孫呉 > 赤壁の戦いに関する正史まとめ

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『魏志』に記された赤壁の戦い

巻一 武帝紀

十三年春正月、公還鄴、作玄武池以肄舟師。漢罷三公官、置丞相御史大夫。夏六月以公爲丞相。

建安十三年春正月、曹操は鄴にかえり、玄武池をつくり、舟師を訓練した。

胡三省はいう。鄴城に玄武苑があり、そのなかに曹操が池を掘った。
盧弼はいう。幽州を平定しおわり、荊州を攻めようとして、あらかじめ水軍を治めた。惜しむらくは、北方のひとは水戦になれず、孫権・劉備に敗れた。
ぼくは思う。荊州水軍を吸収するまでは、曹操の水軍は弱かった。吸収して「進化」した。という段階を踏むだろう。

漢は三公の官をやめ、丞相・御史大夫を置いた。夏六月、曹操が丞相となった。

『范書』献帝紀によると、六月癸巳、曹操は丞相となる。八月丁未、光禄勲の郗慮を御史大夫とした。盧弼はいう。曹操は官制を改め、14州を9州に改変した。復古のふりをした私益である。
前後して三公を辞めさせられたのは、楊彪・趙温である。ぼくは思う。曹操は孔融を殺したが(世論を気にしてか)楊彪・趙温を殺すには至らない。朝廷のなかで、曹操を牽制する勢力=曹操の弱みは、楊彪・趙温だろう。荀彧と、楊彪・趙温の関係は、いかに。清流の知識人としては、同類か。「曹操観」を共有してたのか。


獻帝起居注曰。使太常徐璆卽授印綬。御史大夫不領中丞、置長史一人。
先賢行狀曰。璆字(孟平)[孟玉]、廣陵人。少履清爽、立朝正色。歷任城、汝南、東海三郡、所在化行。被徵當 還、爲袁術所劫。術僭號、欲授以上公之位、璆終不爲屈。術死後、璆得術璽、致之漢朝、拜衞尉太常。公爲丞相、以位讓璆焉。

『献帝起居注』はいう。太常の徐璆に印綬を授けさせた。御史大夫は中丞を領せず、長史1人を置く。
『先賢行状』はいう。司空の曹操が丞相となると、司空の位を廃した。司空と同じ職掌である御史大夫を、徐璆に譲ろうとした。『范書』徐璆伝によると、徐璆は受けずに、在官のまま卒した。

秋七月、公南征劉表。八月表卒、其子琮代、屯襄陽、劉備屯樊。九月公到新野、琮遂降、備走夏口。公進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始。乃論荊州服從之功、侯者十五人、以劉表大將文聘爲江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩鄧義等。

秋七月、曹操は南のかた劉表を征す。八月、劉表が卒し、子の劉琮が代わり、襄陽に屯した。劉備は樊城に屯した。

『宋書』はいう。曹操が荊州を平定すると、南郡の編県より北および南陽を分けて、襄陽郡を立てた。樊城は、襄陽の北にあり、襄陽と川を隔てて対峙する。
ぼくは思う。劉備が新野でなく、樊城に移動したタイミングに注意せねば。

九月、曹操は新野にいたると、劉琮はついに降り、

『范書』劉表伝によると、蒯越・韓嵩・傅巽らは、劉琮に「曹操に降れ」と説いた。曹操軍が襄陽に至ると、劉琮は州をあげて降伏を請うた。盧弼はいう。武帝紀では、曹操が新野に至ると、劉琮が降ったとある。けだし曹操の前軍が、襄陽に抵たり、劉琮がすぐに降ったのだろう。
ぼくは思う。月が克明に記されているのが嬉しい。七月に曹操は出発して、九月に新野に至ったのだから、曹操が荊州に向かっている途中の八月に、劉表が死んだのだ。

備は夏口ににげた。

盧弼はいう。『魏志』文聘伝には、「文聘は江夏太守となり、沔口に屯した」とある。『呉志』魯粛伝に「魯粛の子の魯淑は、夏口督となった」とある。胡三省は、孫権は夏侯督をおき、江南に屯させたとあるから、江北の夏口というのは、晦(はっきりしない・誤り?)である。諸葛亮は「孫権は長江を越えられず、魏賊は漢水を渡れず」といい、当時の情勢をよく表している。ゆえに沔水より北の、安陸・新市・雲社・竟陵は、黄武期に魏との漢水をへだてた境界となった。文聘は江夏に数十年いて、名は敵国を震わせ、呉賊は侵入しなかったとあり、整合する。

曹操は江陵(南郡の治所)に進軍し、荊州の吏民に令をくだし(新たに服従した荊州の人々と)ともに統治を刷新した。

ぼくは思う。曹操は、袁尚を降して、鄴城に入るために、年数を費やした。しかし荊州は、劉表が定めた州治の襄陽、主要な南郡の治所である江陵に、らくらくと入城して、占領後の統治を始めた。ここで、いちど決着がついたことに注意。

荊州が服従した功績を論じ(蒯越ら)侯爵になったものが15人、劉表の大将である文聘を、江夏太守として、

建安期、劉表は黄祖を江夏太守として、沙羨を治所とした。孫策伝の裴注と、『范書』劉表伝にも見える。ときに孫策は、周瑜を江夏太守とした(周瑜伝・孫策伝の裴注)。黄祖が死ぬと、劉琦が江夏太守となった(劉表伝・諸葛亮伝)。劉琦は、江夏の戦士1万人をあわせ、劉備とともに夏口に至った(先主伝・諸葛亮伝)。のちに魏呉がどちらも江夏郡をおき、文聘は石陽に屯し、分けて沔口に屯した。江夏にあること数十年、安陸を治所とした(『元和郡県志』)。嘉平期になり、荊州刺史の王基は、上昶に城きずいた。江夏の治所を上昶として、夏口に逼った(王基伝)。呉の江夏郡は、武昌を治所とした。

もとの(劉表軍の)兵を統べさせた。

黄祖のつぎに、劉琦が江夏太守となった。劉琦は、劉表の死にぎわに、襄陽に駆けつけたから、ときに江夏は、太守が不在だった。そこに曹操は、文聘を宛がった。黄祖のころから、江夏は孫権と勢力争いするところ。武帝紀にある任命の記事は、文聘だけ。江夏太守の任命が重要であり、曹操が孫権との抗争? を想定したことが分かる。逆に孫権から見れば、江夏に将兵が充実したことは、国難へのアラームである。

荊州の名士である韓嵩・鄧義らを登用した。

韓嵩は、劉表伝の注に。鄧義は、劉表伝では「鄧羲」に作る。『范書』も鄧義に作る。劉表は士を好んで招いたから、関西・兗州・豫州から帰した者は、けだし千を数える。『范書』劉表伝にみえる。『陳志』劉表伝によると、蒯越を光禄勲、韓嵩を大鴻臚、鄧羲を侍中、劉先を尚書令とした。その他、高官になったものは多い。
ぼくは思う。同年に三公を廃したばかり。いま九卿を2名も入れ替えた。長安から献帝に従うひと(曹操よりも先に献帝と接点をもったひと)を、高官から減らし、曹操よりも後に献帝に接点をもった(引け目を感ぜずにすむ)荊州の名士に入れ替えた。まあ、劉表のもとに、そのクラスの名士がいたから、できたことですが。
劉先は尚書令だけど、建安十七年、荀彧が「以侍中光祿大夫持節、參丞相軍事」となり、死出の旅にいくとき、交替したのか。


益州牧劉璋始受徵役、遣兵給軍。十二月孫權爲備攻合肥。公自江陵征備、至巴丘、遣張熹救合肥。權聞熹至乃走。公至赤壁與備戰、不利。於是大疫吏士多死者、乃引軍還。備遂有荊州江南諸郡。

益州牧の劉璋は、はじめて徵役を受け、兵をやって軍に給した。

このとき曹操の兵威は荊州におよび、ゆえに劉璋は徴役に応じた。劉璋は、陰溥・張松をつかわし、曹操に表敬した。叟兵3百人をおくった。
『范書』劉焉伝に、「興平元年、征西將軍の馬騰と劉範は、李傕を誅そうとして、劉焉は叟兵5千を送って助けた」とある。『陳志』劉璋伝に、「劉璋は、別駕従事の蜀郡の張粛をつかわし、叟兵3百人とさまざまな品物を曹操に贈った。曹操は張粛を広漢太守とした」とある。
「叟兵」をググったら、李厳がひきいる江州兵の中核勢力ともいう。
何焯はいう。ときに曹操は、蜀を取ろうとする勢いもあった。

十二月、孫権が合肥を攻めた。

合肥は、揚州の九江郡である。曹魏は合肥を重鎮とした。曹叡は「先帝は、東に合肥、南に襄陽、西に祁山を守れとした」といった。
盧弼はいう。『呉志』孫権伝によると、孫権が合肥を囲んだのは、赤壁のあと(『資治通鑑』も同じ)。武帝紀はおかしい。孫権は、大敵を目の前にして、長江をくだり、合肥にいく理由がない。合肥は、赤壁のあとである。
ぼくは思う。これは保留で。なにか理由を探れるかも。

曹操は、みずから江陵から劉備を征し、巴丘に至る。

巴丘について盧弼はいうが、はぶく。

張熹を遣はし、合肥を救ふ。孫権は、張熹がくると聞いて逃げた。

蒋済伝・孫権伝では「張喜」に作る。『資治通鑑』も同じ。
張熹のことは、蒋済伝に見える。『資治通鑑』はこれを建安十四年とする。『通鑑考異』は、劉馥伝に「攻囲すること百余日」とあり、孫権伝は月をまたぐ」とあるから、建安十四年としたのだ。

曹操は、赤壁に至り、劉備と戦い、利あらず。

『三国志集解』から地理の考察でなく、事情の考察だけひく。
曹操はすでに江陵から流れに沿って巴丘にいく。巴陵郡の赤壁は、巴陵郡の下流にある。曹操軍が敗れて南郡に帰り、劉備・周瑜が追ったが、これは長江を通ったのであり、赤壁は漢川からは遠い。巴陵・江夏の郡界が赤壁である。
周瑜は孫権に「精兵3万で、進んで夏口に住まり、曹操を破ろう」といった。夏口は、黄州の上流2百里にある。もし赤壁が黄州なら、なぜ「夏口に進む」というか。曹操が敗れて華容を逃げたが、黄州からまっすぐ汝南・潁川に逃げるのが近道なのに、なぜ華容に迂回するか。赤壁は黄州ではない。
周瑜伝によると、曹操は敗退して江北にいく。赤壁が江南なのは確実である。張昭は「曹操が劉表の水軍を得たから、なぜ曹操に船なしと言えようか」といった。曹操は(劉表の船で)南岸に渡ったのである。
曹操の水軍は80万と号したが、周瑜伝注によると、23-24万である。その郡が、どうして山林の1つ2つに入るか。『水経注』は赤壁のもとに大軍山・小軍山があるという。その下流に黄軍浦があり、ここが黄蓋の屯した所という。呉は3万だから、屯兵は百里に及ばす、けだし赤壁は曹操の前鋒が到達したところで、烏林で曹操の後軍が停止したのだろう。呉軍は、蒙衝・闘艦の数十で、南岸より進み、赤壁・烏林を同時に発火したのだろう。

大疫により吏士の多くが死んだので、軍を引き還った。

盧弼はいう。劉備・諸葛亮・孫権・周瑜伝で、それぞれ異なるが、『陳志』の記述が簡潔だからである。魏が、敗退を諱んで書かなかったというのは、当たらない。
『太平御覧』巻十五にひく『英雄記』は、曹操が赤壁で敗れ、雲夢の大沢にきたとき、大霧にあい、道に迷ったとする。『江表伝』はいう。周瑜が魏軍を破ると、曹操は孫権に書を送って「病気だから、みずから船を焼いて撤退したのに、周瑜に虚名を与えてしまった」と。周瑜伝注に見える。

ついに劉備は、荊州・江南の諸郡をえた。

山陽公載記曰。公船艦爲備所燒、引軍從華容道步歸、遇泥濘、道不通、天又大風、悉使羸兵負草填之、騎乃得過。羸兵爲人馬所蹈藉、陷泥中、死者甚衆。軍既得出、公大喜、諸將問之、公曰「劉備、吾儔也。但得計少晚。向使 早放火、吾徒無類矣。」備尋亦放火而無所及。 孫盛異同評曰。按吳志、劉備先破公軍、然後權攻合肥、而此記云權先攻合肥、後有赤壁之事。二者不同、吳志爲是。

