全章
開閉
- 田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」より
田中靖彦先生の「陳寿の処世と『三国志』」を引き写しながら、勉強の取っ掛かりにします。このワクのなかでは、地の文は田中先生の論文からのメモです。ぼく(引用者)の意見は、灰色のワクの中につけます。
田中先生の論文は、こちらでPDFを見てます。
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30481/rsg076-04.pdf
陳寿の生涯と同時代評価
陳寿は、233?-297? のひと。蜀漢が滅ぼされると、曹魏に仕官せず、西晋に仕えた。『魏書』・『呉書』は先行史料にもとづき、『蜀書』はみずからの手による部分が多いという。
ぼくは思う。陳寿を小説化するなら、①蜀漢に仕えて蜀の歴史を整理した時代、②魏晋革命以後に国家の書庫を見て曹魏の歴史を整理した時代、③孫呉が降伏してから『呉書』を再編集した時代、の三部構成か。
基礎資料は、『晋書』巻八十二 陳寿伝、『華陽国志』巻十一 後賢志 陳寿の項。簡素かつ互いに矛盾する。先行研究は、津田資久2001を参照。
津田資久「陳寿伝の研究」(北大史学 (41) 2001)、「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(東洋学報 84(4) 2003)
生年は『晋書』の享年より建興二年(233) となるが、津田氏は没年を否定。
譙周に師事した。諸葛瞻の衛将軍主簿、東観秘書郎を歴任した。東観とは、後漢の宮中文庫で『東観漢記』をつくった。後漢をふまえた蜀漢にもあり、陳寿は蜀漢の歴史につうじた。
津田2001によれば、『華陽国志』で散騎・黄門侍郎についたのは事実でない。
陳寿は武帝期の西晋につかえ、佐著作郎、著作郎となる。杜預・張華の働きかけにより、治書侍御史・兼中書侍郎・領著作郎など。長広太守に左遷。
津田2001によると、長広太守となった時期は不明。太康三年(282) 正月には張華が幽州に左遷されており、中央で後ろ盾を失った。対立する中書監の荀勖のしたで中書省に留まれたと思われないので、このころ左遷されたか。
『三国志』は、太康三年正月までに完成しないと、「荀勖が『三国志』をほめた」という記述と整合しなくなる。短時間の作業!母を帰葬せず、おとしめられたのも同時期か。本田済1962は、寒士の進出を小さな過失で防いだとする。楊耀坤1998によると、もと蜀漢の人士が誣告した。
恵帝期に太子中庶子。太子廃立にともない、兼散騎常侍。これは『華陽国志』による。『晋書』によれば、太子中庶子に就任せず、兼散騎常侍の記述もみえない。
張華が非業の最期をとげると、陳寿は洛陽で没。これも『華陽国志』。
同時代の陳寿への評価を、『晋書』陳寿伝より。
『三国志』は讃えられ、夏侯湛が『魏書』を破棄。いっぽうで、丁儀・丁廙の子がコメをくれないから、列伝を立てなかった、陳寿の父は諸葛亮からコン刑にされたから、諸葛亮に軍略の才なしとした、諸葛瞻に軽んじられたから「名声は実際を超えた」とした、などと風評を受けた。
陳寿の死後、范頵が「『三国志』は教化に益する」と上書、筆写の勅命くだる。
陳寿の三国描写
『三国志』に対する評価の変遷について、『四庫全書総目』巻四十五 正史類『三国志』はいう。魏を正統とするのは誤りがだ、晋臣としてやむなしと。
陳寿による蜀漢の賞揚は、朱彝尊「陳寿論」にみえる。曹丕の皇帝即位の記事は、臣下の勧進文などをほぼ再録しないのに、劉備については採録。陳寿は、天子の制を劉備にあたえた。
朱彝尊「陳寿論」によると、
王沈『魏書』、魚豢『魏略』、孔衍『魏尚書』、孫盛『魏春秋』、郭頒『魏晋世語』があるが、いずれも魏の歴史とする。しかし陳寿は『三国』としたから、単純に魏を正統としたのではない。
朱彝尊「陳寿論」は、『晋書』陳寿伝に反論する。
街亭では、馬謖が諸葛亮の節度にたがい敗れたことを直書した。陳寿は、父が馬謖の参軍として罪をこうむったからといって、筆をまげない。諸葛亮が「応変の将略」が得意でないことは、張儼・袁準もいっており、陳寿だけが言ったのではない。
魏の文士で立伝されたのは、王粲・衛覬ら5人だけ。王粲は制度をつくり、衛覬は典故を知っていた。徐幹・陳琳・阮瑀・応瑒・劉楨は、王粲伝に付された。丁儀・丁廙だけが、列伝を持たぬのではない。
『資治通鑑綱目』は、蜀漢を正統として蜀漢の年号をつかい、建安のつぎを章武とした。正統を示すには、『資治通鑑綱目』のようにすべきだが、晋臣の陳寿には限界があったと。以上「陳寿論」。
『三国志』本文が採録する冊書は、19のうち、魏が4、蜀が13、呉が2。ただし、『呉志』で曹丕が孫権に発布した九錫を下賜する冊書は、『呉志』にあるが魏のもの。それでも、蜀の数がおおい。なかでも、劉備が即位した章武元年に発布したものがおおい。劉備を権威づけた。
諸葛亮に対する冊書が3つもあり、諸葛亮への思い入れ。『季漢輔臣賛』も。
渡邉義浩1998によると、旧蜀漢の人士が西晋において不遇。『三国志』で諸葛亮の「忠」を強調し、登用を訴える意図があった。渡邉義浩2008によると、陳寿の意図は、天命が「後漢→季漢→曹魏→西晋」と伝わったことを論ずることにより、蜀漢の正統性をひそませる。
微言大義の伝統がある中国で、陳寿の意図が看破されなかったはずがない。それでも西晋で公式の史書として認可された。後世のひとが考えるほど、明確な蜀漢正統論の意図はないのではないか。
曹操や孫権にたいする九錫文は、もれなく『三国志』に収録されている。趙翼『廿二史箚記』巻七 禅代がいうように、九錫は、禅譲革命の開始を象徴する。この認識は、三国時代のひとも共有した。李厳伝にひく『諸葛亮集』にみえる。
『諸葛亮集』が陳寿の編纂であるように、陳寿も重大事だと認識。『三国志』に曹操・孫権が九錫をもらう文があれば、魏・呉の政権樹立の合法性を宣伝できる。魏・呉とて、非合法の政権としたのではない。
◆西晋への迎合と、『三国志』という書名
曹魏には本紀があるが、代がくだるにつれ、否定的な側面が強調される。曹髦の殺害など。晋朝の成立後も弑逆の扱いは課題。杜預が『左伝』注釈をつうじて正当化(渡邉義浩2005a)。習鑿歯『漢晋春秋』は、司馬昭の関与を隠蔽。田中靖彦2005。
『三国志』という書名すら、西晋の賛美。天下の分裂を示すことで、それを統一した西晋の功績を強調できる。劉禅を安楽公に封ずる冊書(後主伝)・孫晧を帰命侯とする詔(三嗣主伝)を採録している。
なるほど!納得!
劉禅の降伏文は、魏ではなく「能」たる司馬昭に降伏するという。魏には伊尹・周公に比すべき宰相がいるから降伏しますと。『三国志』がこれを採録したのは、蜀が司馬氏に帰順したことを主張するため。
陳寿は、劉禅を(やや)暗愚とする。諸葛亮の死後の劉禅は、晋に降伏すべき存在だという評価。これは、曹叡よりあとが暗愚に描かれ、魏晋革命を必然と描く。ただし郷里の皇帝なので、劉禅は、暗君の代表というほどではない。
孫晧の降伏について、陳寿はきびしい。郷里の皇帝ではない。投降が劉禅よりおそく、呉は蜀よりも晋に従順ではない。だが、これほど許しがたい孫晧を許したのだから(裴注の孫盛も同意見)司馬炎は寛大であると。
魏の主張する「漢→魏」、蜀の「漢=蜀漢」、呉の「漢→魏→呉」は、いずれも途中経過。最後に「→晋」が加わって終わる。正統の系譜は3本あり、すべてが晋に帰着したとする。陳寿は公正というより、西晋の賞賛を動機としてる。
◆陳寿の曲筆の姿勢
津田2001・津田2003によると、曹丕・曹植の不仲、曹魏の親族抑圧は、陳寿の創作であり、事実ではない。『三国志』で唯一の伝序である曹魏の后妃伝では、曹魏において外戚の専横がなかったことを美点とする。
内容よりも、后妃伝にあるものが「唯一の伝序」ということ(ほかの列伝に序がないこと)が意味がありそう。たしかに后妃伝の伝序は、読んだことがありましたが、それを唯一のものと意識したことがなかった。陳寿は、親族を抑圧した曹魏の滅亡をいましめに、晋朝に政策を提言。晋朝の皇族の至親輔翼をとなえ、司馬攸の帰藩をいさめ、司馬炎の外戚の楊氏をおさえ、長子相続を正当化し(司馬攸でなく司馬炎が皇帝であるべき)、司馬衷の皇位継承を擁護すること。
渡邉義浩2008は、不仲を創作とする津田説を否定するが、陳寿は西晋の正統化を優先し、曹魏の尊重は表面的にすぎず、孫晧をきびしく評価して伐呉を推進した張華・杜預を支持したとする。
陳寿をひきたてた杜預の祖父の杜畿は、『魏志』巻十六で、異常に賞賛される。曹操から、蕭何・寇恂に比して讃えられたというが、荀彧にならぶ建国の功臣なのか。
「やむを得ず、魏を正統とした」範疇をこえ、渡世の道具である。
宮川尚志1970によると、賄賂を拒んで立伝されなかったのは、『語林』にある逸話で、会稽山陽の丁氏のこと。『晋書』が読み替えて、沛郡の丁氏に読み替えたとする。一方で石井仁2000は、丁儀らの父の丁忠が曹魏政権の立役者なので、列伝がないのはおかしいとする。
真偽は分からないが「賄賂で筆をまげる」批判は、当時あっただろう。陳寿は曲筆する。晋朝から公認されるほどに、西晋にとって都合のよいものだった。
陳寿の「不遇」と『三国志』
陳寿の「不遇」とは、黄皓に睨まれたこと(『華陽国志』にない)、父の服喪中に服薬、『三国志』で筆をまげた、張華の派閥だから荀勗ににらまれた、不本意ながら曹魏を正統とした…など。しかし、本当に不遇か。
津田2001は、陳寿の官歴を、黄皓のために地方に飛ばされた羅憲とくらべ、「秘書郎まで中央官をのぼったから、黄皓との正面からの対立は疑問」とする。西晋で陳寿は、佐著作郎(七品官)となった。郷品二品かそれに準ずる待遇。太守は五品、太子中庶子も五品。東宮官の太子中庶子は、つぎの皇帝に近しい清官。
『晋書』では、太子中庶子に就かず、『華陽国志』では皇太子が地位を失った(陳寿は太子中庶子でなくなった)とする。利点はなくとも、任命されたことは、地位の高さをしめす。
『華陽国志』によれば、兼散騎常侍(三品)であり、恵帝が張華にたいして陳寿の才能を讃えた。張華は、陳寿を九卿とするつもりだった。受難つづきでなく、宮刑の司馬遷・獄死の班固・刑死の范曄にくらべても、陳寿は不遇ではない。旧蜀漢の人士としては、異例な出世がしら。
陳寿と荀勖の関係が、『華陽国志』にある。
平呉ののち、陳寿は『三国志』・『古国志』を著した。荀勖・張華は、班固・司馬遷をうわまわると評価。だが荀勖が『魏志』に不快感をもったから、絶賛から転じて疎んじたと。
『文心雕竜』巻四 史伝第十六でも、荀勖は、陳寿をほめる。
荀勖が『魏志』を不快としたのは、政敵となった陳寿を攻撃する口実。
津田2001によれば、陳寿は、羅憲・張華の推挙により、孝廉にあげられた。張華の派閥。いっぽう、泰始十年(274) 『諸葛亮集』序で、荀勖・和嶠張華の推薦でこれを書いたとする。しばらく、荀勖・張華から評価された。
荀勖と張華が不仲になったのは、平呉の是非について。賈充・荀勖は反対し、杜預・張華は賛成した。荀勖は、平呉が達成されてしまったので、張華をにくんだ。津田2001によると、『晋書』巻三十九で、伐呉に反対した馮紞が、張華をにくむ。伐呉の実施・人選が、派閥抗争にかかわったのは、渡邉義浩2005a。
咸熙二年(276) 羊祜が伐呉を上奏。杜預・張華のみが賛成し、荀勖・賈充らが反対。279年、伐呉を実施。このあいだに、荀勖・張華が不仲になる、陳寿も左遷されたか。『魏志』が気に食わぬとは口実。
『藝文類聚』巻四十八 職官部四「中書侍郎」にひく王隠『晋書』にも。
陳寿は、司馬炎に迎合する。司馬炎が伐呉を希望し、張華・杜預がそれに賛同した。だから陳寿は、荀勖を離れて、張華についた。渡邉義浩氏2005a,b
荀勖は、晩年の司馬炎からにくまれ、失意に亡くなった。張華は、賈皇后(楊駿・司馬亮を粛清)に抜擢され、10年にわたって政務の中心。陳寿が中央官=太子中庶子になったのも、張華のひき。仕えたのは愍懐太子。立太子は太熙元年(290) 秋八月なので、陳寿の就任もこのとき。
愍懐太子は、元康九年(299) に殺害されたが、『華陽国志』ではその後も陳寿は生きている。津田2001は、兼散騎常侍への転任を、永康元年(300) とする。この年に張華は司馬倫に殺されたが、陳寿が連座した記録がない。張華とも距離をとって、立ち回ったか。
『三国志』の示した意義
陳寿には、「正統」な王朝はどれか、という発想がなかった。唯一、正統と認めるのなら、晋だけ。曹魏を主軸として政権の意にかないつつ、郷里をほめた。蜀を埋もれさせず、かつ晋に迎合できるのが『三国志』というスタイル。
『三国志』は、三国がそれぞれ正統性を主張したことを明記。後世の正統論において注目された。
