蜀漢 > 『三国志集解』巻44 蒋琬伝・費禕伝を読む

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孔明への信仰から自由だった蒋琬伝

劉備のもとで県令をやり、退屈する

蔣琬、字公琰、零陵湘鄉人也。弱冠與外弟泉陵劉敏、俱知名。琬、以州書佐隨先主入蜀、除廣都長。先主、嘗因游觀、奄至廣都、見琬衆事不理時又沈醉、先主大怒、將加罪戮。軍師將軍諸葛亮、請曰「蔣琬、社稷之器、非百里之才也。其爲政、以安民爲本、不以脩飾爲先。願主公、重加察之」先主雅敬亮、乃不加罪、倉卒、但免官而已。
琬、見推之後、夜夢、有一牛頭在門前流血滂沱、意甚惡之、呼問占夢趙直。直曰「夫、見血者事分明也。牛角及鼻、公字之象。君、位必當至公、大吉之徵也」頃之、爲什邡令。

蔣琬は、あざなを公琰とい、零陵の湘郷のひと。

零陵の郡治は泉陵。先主伝にみえる。湘郷県は、後漢では零陵郡、呉では衡陽郡に属する。つまり蒋琬の故郷は、蜀領ではなくなった。

弱冠にして外弟である泉陵の劉敏とともに名を知られた。

趙一清はいう。『永州府志』蒋珩は泉陵のひと。呉につかえ、始興太守・広州都督となる。晋につかえ、江表をひらき、中原の庶子があい率いて帰化すると(西晋から東晋)蒋珩は力をたもった。蒋琬の昆季(兄弟)で、呉蜀に別れて仕えたか。
ぼくは思う。諸葛亮・諸葛瑾のほかにも、呉蜀で別れたひとがいると、物語がひろがる。しかし晋の東遷まで生きているから、蒋琬より1つくらい下の世代ではないか。
ぼくは思う。「外弟の劉敏」は下に付伝がある。蒋琬の姉妹が劉氏に嫁いだのだろうか。荊州に、皇族の劉氏はわりといる。郡内の劉氏と姻族だった……、という話はおもしろそう。

蒋琬は、荊州の書佐として、先主に随い入蜀し、廣都長に除せらる。

趙一清はいう。『寰宇記』巻72に、蒋琬は益州の華陽県の東7里にいたとある。
広都県は、後主伝の建興14年にある。
ぼくは思う。劉備に同行したなら、「張魯を伐つために漢中に行こう」と同じタイミングとなる。きっと違う。劉備が益州を平定してから、移動したのだろう。

かつて先主は游觀し、廣都に至る。蒋琬が衆事を理めずに沈酔(泥酔して沈滞)するので、罪を加えて戮そうとした。軍師將軍の諸葛亮「蔣琬は社稷の器です。百里の才(県を統治するだけの能力)ではない。彼の為政は、安民を本とし、脩飾を先としない。考えなおせ」

龐統も同じだが、劉備のところは、地方官にするとサボる人材が多い。つまり劉備のとこは、人材が豊富だが、仕事が不足するので、彼らがヒマをするのだ。有能な人材が、ヒマを持てましている組織は、伸びしろがあるなあ。

先主は諸葛亮を雅敬するから、すぐに免官しただけ。
蒋琬は、免官された後、夜に夢をみた。「1つの牛の頭が、門前で血を流す」夢である。趙直に夢占いしてもらう。「血を見るのは、事が分明ということ。牛角および鼻は『公』の字のかたち。きみは必ず『公』となる。大吉の徵也」である。

角で思い出すのは、魏延の頭から角が生える夢。これを占ったのも趙直。蒋琬・魏延の夢は、もとは1つの話だったのかも知れない。かたや諸葛亮の死後に宰相となり、かたや諸葛亮の死後に政争で敗れる。

このころ什邡令となる。

什邡県は、王連伝にある。


丞相府に仕え、先輩たちを追いぬく

先主爲漢中王、琬入爲尚書郎。建興元年、丞相亮開府、辟琬爲東曹掾。舉茂才、琬固讓劉邕、陰化、龐延、廖淳。亮教答曰「思惟、背親捨德以殄百姓、衆人既不隱於心。實又、使遠近不解其義。是以、君宜顯其功舉、以明此選之清重也」遷、爲參軍。

先主が漢中王となると、入りて尚書郎となる。
建興元年、丞相の亮が開府すると、琬を辟して東曹掾とする。

劉備が漢中王となることで、中央の官僚が必要になり、ポスとが増える。蒋琬を中央でつかう必要も出てきた。漢中王になるのは、曹操を驚かす以外に、官僚制を整えて、益州・荊州の人材を活かす(退屈をさせて逃がさない)という効果もありそう。

茂才に挙げられるが、蒋琬は(辞退して)劉邕・陰化・龐延・廖淳にゆずる。

劉邕は『季漢輔臣賛』にある。陰化は鄧芝伝に。龐延は不詳。廖淳とは廖化のおとで、宗預伝にある。ぼくが読んだことがない列伝ばかりだ。
ぼくは思う。蒋琬が名をあげた人材は、世間的に見て蒋琬より先輩・格上なのだろう。逆にいえば、蒋琬は、諸葛亮の個人的な推薦のおかげで、先輩たちを追い抜いて後継者になった。善し悪しは別として、蜀漢の官僚の秩序は、諸葛亮が恣意的に決めている。つぎに交替する、丞相府の長史の張裔ぐらいが「蒋琬と同じぐらい諸葛亮に評価され、ギリギリ蒋琬と張り合えるひと」ではないか。

諸葛亮「思うに、親に背き德に捨きて、以て百姓を殄するは、衆人 既に心に隠とせず(同情を得られない)。茂才を受けろ」と。遷って参軍となる。

五年亮住漢中、琬與長史張裔、統留府事。八年、代裔爲長史、加撫軍將軍。亮數外出、琬常足食足兵、以相供給。亮每言「公琰、託志忠雅。當與吾共贊王業者也」密表後主曰「臣若不幸、後事宜以付琬。」

建興五年、諸葛亮が漢中に住まると、参軍の蒋琬と長史の張裔に、留府の事を統せしむ。建興八年、張裔にかわって長史となり、撫軍將軍を加へらる。諸葛亮はしばしば外征したが、蒋琬はつねに食料を充分に供給した。

盧弼はいう。蒋琬ですら食料を供給できるなら、どうして諸葛亮は、しばしば食料が尽きて撤退するのか。
ぼくは思う。盧弼のこのコメントは、揚げ足とりではなく、蜀を応援するあまり、悔しくて出てきたものだろう。

諸葛亮はつねに、「公琰は志を託するに忠雅。ともに王業を賛けられるひと」という。ひそかに後主に上表して、「私が死んだら、後事は蒋琬に」という。

諸葛亮の死後、蜀臣の最高位となる

亮卒、以琬爲尚書令、俄而加、行都護、假節、領益州刺史、遷大將軍、錄尚書事、封安陽亭侯。
時新喪元帥、遠近危悚。琬、出類拔萃、處羣僚之右、既無戚容、又無喜色、神守舉止有如平日。由是、衆望漸服。

