雑感 > 21年前半のメモ

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ひとが予習してきた漢文はすごい

ひとが予習してきた漢文はすごい

だれかが漢文を予習してきて、発表するのを聞くと、「自分の知らないことばかりだ。よく知ってて偉いな。敵わないな」と思うんですけど、大抵そんなにスゴクはない。発表者は今日に向けて準備し、その過程で詳しくなっただけ、ということが多い。
発表の場が先にあり、知識や予習内容は後にある。どんどん引き受けたほうがよく、どんどん参加したひとが、いちばん詳しくなれるし、漢文が読めるようになります。
漢文や三国志の知識をインプットするには、逆説的だけど、アウトプットあるのみ。翻訳を作成し発表したことがある、論文で検証・引用したことがある、などの経験によってしか、知識は定着しない。
研究者だけでなく、いわゆるオタク?マニアは、インプット偏重に見えて、じつはアウトプットの達人だったりする。

『三国志選注』のこと

繆鉞(主編)『三国志選注』を入手。「選注」というだけあって、選ばれた列伝にしか注釈がない。その点、『三国志集解』などとは違いますが、
『三国志集解』だって、盧弼が付けたい文や字句にだけを「選」んで「注」を付けたもの。全体の列伝をカバーしているけれど、注釈は本源的に恣意的なもの。

繆鉞(主編)『三国志選注』は、なかほどでは、巻15梁習伝、巻16任峻伝・鄭渾伝・倉慈伝、巻17張遼伝、巻19曹植伝、巻21王粲伝、巻22陳羣伝しか、取り扱われてないです。少ないっす。210326

はじめは〔校勘〕を学ぶ

漢文の読み方を習い始めて、初めの数週間は、ずっと〔校勘〕の仕方、考え方を聞いてました。テキストとの距離の取り方など。自分が教えるときも、そうなっちゃいます。
中華書局本に「校勘記」が付いてますけど、省略が多く、暗号めいて、分かりにくい。ごまかさずに理解しようと思ったら、周辺の情報を大量に理解しないといけない。

解題(これから読む本の性質を知る)があり、凡例(どうやって読み、成果をどうやって表示するか)があり、そこで底本を決めたのち、
〔校勘〕に必要な周辺知識を身に付けてからじゃないと、訓読も現代語訳も、ましてや訳注・補注なんて、あったものじゃない。というのを、自分で体験して、先輩の例でも目にして、ひとに教えて…と、何周もして感じます。210326

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師事が先、独学が後

くらすあてね先生の言葉

ネットで見つけたので、勉強用に引用させていただきます。210323

訓読は、貴方が理解できる順番に漢字を並べ替えることではない、入手しやすい受験参考書のSVOC式漢文法だけでも学んだらどうか、と指摘した。 曰く、「私は当然そんなものは習得しているが、読者のためにわかりやすい表現をしているだけだ」と。 本当に習得していたとしても、読者に嘘教えんなや。

独学というのは、学びに適した環境になくとも学びを続ける姿勢が尊いのであって、師から学ぶ奴よりも独学の俺の方が偉い、などということは当然無い。「そういうのは学びに関係ない」と学べなかった人が、独学に走ったり勧めたり褒めそやしたり恨みの解消に使ったりするの本当にあかんと思うの。


師事が先、独学が後

ぼくは独学者なので、独学の価値を大きく見積もりたいのですが、なかなか強気なことは言えません。「独学と師事は相互補完的」とすら言えません。
経験に照らせば、師事が先、独学が後。
独学は、やむを得ない臨時的な措置です。折に触れて師事しなおすことが、独学を長く良質?に続けるコツだと思います。荒木優太氏の本でも「習え」って書いてました。独学者の生命線は、大学の先生が一般向けに発信している情報や機会を、いかにうまくキャッチできるかだと思うんです。大学または地域の図書館を、うまく利用していくにも、はじめに方法と、その分野の基礎について、「習う」必要があります。

師事が先、独学が後と言いましたが、全部のことを師匠に貼りついて習うのは、社会的・金銭的な要因等により難しいでしょう。 大学院に入学できたら、もちろん勉強的にはベストですけど、それを許す(プラスの価値を認める)ような社会制度や価値観には、なっていないと思います。少なくとも、私の身の回りでは。
その場合、他分野であれ(できれば近接分野がいいですが)、必ずいちどは師事して、そこで身に付けたことを転用したり組み合わせたりして、補給なき戦場をびくびく走っていくイメージ。