陳寿が『三国志』にこめた最大の意図は、蜀や魏の「正統」性を主張することでなく、晋朝を賛美すること。ゆえに三部構成で天下の分裂を強調し、統一した晋をたたえた。政治的道具としての性格が色こい。160508閉じる
- 津田資久「陳寿伝の研究」より
津田資久「陳寿伝の研究」(『北大史学』第41号 2001)を読みます。
はじめに
陳寿『魏志』は、司馬氏に回護;政治的な阿諛追従と、出世欲を投影とみる。
上田早苗「巴蜀豪族と国家権力―陳寿とその祖先を中心に―」(『東洋史研究』25-4 1967)、中林史朗「後漢末・晋初に於ける地方学者の動向―巴蜀地方に於ける譙周グループを中心として―」(『土浦短期大学紀要』9 1981)
非道徳な人物像の説話がもつ信憑性に言及。
本田済「陳寿と『三国志』」(『東洋思想研究』1987:入手済)
先行研究は『晋書』に依拠し、矛盾した場合は『華陽国志』を退ける。
宮川尚志『三国志』明徳出版社 1970の「解説」、藤井重雄「陳寿伝について」(『新潟大学教育学部紀要〈人文・社会科学篇〉』18 1976)など。
『晋書』と『華陽国志』の2つの陳寿伝に内在するふたつの問題点をあきらかにして、基礎的な事績を再構成する。
『華陽国志』陳寿伝:陳寿を偉人化していない
陳寿とおなじ巴蜀出身の常璩による。宮川尚志「郷里の先輩史家として、陳寿を偉大に見せようと官歴を飾った」、藤井重雄「過大評価し、期待しすぎた」と。
『華陽国志』巻十一 後賢志には、年代が錯綜した記事の配列がある。陳寿伝も、『三国志』より『諸葛氏集』を後にするには誤り。
ただし、太康期(280-289)後半に没した継母を郷里に埋葬しなかったという違礼の記事があり、『華陽国志』は陳寿を偉人に描いたとは限らない。
『華陽国志』巻十一 王化伝に付した王崇伝は、偏向がある。『通典』巻六十 礼二十で、王崇は、兄の服喪期間に娘を嫁がせて、王渾に弾劾され免官される。しかし『華陽国志』は、王崇の違礼を載せない。
『晋書』巻四十五 何攀伝で、元康期(291-299) 後半から永康元年(300) に、梁・益州中正であった何攀が、陳寿(継母の埋葬のことで誹謗された)・閻乂・費立(いずれも道義的な問題により十年以上も清議にかけられた)を名誉回復したとする。『華陽国志』は費立伝があるのに、道義的な問題のことを記さない。
『華陽国志』と『晋書』巻四十五 何攀伝を総合すると、元康五年(295) 武庫の失火ののちに河南尹となり、のちに揚州刺史を3年つとめ、永寧元年(301) 正月に司馬倫が簒奪するまでに、大司農をもって二州中正を兼任した。何攀が中正であったのは、元康八年(298) 以降、永康元年(300) 以前となろうと。
巴西の閻乂はほかに見えないが、『晋書』巻四十八 閻纘伝によると、閻乂とは閻纘のことかと思われる。閻纘も、陳寿と同じく、継母(『晋書』は「母」とするが誤りか)との関係がよくなく、違令に従って帰葬しなかったことが、清議にそしられたかも。『華陽国志』は、陳寿の違礼を記す一方で、王崇・費立・閻乂(=閻纘)が起こした、『晋書』に記された道義的な問題を記さない。『華陽国志』は、陳寿には不利なことを書き、王崇・費立・閻乂(=閻纘)に不利なことを書かないのだから、陳寿を擁護して偉人化したとはいえない。
『晋書』陳寿伝は、父の服喪のとき丸薬を服用するが、『晋書』で新たに付加された逸話。事実とは認めがたい。
陳寿の父は、「馬謖参軍」とあるが、実際には諸葛亮の丞相営の参軍。街亭の戦いのとき馬謖の指揮のもとにいた。石井仁「諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について―蜀漢における軍府の発展形態―」(『東北大学東洋史論集』4 1990)
『晋書』陳寿伝:
内藤湖南が、改竄を指摘(『内藤湖南全集』第十一巻 1969 第七章第三節)。安田二郎が原史料に対する「確信犯的曲筆」を指摘(「西晋武帝好色攷」1998)。銭大昕『廿二史考異』巻十八~二十二でも、人名等の誤認を指摘される。
劉知幾『史通』巻十六 雑説篇上「史記」に、『晋書』の批判がある。東進の裴啓『語林』とその系譜に連なる『世説新語』、『捜神記』、劉義慶『幽明録』などを利用していると。『語林』の作為性については、『世説新語』巻下 軽詆篇 第二十四条にひく『続晋陽秋』を参照。
ぼくは思う。房玄齢『晋書』は、志怪小説などを吸収していて、評価が低いそうですが(劉知幾が言ってるらしい)、編者の集団は、どんな気分だったんだろう。「文字の並びを見れば、立ちどころにテキストを分解して、テキストごとの出典を特定できるひとが、われらの想定する読者である。混ぜるな危険!と怒るひとは無学だ」的なノリなのか。原典が散佚して、分析不可能になることは気にしないのか。いや、散佚を恐れるからこそ、「われらが決定版を作ってあげた」なのかな。
『晋書』陳寿伝のもと史料は、東晋の王隠『晋書』『張華別伝』、劉知幾が小説だという『語林』である。呉士鑑『晋書斠注』巻八十二 陳寿伝より。
人品の低さをいう佳伝製作事件は、『芸文類聚』巻七十二 米条『語林』にみえる。丁梁州に米をせびる話。れこは、『陳志』曹植伝に、丁儀・丁廙の一族が誅されたとあるように、事実では亡い。陳寿の本籍地の巴西を管轄する梁州刺史の丁氏とは、
『陳志』巻四では、梁州の設置を、平蜀直後の景元四年(263) 十二月とする。『華陽国志』巻八 大同志は、その翌年(264) の冬とする。『晋書』巻十四 地理志上では、泰始三年(267) とする。『晋書』巻七十八 丁潭伝に、「祖父の丁固は呉の司徒、父の丁弥は梁州太守」とみえる。『陳志』巻五十七 虞翻伝にひく『会稽典録』にもみえる。本来の『語林』では、会稽の丁弥が、陳寿に、父の丁固(丁密)の列伝をつくってと持ちかける話。これは『呉志』に丁固の列伝がないから創作されたか。
『晋書』は、時系列に誤りがあり、陳寿の最終官歴にあらわれる。はぶく。
(論文の最後に、訂正後の陳寿の年表があるので、それを写しておきました)
陳寿伝記の再構築
◆生没年代
『華陽国志』に、張華が殺されたあとに陳寿が死んだとあり、藤井重雄・楊耀坤は、傍証がないと否定する。しかし『晋書』の没年も傍証がない。『晋書』は、没年と享年を記すから使用され、『華陽国志』はどちらも記載がないから無視されてきた。しかし、『晋書』巻八十二で、没年と享年を記されるのは、例外的に陳寿のみ。『華陽国志』後賢志では、陳寿もふくめて記載がない。
『晋書』巻八十二は、がいして『華陽国志』に依拠して、逸話をプラスして書かれた。あえて『華陽国志』を捨てて『晋書』を見る理由はない。『北堂書鈔』巻百四 紙条にひく王隠『晋書』には、陳寿の没後に『三国志』の筆写が行われたことがある。筆写を命じられたのは、華軼の父で河南尹の華タン(『晋書』巻六十一)と、張漲である。張漲は、永寧元年(301) 正月に司馬倫の一党として頭角を現したひと。『陳志』巻二十八 鍾会伝にひく『晋諸公賛』、『晋書』巻五十九 成都王穎伝にみえる。張漲が、洛陽令として筆写を命ぜられたのは、永寧元年四月より以前の司馬倫の政権期に限られる。陳寿の死没は、永康元年(300) 四月以後としても、永寧元年(301) 四月以前であることは動かない。
張漲のことから、陳寿の没年は、『晋書』の元康七年でなく、永康元年でよい。没年は、『晋書』では65歳。しかし没年は信用ならない。たとえば杜軫は『華陽国志』では58歳だが、『晋書』巻九十 良吏 杜軫伝では51歳。何攀は、『華陽国志』では57歳だが、『晋書』巻四十五 何攀伝では58歳。
◆蜀漢期
官歴は『晋書』のほうが少ない。「観閣」とは「東観秘書閣」の略称なので、『晋書』にある「観閣令史」と、『華陽国志』にある「東観秘書郎」は矛盾しない。令史から郎官に転じたものの一断面をあらわしたもの。
先行研究によれば、
『華陽国志』に見られるように、衛将軍主簿となり、蜀漢が滅亡するまでに散騎・黄門侍郎に累遷した。蜀漢では、姜維と諸葛瞻が衛将軍である。『晋書』に黄皓のせいで昇進しなかったとある。もし陳寿が諸葛瞻の主簿なら、景耀四年(261) から滅亡までの3年間で、散騎・黄門侍郎に昇進したことになり、おかしい。ゆえに、延熙十年(247) から同十九年(256) まで衛将軍だった姜維の主簿と推測される。東観秘書郎のあと、散騎・黄門侍郎になるのは、黄皓の専制した時期。
しかし、黄皓にしいたげられて、散騎・黄門侍郎になるのはおかしい。
姜維と陳寿の接点は、史料にない。
諸葛瞻と陳寿の関係は、『陳志』巻三十五 董厥伝にひく『異同記』に、諸葛瞻の「吏」である陳寿がみえる。諸葛瞻の衛将軍の主簿と理解するのが自然か。とすれば、景耀四年(261) から、3年間のうちに、散騎・黄門侍郎を歴任したことになる。しかし蜀漢は後漢を踏襲しており、散騎がない。「散騎・黄門侍郎」は誤って挿入された。
『華陽国志』陳寿伝とともに寿良伝にも「散騎・黄門侍郎」がある。
洪飴孫『三国職官表』によると、蜀漢の黄門侍郎についたものは、劉禅の太子時代の属僚や、寵愛する大臣の子孫。陳寿や寿良が黄門侍郎になるとは想定しにくい。鄧艾伝に、鄧艾の独断で官職をくばるが、1ヶ月あまりのうちに散騎侍郎から黄門侍郎に累遷したとは考えにくい。そらそうだ。
黄皓との対立は、疑問視される。
衛将軍の主簿になったのが、すでに黄皓の専制期。同門の羅憲が、『陳志』巻四十一 霍弋伝にひく『襄陽記』によれば、中央から地方の巴東太守にされている。陳寿は、低くとも中央官の秘書郎になっている。
ぼくは思う。羅憲の推薦で、陳寿は西晋で官職を得た。同門の羅憲と同じような、蜀漢での官僚生活であったことに、遡及的に決めたんだろう。そのほうが、分かりやすい=覚えがめでたいから。黄皓は「亡蜀のあとに遡及的に定められた悪者」である。蜀漢の滅亡のスケープゴートである。陳寿の官歴は、景耀四年以前は、益州の従事。以後、滅亡にいたる3年間に、諸葛瞻の衛将軍主簿・東観秘書令史・東観秘書郎となった。『晋書』にあるような黄皓との対立、散騎・黄門侍郎への就任はなかった。
ただし、『華陽国志』同巻では、州従事のつぎは郎官に任じられる傾向がある。衛将軍主簿はともかく、観閣令史になったのは、一定の左遷といえなくもない。
◆西晋武帝期
陳寿の官歴の年代がわかるのは5つ。
①泰始四年(268) 3月、羅憲の推薦により出仕した(『陳志』巻四十一 霍弋伝にひく『襄陽記』)
②泰始五年(269) 巴西郡の中正になった(『陳志』巻四十二 譙周伝)
③泰始十年(274) 二月一日、平陽侯相として『諸葛氏集』を上呈、それより前に著作郎であった(『陳志』巻五 諸葛亮伝)
④咸寧四年(279) 十一月 杜預の推薦をうけて治書侍御史となった(『北堂書鈔』巻六十二 治書侍御史にひく王隠『晋書』)
⑤太康元年(280) 三月より後、「兼中書侍郎・領著作郎」である(『晋書』巻二十 礼志中)
うち③で編纂を命じたなかに「中書令・関内侯の和嶠」がみえる。ただし中書令は、泰始六年までが庾純で、つぎが咸寧五年(279) まで張華。和嶠は誤り。
『晋書』巻五十 庾純伝には「歴中書令・河南尹」とある。『太平御覧』巻二百五十二「尹」にひく『晋書』には、泰始六年に河南尹になったことが分かる。『山濤啓事』(『通典』巻二十一 門下侍郎にひく)に、泰始末ごろ「黄門郎の和嶠」がみえ、中書令(三品官)でなく、高くとも黄門侍郎(五品官)である。
『諸葛氏集』は、張華が尚書令になった泰始六年(270) 以後に始められたとなる。『晋書』巻二十四 職官志 秘書監によると、武帝紀には、職務上の「著作の局」が、中書省に統属された。中書監の荀勗・中書令の張華が、旧蜀の陳寿が編纂するように、武帝の裁可をもらってから命じた。
陳寿が西晋に出仕するのは、泰始四年(268) 三月以後となる。『晋書』に「孝廉に挙げられ、佐著作郎に除せらる」とある。
『太平御覧』巻二百三十四 著作郎にひく王隠『晋書』は、陳寿は著作佐郎となり、大著作にうつるとある。羅憲に推薦されてまもなく泰始四年に孝廉で佐著作郎となり、大著作(=著作郎)になった。
『晋書』陳寿伝に羅憲は見えない。羅憲が旧蜀の登用を訴えて、張華が具体的な官職(佐著作郎)に任じたのであり、補完しあう記事。当時は黄門侍郎であった張華を「司空の張華」と記すのは、『張華別伝』の記事を使ったからであろう。
このあとは『晋書』陳寿伝の時系列が混乱しており、官歴が分かりにくいが、論文の末尾(このサイトではワクの最後)の年譜のとおりになる。
佐著作郎となった翌年=泰始五年(269) に、著作郎・領本郡中正に遷った。佐著作郎から著作郎への昇進は、泰始四年前後にできたと見られる『益部耆旧伝』。文立が『益部耆旧伝』を武帝に上呈して、評価された。
