雑感 > イフ物語の計画;もしも曹操が戦死したら

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物語の全体の骨格(未確定)

「魯粛を活躍させるために、曹操に退場してもらうイフ物語」をやりたいと考えています。ツイッターの意見を見て、修正を加えまして、「もしも211年に曹操が死んだら」というのが、暫定の案です。

物語の全体の骨格(未確定)

際限なくやっても仕方がないので、終わりを区切ります。劉備が死ぬのが223年、曹丕が死ぬのが226年です。三国の流動化が進み、遅くとも、これくらいの時期までには決着をつけたい。
もしくは、諸葛亮・献帝が死ぬ、234年か。これは長すぎる。

魯粛は217年に死ぬが、イフ設定によってストレスが軽減され(そうなってもらわねば、困る)、あと数年は生きられることにしよう。


#曹操戦死208に頂戴した、@sweets_street さんの体系的な考察ですら、イフの開始直後は想定できるものの、「後は想像がつきません。終わり」となって終わります。本格的にシミュレーションをして、歴史にたいして真剣な態度をとると、「想像がつきません」に行きつきます。
しかしぼくは、「話として読み、すかっとして本を閉じられる」ものを作るという、真摯なシミュレーションとは異なる動機があるので、物語を終わらせることができます。というか、終わらせなければなりません。

漠然と考えているのは、曹氏の政権は、曹操を失ったダメージを吸収しようとするが、カリスマの不在による失点を取り返せず、曹丕・曹彰あたりが後嗣となり(個人的な仲の良し悪しよりも、イフで設定した政権の構造によって、ふたりの関係は決まってしまうだろう)ながら、衰退する。
劉備は、史実よりも大幅に力を得る。恐らくですが、劉備が最終的に勝利する。
少なくとも軍事的には、紆余曲折の結果、中原を征圧するのでしょう。劉備が、諸葛亮の北伐のようなことをやり(経路は未定)、曹氏の命運をにぎった曹彰と戦う、、という案を読みましたが、ぼくもそういうのが良いです。
ただし劉備は、無条件の勝利ではない。党錮から始まった、後漢末のギクシャクを、史実の魏晋とは違ったかたちで解決しなければならない。
まず、献帝の扱いに困る。めちゃめちゃ困る。政治的・思想的な葛藤を、どうにかして対処する必要がある。

劉備は、孫権の扱いについて、史実の曹操以上に悩むだろう。孫権は劉備にとって、問答無用の敵対勢力ではない。劉備が口走った、「もしも涼州を得たら、荊州を返すよ」という魯粛との約束が、実現してしまい、史実にない魯粛との再交渉が行われる。ちがった形で緊張関係が生まれる。
益州・涼州を得て、曹氏の討伐をリアルに狙えるようになった劉備は、なりふり構わず、利益だけを奪いにいく傭兵集団として振る舞っていてはならない。組織が、つぎのフェーズに進む。いわば、「体制側」になるので、「孫権を生かさず殺さず、曹氏を片づける」ことを考えざるを得なくなる。劉備は、史実よりも強くなったゆえに、孫権との外交が複雑になる。
孫権は、曹氏と結ぶことに、全然 抵抗がない。劉備にとって、孫権を敵に回すのは危険。魯粛というコマを、劉備の側でも有効活用して、操りたい。しかし、一筋縄ではゆかず、、禿げそうになる。がんばれ、諸葛亮!

「天下を統一した劉備が、献帝と高貴な仲間たちによって抹殺される」というのを、チラッと考えましたが、バッド・エンドはいけません。
劉備が、すねがキズだらけになりながら、軍事的には勝利する。というのは、うっすら決めておきたいと思います。

魯粛を活躍させたいイフで、劉備を勝たせて良いのか、という自問自答があります。しかし魯粛がやりたかったことを、幅を広めに解釈してゆけば、魯粛にとってのハッピーエンドというものもあるはず。
いちばん大切なところが、未定だな……。

では、イフに分岐する前の史実を確認して、ネタをひろっておきます。本編の前の伏線になるものです。当初の想定から変えて、曹操は208年に死なないことにしましたが、やはり物語は208年から始まる。150523

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イフの伏線としての史実(~211年)

208年、丞相を置き、赤壁で戦う

「#曹操戦死208」によって、曹操政権の状況を、よく理解することができたと思います。イフに分岐する前に、天下がどういう条件になっているのか確認して、足場を固めてから、独自の設定に突入したい。

『通鑑』の該当する年代の記事を見ながら、出来事をだいたい押さえておきます。


正月、司徒の趙温が曹丕を辟したところ、曹操に「選挙が不実だ」と叱られて免じられる。その年のうちに死ぬ。三公制度の廃止、丞相制 復活の布石であるが、曹操の横暴ネタであり、のちの曹操の死後、漢臣が丞相制度を攻撃する伏線となりそう。歴史が回帰する。

稀薄の士 【趙温】(昔の三国与太噺) で趙温が紹介されてます。
もしも曹操が211年に死ねば、副丞相(へんな官職!)の曹丕が、くり上がって丞相になるだろう。しかし漢臣は、何らかの難癖をつけて、三公の制度に戻すだろう。李傕・郭汜のころ、六公が並存したが、漢臣が諸方面の群雄をテダマにとるなら、三公クラスの官職を濫発するはず。そのためにも丞相制度は、まず攻撃を受ける。
‏@Golden_hamster さんはいう。副丞相は死亡時にそのままくりあがることとイコールじゃないでしょうね。主たる丞相が死ねば、理屈では皇帝に後継をどうするか(そもそも後継を置くか)の決定権があるので、おっしゃるように公が乱立しそうですね。
ぼくはいう。曹氏政権は自動的にくりあがることを期待・主張し、詔のないまま曹丕に官印を継承、朝廷に事後承諾を要請(史実で曹操が死んだときに陳矯がやった手です)。これはルール違反だと分かった上で、曹氏に権力を留めるために、ヨコグルマを押した手。しかし史実と異なり、朝廷から反対を受け、ヨコグルマが裏目にでて、曹丕はスタートから転ぶ。軍功ある曹彰の存在感が増し…とか考えます。
@Golden_hamster さんはいう。この時の曹丕は許にいたということでいいんでしょうか。だとすると、逆に朝廷をなんとか抑えた曹丕に対して曹彰が一部の支持を得て反旗を翻す展開かもしれないですね。冀州争奪戦のようになると、関中や荊・揚どころではなくなり、魯粛の本来の計画が実行できるようになるかも。
ぼくはいう。文帝紀・曹彰伝を見ても当時の彼らの居場所がすぐに分かりませんが(他の列伝にヒントがあるかも)ご都合主義で配置して、許の曹丕vs鄴の曹彰という対立は楽しそうですね。孤立して涙目になりながら関中・揚州・荊州を死守する敏腕の地方官と、袁氏を再現する曹氏。
@Golden_hamster さんはいう。その場合、孤立状態の(本来)曹氏側の地方官たちはどこまで耐えられることか怪しい気がしますね。関中は馬超側が勝つことになるわけですから完全に排除されるでしょうし。
ぼくはいう。まぐれで馬超が曹操を殺しても、馬超・韓遂の対立は根深く、諸将はバラバラ。張既がいるし、あの鍾繇さまが、想定外に畜生な計略を使うでしょう。曹氏は史実より圧倒的に不利ですが、「完全に排除」までゆきません。潼関は、曹操が攻めこんだ戦いですので、馬超らが勝ち取るものは不確定で、利害の調整も、事前に調整できてません。後漢末(霊帝末)以来の混乱を続け、劉備の介入を待つ…くらいに思います。
@Golden_hamster さんはいう。そのように考えるなら、多少の前後はあっても劉備が劉璋を下して蜀を手中にするのは変らなくなりそうですね。そうなると、孫権は魯粛の差配で荊州北部と徐州方面への進出を試みるか。
ぼくは思う。成都を陥落させるために、馬超というカードを切れないです。これは、成都の包囲が長期化する恐れがあります。魯粛が介入する余地が出てくるかも。


孫権が黄祖を殺す。黄祖との戦いで活躍する甘寧は、「今漢祚日微、曹操弥憍、終為簒盜、……一破祖軍、鼓行而西、西據楚關、大勢彌廣、卽可漸規巴蜀(甘寧伝)」という、西進して益州まで手に入れる戦略の持ち主。
もしも史実よりも、曹氏の圧力が減れば、甘寧を主導者として、西進するだろう。208年の曹操の南下というジャマがなかった場合の、孫呉の西進のプランがどのようであったか、イメージしたい。211年以降、呉の動きに影響するだろう。 呂蒙・董襲・凌統らが荊州につっこむ。

6月、曹操が三公制度をやめて、丞相・御史大夫をおく。曹操が丞相となる。丞相府のメンバーを、各列伝からひろって、『通鑑』が整理してある。曹操(亡き後の)政権のうち、まずは副丞相の曹丕を擁護する(すべき)なのは、彼らである。
崔琰・毛玠・司馬朗・司馬懿・盧毓である。

操以冀州別駕従事崔琰為丞相西曹掾、司空東曹掾陳留毛玠為丞相東曹掾、元城令河內司馬朗為主簿、弟懿為文學掾、冀州主簿盧毓為法曹議令史。毓、植之子也。琰、玠並典選舉、其所舉用皆清正之士、雖於時有盛名而行不由本者、終莫得進。

崔琰は、司馬朗に「司馬懿のほうが優れてる」といったように、失礼なことを言えるほど親しい。人脈のネットワークとして緊密。史実の崔琰は216年、曹操に殺されるが、イフの崔琰は延命できる人物。史実の217年、司馬朗が病死したあとの司馬懿を、良くも悪くも導きそう。
いま『通鑑』を見て思うけど、冀州府から連れてきたひとと、司空府から連れてきたひとが重要そうだ。

ときに張遼は、「時荊州未定、復遣遼屯長社。臨發、軍中有謀反者、夜驚亂起火一軍盡擾(張遼伝)」という事件をうまく収集する。すぐ後に、曹操が張遼を合肥に配備して、孫権の進行を止める伏線は、ここにある。
べつに、「遼来来」で、いきなり軍官としての頭角を現したのではなく、敵国から見ても、「張遼はよさげな人材」と気づく要素がある。

#曹操戦死208 では見落とされていた観点です。

むしろ妄想するなら、荊州の南下直前に謀反があったなら、劉備との関わりが疑わしい。劉備が、「張遼、いまいましい」と気づくことができる。もし曹氏政権がくずれても、劉備は張遼を欲しがるかも。呂布時代に知りあっていても、おかしくない。

赤壁に向かう直前、曹操軍の武将の動きとして、巻23 趙𠑊伝に、「入爲司空掾屬主簿。時、于禁屯潁陰、樂進屯陽翟、張遼屯長社、諸將任氣、多共不協。使儼幷參三軍、每事訓喻、遂相親睦」とある。于禁・楽進・張遼が、隣接したところに駐屯し、うまく折り合わなかったと。
のちに合肥で、張遼・李典・楽進が折り合わないが、曹操が3人の連携を見通して?配置する。3人の武将の不協というのは、ひとたびでない。
このように曹操軍は、来歴がことなる武将が、寄せ集められて配置されるから、平時はイライラしているだけ。ちょっとした外圧で、みごとに連携することもあれば、やりようによっては解体できる。史実では見られなかった、「諸勢力を取りこんで大きくなった曹操軍だからこそ、機能不全に陥った」を見たい。2回も名前が出てきた、楽進・張遼が、調略によって壊れるとか。何くそ!てめえ!みたいに。

『通鑑』はここ(208年)で、涼州の話をする。

初、前将軍馬騰与鎮西将軍韓遂結為異姓兄弟、後以部曲相侵、更為仇敵。朝廷使司隸校尉鐘繇、涼州刺史韋端和解之、征騰入屯槐裡。

司隷校尉の鍾繇・涼州刺史の韋誕により、韓遂と対立した馬騰は、徴されて槐裏に入っている。馬騰が、オートマティックに曹氏の敵となるわけではない。韓遂・馬騰(馬超)の対立は、数十年来の病気みたいなものだから、211年に曹操が死んでも、外交で操作する余地があるわけです。
むしろ、韓遂・馬超を連合させたのは曹操の圧力である。曹操の圧力が弱まれば、韓遂・馬超は、新しい対立局面を迎えるだろうと。劉備がリアルに介入して、涼州の情勢をひっかきまわすだろう。史実の劉備は、「もし私が涼州を奪えたら、荊州を返すんで」という。これが現実味を帯びる。韓遂・馬超が、曹氏・劉備との関係を背景にして、血で血を洗うかも。

曹操将征荊州、使張既説騰、令釋部曲還朝、騰許之。已而更猶豫、既恐其為變、乃移諸縣促儲人待、二千石郊迎、騰不得已、發東。操表騰為衛尉、以其子超為偏将軍、統其衆、悉徙其家屬詣鄴。

巻15 張既伝によれば、張既が馬騰を説得し、馬騰を鄴県に移すことに成功している。馬騰が史実で死ぬのは、潼関の戦後にあたる212年である。つまり曹氏政権は、211年に曹操が死んだ場合、馬騰を交渉のカードに使える。馬超に対して、馬騰という人質のカードがどれくらい効果を見せるのか。馬超の畜生ぐあいの試金石である。

@Golden_hamster さんはいう。正直、その状況で人質として効果を発揮するなら、馬超は最初から蜂起しないんじゃないかって思わないでもないですね。つまり交渉のカードとしては期待できない。
ぼくは思う。曹氏や、韓遂らとの関係性が変われば、馬超の判断が変わる可能性は、ゼロじゃないと思います。むしろ、馬超の判断が変わる話をつくるのが、ぼくの役割とすら思います。がんばります。
211年の潼関は、いわば曹操に攻めこまれた、受け身の状況によって発動した戦いです。状況が変われば、動きが変わるはずです。曹操からの圧力が去ったときも、同じように馬超が軍閥を集めるのは難しいでしょうし、馬超が関中に攻めこむ意志をどこまで持っているのかも不明です。関中に領土を得ても、それで何がしたいのか。「馬騰が鄴にいる」かつ「なんとなく曹操が気にくわない」状況は、208年ごろから続いているはずで(『通鑑』は馬騰の鄴ゆきを208年に配する)、しかし馬超は起兵してませんでした。

曹操を欠いた曹氏政権を、けなげに支える張既。読みたい!