『山陽公載記』はいう。曹操は船艦を劉備に焼かれ、華容道より歩いて帰った。

胡三省はいう。華容県は、南郡に属する。この道から、華容県にいける。

泥濘にあい、道は通ぜず、大風がふき、兵に草を背負わせて道に敷き、騎馬を通した。人馬に踏まれて、泥中に落ちて死ぬ者がおおい。軍が脱出でると、曹操はおおいに喜ぶ。諸将が理由を聞くと、「劉備は私と同類であるが、少し計略が遅かった。もし早くに放火されれば、私は助からなかった」と。劉備は放火したが、曹操に及ばなかった。
孫盛『異同評』はいう。『呉志』によれば、劉備がまず曹操を破り、あとで孫権が合肥を攻めた。武帝紀では、先に孫権が合肥を攻め、あとで赤壁とする。『呉志』が正しい。160831

巻六 劉表伝

建安十三年,太祖征表,未至,表病死。

建安十三年、曹操は劉表を攻めた。曹操がつく前に、劉表は病死した。

武帝紀がいう。7月に曹操は出発。8月に劉表が病死。『范書』劉表伝によると、背中のデキモノで死んだ。劉表は荊州を、20年ばかり治めたが(清貧なので)余分な遺産はなかった。『鎮南碑』はいう。劉表は67歳で死んだ。


初,表及妻愛少子琮,欲以為後,而蔡瑁、張允為之支黨,乃出長子琦為江夏太守,衆遂奉琮為嗣。琦與琮遂為讎隙。

はじめ劉表と妻は、幼子の劉琮を愛し、後嗣にしたい。蔡瑁・張允は、劉琮の味方となる。長子の劉琦を、江夏太守にした。荊州の人たちは、劉琮を後嗣に奉った。劉琦と劉琮は、対立した。

曹丕の『典論』に、蔡瑁は劉表の妻の弟。張允は、劉表の甥で、長子を憚ったと。
『范書』劉表伝によれば、劉表は劉琦の相貌が自分に似ているから、甚だ愛した。後妻の蔡氏が、劉琦をそしった。蔡瑁・張允は、劉表に重用され、彼らは劉琮と睦まじく、劉琦となじまず。諸葛亮は重耳の故事により、孫権に黄祖を殺されて空席となった江夏太守になれと助言した。劉琦が外に出たことで、劉琮が継嗣となった。劉琮は、侯の印綬を劉琦に授けると、劉琦は怒って地に投げ、奔って難を避けた。曹操が新野に至ると、劉琦は江南に奔った


典略曰。表疾病、琦還省疾。琦性慈孝、瑁、允恐琦見表、父子相感、更有託後之意、謂曰「將軍命君撫臨江夏、爲國東藩、其任至重。今釋衆而來、必見譴怒、傷親之歡心以增其疾、非孝敬也。」遂遏于戶外、使不得見、琦流涕而去。

『典略』はいう。劉表が病気になると、劉琦は(襄陽に)還って見舞った。劉琦は、性は慈孝で、蔡瑁・張允は、劉琦が劉表に会うのを恐れた。父子が相い感じ、改めて行事を託す意を伝えることを恐れた。蔡瑁・張允は、「将軍(劉表)はあなたに江夏に撫臨し、国のため東藩となることを命じた。その任は至重である。いま衆を釈いて来たら、必ず譴怒され、病気がひどくなる。これは孝敬ではない」と。ついに劉琦を戸外にしめだし、会わせず。劉琦は流涕して去った。

「去った」とあるから、劉琦は、劉表が死んだ時点で、襄陽に立ち会っていない。江夏に還っていたと考えるべきか。


越、嵩及東曹掾傅巽等說琮歸太祖,琮曰:「今與諸君據全楚之地,守先君之業,以觀天下,何為不可乎?」巽對曰:「逆順有大體,強弱有定勢。以人臣而拒人主,逆也;以新造之楚而禦國家,其勢弗當也;以劉備而敵曹公,又弗當也。三者皆短,欲以抗王兵之鋒,必亡之道也。將軍自料何與劉備?」琮曰:「吾不若也。」巽曰:「誠以劉備不足禦曹公乎,則雖保楚之地,不足以自存也;誠以劉備足禦曹公乎,則備不為將軍下也。原將軍勿疑。」太祖軍到襄陽,琮舉州降。備走奔夏口。

蒯越・韓嵩、東曹掾の傅巽らは、劉琮に「曹操に帰せよ」と説いた。

『続百官志』がいう。三公のもとに、東西に曹掾がある。州牧にない。傅巽は、かつて三公の府に辟され、東曹掾となった。荊州に客している。

劉琮「いま私は、諸君と楚の全土を治めている。先君の業を守り、天下を観ることに、問題があるか」と。傅巽「人臣が人主を拒むのは、順逆の逆です。新興の楚で、国家(曹操)の勢力を防げません。劉備は、曹操に敵いません。この3点からして、曹操に降るべきです。将軍は、劉備と比べてどうですか」。劉琮「敵わない」と。傅巽「劉備ですら曹操を防げないのに、劉琮が楚地を保全するのはムリ。もし劉備が曹操を防げるなら、なぜ劉備はあなたの下におりますか。将軍はご決心を」と。
曹操が襄陽にくると、劉琮は州を挙げて降った。

王鳴盛はいう。陳寿の記述は簡潔すぎて、劉琦の顛末を書かない。『范書』劉表伝によると、劉琦は、赤壁のあと劉備に表され荊州刺史となり、翌年に卒した。善を全うできた。盧弼はいう。劉琮が節を以て曹操を迎えたが、諸将は詐を疑った。婁子伯は劉琮の至誠をいい、ついに兵を進めた。崔琰伝の注に見える。

曹操が襄陽にきた。劉琮は、荊州をあげて降伏した。
劉備は、夏口に逃げた。

もし劉琮が、傅巽を再論破すれば、魯粛の荊州獲りは、大きく変わったに違いない。シミュレーションしたいなあ。いつか。笑


漢晉春秋曰。王威說劉琮曰「曹操得將軍既降、劉備已走、必解弛無備、輕行單進。若給威奇兵數千、徼之於險、操可獲也。獲操卽威震天下、坐而虎步、中夏雖廣、可傳檄而定、非徒收一勝之功、保守今日而已。此難遇之機、不可失也。」琮不納。

『漢晋春秋』はいう。王威は劉琮に「曹操は将軍がすでに降り、劉備がすでに逃げたから、解弛して備えがなく、軽々しく行き、単独で進んでいる。もしも私に奇兵数千を給えば、険阻な地をゆき、曹操を獲えられる。曹操を獲えれば、威は天下を震わせ、坐して虎歩し、中夏は広くても、檄を伝えれば定まる。ただ一勝の功を収めねば、今日を保守するだけとなる。この遇ひ難きの機、失す可からず」と。

胡三省はいう。王威の発言が用いられれば、曹操は危なかった。
何焯はいう。(荊州の)人心は瓦解し、人材の凡才ばかり。マグレ当たりの幸運を得られるか。劉琮の軍勢は、張繍のように普段からよく従っていた軍勢と異なる。劉琮は、王威を用いなくて良かった。


搜神記曰。建安初、荊州童謠曰「八九年間始欲衰、至十三年無孑遺。」言自(中興)[中平]以來、荊州獨全、及劉表爲牧、民又豐樂、至建安八年九年當始衰。始衰者、謂劉表妻死、諸將並零落也。十三年無孑遺者、表當又死、因以喪破也。是時、華容有女子忽啼呼云「荊州將有大喪。」言語過差、縣以爲妖言、繫獄月餘、忽于獄中哭曰。 「劉荊州今日死。」華谷去州數百里、卽遣馬吏驗視、而劉表果死、縣乃出之。續又歌吟曰「不意李立爲貴人。」後無幾、太祖平荊州、以涿郡李立字建賢爲荊州刺史。

『捜神記』はいう。建安初、荊州に童謡があり、「八九年の間に衰え始め、十三年に残存せず」と。建安八年・九年に、劉表の妻が死に、諸将が零落した。十三年に残存せずとは、劉表が死んで政権が失われることを指した。

盧弼はいう。建安十年より以前は、劉表の勢いは盛ん。災祥の説は、こじつけ。
ぼくは思う。蔡氏が劉表の後妻となったのが、この時期なら、衰えの兆候と認定できる。霊帝が何皇后を迎えると、凶兆があったと『宋書』だかにあった。
盧弼はいう。劉表の前妻が、建安八年か九年に死んで、そこで蔡氏を娶ったなら、劉琦・劉琮は、どちらも前妻の子となる。

このとき華容に女子がおり、啼呼して「荊州 将に大喪あらん」という。言語に過差あり、県は妖言と考え、繫獄すること月餘。忽然と獄中で哭して「劉荊州 今日 死せり」と。華谷は、州治を去ること数百里、馬吏をやって験視すると、果たして劉表は死んでおり、県は女子を釈放した。つづいて歌吟し「不意に李立 貴人と為る」と。ほどなく曹操が荊州を平定し、涿郡の李立(あざな建賢)が、荊州刺史となった。

趙一清はいう。『方輿紀要』によると、格塁が襄陽の穀城県の南12里の岡上にあり、漢末に劉表が李氏を甚だ富ませ、奴僕が数百いて、塁保を立てたという。この李氏とは、李立のことか。


太祖以琮為青州刺史、封列侯。
魏武故事載令曰「楚有江、漢山川之險、後服先疆、與秦爭衡、荊州則其故地。劉鎭南久用其民矣。身沒之後、諸子鼎峙、雖終難全、猶可引日。青州刺史琮、心高志潔、智深慮廣、輕榮重義、薄利厚德、蔑萬里之業、忽三軍之衆、篤中正之體、教令名之譽、上耀先君之遺塵、下圖不朽之餘祚。鮑永之棄幷州、竇融之離五郡、未足以喻也。雖封列侯一州之位、猶恨此寵未副其人。而比有牋求還州。監史雖尊、秩祿未優。今聽所執、表琮爲諫議大夫、參同軍事。」

曹操は、劉琮を青州刺史とし、列侯に封じた。

盧弼がいう。青州に移し、根拠地の荊州から離された。青州刺史から、諌議大夫になる。土地なしの官職となった。

『魏武故事』は令を載せる。「楚には、長江と漢水があり、山川は険阻で、秦と争った地で、荊州はそこである。劉鎮南は久しく其の民を用ふ。身 没するの後、諸子 鼎峙し、終り全ふし難しと雖も、猶ほ日を引く可し。青州刺史の琮、心は高く志は潔く、智は深く慮は広く、栄を軽んじ義を重んじ、利を薄くし徳を厚くし、萬里の業を蔑て、三軍の衆を忽し、中正の体を篤くし、令名の誉を教し、上は先君の遺塵を耀かせ、下は不朽の餘祚を図る。鮑永の幷州を棄て、竇融の五郡を離るるも、未だ以て喻ふるに足らず。

『范書』鮑永伝によると、更始二年、更始帝は鮑永を徴して尚書僕射とし、大将軍事を行せしむ。持節して兵をひきい、河東・并州・朔部を安集せしむ。更始帝のすでに亡べるを知り、将軍・列侯の印綬をたてまつり、兵を罷めた。
『范書』竇融伝によると、竇融は、河西五郡大将軍事を行した。のちに長史の劉鈞をつかわし、書と馬を(光武帝に)献じた。竇融は涼州牧とされた。

列侯・一州の位に封ずると雖も、猶ほ此の寵 未だ其の人に副はざるを恨む。而して比ごろ牋ありて州を還さんことを求む。監史 尊しと雖も、秩禄 未だ優ならず。今 執る所を聴し、琮を表して諫議大夫と為し、軍事に参同せしむ」と。

蒯越等侯者十五人。越為光祿勳。嵩,大鴻臚。羲,侍中。先,尚書令。其餘多至大官。

蒯越ら、侯爵になったのは15人。蒯越は光禄勲になった。韓嵩は、大鴻臚になった。鄧羲は、侍中となった。劉先は、尚書令となった。その他、荊州の人は多くが高官となった。160901

巻九 曹仁伝

從平荊州、以仁行征南將軍。留屯江陵、拒吳將周瑜。

曹仁は、荊州の平定に従い、行済南将軍となった。江陵に留まって屯し、周瑜を拒んだ。(周瑜に敗れ、江陵から撤退した)

『呉志』孫権伝によると、建安十三年、曹操は北に還り、曹仁・徐晃を江陵に留めた。十四年、周瑜・曹仁は相ひ守ること歳余、殺傷する所 甚だ衆く、曹仁は江陵城を棄ててにげた。孫権は周瑜を南郡太守とした。
周瑜伝によると、曹操は曹仁を江陵に残した。周瑜・程普は、曹仁と相ひ対し、渡って北岸に屯した。曹仁はこれにより退いた。孫権は周瑜を偏将軍として南郡太守を領させ、江陵に拠らせた。このように曹仁は江陵を失っており、曹仁伝では諱まれて書かれない。


