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- 309年、劉淵軍が并州の平陽から、京師に近づく
309年春、劉淵が平陽に遷都する
【晉紀九】 起屠維大荒落,盡重光協洽,凡三年。
孝懷皇帝中永嘉三年(己巳,公元三零九年)
春,正月,辛丑朔,熒惑犯紫微。漢太史令宣於修之,言於漢主淵曰:「不出三年,必克洛陽。蒲子崎嶇,難以久安;平陽氣象方昌,請徙都之。」淵從之。大赦,改元河瑞。永嘉3年、春正月辛丑ついたち、熒惑が紫微を犯した。
胡三省はいう。紫微とは紫宮のこと。漢太史令の宣于修之は、
『考異』はいう。『晋春秋』は、「鮮于脩之」につくる。いま載記・『十六国春秋』にしたがう。鮮于という姓はあるが、宣于という姓はない。漢主の劉淵にいう。「3年出なければ、必ず洛陽をおとせる。蒲子(地名)は崎嶇であるから、久しく安定させるのは難しい。平陽の気象は盛んであるから、蒲子から平陽に遷都しなさい」と。劉淵はこれに従って遷都した。大赦して、「河瑞」と改元した。
ときに汾水から、玉璽を得た。だから「河瑞」とした。
三月,戊申,高密孝王略薨。以尚書左僕射山簡為征南將軍、都督荊、湘、交、廣四州諸軍事,鎮襄陽。簡,濤之子也,嗜酒,不恤政事;表「順陽?史劉?得?心,恐百姓劫?為主」。詔征?為越騎校尉。南州由是遂亂,父老莫不追思劉弘。3月戊申、高密孝王の司馬略が薨じた。尚書左僕射の山簡を(司馬略の後任として)征南將軍・都督 荊湘交廣 四州諸軍事として、襄陽に鎮させた。山簡とは、山濤の子である。酒をたしなみ、政事を気にかけない。山簡は表した。「順陽内史の劉璠は、衆心を得る。百姓が劉璠をおどして担ぎ、主君に(して西晋に反逆)することを恐れます」と。
ぼくは思う。山簡は政事がめんどうくさいから、衆心を得ており、やっかいな劉璠を、荊州から遠ざけようとした。中央は、何も考えずに劉璠を荊州から剥がした。詔して、劉璠を徴して(中央に異動させ)越騎校尉とした。これにより、南州はついに反乱した。父老は、劉弘を追思しない者はない。
胡三省はいう。劉弘の父子は、江・漢の民心を得ていたと、史料は語っている。
309年3月、司馬越が繆播・何綏を殺す
丁巳,太傅越自滎陽入京師。中書監王敦謂所親曰:「太傅專執威權,而選用表請,尚書猶以舊制裁之,今日之來,必有所誅。」
帝之為太弟也,與中庶子繆播親善,及即位,以播為中書監,繆胤為太僕卿,委以心膂;帝舅散騎常侍王延、尚書何綏、太史令高堂沖,並參機密。越疑朝臣貳於己,劉輿、潘滔勸越悉誅播等。越乃誣播等欲為亂,乙丑,遣平東將軍王秉,帥甲士三千入宮,執播等十餘人於帝側,付廷尉,殺之。帝歎息流涕而已。3月丁巳、太傅の司馬越が、滎陽より京師に入る。
司馬越は去年から滎陽に移って屯してた。中書監の王敦は、親しい者にいう。「太傅の司馬越は、威権を專執するが、選用・表請は、尚書が旧制どおりに裁可している。今日、司馬越が(京師に)来れば、必ず(われら尚書系統の役人は)誅されるだろう」と。
懐帝が皇太弟になると、中庶子の繆播と親善した。即位すると、繆播を中書監として、繆胤を太僕卿として、心膂として頼りにした。
太僕は九卿である。ただし晋制では「太僕卿」でなく「太僕」が正しい。帝舅である散騎常侍の王延、尚書の何綏、太史令の高堂沖は、みな機密にたずさわる。司馬越は、朝臣たちからの敵意を疑った。劉輿・潘滔は、司馬越に「(懐帝に近い)繆播らを誅せ」と勧めた。司馬越は、「繆播が乱をなす」と誣告した。3月乙丑、平東將軍の王秉に、甲士3千を帥ゐて入宮させ、繆播ら10余人を懐帝のそばで捕らえた。廷尉に付して殺した。
胡三省はいう。司馬越は、繆播の兄弟が河間において優勢なので、これを殺した。権勢の争いは、畏るべきことだ(罪もない繆播の兄弟が殺されるのだから)。懐帝は、歎息・流涕するのみだった。
綏,曾之孫也。初,何曾侍武帝宴,退,謂諸子曰:「主上開創大業,吾?宴見,未嘗聞經國遠圖,惟?平生常事,非貽厥孫謀之道也,及身而已,後嗣其殆乎!汝輩猶可以免。」指諸孫曰:「此屬必及於難。」及綏死,兄嵩哭之曰:「我祖其殆聖乎!」曾日食萬錢,猶雲無下箸處。子劭,日食二萬。綏及弟機、羨,汰侈尤甚;與人書疏,詞禮簡傲。河?王尼見綏書,謂人曰:「伯蔚居亂世而矜豪乃爾,其能免乎?」人曰:「伯蔚聞卿言,必相危害。」尼曰:「伯蔚比聞我言,自己死矣!」及永嘉之末,何氏無遺種。何綏は、何曽の孫である。
はじめ何曽は、武帝の宴に侍った。退いて、諸子に、「主上は大業を開創したが、私は宴見するたび、いちども経国・遠図が話題になるのを聞いたことがない。身の回りの話ばかりだ。子孫の代になると、西晋は危ういぞ」と。何曽は(自分のの)孫たちを指して、「お前たちに必ずや苦難が及ぶ」といった。何嵩が死ぬと、兄の何嵩は哭して、「わたしの祖父の見通したとおりになった」といった。
何曽は、1日の食費が1万銭であり、子の何劭は1日に2万銭であった。何綏および弟の何機・何羨は、さらに食費で蕩尽した。人に書疏を与えれば、その詞・禮は簡傲であった。
河内の王尼は、何綏の文書を見て、人にいった。「伯蔚(何綏)は、乱世を生きるのに、矜豪である。無事でいられるかな」と。人はいう。「伯蔚(何綏)があなたの言葉を聞けば、必ずあなたに危害をくわえる」と。王尼「伯蔚が私の言葉を聞くころには、とっくに彼は死んでるさ」と。永嘉の末、何氏は子孫が残らなかった。
臣光曰:何曾譏武帝?惰,取過目前,不為遠慮;知天下將亂,子孫必與其憂,何其明也!然身為僭侈,使子孫承流,卒以驕奢亡族,其明安在哉!且身為宰相,知其君之過,不以告而私語於家,非忠臣也。司馬光はいう。何曽は、晋武帝が日常の惰性に流れており、天下が乱れると知って、子孫の心配をした。なんと聡明なことか。しかし何曽は贅沢をして、何氏の子孫も贅沢に流れて、何氏を滅ぼしてしまった。ちっとも聡明ではない。また何曽は、宰相の地位にありながら、晋武帝の過失を見逃して、身内にだけ将来の心配を語った。忠臣ではない。
