両晋- > 『晋書』地理志より、州郡の変遷の説明文を抜粋

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作業をしながら思ったこと

今回のページは、「『三国志』地理志」なるものを作ろうとして、『晋書』地理志を読んだときの副産物です。『晋書』地理志のうち、州郡の変遷を説明したところだけ、原文を抜粋して、抄訳しております。

『晋書』地理志の信憑性

信憑性というか、使う上での注意点を見つけました。140817 に作業しながらツイートしたので、貼り付けておきます。

破綻した編纂プロジェクト。『晋書』地理志って、冒頭に州の概略を書き、郡国の異動を概括してから、郡ごとの詳細(戸数・人口・配下の県など)を書く。しかし、冒頭で書いた郡国の数と、詳細が書かれる郡国の数が一致しない。担当者が違うのだろうか。編集長・校正係が機能してないのか。
『晋書』地理志で、「泰始中置」とあり、西晋の武帝期に置かれたと記述される郡のうち、おおくが『三国志』でも、すでに郡として出てくる。『晋書』地理志に依拠したら、わりにコケるな。
例えば、滎陽郡は、『水経注疏』巻七 済水一に、正始三年に郡が設置され、李勝が太守になったとある。しかし、『晋書』巻十四 地理志上には、「滎陽郡、泰始二年置」とある。『晋書』の編纂者は、郡名のうちで『続漢書』になく、『三国志』を見ても分からなかった場合、すべて晋武帝が設置したと割り切るw
荊州の義陽郡。『三国志』巻三 明帝紀に、「襄陽郡の鄀葉県を分けて義陽郡に属せしむ」とあるのに、『晋書』地理志は、「武帝 呉を平らぐに及び、…南陽を分けて義陽郡を立つ」、「義陽郡、太康中 置く」とある。ひどいなー、ひどいなー。

三国志』巻二 文帝紀 黄初元年に、「郡国県邑、多所改易」とだけあり、三国期の州郡の変遷を追うことは、陳寿が投げた作業。『三国志』巻四 斉王芳の嘉平五年のあとに、「帝 即位してより是の歳に至るまで、郡・国・県・道 多く置省する所、俄かに或るものは還復す。勝げて紀す可からず」とある。陳寿による、超絶な手抜きです。
『晋書』の公式見解?に頼らずに、三国期の変遷を追わねばならないということが、よく分かりました。

三国期の郡の設置について思うこと

『三国会要』を見ながら、昨日(140816)思ったこと。

『三国志』の地理志ないしは郡国志をまとめようとしてます。『三国会要』を起点にやれば良いと思ったけど、まだまだ、モレとかがありそう。陳寿・裴松之には遺漏が多く、というか郡国の変遷を網羅的に書く気がないので、『三国志』の外部から集めねばならない。
三国期の郡国を拾うだけなら、まだできそうで、いちおう一覧表を作った。『続漢書』郡国志との照合はできた。次は『晋書』地理志。でも郡国を見るなら、〇〇都尉とか、〇〇属国とか、とても流動的に設置されているので、これも追わねばならない。「属国」はヒット数が少ないが、「都尉」は大ヒットw
郡名の『三国志』内での初出を検索しているが、必ずしも郡名としてヒットしないこともある。県や亭の名だったり(やがて郡の昇格する場所or全く別の場所)、人名だったり、地の文の誤爆だったり。建安郡(年号と混ざる)、建平郡(人名と混ざる)、西郡(地の文と混ざる)など、たいへん。

先に都尉を置いて開拓し、郡に仕立てる、というのが漢武帝が領土拡大する方法で、孫呉は踏襲する。会稽東部都尉・同西部・同南部、長沙西部都尉・同東部、零陵南部都尉・同北部、桂陽南部都尉を、いずれも三嗣主期に郡にくり上げる。孫権よりも、その後嗣のほうが、皇帝権力らしい振るまいをする。
曹操よりも曹丕、曹丕よりも曹叡、孫権よりも三嗣主、劉備よりも劉禅(諸葛亮)といった後継者のほうが、より皇帝権力らしい行動をする。三国に共通した流れは、地理の政策からも言えるけど、もっと広い分野に当てはまりそう。なにか新しい話がつくれそう。140817