もちろん、補給を受けられるポイントがあれば、喜んで飛び込んでいく。素通りする、もしくは敵対的に接するなんて、自分から学問のレベルを下げているようなものです。独学者として、失格とまでは言いませんが(資格を必要としないのが独学の特徴ですしね)、少なくとも学問に対しての誠意がない態度でしょう。210323

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漢文翻訳の実務者用メモ

現代語訳の注意点

史料の翻訳は過不足なく、簡潔を旨とする。
原文にないニュアンスを加えない。歴史小説ではないので。セリフの敬語やキャラづけも、君主とそれ以外(ですます)を区別する程度。臣下同士も、ですますで話せば十分。臣下同士の強気・弱気を見極めるのは、ちょっと難しい。全員が全員、同僚に敬語で接するぐらいの世界観でよい。列伝は登場人物が多く断片的なので、性格や上下関係を見極めるのは困難。

訓読は、すでに日本語なので、訓読から最小限の変更をするだけで現代語訳を作れたら理想的。
無理に別の漢字に置き換える必要はない。一字句を二字熟語に増やすのも不要。訳者が意図せぬうちに、格別なニュアンスや評価が加わった字を使い、文意が歪んでしまうことがある。変更が少ないほうが、実務的には便利。言葉を変更する=よく働いた、訓読を引き継いだ=サボった、ではない。

翻訳は、何も足さないし、何も引かないのが原則。歴史小説の創作ではないし、わが史論や、毀誉褒貶を展開する場でもない。
ただし列伝の文は、紀伝体の一部として書かれるため、(本来的に)記述が断片的で理解しづらいもの。年号、国号、別名や別称などのハード情報は、( )に入れて補ってやると、翻訳の付加価値となる。

翻訳は、攻め(読者への情報提供)と同時に、守り(明らかな誤訳、勇み足の回避)にも気を配りたい。よかれと思って、現代語訳を豊かにした結果、まるで歴史小説になったり、「それは自分の論文で書いてください」という増補になったり。すると、「あのひとの翻訳は使えない」といって、丸ごと無視されることになる。それじゃあ、翻訳をやる意味がない。
原文じたいの欠陥や情報不足を、翻訳者が危険を冒し乗り越える必要もない。原文の分かりにくさや欠陥を、そのまま現代語訳に引き写すことも、翻訳家の仕事の一部。あまりに支離滅裂で、やりっぱなしではいけませんが。210320

おまけ

ひとに教えると理解度が点検でき、習熟度が上がる。これは証明不要の定説だと思いますし、経験とも一致します。
ぼくは、漢文の読み方を勉強中ですけど、いちおう「学習者のなかでは先輩」として、ひとに伝える機会が増えてきました。当たり前で言語化不要と思われることもがんばって説明してます。

先生や先輩から教われること。読むべき本や論文はもちろん、「読まなくていいもの」も貴重な情報。その著者は無視せよ、今回は出来が悪かった、(同じ著者の)ほかの本のほうがいい…など。これを聞けると、かなりの時間の節約になる。もちろん、助言を鵜呑みにするリスクはありますけど自己責任で。210320

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漢文翻訳における訓読の効用私論

訓読が便利で楽しくなってきた。初級レベルである、「ルールを遵守して、必要最低限の「かな」だけを振って、機械的に仕上げる」というレベルは脱しつつあるのかも。
訓読がなぜ楽しく感じるのか、便利に感じるのか。自分の感じ方のレベルで書き出してみます。210318時点の私見です。※そもそもの訓読論ではないです。

文や節の区切り

訓読をするとき、主体的に、句点や読点を切っていく必要がある。原文を眺めているだけでは、頭のなかで「暗算」しているようなもの。複雑な処理はできないし、同時に複数箇所を(中華書局本から)変更するとなると、記憶しておけない。そもそも、中華書局本を見ていると引っぱられ、オリジナリティが出ない。
自分で真剣に読んで、かつ点を切った成果を保存するには、訓読という作業が便利。もちろん、表示しておく原文も、訓読に連動させて、点の位置を変えていきます。
中華書局の点は、一文が長くなりがち。文を切り直して分割するときのコツとしては…。主語が変わる、文中の時間が経過するときは、文を切る。

この「点を切る」話は、ツイートしても、反響がなかった。けど、実際に史料を翻訳する作業をしてはじめて、大切な作業工程だな!と気付くことができる。訓読の段階でそれを行い、訓読のなかに、成果を表示しておく(点を切る、カッコをつける)と、現代語訳が格段にラクになります。


