読書 >21年春に読んだ本3

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檀上寛『天下と天朝の中国史』より

見慣れない言葉「天朝」

檀上寛『天下と天朝の中国史』で、全時代の中国史を貫く普遍的キーワード「天朝」があるんですが、ぼくが不勉強なためか、見慣れないんです。検索すると、『史記』『漢書』に用例なし、『後漢書』に1例(所引 朱穆『崇厚論』の中)、『三国志』に用例なし。
檀上先生の筆致と、ぼくの感覚は齟齬がありました。

檀上先生の本から派生して思いますに、
漢代や三国を、唐代や宋代に成立した概念で遡って論じている本があります。中国ものだけに惑わされやすく、三国を理解するうえではミスリードです。
唐代の「正史」とか、宋の「正統論」とかのタームで、(三国志演義ではなく)歴史としての三国志を語るのは、混乱を招くもとでしかないと思うんですよね。

唐や宋だけじゃなく、日本史の概念を時代的に遡及させ、地理的に横滑りさせ、三国志の解説に使うことがあります。あくまで説明のための(一時的な)比喩として、もしくは分析道具と断って&割り切っていればいいですが、それでも混同されます。
戦犯の一等賞は「儒教」ですか。江戸時代の朱子学系がなぜか混入して、ワケわからんです。
中国の儒学史の概要をあたまに入れて、日本の受容史・発展史をあたまに入れて、自分および自分と同時代の日本人読者が、どのような言葉に対する理解を持っているか、理解したうえでないと、ウカツに発言できない。

檀上先生は明代の研究者のようなので、檀上先生の本における漢代は「明代の前日譚」のようになります。ぎゃくに、漢代の研究者が明清を書けば、明清は「漢代の後日譚」のようになるでしょう。いずれも不可避です。
漢代に軸足のある研究者は、きっと「天朝」をキータームには選ばないと思うんですよね。

五胡十六国の見え方も違う

五胡十六国による中原征服は、漢代・三国に研究の軸足があると最悪の結末に見えますが、南北朝や隋唐ならば研究すべき題材の幕開けでしょうし、宋元や明清であれば、よくあること??って感じになるんでしょうか。
主題とする時代が違うと、周の来歴や、春秋戦国の楚や秦の見方も変わってきそうです。

以下、巫俊(ふしゅん) @fushuniaさまのツイッターより。
春秋時代前期までは、青銅器や鉄器が伝来してくる草原地帯に隣接した地区に住む人たちが、中原に覇を唱える歴史がありました。殷・周・春秋前期のはそのような勢力です。ところが晋の文公の頃から中国で鋳鉄が発達し、周系勢力が盛り返したので様相が変わります。
春秋前期の牧畜農耕民「狄」は、殷墟の地にあたる「衛」などを占領していて王を称しており、東周王朝の王子を擁立したり、周王に狄后が嫁ぐなどの活発な活動をしてましたが、狄の女性から生まれた晋の文公がこの状況を変えたと言えます。
そのため周の文化を中心とした「周の歴史」が社会の中で価値観として定まっていき、楚や秦などの諸国もその歴史世界の中(遠祖の帝王が共通だといったフィクションを含む)に参加するという形で外交関係を結び、その理解が漢代・三国・西晋と引き継がれた後、狄の次にあたる五胡が出てきたという訳です。

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播田安弘『日本史のサイエンス』

「歴史を動かすのは人。人も物質である以上、物理法則にしたがう。…ところが従来の歴史学では、ニュートンの運動方程式に明らかに反しているが、通説としてまかり通っているものがある」(播田安弘『日本史のサイエンス』)。造船会社の設計者が、日本史の通説を点検した本。読み始めました。期待!!

蒙古の船は、座礁や衝突を避けた上陸作戦が困難で、兵力を逐次投入して敗れた(神風や威力偵察でない)。秀吉は事前準備と情報収集をし、水路=船での輸送を並用して中国大返しを達成した。戦艦大和の建造は合理的で技術水準も高いが、作戦での運用を誤った(無用の長物でない)。
おもしろかったです。210323

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大澤真幸『〈女〉としての天皇』

大澤真幸『〈女〉としての天皇』を読む。紛らわしいですが、女性天皇や女系天皇の本じゃないです。天皇の「女性性」にかんする本です。折口信夫とラカンの上に乗っています。
当事者による記録を1次史料、編纂したものを2次史料といいます。オリジナル作品を1次創作といい、それを利用し派生させたものを2次創作といいます。同じような言葉づかいで定義するならば、大澤真幸氏が日本史に対して行うのは「2次研究」です。既存の研究者の説を、史料を使わずに検討し直す読み物。楽しいアタマの体操。

大澤真幸氏の本は、むかし『〈世界史の哲学〉』シリーズを読んで、よく分からなかったんです。アホな感想ですが(笑)。どのように分からなかったかというと、この本の、研究史における位置づけです。ひろく読まれているようであるのに、研究史のなかのどこにも位置づかない、というのが、ぼくの混乱を生んだんだと思います。振り返ってみると。
でも、これらを、2次研究と位置づければいいと気づいたかも知れません。プロの歴史や思想の研究(研究史のなかに位置を占めるもの)をこね直して、何か思索的なことが言えないか?という実験みたいなものか。

