読書 > 『西漢通俗演義』を抄訳(第11-15回)

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第11回 會稽の城に項梁 起義す

項籍が会稽守の殷通を殺す

次日,項梁與籍見殷通,共謀背秦起義。籍大怒曰:「爾與吾不同!吾家楚將項燕,曾被秦害,誓不共戴天日之仇。汝食秦祿,為會稽郡守,乃興此叛逆,不忠甚矣!吾殺汝以為人臣不忠之戒。」遂拔劍揪住殷通,劍過頭落,提頭大呼曰:「殷通背秦,不足以為郡守,今已殺之。願將印綬與項公執掌,立為郡主,爾等如有不服者,以此頭為令。」門卒吏胥,俱各驚惶,盡皆懾伏。

次の日、項梁・項籍は、殷通にあって、ともに秦に背く相談をした。項籍は大怒した。「お前とオレらは同じでない。オレらは楚将の項燕の血筋で、秦に殺害された仇敵である。お前は秦の禄を食み、会稽守となったのに、秦に反逆するという。不忠も甚だしい。お前を殺して、人臣のために不忠の戒めとする」

項羽が会稽守を殺すとき、きちんと理屈を述べている。出典を知りたい。逆に、『史記』項羽本紀で、項梁が「項籍だけが、桓楚の逃げた場所を知っています」といい、項籍を席に招きいれて……とか、そういう話は採用されていない。

剣を抜き、殷通の頭を斬った。「殷通が殷に背いたから殺した。印綬を項梁につかませ、郡守にしたい。服さないものは、この頭のようになる(殷通のように斬ってやる)」門卒・吏胥は、みな項梁に従った。

季布・鐘離昧、桓楚・于英が項梁集団に帰する

時有二牙將季布、鍾離昧上堂責之曰:「入其邦,殺其主,奪而自立,非義也。」籍曰:「在殷通為叛臣,在項公為義主,借秦地而報楚仇,天下之大智也。將軍若肯相從,共伐暴秦,以復六國之後,名垂竹帛,不朽之功也,何必區區以通為念耶?」二將下堂拜伏曰:「願從將軍指揮。」項梁遂以二將為都騎。旬日,郡縣望風歸降,得精兵萬人,各置部署,賞罰嚴明,用舍允當,人莫不悅服。

ときに、2人の牙将の季布・鐘離昧は、堂に登って(項籍を)責めた。「その国(会稽)に入って、その主(殷通)を殺し、奪って自立すれば、義にあらず

項梁・項籍は、会稽が故郷ではない。だから季布・鐘離昧は、こういう言い方をする。季布・鐘離昧が、いちはやく登場して、このように台詞を吐くのがおもしろい。出典を確認したい。

項籍「殷通は叛臣であり、項梁は義のために主となる。秦地を借りて、楚の仇に報いるのは、天下の大智である。将軍がもし同意してくれるなら、ともに暴秦を伐ち、六国の子孫を復せしめよう。名が歴史に残るぞ。せこせこと殷通のことを気にするな」。2将は拝伏した。「将軍の指揮に従いたい」。項梁は、季布・鐘離昧の2将を都騎とした。旬日して、郡県が帰降して、精兵1万人を得た。

一日,季布、鍾離昧復進言曰:「協力足以成謀,得將足以立功,今力雖協,而左右尚未得其助,恐孤立不足以建功也。今會稽塗山中有二將,乃桓楚、於英,統八千精兵,嘯聚山林,俱有萬夫不當之勇。公如得此二將,可以為助。」梁遂遣籍往招二將。籍同季布等前至塗山,先令一能言小校傳說楚將項梁,遣裨將項籍來見將軍,人無衣甲,隨從不過數人,要陳說大義,以共成王業。桓楚、於英聞說,就請籍同季布相見。
籍曰:「方今二世無道,英雄並起,天下莫不欲誅此酷暴,以解生民塗炭。二將軍負此武勇,正當為天下除害,奈何潛跡山林,埋名丘壑,使天下諸侯聞之者,皆笑將軍為怯也?籍今從項公聚精兵數萬,共議伐秦,欲為六國報仇,除此殘暴。仰將軍之名久矣,待來陳說大義,敬請下山,同力以伐秦,如成王業之後,富貴共之。」

ある日、季布・鐘離昧がいう。「成功するには、孤立してはダメ。会稽の塗山に、2将がいる。桓楚・于英が、精兵8千を統べる。彼らを得れば(項梁の)助けになるはず」。項梁は項籍をつかわし2将を招く。項籍・季布らは、塗山に至ると、さきに弁が立つ小校をつかわし、「楚将の項梁が、裨将の項籍を遣わしたよ。武装せず、数人で大義を説きにきた」と連絡した。桓楚・于英は、項籍・季布と会った。
項籍「二世は無道で、英雄は並起する。秦から民を救うべきなのに、なぜ山林に潜伏して、丘壑に名を埋もれさせるか。天下の諸侯に臆病を笑われたいのか。ともに秦を撃とうよ」

桓楚曰:「秦雖無道,而勢力甚強,非有蓋世之雄,不足以為敵也。公今欲舉大義,恐力未瞻耳。願比試其強,果能力敵萬人,吾二人即從之;不然,所謂畫虎不成,反類犬者也。」籍曰:「隨將軍比試,吾力足以當之。」桓楚曰:「山下禹王廟前有鼎,不知幾千斤,公能推倒扶起,扶起又能推倒,三推三起,公方可謂無敵矣。」籍曰:「願往觀之。」隨同二將並季布眾多小校,來到禹王廟前。看那鼎時,高七尺,圍圓五尺,約有五千餘斤。籍看了一遍,命一強健小卒,盡力一推,分毫不動。籍乃拽衣向前,用力一推其鼎遂倒,籍又應手扶起。一連三推三起,若有不知其為重者。二將大喜曰:「公力足可以敵天下矣!」籍笑曰:「如此試力,不足為奇。」復又拽衣近鼎邊,用手插入鼎足下。盡力舉個平身,繞殿連走三次,面不改容,氣不喘息,仍輕輕安於原處,看二將曰:「汝以為何如?」
二將向籍前抱住曰:「公真天神也!吾輩願隨鞭蹬。」眾多小校拜伏在地,大呼曰:「公真非凡人,雖古之賁育,亦何以敵其勇哉?」二將遂請項籍一行人進寨,置酒延款。俱各收拾行裝停當,次日統領人馬同籍下山。

桓楚「秦は無道だけど強い。蓋世の雄がないと敵わない。強さを確認させてくれたら、項梁に従おう。もしそうでなければ(項梁が弱ければ)虎を描いたのに狗に似たことになる」。項籍「強さを試してみるがいい」。桓楚「山のふもとに禹王の廟があり、鼎がある。重さは何千斤あるが分からん。もし押し倒し、起こすことを3セットやれたら、将軍は無敵というべきだろう

桓楚・于英が、項梁集団に参加するための条件は、ただの個人の力自慢があればよい。仲間を増やすプロセスを描いた説話の一形態として、理解すべきだろう。そして、劉邦との対比になってるのか。劉邦は、呂公の人相を見抜かれて妻を得たり、蕭何・曹参とともに知略を発揮して沛県を得たりした。しかし項羽は、脳みそが筋肉である。

項籍「見てろ」。禹王廟の前にゆき、鼎の下に手を入れた。とくに力むでもなく、呼吸も乱さず、鼎を倒したり起こしたりした。2項籍は桓楚らを見て、「どや」という。
桓楚・于英は「あなたは真に天神です。あなたに従いたい」という。(桓楚・于英の)小校たちも「あなたは真に非凡のひと。いにしえの賁育でも、これほど勇であろうか」と。2将は項籍に従って、項籍とともに塗山を下りた。

項羽が虞美人をめとる

正行之次,忽有一族人驚惶馳走。籍策馬近前,便問:「爾居民為何驚走?」眾人馬頭前告曰:「塗山大洋中,有一黑龍忽化為馬,每日至南阜村咆哮,揉踏禾黍,民不能禁。聞將軍大兵至,願為民除害。」籍同桓楚等數十人,步行到大澤邊,只見那馬見人來到,咆哮近前,兩足騰起,其勢有齧人之狀。籍大呼叱咤,捺衣近前,就勢將馬鬃揪住,直身上馬,繞澤邊馳驟十餘遍,馬汗出勢弱,遂搭轡徐行一二里,無復跳躍。眾居民羅拜於前,願求大名,籍曰:「某楚將項燕之後,姓項名籍字羽,舉義兵伐秦,因招軍至此。」中有老人,長揖向前言曰:「某等聞將軍之名久矣,幸過荒村,敢望暫將人馬屯住,請將軍到小莊拜茶,不敢久稽也。」項籍遂同恒楚一行人,入得莊來,施禮畢,老人慇懃進酒,籍問曰:「賢公高姓何名?未曾相識,乃蒙愛如此!」

ちょうどそのとき(桓楚集団の)ひとりの族人が驚き馳せてきた。項籍は馬をむちうって近づき、「どうしたの?」と。みなは「塗山の大洋に黒龍が現れ、たちまち馬に化けた。毎日、南阜村にきて、穀物を踏み荒らすが、民には抑えられない。将軍が馬を抑えてくれ」と。項籍・桓楚らが大沢のあたりにゆくと、馬が咆吼して突進してくる。項籍は馬にまたがって取り押さえた。馬は汗を出して体力が尽き、もう跳躍しなくなった。民たちは羅拜して、

「羅拜」とは、取り囲んで拝むこと。羅(かこ)み拝む、とか訓読しようか。
黒龍が、馬に化けて民を困らせ、項羽が退治して……、とか、項羽伝説のひとつだ。このように読むことができて嬉しい。

「将軍のお名前を」。項籍「項燕の子孫で、項籍という。義兵を挙げて秦う伐つため、軍を招いて(将兵を集めるため)ここにきた」。老人が長揖して、「将軍の名は聞いてます。茶を飲みにきて」。項籍・桓楚らは、村にきた。老人は慇懃に酒を進める。項籍「あなたの姓名を教えてください。こんなに良くして頂いたのに、姓名を存じあげない」

項羽が、会稽守の殷通を殺す前に「秦に背いたお前を殺して戒めとする」と道理を説いたり、禹王廟のすごく重い鼎をかるがると扱って桓楚を仲間にしたり、黒龍が姿を変えた奔馬を取り押さえたり。『西漢演義』は、『史記』項羽本紀にない項羽伝説がたっぷり。『通俗漢楚軍談』も採録してる。