陳寿が著作郎になるのは2回。泰始四年(268) から泰始十年(274) より前まで。太康元年(280)。文立は、咸寧四年(278) に陳寿が治書侍御史となる前に死んでいるから、『益部耆旧伝』の完成はこのとき。『華陽国志』ではここを「再び著作郎と為る」とあるが「再び」はおかしい。
以上から、陳寿が著作郎であったのは、少なくとも泰始五年から、中書令の張華のもとで『諸葛氏集』が編纂された泰始六年ごろまで。
なぜ杜預が、口頭で武帝に陳寿を散騎・黄門侍郎に推薦したか。「広国論」が密接に関係するか。
これは『華陽国志』に書名が見えるだけで、内容は不明。「国を広めるの論」であれば、西晋において対外拡張は孫呉討伐しか該当しない。議論が活発化した、咸寧四年(278) ごろか。
羊祜・杜預・張華を中心に、伐呉の運動があった。益州刺史の王濬と、王濬の属僚の何攀(蜀郡の名族)が、伐呉に積極的だった。陳寿は、張華の政治姿勢に連動している。
太康元年(280) 兼中書侍郎・領著作郎になった。『芸文類聚』巻四十八 中書侍郎にひく王隠『晋書』に、陳寿が著作郎となった理由が、張華との「友善」とある。伐呉を主張した功績にちなみ、張華が働きかけてくれた。
『晋書』巻三十九 馮紞伝によると、伐呉に反対してた荀勗・馮紞は、張華を敵視した。『太平御覧』巻二百三十四 著作左郎にひく『張華別伝』は、陳寿の事績を詳述する。陳寿は、張華の一派だった。それゆえ、長広太守に左遷された。
『華陽国志』によると、荀勗は『魏志』の内容をきらった。張華が左遷されて幽州にいくのは太康三年。このときまでに、『魏志』は完成していた。
荀勗は太康十年(289) に没した。だから宮川氏は『三国志』の成立をこの時期までとする。しかし『魏志』を見たのであって、『三国志』を見ていない。夏侯湛が見たのも『魏志』のみ。『三国志』の順次成立は、大川富士雄「『古本三国志』をめぐって」(『立正大学文学部論叢』62 1978)
http://repository.ris.ac.jp/dspace/handle/11266/3468
PDFで読めました。3冊のべつべつの本であった『国志』が、3つの『国志』だから、やがて『三国志』になる話。『呉志』最後の記事が、孫晧の死をつたえる太康五年(284) なので、その年か翌年の成立とする説があるが、わからない。
継母の帰葬事件と、「数歳」してから、太子中庶子となる(290年に愍懐太子が立つ)。長広太守になってから、恵帝期(290-) にいたるまでのあいだ、辞職・服喪した。太康年間の後半は、官職になかった。
『華陽国志』には、「再び散騎常侍を兼ぬ」とあるが、それより前に散騎常侍がない。中林氏は、陳寿が元康七年に没したという理解のうえに、兼散騎常侍を太子中庶子の加官とするが、『華陽国志』ではあくまで愍懐太子の廃立後のこととする。ムリがある。
◆西晋恵帝期
『晋書』巻五十三 司馬遹伝によると、立太子とともに属僚が一斉に任じられた。恵帝が太子になったときも同じ。『華陽国志』文立伝を参照。
元康八年(298) から永康元年(300) のあいだに、二州都であった何攀により「清議十余年」をこうむった陳寿らが名誉回復された。継母の死没は、太康期の後半と考えられる。
『晋書』では、「母が老病だから長広太守にいかない」とある。母が死んで、治書侍御史をやめる。だが実際いは、咸寧四年(278) 十一月ごろ、治書侍御史についた。まもなく太康元年(280) 兼中書侍郎・領著作郎となる。このころ陳寿は服喪にいない。治書侍御史のあと、長広太守になったとしたら、記事が破綻する。治書侍御史の直後に服喪して、長広太守に行ってない、という説明は成り立たない。
太子が廃されたのが、元康九年(299) 十二月末日なので、兼散騎常侍になったのは、翌年の永康元年(300) 一月以降。張華は、永康元年四月に殺されたので、それより前となる。
おわりに
『華陽国志』にもとづいて『晋書』がつくられた。どちらも時系列が乱れている。『晋書』の佳伝製作事件のように、資料の誤認による逸話がある。時系列を誤ったままで、その整合性を繕うため、范頵の上奏文における陳寿の肩書きを改竄した。この論文のような再構築が必要であったと。
陳寿の年譜
生年は不詳。景耀四年(261) より前の幼少期に、同郷(巴西郡 西充国)の譙周に師事。『尚書』『春秋三伝』『史記』『漢書』をおさめた。同門の文立が顔回、羅憲が子貢にあたり、李虔(李密あるいは李宓)と陳寿が子游と子夏にあたるとされた(『晋書』巻九十一 儒林 文立伝)
景耀四年(261) 以前に、益州の命に応じて従事となる。
景耀四年(261) 衛将軍の諸葛瞻の主簿となる。以後、蜀が滅亡する263年まで、東観秘書令史(観閣令史)、東観秘書郎(観閣郎)を歴任した。
泰始四年(268) 三月以後、冠軍将軍の羅憲や黄門侍郎の張華の推薦により、孝廉にあげられ、佐著作郎(七品官)となる。この前後『益部耆旧伝』できる。
泰始五年(296) このころ、太子中庶子の文立が『益部耆旧伝』を武帝に上呈。これにより著作郎(六品官)にうつり、本郡(巴西郡)中正となる。
泰始六年(270) このころ、上司である中書監の荀勗や中書令の張華の推薦により、『諸葛氏集』の編纂を命ぜられる。
泰始十年(274) 二月に『諸葛氏集』が完成。このとき平陽侯相(県令の待遇、六品官)にである。
咸寧四年(278) 十一月に鎮南大将軍の杜預が荊州に出鎮するにあたり、武帝に「陳寿を散騎・黄門侍郎にせよ」と推薦。きっかけで治書侍御史(六品官)となる。このころ伐呉を主張した「広国論」をつくる。「官司論」「釈緯」もこの頃か。「釈緯」は譙周から学んだ讖緯学による。
太康元年(280) 度支尚書の張華の推薦により、兼中書侍郎(五品官)・領著作郎となる。平呉のあった三月以降、在任が確認される。これ以後、『三国志』撰述がはじまる。
太康三年(282) 正月、張華が幽州に左遷され、荀勗に憎まれた。『魏志』が荀勗の気に食わず、長広太守(五品官)に左遷される。この頃までに『魏志』成立。長広太守になったのち、継母の喪に服した。太康期の後半は再び出仕せず。
永熙元年(290) 司馬遹の立太子にともない、太子中庶子(五品官)。
永康元年(300) 廃太子により、兼散騎常侍(三品官)。四月、司馬倫に司空の張華が殺され、年内に洛陽で没。
この前後、何攀が梁益二州中正(兼二州都)となり、継母の帰葬問題をくらった陳寿の名誉を回復。兼散騎常侍になるのはその結果か。『華陽国志』巻十一 後賢志 何攀伝と、『晋書』巻四十五 何攀伝より。
『晋書』陳寿伝は、陳寿が元康七年に卒したとするが、永康元年(300) が正しい。『晋書』と『華陽国志』の列伝で、没年齢にズレが見られるものがあるから、陳寿の生年は特定しない。かりに景耀四年に出仕したなら、40年の官僚生活を送ったことになる。20歳前後で蜀漢に仕えたであろうから、60代で没した可能性は充分にある。
永寧元年(301) 四月までに、梁州大中正・尚書郎の范頵らの上表が裁可され、河南尹の華タンと洛陽令の張漲に、『三国志』を筆写させる。160517
閉じる
- 陳寿について思うこと
陳寿には「不遇」でいてほしい
田中先生の論文を読んで思いました。
よき歴史家は、筆禍を被るという印象がある。印象というより、歴史書を読むものたちの、集団的・集合的な願望かも知れない。
よい歴史書は、真実を(直筆せずとも)えぐりだすものだから、関係者を怒らせるはずだ(怒らせなければ、よき歴史書ではない)という確信めいたものがある。前近代の中国の思想家から始まり、今日の日本の研究者にいたるまで、陳寿を「不遇」の人物に留めておきたいのは、こうした願望のはたらきではないか。そのほうが、陳寿および『三国志』が魅力的にみえると。
「不遇」の前例・系譜を確認してみる。
司馬遷は、漢武帝に仕えながら、漢武帝の本人までの歴史を編んだ。古代の帝王に、漢武帝を投影した。本人に向けて、本人の人物像(本人のみならず祖先や、王朝のなりたちまで)を提示した。そりゃ、怒らせる。司馬遷がつたないとか、武帝がおさないとか、そういう次元の話ではなく、誰が誰にむけて同じことをやっても、同じようにトラブルとなる。
班固は、王莽で断絶したとはいえ、後「漢」時代に、漢の歴史書をつくり有罪となった。後漢は、前漢の継承王朝を自称しているから、班固を罰することが「政治的に正しい」ことになる。というか、班固を黙認したら、「劉邦の王朝と、劉秀の王朝は別ものだから、班固の著作をクールに取り扱えるよ」ということになり、正統性の基盤がゆらぐ。王朝の威信にかけて、とりあえず、班固を罰しなければならない。ポーズだけでも。いや、ポーズこそが大切。
陳寿を飛ばして、范曄の場合、南朝宋で刑死したが『後漢書』が原因でないから、話がちがう。南朝宋の歴史を記して、筆禍事件になったのなら、同じように言えるけれど、パターンがちがう。
本題である、陳寿の場合、
蜀に仕えたとき、官職の役割の範囲で、仕事としての節度をもって(先行するロールモデルは多いだろう)蜀の歴史を取り扱ったから、特別のトラブルにならなかった。いや、もしも黄皓や諸葛瞻とのトラブルがあったなら(トラブルの実在性は、先行研究で疑義あり)、歴史叙述に関することかも知れない。
蜀が魏に降伏すると、魏に仕えなかった。蜀の歴史は「死蔵」していたかも。魏の歴史を書こうと思っても、宮廷図書館にアクセスできないから、やりようがない。
晋に仕えたとき、いきなり晋の歴史には着手しなかった。たとえば、司馬懿の評伝を書くといった、リスキーなことをしない。当事者・当の王朝について書けば、いかに工夫しても絶対にクレームがくる。
そこで、少しひねって、晋代に『三国志』を書き、「晋には触れず、晋の偉大さ=成立前史を表す」というトリッキーな筆法を使った。これによって、歴史家・官僚としての腕前を示しつつ、おそらく本人的な興味関心・問題意識も満足させつつ、司馬遷・班固のような失敗をしなかった。
これはぼくの妄想ですが、陳寿が「~志」という、おかしな書名にしたのは、『三国志』が、やがて書かれるべき(完成させるのは後代の史家であるところの)「晋書」の巻頭の付録となること予期したからか。この予期というのは、「真心から」というよりは、そういう態度を示して、眼前の絶対権力者・司馬氏に迎合したから。迎合というと、印象が悪いですが、それ以外に生存の道がないわけですから、陳寿をとがめることはできず、陳寿の仕事の価値を落とすことにもならない。
田中先生が提示してられた、「著書『三国志』を処世術の武器として、旧蜀の出世ガシラとなった陳寿!」というのは、結果から遡及してつくり過ぎた人物像という気もする。というか、そこまでドライであってほしくない、というのが、『三国志』読者としての希望というか。
張華という強力な庇護者のおかげで官職を得たが、膨大な字数の資料を読み、『三国志』をまとめているときは、利害を度外視したトランス状態であってほしい。
陳寿に「不遇」であってほしいといいう、歴史読みたちの集合的な願望は、ぼくの願望でもあって、『晋書』陳寿伝などでチェックしていこうと思います。160509
陳寿の物語の企画;原罪
興味を持ったきっかけは、宮城谷『三国志』外伝 陳寿。
劉備の死後、諸葛亮は九歳下の馬謖から兵法を学ぶ。馬謖が、街亭での魏の遮断を発案。形式的に軍議を開いたら、魏延が長安急襲を提案。作戦を自分で考えていなかった諸葛亮は狼狽。魏延の可否を吟味する余裕がなく、準備不足だから、予定どおり馬謖に街亭を一任。 これが宮城谷『三国志』陳寿の設定。
諸葛亮は「参軍」馬謖から兵法を学び、街亭の作戦を教わった。その馬謖の「参軍」が陳寿の父。馬謖との仲の良さから、陳氏も荊州出身と推定。物語として、街亭で「山上に布陣すべき」と提案したのが陳寿の父だったら最高。ほぼ唯一の蜀の勝機を、陳寿の父がつぶし、上司の馬謖が責任を被ったとか。馬謖は、上司の諸葛亮の責任と、部下の陳寿の父の責任をふたつとも受け取り、死んだとか。
歴史家の陳寿は、「事実をそのまま書けない」というか「事実を書くのって難しい/できない」という苦しみの話。歴史哲学が射程におさまるが、それ以前に、当事者として歴史を書くことの困難さの話。
その原罪とも言うべき事実が、「陳寿の父のせいで、馬謖が敗れた」ということ。少なくとも陳寿の父が提案して、馬謖がそれを受けた。
設定としては、「山上に布陣せよ」と細かく指示を出したのが諸葛亮で、それに従おうとした馬謖を、陳寿の父が諌めて、言いつけどおり山上に布陣したとか。諸葛亮のこの失敗こそが、国家の機密。いい!戦場からの帰還者が沈黙するように、陳寿の父も沈黙した。父が子に話してしまえば、馬謖が死んだ理由がない。のちに蜀漢に就職した陳寿は、当時の戦闘の記録を見てしまうとか。