ちなみに、「2次研究」というのは、さっき思いついた創作タームなんですけど(必ずしも、大澤氏を批判してないです)、
既存の研究と研究を比べ、新しいアイディアを作り出すものです。狭義の研究(むりに表現するなら、1次研究)ではなくなっちゃうんですけど、うまくいくと思考がダイナミックになり、 プロが陥りがちな視野の縮小や臆病さ(それは同時に、プロとして研究のルールを守ったうえでの、敬虔な態度の表れでもあるんですが)、仮説づくりの停滞を打破するのかも。

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西順蔵「北宋その他の正統論」上

まずはメモ

正統・・・Orthodoxy(オーソドキシイ、オーせいとう)
正当・・・Legitimacy(レジティマシイ、エルせいとう)
皇帝即位の正統性と、皇帝即位の正当性は違う。自分が論じたい「セイトウセイ」はどっち??あの人が口頭で論じている「セイトウセイ」はどっち??というのを意識すべし。丸山真男が言ったんでしたっけ。

宋代の正統論の位置づけ

西順蔵「北宋その他の正統論」(『中国思想論集』筑摩書房、一九六九年)

正統論は、北宋から南宋にかけて盛ん。
前漢公羊学(董仲舒)の三正・三統説とともに意味がある。公羊学は、天下・天子の観念を、中国の帝国統一の原理としてつくりあげた。
前漢のものは、周代の天命有徳・王者の観念と同じようにみえる。しかし実は、抽象的な超越性を統一原理にもちこんだ、画期的で(周代と)異なるもの。

宋代のは、それほど画期的でもなく、歴史的受容でもなかった。
それ以前のものが、各王朝の自己の正統性の証明ためのもの。形式的な論理にのみ、客観性を委ねた。主張の内容は、偶然的な所与の事実にもとづくほかなかった。
宋代は、正統性そのものを問題として、そこにある原理を見出した。その原理によって各王朝の正統性を判定しようとした。天下という理念的な民族的①文化的統一と、王朝による現実の②政治的統一とが、理想的にのみ一致し得るということを明確に意識することにより、この問題が初めて考察できる。
宋代の正統論が、前時代より勝るのは、この点。

宋代に統一原理の反省が要求された。それは、儒教史の宋学の出現と必ずしも連環しないが、気運のうえでは一連の現象。南宋になると正統論は、朱子学の道統論と密接に関係する。
事物の理論的把握の傾向、または理性主義的な傾向のなかで起こったこと。ただし、そうであるにも拘わらず、正統論は王朝交替のなかに、中国歴史の統一・一貫性の原理をたずねはしても、あくまで、各王朝すなわち天子の王朝の正統性の観念の枠内のこと。
宋代学術の合理主義的傾向が、やはり経学の枠内にとどまって、聖人の聖性を張説し得なかったのと同じ、根本的な制約をもっている。王朝中国の自己解釈たるほかなかった。

正統論を必要とした題材

正統という題目は、北宋の欧陽脩はじめて立てた。論の動機は、ずっとあった歴史編修上の問題。このような題目を立てたことに、「問題提起」という批判的原理的な態度がみられる。
直接的には、『新五代史(五代史記)』編修を動機としている。『旧五代史』をもとに編修しなおし、改変がある。

北宋の太宗が薛居正に編修させた『旧五代史』は、唐が滅びてから宋の建国にいたる五十年あまりの五王朝(梁・唐・晋・漢・周)の年号のもとに記してある。五王朝の天子のもとに統一せられる一世界と見なした。
しかし、五代の唐の同時代、唐の当事者は、梁を数えないで排除した。北宋の太宗の時代も、李昉につくらせた崇天暦では、梁の年号を用いていない。このように梁を排除するのは、朱全忠が大唐から禅譲を受けていない、不徳(不正)による。

欧陽脩は、『旧五代史』を批判的に、名分を正すという立場から書き換えようとした。原理的な考慮を必要とした。いったい、真の天子とはいかなるものか、を問題にしなくてはいけなかった。

朱全忠の梁が、問題の焦点というのはおもしろいですね!!