老人曰:「某姓虞,排行第一,人呼某為虞一公。敢問將軍青春幾何?」籍曰:「某年二十四歲。」虞公曰:「將軍有室家否?」籍曰:「尚未擇配。」公曰:「某年老無子,止生一女,生有聰慧,幽閒貞靜,不輕笑語,雖內戚未嘗輕見其面,自幼讀書,明大義。其母生時,夢五鳳鳴於室,後長成,知其必貴也。村中雖有豪家子弟,皆愚陋不足為配。適才見將軍,力能扛鼎,勇敵萬人,倡舉義兵,志在天下,乃蓋世之英雄也。願以弱息為配。」籍即起再拜稱謝。公隨呼虞姬出見,蘭姿蕙質,真國色也。籍遂解所佩之寶劍為定,又恐人馬騷擾,於是傳令起行。

老人「わたしは姓は虞で、排行が第一なので、虞一公と呼ばれる。将軍はおいくつか」。項籍「24歳」。虞公「もう妻帯してる?」。項籍「まだっす」。項籍「私にはひとりだけ娘がいる。書を学んび、大義に明るい(賢い妻になれる)。母がこの子(虞美人)を産むとき、夢に五鳳が室で鳴いた。成長すると貴くなる兆しだと思う。村中には愚陋ばかりなので、嫁がせずにいた。将軍がもらってくれ」。虞公が娘をよぶと、まことに国色であった。項籍は宝剣をはずして、虞氏をもらいうけた。人馬が騒ぐと困るので、すぐに出発した。

司馬遼太郎『項羽と劉邦』では、難民?のなかから、まだ少女の虞氏を見出す。しかも物語の終盤で、「虞よ虞よ」と言うためだけに、思い出したように虞美人が登場する。しかし『西漢演義』は行き届いており、劉邦が呂氏を嫁取りするのと対比して、やや神秘性を絡めて(黒龍が馬に化ける件)初期から虞美人が登場する。
ということは、再末期の虞美人は、ぼくらの(司馬遼太郎によって作られた)イメージよりも、年長者になってる。壊れやすい可憐な乙女ではなく、呂氏とペアになるような、強い(賢い)キャラなのかも。


項梁軍が出発して、英布を得る

來到會稽城內,領二將參見,項梁看那二將時,雄雄將士,糾糾武夫,所領八千子弟,盡是精銳人馬。又將所降馬,牽過堂下。那馬高六尺,長一丈,真龍駒也,梁遂命名曰烏騅,籍又以虞姬許配一節,一一告說一遍。梁大喜曰:「予自起兵來,招亡納叛,人心順附,若如此,天下不難圖也。」數日,梁遣人娶虞姬歸會稽,與籍成親,就帶堂弟虞子期隨軍聽用。

項籍らが、会稽の城内にきて、桓楚・于英が、項梁と会う。彼らが連れてきた8千の子弟・人馬は、すべて精鋭である。(黒龍が姿を変えた)馬をひくと、高さ6尺、長さ1丈、まことに龍駒である。「烏騅」と名付けた。

項羽伝説は、最晩年に項羽が「騅はゆかず、虞よ虞よ」と嘆くためのアイテムを、こうやって揃えさせた。
『西漢演義』第11回。項羽が味方を集める旅から帰って、項梁に報告する場面。「盡是精銳人馬。又將所降馬,牽過堂下」とある。じつは1回目の「馬」と、2回目の「馬」は指示の対象が異なる。一読すると分かりにくい。1回目は、塗山から連れてきた人馬。2回目は、道中で遭遇した奔馬。これを『通俗漢楚軍談』は、1回目は「馬」をはぶき、2回目は説明を補うなどして理解を助ける。すぐれもの!

項籍は、虞姫との結婚をつげた。項梁は喜び、「このように人材が集まれば、天下を図れるかも」と。数日して、項梁は虞姫を会稽に帰らせ、虞氏と(正式に)姻族となった。虞姫の弟の虞子期が、項梁軍に加わった。

虞子期は、のちに張良にニセ情報をつかまされ、項羽集団から范増を失脚させてしまう、という話があるけれど……、本作ではどのように処理にするのか。


不旬日間,梁續招集四方逃亡之士十餘萬人,與籍並眾將商議伐秦,擇日啟行。會稽父老遮道告口:「君去誰與為守?」梁曰:「當日取會稽之時,不過借以屯軍馬,圖大事耳。今大軍駐紮日久,恐騷擾地方,欲令過江伐秦,與汝除殘去暴,他日成大事,會稽免租稅十年。爾照舊各安心生理,自有賢守來,與汝為主也。」眾父老拜伏在地,不忍捨去。梁揮動人馬起行,由大路過江抵淮,三軍不能進。哨馬報曰:「前有一軍阻路。」項梁遣籍哨探,只見旗開處,一人出馬,威武雄健,風神峻烈。籍曰:「爾何人?攔阻大兵!」

旬日もせず、続々と四方から逃亡者が集まり、10余万となる。

「不旬日間」を、『通俗漢楚軍談』は「十日ばかりを過ぎける」と翻訳する。べつに原文のままでも分かるだろうに、日本人に向けて開いている。

項梁・項籍は、秦を伐つために、日を選んで出発した。会稽の父老が道を遮った。「項梁が去れば、だれが会稽を守ってくれるの?」。項梁「はじめに会稽を取ったのは、軍馬を屯させる土地を借りただけ。当初から、目的は秦を伐つこと。ずっと会稽に留まれば、この地を騒がして迷惑をかける。秦を伐てたら、会稽の租税を10年免除して、賢い郡守を任命するから」
会稽の父老は地に拝伏した。項梁は、彼らを捨てていくのは忍びないが、出発した。長江を過ぎて淮水にあたると、三軍は進めない。「前に一軍がおり、道を阻む」と。項籍がさぐると、1人が馬を出して、威武は雄健、風神は峻烈である。項籍「だれやねん」

其人曰:「某姓英名布,六安人也,嘗聞兵出有名,是謂正兵。爾出無名之師,潛過淮西,助紂為惡,是以阻子。」籍曰「某姓項名籍,楚將項燕之後。見秦二世無道,會稽起兵,降八千子弟,聚兵十萬,要與楚報仇,除此殘暴,以安天下,何為無名耶?」兩家言未畢,只見桓楚聞是英布,勒馬到陣前,大呼曰:「英將軍何不下馬,我已歸降楚矣!願如前約。」見是桓楚,遂下馬伏地。
籍曰:「二公想亦舊識。」桓楚曰:「英將軍武勇,天下無敵。昔曾修驪山,亡命過江投某,某留住他,資助盤費,各相約,但得賢主,同心匡輔,以共圖富貴。前日聞在此聚義起兵,未得的信,不意今日相會。」布曰:「難將軍興舉義兵,願與為應。」籍大喜,隨引布來見梁,梁喜曰:「千軍易得,一將難求。今得英將軍,如獲萬里長城也。」遂後合兵一處起行。不知伐秦如何?且聽下回分解。

その人はいう。「六安の英布です。聞けば、兵には正しい名分があれば、『正兵』といいます。あなたは名分のない兵を出して、淮西で悪事をやろうとする。だから道を塞いだ」。項籍「秦を滅ぼして、楚の仇に報い、天下を安んじようと思う。ただしい名分があるだろ」。言い終わる前に、桓楚は英布という名乗りを聞いて、「英布将軍、なぜ下馬しない。われらはすでに楚(項氏)く降ったのだ。前の約束どおりにしろ」と。英布は、桓楚を見ると下馬して地に伏せた。
項籍「(桓楚と英布は)旧知なのか」。桓楚「英布将軍の武勇は、天下に無敵。むかし驪山の傜役から逃げて、この地に亡命したひとです。いつか賢主を得たら、ともに助けようと約束していた。(項氏が)義兵を起こしたと聞いていたが、連絡がついておらず、たまたま再会しました」と。英布「項氏に呼応したいと思ってました」。項籍はよろこび、英布を項梁に引きあわせた。項梁「千軍を得やすいが、一将は得がたい。いま英布将軍を得たのは、万里の長城を得たようなものだ」と。
さて項梁集団は、秦を撃てるのでしょうか。つづく。150815

『通俗漢楚軍談』は、英布はイレズミがあって、鯨布と呼ばれており……、とか人物に関する説明がついている。『西漢演義』は、読者がとっくに英布の二つ名を知っているという前提で、書かれているのだろう。

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第12回 范增 策を獻じて楚後を立てる

季布が、隠者の范増を連れてくる

卻說項梁收了英布,威勢益盛。一日升帳,與眾將計議:「今人馬將佐,日漸強大,足可代秦,但中間少一謀士。近聞淮陽居巢,有一老人姓范名增,年七十,足智多謀,雖古孫吳不能過也。欲一能言之士,往說歸楚;如此人來,大事可就。」有季布起告曰:「某亦知增久矣,願往說之。」梁大喜,就具幣帛遣季布啟行。

項梁は英布を得て、ますます盛ん。衆将が話しあった。「人馬・将佐は増えたが、謀士が少ない。淮陽の居巣に、范増という70歳の智謀あるひとがいる。孫子・呉子にも勝るという」。季布「私は范増のことを昔から知っている。説得しましょう」

桓楚を得たら、桓楚が英布を紹介する。英布を得たら、范増を紹介する。こういうイモヅル式が、説話の形態として完成されている。正史『三国志』で、荀彧を起点にして、曹操集団に人材が集まるのに似ている。人間の脳は、こういうのが気持ちがいい。「話に枝葉・ムダがない」と錯覚することができる。


不一日到居巢,先投客店安歇。次日,整衣冠來見范增。先於鄰近,訪問增主居,鄰人曰:「增住居雖在城,不喜市廛,離城三里,有旗鼓山,增常居山中養靜,等閒不與人相見。」季布聞說,尋思此人不得見面,如何說話?遂於從人中,揀一便利者,同扮做遠客,因說:「來居巢生理,消折資本,歸家不得,聞先生之名,願求一見,請問資身之策。」增平日好為奇謀,聞家童傳報,遠客求見,又久在巢生理,遂許相見。季布同從人進山莊,見增童顏鶴髮,葛巾布袍,腹隱甲兵,胸藏妙算,飄然淮楚之逸民也。