太傅越以王敦為揚州刺史。
劉實連年請老,朝廷不許。尚書左丞劉坦上言:「古之養老,以不事為憂,不以吏之為重,謂宜聽實所守。」丁卯,詔實以侯就第。以王衍為太尉。
太傅越解?州牧,領司徒。越以頃來興事,多由殿省,乃奏宿衛有侯爵者皆罷之。時殿中武官並封侯,由是出者略盡,皆泣涕而去。更使右衛將軍何倫、左衛將軍王秉領東海國兵數百人宿衛。太傅の司馬越は、王敦を揚州刺史とした。
王敦が東晋を乱す張本である!劉寔は数年にわたり、老いたので引退したいが、朝廷は許さない。尚書左丞の劉坦が上言した。「古制において養老は、職務から外すことを優・重とした。劉寔の願いを聞いてやれ」と。丁卯、劉寔は侯を以て就第した。王衍を太尉とした。
太傅の司馬越は、兗州牧を解かれて、司徒を領した。このごろ事件が、殿省から多く起こった。そこで司馬越は奏して、宿衛のうち侯爵である者を、すべて罷免した。
事件とは、楊駿を誅し、賈后を廃し、司馬倫を誅し、司馬冏と司馬穎を討ち、羊后と司馬覃を廃したこと。これらの事件は、みな殿中の人が行った。ときに殿中の武官は、みな侯爵に封じられており、これにより、ほぼ全員が外に出された。みな泣涕して去った。あらためて、右衛將軍の何倫、左衛將軍の王秉に、東海國の兵の數百人を領させて、殿中で宿衛させた。
これにより懐帝の左右に、司馬越と私的なつながりのある人しか、いなくなった。
左積弩將軍?誕奔漢,具陳洛陽孤弱,勸漢主淵攻之。淵以誕為前鋒都督,以滅晉大將軍劉景為大都督,將兵攻黎陽,克之;又敗王堪於延津,沈男女三萬餘人於河。淵聞之,怒曰:「景何面復見朕?且天道豈能容之?吾所欲除者,司馬氏耳,細民何罪?」黜景為平虜將軍。左積弩將軍の朱誕は、漢に奔った。
武帝の泰始4年、振威・揚威護軍を罷めて、左右積弩将軍を置いた。つぶさに、洛陽の孤弱さを述べ、劉淵に洛陽を攻めろと勧めた。劉淵は、朱誕を前鋒都督とした。滅晉大將軍の劉景を大都督として、兵をひきいて黎陽を攻めさせ、黎陽をおとした。また王堪を延津で破り、男女3万余人を黄河に沈めた。劉淵はこれを聞き、怒った。「劉景は、どのツラ提げて朕に会うか。天道が劉景の行いを許容するか。私が除きたいのは司馬氏のみであり、細民に何の罪があったか」と。劉景を降格して、平虜將軍とした。
胡三省はいう。劉淵の識略は、劉聡・劉曜が及ぶものではない。
ぼくは思う。「滅晋大将軍」とか、敵意まるだしの将軍号をつくり、しかも、「除きたいのは司馬氏のみ」と、照準がキレイに決まってる。なぜ、ここまで「識略」ある劉淵は、司馬氏の晋をここまで憎むに至ったか。ぎゃくに興味がある。
夏、石勒が「君子営」で張賓を軍師とする
夏,大旱,江、漢、河、洛皆竭,可?。
漢安東大將軍石勒寇巨鹿、常山,?至十餘萬,集衣冠人物,別為君子營。以趙郡張賓為謀主,?膺為股肱,?安、孔萇、支雄、桃豹、?明為爪牙,并州諸胡羯多從之。夏、大旱あり。江・漢・河・洛は、みな枯渇して、歩いて渡れた。
胡三省はいう。川が枯渇するのは、亡国の徴候である。ぼくは思う。べつに特別な思想を前提にしなくても、陸路で移動しやすくなると、軍事行動が活性化されそう。漢の安東大將軍の石勒は、巨鹿・常山を寇した。石勒軍は、十余万にいたり、衣冠の人物を集めて、分けて「君子営」とした。趙郡の張賓を謀主として、刁膺を股肱とした。
胡三省はいう。石勒は胡羯の飢えた奴隷から身を起こしたが、「君子営」を作るようなことをした。だから中原を制圧することができた。ぼくは思う。「名士」論である。夔安・孔萇・支雄・桃豹・逯明を爪牙とした。
ぼくは思う。爪牙(軍事的な指揮官)は、姓が異民族っぽくなる。并州の諸胡羯は、多くが石勒に従った。
初,張賓好讀書,闊達有大志,常自比張子房。及石勒徇山東,賓謂所親曰:「吾?觀諸將,無如此胡將軍者,可與共成大業!」乃提劍詣軍門,大呼請見,勒亦未之奇也。賓數以策干勒,已而皆如所言。勒由是奇之,署為軍功曹,動靜咨之。はじめ、張賓は読書を好み、闊達で大志があり、つねに自分を張子房に比した。石勒が山東を徇えると、張賓は親しい者に、「私は諸将を見てきたが、この胡族の将軍(石勒)ほどの者はいなかった。彼とともに大業を成そう」と。剣をさげて軍門にゆき、大声で会見を申し込むと、石勒も張賓を評価した。張賓は、しばしば石勒に献策し、すべて言うとおりになった。石勒はよろこび、張賓を軍功曹として、動静(全てのこと)にわたって諮問した。
劉備と諸葛亮、と同じ組合せ。石勒は劉備よりも、教養が少なくて軍事に特化しているから、キャラが極端なコンビなのだろう。きっと張賓は、張良・諸葛亮よりも、実務的に優れた軍師でなければ、石勒を成功させることができない。
夏、漢軍が并州で勝ち進む
漢主淵以王彌為侍中、都督青、徐、?、豫、荊、揚六州諸軍事、征東大將軍、青州牧,與楚王聰共攻壺關,以石勒為前鋒都督。劉?遣護軍?肅、韓述救之,聰敗述於西澗,勒敗肅於封田,皆殺之。
太傅越遣淮南?史王曠、將軍施融、曹超將兵拒聰等。曠濟河,欲長驅而前,融曰:「彼乘險間出,我雖有數萬之?,猶是一軍獨受敵也。且當阻水為固以量形勢,然後圖之。」曠怒曰:「君欲沮?邪!」融退,曰:「彼善用兵,曠暗於事勢,吾屬今必死矣!」曠等逾太行與聰遇,戰於長平之間,曠兵大敗,融、超皆死。漢主淵は、王弥を侍中・都督青徐兗豫荊揚六州諸軍事・征東大將軍・青州牧とした。王弥に、楚王の劉聡とともに壺関を攻めさせ、石勒を前鋒都督とした。劉琨は、護軍の黄肅・韓述に壺関を救わせたが、劉聡は韓述を西澗で破り、石勒は黄粛を封田で破り、どちらも殺した。
太傅の司馬越は、淮南内史の王曠、將軍の施融、曹超をつかわし、劉聡を防がせた。王曠は黄河をわたり、長駆して漢軍の前にゆきたい。施融「敵軍は険しい地形を利用して出てきた。自軍には数万がいるが、(会戦できるような平地がないので)1軍で敵を受けるようなもの。黄河を防衛線にして、様子をみよう」と。王曠は怒り、「きみは自軍のジャマをしたいのか」といった。施融は退いて、「王曠は用兵を得意とするかも知れないが、事勢を分かっていない。われらは必ず死ぬだろう」と。王曠は太行山脈を越えて、劉聡と遭遇し、長平の間で戦ったが、大敗した。施融・曹超も死んだ。
