-後漢 > 『三国志集解』蘇則伝より、雍州・涼州の変遷

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雍州・涼州の変遷

『三国志集解』張既伝より、涼州・雍州のこと。必要があって、和訳したので、ここに残しておきます。

◆趙一清の説
趙一清の説によると、『晋書』地理志に、献帝のとき涼州に戦乱が頻発し、河西五郡は遠隔地であるから、分割して雍州とした。献帝期末、古典に依って九州制を定めると、関右を合わせて雍州とした。魏代に再び分割して涼州を作り、涼州刺史は、戊己校尉・護西域を領し、漢代の故事と同様である。八郡を統括し、金城・西平・武威・張掖・西郡・酒泉・敦煌・西海である(以上が『晋書』地理志に基づく、趙一清の整理)。
趙一清が考えるに、西平は金城を分けて置かれ、西郡は張掖を分けて置かれ、西海はもと居延国である。いずれも献帝期に郡が立てられた。その他は漢代から存在する郡である(以上が趙一清の説)。

◆盧弼の補足
盧弼が考えるに、呉増僅は、建安期以来の雍州・涼州の分合について最も詳しいため、以下に引用する(趙一清の説は、参考までの紹介であった)。

◆呉増僅の説
呉増僅の説によると、両漢には雍州は設置されていない。西域の諸郡は、すべて涼州に属した。『後漢書』郡国志によると、涼州には十郡があり、隴西・漢陽・武都・金城・安定・北地・武威・張掖・酒泉・敦煌である。さらに張掖属国・居延属国がある。霊帝期、さらに南安・漢興の二郡を増設した。
興平元年、涼州に戦乱が多く、河西四郡は州治から遠隔のため、河西四郡を雍州とした。雍州になったのは、武威・張掖・酒泉・敦煌の四郡である。張掖属国・居延属国が、移管対象とされなかったのは、この2つの属国を張掖郡が統べたからである。雍州が立てられると、居延属国を改めて西海郡を作り、さらに西郡を増設した。前部で6郡1属国となり、これが建安十八年以前の雍州である。
雍州が置かれた当初、涼州は残りの金城・隴西・漢陽・武都・安定・北地・南安・漢興の8郡を統括し、前後して、永陽・新平・西平の3郡が増設され、前部で11郡となり、これが建安十八年以前の涼州である。

建安十八年、十四州が九州に再編され、『禹貢』の故事に戻された。このとき、(『禹貢』に州名の見えない)涼州を省き、諸郡を(『禹貢』に州名が見える)雍州に編入した。さらに、司隷の部する弘農・京兆・左馮翊・右扶風の四郡と、馮翊から(分割して作った)上郡を合わせ、雍州とした。雍州は、弘農・京兆・左馮翊・右扶風・上郡・安定・隴西・漢陽・北地・武都・武威・金城・西平・西郡・張掖・張掖属国・酒泉・敦煌・西海・漢興・新平・永陽・南安の23郡が、九州制のもとの雍州となった。三輔から西域に至るまで、全て雍州に属した。
ここから、上軍を省き、永陽を広魏に改め、のちに陰平を増設し、数は変わらず23が、建安十八年から二十五年までの雍州の統括する郡の数であった。涼州は、雍州の統合されたのである。

文帝が即位すると、再び涼州を置いた。弘農は司隷に還され、張掖属国と漢興を省き、漢陽を改めて天水とした。このとき雍州は12郡があった。武都・陰平は蜀が涼州すると、魏の雍州は、京兆・扶風・新平・隴西・南安・天水・安定・北地・広魏の10郡である。⑩魏の涼州は、金城・武威・張掖・酒泉・敦煌・西海・西平の8郡である。雍州・涼州は、再び分割されたのである(呉増僅の説ここまで)

◆盧弼の補足
盧弼が考えるに、呉増僅は魏の涼州を8郡とするが、西郡を書き漏らしている(本当は9郡とすべきである)。

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