譙周が、歴史に興味がある陳寿を推薦する。しかし、事前に覚悟を促される。「国家の記録を見れば、出世はのぞめない」というか、「国家の記録を見れば、人間ではいられない」と。見てはならないものを見て、見せられないものを書くのだから、それは人間ではありません。そういうシャーマン的な位置にゆく覚悟はあるかと。
『晋書』陳寿伝で、陳寿は出世できない。ひとり黄皓に屈しなかったというが、それは、晋代になってから作られた「公式見解」である。
おそらく陳寿は、国家の秘密を、職務上、知ってしまい(ほかに誰が知っているのかも、知ることができないという仕方で、メタレベルでもカギが掛かっている情報だったりして)出世できない。しかしそれは譙周による「恩」であって、国家の記録を見ながら、かつ要職に就いたら、ぜったいに権力闘争の中心になる。政治家としてのヒューマンスキルの高くない陳寿には、それは過酷だなと。
陳寿の父が受けた髠刑のこと
陳寿の父が受けた「髠刑」って、もとどおり毛が伸びたら「刑期が終了」なんでしょうか。ほかになにかペナルティや手続がありますか。
@3223641 さんに教わりました。
「周礼•秋官司寇」と「文献通考•刑考一」に「髠者使守積」がありまして、ここの「積」は労役の意味で、髠刑と労役刑両方を受けることを意味します。鄭衆(大司農の方の)が「文献通考•刑考一」の箇所に注して曰く「髠当為完,謂居作三年,不虧体也」。どうやら労役刑の刑期は三年のようです。ちなみに、最初の髠刑は倉庫警備の労役刑らしく比較的に軽い刑罰のようです。秦・漢になると、どうやら単独に髠刑を受刑するケースが存在しないようです。
陳寿の父の名は「陳参」にしよう
陳寿の父の名がないと面倒なので、つけちゃおう。
「陳式」だと『三国演義』の設定で、いろいろ不自由なので用いない。「陳参」で。
王莽が礼経を受け、沛郡の陳参に師事したという史実があるが、関係ないです。馬謖の「参軍」というのが唯一の事績。そして陳寿の著書の名が「三」国志だけど、「参」に通じる。父の名をつかわないのがマナーで、たとえば范曄が『後漢書』で「泰」を「太」に置き換えるせいで、記述がダサくなった。陳寿の場合、父の名をおかすわけじゃないが、「三」は特別な文字。
陳寿の個人の事情から「参」の時を『三国志』で避けてもいいのだが、記述が分かりにくくなるし、陳寿は「不孝」キャラなので、分かりやすさを優先するとか。160514閉じる
- 『晋書』巻八十二 陳寿伝より
福井重雅『中国古代の歴史家たち』を見ながらつくります。
陳寿に視点を固定した、蜀漢末期の政権の風景について、考えたら楽しいかも。『晋書』陳寿伝と、『華陽国志』後賢志 陳寿では、だいぶ内容が異なるみたいで、先行研究でも異同を掘り下げてる。そもそも諱すら不明の、陳寿の父というのがミステリアス。譙周の弟子ならば、北伐反対・降伏派なのか?とか。
蜀漢時代の陳寿
陳壽字承祚,巴西安漢人也。少好學,師事同郡譙周,仕蜀為觀閣令史。宦人黃皓專弄威權,大臣皆曲意附之,壽獨不為之屈,由是屢被譴黜。遭父喪,有疾,使婢丸藥,客往見之,鄉黨以為貶議。及蜀平,坐是沈滯者累年。陳寿は、あざなを承祚といい、巴西の安漢のひと。同郡の譙周(『陳志』に列伝あり)に師事した。蜀につかえて観閣令史となる。
福井注:観閣は物見台や楼閣のこと。令史は文書行政をつかさどる蘭台尚書の属官。ただし観閣令史という官名は、『晋書』『通典』に見えず、蜀に特有の官名か。
『華陽国志』巻十一に、「わかいとき散騎常侍の譙周から学問を受けた。『尚書』『春秋』三伝をおさめ、『史記』『漢書』に精通した。州の詔命に応じ、衛将軍主簿・東観秘書郎・散騎〔侍郎〕・黄門侍郎を歴任した」とある。
散騎常侍は、天子の側近で、顧問として下問に応対した。門下の属官。三品に相当。
衛将軍は四将軍のひとつ。主簿は属官、文書・帳簿をつかさどる。
東観秘書郎は。東観とは宮中における著作や蔵書を主管する役所。秘書郎は、その経書の補修・校勘にあたった。六品に相当。
散騎侍郎は、尚書奏事の処理にあたり、黄門侍郎は、内外の連絡や尚書の事務を担当した。ともに侍中府に属して、五品に相当。
黄皓が意見をもてあそび、大臣はみな迎合したが、陳寿だけが屈しなかった。これにより、しばしば官職を降格された。
ぼくは思う。「みな」迎合したが、陳寿「だけ」屈しないとか、強調のレトリックにしても、明らかにウソとわかる。『陳志』で、黄皓がどう扱われているかチェック。陳寿が当事者なので、自己言及的なバイアスがかかるから、要注意。蜀の滅亡を必然とするとか、滅亡の責任をひとりに押しつけるとか、そういう偏向は容易に想定できる。父の喪のとき、婢に丸薬をつくらせ、客に見られて郷党で貶議をうけた。蜀が平定されても、
『陳志』が載せる劉禅の降伏文書は、「司馬氏が輔政する魏に降ります」というもの。司馬派の鄧艾に受けとってもらうために工夫したのか、後年に差し替えたのか。ぼくは差し替えがあったのではないかと疑う。もちろん、降伏の時点でも、譙周だかが起草した降伏文書があったはずだが、魏をほめるものだったのでは。陳寿は(貶議のために)数年間 沈滞した。
魏晋の交替期で、政情がきわめて不安定(だから竹林の七賢が生じた)なとき、陳寿の「沈滞」は、果たしてマイナスか。魏晋革命の直後、旧魏臣の再編に忙しいときに、蜀臣の取り込みが遅れるのは必然。優先順位がひくいから。
どうやら『晋書』は、陳寿が、末期の魏に仕えなかった理由を欲して、丸薬の事件をつくったのではないか。もしくは、晋臣の陳寿を、蜀漢の滅亡から免責するために、丸薬によって朝廷の中枢から遠かったことにしたのでは。
滅亡の責任を黄皓に押しつけ(この歴史観の「捏造」には、陳寿も関与したかも)、陳寿「だけ」は黄皓と対立したことにした。晋の図書館に、そういう陳寿の伝記があったなら、陳寿本人もしくは部下が、そういう「公式見解」の記録を残したのでは。たしかに陳寿は司馬氏に不可避的に迎合したが、「高官」陳寿に迎合する、旧蜀の文人官僚もいただろう。少なくとも反発者と同数以上は。
儒教の規範は大切にせよ、「政治犯」の場合は復帰が難しいが、「貶議」だけなら、暗黙の諒解?により、官職の高低にかんする無難な理由づけになる。ぼくらは、陳寿のウソに、付き合わされているのでは?
西晋時代の陳寿
司空張華愛其才,以壽雖不遠嫌,原情不至貶廢,舉為孝廉,除佐著作郎,出補陽平令。撰蜀相諸葛亮集,奏之。除著作郎,領本郡中正。撰魏吳蜀三國志,凡六十五篇。時人稱其善敘事,有良史之才。司空の張華は、
『廿二史考異』巻二十二に、「武帝期に張華はまだ司空でない」とする。陳寿には悪評の嫌疑があるが、降格・免職するほどでもないと考え、孝廉にあげて、佐著作郎とした。
ぼくは思う。本文にある「以壽雖不遠嫌,原情不至貶廢」なんて、張華のプライベートな感情の動きであり、第三者に知れないこと。政治家の張華が「うーん、陳寿はねー」とか、だらだら中途半端な評価を述べたとは思えない。つまり、史家がむりやり記述のツジツマを合わせている。
実態は、とくに理由もなく、直感的に陳寿を気に入って、抜擢したのだろう。
福井注:佐著作郎とは、三国魏で設置され、著作郎を輔佐した。南朝宋以降、著作佐郎と改められる。著作郎とは、三国魏の明帝の太和年間(227-237) におかれ、中書省に所属した。六品に相当した。
『北堂書鈔』巻五十七 王隠『晋書』は、「中書著作佐郎」につくる。
陽平令平陽侯相となる。
『廿二史考異』巻二十二によると、泰始十年に上表したとき、平陽侯相を称する。陽平令は誤りであろう。『華陽国志』巻十一は、平陽侯相としており、こちらが正しい。蜀相の『諸葛亮集』を撰述して奏上した。
『諸葛氏集』とも。二十四篇。陳寿ら撰。諸葛亮の故事をあつめた伝記の一種。西晋の泰始十年(274) に上程された。
『陳志』諸葛亮伝に、『諸葛氏集』目録、二十四篇があり、合計104千字。『華陽国志』巻十一に、「張華は上表して、陳寿に『諸葛亮故事』を編纂させたとある。このとき寿良もまた『諸葛亮故事』を編集していたが、張華が陳寿に編纂させた内容と異なっていた、とある。
寿良は、あざなは文淑。蜀の官僚、成都のひと。『春秋』三伝や五経に精通し、蜀では黄門侍郎、西晋では散騎常侍・大長秋。ぼくは思う。陳寿の足をひっぱるライバルは、寿張がいい。きちんと官職をもらっており、ライバルがつとまる。
(その結果)著作郎となり、本郡(巴西郡)の中正官となった。のちに『三国志』六十五篇を撰述した。叙事にたくみで、良史の才があるとされた。
夏侯湛時著魏書,見壽所作,便壞己書而罷。張華深善之,謂壽曰:「當以晉書相付耳。」其為時所重如此。或云丁儀、丁廙有盛名於魏,壽謂其子曰:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。」丁不與之,竟不為立傳。夏侯湛は『魏書』を著したが、陳寿『三国志』をみて書を壊した。
夏侯湛は、あざなは孝若。西晋の文人(242?-292?)。譙国のひと。西晋の初年、賢良にあげられ、散騎常侍となる。名文家として知られ、「抵疑」「昆弟誥」がある。張華は『三国志』を見て、「当に『晋書』を以て相ひ付すべきのみ」という。
『三国志』のあとに?『晋書』を付け加えるというのが、福井先生の解釈。陳寿に『晋書』を付す(たのむ)という読みも見たことがある(気がする)。あるひとが「丁儀・丁廙は、魏で盛名があった」というと、陳寿はその子に「千石のコメをくれたら、よき列伝をつくる」といい、列伝を立てず。
『芸文類聚』巻七十二は『語林』をひき、陳寿が「丁梁州」にコメを「借りた」とする。
『三国志考証』巻五に、丁儀・丁廙は、右刺姦の掾史および黄門侍郎にすぎない。国外に遠征せず、国内に廟堂で計を断てることもなく、曹植を後継者問題に追いこんだのだから、列伝がなくても当然。同時代の徐幹・陳琳・阮瑀・応瑒・劉楨・呉質・邯鄲淳・繁欽・路粋・楊脩なども列伝なし。コメの逸話はウソ。
ぼくは思う。王粲伝のあたりに付された文人たちの列伝は、体裁が動揺しているというか、立伝するでもなく、黙殺するでもなく、ダラダラと記述が流れる。これを怪しんで、コメの逸話が膨らんだとしたらおもしろい。単なる整理の不行き届きなんじゃないかと思う。しかし、そんな片づけ方をするまい。
壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父亦坐被髠,諸葛瞻又輕壽。壽為亮立傳,謂亮將略非長,無應敵之才,言瞻惟工書,名過其實。議者以此少之。陳寿の父は馬謖の参軍であり、馬謖が諸葛亮に誅されたとき、父は髠刑になった。諸葛瞻もまた、陳寿を軽んじた。だから陳寿は諸葛亮伝で「將略非長,無應敵之才」とし、諸葛瞻は「ただ書画にたくみで、名声は実力に過ぎる」とした。『三国志』を論じるものは、これを諸葛氏への過小評価とした。
『世説新語』排調篇にひく王隠『晋書』に、「父が頭を髠されたから、『蜀志』を撰するとき愛憎をもって評をつくったとする。
ぼくは思う。ただの「憎」でなく、「愛憎」というのが深読みしたくなるポイント。陳寿による諸葛亮・諸葛瞻の評価が、公平なのか、『晋書』にあるように私怨まじりの不当なものかは(当面は)関係ない。陳寿は、司馬氏・張華とうまくやれたかも知れないが、こういう風評を立てられたことで、司馬遷・班固とは違うかたちで「歴史家税」とでもいうべきものを払わされた。
張華將舉壽為中書郎,荀勖忌華而疾壽,遂諷吏部遷壽為長廣太守。辭母老不就。杜預將之鎮,復薦之於帝,宜補黃散。由是授御史治書。以母憂去職。母遺言令葬洛陽,壽遵其志。又坐不以母歸葬,竟被貶議。張華は陳寿を中書郎にしようとしたが、
中書郎とは、中書侍郎。中書省の属官で、皇帝の秘書役。定員4名、五品に相当。荀勖が張華・陳寿をきらい、吏部にほのめかし、陳寿を長広太守とした。
荀勖は、あざなは公会。魏晋の政治家(-289)。魏では侍中、西晋では中書監・光禄大夫・秘書監。西晋の初、中書令の張華とともに、宮中の図書館を整理。
吏部とは、吏部尚書。尚書省下の六部のひとつ、官吏の任免をつかさどる。三品に相当。
ぼくは思う。荀勖が『三国志』の内容で機嫌を損ねるなら、杜畿伝と荀彧伝か。陳寿は、伐呉派の杜預の派閥に属する。杜預の祖父は『三国志』杜畿伝で曹操から、蕭何・寇恂に比されたことになってる。これは『三国志』荀彧伝で荀彧が演じた役割(本拠地の重要性を、高祖の関中・光武の河内に比して説く)とかぶる。「荀彧と杜預が同格である」という陳寿の歴史観(曲筆?)に対して、荀勖が違和感を持ったとしても、おかしくない。だって杜預より荀彧のほうが、重要じゃんと。陳寿は母の老いを理由に長広にゆかず。
杜預が鎮にゆくとき、司馬炎に「陳寿を、黄散(黄門侍郎か散騎常侍)にすべき」とした。これにより御史治書となった。