数行に1回ほどの頻度で、段落を変えるのも、お買い得。
原文・訓読・現代語訳を比較対象するとき、「どこどどこが対応するのか」を、目で追う必要がある。そのとき、いくつめの段落の、どのへん(前半?後半?)というのも、有力な位置特定情報になる。このあたり、文を見るとき、人間が無意識のうちに使っている情報ですからね。やや「分けすぎ」ぐらいで、ちょうどいい。中華書局本は、へいきで1頁とか、1段落にするけど、長過ぎ。
原文→訓読→現代語訳のサイクルは、小刻みに回転させていかないと、「どこがどこやら」になる。こまめに段落を区切ることに加えて、2つか3つの段落で、文章じたいを区切って、訓読→現代語訳を見せるサイクルに入れていくのが、実務的には優れている。

文中の人物の台詞(発言)や、考えた内容の前で「、」を切る。ほかの経書や史料などからの引用についても、始点と終点を明らかにしていくのもこの段階。存外、中華書局本から手を加えなければならないことが多い。

原文にカギカッコを入れるのは、さすがに「いじり過ぎ」とされる。だが訓読の段階で、カッコの類いは十全につける。現代語訳にカッコを付けたいならば、訓読の段階でカッコをつけて、対応させるのがマナー。


訓読み=雄弁な日本語訳

読みづらい漢字にルビを振る。しかしそれは、「読むのが難しいから、助けてあげましょうね」という親切心とか、学習上の配慮ではない

やや一般的でない(小学校で習わない)訓読みに確定すると、翻訳者にとって、かなりお得。
どのようにお得か。『諸橋大漢和』は、攻めた訓読みが付いている。これを流用することで、意味の確定が捗る。場合によっては、意味を創造するかのようなレベルの解釈、持論へのリードすらできる。
ただし、『諸橋大漢和』にあるから、それを使っていいのだ!とはならない。

『諸橋大漢和』は、よく見れば分かるけれど、1つの文字に、3つの構造が当てはめられている。1階層は、音(白い四角の漢数字)。2階層は、品詞や意味(黒い丸の漢数字)。3階層は、個別の訓読み(白い丸のイロハ)。
1階層と2階層に「優劣」はないが、3階層のなかの個別の訓読みは、序列がある。概して、前のほうが頻度が高くて重要な読みで、後ろのほうが個別的な例外。いかに、自分の解釈にしっくりくるからといって、個別例外的な読みばかり当てはめるのはダメ。個別例外的な読みを使うなら、相応の覚悟と理由が必要。


『諸橋大漢和』が、太字にしている訓読みが、原則として使っていいもの。
ときと場合によっては、太字になっていないが、意味・解釈として連ねられている、訓読み(のようなもの)を、自己責任で当てることができる。
また、『諸橋大漢和』には、「この字は、この字に通ず」と、べつの漢字と、やんわり等式で結んでくれることがある。結ばれた相手の漢字の読みを、そのまま借用し、代入してしまうのも可(もともと、経書や史料の注釈などで見かける方法です)。こちらも自己責任。
この技法の力を借りたときは、小学校的に普通の読みではなく、オリジナリティが表れているから、かならずルビで示す必要がある。「へんな読みするな」と言われたら、その必然性を言わねばならない。

訓読の段階で「訓読み」するのは、すでにして、りっぱな「日本語への翻訳」です。ここで、日本語の意味が豊かで、意味が狭い(意味を鋭く特定できる)語彙に訓読みができてしまえば、現代語訳でそのまま継承できる。ことばの更なる置換が不要になる。

『諸橋大漢和』は、この作業で、とても力になる、という話。

そもそも、どんなに緩い(小学校で習うような)読みであっても、訓読みにした時点で、1回、翻訳をしているに等しい。そのままの日本語を、現代語訳にもちいることは、サボリではない。むりに置き換えて、変テコな文にするよりも、よほどよい。

訓読みを確定するときの小ネタ

「おもふ」「おもへらく」「いふ」「いへらく」も、漢字で区別がされていないことがある。ここでルビを振って確定させれば、その引用部分が、何なのか(台詞?考え?独白?引用?)が分かって、とても現代語訳が助かる。

訓読の基本性能で、文の構造(品詞)を確定させることができる。とくに「その字を、動詞で読むのか!」とか、「その動詞に、この訓読みをつけるのか!」が、うまく決まると、オリジナリティが出る。