聰遂破屯留、長子,凡斬獲萬九千級。上黨太守?淳以壺關降漢。劉?以都尉張倚領上黨太守,據襄垣。
初,匈奴劉猛死,右賢王去卑子之誥升爰代領其?。誥升爰卒,子虎立,居新興,號鐵弗氏,與白部鮮卑皆附於漢。劉?自將?虎,劉聰遣兵襲晉陽,不克。
五月,漢主淵封子裕為齊王,隆為魯王。ついに劉聡は、屯留・長子をやぶり、9千級を斬獲した。上党太守の龐淳は、壺関ごと漢に降った。劉琨は、都尉の張倚に上党太守を領して、襄垣に拠らせた。
『考異』はいう。『十六国春秋』は「龐淳」を「劉惇」につくる。劉琨伝は「襲キョウ」につくる。いま帝紀に従う。
襄垣は、上党郡に属する。趙襄子が築いたから、この名である。
はじめ(泰始八年)匈奴の劉猛が死ぬと、右賢王の去卑の子である誥升爰が、代わって衆を領した。誥升爰が卒すると、子の虎が立ち、新興に居て、「鉄弗氏」を号して、白部の鮮卑とともに漢についた。劉琨はみずからひきいて虎を撃った。劉聡は兵をつかわし晋陽を襲ったが、勝たず。
出来事について、『晋書』帝紀、『十六国春秋』、『劉琨集』などで差異が大きいらしい。2744頁。5月、漢主淵は、子の劉裕を齊王に、劉隆を魯王に封じた。
秋、垣延が宜陽で劉聡を破る
秋,八月,漢主淵命楚王聰等進攻洛陽;詔平北將軍曹武等拒之,皆為聰所敗。聰長驅至宜陽,自恃驟勝,怠不設備。九月,弘農太守垣延詐降,夜襲聰軍,聰大敗而還。
王浚遣祁弘與鮮卑段務勿塵?石勒於飛龍山,大破之,勒退屯黎陽。秋8月、漢主の淵は、楚王の劉聡らに命じて、洛陽に進攻させた。晋懐帝は詔して、平北將軍の曹武らに拒ませたが、すべて劉聡に敗れた。劉聡は長駆して宜陽に至り、勝ちにおごって、防備を怠った。9月、弘農太守の垣延が詐わって降り、劉聡の軍を夜襲した。劉聡は大敗して、還った。
王浚は、祁弘をつかわし、鮮卑の段務勿塵とともに、飛龍山で石勒を撃ち、大破した。石勒は退いて黎陽に屯した。
冬、劉淵が洛陽に迫るが、撤退する
冬,十月,漢主淵復遣楚王聰、王彌、始安王曜、汝陰王景帥精騎五萬寇洛陽,大司空雁門剛穆公呼延翼帥?卒繼之。丙辰,聰等至宜陽。朝廷以漢兵新敗,不意其復至,大懼。辛酉,聰屯西明門。北宮純等夜帥勇士千餘人出攻漢壁,斬其征虜將軍呼延顥。壬戌,聰南屯洛水。乙丑,呼延翼為其下所殺,其?自大陽潰歸。淵敕聰等還師。聰表稱晉兵微弱,不可以翼、顥死故還師,固請留攻洛陽,淵許之。太傅越嬰城自守。冬10月、漢主淵は、ふたたび楚王の劉聡、王弥、始安王の劉曜、汝陰王の劉景に、精騎5万をつけて洛陽を寇させる。大司空たる雁門の剛穆公の呼延翼は、歩兵をひきいて後続する。10月丙辰、劉聡らは宜陽に至る。晋の朝廷は、漢軍が敗れたばかりなのに、不意に再来したので、おおいに懼れた。
10月辛酉、劉聡は西明門に屯した。北宮純らは、夜に勇士1千人をひきいて、出て漢の壁を攻め、漢の征虜將軍の呼延顥を斬った。壬戌、劉聡は南して洛水に屯した。乙丑、呼延翼は部下に殺された。呼延翼の軍は、大陽から潰走して帰った。劉淵は劉聡らに、「軍をもどせ」と勅した。劉聡は、「晋兵は微弱だから、呼延翼・呼延顥が死んでも軍をもどす必要はない。ぜひとも洛陽を攻めたい」と答えた。劉淵は許した。
太傅の司馬越は、嬰城・自守した。
戊寅,聰親祈嵩山,留平晉將軍安陽哀王厲、冠軍將軍呼延朗督攝留軍;太傅參軍孫詢?越乘?出?朗,斬之,厲赴水死。王彌謂聰曰:「今軍既失利,洛陽守備猶固,運車在陝,糧食不支數日。殿下不如與龍驤還平陽,裹糧發卒,更為後舉;下官亦收兵谷,待命於?、豫,不亦可乎?」聰自以請留,未敢還。宣於修之言於淵曰:「?在辛未,乃得洛陽。今晉氣猶盛,大軍不歸,必敗。」淵乃召聰等還。10月戊寅、劉聡はみずから嵩山に祈った。平晉將軍たる安陽哀王の劉厲・冠軍將軍の呼延朗を留めて、留軍を督摂させた。太傅参軍の孫詢は、司馬越に「虚に乗じて呼延朗を撃とう」と勧めた。晋軍は呼延朗を斬り、呼延厲は水に赴いて死んだ。
王弥は劉聡にいう。「いま軍は利を失った。洛陽の守備は、なお固い。運車は陝にあり、糧食は数日ももたない。殿下は龍驤(大将軍の劉曜)とともに平陽に還りなさい。食糧をしまって兵卒を出発させ、そのあとで改めて行動を起こそう。私もまた、兵と穀物を収容して、豫州・兗州で次の命令を待ちます。いかがでしょうか」と。劉聡は自ら洛陽にそばに留まりたいので、平陽に引き上げない。
宣于修之は、劉淵にいう。「歳は辛未にあり、乃ち洛陽を得ん。いま晋の気 猶ほ盛んなり。大軍 帰らざれば、必ず敗れん」と。劉淵は劉聡らを召して、帰還した。
◆譙周の孫・譙登が、成主の李雄を退ける
天水人?琦等殺成太尉李離、尚書令閻式,以梓潼降羅尚。成主雄遣太傅驤、司徒雲、司空?攻之,不克,雲、?戰死。
初,?周有子居巴西,成巴西太守馬?殺之,其子登詣劉弘請兵以復仇。弘表登為梓潼?史,使自募巴、蜀流民,得二千人;西上,至巴郡,從羅尚求益兵,不得。登進攻宕渠,斬馬?,食其肝。會梓潼降,登進據?城;雄自攻之,為登所敗。天水の人である□琦らは、成の太尉である李離、尚書令の閻式を殺して、梓潼ごと羅尚に降った。成主の李雄は、太傅の李驤・司徒の李雲の司空の李璜に梓潼を攻めさせたが、勝てない。李雲・李璜は戦死した。
はじめ、譙周の子が巴西にいた。成の巴西太守である馬脱はこれを殺した。その子の(譙周の孫である)譙登は、劉弘のところにゆき、「兵をくれ、復仇したい」という。劉弘は表して、譙登を梓潼内史にしてやり、自ら巴・蜀の流民を募らせた。譙登は2千人を得た。西上して巴郡に至る。羅尚から兵をもらいたいが、得られず。譙登は宕渠に進攻して、馬脱を斬って、その肝を食った。たまたま梓潼が降ったので、譙登は進んで涪城に拠った。李雄が自ら涪城を攻めたが、譙登に破られた。
