読書 > 第四次 諸葛亮の北伐(231年)まとめ

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@三国志研究会(全国版)180408

大阪の研究会のレジュメより。

図解三国志 群雄勢力マップより

満田剛監修『図解三国志 群雄勢力マップ詳細版』より
→読んでもよく分からない!

複数の史料のあいだで、時系列が明確でない、記述に矛盾がある、などの課題があるとき、ひとつなぎの記述を作るのは、容易ではない。……ということが、記述の失敗例に触れることで明らかになった。
この本に掲載された地図をもとに、戦いの概況を理解しようとしたが、ぼくもワケが分からないし、受講者?も、ワケが分からず。図が綺麗だから、たびたび参照してましたが、わりとザツな本であることを、改めて確認。困りました。


二三一年、諸葛亮は北伐を敢行(第四次北伐)。
三月、諸葛亮は祁山へ出撃(①)。祁山は、魏将・賈嗣と魏平が守る。
諸葛亮は祁山を包囲する一方、鮮卑の軻比能と連絡し、協力を要請(②)。軻比能は要請に応じ、北地郡石城に進出し、長安の北から魏軍を牽制。

魏では、病床の曹真に代え、荊州に駐屯していた司馬懿を招聘(③)、張郃とともに迎撃に向かわせた。魏軍は劣勢。長安に到達した司馬懿は、費曜・戴陵・郭淮らに四千の精鋭を与え、上邽の守備を任せた。司馬懿は、張郃とともに祁山の救援に向かう。
諸葛亮は、駐留部隊と攻撃部隊に分け、自らは司馬懿を待ち受けるために上邽に向かい、郭淮・費曜らを撃破。上邽の麦を刈り取った(④)。

祁山と上邽のあいだで対峙。司馬懿は要害に立て籠もり、持久戦の構え。諸葛亮はやむなく祁山へ引きあげ。司馬懿は、追撃して祁山に到達、再び要害に立て籠もる。長期戦になれば、魏軍が有利。魏軍には積極攻勢を進言する者が多い。司馬懿は、やむなく進撃を決断。
同年五月、張郃が祁山の南に陣取る王平を攻撃し、司馬懿が正面の諸葛亮軍と戦闘を開始。蜀軍の士気は高く、魏延・高翔・呉班らの活躍で、首級三千、鎧五千、弩三千一百という戦果をあげた。敗れた司馬懿は、再び持久戦へ。
八月、長雨のため、蜀軍は兵糧確保が困難。漢中を守る李平から帰還の要請を受け、撤退。魏軍の兵糧も尽き、郭淮は羌族から供出させていた。蜀軍の帰還を知った張郃が追撃するが、木門で伏兵に討ち取られた(⑤)。

『三国志』巻三 明帝紀 太和五年

三月、大司馬の曹真 薨ず。諸葛亮 天水を寇し、詔して大将軍の司馬宣王をして之を拒がしむ。……秋七月丙子、亮の退走を以て、爵を封じ位を増すこと各ゝ差有り〔一〕。

〔一〕『魏書』に曰く、「初め、亮 出づるに、議者 以為へらく、「亮の軍は輜重無く、糧 必ず継がず。撃たずとも自ら破れん。為に兵を労すること無かれ」と。或いは、自ら上邽左右の生麥を芟りて、以て賊の食を奪はんと欲す。帝 皆 従はず。前後に兵を遣はして宣王の軍に増し、又 使を勅して麦を護らしむ。宣王 亮と相 持し、此の麦を得ることに頼りて以て軍糧と為す」と。

『三国志』巻三十五 諸葛亮伝 建興九(二三一)年によると、魏の張郃が蜀軍に射殺されたとあり、同注引『漢晋春秋』に、郭淮・費曜が上邽で諸葛亮に撃破され、司馬懿が魏延らに撃破されたとある。盧弼は『三国志集解』で、実情は魏の大敗であったが、諸葛亮の撤退という結果を受けて敗将の爵位を進めたのであり、賞罰が明らかでないとする。