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もと曹魏の領土での郡国の変遷

司州

及漢武帝、初置司隸校尉。其界西得雍州之京兆、馮翊、扶風三郡、北得冀州分河東、河内二郡、東得豫州之弘農、河南二郡、郡凡七。及光武都洛陽、司隸所部與前漢不異。魏氏受禪、即都漢宮、司隸所部河南、河東、河內、弘農並冀州之平陽、合五郡、置司州。晉仍居魏都、乃以三輔還屬雍州、分河南立滎陽、分雍州之京兆立上洛、廢東郡立頓丘、遂定名司州、以司隸校尉統之。州統郡一十二。

前漢・後漢の司隷校尉は、京兆・馮翊・扶風・河東・河内・弘農・河南の7郡。
曹魏の司州は、河南・河東・河内・弘農を後漢から引き継ぎ、平陽(冀州から編入)を加えて、京兆・馮翊・扶風は雍州に分割し、7+1-3=5郡。
晋代の司州は、河南・河東・河内・弘農・平陽という魏代に加え、いちどは雍州とした京兆・馮翊・扶風を戻し、さらに栄陽(河南から分割)、上洛(京兆から分割)、頓丘(東郡を廃して代わりに立てる)を加えて、5+3+3=11郡。

栄陽は、『水経注』に李勝が太守となったという記述があるため、晋代ではなく、魏代の設置ではないか。
数が合わないが、解説文と明細は範囲が一致しない。広平・陽平・魏を司隷に入れたり、混乱してる。11郡と12郡が合わなくても、問題なし。


兗州

漢武帝置十三州、以舊名為兗州、自此不改。州統郡國八。

陳留・済陰・任城・東平・済北・泰山(以上、魏代までにあり)
濮陽・高平(晋初に設置)という、6+2=8郡

豫州

豫州。秦兼天下、以為三川、河東、南陽、潁川、碭、泗水、薛七郡。漢改三川為河南郡、武帝置十三州、豫州舊名不改、以河南、河東二郡屬司隸、又以南陽屬荊州。先是、改泗水曰沛郡、改碭郡曰梁、改薛曰魯、分梁沛立汝南郡、分潁川立淮陽郡。後漢章帝改淮陽曰陳郡。魏武分沛立譙郡、魏文分汝南立弋陽郡。及武帝受命、又分潁川立襄城都、分汝南立汝陰郡、合陳郡於梁國。州統郡國十。

秦代は、三川(河南)・河東・南陽・潁川・碭・泗水・薛の7郡。
漢武帝は、河南・河東を司隷に、南陽を荊州に移す。7-3=4。
泗水を沛、碭を梁、薛を魯と改める。梁を分けて汝南を作り、潁川を分けて淮陽を作る。4+2=6郡。漢章帝は淮陽を陳と改める。後漢では、潁川・梁(もと碭)・沛(もと泗水)・魯(もと薛)・汝南(梁から分ける)・陳(淮陽)の6郡である。
曹操は沛郡を分けて譙郡を作り、曹丕は汝南を分けて弋陽を作った。魏代は、潁川・梁・沛・魯・汝南・陳・譙・弋陽の、6+2=8郡である。

じつは魏代に安豊郡が置かれるから、魏は9郡とすべき。

司馬炎は、潁川を分けて襄城を作り、汝南を分けて汝陰を作り、陳郡を梁国に合わせた。

襄城は、咸熙元年に襄城典農中郎将を郡に昇格させたものなので、魏代の設置。汝陰は、曹叡が景初二年に設置し、地理志の明細でも、「汝陰郡魏置郡、後廢、泰始二年複置」とあるから、魏代に置いたと見なせる。