良し悪しはべつとして、たとえば、「不私」を、「私(せしゅう)せず」と読んだり。皇統を不当に独り占めしないから、「世襲」という訓読みを、「私」に当てるという。これ、ルビをふって訓読を示せば、解釈はこれで完了している。


助詞と文の関係

訓読で補う日本語の助詞は、自由自在。なぜなら、漢文にないから。ただし、何を加えてもよい、ということはなく、原文にない漢字を補ったかのような助詞などを加えてはいけない。

逆接ぎみで読みたいとき、「~も」「~とも」「~なるも」を加えることは、便利。

順接なら、さらっと読んでも同じだが、逆接で読みたいときは、わざわざ逆接を明示する必要がある。訓読の段階で、自分なりの理解を捻じ込んでしまえば、現代語訳の段階で、こねくり回す必要がなくなる。一足飛びに有利になる。

原文に明文化されていない逆接的な文同士の関係(前の文とあとの文の関係)を示せるから、訓読の効用を味方につけたもの。現代語訳がラクになる。

ただし、「~といへども」と加えると、「雖も」があるのか?と思わせるので、ダメ。これは、長さとか語感、品詞などの知識とはべつに、対応する漢字がある表現か?を知っていなければ、判定できない。

動詞を捏造するのは好ましくないが、単純に「動詞を補ってはいけない」と、ルール化することもできない。「者」に「といふ者」と補うことがある。この「いふ」は、動詞でしょうけど、補っていいのだ、とかのパターンもある。

「~するや」「~するに」「~するとき」「~せしとき」など、時制を補うことで、文の意味が一つに固まる。自分で翻訳をしてみないと気付かないが、時制をどのように捉えるかで、文の内容がサッパリ変わってしまう
ぼくはこのような時制で読みましたよ、と示すのも、訓読の効用。

『論語』は、基本的に言葉足らず、舌足らずです。昔のえらい先生がつくった『論語』の訓読は、このあたりの時制などが、けっこう長々と付けられていて、勇気づけられる。というか、そこまで補わないと読めないんですよね。


漢文は、言語の性質上、文と文の関係を示さなかったり、明示的でなかったり(順接と逆接で、見た目が同じ)、時制という概念がなかったりする。適宜、「付与」してあげることが、ぼくらの翻訳であり、かつ訓読でそれを示すことができる。

ふたたび小ネタ

置き字は、読まなくてもよく、訓読のとき、削除してよい、と学校でならう。しかし、置き字の訓読みも、自由度が高く、味方にすると便利。ここで、節や文どうしの関係(順接、逆接、仮定や条件)を、捏造(日本語として新規追加)すれば、現代語訳が格段にラクに。
たとえば、「而」は、読み飛ばすことができるが、消さずに残して、「しこうして」「しかれども」のどちらかの読みを当てておくと、文の関係が明らかになり、現代語訳をするときの負担が下がる。

対句の表現や構造、並列の節や文が、対句と分かるように、外見を保存することも忘れないで。
原文が対句っぽくなっていれば、訓読も対句っぽく、字数や言い回し(補う日本語)を揃えておく。現代語訳にまで、対句表現(字数や言い回し)を揃えることができたら、ちょっとした翻訳マスターだと思いますけど、必然性もないのに、訓読の段階で対句をくずすのは、NGでしょう。

翻訳作業における訓読の便利さ

一般に、原文→訓読→現代語訳の順序で表示する。
ところが、実際に脳内で行われている翻訳のプロセスは、原文→文の理解(母国語で理解するので、けっきょくは現代語訳に近しい)→訓読(所定の形式への落とし込み)ともいう。
実務的には、一度目の文の理解は、ざっくりとした試訳で、人前に出せるものではない。訓読をしたあとに、実際にアウトプットする現代語訳は、ひとさまに見せられる精度で、言語表現を練り直したもの。
つまり、原文→文の理解(母国語による脳内試訳)→訓読→現代語訳(他人に見せる商品)というのが、ぼくの実感です。

個人的な体感でしか語れませんが、訓読の利点は、文の理解(≒現代語訳)の途中経過を効率よく表示し、保存できること。
もし訓読がなければ、原文をどのように理解し、現代語に置き換えたかを、現代語訳のなかに示さねばならない。
すると、実務的には、
(カッコ)をつけて情報を補うべきことが増える。現代文が冗長になって、正しいけれど読みにくい、という悲劇が起こる。