十一月,甲申,漢楚王聰、始安王曜歸於平陽。王彌南出?轅,流民之在穎川、襄城、汝南、南陽、河南者數萬家,素為居民所苦,皆燒城邑,殺二千石、長吏以應彌。石勒寇信都,殺冀州刺史王斌。王浚自領冀州。詔車騎將軍王堪、北中郎將裴憲將兵討勒,勒引兵還,拒之;魏郡太守劉矩以郡降勒。勒至黎陽,裴憲棄軍奔淮南,王堪退保倉垣。11月甲申、漢の楚王の劉聡、始安王の劉曜は、平陽に帰った。王弥は南して轘轅に出た。流民のうち、穎川・襄城・汝南・南陽・河南にいる者は、数万家である。
襄陽県は、漢代は頴川郡に属した。晋武帝の泰始2年、分けて襄城郡とした。流民は、もとの住民に苦しめられたので、みな城邑を焼き、二千石・長吏を殺して、より王弥に応じた。
石勒は信都を寇して、冀州刺史の王斌を殺した。
信都県は、前漢は信都国に属し、後漢は安平国に属した。晋代は後漢に同じ。王浚は、自ら冀州を領した。詔して、車騎將軍の王堪・北中郎將の裴憲に石勒を討たせるが、石勒は兵をひき、還って拒んだ。魏郡太守の劉矩は、魏郡ごと石勒に降った。石勒は黎陽に至った。裴憲は軍を棄てて淮南に奔った。王堪は退いて倉垣に保した。
倉垣は、陳留の浚儀県に属する。『水経』は…。
十二月,漢主淵以陳留王歡樂為太傅,楚王聰為大司徒,江都王延年為大司空。遣都護大將軍曲陽王賢與征北大將軍劉靈、安北將軍趙固、平北將軍王桑,東屯??。王彌表左長史曹嶷行安東將軍,東徇青州,且迎其家;淵許之。
12月、漢主淵は、陳留王の歓楽を太傅とし、楚王の劉聡を大司徒とし、江都王の延年を大司空とした。都護大將軍の曲陽王の劉賢と、征北大將軍の劉霊、安北將軍の趙固、平北將軍の王桑をつかわし、東して内黄に屯させた。
胡三省はいう。内黄は魏郡に属する。応劭はいう。陳留には外黄があり、ゆえに「内」黄という。王弥は表して、左長史の曹嶷を行安東將軍として、東して青州を徇らせ、その家に迎えたいと言った。劉淵はこれを許した。
初,東夷校尉勃海李臻,與王浚約共輔晉室,浚?有異志,臻恨之。和演之死也,別駕昌黎王誕亡歸李臻,?臻舉兵討浚。臻遣其子成將兵?浚。遼東太守?本,素與臻有隙,乘?襲殺臻,遣人殺成於無慮。誕亡歸慕容?。詔以勃海封釋代臻為東夷校尉,?本復謀殺之;釋子悛勸釋伏兵請本,收斬之,悉誅其家。はじめ、東夷校尉たる勃海の李臻は、王浚とともに、共に晉室を輔けようと約した。王浚は内心に異志があり、李臻はこれを恨んだ。和演が死ぬと、別駕たる昌黎王の司馬誕は、にげて李臻に帰した。李臻に説き、「挙兵して王浚を討とう」と誘った。李臻は、子の李成に兵をつけ、王浚を討った。
『考異』はいう。『燕書』王誕伝では、李成を李咸とつくる。いま李洪伝に従う。遼東太守の龐本は、もとより李臻と仲がわるい。虚に乗じて李臻を殺し、人をやって李成を無慮で殺した。
無慮剣は、前漢では遼東、後漢では遼東属国に属し、晋代に省かれた。司馬誕はにげて、慕容廆に帰した。晋懐帝は詔して、勃海の封釈を、李臻に代えて東夷校尉とした。龐本は、ふたたび謀って、封釈を謀殺したい。封釈の子の封悛は、封釈に、「伏兵をおいて龐本を呼び寄せよう」と勧めた。封釈は龐本をとらえて斬り、その一族を全て誅した。140809
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孝懷皇帝中永嘉四年(庚午,公元三一零年) 春,正月,乙丑朔,大赦。 漢主淵立單征女為皇后,梁王和為皇太子,大赦;封子義為北海王;以長樂王洋為大司馬。 漢鎮東大將軍石勒濟河,拔白馬,王彌以三萬?會之,共寇徐、豫、?州。二月,勒襲?城,殺?州刺史袁孚,遂拔倉垣,殺王堪。復北濟河,攻冀州諸郡,民從之者九萬餘口。 成太尉李國鎮巴西,帳下文石殺國,以巴西降羅尚。 太傅越征建威將軍?興錢?及揚州刺史王敦。?謀殺敦以反,敦奔建業,告琅邪王睿。?遂反,進寇陽羨,睿遣將軍郭逸等討之;周□糾合?里,與逸等共討?,斬之。□三定江南,睿以□為?興太守,於其?里置義興郡以旌之。 曹嶷自大梁引兵而東,所至皆下,遂克東平,進攻琅邪。 夏,四月,王浚將祁弘敗漢冀州刺史劉靈於廣宗,殺之。 成主雄謂其將張寶曰:「汝能得梓潼,吾以李離之官賞汝。」寶乃先殺人而亡奔梓潼,?琦等信之,委以心腹。會羅尚遣使至梓潼,琦等出送之;寶從後閉門,琦等奔巴西。雄以寶為太尉。 幽、並、司、冀、秦、雍六州大蝗,食草木、牛馬毛皆盡。 秋,七月,漢楚王聰、始安王曜、石勒及安北大將軍越國圍河?太守裴整於懷,詔征虜將軍宋抽救懷。勒與平北大將軍王桑逆?抽,殺之;河?人執整以降,漢主淵以整為尚書左丞。河?督將郭默收整餘?,自為塢主,劉?以默為河?太守。羅尚卒於巴郡,詔以長沙太守下?皮素代之。 庚午,漢主淵寢疾;辛未,以陳留王歡樂為太宰,長樂王洋為太傅,江都王延年為太保,楚王聰為大司馬、大單于,並?尚書事。置單于台於平陽西。以齊王裕為大司徒,魯王隆為尚書令,北海王乂為撫軍大將軍、領司隸校尉,始安王曜為征討大都督、領單于左輔,廷尉喬智明為冠軍大將軍、領單于右輔,光祿大夫劉殷為左僕射,王育為右僕射,任顗為吏部尚書,?紀為中書監,護軍馬景領左衛將軍,永安王安國領右衛將軍,安昌王盛、安邑王飲、西陽王?皆領武衛將軍,分典禁兵。初,盛少時,不好讀書,唯讀《孝經》、《論語》,曰:「誦此能行,足矣,安用多誦而不行乎!」李熹見之,歎曰:「望之如可易,及至,肅如嚴君,可謂君子矣!」淵以其忠篤,故臨終委以要任。丁丑,淵召太宰歡樂等入禁中,受遺詔輔政。己卯,淵卒;太子和即位。 和性猜忌無恩。宗正呼延攸,翼之子也,淵以其無才行,終身不遷官;侍中劉乘,素惡楚王聰;衛尉西昌王?,恥不預顧命;乃相與謀,?和曰:「先帝不惟輕重之勢,使三王總強兵於?,大司馬擁十萬?屯於近郊,陛下便為寄坐耳。宜早為之計。」和,攸之甥也,深信之。辛巳夜,召安昌王盛、安邑王欽等告之。盛曰:「先帝梓宮在殯,四王未有逆節,一旦自相魚肉,天下謂陛下何!