秋7月、曹操が劉表を撃つ。8月、郗慮を御史大夫にする。
名目上は2位の官職にある、郗慮というのが、曹操が魏公・魏王にあるプロセスや、伏皇后を殺すとき、朝廷の使者として立ち振る舞う。ただし、どうせ曹氏に意を受けた、ガキの使いである。この郗慮が「いやらしい使者」として存在感を発揮する。斜陽の曹氏を裏切ったり、途中で伝達の内容を改竄したり、婦女子をいじめたり。

ググると、「建安6年(201年)、郗慮は荀彧・鍾繇とともに、献帝の側について講義を行なった。孔融とは元々仲が良かったが、後にお互いの優劣を競い合うようになり、とうとう仲違いするに至った。」とある。


同じ8月、孔融が死ぬ。孔融が曹操と対立していたのは、揺るがない。これは、「曹操がいかに漢臣を圧迫していたか」、「曹操がいかに漢臣と対立していたか」を、作中でどのように位置づけるか、提示するための逸話になるべきだろう。
『通鑑』は、范書 孔融伝を料理して、あちこちに記事を散りばめる。しかし、ぼくは孔融伝をちゃんと読んだことがない。目を通しておくべきだ。
孔融と曹操との対立は、郗慮がしこんだ爆弾、、というのは、妄想しすぎだが、少なくともキャラとして、孔融・郗慮は、きちんと登場させたい。

劉表が死ぬにあたり、蔡氏・劉琮が主導権をにぎる。蒯越ら、曹操に降ることを勧めたひとは、曹氏の政権がゆらげば、故郷で、共同体の保全に努めるだろう。
劉琮だって、名目だけ?の青州刺史をやっている場合ではない。蒯越ら、劉琦が死んだのち、劉表の残党が荊州の情勢に、ふたたび絡んできて。 劉表伝に、「太祖以琮爲青州刺史、封列侯。蒯越等、侯者十五人。越爲光祿勳。嵩、大鴻臚。羲、侍中。先、尚書令。其餘多至大官。」とある。劉琮・蒯越・韓嵩・鄧羲・劉先のうち、曹操に帰して退場したひとを、呼び戻そう。
徐庶も呼び戻そう!

文聘は、江夏太守のまま残り、イフものの渦中へ。
和洽(和洽伝)、劉望之(劉廙伝)、韓暨(韓暨伝)、裴潜(裴潜伝)が、『通鑑』で名前を連ねる。

赤壁の戦後は、『通鑑』のまとめによる。

劉備、周瑜水陸並進、追操至南郡。時操軍兼以饑疫、死者太半。操乃留征南将軍曹仁、橫野将軍徐晃守江陵、折衝将軍樂進守襄陽、引軍北還。
周瑜、程普将数萬衆、与曹仁隔江未戰。
甘寧請先徑進取夷陵、往、即得其城、因入守之。益州将襲肅舉軍降、周瑜表以肅兵益橫野中郎将呂蒙。蒙盛稱:「肅有膽用、且慕化遠来、於義宜益、不宜奪也。」権善其言、還肅兵。
曹仁遣兵囲甘寧、寧困急、求救於周瑜、諸将以為兵少不足分、呂蒙謂周瑜、程普曰:「留凌公績於江陵、蒙与君行、解囲釋急、勢亦不久。蒙保公績能十日守也。」瑜従之、大破仁兵於夷陵、獲馬三百匹而還。於是将士形勢自倍。瑜乃渡江、頓北岸、与仁相距。
十二月、孫権自将囲合肥、使張昭攻九江之當塗、不克。


このたびの曹操の南下で、張松が曹操のところにゆき、ご挨拶が不首尾に終わっている。張松は劉璋に、「付き合うなら劉備がいい」と勧める。

劉璋を排除したい張松・法正が、この設定のもとでどのように動くか。これがイフ物語のおもしろさを決める。つまり、魯粛の活躍の仕方を決める。馬超・曹操の情勢が変わったときに、彼らがどのように判断するか。
張松は、「曹操は驕っておりダメ、劉備はイイ」と説明した。このインプットが、曹操が死んだ時点で、いちど白紙に戻る。曹操なきあとの曹氏政権は、どのような国なのか。益州の劉璋は、これとどのように付き合えばよいのか。この見積もりを取り直し、法正・張松から、劉璋に説明させねばならない。


賀斉さんが、丹陽で異民族を攻める。この歳、孫権が交州に交渉をもつなど、孫呉はわりと早い段階から、周辺に手を伸ばしていることを、頭に入れておきたい。

209年、合肥を防ぎ、張遼を置く

平行して曹操が死ぬときの件、ツイートで教えて頂いております。

‏@HAMLABI3594 さんはいう。王沈魏書「十六年七月太祖征關中武宣皇后從留孟津。帝居守鄴。」 藝文類聚「十六年大軍西討馬超太子留監國。植時從焉、」 藝文類聚「十六年上西征余居守老母諸弟皆從、」と、『曹丕年譜ノート』(成瀬哲生)にありました。
@Golden_hamster さんはいう。ああ、あとそれにあるとおりだとしたら曹操死亡の現地にいた曹植が現地で後継者に立てられるということも想定しておくべきだな
@HAMLABI3594 さんはいう。許の警護責任者は領丞相長史?護軍將軍?の王圖(王必?)かなと。曹丕は曹操西征中に起きた河間の反乱で黎陽營?の賈信を動かしていることから、ただの留守番ではなく実権もあったようです。
ぼくはいう。通鑑217年末に、「魏王操使丞相長史王必典兵督許中事。時關羽強盛,京兆金禕睹漢祚將移,乃與少府耿紀、司直韋晃、太醫令吉本、本子邈、邈弟穆等謀殺必,挾天子以攻魏,南引關羽為援」とあり、武帝紀の二十三年春正月の裴注らが出典です。領護軍將軍「王圖」は、曹操を魏公に推すときの署名者(武帝紀 建安十八年五月の裴注)に出てきてます。許の守備は、少なくとも217年末段階では王必で、211年には前任者(の丞相長史?)が就いてるかも知れません。王圖はどこから出てきました?
@HAMLABI3594 さんはいう。ここですね http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090921/1253524594
上記のブログ曰く、王必が領護軍将軍王図と同一人物であれば、兵を率いて許を守るにふさわしい官位も持っていたことになる。また領護軍将軍王図が、曹洪、韓浩、曹仁の次に名前が出てくるビッグネームなのにほかの所で出てこないのは、別名が王必なのであれば納得がいく。そして王必=王図=王国であれば、出身は東平であることになり、曹操お膝元出身でかなり古くからの部下だったということになる。


3月、曹操は譙で水軍を強化する。
孫権が合肥を囲むが、長史に「ムチャするな」と諌められた。
孫権が合肥を攻めるのは、208年末が初めて。Wikipediaを見て、おもな戦いを理解しておく。史料はあとで読む。

208年、張喜・蒋済が防備にあたり、蒋済が出した手紙により、孫権は撤退した。209年、曹操は合肥の軍の整備をするが、孫権とは衝突しない。
215年、前年に廬江の皖城を奪った孫権が攻めこむ。張遼・李典・楽進がふせぐ。開戦のきっかけは、「劉備との荊州統治の係争が一応の解決を見たことにより」と現時点では書いてあった。つまり、攻めこむ時期は、孫権が決めてよい。このイフものにより、孫権が合肥に進むのが、早まるか遅くなるかも含めて、考えたい。張遼らは、211年より前に合肥に配備されている。ふせぐ側の陣容は、とりあえず史実なみでよい。
というか、曹操の存命中の合肥について整理したかったのに、情報が足りない。まあ、Wikipediaに文句をいうのは筋違いですけど。


秋、七月、曹操引水軍自渦入淮、出肥水、軍合肥、開芍陂屯田。

武帝紀にもとづく『通鑑』の記述。この地方で屯田をして、がっつり経営する予定。12月、曹操は譙に帰ってゆく。留守は、張遼・楽進・李典である。

廬江人陳蘭、梅成據灊、六叛、操遣蕩寇将軍張遼討斬之;因使遼与樂進、李典等将七千餘人屯合肥。

張遼伝を圧縮して、『通鑑』が記されている。張遼が合肥に着任した、という安心感が必要。「もし曹操が208年に戦死したら」のイフでは、張遼が合肥にくることもできず、陳蘭・梅成の処理も終わっておらず、揚州方面が収拾が付かなくなった。孫権が、ホイホイと攻め上がることが可能になった。少なくとも淮南あたりは、孫権の領域になると。史実から変わりすぎて、魯粛が出てくる余地がない。失敗。

周瑜攻曹仁歲餘、所殺傷甚衆、仁委城走。権以瑜領南郡太守、屯據江陵;程普領江夏太守、治沙羨;呂范領彭澤太守;呂蒙領尋陽令。劉備表権行車騎将軍、領徐州牧。会劉琦卒、権以備領荊州牧、周瑜分南岸地以給備。
備立營於油口、改名公安。権以妹妻備。妹才捷剛猛、有諸兄風、侍婢百餘人、皆執刀侍立、備毎入、心常凜凜。

曹仁は、1年あまり周瑜と戦い、南郡(江陵)をすてた。曹仁は、潼関を攻め、蘇伯・田銀を破ってから、荊州の樊城に着任する。

曹仁伝:太祖討馬超、以仁行安西將軍、督諸將拒潼關、破超渭南。蘇伯田銀反、以仁行驍騎將軍、都督七軍討銀等、破之。復以仁行征南將軍、假節、屯樊鎭荊州。
曹操とともに潼関で勝ち、鄴県の留守を守ってたときに起きた蘇伯・田銀の乱を平定してから、たちまち勝って荊州に戻ってくる。209年に南郡(江陵)を離れたが、211年に潼関にゆき、212年に河北で田銀を撃つ。この期間、史実の荊州が、なぜ無事だったかといえば、210年に劉備が京城に呼ばれ、同年に周瑜が死に、、と、孫権・劉備の関係がモタついていたからか?
ツイッターで質問してみました。
史実で209年に周瑜が曹仁を江陵から追った後、219年に関羽が北上するまで、孫権・劉備とも、荊州北部(襄陽や樊城)を攻めません。孫権は揚州、劉備は益州で戦います。なぜ10年も空いたのでしょうか。孫権・劉備とも、長江周辺を抑えることが重要で、荊州の北部は遠くて戦略的価値がないからですか。


曹操は、和洽伝より、「太祖定荊州、辟爲丞相掾屬。時、毛玠崔琰、並以忠清幹事、其選用先尚儉節。」とあるように、毛玠・崔琰とおしゃべりしてる。彼ら丞相府のスタッフが、漢と距離を取っている、のちの魏の母胎である。

210年、ユイザイと征西将軍

春、曹操は、「唯才是舉、吾得而用之」を発する。この前提は、「自古受命及中興之君」である。
この歳に、曹操の重要な生命が発せられるが、これが遺言となり、残された人々を縛ることになる。亡き曹操の真意をさぐって、曹氏政権の行く先を占う、、という、曹操ファンのような臣下たちが苦闘する。 というか、赤壁での敗戦・撤退を、曹操がどのように認識していたか。魏公・魏王までのプランを、どの段階で、どれくらいの本気度で、どれくらいの喜びをもって取り組んでいたのか、208年~211年のあいだに、描かねばならない。