居巣にいたり、客店に入って休憩した。翌日、衣冠を整えて、季布が范増に会いにゆく。さきに隣人に、「范増は居るか」と確認した。隣人「范増の住居は城中にあるが、市塵をきらって、3里離れた旗鼓山にいる。人に会わないぞ」。季布は、部下の利発なものを遠客に扮装させ、范増にアクセスした。「居巣にきて、資金を使い果たして帰れない。先生(范増)の名を聞き、会ってみたい。身をたすける策を聞け」と。范増は、ふだんから奇謀を好むので、家童から「遠客がきたよ」と聞いて(居巣では聞けない、珍しい情報を得られるかと期待して)会ってみることにした。

季布は、范増と旧知だというのに、范増と会うために策を弄している。この矛盾に気づいたのか、『通俗漢楚軍談』は、遠客に扮装するところをカットしている。賢人を幕営に迎えるために、会いがたきを会うというのは、説話の約束である。矛盾しているが、カットするのは惜しい。

季布は、遠客に扮装した部下とともに、山荘にいく。童顔・鶴髪、葛巾・布袍の、飄然とした淮楚の逸民こそ、范増である。

布行禮畢,增問:「公何處人氏?作何生理?」布遂將項梁所具幣帛,令從人持立,跪而告曰:「某非遠客,亦未曾在巢生理也,奉楚將項梁之命,具禮拜請先生,恐不得見,遂假以遠客為名,庶無嫌疑也。目今二世殘暴,英雄並起,各殺郡守,以應諸侯,蓋為百姓除害,以安天下。凡懷一材一藝者,尚欲效用,況先生抱經濟之才,負孫、吳之策,年已七十,棲身蓬蒿,與草木為休戚,有呂望之年,無呂望之遇,空老牖下,誠為可惜。今項將軍,乃楚項燕之後,仗義行仁,文武兼備,會稽起義而四方響應;過江西證,而群凶懾服。聞先生之名,特來恭請,望及時應召,垂名金石,與呂望齊驅,作天下之奇士也。速賜裁決,無煩再思。」
增聽布一篇說話,意欲想算天時,運籌可否,只奈何季布將幣帛捧跪不起。增曰:「某聞二世酷暴,民不聊生,恨無路興兵,以除此無道。今子奉項將軍之命,遠來禮請,機會可為,正合吾意。但子初會,且請暫回,明日相見,即來領命。」

季布は礼を終えると、「私は遠客ではない。項梁の命で、先生をお迎えにきたのです。遠客と偽ってごめんなさい。秦を伐つには、先生の智恵が必要です」
范増は聞き終わり、(楚国の)天の時を数え、運命の可否について考えて、「分かりました。私も同じ思いです。しかし、あなたと会ったばかりです。明日、また来てくれたら、ついて行きましょう」と答えた。

もったいぶるなあ!そして、ひと晩よく考えた振りをして、季布の誘いを断って、姿をくらますつもりだ……というのを、テキストから読み取るべきだ。
天の時というのが、楚国のものであるというのは、『通俗漢楚軍談』が補ってくれた。すぐ下の文を読むと、やはりこの意味で正しい。『通俗漢楚軍談』は至れり尽くせり。


季布跪伏在地,懇求不已,乃曰:「幸見先生,如獲珠玉,若待明日,又主別議,願先生勿卻!」增只得將幣禮拜領,延請季布上坐款飲。季布至晚,遂宿於增家。增卻沉思楚運,默算興隆,遂跌足道:「楚非真命,終無遠圖;但大丈夫一言既許,萬金不易,豈可悔耶?」當夜就寢。

季布は地に跪伏して、懇願して已まず、「幸いにも先生に会えた。珠玉を得たようなものなのに、明日を待てば結論が変わるかも。明日まで待たせないで」と。范増は季布を上座におき、酒を飲んだ。季布は、范増の家に泊まった。范増は、楚の国運について計算すれば、興隆するが道を踏み外す。「楚には真の天命がなく、最後には遠図がない(天下を取れない)。しかし大丈夫たる私は、いちど項梁に従うと言ってしまった。もう後悔しないぞ」。范増は眠った。

范増という賢者キャラは、初めから項氏の敗北を予感しており、それを承知の上で項梁に従う。范増の最後の悲劇性を、どのように描くのか楽しみだ。


次日,收拾行裝,帶一二從人,同季布一行人來見項梁。季布預先報知,梁整衣出迎,延之上坐,乃曰:「某聞先生之名已久,日夜懸心,恨軍務煩劇,未得求見。昨遣季布禮請下山,幸先生不棄,屈賜垂顧,大慰平生之願,萬望先生盡心吐露,以匡不及。」增起拜曰:「將軍世為楚輔,倡此義舉,天下歸心,萬民屬望,威武所及,誰不欽服。增今區區老叟,料無長才,乃蒙以禮徵辟,敢不竭盡心力,務成王業,以報今日知遇之恩耶?」就令籍與相見。梁終日與增談論,每至夜分,運籌決策,實中肯綮。梁甚喜,自謂相見之晚也。

翌日、范増は季布とともに、項梁に会う。季布が予め連絡しており、項梁は衣を整えて出迎え、范増を上座に座らせた。「先生の名を聞いていたが、軍務に忙しく、会いに行けなかった。季布に会いにゆかせ、幸いにも先生は出てきてくれた。先生の心をすべて話して下さい」
范増は起拝した。「将軍は、世のために楚を輔け、義挙に天下の心が集まっている。老いた身ですが、がんばって将軍の恩に報います」。范増は項籍に会った。項梁は終日、范増と話して、意見を聞いた。項梁「先生にお会いするのが遅すぎた」

一日,梁因差人探聽陳勝消息,差人去旬日,回報陳勝被章邯大破之,行至汝陰,遂為莊賈所殺,各諸侯皆解散,章邯見屯兵南陽。梁大驚曰:「吾欲糾合諸候,助勝伐秦,不意敗績已死,我兵似不可輕動。」遂同范增計議,增曰:「陳勝貪利小人,不足成大事。且今之敗,實由不立楚後而自立為王,急欲富貴而無遠大之圖,所以取敗也。且如將軍義兵一起,而四方之士莫不聞風而來者,非有他也,蓋以將軍世世為楚將,必能立楚王后而誅無道也。為今之計,莫若先立楚後,以從人望,天下莫不曰:「項將軍非自為也,實欲立楚後,而報六國之仇,為天下之義舉也。人心悅服,諸侯響應,秦雖強,一舉而可破矣。」梁曰:「此謀甚善。」於是遂以增為軍師,乃差人遍訪楚後。

ある日、項梁が人をつかわして陳勝の消息を確認すれば、陳勝は章邯に大いに破れ、汝陰で荘賈に殺され、諸侯は解散したらしい。章邯は南陽に屯兵する。項梁は驚き、「諸侯を糾合し、陳勝を助けて秦を伐とうと思ったのに、陳勝が死んじゃった……」

『通俗漢楚軍談』は、陳勝について補説する。陳勝は陳をとり、みずから王号を欲した。張耳・陳余は、陳勝の称王を諌めたが、陳勝は聴かなかった。二世皇帝は、章邯を主将として、司馬欣・董翦を副将として、陳勝と戦った。
『西漢演義』は陳勝の話を、伝聞のなかに押しこんで、地の文で書かない。おかげで、張耳・陳余、司馬欣・董翦という固有名詞が出てこない。まあ、彼らの名前が出てきたところで、話がおもしろくなるわけじゃない。この後、『西漢演義』に破綻がなければ、もしくは伏線を張らなかったことによるガッカリがなければ、『西漢演義』のほうが優れているということになる。張耳・陳余を省くというのは、けっこう勇気がある。

范増「陳勝は利をむさぼった小人であり、大事を成せない。陳勝の敗因は、楚王の子孫を立てて王にしなかったこと

このあたりから、史書ベースに戻ってくる。やはり范増との出会いシーンは、『西漢演義』かそれ以前に形成された、項羽伝説の一部なんだろう。

項梁「そのとおり」。范増を軍師にして、人をやって楚王の子孫を探しにゆかせる。

楚王の子孫を立てる

卻說楚被秦滅之後,子孫星散,國脈已絕,遍求博訪,杳無蹤跡。差去的人回說,楚地並無楚後。梁大怒,因痛責去人,於是復差鍾離昧務嚴加尋訪。昧與從人商議曰:「楚後又不在城市中,或落鄉村僻靜去處,埋名隱藏,恐人知覺。昧遂同從人下鄉尋訪,並無消息,心下十分憂悶。一日,行到南淮浦地方,見一群牧羊小童,趕一小童撲打。那小童容貌與眾不同,生得豐准大耳,眉清目秀被群兒趕打甚急,略無慍色。昧向前呼小童曰:「汝為何被眾兒趕打?」童曰:「各小童皆是人家親生之子,獨我乃王社長從小僱覓牧羊。因我才說眾童雖是親生之子,皆百姓人家,我雖僱覓之人,卻仍王侯之族。眾牧童見我說起根基,他眾人不信,以此趕打。」昧曰:「汝既是王侯之族,定有個姓名。」小童曰:「我自小在外迷失鄉貫。」

さて楚が秦に滅ぼされてから、子孫は星のごとく散り、王の血縁は行方が分からない。楚地もそれ以外にも、血縁者が見つからない。項梁は大怒して(楚王を立てられないせいで)人が去るのを痛責し、なんとしても鐘離昧に楚王の子孫を探させる。
鐘離昧は従者に相談した。「楚王の子孫は、城市におらず、名を変えて郷村に隠れているかも。見つかるはずがありません」と。

このままでは、項梁に罰せられる。楚王の子孫を見つけてきたのが、鐘離昧というのは、本作の創作だろうか。史書にあったっけ。

ある日、鐘離昧が南にゆくと、淮浦地方に牧羊の小童がいる。一群の小童たちが、ひとりの子を殴る。この子の容貌は、ほかの小童と異なり、生まれながらに耳が大きく、眉は清く目は秀でる。

『通俗漢楚軍談』は、「容貌つねならず、生まれつき清秀なりける」とする。耳が、目が、という詳しい描写が省かれる。日本人には、貴相を描写しても分からないので。

小童らがひどく殴っても、怒らない。鐘離昧がこの子に「なぜ殴られるのか」と聞けば、この子は「彼らは家と親があるが、私だけは(父親がおらず)王社の長に買われてきた牧羊です。彼らは親がいるが、みな百姓の家です。私は買われた孤児だが、王侯の一族です。彼らは、私が王侯だと言っても信じず、ゆえに殴るのです」と答えた。
鐘離昧「王侯の一族なら、姓名をいえ」。子「外から迷いこんで、故郷・本貫のことはもう分からない」