從征荊州、追劉備於長坂、獲其二女、輜重、收其散卒。進降江陵。從還譙。建安十五年薨。

曹純は、荊州の征伐に従い、劉備を長阪に追い、2女・輜重を得て、散卒を収めた。進んで江陵を降した。曹操に従って譙県に還る。建安十五年、卒した。

趙一清はいう。曹純・曹真・曹休は、みな虎豹騎をひきい、宿衛の精兵である。親しき子弟でなければダメである。曹純が死ぬと、曹操が自ら率いたのは、子弟のなかに適任者がいなかったから。


巻十 荀彧伝

太祖將伐劉表、問彧策安出、彧曰「今華夏已平、南土知困矣。可顯出宛葉、而閒行輕進。以掩其不意」太祖遂行、會表病死。太祖直趨宛葉、如彧計。表子琮、以州逆降。

曹操が劉表を伐とうとすると、荀彧にどのように(荊州に)出るかを問うた。荀彧「いま華夏はすでに平定され、南土は危機だと分かっているでしょう。顕わに(堂々と)宛県・葉県に出て、すばやく進むべきです。その不意を襲うのです」と。曹操が行くと、たまたま劉表が病死した。曹操は、まっすぐ宛県・葉県に急行し、荀彧の言うとおりにした。劉琮のほうから、州をあげて降った。

巻十 賈詡伝

建安十三年太祖破荊州、欲順江東下。詡諫曰「明公昔破袁氏、今收漢南。威名遠著、軍勢既大。若乘舊楚之饒、以饗吏士撫安百姓、使安土樂業、則可不勞衆而江東稽服矣」太祖不從、軍遂無利。

建安十三年、曹操は荊州を破ると、長江に順って東下したい。賈詡は諌めた。「明公 昔 袁氏を破り、今 漢南を收む。威名 遠く著はれ、軍勢 既に大なり。若し旧楚の饒に乗じ、以て吏士を饗し百姓を撫安し、土を安んじ業を楽ましめば、則ち衆を労せずして、江東 稽服す可し」と。曹操は従わず、負けた。

何焯はいう。袁譚・袁尚にも、三駕して(たくさん戦って)やっと勝った。江東に易々と勝てるものか。賈詡の言に従って後図するのは、威を養い勝ちを持する善謀である。


臣松之以爲詡之此謀、未合當時之宜。于時韓、馬之徒尚狼顧關右、魏武不得安坐郢都以威懷吳會、亦已明矣。彼荊州者、孫、劉之所必爭也。荊人服劉主之雄姿、憚孫權之武略、爲日既久、誠非曹氏諸將所能抗禦。故曹仁守江陵、敗不旋踵、何撫安之得行、稽服之可期?將此既新平江、漢、威懾揚、越、資劉表水戰之具、藉荊楚檝櫂之手、實震蕩之良會、廓定之大機。不乘此取吳、將安俟哉?至於赤壁之敗、蓋有運數。實由疾疫大興、以損淩厲之鋒、凱風自南、用成焚如之勢。天實爲之、豈人事哉?然則魏武之東下、非失算也。詡之此規、爲無當矣。魏武後克平張魯、蜀中一日數十驚、劉備雖斬之而不能止、由不用劉曄之計、以失席卷之會、斤石既差、悔無所及、卽亦此事之類也。世咸謂劉計爲是、卽愈見賈言之非也。

裴松之はいう。賈詡の謀は、時宜に合わない。韓遂・馬超がいるから、曹操が荊州に留まり、呉郡・会稽を威で懐ける時間がない。荊州は、劉備の勇姿に服し、孫権の武略を憚っており、曹氏の諸将が保てない。ゆえに曹仁は江陵を失った。

何焯はいう。孫権の武略は、赤壁で初めて荊州に認知された。この時点で、荊州のひとは孫権を憚っていない。
ぼくは思う。曹操が赤壁に敗れず(長江をくだらず)、曹仁を江陵に残したら、どうなったか。荊州を得たあとの曹操の動きは、曹操と賈詡が対立したように難しい判断だが、劉備・孫権から見ても予測しづらい。劉備・孫権の視点から、江陵に入ったあとの曹操軍の動静を見る、というほうが緊張する。

新たに荊州を平定し、揚州を恐れさせ、劉表の水軍と、荊楚の船乗りを得たから、曹操にとって決戦の好機である。赤壁の敗戦は運数である。曹操の東下は、誤りではない。曹操がのちに張魯に勝つと、蜀は一日に数十も驚き、劉備は斬っても制止できなかった。劉曄の計を用いず、蜀を取れなかった。劉琮を降したら、すぐに孫権を撃つべきで、張魯を降したら、すぐに劉備を撃つべきだ。

何焯はいう。賈詡は誤りではない。しかし、もし劉琦が劉備を頼り、父の故地を収めれば、荊州は劉琦にもどった可能性はあるが。


巻十二 崔琰伝

吳書曰。子伯少有猛志……、劉表亡、曹公向荊州。表子琮降、以節迎曹公、諸將皆疑詐、曹公以問子伯。子伯曰「天下擾攘、各貪王命以自重、今以節來、是必至誠。」曹公曰「大善。」遂進兵。

『呉書』はいう。劉表が死に、曹操は荊州に向かう。劉琮は節を以て曹操を迎えた。諸将は詐を疑う。曹操は婁子伯に問う。婁子伯「天下 擾攘す。各々王命を貪り以て自ら重しとす。今 節を以て来る。是れ必ず至誠なり」と。曹操は「大いに善し」といい、兵を(襄陽の城内に)進めた。

巻十四 程昱伝

太祖征荊州、劉備奔吳。論者以爲孫權必殺備。昱料之曰「孫權新在位、未爲海內所憚。曹公無敵於天下、初舉荊州、威震江表。權雖有謀、不能獨當也。劉備有英名、關羽張飛皆萬人敵也。權必資之以禦我。難解、勢分。備資以成、又不可得而殺也」權果多與備兵、以禦太祖。

曹操が荊州を征すと、劉備は呉に奔った。論者は「孫権は劉備を必ず殺すだろう」と考えた。

何焯はいう。論者は、袁熙・袁尚と、公孫康のことだけ参考にしたのだ。

程昱は「孫権は新たに位に在り、まだ海内から憚られず。曹操は天下に無敵で、荊州を得て、威が江表を震わす。孫権は謀があるが、単独で曹操に当たれない。

程昱のいう、孫権の弱点も、赤壁の分析に織りこむべき!

劉備には英名があり、関羽・張飛は万人に敵する。孫権は、劉備を助けて・役立てて、国を守るだろう。しかし、劉備・孫権は融和せず、勢力が分かれるだろう。劉備が孫権と協力して領土を得れば、孫権は劉備を殺せなくなる」と。果たして孫権は、多く劉備に兵を与え、曹操を防いだ。

巻十四 郭嘉伝

後太祖征荊州還、於巴丘遇疾疫燒船。歎曰「郭奉孝在、不使孤至此」
傅子曰。太祖又云「哀哉奉孝!痛哉奉孝!惜哉奉孝!」

曹操が荊州から還り、巴丘で病気を出して船を焼いた。歎いて、「郭嘉がいれば、私をこうさせなかったのに」と。『傅子』は、曹操が「哀しいかな、痛ましいかな、惜しいかな」と言ったとする。

何焯はいう。曹操は郭嘉を惜しみ、諸葛亮は法正による帷幄の助けを惜しんだ。英雄といえども、群策の助けを必要とするのだ。


巻十四 蒋済伝

蔣濟、字子通、楚國平阿人也。仕郡計吏、州別駕。建安十三年、孫權率衆圍合肥。時大軍征荊州、遇疾疫。唯遣將軍張喜單將千騎、過領汝南兵、以解圍、頗復疾疫。濟乃密白刺史偽、得喜書云「步騎四萬已到雩婁、遣主簿迎喜」三部使齎書、語城中守將。一部得入城、二部爲賊所得。權信之、遽燒圍走。城用得全。

蒋済は、揚州刺史の別駕となる。建安十三年、孫権が合肥を囲む。ときに大軍は荊州を征し、疾疫に遇った(合肥を救える兵力がない)。ただ将軍の張喜だけに単り1千騎を率いさせ、過りて汝南の兵を領せしめ、囲みを解こうとするが、ひどく復た疾疫す。蒋済はひそかに刺史に偽りを建白し、張喜の書を得て、書に「歩騎4万が、すでに雩婁(廬江)に到ったから、主簿を遣わして、張喜を迎えよ」とあることにした。三部の使に書を運ばせ、城中の守将に伝えた。一部の使者が入城でき、二部の使者が孫権に捕らわれた。孫権はこれを信じ、囲みを焼いて逃げた。合肥は全うできた。

厳衍はいう。3部(3輩)の使者を放ったのは、城中を喜ばせるのと、孫権に偽りを信じさせるのと、両方の狙いがあった。


巻十五 劉馥伝

後孫策所置廬江太守李述攻殺揚州刺史嚴象、廬江梅乾、雷緒、陳蘭等聚衆數萬在江淮間、郡縣殘破。太祖方有袁紹之難、謂馥可任以東南之事、遂表爲揚州刺史。

孫策が置いた廬江太守の李述(李術)が、揚州刺史の厳象を攻め殺した。廬江の梅乾・雷緒・陳蘭らは、軍勢の数万をあつめて江淮の間にあり、郡県は残破した。曹操は袁紹がいるから、劉馥に「東南の事は任せた」といい、上表して揚州刺史とした。

馥、既受命、單馬、造合肥空城、建立州治。南懷緒等、皆安集之、貢獻相繼。數年中恩化大行、百姓樂其政、流民越江山而歸者以萬數。於是聚諸生、立學校、廣屯田。興治芍陂及茹陂七門吳塘諸堨、以溉稻田、官民有畜。又高爲城壘、多積木石、編作草苫數千萬枚、益貯魚膏數千斛、爲戰守備。

劉馥は命を受け、単馬で、合肥の空城を造り、州治を建立した。

揚州刺史の治所は、もとは歴陽で、寿春・曲阿に遷った。孫策が厳象を攻め殺したので、劉馥は刺史として合肥を治所とし、曹魏での重鎮となった。趙一清はいう。後漢の揚州刺史は寿春にいたが、建安五年、合肥に移し、のちに寿春に戻した。州治としての寿春は、毋丘倹伝・諸葛誕伝に見える。
ぼくは思う。劉馥の赴任は、建安五年、孫策の死による揚州の混乱の収束がねらいだろう。孫策が死ぬことで、李術が孫権に叛くなど、揚州が混沌とした。新たな体制の構築を、官渡の戦いの裏側で行っていた。

南のかた雷緒らを懐けると、みな安集して、相継いで貢献した。

雷緒の結末について、夏侯淵伝はいう。「十四年以淵、爲行領軍。太祖征孫權、還。使淵督諸將、擊廬江叛者雷緒。緒破、又行征西護軍」と。孫権が、赤壁により、曹操から独立すると、雷緒もまた曹操に敵対して、夏侯淵に破られた。

数年のうちに恩化が大いに行はれ、百姓はその政を楽しみ、流民は江山を越えて(合肥に)帰するものが万を数えた。

ぼくは思う。孫策の「悪政」の反面教師として、劉馥は、揚州の豪族に指示された。袁術-孫策という、ふたつの民力を破壊する君主のあと、曹操(に委任された劉馥)がこの地方で施した恩徳は、かなりのインパクトがあったのかも。

諸生をあつめ、学校をたて、屯田を広げた。芍陂および茹陂の七門・呉塘の諸堨を興し治め、稲田を溉し、官民は蓄えができた。城塁を高くし、多く木石を積み、草苫を編作すること数千萬枚、魚膏の數千斛を益貯し、戦いのために守り備えた。

建安十三年卒。孫權率十萬衆攻圍合肥城百餘日、時天連雨、城欲崩。於是以苫蓑覆之、夜然脂照城外、視賊所作而爲備、賊以破走。揚州士民益追思之、以爲雖董安于之守晉陽、不能過也。及陂塘之利、至今爲用。

建安十三年、劉馥は卒した。孫権は10万をひきいて、合肥を攻囲すること100余日。時に雨がつづき、城が崩れそう。そこで苫蓑で覆い、夜に脂を燃やして城外を照し、賊のやることを視て備え、賊は破れて逃げた。揚州の士民は、ますます劉馥を追思し、董安于が晋陽を守った故事でも(『戦国策』)劉馥には劣るとした。陂塘の利は、今日でも有用である。160901

孫権から見れば、劉馥は、揚州刺史として自分を監察するひと、もしくは指揮命令者のようでもあり、善政しているのは伝聞で知るだろう。荊州で曹操と対立の関係になり、初めて劉馥を攻めるとき、どういう意思決定・悩みごとがあったのか。