諸葛亮が死ぬと、尚書令となり、官爵が加えられた。諸葛亮が死んだばかりなので、遠近は危ぶみ恐れた。蒋琬は、類(倫)より出で萃(聚)を拔き、

丞相府の同僚のなかから、1人だけ長官として抜き出て、

群僚の上位に立った。戚容(悲しみ)も喜色もみせず、ふだんどおり精神が安定していた。衆望は、ようやく服した。

もし悲しめば、諸葛亮がいなくなった不安が伝染&増幅して、爆発する。もし喜べば、諸葛亮が死んだ悲しみよりも、自分が出世した嬉しさが前に出る。「諸葛亮が死んでくれたおかげで、オレが長官になれたぜ」と、野心が丸出しになる。もちろん、もと同僚たちが面白いはずがない。
思うに、蒋琬には、圧倒的な有能感がある。挫かれたことがない。「諸葛亮は私を評価しているが、果たして彼のものさしは、私の能力を正当に評価できているか。未知の才能を敬い畏れている、というのが本当ではないか」とか思ってそう。しかし人間社会のルールとして、派閥や年次を守らねばならない。諸葛亮が死んだことは、もちろん蜀漢にとって損失だが、蒋琬にとっては「能力どおりの地位が巡ってくるキッカケ」に過ぎない。だから、喜ばないし悲しまない。


延熙元年、詔琬曰「寇難未弭、曹叡驕凶。遼東三郡苦其暴虐、遂相糾結、與之離隔。叡、大興衆役、還相攻伐。曩秦之亡、勝廣首難。今有此變、斯乃天時。君其治嚴、總帥諸軍、屯住漢中。須吳舉動、東西掎角、以乘其釁」又命琬開府。明年就加爲大司馬。

延熙元(238)年、蒋琬に詔した。「曹叡は驕凶であり、遼東3郡が暴虐に苦しんで起兵した。チャンスだから、漢中にゆき、呉と連携して魏を攻めろ」。蒋琬に開府させ、翌年、大司馬となる。

諸葛亮が死んでから4年目。「諸葛亮が死んで北伐がくじけ、間隔がひらき、回数が減った」ということはない。魏の内情を見て、攻めこむタイミングを探ってた。諸葛亮が欠けた分、不利になったものの、北伐という大方針は変わっていない。


人間関係のトラブル2件

東曹掾楊戲、素性簡略、琬與言論、時不應答。或欲搆戲、於琬曰「公、與戲語而不見應。戲之慢上、不亦甚乎」琬曰「人心不同、各如其面。面從後言、古人之所誡也。戲、欲贊吾是耶則非其本心、欲反吾言則顯吾之非。是以默然、是戲之快也」

東曹掾の楊戲は、性は簡略で、蒋琬と言論しても、応答しないことがある。あるひとが楊戯と対立して、蒋琬にいう。「あなたが楊戯と話すとき、彼がちゃんと応えないことがある。楊戯が驕っている。よくないよね」。蒋琬「人は顔が違うように心が違う。

『左氏伝』襄公31年。鄭子産が子皮にいった言葉。

従ったふりをして後で(不服を)言うのは、古人が戒めたこと。

『尚書』益稷で、舜・禹が君臣の戒めを述べたもの。

楊戯は、私に賛成したらウソになり、私に反対したら批判になるから、ちゃんと応えないのだ。これは楊戯の快だよ」

諸葛亮は、どちらかというと、言論の雰囲気を支配したがり、お節介を焼いて、膝づめの議論を好みそう。しかし蒋琬は、他人がどう思っていようが無関心。だから諸葛亮に推挙されたとき、「推薦してもらったら、期待に応えるのが人間というもので……」と、クドクド言われたときは、すごくウンザリしただろう。目上の者と意見が違うなら、また活躍の場がなさそうなら、スルーしてトラブルを避ける、というのが蒋琬である。だから楊戯にも同じことを許した。
思うに、諸葛亮であれば、こうやって「楊戯は、態度がなってない」と教える人がいたら、楊戯を呼び出して、ネチネチと説教をしたんだろう。ゆえに、後任者にも同じ振る舞いを期待したところ、蒋琬は人間のタイプが違ったのだ。


又、督農楊敏、曾毀琬曰「作事憒憒、誠非及前人」或以白琬、主者請推治敏。琬曰「吾實不如前人、無可推也」主者、重據聽不推。則乞問其憒憒之狀、琬曰「苟其不如、則事不當理。事不當理、則憒憒矣。復何問邪」後、敏坐事繫獄。衆人猶懼其必死。琬、心無適莫、得免重罪。其好惡存道、皆此類也。

また、督農(典農)の楊敏は、かつて蒋琬を批判した。「仕事ぶりは憒憒(悶々)として、まことに前任者に及ばない」と。あるひとが蒋琬にチクり、管理者は楊敏を治に推し(取り調べ)という。蒋琬「実際に前任者に及ばないから、取り調べなくていい」

「憒憒」とは悶々として心が乱れること。

(楊敏を告発して、蒋琬の名誉を守ろうとした)ひとは、「仕事ぶりは憒憒(悶々)と言われたが、それでもいいのか」と問う。蒋琬「前任者に及ばないから、仕事をうまくやれない。(及ばないなりにも)仕事をうまくやるには、悶々と悩むしかない。なぜ問うのかね(当然じゃないか)」

ぼくが思うに、蒋琬は、自分が諸葛亮に及ばないとは思わない。いちおう世論に同調して、諸葛亮は偉いことにしているが。諸葛亮とはタイプが違うから、比べるのがムダと思っているのでは。タイプが違うから、諸葛亮がサクサクやれたことに手間を取られる。代わりに、諸葛亮が悶々としてたところ(恐いから誰もそれを指摘しないが)を蒋琬がサクサクやっている。それでいいじゃん、というドライさが蒋琬の魅力。
蜀臣の序列は、諸葛亮からの評価で決まるという説がある。この史料から考えるに、前任の諸葛亮の時代、こういう「小学校の先生」や「学級委員」みたいな賞罰が行われていた名残だと思う。

のちに楊敏が獄に繋がれたとき、みな蒋琬が彼を死刑にすると思った。だが蒋琬はこだわらず、重罪を免じた。好悪に道理がある(個人的な感情を差し挟まない)のは、このようであった。

だから諸葛亮と同じと言っているのか、だから諸葛亮と違うといっているのか。諸葛亮その人についていえば、公平で潔白だと思う。しかし、諸葛亮みたいに「空気」を濃厚にするのが好きなタイプのリーダーがいると、下々は、感情をめぐって過剰に縛りつけあう。
@Sz73B さんはいう。そう言われると魏延がまず思い浮かびますね。
ぼくはいう。魏延は諸葛亮がつくった「小学校の教室」の被害者でしょうね。どれだけ先生が立派なひとでも、どうしても相性というものがあるので。


蒋琬の北伐の計画

琬以爲、昔諸葛亮數闚秦川、道險運艱竟不能克、不若乘水東下。乃多作舟船、欲由漢沔、襲魏興上庸。會舊疾連動、未時得行。而衆論咸謂、如不克捷、還路甚難、非長策也。於是、遣尚書令費禕、中監軍姜維等、喻指。琬承命上疏曰

蒋琬は「諸葛亮がしばしば秦川に北伐したが、道が険しくて勝てなかった。川水に乗って東に下るのがいい」と考えた。おおく船をつくり、漢水・沔水から、魏興・上庸を襲いたい。

胡三省はいう。漢水・沔水は、漢中から東に流れ、魏興・上庸をとおり、襄陽に達する。天下を争うなら秦川に兵を出すべきで、秦川・魏興は天下を争える地ではない。……というのが胡三省の認識。ぼくは、秦漢交替期の故事にひっぱられて、胡三省が観念的に流れすぎている気がする。確かに襄陽だけ単独で得ても、やりようがないから、もう数段階の作戦がいるのだろうが。

