雑感 > 『三国志』郡国志をつくる

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司州(洛陽)

はじめに

『三国会要』輿地に基づき、『続漢書』郡国志・『晋書』地理志に目を配りながら、『三国志集解』にも目を通して、『三国志』郡国志をつくりたいと思います。

「地理」よりは「郡国」について書くため、郡国志という名称を選びました。

三国志の領土の争奪は、おもに彼らが「郡国」として認識している単位で行われました。むしろ、後漢ではひとつの郡だった範囲を、異なる勢力が治めるようになると、べつに郡を立てて、「郡国を支配の単位とする」という形態が徹底されました。

シミュレーションの領土の単位は、ゲーム会社が任意に作っておりますが、ぼくがマップを作るなら、実際に領土のやりとりが行われた郡国を単位としたいです。自分なりのマップを作るための準備です。


『三国会要』の魏の序文より

『魏志』蒋済伝に、「今雖有十二州、至于民數、不過漢時一大郡」と、魏代には12州があったことが分かる。杜畿伝に、杜畿の子の杜恕が、

今大魏奄有十州之地、而承喪亂之弊、計其戶口不如往昔一州之民。然而二方僭逆、北虜未賓、三邊遘難、繞天略帀。所以統一州之民、經營九州之地、其爲艱難譬策羸馬以取道里。豈可不加意愛惜其力哉。以武皇帝之節儉、府藏充實。猶不能十州擁兵、郡且二十也。今荊揚青徐幽幷雍涼緣邊諸州皆有兵矣、其所恃內充府庫外制四夷者、惟兗豫司冀而已。

といい、蒋済が言ったところの「十二州」の名が全て分かる。兵事があって経済状況が苦しいのは、荊州・揚州・青州・徐州・幽州・并州・雍州・涼州の8州。経済状況がマシなのは、ただ兗州・豫州・司州・冀州の4州のみであると。

『洪志』は、魏を十三州というが、これは秦州を分けた数え方。
『晋書』地理志は、秦州について記す。

秦州。案禹貢本雍州之域,魏始分隴右置焉,刺史領護羌校尉,中間暫廢。及泰始五年,又以雍州隴右五郡及涼州之金城、梁州之陰平,合七郡置秦州,鎮冀城。太康三年,罷秦州,并雍州。七年,復立,鎮上邽。統郡六,縣二十四,戶三萬二千一百。

魏文帝が即位すると、隴右を分けて秦州を置いて、秦州刺史は護羌校尉を兼ねたが、のちに廃された。以後、改廃がくり返されたことが分かる。
『元和郡県志』によると、「魏は隴右を分けて秦州を置いたが、尋いで(すぐに)雍州に統合された」とある。だから、魏の実態は十二州であろう。

思うに、曹丕および泰始期(司馬炎)には、秦州を個別に認識したいという、管理上のニーズがあった。ぼくはこれを尊重したい。諸葛亮の北伐、西方の異民族政策にも影響が出ますので。


景元四年(263) ほぼ魏の滅亡時点で、663,422戸、男女4,432,891口である。咸熙二年(265) 州は12、郡国は93、県は720。吏および兵は未詳。

司州の概要

魏が受禅したときに置かれた。治所は洛陽、『三国会要』によると郡は7。

『晋書』地理志:司州。案禹貢豫州之地。及漢武帝,初置司隸校尉,所部三輔、三河諸郡。其界西得雍州之京兆、馮翊、扶風三郡,北得冀州之河東、河內二郡,東得豫州之弘農、河南二郡,郡凡七。位望隆于牧伯,銀印青綬。及光武都洛陽,司隸所部與前漢不異。魏氏受禪,即都漢宮,司隸所部河南、河東、河內、弘農并冀州之平陽,合五郡,置司州。晉仍居魏都,乃以三輔還屬雍州,分河南立滎陽,分雍州之京兆立上洛,廢東郡立頓丘,遂定名司州,以司隸校尉統之。州統郡一十二,縣一百,戶四十七萬五千七百。

『禹貢』において「豫州」と認識された地である。

だから曹操が九州制をしくと、豫州となった。

漢武帝のとき司隷校尉が置かれ、三輔・三河を範囲とした。涼州から京兆・馮翊・扶風の3郡をもらい、冀州から河東・河内の2郡をもらい、豫州から弘農・河南の2郡をあわせ、ぜんぶで7郡。後漢も同じ。
魏が受禅すると、漢代の司隷の河南・河東・河内・弘農と、冀州の平陽をあわせ、この5郡を「司州」とした。

漢の司隷校尉部から、魏の司州への出入りをまとめる。京兆・馮翊・扶風は雍州に切り出し、并州から平陽を加えた。7-3+1=5。


『三国会要』は郡が7つという。7-5=2は何か。
原武郡と野王郡である。咸熙元年(264) 魏が置いた典農部が廃止され、かわりに郡が置かれた。原武郡は原武県のみ、野王郡は野王県のみ。三国時代の郡というより、三国時代が終焉して、魏の制度が役割を終えたから、西晋によって置かれた郡である。さきに消化したい。

◆原武郡
曹操が袁紹と戦ったとき、于禁伝に「太祖復使禁別將屯原武,擊紹別營於杜氏津,破之」とある。徐晃伝に「太祖授晃兵,使擊卷、卷音墟權反。原武賊,破之,拜裨將軍」とある。軍事上の要地である。
明帝の毛皇后の弟の毛曽は、「遷曾散騎常侍,後徙為羽林虎賁中郎將、原武典農」となった。魏の財政にとって重要なポジションなので、外戚が管理した。
場所は、河南尹に属する。
『続漢志』によると、後漢の河南には原武県がある。『水経注』によると、李勝は、あざなを公昭といい、もと原武典農都尉である。

◆野王郡
張楊伝に「楊欲迎天子還洛,諸將不聽;楊還野王」とあり、建安初期には張楊の根拠地だった。
曹爽伝のなかに、「晏等專政,共分割洛陽、野王典農部桑田數百頃,及壞湯沐地以為產業,承勢竊取官物,因緣求欲州郡」とあり、何晏らが野王典農部の生産基盤を私物化したことが分かる。やはり財政にとって重要なところ。ただし、本ページの「群雄勢力マップ」の観点とはちがう。
場所は、河内郡に属する。

01河南尹(洛陽)

もとは秦の三川郡で、漢が改名した。建安十八年(九州制に復すとき)豫州に統合されたが、漢魏革命にて分離された。治所は洛陽。

マップの区画としたい郡国に番号を振る。


後漢から曹魏に移ると、河南は西の境界線がのびる。すなわち、陸渾県をふくむようになる。関羽伝「梁郟、陸渾羣盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏」とある。洛陽のすぐ南、おなじ領域であることをアピるためにも、曹魏の郡境を採用する。

02弘農郡(弘農)

漢代は「宏農郡」といったが、霊帝を忌避した。

03河東郡(安邑)

黄初三年、曹霖を「河東王」として、郡から国に変わった。同六年に館陶県王に遷したため、郡にもどった。

04平陽郡(平陽)

斉王紀の正始八年、 「夏五月,分河東之汾北十縣為平陽郡」とある。

鍾繇伝:其後匈奴單于作亂平陽 ,繇帥諸軍圍之,未拔;而袁尚所置河東太守郭援到河東,眾甚盛。
張既伝:袁尚拒太祖於黎陽,遣所置河東太守郭援、并州刺史高幹及匈奴單于取平陽,發使西與關中諸將合從。司隸校尉鍾繇遣既說將軍馬騰等,既為言利害,騰等從之」とある。

曹操が袁譚・袁尚と戦っているとき、匈奴が曹操にそむいた。単于は平陽を拠点にして、河東太守の郭援と連携した。平陽が郡に分けられるのは魏の後半だが、後漢末のマップを作るとき、割拠の一区画として認識したい地域。

05河内郡(懐県)

山陽公国(献帝の封邑)をふくむ。

◆朝歌郡
黄初期に、河内を分けて郡を立て、冀州に入れた。
朝歌県では、黒山賊の眭固らが起った。
共県があり、『水経注』によると、重門城があり、司馬師が曹芳を廃して、共県の西北に宮をおいた。

06榮陽郡

洪亮吉・湯成烈いわく『水経注』によると榮陽郡がある。
『晋書』地理志には、泰始二年に榮陽郡を新設したとする。魏の河南尹を分け、敖倉のある榮陽が治所とする。
『水経注』によると、正始三年、河南郡の県を割いて鞏関より東に榮陽郡をつくり、李勝を太守とした。傅嘏伝によると、正始期に榮陽守(太守)がいる。孫礼伝によると、曹操のとき榮陽都尉があった。けだし漢末、河南には三輔のように、別に都尉が置かれた。正始期に、郡に昇格させた。『宋書』『晋書』は、泰始元年に置いたとするが、魏末に廃して晋初に置き直したのか。
榮陽郡には、榮陽県をふくむ。文頴によると、鴻溝とは官渡水につくられ、袁紹を防いだところである。
中牟県をふくむ。故市の官渡台があり「曹公塁」がある。郭頒『世語』には、中牟県に「任城王台」がある。

これ以外に『晋書』地理志には、泰始二年に新設された郡が記される。上洛郡(上洛;京兆・弘農の南部を分ける)、汲郡(汲県;魏の河内郡より)

細分化してもワケが分からなくなるので、あくまで三国時代の「郡」をベースとする。ぼくの郡国志は、司州は5郡と見なす。

と思ったけど、京兆・弘農は、北部だけに主要都市があり、南部は放置である。ここに西晋にならって「上洛」を置くことで、表現できることがある。
武帝紀に「公圍壺關三月,拔之。幹遂走荊州,上洛都尉王琰捕斬之」とあり、荊州に逃げようとした高幹を上洛都尉の王琰が斬った。荊州と司州のあいだの地帯として、表現したい。


魏代の魏郡・広平・陽平が司州に分類されるが、このページでは冀州として扱う。頓丘郡があるが、永嘉の乱を受けての臨時施策なので、扱わない。

配下の県を入力しないと、この作業は完全にならないけれど、とりあえず「郡国」の整理を優先するので、こんな感じで。郡国の境界が、漢代からトリッキーに変わるところは、変遷を詳しくメモする。漢代から変わらないところは、とりあえず郡名だけを列挙します。160227

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豫州(譙→安成)

豫州の概要

漢代は譙県を治所とした。曹操の故郷である。正始・嘉平期に、刺史の治所が安成に遷された。

『晋書』地理志:豫州。案禹貢為荊河之地。周禮:「河南曰豫州。」豫者舒也,言稟中和之氣,性理安舒也。春秋元命包云:「鉤鈐星別為豫州。」地界,西自華山,東至于淮,北自濟,南界荊山。秦兼天下,以為三川、河東、南陽、潁川、碭、泗水、薛七郡。
漢改三川為河南郡,武帝置十三州,豫州舊名不改,以河南、河東二郡屬司隸,又以南陽屬荊州。先是,改泗水曰沛郡,改碭郡曰梁,改薛曰魯,分梁沛立汝南郡,分潁川立淮陽郡。後漢章帝改淮陽曰陳郡。魏武分沛立譙郡,魏文分汝南立弋陽郡。及武帝受命,又分潁川立襄城郡,分汝南立汝陰郡,合陳郡于梁國。州統郡國十,縣八十五,戶十一萬六千七百九十六。

『禹貢』の荊河の地。天下の中心といえば豫州だけれど、漢代にはその呼称を洛陽の周辺に譲っていた。漢は、泗水を沛国と改め、碭を梁国と改め、薛を魯国と改めた。梁国・沛国を割いて、汝南郡をつくった。

梁国・沛国はせまく、汝南はひろい。汝南は経済的に発展して、人材も豊富。しかしもとは、梁国・沛国の南部、荊州に接したところを切り出したフロンティア。
魏代の『歴史地図集』を見ると、梁国・沛国が残りカスみたいに見える。

潁川を分けて淮陽郡をつくった。

『范書』は、淮陽王がたくさん出てくる。
『陳志』でも、高柔伝にひく『陳留耆舊傳』に、靖高祖父固,不仕王莽世,為淮陽太守所害,以烈節垂名。とあり、たしかに淮陽太守がいる。

後漢の章帝は、淮陽を陳郡に改めた。魏は、曹操が沛国を分けて譙郡をつくり、曹丕は汝南を分けて弋陽郡を立てた。司馬炎が受命すると、潁川を分けて襄城郡を、汝南を分けて汝陰郡をつくった。陳郡を梁国に合わせた。

01潁川郡(許昌)

『元和志』によると、魏は洛陽に都したが、宮室・武庫は、その後も許昌に残っていた。言わずもがな、曹操が献帝を飼っていた場所。
漢代の許県を、曹丕が許昌と改めた。「譲王台」がある。典農都尉が置かれた。

◆襄城郡
咸熙元年、襄城典農中郎将を廃して郡とした。地理的には頴川郡に属する。司州の野王郡・原武郡と同じで、地理的に独立しているわけでなく、典農部の重要性ゆえに太守が置かれただけ。今回の趣旨に照らすと、分けなくてよい。
『宋書』『元和志』では、魏が潁川郡を分けて置いたとする。7県ある。
繁昌県は、もと頴陰の繁昌亭であり、曹丕がここで受禅して、県に昇格した。
郟県には摩陂があり、明帝期の青龍元年、井中に龍が現れた。『水経注』によると、明帝は龍を見にきて、摩陂を龍陂と改め、県城を「龍城」といった。

許都を献帝の居場所として切り取るなら、頴川郡を東西に分けて、東に許都=潁川郡、西に襄城郡としたほうが、マップが盛り上がるかも。許都を脅かす勢力の拠点として、区画として使い勝手がある。曹操は献帝を守る立場だったが、やがて曹丕が「献帝を脅かす勢力」として、ここに駐屯したのである。7県とは少なくないし、郡としての実態が三国期にある。


02汝南郡(新息)