『三国志』巻三十三 後主伝 建興九年

九年春二月、亮 復た軍を出し、祁山を囲む。始めて木牛を以て運ぶ。魏の司馬懿・張郃、祁山を救ふ。夏六月、亮の糧 尽き、軍を過ごす。郃 追ひて青封に至り、亮と交戦し、箭を被りて死す。秋八月、都護の李平 廃し、梓潼郡に徙さる。

『三国志』巻三十五 諸葛亮伝

(建興)九(二三一)年、亮 復た祁山に出づ。木牛を以て運ぶも〔一〕、糧 尽きて軍を退く。魏将の張郃と交戦し、射て郃を殺す。

〔一〕『漢晋春秋』に曰く、「亮 祁山を囲み、鮮卑の軻比能を招く。比能ら故(もと)の北地石城に至りて以て亮に応ず。是に於て魏の大司馬の曹真 疾有り、司馬宣王 荊州自り入朝す。魏明帝曰く、「西方の事 重し。君に非ずんば付す可き者莫し」と。乃ち西のかた長安に屯し、張郃・費曜・戴陵・郭淮らを督せしむ。宣王 曜・陵をして精兵四千を留めて上邽を守らしむ。餘衆 悉く出で、西のかた祁山を救ふ。
郃 兵を分けて雍・郿に駐(とど)めんと欲す。宣王曰く、「料(はか)るに前軍 能く独り之に当たらば、将軍の言は是なり。若し当たる能はずして、分けて前後と為さば、此れ楚の三軍 黥布の為に禽(とら)はるる所以なり」と。遂に進む。
亮 兵を留・攻に分け、自ら宣王を上邽に逆ふ。郭淮・費曜ら亮を徼(めぐ)る。亮 之を破り、因りて大いに其の麦を芟(さん)刈(がい)す。宣王と上邽の東に遇ふも、兵を斂めて険に依れば、軍は交はることを得ず、亮 引きて還る。
宣王 亮を尋ねて鹵城に至る。張郃曰く、「彼 遠来して我に逆(むか)ひ、戦ふことを請ふとも得ず。我が利は戦はざるに在ると謂ひ、長計を以て之を制さんと欲すなり。且に祁山 大軍の以て近くに在るを知れば、人情は自ら固し。止めて此に屯す可し。分けて奇兵と為し、其の後に出でんと示せ。宜しく進み前(すす)みて敢て偪らずして、坐して民望を失はざるべし。今 亮 軍を県(か)くるに食は少なく、亦 行かば去らん」と。
宣王 従はず、故に亮を尋(たづ)ぬ。既に至るや、又 山に登りて営を掘り、戦ふを肯ぜず。
賈栩・魏平 数ゝ戦ふことを請ひ、因りて曰く、「公 蜀を畏ること虎の如し。天下に笑はるを奈何せん」と。宣王 之を病む。諸将 咸 戦ふことを請ふ。
五月辛巳、乃ち張郃をして無当監の何平を南囲に攻め、自ら中道を案じて亮に向かふ。亮 魏延・高翔・呉班をして赴きて拒がしめ、大いに之を破る。甲首三千級、玄鎧五千領、角弩三千一百張を獲たり。宣王 還りて営を保つ。

『三国志』巻十七 張郃伝

諸葛亮 復た祁山に出づ。詔して郃をして諸将を督せしめ、西のかた略陽に至る。亮 還りて祁山を保つ。郃 追ひて木門に至り、亮の軍と交戦し、飛矢 郃の右膝に中り、薨ず〔一〕。諡して壮侯と曰ふ。

〔一〕『魏略』に曰く、「亮の軍 退くや、司馬宣王 郃をして之を追はしむ。郃曰く、「軍法に、城を囲まば必ず出路を開き、帰軍 追ふ勿れ」と。宣王 聴さず。郃 已むを得ず、遂に進む。蜀軍 高みに乗りて伏を布く。弓弩 乱発し、矢 郃の髀に中る」と。