しかし持病のせいで、行けない。衆論は、蒋琬を批判して、「勝てなかったら、帰れない。長策ではない」という。

逆に諸葛亮が、あえて険しい地形を選んだのは、勝てなくても帰れる経路だったからだと分かる。初めから、負けたときのことを想定するのが、いかにも諸葛亮らしいが、だから勝てないんだよ、という気もする。
蜀ファンであれば、蒋琬の計画が成功するパターンもみたい。撤退に最低限の保障を作っておけば、これを実行できるのになあ。
蒋琬としてみれば、「勝てなかったらどうするんですか」というマジメ派は、諸葛亮を尊敬するあまり台なしにする連中に見えただろう。「失敗したら?そのときは解散でしょ」くらいは、思っていたかも知れない。
蜀の歴史的な使命(漢室の復興)を、リアルに追及できるのは、諸葛亮の時代まで。三国鼎立が既成事実となったら、ただの地方政権である。劉備の時代から知っているからこそ、「これでダメなら、蜀は解散。だって諸葛亮が、あれだけ頑張っても実現しなかったのに」と責任を持って言えそう。諸葛亮の偉業は、そのあとの人々を、悪い意味で脱力させる、教育的な効果があったな。

尚書令の費禕・中監軍(中護軍)の費禕らに、(後主が蒋琬の計画のデメリットを心配しているぞ)と伝えた。これを受けて、蒋琬は上疏した。

「芟穢弭難、臣職是掌。自臣奉辭、漢中已經六年。臣既闇弱、加嬰疾疢、規方無成、夙夜憂慘。今、魏跨帶九州、根蔕滋蔓、平除未易。若東西幷力、首尾掎角、雖未能速得如志、且當分裂蠶食、先摧其支黨。然、吳期二三、連不克果。俯仰惟艱、實忘寢食。輒與費禕等議。
以涼州胡塞之要、進退有資、賊之所惜。且羌胡乃心思漢如渴。又昔偏軍入羌、郭淮破走。算其長短、以爲事首。宜以姜維、爲涼州刺史。若維征行銜持河右、臣當帥軍爲維鎭繼。今、涪水陸四通、惟急是應。若東北有虞、赴之不難」由是、琬遂還住涪。疾轉增劇、至九年卒、諡曰恭。

「魏を倒すのが私の仕事ですが、漢中に6年いて、成果もなく病気になった。呉は同盟軍として機能せず、腹が立った私は、寝食も忘れて作戦を考えました。(独力で魏を倒す唯一の方法として、漢中からの東下を提案したが反対されたので)費禕と作戦を話しあいました。
(納得できないけど、次善の策を述べますと)涼州は要地であり、北伐に役立ち、魏も重視する場所です。しかも(涼州に住む)羌族は、わが蜀漢を、のどが渇いたひとが水を求めるように慕っています。

蒋琬伝の上疏「羌胡乃心思漢如渴」を、ちくま訳は「羌族のほうでは心中 漢中を渇望しておりますし」とする。「羌胡 乃ち心に漢を思ふこと渇するが如し」と訓読し、「羌族が心のなかで(のどが)渇き(水を求める)ように、(蜀)漢のことを慕う」だと思う。羌族が、漢中の地を攻略するなんてこわい。

むかし偏軍(少しの蜀軍)が羌族の地に入り(涼州刺史の)郭淮を破ったこともある。

建興8年のこと。魏延伝にみえる。

(漢水の東下と、涼州への北伐という)作戦の長短を比べれば、涼州の北伐のほうが優れています。だから姜維を涼州刺史にしなさい。

思うに、これは諸葛亮の作戦への回帰だ。「羌族が漢を思慕する」なんて、ただの文飾である。つまり蒋琬は、「孫権と連携して、秦地に北伐する」という諸葛亮の作戦が、どちらもコケたから(コカした諸葛亮を、うっすら批判して)全く新しい方法を打ち出し、「孫権を頼らなくても、独力で漢水を下る」を考えた。しかし却下されたので、消去法で諸葛亮にもどることになった。
上疏に出てくる「羌族が漢を思慕する」なんて、いかにも諸葛亮が言い出しそうな世界観である。ドライな蒋琬が、オリジナルで言うことはないだろう。

姜維が河右を占拠したら、私があとに続きましょう。いま、涪水は水陸に四方が通じています。

涪県は、劉璋伝に見える。後漢の広漢郡に属し、蜀漢の梓潼郡に属する。

涪県にいれば、姜維に応じられるし、東北(魏軍)にも備えられる」と。
これにより蒋琬は涪県にゆき、建興九年に病死した。恭侯。

『隋書』経籍志には、『喪服要記』1巻が、蜀丞相の蒋琬の撰とある。
ぼくは思う。蜀の人々は、みな諸葛亮を起点にして発想する。費禕・姜維だって、諸葛亮との比較で、自分がやろうとしていることの可否、難易度を測る発言が史料にある。しかし蒋琬は、諸葛亮のことを、いちど忘れて、ゼロベースで発想しようとしてる。諸葛亮という教祖から自由だった人物は、蜀漢では、蒋琬が最後ではないか。この点で、蒋琬は「ツブが大きい」人物である。諸葛亮→蒋琬→費禕を、等差数列のように捉えたら、気づきそこねる。


蒋琬の子の蒋斌は、鍾会の友だち

子斌嗣、爲綏武將軍、漢城護軍。魏大將軍鍾會、至漢城、與斌書曰「巴蜀、賢智文武之士多矣。至於足下、諸葛思遠、譬諸草木、吾氣類也。桑梓之敬、古今所敦。西到、欲奉瞻尊大君公侯墓、當洒掃墳塋、奉祠致敬。願告其所在」斌答書曰「知惟臭味意眷之隆。雅託通流、未拒來謂也。亡考昔遭疾疢、亡於涪縣、卜云其吉、遂安厝之。知、君西邁、乃欲屈駕脩敬墳墓。視予猶父、顏子之仁也。聞命感愴、以增情思」會、得斌書報、嘉歎意義。及至涪、如其書云。

子の蒋斌は、綏武将軍・漢城護軍となる。鍾会が漢城にきたとき、蒋斌に蒋琬の墓のありかを聞いた。

鍾会の認識では、諸葛亮・蒋琬は、敵国ながらも尊敬すべき(墓参りすべき)人物として捉えている。しかし費禕のことは触れない。蒋琬は諸葛亮とツブの揃った人材だが、費禕は諸葛亮の後継者(劣化コピー)だと思っているのか。少なくとも費禕は、蒋琬よりは扱いが軽い。


後主既降鄧艾。斌、詣會於涪、待以交友之禮。隨會至成都、爲亂兵所殺。斌弟顯、爲太子僕、會亦愛其才學、與斌同時死。

後主が鄧艾に降ると、蒋斌は涪城の鍾会のところにゆく。成都で乱兵に殺された。

曹爽から漢中を守った劉敏伝

劉敏、左護軍、揚威將軍、與鎭北大將軍王平俱鎭漢中。魏遣大將軍曹爽襲蜀時、議者或謂、但可守城、不出拒敵、必自引退。敏以爲、男女布野、農穀栖畝、若聽敵入、則大事去矣。遂帥所領與平據興勢、多張旗幟、彌亙百餘里。會大將軍費禕從成都至、魏軍卽退、敏以功封雲亭侯。