巻十七 張遼伝

時荊州未定、復遣遼屯長社。臨發、軍中有謀反者、夜驚亂起火一軍盡擾。遼謂左右曰「勿動。是不一營盡反、必有造變者。欲以動亂人耳」乃令軍中「其不反者安坐」遼將親兵數十人、中陳而立。有頃定、卽得首謀者殺之。

ときに荊州はいまだ平定されず、張遼は長社に屯した。

長社は鍾繇伝に見える。

出発に臨み、軍中に謀反する者がおり、夜に驚乱し火を起こし、一軍は尽く擾いだ。張遼は左右に、「動くな。これは一営の全てが反いたのでなく、必ず変を造る者がいる。人を動乱させようとしている」と。軍中に令して、「反せざる者は安坐せよ」と。張遼は親兵数十人をひきい、中陳に立った。しばらくして定まり、首謀者を殺すことができた。

巻十七 楽進伝

荊州未服、遣屯陽翟。後從平荊州、留屯襄陽。擊關羽蘇非等、皆走之。

荊州だ未だ服せず、陽翟(潁川の治所)に屯した。のちに荊州の平定に従い、留まって襄陽に屯した。関羽・蘇非らを撃ち、どちらも敗走させた。

『蜀志』先主伝に、楽進は青泥におり、関羽と相ひ拒む、とある。


巻十五 徐晃伝

從征荊州、別屯樊、討中廬、臨沮、宜城賊。又與滿寵討關羽於漢津、與曹仁擊周瑜於江陵。

荊州の征伐に従い、別れて樊城に屯し、中廬・臨沮・宜城の賊を討った。

中廬は劉表伝に、臨沮・宜城は明帝紀 景初元年に見える。

また満寵とともに関羽を漢津で討ち、曹仁とともに周瑜を江陵で撃った。

巻十八 李通伝

又擊郡賊瞿恭、江宮、沈成等、皆破殘其衆、送其首。遂定淮汝之地。改封都亭侯、拜汝南太守。時賊張赤等五千餘家聚桃山、通攻破之。劉備與周瑜圍曹仁於江陵、別遣關羽絕北道。通率衆擊之、下馬拔鹿角入圍、且戰且前、以迎仁軍。勇、冠諸將。通道得病薨、時年四十二。

郡賊の瞿恭・江宮・沈成らを撃ち、いずれも残党を破残し、その首を送った。ついに淮汝の地を平定し、改めて都亭侯に封ぜられ、汝南太守を拝す。ときに賊の張赤ら5千余家が桃山に集まる。李通はこれを攻破した。劉備と周瑜が曹仁を江陵に囲むと、別に関羽を遣わし、北道を絶った。李通は衆を率いて撃ち、馬を下りて鹿角を抜き、囲みに入り、戦いつつ前進し、曹仁の軍を迎えた(退路を確保した)。李通の勇は、諸将に冠した。李通は道中に病を得て薨じた。42歳だった。

巻十八 文聘伝

文聘字仲業、南陽宛人也、爲劉表大將、使禦北方。表死、其子琮立。太祖征荊州、琮舉州降、呼聘欲與俱、聘曰「聘不能全州、當待罪而已」太祖濟漢、聘乃詣太祖。太祖問曰「來何遲邪」聘曰「先日、不能輔弼劉荊州以奉國家。荊州雖沒、常願據守漢川、保全土境。生不負於孤弱、死無愧於地下、而計不得已以至於此。實懷悲慚無顏早見耳」遂欷歔流涕。太祖爲之愴然曰「仲業、卿真忠臣也」厚禮待之。

文聘は、あざなを仲業。南陽の宛県の人。劉表の大将となり、北方を守る。

文聘が防御するのは、あくまで北の曹操。東の孫権ではなかった。

劉表が死ぬと、劉琮が立つ。劉琮は、文聘を呼び、曹操に降ろうとした。文聘「私は(曹操を防いで)荊州を全うできず、罪を待つだけです」と。

劉琮が襄陽を明け渡したとき、文聘は同時に曹操のもとに駆けつけなかった。文聘がどこで荊州を守り、曹操から距離を取っていたのかは書いてない。文脈からすると、漢川を防衛線とした場所で、荊州を守っていた?

曹操が漢水(沔水)を渡ると、文聘は曹操にいたる。曹操は「なぜ来るのが遅いか」と問うと、文聘は「先日、劉荊州を補弼して、国家に奉ずることができなかった。荊州は没したが、つねに漢川に拠って守り、国境を保全したいと願ってきた。生きて孤弱(劉琮)に負かず、死して地下(劉表)に愧じず。しかし計は已むを得ず(防衛の計略は失敗して)北に至る(曹操に出頭した)。実に悲慚を懐き、早くにお見せする顔がなかった」と。ついに欷歔して流涕した。曹操は文聘のために愴然として、「仲業、卿は真の忠臣なり」と礼を厚くし待した。

授聘兵、使與曹純、追討劉備於長阪。太祖先定荊州、江夏與吳接、民心不安。乃以聘爲江夏太守、使典北兵、委以邊事。賜爵關內侯。

文聘に兵を授け、曹純とともに、劉備を長阪で追討させた。

『水経注』沔水に、曹操は劉備を当陽で追った。張飛は長阪で矛を按じ、劉備は数騎とともに漢津に斜趨して、ついに夏口で救われた。『荊州記』によると、当陽県に櫟林の当陽がある。

曹操は先に荊州を定めたが、江夏は呉と接し、民心は不安である。そこで文聘を江夏太守として、北兵を典ぜしめ、以て辺事を委ぬ。

趙一清はいう。呉の江夏郡は、沙羨を治所として、孫権は程普に太守を領させた。魏は文聘を太守として、石陽に屯させた。呉増僅はいう。劉表は黄祖を江夏太守として、沙羨に屯させた(孫策伝)。
謝鍾英はいう。先主伝によると、赤壁で曹操に勝つと、劉備は劉琦を荊州刺史として、ときに江夏の全境は劉琦が領有した。(翌年に)劉琦が没すると、呉は江夏の諸県を略取し、江陵に道を通じさせ、このとき程普を江夏太守とした。孫皎が程普に代わるに及び、夏口に屯し、沙羨・雲社・南新市・竟陵を奉邑として賜った(孫皎伝)。呉が江夏の全域を領有したのは、このときである。のちに沔水の北(安陸・新市・雲社・竟陵)は(黄初期に)魏に奪われた。

関内侯を賜爵す。

與樂進討關羽於尋口、有功、進封延壽亭侯、加討逆將軍。又攻羽輜重於漢津、燒其船於荊城。

楽進とともに関羽を尋口に討ち、功績があり、

楽進伝で、関羽・蘇非を撃って走らせたとあるのは、このときである。文聘は江夏の石陽に屯して、兵勢は西に向けた。尋口は、安陸府の西南で、漢水の東西である。蘄春郡の尋陽県ではない。

進んで延寿亭侯に封せられ、討逆將軍を加えられた。関羽の輜重を漢津に攻め、その船を荊城で焼いた。160901

『水経注』沔水は荊城より東南に流れると。

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『蜀志』に記された赤壁の戦い

巻三十一 劉璋伝

璋聞曹公征荊州已定漢中、遣河內陰溥、致敬於曹公。加璋振威將軍、兄瑁平寇將軍。瑁、狂疾、物故。註04-03璋復遣別駕從事蜀郡張肅、送叟兵三百人幷雜御物於曹公。曹公拜肅爲廣漢太守。

劉璋は、曹操が荊州を征して、すでに漢中を定めたと聞き、

何焯は「すでに漢中を定めた」は意味が通らず、脱文があるかという。梁商鉅は、張魯が遁走したのは建安二十年であり、数年先である。
ぼくは思う。考証学者はこう言うが、劉璋が誤報に怯えたという意図で、陳寿が書いたとは考えられないか。

河内の陰溥を遣はし、曹公に敬を致した。(曹操は)劉璋に振威将軍を加え、

『范書』劉焉伝によると、十三年、曹操が荊州にくると、劉璋は使を遣わして敬を致した。『華陽国志』によると、建安十年、劉璋は、曹操が荊州を征しそうと聞いて、中郎将の河内の陰溥を遣わしたと。盧弼は、『華陽国志』を誤りとする。

兄の劉瑁を平寇將軍とした。劉瑁は、狂疾して物故した(何もできなくなった or 死去 or 自殺した)。

潘眉はいう。劉焉には4子がおり、劉範・劉誕・劉璋と、小子の劉瑁である。劉瑁は、劉璋の兄でなく弟である。沈家本はいう。劉璋の字は「季」玉だから、劉璋が末子であり、劉瑁が兄かも知れない。『范書』劉焉伝が、劉瑁を「小子」とするのは、正妻の子でないという意味か。
ぼくは思う。物故については語釈が、裴松之・盧弼とも付す。曹操が接近したことで、劉璋の兄弟が(恐怖で?)異常になったとは、当時の状況をよく表していそう。

劉璋は、また別駕従事の蜀郡の張粛を遣わし、叟兵(蜀兵)3百人ならびに雑御物を曹公に贈った。 曹公は、張粛を広漢太守(郡治は雒城)とした。

『華陽国志』は、張粛の任命を、建安十二年とし(丞相?)掾にも任じたとする。


璋復遣別駕張松、詣曹公。曹公時已定荊州、走先主、不復存錄松。松、以此怨。會曹公軍、不利於赤壁、兼以疫死。松還、疵毀曹公、勸璋自絕、因說璋曰「劉豫州、使君之肺腑。可與交通」璋皆然之、遣法正、連好先主。尋又令正及孟達、送兵數千、助先主守禦。正、遂還。

劉璋は、さらに別駕の張松を遣り、曹公に会わせた。曹公は、ときにすでに荊州を定め、劉備を走らせたから、張松に官位を与えなかった。張松は怨んだ。

張松のことは、先主伝にひく『益部耆旧雑記』にある。
『華陽国志』はいう。十三年、張粛の弟の張松を別駕として、曹操に会いに行かせた。曹操は、荊州を定め、劉備を走らせた後なので、張松に礼遇せず、ただ越嶲の比蘇令にした。張松は曹操を怨んだ。
ぼくは思う。曹操が張松を軽んじた理由は、なにか。荊州を得て、傲慢・油断していたとは、陳寿の地の文の推測である。裴注『漢晋春秋』の「曹公方自矜伐」は、同じ推測を拡張したに過ぎない。習鑿歯が自らの議論のために、誇張したように見える。
同じころ、荊州の重要な人材を吸収し、査定して官職を割り振った。張松も、曹操なりの基準で、適切なものを割り振ったのでは。自己評価のほうが、他者からの評価よりも高いとき、怨む。普通のことである。

ちょうど曹操の軍が赤壁で敗れた。張松は還ると(劉璋に)曹操を疵毀し、曹操と関係を絶つことを勧めた。張松「劉豫州は、使君の肺腑です。交通すべし」と。劉璋は同意して、法正を遣わし、劉備と好を連ねた。尋いで法正および孟達に令して、兵数千を送り、先主を助けて守禦させた。法正は、益州に還った。

『華陽国志』はいう。張松は、扶風の法正を挙げ、劉備と交好させよといい、劉璋は従った。法正は、同郡の孟達とともに、兵をひきいて劉備を助けて守御し、前後に贈ること限りなし。
ぼくは思う。赤壁後、張松が劉璋に勧め、兵数千を送って劉備を守禦させた(劉璋伝)。これは、曹操が荊州に来たときに益州が味わった、脅威を防ぐための対策。つまり、初めて荊州南部に領土を得た劉備は、劉璋・張松と、孫権・魯粛という、東西からの支援を同時に受けながら、曹操の対抗者として、勢力を「育成」された。


巻三十二 先主伝

曹公、南征表、會表卒、
英雄記曰。表病、上備領荊州刺史。
魏書曰。表病篤、託國於備、顧謂曰「我兒不才、而諸將並零落、我死之後、卿便攝荊州。」備曰「諸子自賢、君其憂病。」或勸備宜從表言、備曰「此人待我厚、今從其言、人必以我爲薄、所不忍也。」
臣松之以爲表夫妻素愛琮、捨適立庶、情計久定、無緣臨終舉荊州以授備、此亦不然之言。

(十三年)曹操が、劉表を南征すると、ちょうど劉表が卒した。
『英雄記』はいう。劉表は、劉備に荊州刺史を領させた。
『魏書』はいう。劉表は病気が篤くなると、劉備に国を託し、顧みて「わが子は不才で、どの諸将も零落した。私の死後、荊州を治めよ」と。劉備「諸子は賢い、自愛せよ」と。ある人が劉備に「劉表の言う通りにせよ」と言えば、劉備は「劉表に厚遇された。言う通りにすれば、ひとは必ず私を薄情と見なす。それには耐えられない」と。