『晋書斠注』宣帝紀 太和五年

明(太和五)年、諸葛亮 天水を寇し、将軍の賈嗣・魏平を祁山に囲む[一]。天子曰く、「西方の有事、君に非ざれば付す可き者莫し」と[二]。乃ち帝をして西のかた長安に屯せしめ、雍・梁二州諸軍事を都督し、車騎将軍の張郃・後将軍の費曜[三]・征蜀護軍の戴淩[四]・雍州刺史の郭淮らを統べて亮を討たしむ。

[一]『蜀志』諸葛亮伝注『漢晋春秋』に曰く、「亮 祁山を囲み、鮮卑の軻比能らを誘ふ。比能ら故の北地石城に至りて、以て亮に応ず」と。『太平御覧』四十四『開山図』に曰く、「漢陽の西南に祁山有り」と。又『周地図記』に曰く、「其の城は即ち、漢時の守将 築く所なり」と。『読史挙正』に曰く、「『漢晋春秋』に、賈詡・魏平 数ゝ戦ふことを請ふと云ふを按ずるに、則ち嗣は当に詡と為すべし」と。
[二]『蜀志』諸葛亮伝注『漢晋春秋』に曰く、「是に於て魏の大司馬の曹真 疾有り。司馬宣王 荊州自り入朝す。魏の明帝曰く、「西方の事は重し、君に非ざれば付す可き者莫し」と」と。
[三]『魏志』曹真伝は、「費耀」に作る。
[四]『蜀志』諸葛亮伝注引『漢晋春秋』は、「戴陵」に作る。

張郃 帝に、「軍を分けて雍・郿に住(とど)めて後鎮と為せ」と勧む[一]。帝曰く、「料(はか)るに前軍 独り能く之に当たらば、将軍の言 是なり。若し能く当たらず、而るに分けて前後と為さば、此れ楚の三軍 黥布の禽と為る所以なり」と。遂に軍を隃(ゆ)麋(び)に進む。
亮 大軍 且に至るを聞き、乃ち自ら衆将を帥ゐて上邽の麦を芟らんとす[二]。諸将 皆 懼る。帝 曰く、「亮 慮は多く、決は少なし。必ず営を安んじ自ら固め、然る後に麦を芟らん。吾 得て二日 兼行せば足れり」と。是に於いて甲を巻きて晨夜 之に赴く。亮 塵を望みて遁ぐ。帝曰く、「吾 倍道して疲労す。此 兵に暁(さと)き者の貪る所なり。亮 敢て渭水に拠らず。此 与(あ)たり易し」と。

[一]『蜀志』諸葛亮伝注『漢晋春秋』に曰く、「宣王は(費)曜・(戴)陵をして精兵四千を留めて上邽を守らしめ、余衆 悉く出して西のかた祁山を救ふ。(張)郃 兵を分けて雍・郿に駐(とど)めんと欲す」と。
[二]『蜀志』諸葛亮伝注『漢晋春秋』に曰く、「亮 兵を分けて攻に留まり、自ら宣王を上邽に逆(むか)ふ。郭淮・費曜ら亮を徼(むか)ふに、亮 之を破り、因りて大いに其の麦を芟(さん)刈(がい)す」と。『魏志』明帝紀注『魏書』に曰く、「……(前掲)」と。
『三国志』裴注の述する二より曰ふに、『魏書』の文は非なり。是の役、李平 譎りて糧 尽くと称し、亮を召して還す。懿 強いて張郃を遣りて之を追はしめ、郃 遂に殺さる。又 武侯伝 注引『漢晋春秋』に拠るに、武侯 前後に両(ふた)たび魏軍を破り、魏は既に一大将を失ひ、復た尽く軍資を喪ふ。上邽の麦も亦 適(まさ)に蜀の有と為る。
『魏書』の云々するは其れ虚妄たること、更めて辨を待たず。但だ『魏書』自ら宜しく魏の為に諱むべきのみ。『陳志』もまた爾者(これ)を云ふに其の事 司馬懿に渉(わた)るなり。
紀の言を案ずるに、将に上邽の麥を芟らんとするは、乃ち亮の軍の事なり。而るに『魏書』、或いは自ら上邽の麥を芟りて、以て賊の食を奪はんと欲し、帝 皆 従はずと云ふ。是の麥を芟るは、乃ち魏軍の意より出づるとし、二説 合わず。下文を観るに、帝曰く、亮 営を安んじて自ら固め、然る後に麥を芟らん、云々とす。是 麥を芟るは、実は蜀人為(な)り。