潁川・梁・沛・魯・汝南・陳・譙・弋陽(魏より8郡)+襄城・汝陰(司馬炎が設置2郡)-陳郡(司馬炎が梁国に統合)で、8+2-1=9郡である。

原文では10郡とある。1つ合わないのは、原文が安豊郡を挙げ忘れているから。地理志の明細は、安豊郡を含める。


冀州

漢武置十三州、以其地依舊名焉冀州、曆後漢至晉不改。州統郡國十三、縣八十三、戶三十二萬六千。

漢代から晋代まで、変化なしか。

幽州

及秦滅燕、以為漁陽、上穀、右北平、遼西、遼東五郡。漢高祖分上谷置涿郡。武帝置十三州、幽州依舊名不改。其後開東邊、置玄菟、樂浪等郡、亦皆屬焉。元鳳元年、改燕曰廣陽郡。幽州所部凡九郡、至晉不改。幽州統都國七。

戦国末期、秦が燕を滅ぼしたとき、漁陽・上谷・右北平・遼西・遼東の5郡を置く。漢高帝は、上谷を分けて琢を置く。進攻して、玄菟・楽浪らを置く。元鳳元年、燕を広陽郡とした。晋代に改めず、幽州は7郡国である。

テキストどおりに読むなら、漁陽・上谷・右北平・遼西・遼東(以上、秦より5郡)、琢(漢高帝)、玄菟・楽浪(進攻による)、広陽。5+1+2+1=9郡となるはず。しかし平州と分かれるので、本文と明細は一致しない。


平州

漢屬右北平郡。後漢末、公孫度自號平州牧。魏置東夷校尉、居襄平、而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州、後還合為幽州。及文懿滅後、有護東夷校尉、居襄平。咸寧二年十月、分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。統縣二十六、戶一萬八千一百。

公孫氏を滅ぼした魏は、東夷校尉を置き、遼東・昌黎・玄菟・帯方・楽浪の5郡を、平州とした。また幽州に合わせた。晋代も同じく5郡。

并州

漢武帝置十三州、並州依舊名不改、統上黨、太原、雲中、上郡、雁門、代郡、定襄、五原、西河、朔方十郡、又別置朔方刺史。後漢建武十一年、省朔方入並州。靈帝末、羌胡大擾、定襄、雲中、五原、朔方、上郡等五郡並流徙分散。建安十八年、省入冀州。二十年、始集塞下荒地立新興郡、後又分上黨立樂平郡。魏黃初元年、複置並州、自陘嶺以北並棄之、至晉因而不改。並州統郡國六。

漢武帝は、上党・太原・雲中・上郡・雁門・代郡・定襄・五原・西河・朔方の10郡。
霊帝末、定襄・雲中・五原・朔方・上郡の五郡は、人口が散った。

散っていないのは、上党・太原・雁門・代郡・西河

曹操は、并州を冀州に編入。建安二十年、新興郡をつくり、上党を分けて楽平郡を立てた。
曹丕は、并州をまたおき、陘嶺より北を放棄した。晋代も同じ。

雍州

後漢光武都洛陽、關中複置雍州。後罷、複置司隸校尉、統三輔如舊。獻帝時又置雍州、自三輔距西域皆屬焉。魏文帝即位、分河西為涼州、分隴右為秦州、改京兆尹為太守、馮翊、扶風各除左右、仍以三輔屬司隸。晉初於長安置雍州、統郡國七。

後漢では州の設置なし。献帝期、州を設置。曹丕は、河西を涼州、隴右を新州に分割。7郡。

郡の異動を書いてないので、地理志の明細より、7郡をあげる。京兆・馮翊・扶風・安定・北地・始平・新平。とてもシンプルでした。
始平は、泰始二年に司馬炎が置くために、魏代になし。