ぼくは思う。諸史料と整合しないから、恐らく事実ではない。劉表の政権は、少なくとも劉琮を後継者とし、そうでなくとも劉琦が候補。しかし、「劉表が劉備に託した」ことに、信憑性を与える誤報が、劉表の周辺の希望的観測もしくは、劉備に対する印象から、発生したというのは事実だろう。誤報が「異聞」となり、裴注として今日に伝わっている。孫権サイドから見ても、情報が確定しないうちは、そう信じるひとがいるかも。
なお『魏書』が載録したセリフだと、劉備は「劉表から受けた恩を重んじるから、受けられない」ではなく、「第三者からの評価が下がるからイヤ」と言っている。なにげに劉備をセコく描いている。

裴松之はいう。劉表の夫妻は、劉琮を愛した。嫡子を捨てて庶子を立てることで、感情も計画も久しく定まる。劉備に荊州をあげるなど、正しくない。

子琮代立、遣使請降。先主屯樊、不知曹公卒至、至宛乃聞之、遂將其衆去。過襄陽、諸葛亮說先主攻琮、荊州可有。先主曰「吾不忍也」

子の劉琮が、劉表の代わりに立つと、曹操に使者をやり、降伏を請う。劉備は樊城に屯し、にわかに曹操が来たことを知らない。曹操が宛城に至ると、これを聞き、軍勢を率いて樊城を去った。襄陽を過ぎ、諸葛亮は劉備に「劉琮を攻めれば、荊州を領有できる」と説いた。

『郡国志』はいう。南陽の治所は宛県。『通鑑集覧』はいう。宛県は新野の北である。劉琮は、曹操が新野にきたとき降った。曹操は、宛県から新野からへと南下した。劉備が降伏を聞いたのが、曹操が宛県にいるときというのは(曹操が、北へ引き還したことになり)記述の順序がおかしい。
盧弼が武帝紀で「武帝紀では、曹操が新野に至ると、劉琮が降ったとある。けだし曹操の前軍が、襄陽に抵たり、劉琮がすぐに降ったのだろう」という。ぼくは思う。劉備が聞いて、樊城の脱出のトリガーになったのが、「曹操が来た」なのか「劉琮が降った」なのか。『通鑑集覧』の指摘した不備を無効化するには、劉備が聞いたのは「曹操が宛県に来た」と理解すべき。①曹操が宛県に来る、②劉備が曹操を察知して樊城を脱出、前後して劉琮が曹操を察知し、降伏の使者を襄陽から出す、③曹操が新野に到達、前軍が襄陽に到達、④劉琮の使者が、新野で曹操に行き当たって降伏、⑤劉備が襄陽に到達、ここまでの道中で劉琮の降伏を知る、とすれば整合する。

劉備「忍びざるなり」

王氏はいう。荊州・益州をどちらも領有するのは、隆中対である。このとき曹操が接近しており、もし劉琮から国を奪えても、曹操から守り切れたか。劉備は数万で江陵をめざしたが、曹操に敗れた。曹操から守れないことは明白である。裴注『漢魏春秋』は、「劉琮を攻め、南は江陵に拠れ」というが、諸葛亮のセリフと記さず、これは正しい(諸葛亮が実現不可能な献策をするはずがない)。『通鑑』も諸葛亮のセリフとしない。朱子は「劉備は、劉琮から国を奪わないが、劉璋から国を奪ったから、整合しない」というが、劉璋を攻めたのは(生存のために)やむを得ない結果であり、劉琮を攻めなかったことは(勝敗の可能性に照らせば)合理的な判断である。


孔衍漢魏春秋曰。劉琮乞降、不敢告備。備亦不知、久之乃覺、遣所親問琮。琮令宋忠詣備宣旨。是時曹公在宛、備乃大驚駭、謂忠曰「卿諸人作事如此、不早相語、今禍至方告我、不亦太劇乎!」引刀向忠曰「今斷卿頭、不足以解忿、亦恥大丈夫臨別復殺卿輩!」遣忠去、乃呼部曲議。或勸備劫將琮及荊州吏士徑南到江陵、備答曰「劉荊州臨亡託我以孤遺、背信自濟、吾所不爲、死何面目以見劉荊州乎!」

孔衍『漢魏春秋』はいう。劉琮が降伏を乞うとき、敢えて劉備に告げず。劉備も知らず、しばらくして知る。親しきものを劉琮に遣わして問う。劉琮は、宋忠に返答させた。このとき曹操は宛県にいる。劉備はおおいに驚駭し、

ぼくは思う。上で丸数字で作った時系列と、矛盾する史料が出てきてしまった。『漢魏春秋』が、先主伝を見て記述を膨らませたと理解すれば、話は済む。ここは、武帝紀の「新野で降伏を受けた」を重しとして、上の丸数字の時系列で理解しておく。
盧弼はいう。曹操の至る宛城と、劉備のいる樊城がとても近く、敵が国境を侵入したのに、秘して告げられなかったから、劉備は驚いたのである。ぼくは思う。やはり劉備が驚くのは「曹操の接近」であり、「劉琮の降伏」は二の次だろう。

劉備は宋忠に「なぜ早く教えない。いま禍いが至ってから教えられても、ひどいな」と。刀を引き宋忠に向け「きみの頭を断っても、怒りが解けぬ。士大夫として別れに臨み、きみのような者を殺すことを恥じる」と。宋忠を去らせ、部曲を呼んで議した。ある人が「劉琮および荊州の吏士を襲い、南下して江陵(南郡)に到れ」という。劉備「劉表は私に孤児を託した。それに背けない」

黄以周はいう。諸葛亮が劉備に、劉琮から荊州を奪えという。諸葛亮伝はこれを載せず、先主伝に載せた。(諸葛亮が劉琮を襲えと言ったと、違いないのに。諸葛亮の建言の実現可能性を、代わりに論じれば)九月、劉備が樊城から襄陽に来たとき、曹操軍はまだ新野にいた。襄陽から新野まで、3百数十里があり、4日以上かかる。この数日以内に、荊州の各郡に号令して、曹操を防ぐ体制を築けたかも。もし敵わずに(劉備が)襄陽を失っても、荊州はもとより劉氏(劉表)の領土だから、すべては曹操のものにならなかったはず。赤壁の後、史実のように、孫権から借りた・借りないの争いをする必要もなかった。
ぼくは思う。曹操軍は人数が多いから、軍の所在は、複数の城にまたがるはず。曹操その人の居場所と、記述の見分けがつかず、混乱する。


乃駐馬、呼琮。琮、懼不能起。琮左右及荊州人、多歸先主。
典略曰。備過辭表墓、遂涕泣而去。

(劉備は襄陽に至ると)馬をとめ、劉琮を呼ぶ。劉琮は懼れて起てず。劉琮の左右および荊州のひとは、多くが劉備に帰した。

銭振鍠はいう。人の情とは、どうにもならないもの。郷里を捨てたくない。まして劉備は、逃げるところで、生命の保障はない。すでに劉琮は降り、残っても死ぬとは限らない。荊州の民は、曹操が徐州で虐殺をしたから、劉備に従ったのだ。そうでなければ、劉備に従う理由がない。

『典略』はいう。劉備は劉表の墓によって別れを告げ、涕泣して去った。

盧弼はいう。劉表の墓は、襄陽の城東にある。『魏志』劉表伝の注にある。劉備は、軍中にあっても、故人の恩を忘れず、ゆえに人心を得た。


比到當陽、衆十餘萬、輜重數千兩、日行十餘里。別遣關羽乘船數百艘、使會江陵。或謂先主曰「宜速行、保江陵。今雖擁大衆、被甲者少。若曹公兵至、何以拒之」先主曰「夫、濟大事必以人爲本。今人歸吾、吾何忍棄去!」

当陽に至るころ、衆は10余万、輜重は数千両で、日に行くこと10余里のみ。別に関羽を船数百艘にのせ、江陵で合流させる。ある人が劉備に「速く行き、江陵を確保して守れ。いま人数は多いが、武装する者は少ない。もし曹操の兵が至れば、防げない」と。劉備「大事をなす根本は、ひとである。私に帰したひとを棄て去るのは、忍びず」と。

曹公、以江陵有軍實、恐先主據之。乃釋輜重、輕軍到襄陽。聞先主已過、曹公將精騎五千急追之、一日一夜行三百餘里、及於當陽之長坂。先主、棄妻子、與諸葛亮張飛趙雲等數十騎走。曹公大獲其人衆輜重。先主、斜趨漢津、適與羽船會、得濟沔。遇表長子江夏太守琦、衆萬餘人、與俱到夏口。先主遣諸葛亮、自結於孫權。

曹公は、江陵に軍実(糧儲・器械の類)があるから、劉備がここに拠るのを恐れた。輜重を釈き、軽軍にて襄陽に至った。

このように曹操が劉備に追いつくのに、ちょっと時間が掛かったことから、劉備は樊城で、曹操が宛県に至ったことを知り、行動を開始したと考えようか(樊城で、劉琮の降伏を聞いたのだと遅くなる)。

劉備がすでに襄陽を過ぎたと聞き、曹操は精騎5千で急追し、1日1夜に行くこと3百余里。當陽の長坂で追いついた。

曹仁伝に、「曹純は劉備を長阪に追い、2女と輜重を得て、その散卒を収めた」とある。文聘伝に「曹純とともに劉備を長安に追い討つ」とある。

劉備は、妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎とともに逃げた。曹操は、おおいに人衆・輜重を獲た。劉備は、斜に漢津に趨り、たまたま関羽の船と会い、沔水(漢水)を渡れた。江夏太守の劉琦と遇い、衆万余人となり、ともに夏口に至る。先主は諸葛亮を遣わし、自ら孫權と結ぶ。

江表傳曰。孫權遣魯肅弔劉表二子、幷令與備相結。肅未至而曹公已濟漢津。肅故進前、與備相遇於當陽。因宣權旨、論天下事勢、致殷勤之意。且問備曰「豫州今欲何至?」備曰「與蒼梧太守(吳臣)[吳巨]有舊、欲往投之。」肅曰「孫討虜聰明仁惠、敬賢禮士、江表英豪、咸歸附之、已據有六郡、兵精糧多、足以立事。今爲君計、莫若遣腹心使自結於東、崇連和之好、共濟世業、而云欲投(吳臣)[吳巨]、(臣)[巨]是凡人、偏在遠郡、行將爲人所併、豈足託乎?」備大喜、進住鄂縣、卽遣諸葛亮隨肅詣孫權、結同盟誓。

『江表伝』はいう。孫権は、魯粛を遣わし、劉表の2子を弔わせ、劉備と結ぶことも命じた。魯粛はいまだ(襄陽に)至る前に、曹操が漢津を渡る。ことさらに魯粛は進み、劉備と当陽で会った。

孫権が「劉表の死を知る」のが、とても早い。曹操の接近も、知っていたと見るべきか。劉備よりも先に知るということがあり得るか。孫権は、荊州の北部にまで、斥候もしくは協力者がいたのか。劉表と孫権は、対立国だから、通知の使者がくるとは思えない。劉琮の降伏は、当初は極秘の交渉だろうから、知らないか。孫権の意図を推測するなら、「劉表のもとの最有力者・劉備と結び、劉表なき荊州に、呉から影響力を持ちたい」となるか。この時点で、孫権は、曹操と敵対する意思がないはずだから、魯粛に何をさせたかったのか。謎が謎を呼ぶ……。
呉が初めから建国の意思があったかのように潤色する、『江表伝』の特色が表れたか。ともあれ、このあたりの孫権の情報収集・分析が、存亡のカギになる。

孫権の意思を伝え、天下の事勢を論じ、殷勤の意を致す。魯粛は劉備に問う。「豫州はどこいくの」と。劉備「蒼梧太守の呉巨は旧知だから、そこへ」と。魯粛「孫討虜 聡明にして仁恵なり、賢を敬ひ士を礼し、江表の英豪、みな帰付す。すでに六郡に拠り、

会稽・丹陽・豫章・廬陵・呉郡・廬江。孫策伝に。

兵は精にして糧は多し、以て事を立つるに足る。今 君の計がため、腹心を遣はし、自ら東と結ばしむるに若くは莫し。連和の好を崇び、共に世業を済せ。しかるに呉巨に投ぜんと欲すと云ふ。呉巨これ凡人、偏に遠郡に在り、行けども将に人のために併せられんとす。豈に託するに足るや」と。
劉備はおおいに喜び、進みて鄂県(江夏郡、のちの武昌)に住まる。即ち諸葛亮を遣はし魯粛に随ひて孫權に詣り、盟誓を結同す。