梁を認めないとすると、その期間は天下に天子がいなく、事件を統轄する年号を欠く。であると、この期間に天子を認めるか否か、認めないとすると何によって事件を統轄するか、という技術的だが、切実な問題がある。

司馬光の『資治通鑑』も同じ問題に取り組んでます。

これが「正統論」の課題。正統とは、直接には、天下の天子たる資格を言い表すことば

欧陽脩の「正統論」の動機は、直接には五代史における偽梁であるが、そのほかに二つの疑問を取りあげている。
第一、秦の正閏。秦は二代で滅び、漢が秦を承けずに周を承けて、水徳とされた。秦は王朝の系列に加えられず、閏位に過ぎないという。王道徳治によらず、刻薄なる法治をしたことは、天下を統一してもなお閏位に貶める理由となるのか。正閏の標準はどこにあるのか。
第二に、南北朝時代。魏晋からの連続をいえば南朝。天下一統にした隋唐を遡れば北朝。唐になって、魏晋から隋唐への連続は、北魏が七十年の空隙を冒して、晋の金徳につぐ土徳を称することで、形式的につながれた。しかし、五行説による名目的な連続には、それを支える、真の連続があるはず。
ほかに、魏と蜀の対立では、魏を血脈・徳のほかに、領域の位置が問題になっている。広さや狭さは、比較でしか言えない。

欧陽脩の定義した正統

欧陽脩は、「序論」で、正統を定義して、「万国を同じくし民を一にする所……民を一にして天下に臨む所以」とした。夏殷周における正朔(後述)や、漢以後の元号は、それによって天下の年月日を画一したが、すなわち正統の表徴であるという。
天下(全世界)を一にする君臨が正統。正統によって王朝の交替を通じて、天下が一貫する。
つぎに「上」で、正統の内容を考える。ことばの原拠は、『公羊伝』の「君子は正しきに居るを大(たっと)ぶ」及び「王者は一統を大ぶ」である。
公羊学は、天下的帝国体制の形成にともなって発展した。教学をつくった董仲舒は、公羊学の大成者。『公羊伝』は、天下的国家の理論を、『春秋』の注釈のかたちで述べたもの。『左氏伝』が、史実の詳述を旨としたのと対比的。

欧陽脩が、『公羊伝』のことばを天下統一理論の名に採用したのは、もっとも。欧陽脩による『新五代史』も『新唐書』も、ことに名分論にもとづく。正・統とは何か。「正とは、天下の不正を正す所以である、統とは天下の不一を合す所以である」と。正にして統なるものが相次いで天子であるならば、「帝王の理が満足させられ、始め終りの分が明らかである」と。

不正を正すというのは、内容上の規定。それに対して、不一を合する統は、正の外的な現れ。前回の統一は正によってのみ可能であり、正なるものは必然、全一統を成す。
正と統は、二つが正統と呼ばれるのではない。正統という一概念のなかに、正と統とを分けてみることができる。
正統はあくまで「理」であって、現実に対してそれの満足を要請する。現実とはただ、ある時期における空間的統一だけでなく、時間的な連続をも意味する。天下とは、地理的全体でなく、天が生生であるにしたがって、また歴史的である。

ちょっと難解ですけど、要するに、ある時点(断面)の統一状態ではなくて、その時間の連続を含むもの、四次元も含めた概念だと。余計に、分からなくなりましたね(笑)


正統でない三つのもの

ところが現実の天下は、理の要請どおりでない。だからこそ正統論も起こる。
欧陽脩、「帝王の理が満足」させられない、三つの場合をあげる。

一、「正しきに居りはするが、天下を一に合し能わざるもの」。正とは、血脈継続による先天的権威とか、禅譲による王朝交替の正当性とか。

ここは交替の「正当性」です。変換ミスじゃないっす。

名があるが、実がない。正であるが、統でない。春秋時代の東周や、五胡時代の東晋。

二、「天下を一に合してはいるが、正しきを得ざるもの」。実があって名の当たらぬ。王朝交替に際して、君臣の義に欠ける簒奪。前王朝の承認があるべきで、暴力によって代わるのは不正。統一秦は、ここがダメ。

三、「正を得ず、統にもあたらないもの」。南北朝は、どちらも「統」ではない。南朝は隋唐に繋がらず、北朝は魏晋に繋がらないから、いずれも「正」でない。

南北朝の切り捨て方が、勇気がある。全部が閏統だと。


正統とは正と統であるが、統は天下統一であり、正は王朝連続の仕方の正しさ。連続の正しさとは、①連続していること、②連続の仕方が正しいこと、という二つの要素に分解できる。正しさは、連続のための条件であるが、連続そのものではない。そこで、正統の正は、直接には連続を指さないが、(連続することを)予想している
すなわち、天下の歴史的一個性(天下が歴史的に一個であるという性質)が暗に要請されている。その居個性は、天下の王である天子=王朝の正しさを条件とする。この、正による歴史的一個性(時間)と、統による地理的な一個性(空間)とが、正統観念をなす。

しかし欧陽脩は、連続の点を明らかに指摘していない(?)。ただ、「始め終りの分」を否定的に言っている(?)