進みて漢陽に次(やど)るに、亮と相 遇ふ[一]。帝 陣を列して以て之を待つ。将の牛金をして軽騎にて之を餌とす。兵 才(わづ)かに接して亮 退く。追いて祁山に至る[二]。亮 鹵城に屯し、南北二山に拠り、水を断ちて重囲を為す。帝 攻めて其の囲ひを抜く。亮 宵に遁ぐ。追いて之を撃破し、俘斬は萬を計(かぞ)ふ。天子 使者を使はして軍を労ひ、封邑を増す。

[一]『元和郡県志』三十九曰く、司馬宣王の塁は、俗に名を上募城といひ、上邽県の東二里に在り。魏の明帝の太和五年、諸葛亮 天水に寇するや、詔して大将軍をして之を拒がしむるは、此れ其の塁なり。案ずるに魏は、時に後漢の旧を承ければ、天水郡は尚 漢陽郡と称す。故に紀は漢陽に作る。惟だ『元和志』は、五年を四年と為すは譌りなり。
[二]『書鈔』一百十六『漢末伝』に曰く、夏六月、亮の糧 尽き、軍 還りて、青封の木門に至る。郃 之を追ふ。『蜀志』諸葛亮伝注『漢晋春秋』に曰く、宣王の軍と上邽の東に於て遇ふ。兵を斂めて険に依り、軍は交はるを得ず。亮 引きて還ると。……

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『資治通鑑』太和五年より

太和五(二三一)年、春二月、……漢の丞相たる亮 李厳に命じて中都護を以て府事を署せしむ。厳は名を平に更む。

蜀は左・右・中の三都護を置く。府事を署すは、漢中留府の事を署すなり。

亮 諸軍を帥ゐて入寇し、祁山を囲み、木牛を以て運ぶ。

亮集に曰く、「木牛なる者は、……」と。

是に於いて大司馬の曹真 疾有り。帝 司馬懿に命じて西のかた長安に屯し、将軍の張郃・費曜・戴陵・郭淮らを督して以て之を禦がしむ。

三月、邵陵元侯の曹真 卒す。
十月自り雨ふらず、是の月に至る。

司馬懿 費曜・戴陵をして精兵四千を留めて上邽を守らしむ。

上邽県は、前漢は隴西郡に属し、後漢以来 漢陽郡に属す。
ぼくは思う。まず司馬懿が上邽に入って、費曜・戴陵をそこに「留め」、司馬懿はさらに出撃して諸葛亮と戦いに行ったことが分かる。

餘衆 悉く出で、西のかた祁山を救ふ。張郃 兵を分けて雍・郿に駐めんと欲す。

雍・郿の二県は皆 扶風郡に属す。

懿曰く、「料るに前軍 能く独り之に当たらば、将軍の言 是なり。若し能く当たらずして、而るに分けて前後と為さば、此 楚の三軍 黥布の為に禽はるる所以なり」と。

事は十二巻 漢高帝十一年に見ゆ。懿の此の言を観るに、蓋し自ら其の才 以て亮に敵すに足らざるを知る。

遂に進む。亮 兵を分けて留めて祁山を攻め、自ら懿を上邽に於いて逆ふ。郭淮・費曜ら 亮を徼(むか)ふるに、亮 之を破り、因りて大いに其の麥を芟(さん)刈(がい)す。懿と上邽の東に於いて遇す。懿 軍を斂めて険に依る。兵 交はるを得ず。亮 引きて還る。