十二月、「魏武故事載公十二月己亥令(武帝紀注引)」が発せられる。まさに、曹操の遺言となる。若いころ、墓碑に「漢故征西将軍曹侯之墓」と刻めたらと思ってたなあ…、と述懐した半年後、「征西」のために命を落とす。皮肉だが、素志どおりのシンプルな人生。
いや、ハタから見たらシンプルなのかも知れないが、曹操に心理的に接近していた人物(荀攸とか?)から見ると、曹操の尻切れトンボな人生は、のちの彼を縛るには充分で。そのミステリーの謎解きのために、後半生の政治生命をムチャクチャにする。


曹操がポエムに走っているとき、周瑜は、劉備の扱いについて悩んでいる。

劉表故吏士多歸劉備、備以周瑜所給地少、不足以容其衆、乃自詣京見孫権、求都督荊州。

として、劉備が京城にきて、孫権に領土をせびる。
周瑜・呂範は、劉備を京城に留めろという。しかし孫権は、「權、以曹公在北方、當廣擥英雄。又恐、備難卒制、故不納。(周瑜伝)」と判断して、劉備を曹操にぶつけるという判断をして、劉備を公安に行かせる。

周瑜は、劉備を解放せざるを得ない一方で、じぶんが益州・涼州に進むことを希望する。孫瑜とともに進み、張魯を併合して、馬超と結びたい。

周瑜詣京見権曰:「今曹操新政、憂在腹心、未能与将軍連兵相事也。乞与奮威俱進、取蜀而並張魯、因留奮威固守其地、与馬超結援、瑜還与将軍據襄陽以蹙操、北方可図也。」権許之。

周瑜自身は襄陽にあって、曹操と戦いたい。 この、周瑜の病死によって空振りに終わる戦略は、211年の曹操の死によって、孫瑜が引き取って騒ぎ出してほしい。今回の設定で、周瑜を生き存えさせることはできないが、「周瑜の代理人」が活躍してほしい。

周瑜伝で210年、周瑜が「曹操は政治を刷新したばかりで不安定。孫瑜とともに蜀・張魯を併合して馬超と結び、私は襄陽で曹操と戦う」と言うが病死する。もしも曹操が211年に死ねば、「不安定」は拡大される。史実では大人しい孫瑜が、イフをトリガーにして、周瑜の遺志を継ぎ、益州・涼州で活躍…というのが読みたい(から書きます)
史実ではサッパリの、周瑜の遺児にも活躍してほしい。


魯粛が周瑜をつぐ。
劉備が龐統を県令にするが、あまり働かない。魯粛が、「龐統を小さな部署に就けちゃダメですよ」と注意する。

このイフでは、龐統を呉の軍師にするという、かつて反響のあった設定を膨らませるチャンス。龐統が、益州で流矢に当たらなくていい(もしくは、いつ当ててもいい)から、運命の歯車をズラし放題。


211年、曹丕を後嗣として鄴に置く

正月、曹丕を五官中郎将・副丞相にする。これにより、「#曹操戦死208」で問題となった、「後嗣を決めずに、客死する」という事態は避けられる。しかし、焼け石に水という気がしないでもない。
曹丕は鄴に留まります。

3月、曹操は、鍾繇に、張魯を撃たせる。夏侯淵を合流させる。高柔が、「韓遂・馬超を刺激するな」と諌めるが、

高柔伝:太祖欲遣鍾繇等討張魯。柔諫、以爲「今猥遣大兵、西有韓遂馬超、謂爲己舉、將相扇動作逆。宜先招集三輔。三輔苟平、漢中可傳檄而定也」繇入關、遂、超等果反。

曹操はゴリ押しする。なぜ曹操が死んだか。本来はどういう計画で、どこが誤算だったのか。それを語るためにも、高柔との議論は、きっちりやらせたい。
史実では、馬超の討伐が成功したがゆえに、分析が不要、思考が停止となる。しかし、曹操がここで命を落とすのだから、詳しい意義づけが必要。

関中の十部が集まってきます。しかし彼らは、積極的に、曹氏の統治範囲を攻めにきたのではない。曹操が攻めこんでくるから、反応する形で出てきた。
関中のなかの人間関係、強み・弱みを、きちんと描きこんでおくことが、イフを成功させるためのコツです。例えばぼくは、曹操が死んだからといって、「いきなり馬超が関中を征圧して、曹氏が放棄する」ところまで、状況は進まないと思います。
イメージ先行でいえば、「おのれ曹操!」と執念を燃やしていた馬超が、それを達成するとは、どういうことなのか。その目標の次はどうするの。など、馬超の分析をしておくべき。
周瑜・孫瑜の西進プロジェクトも、ここから起動。

命五官将丕留守鄴、以奮武将軍程昱參丕軍事、門下督廣陵徐宣為左護軍、留統諸軍、樂安國淵為居府長史、統留事。

鄴で留守を守るのは、曹丕・程昱・徐宣・国淵です。曹操が死んだとき、史実では見せ場のない程昱が、にわかに活性化するのかも知れないw

そして曹操は、7月に出撃する。8月、潼関で死ぬ。
イフへの分岐は、また機会を改めて。150523

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魯粛・周瑜・甘寧の戦略を分析

もしも曹操が潼関で死んだらというイフ物語を考えています。
これは、曹操が憎くて、つくった設定ではありません。呉蜀のひとびとが懐いた空想・戦略が、相互に干渉し合いながら、形を変えつつも、実現していく話であってほしい。その舞台装置として、曹操の死です。
みんなの空想・戦略を確認して、イフに活用できるように分析しておきます。
最終的な用途は、イフでの活用ですが(このように用途を定めておくと、思考が活性化する)、このページでは史料ベースの考察に留めます。

イフの話は、場所を変えるか、きちんと断ってから書きます。


魯粛の場合

魯粛が、どんな戦略を持ったか。どういうふうに歴史が変成すれば、魯粛が活躍して、魯粛の願望が叶えられるか。

昔、高帝區區欲尊事義帝而不獲者、以項羽爲害也。今之曹操、猶昔項羽。將軍何由、得爲桓文乎?肅竊料之、漢室不可復興、曹操不可卒除。爲將軍計、惟有鼎足江東、以觀天下之釁。規模如此、亦自無嫌。何者、北方誠多務也。因其多務、剿除黃祖、進伐劉表、竟長江所極、據而有之、然後建號帝王以圖天下、此高帝之業也(魯粛伝)

魯粛がいうには、
高帝(高祖の劉邦)は、楚義帝に仕えようと思ったが、楚義帝は項羽に殺された。曹操はこれと同じである。漢室は復興せず、曹操を排除できない。
つまり、魯粛の想定(じつは願望?)では、曹操は献帝を殺すだろう(じつは殺してほしい?)。曹操が強いのは分かったし、曹操を除けないのは分かってる。つまり、曹操が献帝を奉戴しているうちは、曹操を項羽のように敗れさせることができない。曹操が献帝を殺してくれたら(=項羽)、曹操が滅びるのに。孫権が帝業を始められるのに(=高帝)という、仮定法で語っている。
これに対して孫権は、「いやいや、献帝を助けて、漢室の中興に協力するのが、私の願望ですから。めったなこと、言うなよ」と、とぼける、、ように見えるが、必ずしもそうではない。重要なことなので、じっくり考えます。

魯粛の最大の誤算は、曹操が献帝を飼い殺したこと。

劉備の変節や入蜀など、誤算の数に入らない。直接、働きかけることができる交渉相手という時点で、充分に制御ができる。予想外の動きもカウントに入れて、戦略を組み立てることができる。

魯粛の「高帝になれ」という勧めに、孫権は「漢を輔けたいだけ」と応じる。これは、曹操が献帝を殺すまでは曹操と対立しないが、もし曹操が献帝を殺せば、オレは帝業を始めてもいいという反応。以後、孫権は、生命や立場の惜しさ?に曹氏の軍を防ぐが、なかなか帝業を始めない。矛盾がない。しかし魯粛の寿命が持たずに、魯粛が死んでしまう。
魯粛が死んだ3年後(わずか3年後!)、曹氏は献帝を殺さぬまでも、革命を強いた。歴史的な意義としては「曹氏が献帝を殺した」とも言える。だから孫権は、生命や立場を保てる状況になるのを待ち(劉備・曹丕の脅威が去るのを待ち)、帝業を始めた。やはり矛盾がない。魯粛の戦略に、孫権なりに中長期的に従ったともいえる。魯粛、報われた。
つまり、もしも曹氏が献帝を、もっと早い段階で「殺害」していれば、魯粛の思ったとおりに歴史が動くかも知れない。孫権が、生命・立場が約束された状態となれば、帝業を始めることが可能である。
史実でも、ヌエのように意味不明な孫権の行動原理ですが、魯粛をそばに置くことによって、史実から想定される人物像から逸脱することなく、描くことができる。

孫権は、生命・立場を保全したい人間である。魯粛はそれを見抜いている。赤壁の直前に、魯粛伝で魯粛がいうには、

向察衆人之議、專欲誤將軍、不足與圖大事。今、肅可迎操耳。如將軍、不可也。何以言之、今肅迎操、操當以肅還付鄉黨、品其名位、猶不失下曹從事、乘犢車、從吏卒、交游士林、累官、故、不失州郡也。將軍迎操、欲安所歸。

とあり、
魯粛は「私は下曹従事にはなれるが、孫権さんはどこに行くの?」と脅す。孫権が、生命・立場に対して、執着する人間であることは、魯粛の戦略に、とっくに織りこまれている。

だれでも生命・立場を保全したいが、孫権の場合は、その傾向が強いという意味です。戦闘で、父・兄を失っているから、当然のことかも知れない。もって生まれた性格もあるでしょう。

もしも、孫権がいうように「輔漢したい」を、ほんとうのレベルで実現するなら、ただちに揚州を曹操のために明け渡し、曹操の派遣した地方官に従うべきである。曹操が献帝を奉戴しているというのは、この時点では疑えないから。
ところが孫権は、口では輔漢といい、それはウソではない。ただし孫権自身の生命・立場が保全される場合に限る、という損得勘定の条件つきである。よくいえば現実的、わるくいえば男らしくない。

赤壁で勝ったあと、魯粛は、「願至尊、威德加乎四海、總括九州、克成帝業。更以安車輭輪、徵肅、始當顯耳」と、孫権をからかう。
魯粛についてポジティブに妄想するなら、赤壁で負けた曹操が、献帝を奉戴したまま、政権の安定を維持できないことを、見抜いていたことになる。どういう形か分からないが、

史実では、魏公・魏王になるのだが、

曹操が項羽の二の舞になることを、うっすら期待していた。べつに、赤壁に勝っただけで、孫権が帝業を成せるまで、思わなかっただろう。ほんとうにそう思っているなら、魯粛はバカである。違うと思う。
曹操の天下統一が頓挫する、曹操が献帝との関係を悪化させる、曹操が項羽になる、孫権が劉邦になる可能性がめばえる、、というドミノ式の想定なのだ。

そういうわけで、#曹操戦死211 のイフ物語では、曹氏政権が、史実よりも早い段階で、献帝をサクッと斬ってしまうことで、魯粛の戦略が、早い段階で(魯粛が死ぬ前に)実現される可能性が増える。

話を膨らますと、もし曹氏が献帝を抹殺したら、どうなるか。
史実で献帝の死後、山陽公の爵位は、献帝の孫の劉康が嗣ぐ。献帝の子は、『後漢書』伏皇后紀に殺されたと記述があるが、名が分からない(記述があれば教えて下さい)。献帝の子というのは、史実・史料が、病的に黙殺するキャラ・属性だと思う。すると、劉康が伏皇后の血を引いていれば、生き残っていないだろうし。
曹氏政権が、献帝を毒殺して、献帝の子を立てて傀儡にして、、という、ぐだぐだな展開を読みたいかも。
三国ファンがにわかに想像するように、「劉備をかつぐ」というのは、ぼくは、ものすごく可能性が低いような気がする。だったら、劉曄でいいじゃん。 というか、献帝の系統が、致命的に徳を損なうようなダメージを負わないと、ほかの血統には行かないだろう。


周瑜の場合

赤壁の直前に、周瑜は議者どもに反論する(周瑜伝)

瑜曰「不然。操、雖託名漢相、其實漢賊也。將軍、以神武雄才、兼仗父兄之烈、割據江東、地方數千里。兵精足用、英雄樂業、尚當橫行天下、爲漢家除殘去穢。況、操自送死、而可迎之邪。請、爲將軍籌之。今使、北土已安、操無內憂、能曠日持久來爭疆埸、又能與我校勝負於船楫可乎。今、北土既未平安、加馬超韓遂尚在關西、爲操後患。且、舍鞍馬仗舟楫與吳越爭衡、本非中國所長。又、今盛寒馬無藁草、驅中國士衆、遠涉江湖之閒、不習水土、必生疾病。此數四者、用兵之患也、而操皆冒行之。將軍禽操、宜在今日。瑜請、得精兵三萬人、進住夏口、保爲將軍破之」

周瑜曰く、
曹操は、漢の相ではなく、じつは漢の賊である。孫氏の軍事力をつかって、漢家のために曹操を除け。まして曹操は、みずから死にに来たのだから、迎撃して殺してやれ。
もし北土(中原)がすでに安定してしまい、曹操には内憂がなければ、われらに勝ち目はない。いま、北土は安定しない。くわえて、馬超・韓遂がいて、曹操の後患となっている。曹操を捕らえてしまおう。