もとの本が難解。以後、どんどん言葉を補い、置き換えていかないと、一読して意味が通じない。ぼくの読解力不足のせいですが、なるべく論旨を守っていきます。


現実の歴史と、正統論の摺り合わせ

欧陽脩は、いちおう正統の理を示し、現実がそれと違うこともあると指摘した。
「下」において、この背違のために、正統性の判断に混乱が起こると考えた。つまり、理が必ず現実のものになると杓子定規に考え、背違があることを無視するせいで、混乱が起こるのだと指摘した。

もとの本が難解なので、かなり文を書き換えました。


論者が王朝の交替について、「相 承けて絶えることなきを欲して、断えてつづかざるに際して、みだりにだれかを仮り来たって続けようとする」。その強引さ、現実の無視のせいで、混乱する。
正統性の理の要請に負けて、理にあわない王朝をも正統とすることで、中国天下の時間的空間的一個性を幻想的に演出しようとする。しかし、現実の不一不正の事実は動かせないから、(本来はスッキリしているはずの)理としての正統を、現実に寄り添わせて妥協させるので、混乱が起こる。
「正統は時に絶えることがある」のは、仕方がないこと。現実に、不正統(正統の不在)を認めることが、正統の理を純粋に保ち、永遠にすることができる。

「正」より「統」のほうが重い

「正」と「統」は、どちらか片方が欠けても、「正統」ではなくなる。
三国時代や南北朝は、その正・不正に拘わらず天下を統一していない。唐末五代も、盗・偽を論ずるまでもなく、天下を統一してない。天子の呼称があっても、正統ではない。
晋は魏から簒奪し、隋は北周から簒奪したから不正である。「その始めは正を得ていないが、卒(おわ)りにはよく天下を一に合した」ので、このように、事実として、「天下を一にしてその上に居るとなると、これは天下の君だ」とした。
ここで、統を欠く場合は、「不幸にして統一を欠けば、正統は時あって絶える」とした。正統の理を厳格に守りながら、正ならずとも統である場合は、不正は不正ながらに正統と名づけ得るとした。

欧陽脩の正統論は、各王朝の正統性を決定しようとした。その判定は、従来の論議から出ていない。しかし、理念を理念として掲げ、それを現実に対する規範にした点が優れている。

欧陽脩の三つの特徴

しかしまた、第一に、(前述のように)正統を天下の一個生を意味するものとしながら、その歴史的連続の面に、明確な把握がない(?)。
すでに理念と現実を分けた以上、現実上は連続しなくても、理念としては連続性を要請できるはず。もちろん、正を掲げるとき、すでに連続を予想している。しかし現実の歴史において、(連続性は)もっとも欠けた点であり、欧陽脩自身は、正統論が混乱する原因は、「相 承けて絶えざるを欲する」という、ムリなコジツケにあるとしている。だから、その要請は、あまり熱心に取り組まなかった。

正統論は、各王朝の判断から始まったもの。王朝を通貫する一貫性は、問題にされにくかった。
けれども、天下というとき、天は絶対的な観念であるから、現実的展開は、時間的にも空間的にも考えられ、それらが天の下に一個として考えられるはず。

第二に、正と統について、正統という一概念を構成するが、あくまで外的な事実(統)と、内的な価値(正)という、並列される別個の基準である。
しかし欧陽脩は、「統」の事実、それは弑逆によるかも知れない(不正)が、統一さえしていれば、「正」の価値を蔽う(不正を問われない)とした。すると、正統性にとって、最後の(もっとも重要な)基準は、けっきょく「統」であるかのようである。

これは、王朝の正/不正の区順が、伝説的帝王においては、典型的に徳/不徳におかれるが、歴史時代においては、実情がほとんど力による建国のみである、という事実に引っぱられたものである。
ただし欧陽脩は、「正」を捨ててはいない。「天下を一にしてその上に居るとなると、それは天下の君である」というとき、統の事実が正の価値を生む、かのように捉えられている。

このようにして伴われてくる「正」は、あくまで「統」とは別個の範疇である。つまり、「統」であれば自動的に「正」となるわけではない。「統」でさえあれば「正統」である、とまでは、欧陽脩は述べていない。

欧陽脩は、正と統とを、事実上の統一のなかに見たが、正と統との観念を混合したり、本末にしたのではない。正統性の究極の意味が、統一性、天下の一個性にあることを見たから、このように述べたのであろう。
事実條の統一がもつ意味は、あらゆる国や民が、天子に帰属するということがらにあるのではなく、その事柄が示す統一性のほうに意味がある。

なんか、難しいこと言ってますね。「統一性」という抽象的な概念がトップに君臨している。その概念の強さゆえに、現実の歴史の王朝ですら、その正・不正と無関係に、天下を統一していることによって正統となる。
しかし、その王朝が正統になれる理由は、統一した王朝が優れているから(統一するからには優れた王朝に違いない)ではなく、ただ「統一性」という概念にお近づきになったから、評価を持ち上げてもらえるに過ぎない。

個人の徳、家の系譜を超越するところの意味。これ(統一性という概念)なくしては、徳や系譜も無意味である。これ(統一性という概念)に対すれば、相対的なものに過ぎない。

ケチがつかない、周や漢ですら、統一性という概念の前では、膝を屈する。周王の徳が優れているのではなく(徳は否認されないが、徳なんてどうでもよくて)、周王は、統一性という概念に接近したがゆえに、史書で尊ばれる資格がある。