懿ら亮の後を尋ねて鹵城に至る。張郃曰く、「彼 遠来して我を逆へ、戦ふことを請へども得ず、我が利は戦はざるに在りと謂ひ、長計を以て之を制せんと欲すなり。且つ祁山 大軍の已に近くに在るを知り、人情 自ら固し。止まりて此に屯し、分けて奇兵と為し、其の後に出でんことを示す可し。宜しく進み前みて敢て逼らず、坐して民望を失ふべからず。今 亮は孤軍にして食は少なく、亦 行かば去らん」と。懿 従はず、故に亮を尋ぬ。

ぼくは思う。「孤軍」は「県軍」を改めたもの。
意有りて之を為すを、故と曰ふ。尋は、随ひて其の後を躡むなり。

既に至り、又 山に登りて営を掘り、戦ふことを肯ぜず。
賈栩・魏平 数ゝ戦ふことを請ひ、因りて曰く、「公 蜀を畏るること虎の如し。天下に笑はるるを奈何せん」と。懿 之を病む。

懿 実は亮を畏れ、又 張郃 嘗て再び亮を拒ぐを以て、名は関右に著はれたれば、其の計に従ふことを欲せず、進むに及びて敢て戦はず、情は勢を見て屈し、諸将の笑ふ所と為る。


諸将 咸 戦ふことを請ひ、夏五月辛巳、懿 乃ち張郃をして無当監の何平を南囲に攻め、

無当は、蓋し蜀軍の部の號なり。其の軍 精勇にして、敵人 能く当たる者無きを言ふ。平をして監護せしめ、故に官を名づけて無当監と曰ふ。南囲は、蜀兵 祁山の南屯を囲むなり。

自ら中道を按じて亮に向かふ。

按は、拠なり。懿 道を分けて兵を進め、以て祁山の囲を解かんと欲す。自ら中道に拠り、亮の旗鼓と相 向かふなり。

亮 魏延・高翔・呉班をして逆戦せしむ。魏兵 大いに敗れ、漢人 甲首三千を獲て、懿 還りて営を保つ。

六月、亮 糧 尽くる以て軍を退く。司馬懿 張郃を遣はして之を追はしむ。郃 進みて木門に至り、

木門は、今の天水軍の天水県を去ること十里。水経注に、「籍水は、上邽の当亭西山より出で、東のかた当亭川を歴て、又 東のかた上邽県に入り、左に五水を佩び、右に五水を帯ぶ。木門の谷の水は、其の一なり。源を南山に導き、北のかた流れて籍水に入る」といふ。

亮と戦ふ。蜀人 高みに乗りて伏を布き、弓弩 乱発す。飛矢 郃の右膝に中りて卒す。……

秋……八月、……漢の丞相たる亮の祁山を攻むるや、李平 後に留まり、運事を主督す。会 天は霖雨あり、平 運糧の継がざるを恐れ、参軍の狐忠を遣はし、

李平は、即ち李厳なり、名を改めて平と曰ふ。
狐忠は、即ち馬忠なり。少きとき外家に養はれ、姓は狐、名は篤といふ。後に復して馬を姓とし、名を忠と改む。此 姓は先に従ひ、名は後に従ふ。姓譜に、狐は、周王の狐の後なり。又 晋に狐突有り。

督軍の成藩 喻指し、亮を呼びて来還せしむ

喻は、後主を以てす。指は、運糧の継がざるを言す。

亮 承けて以て軍を退く。平 軍の退くを聞き、乃ち更めて陽りて驚き、「軍糧 饒足す、何を以て便ち帰るか」と説く。又 督運の岑述を殺して以て己の不辦の責を解かんと欲す。又 漢主に表して、「軍 退くと偽り、以て賊を誘〔ひて与に戦〕はんと欲す」と説く。