『北堂書鈔』巻六十二 王隠『晋書』で、杜預が「黄門侍郎か散騎常侍に」と勧めると、司馬炎は「それを言うのが遅かった。陳寿を治書御史にするのはどうか」といい、手ずから詔をしたためた。
『華陽国志』巻十一に、陳寿を散騎常侍に推挙すると、司馬炎は「先ごろ蜀のひと寿良を登用して、散騎常侍の定員を満たしたばかり。では侍御史にしよう」と。
杜預は、妻は司馬昭の妹。羊祜の死後、鎮南大将軍・都督荊州書軍事となる。『左氏伝』の現存最古の注釈書をつくった。
黄散とは、黄門侍郎と散騎常侍のこと。六朝期、ともに格式の高い清官の代表として並称された。へー。
御史治書は、御璽侍御史のこと。律令をつかさどり、法の執行や官吏の弾劾をおこなう。定員4名、六品。
母が死んだので辞した。遺言どおり母を洛陽に葬ったが、郷里に葬らなかったことを非難された。
初,譙周嘗謂壽曰:「卿必以才學成名,當被損折,亦非不幸也。宜深慎之。」壽至此,再致廢辱,皆如周言。後數歲,起為太子中庶子,未拜。はじめ譙周は陳寿に「才学によって名を成すが、誹謗されるだろう。つつしめ」といった。陳寿が罷免されたのは、譙周の言うとおりだった。数年後、太子中庶子となったが、拝さなかった。
太子中庶子は、皇太子につかえる東宮の官。つねに太子に侍り、下問に応対。五品。
『華陽国志』巻十一に、陳寿は太子中庶子となる。太子が洛陽に移ると、ふたたび(臨時に)散騎常侍をかねた。恵帝は司空の張華に「陳寿には才能があるから、ながく(臨時に)散騎常侍をかねさせておくな」といった。張華は、陳寿を九卿にしようとしたが、張華が司馬倫に殺された。陳寿も洛陽で死んだ。声望が実力につりあわないので、惜しまれた。陳寿の兄の子は陳符、あざなは長信。陳符の弟は、陳莅(チンリ) といい、あざなは叔度。陳莅の従弟は、陳階といい、あざなは達之。
元康七年,病卒,時年六十五。元康七年(297) 病気で死んだ。65歳だった。
『晋書』巻四 恵帝紀によると、張華が司馬倫に殺されたのは、永康元年(300) なので、張華の死後も陳寿が生きている『華陽国志』と食い違う。
梁州大中正、尚書郎范頵等上表曰:「昔漢武帝詔曰:『司馬相如病甚,可遣悉取其書。』使者得其遺書,言封禪事,天子異焉。臣等案:故治書侍御史陳壽作三國志,辭多勸誡,明乎得失,有益風化,雖文艷不若相如,而質直過之,願垂採錄。」於是詔下河南尹、洛陽令,就家寫其書。壽又撰古國志五十篇、益都耆舊傳十篇,餘文章傳於世。梁州大中正・尚書郎の范頵らは、上表した。
州大中正とは、魏末に司馬懿の建議によって、州におかれた中正官。郡中正と同じく人物の選考をおこなう。
尚書郎は、尚書省の属官。後漢には文書の草案をつかさどったが、晋代には職務がおもくなり、大臣の輔佐。六品。
范頵は、経歴が不明!「漢武帝は詔して、司馬相如が死ぬ前に、自宅から著作をすべて収得させた。そこには封禅の記述があり(王朝にとって貴重な情報を得ました)。もと治書侍御史の陳寿の家で、著作を収得しなさい」と。そこで河南尹・洛陽令にくだして、自作で筆写させた。
『北堂書鈔』巻百四 王隠『晋書』に、河南尹の華タンと洛陽令の張漲に、『三国志』を筆写にいかせたとある。案ずるに陳寿の母は洛陽に葬れと遺言したのだから、洛陽に家を構えたのだろう。陳寿には『古国志』五十篇、
『華陽国志』巻十一に、中書監の荀勖・中書令の張華が、『古国志』を愛読し、班固・司馬遷に勝るとした。『益都耆旧伝』十篇を撰述した。史臣曰く…、賛に曰く…。160509
『華陽国志』巻十一はいう。益州では、建武期より、巴蜀の耆旧伝をあらわした。陳寿は範囲がせまいと考え、巴・関中の伝記をあわせて『益部耆旧伝』とした。散騎常侍の文立が表呈すると、司馬炎がほめた。
案ずるに『三国志』李譔伝に、「陳術、あざなは申伯。『益部耆旧伝』および『志』を著したとある。『晋書』陳寿伝は「益都」とするが、「益部」が正しい。閉じる
- 『三国志』巻四十二 李譔伝・陳術伝・譙周伝
『三国志集解』を見ながら読みます。
李譔伝
李譔、字欽仲、梓潼涪人也。父仁字德賢、與同縣尹默俱游荊州、從司馬徽宋忠等學。譔、具傳其業、又從默講論義理。五經、諸子、無不該覽、加博好技藝、算術、卜數、醫藥、弓弩、機械之巧、皆致思焉。始爲州書佐、尚書令史。李譔は、あざなを欽仲といい、梓潼の涪のひと。
『経典釈文』叙録に、梓潼の李仲欽は『左氏指帰』を著すとある。『陳志』および『華陽国志』は、あざなを「欽仲」とする。「欽仲」が正しいだろう。父の李仁は、あざなを徳賢といい、同県の尹黙とともに荊州にあそび、司馬徽・宋忠らに学ぶ。
『華陽国志』梓潼士女賛によると、章武の興(蜀漢が建国されたとき)才倫ある人材が迪(いた)り、徳賢(李仁)は古文ができたと。
ぼくは思う。つまり李譔は、荊州学をおさめた父をつぎ、蜀漢に仕えたと。
李譔は、つぶさに父の学問をつたえ、尹黙からも習った。五経・諸子で見ないものはなく、くわえて技芸・算術・卜数・医薬・弓弩・機械もうまかった。はじめ州書佐となり、尚書令史となる。
延熙元年、後主立太子、以譔爲庶子、遷爲僕射、轉中散中大夫、右中郎將、猶侍太子。太子愛其多知、甚悅之。然、體輕脫、好戲啁、故世不能重也。著古文易、尚書、毛詩、三禮、左氏傳、太玄指歸。皆依準賈馬、異於鄭玄。延熙元年(238)、劉禅が(劉璿を)太子を立てると、李譔を太子庶子とした。僕射にうつり、中散中大夫・右中郎将に転じたが、なお太子に侍る。
尹黙伝によると「僕射」の「射」は衍字。太子は李譔の博識を愛した。しかし李譔は、軽脱な態度で、戲啁を好んだから、世に重んぜられなかった。古文易・尚書・毛詩・三禮・左氏傳・太玄指帰について著した。いずれも賈・馬(賈逵・馬融)の学統に依り、鄭玄学とは異なった。
與王氏殊隔、初不見其所述、而意歸多同。景耀中、卒。王氏(王粛)とは(仕える国が違うので)距離があり、著作を見ていなかったが、意見はおおむね同じだった。
盧弼はいう。王粛は著作がつたわり、李譔の著作が伝わらなかったのは、官職の高低が原因である。兪正燮『癸巳存稿』巻十四に、王粛と李譔のことが書いてあるが、内容が同じなのでここでははぶく。
ぼくは補う。王粛は司馬炎の祖父だもん。仕方ない。
景耀期(258-263;蜀漢の最末期) に卒した。
陳術伝
時又有漢中陳術字申伯、亦博學多聞。著釋問七篇、益部耆舊傳及志。位歷三郡太守。ときに漢中の陳術(あざなは申伯)は、博識であり、『釋問』七篇・『益部耆旧傳』および『志』。三郡の太守を歴任した。
陳術の『益部耆旧伝』は、劉焉伝の裴注にひかれた陳寿『益部耆旧伝』に見える。ぼくは思う。陳術の仕事を、陳寿が引き継いで、『益部耆旧伝』を完成させたのだろう。陳寿の先輩ないしは協力者として、小説に登場できる。
『華陽国志』はいう。陳術は、伝記が失われた。新城・魏興・上庸の太守を歴任。
ぼくは思う。陳術が太守をつとめたのは、魏との最前線である。街亭の戦い(陳寿の父が、馬謖の参軍を努める)と、絡ませられるのでは。太守を努めた三郡を司馬懿に奪われ、諸葛亮の不興を買って?政治を退き、益州の歴史をまとめたとか。
譙周伝:諸葛亮に笑われる
譙周、字允南、巴西西充國人也。父𡸫字榮始、治尚書、兼通諸經及圖緯。州郡辟請、皆不應。州、就假師友從事。周、幼孤、與母兄同居。既長、耽古篤學。家貧、未嘗問產業、誦讀典籍、欣然獨笑、以忘寢食。研精六經、尤善書札。頗曉天文、而不以留意。諸子文章、非心所存、不悉徧視也。身長八尺、體貌素朴、性推誠不飾。無造次辯論之才、然潛識內敏。譙周は、あざなを允南という。巴西の西充国のひと。
『郡国志』はいう。巴郡の充国は、永元二年に閬中を分けて置いた。『宋書』州郡志に、「巴西太守、西充国令」とある。以下、地名について『三国志集解』をはぶく。父の譙𡸫は、あざなを榮始といい、『尚書』をおさめ、諸経および図緯にも通じた。州郡が辟したが、みな応じず。州(益州刺史)は、(部下にできないから)かりに師友從事とした。
譙周の父の名は、[山并]だが、何焯によると宋本で[山井]につくる。譙周は、幼くして父をうしない、母の兄と同居した。長ずると、古学にふけった。家が貧しくても、生計について悩まず、典籍を誦読して、ひとり笑って寝食を忘れた。『六経』をきわめ、なかでも書札がうまい。天文にあかるいが(異変があっても)気にとめない。諸子には関心がなく、すべてを見ない。
テキストが買えないから、興味があるところだけを重点的に学ばないと。
天文の異変について気に留めないとは、天下の動乱を察知しても、みずから関与しなかったということ。劉璋期の益州にいたはずだが、劉璋にアドバイスしようとしなかった。もっとも、あとの『蜀記』のエピソードに見えるとおり、貧しくて笑われる風貌なので、アドバイスは活かされなかっただろうけど。身長は八尺、体貌は素朴で、性は誠を推して飾らず。弁論の才はないが、うちに見識をひめた。
建興中、丞相亮領益州牧、命周爲勸學從事。亮卒於敵庭、周在家聞問、卽便奔赴。尋有詔書禁斷、惟周以速行得達。大將軍蔣琬領刺史、徙爲典學從事、總州之學者。
蜀記曰。周初見亮、左右皆笑。既出、有司請推笑者、亮曰「孤尚不能忍、況左右乎!」建興中(223-237) 丞相の諸葛亮は益州牧を領し、譙周を勧学従事とした。
勧学従事としての譙周の名は、劉備の皇帝即位の勧進にみえる。
ぼくは思う。陳寿が、ものすごく身内でお世話になった譙周の経歴を、まちがえるだろうか。ましてや劉備の皇帝即位は、『陳志』でも力をこめて書かれている。もしくは、「譙周が、劉備に皇帝即位を勧めた」というのが陳寿による捏造なのかも。先主伝を捏造したからには、譙周伝も修正しないと矛盾するのに。
再説。先主伝で、勧学従事の譙周が劉備に帝位を勧進。譙周伝で、劉禅期に諸葛亮が譙周を勧学従事とする。どちらも陳寿の筆。皇帝即位は最重点の記事で、譙周は恩師。うっかりミスはあり得ないはず。①譙周伝が誤り、劉備の生前に譙周は勧学従事となる、②譙周伝が正しく、譙周に勧進した手柄を「捏造」した、のいずれか。『蜀記』によると、譙周がはじめて諸葛亮とあったとき、左右は(譙周のことを)笑った。譙周が去ると、有司は笑ったものを特定しようとしたが、諸葛亮は「孤(わたし)ですら、笑いをこらえきれなかった。左右のひとも仕方ないよ」
周寿昌は、諸葛亮の一人称「孤」をおかしいという。盧弼はいう。「公」「孤」とは、古くからある。「三公」「三孤」は、『尚書』周官篇にあるから、誤りではない。諸葛亮が敵庭(敵地)で没すると、
周寿昌はいう。諸葛亮は営中で死んで、滞陣して死んだのであり「敵庭」はおかしい。張嶷伝でも「敵庭」で死んだという記述があるが、物理的に身体を傷つけられて死んだ場面である。譙周は家でこれを知り、すぐに現地に駆けつけた。ほどなく詔があって、移動が禁じられたが、譙周だけは到着できた。
譙周は決して緩慢ではない。むしろ、諸葛亮ひとりのムリに支えられた北伐が、諸葛亮を失った途端に亡国のピンチを招くと予感したから、すばやく行動したのではないか。諸葛亮との心あたたまるエピソードがないから(むしろ笑いを堪えられた)、諸葛亮を慕って死に目に会いに行ったとは思えない。大將軍の蔣琬が益州刺史を領すると、典學從事にうつり、益州の学者を総べた。
胡三省はいう。典学従事とは、学校を典(つかさど)り、諸郡の文学掾を部(つかさど)る。漢の諸州の刺史には、「孝経師」がおり、試経(経書のテスト)を主監した。「月令師」は、時節の祭祀をつかさどった。魏晋は、その職務(孝経師と月令師)をあわせて、典学従事とした。
譙周が劉禅をいさめる
後主立太子、以周爲僕、轉家令。時、後主頗出游觀、增廣聲樂。周、上疏諫曰「昔、王莽之敗、豪傑並起、跨州據郡、欲弄神器。於是、賢才智士思望所歸、未必以其勢之廣狹、惟其德之薄厚也。是故於時、更始、公孫述及諸有大衆者、多已廣大。然、莫不快情恣欲、怠於爲善、游獵飲食、不恤民物。世祖、初入河北、馮異等勸之曰『當行人所不能爲』遂、務理寃獄、節儉飲食、動遵法度。故、北州歌歎、聲布四遠。於是、鄧禹、自南陽追之。吳漢寇恂、未識世祖、遙聞德行、遂以權計、舉漁陽上谷、突騎迎于廣阿。其餘望風慕德者、邳肜、耿純、劉植之徒、至于輿病齎棺。繈負而至者、不可勝數。故、能以弱爲彊、屠王郎、吞銅馬、折赤眉、而成帝業也。劉禅が(劉璿を)太子に立てると、(太子)僕となり、家令に転じた。ときに劉禅は、よく游観に出て、声楽(の人員)を増広した。
何焯はいう。延熙元年(238) 劉璿を太子に立てて、延熙八年(245) 蒋琬が卒した。つまり蒋琬が存命のとき、すでに劉禅が荒んでいたことになる。建興十四年(236) 湔にいたり汶水をみて、旬月にして還った(後主伝)。国事を恤まずに旅行するのは、このとき始まった。