事実としての天子個人や、家の正/不正によって、意味としての正を犠牲にしてはならぬ(?)
(概念としての)正(に適合することは)は、(歴史的事実に裏打ちされた)正に優越するものによって与えられる。では優越するものはなにか。(概念としての)正統性である。欧陽脩がここまで考えたは疑問だが、恐らくは統一の事実に誘われて、不正でも統であれば正統としたのであろうが、誘われたのには、以上のような意味がある(?)。

引用者によるまとめ

西氏もかなり難解なので、引用者(佐藤)が補い切れない、置き換え切れないところがありますが。

個別具体的な君主たちの「正」や、王朝の支配範囲「統」に即していくと、あまりに(歴史的な現実が)支離滅裂なので、筋が通った歴史を把握することはできない。どこかで破綻し、強引なこじつけが不可避。
だったら、「正」や「統」の概念を放棄して、考えることを辞めてしまう、という手もある。しかし、放棄しないならば、べつの解決策もある。君主の正や不正よりも、ひとつ抽象度の高い「正」と、現実の支配領域よりも、ひとつ抽象度の高い「統」があることにした。

有徳で正な君主は、かれが正なのではなく、抽象概念「正」への近接によって、正であると評価され得る。天下を統一している王朝は、その王朝の支配の実態が統なのではなく、抽象概念「統」への接近によって、現象としての統一が実現しているだけ。
現実の正と、現実の統は、必ずしも相関性が高くない。しかし、抽象概念「正」と抽象概念「統」は、ほぼ一体になっている。理念、理想的なものとして、矛盾することなく両立している。
ならば、現実の歴史における統一王朝は、抽象概念「統」に接近しているから、その概念の世界を経由して、抽象概念「正」にも接近していることになる。なぜなら、概念の世界において、抽象概念「正」「統」は、限りなく接近したものだから。
現実世界で統だから、現実世界で正である、とは言えない。明らかに直観に反する。ならば、現実世界を経由せず(概念世界を迂回して)、統ならば正と言ってしまえばいいじゃないかと。大発明!!210316

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西順蔵「北宋その他の正統論」下

章望之の明統論

章望之は、道徳価値を尊重する立場から「明統論」をなした。欧陽脩の「正統論」にもとづき、正と統とを、正統性の基準とする。
欧陽脩は、正は、天下連続の王朝交替における条件であるから、正統理念に下属する概念である(正統が上、正が下)。
これに対して章望之は、統と正を、ぜんぜん別個、単独の原理とした。すなわち、地理的統一の現実(統)と、王朝交替における道徳の事実(正)との二つである。両者は、現実の一天子に属するが、理念として一つではない。

欧陽脩は統一性を正統としたが、それでは各王朝の徳不徳が区別されない。尭舜と、秦や魏が道統になる。章望之は、「治乱に補(たす)けあらんとす」とて、正の契機を強調した。

章望之のほうが言葉に都合がいい。美しい。だが、現実の歴史をうまく説明する力に欠けるように見える。実際の歴史に即して、理念を曲げた(理念に可変域を設けた)欧陽脩のほうが、概念操作や思想性としては、高級というか、手柄とオリジナリティがあるように見える。


章望之は、王朝をその建国の因によって、正を判定して分類した。①徳、②徳と功、③功、④力、⑤弑の五つに分けて、それによって、帝、王、氏、人と名分した。
統は、正とは別個の基準であるから、独立して分類を設けることができる。統を分類して、正統・覇統とした。

細かく分けて、恣意的に判定するなら、だれでもできる。

道徳・名教の見地からした議論。漢において、秦を閏位においたのと同じ。唐の皇甫謐が、東晋・元魏(北魏)を論じ、即位の実情について、徳・時・力・義の四つをあげて、それを「正」としたのと同じ。正統を、内容的に規定したもの。
南宋の朱子も、「大居正」の契機を重視した。

正統論に、正閏の論があったが、これに覇統を加えたのは、章望之に始まる。覇は、『孟子』が王覇の弁で述べていたこと。道徳的名分のうえで、または民生の安危においてすら重要ではあるが、正統論に導入することはできるのか。
ここにおいて、蘇軾の正統名実論が起こる。その前に、司馬光の章の批評、およびかれの正統論をみると、正統における実、すなわち内容の諸相や、それの正統論に対して持ち得る意味を考える手がかりとなる。

司馬光の正統論

司馬光は欧陽脩に対し、正統の理念と、現実とを分けることに賛成する。欧陽脩と同じく、無理に、正統の現実的連続を図らない。
そして司馬光は、章望之とともに、章望之とともに(?)統一という形式のもとに、天子の正/不正の道徳性を、無視することにあきたらない(?)。
その意味で司馬光は、章望之が、正統・覇統を分けたことに賛成する。

もとの文が、よく分からないっす。

章望之は、魏と同じく天下統一しなかった五代を統ありとする。ただし、正統ではなくて、秦・晋・隋などとおなじく、五代を覇統であるとした。
と、統・正・派の概念の混乱を指摘している(?)

