1文字をもらい、あざなを「子高」に。
袁術は公「路」=塗、公孫度は「升」済=登、曹丕は「魏」=高、王浚は処「道」=塗と、後天的にこじつけましたが、孫登は先天的に、漢の次代をになう天子!

孫権は、孫登の名づけをしたとき、後継者が天子である=みずからも帝位にのぼることを公言した。
張松、太子太傅の程秉、太子少府の張温らから帝王学をほどこされた(『陳志』程秉伝など)。諸葛恪・張休・顧譚・陳表を四友としたが、赤烏四年(241) に33歳で亡くなった。

渡邉義浩「孫呉の正統性と国山碑」(『三国志研究』二 2007)によると、呉は土徳を標榜するが、魏蜀より正当性を欠く。孫権の時代から、禹(金銀・玉石や白色を象徴とする)に接続し、江東から天子がでる「東南の気」など、金徳への方向転換が見られた。魏晋革命ののち、本格的に金徳を主張。

富春孫氏の社会的地位

『宋書』巻二十七 符瑞志上に、孫堅の祖である孫鍾が見える。孝行が天に感じられ、家運の隆盛を約束された。一介の農民、母と二人で暮らして、族的な背景のない庶民・単家で描かれている。

ぼくは思う。族的な背景がなく、母と二人で暮らし、モトデが必要ない商売をしていた。これは、帝王のテンプレートだろうか。

ただし孫堅伝で、孫堅は十七歳で県吏になる。
『宋書』巻九十四 恩倖伝序に「郡県の掾史、ならびに豪家より出で、戈を負う宿衛、皆 勢族に由る」とある。掾史(地方官吏)と負戈の宿衛(郎官)は、豪族がら出た。宮崎市定『九品官人法の研究』第二編第一章。
『呉志』巻六 宗室伝で、孫堅の兄の子である孫賁も、若くして「郡の督郵」すなわち郡吏となり、「守長」おそらく呉郡のいずれかの県長の代理(試守)を務めた。試守というのは、見習いとして職務を代行し、一定の試用期間が過ぎれば「真」官に昇進できる。濱口重國『秦漢隋唐史の研究』、鎌田重雄『秦漢政治制度の研究』、大庭脩『秦漢法制史の研究』を参照。
なんらかの理由で、郡吏などの地方官吏を、臨時に県令・県長に起用する、もしくは兼任させる場合にも、試守の方式が採られた。『范書』列伝二十九 劉平伝に、楚郡の吏から、守菑丘長に起用もしくは兼務した。
『魏志』巻二十六 満寵伝に、山陽郡の吏=督郵だったとき、守高平令となり、豪族の不平を取り締まる。『呉志』巻十五 賀斉伝に、会稽の郡吏となり、守剡長・守太末長を歴任し、豪族を粛清した。

郡吏となって、県令・県長を試守するのは、どのような階層か。『魏志』巻十五 賈逵伝に、郡吏となり守絳邑長となる。同注引『魏略』に「世よ著姓たり」とあり、子の賈充は西晋の重臣、孫は皇后となる。『魏志』巻十六 杜畿伝で、郡功曹となり、守鄭県令となるが、杜畿の孫は杜預である。
郡吏のほか、州吏も同じ。
『魏志』巻十八 閻温伝に、閻温は涼州別駕従事となり、守上邽令となる。『蜀志』巻七 龐統伝に、荊州従事史となり、守耒陽県令となる。州里が、守令・守長を兼務することがあった。
『魏志』巻十三 王朗伝にひく『魏略』に、閻氏が郡中の著姓であることが書かれる。襄陽の龐氏も著姓である。かれらが当該地域の大姓・豪族であったことを示す。孫堅も同じ。

◆孫静の「保障」
『呉志』巻六 孫静伝に、「堅始舉事、靜糾合鄉曲及宗室五六百人以爲保障、衆咸附焉」とある。孫堅が中央政界に転じると、郷曲および宗室 五,六百人を糾合して建設された。
「保」は「堡」に通じて、六朝に流行した、自衛・自治集落である。保・堡・邨・聚・塢・壁・塁など。熟語となって文献に現れる。この論文では「村塢」に統一する。石井仁「黒山・白波考」(『東北大学東洋史論集』九 2003)ほか、参考文献は多数。

自衛集落は、両漢交替期のころから見える。『范書』列伝六十七 酷吏 李章伝に、光武帝が即位したころ、河北の豪族たちは、屯聚(邨聚)」すなわち村塢で自衛した。わけても「清河の大姓」である趙綱は、東郡の陽平県に「塢壁」を築いて、強力な軍事力をもち、周辺を実効支配した。
『范書』列伝二十一 郭伋伝・同列伝二十八 張宗伝・同列伝二十三 馮魴伝にも、混乱の激しい三輔ないし関中や河南、山東地方にも村塢があった。親交聚落の担い手は、豪右・大姓・強宗右姓・郡族姓と史料に見え、地域の有力豪族であった。