ぼくは思う。曹叡と劉禅の符合。譙周伝で譙周が、劉禅の政治的な荒廃(国内を回る・宮廷楽団を増やす)を諌めるのは、238年に劉璿を太子に立てた後。何焯は、236年の後主伝にある移動を荒廃の始まりと見る。諸葛亮が234年に死ぬと、劉禅は(蒋琬の生前でも)荒れて、曹叡も荒れた。行動が鏡像的。この荒れ方は、ふたりが愚かなのではなく、このように荒れてこそ君主。荒れてこそ皇帝。譙周は上疏して諌めた。「むかし王莽が敗れると、豪傑たちが州郡に割拠し、神器を弄んだ。賢才・智士は、仕える君主をもとめたが、勢力・権威の大小ではなく、徳の薄厚によって君主を判定した。更始帝・公孫述は、兵数・領土が広大だったが、感情のままにふるまい、善行をおこたり、遊猟・飲食しまくり、民物を恤まない。
三国の鼎立期を、王莽末に例えるセンスがいい。そして劉禅に、「更始帝・公孫述になるな」と諌める。つまり劉禅は、更始帝・公孫述に転落するリスクがある、更始帝・公孫述と同じである、という柔軟な発想をしている。劉氏という看板は更始帝(劉氏でも失敗した例)、巴蜀に割拠するのは公孫述と。光武帝は、はじめ河北に入ると、馮異らが勧めた。『ひとのできないことをやれ』と。冤罪を審理しなおし、飲食を節倹し、法度をまもった。ゆえに北州(冀州、河北)は歌歎し、聲は四遠にひろがった。
『范書』馮異伝にセリフあり。更始帝の諸将が、ほしいままに振る舞い、百姓の望を失っていることから、そのカウンターとして百姓の支持を集めよと。おかげで、鄧禹は南陽から(光武帝を)追ってきた。呉漢・寇恂は、まだ光武帝を知らないが、徳に期待して、漁陽・上谷の突騎をつれて、広阿で迎えた。
『范書』寇恂伝にみえる。広阿は、鉅鹿郡であり、前漢にあって後漢がはぶく。ほかにも徳を慕ったのは、邳肜・耿純・劉植らであり、病身をおこし、棺をかついで(ムリしてでも・死力を尽くしてもいいと思って)光武帝に仕えた。赤子をせおって至るものは、数えきれない。ゆえに弱者から強者に転じて、王郎をほふり、銅馬を併呑し、赤眉をたおして、帝業をなした。
『范書』邳彤伝・耿純伝・劉植伝にみえる。
劉禅に「光武帝を再現せよ」というのが趣旨。つまり劉禅は(前代の劉備も含めて)光武帝には、程遠いことを、隠すことなく暴露しています。
また、河北に渡った直後の光武帝は新興勢力で、天下は流動していた。いま三国が鼎立して、国境が動かず、現状に甘んじてしまいそうだが(だから宮廷楽団の増員なんかする)そうではなく、流動期であることを認識せよと。譙周が「蜀漢による天下統一」を唱えている。初めから降伏論者だったのではない。
及在洛陽、嘗欲小出、車駕已御、銚期諫曰『天下未寧、臣誠不願、陛下細行數出』卽時還車。及征隗囂、潁川盜起。世祖、還洛陽、但遣寇恂往。恂曰『潁川、以陛下遠征、故姦猾起叛。未知陛下還、恐不時降。陛下自臨、潁川賊必卽降』遂至潁川、竟如恂言。故、非急務、欲小出、不敢。至於急務、欲自安、不爲。故、帝者之欲善也、如此。故傳曰『百姓、不徒附』誠、以德先之也。光武帝が洛陽にくると、ちょっと外出するため車駕に乗れば、銚期が「天下は寧からず、しばしば細行するのは辞めて」と諌め、光武帝は車をもどした。
『范書』銚期伝に見える。まだ『范書』はない。譙周は、光武帝の事績にかんする知識を、どこで得たのか。譙周は貧しかったので、個人の蔵書ではない。特定の学師がいたようでもない。すると、蜀漢が、後漢の東観でつくられた記録を取り寄せ、成都に持っていたか。自称・後継国家だから、それくらいはするよね。光武帝が(関中に)隗囂を攻めると、潁川で盗賊が起きた。光武帝が洛陽にかえると、寇恂を(潁川に)派遣して済まそうとした。寇恂「潁川の盗賊は、陛下が遠征したから、起兵したのです。陛下の帰還を知らぬ限り(私が平定に行っても)降らないでしょう。陛下みずから潁川に行けば、盗賊は降るでしょう」と。寇恂の言うとおりだった。ゆえに、急務でなければ、ちょっとした外出もしない。急務となり、みずから安んじたくても(光武帝が隗囂を攻めたように)外出しない。これが皇帝の善きやりかたです。ゆえに『伝』に『百姓は、いたずらに(理由もなく、みだりに外出するような徳のない)君主に付き従わない』とあり、君主の徳にこそ従うのです。
今、漢遭厄運、天下三分、雄哲之士思望之時也。陛下、天姿至孝、喪踰三年、言及隕涕、雖曾閔不過也。敬賢任才、使之盡力、有踰成康。故、國內和一、大小勠力、臣所不能陳。然、臣不勝大願、願復廣人所不能者。夫、輓大重者、其用力苦不衆。拔大艱者、其善術苦不廣。且承事宗廟者、非徒求福祐、所以率民尊上也。至於四時之祀、或有不臨。池苑之觀、或有仍出。臣之愚滯、私不自安。夫、憂責在身者、不暇盡樂。先帝之志、堂構未成、誠非盡樂之時。願、省減樂官、後宮所增造但奉脩先帝所施、下爲子孫節儉之教」徙爲中散大夫、猶侍太子。いま漢は厄運に遭ひ、天下は三分し、雄哲の士は、賢主による天下統一のときを待望しています。陛下は至孝なので、3年喪をおこない、言うたびに泣くなど、曽・閔(孔子の弟子の曽参・閔損)よりも孝です。賢を敬い才を任じて、力を尽くさせるのは、成・康(周の成王・康王)よりもうまい。しかし陛下は、四時の祀をサボるくせに、池苑の観には出かける。先帝の志は、まだ達成できていないから、
『集解』によると、『尚書』大誥をふまえた表現。音楽のメンバーを増員している場合ではありません。楽官をへらして、後宮の増築をやめて、先帝のつくった宮殿を守り、子孫のために節倹の模範を示しなさい」と。
後漢末を知らない曹叡と劉禅が、割拠政権に満足して、内側に権威を拡張させることに関心が移っているのがおもしろい。劉禅は207年生まれ、曹叡は205年生まれ。彼らは、生まれたときから天下が分裂してるから、「漢による天下統一」を想像できない。ぼくらが大日本帝国を知らないように。もっと卑近にいえば、高度経済成長を知らず、バブル経済を知らないように。
諸葛亮・曹丕は、再統一のために、悲壮な生き方をした。劉禅・曹叡は、現状に満足している。これは、思想の差異(崇高か低俗か)ではなく、世代論で説明できるのかも。世代論は、ザツすぎる(異なるものをまとめ過ぎる)と批判がおおいが、漢の統一を経験したか否かは、明確な分水嶺。世代論は有効かも知れない。
第一世代(曹操・劉備)が天下を分け、第二世代(曹丕・諸葛亮)が統一のために腐心して、第三世代(曹叡・劉禅)が分裂に甘んじた。
西晋の初期メンバーが、統一そのものより、国内の政治闘争を優先したみたいに。并蜀も平呉も、政治闘争の副産物です。中散大夫に移ったが、なお太子に侍った。
『続漢志』によると、中散大夫は、秩六百石。『漢官』によると、秩比二千石。
胡広はいう。光禄大夫は、もとは中大夫であり、武帝の元狩五年に諌大夫をおき、光禄大夫となった。光武帝が中興すると、諌議大夫となる。また、太中・中散大夫もあった。この4つは、古くは天子の下の大夫で、列国の上卿にもみえる。
陳祗との会話から『仇国論』をつくる
于時軍旅數出、百姓彫瘁。周、與尚書令陳祗、論其利害、退而書之、謂之仇國論。其辭曰「因餘之國小、而肇建之國大、並爭於世而爲仇敵。因餘之國有高賢卿者、問於伏愚子、曰『今國事未定、上下勞心。往古之事、能以弱勝彊者、其術何如』伏愚子曰『吾聞之、處大無患者恆多慢、處小有憂者恆思善。多慢則生亂、思善則生治、理之常也。故、周文養民、以少取多。勾踐卹衆、以弱斃彊。此其術也』賢卿曰『曩者、項彊漢弱、相與戰爭、無日寧息。然、項羽與漢、約分鴻溝爲界、各欲歸息民。張良以爲、民志既定、則難動也。尋帥追羽、終斃項氏。豈必由文王之事乎。肇建之國、方有疾疢、我因其隙、陷其邊陲、覬增其疾而斃之也』ときに軍旅をしばしば出し、百姓は疲弊した。譙周は、尚書令の陳祗とともに(劉禅に)利害を諭し、退出してから書物にまとめ、『仇国論』といった。その書物に曰く、因余の国(蜀漢)は小さく、肇建の国(曹魏)は大きく、代々が仇敵だった。因余の国で、高賢卿(陳祗)が、伏愚子(譙周)に聞いた。
因余=蜀漢、肇建=曹魏。なき漢から余って残った天命にちなんだ国と、新しい事業を始めるために立てられた新興の国。
文書では、相手を立てて、自分を賎しむから、陳祗と譙周の割り付けが決まる。もう面倒くさいから、比喩は抜きにして、置き換えてしまおう。
陳祗「国事は定まらず、蜀漢の君臣は苦労している。前例を見たとき、弱国が強国を破るには、どんな方法をつかったのか」
譙周「大国は心配ごとがないので油断し、小国は心配して善きことを思う。油断すれば乱がおき、善きを思えば治まるのが、つねの道理。ゆえに(殷のもとで小国だった)周文王は民を養い、小国なのに多くを取った。越王の句践も同じである」
胡三省はいう。周文王は岐をおさめ、百里の四方(の小国)から起こり、天下の三分の二を得た。これが「小国なのに、多くを取った」ことである。句践は越で10年を耐えて、強国の呉をたおした。陳祗「項羽はつよく劉邦は弱く、休まず戦った。項羽と劉邦が鴻溝に国境をひき、民を休めようとした。すると張良は、『民の思いが定まれば(国境が既成事実となれば)情勢を変えにくくなる(小国は小さいままジリ貧である)。(停戦の盟約を破ってでも)項羽を追撃せよ』といった。どうして周文王のように(善きを思って、民を養って時期を待つ)必要があろうか(われら蜀漢は、劉邦のように、すばやく撃って出るのがよい)。曹魏に油断・内乱があるから、そこを突くべきだ。小国が大国を破る方法はこれである」
ぼくは思う。三国志の魅力は、典型的な歴史のサイクルが、たった100年に凝縮されているところ。100年ならば「親が子供のころ」から「自分の老年」までなので、想像力がカバーできる。この期間に、既存の社会体制の衰退・崩壊から、改革・構築・腐敗・再構築まで見られる。陳祗と譙周の議論にも、歴史のサイクルの生み出す、おもしろさが凝縮している。ありがとう、短命王朝。
伏愚子曰『當殷周之際、王侯世尊、君臣久固、民習所專。深根者難拔、據固者難遷。當此之時、雖漢祖、安能杖劍鞭馬而取天下乎。當秦罷侯置守之後、民疲秦役、天下土崩、或歲改主、或月易公、鳥驚獸駭、莫知所從。於是、豪彊並爭、虎裂狼分、疾博者獲多、遲後者見吞。今、我與肇建、皆傳國易世矣、既非秦末鼎沸之時、實有六國並據之勢。故可爲文王、難爲漢祖。譙周「(周文王が積極的に外征せず、善きことを思うのに徹した)殷周革命期は、王侯は世襲がつづき、君臣の関係は固定され、民は現状に慣れ、それ以外を知らなかった。根の深い木は抜きにくい。なじんだ社会体制は変えづらい。体制の安定期であれば、劉邦ですら天下を取れない。秦末は、諸侯をやめて郡守をおき、民は労役につかれ、主は年ごとに、公は月ごとに変わって、鳥獣すら驚いて、従うべき君主が分からなかった。だから劉邦は、急進策で天下をとった。いま曹魏は、国を伝えて世代を重ね、すでに秦末の混乱期とは違う。
原文「傳國易世」。曹氏がすごいのは、君主の死に、ちゃんと歴史的な意義がつくこと。曹操は一代で「簒奪」せず、周文王の故事への準拠を整え、「禅譲」をやれた。曹丕が死ぬと、その混乱を突こうとした孫権が退けられた。曹丕は死ぬことで、禅譲を不可逆的なものとして確定させた。孫権は魏の盤石ぶりを見て、仕方なく皇帝即位。譙周は魏を「伝国易世」といい、もう安定期に入っているから攻めるなと唱えた。
ただし譙周は「未来を予知」できる。大国が油断して内乱が起こる、ひんぱんに君主が変わる、というのは、史実の末期の曹魏。譙周の見通しにそって、もうちょい蜀漢が「思善」して持ち堪えたら、蜀が魏を倒すこともできた。譙周は、諸葛亮とはタイプが違うけど、「天下を取るのに必要な人材」です。戦国の六国が、割拠したときに近い。ゆえに、周文王をマネろ。劉邦をマネるな。
夫、民疲勞則騷擾之兆生、上慢下暴則瓦解之形起。諺曰「射幸數跌、不如審發」是故、智者不爲小利移目、不爲意似改步。時可而後動、數合而後舉。故、湯武之師不再戰而克、誠重民勞而度時審也。如遂極武黷征土崩勢生不幸遇難、雖有智者將不能謀之矣。若乃、奇變縱橫、出入無間、衝波截轍、超谷越山、不由舟楫而濟盟津者、我愚子也、實所不及。』」民が疲れれば、騒擾の兆しがおきる。上が油断すれば、下が暴動して(曹魏のような安定政権も、いつかは)瓦解するだろう。諺に「まぐれ当たりを期待して乱射するより、慎重に射たほうがよい」という。ゆえに智者は、目先の小利に目をうつさず、慎重にチャンスを待つものだ。だから殷湯王・周文王は、たった一度の戦いで勝ち、民に負担をかけなかった。もし北伐をゴリ押しするなら(私のような)智者がいても、勝たせようがないから、勝手にどうぞ」
胡三省によると(胡三省に言われるまでもなく)姜維に対する批判である。
未来すら見通せる譙周が、姜維に反対するのは、姜維に原因があるのではなく、「曹魏がゆるんでいないこと」に原因がある。曹魏がゆるむのを待てないことが、姜維のダメなところだと。ミクロな戦闘レベルではなく、時代・社会体制のライフサイクルから見て、いまは北伐のタイミングではないと。すごいなあ!