權、遣周瑜程普等、水軍數萬、與先主幷力、
江表傳曰。備從魯肅計、進住鄂縣之樊口。諸葛亮詣吳未還、備聞曹公軍下、恐懼、日遣邏吏於水次候望權軍。吏望見瑜船、馳往白備、備曰「何以知(之)非青徐軍邪?」吏對曰「以船知之。」備遣人慰勞之。瑜曰「有軍任、不可得委署、儻能屈威、誠副其所望。」備謂關羽、張飛曰「彼欲致我、我今自結託於東而不往、非同盟之意也。」乃乘單舸往見瑜、問曰「今拒曹公、深爲得計。戰卒有幾?」瑜曰「三萬人。」備曰「恨少。」瑜曰「此自足用、豫州但觀瑜破之。」備欲呼魯肅等共會語、瑜曰「受命不得妄委署、若欲見子敬、可別過之。又孔明已俱來、不過三兩日到也。」備雖深愧異瑜、而心未許之能必破北軍也、故差池在後、將二千人與羽、飛俱、未肯係瑜、蓋爲進退之計也。

孫権は周瑜・程普を遣わし、水軍は数万。劉備と力をあわす。
『江表伝』はいう。劉備は魯粛の計に従い、鄂県の樊口に進み、軍を止めた。諸葛亮が呉(柴桑)から帰らぬのに、曹操軍が来たと聞いて、劉備は恐懼した。毎日、邏吏を遣わし、呉兵が到着したか見回らせた。邏吏は周瑜の船を望見し、劉備に報告した。劉備「どうして青州・徐州の軍でないと分かるか」と。邏吏「船を見たら分かります」

なんで? 劉備は、呉をチェックしているから、呉の側の人間を使うとは思えない。「周」の旗でも付いていたのか。もと劉表の臣で、周瑜軍と戦ったことがあったか。呉は船の形が違うのか。

劉備は、ひとをやって周瑜を慰労した。周瑜「軍任にあり、持ち場を離れられない。もし自ら(劉備が周瑜の)威に屈して会いに来るなら、望みを叶えてやろう」と。劉備は関羽・張飛に「周瑜は私を呼びつけた。孫権とは結びたいのに、私が周瑜に会いに行かねば、同盟の意思がないと見なされる」と。

裴注で孫盛が言うように、呉を持ちあげすぎた史料。しかし、一面の真理ではないか。劉備は、単独で曹操と戦える兵を持たない。孫権に受け入れてもらえねば、死ぬしかない。江陵に入り損ね、魯粛に導かれ、東の孫権のほうに近づいた。諸葛亮を孫権に遣わした。

単舸に乗って、周瑜に会いにゆき、問う。「曹操を防ぐには、見通しが必要。戦卒はどれほど」。周瑜「3万」、劉備「少なくないかね」、周瑜「これで充分。劉備は、私が曹操を破るのを見てろ」と。
劉備は、魯粛を呼んで語りたがる。周瑜「命令を受けたら、みだりに持ち場を離れられない。もし魯粛に会いたければ、あなたが行け。すでに孔明はこちらに向かった。3日もせず着く」と。劉備は深く周瑜に愧じつつ異としたが、心はまだ曹操に勝てる気がせず、ゆえに池を差(たが)へて後方に下がり、

周瑜の水軍と、劉琦の水軍の船を浮かべる場所を、引き離したということか。

2千人をひきい、関羽・張飛とともにおり、周瑜を頼ることを許さない。けだし進退の計(日和見の決めこみ)をした。

與曹公戰於赤壁、大破之、焚其舟船。先主與吳軍水陸並進、追到南郡。時又疾疫、北軍多死、曹公引歸。先主表琦、爲荊州刺史、又南征四郡。
江表傳曰。周瑜爲南郡太守、分南岸地以給備。備別立營於油江口、改名爲公安。劉表吏士見從北軍、多叛來投備。備以瑜所給地少、不足以安民、(後)[復]從權借荊州數郡。

曹操と赤壁で戦い、おおいに破り、舟船を焚いた。劉備は、呉軍とともに水陸を並進し、追って南郡(江陵)に至る。ときに疾疫があり、北軍は多く死し、曹公は引き帰る。先主は上表し、劉琦を荊州刺史とし、南のかた4郡を征した。160903

巻三十四 甘皇后伝

先主甘皇后、沛人也。先主臨豫州、住小沛、納以爲妄。先主數喪嫡室、常攝內事。隨先主於荊州、產後主。值曹公軍至、追及先主、於當陽長阪。于時困偪、棄后及後主、賴趙雲保護、得免於難。后卒、葬于南郡。

先主の甘皇后は、沛のひと。先主が豫州に臨み、小沛に住まると、納れて妾とした。先主は、しばしば嫡室を喪ひ、常に内事を摂る。

康発祥はいう。劉備は、海西を転戦し、小沛を守ったころ、妻子が呂布・高順に捕らわれた。妻が何氏なのか、史書は記さない。

甘氏は劉備に従い、荊州にきて、劉禅を産んだ。曹操軍がきて、当陽の長阪で追いつかれた。劉備は、甘氏と劉禅を棄てた。趙雲の保護を頼り、逃げられた。卒して南郡に葬られた。

巻三十五 諸葛亮伝

劉表長子琦、亦深器亮。表、受後妻之言、愛少子琮、不悅於琦。琦、每欲與亮謀自安之術、亮輒拒塞未與處畫。琦乃將亮、游觀後園、共上高樓、飲宴之間、令人去梯、因謂亮曰「今日、上不至天、下不至地。言、出子口、入於吾耳。可以言未?」亮答曰「君不見、申生在內而危、重耳在外而安乎?」琦意感悟、陰規出計。

劉琦も、諸葛亮を深く器とした。劉琦は、諸葛亮と自安の術を謀りたいが、

蔡諷の長女は、黄承彦の妻となる。蔡諷の小女は、劉表の後婦となる。黄承彦の娘は、諸葛亮の妻となる。
ぼくは思う。劉琦は、諸葛亮が賢者だから相談しただけでなく、蔡夫人・劉琮に姻戚関係がある人として、知恵だけでなく、現実的な配慮を引き出せないか、もしくは蔡氏・黄氏の人脈の一部を切り崩し、派閥を形成できないか模索して、諸葛亮に話し掛けたのかも。諸葛亮は、知恵を出し惜しみしたのでなく、姻戚関係から、政争に巻きこまれることを恐れて、劉琦の相談に乗らなかった。

諸葛亮は拒塞した。劉琦は諸葛亮をつれて後園を游観し、共に高楼に上り、飲宴してるとき、人に梯を去らせ、亮にいう。

『元和志』はいう。劉琦台がある。『一統志』によると、襄陽県の東にある。盧弼はいう。諸葛亮伝では「高楼」とあり「台」でない。後世のこじつけである。

「今日、上は天に至らず、下は地に至らず。言は、子の口を出で、吾の耳に入る。以て言ふ可し、未だしや」と。諸葛亮は答えた。「君 見ずや、申生 内に在りて危ふく、重耳 外に在りて安たるを」と。琦の意 感悟し、陰かに出づるの計を規る。

胡三省はいう。申生は、晋献公の太子であり、驪姫に嫌われ、自殺した。重耳は申生の弟で、驪姫に嫌われ、出奔した。献公の没後、重耳は帰国して文公となり、覇となった。
ぼくは思う。元凶の驪姫が、蔡夫人に宛がわれている。諸葛亮の分析では、劉表・劉琮・蔡瑁が元凶ではなく、女性が元凶である。


會黃祖死、得出、遂爲江夏太守。俄而表卒、琮聞曹公來征、遣使請降。先主、在樊聞之、率其衆南行。亮與徐庶並從、爲曹公所追破、獲庶母。庶、辭先主而指其心曰「本欲與將軍共圖王霸之業者、以此方寸之地也。今已失老母、方寸亂矣、無益於事。請、從此別」遂詣曹公。

ちょうど黄祖が死に、劉琦は出られ、ついに江夏太守となる。にわかに劉表が卒し、

江夏への赴任と、劉表の病気の深刻化と、劉琦が襄陽に帰還したが父に会わせてもらえないのと、仕方なく劉琮が江夏に帰任するのと、劉表が死ぬことの、前後関係が分からない。「にわかに」だから、短期間にバタバタと起きたか。

劉琮は曹操が来たと聞き、使者を遣って降伏を請う。劉備は樊城でこれを聞き、

劉備が聞いた内容は、曹操の接近だけでなく、劉琮の降伏まで、という記述になってる。現実として、移動時間がタイムラグを生むから、前後の確定が難しかろう。

衆を率いて南行した。諸葛亮と徐庶も従ったが、曹操に追いつかれて破れ、徐庶の母が捕らわれた。徐庶は劉備に辞して胸を指さし、「本より将軍と共に王覇の業を図らんと欲するは、この方寸の地を以てなり。いま已に老母を失ひ、方寸 乱れ、事に益するなし。請ふ、ここより別れんことを」と。ついに曹操に至る。

裴注『魏略』の徐福伝は、赤壁と関係ないので、やらない。


先主至於夏口、亮曰「事急矣、請奉命求救於孫將軍」時、權擁軍在柴桑、觀望成敗。亮說權曰「海內大亂。將軍、起兵據有江東。劉豫州、亦收衆漢南、與曹操並爭天下。今操、芟夷大難、略已平矣、遂破荊州、威震四海。英雄無所用武、故豫州遁逃至此。將軍、量力而處之。若能以吳越之衆、與中國抗衡、不如早與之絕。若不能當、何不案兵束甲北面而事之。今將軍、外託服從之名、而內懷猶豫之計。事急而不斷、禍至無日矣」權曰「苟如君言、劉豫州、何不遂事之乎」亮曰「田橫、齊之壯士耳、猶守義不辱。況劉豫州、王室之冑、英才蓋世。衆士慕仰、若水之歸海。若事之不濟、此乃天也。安能復爲之下乎」

劉備は夏口に至ると、諸葛亮「事は急なり、請ふ、命を奉り孫将軍に救ひを求めんを」と。ときに孫権は、軍を擁して柴桑にあり、成敗を観望す。

『郡国志』豫章郡の柴桑で或。胡三省はいう。柴桑県は豫章郡に属し、晋は尋陽郡を江南に置いたが、柴桑県の地である。

諸葛亮は孫権に「海内は大乱す。将軍、兵を起し拠りて江東を有つ。劉豫州もまた衆を漢南に收め、曹操と天下を争う。いま曹操は大難を芟夷し、ほぼ已に平らげ、荊州を破り、威は四海を震はす。英雄 武を用ふる所なく、ゆえに豫州 遁逃してここに至る。将軍、力を量りてここに処る。もし能く呉越の衆を以て、中国と抗衡せば、早く(劉備と)ともに(曹操を)絶やすに如かず。若し当たる能はざれば、何ぞ兵を案じ甲を束ねて北面して事へざる。いま将軍、外は服従の名に託し、而るに内に猶豫の計を懐く。事は急なれども断ぜざれば、禍ひ至ること日なし」と。孫権「苟くも君の言の如くんば、劉豫州、何ぞ(曹操に)事へざる」。諸葛亮「田横は斉の壮士なるのみ。猶ほ義を守りて辱ぢず。況んや劉豫州、王室の冑、英才は世を蓋ふ。衆士 慕仰すること、水の海に帰するが若し。若し(曹操に)事へて済さざれば、これ乃ち天なり。安んぞ能く復た曹操のために下らんか」と。

權勃然曰「吾不能、舉全吳之地十萬之衆、受制於人。吾計、決矣。非劉豫州莫可以當曹操者。然、豫州新敗之後。安能抗此難乎」亮曰「豫州軍、雖敗於長阪、今戰士還者及關羽水軍精甲萬人。劉琦合江夏戰士亦不下萬人。曹操之衆、遠來疲弊。聞、追豫州、輕騎一日一夜行三百餘里。此所謂『彊弩之末、勢不能穿魯縞』者也。故、兵法忌之、曰『必蹶上將軍』且、北方之人、不習水戰。又、荊州之民附操者、偪兵勢耳、非心服也。今將軍、誠能命猛將統兵數萬、與豫州協規同力、破操軍必矣。操軍破、必北還。如此則荊吳之勢彊、鼎足之形成矣。成敗之機、在於今日」權大悅、卽遣周瑜、程普、魯肅等水軍三萬。隨亮詣先主、幷力拒曹公。曹公、敗於赤壁、引軍歸鄴。

孫権 勃然として「吾 能はず、全呉の地・十万之衆を挙げて、制を人に受くるを。吾が計、決せり。劉豫州 以て曹操に當る可からざるに非ず。然るに、豫州 新たに敗れて後す。安にか能くこの難に抗ふや」と。諸葛亮「豫州の軍、長阪に敗ると雖も、いま戦士の還るは、関羽の水軍 精甲万人なり。劉琦 江夏の戦士を合はせ、また万人を下らず。

長阪で曹操に追撃された兵は、ゼロとカウント。先主伝に、主要な将とだけ、劉備が逃げたとあったから、これは事実だろう。しかし関羽・劉琦の兵だけでも、劉備軍は充分に頼ることができる。これが諸葛亮の計算。

