孫呉 > 魯粛が孫権に仕えるまでの足どり

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【告知】三国志研究会(全国版)で話します

@3594ken より。
年末ですし、(いつもよりは)早めの告知であります。
第7回三国志研究会(全国版)
日時:2016年12月25日(日)14:00〜17:30
会場:龍谷大学大阪梅田キャンパス
http://www.ryukoku.ac.jp/about/campus_traffic/traffic/t_osaka.html

内容は以下の通りです。
14:00〜15:00 菅澤博之先生の孫子講座「形篇」
15:15〜16:15 佐藤ひろおさん「三国志集解のつかいかた」
16:30〜17:30 竹内真彦「演義的校勘日記:第2回前篇」

ぼくは、『三国志集解』魯粛伝を題材として、史料を読んでいく方法論とか、ものを考える筋道とかを、お話できればと思います。本番が終わったら、レジュメ(『三国志集解』の訓読)をアップする予定です。

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検証:魯粛・劉曄と鄭宝の問題

上記のレジュメを作っていて、出てきました。
魯粛と劉曄(劉子揚)と鄭宝の問題について考えます。

魯粛伝を確認

周瑜伝:建安三年、居巣長を蹴って東渡。
魯粛伝:魯粛が周瑜に従って東渡(周瑜伝により、建安三年と判明)。母を曲阿に置く。たまたま、祖母が死んで東城に還る。
祖母が死んだ時期は不明だが、魯粛伝 注引『呉書』は、孫策が魯粛を評価したとあるが、魯粛が孫策のために働いていないから、曲阿に到着して、さほど時間をあけずに、祖母が死んだと思われる。
もっとも、孫策伝(含む裴注)によると、建安三年の孫策の動きとして判明するのは、献帝に、建安元年の2倍の貢献をして、呉侯・討逆将軍にしてもらったことだけ。建安二年、陳瑀の呉郡をひっくり返そうになり、身動きが取れなかった1年。もしも、魯粛が孫策に仕官していたとしても、軍事行動がないから、足跡が史料に残りにくい。「帰郷の時期が確定しないこと」は、確定される。

魯粛が、故郷の東城で葬儀を営んでいると、劉曄に「曲阿の老母を回収して、鄭宝を頼れ」と助言される。(おそらく、この間にタイムラグがあり、建安五年になってから)魯粛は、曲阿で母を回収して「北行」を試みる。周瑜が魯粛母を呉郡に移した後で、孫権に仕えることに。

魯粛が試みたのは「北行」であって、かつて劉曄に助言されたように、鄭宝を頼ることではない。
魯粛がすぐに動かなかったのは、建安四年に袁術が死に、袁術の後継者争いが激化して、孫策・劉勲が揚州で競った時期に、じっとしていたからか。老母のいる曲阿のある呉郡は、広陵太守の陳登に狙われていた。緊迫して、交通が危険だったのだろう。


劉曄伝を確認

劉曄伝:(時期の明記はなく)鄭宝が人々を江表に移すことを計画し、劉曄を盟主にする。劉曄は、曹操からの使者と時勢を語り、鄭宝を殺害した。鄭宝の党与を、廬江太守の劉勲に委ねる。(建安四年)孫策が劉勲に上繚攻撃を提案した。劉曄の制止を聞かず、劉勲は出撃して、孫策に廬江を奪われた。劉勲は曹操を頼るが、このあとも劉曄は、故郷の淮南郡の寿春にいる。

魯粛伝・劉曄伝をすりあわせる

司馬光『通鑑考異』:魯粛伝によると、劉曄は魯粛に「鄭宝を頼れ」と勧誘した。しかし、周瑜が「孫権を輔けよ」と説得したから、魯粛は鄭宝のもとに行かなかったという。だが劉曄伝によると、(建安四年までに)劉曄が鄭宝を殺害した。孫権の時代(建安五年以降)に鄭宝が存在するのはおかしいと。

司馬光にも一理ある(ように見える)が、魯粛伝・劉曄伝を矛盾なく並立できないか。どちらかを切り捨てるのではなく。
司馬光が想定に入れなかった、鄭宝が、野心を発揮し始めた時期(劉曄に殺された時期)を、カウントに入れたら、新しいことが分かると思います。