且大業甫爾,陛下勿信讒夫之言以疑兄弟。兄弟尚不可信,他人誰足信哉!」攸、?怒之曰:「今日之議,理無有二,領軍是何言乎!」命左右刃之。盛既死,欽懼曰:「惟陛下命!」壬午,?帥馬景攻楚王聰於單于台,攸帥永安王安國攻齊王裕於司徒府,乘帥安邑王飲攻魯王隆,使尚書田密、武衛將軍劉?攻北海王乂。密、?挾乂斬關歸於聰,聰命貫甲以待之。?知聰有備,馳還,與攸、乘共攻隆、裕。攸、乘疑安國、欽有異志,殺之。是日,斬裕,癸未,斬隆。甲申,聰攻西明門,克之;?等走入南宮,前鋒隨之。乙酉,殺和於光極西室,收?、攸、乘,梟首通衢。 群臣請聰即帝位;聰以北海王乂,單後之子也,以位讓之。乂涕泣固請,聰久而許之,曰:「乂及群公正以禍難尚殷,貪孤年長故耳。此家國之事,孤何敢辭!俟乂年長,當以大業歸之。」遂即位。大赦,改元光興。尊單氏曰皇太后,其母張氏曰帝太后。以義為皇太弟、領大單于、大司徒。立其妻呼延氏為皇后。呼延氏,淵後之從父妹也。封其子粲為河?王,易為河間王,翼為彭城王,?為高平王;仍以粲為撫軍大將軍、都督中外諸軍事。以石勒為并州刺史,封汲郡公。 略陽臨渭?酋蒲洪,驍勇多權略,群?畏服之。漢主聰遣使拜洪平遠將軍,洪不受,自稱護?校尉、秦州刺史、略陽公。九月,辛未,葬漢主淵於永光陵,謚曰光文皇帝,廟號高祖。 雍州流民多在南陽,詔書遣還?里。流民以關中荒殘,皆不願歸;征南將軍山簡、南中郎將杜?各遣兵送之,促期令發。京兆王如遂潛結壯士,夜襲二軍,破之。於是馮翊嚴嶷、京兆侯?各聚?攻城鎮,殺令長以應之,未幾,?至四五萬,自號大將軍、領司、雍二州牧,稱?於漢。 冬,十月,漢河?王粲、始安王曜及王彌帥?四萬寇洛陽,石勒帥騎二萬會粲於大陽,敗監軍裴?於?池,遂長驅入洛川。粲出軒轅,掠梁、陳、汝、穎間。勒出成皋關,壬寅,圍陳留太守王贊於倉垣,為贊所敗,退屯文石津。 劉?自將討劉虎及白部,遣使卑辭厚禮?鮮卑拓跋猗盧以請兵。猗盧使其弟弗之子鬱律帥騎二萬助之,遂破劉虎、白部,屠其營。?與猗盧結為兄弟,表猗盧為大單于,以代郡封之為代公。時代郡屬幽州,王浚不許,遣兵?猗盧,猗盧拒破之。浚由是與?有隙。 猗盧以封邑去國懸遠,民不相接,乃帥部落萬餘家自雲中入雁門,從?求?北之地。?不能制,且欲倚之為援,乃徙樓煩、馬邑、陰館、繁畤、?五縣民於?南,以其地與猗盧;由是猗盧益盛。 ?遣使言於太傅越,請出兵共討劉聰、石勒;越忌苟晞及豫州刺史馮嵩,恐為後患,不許。?乃謝猗盧之兵,遣歸國。 劉虎收餘?,西渡河,居朔方肆盧川,漢主聰以虎宗室,封樓煩公。 壬子,以劉?為平北大將軍,王浚為司空,進鮮卑段務勿塵為大單于。 京師饑困日甚,太傅越遣使以羽檄征天下兵,使入援京師。帝謂使者曰:「為我語諸征、鎮:今日尚可救,後則無及矣!」既而卒無至者。征南將軍山簡遣督護王萬將兵入援,軍於涅陽,為王如所敗。如遂大掠?、漢,進逼襄陽,簡嬰城自守。荊州刺史王澄自將,欲援京師,至?口,聞簡敗,?散而還。朝議多欲遷都以避難,王衍以為不可,賣車牛以安?心。山簡為嚴嶷所逼,自襄陽徙屯夏口。 石勒引兵濟河,將趣南陽,王如、侯?、嚴嶷等聞之,遣?一萬屯襄城以拒勒。勒?之,盡俘其?,進屯宛北。是時,侯?據宛,王如據穰。如素與?不協,遣使重賂勒,結為兄弟,?勒使攻?。勒攻宛,克之;嚴嶷引兵救宛,不及而降。勒斬?;囚嶷,送於平陽,盡並其?。遂南寇襄陽,攻拔江西壘壁三十餘所。還,趣襄城,王如遣弟璃襲勒;勒迎?,滅之,復屯江西。 太傅越既殺王延等,大失?望;又以胡寇益盛,?不自安,乃戎服入見,請討石勒,且鎮集?、豫。帝曰:「今胡虜侵逼郊畿,人無固志,朝廷社稷,倚賴於公,豈可遠出以孤根本!」對曰:「臣出,幸而破賊,則國威可振,猶愈於坐待困窮也。」十一月,甲戌,越帥甲士四萬向許昌,留妃裴氏、世子毘及龍驤將軍李惲、右衛將軍何倫守衛京師,防察宮省;以潘滔為河南尹,總留事。越表以行台自隨,用太尉衍為軍司,朝賢素望,悉為佐吏,名將勁卒,鹹入其府。於是宮省無復守衛,荒饉日甚,殿?死人交橫;盜賊公行,府寺營署,並掘塹自守。越東屯項,以馮嵩為左司馬,自領豫州牧。 竟陵王楙白帝遣兵襲何倫,不克;帝委罪於楙,楙逃竄,得免。 揚州都督周馥以洛陽孤危,上書請遷都壽春。太傅越以馥不先白己而直上書,大怒,召馥及淮南太守裴碩。馥不肯行,令碩帥兵先進。碩詐稱受越密旨,襲馥,為馥所敗,退保東城。 詔加張軌鎮西將軍、都督隴右諸軍事。光祿大夫傅祗、太常摯虞遣軌書,告以京師饑匱。軌遣參軍杜勳獻馬五百匹,毯布三萬匹。 成太傅驤攻?登於?城。羅尚子宇及參佐素惡登,不給其糧。益州刺史皮素怒,欲治其罪;十二月,素至巴郡,羅宇等使人夜殺素,建平都尉暴重殺宇,巴郡亂。驤知登食盡援?,攻?愈急。士民皆熏鼠食之,餓死甚?,無一人離叛者。驤子壽先在登所,登乃歸之。三府官屬表巴東監軍南陽韓松為益州刺史,治巴東。 初,帝以王彌、石勒侵逼京畿,詔苟晞督帥州郡討之。會曹嶷破琅邪,北收齊地,兵勢甚盛,苟純閉城自守。晞還救青川,與嶷連戰,破之。 是?,寧州刺史王遜到官,表李釗為?提太守。時寧州外逼於成,?有夷寇,城邑丘墟。遜惡衣菜食,招集離散,勞徠不倦,數年之間,州境復安。誅豪右不奉法者十餘家;以五苓夷昔為亂首,?滅之,?外震服。 漢主聰自以越次而立,忌其嫡兄恭;因恭寢,穴其壁間,刺而殺之。 漢太后單氏卒,漢主聰尊母張氏為皇太后。單氏年少美色,聰烝焉。太弟乂?以為言,單氏慚恚而死。乂寵由是漸衰,然以單氏故,尚未之廢也。呼延後言於聰曰:「父死子繼,古今常道。陛下承高祖之業,太弟何為者哉!陛下百年後,粲兄弟必無種矣。」聰曰:「然,吾當徐思之。」呼延氏曰:「事留變生,太弟見粲兄弟浸長,必有不安之志,萬一有小人交構其間,未必不禍發於今日也。」聰心然之。乂舅光祿大夫單沖泣謂乂曰:「疏不間親。主上有意於河?王矣,殿下何不避之!」乂曰:「河瑞之末,主上自惟嫡庶之分,以大位讓乂。乂以主上齒長,故相推奉。天下者,高祖之天下,兄終弟及,何為不可!粲兄弟既壯,猶今日也。且子弟之間,親疏?幾,主上寧可有此意乎!