涼州

漢置張掖、酒泉、敦煌、武威郡。其後又置金城郡、謂之河西五郡。獻帝時、涼州數有亂、河西五郡去州隔遠、於是乃別以為雍州。末又依古典定九州、乃合關右以為雍州。魏時複分以為涼州、刺史領戊己校尉、護西域、如漢故事、至晉不改。統郡八。

前漢の「河西五郡」とは、張掖・酒泉・敦煌・武威・金城である。献帝期、涼州が断絶したので、九州制の古典に基づいて、涼州を分けて雍州を置いた。曹魏は、雍州の西方をふたたび涼州として、涼州刺史は戊己校尉を兼ねた。晋代は8郡。

晋代の8郡が本文にないので、明細から。
金城・武威・張掖・酒泉・敦煌(以上、河西五郡)、西平・西(河西五郡にないが漢代に置く2郡)、西海(張掖に属したが、後漢末の興平二年に武威太守の張雅が設置を申請)。
『続漢書』郡国志にある、張掖属国(候官・左騎・千人・司馬官・千人官)はどこいった?


秦州

本雍州之域、魏始分隴右置焉、刺史領護羌校尉、中間暫廢。及泰始五年、又以雍州隴右五郡及涼州之金城、梁州之陰平、合七郡置秦州、鎮冀城。統郡六。

もとは雍州の一部。魏初に隴右を分けて置く。秦州刺史は、護羌校尉を兼ねる。しばらく廃止され、泰始五年にふたたび置く。雍州の隴右五郡と、涼州の金城、梁州の陰平を合わせて、7郡とする。5+1+1=7郡。

魏代の秦州なら、隴右の五郡のみを該当させ、金城は涼州のママ、陰平は梁州(でなく梁州のもとになった益州)に含めるべき。
地理志の明細は、6郡しかない。隴西、略陽(=永陽=広魏)、天水(漢陽)、南安、武都が、隴西五郡。陰平は明細にあるが、金城がない。分かりにくいよ。『中国歴史地図集』で、位置関係を確認した。


青州

漢武帝置十三州、因舊名、曆後漢至晉不改。州統郡國六。

特になし。

徐州

秦兼天下、以置泗水、薛、琅邪三郡。楚漢之際、分置東陽郡。漢又分置東海郡、改泗水為沛、改薛為魯、分沛置楚國、以東陽屬吳國。景帝改吳為江都、武帝分沛、東陽置臨淮郡、改江都為廣陵。及置十三州、以其地為徐州、統楚國及東海、琅邪、臨淮、廣陵四郡。宣帝改楚為彭城郡、後漢改為彭城國、以沛郡之廣戚縣來屬、改臨淮為下邳國。及太康元年、複分下邳屬縣在淮南者置臨淮郡、分琅邪置東莞郡。州凡領郡國七。

秦代、泗水郡・薛郡・瑯邪郡を置く。楚漢期、東陽郡を置く。
漢代、東海郡を置き、泗水郡を沛郡と改める。薛郡を魯郡と改める。沛郡を分けて楚国を置く。東陽を呉国に属させる。
景帝は、呉郡を江都郡と改める。武帝は、沛郡と東陽郡を分けて臨淮郡を作る。江都郡を広陵と改める。
武帝が十三州を置くと、徐州は、楚国・東海・瑯邪・臨淮・広陵の4郡を統べる。
宣帝は、楚国を彭城郡として、後漢は彭城国とする。臨淮を下邳国と改める。
晋の太康期、下邳を分けて臨淮郡を置く。瑯邪を分けて東莞を置く。

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もと蜀漢の領土での郡国の変遷

梁州

漢不立州名、以其地為益州。及獻帝初平六年、以臨江縣屬永寧郡。建安六年、劉璋改永寧為巴東郡、分巴郡墊江置巴西郡。劉備據蜀、又分廣漢之葭萌、涪城、梓潼、白水四縣、改葭萌曰漢壽、又立漢德縣、以為梓潼郡;割巴郡之宕渠、宣漢、漢昌三縣宕渠郡、尋省、以縣並屬巴西郡。泰始三年、分益州、立梁州於漢中、改漢壽為晉壽、又分廣漢置新都郡。梁州統郡八、縣四十四、戶七萬六千三百。