昧就向前再行追問,小童見昧問得緊,便要走,昧卻笑著低語說:「小童!我見你容貌比眾不同,後必大貴,你若實說,我便與你做主。」小童曰:「我今年一十三歲,來此已八年矣!嘗聞我老母說我是楚懷王嫡派子孫,因兵荒逃走,在外潛住,以此知我是王侯之族。」昧聽罷,急下馬,招呼眾人將小童扶馬,徑到王社長家草堂上,快請老母出來相見。王社長驚恐,不知何謂,遂拜伏在地曰:「某山僻農夫,不知國法,有何觸犯,乞大人赦罪。」昧曰:「汝快將小童母親請出來相見,有話說。」王社長隨即將老母衣服更換了,出到草堂上相見。

鐘離昧は進んで、童子を追って問う。童子は、詰問されたから逃げようとしたが、鐘離昧は笑ってささやいた。「小童よ。お前の容貌は、他のやつらと違う。必ず大いに貴くなるだろう。本当のことを言えば、お前を主君にしてやる」
小童「私は13歳。ここに来たときは8歳だった。老母から聞けば、私は楚懐王の嫡孫らしい。兵乱を避けて、国外に逃げた。この状況から、私は自分が王侯の一族だと分かったのだ」
鐘離昧は聞き終わり、急ぎ下馬して、衆人をよび、小童を馬に乗せて、(童子の所有者である)王社の長の草堂にゆき、「この子の老母に会いたい」と頼んだ。王社長は驚き恐れ、「わたしは山僻の農夫で、国法を知らない。なにか違反があったなら、お赦しを」という。鐘離昧「はやく童子の母を連れてこい。話がある」。王社長は、老母を着替えさせ、草堂に連れてきた。

昧卻問小童住居籍貫來歷,老母初不肯說,昧再三懇求,老母將貼身舊汗衫取出,遞於昧。昧看前襟上有字,不甚分曉,隨向日色邊細照,有子數行寫著:「楚懷王嫡孫米心,楚太子夫人衛氏。」宗派相傳,俱有根據,上有國寶鈴記。鍾離昧看罷,大喜。遂拜伏行禮畢,喚王社長吩咐:「與小殿下更換衣服,同送到淮西,見項將軍定有賞賜。」王社長聞說,亦拜伏在地,將衣服與殿下更換了,隨同鍾離昧一行人赴淮西來,見項梁,將前事一一告說一遍,
梁甚喜,就擇日領大小將佐立米心為楚王,母夫人衛氏為王太后,封項梁為武信君,項籍為大司馬副將軍,范增為軍師,季布、鍾離昧為都騎,英布為偏將軍,桓楚、於英為散騎,以下大小將官俱有封賞,仍令王社長回鄉,賞金五十兩,綵帛一束。

鐘離昧が、小童の本貫を問うが、老母は答えない。再三にわたり聞けば、老母は肌に貼りつけて、汗でぬれた衫(シャツ)を取り出し、鐘離昧に見せた。前襟に字があるが、判読できない。日光にかざすと、「楚懷王の嫡孫たる米心、楚の太子夫人の衛氏」とあった。楚王の伝承に一致しており、確かな証拠となった。鐘離昧は喜び、拝伏した。王社の長に「小殿下に新しい衣服を与え、ともに淮西にこれば、項梁将軍から賞賜をしよう」という。王社長は喜び、鐘離昧とともに項梁のところにゆく。 項梁は喜び、米心を楚王にして、母夫人の衛氏を王太后とした。

『通俗漢楚軍談』は、祖父にならって「懐王」とした、という史書からの補足がある。よほど『史記』を読んだひとが、翻訳していることがわかる。

項梁を武信君とし、項籍を大司馬・副将軍として、范増を軍師に、季布・鐘離昧を都騎とした。英布を偏将軍、桓楚・于英を散騎とした。王社の長に金50両と綵帛1束を与えた。

項羽と劉邦が遭遇する

卻說楚兵自此日加強盛,各處諸候,望風而來。有楚將宋義,在江夏聚兵,聞項梁立楚之後,遂領兵五萬,會合伐秦,先來與梁相見。梁引朝見懷王,封為卿子冠軍,統率人馬與項籍徵進,義曰:「淮西雖楚地,不足為都。現今陳嬰駐兵盱胎,可合同將兵會嬰一讓,立為根本,西向伐秦,攻則可破,歸則可守,此萬全之策也。」籍曰:「善。」遂與武信君奏知懷王,整率大軍,前後三路啟行,赴盱胎來。

さて、楚兵は日に日に強盛となり、諸侯があつまる。楚将の宋義は、江夏で兵を集めており、項梁が楚王を立てたと聞いて、5万を領して合流した。楚懐王にに会うと、「卿子冠軍」に封じられ、項籍とともに人馬を統率する。

宋義が連れてくるのは、『西漢演義』では5万だが、『通俗漢楚軍談』では3万余騎。これで『史記』項羽本紀に、3万余騎とあれば、訳者がいちいち『史記』と比べながら作業したことが証明できたのだが、そうカンタンに新発見はない。

宋義「淮西は楚地だが、都とするには足りない。いま陳嬰が盱眙にいる。陳嬰と将兵をあわせ、西進して秦を伐とう」と。項籍「善し」。ついに武信君(項梁)とともに、楚懐王に奏した。大軍をひきいて、盱眙にゆく。

頭枝人馬將近淮河,只見塵土起處,早有三軍來到,范增與武信君勒馬看時,旌旗動處紅光見,劍戟揮時紫氣生。增大驚曰:「此一支人馬,與眾不同,中間必有真命之王。」言未畢,一人躍馬而出,堯眉舜目,隆準龍顏,真四百年開基創業之主也。增見,把頭低了,暗思:「我錯投了主也!。」畢竟此人相見,未知如何?且看下回分解。

項梁軍が淮河を越えると、塵土が立ち上るところがある。范増・武信君が見てみると、旌旗が揺れると赤く輝き、剣戟を揮うと紫の気が生じる。范増は多いに驚き、「あの人馬は、ほかと違う。なかに真命の王がいるはず」という。言い終わる前に、1人が馬を躍らせて出てきた。尭の眉に舜の目、隆準・龍顔をした、4百年の王朝を開く人物である。

『通俗漢楚軍談』が劉邦が初めて登場したシーンで、筆を滑らせてネタバレしたのは、原文のここをコピーしたものだった。

范増はこれを見て、頭をかかえて、ひそかに思った。「身を投ずる主君を誤った」と。この人物とは誰か。続きは次回で。150815

アホな終わり方だが、これぞ章回小説。もちろん『通俗漢楚軍談』は、章回の切れ目を無視して、ずんずんと話を進めてしまう。

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第13回 章邯 寨を劫して項梁を破る

劫=①強奪する。かすめる。「かす-む」。②脅迫する。強制する。「おびや-かす」。
タイトルは「寨をおびやかして」でしょう。

盱眙に都して、韓信を飼い殺す

卻說此一枝人馬,為首的姓劉名邦,字季,沛縣人也,芒碭山斬蛇,豐西澤起義,聚兵十萬,聞項梁兵到,同夏侯嬰、樊噲一干眾將領兵來迎,糾合一處,協力伐秦。與項梁、范增相見,甚喜。隨後兵馬俱到,一同過淮河到盱胎,會合陳嬰,聚兵一處,懷王建都盱胎,各文武百官朝見訖。

さてこの人馬は、劉邦である。豊の西沢で10萬を集め、項梁の兵が至ると聞いて、夏侯嬰・樊噲とともに迎えたのである。項梁・范増と会って、とても喜んだ。

まるで劉邦は、現地の有力な勢力のようである。10万って……。血筋が正しい主君がおり、数々の逸話を媒介にして人材が集まった。秦に対抗できる帝国が、ここに誕生したような印象を受ける。

一同は淮河をわたり、盱眙で陳嬰と合わさる。楚懐王は盱眙を都として、文武百官が朝見した。

武信君駐紮大軍於泗水河,有淮陰人韓信,仗劍來見項梁。梁見信容貌不悅,欲不用,增曰:「此人外貌清臞,中有蘊藉,既來投見,即當留用,如若棄置,恐塞賢路。」梁依增言,封信為持戟郎官,就留帳下聽用。初時韓信釣魚淮下,終日不得一飯。漂母見信有饑色,以飯與之,信謝曰:「吾後日得地,當重報母。」母怒曰:「大丈夫不能自食,吾哀王孫而進食,豈望報乎?」一日往市賣魚,江淮有惡少年辱之曰:「汝常佩劍上街,能刺我耶?如不能刺,當出我胯下!」於是信俯首出胯下,一市人皆笑之,以為怯。獨許負者,善相人,一見信曰:「吾子有王侯之貴,當為天下元戎,富貴不輕也。」信笑曰:「一日不能一飯,尚望貴乎?」不意聞項梁兵起,遂來投見,梁只與持戟郎官,信悶悶不悅,維於行伍中伺侯不題。

武信君が大軍を泗水に駐めたとき、淮陰のひと韓信が、剣を杖つき会いにきた。項梁は韓信の容貌を見て悦ばず、用いたくない。范増「この人は外貌は痩せ衰えているが、なかに智謀がある。

外の「清臞」と、中の「蘊藉」を訳しづらいので、『通俗漢楚軍談』に依った。

すでにわが軍に投じたのだから、留めて用いるべきだ。もし棄て置けば、賢者の路を塞ぐことになる」

韓信のように見た目が冴えないひとを、拒んだのなら、項梁のところは人を用いないぞ、という評判が立ってしまう。

項梁は范増に従って、韓信を持戟の郎官にして、帳下におらせた。はじめ韓信は……(飯をおごられ股を潜って)……項梁のところに来ても官職が低いので、おもしろくなかった。韓信のことはさておく。

『通俗漢楚軍談』は、のちに漢に仕えて大将軍に任ぜられ、漢の天下を定めるのだが……とネタバレをする。解説が行き届きすぎて、やや話をつまらなくしてる。
『通俗漢楚軍談』は、ここで巻一が終わる。切れ目は、原典を完全に無視である。


章邯が魏を滅ぼし、項籍と一騎打ちする

卻說楚兵聲勢振天,隨到歸附。傳人西秦,趙高恐懼,召章邯計議:「方今天下兵馬縱橫,吳楚尤甚。項梁立楚後,以收人心,與陳嬰、劉邦合兵一處,屯聚盱胎,十分作亂。汝為大將,坐視不行剿殺,以致猖獗,恐兵臨秦地,震動京輔,悔將何及?」邯曰:「連日節次傳報,正欲具奏出師,不意丞相召邯會議,且兵貴神速,不可遷延,即日啟行。」章邯、司馬欣、董翳、李由便帶領大小將官,統領三十萬精兵,出函谷關東向伐魏,以次伐楚。