治所は、漢代に平輿で、『晋書』では新息である。魏代は未詳。『歴史地図集』によると、新息を郡治としている。

新息はひろい豫州の南端で有り、弋陽郡との境界にある。

24県もあり、陽安・汝陰・汝陽などもこの郡。『歴史地図集』によると、豫州刺史の州治が、郡内の安成に置かれた。

◆陽安都尉(陽安郡)
巻十八 李通伝 「分汝南二縣,以通為陽安都尉」とあり、官渡のころに曹操が、汝南のうちで、自分の勢力が及ぶ範囲に陽安都尉を置いた。郡ではないが、郡になぞらえてマップを分割するといいかも。
『魏略』によると、李通は陽安太守となった。趙儼伝を按ずるに、袁紹が豫州の諸郡を招誘したとき、ただ陽安郡だけが動ぜず、都尉の李通は急ぎ戸調を録したとある。『魏氏春秋』によると、初平三年(192) 陽安都尉を置いた。 陽安県・朗陵県の2県が属する。

『歴史地図集』にないから、この2県だけが含まれるように(ほかの県を巻きこまないように)群境をぼくが作るしかない。


03汝陰郡

『晋書』地理志によると、魏は郡を置いたが、廃した。泰始二年に晋が改めて置いた。『三国会要』は魏の郡には含めないが、『陳志』明帝紀に見えて、魏が置いたことのある郡である。

明帝紀:(景初二年)夏四月庚子,司徒韓暨薨。壬寅,分沛國蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹。十縣為汝陰郡。宋縣、陳郡苦縣皆屬譙郡。以沛、杼秋、公丘、彭城豐國、廣戚,并五縣為沛王國。

汝南をめぐる争いは、曹操・袁紹の時代に重要です。広すぎる汝南郡を分割して表示するために、汝陰郡をマップに設定するのは、有効です。

全体の見通しを先につくってから、『三国志集解』にいきます。この明帝紀だけを見ると、いまいち分からない。


『寰宇記』によると黄初元年に、『元和志』によると黄初三年に、曹丕が汝南を分けて置いた。明帝紀には景初二年に、沛国の10県を割いて汝陰郡に入れた。18県となる。

『歴史地図集』三国魏の地図では、沛国が小さくて汝陰郡と接していない。『歴史地図集』東漢を見たら、沛国が汝陰郡と接しており、編入された県がわかる。

固始県がある。司馬懿が鄧艾に屯を置かせた。武邱があり、『寰宇記』では邱頭ともいう。司馬昭が諸葛誕を征伐したとき、ここに兵を屯させた。諸葛誕を斬ると、武邱と改めた。

汝南郡の西半分が汝南のまま、東半分が汝陰郡とみればよい。司馬懿・鄧艾・司馬昭のことから見えるとおり、司馬氏が経済・軍事の基盤として使ったのかも。西に許昌があり、東に寿春があり、どちらにもアクセスできる土地である。
漢代の汝南は広すぎて、マップで持て余したので、汝陰郡は使いたい。

項県には、公路城がある。『地道記』によると袁術が築いた。

項県は、陳国との国境である。袁術が(漢代の広い)汝南郡の東半分は制圧しており、さらに北上して陳王を殺しにきたとき築いたのだろう。やはり、寿春・許都のいずれにもアクセスできる、重要な土地である。

項県には誘城があり、毋丘倹が乱をなして西にきて項県に至ると、鄧艾は軍を督して楽嘉で毋丘倹を誘った。だから後にこの名がついた。百尺堰があり、司馬懿が王淩を討ってここに至る。

04譙郡(譙県)

建安末、沛郡を分けて置かれた。黄初三年、譙県公の曹林を譙郡王とした。黄初五年、譙県王に縮小されて、郡にもどった。言わずと知れた、曹氏の故郷。

譙郡の設置により、沛国が大幅にワリを食いました。漢代と全然ちがう。

『水経注』淮水に、黄初期、曹丕は鄼県・城父・山桑・銍県を(沛国から)割いて譙郡を置いたとある。『元和志』『寰宇記』は、いずれも黄初元年に立った。
『宋書』にひく王粲の詩に、「すでに譙郡の界に入る」とあるが、王粲は建安期にすでに死んだから。曹操期に置かれたのでは。

譙県の城東には、曹操の旧宅がある。曹丕がここで生まれた。渦水があり、黄初六年、曹丕が舟師をもって譙県から渦水をめぐって淮水にでた。

宋県は、もとは汝陰に属したが、景初二年に編入。苦県は、もとは陳国に属したが、景初二年に編入。

『歴史地図集』では、ここに見える以外にも、東におおくの県が譙郡に入っている。よく分からない。


ここから漢代の旧国が続く。

05梁国(睢陽)

漢代の国で、魏が受禅すると郡となる。太和六年、元城王の曹悌を封じた。漢代は下邑、晋代は睢陽を治所とする。『歴史地図集』は睢陽を治所とする。
陽夏県は、もとは陳国に属したが、『通鑑』胡注によると、魏代は梁国に属した。ただし『歴史地図集』では、陽夏県は陳郡とする。陽夏を梁国と考えると、飛び地になってしまう。

『三国志』では、武帝紀「梁國橋玄」、先主伝「十月,曹公自征布,備於梁國界中與曹公相遇,遂隨公俱東征」とあるが、梁国に拠って立つ勢力はない。
臧洪伝・劉繇伝に、劉繇が郡治の「下邑長」となったとあるが、ただの経歴であって、群雄割拠とは関係がない。
群雄割拠を語るときに必要なければ、省くという手も考えられますが、後漢初~後漢末まで断然なく続いた国だし、省いてはいけない。


盧毓伝:文帝踐阼,徙黃門侍郎,出為濟陰相,梁、譙二郡太守。帝以譙舊鄉,故大徙民充之,以為屯田。而譙土地墝瘠,百姓窮困,毓愍之,上表徙民於梁國就沃衍,失帝意。雖聽毓所表,心猶恨之,遂左遷毓,使將徙民為睢陽典農校尉。毓心在利民,躬自臨視,擇居美田,百姓賴之。

と、盧植の子の盧毓が、済北相・梁郡太守・譙郡太守を歴任したことが見える。曹丕に郡の窮状を報告したところ、睢陽典農都尉(梁国の治所)に左遷される。

魏代の譙郡は、曹氏の故郷だけあって「不当に」広い。陳国の苦県を侵食した部分(西晋になると陳国に返却した上で、陳国が梁国に併合される)、沛国の蕭県・相県を侵食した部分(西晋になると沛国に返却される)は、ぼくのマップでは譙郡に含めず、もとどおり、陳国・沛国に振り分ける。

06陳郡(陳県)

漢の旧国。もとは睢陽国。黄初四年、淮南王の曹邕を封じた。太和六年、東阿王の曹植が封じられた(陳思王)。曹植の子の曹志が、済北に改封されたから、郡にもどった。
西晋が受命すると、梁国に統合された。

陳県には、賈侯渠がある。賈逵が刺史のとき、200余里にわたって築いた。『初学記』は劉澄之『豫州記』をひき、陳県の北に芍陂がある。魏の王淩が呉の張休と交戦したところであると。
『続漢志』によると、寧平・新平・扶楽県も含まれる。

武帝紀に「建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降」とあり、袁術が国相を独自に置いていたことがわかる。駱統公緒伝に「駱統字公緒,會稽烏傷人也。父俊,官至陳相,為袁術所害」とあり、駱統の父は、陳の国相となり、袁術に殺された。袁術の勢力圏の区画。

◆梁郡
睢陽・下邑・虞・碭山・蒙・寧陵の6県。
寧陵は、『湯志』にはなく(代わりに)己氏がある。しかし済陰の属県として己氏を載せる(から梁郡に己氏県は含めるべできでない)
『続漢志』によると、ほかにも穀熟・エン・薄の3県がある。『寰宇記』によると、穀熟は曹丕期に廃された。

07沛郡(沛県)

漢の旧国。太和六年、鄄城王の曹林を封じて、国となった。
袁渙伝に「沛南部都尉を拝す」とある。
広戚県は、もとは彭城郡に属したが、景初元年に沛国に移った。

08魯国

漢の旧国。

以下、呉との国境に設けられた2つの郡。

09弋陽郡(西陽)

魏は、汝南・江夏から県を割いて、弋陽郡を置いた。黄初三年、汝陽公の曹彪を弋陽王に封じたが、黄初五年に寿春県王に改封された。
『晋書』によると、曹丕が汝南を分けて弋陽郡を立てた。田豫伝によると、弋陽太守になるが、これは曹操期である。曹丕期に初めて置かれたのではない。

賈逵伝:州南與吳接,逵明斥候,繕甲兵,為守戰之備,賊不敢犯。外修軍旅,內治民事,遏鄢、汝,造新陂,又斷山溜長谿水,造小弋陽陂,又通運渠二百餘里,所謂賈侯渠者也。

と、賈逵が治水工事をしたり、

田豫伝:太祖召豫為丞相軍謀掾,除潁陰、朗陵令,遷弋陽太守,所在有治。鄢陵侯彰征代郡……

と、曹操が河北を平定したあと、田豫が弋陽太守になっており、すでに郡が置かれたことが分かる。孫権との関係が緊張すると、守備の拠点として重要となった。面積は小さいが、国防のためには重要な郡のようです。

孫晧伝:忠說晧曰:「北方守戰之具不設,弋陽可襲而取」

と、宝鼎元年(266) 丁忠が孫晧に、弋陽を攻め取れと進言する。

弋陽郡は、西陵県をふくむ。黄城鎮がある。『元和郡県志』によると、劉表が荊州を治めると、この地が長江・漢水の口なので、呉に侵されるのを恐れ、建安期、黄祖に鎮を築かせた。だから「黄城鎮」というのである。

『歴史地図集』東漢では、江夏郡の郡治として、荊州にある。北緯31度の線のすぐ南。『元和郡県志』と合う。『歴史地図集』三国魏では、弋陽郡はもっと北で終わっている。黄祖のいた城は、魏の領土になっていないから。
荊州・豫州・揚州が交わっており、軍事的な衝突地点なので、時期によって変化しそう。『歴史地図集』三国魏に従って、北のほうに縮めておくのが良いだろう。


10安豊郡(安風)

黄初元年、廬江を分けて立てた。安豊津都尉(毋丘倹伝)が始まり。

斉王紀 注引『魏略』:特還,乃夜徹諸屋材柵,補其缺為二重。明日,謂吳人曰:「我但有鬭死耳!」吳人大怒,進攻之,不能拔,遂引去。朝廷嘉之,加雜號將軍,封列侯,又遷安豐太守。

と、呉を防いだ張特が、安豊太守になる。

大將軍曹爽請為從事中郎,出為安豐太守。郡接吳寇,為政清嚴有威惠,明設防備,敵不敢犯。加討寇將軍。

と、王基伝で、王基が安豊太守となって呉を防ぐ。弋陽郡と同じく、呉の国境にあって、魏の国防のために重要な郡である。弋陽郡は曹操期、安豊郡は曹丕期というのが異なるが、いずれも魏に初期である。

安豊県には、芍陂があり、小史埭がある。

241年、孫権に攻めこまれたところである。


おわりに

豫州は、漢代からの歴史があって郡国が細分化しており、また中原にあって抗争が激しいから、マップを作るとき、とてもやりがいがありそうです。
『晋書』地理志・『三国会要』・『歴史地図集』で食い違って、よく分からないので、『三国志集解』に進むべきです。はじめからそのつもりです。取りあえず、ワクだけを作ってます。予想どおり、豫州は混乱しております。

『続漢書』郡国志では、潁川郡・汝南郡だけが郡で、群雄の争奪の対象になっているが、それ以外は国です。いちおう国相の名は出てくることがあっても、その国を本拠地として割拠することはマレ。梁国・沛国・陳国・魯国は、脇役です。
後漢末の抗争で、地理的にカギになったのは、郡が置かれた部分。例外的に、袁術が陳王を殺したりしたけど。ぼくの地図は、『続漢書』の郡を重視して作ればいいのかも。どんな地図を作りたいか、少しずつ見えてきました。160227

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冀州(高邑→信都)

冀州は、もとの治所は高邑(趙国)だが、黄初期に鄴が五都のひとつとなり、州治を信都(安平郡)に移した。

冀州。案禹貢、周禮並為河內之地,舜置十二牧,則其一也。春秋元命包云:「昴畢散為冀州,分為趙國。」其地有險有易,帝王所都,亂則冀安,弱則冀強,荒則冀豐。舜以冀州南北闊大,分衞以西為并州,燕以北為幽州,周人因焉。及漢武置十三州,以其地依舊名為冀州,歷後漢至晉不改。州統郡國十三,縣八十三,戶三十二萬六千。

冀州は、漢武帝が十三州を置いたときから変化なし。

01魏郡(鄴)

建安十八年、魏郡に東部都尉・西部都尉を置いた(魏国の首都圏を「三輔」に準えて設定した)。建安二十一年、曹操が魏王になると、鄴を都とした。
黎陽県がある。倉城があり、『冀州図経』によると袁紹が兵糧を集めたところ。袁譚城・曹公城がある。
易陽県がある。もとは趙国に属した。『寰宇記』によると、魏代に趙国から魏国に移した。

02広平郡(曲梁)

黄初二年、魏郡の西部都尉から、広平郡に改めた。曲梁を郡治とした。邯鄲県をふくむ。

03陽平郡(館陶)

黄初二年、魏郡の東部都尉から、陽平郡に改めた。館陶を郡治とした。
東武陽県には、新城があり、『水経注』によると曹操が東郡の治所とした。
陽平県には、頓城があり、臧洪が太守となり治所とした。
楽平県があり、『宋志』によると魏が立てた県とするが、誤りであって、漢代の東郡に楽平県がある。

04鉅鹿郡(廮陶)

漢代から郡で、『三国会要』では8県だが、『晋書』では2県に減ってる。

張燕伝:張燕,常山真定人也,本姓褚。黃巾起,燕合聚少年為群盜,在山澤閒轉攻,還真定,眾萬餘人。博陵張牛角亦起眾,自號將兵從事,與燕合。燕推牛角為帥,俱攻廮陶。牛角為飛矢所中。……其後人眾寢廣,常山、趙郡、中山、上黨、河內諸山谷皆相通,其小帥孫輕、王當等,各以部眾從燕,眾至百萬,號曰黑山。……袁紹與公孫瓚爭冀州,燕遣將杜長等助瓚,與紹戰,為紹所敗