此 又 上を以て亮を指喻するの罪を解かんと欲すなり。

亮 具さに其の前後の手筆の書疏を出すに、本末は違錯たり。平 辞に窮して情を竭くし、首謝罪負す。是に於て亮 平の前後の過悪を表して、官を免じ、爵土を削り、梓潼郡に徙す。

平 蓋し嘗て侯に封ぜらるなり。

復た平の子の豊を以て中郎将と為し、軍事に参ぜしめ、教を出して之を敕(いまし)めて曰く、「吾 君の父子と力を勠して以て漢室を獎む。表して都護をして漢中を典らしめ、君に東関を委ぬ。

東関は江州を謂ふ。

至心感動し、終始 保つ可しと謂ふに、何ぞ中を図りて乖るるや。若し都護 一に思負を意ひ、

思負は、其の罪負を思ふを謂ふなり。一意は、一に国の為を意ひ、復た詭変無くして以て自営するを謂ふなり。

君 公琰(蒋琬)と推心して従事せば、否も復た通ず可し、逝きても復た還る可きなり。詳らかに斯の戒めを思ひ、吾が用心を明らかにせよ」と。

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『中国歴代戦争史』より

『中国歴代戦争史』中信出版社_第4冊_216p
諸葛亮 第四次進攻(祁山を囲攻する戦い)

蒋琬に代え、李厳が後方を担当

太和五年春二月、諸葛亮は、新発明の木牛を試用した。嘉陵より江水で西にゆき漢水にゆくルートと、渭水から天水にゆくルートで運搬した。祁山の北、天水の南にゆき、二つの水路から兵糧を供給しようとした。

本に読点がなく、どこで切るのか自信がないので、原文を載せます。「以連運自嘉陵江上游之西漢水与渭水上游之天水両河路」とある。

諸葛亮はみずから八万余をひきい、漢中から祁山を攻めた。同時に木牛による輸送を開始し、さらに使者を西の羌族、北の鮮卑族に入れ、連携して魏を包囲しようとした。
辺境の異民族の動員は、劉禅がときの魏文帝にむけて露布した文に見える。涼州各国の使者は、蜀の節度を受け、もし蜀軍が北伐したら、先駆けになるとある。

『三国志』後主伝 建興五(227)年 裴松之注『諸葛亮集』のこと。「涼州諸国王各遣月支、康居胡侯支富、康植等二十餘人詣受節度、大軍北出、便欲率将兵馬、奮戈先駆」とある。

これまでの四度の北伐は、兵員の編成、軍糧の補給は、すべて丞相府長史の蒋琬が責任者であった。今回は、新たな運送法であり、李厳(李平)に中督護として署丞相府事を兼ねさせ、人員と軍糧の補充を担当させた。

司馬懿が祁山にむかう

このとき、魏将の賈嗣・魏平は、祁山を守っていた。前将軍の費曜が上邽を守る。征蜀将軍の戴陵・建威将軍の郭淮は隴西を守る。車騎将軍の張郃・大司馬の曹真は、長安を守る。
曹真は、蜀軍がすでに祁山を囲んだと聞き、声西撃東の計ではないかと考え、各地に守りを分散させ、兵を移動し集中させられなかった。
ちょうど曹真は病気になったので、明帝は南陽に駐屯する司馬懿を入朝させ、告げて、「西方の事は、君でなければ任せられぬ」と言った。司馬懿は長安に入り、曹真に代えて、都督雍・涼二州諸軍事として、車騎将軍の張郃より以下の諸将を統領させ、蜀軍を防いだ。
魏臣のなかで司馬懿を適任と思わぬ者は、建議して、「諸葛亮の軍は輜重がない。糧食は必ず続かない。攻撃せずとも自滅するから、兵を労するな。ただ上邽の生麦を刈り取って、賊軍の食糧を奪えば、自ずと撤退するだろう」と言った。
曹叡は、諸葛亮に別に計略があると考え(上邽での現地調達だのみでないと思い)、この意見を聞かず、かえって司馬懿に増兵し、西進して攻撃させた。