三国時代が膠着してから、いまいち相互に戦果が上がらないのは、「北土が安定」してしまうからだ。周瑜の生きていた段階なら、まだ揺さぶる余地があった。この情勢に対する認識は、大切にしたい。


これを聞いた孫権は、

權曰「老賊、欲廢漢自立久矣。徒忌二袁呂布劉表與孤耳。今數雄已滅、惟孤尚存。孤與老賊、勢不兩立。君言當擊、甚與孤合。此、天以君授孤也。」

老賊の曹操は、漢家を廃して、自ら立って久しい。ただ曹操にとって、袁紹・袁術・呂布・劉表・オレがジャマだった。今日、オレしか残ってない。オレと曹操は、並び立てない。周瑜の言うとおり、曹操をやっつけたい、という。

ただし、オレの立場・生命が保全されるならば、という条件が、絶対に付いているだろう。英雄たる周瑜には、面と向かって、それを言うことができない。


やがて曹仁から江陵をうばった周瑜は、

是時、劉璋爲益州牧、外有張魯寇侵。瑜乃詣京見權日「今曹操新折衂、方憂在腹心。未能與將軍連兵相事也。乞、與奮威俱進取蜀。得蜀而幷張魯、因留奮威固守其地、好與馬超結援。瑜還、與將軍據襄陽、以蹙操、北方可圖也」權許之。瑜還江陵、爲行裝、而道於巴丘、病卒、

曹操は腹心に憂いがあり、孫権さんと戦える状況ではない。私は、孫瑜とともに進んで蜀を取りたい。張魯(漢中)を併合したい。孫瑜を益州に留めて守らせ、馬超と同盟して助けあう。私は孫権さんとともに襄陽にいて、曹操と戦って北方を図る。
というビジョンを語りました。

周瑜の戦略には、劉備が出てきません。敵対するなら、「劉備を撃って」というワンクッションが必要だが、それもない。おそらく劉備は、いち部将という扱いで、眼中にないのだ。もしくは、周瑜の願望では、劉備は京城で、美女・美食を与えて飼い殺すことになる。
いちばん重要なのは、襄陽から中原をねらうという点だろう。そこに、周瑜自身と、話しかけている孫権が配置されている。
ぎゃくにいえば、揚州はだれか別のひとが守ればよい。益州も、孫瑜である必然性がきっとない。孫権の親族だから、名前を借りているだけじゃないか。個人レベルで親交があるとか、周瑜が孫瑜の手腕を評価しているとか、何らかの条件はあるだろうが、そこがカギではない。「孫瑜がいなければ、戦略が成り立たない」ことはない。馬超との関係を維持できるなら、だれでもいい。
たとえば、劉璋が思いどおりに動くなら、劉璋を使えばいい。劉備が思いどおりに動くなら、それも可。ただし劉璋は、二十年にわたる自立の実績があるから、言いなりにならん。劉備も、野心を持っているからムリ。という、「候補に入れて、候補から外す」という思考があったはず。

「もしも」の話に移りますが、#曹操戦死211 の場合、襄陽に主力を置いて、益州方面と連携しながら中原に進むというシーンが発生してほしい。

史実では、関羽と劉備がやりそこない、孟達と諸葛亮がやりそこなった。孫権が益州を得たことがないので、呉が試みたことはない。まあ、諸葛亮と孫権の同盟によって、たびたび試みられたとも言えますが。
史実で失敗した原因は、関羽と劉備の場合は、関羽が背後を襲われたこと。孟達と諸葛亮の場合は、孟達が秒速で斬られたこと。諸葛亮と孫権の場合は、連携の不全。背後を襲われず、片方が秒速で負けず、連携が万全ならば、実現は可能だ。

イフ物語でも、きっと劉備は、史実とは違う時期に、史実とは違う制約もしくは有利さのある状況で、益州方面を担当するだろう。益州と荊州からの同時進行が、万全にいくように、魯粛が交渉をがんばる。パズルのピースが、ピタッとはまる。
まるで、周瑜が想定したように、「孫瑜・周瑜が、おなじ孫権のもとで、統制が取れた動きをする」のと同じレベルで、劉備と孫権が連携したら、壮観だと思う。魯粛にそれをやらせたい。

甘寧の場合

甘寧もまた(甘寧のくせに)戦略を語ることは有名です。
甘寧について書いたことがあります。
使い捨て!惨めな呉の老将、甘寧伝

今漢祚日微、曹操彌憍、終爲篡盜。南荊之地、山陵形便、江川流通、誠是國之西勢也。寧已觀劉表、慮既不遠、兒子又劣、非能承業傳基者也。至尊、當早規之、不可後操。圖之之計、宜先取黃祖。祖今年老、昏耄已甚、財穀並乏、左右欺弄、務於貨利、侵求吏士、吏士心怨、舟船戰具、頓廢不脩、怠於耕農、軍無法伍。至尊、今往、其破可必。一破祖軍、鼓行而西、西據楚關、大勢彌廣、卽可漸規巴蜀

甘寧曰く、
漢の命運はおとろえ、曹操はおごり、やがて簒奪するだろう。荊州は、重要な地である。黄祖を破って、劉表から荊州を奪い、巴蜀に進めと。
思うに甘寧は、曹操軍を荊州から退けるために、夷陵で戦う。荊州を重視するのは、劉表のもとにいた経歴も効いているのだろう。
しかし、「西據楚關、大勢彌廣、卽可漸規巴蜀」と口走ったことで、甘寧が戦略家だったとするのは、過大評価だと思う。

イフものでは、孫権の荊州領から積極的に進行する(西にして益州、北して襄陽)とき、甘寧が活躍する、、というかたちで反映すればいいだろう。

#曹操戦死211 イフのためのまとめ

210年のうちに、周瑜から馬超に対して、何らかのアクセスがあることにする。史実では、たんなる周瑜の期待として語られていた、「孫権と馬超の同盟」ですが、史料に準拠して膨らませられる楽しい話なので、周瑜が具体的なアクションを取っていたことにする。
というか、あの周瑜サマが、目処なしのことを、孫権にむかって提案するはずがない。という信憑性を頼りにします。

馬超は、曹操を追いかえすどころか、211年に曹操を殺すことに成功する。馬超というか、関中の諸将の動きは、べつに想像するとして。
曹氏は政権が維持できなくなり、献帝を迫害(退位を逼るか、毒殺するか未定)する。魯粛の思ったとおりに状況が生まれ、孫権が仕方なく帝業に歩み出す。中原の混乱を見たら、ここで曹氏と敵対しても、孫権の立場・生命が脅かされることはないはず、、という勘定が働いて、孫権は曹氏との対決を決める。
馬超との関係で、益州の支配圏がゴタゴタする。劉備が(史実よりも呉の介入を受けながら)益州を得る。史実とちがって、劉備の行動には、呉の意志がいくらか入りこむ。話を聞かざるを得ない、、という状況を設定する。
魯粛の交渉の腕の見せ所により、劉備・孫権が、益州・荊州から、うまく連携して中原に進み、おおいに領土を拡大する。曹氏は許県・洛陽を放棄して、河北にひっこむ。これは魯粛の交渉の賜物である、、という流れか。150524

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結末の案;劉備の献帝奉戴

150524は、結末について悩んでました。
イフ設定を進めると、
曹氏は、外は孫権と劉備の北伐、内は献帝の台頭により、ガタガタになる。しかし結末がまだ決まらない。魯粛の見せ場を作るという希望ありきで始めたが、理想的な北伐をやらせたら、続きがなくなる。あとひとつ、「見たかった」シーンを足し算したら、詳細に入れる。どうしよう。
イフものを創作するには、理解・分解・再構築の3段階が必要で、 #曹操戦死208 で、理解・分解までの知見を学べた。

この三段階は、マンガから借りていますが、まあ言葉はどうでもいいです。そういうプロセスが確実にあります。それぞれ、脳の違う部分を使います。イフものの創作でいえば、あとは、小説を書き続ける忍耐力が、4つめに必要です。

再構築は特定の個人が責任を引き取ってやるべきこと。曹操が潼関で死ぬよう設定を調整し、魯粛の手腕で、劉備が益州・孫権が荊州からうまく連携して北伐を成功させる流れは考えた。

@Rieg__Goh さんはいう。荊州を劉備が自力で切り取った場合、魯粛による荊州貸与が起こらないので、孫権の魯粛への悪感情が起こらない可能性が高まる。魯粛は鄧禹であり続けられるかもしれない。
@Rieg__Goh さんはいう。孫権が陸遜に入れ込んだ理由は、魯粛の元々の戦略を継承するブレーンになりうると見たからだと思っている。ただ、これは陸遜の後の動きから類推し、その戦略を拡大解釈しての事。陸遜がはっきり言ったわけではない。


曹氏が漢魏革命に向けて止まれなくなるのはいつか。212年、贊拜不名・入朝不趨・劍履上殿(馬超討伐の功績で)。213年、九錫・魏公(孫権に濡須で勝った功績で)。つまり曹操が潼関で死ねば、曹操は「丞相」と官職を除き、まだ後戻りできる。まだ曹氏は、数多くのなかの臣の一人に、引き返せる。
曹氏が革命に向かうのは、臣の最高位だが、天下統一に失敗して進退窮まった特殊事情のため。史実で208年に赤壁で退き、211年に漢中平定を叫べども馬超と戦って終わったとき。これ以降、領土が膠着し、曹操への特権付与が加速。もし曹操が211年に死ねば「死を惜しまれた忠臣」で追われる。
曹丕・曹彰がこの路線を継承すれば(というか、一族を存続させるなら、成否は運と実力次第ではありものの、継承するしかない)、いきなり廷臣たちの謀略を食らわされ、一夜で滅亡することはない。献帝を守るための「武器」として、使い勝手を認めてもらえる。

どんな展開になるか。
曹丕・曹彰は革命の心配をせず領土を守る。劉備・魯粛が北伐して、もと曹操軍が団結して戦う。北伐が成功。217年、魯粛は寿命により、客死。

魯粛の交渉力と、劉備の北伐が見せ場です。

劉備は長安に入り、河北に逃げた曹氏を追いつめる。その隙に孫権・呂蒙・陸遜が荊州・益州を劉備から奪う(史実で関羽を騙したように)。河北に拉致られた献帝は孫権と通じていた。……という孫権の動きを思いついた。
立場さえ守れれば満足な孫権は、献帝・楊彪にとって味方にしやすい勢力。孫権は表面上は劉備に協力して、曹氏の討伐を支援しながら、じつは劉備と曹氏がつぶしあうのを待っている。

思いついた結末

きた! #曹操戦死211 の決着を思いついた。
劉備は魯粛の手腕で、孫権と完璧に連携。洛陽と許と献帝を獲得。史実の曹操と同じ時期、公爵と王爵を得る。史実の曹丕と同じ年に帝位を狙う。嬉しくて舞い上がり(←龐統に窘められた史実を参照)、献帝らに排除されそうになる。史実の曹氏は、政治的に脇のガードが堅くて、偉かったな…と。
史実と近い時期に魯粛が寿命で死んだ後、孫権は献帝の意を受けて、背後から劉備の領土を奪う。曹彰は、北伐した劉備との決戦で死ぬ(見せ場を作る)。曹丕・曹植は、後嗣として争うべき地位がないから伸び伸び活躍。劉備が劣化するキッカケとして、義に厚い関羽が、高官との間で紛争のタネを作るとか。
「こんな腐敗した王朝、滅ぼしてしまえ。そもそも、この血統が徳を失ったから、三十年間の分裂期があったのだ。刷新しよう!そうしよう!」となる。
光武帝が前漢の血統に冷淡だったように、劉備が献帝に冷淡でも、変ではないはず。というか史実でも勝手に「殺して」る。むしろ宦官が腐らせた王朝を一新するのが世のため!という主張のほうが良さげ。正義と正義がぶつかり合い、最終的な勝者は…どうしよう。曹丕はどうするんだ。曹丕は、献帝の側に回る。

という結末を思いつき、スーパーでコーラを買ってきたとき(すごく安かった)、ふと反省した。つぎの問いかけにつづく。

#劉備の献帝奉戴

ぼくはいう。【拡散希望】劉備ファンに質問です。もしも劉備が曹操を破って天下の大半を治め、献帝を奉戴したら、劉備とその配下はどうなると思いますか。三公や州牧で満足、公や王を望む、帝位にせまる等、可能性があるはずです。史実に限らず、関係作品のイメージに基づくご意見もお願いします #劉備の献帝奉戴
ぼくは劉備に冷たいと言われたことがあり(自覚あり)、創作小説で劉備を軽んじ、つまらない話を書きそうです。史実の劉備は献帝を奉戴せず、漢の忠臣・継承者を貫きました。でも、もし奉戴したら…を、少なくとも劉備を嫌いではない方々に教わりたいです。