三国期の杜畿の子の杜恕は、『魏志』杜畿伝にひく『杜氏新書』に、病気のため官を退き、弘農の宜陽県に「一泉塢」をいとなみ、堅固な土塁や空堀がもうけられ、周辺の住民が移り住んだ。この村塢は、『水経注』巻十五 洛水に堅固ぶりが見える。
『魏志』巻二十三 常林伝に、上党で「旧族の冠冕」かつ「もとの河間太守」であった陳延が「堡壁」をつくり、群雄の張楊にねらわれた。村塢を経営し、住民を支配できるのは、経済力を持つ豪族のあかし。要害の地に、土塁や堀をめぐらせ、内部に居住施設をつくり、周辺に耕地をひらくには、財力が必要であった。孫静も。

『読史方輿紀要』巻九十一 浙江三 湖州府武康県に、呉興の沈氏がつくった沈壁山、呉郡の高氏がつくった高塢嶺、呉興の姚氏がつくった姚塢嶺がある。
『晋書』巻百十四 符堅載記下に「趙氏塢」があり、同巻百十五 符登載記に「范氏堡」「段氏堡」がある。姓氏もしくは人名を冠したものがある。『資治通鑑』巻百八 392年に「蘇康塁」があり、胡三省はこれを人名とする。『資治通鑑』巻百五十六 534年に「楊氏壁」があり、胡三省が指摘するように楊氏たちがつくった。

村塢をつくるのは、後漢から六朝。江東にも村塢があり、孫静がその主体であるから、それなりの財力を有した。
『呉志』孫堅伝に、妖賊の許昌を討伐するとき、十七歳の孫堅に応じて、千人も集まった。孫堅が世に出る前、すでに富春孫氏は庶民の家でなく、地域に一定の影響力をもった。

◆珠崖太守の孫幸・孫彪父子
『范書』列伝二十三 鄭弘伝にあるように、後漢中頃まで、いまの広東省やインドシナ半島にゆくには、海路で、浙江省から福建省を経由するのが主要ルート。鄭弘は、海路の危険なく交趾七郡にいくため、零陵・桂陽をぬける嶺南越えルートを開設した。この後も、孫策に敗れた王朗が海路で東冶に逃亡し、東晋末の反乱で孫恩を継いだ廬循が海沿いに広州に落ちのびた(『晋書』巻百 孫恩伝・廬循伝)。
漢民族にとって、江東からの海上ルートは、南進のための前線基地だった。『漢書』巻六十四上 厳助伝で、閩越が東越を攻めると、会稽から出兵して武力介入した。『漢書』巻六十四上 朱買臣伝でも、地元出身の朱買臣が、軍艦の建造、兵糧・武器の調達をして、会稽から進攻する。
以上から、①漢代の江東は、人的・物的両面において、南方経路の拠点であった。この活動を主導したのは、会稽の豪族であった。
『呉志』孫策伝に、孫策に敗れた呉郡の厳白虎がいる。『呉志』巻十一 朱治伝に「山賊の厳白虎」と見えるが、『太平寰宇記』巻九十四 江南東道六 湖州烏程県の条に、烏程県の石城山は、厳白虎が築城して、呂蒙(呂範か)と戦ったところとされる。『読史方輿紀要』巻九十一 浙江三 湖州府烏程県の条には、石城山の頂上には水源があり、平坦で耕作もできたとする。単なる城砦ではなく、生産もできる村塢であった。厳白虎は、石城山に村塢をかまえる豪族。『漢書』に見える厳助の子孫か。

三国以来、江東の名門は「呉の四姓」とよばれ、『世説新語』賞誉篇・『新唐書』巻百九十九 儒学中 柳沖伝によると、張氏・朱氏・陸氏・顧氏を指す。
朱氏は、『呉志』巻十一 朱桓伝・巻十二 朱拠伝にあるように、朱桓・朱異・朱拠を輩出した。おそらく朱買臣の末裔。後漢・三国の江東豪族については、大川富士夫『六朝江南の豪族社会』第二編第二章・第三章を参照。

『范書』列伝七十六 南蛮西南夷伝に、漢武帝は南越を平定してから、南海ら9郡をおく。海南島にあたる珠崖郡は難治とされ、元帝の初元三年(前46) 放棄された。
武帝末年、珠崖で住民に重税を課して、殺された珠崖太守は「会稽の孫幸」である。死後、子の孫彪が、軍の事務を代行(領事)し、反乱を鎮圧して、正式に珠崖太守に任命された。
後漢の順帝が149年、会稽から呉郡を分割するまで、孫堅の本貫の会稽に属した。孫幸・孫彪が、孫堅の直接の祖先かは即断できないが、同族である可能性はきわめて高い。とすれば、富春孫氏もまた、前漢以来、江東の有力豪族として、南方経路に深く関与した。孫堅が騒乱のある地域を転戦し、軍功によって官達をとげたのも、一族が辺境の地方官として蓄積した経験・ノウハウを使えたから。

