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曹操の起兵の経緯に関する記事あつめ

てぃーえすのワードパッド より

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20150609/1433776719
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20150613/1434124635
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20150614/1434209196

武帝紀 注引『傅子』に、曹操の人がら(の悪さ)を示す話がある。

初、袁忠爲沛相、嘗欲以法治太祖、沛國桓邵亦輕之、及在兗州、陳留邊讓言議頗侵太祖、太祖殺讓、族其家、忠、邵俱避難交州、太祖遣使就太守士燮盡族之。

袁忠が沛相となると、法をもって曹操を治めた。袁忠は、同じように曹操を批判した辺譲が族殺されたのを見て、自分も同じ目に遭うと思い、交州ににげた。しかし曹操は使者をつかわして、士燮に袁忠を族殺させた。

ぼくは思う。士燮伝を『三国志集解』で読んだとき、
「蜀志」許靖伝はいう。孫策が長江を東にわたると、みな交州ににげた。「魏志」袁渙伝はいう。袁渙の従弟・袁徽は、儒学の素養でたたえられた。天下が乱れると、交州に避難した。
という話があった。関係ないけど、袁氏が士燮を頼る例だな。


『後漢書』朱儁伝によると、

及董卓被誅、(李)傕・(郭)汜作亂、(朱)儁時猶在中牟。陶謙以儁名臣、數有戰功、可委以大事、乃與諸豪桀共推儁為太師、因移檄牧伯、同討李傕等、奉迎天子。乃奏記於儁曰「徐州刺史陶謙……北海相孔融・沛相袁忠・太山太守應劭・汝南太守徐璆……」

董卓が誅せられ、李傕・郭汜が乱をなすと、陶謙は朱儁を「太師」に推した。このとき陶謙に賛同した地方長官のなかに、沛相の袁忠がいる。

さて、曹操が董卓から逃亡する話は、武帝紀にある。

會靈帝崩、太子即位、太后臨朝。大將軍何進與袁紹謀誅宦官、太后不聽。進乃召董卓、欲以脅太后、卓未至而進見殺。卓到、廢帝為弘農王而立獻帝、京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉、欲與計事。太祖乃變易姓名、間行東歸。出關、過中牟、為亭長所疑、執詣縣、邑中或竊識之、為請得解。卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。冬十二月、始起兵於己吾、是歳中平六年也。

献帝が立つのは、中平六年の九月甲戌(范書 献帝紀)である。そのあとに曹操は名を変えて中牟を過ぎる。亭長に疑われるが、知人のおかげで逃げる。董卓が何太后を殺すのは、九月丙子(范書 献帝紀)である。

日付まで分かってくる九月のできごとと、九月のできごとの間に挟まれるので、少なくとも武帝紀の記述においては、曹操の逃亡は九月と確定する。


曹操の郷里は、豫州の沛国であり、范書 献帝紀に、

(中平六年九月)甲午、豫州牧黄琬為司徒。

とあるから、曹操が逃亡した時点では、豫州は黄琬の管轄下である。
曹操の逃亡とほとんど同時期に司徒になるため、捕縛に取り組んだか分からないが、時期は重なる。

ぼくは思う。袁忠は、『後漢書』党錮 范滂伝で活躍する。黄琬もまた、董卓に迎えられるほどの名望家である。彼らが、董卓のために「きちんと仕事をした」ことのほうがおもしろい。
漢魏革命を必然とするような見方に凝り固まると、曹操の逃亡は、歴史の推進力であり、董卓こそが秩序の破壊者に思える。しかし曹操が、きちんと取り締まられていることから、中平六年までは、全土の統一が保たれていることに驚く。


魏書曰、太祖以卓終必覆敗、遂不就拜、逃歸郷里。

曹操は郷里で起兵する計画であろうが、河南郡の中牟県に、手配書が回っていた。中牟県で時間を食っているうちに、帰郷が遅れ、(すでに手配書が回ったであろう)郷里に帰れなくなった。起兵するしかなくなった。
郷里の人々は、曹操の行動を把握できない。曹嵩のような疎開場所を持たなかった者や、連絡が行き届かなかった者、洛陽などにいた者は、逮捕されたであろう。

てぃーえすさん(@Golden_hamster)はいう。
曹操の縁戚の腹心たちは一見多数いるように見えるが、3親等くらいまでの近親が全然出てこない。その理由がイメージできてきた。当然と言えば当然なのだが、曹操が反董卓の挙兵をしたことで捕まって殺されているのだろう。袁紹の近親がそうなってるんだから同じようになったという事だ。
一番考えられるのは、曹操とその後継者としては親族を見殺しにする決断をしたことは、流石にあまり広めてほしくなかったということか。袁紹や馬超の例は敗者なので全てありのまま書かれた感じですが、彼らも勝者になれば何らかの言い訳か隠蔽工作がされたのかもしれない。
結論は、曹操が逃亡して挙兵したことによって多くの親族が獄死・処刑されたのではないか、父で彼らの家の当主である曹嵩も逃亡を余儀なくされたのではないか、ということである。『魏書』では董卓から逃げた曹操は、郷里に戻ろうとしたと書いてる。それが陳留で挙兵することになったのって、協力者が見つかったからというのが大きいとしても、郷里は官憲の手が及んでいて既に手遅れ(と踏んだ)というのもあったかもしれないな。