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孝懷皇帝中永嘉五年(辛未,公元三一一年) 春,正月,壬申,苟晞為曹嶷所敗,棄城奔高平。 石勒謀保據江、漢,參軍都尉張賓以為不可。會軍中饑疫,死者太半,乃渡?,寇江夏,癸酉,拔之。 乙亥,成太傅驤拔?城,獲?登。太保始拔巴西,殺文石。於是成主雄大赦,改元玉衡。?登至成都,雄欲宥之;登詞氣不屈,雄殺之。 巴蜀流民布在荊、湘間,數為土民所侵苦,蜀人李驤聚?據樂?反,南平太守應詹與醴陵令杜?共?破之。王澄使成都?史王機討驤,驤請降,澄偽許而襲殺之。以其妻子為賞,?八千餘人於江,流民益怨忿。蜀人杜疇等復反,湘州參軍馮素與蜀人汝班有隙,言於刺史荀眺曰:「巴、蜀流民皆欲反。」眺信之,欲盡誅流民。流民大懼,四五萬家一時?反,以杜?州裡重望,共推為主。?自稱梁、益二州牧、領湘州刺史。 裴碩求救於琅邪王睿,睿使揚威將軍甘卓等攻周馥於壽春。馥?潰,奔項,豫州都督新蔡王確執之,馥憂憤而卒。確,騰之子也。 揚州刺史劉陶卒。琅邪王睿復以安東軍咨祭酒王敦為揚州刺史,尋加都督征討諸軍事。 庚辰,平原王干薨。 二月,石勒攻新蔡,殺新蔡莊王確於南頓;進拔許昌,殺平東將軍王康。 ?苻成、隗文復叛,自宜都趣巴東;建平都尉暴重討之。重因殺韓松,自領三府事。 東海孝獻王越既與苟晞有隙,河南尹潘滔、尚書劉望等復從而譖之。晞怒,表求滔等首,揚言:「司馬元超為宰相不平,使天下淆亂,苟道將豈可以不義使之!」乃移檄諸州,自稱功伐,陳越罪?。帝亦惡越專權,多違詔命;所留將士何倫等,抄掠公卿,逼辱公主;密賜晞手詔,使討之。晞數與帝文書往來,越疑之,使游騎於成皋間伺之,果獲晞使及詔書。乃下檄罪?晞,以從事中郎楊瑁為?州刺史,使與徐州刺史裴盾共討晞。晞遣騎收潘滔,滔夜遁,得免;執尚書劉曾、侍中程延,斬之。越憂憤成疾,以後事付王衍;三月,丙子,薨於項,秘不發喪。?共推衍為元帥,衍不敢當;以讓襄陽王范,范亦不受。范,?之子也。於是衍等相與奉越喪還葬東海。何倫、李惲等聞越薨,奉裴妃及世子毘自洛陽東走,城中士民爭隨之。帝追貶越為縣王,以苟晞為大將軍、大都督,督青、徐、?、豫、荊、揚六州諸軍事。 益州將吏共殺暴重,表巴郡太守張羅行三府事。羅與隗文等戰,死,文等驅掠吏民,西降於成。三府文武共表平西司馬蜀郡王異行三府事,領巴郡太守。 初,梁州刺史張光會諸郡守於魏興,共謀進取。張燕唱言:「漢中荒敗,迫近大賊,克復之事,當俟英雄。」光以燕受鄧定略,致失漢中,今復沮?,呵出斬之。治兵進戰,累年乃得至漢中,綏撫荒殘,百姓悅服。 夏,四月,石勒帥輕騎追太傅越之喪,及於苦縣寧平城,大敗晉兵,縱騎圍而射之,將士十餘萬人相踐如山,無一人得免者。執太尉衍、襄陽王范、任城王濟、武陵莊王澹、西河王喜、梁懷王禧、齊王超、吏部尚書劉望、廷尉諸葛銓、豫州刺史劉喬、太傅長史庚金全等,坐之幕下,問以晉故。衍具陳禍敗之由,雲計不在己;且自言少無宦情,不豫世事;因勸勒稱尊號,冀以自免。勒曰:「君少壯登朝,名蓋四海,身居重任,何得言無宦情邪!破壞天下,非君而誰!」命左右扶出。?人畏死,多自陳述。獨襄陽王范神色儼然,顧呵之曰:「今日之事,何復紛紜!」勒謂孔萇曰:「吾行天下多矣,未嘗見此輩人,當可存乎?」萇曰:「彼皆晉之王公,終不為吾用。」勒曰:「雖然,要不可加以鋒刃。」夜,使人排牆殺之。濟,宣帝弟子景王陵之子;禧,澹之子也。剖越柩,焚其屍,曰:「亂天下者此人也,吾為天下報之,故焚其骨以告天地。」 何倫等至?倉,遇勒,戰敗,東海世子毘及宗室四十八王皆沒於勒,何倫奔下?,李惲奔廣宗。裴妃為人所掠賣,久之,渡江。初,琅邪王睿之鎮建業,裴妃意也,故睿德之,厚加存撫,以其子沖繼越後。 漢趙固、王桑攻裴盾,殺之。 杜?攻長沙。五月,荀眺棄城奔廣州,?追擒之。於是?南破零、桂,東掠武昌,殺二千石長吏甚?。 以太子太傅傅祗為司徒,尚書令荀?為司空,加王浚大司馬、侍中、大都督,督幽、冀諸軍事,南陽王模為太尉、大都督,張軌為車騎大將軍,琅邪王睿為鎮東大將軍,兼督揚、江、湘、交、廣五州諸軍事。 初,太傅越以南陽王模不能綏撫關中,表?為司空。將軍淳於定?模使不就征,模從之;表遣世子保為平西中郎將,鎮上?,秦州刺史裴苞拒之。模使帳下都尉陳安攻苞,苞奔安定,太守賈疋納之。 苟晞表請遷都倉垣,使從事中郎劉會將船數十艘、宿衛五百人、谷千斛迎帝。帝將從之,公卿猶豫,左右戀資財,遂不果行。既而洛陽饑困,人相食,百官流亡者什八九。帝召公卿議,將行而衛從不備。帝撫手歎曰:「如何曾無車輿!」乃使傅祗出詣河陰,治舟楫,朝士數十人導從。帝?出西掖門,至銅駝街,為盜所掠,不得進而還。度支校尉東郡魏浚,帥流民數百家保河陰之硤石,時劫掠得穀麥,獻之。帝以為揚威將軍、平陽太守,度支如故。 