漢代に州は置かず、益州に含める。初平六年、臨江県を永寧郡に属させる。建安六年、劉璋が永寧郡を巴東郡と改め、巴郡を分けて巴西郡とする。劉備が、広漢郡を分けて梓潼郡を立てる。巴郡を分けて宕渠郡をつくるが、やめて巴西郡に合わせられる。
晋代、広漢郡を分けて新都郡を作る。

益州

漢初有漢中、巴蜀。高祖六年、分蜀置廣漢、凡為四郡。武帝開西南夷、更置犍為、牂柯、越巂、益州四郡、凡八郡、遂置益州統焉、益州始此也。及後漢、明帝以新附置永昌郡、安帝又以諸道置蜀、廣漢、犍為三郡屬國都尉、及靈帝又以汶江、蠶陵、廣柔三縣立汶山郡。獻帝初平元年、劉璋分巴郡立永寧郡。建安六年、改永寧為巴東、以巴郡為巴西、又立涪陵郡。二十一年、劉備分巴郡立固陵郡。蜀章武元年又改固陵為巴東郡、巴西郡為巴郡、又分廣漢立梓潼郡、分犍為立江陽郡、以蜀郡屬國為漢嘉郡、以犍為屬國為硃提郡。劉禪建興二年、改益州郡為建寧郡、廣漢屬國為陰平郡、分建寧永昌立雲南郡、分建寧<片羊>柯立興古郡、分廣漢立東廣漢郡。魏景元中、蜀平、省東廣漢郡。及武帝泰始二年、分益州置梁州、以漢中屬焉。七年、又分益州置寧州。益州統郡八。

漢初、漢中・巴・蜀・広漢(蜀から分ける)の四郡。
漢武帝が開拓し、犍為・牂牁・越巂・益州の四郡を置く。
漢明帝が、永昌郡を置く。
漢安帝が、蜀郡属国都尉・広漢属国都尉・犍為属国都尉をおく。
霊帝が、汶山郡を立てる。劉璋が、巴郡を分けて永寧郡を立てる。
劉璋が、建安六年、永寧郡を巴東郡と改める。巴郡を巴西とする。涪陵郡を立てる。
劉備が、巴郡を分けて固陵郡を立てる。章武元年、固陵を巴東郡と改める。
巴西郡を巴郡とする。広漢郡を分けて梓潼郡を立てる。犍為を分けて江陽郡を立てる。
蜀郡属国都尉を漢嘉郡とする。犍為属国都尉を朱提郡とする。
劉禅は、益州郡を建寧郡と改める。魏が平蜀して、広漢郡を省く。
司馬炎が、梁州と寧州を分ける。