常山のひと張燕が、郡治の廮陶を攻めている。廮陶より西が、山がちな地域圏か。袁紹と公孫瓚が戦ったとき、公孫瓚を助けている。公孫瓚の勢力圏は、黒山と接点があるあたり、鉅鹿ぐらいまでと見よう。東の鉅鹿、西の安平をセットとする。鉅鹿郡は、左右からワリを食って、どんどん狭くなる。しかし張角のふるさとなので、三国ファンのネームバリューはある。安平と鉅鹿をセットにした上で、鉅鹿を区画名にしたい。史実の重要性においては、安平とすべきだが。

05趙国(房子)

漢代は邯鄲を治所とするが、邯鄲は魏郡西部都尉(広平郡)に編入されてしまった。晋代は房子を治所とし、魏代は未詳。『歴史地図集』は房子を治所とする。
太和六年、鉅鹿王の曹幹が改封されてきた。

となりに常山があり、このあたりまで張燕の勢力圏だったと思われる。なぜなら鉅鹿で袁紹・公孫瓚が戦ったとき、張燕が介入しているから。というわけで、張燕の勢力圏を意味する「常山」に併合する。
「趙王」が表舞台で活躍したわけでもないし、蚕食されまくり。

06常山郡(真定)

漢代の旧国で、もとの治所は元氏だったが、元氏は魏代は趙国に移った(『輿地広記』)。建安十一年、国が除かれて郡となる。魏代は真定を治所とする。

呂布伝に「北詣袁紹,紹與布擊張燕于常山」とある。張燕伝に「張燕,常山真定人也,本姓褚」とある。趙雲の故郷という情報には、あまりマップ的な意味はなく、むしろ張燕の拠点である。
隣接する趙国は、曹操の魏国に大半の県を奪われ、狭くなってしまった。もう常山に併合してしまおう。

07中山国(盧奴)

太和六年、濮陽王の曹袞が封ぜられる。蠡吾県をふくむ。

烏丸鮮卑伝に「中山太守張純叛入丘力居眾中,自號彌天安定王」とあり、張純が拠って立ったところ。曹操に負けた袁尚が逃げこんだのもこちら。独立した区画として扱う。
上曲陽は、『歴史地図集』三国魏では常山県とするが、張純の勢力圏を削りたくないので、『歴史地図集』東漢のとおりにする。
霊丘県は、『歴史地図集』東漢では代郡だが、『歴史地図集』三国魏では中山とする。北方が過疎るのが時代の傾向だと思うので、中山国に入れちゃえ。都合が悪かったら直します。郡境は、『歴史地図集』も適当なので、代郡を食い過ぎないように、しかし霊丘は含めるように設定しました。

08安平郡(信都)

建安十八年、安平郡などの10郡を魏郡にした。治所は信都。冀州刺史は、信都を治所とする。
『寰宇記』によると、黄初期に鄴から信都に治所を移した。
広宗県には、界橋があり、袁紹と公孫瓚が戦ったところ。それより前、韓馥が公孫瓚に薄洛津でやぶれている。「公孫瓚に奪われた冀州の部分」として、安平を認識したい。かりにも、のちの刺史の治所である。

09平原郡

漢代は国だった。建安十一年、国を除いて郡とする。

曹操が国を除いて郡にするときは、魏の周辺。曹操が郡から国を立てて、漢の皇族に封地を与えるときは、魏から遠いところ。冀州の国は、ロコツに国を除かれていた。

黄初三年、斉公の曹叡を平原王とする。黄初七年、曹叡が皇帝を嗣ぐと、郡に戻された。

般県には般河があり、公孫瓚が黄巾を破ったところ。
袁譚は、鄴に入れないと黎陽(魏郡の内)にゆき、つぎに南皮(勃海郡)平原(平原郡)と転戦して、「公之圍鄴也,譚略取甘陵、安平、勃海、河間。尚敗,還中山」と平原の周囲の郡を奪ってゆく。このあたりが単独で勢力を持つことはなく、「袁紹の後背地」といったところか。

10楽陵郡(厭次)

建安十八年、曹操は、平原・勃海から県を割いて、楽陵郡を立てた。海沿い。新楽県は、勃海のなかに食い込んでいるが、『沈志』に「新楽県は楽陵郡に属する」とあるから仕方ない。

曹操の政策的なねらいを分析するのは楽しいが、マップとして楽陵だけを切り離すほどのことか、迷います。


『東方朔画賛』によると、建安期、厭次をわけて楽陵郡とした。費詩伝注で、王沖が楽陵太守となる。

陳矯伝:太祖辟矯為司空掾屬,除相令,征南長史,彭城、樂陵太守,魏郡西部都尉。
韓暨伝:太祖平荊州,辟為丞相士曹屬。後選樂陵太守,徙監冶謁者。

陳矯と韓暨は、楽陵太守になった実績がある。新たに抱えた人材にポストを与えるため、曹操の領内を分割したように見えるが…、どんなもんでしょう。

11勃海郡(南皮)

南皮県には、観台があって、袁譚が築いたもの。曹操が袁譚を捕らえたのはここ。曹公固がある。
東光県がある。清河がある。『水経注』によると、公孫瓚は黄巾を東光界でやぶり、清河まで追って、三万を斬首した。

12河間国(楽成)

魏が受禅してから、国から郡に変わった。黄初三年、燕公の曹幹をここに封じ、黄初五年、曹幹が楽城県王となると郡に戻された。
程昱伝に「田銀、蘇伯等反河間,遣將軍賈信討之」とあり、曹操が遠征して曹丕が留守するとき、田銀・蘇伯が河間国でそむく。これを一区画とする。というのも、わりと広くて県数があり、隣接するどれかと合併するのは気が引けた。霊帝の故郷も河間なので、この区画である。
臧洪伝に、張超のこととして「超遣洪詣大司馬劉虞謀,值公孫瓚之難,至河間,遇幽、冀二州交兵,使命不達。而袁紹見洪,又奇重之,與結分合好」ともある。幽州と冀州のあいだ(冀州に属する)で、公孫瓚が籠もった易京を含む。ただしぼくは、公孫瓚が易京に籠もって、袁紹に幽州を渡さなかったことから、易京は幽州の区画とする。恣意的!

13清河郡

漢の桓帝の建和二年、清河を甘陵と改めたが、魏では清河にもどした。黄初三年、曹貢を清河王としたが、翌年に薨じたので国が除かれた。

武帝紀に「太祖將討之,譚乃拔平原,并南皮,自屯龍湊。十二月,太祖軍其門,譚不出,夜遁奔南皮,臨清河而屯」とある。清河は、曹操の長女の「清河公主」を除いて、意味のある文脈で出てくるのは、ここぐらい。袁譚の勢力圏として、隣接した平原にくっつけて、1区画としよう。

おわりに

『晋書』地理志には、ほかに章武国・高陽国・博陵郡を記すが、さらに細分化しただけなので、ここえは採り上げない。
曹操が漢の封王をいじめ、魏の領土を拡張したときに、郡国が恣意的にいじられる。曹丕が魏の封建を設計するときに、冀州のなかに国を立てたり除いたりする。地図において区画の変遷が重要というよりは、机上の政治闘争において、郡国の境界が頻繁に変わって、過度に複雑になっているような気がする。戸数という「記号」をめぐって、優遇したり冷遇したり。
ぼくの作る地図は、あくまで勢力図のためのものであり、封建にかんする制度史上の(やや観念的な)区画ではない。曹氏による改変を頭に入れつつ、『続漢書』ベースで作ってもいいのかも。

『続漢書』郡国志を見てみると、郡国は9つしかない。魏郡・鉅鹿郡・常山国・中山国・安平国・河間国・清河国・趙国・勃海郡である。郡が置かれたのは、黄巾・群雄が争奪した、魏郡・鉅鹿郡・勃海郡だけで、それ以外の多くは皇族の封国である。もともと冀州とは、封国のおおい地域であり、ロコツに切ったり貼ったりできない土地柄だったのかも。逆に、郡を抑えてしまえば、ほかの国は、さしたる抵抗もなく、自勢力と見なすことができたとか。
そこにメスを入れたのが曹操で……、とか。160228

追記:郡国を再編して革命を準備した曹操

豫州・冀州の郡国の変遷を調べて気づいた。後漢末は2つの観点で領土を競う。①いかに多くの城を得るか、②いかに漢の皇族に退いてもらうか。
①城の争奪は郡で活発だが、国が主な戦場にならない印象。しかし天下を統一するなら、②国を除いて郡にしないと、支配が徹底されない。曹操の戦いは、①②という2段階で理解できそう。
ハデだから注目される、袁紹・袁術らとの戦いは①に過ぎない。河北が平定されたと見なされる時期になっても、②の戦いが本格化するので、ちっともラクにならない。②漢の封国を削ったりするのは、軍資を得るためなのかも知れないが、やはり「独自の国」を魏郡のあたりに作ろうとしたという意思は、隠すことができない。

『范書』献帝紀の建安十七年に「九月庚戌,立皇子熙為濟陰王,懿為山陽王,邈為濟北王,敦為東海王」とするが、いずれも黄河の南。「黄河の北は曹氏が取るけど、黄河の南は劉氏に」という感じがする。

劉備・孫権の最前線は、劉氏を置いて、離れたところに曹氏の国をつくる。SLGしてても、本拠地を最前線に置きたくない。有効な緩衝材があれば、最前線に置きたい。そんな国家構想が見える気がする。

「黄河の南は、①曹氏が軍事的に得たけれど、②漢の封国を置くことは拒否できない」という、②の戦いが進行中の状態。これは、本人が望んでも望まなくても、漢vs魏は対立関係になってしまう。
漢の封国から県を削って、郡を新設する。封国を廃して、郡にする。いっぽうで魏に県を増やす。魏が封国を得る。きわめて冷静に、システマチックに、漢魏革命が準備されている。

余談ですが、曹丕が、封建の政策ですべったのは、このあたりの、②曹操と漢の封王とのせめぎあいが、悪い意味で影響を与えたからかも。魏でも、冀州は、封国がたくさん立てられる。


魏が領土を増やす理由は、、「軍資を得て孫権・劉備を倒し、漢を復興するため」と言うことは、さすがに難しい。少なくとも赤壁より後は。①ライバルを倒すことは、生き残るために必須の行動としても、②漢の封国を減らすことは、「漢の復興のため」とは言い張れない。
皮肉なことですが、曹操のこの路線転換が、孫権・劉備に戦う理由を(事後的に)与えてゆく。赤壁のときは、とくに理由もなく(周瑜・魯粛の意見がたまたま通って)孫権が曹操軍を防いだ。孫権・劉備の戦いの正当性は、あんまりない。しかし、以後の曹操が、革命に突き進むのだから、「漢室復興」が彼らの国是になり、それが信憑性をもつ。
「あらかじめ確固たる主張をもった勢力」が存在するのではなく、偶発的な巡りあわせによって、相互作用を起こしながら、国を経営する方針が定まっていく。赤壁は「理由なき事故」だとしても、その後、(天下の安寧にとっては)不幸な相互作用・化学反応を起こしながら、戦いを長期化させてゆく。160228

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兗州(昌邑→鄄城→廩邱)

漢代、兗州の治所は昌邑(山陽郡)である。興平二年、曹操が兗州牧となると(曹操が軍事上の都合で本拠地としていた)鄄城(東郡)が治所となった。明帝のとき、廩邱(東郡)が治所となった。

『晋書』地理志:兗州。案禹貢濟河之地,舜置十二牧,則其一也。周禮:「河東曰兗州。」春秋元命包云:「五星流為兗州。兗,端也,信也。」又云:「蓋取兗水以名焉。」漢武帝置十三州,以舊名為兗州,自此不改。州統郡國八,縣五十六,戶八萬三千三百。

兗州は、漢の武帝のときから変化なし。

01陳留郡(陳留)

黄初三年、襄邑公の曹峻を封じて国となる。黄初五年、襄邑に改封して、陳留は国から郡にもどった。太和六年、ふたたび曹峻が封じられ、国となった。
平丘県には羌氐があり、曹操が袁術をやぶったところ。酸棗県には烏巣沢があり、また袁術をやぶったところでもある。延津がある。
圉県がある。『魏書』地形志によると、後漢・晋では陳留に属したが、のちに罷めたと。ゆえに『晋書』にはない。

02東郡(濮陽)

もとの治所は濮陽だった。初平二年、曹操が治所を東武陽とした。建安期、東武陽が魏郡に編入されたから、濮陽が治所となったのであろう。

『歴史地図集』によると、東武陽は黄河の北側。兗州は黄河の南、冀州は黄河の北なので、東武陽が冀州の魏郡に属することは自然なのかも知れない。
初期の曹操が袁紹の部将として動くとき、本拠地を袁紹のそば(黄河の北)におくのか、袁紹から離れたところ(黄河の南)に置くかは、とても重要なこと。


博平・聊城は、『寰宇記』では晋代に平原に移ったという。つまり魏代には東郡に属したのだ。
鄄城は、後漢では済陰に属した。しかし杜預は『左伝』に注釈して、「東郡の治所の鄄城」と書いている。魏代には、東郡に属したか。『晋書』では濮陽に属して、東郡に属さない。

マップでは、初期の曹操の勢力範囲を「東郡」とした。後漢の東郡は、黄河の北まで領域が広がっている。のちに曹操が、黄河の北を切り取って、魏郡に編入してしまった。どうしても黄河で南北に分かれる土地である。
初平期、黄河の北は袁紹の勢力圏であり、だからこそ建安後期に(袁紹に代わって黄河の北の主になった)曹操が、魏郡に編入したのである。ぼくのマップでは、黄河の北を、東郡ではなく魏郡に入れたい。
すると不都合がひとつあって、曹操が初平期に本拠地とした東武陽は、黄河の北なので、「曹操の領土」が表現できなくなる。そいううわけで、東武陽だけは、後漢の平時なみに東郡として、のこりの県は、魏郡に献上する
曹操が東武陽にいたのは、袁紹の部将として初めて兗州に入ったときだけ。袁術を陳留で破ったあとは、黄河の南の鄄城を本拠とする。呂布と兗州を取りあうときも、黄河の北の東武陽を扱わない。つまり「袁紹から独立した曹操」としての領土は、やはり黄河の南だけ。奇妙にせまい区画「東郡」は、曹操のために準備する。