さて楚兵が盛んになると、これを伝え聞いた秦の趙高は、恐れて章邯に計った。「項梁は楚懐王を立て、陳嬰・劉邦と合わさって盱眙にいる。もし放置したら、秦地が危うい。後悔しても遅いよね」。章邯「連日、西方のことを知るたびに、楚軍を撃ちたいと考えていたところ、丞相の趙高に呼ばれた。すぐに討伐にゆく」
章邯・司馬欣・董翳・李由は、30万をひきいて函谷関を出て、東して魏を伐ち、つぎに楚を伐とうとする。

李由は三川守なので、はじめから関東にいた、というツッコミはしない。『通俗漢楚軍談』は、李由が李斯の嫡子であることを補っている。


魏見秦兵勢眾,不敢出戰,便遣二使求救於齊、楚二國。齊王田儋親領兵救魏;楚以新得襄陽舊將項明兵三萬,就令明先領兵臨魏境,遙為之勢。
邯遣司馬欣御齊,遣董翳御楚,卻自領大兵在後救應。司馬欣與齊王田儋對敵,欣令後軍分二路為左右翼,卻領輕騎一千與儋交戰。儋見欣兵少,盡力戮殺,欣詐敗,儋驅兵來趕,忽聽金鼓齊鳴,秦兵兩路從後突出,箭如飛蝗,儋知中計,急回兵,已中箭落馬,被欣就勢斬於馬下,齊兵大敗。

魏王咎は、秦兵が多いので、あえて出て戦わず、斉・楚に使者を出した。

魏王の名が咎であることは、『通俗漢楚軍談』が補う。

斉王の田儋は、みずから兵をひきいて魏を救う。楚は、新たに得た襄陽の旧将である項明に3万をつけ、魏国の国境に臨んで、情勢を眺める。
章邯は、司馬欣に斉を、董翳に楚を防がせ、みずから後方に続く。司馬欣は、斉王の田儋と戦う。司馬欣は、軍を2路にわけて左右の翼として、軽騎1千で田儋と交戦した。田儋は、司馬欣の兵が少ないから、殺し尽くそうとする。司馬欣は敗れたふりをして田儋を誘いこみ、いきなり金鼓を鳴らして反転し、左右から矢を射て、田儋を斬った。精兵は大敗した。

董翳兵到南魏,正遇項明,翳兵遠來未及歇息,人馬疲乏,明兵一出,翳不能敵,退三十里,駐紮未定,明又領兵追殺,翳大敗奔走。正在危急之際,章邯後兵已到,遣李由急出救援,項明追翳晝夜未定,李由生力軍初到,不三合,斬明於馬下,大殺楚兵。秦兵三路人馬,通合一處,魏兵聞知救兵已敗,孤城難守,魏王咎遂同魏豹棄城,出西門奔楚。章邯兵入城安撫百姓畢,隨啟行,前至東阿駐紮,差人探聽不題。

董翳は、南して魏に到り、項明と遭遇した。董翳の兵は、遠来で疲れており、項明に破れた。董翳が危急のとき、後詰めの章邯がいたり、李由に董翳を救わせた。項明は昼夜となく董翦を追ったが、李由に斬られた。楚兵がおおくが殺された。

章邯が魏を攻めた。魏を救いにきたのは、斉の田儋と、楚の項明。田儋・項明とも、秦軍に斬られてしまった。まずは章邯が勝ちまくる、という話。

秦兵は3路から集まった。魏王咎は(斉と楚の援軍が破れて)孤立したから、魏豹とともに城を棄てて、西門から出て楚ににげた。章邯は、入城して百姓を安撫し、東阿に陣どり、周囲を探索したことはさておく。

卻說項明敗殘人馬,回見楚王,奏曰:「秦將章邯,兵勢浩大,齊魏兵俱敗今屯住東阿,指日東向入寇,乞陛下早遣人剿捕。」王召武信君會議,梁曰:「臣親領一枝兵,先斬章邯,次起兵伐秦。」王准奏。於是項梁同項籍、范增一干眾將領兵二十萬,赴東阿來,離城三十里下寨。梁遣項籍出馬刺探,籍到陣前,大叫章邯出馬。邯領兵出陣,與項籍答話,籍曰:「爾秦二世無道,趙高大肆惡逆,汝輩結黨害民,不過魚游釜中,尚不知死,乃敢東向入寇耶?」邯曰:「某上國天兵,所向無敵,汝乃湖南草莽,妄立楚後,豈足為天人之應哉!」

さて項明の敗残の人馬は、楚懐王のところにもどり、「章邯は強い。斉・魏は破れ、章邯は東阿から楚に向かってきそうだ。陛下は、早く章邯を討伐・補足してくれ」。楚懐王は項梁に相談した。項梁「私が行って、先に章邯を斬り、つぎは秦地を伐ちます」と。項梁・項籍・范増は、20万で東阿にゆき、城から30里のところに寨をおく。
項籍は、章邯の陣前にゆき、大声で章邯を呼んだ。章邯は兵をつれて出てきた。項籍「秦の二世は無道で、趙高は悪逆である。お前らが徒党を組んで民を害しても、魚が釜のなかを泳ぐようなもの。どうして死んだ(も同然だ)と気づかず、東に入寇するか」。章邯「私は上国の天兵をひきいて、向かうところ敵なし。お前らは湖南の草莽であり、みだりに楚王の子孫を立てるが、どうして天人の応に適うものか」

項羽と章邯が、こうして罵りあう名場面。『通俗漢楚軍談』は、項羽が「命だけは助けてやろう」と、さらに余計なことをいう。


籍大怒,舉槍直取章邯,邯舉槍相迎。戰不三十合,章邯敗走,籍遂驅兵來趕。不十里之地,有秦健將李由,李由乃李斯子也,放過章邯,攔住去路,籍大喝一聲,暗啞叱咤,李由馬倒退二十步之遠。籍舉槍正欲刺由後心,司馬欣、董翳接住,各挺兵器來迎,籍撇了李由,力敵二將,不二十合,二將不能抵敵,拍馬望後便走。羽正欲追殺秦軍,武信君恐羽深入重地,復差英布、桓楚、於英領兵五千接應,大殺一陣。章邯退五十里遠下寨,與秦將商議曰:「楚兵勢猛不可力敵,我今漸次退後,當用緩兵之計,使彼將驕兵惰,不相提防,然後一戰而楚可破矣。若以力戰,項籍勇不可敵,徒自取敗耳。」眾將曰:「將軍所見甚當。」遂按兵不出。

項籍は怒り、章邯と一騎打ちをした。30合もせず、章邯は敗走した。項籍が追うと、李由が路を遮った。項籍と李由の一騎打ちとなり、項籍の槍が李由をかすめると、秦軍は司馬欣・董翳が加勢する。項梁は、項籍が深入りするのを恐れて、英布・桓楚・于英に加勢させた。
章邯は、50里を退いて秦将と商議する。「楚兵は強いから、ちょっと下がった。これは『緩兵の計』であり、敵を油断させる作戦である。力押しでは、項籍に勝てないから」。秦将ら「なるほど」。秦軍は兵を出さない。

章邯が緩兵の計で、項梁を殺す

卻說項籍領兵回見項梁,備說章邯敗兵,已退五十里下寨,明日密統領三路人馬,分頭截殺,決獲全勝。梁曰:「章邯舊有虛名,年老力乏,料彼無能為也。」梁遂宴會諸將,高歌飲酒,盡歡而散。次日,籍仍領兵分三路出戰,籍自引兵敵中路,英布敵西路,劉邦敵東路,鼓噪吶喊大進,向章邯營殺來。邯各隊人馬,見三路大軍勢眾,住紮不定,拔寨通起。楚兵揮動三軍,分頭追趕,遂將秦兵折為三處,章邯走走陶,司馬欣、董翳走濮陽,李由走雍丘。

さて項籍が一騎打ちから帰ると、「章邯は敗れて、50里を退いた。明日、攻めたら勝てる」という。項梁「章邯は虚名があったが、老いて弱くなった」と。諸将と酒宴をひらいて、酔って帰った。

章邯の「緩兵の計」がヒットした!というお話。

翌日、項籍・英布・劉邦が3路から章邯を攻めた。秦軍は逃げた。章邯は定陶ににげ、司馬欣・董翳は濮陽ににげ、李由は雍丘ににげた。

卻說項羽人馬,正趕至雍丘,追上李由,由與羽交戰,不三合,刺由於馬下,秦軍大敗。劉邦追司馬欣等至濮陽,一晝夜行三百里,蕭何急止之曰:「窮寇莫追!防有伏兵,以逸待勞,反中其計,不如且屯兵於濮陽,以觀其變。」邦遂依言屯住人馬不題。

さて項羽は、李由を雍丘に追って、李由を斬った。劉邦は司馬欣・董翳を濮陽に追った。1昼夜で3百里も追うと、蕭何が止めた。「窮まった敵を追うな。伏兵があったら、やられる。濮陽に屯して、状況を見守るのがよい」と。劉邦は人馬を留めたことはさておく。

『通俗漢楚軍談』で劉邦は、城陽に到る。濮陽と異なる。『史記』高祖本紀は「楚獨追北,使沛公・項羽別攻城陽,屠之。軍濮陽之東,與秦軍戰,破之」とある。
項羽は、これより前に李由を、一騎打ちで追いつめている。李由を殺すことは(物語の構成上)納得感がある。劉邦には、蕭何という参謀がおり、秦軍のワナを免れた。劉邦とは対照的に、項梁は油断して、秦軍のワナに嵌まる。三者三様の対比なのです。


且說英布追章邯兵至定陶,邯進定陶屯住人馬,固守不與布戰。英布於城下安營,終日搦戰,邯兵只是不出,布無計可施。人報武信君大兵到來,英布出迎,項梁大軍安營畢。梁曰:「邯兵勢窮力竭,逃入孤城,正好極力攻打,如何坐守遷延?恐師老兵疲,救兵或至,將如之何?」布曰:「邯兵雖敗,人馬尚多,四門堅閉,恐難遽破,意欲相時而動,庶為便益。」梁叱之曰:「為將無謀,俄延時日,伐兵既到,立等破城,何待相時而後動耶?」
遂將布喝退。隨即吩咐四邊每隊軍士,各設雲梯上城攻打,喊聲振舉,驚動天地,不期城上火炮火箭齊發,雲梯盡著,又兼矢石如雨,站立不住,只得退下城來。梁又安排數百輛衝車,鼓噪吶喊而進,邯急令鐵索貫穿鐵錘,繞城飛打,衝車皆折。千方百計,城不罷破,梁十分暴躁。