もとの文がよく分からないけど、司馬光による章望之の批判的継承について書いている。

すなわち(司馬光によると?)章望之は、統のなかに、正覇の概念を混入させて、統一を得ないものについて、無統、覇統ともいっている。

司馬光は、正と不正を区別するが、それは統とは別個の基準とする。がんらい司馬光は、名を正そうとする。正と統を区別し、その各々について、実に即した名を立てる。
そこで、正と覇とは、範疇を異にするので(?)
覇とは天子が天下を分治させた方伯のこと、局部的統治者であるが、後世は皇帝王覇(?)と並べて、徳行の名とせられたという。

ぼくがバカになってる?文の意味が分からないっす。

つまり章望之は、同じ覇を、秦では後者(皇帝王覇?)の意味に、五代では前者の意味(方伯、局部的統治者?)の意味にもちいた。

後者(皇帝王覇?)は、正に範疇に属し、前者(局部的統治者?)は、統の範疇に属するから、それが正と統とが混雑する(?)
司馬光は、「統とは、一に合すること」であるという。または、「かりにも天下を一統にしないものは、天子の名はあってもその実はない」という。
そこで、統の点からは、統と不統の区別があるのみで、天子の華夷・仁望・大小・強弱にはかかわらない。内容的な規定は、(統か不統かに?)無関係である。いかに道徳あって、正となうべきものも、小国では天子となし得ない。
その他、上下の連続、領域の偏中、血脈の号称、すべて相対的なことで、統にはかかわらぬ。真の天子とすべき基準は統である、統とは「九州を混一する」という「功業の実」である。このこと以外に、正閏の論は知らない、知り得ないと、司馬光はいう。

かなり文が乱れてますけど、要するに、天下統一をしたら統であり、統一していなければ不統である。統でなければ、天子でない。ってことか。


ところで司馬光は、このような統を規定したうえで、別の立場から正統を考える。『資治通鑑』は、国家の盛衰、人民の休戚をあらわして、後世の鑑とするもの。
春秋褒貶の意を寓しようとはしない。だから正閏王覇の弁を要せぬ。しかしこれは、編年史であるから、たとえ「天下離析の際」でも「歳時年月を設けて、ことの先後を記すことをする」ので、便宜上の取捨をする。

『資治通鑑』魏紀一の「臣光曰…」のところですね。

天下離析のときは、功業の実によって、相対的に大なるものをとる。三国は魏。南朝。「一方を尊び、他方を卑しめるという正閏の論があるわけではない」、ただ「その年でもって事を記すだけである」と。

欧陽脩の展開した『新五代史』と、『資治通鑑』の五代を比べることで、司馬光がどのように正統論と向き合ったか。欧陽脩を乗り越えようとしたか??という問が立てられるならば、それを見たい。


司馬光の正統論は、理論的には、「統とは一に合すること」につきる。正不正は正統論の原理となり得ない。章望之の正統・覇統という区別、徳・功・力・弑の減速とは無関係。
天下統一という功業の実、結果以外の契機(?)は、第二義的である。偏中・大小・強弱・華夷・仁暴すべて、相対的な内容的(?)なことに属する。
司馬光は、閏、偏、僭とかいう規定をも疑っている。

司馬光のこの(見せかけの)フラットさは、『資治通鑑』を一続きの本として完成させるための便宜なのか。本当にそのとおり淡白なのか。

司馬光のあと、鄭所南が、夷狄が中国に入ったののを僭といい、臣が君位をうばったのを逆と名づけたのは、(司馬光にとって)無益無用である。清の魏叔子が、偏統や窃統の名を設けたりするのも、無用無益である。

このように司馬光は、天下統一の原理を理論上かかげたが、その外に、修史の便宜上、ことの先後を記すため、正統王朝を連続させた。天下の時間的連続の一貫性という、修史の作業上の要求によって、正統の空隙を認め得なかった。
すなわち司馬光は、理論的に天下の地理的統一を正統と考え、修史の便宜上、正統の歴史的連続性を必要とした。それは(?)天下の一貫性のことである(?)。

ここまでのまとめ

欧陽脩は、正と統を並立させた。統の事実のなかに、正が伴うと考えた。正と統は、統の事実がもつ、正統という理念の二契機(?)であることを、認めたのではないが、いわば感じていた(?)のである。

著者の西先生の分析によると、そうなるってことですね。「二契機」って、よく分からないですが。

章望之は、正統という一個性(分解できない、一個にまとめてしまった)理に基づかないで、正と統とを単純に並立させた。欧陽脩の論は、(欧陽脩によって、正が蔑ろにされているとして)道徳的に不可とした。章望之は、相対的なものを統一性の基準にしょうとした(?)。

相対的なもの=道徳性?
道徳性による判定は、可能であるのか。議論が有効なのか、ということは、西先生は、はぐらかしてますよね。

章望之の欧陽脩批判が正当であるのは、欧陽脩が正と統と正統との関係を、明確にしないままで、正と統に属させた点を、裏面から(?)指摘した(というところ)にある。

司馬光は、欧陽脩が提供した正統の理念を明らかにして、

司馬光が、欧陽脩の説を肯定的に引き継いだと言える?