@Golden_hamster さんはいう。
ファンというわけでもないですが、私の考えるところでは、劉備が曹操以上の支配域を手中にしたとしたら、本人が望むかどうかは関係なく帝位への道を進むことになると思います。こういうのは周囲も黙ってはいられないものです。
漢王朝としては劉氏が王朝に力を取り戻させ天下を再度平定できたとすれば、確実にその人物に帝位を任せようという議論が起こるでしょう。方便とはいえ袁紹が劉虞でそれを先取りしようとしたように。
例えば先帝の廃位によって即位した宣帝は廃帝を命は助けて捨扶持を与えました。光武帝も劉盆子を同じように扱いました。劉備は「退位」する献帝を出来る限り尊重しつつ捨扶持を与えるという形で漢の第三王朝を開くのでしょう。

ぼくはいう。同意見です。イフもので劉備に献帝を奉戴させ、劉備が帝位に進む話を考えましたが、「劉備がそんな野心を持つはずがない」とするのが、ファンの世論的に正しい答えなのではないか、、と自問自答して悩んでいました。 劉備を天子にすべきか、献帝を残すべきか、という廷臣の闘争をていねいに描くことで、物語を進めようと思います。諸葛亮は、劉備派ですかねー、やっぱり。「漢の忠臣」じゃなくて「劉備の忠臣」だなんて書いたら、バチがあたりそうです。
@Golden_hamster さんはいう。見方によっては、どちらも「漢の忠臣」だと思うんですよ、それは。中国古代王朝の帝位は力ある者にこそふさわしいということになるものなので、劉備を推すことは漢王朝に対する忠義にもなりうる側面があります。

ぼくはいう。小説としては、「献帝を守ってきた」楊彪ら高官や、生き残っている一部の曹氏が、献帝を推す。「益州から攻め上がり天下を治めた」劉備や諸葛亮が、劉備を推す。その闘争の決着をもって、「曹操が戦死したら」のイフが決着しそうです。漢vs漢が見られそうです。
@Golden_hamster さんはいう。完全にその皇帝と運命共にするしかない者以外のほとんどは「強い方につく」ことになるでしょうね。あと、孫権が生き残っている前提なら献帝を孫権が取り込むという展開も考えられますね。
ぼくはいう。献帝+曹氏(曹操軍の中核の残滓)+孫権(中原を外から望む)という連合軍と、献帝に内禅を迫らざるを得ない劉備との戦い。というのも考えましたが、、「劉備をいたぶりたい」がために、自分がこんな構図を考えたのかと反省してました。劉備に圧倒的な「強さ」を付与すれば、劉備になびく勢力が増えるので、劉備いじめになりません。
@Golden_hamster さんはいう。しかしこの想定の場合、元曹操軍の残党の多くの部分はむしろ劉備に吸収されていそうに思えますけどね。例えば袁紹の場合のように。劉備は袁紹・曹操の下にいた時期も長いからその方面とも親和性高いでしょうし。
ぼくはいう。そうでした。史実で、関中・漢中に投入された曹操軍の武将・地方官は、劉備に吸収させます。冀州・幽州あたりに配された曹操軍(史実では、曹丕の子守をする二軍のような人たち)が、曹氏の軍でしょう。


@dayomonsan さんはいう。個人の感想としましては、“演義の劉備”なら絶対にそんなことは無いでしょうが史実の劉備ならそうでもないと思います。自分から積極的にその意思を明らかにすることは無いでしょうが、それぞれの家臣の立場として劉備に帝位に上ってもらわないと困る層はいるでしょうし。
また本人もお膳立てが整えば結局は帝位に付くでしょう。徐州を陶謙に譲られた頃なら、個人の義(名声?)を優先できたでしょうが、家臣を大勢抱えることになればそうもいえない状況にもなるでしょうし、家臣間の力関係を抑えるためにも必要なんじゃないかな、と思います。

ぼくはいう。正史寄りに考えれば、劉備は帝位につくと。ぼくも同じように考えていましたので、自信がつきました。陶謙・劉表のころを引き合いにだし、劉備のキャラとしての性格に説得力を付けられるようにがんばります!


というわけで、劉備の漢と、献帝の漢が、正統性をめぐって最終決戦をする!という話になりました。きっと220年です。どちらが、どうやって勝つのか、ぼくも知りませんが、ハッピーエンドにしたいです。150524

@koui_ さんはいう。#劉備の献帝奉戴 信じて称えた皇叔が帝位簒奪にドハマリするなんて。
ぼくは思う。「あの劉備に裏切られた!」という第一声もあり得ますよね、やはり、。作中にも、この第一声をあげるキャラを配置して、何らかの事件(劉備軍の分裂)を起こさせようと思います。劉備に対するイメージを壊された、という読者の感じ方を代弁させ、消化させなければならないので。

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イフ物語のあらすじ 211年~215年 【new】

結末まで目処が付いたので、あらすじを決めます。これにより、個人の運命の変化(列伝の書き換え)に移ることができます。

211年、関中を平らげ、曹操を失う

正月、曹操は曹丕を五官中郎将・副丞相とする。曹丕を後継者にすると、意志を明確にした。

曹丕の中郎将府の官属をリストアップして、曹丕の支援をさせる。列伝からひろう。

3月、曹操は鍾繇に張魯を撃たせるように命ず。

鍾繇は、曹操の没後、馬超との外交で主役を務める人物。馬超の浸食を当面は防ぐために活躍する。のちに魏諷が曹氏を内部から切り崩す(史実どおりの219年に起兵させ、魏諷に煽られた名士の子弟どもが、曹氏の重要人物を殺す予定)とき、鍾繇が混乱を収拾する。

夏侯淵は河東を出て、鍾繇と合流。

夏侯淵は、史実では、潼関のあと、涼州の追撃戦をやる。この戦線に投入されて、史実なみの219年までに見せ場を作って死ぬ。

倉曹属の高柔は、曹操の出兵に反対する。

高柔は、わかき曹丕を叱ったり、カラミが多そうな人物。「オレがいうとおり、曹操が出兵を辞めていれば……」という思いから、曹操の死後の維持しそう。史実では、263年まで生きている。曹氏の柱石となってくれそう。

関中十部は、潼関に集まる。
曹操は、曹仁にこれを守らせた。

曹丕が不在のあいだ、程昱・徐宣・国淵が留守する。

彼ら3人の列伝から、人生の変化を描く。


7月、曹操は馬超を撃つ。「長い矛を使わせるな」
閏8月、曹操は潼関で戦死。きっと許褚も戦死。

もしくは許褚は、馬超をねらう復讐の鬼として、ウロウロさせるか。小説としては、そっちのほうがおもしろい。「おのれ馬超!」

徐晃・朱霊は、別の経路から進んでいた。曹操が死んだと聞いて、史実とは違う動きをしなければならない。

徐晃・朱霊の人生も、それぞれ描く。徐晃は楊奉に仕え、献帝のそばにいた経験があるので、献帝のそばで使える。

馬超の冀州に、丁斐が牛馬をバラまくけれど、効果がなかった。丁斐ら、曹操の正妻をだした丁氏の動きも抑えたい。
馬超は渭南に屯して、「黄河の西を割け」と請和する。

9月、曹操軍がすべて渭水を渡り終える(史実なみ)。馬超がふたたび土地の割譲を求め、賈詡が偽って許す(史実なみ)。曹操が死んだことは伏せられているが、史実どおりに交馬語ができないので、賈詡は、全面的に受け入れないが、条件をつけて和睦を受ける。馬超・韓遂が分裂するような条件で、和睦する。

潼関の戦いの後始末までは、臣下ががんばってもらい、史実から逸れないようにして、夏侯淵に後を任せるところまでは、堪えてもらおう。朝臣たちには、曹操の不在をごまかせない。でも馬超軍には、それを見えなくすることができる。
史実の曹操は諸将に、一見するとダメな渡河作戦が、じつはいかに素晴らしいか説明する。遺言を探していたら、作戦を検討したテーブルから出てきて、「このお調子者め」と、遺臣たちが涙ぐむのだ。
「関中の諸将が集まってきて、平定が楽になった」と、生前の曹操に言わせておこう。「このお調子者め」その2である。

史実どおり、成宜・李堪は死んでいい。関中十部が、10人とも生き残られると、先の展開が散らかってしまう。

10月、曹操軍は長安から北伐して、楊秋を安定郡で下す。
史実では曹操に会うと、「最初から降伏つもりだった」、「なぜ逃げた」、「付き合いで」といって笑わせ、もとの官爵を保証される。この役割は、曹仁・夏侯淵あたりに代行させる。しかし、もとの官爵を保証するとき、ふたりの意見が割れるなどして、楊秋に「おや?曹操軍は度量が小さくなったぞ」と思わせる。しかし曹操の死をひたかくしにして、もとの官職を与える。

このあと、楊秋は、史実なみにこの地方で曹操軍のために戦うが、曹操軍の度量を疑って、史実ほどの粘りや活躍を見せない。どのように活躍が小さくなるのかは、物語の都合による。

12月、曹操軍の本隊(史実では曹操)が、安定郡から鄴に帰った。夏侯淵が長安に屯する。史実では方面司令官だが、曹操なき今、「王」としての振る舞いが期待されるから、気負ってしまう。しかし史実よりも早く、『蒼天航路』ばりに覚醒する。
議郎の張既を京兆尹にして(史実なみ)民に好かれた。

張既は史実で223年まで、涼州の抑えをやる。劉備を防ぐために、異民族の統御や、軍への物資の供給をやるが、劉備軍に降伏するという、有能な地方官のひとりだろう。異民族と漢族を調停して、余計な流血を防ぐのが本務であって、曹操軍のために働くことが第一義ではない。

韓遂・馬超が叛くと、弘農・馮翊が曹操軍にそむいたが、河東だけは揺らがなかった。河東太守の杜畿は、曹操なきあとの地方官として地方を抑える。

きっと張既・杜畿は、劉備軍に吸収される。


211年、劉備が益州に入る

劉璋は、曹操が鍾繇を漢中に向かわせたと聞いて、内心でとても恐れた(史実なみ)。張松・法正が劉備を招かせた。

時系列としては、曹操が潼関に向かうのと同じタイミング。曹操が死ぬ前にこの話を置いたほうが、分かりやすいだろう。

張松曰く、「劉備に張魯を撃たせ、漢中を守らせれば、曹操がきても劉璋さんは曹操が怖くない」と。黄権・王累は、逆さづりになって、劉備の招待をはばむ。

このイフでは、曹操が死んで圧力が去ったことで劉璋は粘りを発揮できるようになり、かつ馬超が劉備軍に加入しない(史実と違う)ことから、劉備は成都を落とせない。
黄権・王累のように、劉備を招くことに反対した人々の発言力が大きくなる。とくに、一発芸の王累でなく、史実で曹丕にも認められる黄権に期待できる。

法正が劉備を説得し、龐統にも後押しされたので、

龐統は、呉に通じているという設定。

劉備は益州にいく。諸葛亮・関羽・趙雲を荊州にとどめる。孫権の妹を、孫権のところに返却した。

劉備が史実と変わるのは、成都を囲んだ後から。


212年、曹丕が丞相となる

正月、曹丕が丞相を嗣ぐことにつき、陳矯が既成事実を作ろうとして(史実の220年の事件)、朝臣とトラブルを起こす。

史実では、曹操が蕭何なみに、贊拜不名・入朝不趨・劍履上殿の特典を与えられる。だが、もらえない。それよりも、曹氏を蕭何に準える発言をしたものが、「バカじゃねえの」と言われる。「しかし馬超の討伐までは(史実なみに)やったでしょ」と言い張る曹操の臣。
朝臣は譲歩して、曹丕の特典を与える。これは日本史用語の「官打ち」である。官職の等級が分不相応に高くなりすぎて負担が増し,かえって不幸な目にあうこと。史実の曹丕は、魏王を嗣いだ直後に、天子になる。曹操を嗣いだばかりに曹丕に、そんな徳があるのか?と同じ疑問を、史実よりも8年早く行う。

この曹丕は、鄴で留守をしていたが、河間の田銀・蘇伯が反乱した。構想の常林が、「曹丕が自ら攻めるな」といい、代理のものに任せた。反乱の事後処理について、程昱が意見したことで、史実では曹操が「君非徒明於軍計,又善處人父子之間」と喜ぶ。しかし曹操はいない。
夏侯惇が、曹氏・夏侯氏の族長として、曹操の内向きの役割を代行する。親族や初期メンバーの人間関係の調整は、夏侯惇がやってくれる。夏侯惇が、程昱に感謝の言葉をのべる、でいい。

夏侯惇は、後方を任されるだけで、史料にあまり詳しい活躍が出てこない。219年、曹操の死ぬ間際に、帝位を勧めるくらい。夏侯惇に、内向きのリーダーを務めてもらおう。ただし、外征の計画とか、朝臣との政治抗争までは、夏侯惇にできない。