劉敏は、左護軍・揚威將軍となり、鎮北大將軍の王平とともに漢中に鎮する。魏の曹爽が蜀を襲ったとき、ある人が「城を守り、出て戦うな。魏軍は退くだろう」という。劉敏は、「男女は野にいて、農穀は畝にある。もし敵が入るのを許せば、大事が去る」と考えた。

ぼくは思う。ある人は、漢中まで魏軍を引き入れて、そこで持ち堪えろという。たしかに、劉備が同じ方法で曹操を追い返したことがある。ただしこれは、漢中が、張魯・曹操・夏侯淵・劉備と、目まぐるしく領主を移動しているときのこと。曹操が人口を連れ去り、蜀漢が民政らしい民政に着手する前。
このとき、劉敏の見立てでは、民政の効果により、漢中の土地自体に、人口・農地という成果がある。これを荒らされたら、大事が去る(蜀漢の国家が保てない)ほどの一大事であると。同郷の蒋琬とともに、漢中の民政・要塞化をがんばった劉敏とは、おもしろそうなキャラです。

王平とともに興勢に拠り、百里にわたって旗幟を張った。ちょうど大将軍の費禕が成都から至り、魏軍がすぐに退いた。劉敏は、雲亭侯に封ぜられた。

趙一清は『永州府志』から、より詳しい列伝を載せる。劉敏の祖父は、劉優といい、零陵のひと。劉優の父(劉敏の祖父)の劉綽は、彭城で起家して、出て零陵太守となり、現地に家を移した。劉優は孝廉に挙げられ、献帝のとき御史大夫となり、尚書僕射に遷った。劉優の孫である劉敏は、弱冠のとき蒋琬とともに名を知られ、孝廉に挙げられた。後主のとき、侍御史に除せられ、糾察名実、廷中称当。雲亭侯に封ぜられ、中書侍郎を加え、成都尹を拝す。
ぼくは思う。彭城の劉氏って、どの血筋だろう。そして、献帝の御史大夫・尚書僕射ということは、曹操のそばにいた。蒋琬と曹操に、思わぬつながりが見えてきた。蒋琬の友が劉敏で、劉敏の祖父が劉優で、劉優は曹操と接点あり。


蒋琬の政権基盤に関する Jominian 氏のツイート

蒋琬は荊州南部で名を知られ、臨郡武陵の潘氏と通婚もしていた。しかし、彼が劉備に従い入蜀し、県長を任された時、劉備は蒋琬の人物を知らず、処刑しようとした。彼は諸葛亮のとりなしで免官に留まることができた。しかし、諸葛亮とも、劉備が荊州南部を治めるようになってから関係したはずである。
蒋琬は、個人的な交友を知られた人物が劉敏や潘濬くらいしか見えない。茂才に挙げられた時も(恐らく)襄陽の龐延、義陽の劉邕、襄陽の廖化らに譲ってる。また、蜀漢では荊州南部で出世した人物が少ない。恐らく彼らは、諸葛亮が荊南三郡を治めた時に見出された人物なのだろう。
蒋琬は宰相となった時、積極的に益州人を迎え入れた。蒋琬が失脚すると、費禕は旧劉璋政権系荊州人を積極的に登用した。姜維は益州人、旧劉璋系荊州人、南陽の諸葛亮コミュニティの人間をバランスよく属官に迎え入れた。諸葛瞻の時代になると、中枢は南陽コミュニティとなった。
諸葛亮に評価されるということは、政権における存在感を大きく向上させる。しかし、それでもなお蒋琬が襄陽コミュニティに茂才を譲ろうとしたように、諸葛亮の評価のみを以って政権に入った人物は、既存コミュニティの動向を気にせざるを得ない。これは姜維も同様だっただろう。
蒋琬と姜維は深く結び付いていたが、それはある意味当然のことである。蒋琬は政権中枢にあったが、彼を支持するコミュニティは小さく、彼の基盤は諸葛亮による評価が主であった。姜維もまた同様であり、彼らは似たような境遇にあったのだ。
蒋琬はなるべくして宰相になったのかというと、それは違う。諸葛亮から高く評価された上で、実務における高い貢献により、その道筋が生まれた。姜維も同様であり、諸葛亮からの評価と、実務における働きのみが基盤である。政権内に力のあるコミュニティを持つ人とは本質的に異なる。
費禕の死後、陳祗が権力の座に就いた。そして陳祗の時代、尚書では、旧劉璋政権系、襄陽コミュニティ、益州人からバランスよく人が出ていた。そして尚書僕射には、当時は襄陽コミュニティの重鎮になっていたであろう董厥が就いていた。
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諸葛亮は漢(劉備)に仕えること30年、宰相にあること10年。蒋琬は漢に仕えること35年、宰相にあること10年。費禕は漢に仕えること30年、宰相にあること10年。姜維は漢に仕えること35年、宰相にあること15年。ただし、諸葛亮は実質的には20年間宰相に足る職務を帯びていた。
諸葛亮も、蒋琬も、費禕も、姜維も、その劉氏に仕えた背景は異なる。諸葛亮は荊州に流浪した劉備に仕え、共に南陽を脱出した人々の一人である。蒋琬は赤壁の後、荊州南部を治めた劉備に仕えた。費禕は劉備入蜀前に益州入りした人々のコミュニティメンバーであり、姜維は涼州人だ。荊州閥益州閥などという雑な理解の仕方には、今後も断固としてNOを突きつけていく。

以上、引用させて頂きました。150829
一連のツイートを見て、ぼくの思ったことです。
蜀臣を分類する話をしますが、本題に入る前に思う所を述べます。何事においても「分類」という作業をするとき、指標(何によって分けるか)、細かさ(いくつに分けるか)は、つねに恣意的です。誰もが共有できる指標・細かさはあり得ない。もし自明的にあるのなら「分類」作業そのものが不要です。
分類の指標・細かさは、分類者がその集合をどのように眺めているか、分類することで何を明らかにしたいか(何を主張したいか)によって規定されます。見方・主張が先にあって、分類が後にある。見方・主張を確認せずに、指標・細かさについて可否を議論しても話が進みません。
蜀臣の分類の研究史は、渡邉義浩先生の『三国政権の構造と「名士」』141頁に紹介されてます。出身地(荊州・益州・涼州)、階級(豪族や地主か否か)が主な指標です。渡邉先生は蜀臣を、劉備の君主権力に与する者と、諸葛亮が形成した荊州「名士」勢力の2つに分類します。渡邉先生の分類は「名士」論を立てるための恣意的なものです(前述のとおり分類とは常に恣意的な行為です)。
単純な出身地による分類に無意味で「蜀臣のうち、益州の豪族出身者は××な利得/傾向がある」という議論の方向性を設定して初めて、出身地で分ける意味が生じます。仕官の履歴や、人脈(コミュニティ)を、蜀臣の分類の尺度にするときも、それがどう効いてくるかという議論をセットにしなければ意味がありません。「劉璋に仕えた人は××の傾向がある」、「××な交際があれば、××の官職に推薦/抜擢される」などです。
なお分類の尺度は、概念の高さを揃えないと切れ味が悪いです。ある集団は出身地でわけ、べつの集団は人脈、あるいは仕官歴で……では分類したことにならない。出身地・人脈・仕官歴を反映させるなら、3つを掛け合わせた指標が必要です。複雑すぎるので整理が必要だと思いますが。出身地・人脈・仕官歴は、きっと相互に影響を持っているので、どこかで「エイッ」と気合いを入れて、尺度を決めねばなりません。
ぼくが蜀臣を分類するときの興味の切り口は、天下統一を優先するか(大一統に妄執する「皇帝病」に罹患しているか)、既存の領土である益州の保全を優先するか。当然、キレイに2つに割れません。割れないからこそ、あえて自分で分類のナイフを恣意的に振るう意味が生じる。
「天下統一派」vs「益州保全派」を、「荊州閥」vs「益州閥」という書き方をすると、用語が意味する所・喚起する印象が、ぼくのやりたいこととズレるので(というか間違ってるので;出身地の話をしたいわけではありません)修正が必要でした。用語はまた考えますが、蜀末期まで見通せる分類の指標を作りたいです。150829