鄄城・廩丘は、後漢では済陰郡に属する。曹魏では鄄城・廩丘とも東郡に属する。曹操の初期の勢力範囲を「東郡」とする場合、鄄城は曹操の勢力圏であるのは確かである。曹魏のくくりに従って、東郡に入れておく。
建安十七年、曹操が献帝の皇子を「済陰王」に封じる。その国土が、広いはずがない。

03済陰郡(定陶)

建安十七年、皇子の劉熙を封じた。魏が受禅すると、劉熙は列侯となり、国から郡となった。黄初期、彭城王の曹拠を封じたが、黄初五年、定陶王(県王)に改封されて郡にもどった。
済陰郡には、離狐県がある。李典伝によると、李典は離狐太守となる。曹操は袁紹と戦っており、郡をおいて後に廃したのだろう。

離狐県は、済陰の西北の端で、袁紹との前線に近い。太守の権限で動いてもらうため、臨時で郡を置いたのだろう。

寃句県には、『元和志』によると袁紹城がある。

04山陽郡(昌邑)

建安十七年、皇子の劉懿を封じた。魏が受禅すると、劉懿は列侯となり、国は郡となった。
湖陸県がある。『地道記』によると、費亭城があり、曹操がはじめに封じられた地と。しかし曹操の祖父が封じられた費亭は、沛国にある。董昭伝に「曹操に父の費亭侯を嗣がせよ」とあるから、山陽ではなく沛国の費亭である。

05任城郡(任城)

黄初三年、鄢陵侯の曹彰を任城王とした。子の曹楷は、中牟に移されて、国から郡にもどった。

3県しかない小さな郡だが、『晋書』地理志でもそのまま。


山陽・任城・魯国は、せまく、割拠した勢力がない。初平期、袁遺は山陽太守だったが「割拠」とはいえない。武帝紀に「秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯 山陽」とあり、呂布が兗州の南部を奪ったことが分かる。
任城は、曹操が兗州に入る前、任城相の鄭遂が殺された。武帝紀によると陶謙が「徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城」と、曹操の兗州に攻めこんできた。
魯国は、張遼伝に「布為李傕所敗,從布東奔徐州,領魯相,時年二十八」とあるくらい。山なので使い物にならず、争奪の対象にならなかったのだろう。ほんとは兗州に豫州がメリこんだ部分なのだが、兗州とセットにしてしまう。実際の群雄の争いで、遠隔地を治めるには、特別の努力が必要だっただろうから。歴史がある区画は、実際の遠近とはズレてしまう。

「曹操が攻め取られやすい、兗州の部分」という括りで、ひとつにまとめる。というか、面積がせまいのが、併合のいちばんの理由。まんなかにある任城の地名を取ろう。
反対に、「曹操が攻め取られにくい、兗州の部分」というのは、西どなりの済陰である。ここは、程昱・夏侯惇が治めており、曹操の原資となったようである。

06東平国(無塩→寿張)

漢代の治所は無塩だが、魏代は寿張。黄初四年、廬江王の曹徽が寿張に封じられ、東平郡は東平国となった。
曹操が兗州に入った直後から、寿張で黄巾を破り、早くから曹操が程昱を寿張令としている。「初期の曹操の領土」としての、マップ「東郡」の区画に併合する。

07済北国(盧県)

建安十七年、皇子の劉邈を封じて、郡から国となる。魏が受禅すると、劉邈は列侯となり、国は除かれ郡となる。明帝期、曹植の子・曹志が、陳から済北に移され、また国となる。

後漢では、東阿が済北に属した。済北相といえば鮑信。東郡太守の曹操と、済北相の鮑信は、東阿を共有していた(境界線上に置いた)ことが分かる。
谷城は、後漢は東郡、曹魏では済北であり、境界線が変動する。ぼくのマップでは、「済北から、東阿県だけを東郡に移した」という、過渡期的な情況で境界線をひく。
…とも思ったけど、済北と東郡が異なる勢力に分かれて争ったことがないから、済北も「東郡」に併合しよう。

08泰山郡(奉高)

麋竺伝 注引:曹公集載公表曰「泰山郡界廣遠、舊多輕悍、權時之宜、可分五縣爲嬴郡、揀選清廉以爲守將。偏將軍麋竺、素履忠貞、文武昭烈、請以竺領嬴郡太守、撫慰吏民。」

泰山郡は嬴県をふくむ。麋竺伝によると、麋竺が嬴郡太守となる。

泰山郡は東平陽県をふくむ。前漢の県で、後漢で廃されたが、魏がまた立てた。『晋書』羊祜伝によると、泰山郡の平陽ら5県を「南城郡」とした。魏代に平陽県があったことが分かる。

おわりに

『続漢書』地理志と比べると、『続漢書』と異同なし。
曹操は、呂布から兗州を奪還したと思ったら、すぐに豫州に本拠地を移してしまうし、官渡のとき兗州は袁紹に抵抗してくれなかったし、初めの本拠地にしては、あまり関係性が深くない。
建安十七年、「奪おうと思うなら、いちど与えろ」という曹操の劉氏に対する政策は、兗州をつかって行われた。03済陰・04山陽・07済北である。あとひとりは徐州の東海に封じられた。曹操にとってみれば、重要な土地だけれど、本拠地として頼ることはなかった(できなかった)土地なのかも知れない。160228

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徐州(郯→下邳)

州治は、郯県(東海)から、下邳(下邳)に移された。

『晋書』地理志:徐州。案禹貢海岱及淮之地,舜十二牧,則其一也。於周入青州之域。春秋元命包云:「天氐流為徐州。」蓋取舒緩之義,或云因徐丘以立名。秦兼天下,以置泗水、薛、琅邪三郡。楚漢之際,分置東陽郡。漢又分置東海郡,改泗水為沛,改薛為魯,分沛置楚國,以東陽屬吳國。景帝改吳為江都,武帝分沛、東陽置臨淮郡,改江都為廣陵。及置十三州,以其地為徐州,統楚國及東海、琅邪、臨淮、廣陵四郡。宣帝改楚為彭城郡,後漢改為彭城國,以沛郡之廣戚縣來屬,改臨淮為下邳國。及太康元年,復分下邳屬縣在淮南者置臨淮郡,分琅邪置東莞郡。州凡領郡國七,縣六十一,戶八萬一千二十一。

始皇帝が天下を統一して36郡を置くと、泗水・薛・瑯邪の3郡が置かれた。楚漢戦争のとき、東陽郡が置かれた。漢代に東海郡を分けた。泗水を沛と改め、薛を魯と改めた。沛を分けて楚国を置いた。東陽を呉国に属させた。景帝のとき、呉を江都と改めた。武帝のとき、沛・東陽を分けて臨淮郡を置いた。江都を広陵と改めた。
武帝が十三州を置いたとき、楚国・東海・瑯邪・臨淮・広陵の5郡国があった。
宣帝のとき、楚を彭城郡と改め、後漢では彭城国となった。彭城国には、沛郡の広戚県を属させた。臨淮を下邳国と改めた。
太康元年(280) また下邳から、淮水より南にある県を分けて臨淮郡をおいた。瑯邪郡を分けて東莞郡をおいた。

徐州はフロンティアなので、漢代の変遷がはげしい。三国志の世界を表現するために、どのようにマップに落とすのか、詳しく考えたい。


01下邳郡(下邳)

漢代は国だった。黄初三年、魯陽の曹宇が封じられた。黄初五年、曹宇が単父県に封じられ、郡にもどった。
下邳県は、『元和志』によれば、城は三重にある。曹操が呂布を白門で捕らえたが、これは大城の南門である。中白は呂布が守っていた。『水経注』にも見える。
淮陵県がある。公路城がある。渦口(渦水の合流点)がある。

02彭城郡(彭城)

漢代は国だった。曹操のとき(劉氏の皇族を追い出して)国から郡となる。黄初四年、義陽王の曹拠を封じた。太和六年、郡から国となる。
彭城県は、徐州刺史の治所である。呂布城がある。呂梁の西岸にある。曹公城が東岸にある。

陶謙伝に曹操の虐殺を「初平四年,太祖征謙,攻拔十餘城,至彭城大戰。謙兵敗走,死者萬數,泗水為之不流」と記す。武帝紀に「九月,公東征布。冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊」とある。下邳にいる陶謙・呂布と戦うとき、まず曹操が攻めるところ。
彭城郡は、沛国と隣接する。沛国は、漢代は広かったが、魏代には譙郡に多くを持って行かれる。沛国も、劉備が呂布を、呂布が劉備を置いたように、下邳から出たところである。彭城と位置づけが似ている。
彭城郡は県が少なく、魏代の沛国も県が少ない。そこで、彭城郡と、魏代の沛国をくっつける。魏代の沛国には、蕭県・相県が含まれない。しかし、蕭県は光武帝の封地であり、相県は後漢代の沛国の治所であり、沛国に還してもらう。そのほうが境界がなめらかになるし。

03東海国(郯県)

太和六年、館陶王の曹霖を封じた。
襄賁県がある。建安十一年、東海の襄賁・郯県・戚県を割いて、瑯邪国に足した。建安二十一年、瑯邪国が除かれて、3県はもとの東海郡に還された。
利城県がある。建安三年、曹操が郡をつくった。黄初六年、利城郡の兵の蔡方らが叛し、太守の徐質を殺した。のちに利城郡が見えないから、廃されたか。

04瑯邪郡(開陽)

太和六年、句陽王の曹敏を封じて、郡から国となった。
華県がある。臧覇伝によると、泰山の華県のひと。郭頒『世語』によると、曹嵩は泰山の華県にいた。『晋志』にはあるが、『続漢志』にはない。
『続漢志』によると、西海・諸県の2県がある。杜預が『左伝』に注釈して、諸県は城陽郡だという。魏および晋初には、諸県は城陽郡に属したのか。

05東莞郡(東莞)

建安初、曹操は瑯邪・斉郡〔・北海・泰山〕を分けて東莞郡を置いた。治所は東莞であった。

武帝紀の建安三年:太山臧霸孫觀吳敦尹禮昌豨、各聚衆。布之破劉備也、霸等悉從布。布敗、獲霸等、公厚納待。遂割青徐二州附於海、以委焉。分瑯邪東海北海、爲城陽利城昌慮郡。


東安県がある。杜畿伝の注によると、郭智は東安太守となった。けだし東安県は東安郡に昇格し、のちに省かれたのだろう。『太康地志』に従えば、県である。

06広陵郡(広陵)

漢代は郡治は広陵であり、漢末に射陽に移す。やがて広陵にもどす。黄初期、淮陰にうつす。
魏は9県を領して、のちに呉に属した。孫亮の建興二年、衛尉の馮朝に、広陵で城を築かせた。
安平県がある。白水陂があり、鄧艾が立てた。食いの破釜塘とあい連なり、8つの水門を開き、屯を立てて、田を灌すること12,000頃。石鼈城があり、これも鄧艾が築いたもの。
射陽県がある。公路浦がある。『水経注』のいう淮口はここである。袁術が九江にゆき、袁譚のところ奔るとき、ここの浦に出たから、この名がある。
海西県・淮浦県がある。徐宣伝によると、海西・淮浦の2県の民が乱をおこし、都尉の衛弥が依るににげた。このとき都尉が置かれていたことが分かる。

『続漢志』によると、江都・高郵・塩瀆の3県がある。
『水経注』淮水によると、広陵の東北は、山陽の湖道に至り、くだって精湖にそそぐ。
蒋済『三州論』によると、淮・湖は紆遠で、水陸は路を異にするから、山陽は通ぜずと。全祖望曰く、黄初六年、呉を伐ち、郡は還って精湖にきたが、水が枯れた。そこで蒋済は地をうがって船をあつめ、堤防をつくって湖の水をせきとめ、淮水にそそいで(曹丕軍の船を進ませた)。これは射陽のことである。

おわりに

臨淮郡は、『三国会要』には見えないが、歩隲(淮陰県)・魯粛(東城県)の出身地として『陳志』本文に見える。『歴史地図集』によれば、魏代において、淮陰県は広陵郡、東城県は下邳郡である。うまくいかんなあ。

魯粛が臨淮のひとというのは、晋代の区画によるものか。
『歴史地図集』も、後漢・三国・西晋の3つを見比べないと、つくりたい地図が作れない。困難だけど、おもしろいなあ。

『続漢書』では、東海郡・瑯邪国・彭城国・広陵郡・下邳国の5つしか、徐州に見えない。『晋書』地理志にあるとおり、5つだけである。『三国会要』は曹操が東莞郡を新設したというから、5+1=6で、つじつまは合っている。

『陳志』明帝紀:六年春二月、詔曰「古之帝王、封建諸侯、所以藩屏王室也。詩不云乎『懷德維寧、宗子維城』。秦漢繼周、或彊或弱、俱失厥中。大魏創業、諸王開國、隨時之宜、未有定制、非所以永爲後法也。其改封諸侯王、皆以郡爲國。」

太和六年(232) の詔によって、郡が国に置き換えられている。これは画期だ。曹魏の封建の政策は、論文を読まないと。160228

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青州(臨菑)

治所は臨菑。

『晋書』地理志:青州。案禹貢為海岱之地,舜置十二牧,則其一也。舜以青州越海,又分為營州,則遼東本為青州矣。周禮:「正東曰青州。」蓋取土居少陽,其色為青,故以名也。春秋元命包云:「虛危流為青州。」漢武帝置十三州,因舊名,歷後漢至晉不改。州統郡國六,縣三十七,戶五萬三千。

漢の武帝が置いたときのまま、晋代まで改めず。

01斉国(臨菑)

漢代の旧国。建安十一年、国を除いて郡とする。青龍三年(236)、曹芳を斉王として、郡を国とした。曹芳が皇帝となると郡にもどす。嘉平六年(254)、曹芳を斉王にもどして、郡から国となる。

東安平県がある。漢代は北海郡に属したが、『宋志』によると魏代に北海から斉郡に移った。
新沓県がある。景初三年、遼東の東沓県の民が渡海して、ここに住んだので、県を新設した。
新汶県がある。正始元年、遼東・汶北・豊県の民が渡海した。斉郡の西安・臨菑・昌国から切りとって新汶県をたて、南豊県に住まわせた。
南豊県がある。『水経注』によると、司馬懿が公孫淵をうつと、北豊県のひとが移ってきたから、この県名に改めた。