『仇国論』は、ウラを返せば、どういう北伐なら成功するかのヒント。大国の魏がゆるみ、民を苦しめ、内乱が起き、君主が頻繁に変わる時期を攻めれば勝てると。ほぼ史実。曹魏の傾きが少し(5年くらい?)早いとか、姜維の活躍時期が、少し長いとかで、蜀が魏に勝つことができた。北伐に悲観的なはずの『仇国論』ですら、その可能性をほのめかすのだから、あり得ること。もちろん、蜀と魏とは影響を与えあう。蜀の北伐が、魏のなかの人事異動・司馬氏の立場に影響したり、魏の南征が蜀の世論に影響したり(最大の影響は「劉禅を降伏」させたこと)。ソロスの再帰性の話と同じことが起きているので、歴史の歯車をズラすのは単純なことではありませんが。
鄧艾に降伏せよと劉禅に説く
後、遷光祿大夫、位亞九列。周、雖不與政事、以儒行見禮、時訪大議、輒據經以對。而後生、好事者亦咨問所疑焉。のちに光禄大夫にうつり、位は九卿につぐ。譙周は政事にあずからないが、儒・行によって礼遇され、会議に出て、経書にもとづいて答えた。若者や学問好きは、分からないことを譙周に聞いた。
個人の運命は、ランダム性が高すぎて予言が難しい。そういう意味で、譙周は「占い師」ではない。しかし経書に通じた彼は、社会体制の趨勢については、パターンを理解しており、未来を見通すことができただろう。「何年に何が起こるか」はランダム性が高いにせよ、「1世代以内に起こること」くらいなら、当てることができそう。譙周にアドバイスを求めたひとは、そういう指針を求めたのでは。わりと一般論なのかも知れないけど、それをきちんと言えるひとって、社会的に貴重だから。
譙周が政事に関与しないのは、再帰性を嫌ってではないか。つまり、自分が関わることで、情勢が変わって、予見が当たらなくなる。人間のタイプとして、そういう関与をきらい、いっぽ引いて分析をするのを好むとか。
景耀六年冬、魏大將軍鄧艾、克江由、長驅而前。而蜀、本謂敵不便至、不作城守調度。及聞艾已入陰平、百姓擾擾、皆迸山野、不可禁制。後主、使羣臣會議、計無所出。或以爲、蜀之與吳本爲和國、宜可奔吳。或以爲、南中七郡、阻險斗絕、易以自守、宜可奔南。惟周以爲景耀六年(263) 冬、魏の大将軍の鄧艾が江由で勝ち、
盧弼はいう。鄧艾は大将軍じゃない。「江油」につくるべき。長駆して成都の前にきた。蜀では、魏軍がすぐに来ないと思い、城には守備がない。鄧艾がすでに
陰平に入ったと聞き、何焯はいう。黄崇は「すみやかに険地にいって防ぎ、敵軍を平地に入れるな」と。つまり譙周伝は「鄧艾がすでに平地に入った」とすべきで、「陰平」ではない。百姓は騒いで山野に逃げこみ、禁制できない。劉禅は郡臣をあつめて会議した。同盟国の呉にゆけとか、南中七郡に逃げろとかいった。譙周だけがいう。
「自古已來、無寄他國爲天子者也。今若入吳、固當臣服。且、政理不殊、則大能吞小、此數之自然也。由此言之、則魏能幷吳、吳不能幷魏明矣。等爲小稱臣、孰與爲大。再辱之恥、何與一辱。古来、他国に寄生して天子でいられた者はない。もし呉にいけば、臣従することになる。政理が同じならば、大国が小国を併呑するのは、普遍的な道理である。それならば、魏が呉を併合できても、呉が魏を併合できない。小国で称臣するのと、大国で称臣するのは、どちらがマシか。いちど(魏に降伏する)辱をかくのと、にど(呉と魏に降伏する)辱をかくのと、どちらがマシか。
「政理が同じならば」は意味深。蜀から見れば、魏も呉も同様であると。魏は敵国で、呉は盟国というのは、表面的な差異である。そこにこだわるのが郡臣なのだが、譙周はちがう。「政理」によって判定して、両国が同じという。それなら、早いうちに大国に従おうと。呉に称臣して、呉が魏に併合されたら、魏に称臣するのは不利だと。
また、魏が呉を併合することを予見している。まあ、蜀が滅びれば、魏はますますデカくなるから当然か。諸葛亮が始めた天下三分を、きれいに片づけたのが譙周である。ここで、呉に従うとか、南中に逃げるとかしたら、泥沼になる。諸葛亮と譙周を対等にならべるとおもしろい。そして、両者の「弟子」筋にあたるのが陳寿であると。業が深い。
『通鑑』は微妙に表記がちがう。
且、若欲奔南、則當早爲之計、然後可果。今大敵以近、禍敗將及、羣小之心、無一可保。恐發足之日、其變不測、何至南之有乎」羣臣或難周曰「今、艾以不遠、恐不受降。如之何?」周曰「方今東吳未賓、事勢、不得不受。之受之後、不得不禮。若、陛下降魏、魏不裂土以封陛下者、周請身詣京都、以古義爭之」衆人無以易周之理。もし南に逃げるなら、もっと早くに計画すべきだった。もう敵の大軍が迫っているからムリだ。逃げを提案した小人どもは、魏軍が怖いから、現実逃避しているだけだ。それに、外に出たら何が起こるかわからず(死ぬよ)南中にたどりつけない」と。
郡臣が譙周を批難した。「鄧艾は遠くない。降伏を受け入れてくれなかったら、どうする」と。譙周「まだ東呉が、魏の賓となって(降伏して)いない。だから魏は、蜀の降伏を受けざるを得ない。降伏を受けたら、陛下を礼遇せざるを得ない。もしも陛下が魏に降って、土地を割いて封爵してくれなかったら、私が洛陽にいって、古典に基づいてその必要性を説くだろう」と。みな言い返せず。
また『通鑑』が、ちょっと文字を変えていると。『集解』2696
降伏せざるを得なくなってしまえば、天下三分が有利に働く。呉が残るおかげで、降伏してもないがしろにされない。当初の目的とは変わっているが、三分という情勢を活用した点で、譙周は「ウラ諸葛亮」である。
南に逃げようとする劉禅を諌める
後主猶疑於入南、周上疏曰「或說、陛下以北兵深入、有欲適南之計。臣愚以爲不安。何者、南方遠夷之地、平常無所供爲、猶數反叛、自丞相亮南征、兵勢偪之、窮乃幸從。是後、供出官賦、取以給兵、以爲愁怨、此患國之人也。今以窮迫、欲往依恃、恐必復反叛。一也。北兵之來、非但取蜀而已、若奔南方、必因人勢衰、及時赴追。二也。若至南方、外當拒敵、內供服御、費用張廣。他無所取、耗損諸夷必甚、甚必速叛。三也。劉禅は、まだ南中に行きたがるので、譙周は上疏した。
「陛下は南に行きたいそうですね。しかしダメです。原文で「或説陛下以北兵深入」と婉曲してあるが、実態は劉禅ご本人が「誰が何を言おうと、絶対に南に逃げるもん!道中の危険とか南方の反乱とか、譙周は賢しらにリスクを言うけど、いま魏軍に殺されるよりは希望ある!」と恐慌していたのだろう。でないと、譙周伝が2度目の説得を載せないはず。陳寿は目撃者かも。ダメな理由1:南方は、課税する前から何度も反乱し、諸葛亮が暴力で服従させました。以後、課税・徴兵するようになり、怨みが溜まっています。いま窮迫して南を頼ろうとしても、必ず反乱されます。
理由2:魏軍は蜀の領地を取ることが目的ではありません(劉禅を捕らえるのが目的です)。南方に逃げても、追いつかれます。理由3:南に行って魏軍を防ぐには、費用がかかる。現地から徴収すれば、反乱されます。
昔、王郎、以邯鄲僭號。時、世祖在信都、畏偪於郎、欲棄還關中。邳肜、諫曰『明公西還、則邯鄲城民不肯捐父母背城主而千里送公。其亡叛可必也』世祖從之、遂破邯鄲。今北兵至、陛下南行、誠恐邳肜之言復信於今。四也。理由4:むかし光武帝は信都にいて、邯鄲の王郎を畏れて関中に逃げようとした。邳彤が諌めた。「あなたが西に逃げれば、邯鄲の城民は、父母をすてて城主に叛いてまで、千里の道を付き従わない。あなたから逃げるか叛くかするのは必定だ」と。
『范書』邳彤伝にみえる。
萬承蒼はいう。王郎が邯鄲にいるのに、その民がどうして光武帝を長安に送るのか(邳彤の言っていることは、意味がない)と。司馬光は、「邯鄲の城民」ではなく「(この時点で光武帝の領土である)和成・信都の二郡の民」にすべきとする。
王補はいう。『蜀志』譙周伝にでてくる邳彤の記述は、『范書』と一字もズレてない。……など、邳彤のセリフをどう解釈・変更すれば意味がとおるか、『集解』でモメてますが、論旨はもう分かりました。
光武帝はこれに従い(逃げるのを諦め、王郎と戦って)勝つことができた。
光武帝そのひとに従っているのではなく、「邯鄲のそばにいるあなた」に従っている。光武帝が生命だけを長らえても、勢力としては滅ぶ。それどころか、逃げようとしたら、光武帝を殺して、王郎に献げるだろう。という脅迫も混じっている。だから、選択の余地がないですよね、と念を押している。
光武帝は、皇帝になるときも、「いま称帝しないなら、みんなガッカリして、離反するだろう」と脅迫された。君主を務めるというのは、つらいなあ。いま陛下が南にゆけば、邳彤の発言のくり返しになるだろう。
劉禅そのひとに従うのではなく、「成都にいるあなた」に従っている。劉禅が南に逃げようとすれば、益州の百姓は劉禅にそむき、劉禅を殺しにくる。まちがっても、だれも付き従ってくれない。
劉備のような転戦者が移動するのと、劉禅のように、首都を定めて国を経営した者とでは、移動の意味がちがう。
願、陛下早爲之圖、可獲爵土。若遂適南、勢窮乃服、其禍必深。易曰『亢之爲言、知得而不知喪、知存而不知亡。知得失存亡、而不失其正者、其惟聖人乎』言、聖人知命而不苟必也。故、堯舜、以子不善、知天有授、而求授人。子雖不肖、禍尚未萌、而迎授與人。況禍以至乎。故、微子、以殷王之昆、面縛銜璧而歸武王。豈所樂哉、不得已也」於是、遂從周策。劉氏無虞、一邦蒙賴、周之謀也。陛下ははやく魏に降って、爵土を得なさい。もし南にゆき、追い詰められてから降伏したら、禍いは深くなる。
何焯はいう。そうとは限らないが、張魯の場合、漢中から巴郡に逃げたので、ふたたび辱をうけた。『易経』に曰く…。尭舜は、君位が天からの授かり物であると承知していた。子が君主に適任でなければ、まだ禍いが生じる前に、他人に禅譲したのです。ましてや(陛下の場合は、すでに)禍いが至っている(ので、君位を手放すべきです)。
劉禅の降伏が、尭舜の禅譲に準えられているのがおもしろい。論旨は、人力でどうにもならないもの(君位)は、適任でないという兆しがあったら手放しなさい。手放すのは、早ければ早いほどよい。
しかしここから、劉禅の降伏は「禅譲」なのだという、よく分からないロジックの、精神的な必勝法を連想することができる。のちに晋臣となった陳寿の歴史観に影響を与えそう。微子は、殷王の兄であったが(周軍に抗戦することなく)面縛して璧をくわえて(死刑囚として)周武王に降伏した。楽しんで降ったのではなく、やむを得ず降ったのです(だから陛下も、楽しくなくとも降りますように)