寧州

寧州。於漢魏為益州之域。泰始七年、武帝以益州地廣、分益州之建甯、興古、雲南、交州之永昌、合四郡為寧州。

晋代に、益州の建寧・興古・雲南と、交州の永昌の4郡でつくる。

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もと孫呉の領土での郡国の変遷

荊州

及置十三州、因舊名為荊州、統南郡、南陽、零陵、桂陽、武陵、長沙、江夏七郡。後漢獻帝建安十三年、魏武盡得荊州之地、分南郡以北立襄陽郡、又分南陽西界立南郷郡、分枝江以西立臨江郡。及敗於赤壁、南郡以南屬呉、吳後遂與蜀分荊州。於是南郡、零陵、武陵以西為蜀、江夏、桂陽、長沙三郡為吳、南陽、襄陽、南鄉三郡為魏。而荊州之名、南北雙立。蜀分南郡、立宜都郡、劉備沒後、宜都、武陵、零陵、南郡四郡之地悉複屬吳。魏文帝以漢中遺黎立魏興、新城二郡、明帝分新城立上庸郡。孫權分江夏立武昌郡、又分蒼梧立臨賀郡、分長沙立衡陽、湘東二郡。孫休分武陵立天門郡、分宜都立建平郡。孫皓分零陵立始安郡、分桂陽立始興郡、又分零陵立邵陵郡、分長沙立安成郡。荊州統南郡、武昌、武陵、宜都、建平、天門、長沙、零陵、桂陽、衡陽、湘東、邵陵、臨賀、始興、始安十五郡、其南陽、江夏、襄陽、南鄉、魏興、新城、上庸七郡屬魏之荊州。及武帝平吳、分南郡為南平郡、分南陽立義陽郡、改南鄉順陽郡、又以始興、始安、臨賀三郡屬廣州、以揚州之安成郡來屬。州統郡二十二、縣一百六十九、戶三十五萬七千五百四十八。

漢武帝が十三州を置くと、南郡、南陽、零陵、桂陽、武陵、長沙、江夏の7郡を統べた。建安十三年、曹操が南郡の北部を襄陽郡として、南陽の西部を南郷郡として、枝江の西を臨江郡とした。曹操が赤壁に敗れると、南郡より以南は孫呉に属した。
劉備は南郡・零陵・武陵、孫権は江夏・桂陽・長沙、曹操は呉郡・南陽・襄陽・南郷を領有した。
劉備は南郡を分けて宜都を立てた。劉備の死後、宜都・武陵・零陵・南郡は、全て孫権に取られた。
曹丕は、魏興・新城をつくる。曹叡は新城を分けて上庸を立てた。孫権は江夏を分けて武昌を立てる。蒼梧を立てて臨賀を立てる。長沙を分けて衡陽・湘東をつくる。
孫休は武陵を分けて天門郡を立て、宜都郡を分けて建平郡を立てる。
孫皓は零陵を分けて始安郡を立て、桂陽郡を分けて始興郡を立てる。零陵を分けて邵陵郡を立て、長沙を分けて安成を立てる。荊州は、南郡、武昌、武陵、宜都、建平、天門、長沙、零陵、桂陽、衡陽、湘東、邵陵、臨賀、始興、始安の15郡ある。南陽、江夏、襄陽、南鄉、魏興、新城、上庸の7郡は曹魏。
平呉した司馬炎は、南郡を分けて南平郡を立て、南陽を分けて義陽郡を立た。南郷を順陽郡と改めた。始興、始安、臨賀の3郡を広州として、揚州の安成郡も広州とした。州統郡二十二。

『晋書』地理志にある、南平・義陽・順陽は、『三国志』には必要ない。でも実際は、義陽郡は、三国時代にすでにある。


揚州

後漢順帝分會稽立呉郡、揚州統會稽、丹楊、呉、豫章、九江、廬江六郡、省六安並廬江郡。獻帝興平中、孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立鄱陽郡、分丹楊立新都郡。孫亮又分豫章立臨川郡、分會稽立臨海郡。孫休又分會稽立建安郡。孫皓分會稽立東陽郡、分吳立吳興郡、分豫章、廬陵、長沙立安成郡、分廬陵立廬陵南部都尉、揚州統丹楊、吳、會稽、吳興、新都、東陽、臨海、建安、豫章、鄱陽、臨川、安成、廬陵南部十四郡。江西廬江、九江之地、自合肥之北至壽春悉屬魏。及晉平吳、以安成屬荊州、分丹楊之宣城、宛陵、陵陽、安吳、涇、廣德、甯國、懷安、石城、臨城、春穀十一縣立宣城郡、理宛陵、改新都曰新安郡、改廬陵南部為南康郡、分建安立晉安郡、又分丹楊立毗陵郡。揚州合統郡十八。