漢主聰使前軍大將軍呼延晏將兵二萬七千寇洛陽,比及河南,晉兵前後十二敗,死者三萬餘人。始安王曜、王彌、石勒皆引兵會之;未至,晏留輜重於張方故壘;癸未,先至洛陽;甲申,攻平昌門;丙戌,克之,遂焚東陽門及諸府寺。六月,丁亥朔,晏以外繼不至,俘掠而去。帝具舟於洛水,將東走,晏盡焚之。庚寅,荀?及弟光祿大夫組奔?轅。辛卯,王彌至宣陽門;壬辰,始安王曜至西明門;丁酉,王彌、呼延晏克宣陽門,入南宮,升太極前殿,縱兵大掠,悉收宮人、珍寶。帝出華林園門,欲奔長安,漢兵追執之,幽於端門。曜自西明門入屯武庫。戊戌,曜殺太子詮、?孝王晏、竟陵王楙、右僕射曹馥、尚書閭丘沖、河南尹劉默等,士民死者三萬餘人。遂發掘諸陵,焚宮廟、官府皆盡。曜納惠帝羊皇后,遷帝及六璽於平陽。石勒引兵出?轅,屯許昌。光祿大夫劉蕃、尚書盧志奔并州。 丁未,漢主聰大赦,改元嘉平。以帝為特進左光祿大夫,封平阿公,以侍中??、王俊為光祿大夫。?,?之兄也。 初,始安王曜以王彌不待己至,先入洛陽,怨之。彌?曜曰:「洛陽天下之中,山河四塞,城池、宮室不假修營,宜白主上自平陽徙都之。」曜以天下未定,洛陽四面受敵,不可守,不用彌策而焚之。彌罵曰:「屠各子,豈有帝王之意邪?」遂與曜有隙,引兵東屯項關。前司隸校尉劉暾?彌曰:「今九州糜沸,群雄競逐,將軍於漢建不世之功,又與始安王相失,將何以自容!不如東據本州,徐觀天下之勢,上可以混壹四海,下不失鼎峙之業,策之上者也。」彌心然之。 司徒傅祗建行台於河陰,司空荀?在陽城,河南尹華薈在成皋,汝陰太守平陽李矩為之立屋,輸谷以給之。薈,?之曾孫也。 ?與弟組、族子中護軍崧,薈與弟中領軍恆,建行台於密,傳檄四方,推琅邪王睿為盟主。?承製以崧為襄城太守,矩為?陽太守,前冠軍將軍河南??為梁國?史。揚威將軍魏浚屯洛北石?塢,劉?承製假浚河南尹,浚詣荀?咨謀軍事。?邀李矩同會,矩夜赴之。矩官屬皆曰:「浚不可信,不宜夜往。」矩曰:「忠臣同心,何所疑乎!」遂往,相與結歡而去。浚族子該,聚?據一泉塢,?以為武威將軍。 豫章王端,太子詮之弟也,東奔倉垣,苟晞率群官奉以為皇太子,置行台。端承製以晞領太子太傅、都督中外諸軍、?尚書事,自倉垣徙屯蒙城。 撫軍將軍秦王業,?孝王之子,荀?之甥也,年十二,南奔密,?等奉之,南趣許昌。前豫州刺史天水閻鼎,聚西州流民數千人於密,欲還?里。荀?以鼎有才而擁?,用鼎為豫州刺史,以中書令李絲亙、司徒左長史彭城劉疇、鎮軍長史周顗、司馬李述等為之參佐。顗,浚之子也。 時海?大亂,獨江東差安,中國士民避亂者多南渡江。鎮東司馬王導?琅邪王睿收其賢俊,與之共事。睿從之,辟手彖屬百餘人,時人謂之百六手彖。以前穎川太守勃海?協為軍咨祭酒,前東海太守王承、廣陵相卞壺為從事中郎,江寧令諸葛恢、?陽參軍陳國陳?為行參軍,前太傅手彖庚亮為西曹手彖。承,渾之弟子;恢,?之子;亮,?之弟子也。 江州刺史華軼,?之間孫也,自以受朝廷之命而為琅邪王睿所督,多不受其教令。郡縣多諫之,軼曰:「吾欲見詔書耳。」及睿承荀?檄,承製署置官司,改易長吏,軼與豫州刺史裴憲皆不從命。睿遣揚州刺史王敦、?陽?史甘卓與揚烈將軍廬江周訪合兵?軼。軼兵敗,奔安成,訪追斬之,及其五子。裴憲奔幽州。睿以甘卓為湘州刺史,周訪為尋陽太守,又以揚武將軍陶侃為武昌太守。 秋,七月,王浚設壇告類,立皇太子,?告天下,稱受中詔承製封拜,備置百官,列署征、鎮,以荀?為太尉,琅邪王睿為大將軍。浚自領尚書令,以裴憲及其婿棗嵩為尚書,以田征為?州刺史,李惲為青州刺史。 南陽王模使牙門趙染戍薄板,染求馮翊太守不得而怒,帥?降漢,漢主聰以染為平西將軍。八月,聰遣染與安西將軍劉雅帥騎二萬攻模於長安,河?王粲、始安王曜帥大?繼之。染敗模兵於潼關,長驅至下?。涼州將北宮純自長安帥其?降漢。漢兵圍長安,模遣淳於定出戰而敗。模倉庫?竭,士卒離散,遂降於漢。趙染送模於河?王粲;九月,粲殺模。關西饑饉,白骨蔽野,士民存者百無一二。聰以始安王曜為車騎大將軍、雍州牧,更封中山王,鎮長安。以王彌為大將軍,封齊公。 苟晞驕奢苛暴,前遼西太守閻亨,?之子也,數諫晞,晞殺之。從事中郎明預有疾,自輿入諫。晞怒曰:「我殺閻亨,何關人事,而輿病罵我!」預曰:「明公以禮待預,故預以禮自盡。今明公怒預,其如遠近怒明公何!桀為天子,猶以驕暴而亡,況人臣乎!願明公且置是怒,思預之言。」晞不從。由是?心離怨,加以疾疫、饑饉。石勒攻王贊於陽夏,擒之。遂襲蒙城,執及豫章王晞端,鎖晞頸,以為左司馬。漢主聰拜勒幽州牧。 王彌與勒,外相親而?相忌,劉暾?彌使召曹嶷之兵以圖勒,彌為書,使暾召嶷,且邀勒兵共向青州。暾至東阿,勒游騎獲之,勒潛殺暾而彌不知。會彌將徐?、高梁輒引所部兵去,彌兵漸衰。彌聞勒擒苟晞,心惡之,以書賀勒曰:「公獲苟晞而用之,何其神也!使晞為公左,彌為公右,天下不足定也。」勒謂張賓曰:「王公位重而言卑,其圖我必矣。」