建安三年ごろ、魯粛が、曲阿から東城に帰郷した。東城は、曲阿よりも、寿春に近い。劉曄が魯粛に、鄭宝を頼れという助言をする(魯粛伝)。この時点では、劉曄・鄭宝の関係は、悪くない。
袁術-鄭宝-劉曄。
袁術の長所である「気侠」が発揮され、鄭宝ら軍閥とともに、揚州支配を行っていたのかも。つまり劉曄からの勧誘とは、「孫策に従って江東に行くのではなく、袁術に従って江西に残れ」というのが、本当のメッセージとなる。うっかり、周瑜に伴われて江東に行ってしまった(袁術が取り逃がした)魯粛が、祖母の死を理由に、のこのこ江西に還ってきた。だったら、囲いこもうと。

しかし、事態は一変する。
建安四年六月、袁術が死去して揚州の権力が空白に。これを受けて、鄭宝が野心を抱いたため、劉曄が鄭宝を裏切って殺害した。袁術なきあと、行動に正当性を与えるのは、曹操・献帝の権威のみ。だから劉曄は、曹操の使者をからめて、鄭宝の殺害を行った(劉曄伝)。
しかし、曹操の実効支配は、揚州に及ばない。そこで劉曄は、実利のため、袁術の後継者のエース・劉勲を頼る(劉曄伝)。劉勲は、袁術の残党を吸収しており、最大の勢力。鄭宝の余衆を連れていくにも、劉勲のところしかなかった。

このように、袁術の生前は、劉曄は、鄭宝を(体制内の軍閥として)支持した。しかし袁術の死後、鄭宝は、袁術の後継者の地位をねらって、強引になった。鄭宝は名声がないから、劉曄を盟主に担ごうとしたと。
建安四年に、袁術の死という大イベントがあり、揚州の情勢が急激に変化した。それ以前に劉曄が述べた「鄭宝を頼るといい」という助言と、それ以後のこと(魯粛が、北行しようとするが、周瑜によって孫権に仕えた、建安五年)とを、同日に論じてしまった司馬光『通鑑考異』は、少しザツだったのでは。

建安五年、曲阿で老母を回収した魯粛は、鄭宝を頼るのでなく「北行」を試みている。建安四年までは、鄭宝は頼る価値があったが、情勢が変転し、魯粛は曲阿から北(曹操)を頼ろうとしたか。
もしも、ここで魯粛伝に「鄭宝を頼ろうとしたが、周瑜の説得によって孫権に従った」とあれば、司馬光の言うとおり、明らかに史料がおかしい。しかし史料に、そんなことは書いてない。
以上から、魯粛伝で劉曄が鄭宝を勧めたのは、袁術の生前のこと。鄭宝が袁術と同調し、安定した軍閥であった可能性が窺われる。しかし袁術の死で情勢が変わった。劉曄は鄭宝を殺して劉勲を頼り、魯粛は行き場をなくして曹操を頼ろうとしたと。魯粛伝・劉曄伝を、矛盾なく読むことができた。
ちなみに、周瑜が魯粛母を拉致した理由は、魯粛を曹操に仕官させぬため、となる。いちばんのキーマン(乱世が継続した元凶)は、やはり周瑜さんでした。

劉曄は、袁術に仕官したか

@Golden_hamster さんはいう。つまり劉曄側の動きが本来と異なることで、劉曄が袁術に従っていたことがなぜか偶然たまたま隠れてしまったということですね。
ぼくはいう。劉曄は、袁術のお膝元の出身者で、袁術が揚州を支配した時期、ずっと揚州から離れませんでした。かねてから名声があることは、劉曄伝にきっちり書かれています。「劉曄が、袁術に従わなかった」と考えるほうが、難しい気がします。
@Golden_hamster さんはいう。おっしゃる通りかと思います。意図した改竄かどうかはともかく、「劉曄が袁術に従っていたはずがない」が記録をゆがめたということでしょうか。161217

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魯粛の初期の足どり年譜

レジュメを作っており、史料の情報不足・不整合などを解決しながら、初期の魯粛の足どりと、その周囲の状況とを、年表形式でまとめてみました。本番では、これを作るとき、なにをどう読み、どう考えたか、などをお話できればと思います。