英布は、章邯を定陶まで追う。章邯は定陶に籠もって戦わない。英布は攻めようがない。「項梁が到着しました」と英布は知らされた。項梁「章邯は力尽きて、孤立した城に逃げこんだ。正面突破できるのに、どうして英布は攻めあぐねている。(日数をムダに費やして)秦の援軍がきたら、どうするんだ」
英布「章邯の兵は、破れたものの手強いんです」
項梁は叱った。「英布は将軍のくせに無謀で、ムダに日数を費やした。私が兵を連れてきたのだから、立ちどころに定陶城(章邯)を破ろう」

『通俗漢楚軍談』は、「ムダに舌を動かして、士気を下げるようなマネをしやがって」と、さらに項梁は悪態をつく。

項梁は、英布を叱って退かせた。雲梯をつくり、城攻めをやった。城内から火矢がトンできて、雲梯が焼かれた。衝車をつかったが、秦軍に壊された。城が落ちないので、項梁はイライラした。

有執乾郎韓信密至帳下告稟:「大軍人馬久住城下,恐敵軍窺見我軍懶怠,夜黑開城,攻劫營寨,一時無備,反遭毒手,攻城之策小,提防之策大,請將軍思之。」梁大怒曰:「吾自起兵會稽,所向無敵,量此孤城,何足為難!章邯聞吾之名,心膽皆碎,何敢出城劫吾營寨耶?爾何等之人,乃敢妄為籌策,以阻軍心?」遂將韓信叉出。有宋義聞信言,急說曰:「戰勝而將驕卒惰者必敗!今士卒懈怠久矣。秦見雖圍困在城,連日養精蓄銳,又兼章邯秦之名將,善能甲兵,果如信言,甚乾利害,信言亦良策也。」梁益不聽。

韓信・宋義が、項梁の油断を諌めたが、項梁は聴かない。

韓信の正しさ&不遇さをアピールするエピソード。


是夜章邯果吩咐將士飽飯畢,人各銜枚,開放城門,統領三軍,暗分二路,來到楚寨,楚兵正睡熟,章邯密傳將令,一聲炮響,金鼓大振,殺人楚營。夜晚兵來,如天覆地陷,山崩海沸一般。此時項梁已帶酒不能起,左右扶出轅門,未曾上馬,一將殺入中軍來,乃秦偏將孫勝也,梁措手不及,被勝一刀斬於門旗下。項梁被誅,各隊人馬驚惶亂竄,自相踐踏。宋義、英布禁止不住,只得棄營逃走。殺到天明,秦兵大獲全勝,徑趨外黃,入陳留屯住人馬,聲勢復振。

この夜、章邯は将士に腹いっぱい食わせ、枚をくわえて城門をひらき、ひそかに2路に分かれて、楚軍を急襲した。このとき項梁は泥酔して立てず、左右に扶けられて轅門を出たが、秦将の孫勝というひとに斬られた。項梁が殺され、楚軍は混乱した。宋義・英布は、「(敵は少数だから)逃げるな」というが、軍営を棄てて逃げるだけで精一杯である。秦軍は完勝して、外黄をとおって陳留に入る。

劉邦知梁敗績,領兵來定陶救援,已無及矣。遂同義等收回敗殘軍馬,急投雍丘來報,說武信君被邯所殺。項羽聞知,大叫一聲,氣倒在地下,不知性命如何?且看下分解。

劉邦は、項梁の敗北を知り、定陶を救いにいくが、間に合わない。宋義らとともに敗残の軍馬をあつめて、いそぎ(項羽のいる)雍丘に連絡した。項羽は、項梁の死を知って、気絶して倒れた。項羽の生命はいかに。150815

これで項羽が死んだら、この物語は最低であるw

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第14回 項羽 宋義を殺して趙を救ふ

項籍が、項梁の死を悲しむ

卻說項羽聞武信君被章邯所殺,哭倒在地,諸將再三解勸。羽曰:「某自幼無父,蒙叔父撫養成人,教習兵法,視我如子。今一旦功業未竟,中道而殂,此心如碎,安能已於情乎?」言畢又哭。范增曰:「為國捐軀,臣子之大節盡矣。項將軍雖命數如此,而楚之大業已就,天下望風歸附者五十萬眾,將軍果能承繼其志,恢宏疆宇,滅秦定楚,追封武信君為王,血食百世,將軍之大孝畢矣!何必效兒女子區區於悲泣之間,何足以收服人心耶?」
羽起謝曰:「謹如先生所教。遂起兵急趨定陶,會宋義、劉邦,合兵一處,與武信君掛孝,率諸將撫棺行祭,遂收梁屍,以武信君服色,葬於定陶。於是起軍徑奔陳留而來,未及楚兵到時,章邯軍已渡河擊趙矣。

項羽は哭いて地に倒れた。「叔父に養育してもらったのに、中道で殂すなんて」。范増「国のために身を棄てるのは、よいこと。項梁将軍の命数は尽きたが、楚の大業はすでに始まった。天下の50万が楚に帰付する。項籍将軍は、叔父の志を継ぐのが『孝』です。児女のように泣いても、人々の心は集まらないよ」
項羽は起ちて謝す。「先生の言うとおり。いそぎ定陶にゆき、宋義・劉邦と合流して(章邯と戦い)項梁の死体を回収して定陶に葬ろう」と。項羽は軍を起こして陳留にゆく。楚兵がくる前に、章邯は(楚との戦いを切り上げて)渡河して、趙を攻撃している。

章邯が趙を攻める

趙王歙、陳餘、張耳等出戰,俱被章邯殺敗,遂夜奔鉅鹿,堅壁不出,隨差人赴楚求救不題。卻說項羽與宋義、范增計議曰:「今章邯渡河,聲勢復振,武信君新葬,懷王獨守盱胎,恐非長策。不若回軍,遷都彭城再作區處。」眾以既定,傳令三軍回到盱胎。
諸將朝見懷王畢,懷王聞項梁死,十分哀痛。項籍復奏曰:「武信君新亡,我軍銳氣已挫矣。見今章邯屯兵鉅鹿,破趙後必入寇西楚,不如先調兵征剿,我王遷都彭城,以為犄角之勢,不可緩也。」

趙国では、趙王歇・陳余・張耳らが出て戦うが、章邯に敗れて、夜に鉅鹿にのがれて、堅壁して出ない。楚に救いを求めた。
さて項羽は、宋義・范増に相談した。「章邯は渡河して、声勢が振るう。項梁が死んだばかりで、楚懐王だけが盱眙を守るが、この状況は良くない。軍をもどして、彭城に遷都したらどうか」と。衆議が決して、三軍を盱眙に戻す。
諸将は、楚懐王に朝見した。楚懐王は、項梁の死を哀痛した。項籍「項梁が死んで、わが軍の士気はくじけた。いま章邯が鉅鹿にいる。趙軍を破れば、必ずこちらに来る。彭城に遷都して、犄角の勢をつくり、章邯の圧力を緩めたい

言未畢,有人來報趙遣使求救,王召入,即問章邯虛實,使曰:「秦兵三十萬,圍鉅鹿將一月矣!趙軍食盡,人馬死者過半,指日城破,生靈受害。願大王憐而救之。」懷王聞知大驚,即以宋義為大將軍,項羽為副將軍,范增為軍師.領二十萬人馬,往鉅鹿救趙。

項籍が言い終える前に、「趙王から使者がきた」と連絡が入った。楚懐王が使者を召して、章邯の虚実について聞いた。趙王の使者「秦兵は30万で、鉅鹿を囲むこと1ヶ月。趙軍の食料は尽き、人馬は過半が死んだ。楚の援軍がほしい」と。楚懐王は驚いて、宋義を大将軍、項羽を副将軍、范増を軍師にして、20万で鉅鹿の趙軍を救う。

宋義が趙軍を救わずに、逗留する

兵至安陽,宋義按兵不動,欲遣子宋襄相齊,乃曰:「邯兵困趙日久,今心志懈弛,人無鬥志。我兵遲緩數日,坐觀其敝,待邯兵懈怠,我卻以兵攻之,邯必擒矣。」義遂遷延四十六日不進。羽曰:「秦軍圍趙甚急,城內死者七八。若能乘彼攻圍日久,鼓噪大進攻擊其外,趙兵殺出以應於內,內外夾攻,秦軍必走,而邯可擒也。」義曰:「不然!搏牛之蟲,不可以破蟣蝨,志在於大,不在於小也。若章邯勝,則秦軍疲乏,我卻承其敝而攻之,必破矣;若章邯不勝,則我引兵鼓行而西,亦必可破矣,此兵不勞而觀勝負也。若夫披堅執銳,我不如公,坐運籌策,公不如我。」

楚兵が安陽に到ると、宋義は兵を停止させて、子の宋襄を斉にやった。宋義「章邯の兵は疲れている。このまま日数を稼ぎ、章邯がもっと疲れるのを待てば、彼を擒にできる」といい、46日も動かず。項羽「秦軍は、趙軍をきつく囲んでおり(鉅鹿の)城内の使者は、7-8割である。早く趙を助けにゆき、城の内外から章邯を攻めるべきだ」
宋義「ちがう。(日数を稼ぐのは)もし章邯が勝てば、勝って疲れたところを撃つ。もし章邯が負ければ、負けたところを撃つ。これが必勝法である。私は武芸であなたに及ばないが、謀略ではあなたが及ばない」

司馬遼太郎は、宋義がここでダラダラする理由を、斉との政治工作に時間をかけたからだと意味づけをしていた。宋義が、一族の繁栄のために、楚軍をムダに足止めしたという解釈。本作では、宋義の子の宋襄のことには触れるが、これをメインの理由とはせず、ただ作戦の違いとして扱っている。