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荊州出身の「益州閥」、外戚の費禕伝

劉璋の母の一族として、蜀に入る

費禕、字文偉、江夏鄳人也。少孤、依族父伯仁。伯仁姑、益州牧劉璋之母也。璋、遣使迎仁、仁將禕游學入蜀。會先主定蜀、禕遂留益土。與汝南許叔龍、南郡董允、齊名。

費禕、あざなは文偉。江夏の鄳(もう)県のひと。

費氏について、上海古籍2760頁。

少くして孤。族父の費伯仁をたよる。伯仁の姑は、益州牧の劉璋の母である。

趙一清はいう。楊戯『季漢輔臣賛』によると、費賓伯は、名を観といい、江夏の鄳県のひと。劉璋の母は、費観の族姑である。どうして費伯仁とするのか(「費観」がただしい)
ぼくは思う。費禕の政権基盤を考えるとき、蜀主の外戚の一族であることに注意したい。 費禕の子の費恭は、公主をめとる。荊州人としてではなく、劉璋・劉備にまたがる蜀主の姻族であることに着目して列伝を読もう。

劉璋は、費仁に使者をやって迎え、

銭大昭はいう。さっき「伯仁」といったのに、いま「仁」という。史例にあらず。
ぼくは補う。『季漢輔臣賛』を含めると、正しくは「賓伯」もしくは「観」となる。ワケがわからないが、劉璋が母の一族として、費禕の族父&養父を益州に招いたことは揺るがない。蒋琬は劉備に従って益州に入り県長になったが、費禕は劉備とは関係なく益州に入った。

費仁は費禕を蜀に遊学させた。たまたま先主が蜀を定め、費禕はついに益州に留まる。

ぼくは思う。劉璋政権が破綻したため、費禕は益州にいる理由はなくなったが。「もと劉璋の臣下」として、劉備に急襲されたのだろう。
もと劉璋の姻族であり、劉備の臣となるという意味では、呉懿に同じ。呉懿の妹は劉瑁(劉璋の兄弟)に嫁ぎ、つぎに劉備の皇后となった。
巻34 穆皇后伝:先主穆皇后、陳留人也。兄吳壹、少孤、壹父素、與劉焉有舊、是以舉家隨焉入蜀。焉、有異志。而聞、善相者、相后當大貴。焉、時將子瑁、自隨。遂爲瑁、納后。瑁死、后寡居。先主既定益州、而孫夫人還吳、羣下勸先主聘后。先主疑、與瑁同族。法正進曰「論其親疎、何與晉文之於子圉乎?」於是、納后爲夫人。

費禕は、汝南の許叔龍・南郡の董允と、名をひとしくす。

董允と名声を比べられ、董允と就官

時、許靖喪子、允與禕欲共會其葬所。允、白父和請車、和遣開後鹿車給之。允有、難載之色、禕便從前先上。及至喪所、諸葛亮及諸貴人悉集、車乘甚鮮。允、猶神色未泰、而禕晏然自若。持車人還、和問之、知其如此、乃謂允曰「吾常疑、汝於文偉優劣未別也。而今而後、吾意了矣。」

ときに許靖の子が亡くなり、董允・費禕は、ともに葬所にゆく。

上に「許叔龍と董允」が出てきた直後、許靖の子が死んだといい、董允も出てくる。死んだのは許叔龍なのか。許靖が、おそらく費禕よりも上の年代なので、そうだとしてもおかしくない。文脈的に「そんな感じがする」だけで、いまの原文から、これをいえば推測になる。

董允が、父の董和に馬車を求めると、董和は開後の(後部に覆いがない)鹿車をあげた。董允は「(落ちたら恐いから)後ろに乗りたくないな」という顔をすると、費禕は先に前方から乗りこんだ。

先に費禕がのり、後ろに詰めてくれた。つまり、危険なところに率先して乗ってくれたら、ぶじ2人は搭乗することができ、葬儀に駆けつけることができた。

喪所に至ると、諸葛亮および諸々の貴人が、みな集まる。貴人らの馬車は、とても新しく立派であった。

「鮮」は「すくなし」と読むかと思ったが、ちくま訳では「たいへん立派」となってる。「鮮」には、「あたら-し」「よ-し」と優れている意味や、「あざ-やか」で美しくあでやかという意味がある。貴人の馬車が少ないとは思えないので「よ-し」と読もう。
しかし諸葛亮が、あでやかな馬車に乗ってると、イメージが崩れる。許劭からの批判をおそれ、地味な馬車に乗り換えたのは袁紹。許劭と許靖は従兄弟だが、2人は仲が悪いから、馬車に対するコダワリは異なるのか。余談でしたw

董允は(馬車がボロいので)そわそわしたが、費禕は晏然・自若たり。車を持する人(御者)が還り、董和がこれを問い、ふたりの違いを知った。

もしかして董和は、「葬儀にはボロい馬車で行くほうが、慎み深くてカッコいい」という価値観で、あえてボロい馬車を持たせたのかも。許劭と袁紹のエピソードに見える価値観は、きっと蜀地でも共有されている。
ボロい馬車を(儒教の体現として)堂々と誇れるのが費禕で、ボロい馬車をふつうに恥じるのが董和。蜀地に遊学したことで、費禕は儒家として身を飾る(飾って逆にボロくする)ことを覚えたのかも。この清貧を誇るような、やや屈折した性格が、のちにどう効いてくるのか。

董和は董允にいう。「いつも、費禕とお前の優劣が分からずにいた。やっと分かった(費禕のほうが優れている)」と。

友のために敢えて危険をおかし、貴人の前で堂々と清貧に振る舞う。たしかに費禕は優れているが、ちょっと作為的な感じがする……のは、ぼくが凡人だからか。


先主立太子、禕與允俱爲舍人、遷庶子。後主踐位、爲黃門侍郎。丞相亮南征還、羣寮於數十里逢迎。年位多在禕右、而亮特命禕同載、由是衆人莫不易觀。亮以初從南歸、以禕爲昭信校尉、使吳。

先主が太子を立てると、費禕と董允はともに太子舍人となり、太子庶子に遷る。

董允は、官歴まで重なるのか。巻39 董允伝をやらねば。

後主が即位すると、黄門侍郎となる。丞相の亮が南征して還ると、群僚は数十里まで迎えた。年位(年齢・官位)は費禕より上のものが多いが、諸葛亮は特別に費禕を指名して、同乗させた。衆人は、費禕に対する見方を変えた。