曹操の衆、遠来して疲弊す。聞く、豫州を追ふに、軽騎は一日一夜に三百余里を行く。いはゆる『強弩の末、勢は魯縞を穿つ能はず』と。

胡三省はいう。『漢書』韓安国伝に、「衝風之衰,不能起毛羽;彊弩之末,力不能入魯縞」とあり、顔師古注に「衝風,疾風之衝突者也」「縞,素也,曲阜之地,俗善作之,尤為輕細,故以取喻也」とある。

ゆえに兵法は之を忌み、『必蹶上将軍』と。且つ北方の人、水戦に習はず。また荊州の民のうち操に附する者は、兵勢に偪まらるのみ、心服するにあらず。いま将軍、誠に能く猛将に命じ兵数万を統べ、豫州と協規して同力し、操の軍を破ること必なり。操の軍 破れば、必ず北に還る。此の如くんば則ち荊呉の勢は強く、鼎足の形 成る。成敗の機、今日に在り」と。

胡三省はいう。「荊」は劉備で、「呉」は孫権と。ぼくは思う。このとき諸葛亮は、荊州は劉備が領有する前提で、孫権に協力を迫ったことになる。こっそり、有利な条件を潜ませてくるのが、諸葛亮である。

孫権は大いに悦び、即ち周瑜・程普・魯肅ら水軍3万を遣はす。亮に随い先主に詣り、力を并せて曹公を拒む。曹公、赤壁に敗れ、軍を引き鄴に帰る。

梁商鉅はいう。周瑜伝によると、劉備は曹操に破れ、長江を渡りたく、当陽で魯粛に会って、夏口に進んで、諸葛亮を孫権に行かせた。孫権は、周瑜・程普を遣わせた。諸葛亮伝と周瑜伝は一致する。周瑜・諸葛亮が足並みを揃えたと、史書は正しく伝える。小説家は、2人が対立して、『三国演義』は周瑜が「なんで私を生んでおきながら、諸葛亮を生んだか」と歎くが、ウソである。諸葛亮の借風もウソ。


袁子曰。張子布薦亮於孫權、亮不肯留。人問其故、曰「孫將軍可謂人主、然觀其度、能賢亮而不能盡亮、吾是以不留。」
臣松之以爲袁孝尼著文立論、甚重諸葛之爲人、至如此言則失之殊遠。觀亮君臣相遇、可謂希世一時、終始以分、誰能閒之?寧有中違斷金、甫懷擇主、設使權盡其量、便當翻然去就乎?葛生行己、豈其然哉!關羽爲曹公所獲、遇之甚厚、可謂能盡其用矣、猶義不背本、曾謂孔明之不若雲長乎!

『袁子』はいう。張昭は諸葛亮を孫権に薦めたが、諸葛亮は留まりたくない。ひとが理由を聞くと、諸葛亮「孫将軍は人主と言うべきだが、その度量を観るに、私を賢者と認めてくれたが、私の全力を引き出せるほどの度量はないから、留まらないのだ」と。160905

巻三十六 関羽伝

從先主就劉表。表卒、曹公定荊州、先主、自樊、將南渡江。別遣羽、乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪、先主斜趣漢津、適與羽船相值、共至夏口。孫權遣兵、佐先主拒曹公、曹公引軍退歸。

関羽は別れ、船数百艘に乗って、江陵で会す。劉備は当陽の長阪で曹操に追いつかれ、斜して漢津に趣き、たまたま関羽の船と出会い、ともに夏口にゆく。孫権は兵を遣わし、劉備を助けて曹操を拒む。

『三国志集解』には、とくに新しい情報なし。


巻三十六 張飛伝

表卒、曹公入荊州、先主奔江南。曹公追之、一日一夜、及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至、棄妻子走、使飛將二十騎、拒後。飛、據水、斷橋、瞋目橫矛曰「身、是張益德也。可來共決死!」敵皆無敢近者、故遂得免。……初、飛雄壯威猛、亞於關羽、魏謀臣程昱等咸稱、羽飛萬人之敵也。

劉備は曹操がにわかに至ると聞き、妻子を棄てて逃げた。張飛に二十騎を率い、後ろを拒ましむ。

曹純は劉備を長阪に追い、2女と輜重を得た。曹仁伝に。

張飛は川に拠り、橋を断ち、

趙一清はいう。『方輿紀要』によると、当陽県の北60里に倒流橋があり、沮水・漳水が合流して下る。ここが張飛が川に拠り、橋を断った場所である。

目を怒らせ、矛を横たえ、「わたしは張益徳である。来たりて共に死を決す可し」と。

胡三省はいう。この時代から、南朝の梁・陳まで、士大夫は自らのことを「身」という。ぼくは思う。張飛はここで、士大夫として上品な言葉を使ったのか。

敵は敢えて近づく者がなく、逃げることができた。……
張飛は雄壮にして威猛で、関羽に次ぐ。魏の謀臣の程昱らは、みな称した。「関羽・張飛は、万人の敵なり」と。160906

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『呉志』に記された赤壁の戦い

巻四十七 呉主伝

荊州牧劉表、死。魯肅、乞奉命弔表二子、且以觀變。肅未到、而曹公已臨其境、表子琮舉衆以降。劉備、欲南濟江、肅與相見。因、傳權旨、爲陳成敗。備、進住夏口、使諸葛亮詣權。權、遣周瑜程普等、行。是時、曹公新得表衆、形勢甚盛。諸議者、皆望風、畏懼、多勸權迎之。

荊州牧の劉表が死んだ。魯粛は孫権の命を奉じ、劉表の2子の弔問にゆき、荊州を変を観たい。魯粛が(襄陽に)至る前に、曹操が国境に臨み、劉琮が降る。劉備は、長江を渡りたく、魯粛と会った。魯粛が劉備に孫権の意思を伝え、成敗を述べた。劉備は進んで夏口に住まり、諸葛亮を孫権に会わせた。孫権は、周瑜・程普らを遣わす。このとき曹操は劉表の衆を得て、形勢は甚だ盛ん。諸々の議者は、みな曹操に望風して畏懼し、多くが孫権に「曹操を迎えよ」と勧めた。

『三国志集解』は情報を付加せず。


江表傳載曹公與權書曰「近者奉辭伐罪、旄麾南指、劉琮束手。今治水軍八十萬衆、方與將軍會獵於吳。」權得書以示羣臣、莫不嚮震失色。

『江表伝』は曹操が孫権に与えた文書を載せる。「近ごろ辞を奉じて罪を伐ち、旄麾 南のかた指さば、劉琮 手を束ぬ。今 水軍80万の衆を治め、方に将軍とともに呉に会猟せん」と。孫権は書を得て、以て群臣に示す。嚮震して色を失はざるなし。

80万は誇張である。諸葛恪伝に「曹操は30万衆を率い」とある。


惟瑜肅、執拒之議、意與權同。瑜普、爲左右督、各領萬人、與備俱進、遇於赤壁、大破曹公軍。公、燒其餘船、引退、士卒飢疫、死者大半。備瑜等、復追至南郡。曹公遂北還、留曹仁徐晃於江陵、使樂進守襄陽。時、甘寧、在夷陵、爲仁黨所圍。用呂蒙計、留淩統以拒仁、以其半救寧、軍以勝反。權、自率衆、圍合肥、使張昭攻九江之當塗。昭兵不利、權攻城踰月不能下。曹公、自荊州還、遣張喜將騎赴合肥。未至、權退。

ただ周瑜・魯粛のみ、曹操を拒むことを議して、孫権の意思と同じ。周瑜・程普は、左右督となり、1万人ずつを領し、劉備とともに進み、赤壁で曹操と遭遇し、大いに破った。曹操は残りの船を焼き、引き退いた。士卒は飢えて病み、大半が死す。劉備・周瑜は、追って南郡に至る。曹仁・徐晃が江陵を、楽進が襄陽を守る。……孫権は、自ら衆を率い、合肥を囲む。張昭に九江の当塗を攻めしむ。張昭の軍は勝たず、孫権は月をまたいでも下せず。曹操は、荊州から還り、張喜を合肥に向かわせる。張喜が至る前に、孫権は退いた。

蒋済伝によると、張喜は単り1千騎のみを率いて、囲みを解いた。蒋済はひそかに刺史に伝え、張喜の書を得たと偽らせ、「歩騎4万で、すでに雩婁に至った」と言わせた。孫権はこれを信じ、囲みを焼いて逃げた。合肥城は全うされた。


巻五十四 周瑜伝

十三年春、權討江夏、瑜爲前部大督。
其年九月、曹公入荊州、劉琮舉衆降。曹公得其水軍、船步兵數十萬。將士聞之、皆恐。權延見羣下、問以計策。議者咸曰「曹公豺虎也、然託名漢相、挾天子、以征四方。動以朝廷爲辭、今日拒之、事更不順。且、將軍大勢可以拒操者、長江也。今操得荊州、奄有其地。劉表治水軍、蒙衝、鬭艦、乃以千數。操悉浮以沿江、兼有步兵、水陸俱下、此、爲長江之險已與我共之矣。而勢力衆寡、又不可論。愚謂、大計不如迎之」

建安十三年春、孫権は江夏を討ち、周瑜を前部大督とした。

前部大督は、出征のとき置かれ、常制にあらず。ぼくは思う。やっと黄祖を討伐し、周瑜を常制でない官職に就けたとは、孫権が勢いを駆って、荊州に進攻する気だったことを示すか。ちょうど曹操と孫権が、建安十三年に荊州に向かった。もし、黄祖をあと1年早く滅ぼせば、孫権は荊州に攻めこんだかも知れない。

同年九月、曹操が荊州に入り、劉琮が降る。曹操は、水軍・船歩兵の数十万を得た。将士はこれを聞き、みな恐れた。孫権は群下に延見し、計策を問ふ。みは議者は「曹公は豺虎なり、然るに名を漢相に託し、天子を挾み、以て四方を征す。朝廷を動かして辞と為す。今日 拒まば、事 更めて順ならず。かつ将軍の大勢 以て操を拒む可き者は、長江なり。いま操 荊州を得て、その地を奄有す。劉表 水軍を治め、蒙衝・闘艦、乃ち以て千を数ふ。操 悉く以て江に沿ひて浮べ、兼せて歩兵を有ち、水陸 俱に下らば、これ長江の険 已に我と共にす。而るに勢力の衆寡、また論ず可からず。愚 謂へらく大計 迎ふるに如かず」

魯粛伝によると、魯粛は「衆人の議を用いるな」と孫権に言い、ときに周瑜は使命を受けて鄱陽にいたから、魯粛は周瑜を召し還すことを勧めた。


瑜曰「不然。操、雖託名漢相、其實漢賊也。將軍、以神武雄才、兼仗父兄之烈、割據江東、地方數千里。兵精足用、英雄樂業、尚當橫行天下、爲漢家除殘去穢。況、操自送死、而可迎之邪。請、爲將軍籌之。今使、北土已安、操無內憂、能曠日持久來爭疆埸、又能與我校勝負於船楫可乎。今、北土既未平安、加馬超韓遂尚在關西、爲操後患。且、舍鞍馬仗舟楫與吳越爭衡、本非中國所長。又、今盛寒馬無藁草、驅中國士衆、遠涉江湖之閒、不習水土、必生疾病。此數四者、用兵之患也、而操皆冒行之。將軍禽操、宜在今日。瑜請、得精兵三萬人、進住夏口、保爲將軍破之」

周瑜「然らず。操 名を漢相に託すと雖も、その実は漢賊なり。将軍、神武の雄才を以て、兼せて父兄の烈を仗し、江東に割拠し、地方は数千里なり。兵は精にして用ふるに足り、英雄 業を楽しみ、尚ほまさに天下に横行し、漢家のために残を除き穢を去るべし。況んや、操 自ら死に送りて、迎ふ可きや。請ふ、将軍のために籌らん。いまもし北土すでに安くば、操 内憂なし、能く日を曠め持久して疆埸に来争し、また能く我と勝負を船楫に校ぶること可なり。いま北土いまだ平安ならず、加へて馬超・韓遂なほ関西にあり、操の後患となる。かつ、鞍馬を舍て舟楫に仗り、呉越と争衡す。本より中国の長ずる所にあらず。いま盛寒なり、馬は藁草なし。中国の士衆を駆り、遠く江湖の間を渉るも、水土に習はず、必ず疾病を生ぜん。この4を数ふるは、用兵の患なり。しかるに操 みな冒し行ふ。将軍 操を禽ふるは、宜しく今日にあるべし。瑜 請ふ、精兵の3万人を得て、進みて夏口に住まり、保ちて将軍のために破らん」と。