この反乱につき、国淵は、首級を10倍に水増ししなかった。
程昱による事後処理といい、国淵の報告内容といい、河間が「封域の内」か「外」かという認識をめぐっての議論。この「曹操の統治権」という、領土を切りとったような意識が、どのように変成するのか。

程昱・常林・国淵の列伝の書き換えをする。
曹操を失った臣たちは、こういう領土の意識を強めて求心力を高めたいひとと、一回リセットするひとの両極に分裂するだろう。程昱のような初期メンバーや、常林・国淵のように、曹丕とセットになったひとは、領土を取りまとめて切りとりたがる。


5月、史実では馬騰を殺す。しかし馬超を手なずけるため、もしくは馬超の非を天下に知らせるため、もしくは馬超と韓遂の対立をあおるために、馬騰を利用すべきだ。馬騰を解放するという、一見すると、馬超に有利な手をうち、涼州を混乱させてもいい。
7月、史実では、藍田にいる馬超を、夏侯淵が平らげる。

この戦いは、解放されて曹氏への帰順を説得する馬騰が、韓遂・馬超をかきみだす。おそらく韓遂が馬騰を殺す。そういう内紛に期待しないといけない。なぜなら、単馬会語ができなかったから。

史実では、左馮翊の鄭渾は、「険阻なところに治所を移したりしない」と、強気をたもって、梁興を破った。

鄭渾伝によると、曹操が漢中を征討するとき鄭渾を京兆尹にした。劉備に吸収される地方官の候補である。
関中十部の梁興が生き残る必要はなくて、それよりも、「鄭渾という有能な曹操軍の地方官がいますよ」という、作中におけるデビュー戦をやらせればよい。


9月、献帝の4人の子を王とした。

「与えるためには、いちど奪う。奪うためには、いちど与える」と蜀で論評されたやつ。これは史実の出来事だが、意義が変わってきて、献帝側の攻勢とみるべきだろう。
むしろ、曹丕に蕭何の特典を与えたことが、「奪うためには、いちど与える」となる。


212年、濡須の戦い、荀彧 死せず

212年、張紘からの勧めもあって、孫権は秣陵に移って、「建業」と改めた。呂蒙の勧めにより、孫権は濡須に塢を築いた。

史実から変える必要はない。張紘は、まもなく死ぬので、本作にはあまり登場しないかも知れない。


10月、曹丕は孫権を撃つ。

曹氏は、代替わりして弱体化するのではない。むしろ、功績不足にならないように、そして史実の曹操に遅れないように、頻繁に動く必要がある。
史実で、曹丕が鄴を守ったかも知れないが、ここは曹彰・曹植に活躍してもらうか。

史実では、董昭が、魏公・九錫を勧める。荀彧が寿春で死ぬ。
このイフでも、董昭に勧めてもらおう。曹操がいないからこそ、少なくとも曹氏が国公になっておかないと求心力が保てないと。しかし荀彧が反対する。そして史実に反して、荀彧が議論に勝利する。荀彧が死なずにすむ。曹氏が、引き返せないところまで進むのを、抑制する。

董昭伝の書き換え、荀彧伝の延長が必要。


劉備は葭萌にいて、龐統の作戦を聞き、劉璋を攻めることにする。212年は、劉備は荊州を離れて、漢中に備えていた期間。
孫権は劉備に、「曹丕・荀彧が攻めてきた。助けて」という。劉備は劉璋に、「孫権を助けなくては」いとまを乞う。張松が殺された(史実なみで可)。楊懐・高沛を殺して、劉備は明確に劉璋を倒すことになる。

213年、魏公とならず、馬超は涼州を奪う

正月、曹丕は濡須口にすすむ。40万を号して、孫権の江西営の都督である公孫陽をとらえた。史実では曹操がやるが、曹丕は戦さ下手である。荀彧が寿春から出張り、曹丕に助言してくれた。
対峙して、曹丕は「弟にするなら孫仲謀、劉表の子は豚や犬」と言うとか、言わないとか。孫権から「春の出水があるよ」と言われ、曹丕は滞陣の余裕もないので、ひく。
史実では、14州から9州に改変するが、これは実行する。魏公のことで頓挫した董昭だが、九州制は達成する。

4月、曹丕は鄴に帰る。揚州別駕の蒋済の言い分も聞かず、人口を内地に移そうとして逃げられる。これは史実の曹操なみ。

のちに行われる北伐では、揚州方面は戦場とならない。蒋済がきっちり揚州を抑えており、ここから攻め上がっても戦果がない、、と思わせる。周瑜・魯粛・諸葛亮の戦略は、いずれも、益州・荊州からの同時進行である。張遼・蒋済が進路妨害して、孫権を足止めしても、リアリティがある。

蒋済は丹陽太守となる。

5月、史実では、冀州10郡を割いて、魏公となる。しかしイフでは、荀彧がきっちりブロックして、董昭は失脚する? 董昭は曹氏の敵となって潜伏するなあ。
7月、曹丕の妹3人を献帝の貴人とした。これは史実なみに行われても、不思議ではないイベント。

8月まで、馬超は冀城を締め上げた。参涼州軍事の楊阜は、「曹操軍が引き上げたら、隴上の諸県は、すべて馬超に奪われる」と言っていたが、そのとおりである。
史実どおり、馬超は涼州を切りとる。

『通鑑』の抄訳より。
涼州刺史の韋康は、別駕の閻温を冀城の包囲を突破させ、夏侯淵に救いを求めた。閻溫は、夏侯淵の救いが来ることを、命がけで冀城に伝えた。馬超は、閻温を殺した。刺史の韋康や太守は、馬超に降ろうとした。楊阜は泣いて諌めた。だが韋康らは、馬超に降伏した。馬超は、韋康も太守も殺した。馬超は、征西将軍、領并州牧、督涼州軍事を自称した。
史実でも、長安・潼関あたり(のちの雍州)は、曹氏が確保したものの、涼州を馬超に奪われてしまった。馬騰というコマを担保しつつ、馬超には史実どおりに動いてもらえばいい。藍田で夏侯淵に負けても、いいじゃないか。

夏侯淵は、涼州の救援に間に合わない。
9月、史実では、楊阜・姜叙は、馬超を閉め出す。しかしイフでは、涼州は馬超の領土となる。馬超は、張魯を頼るのでなく、張魯に使者を出して、仲よくする。

周瑜がはった伏線で、孫権にも使者を出す。

張魯は、娘を馬超に与えようとするが(史実なみ)、それを取り辞めた。馬超は、とりあえず隣接しているから張魯と同盟したものの、宗教集団だし、とくに親和性が高いでもないから、煮え切らない。
それよりも馬超は、劉璋と劉備の戦局を見ている。史実では、張魯を頼り、張魯から離れ、劉備のもとにいく。しかし馬超は負けないから、益州にいかない。ここからイフが転がり始める。

11月、史実では尚書・侍中・六卿を置くが置かない。

荀彧が見せ場を作って、自然死をしてから、もしかしたら魏公ぐらいにはなるのかも知れない。ならないかも知れない。史実では、荀攸が魏の尚書令になる。荀攸は、曹氏の集団に近いひとである。
このとき、魏の官職をもらったのは、「以荀攸為尚書令,涼茂為僕射,毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔為尚書,王粲、杜襲、衛覬、和洽為侍中,鐘繇為大理,王修為大司農,袁渙為郎中令、行御史大夫事,陳群為御史中丞。」である。
彼らは、曹丕の「丞相府」の重要人物であることは、変えなくていいと思う。

史実で曹操が肉刑の議論をする。いらん。

214年、馬超は劉備と同盟し、成都が堪える

春、史実で馬超が張魯から兵を借りて、祁山を囲む。馬超はすでに涼州を得ているから、つぎの目標(より長安に近い)を、張魯と同盟して攻めてもいい。夏侯淵・張郃は、長駆して馬超を追いかえす。場所は史実と違うが、結果は史実なみ。馬超は、冀城(涼州)に撤退する。
馬超を追い払う一方で、夏侯淵は、韓遂を殺した(史実なみ)

このタイミングまでに、馬騰を処理しておかねば。

史実で3月、魏公を諸侯王の上におく。イフでは、「韓遂を追い払った功績もあるし、曹丕を魏公に」キャンペーンが再び張られるが、荀彧がシャットダウンする。

5月、曹操がおいた廬江太守の朱光を、呂蒙・甘寧がやぶる。張遼は間に合わず。呂蒙が廬江太守となる。史実なみで可。

諸葛亮・張飛・趙雲は、益州にいく。巴郡太守の厳顔を賓客にする。史実なみに、劉備軍の将が成都に集まればよい。
劉備軍は、雒城を1年かこみ、龐統が死ぬ。 涼州を馬超が治めたと聞いた龐統は、馬超との同盟を提案して、後方で指揮を執る。死なない。

馬超と同盟することは、周瑜が決めておいたこと。龐統は、じつは周瑜の密命を帯びて、チャンスがあれば馬超と繋がりたいと思っていた。史実よりも馬超が勝ち進んだので、龐統はこの同盟のお世話をしていた。龐統が生き残った。

劉備 龐統は、建寧の李恢を涼州に送る。

史実では漢中にいる馬超に会えばよいが、本作では冀城にいる馬超に会わねばならない。往復に時間がかかる。

馬超は、劉備に帰順 劉備に軍事的に協力することを誓う。馬超は、張魯と対決しながら、成都まで兵を下ろすには至らない。

さて、史実から分岐します。


曹操の指示で、荊州にいた劉巴は、劉璋のもとにいる。劉巴伝の書き換えが起こる。黄権は閉門しているが、黄権伝も書き換わる。
李厳・許靖らも、成都のなかを鼓舞して降らず。

『蜀志』のおもな人物について、運命を決めておこう。


秋、曹操 曹丕は孫権を撃った。曹植に鄴を守らせた。曹植は邢顒と対立した。曹植だけが鄴にいるので、なにかトラブルが起きそう!

邢顒が、旨味のある人物だったら、膨らます。

このころ、荀攸が死ぬ。漢の忠臣として曹氏を留めようとする荀彧(本作では存命)に対して、曹氏の爵位をあげようと画策するのが荀攸(史実では魏公の尚書令なので、魏の中心人物)。

10月、夏侯淵 馬超が、宋建を斬って隴右を平定した。

馬超勢力の拡大を、くわしく描こう。

丞相を嗣いだ後、曹丕の立場は怪しい。
議郎の趙彦は、古来の作法に則り、曹操を朝臣の刀にさらした。 曹操はそれ以来、参内するのを辞めていたが、曹丕が参内をサボるのは難しい。曹丕は、父以上に背中が汗びっしょり。
伏完の娘(伏皇后)は、かつて曹操を暗殺しようとした計画があった。本作では、伏皇后が曹丕の暗殺を試みる! 史実では昔の暗殺計画をむしかえすが、本作では、伏皇后がリアルタイムに行動を起こす。暗殺の密詔をだす。
曹丕を救ってくれるのは、きっと荀彧だ。
曹丕が死にかけたため、郗慮・華歆が、伏皇后を殺そうとする。しかし、曹操が董貴人(董承の娘)を殺したときと違い、曹氏が献帝の妻を殺せる状況ではない。こちらも荀彧がかけあって、伏皇后を助けようとする。
しかし、華歆の策謀!で、伏皇后と皇子が殺された(史実に回帰)

12月、曹丕は孟津にくる。逃亡兵の扱いについて、高柔ともめる。

史実に反して、漢=曹氏の領域=国内、という構図がくずれている。国内・国外での法の運用について、史実と比べてギクシャクするのがおもしろい。曹氏政権の崩壊を予感させる。
#曹操戦死208 では、曹氏政権は、曹操を208年に失ったあとに、すぐに空中分解して、領土を蚕食された。しかし曹操に3年の寿命を追加したので、そこまで急速には滅びない。しかし、荀攸を失った曹氏は、戦略の立案について力が落ちている。


215年、魯粛が交渉し、孫権軍が益州に入る

正月、曹丕の妹が、献帝の皇后になる(史実なみ)
3月、曹丕が張魯を撃ちにくる。

史実では、3月に曹操が張魯を撃ちにくる。本作でも、曹丕に同じことをさせよう。史実の進軍経路を見ると、本作で馬超のいる涼州を通らなくても、曹丕は張魯を攻めることができる。
この展開を作るためには、張魯と馬超は、違和感がありながらも同盟を維持している、不戦の約束をしている、という状況が必要になる。曹丕から見れば、馬超は逆賊だが、手強いからすぐに手を出せない。長安においた夏侯淵に、「もし馬超が出てきたら、神速で移動して叩いてくれ。曹丕の軍の背後を断たれないように」と申し送る。
馬超は、涼州の北・西に勢力を広げたい。潼関のように、出てくることはない。そんな馬超を、背後から(自分の利益のためにも)バックアップしているのが、張魯であると。張魯は、対外的に領土を広げたいのではない。馬超を「傭兵」「護衛」のように、使えれば充分だと思っている。