行きは馬謖を連れてゆき、「心を攻める」という話をしていた。帰りは、費禕と話したくなった。馬謖・費禕は、どちらも諸葛亮のお気に入りなのだ。
上で蒋琬伝を読んだとき、蜀漢の官僚の序列は、ひとり諸葛亮が決めるという話を書いたが、費禕もこの一事をもって、イレギュラーであるが年齢・官位を飛びこして、蜀の宰相になり得ることになった。ほんと諸葛亮は、やり方・見方によっては依怙贔屓・横暴である。
『華陽国志』巻7はいう。建興三年12月、諸葛亮が南征から帰ると、費禕は年齢が若いのに、費禕を参上させた。……と同じ事実が、年月つきで書いてある。

諸葛亮は、南より帰るとすぐに、費禕を昭信校尉として、呉に使いさせる。

銭大昭はいう。呉の呂岱は、昭信中郎将となった。この類いの官位だろう。


孫権への使者をつとめる

孫權、性既滑稽、嘲啁無方。諸葛恪、羊衞等、才博果辯。論難鋒至、禕、辭順義篤、據理以答、終不能屈。權、甚器之、謂禕曰「君、天下淑德、必當股肱蜀朝。恐不能數來也」還、遷爲侍中。

孫権は、性が滑稽で、嘲啁は無方。

ちくま訳は、口が達者で、やたら人をからかう。

(孫権の臣の)諸葛恪・羊衞らは、才は果辯に博し。論難し鋒至する。費禕は、辭は順で義は篤。理に拠って答え、終に屈しなかった。

これじゃあ、費禕のなにがスゴイか分からないと心配した、『別伝』作者が、「孫權每別酌好酒以飲禕、視其已醉、然後問以國事、並論當世之務、辭難累至。禕輒辭以醉、退而撰次所問、事事條答、無所遺失」と補い、裴注に採用された。
しかし『禕別伝』か書いたような、孫権が費禕を泥酔させて、頭の働きを弱らせてから質問すると、あとで費禕が洩らさずに答えた……というのは、ただ形式だけの話で、中身に及んでいない。
むしろ優れた人物として描くなら、どれだけ酒を飲んでも乱れずに即答して、同じ席で酔っている孫権にやり返した、とすべきだ。
ぼくが別伝の作者なら、この文脈からすると、諸葛恪・羊衜を言い負かす逸話を、創作しただろう。費禕の物語を書くとするなら、このときの問答が、作成されるべき。
『禕別伝』は、『隋書』『唐書』には書名が見えない。
董允伝にひく『襄陽記』には、費禕の問答が少しだけ載ってる。孫権が費禕を酔わせると、楊戯・魏延の人となりについて聞き、費禕は、「2人の不仲は個人的な感情なので、御しがたいことはない」と答える。……これだって、あとの費禕伝の本文をもとに、膨らませられる話であって、目新しさがない。やり込める相手として、諸葛恪・羊衜が出てこないから、まだ不足である。

孫権は評価して、費禕にいう。「きみは天下の淑德で、必ず蜀朝の股肱となる。なんども呉に来られないだろう」と。

孫権が費禕の才能を評価しました、という以外にも、隠れた情報がある。孫権は、蜀が呉にやる使者は、第一級の人物が選ばれないと(少なくとも孫権自身が)考えていると、暴露したのだ。
いちおう(確固たる)同盟国である(という名目)だから、蜀の使者は、呉で拘束・殺害されるリスクはゼロのはずである。そして、もしも呉との同盟の維持を、蜀が戦略として最大限に重んじる(と孫権が考えている)なら、蜀の「股肱」は、中央の忙しい仕事を他人に委ねてでも、呉にくるはず(と孫権が考えるはず)。孫権は、人をからかうジョークにしたつもりが、期せずして、呉蜀同盟のゆるさ・信頼できなさを暴露した。諸葛亮の「蜀呉の同時進攻」は、この一事を見ただけでも、机上の空論だったと分かる。どうする、費禕。

還ると、遷って侍中となる。

建興5年のことである。諸葛亮の出師表で、「侍中の費禕は……」とある。


禕別傳曰。權乃以手中常所執寶刀贈之、禕答曰「臣以不才、何以堪明命?然刀所以討不庭、禁暴亂者也、但願大王勉建功業、同獎漢室、臣雖闇弱、終不負東顧。」

『禕別伝』はいう。孫権はつねに持っている宝刀を費禕に贈った。

宝刀を贈るとは、軍事的な権限を委譲するという象徴的な動作。「オレの代わりに征伐をやれ」とは、裏返せば「オレは征伐しないから」という意思表明である。つまり、魏の攻略は、呉の分も蜀でやってくれ(呉は何もしないから)と仄めかした。

費禕「私は不才なので、なぜ明命に堪えられましょうか。剣は外敵を討ち、暴乱を禁ずるもの。孫権は、功業を立てることに務め、ともに漢室のために働いてほしい。

意味が取りにくいが、「孫権の魏の攻め方が、ぬるい」と言っているような気がする。私に剣を投げて、魏との戦いを丸投げするのではなく、呉も功業を立てるために戦えと。「同に漢室を獎め」とは、漢の継承を国是とする意味で、呉蜀は一致しているはずだから、それを実現せよという督促では。

私は暗弱だが、ついに東顧に負きません」と。

ちくま訳だと、「東方の恩顧に背かない」となっており、よく分からない。なんだか、孫権が費禕を、呉に転職しろと口説いたが、孫権が断られたという印象を受けるけど(あくまで印象)分からない。「東のかたを顧みる」ひとは諸葛亮である。諸葛亮がいるのは西方なので、「東方の恩顧」とする、ちくま訳はおかしい。
『文選』曹植の求自試表に「撫劍東顧、而心已馳於吳會矣。」とあるらしい。
『集解』もめぼしい解説がついてない。これが『通鑑』に採用されたら、胡三省が分かりやすく言い換えてくれただろうに。きっと時代情勢(細かな呉蜀の関係や、魏との高いの変遷)のよく分からない『費別伝』作者が、後先を考えずに適当につくった費禕の美談なのだろう。あまり考える必要がないのかも。


亮北住漢中、請禕爲參軍。以奉使稱旨、頻煩至吳。

諸葛亮が漢中にとどまると、費禕を参軍にしたい。しかし、使者として旨に称う(蜀の利益・面目を立てる)ことができるから、しきりに呉にゆく。

諸葛亮は漢中で費禕を使いたい。しかし呉との交渉を、費禕よりもうまくできる人がいない。諸葛亮の戦略は、呉蜀の連携が前提である。費禕の使い方によって、「蜀がより上手く魏を攻めるか」と「呉から一層の協力を引き出すか」の重点化のバランスが決まる。本来は、二者択一ではなかったはずだが、結果的に諸葛亮は(人材不足のために)二者択一をする結果となった。
そして費禕を漢中に置いたという選択によって、漢中の体制は整えられたが、呉との関係がザツになった。費禕を呉に客遇させるくらいの英断?を諸葛亮がしていれば、もっと呉を操れたのかも。
蜀と呉が同盟関係といいながら、いまいち連携しないのは、人材の交流がないからだ。現代でも、会社を合併するときは、取締役を交換したり、出向者を交換させたりする。諸葛亮の戦略が、呉との連携なくして成立しないなら、ここまでやるべきだった。


漢中で指揮官となる

建興八年轉爲中護軍、後又爲司馬。值軍師魏延與長史楊儀相憎惡、每至並坐爭論、延或舉刃擬儀、儀泣涕橫集。禕、常入其坐間、諫喻分別、終亮之世、各盡延儀之用者、禕匡救之力也。亮卒、禕爲後軍師。頃之、代蔣琬爲尚書令。