後漢の順帝期、揚州は、会稽・丹楊・呉・豫章・九江・廬江の6郡。六安を省いて廬江郡に合わせた。献帝期、孫策が豫章を分けて廬陵郡を立てた。孫権が、さらに豫章を分けて鄱陽郡を立てた。丹楊を分けて新都郡を立てた。孫亮も豫章を分けて臨川郡を立て、会稽を分けて臨海郡を立てた。孫休も会稽を分けて建安郡を立て、孫皓も会稽を分けて東陽郡を立てた。呉郡を分けて呉興郡を立てる。豫章・廬陵・長沙から分けて安成郡を立てる。廬陵を分けて廬陵南部都尉を立てた。
揚州は、丹楊・呉・会稽・呉興・新都・東陽・臨海・建安・豫章・鄱陽・臨川・安成・廬陵・(廬陵)南部(都尉)の十四郡。江西の廬江・九江は、合肥から寿春まで曹魏が領する。
平呉の後、安成を荊州に属させる。丹楊を分けて宣城郡を作る。新都郡を新安郡と改称する。廬陵南部を南康郡とする。建安を分けて晋安郡とする。丹楊を分けて毗陵郡とする。揚州は全部で18郡。

交州

武帝元鼎六年、討平呂嘉、以其地為南海、蒼梧、鬱林、合浦、日南、九真、交趾七郡、蓋秦時三郡之地。元封中、又置儋耳、珠崖二郡、置交趾刺史以督之。昭帝始元五年、罷儋耳並珠崖。元帝初元三年、又罷珠崖郡。後漢馬援平定交部、始調立城郭置井邑。順帝永和九年、交趾太守周敞求立為州、朝議不許、即拜敞為交趾刺史。桓帝分立高興郡、靈帝改曰高涼。建安八年、張津為刺史、土燮交趾太守、共表立為州、乃拜津為交州牧。十五年、移居番禺、詔以邊州使持節、郡給鼓吹、以重城鎮、加以九錫六佾之舞。吳黃武五年、割南海、蒼梧、鬱林三郡立廣州、交趾、日南、九真、合浦四郡為交州。戴良為刺史、值亂不得入、呂岱擊平之、複還並交部。赤烏五年、複置珠崖部。永安七年、複以前三郡立廣州。及孫皓、又立新昌、武平、九德三郡。蜀以李恢為建寧太守、遙領交州刺史。晉平蜀、以蜀建寧太守霍弋遙領交州、得以便宜選用長吏。平吳後、省珠崖入合浦。交州統郡七。

漢武帝は、南海、蒼梧、鬱林、合浦、日南、九真、交趾7郡をおく。元封期、儋耳・珠崖の2郡をおく。交趾刺史をおく。昭帝期、儋耳を珠崖にあわす。元帝期、珠崖郡をやむ。
桓帝は、高興郡を立て、霊帝が高涼郡と改める。
呉の黄武五年、南海・蒼梧・鬱林の3郡を割いて、広州を立てる。交趾・日南・九真・合浦の4郡で、交州とする。赤烏五年、また珠崖部をおく。孫皓は、新昌・武平・九德の3郡を立てる。
蜀の李恢が建寧太守となり、交州刺史を遙領する。平呉の後、珠崖をはぶいて合浦に入れる。交州統郡七。

広州

呉黃武五年、分交州之南海、蒼梧、鬱林、高梁四郡立為廣州、俄復舊。永安六年、複分交州置廣州、分合浦立合浦北部、以都尉領之。孫皓分鬱林立桂林郡。及太康中、吳平、遂以荊州始安、始興、臨賀三郡來屬。合統郡十。

孫権が、南海・蒼梧・鬱林・高梁の4郡で立てる。
永安六年、合浦を分けて、合浦北部都尉を置く。孫皓が、鬱林を分けて桂林郡を立てる。平呉してから、荊州の始安・始興・臨賀を広州に合わせる。全部で10郡。140817

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