正から区別された統、天下統一の統であるとし、正は、相対的基準にすぎないことをあきらかにした。章望之に従って、正不正を明弁することが、かえってその相対性を明らかにする(?)のである。

司馬光は、しかしまた、編年史、それは、天下の事件を一世界の事件として記述するが、

西氏は、司馬光が、かれ自身の正統論と、『資治通鑑』の実際の作業とを、うまく折り合わせることに失敗している、と言ってますね。本当にそうか。司馬光が、この不整合を放置したのか。「臣光曰……」で、ちょっと投げやりに見えるけれど、本当に投げやりなのか??

編年体の編修の上で、天下の統一の、地理的空間的の面(?)の外に、歴史的時間的一貫性の面につきあたった(?)、そして、つきあたったままを率直に言ったが、理念として把握したのではない。それ(王朝)の前の統との関係、従って天下統一の時空的一個性(?)、には、気付かなかった。

やばい。分かりにくい。

けれども、欧陽脩が早くに正統論から放棄し、わずかに正の契機(?)を通じて予想した(?)、天下の連続性を問題とした(?)。

蘇軾はいわば、欧陽脩・章望之・司馬光の三論の帰結をもとめる。
蘇軾は、直接には、章望之の内容相対主義(?)を駁して、欧陽脩の統一性の主張を擁護し、その点、司馬光の論にも通じておるが、その方法はかれらと異なり、結論も異なってくる。

欧陽脩は、まだ丁寧に読まれていた。章望之・司馬光は、踏み台にされるために言及されたかのよう。いよいよ蘇軾が本番。ここまでが、お膳立てだったということか。


蘇軾の正統論

蘇軾は、その「正統論」の「総論」で、正統論の問題の性質を問う。「正統とは何か、名か実か」。名と実とは、分離すべきである。名と実が一体だと、名あれば実ありということになり、かえって名を争って実をないがしろにする。

そうとも言えないのでは? 実あれば名ありということで、名をないがしろにするかも知れないじゃないですか。

名実を分離するとすれば、名を求めずして実をつとめ、名はかえって純粋に規定される。

同意できないっす。

「実で名を傷(そこな)わなければ、天下は名を争わず、名が軽く実が重いから天下は実に趨る」と。
そこで、正統とは、「名の所在」なのである。
それは実、つまり天子・王朝の個別的偶然的な(?)、道徳功力や血脈や領域などにかかわらない。かれは正統を名とすることによって、その理念であること、形式であることを明確にし(?)、一方で、内容的な価値の混乱を防ぐ(?)。
真の正統は、尭舜夏殷周秦漢晋隋唐であり、「其可得者」を魏・五代とする。正統はすでに単なる名で、実には関わらぬから、道徳価値の混同の危険もない(?)。以上は、つぎの「正統弁論上」で、章望之の道徳内容主義に反駁するための準備であるが、またかれ(蘇軾)の根本的な立場を示す。

「正統弁論下」は、改めて正統は名であるといい、それは「天下を有する」ことだとする(これは実ではないの?)。盗も聖も、ひとしく人と名づけるように、尭でも桀でも「天下を有する」という点で、ひとしく正統である。
では、なぜ名をつけるのか。実と分類した名といっても、名というからには、なにか該当するものがあるはず。それは、「天下を有する」である。しかし、「天下を有する」とは、いわゆる実、事実ではないはずである(?)
いかなる意味か。
「正統という名は、天下に君なきことをにくんで作られた」と。「にくむ」とは、事実でなく要請である(?)。

「ゆえに天下が一に合せられていなくても、まったくの二国対立でない以上は、君子は君なしとしてしまうには忍びない(?)」と。
天下に一君が君臨し、天下が統一されている、というのが、道による絶対的要請である(?)。事実は、道に従属するのであっって、事実のなかに道があるのではない(?)。
……
天下一統は、個々の事実を超越する原理である。この超越原理を、名という。……蘇軾は、君の観念を、強弱大小の力の関係で理解していない。君とは、天下一統という超越原理の表徴であって、それを現実解に求めるとき、統一の事実はたはそれに近い事実を求める。
功業の実は、君であるための現実的条件であるが、君であるということは、天下の統一性の要請によって資格づけられる(?)。であるから、分裂の際、比較的、強大なものを君と定め、正統と称するのは、司馬光のごとく便宜上の妥協ではないし、「天下を有つ」という正統の原理の動揺でもない。次元が異なるのである(?)。

西先生が、この蘇軾の正統論を紹介したくて、これまでの文を書いてきたことが分かった。蘇軾が克服した、ダメな先例として、欧陽脩がおり、欧陽脩の評価はそこそこ高いが、司馬光や章望之などは、鎧袖一触で葬り去られる。