武帝紀に、「秋八月,公進軍黎陽,使臧霸等入青州破齊、北海、東安,留于禁屯河上」とある。東安は、臨菑(斉郡の郡治)のとなり。北海と同一の区画とする。

02済南郡(東平陵)

正始七年、任城王の曹楷を封じて郡から国となる。
『晋書』によると、魏が蜀を平らげると、豪将の家を済北の北に移して、ゆえに済岷県といった。しかし『太康地志』にはなく、未詳である。

03楽安郡(高宛)

漢代は臨済、晋代は高宛を治所として、『三国会要』としては魏代は未詳。『歴史地図集』によると、高宛を治所とする。
太和六年、陽平王の曹蕤を封じて国となる。

夏侯淵伝に「濟南、樂安黃巾徐和、司馬俱等攻城,殺長吏」とある。何夔伝に「海賊郭祖寇暴樂安、濟南界,州郡苦之」とある。済南と楽安はくっつける。

04城陽郡(東武)

建安三年、北海・瑯邪を分けて置く。海沿いです。

武帝紀:遂割青徐二州附於海、以委焉。分瑯邪東海北海、爲城陽利城昌慮郡。

『寰宇記』によると、曹叡が立てたとするが、曹操の誤りである。

東武県がある。侯国。『寰宇記』によると、城陽の郡治は東武である。『元和志』によると、曹魏は瑯邪からはぶいて、東武を城陽に入れた。
莒県がある。曹公城がある。『元和志』によると、曹操が陶謙を征したとき、5城を抜き、東海を略地した。そのき築いた城である。

平昌県がある。『宋志』によると、曹丕が城陽を分けて平昌郡をおいた。孫礼伝によると、孫礼が平昌太守となる。しかし『太康地志』には、平昌県は城陽郡に属している。すぐに廃されたのだろう。

05東莱郡(黄県)

黄県がある。大人城がある。『元和志』によると、司馬懿が遼東を征伐したとき、ここに城を作って、糧を運ぶ船をここから入れた。
境界は、曹魏にしたがう。
 

おわりに

『続漢書』には、平原郡があるが、『三国会要』にない。
『晋書』には長広郡がある。魏代に、東莱・北海を分けて置かれたものである。何夔伝、管輅伝の注、『太康地志』に見える。160228

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荊州(漢寿→宛)

『三国会要』を見ながら作ってますが、あくまで全体の見通しを立てるためです。完成させるためには、県の範囲を確定させていかないと。『歴史地図集』に基づき、『三国会要』『続漢書』『晋書』の県名を見比べて、いつ時点の郡国の境界線をマップに落とし込むか決めていかないと。

『晋書』地理志:荊州。案禹貢荊及衡陽之地,舜置十二牧,則其一也。周禮:「正南曰荊州。」春秋元命包云:「軫星散為荊州。」荊,強也,言其氣躁強。亦曰警也,言南蠻數為寇逆,其人有道後服,無道先強,常警備也。又云取名於荊山。六國時,其地為楚。及秦,取楚鄢郢為南郡,又取巫中地為黔中郡,以楚之漢北立南陽郡,滅楚之後,分黔中為長沙郡。漢高祖分長沙為桂陽郡,改黔中為武陵郡,分南郡為江夏郡。武帝又分長沙為零陵郡。及置十三州,因舊名為荊州,統南郡、南陽、零陵、桂陽、武陵、長沙、江夏七郡。

秦が楚の鄢郢を南郡とし、巫中地を黔中郡とした。楚の領土のうち漢水より北に南陽郡をたてた。楚を滅ぼした後、黔中を分けて長沙郡を立てた。
漢高祖は、長沙を分けて桂陽郡を、黔中を分けて武陵郡を、南郡を分けて江夏郡をつくった。漢武帝は、長沙を分けて零陵郡をつくった。漢武帝が十三州を置いたとき、荊州は、南郡・南陽・零陵・桂陽・武陵・長沙・江夏の7郡があった。

だんだん南方に郡を増やしていくのが分かる。


後漢獻帝建安十三年,魏武盡得荊州之地,分南郡以北立襄陽郡,又分南陽西界立南鄉郡,分枝江以西立臨江郡。及敗於赤壁,南郡以南屬吳,吳後遂與蜀分荊州。於是南郡、零陵、武陵以西為蜀,江夏、桂陽、長沙三郡為吳,南陽、襄陽、南鄉三郡為魏。而荊州之名,南北雙立。

建安十三年、曹操が南郡の北を分けて襄陽郡とし、

襄陽郡は、ふたつの意義を持たせられる。①劉表が単身で乗りこんだときの本拠地。北に南陽郡があるが、ここには袁術がいた。袁術を追い払った後も、張済・劉備をここに置いた。②曹操の領土の南端。「南郡のうち、曹操が領有できたところを襄陽郡とした」というのが、本当の成り立ち。

南陽郡を分けて南郷郡・臨江郡を立てた。曹操が赤壁に敗れると、南郡より南は孫呉に帰属し、その後は蜀と荊州を分割した。南郡・零陵・武陵は蜀に、江夏・桂陽・長沙は呉に、南陽・襄陽・南郷は魏に属した。

@Jominian さんはいう。諸葛亮は長沙、桂陽、零陵の三郡を治めたが、その治所は臨蒸に置かれた。河川の集まる場所なので物流をコントロールするのには十分だが、それならもっと北の長沙郡治でも良いはずである。漢昌郡の領域というのは、後の湘東郡境くらいまで南に広がっていたのではないか?


蜀分南郡,立宜都郡,劉備沒後,宜都、武陵、零陵、南郡四郡之地悉復屬吳。魏文帝以漢中遺黎立魏興、新城二郡,明帝分新城立上庸郡。孫權分江夏立武昌郡,又分蒼梧立臨賀郡,分長沙立衡陽、湘東二郡。孫休分武陵立天門郡,分宜都立建平郡。孫晧分零陵立始安郡,分桂陽立始興郡,又分零陵立邵陵郡,分長沙立安成郡。荊州統南郡、武昌、武陵、宜都、建平、天門、長沙、零陵、桂陽、衡陽、湘東、邵陵、臨賀、始興、始安十五郡,其南陽、江夏、襄陽、南鄉、魏興、新城、上庸七郡屬魏之荊州。及武帝平吳,分南郡為南平郡,分南陽立義陽郡,改南鄉為順陽郡,又以始興、始安、臨賀三郡屬廣州,以揚州之安成郡來屬。州統郡二十二,縣一百六十九,戶三十五萬七千五百四十八。

蜀は南郡を分けて宜都郡を立てた。劉備の没後、蜀の4郡(宜都、武陵、零陵、南郡)は、呉に復した。
曹丕は、魏興・新城を立てた。曹叡は、新城郡を分けて、上庸郡を立てた。
孫権は、江夏を分けて武昌郡を立て、蒼梧を分けて臨賀郡を立て、長沙を分けて衡陽・湘東を立てた。孫休は、武陵を分けて天門郡を立て、宜都を分けて建平郡を立てた。孫皓は、零陵を分けて始安郡を立て、桂陽を分けて始興郡を立て、零陵を分けて邵陵郡を立て、長沙を分けて安成郡を立てた。

孫休・孫晧がつくった、天門・建平・始安・始興・邵陵・安成は、ぼくの地図には要らないだろう。『歴史地図集』でも、呉の反映されていない。西晋のほうを見れば反映されているが。
孫権が立てた武昌郡は、呉の首都圏のための郡であって、範囲はせまい。

荊州は15郡である。南郡・武昌・武陵・宜都・建平・天門・長沙・零陵・桂陽・衡陽・湘東・邵陵・臨賀・始興・始安である。うち7郡(南陽、江夏、襄陽、南郷、魏興、新城、上庸)が魏だった。平呉すると、南郡を分けて南平郡を立て、南陽を分けて義陽郡を立て、南郷郡を改めて順陽郡とした。また、始興・始安・臨賀を交州に属させ、揚州の安成郡を荊州に組み入れた。

01南陽郡(宛)

ひろすぎる。

◆義陽郡
西晋では、南陽の南部を切り取って「義陽郡」をつくる。割拠の地図をつくるため、この境界線を借りてくる。宛県をふくむ、もとの南陽の北部を「南陽」とし、西晋で義陽郡になるところを、その治所の名をとって「新野」とする。
 

02南郷郡(南郷)

曹操が荊州を平定すると、南陽の西を分けた。『方輿紀要』によると、魏は順陽を治所にしたという。未詳。

三国時代に独自の勢力が、南郷に拠って立ったことはなく、ぼくの地図で分けるべきが不明。むしろ、荊州の郡数が少ないことを嫌って、魏が形式的に増やしたのではないか。しかし8県もあるから、大きすぎる南陽を分けたというのが実際かも知れない。
鍾繇伝にひく『先賢行状』に、鍾晧のこととして、「前後九辟三府,遷南鄉、林慮長,不之官」とある。これ以外、「南郷」は、爵位の名前として出てくるだけ。

03江夏郡(西陵→石陽)

もとは西陵を治所としたが、曹操が文聘を太守にして、石陽に屯させた。石陽は、呉との国境の最前線である。『沈志』によると、石陽県を置いたのは呉だが、魏に入った。太和元年、南部都尉が置かれた。
安陸県は、建安期に呉に入ったが、青龍期に魏にもどる。

04襄陽郡(襄陽)

建安十三年、曹操が南郡を分けて置いた。景初元年、南部都尉を置いた。

05魏興郡(西城)

建安二十年、漢中から安陽・西城をわけて「西城郡」を置く。曹丕のとき、西城を魏興郡に改める。

06上庸郡(上庸)

建安二十年、漢中に上庸都尉をおいた。やがて郡に改めた。

07新城郡(房陵)

黄初元年、曹丕は房陵・上庸を合わせて置いた。房陵を治所とする。

呉蜀の荊州は、のちほど追記。160229

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揚州(寿春・)

もとの治所は歴陽。のちに寿春。建安初、合肥に移す。

『晋書』地理志:秦始皇並天下,以置鄣、會稽、九江三郡。項羽封英布為九江王,盡有其地。漢改九江曰淮南,即封布為淮南王。六年,分淮南置豫章郡。十一年,布誅,立皇子長為淮南王,封劉濞為吳王,二國盡得揚州之地。文帝十六年,分淮南立廬江、衡山二郡。景帝四年,封皇子非為江都王,並得鄣、會稽郡,而不得豫章。武帝改江都曰廣陵,封皇子胥為王而以屬徐州。元封二年,改鄣曰丹楊,改淮南複為九江。

始皇帝が天下を平定すると、鄣・会稽・九江を置く。項羽が、英布を九江王に封じると、3郡をすべて領有した。
漢は、九江を淮南郡と改め、英布を淮南王に封じた。六年、淮南郡を分けて、豫章郡を置いた。十一年、英布が誅されると、皇子の劉長を淮南王に封じ、劉濞を呉王にした。淮南・呉の2国は、揚州をことごとく領有した。漢文帝の十六年、淮南郡を分けて、廬江・衡山を立てた。漢景帝の四年、皇子を封じたが江都王とせず、鄣郡・會稽を与えたが、豫章は与えなかった。
武帝のとき、江都を改めて廣陵郡とし、皇子の劉胥を王に封じたが、広陵国は徐州に管轄させた。元封二年、鄣郡を改めて丹楊郡とし、淮南郡を改めて再び九江郡とした。

広陵というのが、もとは揚州だったが、徐州に入った。開発が進んで、北に押し上げられたのだろう。


後漢順帝分會稽立吳郡,揚州統會稽、丹楊、吳、豫章、九江、廬江六郡,省六安並廬江郡。獻帝興平中,孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立鄱陽郡,分丹楊立新都郡。孫亮又分豫章立臨川郡,分會稽立臨海郡。孫休又分會稽立建安郡。孫皓分會稽立東陽郡,分吳立吳興郡,分豫章、廬陵、長沙立安成郡,分廬陵立廬陵南部都尉,揚州統丹楊、吳、會稽、吳興、新都、東陽、臨海、建安、豫章、鄱陽、臨川、安成、廬陵南部十四郡。 江西廬江、九江之地,自合肥之北至壽春悉屬魏。及晉平吳,以安成屬荊州,分丹楊之宣城、宛陵、陵陽、安吳、涇、廣德、甯國、懷安、石城、臨城、春穀十一縣立宣城郡,理宛陵,改新都曰新安郡,改廬陵南部為南康郡,分建安立晉安郡,又分丹楊立毗陵郡。揚州合統郡十八,縣一百七十三,戶三十一萬一千四百。

漢順帝のとき、会稽を分けて呉郡を立てた。揚州は会稽・丹楊・呉・豫章・九江・廬江の6郡となる。興平期、孫策は豫章を分けて、廬陵郡を立てた。孫権は豫章を分けて鄱陽郡を立て、丹楊を分けて新都郡を立てた。

地図に織りこむなら、ここまでだろう。

孫亮は豫章を分けて臨川郡を立てた。孫休は会稽を分けて建安郡を立てた。孫皓は会稽を分けて東陽郡を立て、呉郡を分けて吳興郡を立てた。豫章・廬陵・長沙を切り分けて安成郡を立てた。廬陵を分けて廬陵南部都尉を立てた。
晋が平呉すると、安成を荊州に属させた。丹陽を分けて宣城郡をつくり、……

01淮南郡(寿春)

合肥県をふくむ。
後漢の九江郡を、魏は淮南と改めた。『宋志』にみえる。
寿春は、揚州刺史の治所。『文選』にひく『江都図経』には、江西の寿春は魏に属し、揚州刺史が寿春に鎮したとある。
鍾離県がある。『呉歴』によると、馬茂は、もとは淮南の鍾離の県長であった。つまり魏の中期には、鍾離県が廃されたということ。
合肥県には、新旧の2城がある。また蔵船浦・西津橋がある。

『続漢志』によると、陰陵・浚遒の2県がある。ここには逍遙津があり、張遼が孫権を破ったところ。塗陽城がある。
歴陽県がある。横江浦・洞口浦があり、曹休・張遼が呉を伐ったところ。当利浦・濡須塢・烏江がある。『宋志』によると、魏呉が争って、江淮のあいだは数百里も住民がいなくなった。このあたりは、民戸がなくて久しく廃れた。