@Rieg__Goh さんはいう。反董卓連合の頃の汝南太守と思われる徐璆を、袁術は殺すどころか自分に仕えさせようとしたのを見るに、地元にいた袁氏は無事だったのかもしれん。
@Golden_hamster さんはいう。太守次第では37564にならなかったのにというのが、曹操が袁忠を憎む原因かもしれませんな。袁忠は真面目に仕事しただけだと思うけど。

動員力を期待できた親族との接触を断たれたために独力でやるしかなくなった。親族の力を全面的に手にできていれば曹操の挙兵当初はもう少し楽だったのかもしれない。
時系列は、①曹操、郷里へ急ぐ、②中牟県で捕まる、③指名手配、予州・沛国に届く、④沛で官憲を攪乱させるため秦伯南が犠牲になる、⑤曹操、厳戒態勢の郷里に戻るのを諦める、⑥挙兵、⑦沛国の官憲が曹氏一党の逮捕を開始、⑧曹嵩、逮捕を逃れ琅邪へ避難、というところだろうか

『喚いて叫ばざれば』より

むじんさんの記事が参考とのことなので、確認する。
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20080703/p1

『三国志』曹真伝 注引『魏書』を、むじんさんの訳で読むと、

曹邵は実直な人柄で才知があり、太祖に信愛された。初平年間、太祖が義勇軍を起こしたとき、曹邵が兵士を募集し、太祖に従って駆けずりまわった。そのころ予州刺史黄琬が太祖を殺害しようとしており、太祖はそれを回避したものの、曹邵だけが殺害されてしまった。

「初平」は「中平」の誤り。『後漢紀』によると、黄琬は豫州牧のとき、下軍校尉鮑鴻を処刑している。

曹真伝 注引『魏略』を、むじんさんの訳で読むと、

曹真は本姓を秦といい、曹氏に養われたのである。一説に言う。父の秦伯南は幼少のころより太祖と親密であった。興平年間の末期、袁術の部下が太祖を攻撃してきた。太祖は脱出したが、敵に追われて秦氏の邸宅に逃げこんだ。秦伯南が門を開いて迎えいれ、敵が太祖の居場所を尋ねると「おれがそうだ」と答え、その場で殺された。このことから太祖はその功績を思いおこし、かれの姓を変えたのである。

むじんさんは「袁術の部下」ではなく、「袁忠の部下」ではないかと指摘。

むじんさん曰く、おそらく諸書が参照した記録にはもともと、初平年間または興平年間、予州刺史の命を受けて袁忠が曹操を処刑しようとし、曹操は逃げのびて曹邵が誤殺された、と書かれていて、それを『魏書』は予州刺史を黄琬と誤り、『魏略』は袁忠を袁術と誤ったのではないだろうか。

むじんさんは原史料の存在を想定して、年号は「初平」「興平」のどちらかとする。もちろん、原史料から引き写した『魏略』『魏書』に従えば、そうなる。しかし「曹操が義勇兵を起こす」のは、ぼくらが最も信頼したい『三国志』武帝紀によると、中平年間である。
てぃーえすさんの仰るとおり、中平六年九月、曹操が逃亡した。豫州・沛国に手配が回って、黄琬・袁忠が曹操を捕らえようとした。秦伯南が殺された、という話はありそう。


BABIさんのツイートより

BABIさん(松浦桀 @HAMLABI3594)が論じる。
むじん氏は『魏略』?の曹真の父を殺害した袁術の部下を、沛国の相の袁忠の部下の誤りとする。よさそう。豫州牧の黃琬が司徒に異動していることから、王沈『魏書』が書く当時の豫州刺史黃琬は誤りだとするが、これは在外三公と解釈すれば豫州牧でいける。

ぼくは思う。董卓が、積極的に在外三公を置いたと考えると面白い。ふつう三公に任命したら、「中央に帰ってこいよ」の意味になりそう。しかし在外三公に、ポジティブであれば、それは「この国は分裂しちゃえよ」という呪いの政策である。