氐族が曹丕の道を塞げば、張郃・朱霊がやぶる。

ふたりのうち片方は、長安で夏侯淵とともにいるかも。すべて史実どおりに、武将を動員できるわけじゃない。

5月、韓遂の首が曹操に届いた。 馬超が韓遂を金城まで追いかけ、韓遂を斬ることができた。しかし馬超軍は疲弊した。

馬超が涼州を安定的に得るために、韓遂をどのように扱うか、かなり難しい。魅力的な使い方を思いつこう。
ぼくが思うに、馬超は韓遂を追って、泥沼の戦いをやっており(ありがち)、冀城を留守にして、涼州の奥深くに入っていると。だから曹丕は、漢中攻めを思いつけた。孫権を倒せないなら、益州のほうはどうかなと調べるような気持ちで(史実なみ)
となれば、韓遂に力を与えて、ひそかにバックアップしているのは、曹氏か。適当な武将を、韓遂のもとに寝返らせるのもいい。韓遂が夏侯淵に降るとか。見てみたい! 韓遂と夏侯淵が交馬語して、、も盛り上がらないか。曹操の思い出話をすれば良いんじゃないか。


曹丕が漢中を目指すと聞いて、いちばん驚いたのは、張魯でなく劉備である。まだ成都を陥落させることができない。
「このまま張魯が曹丕に敗れたら、滅亡じゃん。全武将を投入したのに、まだ成都の城門が開かないって、どういうことやねん。ゲームのなかの、イベント発動条件にバグがあるんじゃないの。開城のムービー、早く!」
ここで劉備は、回想する。

正確には、『通鑑』が経緯を説明する。

劉備がまだ荊州にいるころ、周瑜・甘寧は、「益州を取るぜ」と勧めた。しかし劉備は、「劉璋の攻略はできない。同族を攻めるなんて」と。劉備は、周瑜・孫瑜の西進を妨げて、「もし孫瑜が益州を攻めるなら、私は山に籠もるぜ」と騒いだ。
そのくせ劉備は、益州を攻めた。孫瑜を妨害しておいて、なぜ益州を攻めるのか。孫権は怒って、諸葛瑾を行かせて、「益州を攻めるなら、荊州を返せ」といった。

史実では、益州を得たのちに、諸葛瑾が到着する。きっと本作では、史実と同じタイミングに諸葛瑾が孫権のもとを出発した。劉備が苦戦したから、劉備が勝つ前に到着してしまった。
諸葛瑾「劉備さん、あまりに信義がないですね。そのくせ弱い」

劉備は、「涼州 益州を奪えたら、荊州を返す」といい加減な約束をする。孫権は、これをウソだと見抜いて、呂蒙に、荊州の劉備領を攻めさせた。呂蒙は零陵らを陥落させる。さらに孫権は、魯粛を関羽に当てた。
単刀会のイベントが発動する。
劉備は益州から公安に出てきて、関羽の背後を固め 劉備は成都の包囲を解くことができない。劉璋から追撃を受ける恐れがあるからである。せっかくの2年の包囲で、精神的に追いつめたはずの劉璋に、休息を与えたくない。
虚勢を張るしかない関羽に対して、魯粛は、土地の返還を求めて、湘水を境界とすることを提案する。 孫権が本気を出せば、孤立した関羽を江陵から追い出せることを説明する。関羽はガッカリする。
さらに魯粛は、「もしも関羽が江陵を失えば、荊州から劉備領は消滅する。劉備は帰るところを失って、成都の城外で解散せざるを得ない」と教える。そのとおりなので、関羽は、マジで絶望する。

兵士A「土地は徳のある人に帰属するんだ」
魯粛「孫権を欺いて益州に進み、劉璋を裏切って成都を囲み、しかし成都を得ることができない劉備。やつのどこに徳があるんだ」
関羽「黙っとけ(余計にみっともないから)」

しかし魯粛は、交渉を持ち出す。
「幸運なことに(史実と違って)涼州に馬超がいる。彼を味方につければ、周瑜の戦略が実現する。もしも関羽・劉備が、周瑜の戦略に協力して、先兵になるのならば、成都の攻略に協力してやろう。ただし……」

魯粛がつける条件については、また考える。

関羽は、孫権軍が江陵を通過して、成都に赴くことを認める。発案者の甘寧(益州は甘寧の故郷)、周瑜に名指しされた孫瑜が、成都の包囲に加わる。

史実から大きく分岐するのは、215年の夏だった。215年秋以降は、ワクを改めて書きます。150525

ぼくのポリシーとして、イフものは、史実を無視した話がどんどん進むものでは、あってはいけないと思う。史実と比較対照できないから、つまらない。史実と違う出来事が1つ起きて、徐々に波紋が広がって、あるとき引き返せないような変化が起きる。
曹操が潼関で死んだことは、4年を経て、歴史の転換点を導き出した。前にやった曹丕80歳は、曹丕が生き残ったことで、曹丕が余計なことをして、馬謖が生き残ったことが最初のインパクトであり、そこから馬謖をカギにして、史実を解体していった。

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イフ物語のあらすじ 215年~223年 【new】

魯粛が単刀会で関羽に提示したのは、「孫権軍が江陵を素通りして、成都の攻略戦に加わること」だった。関羽は、独断でOKをする。

215年、曹丕が漢中を得て、孫劉が成都を得る

215年秋7月、曹丕は陽平にきた。聞いていたのと違って、攻めにくい地形である。夏侯惇・許褚に撤退を命じた。

夏侯惇は、きっと遠征なんかしないな。許あたりを抑えている。曹丕よりも影響力がある人物だから。史実では、「曹操だから、なんでも自分でやりたがって親征するよね」という話だった。本作では、「夏侯惇は重鎮。曹丕は後嗣であっても、功績が足りないし、最悪のことが起きても夏侯惇が生きていれば大丈夫」という感じだ。
史実で、夏侯惇と曹丕は親しくなさそうだし。
いや、実質的には夏侯惇が軍をひきいて、曹丕をここに連れてきているのかも知れない。迷子になるのも、史実なみにやってもらうか。

辛毗・劉曄は、夏侯惇の勝報を信じない。

漢中を手にした曹丕は、司馬懿・劉曄に問う。「成都まで攻めちゃおうか」と。
司馬懿は答えた。「劉備は、劉璋をだまし取りました。蜀は安定しません。しかも劉備は、江陵に出ています。蜀を取りましょう」

史実では、単刀会をする関羽を支援するため、劉備は孫権と対峙した。しかし本作では、劉備軍・孫権軍が成都でひしめいている。司馬懿・曹丕には、なにかうまいことを言わせましょう。

劉曄は蜀取りを勧めた。曹丕がためらった。7日後、曹丕が蜀取りをしようといった。
劉曄「劉備・孫瑜が、成都を陥落させました。7日前ならば、まだチャンスがあったのに、決着がついてしまっては、士気が高い劉備・孫瑜から、成都を取ることはできないでしょう」

成都の開城の瞬間を描かず、曹丕の迷いと、劉曄のセリフによってのみ、成都の行く末を描く。どうでしょう。

曹丕は漢中から帰った。夏侯淵・張郃・徐晃をおいた。丞相長史の杜襲 に漢中の政治をさせた。8万余口を、洛陽・鄴に移住させた。

ここに名前が出てきたひとは、列伝の書き換えがおこる。劉備・孫瑜の連合軍が、漢中を攻めてくる。これを迎撃しなければならない。でも、史実でも夏侯淵が負けるのに、本作で夏侯淵が勝つ方法があろうか。ない。


8月、孫権は合肥を囲む。

史実なみ。益州から勝報が聞こえてくるのだから、孫権が調子に乗って勝ち進んでも、ちっとも不自然ではない。むしろ本作のほうが、孫権が、近年まれに見る大軍を動員した理由が説明できる。

張遼・李典・楽進は、護軍の薛悌から、曹操が生前に残した箱を開ける。「遼来来」を食らわされ、孫権は撤退した。

9月、巴郡の異民族が、曹丕に降る(史実なみ)
11月、張魯が曹氏によって列侯に封じられた(史実なみ)

このとき、閻圃だけでなく、程銀・侯選・龐真がくだる。関中十部の残党がまじっている。

張魯が巴郡に逃げたとき、黄権(史実より遅れたが成都が陥落したので、劉備に従っている)が、劉備にいう。「張魯を招きましょう」と。しかし張魯は、曹丕に降った。張郃と張飛が戦った(史実なみ)
張飛は、巴郡から張郃を追いかえした。

『通鑑』に従うならば、趙𠑊伝をここで読むこと。


216年、曹丕が魏公となる

2月、曹丕は鄴に帰った。
5月、曹丕は魏公にさせられる。

史実では、魏王である。曹丕は漢中を平定した。曹丕がはじめて領土を拡大したのだから、爵位をあげろという話が起こる。曹丕は、断り切れない。
魏公といえば、荀彧が反対する。

へつらった楊訓と、楊訓を勧めた崔琰が斬られた。毛玠は、崔琰が殺されたことに納得せず、官職につかずに死んだ。

毛玠は、魏の内部の人間。こいつを処刑してしまうことは、史実の曹操には堪えられたが、本作の曹丕が傾いていくキッカケになる。崔琰だって、魏の中核の人物である。中核の人物と、トラブルを起こせば、曹丕は保てない。

桓階・和洽が、毛玠を弁護した。

このあたりの人物の列伝を料理したい。

何夔・丁儀・桓階らのトラブル。列伝をみる。

史実では、裴潜が烏桓を手なずけ、南匈奴が魏に朝貢する。魏公になった本作の曹丕は、史実の曹操なみに偉そうにしていると、足元をすくわれる。その伏線として、崔琰らの話を扱いたい。
8月、大理の鍾繇を、相国とした。

鍾繇は魏の内部の大物。せっかくだから魏諷の乱により、曹丕には失脚してもらいたい。鍾繇はカギをにぎる人物。大切に扱おう。


217年、魯粛の演出した一斉の北伐

春2月、曹丕は濡須にきた。徐盛が蒋欽の兵を斬ったが、蒋欽は徐盛を褒めた。

徐盛と曹丕は、因縁の関係である。ここで空城をやらせてもいいかも。本作では、見せ場がないので。揚州方面が膠着している、という状況を作ることが大切。

3月、曹丕は濡須をひき、夏侯惇・曹仁・張遼を揚州方面におく。孫権が、降伏を申し入れた。婚姻を結んだ。

史実で孫権は、徐詳をつかわし、魏王の曹操に降伏する。ここをどのように扱うかが、かなり難しい。ていうか史実の孫権は、なぜ降伏したんだ。
孫権は、揚州方面について、停戦を望んだ。夏侯惇が独断で裁いた。というくらいの出来事なのか。曹丕は、魏公になりながら、名士を圧迫しているから(魏公のタイミングで荀彧を圧迫して)求心力が下がっている。夏侯惇が、せめて揚州方面だけでも静かになるように、圧倒的な軍権を背景に、孫権と同盟を結んでしまった。
曹丕は、夏侯惇の処置に不満がある。という、反乱のタネを仕込むほうがおもしろい。ありそうな話だし。孫権がシレッと降伏したのをキッカケに、曹丕と夏侯惇の対立が表面化するのがいい。


6月、華歆を御史大夫とする。
10月、曹丕が魏の王太子となった。 曹丕が夏侯惇を退けて、主導権を自分のもとに集めようとする。

本作では、夏侯惇が疎ましくなった曹丕が、夏侯惇を「敬って遠ざける」ために、揚州に夏侯惇を置き去りにした。史実で曹丕が王太子になる、217年10月、曹丕が正式に丞相に就任した。それまでは、夏侯惇とどちらが上か分からない状態だった、、としようか。
孫権は、夏侯惇に降伏を申し入れることで、曹丕と衝突させた。

崔琰・毛玠・邢顒・賈詡が、意見を分ける。

このあたり、史実の後継争いにかこつけて、李傕政権の再来、に傾いてもいい。漢中を奪った功績を誇って、曹丕が魏公になり、その結果、曹彰と衝突する。
というか、曹彰、いままでどこにいる。烏桓の征伐をしてるにしろ、『通鑑』に登場しないせいで、ぼくが消化していない。
孫権の降伏を受け入れる、、というのも、夏侯惇が斡旋する役になって、官職をくばり、曹丕に対抗するという作戦だといい。夏侯惇は、曹氏・夏侯氏の発展のために曹丕を戒めるが、聞く耳を持たない曹丕。辛毗に抱きついたり。
魏が李傕政権となるとき、魯粛の戦略が炸裂する。魯粛の寿命は、この217年までしか持たないから、早くしてもらわないと。

史実で、法正が劉備に北伐を勧めて、張飛・馬超・呉蘭が下弁にきて、曹洪と戦う。
史実と異なり、荊州で失意の晩年を送らずに済んだ魯粛は、益州でのびのびと北伐の計画をつくる。益州と荊州の同時進攻。益州を完全に劉備に任せると、制御が効かなくなる。甘寧・孫瑜・魯粛は、益州からの北伐に加わる。
べつに、孫権に交渉して、呂蒙・孫皎・陸遜を関羽と連携させて北上させる。