02廬江郡(舒→皖→陽泉)

建安末に、治所を陽泉にうつす。
陽泉県には、陽宜口がある。陸遜が廬江を伐ったとき、満寵が陽宜口に趨った。

潜県があり、潜山がある。袁術が部曲の陳蘭・雷薄のもとに奔ったのは、ここである。
皖県がある。呉塘坡がある。『寰宇記』によると、曹操が朱光に皖県に屯させ、稲田を開かせた。呉領堰があり、刺史の劉馥は芍陂・茹陂の七門をひらいて、稲田を灌させた。のちに呉に属した。
呂蒙が廬江太守となり、皖県に屯した。諸葛恪もここに屯し、司馬懿に攻められて柴桑で退いた。

居巣県は、建安期に曹操が屯した。夏侯惇・曹仁・張遼・臧覇も屯した。のちに呉に属した。
钁里があり、孫綝が朱異を殺したのはここ。『湯志』によると、皖県・居巣の2県は、建安期にすでに呉に属しており、呉の蘄春郡の配下とすべきである。なるほど。

龍舒県がある。七門堰があり、劉馥が修築した。龍舒水を断って、田5千頃を灌した。

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雍州(武威→長安)

建安初年、涼州の河西4郡を分けて置く。もとの治所は武威、魏は長安とした。

『晋書』地理志:……及武帝置十三州,其地以西偏為涼州,其餘並屬司隸,不統於州。後漢光武都洛陽,關中複置雍州。後罷,複置司隸校尉,統三輔如舊。獻帝時又置雍州,自三輔距西域皆屬焉。魏文帝即位,分河西為涼州,分隴右為秦州,改京兆尹為太守,馮翊、扶風各除左右,仍以三輔屬司隸。晉初於長安置雍州,統郡國七,縣三十九,戶九萬九千五百。

漢武帝が十三州を置くと、雍州をおかず、西は涼州、東は司隷とした。光武帝が洛陽に都すると、雍州をおく。のちに司隷校尉に入る。献帝のとき雍州をおく。(涼州を置かず)三輔より西域まで雍州とした。曹丕が即位すると、河西を涼州、隴右を秦州とした。京兆尹を太守、左馮翊を馮翊、右扶風を扶風とした。また三輔を司隷に属させた。晋初、長安に雍州を置いた。

『晋書』地理志:案《禹貢》本雍州之域,魏始分隴右置焉,刺史領護羌校尉,中間暫廢。及泰始五年,又以雍州隴右五郡及涼州之金城、梁州之陰平,合七郡置秦州,鎮冀城。太康三年,罷秦州,並雍州。七年,複立,鎮上邽。統郡六,縣二十四,戶三萬二千一百。

西晋の秦州とは、『禹貢』では雍州の領域だが、初めて魏が隴右を分けて置く。秦州刺史は、護羌校尉を領す。やがて廃された。
泰始五(269) 雍州の隴右5郡と、涼州の金城、梁州の陰平を寄せて7郡を秦州とした。冀城に鎮す。太康三年、雍州に合わせる。同七年、また分けて上邽に鎮す。
『晋書』において秦州とされるのは、隴西・南安・天水・略陽・武都・陰平である。『歴史地図集』の西晋には、秦州が表示されている。諸葛亮が当面の制圧目標とした地域に近いから、分けて認識するのは、おもしろいかも。

01京兆郡(長安)

黄初二年、曹礼を晋公として、京兆郡を国とした。正始五年、また郡とする。

02馮翊郡(高陵→臨晋)


03扶風郡(槐裏)

東漢・曹魏の扶風を、五丈原で東西に分割する。こんな郡国の境界は、いちども引かれたことがない。西晋では、扶風は南北に分割される(南部は始平国とする)が、それとも違う。
ひとえに、諸葛亮の勢力範囲を表すためだけの区画。

04北地郡(泥陽)

『元和志』によると、曹魏は、馮翊のもとの__県に北地郡を置いた。_717
董卓伝「卓豫施帳幔飲,誘降北地反者數百人,於坐中先斷其舌,或斬手足」と、征服したところ。李傕は北地のひと。蘇則伝に「則世為著姓,興平中,三輔亂,飢窮,避難北地。客安定,依富室師亮」とある。避難する、やや独立した地域だったか。

『歴史地図集』東漢と曹魏を見比べると、後漢の北地は、曹魏の地図では、異民族の地域になっている。実質的に失われた地域の地名を、左馮翊のなかに置き直しただけである。ぼくの地図には、表現しなくていい。

05新平郡(漆県)

興平元年(194) 安定郡の鶉觚県、右扶風の漆県をわけて設置。『続漢書』郡国志五より。

『陳志』巻二 文帝紀にひく『魏略』に「王將出征、度支中郎將新平霍性上疏諫曰」と、霍性の出身地として出てくる。
『陳志』巻二十三 趙儼伝に、「羌虜數來寇害、儼率署等追到新平、大破之」とある。
『陳志』巻二十三にひく『魏略』に、「及司馬宣王久病、偉爲二千石、荒于酒、亂新平、扶風二郡而豐不召、衆人以爲恃寵」とある。扶風とならんで、新平が郡として認識されている。

06安定郡(臨涇)

西川県がある。郭淮伝によると、西川都尉を置いたとある。陳景雲はいう。「西州都尉」につくるべきである。

07広魏郡(臨渭)

もとは永陽だが、曹操が広魏に改める。

08天水郡(冀県)

上邽県は、秦州刺史が置かれた。段谷があり、諸葛塁・司馬懿塁・姜維塁がある。木門があり、張郃が死んだところである。
冀県がある。閻温伝によると、馬超は涼州の州治である冀城を囲んだ。楊阜伝では、州治と郡治がどちらも冀県に置かれたとある。けだし漢末の涼州刺史はここにいた。

◆漢陽郡
天水郡の別名。『晋志』によると、天水郡は漢武帝が置いたが、明帝が漢陽に改め、また晋代に天水に戻した。『魏志』曹真伝では、すでに天水につくるが、晋代の地名を反映したのだろう。『魏志』明帝紀も天水につくる。


09隴西郡(狄道→襄武)

永初五年(111) 狄道から襄武に治所を移す。

10南安郡(ゲン道)

『続漢志』にひく『秦州記』によると、中平五年に分けて立てられた。『元和志』も同じ。『宋志』では、魏がはじめて分けて置いたとする。

建安期に曹操がやったことを「魏が」と主語で書かれると、分からなくなる。「黄初中」と「魏が」は同義のつもりでも、じつは「曹操が」を読み替えてる場合があるかも知れず、すると混乱が起きる。


『歴史地図集』東漢の漢陽郡を、曹魏では3分割する。広魏(もと永陽)・天水(漢陽の治所である冀県を含む)・南安(細長すぎる)である。
明帝紀に「蜀大將諸葛亮寇邊,天水、南安、安定三郡吏民叛應亮」とある。天水と安定のあいだには、広魏郡があるが、動向が分からない。郡名「広魏」や、郡治「臨渭」で検索してもヒットなし。「臨渭侯」が2件でてくるだけで、戦況を描写していない。
いちど、後漢なみに漢陽を1区画として、名前は天水にしておこう。面積も、不当に広くない。むしろ魏が分けすぎ。

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涼州(武威)

建安十八年(213) 省いて雍州に入るが、曹丕が置きなおす。

匈奴既失甘泉,又使休屠、渾邪王等居涼州之地。二王后以地降漢,漢置張掖、酒泉、敦煌、武威郡。其後又置金城郡,謂之河西五郡。漢改周之雍州為涼州,蓋以地處西方,常寒涼也。地勢西北邪出,在南山之間,南隔西羌,西通西域,于時號為斷匈奴右臂。獻帝時,涼州數有亂,河西五郡去州隔遠,於是乃別以為雍州。末又依古典定九州,乃合關右以為雍州。魏時複分以為涼州,刺史領戊己校尉,護西域,如漢故事,至晉不改。統郡八,縣四十六,戶三萬七百。 匈奴の二王が漢に降ると、張掖・酒泉・敦煌・武威を置いた。のちに金城を置き、「河西五郡」とよぶ。
献帝のとき、涼州で反乱が起こり、河西五郡は遠隔地なので、雍州として切り出した。『禹貢』の雍州と領域が異なるので、曹丕が直した。曹丕は遠隔地を涼州として、涼州刺史は戊己校尉を領した。西域を護すること漢の故事のごとし。晋も同じ。

01金城郡(允吾→楡中)

允街県があり、広武城がある。郭淮が尭治・無戴を破ったのはここである。『水経注』にみえる。
『続漢志』によると、允吾・令居・枝陽・破羌の4県がある。

02武威郡(姑臧)

03張掖郡(_得)

04酒泉郡(福禄)

05敦煌郡(敦煌)


06西海郡(居延)

もと張掖居延属国である。建安期、郡となった。居延1県のみ。
『晋志』はいう。興平二年、武威太守の張雅が置くことを請うた。けだし興平期に置くことが請われ、建安末にはじめて置かれたのだろう。

07西平郡(西都)

建安期、金城を分けて置く。
『晋志』によると、曹操が置いた12郡のうちの1つ。『通典』『元和志』『寰宇記』はいずれも建安期(曹操が)置いたとする。『水経注』だけが黄初期(曹丕が)置いたとする。
西都県は、魏が破羌県を分けて置いた。

とりあえず後漢ベースで金城郡から分けずにおき、必要だったら分ける。明帝紀に「西平麴英反,殺臨羌令、西都長,遣將軍郝昭……」とある。つくるとしたら、麹英のための区画である。
張既伝に「是時,武威顏俊、張掖和鸞、酒泉黃華、西平麴演等並舉郡反,自號將軍,更相攻擊」とある。やはり麹氏のための区画である。

08西郡(日勒)

建安期、張掖の日勒県だけを分けて西郡を立てた。

『范書』列伝三十七 梁慬伝にひく李賢注に、「日勒,縣名,屬張掖郡,故城在今甘州刪丹縣東南」とある。『続漢書』郡国志五では、張掖郡に属している。

『寰宇記』によると、興平二年に分けて立てられた。日勒・刪丹の2県がある。

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并州(晋陽)

建安十八年(九州制により)冀州に編入された。黄初元年、また置かれた。治所は晋陽。

『晋書』地理志:漢武帝置十三州,並州依舊名不改,統上黨、太原、雲中、上郡、雁門、代郡、定襄、五原、西河、朔方十郡,又別置朔方刺史。後漢建武十一年,省朔方入並州。靈帝末,羌胡大擾,定襄、雲中、五原、朔方、上郡等五郡並流徙分散。建安十八年,省入冀州。二十年,始集塞下荒地立新興郡,後又分上党立樂平郡。魏黃初元年,複置並州,自陘嶺以北並棄之,至晉因而不改。並州統郡國六,縣四十五,戶五萬九千二百。

漢武帝が十三州を置いたとき、上党・太原・雲中・上郡・雁門・代郡・定襄・五原・西河・朔方の10郡。また別に朔方刺史を置いた。後漢の建武十一年、朔方刺史を除き、并州刺史に入れた。霊帝の末年に、羌胡が叛乱し、5郡(定襄・雲中・五原・朔方・上郡)は支配が届かず。 建安十八年、并州を廃して冀州に編入した。建安二十年、新興郡をつくり、上党郡から楽平郡を分けた。黄初元年、また并州をおく。晋代も同じ。

01太原郡(晋陽)

晋陽は侯国で、黄初元年、張遼が封じられた。
『歴史地図集』東漢に見える県のうち、三国魏で消えている皋狼・藺県は、この地域に漢族の支配が及んでいないと見なして、国境線を後退させた。

02上党郡(壺関)


03楽平郡(楽平)

建安二十年、新興郡をつくり、またのちに上党を分けて楽平郡を置いた。

巻十一 張臶伝:時鉅鹿張臶,字子明,潁川胡昭,字孔明,亦養志不仕。臶少游太學,學兼內外,後歸鄉里。袁紹前後辟命,不應,移居上黨。并州牧高幹表除樂平令,不就,徙循常山,門徒且數百人,遷居任縣。


04西河郡(慈氏)

西河郡は、鮮卑に押されて、後漢よりだいぶ狭くなってしまった。九原郡にあわせる。
 

05雁門郡(広武)

06新興郡(九原)

雁門は張遼の故郷なので、ネームバリューがある。九原は、『歴史地図集』東漢には、城すらない。鮮卑に圧迫された後、人工的に(というのも変な表現だが)つくった城。雁門に併合して、いち区画とする。だとしても、面積・県数がほかと比べて大きすぎることはない。
ちなみに新興郡は、もと太原郡の東北を切り取ったもの。魏代に後漢の太原から切り取ったところを、ぼくが雁門に移したかたち。

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幽州(薊県)・平州(襄平)

建安十八年、冀州に編入された。曹丕が置き直す。

『晋書』地理志:及秦滅燕,以為漁陽、上穀、右北平、遼西、遼東五郡。漢高祖分上谷置涿郡。武帝置十三州,幽州依舊名不改。其後開東邊,置玄菟、樂浪等郡,亦皆屬焉。元鳳元年,改燕曰廣陽郡。幽州所部凡九郡,至晉不改。幽州統都國七,縣三十四,戶五萬九千二十。

戦国秦が燕を滅ぼすと、漁陽・上穀・右北平・遼西・遼東の5郡を幽州とした。漢高祖が上谷郡を分けて、涿郡を置く。

『歴史地図集』を見ると、上谷の南部(冀州に面したところ)を分けて、涿郡を置いたと分かる。涿郡は、曹丕によって范陽郡と改められる。

武帝が十三州を置いたとき、幽州は旧名のまま。東方を開拓し、玄菟郡・樂浪郡を置く。

『晋書』地理志:案《禹貢》冀州之域,于周為幽州界,漢屬右北平郡。後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。及文懿滅後,有護東夷校尉,居襄平。咸寧二年十月,分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。統縣二十六,戶一萬八千一百。

『禹貢』では冀州に属し、漢の右北平郡に属す。
後漢末、公孫度が平州牧を自号した。子の公孫康、孫の公孫淵は遼東に依り、東夷の九族を服属させた。魏は東夷校尉を襄平に屯させた。