賓因勸勒乘彌小衰,誘而取之。時勒方與乞活陳午相攻於蓬關,彌亦與劉瑞相持甚急。彌請救於勒,勒未之許。張賓曰:「公常恐不得王公之便,今天以王公授我矣。陳午小豎,不足憂;王公人傑,當早除之。」勒乃引兵?瑞,斬之。彌大喜,謂勒實親己,不復疑也。冬,十月,勒請彌燕於己吾。彌將往,長史張嵩諫,不聽。酒酣,勒手斬彌而並其?,表漢主聰,稱彌叛逆。聰大怒,遣使讓勒「專害公輔,有無君之心」,然猶加勒鎮東大將軍、督並、幽二州諸軍事、領并州刺史,以慰其心。苟晞、王贊潛謀叛勒,勒殺之,並晞弟純。 勒引兵掠豫州諸郡,臨江而還,屯於葛陂。 初,勒之為人所掠賣也,與其母王氏相失。劉?得之,並其從子虎送於勒,因遺勒書曰:「將軍用兵如神,所向無敵。所以周流天下而無容足之地,百戰百勝而無尺寸之功者,蓋得主則為義兵,附逆則為賊?故也。成敗之數,有似呼吸,吹之則寒,?之則?。今相授侍中、車騎大將軍、領護匈奴中郎將、襄城郡公,將軍其受之!」勒報書曰:「事功殊途,非腐儒所知。君當逞節本朝,吾自夷難為效。」遺?名馬、珍寶,厚禮其使,謝而?之。 時虎年十七,殘忍無度,為軍中患。勒白母曰:「此兒凶暴無賴,使軍人殺之,聲名可惜,不若自除之。」母曰:「快牛為犢,多能破車,汝小忍之!」及長,便弓馬,勇冠當時。勒以為征虜將軍,?屠城邑,鮮有遺類。然御?嚴而不煩,莫敢犯者,指授攻討,所向無前,勒遂寵任之。勒攻?陽太守李矩,矩?卻之。 初,南陽王模以從事中郎絲林為馮翊太守。絲林,靖之子也。模死,絲林與安夷護軍金城?允、頻陽令梁肅,?奔安定。時安定太守賈疋與諸?、羌皆送任子於漢,絲林等遇之於陰密,擁還臨涇,與疋謀興復晉室,疋從之。乃共推疋為平西將軍,帥?五萬向長安。雍州刺史?特、新平太守竺恢皆不降於漢,聞疋起兵,與扶風太守梁綜帥?十萬會之。綜,肅之兄也。漢河?王粲在新豐,使其將劉雅、趙染攻新平,不克。索絲林救新平,大小百戰,雅等敗退。中山王曜與疋等戰於?丘,曜?大敗。疋遂襲漢梁州刺史彭蕩仲,殺之。?特等?破粲於新豐,粲還平陽。於是疋等兵勢大振,關西胡、晉翕然響應。 閻鼎欲奉秦王業入關,據長安以號令四方;河陰令傅暢,祗之子也,亦以書勸之,鼎遂行。荀?、劉疇、周?、李述等,皆山東人,不欲西行,中途逃散;鼎遣兵追之,不及,殺李絲亙等。鼎與業自宛趣武關,遇盜於上洛,士卒敗散,收其餘?,進至藍田,使人告賈疋,疋遣兵迎之;十二月,入於雍城,使梁綜將兵衛之。 周顗奔琅邪王睿,睿以顗為軍諮祭酒。前騎都尉?國桓彝亦避亂過江,見睿微弱,謂?曰:「我以中州多故,來此求全,而單弱如此,將何以濟!」既而見王導,共論世事,退,謂顗曰:「向見管夷吾,無復憂矣!」 諸名士相與登新亭游宴,周顗中坐歎曰:「風景不殊,舉目有江河之異!」因相視流涕。王導愀然變色曰:「當共戮力王室,克復神州,何至作楚囚對泣邪!」?皆收?謝之。 陳?遺王導書曰:「中華所以傾弊者,正以取才失所,先白望而後實事,浮競驅馳,互相貢薦,言重者先顯,言輕者後敘,遂相波扇,乃至陵遲。加有莊、老之俗,傾惑朝廷,養望者為弘雅,政事者為俗人,王職不恤,法物墜喪。夫欲制遠,先由近始。今宜改張,明賞信罰,拔卓茂於密縣,顯?邑於桐?,然後大業可舉,中興可冀耳。」導不能從。 劉?長於招懷而短於撫御,一日之中,雖歸者數千,而去者亦相繼。?遣子遵請兵於代公猗盧,又遣族人高陽?史希合?於中山,幽州所統代郡、上谷、廣寧之民多歸之,?至三萬。王浚怒,遣燕相胡矩督諸軍,與遼西公段疾陸眷共攻希,殺之,驅略三郡士女而去。疾陸眷,務勿塵之子也。猗盧遣其子六修將兵助?戍新興。 ?牙門將?延以碧石獻?,?以與六修,六修復就延求之,不得,執延妻子。延怒,以所部兵襲六修,六修走,延遂以新興附漢,請兵以攻并州。 李臻之死也,遼東附塞鮮卑素喜連、木丸津托為臻報仇,攻陷諸縣,殺掠士民,?敗郡兵,連年為寇。東夷校尉封釋不能討,請與連和,連、津不從。民失業,歸慕容?者甚?,?稟給遣還,願留者即撫存之。 ?少子鷹揚將軍翰言於?曰:「自古有為之君,莫不尊天子以從民望,成大業。今連、津外以寵本為名,?實幸災為亂。封使君已誅本請和,而寇暴不已。中原離亂,州師不振,遼東荒散,莫之救恤,單于不若數其罪而討之。上則興復遼東,下則併?二部,忠義彰於本朝,私利歸於我國,此霸王之基也。」?笑曰:「孺子乃能及此乎!」遂帥?東?連、津,以翰為前鋒,破斬之,盡並二部之?。得所掠民三千餘家,及前歸?者悉以付郡,遼東賴以復存。 封釋疾病,屬其孫?於?。釋卒,?召?與語,?之,曰:「奇士也!」補小都督。釋子冀州主簿悛、幽州參軍抽來奔喪。?見之,曰:「此家??千斤?也。」以道不通,喪不得還,皆留仕?,?以抽為長史,悛為參軍。王浚以妻舅崔毖為東夷校尉。毖,?之曾孫也。
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