読みにくいだけならまだしも、概して文というのは、長くなるにつれ、その文の良否に拘わらず、読まれなくなるし、読みにくくなる。(カッコ)に入れて、あれこれ補っていくうちに、読者が置いてけぼりになる。


注釈は万能ではない

訳注、補注という手もあるけれど、実作業においては、けっこう面倒くさい。
必要最低限に…という方針を決めたところで、最低限がどこだか、線引きが難しい。訳注は、ほっとくと無限に長くなる、という性質を持っている。

自分と読み手が、どこまで、「同じ景色を見ている」と想定するかによって変わってくる。知識内容、得意分野、読み方の傾向が全然違うと思えば、補注はどんどん長くせざるを得ない。

ことがらに関する補注は、ある程度は抑制がきくが、
文の理解そのものについて、訳注をつけると、とても長くなる。原理的に、「文の読みを、べつの文で説明する」というのは、かなり効率が悪い。字の解釈、文の構造の(ややオリジナルな)理解、文や節との関係について説明すると、初級者向けの語学のテキストか?ってなる。そして煩雑で分かりにくい(笑)

ここに示した訳注の限界は、
かわりに訓読を示すことで、「こう読みましたよ」と、過不足なく、しかも訳者の手間を最小限に、示すことができる。ある程度、共通のバックグラウンドをもった同士だと、現代語訳をめぐって議論することは少ない(言葉の好きずきは、議論の対象にしても仕方がないから)。
学術的な争点は、訓読を引き比べることで、検討できてしまう。

共通の約束ごとを持った暗号を操作することで、同業者のあいだでは、効率よく情報をやりとりできる。これは、訓読に限ったことではないですね。


余談、訓読は意外とかんたん

使う文法知識や語順って、けっきょく「SVO」だけで十分だった。あとは慣用的な再読文字?に気をつけたら終わり。反語か疑問かは明確に区別して出すと吉。

以上のようなことを感じながら、漢文訓読の実務をやってます。学習の途中経過として、言語化してみました。210318

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先行研究の読み方、まとめ方

はじめはオフラインで出席したい

ゼロから研究手法を学ぶならば、大学の先生と物理的に接近して、「謦咳に接する」ことが必要だと思います。新入社員の教育も同じだと感じます。ぼくは、大学時代、最前列で、中世日本史の先生のツバをかぶってました。
セキバライを聞くほど、距離が近いところで教わるという意味ですけど、この時代には、タブーですね。ゼロから何かを始めるには、厳しい時世かも…とか…。

研究会や授業で、先生や先輩が口走る本を、全体の50%でもきちんと読めば、かなり良質で、系統だった知見が手に入ると思います。
がんばって買い集めたり、確保したりしているんですけど、1週間に読めるのは数冊。それを通じてイモヅル式に読みたくなるのが数冊。そしてすぐ翌週がやってくる。

論文の読み方、まとめ方

論文を読むとき、情報カードとか、箇条書きや図示とか、いろいろありますが、ぼくは「文章で書く」を推したい。全部を書き写したら、ただのコピーなので、意味ないです。自分の関心に沿った要旨を、ひとつなぎの短い文章にする。
不用意や不必要に言葉を変えず、破綻なく、筆者の考えに沿った自分用の短縮版を作る。

情報カードは検索が出来ないし、ぼくは手書きが苦手(字を書くという行為が好きではない)。
箇条書きや図示は、キーワードを見渡して理解できた気分になる。しかし概して論文は、論の接続(ときには飛躍)が生命線だし、弱点や急所もそこにある。箇条書きや図示だと、そういう接続が見えにくくなる。ここ大事です!!
単純に、言われていることを、丸暗記しようとするなら、箇条書きや図示のほうが、優れた(目的に適合した)方法です。しかし、先行研究として乗り越えていこうというならば、いきなり箇条書きや図示、断片的なメモにしてはいけない。

先行論文を、自分の関心に沿って「ひと繋ぎの文で」短縮して書き出すと、急所を発見しやすくなる。
著者があまり触れて欲しくなく、自然に馴染ませたはずの、「加速か減速をした場所」「ぐいっとハンドルを切った場所」「車体が一瞬、浮き上がった場所」が必ずあります。オリジナリティのある論文は。
急ブレーキ、急ハンドル、転倒の危険があるところ…を見つけたら、(自分の論文に繋げられるかどうかは別として)習慣的に、書き込みをしておきたい。