襄平は遼東の郡治。もと公孫氏の領土を平州と見なし、東夷校尉が治めた。

遼東・昌黎・玄菟・帯方・樂浪の5郡を平州として分けた。後に幽州に戻した。

『歴史地図集』を見ると、幽州は右北平・遼西までで、昌黎郡に面する。昌黎郡よりに東が平州。楽浪・帯方が朝鮮半島にある。

咸寧二年(276) 十月、昌黎・遼東・玄菟・帶方・樂浪の5郡を平州とした。

01范陽郡(涿県)

黄初七年、涿郡から范陽郡に改められる。
遒県には、馬河がある。公孫瓚が袁紹の別将の崔巨業を追撃したのが、ここである。

02燕国(薊県)

もとは広陽郡。曹仁伝によると、広陽太守を拝す。太和六年、下邳王の曹宇を封じて、燕国に改めた。
昌平県には、護鮮卑校尉が屯した。『水経注』によると、建昌は鮮卑校尉となり、昌平件に屯した。

安楽県がある。『晋志』によると劉禅が封じられた。『地道記』も同じ。
雍奴県には、新河がある。曹操が蹋頓を征伐するとき来た。

03漁陽郡(漁陽)


04北平郡(土垠)

魏は「右北平」の「右」を取った。

05上谷郡(居庸)


06代郡(代県)


07遼西郡(陽楽)


以後は、平州となります。

01遼東郡(襄平)


02昌黎郡(昌黎)

正始五年に置かれた。遼東属国を改めて昌黎郡とする。2県しかない。

昌黎郡は広い。昌黎郡の地域が挟まることで、公孫氏は遼東で割拠できたともいえる。マップで区画を区切るなら、平州で1区画、平州まるまるで「1郡」の扱いで良さそう。このなかで勢力が分かれたことがないから。


03玄菟郡(高句麗)

公孫康は、遼東から東北に二百里のところに、句麗県を治所とした玄菟郡を置いた。

毋丘倹が討伐にいくのは、さらに東にある丸都の高句麗。


04帯方郡(帯方)

建安期、公孫康が屯有県より南の荒地に、帯方郡を置いた。

『歴史地図集』を見なかったら、公孫康が有県に屯し……、と読むところだった。アホ。朝鮮半島に郡を分けて立てるほど、公孫氏は支配を及ぼしていた。


05楽浪郡(朝鮮)


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呉の揚州(建業)

呉の州郡は、揚州・荊州・交州・広州の4州である。天紀四年(280) 4州・43郡・331県・吏32,000・兵230,000。赤烏七年(244) 兵戸931,000である。天紀四年、民戸523,000・男女2,400,000である。

『元和志』によると、孫策は建業を揚州の治所とした。14郡。
興平期に江東の諸郡を得てから、14郡に増やした。校尉・都尉は2部がある。

01丹陽郡(宛陵)

建業は、もとは秣陵といい、建安十七年に改名。
周魴伝によると、西部都尉がある。『宋書』によると、呉は湖孰・江乗をはぶいて、典農都尉とした。
丹陽には慈湖があり、笮融がここに兵を屯した。
牛渚があり、劉繇がここに兵を屯した。
丹陽は侯国で、孫皎の子の孫允が封じられた。
蕪湖は侯国で、建安末に徐盛が封じられた。黄武期に督が置かれた。県境に牛渚鎮がおかれ、蕪湖督とともに重要な拠点であった。

『通典』によると、建安十六年(211) 揚州牧が曲阿から建業に移された。
ぼくのマップでは、曲阿(毘陵都尉)を呉郡から分ける。丹陽の北部を「建業」として切り取る。

西晋では、この切り分けの境界線は、丹陽の中部を「宣城郡」として切り取るときに設けられたもの。「宣城郡」の顧邵は使わないけど、境界線だけは『歴史地図集』から借りる。

丹陽の中部を「丹陽」とする。丹陽の南部は、孫権によって「信都郡」に切り分けられる。こうして、たてに長い呉郡・丹陽を、南北に切り刻む。孫策の征圧戦を表現するために必要なので。

02新都郡(始新)

建安十三年、丹陽(の南部)を分けて置かれた。
郡治の始新県は、『沈志』によると孫権が歙県を分けておいた。

孫権が黄祖を破って、統治を充実させた時期だろうか。郡治をはじめ、配下の県も、孫権が新たに立てたものが多い。丹陽はひろく、しかも郡治は北端にある。南方に開拓する拠点として、「始新」というスローガンのような県名がつけられた。
『水経注』によると、賀斉が属を平定して、歙県の華郷に府をおいた。のちに新亭に府を移した。


03蘄春郡(蘄春)

建安初に呉が立てたが、やがて晋宗が魏に降って太守となり、魏に入った。賀斉伝によると、黄武二年、また呉が置いた。
蘄春・尋陽・皖県の3県。
尋陽は、武昌から移ってきた。呉は県境に半州都督をおいて、重鎮とした。

武昌は郡ではないので、武昌のある江夏郡から移ってきたと理解するか。荊州と揚州をまたがっているので、半州都督というのか。知りません。

皖城は、廬江郡から移ってきた。

『湯志』によると、蘄春郡は4県ある。皖県・居巣県を含む。
銭大昕はいう。『宋書』によると太康元年、蘄春郡をはぶき、安豊を改めて高陵とし、高陵・邾県をすべて武昌郡に属させたとある。ゆえに(蘄春と尋陽に、安豊と邾県を加えて)呉には4県があったのである。

04会稽郡(山陰)

士寧県は、『郡国志』によると漢末に上虞県の南郷を分けて立てた。
永興県は、漢代は余曁県といったが、呉が改名した。永興県には固陵がある。同じく柤瀆があり、王朗が孫策を拒いだところ。
餘姚県は、『水経注』によると県城を朱然がつくった。

◆臨海郡(章安)
太平二年(257) 会稽郡の東部を分割した。

章安は海沿いで、孫策の戦地でもない。区画は必要ないかも。

孫権伝には「臨海(郡の)羅陽県」という表記があるが、遡って反映させたもの。

◆建安郡(建安)
永安三年(260)、会稽郡の南部を分けた。

会稽郡が広いから、ただ形式的に分けただけ。区画いらん。

侯官(東冶)をふくむ。王朗が逃げたところ。
『文士伝』『捜神記』に孫権のとき建安太守が出てくるが疑わしい。

◆東陽郡(長山)
宝鼎元年(266)、会稽の西を分けて置いた。

05呉郡(呉県)

黄初二年、曹丕が孫権を呉王に封じる。県は13。
雲陽県をふくむ。孫権伝によると、嘉禾三年、曲阿を改めて雲陽とし、朱拠を封じた。

◆毘陵典農都尉
『歴史地図集』三国呉によると、雲陽(曲阿から嘉禾三年に改称)のあたりは、毗陵典農校尉として、呉郡の北部を切り出している。

劉繇の勢力圏を表すのに、ちょうどいいから、区画を設けようか。

『宋書』によると、呉は呉郡を分け、無錫より西に屯田をつくり、典農都尉を置いた。顧承伝によると、呉郡西部都尉となる。けだし、呉郡西部都尉というのが、毘陵典農都尉のことだろう。
武進県がある。もとは丹徒県といい、嘉禾三年に改めた。『元和志』によると、呉のとき「京城」と呼んだり、「徐陵」と呼んだりした。
雲陽県がある。もとは曲阿県といい、嘉禾三年に改めた。顧邵伝によると、張秉は雲陽太守になったという。けだし、かつて雲陽郡があったのだろう。

◆呉興郡(烏程)
宝鼎元年(266)、丹陽・呉郡を分けて呉興郡をつくる。
烏程県がある。石城山があり、厳白虎がこの山のもとに石をかさねて城をつくり、呂蒙と戦った。

呉末の強がりなので、区画は要らない。もしくは、呉興郡は9県もあるし、厳白虎の領土として、呉郡の南部・丹陽の西部を切り取るか。


06豫章郡(南昌)

賀斉伝によれば、豫章東部(都尉?)があった。
郡治の南昌は、侯国。劉繇城がある。斉王城があり『輿地志』によれば、孫賁が斉王となったとき居た。『豫章記』によると、椒邱城があり、華歆が築いたもの。
西安県がある。『寰宇記』によると、海昏県を分けて立てた。幕浮山がある。『呉書』によると、劉表の子の劉盤は、艾県より西を寇したので、呉は海昏・建昌の左右6県をわけて、太史慈を建昌都尉として、諸将を督して劉盤を拒がせ、ここの山に営幕を置いたから「西安」という名になった。

海昏県とは、豫章の東端。おそらく、荊州との接点である西方には、ろくに県(防衛拠点)がなかったから、劉盤が入ってきた。そこで、太史慈に出張らせて、荊州にフタをした。 豫章の区画のトップが、劉繇→太史慈に変わる。

彭澤県がある。呂範伝によると、呂範は彭澤太守となり、彭澤・柴桑・歴陽を封邑として、柴桑に屯した。けだし孫権が「彭澤郡」を立てたのだろう。のちに呂範が丹陽を領したので、郡は省かれた。

豫章郡は東北にツノのように領域が張り出しており、廬江・丹陽と接している。彭澤とは、このあたり。柴桑も隣接する。というか、孫権が居城として武昌郡(のち江夏郡)に入れるまで、柴桑は豫章郡の一部であった。


07廬陵郡(西昌)

建安元年、孫策は豫章を分けて置く。孫賁の弟の孫輔を廬陵太守とした。

北緯26度より南は、作らなくていいかなー。ここで区切れば、孫策が設置した廬陵軍を表示でき、荊州では零陵郡まで入る。
もしくは、北緯28度で切って、長沙までは見えるようにするか。蜀は、北緯28度が、ちょうど益州と庲降都督の境界ぐらい。北緯28度は、けっこういいかも。


◆廬陵南部都尉:孫晧が置いた。

08鄱陽郡(鄱陽)

建安十五年、豫章を分けて置く。

◆臨川郡(南城)
太平二年、豫章の東部を分けて置く。

◆安成郡(平都)
宝鼎二年、豫章・廬陵・長沙を分けて置く。

おわりに

若林幹夫『地図の想像力』を読んだ。地図とは客観的な事実の反映ではない。作成者がいかに現実を見ているか(=思想)を反映し、作られた地図は逆に現実を規定していくという話。現実を規定するのだから、地図は「権力」ともいえる。思想にして権力。なるほど。
この三国志のマップには、ぼくの見方が不可避的に反映されるし、その地図を見たひとの三国志にかんする認識にフィードバックされるのかも。この地図に基づいて物語をつくり、それが読まれたら、さらに影響を与えるのかも。
シミュレーションゲームで大陸全土を「1枚のマップ」につなげた画面でプレイさせるものがある。あれも、どう遊ばせたいかという「恣意的」な企画の産物。あれでプレイすると、大陸全土を均質な空間として理解する思考のクセが、知らぬ間に混入するかも。善し悪しでなく。
ぼくの作る地図は「1枚もの」ではなく、関心を反映して、辺境を切り捨てたものになります。中原の郡県を細かく書き込み、同じ縮尺で辺境まで入れたら、使い勝手が悪くなる。遼東・涼州の西方・荊州や益州の南部・交州は、べつの縮尺をもった、べつの地図を用意すればよく、とりあえずは作りません。160303

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呉の荊州(楽郷)

建安十九年、蜀とともに荊州を分けて、長沙・江夏・桂陽を得た。
建安二十四年、呂蒙が関羽を破り、呉も荊州を置いた。15郡。
治所は江陵。

『三国会要』は、楽陵と江陵のどっちも治所という。こまった。


01南郡(江陵→公安)

建安十三年、周瑜が曹仁を破り、南郡を得た。さきに江陵、あとで公安を治所とした。
江陵県は、呉が督を置いて重鎮とした。侯国。黄武初、婁侯の陸遜をここに封じた。
孱陵(センリョウ)県がある。『水経注』によると、孫夫人がこの城を修した。公安城があり、劉備が荊州牧を領したとき、油口に鎮したところ。楽郷城があり、陸康が諸郡を都督してここに治した。

02宜都郡(夷道)

もとは臨江郡という。建安十三年、曹操が南郡の枝江より西を分けて、臨江郡をおいた。やがて呉に入り、劉備に属した。建安十五年、劉備が臨江から宜都に改めた。また呉に入った。『水経注』によると、郡治は陸遜が築いた。

夷陵(西陵)があるところ。劉備にとって「宜しく都とすべし」か。
歩闡が持ち逃げしたことを表現できるのも、この地域。

夷道県があり、呉が督を置いて重鎮とした。
西陵県は、もと夷陵県という。孫権伝によると、黄武元年に改名した。呉が督を置いて重鎮とした。西陵峡とは荊門のことで、歩隲城・歩闡城・陸抗城がある。

◆建平郡(巫県)
永安三年(260)、宜都の西を分けて立てた。治所は巫県。
秭帰県をふくむ。潘璋伝によると、孫権は宜都を分けて秭帰までの2県を分けて、固陵郡をおき、潘璋を固陵太守とした。一時的に置かれたものか。

劉備と孫権の領土の取りあいを表現するとき、区画に分けることが有効であれば、区切ろう。そうでなければ、呉の内政において、建平と宜都を分けることの意義があれば、区画を設ける。孫権のときおいた固陵郡を、呉末に建平郡として分けたことになる。


03江夏郡(武昌)

建安十三年、孫権が黄祖をやぶって、江夏の南部を得た。魏も呉も江夏郡を立てた。
武昌県は、もとは鄂県といい、孫権が武昌と改めた。黄武初、孫権は建業より都を徙した。黄龍元年、建業に都を還して、都督をおいて重鎮とした。のちに左右の両部に分けた。
柴桑県は、かつて武昌郡とされた。
『水経注』によると、孫権は黄初元年に江夏郡を立てて、建業の民1千家を移して、江夏郡の人口を増やした。