司馬懿が長安に到着すると、兵を督して西にゆき祁山を救おうとした。車騎将軍の張郃は、建議して、「諸葛亮は、一部を率いて祁山に出てきたが、残りが漢中にいる。別に意図があるのではないか。大軍が祁山に向かっては、後方が心配である。兵を、雍零(陝西省鳳翔県)・郿県に残して、後鎮とせよ」と言った。
司馬懿は、「前軍のみで諸葛亮に対処できるなら、将軍の言うとおり。さもなくば、楚が鯨布に捕らわれたのと同じとなる」と言った。

司馬懿は、諸軍を率いて、隃麋(漢代の県)に進み、西のかた隴山を越え、兵は上邽に出た。その後、費曜・戴陵に上邽を守らせ、みずから張郃らを督して南進し、祁山を救った。
『三国志』諸葛亮伝 注引『漢晋春秋』、『晋書』宣帝紀より。

司馬懿がすれ違い、上邽を失う

諸葛亮は、司馬懿・張郃が、精鋭を尽くして遠来し、その目的が祁山を救うことにあると知り、「致人而不致人于人」の状況を作るべく、実を避けて虚を撃とうと、兵三万を分け、みずから率いて、司馬懿・張郃の軍と、路を違え(すれ違うようにし)、上邽を攻めた。
ときに建威将軍・雍州刺史の郭淮は、すでに司馬懿の軍令を奉じ、狄道より前進し、祁山を救いに来ていた。郭淮は、途中で、司馬懿・張郃の大軍が祁山に向かったと知り、しかるに諸葛亮が兵を分けて、北のかた上邽を攻めていると知り、急ぎ人を派遣して、上邽の守将である費曜と連絡し、蜀軍を挟撃することを約束した。
だが交戦すると、郭淮軍・費曜軍は、蜀軍に破られた。

司馬懿が祁山に到着しようというとき、郭淮と費曜の敗報を聞いた。祁山のもう一人の守将である魏平が、祁山から囲みを突破して(蜀軍の包囲の)後ろに出たのを(司馬懿が)拾いあげ、すぐに軍を還して上邽を救いにゆく。ここにおいて祁山は、蜀軍に包囲された。

司馬懿は上邽にもどる途中、すでに上邽を失ったと知り、上邽の東山に拠り、兵を領して険地に拠って守りとした。諸葛亮は、上邽から軍を移してこれを攻めたが、司馬懿は堅守して出なかった。
諸葛亮は、軍隊に上邽付近の麦を刈り取らせたが、司馬懿は堅守して、戦わなかった。諸葛亮が上邽の麦をすべて刈り取ると、軍を南に移した。

司馬懿は追跡した。張郃が献策し、「彼ら(蜀)は遠来して迎え撃とうとしているが、(魏と)戦おうとしても戦えねば、必ず、「わが(蜀の)利は戦わないことにあり、長計によってこれを制圧しよう」と(現状を正当化して)言うだろう。しかも祁山は、(魏の)大軍が近くにいれば、士気は安定する。(魏は)ここ(上邽そばの険地)に留まって駐屯すべきです。分けて奇兵とし、蜀軍の後ろに出ることを示しましょう。(司馬懿が言うように本隊が)進撃しても敢えて(蜀に)迫らねば、(祁山の)民望を失うでしょう。いま、諸葛亮は軍糧が少ないため、おのずと去るでしょう」と言った。

司馬懿は従わず、蜀軍を追撃して、西城に至った。西城は、漢代の県で、魏では隴西郡に属して西県といい、鹵県にも作られる。諸葛亮は、軍を返して戦おうとしたが、司馬懿が急に退き、軍を率いて山に登り、営を掘って自守した。