李安渓はいう。完璧な計策で、諸葛亮が孫権に言ったことと同じ。智謀の士が言うことは、だいたい同じだ。盧弼はいう。周瑜は江淮に生まれ、険要を暗記しており、水戦の経験が豊富である。横江・当利ののち、戦って勝たないことはなく、敵情を知り尽くして、曹操を破った。
ぼくは思う。諸葛亮と周瑜の言い分が一致するのは、赤壁の手柄が、孫権と劉備のあいだで線引きが曖昧になったのと似ている。のちに荊州の領有権を争ったとき、孫権と劉備、周瑜と諸葛亮の手柄が、相互に主張されて、史料を混乱させたのでは。


權曰「老賊、欲廢漢自立久矣。徒忌二袁呂布劉表與孤耳。今數雄已滅、惟孤尚存。孤與老賊、勢不兩立。君言當擊、甚與孤合。此、天以君授孤也。」

孫権「老賊は、漢を廃して自ら立たたんと欲すること久し。徒だ二袁・呂布・劉表と私を忌むのみ。いま数雄すでに滅し、惟だ孤のみ尚ほ存す。孤と老賊、勢は両立せず。君 當に撃つべしと言ふ、甚だ孤と合す。これ天 君を以て孤に授くるなり」

江表傳曰。權拔刀斫前奏案曰「諸將吏敢復有言當迎操者、與此案同!」及會罷之夜、瑜請見曰「諸人徒見操書、言水步八十萬、而各恐懾、不復料其虛實、便開此議、甚無謂也。今以實校之、彼所將中國人、不過十五六萬、且軍已久疲、所得表衆、亦極七八萬耳、尚懷狐疑。夫以疲病之卒、御狐疑之衆、衆數雖多、甚未足畏。得精兵五萬、自足制之、願將軍勿慮。」

『江表伝』はいう。孫権は刀を抜き前の奏案を斫って「諸々の將吏 敢へて復た當に操を迎かふべしと言う者あらば、此の案と同じ」と。会議が終わった夜、周瑜は孫権に謁見を請う。周瑜「諸人 徒だ操の書を見て、水歩80万と言ひて、各々恐懾し、復たその虚実を料らず、便ちこの議を開き、甚だ謂ふことなし。いま実を以て校るに、彼の将ゐる所の中国人、15-16万を過ぎず、且つ軍は已に久しく疲れ、得る所の表の衆、また7-8万を極め、なほ狐疑を懐く。

胡三省はいう。新しく付き従った人は、心に狐疑を懐き、死命を尽くして力戦することはできない。

夫れ疲病の卒を以て、狐疑の衆を御す。衆数 多しと雖も、甚だ未だ畏るるに足ず。精兵5万を得れば、自ら制するに足る。願はくは将軍 慮るなかれ」

權撫背曰「公瑾、卿言至此、甚合孤心。子布、文表諸人、各顧妻子、挾持私慮、深失所望、獨卿與子敬與孤同耳、此天以卿二人贊孤也。五萬兵難卒合、已選三萬人、船糧戰具俱辦、卿與子敬、程公便在前發、孤當續發人衆、多載資糧、爲卿後援。卿能辦之者誠決、邂逅不如意、便還就孤、孤當與孟德決之。」

(江表伝つづき)孫権は周瑜の背を撫で、「公瑾、卿の言 此の至し、甚だ孤が心に合ふ。子布・文表(張昭・秦松)の諸人、各々妻子を顧み、私慮を挾持し、深く望む所を失ふ。独り卿と子敬のみ、孤と同じのみ。此れ天 卿2人を以て孤を贊くるなり。5万の兵 卒かに合はせ難きも、已に3万人を選び、船糧・戦具 俱に辦じ、卿と子敬・程公 便ち前發に在れ。孤 當に続きて人衆を發し、多く資糧を載せ、卿のために後援せん。卿 能く辦ずる者は誠に決せん、

胡三省はいう。曹操について、きちんと論じられる周瑜なら、曹操に勝てる。

邂逅 意の如くあらずんば、便ち還りて孤に就け。孤 當に孟德と決せん」と。

胡三省はいう。期せずして会うことを邂逅という。兵の勝負において、想定外のことが起きた場合には。もしも周瑜の見通しが狂って、曹操とうまく戦えないときは、帰ってきなさい。この孫権が、みずから曹操と戦うであろう、と励ましている。
『江表伝』を信じるなら、孫権は、周瑜の後方支援を約束しており、周瑜が敗れたら、自ら戦うつもりである。赤壁の戦いの決着がつく前から、孫権が合肥を攻めたとする武帝紀などと整合しない。やはり武帝紀が誤りかな。


臣松之以爲建計拒曹公、實始魯肅。于時周瑜使鄱陽、肅勸權呼瑜、瑜使鄱陽還、但與肅闇同、故能共成大勳。本傳直云、權延見羣下、問以計策、瑜擺撥衆人之議、獨言抗拒之計、了不云肅先有謀、殆爲攘肅之善也。

裴松之はいう。曹操を拒む計を、初めに立てたのは、実は魯粛である。周瑜は鄱陽におり、魯粛は孫権に周瑜を呼び戻させた。周瑜は、魯粛に同意することで、ともに大勲を成した。周瑜伝では、周瑜が衆議をさえぎって、単独で発言したようであるが、この書き方では魯粛の手柄を奪っている。

盧弼はいう。魯粛のことは魯粛伝にあるから、周瑜伝にも書けば重複する(重複を避けて省かれただけで、裴松之の批判は当たらない)。周寿昌はいう。魯粛でもまた周瑜の言葉を載せないが、周瑜の手柄を損なってはいない。


時劉備、爲曹公所破、欲引南渡江、與魯肅遇於當陽、遂共圖計。因進住夏口、遣諸葛亮詣權。權遂遣瑜及程普等、與備幷力逆曹公、遇於赤壁。時曹公軍、衆已有疾病、初一交戰、公軍敗退、引次江北。瑜等在南岸、瑜部將黃蓋曰「今、寇衆我寡、難與持久。然、觀操軍船艦首尾相接、可燒而走也」乃取蒙衝鬭艦數十艘、實以薪草、膏油灌其中、裹以帷幕、上建牙旗。先書報曹公、欺以欲降、

孫権は周瑜・程普を遣わし、劉備と力を合わせて曹操を迎撃し、赤壁で遇す。ときに曹操軍はすでに疾病があり、初めに一たび交戦し、曹操軍は敗退して、江北に引いて留まる。周瑜らは南岸にある。

赤壁の戦いは、2回やっている。前哨戦がある。話づくりに使える。

周瑜の部将の黄蓋は、「いま寇は衆く我は寡なく、ともに持久し難し。しかるに、操の軍を観るに船艦の首尾 相ひ接ぎ、焼かば走る可し」と。乃ち蒙衝・闘艦 数十艘を取り、薪草を以て実たし、膏油 その中に灌し、帷幕を以て裹ひ、上に牙旗を建つ。先に書もて曹公に報じ、欺りて以て降らんと欲すと。

江表傳載蓋書曰「蓋受孫氏厚恩、常爲將帥、見遇不薄。然顧天下事有大勢、用江東六郡山越之人、以當中國百萬之衆、衆寡不敵、海內所共見也。東方將吏、無有愚智、皆知其不可、惟周瑜、魯肅偏懷淺戇、意未解耳。今日歸命、是其實計。瑜所督領、自易摧破。交鋒之日、蓋爲前部、當因事變化、效命在近。」曹公特見行人、密問之、口敕曰「但恐汝詐耳。蓋若信實、當授爵賞、超於前後也。」

『江表伝』は黄蓋の書を載せる。「蓋 孫氏の厚恩を受け、常に將帥として、遇せらるること薄からず。然るに天下の事 大勢あるを顧みるに、江東の六郡・山越の人を用て、以て中国 百萬の衆に當らば、衆寡 敵せざるは、海内 共に見る所なり。東方の将吏、愚智となく、みなその不可を知り、惟だ周瑜・魯粛のみ偏へに浅戇を懐き、意 未だ解かざるのみ。今日 命に帰すは、これその実の計なり。瑜の督領する所、自ら摧破し易し。交鋒の日、蓋 前部となり、當に事に因りて変化し、效命して近くに在らん」と。曹公 特に行人を見て、密かに問ひ、口に敕して曰く、「但だ汝の詐を恐るのみ。蓋 若し信実なれば、當に爵賞を授くること、前後を超ゆ」と。

趙一清はいう。『太平御覧』巻七百七十一 所引『英雄記』によると、曹操は江上に至って赤壁から渡江したいが、船がない。竹[竹牌]をつくり、部曲を乗せた。漢水より下り、大江に出て、浦口に注ぐ。渉る前に、周瑜は夜にひそかに軽船・走舸の百艘をうごかし、船には50人の漕手がおり、松明を持ち、火を持つ者は数千。竹[竹牌]に放火して、逃げ去った。たちまち燃えて、曹操は夜ににげた。


又豫備走舸、各繫大船後、因引、次俱前。曹公軍吏士皆延頸觀望、指言、蓋降。蓋、放諸船、同時發火。時風盛猛、悉延燒岸上營落。頃之、煙炎張天、人馬燒溺死者甚衆、軍遂敗退、還保南郡。

また予め走舸を備え、それぞれ大船の後ろに繋ぎ、引っ張って、ともに前進させた。曹操軍の吏士は、みな頸を延ばして観望し、指さして「黄蓋が降る」と言った。黄蓋は、諸船をはなち、同時に發火させた。時に風は盛猛で、悉く岸上の営落に延焼した。しばらくして、煙炎は天を張り、人馬の焼溺した死者は甚だ衆く、軍は遂に敗退し、還りて南郡に保す。

江表傳曰。至戰日、蓋先取輕利艦十舫、載燥荻枯柴積其中、灌以魚膏、赤幔覆之、建旌旗龍幡於艦上。時東南風急、因以十艦最著前、中江舉帆、蓋舉火白諸校、使衆兵齊聲大叫曰「降焉!」操軍人皆出營立觀。去北軍二里餘、同時發火、火烈風猛、往船如箭、飛埃絕爛、燒盡北船、延及岸邊營柴。瑜等率輕銳尋繼其後、雷鼓大進、北軍大壞、曹公退走。

黄蓋は衆兵に「降る」と叫ばせた。曹操軍は、みな営を出て見た。北軍から2里余のところで、同時に発火した。火がはげしく風がつよく、船は矢のごとくつっこみ、北船を焼き尽くして、岸辺の軍営にも延焼した。周瑜は軽鋭をひきいて後に続き、雷鼓して大進し、曹操軍は大いに壊し、曹操は敗走した。

備與瑜等復共追。曹公留曹仁等守江陵城、徑自北歸。瑜與程普、又進南郡、與仁相對、各隔大江。兵未交鋒、
吳錄曰。備謂瑜云「仁守江陵城、城中糧多、足爲疾害。使張益德將千人隨卿、卿分二千人追我、相爲從夏水入截仁後、仁聞吾入必走。」瑜以二千人益之。

劉備と周瑜は、ともに曹操を追う。曹操は曹仁を江陵に留め、北に帰った。周瑜と程普は、南郡に進み、曹仁と相対して、大江(長江)を隔てた。開戦の前に、

趙一清はいう。『方輿紀要』によると、大江は荊州府の西南7里、四川の夔府の巫山県から流入して府の境界となり、巴東・帰州・夷陵・宜都・枝江の県境を経て、、

『呉録』はいう。劉備は周瑜にいう。「曹仁は江陵を守る。城内に糧秣が多く、充分な脅威となる。張飛に1千人をひきいさせ、周瑜に随わせる。周瑜は2千人を分けて、私のあとに続かせろ。夏水から入って曹仁の後ろを断て。曹仁は私が来たと聞けば、必ず逃げるだろう」と。周瑜は劉備に2千を増やした。

瑜卽遣甘寧、前、據夷陵。仁、分兵騎、別攻、圍寧。寧、告急於瑜。瑜、用呂蒙計、留淩統以守其後、身與蒙、上救寧。寧圍既解、乃渡屯北岸、克期大戰。瑜、親跨馬擽陳、會流矢中右脅、瘡甚、便還。後、仁聞瑜臥未起、勒兵、就陳。瑜、乃自興、案行軍營、激揚吏士。仁、由是遂退。

周瑜は甘寧に、夷陵に拠らせた。曹仁は兵騎を分け、甘寧を囲む。周瑜は呂蒙の計を用い、呂蒙を留めて後ろを守らせ、みずから呂蒙とともに甘寧を救った。甘寧の囲みが解けると、北岸に渡って屯して、大戦を待つ。周瑜は馬にまたがって陣をまわると、流矢が右肘にあたり、傷がひどい。曹仁は、周瑜が起きられないと聞いて、戦いを挑んだ。周瑜は起きて、軍営で吏士を激励した。曹仁は撤退した。160906

『三国志集解』は、とくに情報を加えない。


巻五十四 魯粛伝

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