呉王の都は、建業でなく江夏(武昌)だという明確な政策。関羽を荊州から打ち払ってから、呉は揚州・荊州の2州をもつから、その中央に都を置いたのであろう。

邾県がある。もとは魏だったが、のちに呉に入る。陸遜がつねに3万人で邾県を守った。
◆武昌郡
呉は江夏を分けておき、孫権・孫晧が都とした。6県。
武昌県には、郊壇がある。下雉県は、陽新県に編入された。柴桑県は、もとは豫章郡に属した。沙羨県には、夏口があり沔口ともいい、魯山があって呉が督を置いた。陽新県は、鄂県(武昌県)を分けて置かれた。甘寧伝によると、甘寧は西陵太守となり、陽新・下雉の2県を領した。尋陽県をふくむ。

県は、呉の江夏郡とかぶる。孫権は、おのれの都合によって、赤壁のころ居城だった柴桑を「揚州の豫章郡ではなくて、荊州だ」ということにした。荊州の前線にいることにしたい。柴桑から見ると、武昌は北西にあり、魏にも蜀にも近づいている。孫権の居城にあわせて「武昌郡」と名乗ったが、漢代の伝統ある郡名ではない。だから、魏にぶつけるかたちで「江夏郡」としたのだ。江夏郡を宣言しないと、「魏の領有する江夏に、孫権が間借りして都をつくった」という状態になる。
柴桑と武昌は、150キロくらい離れているが、同一の区画でいいだろう。分ける理由がない。


04武陵郡(臨沅)

建安十三年、劉備が領有したが、建安二十四年、呉に入った。

◆天門郡(黎陽)
永安六年(263)、武陵を分けて置く。3県。

『三国会要』が永和六年になってる。まちがい。


05長沙郡(臨湘)

建安十三年、劉備が領有した。建安二十四年、呉に入る。
臨湘には、故尉城があり、孫権は程普を長沙西部都尉としたとき、立てたもの。橘州があったと『水経注』にある。孫堅廟がある。

◆衡陽郡(湘郷)
太平二年、長沙の西10県を分けた。郡治の湘郷は、もとは零陵郡に属した。重安県・烝陽県も、もと零陵郡。長沙の西を分けたといいながら、零陵からも切り取っている。南郡の真南、荊州のちょうど真ん中に郡を新設したかたち。
『玉海』によると、衡山県に銅柱がある。黄武二年、程普と関羽が境界を分けたところに立てた。

長沙郡のうち、湘水の西を衡陽郡という。これは(たまたま)魯粛と関羽が話し合って、劉備のほうに帰属した土地である。「衡陽」と名づけた区画を設ける。

◆湘東郡(_県)
太平二年、長沙の東6県を分けた。

もはや呉の趣味の領域なので、区画を分けない。『歴史地図集』では、三国呉ではなく、西晋のところを見るべし。しかし衡陽郡はあったが、湘東郡はなかった。


06零陵郡(泉陵)

建安十三年、劉備が領有した。二十四年、呉に入った。

◆始安郡(始安)
甘露元年(265)、零陵の南部を分けて置いた。

◆邵陵郡(昭陵)
宝鼎元年(266)、零陵の北部を分けて置いた。

桂陽郡(彬県)


◆始興郡(曲江)
甘露元年、桂陽の南部を分けて置いた。

◆臨賀郡(臨賀)
黄武五年、蒼梧を分けて立てた。

おわりに

北緯28度で切ると、ちょうど長沙まで入る。零陵・桂陽は入らない。北緯26度まで下げると零陵が、25度まで下げると桂陽の郡治が入る。しかし、効率(地図に使う面積あたりの、三国志の情勢を説明できる情報の量)が悪くなるので、北緯28度を目安としていこう。
ちなみに屋久島・種子島まで入れて、北緯30度。沖縄本島まで入れると、北緯26度。ぼくが沖縄のひとだったら、きっと北緯26度まで入れただろう。

この理由により、交州・広州は扱わない。160304

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益州(成都)

建安十九年、劉備は益州を定めた。二十四年、漢中を定めた。劉禅は建興元年、益州牧をおいた。劉禅は建興七年(229)、涼州の武都・陰平を得て、魏延を涼州刺史とした。のちに姜維も涼州刺史となった。益州郡を改めて建寧郡とした。交州を遙領した。後漢の旧郡11と、漢末および蜀漢が増やした郡11とをあわせて、22郡があった。治所は成都。
また庲降都督をもうけ、南中7郡を統べた。治所は味県。
後主伝にひく王隠『蜀記』によると、炎興元年(263) 1州・22郡・100県・吏4万人・帯甲将士102,000・戸280,000・男女口940,000。

01蜀郡(成都)

秦が置いた。蜀漢は成都を治所とした。
『水経注』によると、もともと益州は、蜀郡・犍為・広漢の3郡を「三蜀」といった。

蜀郡・犍為・広漢から、周囲に広がったり、分離独立していった結果、蜀漢の末期の22郡となる。この3郡を地図づくりの基軸とする。


◆文山郡(綿虎)

汶山郡とも。漢代に置かれた。蜀郡の西北。

『歴史地図集』東漢では、汶山郡は蜀郡にまるごと含まれる。区画を分けなくてよいかも。

郡治の綿虎道は、『水経注』にょると劉備が置いた。
都安県がある。『宋志』によると蜀が立てた。都安堰がある。『水経注』によると、諸葛亮が堰をつくって国を富ませ、1200人で堰を守った。

都安は、成都の北西。ひろい汶山郡のなかで、南東の端にあり、蜀郡と接している。むしろ蜀郡の経済圏なのではないか。

平康県がある。姜維伝で、汶山の平康で夷がそむき、姜維が平定した。けだし蜀が立てた県だろう。

02犍為郡(武陽)

漢代に置かれた。蜀郡の南。
『呉書』に、呉の陳化が犍為太守となったとある。けだし遙領。
新道県がある。李厳伝によると、李厳は犍為太守となると、越巂の夷師は新道県を囲んだ。李厳はこれを救ったと。蜀漢が立てた県だろうか。新城県とも。
南安県がある。諸葛亮が南征するとき、峡口を置いた。蜀将の陳_と鄭綽は、叛将の黄元をここで捕らえた。

『歴史地図集』の犍為郡には、犍為郡のなかに新道県はない。


◆江陽郡(漢安)
『続漢志』『水経注』によると、もと犍為枝江都尉の治所であった。建安十八年、劉璋が犍為郡を分けておいた。漢安・江陽・符節の3県。『輔臣賛』によると、王士は符節長(県長)となった。

建安十八年とは、劉璋と劉備が全面対決に突入したとき。とくに割拠勢力の意味がなければ、たった3県しかないし、区画を分ける必要はない。


◆漢嘉郡(漢嘉) 章武元年、蜀郡属国においた。4県。

『歴史地図集』蜀漢では面積ばかり広いが、西はスカスカで県がない。後漢の蜀郡属国を、なんらかの形で整理するため郡を置いたのだろう。『続漢志』によると、属国とは、郡を分割して遠方の県に置いたもの。蜀郡と、区画を分ける必要があるのか微妙である。

厳道県があり、姜維城がある。

03広漢郡

漢代に置かれ、治所は雒城。雒城・緜竹がある。

劉備と劉璋の戦いにおいて、区画を分けたい。漢代からの伝統もある郡だし、区画を分けるのがいい。


◆東広漢郡
劉禅は広漢の4県を分けた。

04梓潼郡(梓潼)

建安二十二年(217)、蜀は広漢郡を分けて、梓潼郡を設けた。6県。白水県をふくむ。

劉備が分けたこと、劉璋・劉備・曹操との戦いの説明で使えそうなことから、この区画は設けたい。


05漢中郡(南鄭)

建安二十年、張魯は漢寧郡とした。二十一年、曹操が平定して漢中郡にもどした。二十四年、劉備は夏侯淵を斬ると、南鄭の地を領有した。漢中都督がここに屯して重鎮とする。
南郷県がある。『寰宇記』によると、蜀が成固県を分けて立てた。建安二十年、魏に入って、二十四年夏、蜀に入った。二十五年秋、また魏に入った。

南鄭の東南。ここを魏蜀で奪いあっているのはおもしろい。


06武都郡(下弁)

漢代に置かれた。建安七年、蜀に入る。
沮県があり、武興県ともいう。『寰宇記』によると、蜀はこの地を衝要とみなして、蒋舒を武興都督としてここを守らせた。

南鄭の西北である。


07陰平郡(陰平)

曹操が置いた。さきに魏に属し、建興七年、蜀に入る。
陰平県と広武県のみ。広武県は『沈志』によると蜀が立てた。

2城は東に偏っている。沓中は、遠く離れた北西にある。
『范書』劉玄伝に、陰平王が出てくる。
劉玄伝の李賢注:陰平 ,縣,屬廣漢國。 陰平縣屬廣漢國。
校勘:校補謂前漢 陰平 國屬東海郡,後漢改縣,屬同。又前漢 陰平 道屬廣漢郡,後漢分屬廣漢屬國,注據 陰平道言,雖亦可言「縣」,但屬前漢言,不當言「國」,屬後漢言,當云「屬國」,亦不當僅言「國」。
前漢において、陰平道は広漢郡に属した。後漢が広漢属国にわけ、陰平道はこちらに属した。李賢のいうように「広漢国」はない。というクレーム。
ぼくは思う。陰平というのは、羌族の方面に開拓した地域。前漢では独立した区画がなく、後漢では属国が置かれ、蜀漢において郡に昇格して、姜維がこのあたりにいた。

陰平県には、江油がある。鄧艾城がある。馬閣山がある。強川がある。姜維城がある。
『湯志』は『華陽国志』に基づいて、平武関尉を増した。

さて、『歴史地図集』東漢では、巴郡(江都)の広大な領域を、劉璋・蜀漢は4郡に分けた。
譙周『巴記』によると、初平元年、趙潁が巴郡を2郡にわけた。巴の旧名をのこしたいから、もとの巴郡は墊江と治所とした。安漢以下を永寧郡とした。『華陽国志』によると、劉備は費瓘を巴郡太守として、江州都督を領させた。

08巴西郡(閬中)

譙周『巴記』によると、建安六年、劉璋が巴郡を分けて巴西郡をつくった。(初平元年、趙潁が巴郡から永寧郡を切り出した体制から)永寧郡を巴東郡とした。(初平期の巴郡の治所である)墊江を巴西郡とした。(巴郡は郡治を江州に移して存続した?)

巴西は、張郃らが攻めこんできて、魏の領土になりかける。これを区画とするのは、意味があること。もとは劉璋が分けたのだけれど。

『蜀志』にて章武元年、(劉璋が墊江を巴西郡としたことを撤回して)巴西郡を巴郡に改めた。墊江が巴郡にふたたび合わさったのであろうか。しかし以後、諸々の地志には「巴西郡」が見えるから、巴郡に完全に吸収されたわけでもないか。

劉璋がなぜ建安六年(201) に郡県をいじったのか。五年~六年にかけて、成都が包囲されている。そのときの戦いの都合だろう。


09巴郡(江都)

初平元年、趙潁が巴郡を分けて永寧郡を置いた。建安六年、劉璋が巴東郡に名を改めた。
二十一年、劉備が固陵郡に名を改めた。章武元年、巴東郡にもどした。
江都は蜀が置いた。江州都督はここに屯して重鎮となる。
呉の顧雍の弟の顧徽

10巴東郡(魚復)

劉璋が巴郡に置いた。
永安県がある。漢代は魚復という。『常志』によると、章武二年、永安に改めた。永安都督がここに置かれた。
北井県がある。『郡国志』にはない。この県は、もとは宜都郡に属した。劉備が固陵郡を置いたとき、宜都郡から固陵郡に移された。劉備が荊州牧のときに置いた県だろうか。

巴東郡は、荊州と接しており、長江が流れている。北井は荊州の建平郡と隣接している。永安県は、劉備が荊州から撤退してきて死んだ場所。


◆涪陵郡(涪陵)

建安末、劉備が属国を改めて郡とした。

益州南部(庲降都督)

以後、北緯28度よりも南だから、ぼくのマップに載せない。
◆朱提郡(南昌)
建安十三年、劉備が郡とした。

◆越巂郡(安上→邛都)
建興初、安上を治所とした。延熙二年、邛都を治所とした。

◆建寧郡(味県)
もとは益州郡だったが、建興三年に建寧と改めた。味県に庲降都督の治所もある。

◆牂牁郡、◆永昌郡、◆興古郡、◆雲南郡がある。

おわりに

『歴史地図集』で、州や郡の境界は、どうやって決まっているんだろう。州に属する郡、郡に属する県は史料で判明するけど。山や川で必然的に分断されることはマレ。適当に線を引いたのか。 漢末の人々は、点(城)と線(統属の関係)の認識しかないはず。面(領土)が重視されたのは近代以降。
新しく国を征服したとき、州郡県の数、戸数と人口は報告されるが、面積が報告されることはない。技術的に、国土の面積を計測することが不可能だったが、その技術的な制約は、彼らのものの見方に影響を与える。というか「制約」というのは、近代人から見た言い方であり、彼らはそれを制約だと気づき得ない。

『歴史地図集』には、経度・緯度がひかれ、20世紀の中国の地名が茶色で書いてある。つまり、20世紀の国家がレイヤーの下層にあり、上に前近代のレイヤーを乗せてみましたという出版物なのです。土台に20世紀、上物に前近代という点が重要です。前近代のものの見方ではなく、20世紀のものの見方による地図だから、「歴史」地図集なのです。どうしても近代くささがある。
境界線をムリにでも引いて、面積を可視化するのも、近代らしい。

ぼくが物語『三国志』のために地図を用意するなら、目的が違うために、また地図の様相もちがったものになる。まず、20世紀の中国の地名は要らない。というか、土地勘がないから、あってもノイズでしかない。
しかし、ぼくも近代人であり、三国志のゲームに親しみがあるので、境界線をひいて「面」を示したいという誘惑には、抗しきれない。でも大丈夫です。ぼくの物語の読者も、近代人なので、そっちのほうが、おもしろがれると思います。
そろそろイラレの作業に移ろう。160305

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『三国会要』総叙より(作成中)

建安三年、瑯邪・東海・北海の3郡から分けて、城陽・利城・昌慮郡をつくる。
建安十一年、東海郡の襄賁・郯県・戚県を瑯邪郡に入れ、昌慮郡をはぶく。
建安十七年、河内の……
建安十八年、魏郡の東西を分けて、都尉を置く。
建安二十年春、雲中・定襄・五原・朔方をはぶき、新興郡とする。

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