益州・荊州とも、もっと史実で因縁のある人物を配置できるならば、それを採用する。史実では対立する人物を、魯粛の調停によってうまく動かすのが、この作戦の見せ所である。

孫権すら、荊州からの北伐に参加する(周瑜の構想なみ)

北伐の匂いをかぎとって、関羽と呼応して、許では反乱が計画された。金禕・耿紀・韋晃・吉本らである(史実なみ)。迎え撃つのは、許の兵権を委ねられた、丞相長史の王必。
曹丕は、夏侯惇と対立して、さらに曹植をかつぐ派閥とも対立して、献帝のそばでも曹氏・夏侯氏を排除する動きが出てきた。やばいぞ曹丕。

どういう派閥が、曹丕と対立するのか。人員校正を整理して、まとめておく。曹丕と夏侯惇の対立だけは、見えやすくなっているけれども。


218年、曹彰が烏桓を破る

正月、王必が許県を守り切る。

「曹氏による献帝の保護」を維持することが、曹氏にとって果たして嬉しいのか。ともあれ王必には、史実どおり防衛に成功してもらおう。

曹洪・曹休は、呉蘭を斬った。史実では3月、馬超・張飛を追いかえす。北伐の第一戦は、曹洪・曹休によって防がれる。これによって呉蜀に反発が生じるが、魯粛が縫いあわせる。
これより前、魯粛は孫権を説得して、荊州でも同時進行が始まる。

4月、烏桓が反した。裴潜が烏桓を治めていたが、裴潜を帰任させてしまった。曹彰が烏桓の討伐に成功して、声望を集める。曹丕よりも曹彰を頼るひとが集まっていく。曹丕は曹彰に、「家では兄弟だが、職にあっては君臣だ」といって、曹彰が「ほんとうにそうか?」と不満に思う。

曹丕は、早くに曹操を亡くしたので、君主権力を強化しようと思って、周囲を圧迫するひとになっているのだろう。保護者の夏侯惇を裏切ったり、曹彰を圧迫して人望を失ったり。

史実で発生しなかった荊州攻めが起きている。史実では関羽の北伐に対応する徐晃が、いま漢中にいる。漢中に徐晃がいないことで、史実よりも早く曹氏軍が敗れるという話がいい。徐晃を荊州に配置換えすることで(史実では徐晃に敗れる)陳式が勝ち進む!という話がいい。

史実では翌年に起こる関羽の北伐が、孫権・劉備の協力により、圧縮してどちらも218年に発生する。曹氏は武将のやりくりに苦労する……という話。

楊洪・李厳が蜀の後方を固めて、軍事物資を供給しているが(史実なみ)呉の人物も成都に入ってほしい。諸葛瑾が成都の長官になるのはどうか。

7月、曹丕はみずから劉備を撃ちにくる。9月、長安に入る。
いっぽう曹彰は軻比能をやぶる。曹彰は、力を蓄えた名将となって、北伐に対抗する。最有力な魏将として、田豫とともに活躍する。

烏桓の反乱は、諸葛亮・魯粛の合作による、烏桓も同時進行させて、曹氏をつぶそうという作戦なのかも知れない。

烏桓の戦線は、曹彰によって片づけられた。夏侯惇?か、曹氏の重鎮にあたるひとが、「曹丕よりも曹彰に、劉備を迎え撃たせよ。曹彰のほうが戦いが上手いから」と進言する。曹丕は、非常にムカッとする。だれかが朝廷に工作して、詔を引きだす……、という内輪モメをやってほしい。
しかし、史実の曹操ばりに、漢中に突き進む曹丕を、だれも止めることができない。

10月、宛城の侯音が反した。

史実では、早過ぎる挙兵なので、ただちに平定される。しかし本作では、効果的に曹氏を追いつめる。曹仁を足止めするとか。史実では、翌年正月、曹仁が侯音を斬って、樊城に帰る。しかし曹仁が宛城の平定に手間取る。


219年、関羽の勝利

正月、曹仁は宛城から帰ることができない。その樊城に向けて、関羽らが接近する。曹仁は宛城を残したまま、慌てて樊城に帰る。

夏侯淵と劉備は、向きあったまま年をまたいだ。定軍山を争って、黄忠が夏侯淵を討った。杜襲・郭淮が張郃をいただいて漢中を維持した。
3月、曹丕は斜谷から漢中にいく。史実で曹操は、劉備を攻めない。黄忠・趙雲が曹氏軍を攻め(史実なみ)曹氏軍の兵が逃げる。
曹丕が出てこないので、孫権・劉備の連合軍は、曹丕を積極的に攻める。敗れた曹丕は、漢中を放棄する。曹植派の楊脩が「鶏肋」というから、曹丕は楊脩を斬ろうとするが、献帝のそばにいる楊彪が重鎮なので、斬ることができない。
曹丕は、劉備のさらなる進攻を恐れた。雍州刺史の張既が、氐族に金品をバラまけば、曹氏に味方すると見積もったが(史実なみ)氐族は曹氏になびかず(史実と違う)、劉備はさらに進攻する。
武威の顔俊、張掖の和鸞、酒泉の黃華、西平の麹演らは、たがいに争って曹氏に助けを求めた。張既は、放置すれば食い合うと予想するが(史実なみ)、馬超の指導力によって団結して、曹氏に対抗する勢力となる(史実と違う)。

張既の統治の腕前が、史実に反して、ことごとく外れ、曹氏は長安より西を失うことになる。

長安より西を失った曹氏にとどめを刺すべく、
劉備は、孟達・劉封を荊州に向けた。史実では関羽に合流しないこの軍には、呉将のだれかが帯同しており、益州・荊州の連携は完全となる。

7月、圧倒的な強さを背景に、孫権と劉備が誘いあって、漢中王・呉王をなのる。史実では、魏王の曹操に対抗するためである。しかし本作では、立場が安定せず、魏公ですら不相応な感じのする曹丕を揺さぶるためである。
「漢のために、逆賊の曹氏を大いに破った。王に封じられて然るべき。しかし献帝と交渉できないから、いったん自称する」という、史実の劉備のロジック。
これを見届けたあたりで、魯粛が死ぬ。史実よりも、1年半~2年くらい長生きした。まあ荊州でストレスをためずに、やりたいことをやれたから、寿命が延びた。

費詩が関羽に印綬を届けてトラブルを起こす。
史実ではこのとき、曹操の妻の卞氏が王后となる。本作では、曹丕が劉備・孫権に対抗して、魏王になろう。これにより、曹氏の政権は、内部でガタガタになる。夏侯惇を族長として重んじる勢力、曹洪・曹仁の兵力を頼る勢力、曹彰の手柄を評価する勢力、楊脩つながりで楊彪に接近して朝臣に担がれようとする曹植。これら対抗者がいるのに(対抗者がいるからこそ)曹丕は、魏王になること急いだ。

史実でこのタイミングで孫権が合肥を攻める。これは、呉王になった直後の華々しい遠征となる。揚州刺史の温恢は、史実で「孫権は憂う必要がない」という。しかし今回の孫権は、わりと本気なので、やばい。
史実で関羽は、麋芳・傅士仁を背後において、樊城を攻める。
本作では、呉将も大々的に作戦に参加している。江陵を、劉備軍だけが治める(史実なみ)のではなく、孫権が最低でも副官を送りこんで抑えているが、ともあれ北伐のジャマにはならない。

8月、漢水があふれて于禁が水没。龐徳が死す。
曹仁・満寵が籠城する。逃げようとする曹仁に、満寵は「もし樊城から退いたら、許より南は関羽のものになる。白馬を沈めて水がひくのを祈ろう」と説得(史実なみ)。呉蜀の連合軍は、襄陽を下す(史実では関羽の将軍の呂常の仕事)。
樊城の水がひくより前に、甘寧あたりが曹仁を樊城から追い払う。水軍を使えるし、「周瑜が南郡から曹仁を追い払った」成功体験をもとにして、武将として成長した曹仁すら破る。樊城は陥落する。

9月、魏諷が鄴を襲った。
おそらく曹丕は、夏侯淵を失ったので、曹洪・杜襲に長安の防備を任せて、本拠地の鄴に向かっている。史実とは異なり、魏諷が鄴を占領してしまう。呉質が鄴に殉じるとか。もしくは、曹叡・甄氏を殺してしまう。呉質の犠牲の上で、辛うじて平定する。鍾繇が責任をもって、鄴を統治する。
10月、曹丕は、洛陽に復興しつつある洛陽にとどまる(史実の曹操なみ)。陸渾の民が呉蜀に応じて、許のまわりが不穏になる。献帝を鄴に移すことを、曹丕が議論する(史実の曹操なみ)。
司馬懿・蒋済が反対する。「関羽の背後を孫権に突かせれば、樊城の包囲は解けます」 「献帝・朝臣が魏に移ることに反対するでしょう。献帝を巻きこんで、呉蜀の軍を全力をあげて受け止めるべきです」

魯粛は、「関羽をつかって曹操に対抗する」と言っていた。魯粛が死んだいまも、呂蒙・陸遜は同じ見解にたち、関羽を信頼したわけではないが、関羽を有効活用しようと思っている。関羽を先鋒に立てて、洛陽の攻撃をねらう。

これより前、関羽は孫権との婚姻をことわる。このエピソードは、史実なみに起こす。

すこし前、曹丕は漢中に出るとき、徐晃を宛城に置いた。本作では宛城は、まだ侯音の乱が治まっていないが、、ともあれ徐晃が関羽との戦線に投入される。
史実で孫権は、曹操に「共闘して関羽を倒しましょう」と持ちかけるが、本作では合肥の攻撃をしてる。夏侯惇が堅く守るので、手出しができない。「荊州のことは、部下が勝手にやったことで」とか、信義のない手紙を、夏侯惇に送りつつ、揚州の戦線を膠着させておくことで、益州・荊州を間接的に利そうとする。夏侯惇としても、孫権軍が中原に入ったら、まじで曹氏は滅亡しかないので、ここだけでも止めている。

史実では、天子の曹丕は、孫権に騙された。任子を送るといって送らなかったり。しかし夏侯惇は、騙されません。全部わかって対処する。


曹丕は洛陽から南下して、曹仁を救おうとした(史実の曹操なみ)。しかし桓階に諌められた。ところが桓階の見立ては誤りで、曹仁は甘寧に敗れて逃げてきた。
関羽の死のイベントは起こらず。219年の冬のできごとは、本作ではお預けとなる。呂蒙は、関羽に呪われないが、病死する。陸遜が、荊州方面で関羽との連携を任されることになる。陸遜は遜って、関羽の顔を立て続けた。
曹丕は、荊州北部の人口を、中原に移してしまいたい。司馬懿が反対したが(史実なみ)曹丕は強行してしまった。荊州で恐慌が起きて、みんな中南部に逃げこんでしまった。
曹丕は、最終決戦を予感した。

史実にない動きとして、劉備が長安の攻略をしている。諸葛亮の北伐にヒントを得て、馬超・劉備の連合軍に長安を攻略させよう。話がこみいるから、戦果が出るのは翌年とする。

220年~222年、最終決戦と結末

北伐と同時進行で、劉備は長安をぬく。洛陽を占拠する。具体的な戦いの方法は、べつに考えるとして、曹丕は鄴に逃げていく。そのあいだ、魏将が降伏・戦死してゆく。220年秋、劉備は、許で献帝を奉戴する。

史実では漢魏革命が起こるとき。

孫権はとっくに徐州に戻っており、後方支援に徹している。呉将を貸し出している。孫権は劉備に天子即位を勧める。

孫権は曹操の最晩年に、天子即位を勧める。同じことをやってもおかしくない。


劉備は、河北にまだ曹氏がいることを理由に辞退する。
劉備は、献帝とともに手に入れた朝臣を持て余す。劉備が連れてきた文官と、献帝を守ってきた高官が対立する。
「せっかく劉備に従って、苦しい戦いを勝ち抜いてきたのに、無能な高官の下に置かれて、我慢ならん。やつらは、口を聞こうともしない」という怒りや、
「劉備に従ってきたのは、皇叔として献帝を守り立てることを期待したから。献帝の先兵として、逆賊の曹氏をすぐに討ちに行くべきだ」という期待が混じる。
孫権は、史実で曹操に対してやったように、天子即位を煽ることで、劉備の政権を不安定にしようとする。いっぽうで孫権は、朝臣とも通じており、「ほんとうに献帝を護持するのは、孫氏である」という一派も作ってある。 史実では、夷陵の戦いが、221年~222年に行われる。劉備が戦う相手が、曹丕なのか、孫権なのか、決まっていないが、、ともあれ劉備の最終決戦の結果、天下の決着がつく。劉備は史実なみに223年に死ぬだろう。結末は、未定です。

話を進めながら、「こっちにハンドルを切るしかない!」という確証が持てるまでは、劉備の天子即位や、最終的な勝者のことは決めません。150526

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