遂傳令軍中曰:「縱使三軍之猛如虎,其狠如羊,其貪如狼,苟有違令不從者,必斬。」又陰遣其子宋襄為齊國相,宋義親送至無鹽而回,復飲酒高會。時至天寒,大雨,士卒在雨中凍餒不可當,羽暗行軍中,則各營有怨言,羽乃厲色正言曰:「諸將奮勇戮力,急欲攻秦,今卻久留不肯引兵渡河,況今年歲饑民貧,士卒不得飽飯,又無積糧,卻乃飲酒高會,必待秦兵破而後擊之。夫秦兵強大,趙兵怯弱,以弱敵強,何得秦敝?且武信君新喪,楚王坐不安席,今盡將境內之兵總屬將軍,非專為救趙,實欲假此破秦,以雪前日之恨。國家安危,在此一舉,今不恤士卒而終日私宴,非社稷之臣也!」義終不聽。羽深恨之。

宋義は、軍中に令を伝え、動くことを禁じた。ひそかに、子の宋襄を斉の国相にして、宋義はみずから無塩まで見送った。宋義は置酒・高会する。ときに寒くて雨ふり、士卒は寒くて飢えた。項羽は顔色を変えて、宋義に抗議した。「力を奮って秦と戦うべきで、今年は飢饉で民が貧しく、士卒は飢えるのに、宋義は飲酒・高会している。秦は強く趙は弱いのに、秦の疲弊を待っていられるか。項梁は死んだばかりで、楚王は遷都したばかり。趙を救わずに、私宴ばかりするなど、宋義は社稷の臣ではない」

項羽が宋義を斬って、章邯との決戦へ

次日,宋義早升帳,羽仗劍入帳,大呼曰:「宋義與齊謀反,令子宋襄與齊結連外應,故留兵不進,意欲吞取西楚。吾今奉楚王密旨斬義,以曉諭三軍。」宋義聽罷,便欲從帳後逃走,羽大步趕上,將義拉住,一劍揮為兩段。眾將俯伏帳下,皆曰:「首立楚後者,將軍家也。今將軍誅此叛逆,正合人心。」眾將俱立羽為假上將軍,職專征伐,急使人追趕宋襄,將至齊境,遂殺之。又使桓楚報命與楚王,數宋義叛楚之罪。王遣鍾離昧持節封羽為上將軍,自此軍威大振,名聞諸侯。

つぎの日、項羽は剣を杖つき、宋義の帳内にゆく。「宋義は斉とむすんで、楚に謀反した。子の宋襄を斉にやって斉と結び、わざと楚軍の兵を留めた。楚王の密旨により、宋義を斬る」と。宋義は逃げたが、項羽に両断された。
みなは、「楚王の子孫を立てたのは、将軍の家(項氏)である。将軍は反逆者を誅したのだ」といい、項羽を上将軍に假した。宋襄を追って斉との国境で殺した。桓楚が、楚懐王に報告した。楚懐王は、鐘離昧をつかわし、項羽を(正式に)上将軍とした。

於是遣英布為先鋒,將軍二萬,渡河。邯聞布至,急差司馬欣、董翳渡河南岸,立營以抵來兵。將領兵渡河,營寨方才立定,英布前軍早到,二將出馬與布交戰,布並不答話,舉斧徑奔二將,二將來迎。正戰之間,只見秦軍不戰自亂,從後一將殺至,乃上將軍項羽也。二將大驚,撇了英布,徑投河南營寨,時已被楚軍占莊,只得棄營望河北逃走。項羽大獲全勝,所得軍器輜重,不知其數,收軍進營。

英布が先方となり、2万で渡河した。章邯は、英布がくると聞き、いそぎ司馬欣・董翦を南岸に渡河させてふせぐ。英布のほうが先に到着した(渡河点を抑えた)。戦おうとしたとき、秦軍が戦う前から、自ずと乱れた。後ろから一将が殺到したためである。上将軍の項羽である。2将(司馬欣・董翳)は驚き、渡河点を楚軍が占領しているのを見て、河北に逃げた。項羽は、秦軍の輜重を無数に得た。

待後軍陸續俱到,遂領軍北渡河,按劍高坐,候後軍渡畢,乃盡將船隻沉入河南,釜甑打碎,廬舍燒燬,止持三日行糧,曉諭三軍,務要竭力死戰,無復退志。三軍踴躍大呼曰:「願從將軍決一死戰!」鼓噪連夜攻章邯。不知勝負如何?且看下回分解。

項羽は、後軍が着くのを待って、黄河を北渡した。項羽は、調理・野営の道具を砕いて、3日分の食料だけもって、章邯に決戦を挑んだ。さて、章邯と項羽の決戦はどうなるか。150815

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第15回 楚の項羽 九たび章邯を敗る

項羽が章邯を撃つ(1-2回目)

二世二年十一月,項羽大兵進攻章邯。范增、鍾離昧相議曰:「項將軍急欲進攻,破釜沉舟,糧食俱在後,倘三日未下而軍無糧,將如之何?此時當差心腹牙將,星夜催載糧食近河。如三日勝邯,不必運過河;如三日不能勝,須過河預備軍需,庶不失機。」昧曰:「先生所慮甚遠。」隨即差人催載軍需不題。

秦の二世の2年11月、項羽は章邯を攻める。范增・鍾離昧が議した。「項羽は釜を破って船を沈め、糧食は3日分しか持たない。もし3日で勝てなかったらどうする。心腹の牙将をつかわし、星夜に兵糧を黄河のそばに運ばせよ。もし章邯に勝てば(兵糧を)黄河を渡して運ばなくていい。もし勝てねば、黄河を渡して需要に備えよ。機を失うな」
鐘離昧「范増先生は、じつに先々のことまで考えておられる」

卻說司馬欣等被項羽、英布衝殺一陣,回見章邯,備說英布武勇不能敵,項羽人馬已北渡河矣,即當作急提備。言未畢,有人來報楚兵過河,破釜沉舟,要與秦兵決一死戰,聲勢甚大。邯聞說,急召秦將王離、涉間、蘇角、孟防、韓章、李邁、章平、周熊、王官等至帳下,吩咐曰:「項羽勇冠三軍,不可輕敵。汝各隊人馬分為九路,連寨結營,待我與彼對敵,每隊以次接應,待楚兵深入重地,九路人馬合兵截殺,必獲全勝。」眾將得令,各調人馬準備。

さて秦将の司馬欣らは、項羽・英布が、黄河を北に渡ってきたので、(数において勝る)秦軍を9つに分けた。もしも楚軍に戦いを挑まれたら逃げて、楚軍を分断・深入りさせる作戦を立てた。

秦軍が9つに分かれて、それが順番に撃破されることで、章邯が9たび敗走する。そういう数字の美学が、この回の基本構成。さきに謝っておきますと、途中で数が分からなくなって、7たびしかタグをつけられなかった。


只見楚兵已到,項羽一馬當先,章邯出馬對敵。羽見邯出,咬牙切齒大罵曰:「逆賊殺吾季父,此仇不共戴天!」遂躍馬挺槍,直取章邯,邯舉槍相迎,二馬交戰,殺五十合,邯敗走。未及五里遠,早有王離人馬接應,章邯退後,王離出馬與羽交戰,不二十回合,羽賣了個破綻,讓王離一槍刺來,羽卻躲過,就勢將王離活捉過馬來,眾軍將王離綁縛歸陣。邯見王離被擒,撥轉馬便走,羽大叫:「逆賊那裡去?」催動人馬追趕,羽騎的是烏騅馬,日行千里,眾軍跟之不上,俱落在後,羽一騎馬飛奔章邯。

項羽は章邯を見つけると、「季父(項梁)を殺しやがって。共に天を戴かず」といって直撃した。章邯は逃げた(1回目。以下、章邯が項羽に敗れる回数をカウントする)。章邯を逃がしてから、〈秦将の王離〉が項羽と戦った。王離の槍が項羽をかすったところ、逆に項羽が王離をつかまえた。王離は楚軍に捕らわれた。

記号的に登場する秦将を、〈〉カッコで覆います。これに囲まれている人物は、ちょい役なので、本作では気にかける必要がありません。そういうサインです。

項羽の馬の烏騅は早いので、一騎で章邯を追う。

章邯見羽無兵,復回馬交戰,項羽一根槍,恨不得即時刺死章邯,章邯只是架隔遮攔,如何當敵?正在危急之時,早有秦將涉間兵到,接住廝殺。羽更不答語,直取涉間。戰不十合,項羽按住火尖槍,順手取出鞭來,望間一鞭打去,涉間急躲時,早中左肩,翻鞍落馬。秦陣上章邯見涉間落馬,即領牙將宋文等死戰來救,只見項羽大軍又到,英布、桓楚各領兵衝殺過來,章邯折軍大半,大敗而走。

章邯は、項羽が兵を連れずにきたから、交戦した。章邯が逃げたところ(2回目)〈秦将の渉間〉が項羽を遮った。項羽は、渉間の左肩を打って落馬させた。渉間が落馬すると、秦の牙将の宋文が項羽を防ごうとした。楚軍の英布・桓楚らが追いつき、秦軍を破った。 章邯は大敗して逃げた。

秦軍の夜襲を、返り討ちにする

項羽見天色將晚,恐有伏兵,不去追襲,鳴金收軍,安下營寨,當有軍師範增進言曰:「將軍深入重地,天色陰晦,須防賊兵劫寨。」羽曰:「軍師之言是也。」范增即傳令於小山口,另安營寨,屯住大軍,卻於大寨堆積柴草,虛立旗號,以等待敵兵。卻喚桓楚、於英、丁公、雍齒四將上帳吩咐曰:「汝四人領兵埋伏,但看大寨火起,章邯必定中計,汝等領兵四面剿殺,阻住去路,不可走脫。」四人領命去訖。又喚英布吩咐曰:「汝可領兵三千,於正西大路埋伏,阻當秦軍接應,不可誤也。」各各分佈已定,請項羽於小寨內專等敵軍。

項羽は天が暗くなったので、伏兵を恐れて、金を鳴らして軍を収めた。軍師の范増が進言する。「将軍は、秦軍のおおい土地に深入りした。秦の夜襲に備えなさい」。項羽「軍師の言うとおり」
桓楚・于英・丁公・雍歯に埋伏させ、夜襲する章邯を返り討ちにする作戦を立てた。「英布は真西の大路にいて、秦軍に備えろ」

丁公・雍歯という、劉邦・項羽の間で、裏切りに関係する重要人物が初めて出てくるのだが、『西漢演義』も『通俗漢楚軍談』も解説しない。劉邦が故郷の豊を、雍歯のせいで失ったとか、そういう話はカットなのです。