建興八年、中護軍となり、のちに司馬となる。前軍師の魏延と、長史の楊戯は憎悪しあい、いつも論争になる。魏延は刃を挙げて楊戯にむけ、楊戯は涕泣した。費禕は間に入って仲裁した。諸葛亮の執政期、魏延・楊戯がそれぞれ力を尽くせたのは、費禕が救ったおかげだ。

諸葛亮が生きているから、魏延が従うのではない。諸葛亮がいて、かつ費禕が仲裁するから、魏延・楊儀が暴発しなかった……と。さっき『襄陽記』にあった、孫権が魏延・楊儀についてからかった、という件は、きっとこの陳寿を見て、『襄陽記』作者が創作したのだろう。

諸葛亮が卒すると、費禕は後軍師となる。しばらくして蒋琬に代わり尚書令となる。

禕別傳曰。于時軍國多事、公務煩猥、禕識悟過人、每省讀書記、舉目暫視、已究其意旨、其速數倍於人、終亦不忘。常以朝晡聽事、其間接納賓客、飲食嬉戲、加之博弈、每盡人之歡、事亦不廢。董允代禕爲尚書令、欲斅禕之所行、旬日之中、事多愆滯。允乃歎曰「人才力相縣若此甚遠、此非吾之所及也。聽事終日、猶有不暇爾。」

『禕別伝』はいう。このとき軍国の仕事がおおいが、書類を読解する速度はひとの数倍で、しかも忘れない。朝夕に政治をしながら、賓客と飲食・博弈をした。董允が代わって尚書令になると、費禕のマネをしたが、旬日のうちに仕事が遅滞した。

この『別伝』も、既存の情報の焼き直しに見える。見すぼらしい馬車の件で、「董允が費禕に及ばない」ことが確定した。これもまた、「董允が費禕に及ばない」逸話の1パターンだろう。つぎの興勢の戦いの陳寿本文にヒントを得て、賓客と遊んでる費禕のイメージを膨らませただけ。
……つぎは董允伝をやろう。
以下、ネットで「董允」を検索した結果、ヒットしたツイート群。ツイートされた時期も文脈もバラバラ。未整理のママのコピペなので、あらかじめお詫びしておきます。あとでぼくが董允伝を読解するヒントとして、載せておきます。
@Jominian さんはいう。董允伝では、尚書令蒋琬が費禕と董允に州職を譲ろうとした話が出てくるが。この際に言及されているのは董允についてだけで、費禕については、ここにも本伝にも出てこない。本当に費禕に譲ろうとしたのだろうか?
@Jominian さんはいう。董允伝には、尚書令蒋琬が益州刺史を譲ろうとした記述がある。この時は董允が固辞した。その後、費禕が魏軍を撃退し後にも、蒋琬が益州刺史を譲る記述があり、この際は費禕が受諾し、益州刺史となっている。普通、益州刺史を何度も変えようとするだろうか?ずっと蒋琬に圧力が掛かっていたのだろう。


琬自漢中還涪、禕遷大將軍、錄尚書事。

蒋琬が漢中から涪県にもどると、費禕は大将軍に遷り、録尚書事。

@Jominian さんはいう。費禕は尚書令の抜擢が多い。初めは舎弟の董允、董允が死ぬと同じ劉璋政権系荊州人の呂乂、呂乂が死ぬと、幼い頃から知ってる舎弟の陳祗。こいつ舎弟しか抜擢してねえな。次席だった姚伷は死んでたが、馬斉とかはいたかもしれんし、いずれにせよ、ずっと侍中だった董允とか、太守出身の呂乂とか、低位からの陳祗抜擢とかは、よほどじゃないと反発食らうと思うんだよな。自分だって蒋琬の抜擢に反対してるんだし。まあ、費禕っぽいわ。


興勢の戦いに勝ち、正始の変を論じる

延熙七年魏軍次于興勢、假禕節、率衆、往禦之。光祿大夫來敏、至禕許別、求共圍棊。于時、羽檄交馳、人馬擐甲、嚴駕已訖。禕、與敏留意對戲、色無厭倦。敏曰「向聊、觀試君耳。君、信可人。必能辦賊者也」禕至、敵遂退、封成鄉侯。

延熙七年、魏軍は興勢にきた。

魏の正始五年である。興勢は、先主伝の建興二十四年にある。

費禕に節を假し、防がせる。光祿大夫の來敏は、費禕のところにきて、圍棊をやろうという。このとき羽檄が飛びかい、軍事的な緊張ムードだが、ふだんどおり対局した。来敏「試みにきみの様子を見にきたが、落ち着いている。きっと賊に対処できる」と。費禕がゆくと、曹爽軍は退いた。成郷侯となる。

費禕は三嶺にすすみ、曹爽と戦った。曹爽伝にひく『漢晋春秋』にある。
『晋書』文帝紀には、蜀将の王林が、夜に文帝の軍営を襲ったが、司馬昭は臥して動かず。王林が退いてから、司馬昭は夏侯玄にいう。「費禕が険阻なところで防ぐから、進んでも戦えない。軍をかえして、後日また図ろう。曹爽らが軍をひくと、果たして費禕は(司馬昭のいうとおり)兵を三嶺に馳せた。地形の険しいところを争って(両軍とも、有利な地点を確保するために戦い)魏軍は撤退した。
ぼくは思う。どうせ費禕は、地形を頼みにして出てこない。本格的に戦いを仕掛けてこない……という読みがあるから、臥していたのだと。さすが司馬昭!というお話。しかし、費禕が選んだ専守防衛も、べつにまちがってない。
費禕の落ち着きぶりは、東晋の謝安に比せられる。費禕の場合、地形に頼って専守防衛すれば負けないという確信があったか。曹操ですら攻撃を諦めたのだから、曹爽に何ができるのかと。必勝の確約があるという点で、費禕は謝安よりもラクである。


殷基通語曰。司馬懿誅曹爽、禕設甲乙論平其是非。甲以爲曹爽兄弟凡品庸人、苟以宗子枝屬、得蒙顧命之任、而驕奢僭逸、交非其人、私樹朋黨、謀以亂國。懿奮誅討、一朝殄盡、此所以稱其任、副士民之望也。乙以爲懿感曹仲付己不一、豈爽與相干?事勢不專、以此陰成疵瑕。初無忠告侃爾之訓、一朝屠戮、攙其不意、豈大人經國篤本之事乎!若爽信有謀主之心、大逆已搆、而發兵之日、更以芳委爽兄弟。懿父子從後閉門舉兵、蹙而向芳、必無悉寧、忠臣爲君深慮之謂乎?以此推之、爽無大惡明矣。若懿以爽奢僭、廢之刑之可也、滅其尺口、被以不義、絕子丹血食、及何晏子魏之親甥、亦與同戮、爲僭濫不當矣。

殷基『通語』は、司馬懿が曹爽を誅殺した件を、費禕が論じる。まず曹爽が国家を乱したのなら、誅殺は正しいこと。しかし曹芳を危険にさらし(曹芳は曹爽と同行していた)曹芳を廃位したのは、やりすぎ。