おまけのつぶやき

正統・・・Orthodoxy(オーソドキシイ、オーせいとう)
正当・・・Legitimacy(レジティマシイ、エルせいとう)
皇帝即位の正統性と、皇帝即位の正当性は違う。自分が論じたい「セイトウセイ」はどっち??あの人が口頭で論じている「セイトウセイ」はどっち??というのを意識すべし。210308

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趣味の三国志から、研究の三国志へ

「エンタメで三国志に興味を持ったから、研究の題材には不適切」なんてケチなことを言わず、その作品から、研究対象としての三国志まで地続きで繋ぐよう、幅広い本を読むのが楽しいと思います。
たとえば、北方謙三三国志→北方の別作品→日本の南北朝史→日本の古代史→隋唐帝国→中国の南北朝史→三国志とか。

裏を返すと、エンタメで三国志を興味を持ったにも拘わらず、あいだを地続きで埋めるための濫読をせずに、いきなり研究テーマを見つけようとするのは、怠慢だし無理だと思うんですよね。自分の内面の興味を掘り下げて言語化し、21世紀の外国人が三国志をやる意味とは??を擦り切れるまで考えないと。

こんな話を、まえに、youtubeでやりました。

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研究論文に引用できる本の判別方法

研究論文に引用してもいい本を、どのように判別するか。
①文責(誰が書いたか)が明らかである。複数のライターが寄稿した本に、大学の先生が監修している(だけの)ものは不可。
②根拠(なぜそれが言えるか)が明らかである。一般向けに作られた解説や概説だと、根拠が示されていない本がある。根拠を示す箇所は、本文中や章末注など形はいろいろ。出版社の編集方針などにより、根拠を示すスペースを与えられていない場合がある。そういう場合は、著者がべつのかたちで、根拠を含めて論を発表していないか探す。

大学の先生から、「××選書から引用するなんて、ダメだ」と言われる場合がある。しかし、言葉どおりの意味ではない。
本のレーベルや形(出版社、選書・新書)によって、論文に引用できるかを決めることは出来ない。同じ出版社から出ている本でも、想定する読者や位置づけが異なる場合がある。おもに、学術出版を手がけている出版社であっても、それ以外の本を出すことは普通に想定できる。
大きな装丁&高額な本でも、引用できないものがある。他方で、文庫や新書でも、研究論文に引かれるものがある。

じつは目利きも専門技能の一部かも知れない。


選書・新書・文庫は、巻末のおくづけまで漏れなく見れば、根拠とされた資料や論文、ほかの本との関係(文庫化?再録?加筆修正?)が示されていることがある。複数の著者がいるときは担当箇所が示されたり、同じ著者の全体の仕事のなかの位置づけが示されることも。全部を見渡すことが大事。
「目利きをせよ」というと、再現不能なノウハウとなってしまう。
しかし、「巻末のおくづけまで、くまなく見よ」ならば、再現可能なノウハウとなる。たしかに非効率かも知れないが、必要な情報はあつまる。すべて読んでも、どのような位置づけの本か不明ならば、論文に引用してはならない本だと分かる。
著者や出版社の方針はさまざま。その本の位置づけが示される場所は、必ずしも同じではない。「はじめに」にあることもある。

研究者のなかには、「専門書(論文集)を学術出版し、選書や新書で一般向けに簡単に説明する」という流れが、一応の標準ルートとしてありそうだが、絶対ではない。むしろ、そのような定型的な流れが無いほうが、多いのではないか。
同じ著者に同じテーマで専門書が出版されていない場合もある。本全体を漏れなく見て、それに加え、その著者の発表した文の全体も見る。その本のみで言われているならば、吟味の上で引用できることもある(そこから引用するしかない)。

出版社からの依頼があったからか、さきに一般書で展望を示し(この段階では、十分な根拠は記されていない)、のちに研究論文に反映されていく場合がある。また、その研究者が、研究論文にしてきたことから、やや関わりのある一般向けの内容(斜め下に広がる、より広い内容)が出版され、それが出版されっぱなしで、追加で研究論文が出ないこともある。
その研究者の見識は評価されているが、「そこにしか書いていない」場合は、それを消去法により、参考文献にあげることになる。

やや循環的になってしまうが、ほかの(信頼できる)研究者が、参考文献に挙げているならば、その本は、参考文献として挙げることができる。ただし、引用している研究者が信頼できない場合は、同じように参考文献に挙げることはできない。やはり、論理の後退になってしまった…。

体系化して定義するのは難しいですね。210302

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