卻說章邯領敗殘軍馬,投蘇角寨來,與司馬欣、董翳合兵一處,離楚營三十里下寨。角曰:「今楚兵得勝,人馬疲倦,不作準備,某引輕騎人馬,從東路殺奔楚寨之後,劫彼營壘,將軍卻從西路殺來,兩路夾攻,使彼首尾不能救應,此兵法所謂『攻其不守』,雖不能至大獲全勝,亦可以挫其銳氣也。」邯曰:「正合吾意。」蘇角遂領本部一萬生力人馬,暗暗往楚寨進發。不久,來到楚營,見旗幟不整,轅門緊閉,只說中計,大刀闊斧殺下營來,見是空管,即欲回時,楚寨中一聲炮震,四下火起,喊聲大振,角急殺出寨來,投西便走,只見左有桓楚、於英,右有丁公、雍齒,一齊攔住去路,不能得出,便望西山東小路而走。只聽鼓角齊鳴,喊聲大舉,一將大叫曰:「無謀匹夫,認得楚將項羽麼?」蘇角驚慌,莫知所措,被羽一槍刺於馬下。

章邯は敗残の軍馬をあつめて、蘇角の寨にきた。蘇角「楚兵は油断しているから、東西から挟み撃ちにしよう。これは兵法のいう『守らざるを攻める』です。大勝できずとも、楚兵の鋭気をくじける」と。章邯「そうしよう」
蘇角が楚軍の夜営を攻めたら、左に桓楚・于英、右に丁公・雍歯がいて、路を塞いだ。一将が現れ、「無謀な匹夫よ。楚将の項羽のことし知らんのか」という。蘇角は項羽に刺し殺された。

つたない作戦を立てて、范増のはったワナに飛び込んだ蘇角。まさに自業自得として、真っ先に片付いた。


卻說章邯聽得東路鼓聲大振,喊殺連天,又不知蘇角勝負,只得領人馬緩緩哨探。未及兩個更次,只見楚兵大兵已衝殺來。此時天色將明,秦兵各隊拔寨前走,章邯斷後。早有英布人馬先到,與邯決戰,二馬相交,兵器並舉,戰五十合,不分勝敗。羽軍到,見布戰邯不下,領人馬衝過來,邯兵敗走。正欲追趕,刺斜裡一軍殺來,乃是秦將孟防接應,與楚兵交戰。桓楚挺槍直取孟防,孟防來迎,只一合刺防於馬下。
章邯見折了孟防,拍馬投西便走。桓楚自思捉住章邯,勝他將百倍,就拍馬追趕。邯馬連日困乏,又兼未得草料,前走甚急,後趕又近,馬過山岡地,將馬絆倒,邯撞於馬下。桓楚急向前,用槍便戳,山腳邊早轉出一枝兵來救應,乃是秦將韓章,一馬抵住桓楚,眾軍士救起章邯。桓楚方欲與章交戰,早有於英人馬殺到,接住與韓章斯殺。未及十合,項羽大兵又到,韓章不能抵敵,撥回馬就走。羽揮動後軍,一併追趕。卻有秦將李遇原領本部精兵一萬。扎住在此未動,章邯同眾遂投李遇營暫歇,楚軍陸續也都到了,見秦兵當頭紮營,未敢前進,傳令且屯住人馬造飯。

章邯は、東路で(蘇角が)鼓声をあげるのを聞き、蘇角が敗死したとも知らず、ゆっくりと近づいた。天が明るくなりかけたき、楚軍の大兵が殺到した。英布が章邯に一騎打ちを挑むが、勝負がつかず。項羽が到ると、章邯は敗走した(3回目)。〈秦将の孟防〉が(章邯を助けるために戦ったが)桓楚に斬られた。
章邯は孟防が敗れたのを見て、西に逃げた。章邯の馬は空腹なので、上り坂で倒れて、章邯が投げ出された。桓楚が章邯に迫るが(4回目)〈秦将の韓章〉が桓楚を妨げて、章邯を救った。そこに楚将の于英がきて、韓章を斬った。〈秦将の李遇〉が1万をひきいて、章邯を逃がした。

項羽が章邯に追いつく。章邯が敗れて逃げる。そこに〈秦将〉が割りこみ、章邯を逃がす。楚将が合流して、〈秦将〉をどかす。また項羽が章邯に追いつく。ここには内容などなく、形式だけがある。

章邯は、李遇の軍営に逃げこむ。楚軍は攻めきれない。

日已平西,范增與項羽曰:「今晚秦兵恐楚劫寨,定於高陽坡下有埋伏人馬,卻設空營待我去劫,伏兵一起,決中其計。」羽曰:「先生有何妙策?」曰:「將軍統一枝人馬徑奔秦營,鳴鑼擊鼓,遙為之勢,卻差兩枝精兵,去截住伏兵來路,秦兵決出交戰,候兩路兵得勝,卻三路合兵一處追殺,將計就計,使彼措手不及,邯可擒矣。」羽隨即差英布領一萬軍暗出南路,桓楚領一萬軍暗出北路,自領三萬出中路,各分派已定。

日が西に傾くと、范増は項羽にいう。「今夜、おそらく秦兵は、わが寨をおびやかす。高陽坡に人馬を伏せて、伏兵により秦軍を破ろう」。項羽「どういう作戦ですか?」。范増「項羽将軍は一軍をひきいて秦営にゆき、鑼を鳴らし鼓を撃ち(攻めかかる振りをして、秦軍の注意を引きつけて)、その隙に精兵2軍を動かして、秦軍の伏兵が通る路を絶ちなさい。2軍が伏兵を破ったら、項羽&2軍が三路から一斉に秦軍を追いこめ」と。

もちろん、范増は賢者ポジションだから、この作戦どおりに推移する。

項羽は、英布1万を南路に、桓楚1万を北路におき、自ら中路で3万を率いる。

卻說章邯與李遇商議:「楚兵連日得勝,今晚定來劫寨。爾可領兵五千南坡下埋伏,韓章領兵五千北坡下埋伏,我同司馬欣等眾將大營後埋伏。候楚兵到來,三路並攻,必擒項羽。」眾將依令調兵去訖。

さて章邯は、李遇と商議する。「楚軍は連勝しているから(勢いに乗じて)今夜、きっとこの寨をおびやかす。李遇は南坡に5千で埋伏し、韓章は5千で北坡に埋伏せよ。私と司馬歆は、本営の後ろに埋伏する。楚軍がきたら、3路から一斉に攻めれば、必ず項羽を擒にできる」

項羽到晚一更時候,南北兩路人馬銜枚暗出,項羽卻自領精兵三萬,密從中路,行至五里遠便不動,卻大舉金鼓火箭火炮,一齊發言。章邯正欲從寨後殺出,只見南北二路秦兵敗回本寨邊,楚兵殺來,章邯不敢出戰,急拔寨便走。項羽知楚兵二路得勝,急催動人馬追殺,十分混亂,行二十里,已到趙城。

項羽は、晚一更の時候に、南北の両路から人馬に枚を銜えさせ、ひそかに出した。項羽は自ら精兵3万をひきい、ひそかに中道をゆく。5里進んで止まって動かず、大いに金鼓を挙げて、火箭・火炮をうつ。章邯は秦軍の寨の後ろから飛び出すと、南北の2路から、秦兵が敗れて帰ってくる。

南北で、英布・桓楚が秦軍を破ったことには、地の文で触れない。章邯が結果を知るというかたちで、戦局を描いている。高等テクニック。

楚軍が南北から殺到するから、章邯は敢えて出て戦わず。いそぎ寨を抜けてにげた。項羽は、楚兵が2路で勝ったことを知り、章邯を追撃すること20里(6回目)趙城に到った。

城裡聽得城外鼓噪震天,知是楚兵已殺到城下,陳餘、張耳等急上城探望,天色漸明,見秦兵大敗,遂開城門,領一枝人馬殺出來接應。章邯顧不得中軍,領數騎落荒逃走。英布望見,帶領本部人馬追趕,追到東門,正遇秦將章平急來救應,放過章邯。與布交馬,戰三十回合,章平無心戀戰,急回保著章邯,奔曲陽小路來,正遇周熊、王官二枝人馬接著。英布見有救應,遂同桓楚合兵一處,回見項羽。

趙の城内では、城外で鼓が噪いで天を震わすので、楚兵が来たと知った。陳餘・張耳らは、急ぎ城(の見張り台)に登って遠くを見た。夜が明けつつあり、秦兵が大敗するのが見えた。ついに城門をひらき、秦軍を迎え撃つ。章邯が顧みると、中軍が付いてきていないので、数騎で落ちのびた。
英布はこれを見て、章邯を追って東門に到る(7回目)。〈秦將の章平〉が章邯を逃がした。英布と章平が戦うが、章平は戦いにこだわらず、急ぎ章邯を守って曲陽の小路にはしる。〈秦将の周熊〉〈秦将の王官〉の2人が、章邯を救った。英布は、秦軍が章邯を救ったのを見て(独力では章邯を捕らえられないと知り)桓楚とあわさって、項羽にまみえる。

章邯の敗北のカウントは、項羽ではなくて、ほかの楚将によるものでも有効なんだろうか。「9たび」を数えるのを見失ってしまった。でも、ほかの楚将もカウントに入れないと、「9たび」はムリである。数えモレが2回あるらしい。
章邯が秦軍を9つに分けたとき、「王離、涉間、蘇角、孟防、韓章、李邁、章平、周熊、王官」とするが、最後の2人は、章邯を助けにきたときに名前を使ったので、章邯が敗れた回数にはカウントできなし。まあいいや。


有趙王歙同張耳、陳餘城外置酒拜伏,迎接楚兵進城。羽曰:「且未可進城,乘章邯殘敗之後,直搗秦境,剿殺殘孽,滅殺秦之族,正在此舉。若人馬進城,遷延時日,養成賊勢,終是費力。」遂留季布、鍾離昧在趙城外,統兵三十萬駐紮,斬王離、涉間以示威武,卻領精兵三十萬,追趕章邯。未知如何?且看下回分解。

趙王の歇は、張耳・陳余とともに、城外で置酒して(項羽に)拝伏した。楚兵が城(鉅鹿)に進むのを迎えた。項羽「まだ城に入れない。章邯を残敗させた勢いにのって、秦地に攻めこみ、秦帝の一族を殺したいから。時間をおいたら、秦軍が盛り返して、平定が難しくなる」と。
季布・鐘離昧を、趙の城外に留めた。王離・渉間を斬って威武を示し、30万で章邯を追う。項羽は章邯を捕らえることができるのか。150815

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