ここにおいて、劉禅は譙周にしたがった。劉氏は虞れなく(殺されず)ひとつの邦がおかげをこうむったのは、譙周の謀であった。
何焯はいう。譙周のおかげで、屠戮がおきなかった。
劉咸キはいう。譙周の功績を強調するのは、弟子にあたる陳寿のひいきである。
ぼくは思う。蜀の降伏の場面で、誰が何をいったか、何をしたか。晋代に生き残ったひとにとって、一族の百年の命運を左右すること。亡国という最大の「見せ場」は、本性が暴露される。ここで忠臣であれば、転職先(晋)でも出世できるかも知れない。いや、事実よりも、「いかに西晋で認識されたか」が大切であり、より端的には「いかに陳寿に書かれたか」が大切である。事実は、泣き叫んでいたとしても、陳寿に毅然としてたと書いてもらえば、そっちに上書きされる。
思うに、蜀漢のほろびかた(譙周の説得で劉禅が降伏)は、絶対に『三国志』の記述どおりではない。断言できる。だって陳寿は、当事者。蜀がいかに滅びたかは、旧蜀の人士たちの死活問題。降伏を受け入れた鄧艾は、帰還せずに死亡して晋朝にいない。裴松之も異なる事実を記した史料を付けられず。蜀の平定は、司馬氏が爵位を進める根拠にもなった。今日『三国志』で読めるのは、西晋の政府と、旧蜀の陳寿が共犯的につくりあげた「公式見解」だけ。
『三国志』以外に、蜀の最後が分かる史料がないのは、たまたま記録がないとか、散佚とかでなく、西晋が情報統制した結果だと思う。異説を口外したら死刑となるレベル。絶対的な権力によって「分からない」状況が作られたから「分からない」とするのが今日的な正解&限界か。
歴史学者なら、唯一の史料を「うそ」と決めつけられない。比較対象がないのだから。というか、それを「うそ」としたら、唯一の史料を捨てたことにより、議論が停止してしまう。でもアマチュアだから、ほんとうの蜀漢の最後を想像してみると楽しい。
裴注:譙周を批判する史論2つ
孫綽評曰。譙周說後主降魏、可乎?曰。自爲天子而乞降請命、何恥之深乎!夫爲社稷死則死之、爲社稷亡則亡之。先君正魏之篡、不與同天矣。推過於其父、俛首而事讎、可謂苟存、豈大居正之道哉!孫綽の評に曰く、譙周のアホ。
孫盛曰。春秋之義、國君死社稷、卿大夫死位、況稱天子而可辱於人乎!周謂萬乘之君偷生苟免、亡禮希利、要冀微榮、惑矣。且以事勢言之、理有未盡。何者?禪雖庸主、實無桀、紂之酷、戰雖屢北、未有土崩之亂、縱不能君臣固守、背城借一、自可退次東鄙以思後圖。是時羅憲以重兵據白帝、霍弋以強卒鎭夜郎。蜀土險狹、山水峻隔、絕巘激湍、非步卒所涉。若悉取舟楫、保據江州、徵兵南中、乞師東國、如此則姜、廖五將自然雲從、吳之三師承命電赴、何投寄之無所而慮於必亡邪?魏師之來、褰國大舉、欲追則舟楫靡資、欲留則師老多虞。且屈伸有會、情勢代起、徐因思奮之民、以攻驕惰之卒、此越王所以敗闔閭、田單所以摧騎劫也、何爲匆匆遽自囚虜、下堅壁於敵人、致斫石之至恨哉?葛生有云「事之不濟則已耳、安能復爲之下!」壯哉斯言、可以立懦夫之志矣。觀古燕、齊、荊、越之敗、或國覆主滅、或魚縣鳥竄、終能建功立事、康復社稷、豈曰天助、抑亦人謀也。向使懷苟存之計、納譙周之言、何邦基之能構、令名之可獲哉?禪既闇主、周實駑臣、方之申包、田單、范蠡、大夫種、不亦遠乎!孫盛いわく、譙周のアホ。
譙周の予言と、文立伝
時、晉文王、爲魏相國、以周有全國之功、封陽城亭侯。又下書、辟周。周、發至漢中、困疾不進。咸熙二年夏、巴郡文立、從洛陽還蜀、過見周。周、語次、因書版示立曰「典午忽兮、月酉沒兮」典午者謂司馬也、月酉者謂八月也、至八月而文王果崩。 魏の相国の司馬昭は、譙周が国をまっとうした功績により、陽城亭侯に封じた。『華陽国志』では「城陽亭侯」で、『隋志』では「義陽亭侯」につくる。また、譙周を辟した。漢中にいたり、病気で進めず。咸熙二年(265) 夏、巴郡の文立は、洛陽から蜀にかえり、譙周にあう。譙周は文立に、書版で「典午忽兮、月酉沒兮」と示した。八月に司馬昭が崩ずるよう予言である。
華陽國志曰。文立字廣休、少治毛詩、三禮、兼通羣書。刺史費禕命爲從事、入爲尚書郎、復辟禕大將軍東曹掾、稍遷尚書。蜀幷于魏、梁州建、首爲別駕從事、舉秀才。晉泰始二年、拜濟陰太守、遷太子中庶子。立上言「故蜀大官及盡忠死事者子孫、雖仕郡國、或有不才、同之齊民爲劇。又諸葛亮、蔣琬、費禕等子孫流徙中畿、各宜量才敍用、以慰巴、蜀之心、傾吳人之望。」事皆施行。轉散騎常侍、獻可替否、多所補納。稍遷衞尉、中朝服其賢雅、爲時名卿。咸寧末卒。立章奏詩詩賦論頌凡數十篇。『華陽国志』によると、文立はあざなを廣休といい、わかくして『毛詩』・三礼をおさめた。刺史の費禕が從事として、入りて尚書郎となり、また大将軍の費禕に辟されて大將軍東曹掾となり、尚書にうつる。
官歴からすると、諸葛亮と接点はなく、費禕の時代から出てきた。并蜀されると、梁州が建てられ、文立は(設立直後の)梁州刺史の別駕従事となり、秀才に挙げられた。
沈家本はいう。『晋書』地理志によると、泰始三年に梁州が漢中に立てられた。文立は巴郡のひとで、巴郡は梁州に属するから、別駕従事となった。
盧弼はいう。梁州が立てられたのは、『魏志』陳留王紀によると、景元四年(263) であり、『華陽国志』も同じ。泰始期よりも前のこと。ちなみに并蜀は景元五年。
泰始二年(266)、文立は済陰太守となり、太子中庶子にうつる。
文立は、太子=司馬衷(恵帝)のとき、太子中庶子である。陳寿は、太子=司馬遹(愍懐太子)のとき、太子中庶子である。文立のい済陰郡は、陳寿とちがって「左遷」ではない。旧蜀の人士としては、文立は順調に出世している。この差が、陳寿が父の服喪のとき、丸薬をつくって…、という説明を求めた。文立は(司馬炎に)上言した。「もと蜀の大官、および忠を尽くして死んだ者の子孫は、郡国に仕えても、才能がないからか、民と同じくらい劇です。
官僚としての経験・血縁・人脈をゼロベースとして、民の身分から官職に就いたものと同じくらい、昇進が遅いです。諸葛亮・蔣琬・費禕らの子弟は、中原を流徙しており(官職を得ていません)。それぞれの才覚にあわせて任用すれば、巴蜀のひとの心を慰めることができ、呉人の心を(晋への帰服に)傾かせられるでしょう」と。
諸葛亮・蒋琬・費禕らの子孫は、政治力を晋に持ち運ぶことができなかったが、譙周に学んだ文立(陳寿のアニ弟子)は、文化の力を持ち運んで、旧蜀の人士の待遇改善を訴えた。陳寿にとって、かなりの重要人物。旧蜀の人士の登用が、実施された。文立は散騎常侍に転じて、おおく意見が採用された。衛尉にうつる。中朝の官僚(魏晋のプロパー)は、文立の賢雅ぶりに服して「名卿」だとほめた。咸寧末(280) 卒した。文立は、章奏・詩・賦・論・頌が、ぜんぶで数十篇ある。
『晋書』儒林伝に、文立の列伝がある。譙周に師事して、文立を顔回、陳寿を子游、李虔を子夏、羅憲を子貢にたとえた。司馬炎が文立に、蜀のもと尚書だった犍為の程瓊について聞くと、文立は程瓊と親交があったが、「オススメしません」と答えた。程瓊は「文立は身内をヒイキしないな」と感心した。
『華陽国志』によると、文立が死ぬと、司馬炎は、文立に旧姓(在地豪族)が懐いているから、死体を蜀まで送った。司馬炎が、郡県の墳墓を修復してくれたから、現地ではそれを栄誉とした。
譙周の死
晉室踐阼、累下詔所在發遣周。周、遂輿疾詣洛、泰始三年至。以疾不起、就拜騎都尉。周、乃自陳無功而封、求還爵土。皆不聽許。晋で代替わりがあると、しきりに詔をくだして譙周をよぶ。譙周は、コシにのって洛陽にゆき、泰始三年に至る。病気でたてず、騎都尉を拝する。譙周は功績がないから爵土を返上したが、ゆるされず。
五年、予、嘗爲本郡中正、清定事訖。求休還家、往與周別。周語予曰「昔、孔子七十二、劉向、揚雄七十一而沒。今吾年過七十、庶慕孔子遺風、可與劉揚同軌。恐不出後歲、必便長逝、不復相見矣」疑、周以術知之假此而言也。六年秋、爲散騎常侍、疾篤不拜。至冬卒。
泰始五年(269) 予(わたし陳寿)は本郡(巴西)の中正となり、職務をおえ、休んで帰宅することを求め、譙周に別れを言いにいった。
銭大昕はいう。陳寿は『蜀志』に叙伝(自己言及)をもうけないが、ここだけ郡中正として表れる。泰始十年に上表した『諸葛集』が、諸葛亮伝にひかれるが、そこで「平陽侯相」と書名する。『晋書』陳寿伝の「陽平令」は誤り。譙周「孔子は72歳、劉向・楊雄は71歳で没した。いま私は70歳をこえた。孔子・劉向・楊雄にあやかりたいものだ」と。陳寿は、譙周が寿命を予知して、こういったと思った。
趙一清が、孔子らの寿命について注釈する。はぶく。 ぼくは思う。陳寿の師の譙周は、寿命について「昔 孔子七十二、劉向・揚雄七十一而没…」とか予言めいた不思議なことを言っていますが、陳寿は『三国志』を六十五巻までつくって、六十五歳で没したんだから、こっちのほうがすごい。泰始六年(270) 秋、譙周は散騎常侍となったが、拝せず。同年冬に卒した。
王応麟はいう。君子でも小人でも、寿命は天が決める。諸葛亮は54歳、法正は45歳、法正は36歳だった。70歳を過ぎたのは(皮肉なことに小人ともいうべき)蜀の降伏文書をつくった譙周である。天は漢の徳を厭ったんだなあ!
晉陽秋載詔曰「朕甚悼之、賜朝服一具、衣一襲、錢十五萬。」周息熙上言、周臨終屬熙曰「久抱疾、未曾朝見、若國恩賜朝服衣物者、勿以加身。當還舊墓、道險行難、豫作輕棺。殯斂已畢、上還所賜。」詔還衣服、給棺直。『晋陽秋』は詔をのせ、司馬炎は、譙周に衣服・銭を与えるとしたが、息子の譙熙が辞退して返却した。譙周は臨終のとき、「病んで、晋のために働いてないから、器物をもらう義理はありません。運ぶのも大変ですしね」と譙熙に伝えておいた。
李清植はいう。譙周は(劉禅に)降伏を勧めたが、魏晋に仕えなかった。降伏を勧めたのは(保身や私利のためではなく)国の義に殉じた行為であった。
凡所著述撰定、法訓、五經論、古史考。書之屬、百餘篇。
益部耆舊傳曰。益州刺史董榮圖畫周像於州學、命從事李通頌之曰「抑抑譙侯、好古述儒、寶道懷真、鑒世盈虛、雅名美迹、終始是書。我后欽賢、無言不譽、攀諸前哲、丹青是圖。嗟爾來葉、鋻茲顯模。」譙周の著述・撰定したのは、『法訓』『五經論』『古史考』など。
『三国志集解』は、著作について注釈する。はぶく。
周三子、熙、賢、同。少子同、頗好周業、亦以忠篤質素爲行、舉孝廉、除錫令、東宮洗馬、召不就。譙周のこどもについて。裴注もあるが、はぶく。160509
閉じる