◆興平二年
興平二年、袁術の将の呉景・孫策が、周尚・周瑜に助けられ、揚州刺史の劉繇から曲阿を奪取。劉繇を破った袁術は、周尚に代え、袁胤を丹陽太守に。周尚・周瑜は寿春に還る。

◆建安元年
建安元年、呉景が徐州刺史の劉備に侵攻、呂布が張飛から下邳城を奪取。呂布が徐州刺史を自号。呂布は袁術を警戒し、劉備を小沛に置く。袁術の将 紀霊が小沛を攻めたが、呂布が仲裁。
孫策が会稽太守の王朗を駆逐。呉郡で厳白虎を平定。朱治が呉郡太守、孫策が会稽太守に。

◆建安二年
建安二年春、袁術が皇帝の位に即く。

夏、孫策が献帝の詔勅を受け、袁術の討伐を銭唐で準備(呂布・陳瑀との共闘命令)。下邳の陳瑀(もと揚州刺史)が、厳白虎に印綬を与え、孫策から離反させる。孫策が呉郡で、再平定戦。
九月、袁術が陳国の王・相を暗殺するが、曹操に大敗(袁術の将来性のなさが判明)。これを見て、寿春にいた周瑜が居巣長となり、魯粛の家(臨淮の東城)を訪問し、米倉を贈られる。袁術が魯粛の名声を知って東城長に任命するが、魯粛は拒否して居巣の周瑜を頼る。魯粛が徐州軍(刺史は呂布)に追われるが、賞罰の不当さを説諭して追い返す。

◆建安三年
建安三年、周瑜が居巣から長江を東渡して、孫策に合流。魯粛が周瑜の東渡に同行し、曲阿に家属を置く。魯粛伝 注引『呉書』は、孫策が魯粛を評価したと伝えるが、臣従の有無は不明。
ほどなく魯粛の祖母が死亡。魯粛は老母を曲阿に残し、長江を西渡して東城に帰還。淮南の劉子揚(劉曄)が、魯粛に、曲阿の老母を回収して鄭宝を頼るように助言。

孫策が、献帝に建安元年の二倍の物資を献上して、討逆将軍・呉侯となる。
呂布が、袁術との婚姻・同盟を試みる。曹操は陳登(陳瑀の同族)を広陵太守として、呂布を牽制させる。冬十二月、陳登が曹操とともに呂布を殺して、伏波将軍となり、江南の平定を計画。

◆建安四年
建安四年、袁術・劉表 討伐の詔勅が出る。夏六月、袁術が寿春を放棄して、青州への道中で病死。(袁術の死による揚州の空白を受けてか)、鄭宝が劉曄を盟主とし、勢力拡大を試みる。督軍御史中丞の厳象が、袁術の死を受けて揚州刺史となる(魏志 荀彧伝 注引 三輔決録)。劉曄が曹操の使者(厳象か)と時勢を論じ、そこに訪れた鄭宝を殺害。劉曄が鄭宝の残党を率い、廬江太守の劉勲(袁術の後継者の最有力候補)を頼る。

秋から冬、孫策は詔勅に従い、周瑜とともに劉表を討伐するため西征。西征の途上、孫策が劉勲に上繚の討伐を勧誘。劉曄が罠だと制止するが、劉勲は出撃。孫策が廬江を陥落させる。劉勲は曹操を頼る。十二月、孫策が黄祖を撃破。

孫策が不在の呉郡で、陳登が厳白虎の余党に印綬を授け、孫策から離反させる。孫策は、呉郡において再々平定戦をする。

◆建安五年
建安五年、孫権が広陵太守の陳登(治所は射陽)を匡琦城(射陽県の近くか当塗県)で攻める。ところが夏四月、孫策が許貢の客により死亡。孫権が敗走。周瑜・張昭が、孫権を輔佐する体制に移行。陳登が、孫策を退けた功績により、広陵太守から東城太守(魯粛の本貫地)に遷る。

(袁術の後継者候補が、みな死んだため、揚州は小康状態となったのか)魯粛が東渡して曲阿に行く。
すでに鄭宝は滅亡後なので、魯粛は、北行を試みる(曹操を頼るためか)。しかし、周瑜が魯粛の母を呉郡に移した後であり、周瑜の説得により、魯粛は孫権に臣従することに。161217

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