また正統から、道徳・血脈などの正の観念を排除するのは、欧陽脩のごとく、正統の正をしばらく排除して、ひそかに統のうちに含ませるのではなく、
がんらい蘇軾においては正統とは(欧陽脩が言うような)二義の合成でなく、正=正統=統である。正には、道徳的血脈的な意味はまったくない。後者の正は、「天下の私正」だという(?)。
この点は、司馬光の論に近いが、司馬光の場合は、天下一統といっても、その「天下が一に合する」という統一が、「功業の実」の後天性から脱却した原理的なものであるか否かが、はっきりしない(?)。
蘇軾の場合は、事実でなく、要請であることを言い表している。

あかん。さっぱり分からん…。


正統が、天下の統一「性」の天子による表現であること、相対的な「事」でないことを、欧陽脩が言い出して、蘇軾はそれを徹底した。
蘇軾は、紛糾する万事をたもつ天下を一個のものとして把握した。「天下に君なきをにくむ」とは、地理的空間的な内容相対性(?)を越える絶対統一の要求であるが、したがってそれはまた(?)歴史的価値的な(?)内容相対性(?)をも超える。

正統論は、修史の具体的問題から起こったにしても、歴史的な天下が一個の世界はたま世界史であるための根拠をたずねるものであった。
欧陽脩などでは、問題が明らかに認識せられていないから、統一・一個性の理を立てはしながら、また事について統一を求めたので(?)、妥協的な調整を図るに終わった。
統一は、その絶対的要求に原(もと)づいて可能である。理をもって、はじめて、ことの雑多な相対性(?)に全体的意義を与え得る(?)。
功業の実の比較も、道徳功力の評価も、それが統一とか絶対性を決定するのではなく、それが統一絶対性(?)に関係するのは、統一・絶対性(?)によって選択され、意義づけられてである(?)。

これは、ソーカル事件なのか??

正・統のごとき内容的基準によって、正統性を規定するのは逆で、正統性が事実内容を正統化するのである。

過去の歴史事実の積み上げから、帰納的に「正統性」というのを定義し、それに合致しない例外との折り合いをどのように付けていくか…というのが、欧陽脩の議論。欧陽脩は、『新五代史』を作るために、その検討を必要とした。
司馬光は『資治通鑑』を作るために、欧陽脩が取り組んだ問題、つまり例外の取り扱いについて、苦しむことを放棄した。実務的に年号を並べるだけにした。
章望之は、理念に走って、抽象的な定義(徳)によって、過去を評価するだけに留まった。歴史事実の例外は、徳のないやつ!と切り捨てた。
蘇軾にいたって、帰納的ではなく、演繹的に「正統性」を定義し、その定義の側から、歴史事実に対して、不足分を埋めるように要請していく。足りないものを指摘し、糾弾していく。帰納から演繹に転じたのが、蘇軾の新しさ。ってことか??


北宋という時代背景

天下の一個性の原理(天下は一つのものであるのだ)の問題を、歴史編修のうちから取りあげた(独立した論題として取り扱った)のは、天子権力の絶対性が高まった宋代に相応しい。

宋学との関わり……。気一元説的な思想。
蘇軾は、正統(論)のなかから、相対的事実的契機(個別の歴史のなかでの、さまざまな王朝のあり方)を排除して、絶対統一一貫性を純粋化をした(時間と空間を超越した/無関係の、ただの机上の理念的な正統性を、あみだした)。

が、これが内容的な現実と、無関係であるはずがない。天下統一には、必ず統一の内容上の規定があるわけである。

ここで現実のほうに、揺れ戻してくるのか。うんざり。ていうか、現実との対応関係を外して、理念に突っ走ったことが、蘇軾の新しさではなかったのか。演繹でさきに理想型をつくって、それを現実に当てはめる。現実は、つねに不完全なものとして糾弾されるのか?だれが幸せになれるの?


……。もうよく分からないので挫折です。

清初の王船山

清初の王船山は、正統論無用の説がある。「統は、合併・因続の意味である。しかし天下は一合一離である。合せず続かない場合が多い。離絶のとき、無理に統を与えるのは不可である。一治一乱はであって、昼夜や月の満ち欠けのようなもの。亡国の臣が、節を守って(簒奪した次の王朝に)屈しないのは、私のことであって公のことではない」とした。
合離続絶は天であり、一治一乱は天のうち。

合が天に適うとか、続が天に適わないとか、「アップダウンも原理(天)の内」と言っているだけ。ただの十把一絡げ。ここまで、期待値を後退させてしまえば、すべて天に収まる。一見すると包括的であるが、要するに、何も言っていない。歴史の現実に対しても、歴史の解釈に対しても、何も要求していないのに等しい。

天を公とし、道徳伝承は私という。
これは、まさに天の統一、一貫性をいったもの。蘇軾が「統」を言うのに似てる。船山は、道徳論的な相対主義からまぬがれている。船山が歴史に「天」を言い出したのは、中国の一個性のもとを指摘したもの。
しかし船山は、天子・君についていわない。歴史について言わないも同じ。天子・君を抜きにして、直接、天を語るのは抽象的すぎる。

王朝史に関する言説として、なんの力も意義も持たない。


蘇軾は、事実としての「統」の合離続絶にも拘わらず、天子に体現されるはずの一個性を、天の原理として考えた。210316

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