類例は劉虞。董卓が太尉に就任したため、幽州牧で太尉の劉虞は幽州牧で大司馬となり、豫州牧の黃琬は豫州牧で司徒となったのであろう。

ぼくは思う。中平六年の九月のうちに、豫州牧の黄琬(在外三公であることは問わない;だったらなぜBABIさんのツイートを引用してしまったのかw)が、沛相の袁忠をつかって曹操を攻撃してきた、という、てぃーえすさんの理解に従いたい。
っていうか、在外三公のことは関係ない。それよりも、黄琬が去ったあと、袁紹・袁術が競って豫州刺史を任命するという、つぎの展開への繋がりに注意したい。


六合さんのツイートより

六合さん(@Rieg__Goh)はいう。
反董卓連合の頃、袁氏も曹操同様故郷にいる一族が同じ目に遭ってもおかしくないはずだけど、3月までは太傅袁隗が董卓とともに政権を主催していたし、その死後は董卓の威令が関東に届かなくなってる。それでひどいことにならなかったのかもな。
反董卓連合の頃の汝南太守と思われる徐璆を、袁術は殺すどころか自分に仕えさせようとしたのを見るに、地元にいた袁氏は無事だったのかもしれん。
汝南太守徐璆は、袁術の豫州支配、つまり孫堅らの活躍を支えてたかもしれんなあ。その後朱儁を盟主にする動きを陶謙とともに見せているが、それも袁術と敵対する行動ではなかったのかもしれない。全部想像だけど。
なお、袁術の玉璽を持って曹操に献上したのがこの人。汝南太守徐璆は印綬を持ったまま徐州に行っているので、袁術とは一度敵対して陶謙に庇護されたかも。

@korekorebox さんはいう。徐璆は元荊州刺史で、黄巾討伐の時には朱儁に協力した一人でもあります。孫堅・陶謙とも近しい関係なのです


以上を受けて思うこと

『三国志』武帝紀の宿命として、曹操の動きが、重要なトリガーになって、董卓とそれ以外との戦いが始まった、というストーリーにしなければならない。史書(+物語)は単純化して、董卓の横暴、袁紹や曹操の起兵、関東と関西の対立、董卓の遷都、という一直線の話にする。
しかし、「洛陽を逃亡した曹操が手配され、沛国相の袁忠に一族の大半を殺されてから、連合軍に合流した」とか、「汝南太守の徐璆は、董卓に言うとおりに郡下で取り締まらなかったとか」を読むと、後漢の統制が乱れて、指揮命令がどのように分断されたかが分析できる。
地域性や、太守の立場・性格によって、分断の進み方が違うだろう。孫堅が太守だてらに、同じ荊州の刺史や太守を殺して北上したのも、同じ文脈で解せる。袁紹らは地方長官の肩書きで兵を起こしたわけだし。

黄琬・袁忠という、地方長官として正しい職務をこなす人々が、徐々に、時流の読めない少数派、負け組に転落するプロセスがおもしろそう。袁忠は曹操に殺されるし、黄琬は李傕だかに殺される。職務に忠実だったひとが、バカを見るという、価値観の逆転が起きていく。そしたら、だれも後漢のために働かないよな。
董卓が袁隗を始末したあたりが、もう戻れない境界線になるのだろうが。
黄琬も袁忠も、『後漢書』の歴史観、すなわち「党錮にあった清廉なひとびとが、つぎの時代を切り開きました、めでたし、めでたし」においては、善玉であり主役になれるはず。彼らの知人で、同じような文脈に位置づけられそうな范滂とか、英雄のような扱いだから。しかし『三国志』の歴史観では、旧時代の異物で、董卓とともに退場すべき、時流遅れである。
黄琬・袁忠・袁隗あたりを踏み台にして、袁紹・袁術・曹操がどのように台頭してくるのか。董卓との接し方、この記事で話題になっている過渡期あたりに、よいネタがいっぱい眠っていそう。
徐璆と袁術の振る舞い(連携と、やがて表面化するズレ;印璽という象徴品を媒介として)なども、同根のネタになりそうだし。

『資治通鑑』を見てても思うけど、董卓とそれ以外の戦いって、いまいち時系列が分からない。
散発的な「反乱」を、董卓がつぶしているうちに、いつのまにか大きな潮流が生まれたのだろう。「反乱」者のがわに、特定のプロデューサーを設定するよりも、コップの水があふれるように、後漢が終わっていく、という話のほうがおもしろそう。
内外に怨恨や対立があれども「統一王朝」だった後漢が、董卓の遷都という帰結に向かって破壊されていく、190年~192年くらいは楽しい時代。分裂を促進したのは、董卓が先か、曹操・袁紹が先か、同時なのか、構造に規定されたのか。この時期の過程を詳しく分析すれば、三国鼎立までが見通せそう。

「中平」期に、豫州「牧」の黄琬の指示を受けて、沛相の袁忠が、曹操を取り締まった。という、てぃーえすさんの仮説に従いつつ、後漢の壊れ方について、もっと考えてみたらおもしろいな、と思いました。150614

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