議論の内容はともあれ。
『呉志』顧邵伝によると、雲陽の殷礼は、零陵太守となる。同裴注に、殷礼の子の殷基は、『通語』を著し、張温とともに蜀に使者として赴き、諸葛亮に称嘆された。『呉志』張温伝・趙達伝にも見える。……など、史料の著者である殷基にかんする情報のほうが興味ぶかい。
盧弼はいう。張温が蜀に使者として行くのは建興二年(魏の黄初五年)である。司馬懿が曹爽を誅するまで、20余年ある。どうして張温・殷基が蜀に使者にいったとき、司馬懿が曹爽を誅することの議論を聞けるか。(……の理由で;上海古籍2764頁に論証あり)『通語』の編者は「殷興」とするのが正しい。


琬、固讓州職、禕復領益州刺史。禕、當國功名、略與琬比。

蒋琬が州職を固辞したので、また費禕を益州刺史とした。費禕の国における功名は、ほぼ蒋琬とひとしい。

ぼくは思う。費禕の政権基盤は、諸葛亮からの指名。蒋琬も同じ。諸葛亮が中心にいて、放射状に蒋琬・費禕がいる。諸葛亮-蒋琬-費禕と、タテに繋がっているのではない。だから功名が等しいのだ。
じゃあ費禕と蒋琬で、なにが違うのか。蒋琬が「州職」を辞退したことをヒントに考える。蜀漢を分析するとき、「益州閥」「荊州閥」というフレームを持ち出すことがある。すると「法正は益州出身なのに、益州閥に分類するのはおかしい」と揚げ足をとる人がいる。恐らくこのフレームが解き明かしたいのは、「劉備の入蜀以前からの在地勢力で、益州の安定を優先する」益州閥と、「劉備の入蜀に従った勢力で、蜀漢として天下統一を指向する」荊州閥という構造だとぼくは思う。
蒋琬は劉備の入蜀に従ったので荊州閥。ちなみに諸葛亮も荊州閥。徐州出身じゃないか!というのはヤボで、荊州で成立した劉備政権の一員として、益州に乗りこんできたという意味です。そして、費禕は荊州出身だが、劉備の入蜀以前に蜀にいるので益州閥。荊州出身の益州閥なんて、形容矛盾に見えるけれど、これでいい。
蒋琬にしてみれば、漢中で天下統一のことを考えているのは、属する派閥にかなった行動なので、心地が良い。ぎゃくに天下統一は、益州を犠牲・負担を強いることなので、益州の統治は気まずい。だから州職に就きたくない。
費禕は益州閥なので、益州のなかで利害を調整した(魏延・楊儀の調停も、北伐の成功というより、益州の平和のためにやったのだろう)。曹爽が益州を脅かせば、きっちり撃退する。姜維には、あまり多くの兵を与えない。攻めよりも守り。
荊州閥と益州閥の衝突という構造は、劉備vs劉璋、諸葛亮vs李厳、蒋琬vs費禕というかたちで反復されてきたのでは。


禕別傳曰。禕雅性謙素、家不積財。兒子皆令布衣素食、出入不從車騎、無異凡人。

あっそう。

漢中と成都を往復して、暗殺される

十一年、出住漢中。自琬及禕、雖自身在外、慶賞刑威皆遙先諮斷然後乃行、其推任如此。後十四年夏、還成都。成都望氣者云、都邑無宰相位、故冬復北屯漢壽。延熙十五年、命禕開府。

延熙十一年、漢中にゆく。蒋琬から費禕まで、彼らが外にいても、慶賞・刑威は先に彼らに了解を取ってから行われた。

蒋琬とは、荊州閥・益州閥という立場の違いがあったが、仕事ぶりは似ていたのだろう。諸葛亮が、2人を同じように評価し、同じように後継者に指名して、とくに条件を付けなかった。例えば前漢の陳平は、宰相の器量だと見込まれながら、彼ひとりに任せるな、などの条件がついた。

十四年夏、成都に還る。成都の望気者「都邑に宰相の位がない」と。ゆえに同年冬、また北にゆき漢寿に屯する。延熙十五年、費禕に開府を命ずる。

ぼくは思う。費禕の往復運動そのものが、荊州閥と益州閥を縫い合わせるための行為に見える。益州閥の中心地(劉焉のころからの州治)である成都と、荊州閥の中心地(天下統一を狙う場所)を、調整役である費禕が移動することで、融和していくという。諸葛亮は、荊州閥の価値観を押しつけた。益州閥から見ると、迷惑である。費禕のほうが、益州閥の利益にも目を配るから、政治家として優れている。
この政治的なセレモニーは、まったく外部からの圧力によって、いきなり頓挫する。以後、姜維の孤立とは「荊州閥の孤立」と説明したい。上から書いているとおり、「姜維の出身地は涼州だ。荊州閥とは何ごとか」というお叱りは受け付けませんw


十六年歲首大會、魏降人郭循、在坐。禕歡飲沈醉、爲循手刃所害。諡曰敬侯。子承嗣、爲黃門侍郎。承弟恭、尚公主。禕長女、配太子璿爲妃。

十六年の歳首、魏の降人の郭循に殺された。敬侯。

陰謀説をとなえると、話がつまらなくなりますが。荊州閥に染まっていく費禕を疎ましく思い、益州閥が費禕の暗殺を願った……という想像くらいは許されるか。

子の費承が嗣ぎ、黃門侍郎となる。費承の弟の費恭、公主をめとる。

『禕別伝」はいう。費恭は尚書郎となるが、早くに卒した。

費禕の長女は、太子璿の妃となる。

皇族と重婚している。荊州閥の劉備・劉禅は、益州閥と婚姻することで、両派閥の合体をめざした。つまり、蜀漢と益州の二重構造ではなく、蜀漢の一元支配を目指した。蜀漢は、領土が一州しかない。だから、前漢初のように、帝国が直轄する関西と、諸侯を封建する関東、という二種類の領土が地図の上で視える化されない。ひとつの益州の上に(おもに官僚の人事という表現手段によって)直轄と封建の二重構造が成り立っている。
異質なものが同化する、人類史上でもっとも効果的な智恵は、やはり婚姻。はじめ、張飛の娘を2回皇后にするという、荊州閥の内部の自己完結をやってしまったが、それ以外は、呉懿とか費禕とか、益州閥の家から皇后や妃を迎えている。費禕が劉禅の家と重婚するのは、こんな狙いがありそう。


おわりに

『蜀志』における董允伝の扱いへの疑問は、Jominian氏のツイートが検索でヒットしますが、費禕伝もけっこうボロボロ。

ボロボロになる理由は「州職」がらみ、つまりこのページに書いた、益州閥と荊州閥の対立によるものと推測されます。後日、掘り下げます。

冒頭の費禕の族父の名前からして、表記が揺れてる。史料を切り貼りした、のりしろが剥がれてる。裴注は『禕別伝』だけだが、陳寿本文をテキトウに膨らませただけのテキストなので史実の情報が増えず、比較検証できない。
このページを作っていて、困ったのだが、費禕というひとりの人間の事績や、キャラ立ちするエピソードを求めていても、構成や字数のバランスが悪くて、なんだか人物像が見えてこない。というか、単純に話としておもしろく読めない。推敲する前、とりあえず箇条書きにしたような感じ。『禕別伝』がおもしろければ、まだ読むに堪えたのだろうが……、ごまかされない。
途中で費禕を「荊州閥」と対比されるところの、「益州閥」と位置づけたところ、いくらか構造が見えてきた。費禕をキャラ立ちさせるなら、『禕別伝』ではなく、「益州閥」の有力者として、諸葛亮や蒋琬と葛藤させたい。
費禕と対比されている、董允伝をきちんと読んでから、費禕のキャラを固めることができるでしょう。 150823

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