魏軍が出撃し、魏延に敗れる

将軍の賈栩・魏平らは、しばしば出て戦いたいと言うが、すべて却下された。諸将は、「公は蜀を虎のように恐れ、天下に笑われている」という。司馬懿が気に病んで、諸将に質問すると、諸将はみな出撃したい。
司馬懿はやむを得ず、五月十日に出撃した。まず車騎将軍の張郃に別軍をつけて奇兵とし(提言に従い)、蜀軍の後方の無当監の何平を攻撃させた。司馬懿はみずから中道より、蜀軍の大営を攻めた。
諸葛亮は、魏延・高翔・呉班らに迎撃させ、魏軍は大敗した。蜀軍は、甲首三千などを得た。司馬懿は、もどって軍営を守った。

張郃は、何平の南囲(祁山の南を囲む兵屯)を攻撃したが、何平は堅守して動かず。張郃は勝てず、司馬懿軍が敗れたと聞いて、退き去った。

両軍が対峙してから、諸葛亮はしばしば戦いを求めたが、司馬懿は壁を堅くして出なかった。『三国志』諸葛亮伝、『晋書』宣帝紀による。
『晋書』宣帝紀は、「蜀軍を撃破した」とあるが、誤りである。西晋の陳寿は『三国志』諸葛亮伝で、兵糧が尽きたから去ったとあり、勝敗が正しく認識されていた。東晋の習鑿歯は『漢晋春秋』で、蜀軍の戦果が多かったとし、司馬懿が大敗して軍営を守ったとあるから、司馬懿が敗れたことは明白である。

諸葛の撤退、張郃の死

この年の夏から秋は、長雨が降った。蜀の驃騎将軍・中都護、護署丞相府事の李平(李厳)は、兵糧の運搬が続かず、参軍の馬忠・督軍の成藩を、西城の諸葛亮の陣中に送り、劉禅の意思として、諸葛亮を漢中に呼び戻した。諸葛亮は、李平の詐りと知らず、兵を分けて埋伏させ、追っ手を防いだ。その後、ゆっくりと軍を撤退させた。
司馬懿は、諸葛亮が撤退すると聞き、急ぎ張郃に追撃をさせた。張郃は、「軍法では、城を包囲したら、必ず脱出できる路を作るものです。帰還する軍を追ってはならぬとされます。なぜ今、追撃するのですか」と聞いた。
司馬懿は、「蜀軍は、兵糧が尽きたから撤退する。彼らは必ず懼れ急いでいるから、追えば大きな戦果が得られるはずだ」といい、張郃に追わせた。
張郃は、万騎をひきいて木門山(甘粛省の西和県の東南)に到達した。諸葛亮は軍を返して攻撃した。張郃の軍は、ひとたび退くと、蜀の伏兵が一斉に挟撃し、万弩が斉射され、張郃は右膝に矢を受けて死亡した。

李厳を梓潼に徙して民とする

諸葛亮が漢中から帰ると、上表して理由を質問した。李平は劉禅の御前で、いつわって懼れ、「軍糧は充足していたのに、なぜ帰還したのですか」と言った。督運の岑述を殺して、自分の罪をごまかそうとした。また上奏し、「軍を偽って撤退させ、敵軍を誘い出そうとしたのだ」と言った。
丞相の諸葛亮のみが、李平の奸偽を見抜き、李平が作った文書を照合し、矛盾を指摘した。李平は、釈明できずに、罪を詫びた。李平の官爵を削り、梓潼郡に徙して民とし、子の李豊を中郎将・参軍事とした。
魏の明帝は、車騎将軍の張郃の戦死を聞き、大いに懼れ、臨朝して、「まだ蜀を平定していないが、張郃が死んだ。どうしよう」と歎いた。けだし張郃は、西の国境の名将であった。
『三国志』巻十三 張郃伝 注引『魏略』、『三国志』巻四十李厳伝より。

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