◆南朝の孫氏
『宋書』巻四 少帝紀 423年に、富陽の孫法光が反乱する。呉宗室の後裔であろう。『宋書』巻三十五 州郡志一 揚州呉郡の条に、富春は富陽と改称された。
この反乱は、『宋書』巻五十二 褚叔度にふす褚淡之伝にある。富陽を占拠すると、銭唐江をわたり、隣接する会稽の永興県を征圧し、会稽の山陰県に進む。永興の「支党」が手引きした。安田二郎「元嘉時代史への一つの試み」(『六朝政治史の研究』)によると、東晋王朝の再考を目指したかと。
『宋書』巻四十九 孫処伝に、東晋末に劉裕に従って転戦した孫処がおり、こちらは爵位を曾孫まで伝えるから、反乱には関与せず。

反乱に失敗して強制移住させられたが、『宋書』巻八十三 黄回伝に、劉宋の後期に活躍した孫曇瓘は、呉郡富陽のひと。孫法光の反乱は、一族をあげたものでない。『陳書』巻二十五 孫瑒伝・『南史』巻七十三 孝義上 孫法宗伝にもみえる。呉郡から会稽にかけて広く居住した。同族であろう。
南朝における孫氏の分布は、呉の宗室となった結果とも解釈できる。しかし、『呉志』巻十九 諸葛恪伝に、孫権の晩年に権力をふるった中書令の孫弘は、『呉志』巻七 張昭伝にひく『呉録』によると、会稽のひと。
珠崖太守の孫幸・孫彪の父子は、孫弘の祖先でもあった可能性がある。そうであったとしても、『宋書』褚淡之伝に、富春孫氏の「支党」が、会稽の永興県にいたことが確認できる。呉郡の孫氏と、会稽の孫氏は、まちがいなく同族。

同族ではない、北海の孫氏。
『呉志』巻二 孫権伝 赤烏二年(239) 三月、将軍の孫怡を遼東にいかせる。裴松之はこれを「東州の人にして、孫権の宗にあらざる」とする。
孫権伝 黄武四年(225) 五月、丞相の孫邵が卒す。揚州牧の劉繇とともに江東にきた。本貫は北海郡とされる。
後漢桓帝期に太常・司空を歴任した孫朗(『范書』巻七 桓帝紀・列伝五十一 黄瓊伝など)は、北海のひと。後漢末の党人の孫嵩(『范書』列伝二十五 鄭玄伝、『魏志』巻十八 閻温伝にひく『魏略』)は、北海のひと。劉備に仕えた孫乾(『蜀志』巻八)も、北海のひと。
孫怡の「東州のひと」とは、北海の出身のことを指すだろう。

おわりに

富春孫氏は、前漢以来、江東に根をおろし、コンスタントに郡県の官吏に採用され、地域の政治に関与し、ときに二千石クラスの高級官僚も輩出する、典型的な地方豪族である。

『太平寰宇記』巻九十三 江東東道五 杭州 富陽県に、ゆかりの遺跡・地名がみえる。
「桑亭埭」がある。引用された『郡国志』によれば、漢末に桑君がいた。飼い犬は、数年ほえないが、まだ「微」だった孫堅がとおると、ほえた。桑君は「孫堅は、異相ならんか」という。のちに孫堅が「貴」となり、桑君にお礼にきても、何もいらんという。桑君は魚を捕るから、「九里のタケカゴ」を贈った。
九里のサイズなんておかしいから、孫堅の微賤な生まれを誇張するエピソードだろう。ただ同時に、『水経注』巻二十八 沔水に、襄陽の豪族であった習氏が、養魚池をつくったことを彷彿とさせる。上田早苗「後漢末期の襄陽の豪族」(『東洋史研究』28-4 1970)。
漢代の豪族は、農業のみならず、商工業・倉庫業もした。宇都宮清吉『漢代社会経済史研究』。孫堅が、桑君のためにつくった「九里のタケカゴ」は、富春孫氏が、大規模な漁業もしくは魚の養殖業をしたことの暗示かも知れない。160527

ぼくは思う。孫堅の父は『呉志』になく、『宋書』巻二十七 符瑞志に見える。孫堅は母と二人で暮らして、瓜を売る。族的な背景のない庶民・単家に描かれる。孫権が七廟を作れなかったように、孫堅は祖先が不明。「父がなく、母と二人で貧しい商売」って、劉備・孫堅ともヒナガタにはめた事後的な創作が疑われる。
「食うや食わずの貧困を、恥として隠した」ではないだろう。県・郡レベルの豪族であろうが、歴史書の冒頭で、皇帝の出自として語るには相応しくない。だから作為的に「父がいなかったこと」にされる。結果として母が残る。ツジツマをあわせ、ウソを貫徹するために、モトデ不要?の商売をさせる。
この情報操作は、現代の読者にひとつの絶望を与える。「徒手空拳から皇帝になった」という成り上がりの物語に、自己投影することが許されなくなる。いかに階層の流動性の高そうな後漢末でも、出発点で県・郡レベルの族的な背景がないと、物語の主人公になれないことを突きつける(笑)これは王朝の歴史家の責任ではなく、ぼくらが勝手に期待したから悪いのです……。

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